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2023.05.23(tue) [25-10] 孝徳天皇10 ▼▲ |
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18目次 【大化二年三月二十二日】 《營墓其制尊卑使別》
「西土之君戒其民曰」の中身は、『三国志』魏書の文帝紀(曹丕)からの引用である。引用元の原文を見る。
類似する文は、むしろ『周易』に見出された。
《棺漆際会奠三過飯含》 『集解』〔河村秀根;1804頃〕は「會下原有奠字衍魏志無○按此文非奠祭之事古訓誤」〔「奠」は衍字で古訓者が間違って入れた〕とする。 古訓者が原文に字を加えることは考えられないから、「奠」を含む写本があったのであろう。 「飯含」が熟語であることは、上記の『白虎通徳論』で確定しているから、「三過飯」を「飯を三度通過させる」の意として読む古訓は誤りである。 「際会」とは、棺を造った木の接合部の隙間を漆で埋めるという意味であろう。中国語サイトも、また古訓もそのように読んだと見られる。 埋葬における華美を諫める文脈の中だから、「三過」は漆塗りの棺を「三つの過ち」として非難する表現であろう。 《我民貧絶》 「貧絶」は熟語に見えるが、諸辞書に載らない。旧字体「貧絕」にして「中国哲学書電子化計画」で検索しても発見できないので、特定の意味をもつ熟語ではない。 同サイトで「營墓」を検索しても一例のみなので、「廼者我民貧絶專由営墓」は漢籍を直接引用したものではないだろう。 引用でなければ「我」は「朕」ではなければならない。「我」となっているのは、書紀原文段階の見落しであろう。 《大意》 〔大化二年三月〕二十二日、 詔を発しました。 ――「朕が聞くに、 西の国の君は、その民を戒めて曰く 『古(いにしえ)の葬儀は 山の高いところをそのまま墓として、土盛りせず木も植えなかった。 棺槨は朽ちた骨で充分で、 衣は朽ちた肉で充分であった。 よって、私はこれを廃れた丘の不毛の地に営み、 代を重ねた後には、その場所が忘れられることを欲する。 金銀銅鉄を蔵することなく、 ただ瓦器を用い、 古(いにしえ)の塗車芻霊の義に適(かな)えよ。 棺に漆で隙間を塞ぐのは三過〔のひとつ〕である。 〔あと二つは〕飯含(いいがん)に珠玉を用いてはならない。 珠襦、玉鎧を施してはならない。 諸(もろもろ)のことは愚俗の所為である』。 また 『葬は蔵(ぞう)〔かくすこと〕であり、 欲しい人を見ることはできない』という。 この頃、わが民が貧く絶えるのは、 專ら墓を造営することによる。 ここにその制を述べ、尊卑を分かつ。 《王以上之墓者》
《尋》 身体尺としての尋(ひろ)は、両腕を左右に伸ばしたときの両指先間の距離。 解剖学用語では「指極」といい、現代人〔日本人か〕で平均164.97cmという値が見える(人体寸法データベース 1991-92-寸法項目一覧)。 文献では、『釈名』〔後漢〕/釈兵に「車戟曰常。長丈六尺。車上所持也。八尺曰尋。倍尋曰常。故称常也。」 〔すなわち、1尋=8尺、1常=2尋〕とある。 この関係によって、漢代の一尺=22.7cm(新莽嘉量)から計算すると、 一尋=1.82m=6.05正倉院尺となる。生理的な平均値よりは広めであるが、人種や時代で異なるので断定的なことは言えない。 《小石》 〈推古〉二十八年に、檜隈大陵に砂礫を葺いた記事がある。 一般的に陵が葺石で装飾されたことの現れだが、これへの古訓は、サザレイシ〔または母音融合によるサザレシ〕である。 ここでも、墓の葺石にサザレイシの訓を用いることは可能であろう。 《王以下小智以上》 「王」の古訓を見ると、「夫王以上之墓」(B)では「ミコタチ」と訓んだが、最初の「王以下小智以上」(A)では「オホキミ」と訓んでいる。 また〈北野本〉では次の「凡王以下」(C)において「凡王」を「タダノキミ」と訓んでいる。 天皇の子は記では「王」、書紀では「皇子」と表記し、どちらもミコと訓まれる。 天皇の孫の代になると、記紀ともに「王」と表記されるが、天皇に即位し得ると範囲内だと見做される場合にミコ、それ以外はオホキミと訓むようである。 三代孫以後になると、すべてオホキミである(〈履中〉六年《鯽魚磯別王・鷲住王》項)。 大化二年三月甲申詔には皇子・皇女も「王」と表記され、原型のまま書紀に載ったことも考えられる。 この段では、(A)においてはミコのレベル、(B)(C)においては、オホキミ」のレベルに読み分けるのが、恐らく妥当である。 《営殯》 「営殯」の殯(もがり)は、埋葬までの一定期間、殯宮に安置して行事を行うことを指す。 「凡王以下及至庶民」を普通に読めば、「皇子皇女から庶民に至るまですべて」の意である。 ところが、(万)0167題詞に「日並皇子尊殯宮」とあるように、草壁皇子(日並皇子)が薨した〈持統〉三年〔689年〕の時点で殯が実施されている。 「凡王」なる古訓はこの現実に合わせて、親王以外を「"凡"なる王」と表したのであろう。 前項(A)が、おそらく殯が許容される範囲であろう。 《断髪刺股》 「断髪」についてはその程度は別として理解可能であるが、「刺股」はその作法も意義も想像困難である。 これについて、倭建命〔日本武尊〕段の葬礼の場面(第134回)、 「化八尋白智鳥翔天而向濱飛行爾其后及御子等於其小竹之苅杙雖足䠊破忘其痛以哭追」 〔其の后及び御子等その小竹の苅杙に、足䠊れ破れど、その痛みを忘れて以ちて哭き追ひませり〕 を関連付ける論※も見たが、果たしてどうであろうか。 ※…『万葉集巻二-二〇四・二〇五・二〇六歌の語るもの』〔横倉 長恒;長野県短期大学紀要巻40(1985)〕。 〈時代別上代〉「もも」の項に「利刀ヲ取リ胛ノ裏ノ宍血ヲ割キテ、人ヲシテ送リテ病者ニ与ヘ使ム」(岩崎本願経四分律古点)が見える。 すなわち、病人に薬として、腿裏に小刀を刺し血液を取って送ったという。そのような習慣から、死者を悼み血を捧げる風習に転じたという想像も可能ではある。 