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2023.02.20(mon) [25-01] 孝徳天皇1 ▼▲ |
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1目次 【即位前】 天萬豐日天皇〔孝徳〕天豐財重日足姫天皇同母弟也……〔続き〕 2目次 【皇極四年六月十四日(一)】 《天皇思欲傳位於中大兄》
詔には、法としての命令として、またイフの敬語として二通りの用法がある。 前者の例としては。 ・〈孝徳〉二年一月:「宣改新之詔曰:其一曰。罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉…」 〔大化の改新の詔として有名〕。 後者の例としては。 ・〈皇極紀〉四年:「詔中大兄曰:不知所作。有何事耶。」 ・〈垂仁紀〉七年:「詔群卿曰:朕聞。當摩蹶速者天下之力士也。若有比此人耶。」 前者はミコトノリ(またはオホセコト)、後者はノタマフと訓み分けるべきであろう。 〈皇極〉四年六月の「詔曰云々」は、古訓では「ノタマヒテシカシカトイヘリ」、あるいは「ノタマヒテイヘラクシカシカトイヘリ」と訓まれる。 但し、気になるのは敬体の「ノタマフ」と常体の「イフ」が、一貫性を欠くところである。 書紀古訓も後の方になると、「曰」への訓はいつも省かれているが、常に常体のイハクであったのかも知れないとも思わせる。 しかし、〈神代上〉では「伊弉諾尊伊弉冉尊…曰底下立無国歟 」(〈内閣文庫本〉)とあり、 敬体が貫かれている。この例では、詔・語・謂などはなく、区切り文字の機能と動詞イフとを兼ねている。 すると〈孝徳紀〉の「シカシカトイヘリ」は、雑な訓読と見てよいであろう。 さて、動詞「謂」などがある場合は、「曰」は事実上、直接話法における区切り記号である。 謂・曰を両方とも訓むと和文としては煩わしい。倭語にはク語法や助詞トがあるから、実際には必ずしも「曰」を訳出する必要はないだろう。 《曰云々》 この「云々」の内容が「朕思欲以爾授天位」であるのは明らかなので、省略されている。 〈孝徳〉の即位までに、云々が四カ所もある。原文作者は、明らかに急いでいる。 早く〈孝徳紀〉の本題である一連の詔に進みたいのに、 分かり切ったことをわざわざ書く必要はないということであろう。 《古人大兄殿下之兄也》
《天皇位》 天皇位をそのまま訓めば「すめらみことのみくらゐ」となるが、クラヰは臣下の位であって、天皇位にはタカミクラが用いられるようである。 その由来は、次ののりとに見える。 〈延喜式-祝詞〉大殿祭: 「高天原尓神留坐須皇親神魯企神魯美之命以弖。皇御孫之命乎天津高御座尓坐弖。天津璽乃劔鏡乎捧持賜天」 〔高天原(たかまのはら)に神留(かむづま)ります皇親(すめむつ)神(かむ)ろき神(かむ)ろみの命(みこと)以ちて、皇御孫之命(すめみまのみこと)を天津(あまつ)高御座(たかみくら)に坐(ま)せて、天つ璽(しるし)の剣(つるぎ)鏡(かがみ)を捧(ささ)げ持ち賜(たま)ひて〕
《軽皇子殿下之舅也》 軽皇子は皇極天皇の弟であるから、中大兄から見て舅〔母の兄または弟〕にあたる。 〈倭名類聚抄〉「舅:母の昆弟為舅【母方乃乎知】一云大舅【母方兄】少舅【母方弟】」。 中臣鎌子の見解では、「立舅以答民望」、すなわち軽皇子を立てることは民の望みに応えるものである。 逆に言えば、古人大兄では民の支持は得られないということである。 《中大兄深嘉厥議》 「深嘉厥議」とは、中大兄自身も実は鎌子と同じ思いで、考えが一致して自信を持ったことを表現したと見られる。 《密以奏聞》 「密以奏聞」、すなわち中大兄は皇極天皇に内々に軽皇子に継位すべしとの考えを伝えた。 《璽綬》 璽綬は、もともと天子が所持し、また諸侯や臣に与える印(璽)と印につけた紐(綬)を意味し、璽の材料と綬の色によって地位を格付けする (魏志倭人伝[72]、同[21])。 天子の座に昇るしるしとして璽綬を奉る例は、『後漢書』孝安帝紀に「太尉奉上璽綬」とある(〈顕宗〉元年正月)。 書紀においては、天皇位を奉り、あるいは譲るときに、中国風に「璽印」、日本風に「神璽剣鏡」などの表現を用いる (〈継体〉元年《璽符》、 〈宣化〉即位前《奏上剣鏡》)。 これらは実際に具体物を渡す様子を描写したのではなく、即位を表す形式的な言い回しに過ぎないのは当然である。 《策曰咨》 古訓では、咨を間投詞「ア」と訓む。 必然的に、策は口頭だから、「オホムコト」と訓まれる。 しかし、策は、主に文書を意味する。策には「策を相談する」意もあるが、その場合ももともと文書によって案を持ち寄るさまを表した。 ここでは璽綬を授与するから、ある程度公式行事であったと見るべきであろう。ならば、やはり策は文書であり、 策も咨もハカルであろう。 《古人大兄辞曰》 古人大兄は継位することを断り、僧となって吉野に引退した。これは、後の大海皇子(〈天武〉)と同じことをしたわけで、不穏である。 実際、古人大兄は元年九月に謀反を起こした。ただ、結果は大海皇子は成功し、古人大兄は失敗した。 母の法提郎媛は、蘇我蝦夷とは兄妹〔または姉弟〕で、さらに入鹿が天皇に擁立しようとした経過もあるので、 即位を勧められるのは意外である。 ここで昇極する意欲をうっかり見せてしまえば、たちまち中臣鎌子らによって滅ぼされることを警戒したのかも知れない。 あるいは、蘇我蝦夷・入鹿派の残党との繋がりが深く、即位して中大兄・鎌子派の傀儡となって身動きがとれなくなることを嫌ったとも考えられる。 《辞訖》 「辞訖」は、「辞(こと=言)を訖(終)ふ」と読んだ方がよいだろう。 それは、話法の締めくくりだからである。 「辞(いな=否)ぶ」を、「否ぶ態度を示す」ととれないことはないが、しっくりこない。 《法興寺》 法興寺〔飛鳥寺〕は、蘇我氏の氏寺とも言われるが、 国家の寺院として機能していたのは明白である。 建造に蘇我氏が多大な役割を果たしたのは確かだが、それは大臣としてである。 