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2023.03.25(sat) [25-04] 孝徳天皇4 ▼▲ |
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9目次 【大化元年八月八日】 《喚聚僧尼而詔》
「大寺之」が詠み込まれた万葉歌(0608)は短歌なので、音数から訓みは大寺=オホテラが確定する。この歌では一般名詞である。 「諸寺」ではないので、一つの中心的な寺に各寺の僧尼を集めて詔を伝達したことが確定する。 その「大寺」には法興寺が相応しい。しかし法興寺の異称に大のつくものがないことを考えると、百済大寺(【百済川側九重塔】)の略と見るのが妥当か。 百済大寺は、移転した後も引き続き大官大寺と呼ばれる。 《欽明天皇十三年》 〈欽明〉十三年十月に「百済聖明王」から 「献二釈迦仏金銅像一躯幡蓋若干経論若干巻一」されたとある。 仏教の導入については、蘇我稲目宿祢大臣が肯定派、物部尾輿大連や中臣鎌子臣〔〈皇極紀〉以後の鎌子とは別人〕は否定派であった。 天皇は、稲目に「試令二礼拝一」と命じた。 《大倭》 書紀の用字法によれば、ここの「大倭」には「日本」をあてるべきである。大倭では、「大和国」〔後の律令国〕になってしまう。 〈孝徳〉の詔の原文が遺っていて写したのだとすれば、見落とされた可能性がある。 これをそのままヤマトと訓むと「大和国」の意味になってしまうから、古訓がミカドと訳したのは一つの見識ではある。 《敏達天皇》 〈敏達〉朝では、仏教十四年に大弾圧を受け、 馬子宿祢のみ例外的に仏法への帰依を許された。 馬子の「追遵考父之風」に相当する部分は、書紀よりもむしろ『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』〔以後〈元興寺縁起〉〕の中にある。 その〈敏達天皇〉癸卯年〔583〕に 「稲目大臣子馬古宿祢 得二国内交筮一問時言二是父世詞神心也一 時大臣恐懼而願レ弘二仏法一」 〔馬子宿祢は、全国の巫に神言を求めさせたところ、父稲目の言葉が神の御心によることを知った。 そして、父を受け継ぎ仏法を大いに広めたいと思った〕と書かれている。 《追遵》 追、遵ともに「従う」意味があるので、追遵をまとめてシタガフと訓むことができる。 ただ、「追遵考父之風」はその次の「猶重能仁之教」と対になっていて、「猶重」は副詞+動詞であるから、 「追」を副詞的にオヒテとして分割すべきかも知れない。〈内閣文庫本〉はそのように訓んだと見られる。 《能仁之教》 能仁之教を「能仁世之教」とする異本がある。〈内閣文庫本〉の「世○」につけた丸印は、衍字〔余分な字〕の意味であろう。 能仁については、万葉集(万)0794の題詞に「有懐染疾之患。釈迦能仁坐於双林。無免泥洹之苦。故知」とある。 釋迦牟尼はサンスクリット語「Śākyamuni」を音写したもので「釈迦族の聖者」を意味するという。 そのmuniを能仁と訳したことについては、muniをmauna〔静寂〕にあてて「能仁寂黙」とし、さらにこれを略したという説を見るが、しっくり来ない。 一方、〈汉典〉は百度百科から引用として「梵語的意訳。即、釈迦牟尼。意為下有二能力与仁義的一者上。」 〔サンスクリット語を音写した「釈迦牟尼」の意訳で、「能力と仁義を有する智者」の意〕 とあり、この方が分かりやすい。 漢籍を見ると、『新書』〔前漢〕に「其母曰「無憂、汝不死。吾聞之『有陰德者、天報以福。』」人聞之、皆諭其能仁也。」 〔母は「心配するな、お前は死なない。陰徳を積めば天は報いて福とすという」と言った。人はこれを聞き、皆その能仁なることを知った〕 この場合は一般的に「能(よ)く仁す」または「能あり仁ある」を意味し、釈尊に限らない。 一方、全唐詩808巻に「我奉二能仁教一、帰二-依弥勒前一。」とあり、この文の「能仁」は確かに釈尊のことである。 文脈によっては単に能+仁を指す場合もあるが、殆どは「能仁」=「釈尊」と見てよいだろう。 《推古天皇》 〈推古〉十三年に「始造銅繡丈六仏像各一躯」とある。 そこには、天皇、太子、馬子大臣をはじめとして諸王諸臣の共同の発願による事業と描かれている。 〈元興寺縁起〉(j)には、 「敬二-造丈六二軀一」、「所造二寺及軀丈六丈」とある。 〈元興寺縁起〉の基調は〈推古天皇〉への讃辞であるから、当然〈推古〉の主導と描かれる。 しかしこの大化元年八月の詔では図らずも馬子宿祢が奉納したと述べ、さらに太子の影も見えない。 この詔が実際に〈孝徳〉が発した原型に近いとするなら、飛鳥寺は蘇我馬子大臣の氏寺であり、 また太子はまだそれほどの崇敬の対象ではなかったというのが、〈孝徳朝〉当時の認識であったのかも知れない。 《丈六繡像丈六銅像》 繡仏については、〈元興寺縁起〉(k)でも言及された。 ただし、「繡〔仏〕」が置かれたとする八角円殿は、実際には飛鳥寺跡には見つかっておらず、記述には混乱がある。 とは言え、大化元年の「造丈六繡像丈六銅像」は、〈推古〉十三年の「造銅繡丈六仏像各一躯」に比べてずっと明快であるから、 〈推古紀〉の方が記述が混乱していて、実際に繍仏と銅仏が作られたと見た方がよいであろう。 銅仏〔金銅仏〕は飛鳥大仏として辛うじて現在まで残っているが、飛鳥寺は荒廃したから繍仏は失われたのであろう。 その荒廃の様は、『玉林抄』に記されている(資料[50]【飛鳥大仏】)。 繡仏は、刺繍によって仏像を描いたものである。 刺繍で描かれた仏画としては、天寿国繍帳の断片が残っている(資料[53])。 また、刺繍釈迦如来説法図〔207cm×157cm〕は、一般に奈良時代または唐で作られたと言われるが、 「白鳳期」〔7世紀後半~8世紀初頭〕の作とする見解も見られる(奈良国立博物館/収蔵品データベース)。 〈推古〉十三年の時点で大きな釈仏が製作されたことは、十分考えられる。丈六仏は、如来の身長が一丈六尺〔唐尺(資料[36])で約3.7m〕で、座像なのでその半分の高さの像〔約1.9m〕とされる(〈欽明〉十六年)。 繡仏〔長方形の刺繍であろう〕の長辺もそのくらいだったのかも知れない。 《沙門狛大法師》 『太子伝補闕記』〔保安三奥;1122〕に「弓削王在二斑鳩寺一。大狛法師手殺二此王一」とある。これは、癸卯年〔皇極二〕十一月十一日に宗我大臣らが山代大兄王を殺した記事中である。 山代大兄王一族が山中に入り、その六日後に弓削王が斑鳩寺にいたところを「大狛法師」の手で殺されたとされる。 『通釈』〔飯田武郷1899〕は、 「契沖かこれを二人と見て。大法師の下に失レ名乎とあるは誤なり。」とする。 『仮名日本紀』が「沙門狛の大ほうし福亮、恵雲、…」と書くのも、この見解による。 このように「沙門狛大法師」を福亮の肩書とするのは自然ではあるが、福亮を別人として数えないと「十師」に不足する。 僧旻の別表記として「沙門旻法師」(〈孝徳〉即位前)があったから、それに倣えば「僧狛」の別表記と見るべきか。 《福亮》 福亮は書紀にはここだけの登場だが、 『聖徳太子伝私記』〔顕真;1238~1242〕 の「法起寺塔露盤銘文」には 「舒明天皇十年〔638〕福亮僧正聖徳御分敬造弥勒像一躯構立金堂」 とある(資料[53]【法起寺塔露盤銘】)。 このように〈舒明〉十年には僧正で、法起寺金堂に弥勒像を構立したとされる。 《恵雲》 恵雲は〈舒明〉十年に帰朝した。 〈推古〉十六年に学問僧として遣隋使に同行した「慧隠」と同一人物かも知れない。 《常安》 常安は、ここ以外には見えない。 ただ『通釈』は、「(舒明)紀十二年に清安に作る」とする。清安はまた、南淵請安〔〈推古〉十六年九月に学問僧として隋に渡る〕。 「常」が、漢音では清音シヤウであり、 また〈皇極〉三年に中大兄が南淵先生の門下生になった記事もあり、請安が十師に加わったとしても不思議はないと思われる。 《霊雲》 霊雲は学問僧として唐に渡り、〈舒明〉四年に、僧旻と共に唐からの使者高表仁に伴われて帰朝した。 《恵至》 恵至は、ここ以外に見えない。 《寺主》 寺主の〈釈紀〉による訓みは「テラシ」〔テラジか〕である。 『通釈』は「中臣本にテラシとあり。集解云。」と述べるので、テラシ以外に古訓はなかったのであろう。 