《此旧俗一皆悉断》 ここでは人馬の殉死、高価な副葬品、断髪刺腿に加えて、誄(しのひこと)までも槍玉に挙げている。「凡人死亡之時」というから、一切の例外はない。 ところが、天皇や皇太子のレベルにおいては、殉死・断髪・刺腿はともかくとして、こと副葬品と誄については欠かせなかった。 〈天武〉〈持統〉合葬陵に比定される野口王墓には、『阿不幾山陵記』〔1235年頃〕によると 「朱塗御棺。床金銅厚五分」、「金銅桶一」〔火葬した〈持統〉の骨壺か〕 「銀兵庫クサリ」「種々玉飾」なる記述がある。 また誄についても、〈天武紀〉に記事が載る。 《或本云》 原注の「或本云」では、蔵宝の中身を詳しく述べている。 「又曰」では、金銀を副葬品とすることの禁止は、皇族には及ばないと述べている。 これらは、書紀が詔の関連文書も調査したことを窺わせる。 ということは〈孝徳紀〉の種々の詔の本体も概ね文書として残っていて、それらを書紀原文著作者が読んで書いたと見てよいだろう。 《大意》 皇子皇女以上の墓は、 その内〔玄室〕は奥行九尺、間口五尺、 その外域は一辺九尋の方形、高さ五尋とせよ。 役丁は千人を七日で使い終えよ。 葬儀の時には帷帳などに白布を用い、 輀車(じゅしゃ)〔棺を載せる車〕を用いよ。 上臣の墓は、 その内の奥行、間口、高さは皆上と同じ、 その外域は一辺七尋、高さ三尋とせよ。 役丁は五百人を五日で使い終えよ。 葬儀の時には帷帳などに白布を用い、 担いでゆけ 【恐らく、これは肩に輿を担って送るか】。 下臣の墓者は、 その内の奥行、間口、高さは皆上と同じ、 その外域は一辺五尋(いつひろ)、高さ二尋半とせよ。 役丁は二百五十人を三日で使い終えよ。 葬儀の時には帷帳などに白布を用い、 また上に倣え。 大仁(だいにん)小仁(しょうにん)の墓は、 その内は奥行九尺、高さ間口は各四尺、 封せず〔=盛り土せず〕平とせよ。 役丁は百人を一日で使い終えよ。 大礼(だいらい)以下小智(しょうち)以上の墓は、 皆大仁と同じにせよ。 役丁は五十人を一日で使い終えよ。 凡そ王(おおきみ)以下小智以上の墓は、 小石を用いるべし。 その帷帳などには白布を用いるべし。 庶民が死亡した時には、 地に埋め収めよ。 その帷帳などには荒布を用いるべし。 〔役丁は〕一日も使うな。 凡(およ)そ王(おおきみ)以下庶民まで、 殯(もがり)を営んではならない。 凡そ畿内から諸国に及び、 一か所を決めて埋葬せよ。 汚穢を処々に散らして、埋葬してはならない。 凡そ人が死亡した時には、 あるいは、首をくくって自ら殉死し、 あるいは、人の首を絞めて殉死させ、また死者の馬を殉死させ、 あるいは、死者のために宝を墓に納め、 あるいは、死者のために断髪、股刺を行い誄(しのびごと)を行う。 このような旧俗は一切断て 【ある記録によれば、 金、銀、錦、綾(あや)、五色の染め物を収めるなという。 また、 凡そ諸臣から民に至り、 金銀を用いてはならないともいう】。 ほしいままに詔を違えて禁を犯す人があれば、 必ずその一族を罰せよ。 《復有見言不見言見》
漢籍では「有」はいつも目的語〔事実上の主語〕を伴う。 例外は希である。そのうち、『水経注』の「双樹及塔。今無復有也。此樹名娑羅樹」を見ると、この場合も「双樹及塔」の省略であるのは明らかである。 したがって、忠実に訓読するなら、「復有下見言レ不レ見不レ見レ言見聞言レ不レ聞不レ聞言レ聞都無三正語二正見一巧詐者多上」となり、 和文としては「~あり」までが長すぎる。以後もこのような訓読では、意味の区切りがぼやけてしまう。 訓点も一切取り払ってみると、視覚的に「復有」が明確な区切りとして機能する。 実際のところ、和文においても「またあり、…。」と訓んだ方が語調もよく項目の区切りも明快になる。 そこで、この段では思い切りよく割り切り和習だと考えて、この読み方を用いた方がよいだろう。 後ろから「~アリ」と返した方が適切な場合も多くあるが、「マタアリ…アリ」と二重に読んでも差し支えないであろう。 ことによると、原詔の段階で既にこのように訓まれていたことも、なくはないように思える。 《有奴婢》 『集解』はここを「復有奴婢」として注釈で「原復字無」とするが、ここの「復」の有無は大きな問題ではない。 《奴婢》 奴婢とはいうが家畜並みというほど不自由ではなく、或る程度人としての自律的な行動が可能だったようである。 (大化元年八月庚子是日詔)《男女之法》で見たように、 奴婢と良民の間の結婚が一定程度あり得る現実を見た。 また、良民の三分の一の口分田が与えられた(大化元年八月五日)。 《未嫁之女始適人時》 「未だ嫁がざる女」が嫁ぐこと自体には、非難される謂れはない。おそらくこの部分は前段と対称形で、 「并未嫁之女始適人時」は「并未嫁之女始適亡婦之夫時」の省略であろう。 すなわち妻を亡くした相当年齢の男性に、初婚の女性が嫁ぐことに対して文句をつける人がいるのである。 《使祓除》 ハラフ(下二)は穢れを浄化することで、使役形には神官を呼んで忌避する行為が想定される。 しかし、本詔で数多く使われた「使祓除」の使い方を見ると、は「追放する」等に転用されたようである。 すなわち、穢れを払う心理がエスカレートして、現実に本人たちを非難し、あるいは排除する行為に及んだと読むべきであろう。 《事瑕之婢》 〈時代別上代〉はコトサカとは何か特別の意味をもつ語ではなかったかと推定する。 文脈及び「瑕」〔きず〕の字から考えて、何か罪を犯して領民から奴婢に落とされた者のことであろう。 アナガチニというから、男がでっち上げて罪を負わせたことを意味すると考えられる。 《他好向官司》 「他」は、動詞姦の目的語とも読めるが、切り離して"etc."の意に読みたい。 すなわち「復有A、復有B、復有C、……他、好向官司…」とするのがよいだろう。 《詎生浪訴》 ここで例示された多くが男女間のトラブルであり、また「好向官司」なる表現からは、官司が訴えの乱発に手を焼いている様子が伺われる。 この部分の詔の主旨は、仮に十分な証拠があったとしても、さらに内容を吟味した上で訴えを起こせということである。 