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2023.04.27(thu) [25-07] 孝徳天皇7 ▼▲ |
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14目次 【大化二年二月】 《明哲之御民者懸鍾於闕而觀百姓之憂》
「東門」の東には、特別の意味があるのだろうか。 漢籍を見ると、『礼記』〔戦国〕玉藻「玄端而朝日於東門之外。聴朔於南門之外」がある。
《日本倭根子天皇》 「日本倭根子天皇」は、ヤマトが二重になっている。 大化元年七月丙子条では「明神御宇日本天皇」となっており、 ヤマトには「日本」を用いるのが書紀の用字法である。 よってここでは原稿の段階で「倭」を訂正しようとして「日本」を傍書したが、誤って両方が正字として筆写されたと推定される。 《朕》 冒頭文は「明神御宇…天皇」が主語で、以後は「朕」が主語となる。 すると、冒頭文は右大臣が宣した前置きのように思えるが、実際にはこの文から詔は始まる。 続記の宣命を見ると、一人称〔天皇自身〕にも関わらず、三人称の文体に見える。 それは、天皇自身の言葉という形式をとりながら、実際には官僚によって作文されたからであろう。 原案を天皇に奏上する段階では尊敬語による文体を用いたと考えられ、また公表にあたっては大臣によって読み上げられるから、三人称的な表現が混ざった詔となるのである。 自敬表現も、基本的にここから生じたものであろう。 《うごなはる》 天皇の御前に参集する場合に、動詞ウゴナハルが使われる。その仮名書きは、貞観儀式〔貞観十五~十八(873~876)と推定〕に残るが、 おそらく書紀編纂の時代には存在した語で、「集侍」などの表記があてられたと思われる。 「…はる」は四段動詞未然形+自発ル(下二)が四段化したかと思われる。ナフは名詞を動詞化する語尾。するとウゴが語根である。 辞書には載っていないが、もともと集団を意味するウゴという語があり、ことによると「雨後の筍」や「烏合の衆」は、それに適当な漢字を後付けしたものかも知れない。 《明哲》 明哲は、「さかしきひと」と翻訳できるが、古訓には「サカシヒト」とある。 類似するサカシメ〔大国主段〕は、シク活用の語幹サカシが連体修飾に用いられたもので、ウマシクニと同様。 ただ、サカシヒトが上代に実際に使われたかどうかは判断できない。 (万)0340「七賢 人等毛 ななのさかしき ひとたちも」では、音節数から連体形のサカシキは確実である。この方が安全である。 《芻蕘》 芻蕘への古訓「クサカリワラハ」は、蕘豎の訓みをあてたようだ。蕘には木を伐つ意のほか、しばを刈る意もある。 蒭は芻の異体字。なお芻も部首を草冠とするが、それは、艸〔艹の正字体〕を含むため。 蕘は木を斧で倒す(コル)意。コルは、カル(刈る)の母音変化であるが、カルは草カル、コルは木コルに使い分けられる。 樵(キコリ)は木伐ルの名詞形。(万)3232「斧取而 丹生桧山 木折来而 をのとりて にふのひやまの きこりきて」のキコリは連用形であるが、 名詞形キコリも上代からあったと見てよいだろう。 《管子曰》 『管子』は、管仲(桓公に仕えた宰相。管子は愛称)に仮託して書かれた戦国の政治論集。 この文は、その「桓公問」第五十六にある。 桓公〔春秋時代の斉の王〕の「有而勿失、得而勿忘」を守りたいが、どうしたらよいかという問に答えたもの。 魏志にも引用があり、それぞれ多少の字の不一致がある(太字)。
「誹」は「そしる」(「誹謗」)。ここでは、王の政に対する悪口を敢えて知ろうとする謙虚な姿勢を示す文脈にある。 書紀の「民非」では民の非行を監視する意味になってしまう。実際『仮名日本紀』は「民のあしきをみ」と訓む。 念のために、『管子』のいくつかの写本を見たが、いずれも「人誹」となっている。 この誤りが今日まで見過ごされてきたことには驚いたが、 『三国志』魏志-裴松之注による引用では「民非」であることが分かったので、直すべきかどうかは微妙である。 ただ、文脈的には「誹」であるべきなのは明らかである。 《管子引用部分のよみ》 〈内閣文庫本〉の左訓には音読みが見える。平安時代には漢文訓読体に音読みが交えられていたのは明らかである。 飛鳥時代に漢籍が流入したときから始まっていたであろう。但し、知識層に一定の浸透はあっただろうが、大衆化はまだ先であろう。 『日本語の発言はどう変わって来たか』〔釘貫亨;中公新書2023〕によると、 「江南地域に起こった六朝文明」からの呉音の流入は3~6世紀、「隋唐帝国の律令制度の導入」に伴う漢音の流入は7~8世紀という。 「六朝時代は、中国市場例外的に仏教が盛んであったので、呉音には仏教語が非常に多い」という(p.162)。 延暦十一年〔792〕には「明経之徒、不可習音。発声誦読。既致訛謬。熟習漢音。」(後紀)と、呉音を許さず漢音に習熟せよとの詔が出ている。 したがって、上代後半には呉音、漢音が併存していたから『管子』はどちらで訓んでもよい。 しかし、書紀が成立した720年の時点では呉音で訓まれることが多かったと考えて、ここでは呉音を用いた。 《聖帝明王》 「聖帝」は黄帝、尭、禹を受け、「明王」は湯王、武王を受ける。 皇帝、王の名を音読みするから、聖帝、明王も音読みすべきであろう。 《懸鍾設匱》 鍾匱の詔(元年八月五日是日の詔)について、ここでも取り上げている。 《表》 「表」は櫃に納めるフミであるが、「陳䟽」も使用される。元年八月では「牒」が用いられた。 《如群卿等或懈怠不懃》 「如群卿等或懈怠不懃或阿党比周朕復不肯聴諫」(B)の読み取りは、なかなか難解である。 しかし、元年八月の詔の中の「朕題年月便示群卿。或懈怠不理。或阿党有曲訴者。可以撞鍾。」(A) と同内容のはずである。 (A)において「曲訴」は「曲説」、「曲解」と同様に、捻じ曲げた訴えの意であろう。 「阿党有曲訴」〔党(うがら)に阿(おもね)り訴を曲ぐること有り〕は「曲学阿世」〔学を曲げて世に阿る〕」と同じ言い回しと見られる。
(B)もそれに一致するはずである。実際、郡卿を主語とする部分はほぼ同じである。 (B)ではそこに天皇の判断をつけ加えている。付け加えたことを示すのが「如」と「復」である。 よって、天皇の方にも認める(聴レ諫)・認めない(不レ肯)の二通りが並ぶ。 但し、その順番は群卿の部分とは逆になっている。 伝統訓では「不レ肯レ聴レ諫」〔諫めを聴(ゆる)すことを肯(がえん)じ不(ず)〕とする。 この読み方においては、「懈怠不懃・阿党比周」はともに群卿の落ち度と読み、「朕」もまた諫めを受け入れないときは、憂え訴える人は鐘を衝けと読むものである。 しかし、この読み方は(A)に示されている櫃の表(ふみ)に対する丁寧な扱いからは、完全に遮断されている。 以上から、文の組み立てについては次のように理解されるべきである。