しかし、テラシという語を〈時代別上代〉は取り上げず、他の古語辞典にも見られない。 〈神武段・紀〉の「倉下」(クラジ)に類する語かも知れないが、判断し難い。 『仮名日本紀』は訓を添えず、岩波文庫はユを補って「てらしゆ」としている。 訓読すればテラヌシであるが、万葉集などには見えず、〈時代別上代〉にもとり上げられていない。 寺主は音読みが適当かも知れない。 というのは、寺社を統率する組織形態を見ると、役所側の担当部署である僧綱〔玄蕃寮に所属〕と、寺側の自治組織としての「三綱」からなる。 その「三綱」は、上座・寺主・維那によって構成される。(〈元興寺縁起〉Ⅳ) 僧綱の「僧正・僧都・律師」が音読みであるのは明らかであるから、上座・寺主・維那も音読みすべきものであろう。 《僧旻》 僧旻は〈推古〉十六年に学問僧として遣隋使に同行して隋に渡った。 〈舒明〉四年に、唐からの使者高表仁に伴われて帰朝した。 同九年に、流星について説く。 大化元年に国博士に取り立てられ、白雉四年に死去した。 原注「寺主」の位置は「恵至」の下だから、恵至が寺主である。 しかし、「寺主」に相応しいのは明らかに僧旻であり、 それを否定する説を見ない。『通釈』は「本に寺主二字小字に作れり。今釈紀に拠て大書せり」、すなわち「恵至、寺主僧旻、…」という。 ただ、『国史大系』版〈釈紀〉では「寺主僧旻」と小字になっていて、同じ〈釈紀〉でも写本によって異なるようである。『仮名日本紀』は小字、岩波文庫版は大字である。 それでは、僧旻はどの寺の寺主なのだろうか。それには百済大寺寺主こそ相応しいが、次のところで恵妙が百済大寺の寺主になったと書かれている。 そのためだろうか、岩波文庫版は僧旻を「飛鳥寺寺主」だと推定する。 《道登》 道登は白雉元年に、僧旻とともにこの年発見された白雉の吉兆を語る。 《恵隣》 恵隣は、ここ以外には見えない。 《恵妙》 恵妙は〈天武〉九年に死去した。 《十師》 十師の古訓「トタリノノリノシ」のノリノシは平安の言葉である。 飛鳥時代には、すでに法師がホフシとして定着し、それが僧の訓みにも転用されている。 「法師(のりのし)」は、むしろ平安時代になってからわざわざ風雅に表した語だと思われる。 そもそも、法師は僧の上位の立場を表す語ではない。 数詞の音読みの例としては、 藤原宮北辺地区出土の荷札木簡に「吉備中国下道評二万部里多比大贄」〔多比=鯛〕がある。 〈倭名類聚抄〉に{備中国・下道郡・邇磨【爾萬】郷}があり、数詞「二」の音読みが郷長のレベルぐらいまでは理解されていたと思われる。 「十」についても、音よみジフが一切使われなかったとは考えにくい。 飛鳥時代から僧の名前や役職名は基本的に音読みであったから、十師も音読みだったのではないだろうか。 《不能営者朕皆助作》 「不能営者」の営はツクルと訓まれ、さらに「助作」と書かれるが、 前文に「所造之寺」とあるから造ったものをまた造ることになり理屈に合わない。 営はイトナム(経営)、作はナス〔運営の意;修繕増築も含まれるが〕と読んだ方がよいであろう。 《験僧尼奴婢田畝之実而尽顕奏》 僧尼は敬う対象ではあるが、寺は統制の対象であるとするのがこの詔である。 「僧尼奴婢田畝」の報告については、 例えば〈元興寺縁起〉の「流記資財帳」の部分に、 「賤口」〔=奴婢〕の人数と、各地に所有する水田の内訳がきめ細かく記されている。 すなわち、寺の取り分と公の取り分とを正確に区分けする。 〈雄略四年〉【釈紀:論者曰】の項では、『暦録』逸文〔〈釈紀〉所引〕の 「月上旬貢二封戸調物一。国司必向。」の部分に注目した。 実際の納税においては封戸が持ち寄った供出物〔米など〕を、税として国に納める分と寺社に納める分に仕分けしたようである。 その作業を、毎月上旬に国司が出向いてその監督下で行ったと読める。「験二僧尼奴婢田畝之実一而尽顕奏」とは、 その業務に必要な台帳の整備を命じたものであろう。 《来目臣》 〈姓氏家系大辞典〉は「久米臣(蘇我氏流):初め武内宿祢の女に久米能摩伊刀比売〔孝元天皇段(第108回)〕あり。 蓋し其の遺領を継ぎしものならん。後に同族蘇我氏族より此氏を起こし、天武朝、朝臣姓を賜ふ。」、 すなわち、来目〔地名;〈雄略四年〉〕にあった蘇我氏の一派が独立したと見ている。 〈天武〉十三年十一月に「来目臣…凡五十二氏賜姓曰朝臣」とあり、朝臣姓を賜る。 《三輪君色夫》 三輪君は大田田根子を祖とし、大神神社に奉斎する(〈雄略〉即位前4)。 色夫は大化五年四月に新羅に遣わされた。 《額田連甥》 額田連については、推古十六年八月《額田部連比羅夫》の項参照。 額田連甥の登場場面は、ここだけ。 《法頭》 僧正・僧都は〈推古〉三十二年に創始された。同じときに置かれた「法頭」は、奈良時代の制度には見えなくなっている (〈推古〉三十二年四月)。 《大意》 〔大化元年八月〕八日、 使者を大寺に遣わし、 僧尼を招集して詔を発しました。 ――「磯城嶋(しきしま)の宮に御宇(あめのしたしろしめす)天皇(すめらみこと)〔欽明〕十三年中、 百済の明王は、我が日本(やまと)に仏法を奉伝した。 この時、群臣(まえつきみたち)は皆、伝えようとは思わなかった。 しかし、蘇我の稲目の宿祢は、ただ独りその法を信じた。 天皇はそこで、稲目の宿祢に詔され、その法を奉じさせた。 訳語田(おさた)の宮に御宇(あめのしたしろしめす)天皇〔敏達〕の御世には、 蘇我の馬子の宿祢は、 考父(こうふ)〔=亡父の稲目〕の作法に遵じて、 なお能仁〔=釈尊〕の教えを重んじた。 しかし、その他の臣(まえつきみ)たちは信じることはなく、この教えは殆ど滅びようとしていた。 天皇は、馬子宿祢に詔して、その法を奉斎させるようになされた。 小墾田宮(おはりたのみや)に御宇(あめのしたしろしめす)〔推古天皇〕の御世には、 馬子の宿祢が、 天皇の為に丈六の繡仏像と丈六の〔金〕銅像を奉造し、 仏教を顕揚し、僧尼を恭敬した。 朕は更にまた、正教を崇(あが)めて大猷(偉大な事業)を光啓しようと思う。 そこで、沙門狛(こま)大法師、 福亮(ふくりょう)、 恵雲(えうん)、 常安(じょうあん)、 霊雲(りょうあん)、 恵至(えし)、 【寺主(じしゆ)】僧旻(そうみん)、 道登(どうと)、 恵隣(えりん) [、恵妙(えみょう)] を十師(じっし)とし、 これとは別に、恵妙(えみょう)法師を百済寺の寺主とする。 この十師は、 衆僧を教え導くことができ、釈教の修行は、 必ず御法(みのり)の如くさせるべし。 天皇から伴造(とものみやつこ)に至るまで、造った寺は、 営み不能ともなれば、朕が皆なすことを助けよう。 今、寺司たちと寺主を任命する。 諸寺を巡行し、 僧尼、奴婢、田畑の実情を点検し、 すべて明瞭に奏上せよ。 そこで、来目臣【欠名】、 三輪の色夫(しこぶ)の君(きみ) 額田部(ぬかたべ)の連(むらじ)の甥(おい)を、 法頭(ほうづ)とする。」 10目次 【大化元年九月三~十二日】 《於四方國集種々兵器》
〈皇極紀〉では「古人大兄」であったが、〈孝徳即位前紀〉では「更名古人大市皇子」が加えられ、 ここでは古人皇子が中心的な表記となっている。 「或云二吉野太子一」は、本来皇太子であるべき人物が吉野にいると言って奉られていたことを示し、 一定の求心力があったことが伺われる。 そこに反朝廷勢力が群がったと考えられ、その中心人物とされる蘇我田口臣川掘は、蘇我氏蝦夷派の残党だったのであろう。 《謀反》 古訓では皇子には尊敬語を用いるのが常であるが、古人皇子に対しては通常語どころか、むしろ貶めている。 謀反の訓読「ミカトカタフケムトハカル〔帝傾ぶけんと謀る〕」などは、無残というほかない。 しかし、原文が古人大兄を「皇子」と表現する意図を汲むなら尊敬語を用いるべきで、ここは古訓による失策であろう。 《蘇我田口臣川掘》 蘇我田口臣については、〈姓氏家系大辞典〉は「〈蘇我〉田口臣:武内宿祢の裔、蘇我氏の族にて、大和国高市郡田口邑より起る」と述べる。 そのように書かれるもとになったのは、『姓氏録』の〖田口朝臣/石川朝臣同祖/武内宿祢大臣之後也/蝙蝠臣。豊御食炊屋姫天皇〔推古〕御世。家二於大和国高市郡田口村一。仍号二田口臣一。日本紀漏〗である。 朝臣姓を賜った記録は書紀にはないが、『続紀』では、慶雲元年〔704〕正月癸巳に「田口朝臣益人」の名があり、既に朝臣となっている。 《物部朴井連》 〈姓氏家系大辞典〉には、 「物部朴井連:物部連の一族にて朴井邑にありしもの也。此の氏・後単に朴井連と載せたり」とある。 「朴井邑」の位置については、推古二十四年《朴井》の項で見たように、確定し難い。 《椎子》