蝦夷が滅びた後もここで古人大兄が仏門に入る行事を行い、またその槻樹の下に群臣を集めて盟約を行ったことを見れば、 依然として国家の中心的な仏教施設として機能していたことがわかる。 そもそも蘇我蝦夷は朝廷に仕える一環として法興寺の運営に携わっていたのであって、 蘇我氏の私的な施設とは言えない。 《古人大兄自詣》 〈北野本〉では、詣にイデマスをあてている。「詣」は単に行くという意味である。しかし、神仏を敬っていうマヰヅ〔参出〕に、詣の字をあてることが既に始まっていたようで、 現代の「初詣」に繋がる。敬体にするならイデマスでよいが、マヰヅの敬いのニュアンスを生かしつつ補助動詞をつけて、マヰデマスとするのもよさそうである。 さて、そもそも古人大兄に対して敬体を用いること自体が、適切であるかどうかは悩ましいところである。 中大兄が「大兄命」と呼ぶように、会話文中に限れば敬体を用いるのは妥当であろう。 しかし会話文の外では、入鹿に天皇候補にまつり上げられ、入鹿暗殺に遭遇して怯えて蟄居し、さらには間もなく謀反を起こすから、 敬体には値しないかも知れない。本文が「皇子」をつけなかいのもその故か。 ただ、早くも九年の原注において「皇子」、「太子」なる呼び名を示す。その時点で軌道修正が図られ、以後敬体を用いる方向となったのかも知れない。 古訓が敬体を用いたのは、それを引き継いだものであろう。 《大意》 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)〔皇極〕四年の 六月十四日、 天豊財重日足姫天皇は、 皇位を中大兄(なかのおおえ)に譲ろうと思われ、 中大兄に云々(しかじか)と詔されました。 中大兄は、退出して中臣鎌子(なかとみのかまこ)の連(むらじ)にこのことを語ると、 中臣鎌子連は、このように提案しました。 ――「古人大兄(ふるひとのおおえ)は、殿下の兄にあたり、 軽皇子(かるのみこ)は、殿下の舅(おじ)にあたられます。 まさに今、 古人大兄がいらっしゃるのに殿下が天皇位に登られれば、 人の弟の恭遜の心を違えることとなります。 舅を立てられて民の望みに答えることも、またよろしいのではないでしょうか。」 中大兄は深くその提案を喜ばれ、 内密に天皇に奏聞されました。 天豊財重日足姫の天皇は、 璽綬を授けて位を禅譲され、 策〔詔書〕により、「咨(はか)る。あなた、軽皇子は云々(しかじか)」と伝えられました。 軽皇子は、再三固辞し、 古人大兄は、転じて 【別名は古人大市皇子(ふるひとのおおいちのみこ)】 に譲られ、 「大兄命(おおえのみこと)は、 昔の天皇(すめらみこと)〔舒明〕より生まれ、また年長です。 この二つの理によって、天位にいらっしゃるべきです。」と仰りました。 すると、古人大兄は、 座を離れて後ずさりして、手を拱(こまね)いて〔=手を組んで拝礼して〕辞退して、仰りました。 ――「天皇の聖旨をお受けして従いなさいませ。 どうして、わざわざ私を推し譲られますか。 私は、願わくば出家して 吉野に入り、 勤しんで仏道を修行し、 天皇をお助けいたしとう存じます。」 こう話し終えたところで、 佩刀(みはかしのたち)を解き、地に投げ捨てられました。 また、帳内(とねり)にも命じて、皆に刀を解かせました。 そして、自ら法興寺の仏殿と塔の間に詣で、 髯と髮を剃り、袈裟を着用されました。 3目次 【皇極四年六月十四日(二)】 《輕皇子升壇卽祚》
大伴連長德(字(あざな)馬飼)については、〈皇極〉元年十二月に、「小德大伴連馬飼」が〈舒明天皇〉の殯で蘇我蝦夷大臣の誄を代読した。 《犬上建部君》 犬神建部君については、 〈姓氏家系大辞典〉「犬上建部 イヌカミノタケルベ:〔日本〕武尊薨去後設置した建部の一にして、近江国犬上郡にありしが故に此の名あり」、 「犬上建部君:前項建部の首領にして犬上君と同じく稲依別王の後裔也」とある。 〈推古〉二十二年〔614〕に「犬上君御田鍬」に遣唐使、 〈舒明〉二年〔630〕に「犬上君三田耜」が再び遣唐使として派遣された。 この犬上君御田鍬は、犬神建部君と同一人物かも知れないが、判断は難しい。 《左大臣》 大臣二人制は、〈孝徳〉朝に始まる。蘇我蝦夷大臣に権力が集中する弊害を生んだ反省から、二人制をとり互いに牽制させるようにしたのであろう。 なお、日本の伝統では常に左が上位で、ここでも左大臣⇒右大臣の順に書かれている(第46回)。 《大錦冠》 大化三年是歳条に「制七色一十三階之冠」と定められる。錦冠は第四色にあたり、大小二階に分かれている。 後に中臣鎌子に授与された冠位を、ここに書いたのだろうと思われる。 《内臣》 『令義解』にも〈倭名類聚抄〉にも「内臣」はない。一時的、または非公式な制度であろう。 「内々に仕える臣」の語感があるから、おそらくは中大兄に秘書的に仕えたのであろう。 《封戸》 書紀古訓では、封戸を「ヘヒト」と訓む。 このヘヒトについて〈時代別上代〉は、「「戸人」(皇太神宮儀式帳)のヘヒトは家族・戸口の意として用いられ」、 「大化の改新…課戸が封戸で、その労働人口がヘヒトで」、「日本書紀古訓では、この本義に近い「戸口」以下、 「封戸」「封」、さらには封戸を食む「食封」までも一様にヘヒトと訓んでいる」と述べる。 実際には、奈良時代に封戸=フコ、食封=ジキフと発音されていたことは明らかだが、古訓ではこれらをも純粋な和語で訓もうとした結果であろう。 なお、封戸の制度の開始は大化二年正月の詔によるから、鎌子の封戸も後のことを繰り上げて書いたものであろう。 《至忠之誠》 「忠」は君主への忠誠で、訓読するならマコトであるが、「至忠之誠:マコトヲイタスマコト」ではさまにならない。 「至忠」への古訓「イサヲシ」〔雄々しい、勤勉な〕は、美化語に転じしめた意訳である。 次項の「宰臣」とともに「至忠」に音読を用いるのもひとつの方法かと思われる。 《宰臣之勢》 「宰臣之勢」は、その勢いを「宰相に匹敵する」と比喩するものである。よって「処二官司之上一」 〔官僚の上に立つ〕。何らかの打算があって、自ら大臣にならずに陰でコントロールすることを選んだのかも知れない。 書紀で「宰臣」という語はここが唯一だから、訓読は難しい。