《憂訴之人当可撞鍾》 前項で見たように、(A)では鐘を撞くのは官である。 ところが、(B)では「憂訴之人当可撞鍾」、すなわち「憂訴之人」が鐘を撞くべしというという文になっている。 これには大いに困惑させられる。 『仮名日本紀』はこれをそのまま受け入れ、群卿も天皇も諫めを受け入れないときに、提訴人は鐘を撞けという文章になっている。 岩波文庫も同様である。 だとすれば、「阿党有曲訴」は審理する側の官が、自分の諸族する氏族にえこひいきして判決を捻じ曲げたことになる。 しかし、前項で見たように「曲訴」とは邪な訴えを起こすことであり、 裁判官が恣意的な判断をすることは言わない。 そもそも訴えを書状で投函せよ、そしてその審査の結果に不満があれば鐘を撞けという手順は理解できない。 鐘が鳴ったとして、その後はどうするのだろう。まさか鐘の音だけで、自動的に諫めが受け入れられることはあるまい。それについては、何も書かれていない。 別に鐘を撞かなくとも、再び反論の陳䟽(表)を櫃に入れれば、翌朝になれば必ず読んでもらえるのである。 やはり、実際に行われた制度では官が鐘を撞いたと見るべきであろう。ここは動かすべきではない。 そこに、設置された鐘は人民が朝廷に意見を言いにやってきたときに合図として衝くものだという、俗論的受け止めが紛れ込んだのだろう。 恐らく『管子』の「禹立建鼓於朝而備訊望也」と同じだとする発想が混ざったと考えられる。 《当可》 それでも、「当・可」を分離して「憂訴之人に当てて鐘を撞く可し」と訓めば、何とかなる。 しかし、そのような読み方が果たして可能だろうか。そこで、漢籍から当可の用例を探したところ、いくつか見つかった。 一例として、次の文について検討する。
よって当・可の分離はやはり無理であった。 それでも意味を通すために、訓読に於いてはひとまず"于"一文字を追加して、「于憂訴之人当可撞鍾」に作ることにする。 《大意》 〔大化二年〕二月十五日、 天皇(すめらみこと)は宮殿の東門にいらっしゃり、 蘇我右大臣(そがのみぎのおおまえつきみ)〔倉山田石川麻呂臣〕に詔(みことのり)を読み上げさせました。 ――「明神御宇(あらみかみとあめのしたしらす)日本根子天皇(やまとのねこのすめらみこと)は、 集まった卿(まえつきみたち)、臣(おみ)、連(むらじ)、国造(くにのみやつこ)、伴造(とものみやつこ) 及び、諸(もろもろ)の人民に詔される。 朕が聞くところでは、 明哲が行う民の治めは、 鍾を闕門(けつもん)に懸けて百姓の憂えを観て、 屋を巷に作り路行く人の謗りを聞き、 芻蕘(すうじょう)〔=庶民〕の説でも、自ら問うて師としたという。 これにより、 朕は先に詔を下して、 『古(いにしえ)の天下の統治は、 朝廷に善を推奨する旗と誹謗する木を置いた。 その所以(ゆえ)は治道に通じて諫めに来る者がいることである。 故に、幅広く下々に問いたい。』と言った。 管子(かんし)曰く、 『黄帝(こうてい)が明堂(みょうどう)の議を興したのは、 上に賢者を観たのである。 尭(ぎょう)に衢室(くしつ)の問いがあるのは、 下に民に聴いたのである。 舜(しゅん)は善を告げる旗を掲げ、 よって主(あるじ)は〔仕える者の善行を〕蔽(かく)さなかった。 禹(う)は鼓(つづみ)を朝廷に建て、 よって〔人民が〕尋ね望にくることに備えた。 湯(とう)は総衢(そうぐ)の廷(てい)をおき、 以て民による非難を観た。 武王は霊台(れいだい)の苑をおき、 以て賢者を推奨した。 この故に、 聖帝、明王は、 よって持てるものを失うことなく、 得たものを亡すことはない。』。 故に、鍾を懸け匱(ひつ)を設けて上表を回収を人に命じ、 憂えて諫める人に上表を匱に納めさせ、 上表の回収役に命じて毎朝奏請させる。 朕が奏請を得れば、 群卿に示して適宜検討させる。 庶(こいねが)わくば、遅滞すること無かれ。 群卿たちは、 あるいは怠って慇懃でなく、あるいは一族に阿(おもね)て周りの様子を窺う、 朕もまた肯定しない、あるいは諫めを受け入れるの如きを判断した後に、 憂えて訴えた人に知らせる鍾を撞くべし。 《既而有民明直心》
豈は反語の助詞で、「民豈復思至此」〔民、豈(あに)また思ひここに至らむや〕、 つまり「私がこのように心を痛めていることを、民には分かって欲しいが無理だろう」という。 詔でこのような泣き言を発するのもどうかと思うが、この文の意味はこれ以外は考えられない。 《不得不使而強役之》 「使而強役之」の而を、古訓は接続詞と見做している。 『仮名日本紀』も「つかはざることをえずして、あながちに」と読み、接続詞とする。 しかし、而は使役動詞の目的語の位置にあり、この而が汝であることは明らかである。 ここの古訓は拙い。 《嘉歎》 上代のナゲクは、喜びに感歎する場合にも用いる。しかし、ここでは悲しみの嘆きと見られる。 民を労役に使わざるを得ないと嘆いきつつ、 民からの諫めの提言があったこと自体は、鐘櫃令が機能しているとして喜ぶのである。 《廃忘》 癈忘は廢忘〔廃忘〕と同じだと思われる 〔やまいだれの癈は身体的な廃にもちいる〕。 「中国哲学書電子化計画」の検索では両方とも一例もないので、和製の熟語と見られる。 用例を探すと、『本朝文粋』巻第二/意見封事/封事三箇条〔菅原文時;899~981〕に「所司不能修造。公家空以廃忘」、 また『中右記』(藤原宗忠)長承二年〔1133〕二十二日には「且為備将来之廃忘」が見える。 これらは概ね滅亡の意味で使われている。 漢籍では、『魏書』〔北朝魏〕巻九十四、『顔氏家訓』〔南北朝〕/勉学条に「廢寢忘食」(廃寝忘食)があり、 寝食を忘れて夢中になる意味である。 「廢忘」は「廃寝忘食」の略とも考えられるが、ここでは意味が合わない。 伝統訓は「スタル+ワスル」として、これを「朕」が諫められるべき内容として読む。 《諫朕癈忘》 だが「わがすたれわするること」では、天皇自身が廃れるが如き印象を与え、実に不適切である。使うならオコナヒ、またはミワザであろう。 そもそも返り点は「諫二朕癈忘一」ではなく「諫レ朕癈忘」とすべきで、 「天皇を諫めることが廃れ忘れられる」ことを危惧すると読む方が明らかに優れている。 「不言題不」は条件節である。 すなわち「記名は不要だと言わなければ、朕を諫めることは廃れてしまうだろう」とする。これなら文の流れはよい。 《題不》 前に「諫者題レ名」とあるから、「題」は「名を題(しる)す」意味であるのは明らかである。 ただし、この語順では「題」は名詞化して「不」の主語となる。 《高麗百濟任那新羅》 ここで唐突に「高麗百済任那新羅並遣使貢献調賦」が出て来る。最低限「是日」、「同月」が前置きされるべきところである。 「任那」からの調については、大化元年七月で、百済からの進調を二つに分け、その一方を任那からの進調と称すことを要請した。 それ以後の交渉の経過は記されていないが、ここでこのように書かれたということは、急転直下百済が受け入れたのであろうか。 しかし、大化二年九月に「遂罷任那之調」があり、それを最後に書紀から「任那」の文字は消える。よって元年七月の百済への要請は拒否され、倭もしぶしぶ認めたと見て間違いないだろう。 よって、ここの「高麗百済任那新羅並遣使貢献調賦」は不確かな資料によるもので、たまたまここに紛れ込んだと見るのが妥当であろう。 初めはこれを命令文として詔に入れようかとも考えたが、「集在国民」に向って言う事柄ではないので断念した。 ただ、民衆への話を終えたところで壇上の臣に顔を向けて、ついでに詔したという解釈ができないことはない。 《大意》 ーーこのように述べて詔を終えた。 既に民には明快で率直な心があり、 国の姿に思いを寄せ、 切に諫めの陳疏〔筋道立った陳述〕を設けられた匱に納めた。 