《大意》 また有る。 見ても見ていないと言い、見なくても見たと言い、 聞いても聞かないと言い、聞かなくても聞いたと言う。 正しく見たことを正しく語らず、巧みに偽ることが多い。 〔これも〕有る。奴婢が主は貧困だからと欺くことがあり、 勢いある家に身を託して渡り歩き、 勢いある家は、そこで強引に留めて買い、本の主に送らないことが多い。 これも有る。妻妾が夫によって離縁された日から、 年を経た後に他の人に嫁ぐことは常の理(ことわり)であるが、 前夫が三四年経った後に、 後夫に財物を貪り求めて自分の利とすることが多い。 これも有る。勢いを恃(たの)む男があり、みだりに他人の女を娶せようとしたが、 その結婚前に、女は自ら他人に嫁ぎ、 そのみだりに娶せようとした男が 怒って両家に財物を要求して自分の利益にしようとすることも多い。 これも有る。未亡人となって、 例えば十年から二十年を経て嫁いで妻になり、 また未婚の女が初めて〔妻を亡くした男に〕嫁ぐとき、 これらの夫婦を妬(ねた)み、「祓除(はらへ)しむ」〔=追放する〕ことが多くある。 これも有る。妻に嫌われ離縁された男が、 独り愧(は)じ悩み、よって強引に事瑕(ことさか)の婢となす 。 これも有る。しばしば自分の妻の姦淫を嫌う。その他、 好んで官司のところに行って、判決を請う。 例え明らかな証拠が得られても、 詳細にはっきりと並べ、しかる後に諮(はか)るべし。 みだりに訴えを起こして、よいことがあろうか。〔反語〕 《被役邊畔之民事了還鄕之日》
辺も畔もホトリと訓むから、辺畔でよいだろう。〈時代別上代〉はホトリに国土の縁辺という意味も認めていて、〈景行紀四十年〉の古訓「辺境」を例示している。 《強使祓除》 第一段で、「使祓除」には相手への現実的な非難、排除を含むと見た。 もう少し掘り下げると、祓ふ(下二段)は、払ふ(四段)から派生し、ここでは後者の物理的に取り除く意味にも使われ、 後者の「取り除く」が、文脈によって多様な意味に使われるわけである。 また「復有~強使祓除」の反復には、文章の区切りを明快にする効果もある。
コシキには「底に一つ、あるいはいくつかの小さい穴」があいていて、「底に簀や布などを敷いて米などを入れ、水を入れた釜の上に載せて蒸した」、 「和名抄には木器部に入れられているから、木製のものも用いられたらしい」(〈時代別上代〉)という。 〈倭名類聚抄〉木器類第二百三に「甑:【和名古之岐】炊飯器也」とある。 写真右は、古墳時代とされる。写真左も古墳時代と思われ、底に開けた穴が見える。 飛鳥時代にはどのような形になっていたかは不明である。既に木製のものもあったかも知れない。 《如此等類》 「如此等類」は、「コレラノゴトキノタグヒ」と訓みたくなるが、「コレ-ラ」と結合した語は上代には全く見えない。 ココラという語はあるが、もっぱら数多いことを表す副詞として使われ、ここには当てはまらない。 「如此」は万葉ではカク〔近称の指示詞〕にあてて使われる。またカク-アリが結合したカカリがあり、 その連体形のカカルが万葉に多用されている。 また「等」については、その古訓にタグヒがあるので、「等類」をまとめてタグヒと訓むことも可能であろう。 よって、如此等類の上代による訓みとして、「カカルタグヒ」はあり得ると思われる。 《所染》 「愚俗所染」、すなわちよくない風習に「染まっている」と述べる。古訓は、「染」をナラフと訓むが、「染む」〔下二段〕の原意を生かした訓読も考えてみたいところである。 《悉除断勿使復為》 この段では、次の事例が挙げられている。
一方、大宝令以後では、次のように規定されている。
ただし、このような問題が生じたこと自体は、朝廷が遠隔地の人民に直接命じて公役に動員するようになった事実を物語る。 これまでは、都や寺などの建造は氏族に割り振っていたから、部民を動員するにあたって生じた問題は、各氏族内で処理されてきた。 今、改新詔を現実化に取り組んでみて、はじめて国家の官僚自身がこの問題に直面したのである。 律令国家作りの歩みは着実に始まっている。 《大意》 また有る。被役の縁辺国の民が、 事が終わり故郷への帰路についたある日、 突然病に倒れ、路頭で死んだ。 すると、路頭の家が語るに 『何故に人を私の路で死なすのか。』と言った。 よって死者の同伴者を足止めして強引に「祓除(はらえ)」させた〔=遺体を片付けさせた〕。 このように、 兄が路で死んでも、その弟が収容しないことが多くある。 これもある。百姓が川で溺れ死んで、 遭遇した人が語るに、 『何故に私を溺れた人に遭遇させたのか。』と言った。 よって溺れた者の同伴者を足止めして、強引に「祓除」〔=遺体を片付けさせた〕させた。 このように、 兄が川で溺れ死んでも、その弟が収容しないことが多くある。 これもある。被役の民が路頭で炊飯していた。 すると、路頭の家が語るに 『何故に勝手に私の路で炊飯するか』と言って、 強引に「祓除」させた〔=追い払った〕。 これもある。百姓が人に近づき、甑(こしき)を借りて炊飯していて、 その甑が物に触れて覆った。 すると、甑の貸し主は「祓除」させた〔=貸した甑を取り返した〕。 これらの類は、愚俗に染まった悪しき風習である。 今、すべて除き断て。そして繰り返させるな。 《百姓臨向京日恐所乘馬疲痩不行》