地方に派遣されるわけではないから、少なくともミコトモチではない。 〈倭名類聚抄〉では大臣以下の職名は、太政大臣-大臣-大納言-中納言-参議の順となっている。 「大納言【於保伊毛乃萬宇須豆加佐】」、「参議【於保萬豆利古止比止】」であるから、 宰臣をモノマウスツカサ、マツリコトヒトと訓むのも一案である。 その意味では、古訓「マツリコトニトノマヘツキミ」も一定の理解ができる。 ただ、ここではその場限りの比喩として用いられ、職名としての「宰臣」があったわけではないから、このように訓読しても意味は伝わりにくいだろう。 むしろ、音読の方がよいかも知れない。 《沙門旻法師高向史玄理》 〈推古〉十六年〔608〕に遣隋使小野妹子とともに、 「高向漢人玄理」、「学問僧新漢人日文」が学問僧として渡った。その後、 ・〈舒明〉四年〔632〕に学問僧「旻僧」」が帰国。 ・同九年〔637〕には「僧旻僧」が流星の説明を行う。 ・同十二年〔640〕には、「学生高向漢人玄理」が「清安」とともに、唐から新羅経由で帰国。 とある。 国博士の重要な役割のひとつが、唐の律令を参考にして倭の法制を整備することであったことは確実である。 その最初の成果が、大化年間の一連の詔であろう。 なお、「沙門旻法師」の訓みについは、沙門も法師もホフシであることが訓読者を戸惑わせる。 しかし、〈舒明〉九年の「僧旻僧」と併せて見れば、本当に「ホフシミンホフシ」と呼ばれたと思われる。 《大意》 これにより、軽皇子(かるのみこ)は、 固辞することができず、昇壇して践祚しました。 この時、 大伴の長徳(ながとこ)【字(あざな)は馬飼(うまかい)】の連(むらじ)は、 金の靫(ゆき)を帯びて、壇の右に立ちました。 犬上建部(いぬかみのたけるべ)の君は、 金の靫を帯びて、壇の左に立ちました。 百官、臣(おみ)、連(むらじ)、国造(くにのみやつこ)、伴造(とものみやつこ)、百八十の部(とものお)は、 周囲に列して拝しました。 この日、 豊財天皇(とよたからのすめらみこと)〔皇極〕に御名を奉(たてまつ)り、 皇祖母(すめみおや)の尊(みこと)とされました。 中大兄(なかのおおえ)を 皇太子(ひつぎのみこ)とされました。 阿倍の内麻呂(うちまろ)の臣(おみ)を、 左大臣(ひだりのおおまえつきみ)とされました。 蘇我の倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ)の臣(おみ)を、 右大臣(みぎのおおまえつきみ)とされました。 大錦(だいきん)の冠を 中臣の鎌子の連(むらじ)に授け、 内臣(うちつまえつきみ)とされ、 封戸を若于増して、云々といいます。 中臣の鎌子の連は、 至忠(しちゅう)の誠(まこと)を心に抱き、 宰臣(さいしん)の勢いにより、官司の上(かみ)に位置しました。 よって、進退・廃置を図り、従い仕え立ち云々といいます。 沙門旻法師(しゃもんみんほうし)と 高向史(たかむこのふみひと)玄理(げんり)とを、 国の博士(はかせ)とされました。 4目次 【皇極四年六月十五~十九日】 《天皇皇祖母尊皇太子召集群臣盟》
策の原意は、文書に紙を用いる以前の時代に竹に文字を記したものである。 策には杖の意味もあるが、黄金の杖を賜ったとは考えにくいので、古訓の通りフミタ〔=札〕であろう。 職を命じた詔が書かれていたと思われる。金銅仏の銘は金メッキの銅に文字が線刻されていて、金策もそのようなものかも知れない (元興寺伽藍縁起[Ⅲ]【光背・造像記の線刻】)。 なお、即位は14日で、15日の授与までに金策の製作が間に合ったとは到底考えられない。 《阿倍倉梯麻呂大臣/蘇我山田石川麻呂大臣》 大臣名の表記は、前段と不一致がある。 ・左大臣:阿倍内麻呂臣⇒阿倍倉梯麻呂大臣。倉梯は地名で、〈崇峻天皇〉の故地である。 ・右大臣:蘇我倉山田石川麻呂臣⇒蘇我山田石川麻呂大臣。 阿倍倉梯麻呂は、〈推古〉三十二年に「阿倍臣摩侶」、 〈舒明〉即位前2に「阿倍麻呂臣」として登場し、 比較的蘇我蝦夷には忠実な臣であった。 蘇我山田石川麻呂は蘇我蝦夷の甥にあたり(〈舒明〉即位前4)、 娘の遠智媛は中大兄に嫁いだ(〈皇極〉三年)。 倉梯麻呂は、蝦夷大臣の下で臣会議の有力メンバー、石川麻呂は蝦夷の親族で、蘇我本家との繋がりは深い。 蝦夷・入鹿の本家が除かれた後も、臣たちは丸ごと残り朝廷に仕えていたわけである。 《練金》
〈時代別上代〉はコナタ(水田)を「土を耕してよくこなれた田」とし、その項で練金の古訓をコナカネとして、そのコナは熟・錬の意味だと判断している。 ただ、コナは粉末、動詞コナスは細かく砕く意味であって、「練る」とするのは苦しい。 『類聚名義抄』でも「ネル」とその派生語以外は「ナラフ」〔鍛錬であろう〕ぐらいで、仮に練の訓にコナスがあったとしても極めて例外的だと思われる。 コナカネを金粉以外とすることは理解しづらい。 一方コマカネについては、〈時代別上代〉これを無視している。この語についての論考は、今のところ見つからない。 〈推古〉十三年に「高麗国大興王…貢上黃金三百両」とあるから、 高麗国産の金が輸入されていて、コマカネ、またはコマノクガネと呼ばれていた可能性はある。 《乙卯》 〈孝徳〉即位までの経過をまとめると、 入鹿暗殺の謀議が8日、 飛鳥板蓋宮での入鹿の殺害が12日、その日のうちに反中大兄派の制圧、 翌13日には蝦夷の死亡と邸宅の消失、14日に中大兄への即位の打診から〈孝徳天皇〉の即位式、 15日に両大臣への金策の授与、 そして19日〔乙卯〕の飛鳥寺前での盟約に至る。 これらの日付通りだとすればまさに電光石火の早業で、入鹿暗殺以前にすべての手順が周到に計画されていたことになる。 実際には日付は潤色であろうが、それでも新体制の構築が急がれたのは確かであろう。 なぜなら、新体制のスタートが遅れれば遅れるほど群臣間の亀裂を生み、その出身氏族同士が対立する危険性が増大するからである。 《大槻樹》 大槻樹は、法興寺の槻樹であろう。中大兄を中心とする蹴鞠の場面に出てきた(〈皇極〉三年正月「於法興寺槻樹之下打毱」)。 《盟曰》 盟曰の目的語は、割注の体裁になっている。