そこで、今集まっている黎民〔人民〕に顕示する。 その上表に申すには、 『国政の要件によって上京した民を、 役人は留めて雑役に使う、云々』と申した。 朕はなおこれに心を痛めているが、 民はこの朕の心の思いを至すことがあろうか〔反語〕。 しかし、遷都してまだ日が浅く、むしろ〔まだ住むことができず〕客のようなものである。 この故に、あなたたちに労役を強いることをせざるを得ない。 思いは常にこのことにあり、未だに全く安眠できない。 朕はこの上表を見て、喜び嘆いて安らごうとしても難しい。 よって、諫められた言葉に随うことにした。 諸所の雑役を中止せよ。 以前の詔では 『諫める人は名を記せ』と言ったが、その詔には随わなくてもよい。 今は、〔諫める人が〕自ら利を求めることはなく、まさに国を助けようとしている〔ことが分かった〕。 〔名を〕記すのは不要だと言わなければ、朕を諫めるならいは廃れ、忘れ去られるであろう。 また、集まった国の民に詔する。 訴えは多くきている。 今まさに理(ことわり)をもって解決しようとしている。心を明るくして宣ずることを聴け。 疑いを決しようと思って、京に入り朝廷に集まった人たちは、 暫くは帰らずに、朝廷に集まるようにせよ。」 高麗、百済、任那(みまな)、新羅は、 そろって使者を派遣して、調賦を貢献しました。 二十二日、 天皇(すめらみこと)は子代(こしろ)の離宮から〔飛鳥板蓋宮に〕戻られました。 15目次 【大化二年三月二日】 《詔東國々司等》
「詔東國々司等」と言いながら、 詔冒頭の「群卿大夫及臣連国造伴造幷諸百姓等」に、国司は明示されていない。 未だ「国司」の制度は定着していないことの現れか。 ただ東国の国司の行状をやり玉に挙げて、広く官民を諫めるねらいだったとする解釈も可能である。 または、単に詔の冒頭の定型文なのかも知れない。さらにはここでは書紀が付け加えたことも考えられる。 《我皇祖等共卿祖考》 一般的に詔は本題に入る前に、まず原則を格調高く掲げる。 ここでは、初めに国政は天皇単独では不可能で、これまでも臣の祖先と力を合わせて成し遂げてきたと述べる。 だから臣たちは天皇と一体でなければならない。 ところが、今回それに反して良家の出身者が法令を守らないことが起きた。これは由々しきことだという論理展開になっている。 なお、「皇」の字は原詔にはなかったかも知れない。もともとは「祖考」と字数を合わせるために「祖」に「等」を加えたと考えられるからである。 《東方八道》 東方八道は、「五畿七道」の「道」〔東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道〕とは概念が異なる。 〈崇神段〉には、「東方十二道」が出てきた(第113回)。 東山道に沿った十二国〔国造レベルか〕を「東方十二道」とする呼び方があったと思われる。 ここの「東方八道」も同様であろう。 なお、「東山道十五国都督」という言い方も見える(〈景行天皇紀〉五十二年)。 『国造本記』で東山道を見ると、陸奥国こそ細分化されているが、 それを除くと「淡海国造・額田国造・三野前国造・三野後国造・裴陀国造・上毛野国造・下毛野国造・科野国造」がある。 ちょうど八国造であるが、「東方八道」との一致は偶然であろう。 これらの国造の規模は、郡よりも律令国に近い点が注目される。 東山道には古墳時代から広い領地を有してがっちり統治されたクニがあり、新たに派遣された国司はそれだけ手を焼いたことが考えられる。 よって、このような詔が出されることになったのかも知れない。 《良家大夫》 郡司は現地の国造をそのまま任命した。 それに対して国司の「以二良家大夫一使レ治二東方八道一」は、中央から派遣したことを示唆する。 地方政治の実質を担うのは依然として郡司(国造)であり、国司は監視役であろう。 「国司」は後の律令国の四官に繋がるから、複数の郡をブロックとして監督したものと考えられる。中国の刺史に似るか。 その意味では、古訓で国司をクニノミコトモチと訓むのは当を得ている。
「二人違令」は上毛国・下毛国が怪しい。古くから大和政権に対して反抗的で、〈安閑〉朝では監視のために緑野屯倉が置かれた。 現地の国造は、いきなり中央からやってきた国司の命令などどこ吹く風であろう。 やむを得ず国造に妥協した場合でも、国司が「違令」したことになってしまう。 《孰敢不正》 「中国哲学書電子化計画」で検索すると、『論語』〔戦国〕「孔子對曰:政者正也。子帥以正。孰敢不正」、 『史記』〔前漢〕「孔子不云乎:子率而正。孰敢不正」が見つかった。 前後の文はまるで異なるので、書紀が古文献を丸ごと利用して偽作した可能性は低い。 原詔または書紀において、これらを断片的に利用したことは考えられる。 《正》 〈倭聚名義抄〉では、正の訓みに「タタス」がある。 〈時代別上代〉は見出し語にはタダスを立てないが、 形容詞タダシの項で、「令義解に「古記云、奏弾式条、未知訓方答、多多志麻乎須」(公式)と見えるタダシは、「弾正台」とあわせ考えて、動詞正ス(四段)の連用形に当たる」と述べる。 〈倭名類聚抄〉に「職員令弾正台:和名太々須豆加佐」とある。大宝令あるいはそれ以前の弾正台を設立したときから、当時の倭語タダスによってこう呼ばれていたと考えられる。 一方、古事記の伊邪那岐命の禊の場面(第43回)で、「直二其禍一而所レ成神」〔マガを直すために現れた現れた神〕の神名に、 神直毘神〔かむなほびのかみ〕、大直毘神〔おほなほびのかみ〕がある。 これに倣えば、動詞「正」の訓にナホスを用いることもできよう。 ただ、〈倭名類聚抄〉の「弾正台:タダスツカサ」を見ると、記紀が書かれた時代において、訓みにナホスを用いようとするのは既に古い感覚だったと想像される。 《不自正》 「不自正」を繰り返し使い、国司に任じられた者はまず自分自身に厳しくあれと激しく叱責する。 「良家大夫」、すなわち選りすぐりのエリートを派遣したはずなのに何たるさまだと、苛立ちを隠さない。 東国においては在地氏族は海千山千で、都育ちの若い国司は脅しや賂で翻弄され、簡単に丸め込まれてしまうのであろう。 《受殃》 殃はさわり、たたりの意。受殃の訓読はツミナフ〔罪を与える;四段〕の受け身形がよいだろう。 四段活用につく受け身の助動詞はユ、ルで(いずれも下二段)、ユの方が古いとされている。 《大意》 三月二日、 東国の国司(くにのつかさ)らに詔(みことのり)して曰く。 ――「ここに集える群卿大夫(まえつきみたち)及び、 臣連(おみむらじ)国造(くにのみやつこ)伴造(とものみやつこ)と併せて諸々の百姓(ひゃくせい)たちは、 皆聞くべし。 君(きみ)は天地の間にあって、 万民を宰(さい)するにあたっては、 独りで制することはできず、臣(おみ)の翼賛を用いることが必要である。 これにより、代々の我が皇祖は、 卿たちの祖先と共に、力を合わせて治めてきた。 朕はまた神護の力を蒙(こうむ)りたいと願い、 卿たちとともに治めてきた。 そこで、先に良家の大夫(まえつきみ)に、 東方八道を治めさせた。 その結果、国司の任を受けたうち 六人は法を遵守〔=順守〕し、 二人は令に違反し、 批判と称賛の声をそれぞれに聞く。 朕は、その法を順守したことは褒めて、この令に違反したことは貶(おとし)める。 