ここで三河尾張を馬の乗り継ぎ点にしたのは、東国から上京したことを示す。 馬に乗って都に向かうのだから、「百姓」とはいうが実際には地位が高く、国司または国造が派遣した使者かも知れない。 馬を私的に中継点に預け、乗り換えて上京したのだから、この「百姓」は少なくとも駅馬、伝馬を利用していない。 特に東国においてはまだ駅制が未熟であったためだとすれば、 私的な馬の養育農家が後に公的な駅家※に発展したことも考えられる。 ※…駅路の16kmごとに置かれ、乗り継ぎ用の馬を常時備えた施設。 ここで改新詔を見ると、『令義解』厩牧令では馬戸の役割が具体的に規定されているのに対して、改新詔では、調としての細馬・中馬の「輸」〔=納入〕と書かれるのみである (大化二年正月《凡官馬者》項)。 だから、駅家の設置はまだ緒に就いたばかりかも知れない。この百姓の馬の件は、駅家が必要だとする問題意識に関わる話題ではある。 ただし、この「百姓」の件に限っては、仮に駅制があったとしても地位が低いために利用できなかったと見るのが妥当か。 《若是細馬》 「是」は、繫辞である(第87回《是若他神之子者…》など)。 和読はナリで、「若~」の条件文中では、未然形(ナラバ)または已然形(ナレバ)となる。 「若是細馬~」は反実仮想と恒常条件が考えられる。 前の文から繋げて「百姓が預けた馬が、仮に普通の馬ではなく細馬だったとしたら」と読む場合は、 「もしこれ、細馬ならませば、…被偸失と言はまし。」、または「もしこれ、細馬なりせば、…被偸失と言はまし。」となる。 一方、ひとまず百姓の馬の事例とは切り離して客観法則として述べる場合〔恒常条件〕は、已然形を用いて 「もし細馬なれば、…被偸失と言へり。」と訓むことになる。 反実仮想の文体は見るからに情緒的だから、法令においてはすっきりと恒常条件文として読んだ方がよいと思われる。 《今立制》 この現実を受けて立てた「制」は、馬を預けて報酬を渡すことを村首の面前で行えというものである。 《乗馬》の項で見たよように、これが公的な駅家の設置の原点だと考えられないこともないが、一応は別のことだと考えて置く。 《市司・要路・津済・渡子》 職を表す市司・渡子と、場所を表す要路・津済が混在しているが、後者についてもその管理者を指すのであろう。 これまでは一般の農民と同じく調賦を収めていた。つまり、これらの管理はこれまでは近隣の住人に委嘱されていた。 それが百八十度逆転して、田地が給与されるて権力の一翼を担う立場に変わる。 今や、水と陸の交通の要所は、官が強力な権限をもって直接監督するようになった。 この件は唐突だが、第三段の役丁の往来、第四段前半の馬の乗り換えとともに、交通の管理に関することとして括ることはできる。 ここでいう「田地の給与」は、改新詔に逆行する。名目上「食封を賜る」とも表現し得るのだが、ここでは実質を表す言葉となっている。 改新詔の現実化はまだ緒に就いたばかりで、古い形がまだ残っていることの現れであろう。 《四方諸国国造》 「依詔催勤」の詔が、この詔全体を指すのは明らかである。 農民は営農月にはしっかり働けというのは当たり前のことで、形式的に付け加えたものであろう。 ここで、国司・郡司にではなく、「四方諸国」の国造に向けて指示を出していることが興味深い。 国司は未だ地方行政官として機能せず、国造の郡司への移行も進んでいない。 《大意》 またある。百姓が京に向う日に臨み、 乗る馬が疲れ痩せて行けなくなることを恐れ、 布二尋(ひろ)麻二束(たば)を 三河、尾張両国の人に送り、 雇って飼わせ、 京に入った。 故郷に帰る日には、鍬(すき)一本を送った。 しかし、参河の人等は、 飼うことができず、却って痩せさせ死なせた。 もしこれが良馬なら、 生かして愛好し、 巧みに偽り盗まれた失ったと言い、 もしこれが牝馬ならば、自分の家で孕ませ、 秡えさせ〔=渡すことをはばみ〕、 ついにその馬を奪ってしまう。 飛び交う話をこのように聞いた。よって、今制を定める。 すべて馬を路傍の国で養う者は、 雇われた人を連れて、 詳らかに村の首(おびと)に告げ【首は長(おさ)である】、 報酬の物を授けるべし。 郷に帰る日には、必ずしも更に報酬はなくてもよい。 もし〔馬が〕疲れたり損なわれるに至れば物を得るにはそぐわない。 縦(ほしいまま)にこの詔に違(たが)えるなら、重罪を科そう。 市の司(いちのつかさ)、要衝の道、 津の渡し、渡守(わたりもり)が納める調賦を廃止し、 田地を給付せよ。 すべて畿内を始めとして四方の国まで、 農作月に当たっては速やかに営田に務めるべきで、 美食と酒を喫することはそぐわない。 清廉な使者を遣わして、畿内に告げるべし。 四方の諸国の国造等は、 善き使者を選んで詔によって催(うなが)し勤めるべし。」 まとめ 一般にこの詔の第一段は「薄葬礼」と呼ばれる。確かに大王陵の墳丘は古墳時代に比べて小型化したが、精緻な八角墳に第一級の美術品が副葬されているのを見ると、必ずしも薄葬とは言えないだろう。 墓の規模を細かく規定したのは冠位制とも連動して、官の身分的な秩序を徹底するのが目的である。 魏書の文帝記からの引用は、詔を格調高く見せるためであろう。「薄葬礼」という呼び名は、それに惑わされたものである。 第三段には、都造りなどのために遠隔地から仕丁を集めたことが見える。畿内の人民は既に豊かで、仕丁を庸(ちからしろ)に替えることができた。 遠隔地、特に東国はまだ貧しかった故に実際に人を送らざるを得なかったと想像される。そのような人たちに対する、畿内の住民の差別意識があからさまに描かれている。 遠国から来る仕丁の苦難に対する官の対応策は、まだ殆どなかったようである。 駅家も未確立で、地方領主はまだ依然として国造のままである。依然として必要なら所領として田地が給与される。 これらからは、細かな制度の整備が初歩的な段階にあることがわかる。改新詔はまだアドバルーンに過ぎないのである。 さて、第一段~第四段は、もともとそれぞれが別個の詔だったと考えられる。書紀を書く時点で、いくつかの文書を縫い合わせて一つの詔としたと見るのが順当であろう。 |
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2023.05.30(tue) [25-11] 孝徳天皇11 ▼▲ |
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19目次 【大化二年八月】 《聖主天皇則天御寓》