子は、中国語で果実を表す接尾語である※2から、椎子は椎の木の実〔ドングリ〕となる。 しかしシヒは日本語用法である※3から、椎子=果実とするなら中国語ではなく倭で作られた語となり、不確実である。 それでもひとまず椎子(ドングリ)だと仮定すると、シヒノコノミでは名前にならないので、 「椎子」を果実の意味を込めつつシヒと訓むことになる。 『通釈』は「斉明紀四年に。物部朴井連鮪に作る。此に拠るに椎子はシヒコと読へし。旧訓〔コノミのことか〕は異なるへし。」と述べる。 子を、愛称の接尾辞コと見たようである。 鮪はシビ甲※4、椎はシヒ甲※5で、「物部朴井連」の部分も同じだから同一人物であろう。 「物部朴井連鮪」は、〈斉明〉四年に登場して有間皇子を攻めた。椎子と同一人物だとすれば、吉野大兄王の謀反に与した罪は赦されたようである。 《吉備笠臣垂》 笠臣については、〈応神朝〉二十二年に「笠臣国造」がいて御友別一族に属していた(〈応神〉二十二年【御友別一族】)。 《倭漢文直麻呂》 倭漢文直は阿知使主を祖として、 〈続紀〉延暦十年に「文忌寸等元有二二家一。東文称レ直。」の記事がある(資料[25]《文宿祢》)。 《朴市秦造田来津》 朴市秦造田来津については、〈天智天皇〉記に「朴市田来津」が出て来るから、赦されて復権したか。 〈姓氏家系大辞典〉には「依智秦造:秦氏の一族也、当郡〔近江国愛知郡〕中に最も栄えし氏にして依智秦氏の首領家とす。 …〔愛知郡への〕移住が何時代に属するか不明なれど、孝徳紀大化元年条に「朴市秦造田来津」なる人見ゆるにより、その移住の古きを知るべし」とし、 田来津が〈天智〉紀に登場することについては、「古人皇子に与して、謀反せしも後赦されしか」と述べる。 《菟田朴室古》 菟田朴室古については、〈姓氏家系大辞典〉には菟田:孝徳紀に菟田朴室古と云ふ人見ゆ。菟田首の一族なるべし」、 「朴室 エムロ:次の氏〔榎室〕の族か。」「榎室 エムロ:山城の古族にして尾張氏の族なり」とある。 『姓氏録』には、
連がつかないことについて、『通釈』は「本に連〔の〕字脱せり。今中臣本及〔び〕集解〔江戸時代の注釈書〕に拠て補〔ふ〕。」とする。 一方、〈姓氏家系大辞典〉は「榎室氏:榎室連の後なり。」として、後世には連姓が失われたと判断したようである。 《高麗宮知》 〈姓氏家系大辞典〉は「高麗(無姓):天武紀〔孝徳紀の誤り〕に高麗宮知等見ゆ」と述べ、 さらにこの「高麗(無姓)」が、大宝三年〔703〕四月乙未「従五位下高麗若光賜二王姓一」の高麗であると判断している。 同辞典は「多くは其の〔高句麗の〕滅亡後、投化せしにして、其の数甚だ多し」という。ただし、高句麗の滅亡は668年であるから、宮知は滅亡前に移民した族の末裔となる。 《十一月甲午卅日》 「十一月三十日甲午」は「十二月乙未朔」と合っている。 《朴市秦造田来津・物部朴井連鮪の復権》 吉備笠臣垂は早々に自首した。また朴市秦造田来津と物部朴井連椎子は殺されることなく、後に復権している。 この二人も、早々と古人大兄を見限って離脱した可能性が高い。 残る蘇我田口臣川掘も怪しい。 ただ、筆頭に書かれるほど人物の重みがありながら、これっきり登場しない。 また、垂が自首する時に挙げた名前も川掘だけだから、 蝦夷派の数少ない残党として古人大兄陣営に最後まで踏み留まり、殺されたと見るべきかと思われる。 《斬古人大兄与子其妃妾自経死》 「或本云」の中で「斬二古人大兄与子一。其妃妾自経死」と述べる。 これは滅ぼされるときの定型表現で、必ずしも実際のこととは限らない。 山代大兄王のときにも「与子弟妃妾一時自経倶死」(〈皇極〉二年)と書かれた。 古人皇子の謀反については、いくつかの異本も示すが、それらを素材として物語として描き切ることはせず、単に並べただけである。 山代大兄王が滅ぼされたところでは、感情移入をたっぷり盛り込んだ物語として作られたのとは対照的である。 古人皇子の滅亡の扱いは、ひどく冷淡である。 《大意》 九月一日、 使者を諸国に遣わして軍備を整えさせました 【ある本に言う。 六月から九月までに、 使者を四方の国に遣わして、 種々の兵器を集めさせた】。 三日、 古人皇子(ふるひとのみこ)は、 蘇我の田口の臣川掘(かわほり)、 物部の朴井(えのい)の連(むらじ)椎子(しい)、 吉備(きび)の笠(かさ)の臣垂(しだる)、 倭漢(やまとのあや)の文(ふみ)の直(あたい)麻呂(まろ)、 朴市(えち)の秦造(はたのみやつこ)田来津(たくつ)とともに、 ご謀反されました。 【ある本には古人(ふるひと)の太子と言い、 ある本には古人大兄(ふるひとのおおえ)と言う。 この皇子(みこ)は吉野の山に入られたので、 あるいは吉野太子とも言う。 垂は、しだると訓む。】 十二日、 吉備の笠の臣垂は、 中大兄(なかのおおえ)に自首して、 「吉野の古人の皇子は、 蘇我の田口の臣川掘らと共に、 ご謀反されました。 臣はその一味として関わりました。」と申しました。 【ある本に言う。 吉備の笠の臣垂は、 阿倍大臣(おおまえつきみ)と蘇我大臣に、 「臣は、吉野の皇子のご謀反の一味として関わりました。 よって今、自首いたします。」と申した。】 中大兄は、 そこで菟田(うだ)の朴室(えむろ)の古(ふる)と 高麗(こま)の宮知(みやち)に、 兵若干を率いさせて古人の大市の皇子どもを討たせました。 【ある本に言う。 十一月三十日、 中大兄は、 阿倍(あべ)の渠曽倍(こそへ)の臣(おみ)、 佐伯部(さへきべ)の子麻呂(こまろ)二人に、 兵三十人を率いさせ、 古人の大兄を攻め、 古人の大兄とその子を斬った。 その妃と妾は自経して〔=首をくくって〕死んだ。 ある本に言う。 十一月、 吉野の大兄王(おおえのみこ)は謀反し、 事が発覚して、誅(ころ)された。】 まとめ 元年八月に発せられた詔は、寺院と僧尼の組織化である。〈推古朝〉では僧尼を統制するために僧正・僧都・法頭が設置されたが、それを発展させたものである。 国家の政治における法制の整備は、周辺的事項から順に進められてきた。すなわち、三韓との関係の再構築⇒諸国国司の制度化⇒良民・賤民の制度化⇒仏教勢力の統制である。次はいよいよ中央政権を構成する諸族の統制に進み、これが本丸となる。 その一連の詔の間に挟まれて、古人大兄皇子の謀反が載る。 古人大兄皇子を「斬」、「誅」と書くのは「或本」だけで、本文には「討」のみだから、討つために兵力を送ったが殺すまでには至らなかったと読めないこともない。 しかし、蘇我馬子の女を娶りさらに入鹿によって太子に擁立されようとしていた以上、いずれは処断されることは必至であろう。 それを本人もよく解っていた。 だから入鹿が殺されたときに自宅に引き籠ったり、即位の打診を拒み吉野の寺に隠退したりしたのである。 それでも勝手に求心力が働き、蝦夷・入鹿一族の残党らによって寄ってたかって担ぎ上げられる運命からは逃れられなかった。 この筋書きは当たり前すぎて、書紀の書きっぷりも素っ気なくなったのであろう。 よって、古人大兄による謀反とその滅亡はやはり実際にあったと見るべきである。そして初めのうちは笠臣垂、朴市秦造田来津、朴井連椎子も加わっていたが、形勢不利を悟って離反したと考えるのが妥当だと思われる。 |
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2023.03.31(fri) [25-05] 孝徳天皇5 ▼▲ |
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11目次 【大化元年九月十九日】 《使諸國錄民元數》