凡そ統治する人は、君にせよ臣にせよ、 先ず自身を正して、その後に他を正すべし。 自ら正さざるが如くして、どうして人を正すことができるか〔反語〕。 これにより、 自ら正さざる者は君臣の区別なく、 罰せられるべきである。 慎しまないか〔反語〕。 あなたたちが率先して正せ。誰が敢えて正すなというか〔反語〕。 今こそ、先の勅を遵守して処断せよ。」 まとめ 櫃鐘の令のうち、櫃令の内容は明快である。 しかし、鐘令の方は誰がどのタイミングで撞くのか、疑問の余地なく読み取ることは困難である。 原文を突き詰めて検討し、もっとも明快だと考えられる読み方を求めた。 その結果、どうやら詔とは別の伝説:「朝廷を諫めたい人が訪れて鐘を衝く」が紛れ込んでいるようである。 それでも、二月戊申詔自体は存在したと考えたい。 そして原詔では「當憂訴之人可撞鍾」となっていた部分が、伝説に惑わされて「憂訴之人當可撞鍾」に変えられたのではないだろうか。 大化二年前後にはいくつもの詔があり、かなり長文のものもある。 ここで〈欽明紀〉を振り返ると、数多く引用された百済側の文書は、王族が倭に逃れたときに持ち込まれたものと考えた(〈欽明〉十五年十二月)。 〈孝徳紀〉においても、詔の原本または写本が相当数残っていて、書紀に用いられたと判断してよいだろう。 二月戊申詔で読み取りが難しい部分も、原詔がその形であった故と思われる。 そのような箇所は書紀も読み誤り、訂正したつもりが逆に誤りを生んだことが考えられる。 三月甲子詔も原詔の形を相当程度残したもので、当時の現実を反映したと考えてよいだろう。 そこからは、東山道に国司を派遣して統制しようとしたものの、思うに任せない様子が伺われる。 |
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2023.05.09(tue) [25-08] 孝徳天皇8 ▼▲ |
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16目次 【大化二年三月十九日】 《詔東國使等》
①は、ともに地方政治の私物化である。その具体例を両者で2通り示した形になっている。 《穗積臣咋など》 登場人物の氏族を、記紀や〈姓氏家系大辞典〉から見る。
「其所犯」は「ソノヲカセルトコロ」と訓みたくなるが、形式名詞のトコロは漢文訓読体から生じた用法で、 上代にはまだなく、意味は"place"のみであったと思われる(〈皇極〉三年正月《所懐》)。 《悔還物而不尽与》 穗積臣咋は「百姓中毎戸求索」:すなわち、任地に私的な税制を作って農民から徴収した。 しかし「悔還物」:農民の猛反発、もしくは朝廷からの指導があったので反省して返した。 しかし、「不尽与」:全部は返さなかったと読める。 冒頭にあるのがこの件だから、国司が領主然として独自の税制を敷くことが最大の過ちとされていたのであろう。 班田収授法によれば田税は国家に直接納めるもので、国司であってもそこから食封または帛布を賜るのである。 《其介二人之過者》 「介」(すけ)は国司の四等官における第二の役職である (資料[24]【国・郡】)。 原義は、補佐を意味する介(スケ)と見られるが、この時代はまだ原義に近いかも知れない。 「二人之過者不レ正二其上一」の「上」は直感的に「上で書かれた~」に見えるが、だとすれば縦書きだから「右」を使うであろう。 実際、万葉では「右注」というように、「右一首」などと表す。 「上」(カミ甲)は、「守」(カミ甲)の語源だから、ここでは職名「守」の意を含むかも知れない。 この時代は「守」が「上」と表記されていた可能性もある〔以下、ひとまず"守"を用いる〕。 「其」は指示語で、「其介」は「その守の介」、「其上」は「その介の上」というわけである。 《取田部之馬》 田部や国造から取った物品として、馬がでてくるから、良馬には財産価値があったことが分かる。 介による「取国造之馬」が守が主導した「取田部之馬」の実行を担当したという意味なのか、守と介それぞれの別件を述べたのかは分からない。 「奪」ではなく「取」だから私税の一環か。あるいは国造が国司の歓心を得るための、贈賄とも考えられる。 《大意》 〔大化二年三月〕十九日、 東国より朝集した使者らに詔を発しました。 ――「集まり近侍する群卿大夫(まえつきみたち)及び国造(くにのみやつこ)伴造(とものみやつこ)、 併せて諸々の百姓等は、皆聴くべし。 去年八月に、朕は自ら教示した。 ――『官の勢いによって公私の物を取ってはならない。 部内の食物を食すべし。 部内の馬に騎乗すべし。 もし教示に違えば、 次官(すけ)以上はその爵位を降し、 主典(ふみひと)以下は鞭杖の刑を定めよ。 自己に入れた物は、二倍を徴収せよ』と。 詔は、既にこのように発した。 今、朝集した使者と諸国の国造らに、 『国司は任地に就き、教示を尊重したか否か』と問うたところ、 朝集した使者たちはつぶさにその状況を陳述した。 穂積(ほずみ)の臣(おみ)咋(くらう)の犯した所は、 百姓の中の戸毎にものを求め、 その後悔やんで返したが、すべては与えなかった〔=返さなかった〕ことである。 その介(すけ)富制(ふせ)の臣【名前不明】と 巨勢臣(こせのおみ)紫檀(したに) 二人の過失は、 守(かみ)を正さず云々、という。 凡そ以下の官人には、皆過失がある。 巨勢(こせ)の徳祢(とくね)の臣の犯した所は、 百姓の中の戸毎に物を求めて、 その後悔やんで返したが、すべては与えず、 また、田部の馬を取ったことである。 その介朴井(えのい)の連(むらじ)と 押坂(おっさか)の連【ともに名前不明】 二人は、 守を正さず、 却って共に自身の利を求め、 また国造の馬を取った。 台(うてな)の直(あたい)須弥(すみ)は、 初めは諫めたが、遂に同じく汚れた。 《紀麻利耆拕臣等所犯》
紀麻利耆拕臣以下の氏族を見る。 《紀麻利耆拕臣》 それぞれの段落の第一文につけられた「所犯者」によって、区切りが示される。登場人物は次のように整理される。
小緑臣以下の六名は平群臣の関係者かも知れないが、その他の「守」を列挙したのかも知れない。 紀麻利耆拕臣のところの「官人」の多くが無姓であるのに対し、こちらには臣・連姓がつくからである。 ここでは「介」2人制となっているが、『令義解』では大国・上国について介1人、中国・下国では介0人である(資料[24]【国・郡】;『国史大系』第12巻)。 書紀の「改新詔」が大宝令を遡らせて潤色されたと安易に言えないことは、ここからもわかる。 《朝倉臣井上臣》 紀麻利耆拕臣段は、他に比べて具体的で字数も登場人物も多い。紀麻利耆拕臣と朝倉臣・井上臣との関係は、時代劇における悪代官と悪徳商人との関係を想起させる。 とくに朝倉臣は、良馬の鑑賞機会を設け、また太刀・弓・布の賄賂を贈ったのは賄賂と見られる。 紀麻利耆拕臣もそれに応えたと考えられ、兵代(つはものしろ)を横流しした先に朝倉臣も含まれていると思わせるものがある。 両臣は現地氏族で、国造配下と思われる。〈姓氏家系大辞典〉が、朝倉臣と井上臣を上野国の氏族であると推定していることは注目される。 上野国・下野国が蝦夷に向かう前線にあたることも、「兵代」の送り先に合致する。 