副詞「原」の訓みについては、〈神代紀〉天照大神-素戔嗚命誓の段で「原其物根」に「タツヌレハ」〔たづぬれば〕の古訓がある(〈内閣文庫本〉)。 『類聚名義抄』には「タツネミレハ」〔訪ね見れば〕があるから、この訓み方は比較的一般化したようである。 《陰陽》 陰陽への古訓、サムシ・アタタケシ(アツシとも)は、「四時」に関連付けたものと思われるが、むしろ哲学としての「陰陽」であろう。 「陰陽」は男女・明暗・寒暖・春秋・白黒・表裏・正邪など、あらゆる二項対立を表す。 近代において、電荷の"negative/positive"を陰/陽と訳したのは、秀逸である。 字の原意に近いのはカゲ・ヒカリであるが、深遠さが物足りず倭語で表すことは難しい。 《則天御寓》 「則天刀自」は「天の法に従う」意だから、古訓「アメニノトル」は適切である。但し、ノトルもその促音便を元に戻したノリトルも上代にはまだ見えない。 次の「御」は「貴人が座す」。「寓」は「仮のすみか」。古訓「あめのしたしろしめす」は定型句だが、 寓⇒天下、御⇒統治の意として理解することができる。 《品部》 品の書紀古訓「シナジナノ」〔各種の〕は普通の訓み方である。 部の書紀古訓「トモノヲ」は、万葉や祝詞にも出て来る語で、書紀古訓特有ではない。 (万)4466「之奇志麻乃 夜末等能久尓〃 安伎良氣伎 名尓於布等毛能乎 己許呂都刀米与 しきしまの やまとのくにに あきらけき なにおふとものを こころつとめよ」の 「明らけき名を負ふ」は、名のある氏族に隷属する部民であったことを示している。ただし、大化以後は国家の官司の組織に組み込まれて「心(して)努めよ」と指導される立場である。 大化後の実態を『令義解』から二三見ると、 「大蔵省」配下の「縫部司」に「織部四人」・「使部六人」・「縫女部」、 同じく「織部司」に「使部六人」・「染戸」が見える。 《遂使父子易姓》 使役動詞「使」は「父子易姓~一家五分六割」の範囲にかかるが、「父子をして姓を易へしめて」という言い回しをいちいち「兄弟…」、「夫婦…」にも用いると読みにくくなるので、 結びのみ「一家をして五分六割せしむ」と訓むことにする。 《国家民》 品部を中央の官僚組織に組み入れた形態を、「国家民」と表現する。 〈時代別上代〉は、国家を「クニイヘ」と訓むことについて「日本書紀古訓のみに見え、直訳の語であろう」と述べる。 この段における古訓「オホヤケ」には妥当性がある。おほやけは、国家の官司を意味する。 民を、〈内閣文庫本〉は珍しく「タミ」と訓む。書紀編纂の時代に省庁に所属していた人たちの延長線上にあると受け止めたからであろう。 《忽聞若是所宣》 「深不悟情忽聞若是所宣」は、なかなか読み取ることが難しい。 この「所宣」は「宣ず」の名詞形で、「若是所宣」〔かく宣じたこと〕は 「所有品部。宜悉皆罷為国家民」を受け、すなわち「臣連が所有する品部は皆廃止し、国家の民にする」という宣である。 ということは、「聞」の主語はこれまでの品部の所有者で、「忽」は「お前たちにとっては寝耳に水であろうが」という意味である。 すると、「深不悟情」〔宣の真意を理解せずに〕は、これも臣連が主語である。 《当思祖名所借滅》 前項から、「思祖名所借滅」の主語も臣連で、つまり「朕」が臣連の心情を慮 《信知時帝与祖皇名不可見忘於世》 「信知時帝与祖皇名不可見忘於世」は、正規漢文としての解析が可能である。 ● 「時(の)」は「帝与(と)祖皇〔=皇祖であろう〕」を連体修飾する。 ● 「見」は受動の助動詞で、古訓もそのように解釈している。 ● 「不可」は目的語に「見忘於世」をとる。 ● 「信-知」は、動詞の連結で、以下の部分全体を目的語にとる。 よって、「信四-知時帝与祖皇名不三レ可レ見レ忘二於世一」となる。 信を古訓は、「信ニ」〔まことに〕と訓む。動詞の連結「信じて知れ」とそれほど意味は変わらない。 ただ、知の目的語を「帝与祖皇名」までにしてこの点は、文章の流れの十分な理解を欠く。 ここでは、歴代の天皇の御名を忘れるなと言っているのではない。 むしろ「代々の天皇の名前が忘れられることは、決してない。 よって、それに由来する名前を返上せよとは言っていない。それを信じて理解せよ」というのである。 次の部分に「祖子之名可共天地長往」とあるから、各氏族の先祖の名についても同じことをいう(次々項)。 《軽》 形容詞カルシは、〈時代別上代〉によると、上代は語幹カルが訓仮名に用いられるが、形容詞としての用例はまれだという。 しかし、かるいという意味をもつ漢字「軽」がカルと訓まれ、またウシロカルシという語もあるから、上代に形容詞カルシは存在したと思われる (〈継体〉六年)。 《王者之号/祖子之名》 「王者之号将隨日月遠流/祖子之名可共天地長往」は、対句として同じような意味の語に異なった字をあてる修辞法が用いられている。 「祖子」を、〈内閣文庫本〉は「祖子 この文は天皇家と諸氏とを対称形で述べたものであろう。 《大意》 〔大化二年〕八月十四日、 詔に曰く。 ――「顧みれば、天地陰陽、四季に相乱れはなかった。 惟(おもんみる)に、天地は万物を生んだ。 万物の内、人は最も霊である。 最も霊なるうち、聖人が主となった。 これを見るうちに、聖主たる天皇(すめらみこと)は天に則り御寓(あめのしたしろしめす)ことになった。 人が適所を得べきとの思いは、しばらく胸から消えることはない。 ところが、諸王の御名から始まり、 臣(おみ)連(むらじ)伴造(とものみやつこ)国造(くにのみやつこ)、品部に分かれ、 それぞれの名に別れた。 また、その民の品部を交雑して国、県(あがた)に住まわせた。 遂に父子は氏姓を変え、兄弟は宗族を異にして、 夫婦は更に互いに名を別にし、一家を五分六割させた。 これによって、争いと訟えが国にも朝廷にも満ちて、 遂に治まらず、相乱れることがいよいよ盛んになった。 これらのことから、 今の御㝢(あめのしたしろしめす)天皇(すめらみこと)より始めて臣(おみ)連(むらじ)等まで、 所有する品部を、悉皆(しっかい)に〔=すべて〕廃止して、国家の民とせよ。 ところで、大王の名は伴造のために仮借された。 〔諸族の〕先祖の名は臣連のために襲名された。 この類(たぐい)により、〔臣連は朕の〕心を深く知らぬまま突然この宣旨を聞いて、 まさに先祖が仮借した名前が滅びてしまうと思ったようである。 けれども、王名を 軽んじて、川や野に掛けて名を呼ぶ百姓は誠に恐るべきではあるが、 凡そ王者の号は月日につれて遠く流れるだろう。 祖の子の名は天地と共に長く続くだろう。 かく思うが故に、宣ず。 先祖の子から始まって 奉仕(つかへまつる)卿大夫(まえつきみ)臣(おみ)連(むらじ)伴造(とものみやつこ)氏々人(うじうじのひと)等 【ある書に言う。諸の名のある王民】、 皆、聞くべし。 今、お前たちを仕えさせる形態を改め、旧職を廃して、 新しく百官を設けて位階を著わし、よって官位を敘す。 《國司幷彼國造可奉聞》