「置標代民」の訓みを考える。 万葉に(万)2309「祝部等之 齋経社之 黄葉毛 標縄越而 落云物乎 はふりらが いはふやしろの もみちばも しめなはこえて ちるとふものを」がある。 この歌では、神域の境界に張り渡した縄を「標縄(しめなは)」という。 「標レ代民」は、天皇の御代を記念するために設けた部民のことだから、「標」の訓みはシメスであろう。 すなわち「置二標レ代民一」〔代(みよ)を標(しめ)す民を置く〕である。 垂は、神がめぐみを地上にたらすからタルと訓むが、万葉にはこの用法は見えず、上代にはまだタルをその意味で使うことはなかったようである。 《御名代》
これらのうち、名目を無子の故として置いた皇子代とするのが、〈清寧天皇〉と〈八田若郎女〉である。 皇子の養育のための壬生 〈推古紀〉では、自身の別業 皇子の養育のため、あるいは皇子無き故とする名目は、見るからに言い訳じみている。 それは、天皇が名を残すために自ら御名代を置いたと書けば、あまりに尊大な行為と取られてしまうからであろう。 ところが、〈孝徳紀〉では「毎天皇時、置標代民垂名於後」とあからさまに書かれてしまう。 これまでは天皇が偉そうにするところを見せないように、細心の注意を払ってきたが、これでは身も蓋もない。 《其臣連等伴造国造》 其臣連等伴造国造の「其」は、前文を受けたものと読むべきであろう。 すなわち起源は御名代・皇子代であったが、その壬生部、御名代部はやがて一般の部とは区別がつかなくなった。 そして「臣連等」は部民を私物化して、土地の奪い合いが絶えないという趣旨だと思われる。 《兼并》 あとの方に「作主兼并劣弱」とあるので、「兼并」は動詞熟語「カヌ+アハス」であると考えられる。 《各率己民隨事而作》 臣連等は、宮殿や園陵を作れという朝廷の命令に従うから、それ自体に問題があるわけではない。 では、何がいけないのかと言えば、「各率二己民一隨レ事」であろう。 すなわち、それぞれの臣連の単位で自分の部民を率いて事にあたるしくみがいけないのである。 人民は、朝廷の官吏による直接の命令系統下ではたらくべきだという。 《易曰》 易は易経である。『易経』は、「中国、古代の占筮(せんぜい)の書でもあり、儒教の経典(『詩経』『書経』『易経』『春秋』『礼記』の五経)の一つでもある。 『易経』の現在の姿は、「経」の部分と「十翼」の部分とからなる」という(『日本大百科全書』〔小学館;1994〕)。 また『周易』と呼ばれる西周〔前1004~前771〕の書があり、「易経」はその別名、あるいはその一部分の称でもある。 卦の基本は八卦〔☷(坤)・☶(艮)・☵(坎)・☴(巽)・☳(震)・☲(離)・☱(兌)・☰(乾)〕で、 それらのうち二つの組み合わせは82通りあり、 これを六十四卦という(〈宣化〉二年《君子所服》)。 それぞれの組み合わせには、「䷀:乾、 ䷁:坤、 ䷂:屯、 ䷃:蒙、…」などと名前が付けられている。その記号(䷀など)を卦、文字(乾など)を卦辞という。 『易経』の構成は、六十四の卦・卦辞ごとに、彖伝〔要点〕、象伝〔詳細な解説〕を添えたものとなっている。 「易曰」として引用されたのは、そのうち益(䷩)と節(䷻)で、 『易経』には次のように書かれている(太字は引用部分)。
「節」の運勢は「亨〔よい運勢〕。苦節は正しからず、節は制度をもって財を傷つけず、民を害せず。」などと読める。 《損益》 古訓は、損 ただし『仮名日本紀』には「上を損 《易》 占いは、魏志倭人伝にも書かれ、古くから存在する。 占いに用いられた、イノシシの肩甲骨が残っている (魏志倭人伝(49))。 またウラという和語もある。 ただ、易の流入については、もう少し時代が下るようで、 〈欽明〉十四年に、百済国に求めて「易博士」を招聘した記事がある。 おそらく、書物『易経』とともに持ちこまれたと思われ、「易」には音読が用いられている。 易=エキは漢音で、呉音はヤクである。 〈欽明〉十四年では、〈北野本〉は「易 〈釈紀〉は鎌倉時代の書だが私記等を研究して書かれたものだから、平安時代にはエキも定着していたと思われる。 上代に遡ると、「易曰」についてもまだ呉音ヤクを用いていた可能性もある。 《節》 節は〈仮名日本紀〉のシタガフ〔連体形〕が古訓だと思われるが、 この「節」は䷻の字符だから、適切ではない。 「節」の音読は当時一般的だった呉音セチが適切だと思われる。 呉音を用いた語にはセチブン(節分)、セチニチ(節日)などがある。現代語「おせち料理」もその名残であろう。 《財・民》 上で見たように易専用の用語は音読みが適切だが、財、民については、訓読みのタカラ、オミでよいだろう。 ただし、ここではオホミタカラは、全く不適切である。 漢籍からの引用部分に書紀古訓特有語を持ちこむのは、木に竹を接ぐようなものだからである。 《百姓猶乏》 この百姓猶乏は、詔の中の言葉である。この詔の時期に百姓をオホミタカラと呼んだことはあり得ない。 《年索其価》 「年」には「年の実り」の意味がある。「年索其価」は毎年の実りの時期に、対価を取り立てる意味か。 《分割水陸》 古訓は、水=水田、陸=畑と解釈するが、行き過ぎた矮小化と思われる。 水は、水利権とも解釈し得るからである。貯水池や川からの水路は農民にとって死活問題であり、飛鳥時代から変わらないであろう。 よって「水陸」は字のまま、ミヅクヌカと訓むのが適切だと思われる。 《売与》 売与は、動詞熟語「売り与(あた)ふ」だと思われる。 漢籍の用例としては、『列仙伝』〔前漢;前50~前8〕昌容に「能致紫草。売与染家。得錢以遺孤寡」 〔よくムラサキ〔染料を取る〕を栽培し、染業の家に売り与え、錢を得て孤児や未亡人に贈る〕がある。 現代の感覚では、「与」は無償であるから違和感があるが、「売与」の場合は単に「提供」であろう。 《大意》 〔大化元年九月〕十九日、 使者を諸国に遣わし、民の元数を記録させました。 そして、詔を発しました。 ――「古(いにしえ)より後、天皇の代毎に、 御代を標榜する民を置き、御名を後世に垂れた。 その臣(おみ)連(むらじ)ら、伴造(とものみやつこ)国造(くにのみやつこ)は、 それぞれ己れの民を置き、恣(ほしいまま)に駆使し、 また国、県(あがた)、山、海、林、野、池、田を分割し、 己れの財として、戦争が絶えない。 その結果、或る者は数万代(しろ)の田を併入し、 或る者は針小の土地すら許容されず全く所有できない。 調賦を進上する時、 その臣(おみ)連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)らは、 先ず自己のところに集約し、その後に一部を分けて進上する。 宮殿を修造したり、園陵〔天皇などの陵〕を築造することには、 それぞれが自己の民を率いて事に隨い、作業にあたる。 易経に、 『上損下益』、 『節は制度を以て行い、 財を傷つけ民を害せず』という。 百姓は、まさに今なお乏しい。 だが、勢いをもつ人は水陸を分け取り 私地として、 百姓に売り与えて毎年収穫のときに対価を求める。 今後は、土地を売ってはならない。 決して妄りに主を作り、劣弱な者を併せてはならない。」 この詔に、農民は大喜びしました。 12目次 【大化元年十二月】 《遷都難波長柄豐碕》
白雉二年大晦日に「天皇従於大郡遷居新宮。号曰難波長柄豊碕宮」、 すなわち難波長柄豊碕宮に居所を移した。 大化元年には難波大郡に遷都することが決まっただけであろう。 このときから造営が開始され、白雉二年に完成を見たと思われる。 難波長柄豊碕宮と見られる遺跡は、考古学上の名称は「前期難波宮」といい、「後期難波宮」〔聖武天皇〕と同じところである (資料[17])。 《枯査》 「査」〔楂〕に「枯」をつけたのは、ウキキを筏 この文の元になったのは、越前のあたりの海岸から材木を筏に組んで東に送った記録で、恐らくは磐舟柵(大化四年)を作るためであろう (大化元年八月《辺国近与蝦夷接境処》)。 大きな筏だったから引き摺って砂浜を深くえぐり、それがまるで田を耕した如しだったというのがもともとの話であったと思われる。 書紀はこれが伝説化したものを収めたが、読み誤って「枯」をつけたのであろう。 《大意》 十二月九日、 天皇(すめらみこと)は、難波の長柄(ながら)の豊碕(とよさき)に遷都されました。 老人たちは互いに 「春から夏に至り、鼠が難波に向かった。 これは遷都の兆しである」と語りました。 二十四日、 越の国が言上しました。 ――「海の畔(ほと)りに、枯れた浮き木が東に向かって流れ去りました。 砂の上に跡が残り、田を耕した様のようです。」 まとめ これまでの国家体制は、臣 既に十七条憲法では、官僚に対して出身氏族の利益代表として振舞うのではなく、協力して統一国家のために働けと命じている。 従って、十七条憲法は実際には〈孝徳朝〉に作られたものを、太子(厩戸皇子)作と装って権威付けた可能性さえも言及した (〈推古紀〉/十七条憲法《第十二条》、及びまとめ)。 もし太子の作った原型があったにしても、〈孝徳朝〉のときに付け加え、あるいは改定がなされたように思える。 ただ、冠位十二階の制定は、国家直属の官僚体制の萌芽と考えられるから、太子の頃から一定の方向性があったのも確かであろう。 さて、大化元年九月の詔は、臣連らの所有する部 そもそも詔の示す改革の方向性は、中大兄のアイディアだと考えられる。 天智天皇(中大兄)が数年間称制のまま統治したことを深読みすると、大昔の天皇〔実際の称はオホキミ〕から続く日嗣から脱却したい心理が本当にあったのかも知れない。 |