現地氏族が中央から派遣された国司に触手を伸ばし、篭絡しようとした様子が見て取れる。 大化二年三月甲子条において、東方八道に派遣した国司のうち「二人違令」に該当するのが上野国・下野国であろうと考えたが、それもここに符合する。 「其紀麻利耆拕臣所犯者」段で、関与した官人を敢えて洗いざらい列挙していることは、朝廷が事態を深刻に捉えていたことの現れではないかと思わせるものがある。 《兵代》 チカラシロ(庸)に倣えば、「兵代」〔ツハモノシロか〕は武器または軍役に替わる調〔布など〕の意となる。 《不明還主》 「不明還主妄伝国造」の「主」を、大化元年八月庚子詔の「可尽数集其兵而猶仮授本主」の「本主」と解釈する説を見た。 その「兵」はここでは武器と見られる。そして「本主」は、国司・郡司から独立した氏族軍の長であろう。 「兵代」は、武器を購入するための通貨となる布などであろうか。 その兵代は現に蝦夷と相対している氏族に渡るように指示されていたが、それを理解せず〔あるいは意図的に隠蔽して〕恣意的に国造を選んで渡した。 それが「不レ明二還主一妄伝二国造一」だと読める。 《被他偸刀》 「「被」は西晋のころ動詞から前置詞に転化し、独自の構文を作るようになった」(『漢辞海』)という。 その構文は、「被-〈能動者〉-〈動詞句〉」〔be 〈動詞(過去分詞)句〉by〈能動主〉〕。 よって「被他偸刀」=「被偸刀於他」である。 《癬亀》 〈時代別上代〉は、癬がクヒカメと訓むことを示すために、癬に亀を書き加えたと見ている。 原注の訓が癬と亀の間に置かれたのはそのためかも知れない。 病名としての癬は、〈倭名類聚抄〉に「癬:俗云錢加佐〔ぜにかさ〕」とある。 《安曇連》 一応、安曇臣は和徳史の窮状を見て公のものを送り、その私用のために国造を使ったと読める。 改新詔には国造から郡司を取り立てよとあるが、出て来るのは国造ばかりだからまだ郡司の任命は進んでいなかったのかも知れない。 《言於国造使送官物》 言於国造使送官物は、次のどちらにも読める。 ① 言三於国造使一「送れ二官物一」。 ② 言三於国造一「使めよレ送二官物一」。 前の文に「其阿曇連所犯者:和徳史有所患時…」は、国司阿曇連(闕名)が、和徳史が困っている〔または病気〕ことを知って…と読める。 すると「言於国造…」は、「官物」を和徳史に送れと国造に言ったと読むと文意が通る。よって②であろう。 なお、「言二於国造一、使レ送二官物一」と返り点を付けた例も見る。これなら和読は自然であるが、文法的にはあまりよくない。 動詞「言」は目的語をとるべきだからである。 《膳部臣百依》 膳部臣百依は安曇連の介とされるが、その過ちは「不正其上」ではなく別件である。 「草代之物」を横領し、また国造の馬が気に入ったから取り上げて乗り、替わりに駄馬を与えたようである。 《草代之物》 草代は、クサシロだと思われるが、諸辞書には見えない語である。参考になるのは、 『令義解』厩牧令の「其調草正丁二百囲」である。〔これは、改新詔の《凡官馬者》の項で見つけたもの。〕 これを見ると、飼葉は庸(ちからしろ)〔庸役の代わりに納める調物〕のひとつである。 これを参考にすると、草代は、飼葉の代わりに納める布(など)だと理解することができる。 《大市連》 大市連は、前詔の「国司等莫於任所自断民之所訴」に違反したとする。 確認すると大化元年八月庚子詔は「国司等在国不得判罪」で、文言は多少異なるが全く同じである。 《涯田臣》 他の守については「所犯者」だが、涯田臣だけは「過者」である。確かに太刀を盗まれたが、過失の程度は軽いのかも知れない。「不謹」は「不注意」の意味か。 《小緑臣~田口臣》 涯田臣の官刀の盗難は「不謹」〔恐らく不注意の意〕とされ、そこに六名もの関係者を挙げるのは大袈裟かと思われる。またこの事件関係なら「其」を付けたであろう。 よって仮に小緑臣・丹波臣・忌部木菓・中臣連正月・羽田臣・田口臣も守だとすれば、守の人数は穂積臣~平群臣で13名、そこに別項で褒められた塩屋鯯魚以下6名を併せると19名となる。
当時の東国の範囲の国数は概ねこの数であろうから、小緑臣~田口臣はそれぞれが守だと見るのがよいであろう。 《平群臣》 平群臣は「所訴有而未問」なる怠慢の責任を問われた。 一方、大市臣については、「莫於任所自断民之所訴」が「所犯」であった。 これらを併せると、国司は告訴を受理して審理せねばならず、ただその判決については中央に使者を送って判断を仰ぐべしということになる。 《三国人》 「三国」は〈倭名類聚抄〉の地名にはないが、『国造本記』に「三国国造」。 〈延喜式-神名帳〉に{越前国/坂井郡/三島神社}があるから、比定地はこの辺りか。 また〈継体帝〉の出身地とされる(〈継体〉元年)。 《大意》 凡そ以下の官人には、皆過失がある。 巨勢(こせ)の徳祢(とくね)の臣の犯した所は、 百姓の中の戸毎に物を求めて、 その後悔やんで返したが、すべては与えず、 また、田部の馬を取ったことである。 その介朴井(えのい)の連(むらじ)と 押坂(おっさか)の連【ともに名前不明】 二人は、 守を正さず、 却って共に自身の利を求め、 また国造の馬を取った。 台(うてな)の直(あたい)須弥(すみ)は、 初めは諫めたが、遂に同じく汚れた。 凡そ以下の官人には、皆過失がある。 紀の麻利耆拕(まりきた)の臣が犯した所は、 人を朝倉の君と 井上(いのうえ)の君二人のところに遣わして、 その馬を牽いて来させてこれを鑑賞した。 また、朝倉の君に太刀を作らせ、 朝倉の君から弓と布を得て、 国造あてに送らせた兵代(つわものしろ)の物を、 渡すべき主を明らかにせず、みだりに国造に渡したことである。 また、赴任した国で他人に太刀を盗まれ、 倭国〔大和国〕でも他人に太刀を盗まれた。 これは、その紀の〔麻利耆拕〕臣、 その介(すけ)三輪の君大口と 河辺の臣百依(ももより)らの過失である。 以下のその官人、 河辺の臣磯泊(しはつ)、 丹比(たじひ)の深目(ふかめ)、 百舌鳥(もず)の長兄(ながせ)、 葛城(かつらぎ)の福草(さいぐさ)、 難波(なにはの)の癬亀(くいかめ)、 犬養の五十君(いきみ)、 伊岐(いき)の史(ふみひと)麻呂(まろ)、 丹比(たぢひ)の大眼(おおめ)、 併せて八人には、皆過失がある。 阿曇(あずみ)の連【名前不明】の犯した所は、 〔和〕徳(わとく)の史(ふみひと)が困っていた時に、 国造に言って官物を送らせ、 また湯部(ゆえべ)の馬を取ったことである。 その介、膳部(かしわで)の臣(おみ)百依(ももより)が犯した所は、 草代(くさしろ)の物を家に収め置き、 また国造の馬を取って他の馬と交換してやって来たことである。 河辺の臣磐管(いわつつ) 湯麻呂(ゆまろ)の 兄弟二人にも、また過失がある。 大市(おおいち)の連【名前不明】の犯した所は、 以前の詔に違反したことである。 その詔とは、 『国司たちは、 任地で自ら民の訴えを裁いてはてはならない』であった。 この詔に違反して、 自ら 菟礪(うと)の人の訴え、及び中臣の徳(とく)の所持する奴婢の事を裁いた。 中臣の徳も、 また同罪である。 涯田(きしだ)の臣【名前不明】の過失は、 倭国〔大和国〕にいたときに官刀を盗まれたことで、慎重さを欠く。 小緑(おみどり)の臣と 丹波(たんば)の臣、 この者たちは拙(つた)なかっただけで、罪はない【二人は名前不明】。 忌部(いんべ)の木菓(このみ)と 中臣の連正月(むつき) 二人には、また過失がある。 羽田(はた)の臣と 田口の臣の 二人は、ともに過失はない【名前不明】。 平群(へぐり)の臣【名前不明】の犯した所は、 三国(みくに)の人の訴えを受け取ったまま放置し、未だに問わないことである。 これらを見るに、 紀の麻利耆拕の臣、 巨勢の徳祢の臣、 穂積の咋の臣、 あなたたち三人の怠慢と稚拙である。 《念斯違詔》