「発」は動詞として強くはたらくから、「遣」は名詞〔=使者〕で、 「発レ遣」〔つかひ(使者)を発(た)てる〕と訓むのがよいだろう。 「国司并彼国造」は「発」の第二目的語、あるいは「発遣」が「国司并彼国造」を連体修飾するとも読めるが、 どちらも実質的な意味は同じである。「可以奉聞」の「以」は、「使者が伝える宣旨を」の意味であろう。 《去年付於朝集之政者》 「去年」は、その前に「国司并彼国造」に云々と言っているから、大化元年八月の「詔二国司等一」を指す。 「於」の目的語は、(ア)「朝集之政」と(イ)「朝集」が考えられる。 「付」は、(ア)の場合「朝集のときに命じた政に付けては」、(イ)の場合は「朝集において付〔=授〕けたる政は」となる。 〈内閣文庫本〉は(ア)だが、その場合"about"の意となり「付」の原意とはやや離れる。 それに対して、「付」には「授」の意もあるから、(イ)の方が自然であろう。 《隨前処分》 「隨前処分」の「処分」は、 「班田収授之法」による処置を指すのは明らかである。 続けて「以収数田均給於民。勿生彼我」と書かれるからである(改新詔/第三曰)。 《以収数田均給於民》 ここに「均給於民」とあるのは、面積こそ具体的に示されないが班田収授法の具体化に踏み出したことを物語るものといえる。 後の『礼義解』/田令では「給口分田者男二段。女減三分之一」となっている。 《其百姓家近接於田必先於近》 「其百姓家近接於田必先於近」は、一見わけがわからない。 そこで先に文意を予想すると、班田はそれぞれの住居になるべく近いところから割り振れということであろう。 ここで、「其百姓家近接於田/必先於近」と区切り、前半を条件文「もし家が田に近接していれば」と読んでみると、 後半の「近」を「その家に近い田」の意味として、「必ずその家に近い田から先に給われ」と読み取ることができる。 この文は、本来「若其百姓家近接於田者必先給於其近田」とすべきものである。 これを見ると、大化年間の漢文としては不完全な文章が残っていて、それをそのまま載せたように感じられる。 《調賦者可収男身之調》 「可収男身之調」は、一人一人を対象にして人頭税的に徴収せよとの意味であろう。 成人に限るのは当然であろうが、文面上では女子は除外されている。班田については女子は男子の三分の二を給されるから、 女子にも一定の調賦があったように思えるが、どうであろうか。 《国々壃堺》 改新詔(其二曰)において、畿内のいわゆる「四至」が国名ではなく地点名で示されたことについて、未だ国司の国が未成立だったからと見た。 「観二国々壃堺或書或図一持来奉示」なる指示は、その現実に符合している。 国(律令国)の線引きは、まさにこれからなのである。 しかし、郡(国造)と国家の中間レベルの行政区分としての国〔いわゆる律令国〕を設けようとする志向は、明確であったことがわかる。 《可墾田間均給使造》 「可二墾田間均給一レ使レ造」〔墾田の間に均(ひと)しく造らせるべき〕ものは、堤と溝(用水路)である。 したがって、「可築堤」は「地」を、「可穿溝」は「所」を連体修飾する。それらのところ(地、所)を農地の水利が均等になるように配置せよと指示する。 尊敬の補助動詞「給」がつくのは、官の監督下で事業が実施されるからであろう。 なお、漢字の「給」は供給、給仕などに使われ、尊敬の意味はない。 《大意》 今、国司とその国造(くにのみやつこ)に使者を発した。〔使者に託した宣旨を〕以てよく聞け。 去年に朝集において授けた政(まつりごと)は、先日の処分に從い、 数ある収田を均しく民に給して、彼が我がということが生まれないようにせよ。 凡そ給田は、 その百姓の家が田に近接していれば、必ず近いところを先にせよ。 以上の宣を承れ。 凡そ調賦は、男の身〔各自〕の調を収むべし。 凡そ仕丁は、五十戸毎に一人とせよ。 国々の境界を調査して、 文書または図面を持参して示すべし。 国県(くにあがた)の名称は、来た時に定めることにする。 国々の堤を築くべき場所、水路を掘削すべき場所は、 墾田の間に均しく造らせるよう命じるべきである。 この宣旨をお聞きして理解すべし。」 20目次 【大化二年九月~是歳】 《罷任那之調》
「遂」という言葉に残念な気持ちが見えるが、それ以外には何も書かれていない。 「遂罷任那之調」が、新羅から質をとった直後に書かれていることが、状況を分かりにくくする。 新羅は、かつて〈推古十八年〉に「任那使」を装う者が同行した。 大化元年には百済領になっていたから、今度は百済に「任那」からの朝貢を求めようとしたが(大化元年七月)、交渉は不調に終わったようである。 そこで新羅に高向黒麻呂を送り、かつてのように新羅に「任那」を装う朝貢を求めたのではないだろうか。 しかし新羅の対応を想像すると、そういうことなら「任那」〔加羅地域〕を取り返しに行くから、それを認めよと迫ったことが考え得る。 倭はそれは無理だから、結局「任那之調」の維持は断念せざるを得なかった。 新羅が質を送ったのは、交渉の過程で生じた緊張を緩和するためかも知れない。 以上の筋書きは全くの想像に過ぎないのだが、書紀からはこれを最後に「任那」の文字が絶え、続紀にも出てこないのは紛れもない事実である。 何れにせよ著しく自尊心を損なうことなので、「遂罷任那之調」という最低限の文字列にとどめたのだろう。 《蝦蟇行宮》 『集解』は、摂津志(下記)を引用して「按