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2023.04.18(tue) [25-06] 孝徳天皇6 ▼▲ |
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13目次 【大化二年正月】 《宣改新之詔》
賀正礼が新年の儀礼を意味することは明らかであるが、古訓「みかど 《改新詔》 改新には新年の意味があるので、「改新詔」は実は元日に発したことによる名称かも知れない。 改新詔は、「第一曰」、「第二曰」、「第三曰」、「第四曰」の部分に分かれる。 《罷昔在天皇等所立子代…》 子代を始めとする氏族による土地・民の囲い込みを禁じる方向性は、既に九月十九日の詔で示されている。 では、食封制への移行は実際にはどのようにして行われたのであろうか。 これには、大化元年八月八日条の《験僧尼奴婢田畝之実而尽顕奏》項で見た税を納める実際の様子が参考になる。 すなわち、国司の監督下で月に一回定められた日に農民が生産物を持ち寄り、寺社領の分はその場で寺社の実務担当者に引き渡されたと見た。 臣連への食封の引き渡しも、そのような形が考えられる。すべてを都に集約してから再配分するのは、現実的ではない。 これまでは、農民がそれぞれの臣、連の邸宅に持ってきたのを、 郡の収集所〔広い場合は複数〕に持ち寄ることに変わった。その場で国司〔大化の頃は郡司であろう〕の監督下で臣連に食封が配分される。 もし公認されれば、従来通り臣・連のところに直接運び込むことも認められたかも知れない。 これまでの田荘から徴集していたものがそのまま食封として認められれば、実務は変わらない。 ただし、実力で他の臣連の田荘を削り取ることだけは許されないであろう。 現地の臣連向けの食封ではなく、朝廷に供出する調などは大変である。 牛馬に背負わせ、あるいは荷車や船に乗せて遠路はるばる都まで運ばねばならない。 その人員の差配はこれまでは臣連が行っていたわけだが、これからは郡司、ゆくゆくは国司の仕事となろう。 その際荷札として使用された木簡が、藤原京や平城京から大量に出土すると考えられる。 《村首》 書紀古訓の「村 村首の立場を表すことばとしては、村主(すぐり)がある。スグリ(〈雄略〉十年の村主青など)は、渡来人が村長を務めたときの称で、古い時代に呼ばれたものが後に姓 万葉を見るとアレは古い語で、すでにムラが一般的であったと思われるので、 実際にどう呼ばれたかは分からないが、少なくとも村首=ムラノオビトなら上代語といえよう。 《昔在天皇等所立子代》 九月十九日の詔に引き続き、真っ先に名代をやり玉に挙げる。 これは、その氏族が我らは名代由来であると言って、しばしば朝廷に反抗したことの表れであろう。 なお、天皇号は書紀による書き換えで、改新詔は「昔在大王等所立子代」であったはずである。 《処々屯倉》 屯倉(みやけ)は、在地氏族を監視する任を負わせて、朝廷の直轄地として設置したはずであった。 ところが、年月を経ると独立領主に変質するのである。 《官人百姓》 「官人百姓」で、一語と見られる。「百姓」には官人の意味があり、「昔、官についてときに姓を賜ったから」(『学研新漢和』)と説明される。 もし百姓が人民の意味だとすると、人民が全員禄 《大意》 〔大化〕二年正月一日。 賀正の礼を終えたところで、 改新の詔を宣して曰く。 ――「その一。 昔在らせられた天皇(すめらみこと)らが立てられた子代(こしろ)の民、 各地の屯倉(みやけ)、 及び、 臣(おみ)、連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)、村首(むらのおびと)が 所有する部曲(かきべ)の民(たみ)、 各地の田荘(たどころ)すべてを廃止せよ。 それに替えて食封(じきふ)を大夫(まへつきみ)以上に、地位に応じて賜る。 それ以下は、布(ぬの)帛(きぬ)を官人の百姓(ひゃくせい)〔諸氏〕に、地位に応じて賜る。 また言っておく。 大夫(まえつきみ)が民を治めるにあたって、 その治め尽くすことができてこそ、民はそれを頼るものである。 故に、その俸禄を重ね賜る理由は、民のためである。 《其二曰初修京師》
万葉には「京師」が23例あるが、すべてミヤコと訓む。多くは平城(なら)のみやこで、他に明日香京、恭仁京を指す。 ミヤコの他の表記には京、都、京都、美夜古、弥夜古などがあり、その中には大津京も含まれる。 京をミサトと訓むのは一例のみである。 ただ、〈倭名類聚抄〉では「京職」にミサトツカサとある(資料[24])。 よって、官署についてはミサトを用いたと見られるが、「-ツカサ」に限定されるかも知れない。 《初修京師》 難波長柄豊碕宮については、藤原京の先駆として条坊による都市作りがなされたという説があった。 喜田貞吉『帝都』〔日本学術普及会1939〕は、 「大宝令の制が、全く大化の難波京に於ける制度を、其の儘 「凡京毎坊置長一人四坊置令一人」に条坊の「坊」が見える。 『令義解』-坊令には、改新詔とかなり一致もしくは類似する部分がある。
〔なお、「難波長柄豊碕宮」および〈天武朝〉の「難波大蔵省」と見られる遺跡は、考古学では「前期難波宮」と呼ばれる。〕 「前期難波宮の南方空間」村元健一〔『大阪歴史博物館 研究紀要』第13号;2015に掲載〕は、次のように述べる。 曰く「平城宮の朱雀門に相当する宮城南門の南側が急な傾斜地となり、 儀礼などに使うには十分な平坦面を確保できないまま谷地形となっている」(pp.11~12)、 「藤原京までの宮都に大規模な朱雀路は存在しなかった」(p.17)、 「宮城南門の西南方は上町台地の高所」にあたり 「正方位の柵が確認」、「その中に南北方向の長大な建物がある」(p.13)、 「朱雀大想定ラインから西側の台地上を中心に、900尺〔270m〕で設定される条坊の想定ラインに合致する発見が相次いでいる。 中でも上本町遺跡で見つかった奈良時代の頃の遺構は、この場所に正南北を意識した区割りが存在したことを明確に物語る」、 ただし「多くは奈良時代のものであり、依然として7世紀の状況は不明瞭」(p.17)という。 つまり東西対称ではないが、台地西側についてのみ片肺的な条坊構造が見えるようだ。 それが〈孝徳朝〉の時点からだったかどうかは明らかではないが、 改新詔にこのように書かれた以上、この頃から試みられたのではないかと思われる。 (※一方、「古代都城形成史」相原嘉之〔『明日香村文化財調査研究紀要』第17号;2018掲載〕は、次のように述べる。 「初期難波京」〔孝徳〕では「「朱雀門」南西に長方形の地割が復元でき」、 「南面大垣から500m南まで7世紀中頃の整地が認められ、建物も一部で確認されていることから、南北3区画までは可能である。」、 「最大でも東西2街区、南北3街区が京城として意識されており、その範囲内の中央に「朱雀大路」が設置していた」、 「しかし、実際には一カ所の方格地割が復元できるにすぎず、特に、東街区には東西の谷筋が入り、未完であった可能性が高い」。 