「凡諸国司隨過軽重考而罰之」、すなわち、国司にはその程度に応じて罰則を与えるべきという。 国司の「所犯」の具体例としては、農民への私的な課税や、国造からの収賄が挙げられている。 《諸国造違詔》 「諸国造」は「送財於己国司」〔自分の土地に赴任した国司に財物を送り〕、「遂倶求利」〔国司と共に利を得る〕と述べる。 すなわち、国造が国司に賄賂を贈り、有利に取り計らってもらおうとする現実がある。 《国司と国造》 農民は生産物の一部を統治者に納める。これまでは納税先は国造であったが、 そこに国司が加わり、新たな納税先となった。〔ここでは、統治者への上納を税とする〕 班田収授法の建前としては、納税先は国家に一元化され、国司も国造〔郡司に移行〕も公から食封を賜る立場となる。 しかし、それが機能する以前の段階ではこれまで国造だけだったのが、国司が新しい納税先として加わることになる。 国造へのこれまでの納入がそのままなら、国司への分だけ農民の負担は増加する。 逆に農民負担の総量を維持しようとすれば、国造の取り分が削られる。 前者ならば国家と農民の対立は激化し、農民を宥めようとすれば国司の私税行為を罰せざるを得ない。 後者ならば、国造は既得権益を守るために国司に賄賂攻勢をかけることになる。これも政を歪めるものとして罰せざるを得ない。 このままでは上位官人は次々と更迭され、下位官人や人民の獄囚・流人は増加する一方である。 但し、一方で「罪無」、さらには「奉順天皇」として褒められた国司もあり、特に畿内に近い地域では比較的統制が効いていたのではないだろうか。 そこでは班田収授法の初歩的な運用が始まり、税収は官が一括管理し、国司・郡司はそこから「食封/布帛を賜る」形が進みつつあったのかも知れない。 その点からも、朝倉君・井上君を上野国の族とする説には頷けるものがある。 《於農月不合使民》 於農月不sh利絵合レ使レ民は、十七条憲法 第十六条の 「冬月有間以可レ使レ民、従レ春至レ秋農桑之節、不レ可レ使レ民」を指す。 難波宮の建造は大事業であるから、やむを得ず違反するという。 《大赦》 班田収授法および食封・布帛制が未実施なままの国司制は、国造と百姓の反発を招き、国司は中央との間で板挟みになり、また賄賂が横行するのは必然である。 このまま取り締まりを厳しくすれば罪人を増やすばかりで、ゆくゆくは反中央勢力による叛乱を招きかねない。 よって、中央政権は遂に大赦令を発するところまで追い詰められた。新都の建造に朝廷と諸族、人民が一体にならなければならないからというが、これは名目であろう。 蘇我蝦夷らを滅ぼして体制を一新してから、まだわずか半年である。日付をかなり詰めたのは書紀による潤色かも知れないが、 だとしても明らかに急ぎ過ぎである。大化改新は早々に頓挫した。 大赦令を出してしまったから、現地における国司と国造の税収の配分の相談は当面黙認される。 そもそも班田収授法は、戸籍の整備抜きでは実施不可能である。これからは、地道に進められることになろう。 ちなみに庚午年籍の成立は、24年後の670年まで待たねばならない。 ただ「於脱籍寺…」の一文からは、畿内に於いては既に一定程度戸籍作りが進んでいると見ることができる。 《放捨》 放捨の「放」は解放である。「捨」には、仏教の「喜捨」に通ずる言語感覚がある。 古訓「放捨」でも十分であるが、ニュアンスから細かな凹凸が削られる。 《塩屋鯯魚》 塩屋鯯魚以下の氏族を見る。
「宜罷」の対象は、各地の「官司の屯田」と「吉備嶋皇祖母の貸稲」である。 それらの水田を「班二-賜群臣及伴造等一」という。 国司・国造・そして百姓に厳しく当たったことへの反発は、大きかったであろう。そして、官や皇族は未だ広大な所有しているではないかという批判にさらされていたことは、想像に難くない。 よって、このような融和策を取らざるを得なかったわけである。 《屯田》 屯田は、わが国ではもっぱら明治時代の「屯田兵」に用いられるが、もともとの意味は、 「利三-用戍卒或農民、商人墾二-殖荒地一。 漢以後歷代政府沿用二此措施一取二-得軍餉和税糧一。有二軍屯、民屯和商屯之分一」 〔軍卒、農民、商人が荒地を開墾入植して利用した田。 漢代以後の歴代政府はこれを軍人の報酬、税に用いた。軍屯・民屯・商屯の区別がある〕とされる(〈汉典〉)。 大化二年三月辛巳詔では、官田〔朝廷もしくは官庁が所有する田〕を意味すると見られる。古訓ミタ〔御田〕は朝廷あるいは政府組織の直轄田の意味であろう。 《吉備嶋皇祖母》 続けて翌日の壬午条では、中大兄皇子がその祖父の彦人大兄皇子から受け継いだ「御名入部及び其の屯倉」(別業であろう)を、返上したことが語られる。
小墾田皇女自身も広い別業をもっていただろう。父敏達天皇、母推古天皇から引き継いでいたと考えられるからである。特に推古天皇は、各地の別業のことが書紀に書かれている。 そこに、彦人大兄皇子の遺領が加わったのである。吉備嶋皇祖母はその別業をいくつかに分けて貸し出し、 それが「吉備嶋皇祖母処々貸稲」と呼ばれたと思われる。その部民から賃料〔私税〕を徴収していたのであろう。 皇祖母尊(〈皇極〉)は、吉備嶋皇祖母をとても大切にしていたから、その権益を引き継ぐことができたと思われる。 それに対して、吉備姫王は近い世代での天皇・皇子からの血縁は見えない。 この点からは、吉備嶋皇祖母=小墾田皇女説が有力となる。 《班賜群臣及伴造等》 「班二-賜群臣及伴造等一」、すなわち屯田を分割して群臣や伴造に下賜した。せっかくスタートした班田収授法が早くも後退したように見える。 ただし、名目を班田からの税収を原資とする食封とすれば、班田収授法の制度内で実質的に群臣伴造の所有にできる。 班田を耕作する農民にとっては、税の納入先が官から群臣伴造に変わるだけである。 しかし、まだ戸籍が整備されていない国では、住民のリストは群臣伴造が私的に握っているだけだから、まだ戸口は私有のままである。 「班賜群臣及伴造等」の実態は、今のところこのようなものであろう。 《於脱籍寺入田与山》 文法的には、「於脱レ籍寺入二田与山一」以外にその読み方ない。 「籍(ふみた)を抜きたる寺」とは、これまで所有していた寺田〔水田と耕作民〕が接収された寺という意味であろう。接収した寺田は班田にあてられる。 まだ多くの寺の所在地は畿内だから、戸籍作りが進み、寺領だったところも遠慮なく班田にしたようである。 「入二田与山一」は、その補償措置として新たに自力で開墾した田の所有は認めてやろうということであろう。 寺は不満であろうが、結果的に耕作面積が広がり、農業生産の総量は増える。 寺には自力で屯田を開発する逞しさがあったようである。寺がその技術集団を抱えていたことは注目に値する。 官はいつも自分の手を汚さない。 《大意》 この詔への違反を思うとき、心を悩まさないことがあろうか。 