高津という地名が生まれたのは1583年(もしくは1124年)に高津宮がやってきたことによるのは確実だから、高津を蝦蟇の訛りとする『集解』説は成り立たない。 別の考え方としては、川津かも知れない。難波に近い川沿いに、津はいくつもあるだろう。 ところが万葉を見ると、「河津」・「川津」は大量にあるが、ほとんどが蛙(カハヅ)の訓仮名で、純粋に川の津を表す歌は二首しかない(2019、2070「天河津」)。 〈倭名類聚抄〉の郡名、郷名にもカハヅは一例も見えない。だから、川の津をカハヅというのは確かだが、ほとんど地名には残っていないという特徴がある。「川津」というだけでは、その位置はきわめて特定し難い。 あるいは、原注に「或本云二離宮一」とあるから、 蝦蟇行宮が「子代離宮」(大化元年正月是月)の別名だった場合は、結果的に高津村が復活する。ただこの場合は音韻は無関係で、たまたまの一致である。 《大意》 〔二年〕九月、 小徳(しょうとく)高向(たかむこ)の博士(はかせ)黒麻呂(くろまろ)を 新羅(しらぎ)に遣わして質を貢ぎさせました。 遂に任那(みまな)の調(みつき)を罷(や)めました 【黒麻呂は、別名玄理(げんり)】。 同じ月、天皇(すめらみこと)は蝦蟇(かわづ)の行宮(あんぐう)に滞在されました 【ある書には離宮という】。 この年、 越(こし)の国の鼠が、 昼も夜も相連ねて東に向って移動しました。 まとめ 大化二年八月詔では、国司やその配下の国造に対して、班田や使丁の規定を指示していて、改新詔の進捗状況が見える。 指示する相手はまだ国造だから、郡司の任命は遅れている。 臣連には官位を与え、新しい省庁の組織体制への組み込みが進む。 これを見ると、十七条憲法(〈推古〉十二年)の発布に相応しいのはまさに今である。実際には大化年間に作られたものを、厩戸皇子〔聖徳〕に仮託した印象を強く受ける。 ただ、冠位十二階についてはその直後からその冠位を負う人物が登場するから、〈推古朝〉当時から国家機関としての省庁の設置は進められていたのであろう。 だから、太子のときに定められた何らかの心得の詔は確かに存在したが、今回これを抜本的に充実させて、「太子の十七憲法」を称したのではないかと思うのである。 さて、政策を実行する機能体としての国家機関は充実しつつある。その内的な秩序は官位によって定義される。 だからといって血縁関係による氏族や、所有する品部が解体するわけではない。 氏族間の流血の抗争は影を潜めるが、これからは各氏族に所属する者を、どれだけ高い地位に多く送り込むことができるかの競争となろう。 『高橋氏文』(資料[07])などは、まさにその売り込みのための文書なのである。 |
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2023.06.03(sat) [25-12] 孝徳天皇12 ▼▲ |
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21目次 【大化三年正月~四月】 《高麗新羅並遣使貢獻調賦》
的(イクハ)を射抜く意味の動詞イクフは、書紀古訓に数例見える。万葉にはイルが多い。 《高麗新羅並遣使貢献調賦》 ここに百済の姿が見えないのは、「遂罷任那之調」に至ったことがまだ尾を引いているのであろう。なお、射芸の催しは、高麗と新羅による遣使への接待と見るのが自然である。 《惟神》 原注は「惟神」を「神道に随って」と解釈する。ところがそれでは「我子」の「我」が誰のことだか分からなくなる。 「惟神」の「神」は、「我子応レ治故寄」の主語と位置付けるのが妥当であろう。なおこの「神」は高皇産霊神(または天照大神)、「子」は瓊瓊杵尊にあたる。 「惟」は副詞(オモヒミレバ)で、「朕惟(おも)ふに」の意味であることは明らかである。 原注者の読み違えであろう。 《前々猶謂人々也》 原注は「前々」を「人々」に読み替えよというが、「前々」がそれまでにあった様々な尊い名前であることは容易にわかるから、 敢えて直す必要はない。時間的な「前々」、空間的な「所々」の組み合わせのままがよい。 《今者隨在天神属可治平之運》 「隨在天神属可治平之運」はひとまず「隨二在レ天神一、属下可二治平一之運上」と訓みたい。 すなわち、天神が我子に国政を任(よさし)した当初の形に、現在の治世を適合させる。つまり、名前の偽作が横行する状態を元に戻すべきだという。 《是先是後今日明日次而続詔》 上記の課題に対応するためには、「詔を次々と発し続けなければならない」という。 《未詔之間必当難待》 「必当難待」:「待たせることは間違いなく難しい」。「未詔之間」:すなわち、次の詔を発するまでの間隙を衝いて、また旧俗のままの問題が起こるという。 《始於皇子群臣及諸百姓将賜庸調》 賄賂によって、名のある氏族の地位を得る。それへの対策が、なぜ皇子・群臣・百姓に庸調を賜ることなのだろう。 一見しただけでは論理が分からないが、恐らく官位によって禄高を機械的に決めて賜るという意味であろう。 これによって、富を得るために背伸びして高貴な氏を装う必要はなくなるのである。 なお、ここでいう「百姓」は公民ではない。公民は逆に庸調を納める立場だからである。 百姓はもともと姓を持つものを意味し、ここでは諸族から官職に就く者のことであろう。 《大意》 三年正月十五日、 朝庭にて射芸を催しました。 同じ日、 高麗、新羅は揃って遣使して調賦を貢献しました。 四月二十六日、 詔を発しました。 ――「惟(おも)うに、神は 【原注は、「惟神」は 神道の隨に、また自らに神道有りとの意味だと述べている。】 我が子に地上を治めるべきだとしてこれを命じた。 これにより、 天地の初めに与り、君臨する国である。 始めに国を知ろしめた皇祖の時は、 天下は大同し、あれやこれやと振舞う者は全くいなかった。 既にこのごろは、 神名、諸天皇の名から始まり、 或いは別れて臣連(おみむらじ)の氏となり、 或いは別れて造(みやつこ)たちの種類となった。 これにより、国中の民の心は、 固くあれこれに捉われて、深く自分や相手のそれぞれの名を守ることが生まれた。 