後に、〈天武朝〉において「初期難波京とは異なる理念で、藤原京や平城京と同規格の条坊が施工された」という。 これを見ると、後の条坊制の少なくとも端緒となるような街区の構築が始まったとみてよいと思われる。※)(※…※)2023.9.5加筆。 《国司郡司》 〈北野本〉などでは、国司を「ミコトモチ」と訓むが、郡司への付訓はない。 『仮名日本紀』も漢字で「郡司」と記載するのみで訓は示さない。 「郡」は701年以前は「評」だから、大化改新の詔の原文が遺っていたとするなら、書紀が直す前は「評司」だったはずである (〈景行〉十七年《郡と県》)。 本サイトは国司をクニノツカサと訓むべきと考えており、よって郡司(評司)もコホリノツカサとなる。 《関塞》 関については、不破関(美濃国)、鈴鹿関(伊勢国)、逢坂関(近江国)が三関と呼ばれる。 塞はソコと訓めば、要塞である。 しかし、〈天武〉元年六月には不破関について「急塞不破道」などとあり、軍事的に重要で塞ぐべきところと表現される。 よって、字数を揃えるために、「関塞」と表したとも考えられる。 それでも、下述するように「関」と「剗」はセットになっているので、「塞=剗」かも知れない。 《斥候》 斥候は戦場では偵察兵のことであるが、日常的に置くのであれば蝦夷への最前線にあたる越後国、 あるいは新羅や百済の様子を探る対馬島であろう。しかし、ここでは畿内のことを述べているから、広い意味での諜報活動かも知れない。 〈北野本〉の「ヤカタ」は、その担当が常駐する建物の意として訓んだのであろう。 《防人》
《伝馬》 伝馬の古訓には「ツタヘムマ」、「ツタハリムマ」が見える。ツタヘは「伝ふ」〔下二〕の名詞形である。 ツタハルは「伝ふの未然形+ル〔下二;自発〕」が四段活用に転じたものだが、古語辞典の用例は源氏物語のものだから、上代にはまだなかったようである。 よって、上代語はツタヘウマの方である。 《鈴契》 〈天武紀上〉に 「天皇…遣大分君恵尺…、于留守司高坂王而令乞駅鈴。因以、謂恵尺等曰:若不得鈴…」 〔大海人皇子は使いを倭京(飛鳥)に送り、留守司の高坂王に、使者を送り駅鈴の発行を願い出た。しかし、発行を拒否されたという報告を受けた〕 などとある(第12回)。 よって大宝令以前から鈴契の制度が存在していたことがわかる。 《定山河》 「駅馬伝馬及造鈴契定山河」が一かたまりだとすると、駅を山河に設置せよと読める。 正規漢文「定于山河」、宣命体「山河爾定」を用いる前の時代の文章のように思える。 《四坊置令一人》 『令義解』にも「四坊置令一人」がある。平城京では南北方向の大路は、東西にそれぞれ四坊大路まである。藤原京の復元プランでも、四坊大路までとするものが多い。 横一列に東西それぞれ四坊をひとつの単位として、令が置かれたのであろう。難波長柄豊碕の京師の条坊は前述したように片肺的で、四坊区画は西側のみと考えられる。 四坊の令は書紀古訓では「ウナガシ」だが、書紀執筆当時の訓みとしては疑わしい。 両方ともヲサで、表記のみが異なるのかも知れない。 《里坊長》 里坊長を、『令義解』は「里長坊長」と書く。 701年以前は、郡は評であった。「評」とする木簡のサトの表記には、「五十戸」、「里」の両方がある。 《明廉・強直・清正・強幹》 廉は「潔い」である〔潔い価格を「廉価」という〕。明廉・強直・清正・強幹の訓読には、それらしい倭語を用いればよいと思われる。 全体として、私情に左右されない厳格さ公正さを求めている。『令義解』では「正八位」が添えられる。養老令〔718成立、757施行〕による冠位制による。 改新詔にないのは時代に合っているのは確かである。 《名墾横河》
〈天武紀〉元年〔672〕六月に 「及二横河一有二黒雲一」とあり、大海皇子 また〈天武〉紀の記述からは、初瀬街道の伊賀郡に入るところに駅家があったことが分かる。 従って、「駅馬」、「伝馬」、「鈴契」は、大宝令〔701〕の前から存在した。 《紀伊兄山》 (万)1195「麻衣 著者夏樫 木國之 妹背之山二 麻蒔吾妹 あさごろも ければなつかし きのくにの いもせのやまに あさまくわぎも」 〔麻蒔吾妹=麻の種をまく私の恋人〕という万葉歌がある。 和歌山県伊都郡かつらぎ町公式ページの「万葉の里」のページには、 「兄山(背山)は二つの峰がなかよく並んでいるので、妹山・背山(妹背山)といわれ」、 また「紀の川をはさんで左がわの台地のような山を妹山、それに対して右がわの山を背山と呼び、おたがいに向かい合っている情景から妹背山と見立てている。」という二通りのいわれを示す。 そして「長い草枕の道すがら有名な歌枕として万葉歌十五首、とりわけ相聞歌が数多く詠まれた。」と述べる。 改新詔でセノヤマのセに「兄」を用いているのは、この山が万葉に詠まれた「兄山」であり、現代の山名に繋がっていると見てよいだろう。 〈木下-道と駅〉(下記)は「弘仁二年の三駅廃止は紀ノ川沿いの奈良時代の南街道を廃止した」(p.272)と述べる。 背山は、この奈良時代以前の南海道上にあたり、やはり畿内の境界を街道上の特徴的な地点によって表したものといえる。 《赤石櫛淵》
〈木下-四至〉は、「山田弘通の教示による」と「明石川に奇淵という所」があり、「現在の神戸市西区に属する押部谷町細田の住吉神社前面に当たる」(p.10)と述べる。 その真偽を調べてみると、複数の神社探訪サイトなどに、明石川住吉橋の下の川床を奇淵と呼ぶという記事が見られる。 〈木下-道と駅〉は「難波京から有馬温泉を指した計画古道」は、 さらに「有馬温泉から西に通って、改新詔に見える畿内国の西至である赤石櫛淵 〈門井論文〉のいうように谷に海進があったとしても、その地域に櫛渕という地名が全く見られないから根拠は薄弱である。 「奇淵」は現在は住吉神社の祭事に関連して取り上げられるのみであるが、かつてはその一帯の地名だったのかも知れない。 古山陽道がこのコースだという推定が正しければ、ここでも主要街道上の特徴的な地点が畿内の境界とされたと考えることができる。 考古学的実証が望まれる。 《近江狭々波合坂山》 ササナミ(狭々波)は大津京や唐崎神社の近辺の地名である(第144回【沙沙那美】)。 よって、合坂山は第144回の「逢坂」の山であろう。 「逢坂山の山頂は、京都・大津間の北緯35度0分3.0秒、東経135度50分52.6秒にあり、標高324.7m」である。 〈木下-道と駅〉は、「『令義解』によると、関は『検判之処』で、剗〔せき/セン〕は『塹柵之処』で」あり、「三関は関と剗からなる」と述べる。 つまり、人の通行を取り締まる関と、要害である剗がセットになっていた。 そして「関を大関、剗を小関」とも言い、「延暦十四年〔795〕に廃された相坂剗は…逢坂山の峠部分」と考えられ、 「(東海道、東山道、北陸道)が集まる山科盆地中央部に大関があったのでは」ないかと述べる(pp.63~64)。 遭坂山の峠道の地名「小関越」は、剗=小関の名残であろう。右図Fには、その峠に「剗」を記入した。 また、同図の「関」は、〈木下-道と駅〉の図(p.57)に示された位置である。 これもまた、主要街道上の特徴的な地点である。 《畿内国》 〈倭名類聚抄〉は、{畿内国:山城・大和・河内・和泉・摂津}とする。 ところが改新詔では国名ではなく、地点名によって範囲を表している。 境界の四地点は、一般に「四至」と呼ばれる。その推定位置は、右図Gの通りである。 これを見ると、吉野郡は大和国内であるが、明らかに「畿内」から外れている。 「四至」を頂点とする四辺形の内部に含まれる部分を郡単位〔摂津国川辺郡のみは南半分〕で表すと、 宇陀郡、宇智郡も外れる。これらは大和国の六御県 改新詔の時点では、行政区分としての国〔後の律令国〕は未確立だったことが、ここに現れているといえよう。 これまでに見たように、「国司」には、軍備の権限をまだ持たせることができなかった(大化元年八月五日《猶仮授本主》項)。 改新詔には、国〔いわゆる律令国〕の四官制の守(かみ)、介(すけ)などは未だに定義されない。 『隋書』倭国伝にある「軍尼」〔クニ〕とは国造のことで、当時の倭国は国造のレベルのクニの集合体であると見た(隋書倭国伝(4))。 〈孝徳朝〉ではまだそこから抜けきっていない。 