君臣となって民を養う者は、 自ら率先して正せ。誰が敢て正さないことがあってよいか。 もし君、或いは臣が、 心を正さなければその罪を受けるべきである。 過ぎたことを追って悔やんでも、どうやって及ぶのか。 よって、凡そ諸国の国司については、 過失の軽重に随って考え、罰しよう。 また諸々の国造は詔に違反して、 財宝を自分の国司に送り、 遂には共に利を求めて、常に穢悪(えお)を考えること、 これを制止しないことなど、あってはならないだろう。 思いはこのようではあるが、新しい宮殿を初めてここに置いたばかりである。 諸神に幣帛を奉る予定は、今年にあたる。 また農業の月に民を使うことはきまりに合わないが、 新宮を作るためには、まことにやむを得ない。 深くこの二つの道を感じとり〔天秤にかけた結果〕、天下に大赦を行う。 今より後、 国司郡司は ゆめゆめ放逸〔=自分勝手〕にするな。 使者を派遣して、 諸国に流された人、及び獄中の囚人を一斉に解放すべし。 これらとは別に、塩屋の鯯魚(このしろ)、 神社(かみこそ)の福草(さいぐさ)、 朝倉の君、 椀子(まりこ)の連、 三河の大伴の直(あたい)、 蘆尾(すすお)の直 【四人は名前不明】、 この六人は、天皇(すめらみこと)に奉順した。 朕は深くその心を褒める。 官司の各所の屯田、 及び吉備嶋皇祖母(きびしまのすめみおやのみこと)の各地の貸稲をやめて、 その屯田を群臣及び伴造(とものみやつこ)等に分け与えるべし。 また籍を抜かれた寺に田と山を入れるべし。」 まとめ 国司という新制度によって、各地で実際に何が起こったのか。それが、この詔を丹念に読むと見えてくる。 まず守の表記は「上」だったかも知れないが、その人数を数えると、国司の国が後の令制国と基本的に同じ地域区分であったことが見えて来る。 国司は、ゆくゆくは徴税と食封の配分を現場で監督する地方行政官となる (雄略四年二月【釈紀:論者曰】項)。 しかし、そもそも戸籍がなければ班田収授法も食封制も成り立たない。この状態では、これまで国造だけだったところに、国司という余計な収奪者が加わったに過ぎない。 必然的に各地の人民に反発が広がり、また国造が既得権益を守るための賄賂が横行して、罪人を増やすばかりになった。 この事態を収拾するために、大赦令を余儀なくされたのである。さらに、大量に所有してしていた貸稲や官田から、一部を群臣伴造に提供して反発を抑えなければならなかった。 ただし、褒められた守の存在や「脱籍寺」なる記述から、畿内およびその周辺から改新詔の実体化が既に始まっていたことが、伺われる。 改新詔は概ね文言通りの形で存在したが、ただその「罷…」や班田収授法はこの瞬間における全面実施ではなく、できるところから着手して長期に亘って取り組まれたのであろう。 改新詔単体で潤色の有無や程度をあれこれ議論していても、実りはない。 むしろ大化二年三月辛巳詔などが赤裸々に述べた現実を参照することによってこそ、潤色の問題についても見極めることができると考えられる。 |
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2023.05.12(fri) [25-09] 孝徳天皇9 ▼▲ |
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17目次 【大化二年三月二十日】 《皇太子曰獻入部五百廿四口屯倉一百八十一所》
「使レ使」は、つまり「遣二使人一」。 「遣」は書紀古訓ではいつもマダスだが、万葉ではツカハスばかりである。 マダスはマヰダスの短縮で、下位から上位に送るニュアンスがある。 それに対してツカハスのスは使役または軽い尊敬の動詞語尾で、上位から下位に送る場合である。その使い分けが宣命に見られる。 ●宝亀七年〔776〕四月壬申/宣命56「朝使其国爾遣之其国与利進渡祁里」 〔朝の使其の国に遣し其の国より進し渡しけり; 進をマダスと訓むのは間違いないであろう。〕。 ただ、上位に送る場合にもツカハスを使うことは差し支えない。何故なら使者の送り主は使者に対して上位だからである。 逆に、下位から上位への場合にマダスを用いるのは、語の成り立ちに反している。 書紀古訓が常にマダスを使うのは一種の流儀だろうが、不適切である。 《混斉天下》 「混斉天下」以下はなかなか意味が取りにくい。 そこで順を追って考えると、「分離失業属天皇」は、誰かが「業」を失い、その「業」は天皇に属するという意味である。 その誰かとは、端的に言って蘇我蝦夷・入鹿のような人物のことであろう。 すなわち「混斉天下而治」とは「臣連与天皇倶而為二天下之政一」を意味する。そして「自二臣連一分離」⇒「臣連失レ業」⇒「業属二天皇一」をまとめて「分離失レ業。属二天皇一」という。 したがって、「属天皇〔句点〕」となるべきだが、古訓は「及逮~万民之運」の間に句点がない(右図)。区切り方に確信が持てず保留したように感じられる。 ちなみに『仮名日本紀』は「属二天皇一」、岩波文庫は「属下天皇……之運上」としている。 《我皇可牧万民之運》 「我皇」は、万葉に見える「ワガオホキミ」〔あるいはワゴオホキミ〕であろう。 次の「厥政惟新」、「慶之尊之」に見えるリズムに祝詞の匂いを感ずるからである。 「牧」=「養ふ」は確定的。 「可」は、天皇主体なら人民に「~をユルス」だが、ここでは意味を考えると人民の意思として天皇に向って「~スベシ」というのであろう。 しかし、「万民之運」が「養ふ」の目的語になり得るかどうかは悩ましい。ただ「運=よいことわるいことの巡り合わせ」を「暮らし」の意味にとれないことはない。 伝統訓では「運」をミヨ〔御世〕と訓み、「万民を養ふべき」を「運」への連体修飾語にしているが、明らかに無理がある。 それに比べれば、「運」を「幸運・不運を巡らす人民の生活」と解釈し、それを「天皇が養ふべし」とする方がまだましであろう。 《天人合応厥政惟新》 ここの「天人」は「天皇と人民」であろう。古訓「アメモヒトモ」もその意と思われる。「合」は「相;お互いに」の意味は明らかである。 「厥政惟新」は「政新」〔まつりごとあらたむ〕に一文字毎の指示詞をつけたものである。 したがって伝統訓のように「合応厥政」・「惟新」を切り離して訓むのはよくない。 《…慶之尊之頂戴伏奏》 以上正確な理解を試みたが、そもそも「昔在天皇等世~」以下は「伏奏」にかかる長い序詞で、儀礼に過ぎないから、正確な意味を追求することにそれほどの意義はない。 それでも、改新詔で述べられた、土地と人民を臣連による私有から国家による所有に移す動きに沿った内容になっている。 それを臣連が失った「業」は、今や「天皇に属す」ことになったと表現するのである。 これは同時に、中大兄皇子が入部と屯倉を返上する意思を表明する言葉でもある。 《大意》 〔大化二年三月〕二十日、 皇太子〔中大兄;天智〕は、使者を送って奏請しました。 ――「昔にいらっしゃった天皇(すめらみこと)たちの御世は、 〔臣連(おみむらじ)も〕混って一斉に天の下を治めてきましたが、 現在に及び、 分離して業を失い【国の政をいう】 〔御業(みわざ)は〕天皇(すめらみこと)に属しました。 我が大王(おおきみ)は、万民の命運をあずかって養いなさるべきです。 天〔天皇〕と人〔人民〕は互いに呼応して、その政(まつりごと)を改めましょう。 その故に、慶(よろこ)び尊(たっと)びて頂戴し、伏して申し上げます。 《天皇問於臣曰昔在天皇日所置子代入部》