また、拙く弱い臣、連、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)は、 それによって氏姓を神名、王名として、 自分の心の趣くところに帰(き)し、 妄(みだ)りに先々の、また所々の名を付けた 【原注は、先々は人々の意味だと述べる】。 ここに、神名や王名を用い、為人(ひととなり)は賄賂を好むが故に、 他人の奴婢を自分の族に入れて清き名を汚した。 こうして遂に民の心は整わず、国の政(まつりごと)を治めることは難しい。 この故に、 今こそ天に在る神に随い、治平すべき世の廻りに属させる。 これらのことを悟らせ、国を治め民を治めるためには、 物事の前後に、今日も明日も次々と続けて詔することになろう。 しかし、もともと天皇(すめらみこと)による聖化が頼りで、旧習に捉われた俗民に、 まだ詔が発せられない間を待たせることは、必ずや難かしいだろう。 よって、皇子群臣を始めとして諸々の氏族に及び、 庸(ちからしろ)と調(みつき)を賜わることとする。」 22目次 【大化三年是歳(一)】 《天皇處小郡宮而定禮法》
近代の境界線では西成郡の境界は大坂城を含む範囲となっているが、前期難波宮もそれに合致していて小郡にある。 〈孝徳紀〉で難波長柄豊碕宮に関する記述は、次のようになっている。
滞在場所として、「大郡宮」も書かれている。 大化二年正月是月条には「狹屋部邑子代屯倉」を壊して行宮(もしくは離宮)を建てたとあり、これが言われるように高津宮辺りだとすればぎりぎり大郡に入る。 屯倉を壊して建てるぐらいだから、一定の規模があったと考えられる。「大郡宮」も、子代宮の別名の可能性がある。 《寅時/午時》 寅時は、午前四時、午時は正午。それぞれ前後一時間の幅がある。 日の出前に南庭に整列し、日の出を待って拝礼して執務につき、午時になったら鐘の合図で執務を終えよと規定される。 《赤巾》 赤巾とは、どのような形状のものであろうか。 《鐘台》 台の古訓をカケモノとするのは、鐘を吊るすスタンドを想定したものか。 その全体は台上に置かれるはずだから、訓はウテナで充分であろう。 《大山位》 大化五年二月の「制冠十九階」に「十一曰大山上」、「十二曰大山下」がある。遡及したかと思われる。 ただ、上下がなく、また通常「位」をつけることはないので、表記には疑問がある。 「倭漢直比羅夫」(大化元年七月)と同一人物と見られる。 《倭漢直荒田井比羅夫》 荒田井比羅夫については、〈姓氏家系大辞典〉は大化三年四月条、白雉元年四月条により「荒田井氏の倭漢直より分れたるを知るべし。此人尾張の人ならむ」、 「天平二十年四月廿五日の写経所解に「荒田井直族鳥甘年卅二、尾張国愛知郡成海郷…」…」〔鳥甘(とりかひ)が個人名〕と述べる。 《改穿》 最初の溝涜はルートを誤り、掘り直したという。それぞれの流路を推定する資料は今のところ見出せない。 《大意》 この年、 小郡(おごおり)を壊して宮を造営しました。 天皇(すめらみこと)は、小郡の宮において礼法を定められました。 その制にいいます。 ――「凡そ有位者は、必ず寅の時に、 南門の外にで左右に整列して 日の出を待ち、庭に就いて再拝し、 それから政庁で執務せよ。 もし遅れてきた者は入って執務することはできない。 午(うま)の時になり鍾の音を聴いたら執務を止めよ。 撃鍾吏〔=鐘を撞く係〕は、赤巾を前に垂らせ。 鍾の台は中庭に建てよ。」 工匠大山位(だいせんい)倭漢直(やまとのあやのあたい)荒田井比羅夫(あらたいのひらふ)は、 誤って溝涜(うなて)を掘って難波に引き入れ、 よって掘り直しをして、百姓を疲労させました。 このとき、上䟽〔=文書を提出〕して切諫する者がいました。 天皇(すめらみこと)は、 「みだりに比羅夫(ひらふ)の誤った案を許可して、虚しく溝涜を掘ったことは、 朕の過失である。」と詔され、 即日仕役を止めました。 23目次 【大化三年十月~十二月】 《幸有間温湯》
有間温泉には、かつて〈舒明〉天皇が三年と十年に訪れた(〈舒明〉三年)。 《大臣群卿大夫》 そのまま訓読すると「大臣(まへつきみ)群卿(まへつきみたち)大夫(まへつきみ)」となる。 《武庫行宮》
『武庫郡誌』〔武庫郡教育会(1921);1973復刻〕は、武庫行宮の所在地について、 次のように推定する。 ――「今の良元村〔現在は宝塚市の南西部〕の内蔵人〔くらんど〕村なるべきか。蓋し当時水陸交通の要地たりしに依る。尚蔵人村に御幸道又は御幸通と称する地名あり。 小林村にも御所の前と称する字あり是等に依りて行宮の位置を推定するに、 蔵人村の北、小林村の東、伊子志〔いそし〕村の南、武庫川の西成る一区画内の或る地点なるべし」(p.2)。 この文章が述べた通りの位置を、右図に示した。 この位置は、有間温湯から古山陽道を通って難波に戻る途中にあたる。 そのまま古山陽道を陸路で戻ったか、あるいは武庫川から水路で難波津に向ったことが考えられる。 《十二月晦》 本サイトの元嘉暦モデルでは大化三年十二月は小の月なので、晦は二十九日である。 《大意》 十月十一日、 天皇(すめらみこと)は有間の温湯に行かれ、 側近の大臣、群卿、大夫が同行しました。 十二月晦、 天皇温湯から帰りましたが、武庫の行宮(あんぐう)に留まりました 。 同じ日、 皇太子の宮に火災があり、 当時の人は大いに驚き怪しみました。 まとめ 三年四月詔は、結局改新詔冒頭の「賜二食封大夫以上一、各有差。降以二布帛一賜二官人百姓一、有差。」の繰り返しに過ぎない。 ここでの論旨は、その禄高は官位で定まるから、氏族が争うことも名前を偽ることも不要となるというものである。しかし、今度はその官位を得るために、氏族間の争いは尽きないであろう。 さて、三年是歳(一)条では溝涜の工事に伴うことだから、まだ新京は建設途上にある。 また、三年十二月条に関して『武庫郡誌』による武庫行宮の考察は、古山陽道の経路の探求にひとつの材料を加えるものだと言えよう。 |
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⇒ [25-13] 孝徳天皇(5) |