本文からそのまま割注につながることは、古事記には時折見られるが書紀では例外的である。 《皇天仮手於我誅殄暴逆》 「皇天仮二手於我一誅二-殄暴逆一」は、 「皇天」〔皇孫を天降りさせた天〕が「我」〔皇極・軽皇子・中大兄〕の手を通して「暴虐」〔蘇我大臣・入鹿臣〕を「誅殄」〔殺し滅ぼす〕したことを意味する。 〈皇極天皇〉は、直前まで蝦夷入鹿体制によって政権が維持されていたのであるから、この規定に同意せざるを得ないことに心を痛めていたに違いない。 顧みて、「賜鞍作臣屍」の賜は、放置された入鹿の遺体を収容して蝦夷に届けたのが〈皇極〉の詔によることを意味する。 「許葬於墓。復許哭泣」も〈皇極〉の詔であろう。 それでも、今となっては弟の〈孝徳〉と腹を痛めて産んだ中大兄をバックアップするほかに、道はないのである。 《皇天》 「皇天」の意味は前項で述べた通りであるが、 これをスメラアマと訓むと、まるで天皇が天の上位にいるが如くになってしまうので、皇の原意のオホキナリを用いるのがよいだろう。 《心血》 書紀古訓では心血を「マコト」と訓む。他にイタハリも考えられるが、「心血を注ぐ」という表現でシンケツが日本語として定着していることから考えると、もともとはココロノチと直訳されていたように思われる。 チと訓むときの生々しさは、「瀝」(したたる)にも合う。 《君無二政臣無弐朝》 天皇〔孝徳;軽皇子〕・皇祖母尊〔皇極〕・皇太子〔中大兄;天智〕の三者が、群臣の面前で盟約する儀式を必要としたことは注目に値する。 中大兄がクーデターによって、皇極・蝦夷・入鹿体制を打ち倒したのは紛れもない事実である。 またその信条においては〈皇極〉が「順考古道」、〈孝徳〉が「尊仏法軽神道」で真っ向から反している。 しかし、中大兄が実力によって群臣丸ごとへの支配を確立した今、〈皇極〉からの譲位は当然の成り行きである。 それでも称号「皇祖母尊」を奉り、更に三者の盟約を必要としたのは、〈皇極〉が一定の影響力を残していたであろう。 もし三者が個別に群臣の一部と結びつけば、派閥間で対立し、ひいては血で血を争う事態に及ぶことは明らかである。 今君が三者一体となることを宣誓し〔=君無二二政一〕、群臣の内部対立を禁止する〔=臣無二弐朝一〕盟約が必須なのである。 《大化元年》 大化は、日本における歴史上初の年号である。唐に学んで律令国家を作る動きの一環であろう。 よって、当然音読みである。 これは、国博士に就任したばかり僧旻と玄理の提言によると思われる。 《大意》 十五日、 金策〔黄金製の任命札〕を、 阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の大臣(おおまえつきみ) と蘇我山田石川麻呂(そがのやまだのいしかわまろ)の大臣に賜りました 【ある文献によれば、練金(れんきん)を賜る】。 十九日、 天皇(すめらみこと)と皇祖母尊(すめらみおやのみこと)と皇太子(ひつぎのみこ)は、 大きな槻の木の下に群臣を召し集め、盟約をなされました。 ――【天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)に告げて白(もう)さく。 天を覆い地に載る帝の道は唯一なり。 されども、末代に澆薄(ぎょうはく)し〔=うすれ〕、君臣の序は失なわれた。 皇天は手を我に貸して、暴逆を誅殄(ちゅうしん)〔=殺し絶やす〕した。 今共に心血を瀝(したた)らす。 ゆえに、今より以後、 君(きみ)は政に二道なく、臣は朝廷に二心なし。 もしこの盟約に二心あれば、 天には災い、地には妖(あやしきこと)がおこり、鬼は殺し、人は討つ。 皎(あきらか)なることは日や月の如し。】 天豊財重日足姫天皇四年を改めて、 大化元年としました。 まとめ 古人大兄が皇位継承者候補の一人に名前が挙がるのは不自然で、当初はフィクションかも知れないと感じた。 敢えて候補の一人として描かれた狙いとしては、〈孝徳〉が儒教的な長幼の序を重んじる人物として美化したことが考えられる。 ただ、それがそれほど意味のあるとも思われないので、或る程度は事実が描かれているのかも知れない。 だとすれば、古人大兄に対して中大兄は冷淡だが軽皇子は親密で、それぞれの距離感によって違う相手に譲ったことになる。 その古人大兄は吉野に身を潜めた後、早くも九月には謀反を起こすから、既に即位を勧められた時点で中大兄・中臣鎌子派を滅ぼす心は決まっていたのであろう。 よって、中大兄らが圧倒的な発言権をもつ中では即位したくなかったのだと考えれば、一応納得できる。 さて、皇祖母尊は天皇と皇太子による仏教的な律令国家作りを見守るしかなかったが、天皇が崩じて自身が重祚するに至りブレーキをかけたように思われる。 その人物像は興味深い。これについては〈斉明紀〉のところで考察したい。 |
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2023.02.26(sun) [25-02] 孝徳天皇2 ▼▲ |
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5目次 【大化元年七月二~十日】 《間人皇女爲皇后》
大臣二人制となっても、依然としてそれぞれの娘を納め、競うが如くである。 二人は〈天智天皇〉にも娘を嫁がせ、 蘇我山田石川麻呂は遠智娘、姪娘、 阿倍倉梯麻呂大臣は橘娘を納めている。 《高麗百済新羅》 高麗・百済・新羅三国のうち、新羅に対してのみ詔旨を欠く。 高麗あての詔旨には、交流が始まってまだ日が浅いが、以後末永くよろしくと挨拶する。 百済には、任那からの調が闕(か)けていることを問い質す(下述)。 新羅への詔旨がないはずはないが、何が書かれていたのだろうか。 新羅とは〈推古朝〉の一時期を除けば、基本的に不仲である。上古の伝説時代には倭国の「御馬甘」(〈神功皇后〉段)と規定されたが、 今それを持ち出すと角が立ちそうである。 《兼領任那使》