《畿内国四至の中心》 畿内国における難波長柄豊碕宮の位置を見ると、ここが経済上の首都であったことは一目瞭然である。 実際、難波津は三韓や西国と繋がり大量のモノとヒトが行き交っていた。 難波京は、京ではない時期も奈良時代まで継続して副都としての機能を維持し続けてきたが (〈用明〉即位前)、それがよく理解できる。 一方、明日香京は経済の中心からは離れるが、政治、文化、伝統の地として存在したのである。 《以四十里為大郡》 まず里が距離の単位か、郷の数かという点については、『令義解』はサトに「郷」を用いているから、 里は距離の単位である〔1里=300歩=540m〕。 次のⅠは改新詔、Ⅱは『令義解』の記述である。 Ⅰ:凡郡以四十里為大郡。三十里以下四里以上為中郡。三里為小郡。 Ⅱ:凡郡以二十里以下十六里以上為大郡。十ニ里以上為上郡。八里以上為中郡。四里以上為下郡。二里以上為小郡。 Ⅱは全体にⅠよりも里数が小さいから、この間に郡の分割が各地で行われたと考えてみる。 たとえば磯城郡の東西幅を見ると、式上郡+式下郡では17.1km〔32里〕で、Ⅰの大郡。 式下郡は7.2km〔13里〕でⅡの上郡、式上郡は12.4km〔23里〕で少しはみ出るがⅡの大郡。 よって、この分割はあったと考えてもよさそうである。 Ⅰ、Ⅱの時期については次の二通りが考えられる。 (ア)Ⅰ:大宝令〔改新詔は、書紀が大宝令を遡らせたことにする〕。Ⅱ:養老令。 (イ)Ⅰ:改新詔。Ⅱ:大宝令。 (ア)だとすれば、大宝令〔701〕と養老令〔757〕の間に多くの郡の分割が載るはずである。 しかし、この間の郡の分割は、和銅二年〔709〕二月丁未「遠江国長田郡。地界広遠。民居遥隔。往還不便。辛苦極多。於是分為二郡焉。」 の一例だけである。〈倭名類聚抄〉には分割後の{遠江国/長上郡・長下郡}が載る。
これらは、もともと葛城県、添県、磯城県、三島郡〔御島の意〕だったと思われ、 大宝令の701年には既に上下2郡〔葛城県については忍海を含め3郡〕になっていた。 よって、(イ)であろう。 書紀の改新詔には潤色があるのは明らかであるが、かと言って存在しない詔が存在した如くでっち上げたとは考えにくい。 潤色は表記〔評⇒郡など〕に限られ、実質的には原型が保たれていると考えるべきではないか。 多くの郡の分割が大宝令以前であることは、それを裏付けるものとなっている。 《其郡司》
この「郡司」に関する記述の移り変わりは、改新詔がこの時期に存在したことを証すると思われる。 《凡給駅馬伝馬》
ただ、『令義解』が長官・次官を用いた理由は、倭名類聚抄に{長官:国曰レ守。太宰府曰レ師。}、 {次官:国曰レ介。大宰府曰二弐一。}とあり、その相異なる表記をまとめたと考えられる。 これを見ると、改新詔の「並長官執無次官執」は大宝令の記述を遡って改新詔に挿入したのかも知れない。 ただ、改新詔では長官次官を「諸国及関」にいる郡司や三関の司と読むことはできる。 《並長官執無次官執》 「無次官執」は「次官が執ること無し」ではない〔そのときは勿を使う〕。 明らかに「もし無ければ」である。「若無」の若を欠く言葉足らずは改新詔の時代の和風漢文のものだが、そのまま律儀に継承されたと思われる。 このことは後世の令における継承精神の表れとして、重視する必要がある。 《大意》 その二。 京師の修飾を始めよ。 畿内に 国司、郡司、関、要塞、斥候、防人(さきもり)、駅馬、伝馬を置け。 そして鈴契を作り、山河に〔駅を〕設置せよ。 凡(およ)そ京には坊毎に 長(ちょう、おさ)一人を置き、 四坊に 令(りょう)一人を置き、 戸口(へくち)〔=戸の人員〕の按検〔=調査集約〕、姦非〔=犯罪非行〕の督察(とくさつ)〔=取り締まり〕を掌れ。 坊令(ぼうりょう)には、 坊内から明廉〔=清廉〕強直で時々の任務に堪える者を採用して充てよ。 里、坊の長には、 里、坊の百姓から揃って清正、強幹〔=意志の強い〕者を充てよ。 もしその里坊に適材がいなければ、近隣の里坊から選んで用いることを許す。 凡そ畿内は、 東は名墾(なばり)横河(よこかわ)より内側を、 南は紀伊の兄山(せのやま)より内側を 【兄はセと訓む】、 西は赤石(あかし)の櫛淵(くしふち)より内側を、 北は近江(ちかつおうみ)の狭々波(ささなみ)の合坂山(おうさかやま)から内側を、 畿内の国とせよ。 凡そ郡(こおり)は、 四十里を大郡(おおごおり)、 三十里以下四里以上を中郡(なかごおり)、 三里を小郡(おごおり)とせよ。 郡司は、揃って国造(くにのみやつこ)より採用せよ。 性識(せいしき)清廉で、時の任務に堪える者は、大領(こおりのかみ)、少領(すけ)とせよ。 強幹聡敏で、書くこと、計算に巧みな者は、主政(まつりごとひと)、主帳(さかん)とせよ。 凡そ駅馬伝馬には、皆鈴、伝符の刻みの数によって〔その者の地位を表すようにして〕給われ。 凡そ諸国と関には、鈴契を給われ。 どれも長官(かみ)が執行せよ、不在ならば次官(すけ)が執行せよ。 《其三曰初造戸籍計帳班田收授之法》
大化元年八月詔の「皆作戸籍及校田畝」と重複する。 《班田収授之法》 『令義解』から「班田収授之法」に該当すると思われる部分を拾い出す。
しかし、「班田収授」、すなわち「班(わか)ちた田を収め授ける」構想が、改新詔のときにあったのは確実である。 「段租稲二束二把」なる田税は改新詔の中にある。「男二段。女減三分之一」、「口分田務従便近」、「凡田六年一班。若以身死応退田毎至班年即従収受」 という制度の骨格も、順次定まっていくのであろう。 ただ、班田収授法が実効性を持つためには「戸籍計帳」が欠かせないが、その完成は庚午年籍〔670〕を待たねばならない。 したがって「初造」とは、まさにこれから戸籍計帳及び班田収授之法の具体化を急速に進めよという意味だと考えられる。 《凡五十戸爲里》 『令義解』では戸令/凡五十戸条の方で、「凡五十戸為里毎里置長一人…催駈賦役」がそのまま載る。 《催駈》 駈〔駆の異体字〕は走らせる意。熟語「催駈」は、諸辞書にも漢籍(中国哲学書電子化計画による)にも見つからない。 意味は「催促」〔せきたてる〕に近いかと思われる。古訓は「ウナガスコト」〔掌の目的語なので名詞節となる〕として、 駈の訳出をあきらめている。 《隨便量置》 『令義解』では隨便量置に割注が添えられ「謂若満二十戸一者依レ上」 〔人が少ないところでは十戸あれば里にできる〕と解釈するから、「随便量置」を便宜を図れとの意に読んだようである。 《段租稲二束二把》 『令義解』田令の「凡田長卅歩広十二歩為段十段為町段租稲二束二把町租稲廿二束」と全く同じ文章がここにある。 この文が書紀による潤色でなければ、税率の変更なしに改新詔⇒近江令⇒浄原令⇒大宝令⇒養老令と引き継がれたことになる。 税率は改新詔で定められた公理だとして、度々の改定においても手を加えなかったと考えられる。 安易に税率を改定すれば農民の激しい反発を招き、場合によっては暴動が起こるからであろう。 《若山谷阻険地》 現在の版本では「若山谷阻険地遠人稀之処隨便量置」を「禁察非違催駈賦役」の後ろに移している。 これは、『書紀集解』〔河村秀根;1785〕の「若以下十五字言在二下文二十二束之下一拠二戸令一改」を踏襲して、 『令義解』戸令に合わせたものである。 ただ、改新詔は『令義解』をまるごと引き写したものではないから、この箇所だけ『令義解』に合わせるのは近視眼的である。 むしろ大宝令の時点で改新詔の文の順序を変えたかも知れず、安易に直すとその可能性を見えなくしてしまう。 《大意》 その三。 戸籍、計帳、班田収授の法を作り始めよ。 凡そ五十戸を里として、 里毎に長(おさ)一人を置き、 戸口(へぐち)を按検し、農業と桑の栽培を課して、 非違〔=犯罪〕を禁察し、賦役の催促を掌らせよ。 凡そ田の長さ三十歩、間口十二歩を一段(たん)〔1166m2〕とし、 十段を一町(ちょう)とせよ。 一段あたりの田租は稲二束(そく)二把(は)〔4.97kg〕、 一町あたりの田租稲二十二束とせよ。 もし山谷が険しく遠い土地で、人が稀なところは、 便宜を図って量を決め置け。 《其四曰罷舊賦役而行田之調》