宣命01〔文武元年〔697〕八月庚辰〕に、「現御神止大八嶋国所知天皇」、 宣命61〔天応元年〔781〕四月癸卯〕に、「明神止大八洲所知天皇」がある。 いずれも「アラミカミト…」と訓むと思われる。 では両者をミックスして「為」を加えた「現為明神」をどう訓んだのだろうか。その推定は困難であるが、 宣命01は書紀より少し前で、両者の表現が大きくかけ離れることは考えにくい。よって、真相は「現」に傍書された「為明」〔「明にせよ」の意〕が誤って本字に取り込まれたのではないだろうか。 《群臣連》 群臣の古訓は「モロモロノオムノコ」とある。オミノコについては、他に清寧段(第216回)に「淤美能古」がある。これはオミの愛称で、その歌謡中ではからかいを含んでいる。 ただ、一般的には臣連=オミムラジである。 群は確かに「諸」であろうが、臣・連の両方にかかると見るべきであろう。〈内閣文庫本〉のように区切るなら、普通はマチギミタチ〔上代はマヘツキミタチ〕のはずである。 どちらにしても、古訓のオムノコ(オミノコ)は理解し難い。 《入部》
「入部」という語は、この段以外では全く使われなず、他の古文献にも出てこないから訓みの判断は難しい。古訓は「イレルヘヒト」とする。 これは意読で、「イレル=入る(四段)の命令形+完了の助動詞リの連体形」、「ヘヒト=戸口」である。 しかし、万葉の音仮名やさまざまな部の名称が示すように「部=ヘ」の訓みはごく一般的で、「入」に連用形を用いるのも自然である。 訓注もないから、当たり前のように「イリベ」と訓まれたと思われる。 その意味が、御名代に入れられた隷民であることは間違いない。 《彦人大兄》 彦人大兄は、〈敏達段〉(第242回)に「日子人太子」とあるので、 古訓「彦人」は誤写であろう。 《大兄御名入部及其屯倉》 ここでは、現在中大兄皇子が所有している、彦人大兄王の御名代を問題視しているのは明白である。 既に改新詔では、歴代天皇の御名代を「罷(やめよ)」と命じている。 そこに、大兄王の御名代だけを例外扱いはできないという論理構成になっている。 前回、彦人大兄王はかつて広大な別業を所有していて、その一部は妃であった吉備嶋皇祖母※に継承されて「貸稲」され、 一部は中大兄に引き継がれて「大兄御名入部」と呼ばれたと見た。〔※…〈釈紀〉説による(右図)。〕 「屯田」は官が所有する田の意味ではあるが、事実上〈孝徳天皇〉の別業だったとすれば、臣連に賜った分だけ相当やせ細ったことになる。 そこで中大兄皇子が継承していた大兄御名入部を召し上げて、穴埋めしようとしたという見方も成り立つ。 だとすれば、本質は遺産の継承争いに過ぎないことになってしまう。 《以入部及所封民簡充仕丁》 「以入部及所封民簡充仕丁」の入部は、旧来の御名代の隷民を指す。 所封民は、改新詔の「賜食封」の対象と見られる。 以前には〈皇極〉元年是歳条に「封民」があり、これは上宮乳部の隷民を指す。 仕丁は税の一種の労役で、庸(ちからしろ)で代替できることが『令義解』に見える。「仕丁」の初出は改新詔である。 「簡充」は仕丁を連体修飾する。改新詔では仕丁を五十戸ごとに一人出すことになっていて、これが「簡ひ〔=選び〕充つ」の意味であろう。 上宮乳部の文では「封民=入部」だが、「所封民簡充仕丁」全体では改新詔における用語であろう。 すると、古い御名代の用語と改新詔の用語が「及」で結ばれていることになり釈然としない。 もし「及」が動詞〔およぶ〕であって、「以二入部一、及二所レ封民簡充仕丁一」だとすれば一応意味は通る。 もしも「及」が元々「為」だったとすれば、もっとよい。 厳密には詰め切れないが、どうやら入部は返上するが、その民は必ず班田収受法における公民にせよと言っているように感じられる。「従二前処分一」は先に改新詔で定められた制度下での処分に從うと読める。 「自余以外恐私駈役」は、もしそうしなければ私が私有し続けるということかも知れない。〔そう読まないと単に全面的に手放すのを惜しんだことになってしまう。〕。 献上するのはよいが、それが古い形の〈孝徳〉の御名代になってしまうのだけは避けたいのである。 《恐私駈役》 恐私駈役の"恐"について、 〈時代別上代〉は「副詞としてのオソラク(オソルラク)は…上代には確かな例が見えない」と述べる。 よって、読み方は「恐二私駈役一」かも知れないが、どちらにしても上代の「恐れる」の意味は文字通りである。 ここの〈孝徳〉と中大兄の対話は入部全般の処理ではなく、中大兄が所有する大兄御名入部に焦点化されているのは明らかである。 だから「恐私駈役」の主語も中大兄自身で、「自分が私的に使役することになることを心配している」という主旨である。 「自分が~なるのを恐れる」という婉曲的な物言いは、相手に遠慮したり、時には脅しに使われる。要するに、公民にしないのなら入部の返上には応じられないと言っている。 つまり、中大兄は〈孝徳〉からの要求に対してかなり強気な対応をしているのである。 《故献入部》 「故献入部…」は中大兄が主張したことに〈孝徳〉の同意が得られたことを受けて、入部と屯倉を献上したと読むべきであろう。 「臣…答而曰「…恐私駈役」」は過去の会話を記したものと読みたい。 《大意》 現為明神御八嶋国(あらみかみとおおやしまのくにをしらす)天皇(すめらみこと)は、 私に問われました。 ――『群臣・諸連、及び伴造(とものみやつこ)国造(くにのみやつこ)の所有している、 昔天皇が在位した当時に置いた子代(こしろ)の入部(いりべ)、 皇子たちが私有する御名〔代〕(みなしろ)の入部、 皇祖大兄(おおえ)の御名〔代〕の入部 【彦人大兄をいう】 及びその屯倉(みやけ)を、 今なお古代のように置くか否か』と。 私は、よって恭(つつし)んでお言葉を承り、このようにお答えしました。 ――『天に二つの太陽がないように、国に二人の王(きみ)はいらっしゃいません。 この故に、天下に兼ね併せて万民を使われるべきは、 唯天皇(すめらみこと)のみです。 特に、 入部を、〔班田収授法上の〕封民、簡充の〔=課せられた〕仕丁(つかえのよほろ)にしていただくということなら、 先の処分に従います。 それ以外なら、恐れるのは私的な駈役になる〔=自身の入部にせざるを得ない〕ことです』。 よって、入部五百二十四人、 屯倉(みやけ)百八十一箇所を献上いたします」。 まとめ 中大兄は、〈孝徳〉が改新詔の実施にあまり熱意がないことを危惧しているように感じられる。 この段では「以入部及所封民」の「及」を「為」の意味にとったが、これに完全な確信があるわけではない。 しかし、「恐私駈役」の言葉には班田収授法実施への強い志向が伺われるから、 やはり全体としては「皇祖大兄御名入部」を返上するのは差し支えないが公民にすべきで、決して〈孝徳〉の御名代にはするなと釘を指したものと読める。 改新詔は中大兄が強力に主導したと見られ、さらに磨き上げて〈天智天皇〉の近江令に繋がる。 |
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⇒ [25-10] 孝徳天皇(4) |