この進の有無によって、少し後にある「調有闕」の意味は、次のように大きく異なる。 ●進あり:任那の調は納めるには納められたが、その量が少な過ぎた。すなわち「有闕=闕(か)けるところあり」となる。 ●進なし:任那の調を預かってくることになっているのに、納められなかった。すなわち「有闕=闕(か)けたり」となる。
倭は百済国内に「任那国」が存在して調を出した如くに見せよと求めていたが、 それに対して「調は納められたが量が少ない」のと、「要求自体が無視された」のとでは根本的に異なる。 以上から、進を挿入することは、百済による拒絶の程度を小さく見せるようにはたらく。 《巨勢徳太》 巨勢徳太は、〈皇極〉元年十二月に、〈舒明〉喪に軽皇子の誄を代読し、 二年十一月に山代大兄王を攻撃、四年には入鹿を殺されていきり立つ漢直の説得に当たった。 《明神御宇日本天皇》 明神御宇日本天皇は、天皇に向けての尊称である。 明神御宇の上代語による訓は、アキツカミトアメノシタニシラシメスであろう。 たとえば万葉歌を見ると、 (万)0029「天下 所知食兼 あめのした しらしめしけむ」がある。これは、柿本人麻呂が大津宮(〈天智〉)の廃宮を詠んだ歌である。 人麻呂が歌を詠んだ時期は〈持統〉から〈文武〉なので、この言い回しは書紀と同時代である。 よって「御宇」をアメノシタシラシメスと訓むことには根拠がある。 また「明神」の部分については、(万)1050「明津神 あきつかみ」があり、その題詞に「讃二久邇新京一歌」とある。 これは〈聖武天皇〉の恭仁(くに)京のことで、その建都は740年に開始され743年に中止された。よって、奈良時代の語はアキツカミである。 書紀古訓のアラミカミは、アラヒトカミ(アラヒトノミカミ)の意ではあろうが、アラ-は「荒」の意味で使われる語ばかりで、「荒魂(あらみたま)神」を連想させ覇王として讃える語になってしまうので、 適切ではないと思われる。 《詔旨》 詔旨に対して『類聚名義抄』が示す訓のひとつ、「ミコトノリラマ」については、 宣命六十一〔続記天応元年〔781〕四月癸卯〕に「明神止大八洲所知天皇詔旨良麻止宣勅親王…」 〔アキツカミトオホヤシマシラススメラミコトミコトラマト…〕とある。 しかし、〈釈紀-秘訓〉は「オホムコトノタマハク」でラマをつけていない。 訓としては、ミコトノリノムネが考えられるのだが、ムネ(旨)の意は既にミコトノリに含まれているであろう。 ラマは、ラ(等)と同じ意味である (第214回【播磨国風土記】の「奴僕良麻(やつこらま)」)。 他の宣命の「詔旨」にはラマがつくものとつかないものがあるので、宣命六十一は、宣命(ミコトノリ)に「等」としてラマをつけたものであろう。 《以百済国為内官家》 「以二百済国一為二内官家一」 の由来は、 〈神功皇后段〉の「新羅国者定二御馬甘一百済国者定二渡屯家一」、 (第141回)、そして〈神功皇后紀〉の の「毎年貢二男女之調一」である (〈仲哀〉九年九月)。 これまでの検討によれば、〈神功皇后〉の創作には主に2つのソースが用いられた。ひとつは魏志の卑弥呼、 もうひとつは、好太王碑文や『宋書夷蛮倭国伝』の時期に半島への進出した記録、または伝説である (六十二~六十六年【時系列の複合】)。 《三絞之綱》 「三絞之綱」はどう訓むのであろうか。 『類聚名義抄』では、「絞:ヨル クル クヒル シホル マトフ カサル」であり、三絞之綱は三本の紐を撚り合わせて作った綱であるのは確実である。 絞の訓みについて、〈時代別上代〉は「助数詞:せ[絞] 未詳(糸の撚り合わせをいうか)」と述べる。 同辞典は、同じ意味の「みつあひ」を、(万)0516「吾以在 三相二搓流 絲用而 わがもてる みつあひによれる いともちて」を見出している。 書紀古訓の「ミセ」は、今のところ唯一例である。 ヨルの名詞形にした助数詞ヨリも考えられるが、実際に用いられているヨリは回数〔=度〕のことである。 万葉歌の「みつあひによれる」を使えば、完全に上代語だから安全である。 《中間以任那国属賜百済》 任那国についてはたびたび考察してきたが、ここで簡単に振り返る。 『宋書』の頃は、旧弁辰地域の小国群のうちの一国として「任那」が存在した (〈神功皇后〉三十九年【三韓地域の国々】)。 任那国は6世紀のうちに消滅したが、倭国ではその名称が使用され続けた。 〈欽明天皇紀〉の原注では、国名ではなく加羅地域全体を指すと述べる。 その後は、「内宮家」〔=倭人の入植地〕を指す語となった。 (〈継体〉二十三年《四村之所掠》)。 加羅地域の小国群は、6世紀半ばまでは百済・新羅の緩衝地帯となっていたが、〈欽明〉二十三年〔562〕に新羅に占領された。 その後はしばらく新羅領の一地域で、〈推古〉十八年〔610〕には、新羅使が名目上の「任那使」を帯同して朝貢に訪れ、倭朝廷は大歓迎した。 これは、倭を百済から引き離し、自分に向かせようとする新羅の戦略と見られる。 その後、〈推古〉三十一年〔623〕には、百済による新羅への大攻勢があり、どうやらこの頃に加羅地域は百済が領有するようになったようである。 「中間以任那国属二-賜百済一」はこれを指すと見られる。 なお、新羅による占領時代のことは、「詔旨」には触れられていない。 百済使への「詔旨」は、かつて新羅は虚構の任那国を演出したが、今度は百済が同じことを行うように要求したと見て間違いないであろう。 《三輪栗隈君東人》 「三輪栗隈君」の地名「栗隅(くりくま)」は、〈倭名類聚抄〉に{山城国・久世郡・栗隈郷}、現在の宇治市大久保町。 〈推古〉十五年に「掘二大溝於栗隈一」、 また〈舒明〉即位前(6)に「栗隈采女」とある。 〈姓氏家系大辞典〉は「(三輪)栗隈君:三輪氏の族なり」と述べるだけで、栗隈地域との関係には何も触れていない。 しかし、栗隈族は朝廷に采女を出仕させる有力氏族で、県主家の姓が君だったのかも知れない。三輪氏との繋がりはよく分からない。 《観察任那国堺》 〈孝徳紀〉における「任那」は、慶州南道の倭系古墳地帯に点在した「内官家」〔=かつて倭人の入植地で現在も子孫が住む地域〕と見てよいであろう。 このときまでに三輪栗隈君東人を派遣してそれらの位置を調べ、その一帯を任那と呼ぶことに、百済国の了解を得たと思われる。 