「罷旧賦役而行田之調」は、賦役の代替に生産物の貢ぎを用いることをやめ、 田の面積に応じて一律かつ無条件に生産物を納める制度に変更したと読める。 しかし、「凡仕丁」の項を見ると、依然として「庸布庸米」すなわち、 仕丁の代わりに布・米を貢ぐことが認められている。 「罷旧賦役…」は、実際には賦役を減らして食料生産にシフトせよとの主旨かと思われる。 下で仕丁を旧制度の三十戸に一人から五十戸に一人に改定したことは、この見方を裏付ける。 《凡絹絁絲綿》
「凡絹絁絲綿条」(右/上段)では、その庸として他の絹などを用いた場合について詳しく述べたようにも見えるが、 むしろ調の規定量の単位として、「正丁一人」を用いたと読むべきかも知れない。 《田一町絹一丈四町成疋》 「田一町絹一丈四町成疋」は、 「田一町につき、絹なら一丈を調として納めよ。田四町の納める分〔絹四丈〕をまとめて一疋とする」 意味だと思われる。しかし、ほぼ名詞の羅列で文章としては稚拙である。 書紀の書法を用いれば、「田毎一町輸織絹一丈。以四町為一疋」となろう。 改新詔は全体として前置詞を欠き動詞もかなり少なく、漢文としては不完全である。 これは、時代による制約と思われるが、稚拙なままに伝統的な書法となり、以後養老令まで維持されたのではないだろうか。 《別収戸別之調》 「別」の前までは、田の段に対して課す調について述べる。 それとは別個の調として、一戸ごとに、布および土地ごとの「副物」を課すものである。 《調副物》 〈北野本〉などが副物に添えた訓「ソハリツモノ」のソハリは、 「ソフの未然形+自発のル(下二)=ソハル」が四段活用に転じたもので、その名詞形〔連用形と同型〕に古い属格の助詞ツがついたものである。 四段のソハルは源氏「澪標」に「物思ひそはりてあけくりくちをしき身を思ひ嘆く」があり、思いが「募る」意味に使われている。 〈時代別上代〉は取り上げていないから、平安の語かと思われる。助詞ツは「ノやガに比べて、上代で既に用法が固定しかかっていたようである」(〈時代別上代〉)という。 すなわち平安時代になってから、その時代の語に上代の助詞を雅として加えたものであろう。 《塩贄》 贄(にへ)は神や朝廷に捧げる食料で、ここでは税制における海産物や農産物による調を指す。『令義解』では多種多様な品目が列挙されている。 《凡官馬者》
圍(囲)〔めぐり〕は、直径一尺の飼葉桶 馬戸は厩に所属して馬の養育にあたったと考えられる。馬の食べる干し草は調として扱われ、 提供する囲数に応じて正丁・次丁・中男を出すことが免除されたようである。 この厩牧条は、他の項目に比べて改新詔との乖離が大きい。 改新詔では「其買馬直」〔馬を購入する価格〕が示されるから、 馬は馬戸の私有物で、公の必要に応じて徴発する形をとったのだろう。 但し、改新詔でも馬を公務に提供した分だけ調また仕丁が免除されたのであろう。そうでなければ割が合わない。 《凡兵者》 「軍防令」の「毎レ火」は、「野営で調理する度に用いる備品は」の意かと思われる。 改新詔の「凡兵者人身輸刀甲弓矢幡鼓」よりは相当詳細になっているが、幡(戦旗)・鼓はなくなっている。 「身輸」は「身(みづか)ら輸(いた)せ」で、各自準備せよとの意と思われる。 凡兵士条には「皆令二自備一」とあり、同じことであろう。 《凡仕丁者》 「賦役令」の「改二旧毎三十戸一人一而」は改新詔の時点での改定だから、『令義解』で消えたのは当然である。 《以一人充廝》 原注「以一人充廝」は仕丁一人に加えて、廝人〔身辺の世話をする者〕を一人添えるという意味であろう。 大宝令と同じ構成であったと考えて、この原注が加えられたと見られる。 書紀が大宝令の「二人」を一人に減らして改新詔を装うような細工をしたとは思えない。 《凡采女者》 「後宮職員令」には、改新詔の「郡少領以上姉妹及子女形容端正者」と、同じ表現がある。 《大意》 その四。 旧賦役は廃せ。そして田ごとの調を用いよ。 凡そ絹(かとり)、絁(ふときぬ)、糸、綿の選択は、すべて郷土の出すに任せよ。 田の一町ごとに絹(かとり)は一丈(じょう)、四町を疋(ひつ)とせよ。 その長さは四丈、幅は二尺半とする。 同じく絁(ふときぬ)は二丈、二町を疋とせよ。 長さ広さは絹と同じとする。 同じく布は四丈とせよ。長さは絹(かとり)絁(ふときぬ)と同じくして、 一町を端(たん)とせよ 【糸の絇(め)、綿(わた)の屯(みせ)については、諸所に見えない】。 別に戸毎の調は、 一戸に皆、布一丈二尺を収めよ。 凡そ調の副物(そわりつもの)の塩や贄(にえ)は、これもまた〔何を輸すかは〕郷土の出すに任せよ。 凡そ官馬は、中級の馬は百戸毎に一頭を輸せよ。 もし良馬ならば二百戸毎に一頭を輸(ゆ)せよ。 馬を買う価格は、一戸毎に布一丈二尺とせよ。 凡そ兵は、人毎に自ら太刀、甲(よろい)、弓、矢、幡(はた)、鼓を輸せよ。 凡そ仕丁は、 旧制の三十戸毎に一人【一人を廝(くりや)に充てよ】を改めよ。 そして五十戸毎に一人【一人を以ちて廝に充てよ】を、 諸司の許に充てよ。 五十戸をもって、仕丁一人の粮(かて)を充てよ。 一戸ごとに庸布〔=仕丁の代替とする布〕は一丈二尺、庸米は五斗とせよ。 凡そ采女(うねめ)は、 郡(こおり)の少領(すけ)以上は、 姉妹及び子女から容姿端正の者を貢げ 【供する丁は一人、伴する女丁は二人とせよ】。 百戸をもって、采女一人の粮(かて)に充てよ。 庸布と庸米は、皆仕丁に准ぜよ。」 《是月御子代離宮》
原注の述べる「狭屋部〔さやべ〕邑」と言われるのが、 〈倭名類聚抄〉{摂津国・西成郡・讃楊郷〔サヤベノサトか〕}である。 また、〈姓氏録〉に〖摂津国/神別/天神/佐夜部首/伊香我色雄命之後也〗があり、狭屋部邑は佐夜部首〔さやべのおびと〕の本貫地と言われる。
『大日本地名辞書』は、「讃揚郷: 今西高津 東平野町は、北平野村、南平野村、東高津村の地域に町村制〔1922〕で成立した。 西高津村は生国魂社の地域である。 〈孝徳〉即位前期に神道を軽んじて生国魂社の木を伐採した記事が載るから、 縁の地かとも思えるが、生国魂社はもともと大坂城本丸のところにあり、築城により現在地に遷されたという(『大阪府神社史史料』〔大阪府;1933〕p.250)。 《蝦夷親附》 「蝦夷親附」の「親」は天皇自らの行為を意味する。かと言って、越後国に親征したことは考えられない。 「蝦夷親附」までは詔に含まれ、軍備を整えよ、蝦夷を従わせるのは自分の意思だぞと強く指示したものか。 そう読めば、大化三年の「渟足柵」、「磐舟柵」の設置は、その具体化となる。 言葉足らずの書法は、改新詔と同様に詔の原文がそうなっていたのかも知れない。 《大意》 同じ月、 天皇(すめらみこと)は子代(こしろ)の離宮に御座して、 使者を遣わして郡、国に詔を発しました。 ――「兵庫を修営せよ。 蝦夷を朕親(みずか)ら服従させる。」 【ある文書にいう。 難波(なには)の狭屋部邑(さやべむら)の子代(こしろ)の屯倉(みやけ)を壊して、 行宮(あんぐう)を起こす】。 まとめ 大化改新詔は、大宝令によって書紀による潤色が加えられたとする説は強固である。 〔なお大宝令については原文は失われ、『令義解』によって分かる養老令からその姿が推定されるのみである。〕 まず、改新詔が存在したこと自体を疑う余地はない。 改新詔が『令義解』と異なる点としては、国造をそのまま郡司に採用したことや、大郡・小郡の基準の違いが見られる。 また、畿内の四至の規定の仕方は郡の地名によるもので、国司の構成も述べられず恐らく律令国は未成立である。 これらが改新詔の時代の現実を反映していることは明らかである。 改新詔と『令義解』の記述がまるまる一致する部分は確かにあり、大宝令に一致するように書記が書き換えたのではないかと言われる所以である。 しかし、両者が一致する部分には、実は漢字の文章として稚拙なところが多く見られる。そこにはむしろ、時代による制約が感じられる。 よって話は逆で、後世の養老令に至るまで改新詔こそを伝統として重んじるが故に、敢えて稚拙な形のままにしたと考えるべきであろう。 書紀による潤色は、「評」を「郡」に機械的に置き換えた程度にとどまるとするのが、本サイト主の見解である。 |
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⇒ [25-07] 孝徳天皇(3) |