それをもって「百済王隨レ勅、悉示二其堺一」と表現したのであろう。 しかし百済は、自国からの進調をふたつに分けて、その一方を任那国が出した如くに装う気はなかったのだろう。 《百済王》 〈北野本〉などは訓を「百済王」と付しているが、これは古訓者自らが定めたコキシを誤ったようだ。とても間が抜けている。 第141回【新羅王】の項で、 百済・新羅の王がコキシと訓まれることについて考察した。 〈釈紀〉の〈欽明〉十五年、 〈欽明〉二十一年などにも見られる。 《不易面来》 倭語のオモガハリのニュアンス〔やつれた顔〕を考えると、「不易面来」は元気な顔を見せに来いという意味であろう。 どうせ仮病であろうと皮肉を言っているようにも読める。 《今重遣》 百済への「詔旨」の閉じ括弧は、「今」の前にあると読むと繋がりがよい。 ただ、今をイマと訓むとかなり不自然である。今の古訓にアラタムがあるので、アラタメテと訓むのがよいだろう。 《馬飼造》 〈天武〉十二年に、倭馬飼造・川内馬飼造・娑羅々馬飼造・菟野馬飼造が連姓を賜る。 どの地域の馬飼造かは、不明。 《鬼部達率意斯》 達卒は、百済の位階第三位。 「部(ホウ)」については、泗沘を五つの軍政区画に分けた名称が、上部・中部・下部・前部・後部、時期によっては北部・中部・南部・西部・東部である。 「鬼部」は三国史記には全く見えないので、おそらく書紀ができて間もない頃の筆写の誤りか。鬼に字形が似るのは東である。 《大意》 大化元年七月二日、 息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)の天皇(すめらみこと)の御娘間人皇女(はしひとのひめみこ)を立て、 皇后(おおきさき)とされました。 二妃を立てられ、 はじめの妃は、 阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の大臣(おおまえつきみ)の娘小足媛(おたらしのひめ)といい、 有間皇子(ありまのみこ)を生みなされました。 次の妃は、 蘇我山田石川麻呂(そがのやまだいしかわまろ)の大臣の娘乳娘(ちのいらつめ)といいます。 十日、 高麗(こま)、百済、新羅は、 そろって遣使進調しました。 百済の調使は、 任那使を兼ね、任那の調を預かりました。 しかし、百済の大使佐平(さへい)縁福(えんぷく)は、 病となり〔難波〕津の館(むろつみ)に留まり、 〔飛鳥〕京には入りませんでした。 巨勢徳太(こせのとこた)の臣は、 高麗使に詔を伝え、 「明神(あきつかみ)と御宇(あめのしたしろしめす)日本(やまと)の天皇(すめらみこと)は詔旨をのたまう。 ――天皇(すめらみこと)遣使と、 高麗の神の子の遣使はともに、 過去は短いが将来は長い。 ゆえに、温和なる心をもち、 相継ぎ往来すべきのみ」と言いました。 また、百済使に詔を伝え、 「明神(あきつかみ)と御宇(あめのしたしろしめす)日本(やまと)の天皇は詔旨をのたまう。 ――始めは、我が遠い皇祖の御世に、 百済の国を内官家(うちつみやけ)とされた。 これを喩えれば、三本を撚り合わせた綱の如きである。 半ばには、任那(みまな)の国を、百済に属すようになされた。 後には、三輪の栗隈(くりくま)の君(きみ)東人(あずまのひと)を遣わして、 任那国の境界を観察せしめられた。 その故に、百済王は勅に随い、 悉(ことごと)くその境界を示された。 ところが、〔任那の〕調は欠けたままである。 よって、調は返却する。 任那の出した物は、 天皇(すめらみこと)がそれとわかって御覧になれるようにせよ。 今から以後は、 つぶさに〔品ごとに〕国と調の産地を題すべし。 あなた、佐平たちよ、元気な顔を見せに来なさい。 速やかに必ずはっきりと報告しなさい。」といいました。 改めて再度三輪君東人(みわのきみあずまのひと)と 馬飼造(うまかいのみやつこ)【名を欠く】を派遣し、 また、 「鬼部(きほう)達率(たつそつ)意斯(おし)の妻子等を送り遣わすべし。」と勅しました。 6目次 【大化元年七月十二~十四日】 《當遵上古聖王之跡而治天下》
ここでは「聖王」と書かれ、「天皇」ではないところが気にかかる。 天皇号の使用が開始される前の古記録をそのまま載せたとすれば興味深いが、 実際には儒教を語る文として一般表現したに過ぎないと思われる。 《而治天下》 而はしばしば置き字にされるが、ここでは修辞的に「而治天下-可治天下」となっているので、而にも一定の意味を与えたいところである。 「而」には、助動詞として「能」と同じ意味があるので、ヨクと訓むことができる。「可」にも形容詞ヨシがあるので、ヨクと訓むことも可能ではあるが、普通はベシだから躊躇される。 しかし、ベシを文頭の「当」の再読に回せば、「可(よ)く」でもよいかも知れない。
「以悦使民之路」の以は一見接続詞で、〈内閣文庫本〉(右図)の右訓もそう読んでいるが、その場合「悦」の扱いが問題になる。 「使民之路」は、"使役動詞(使)+目的語+補語動詞句(動詞+目的語)"の構文であるから、之=「行く」である〔使民之路=民をして道を行かしむ〕。 そして「使民之路」が名詞化して「悦」の目的語になる。だとすると、 「大夫与百伴造等は、民に道徳を教えることを自らの悦びとせよ」という意味になる。 これは文章としては成り立つが、普通はこうは言わないだろう。 どう考えても、「正しい道を行く悦びを民に与えよ」という文章のはずである。 右訓と朱訓点は「以」を接続詞としながら、「悦」を「(民をして)ヨロコバシム」と訓んでいるが、これでは文法に合わない。 そこで以を接続詞ではなく悦につけた前置詞だとすると、「以レ悦」〔よろこびをもって〕となる。これなら民が悦びを感じながら正しい道を求めるようにせよと読むことができる。 左訓はそのやり方で「ヨロコブ心ヲ以テ」と読んだと見られる。 《之路》 ひとつの解釈として「之路」〔ゆくみち〕は道路の意でその整備を命じたとも読め、大化の改新の詔に駅鈴令が出てくるから一定の根拠がある。 通行が便利になれば、民にとっても悦びかも知れない。 しかし、前日の詔には「遵二上古聖王之跡一」とあるから、 この日の詔もそれに関連するもので、庶民への儒教道徳の普及を命じたと読むのが妥当であろう。 《祭鎮神祗》 「祭鎮神祗」に限っては、「詔」ではなく蘇我石川麻呂大臣が「奏」したものだから、神道勢力が大臣に働きかけたのであろう。 〈孝徳〉体制は律令国家を志向し、仏教をその思想とする基本は変わらないだろうが、神道を中心とする古来の伝統にも一定の目配りをしたと考えられる。 《倭漢直比羅夫》 倭漢直の祖は、〈応神〉二十年に「倭漢直祖阿知使主」とある。 直姓〔アタヒというカバネ〕については、資料[25]《文宿祢》〔東文(やまとのあや)=倭漢〕が参考になる。 倭漢直比羅夫は、三年に「工人大山位倭漢直荒田井比羅夫」とあり、土木技術集団を率いていた。 〈応神朝〉に渡来した先祖は、文字や養蚕、織物、土木、建築、科学など多面にわたってインテリジェンス(intelligence)をもたらしたと考えられるが、 氏族としてずっとその技術力を維持してきたようである。単に子孫であるだけでは能力が停滞することは目に見えているから、 組織集団として新たに渡来した才人を受け入れながら発展を続けてきたと思われる。 《忌部首子麻呂》 忌部首は、祖の太玉命の役割が特筆されたが(第49回)、その割には人物名が少ない。 〈姓氏家系大辞典〉は、「秦漢両氏と同様、実際上の勢力が甚だ大なりしことは之を認めざるべからず」としつつ、 「中臣氏の勢復興して、神祇界に於ける勢力を握りしにより、忌部広成は憤慨して古語拾遺を著せしものと愚考す」と述べる (資料[25])。 《供神之幣》 幣の古訓は「マヰナヒ」となっている。 マヒナヒには賄賂の語感が強いので、ミテグラの方が適切であろう。 さて「課供神之幣」は、「課二供レ神之幣一」、すなわち尾張・美濃両国に神に供えるための幣を提供することを命じたと訓めるが、納得しがたい。 〈延喜式〉を見ると、「開遣唐舶居祭住吉社。幣料絹四丈…」などとあり、幣帛は朝廷(神祇官)自身が用意して社に納めるものであって、 特定の国に供出を命ずるような性質のものではない。強いていうなら各国から満遍なく集めた財の中から、祭事ごとに出すものと考えられる。 ここでは「課レ供二神之幣一」、 すなわち尾張国と美濃国の社で行われたなんらかの祭事のために、神に供える幣を持って行かせたと読むべきではないだろうか。 《大意》 〔大化元年七月〕十二日、 天皇(すめらみこと)は 阿倍の倉梯万侶(くらはしまろ)の大臣(おおまえつきみ)と 蘇我の石川万侶(いしかわまろ)の大臣に、 「上古の聖王の御跡(みあと)を遵守し、 よく天下を治めるべし。 また、信の心を持って、よく天下を治めるべし」と詔されました。 十三日、 天皇は 阿倍の倉梯麻呂(くらはしまろ)の大臣と 蘇我の石川万侶(いしかはまろ)の大臣に、 「大夫(まえつきみたち)と百(ももの)伴造(とものみやつこ)等に問いを巡らし、 悦びの心をもって民に道を行かせるべし。」と詔されました。 十四日、 蘇我の石川麻呂の大臣は、 「まず神祗を祭り鎮めることを以って、然る後に政事(まつりごと)を議られるべし」と奏上しました。 この日、 倭漢直(やまとのあやのあたい)の比羅夫(ひらふ)を尾張の国に、 忌部首(いんべのおびと)の子麻呂(こまろ)を於美濃(みの)の国に遣わし、 神の幣帛(へいはく)を供えるよう命じました。 まとめ 三輪栗隈君東人を百済国に派遣して、百済国領土のうち一定の地域が上古の任那国だったと決めさせた。 実際にどの程度の調査が行われたかは分からないが、仮に具体的に正確な位置を定めたとすれば逆効果であろう。 ここで思い起こされるのは、〈推古〉十八年に新羅使の副使を名目上の任那使に仕立てたことである。 その工作にはかなりデリケートなところがあったと思われ、阿吽の呼吸で進められたのであろう。 任那からの献調はそもそも作り事であるから、細かいところはあいまいにしておくのが花で、 どこそこの地域が任那であると具体化してしまうと却って事態をこじらせる。 なぜなら地域が特定され、そこが方物の産地であると明示して納めれば、そこに本当に任那国が存在することになってしまうからである。 よって、「可三具題二国与所一レ出レ調」 〔調の品ごとに国名と産出場所を記した札をつけるべし〕 なる要求に百済が応ずることは決してなかったと思われる。 |
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2023.03.11(sat) [25-03] 孝徳天皇3 ▼▲ |
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7目次 【大化元年八月五日】 《詔東國等國司》
〈景行天皇〉段・紀では、「東国」は碓日峠もしくは足柄峠以東である(第130回)。 また、〈天武天皇〉上巻では不破の関(関ヶ原)以東を指す(第11回)。 「拝東国等国司。仍詔国司等」は、拝したのは東国の国司、詔を下した相手は全国の国司と読むべきであろう。 詔の内容は全国向けと考えられるからである。 東国での国司の任命は畿内以西に比べて遅れていたのであろう。 詔の最後に「於倭国六県被遣使者」への呼びかけがあるから、大和国内の県主(評司)も同席させていたと考えられる。 国司は、任地に戻って評(郡)に伝達することになる。 大和国内の評司も集めておけば、詔の内容を伝達する手間が省けるからである。 《拝国司》 「国司」なる語は、〈孝徳天皇紀〉に至り数多くなる。 これ以前には、〈顕宗天皇記〉の「播磨国司来目部小楯」が目立つ(〈顕宗〉即位前5)。 『播磨国風土記』(美嚢郡)にはこの人物は出てこない。「国司」は書紀による潤色かも知れない。 「国司」本来の意味で使われたのは十七条憲法(第十二条)の「国司国造」が初出で、それ以前は、伝説において比喩的に名称を用いたものと思われる。 古訓のミコトモチについては、「宰」が地方に置いた出先機関の意味で使われるのは〈推古紀〉十七年の「筑紫大宰」が初出。その前身と見られるのが「那津之口官家」(〈宣下〉元年)である。 伝説の時代では、東山道の「都督」がある(〈景行〉五十二年)。 「司」の基本的な訓みは、〈倭名類聚抄〉「隼人司【波夜比止乃豆加佐】」を始めとして、織部司、内膳司、主水司、西市司に「豆加佐」とある。 「造酒司【佐希乃司】」などで訓みを「司」とするのは、司=ツカサは自明であったからであろう。 〈孝徳天皇〉の詔は、後の近江令に繋がるから、〈孝徳紀〉の国司は既にクニツカサと見られる。 書紀古訓は古風な「ミコトモチ」を、書紀全体に広げて用いたのであろう。 《国司》 飛鳥時代には、律令国レベルの「国」には、まだそれほどの行政機能はなかったと言われる。 『飛鳥の都』〔岩波新書2011;吉川真司〕は、「七世紀後半から八世紀初頭にかけて」 の荷札木簡は、「多くの場合、荷札は郡家(評家)で作成され、租税物品に取り付けられた」ことから、 「それを国司がざっと確認」しただけで、「国司の駐在する国庁は、七世紀代にはまだ独立せず、主要郡家に付属する状態であったと見られ、 それぞれの評が地方行政で重い役割を担っていた」と述べる(pp.183~184)。 ここで思い起こされるのが『隋書』に出て来る「軍尼〔クニ〕一百二十人」で、これは国造、県主、後の評(郡)のレベルであろうと推定した (隋書倭国伝(1)、同(4))。 まだ律令国レベルの国の存在は見えない。 下述するように、「得騎部内之馬。得飡部内之飯。」の「部」が郡と推定されることも、地方行政の実質的な主体が郡であったと考えれば理解できる。 したがって、この時点での国司への詔は、将来の律令国確立に向けての出発の号令という性格のものであろう。 《隨天神之所奉寄》 「隨天神之所奉寄」という言い回しは、宣命(一)(〈文武〉元年〔697〕)の「天坐神之依之奉之随」に酷似する。 その訓読は「天坐神之依之奉之随」であろう。 すなわち、奉はウケタマハルと訓むのが自然で、よって「奉寄」の主語は、天からヨサシ(任務)を承った天皇となる。 《国家所有公民大小所領人衆》 切れ目の位置は「国家所有公民/大小所領人衆」で、国家が所有する公民および、大小の氏族が領する人衆の意味であろう。 《公民》 「公民」が出て来るのは、書紀ではここ以外には、〈推古〉二十七年のみである。 一方、続紀には数多い。 そのうち、延暦八年〔789〕五月己未〔十八〕の「太政官奏言。」(下述)の、 「公民之後変作二奴婢一」では、「公民」は良民の意味で使われている。 天平元年〔729〕八月癸亥、宣命六の「親王等、諸王等、諸臣等、百官人等、天下公民、衆聞宣。」においては、「公民」は書紀古訓のオホミタカラに相当する。 『令義解』には「公民」はなく、むしろ「良人」が使われる。よって、「公民」は法制における用語とはいえない。 良人、奴婢について述べた部分の一部を拾い出す。
「人民」の訓みについては、第164回/【人民】の項で考察したが、ここで改めて見る。 〈倭名類聚抄〉には、 「人民:日本紀云人民【和名比止久佐】〔ひとくさ〕一云【於保太加良】〔おほたから〕」であるが、 『倭名類聚抄』十巻本には、「日本紀私記云人民【比止久佐。或説云二於保无太加良一】」とある。 ニ十巻本の「无」の欠落は必ずしも誤りではなく、平安期のンを省く書法かも知れない。 私記におけるオホミタカラは、〈乙本〉・〈丙本〉に
〈神代上〉に「顕見蒼生。此云宇都志枳阿鳥比等久佐。」があるから、ヒトクサの方は書紀自体の中に根拠があると言える。 しかし、オホミタカラの根拠になるような記述は、書紀本文には見られない。 万葉には、人民=オホミタカラに影響を受けたと見られる表現は皆無である。編纂の中心を担ったと見られる大伴家持の最後の歌は759年である。 書紀の解釈については、日本紀講筵の第一回が養老五年〔721〕、第二回が弘仁私記序によると弘仁四年〔813〕である (〈釈紀-開題〉所引『康保二年外記堪申』)。よって、オホミタカラなる訓が生まれたのは、759年から813年の間ではないだろうか。 〈乙本〉ではオホミタカラ、〈北野本〉ではオホムタカラであることがその推定を裏付けるかも知れない。 オホムタカラの発音は実際にはオホンタカラで、平安時代における一種の音便だと考えられる。 ミタミ(御民)をオホミタカラ(御財)に譬える発想は理解できるのだが、それがどういう経緯で訓になったかはまだ見つけ出せない。 オホミタカラが生まれたのが奈良時代後半とするなら、上代語の範囲内ではある。 また、公民は法制用語ではないから、文脈によってはオホミタカラもあり得るだろう。 オホミタカラを使わない場合の公民の和訓はオホヤケタミ、キミノタミなどが想像されるが、 今のところどこにも見つからないので使用は躊躇される。 《其薗池水陸之利与百姓倶》 「其薗池水陸…」の「其」は何だろうか。 天子の詔においては、文頭の「其」は命令形を表すとされる。一方、単に言い出しのことばと述べる辞書もある。 「魏志倭人伝(47)【「其」の文法】」において 「漢語は名詞の格変化や動詞の活用がなく、もともと句読点もない。その結果文の区切りが見えにくい場合に「其」によって文頭を明確にすることができる」と考察した。 文頭の「其」は一般的に文章中の区切りの機能がある。詔の中ではそれが強調としてはたらき、また詔はそもそもあらゆる部分が命令であるから、結果的に命令を強調する機能をもつことになる。 《汝等之任》 「之任」を、古訓では「之レ任ニ」、即ち「之」を行く〔マカルは命じられて赴く意〕、「任」を任地と解釈する。 その前後の文の意味は、「凡国家所有公民大小所領人衆」=「国家や大小氏族が所有する人民全体に対して」、「汝等之任」=「お前たち国司に命じる」、「皆作戸籍及校田畝」=「戸籍の作成と田畠の検査を」である。 訓読するには、この3要素を表す文章を作ればよい。 古訓の「之任=任地に赴き」はひとつの読み方として成り立たないことはないが、「任」に「地」の意味を含めるのは強引であろう。 之の用法の一つとして、VOを逆転するときに「O之V」と表す場合があるので、「任二汝等一」と読む方法もある。 《戸籍》 「作二戸籍一」は、庚午年籍の端緒と位置付けられよう。関連する記述は、次のようになっている。 ●〈天智〉九年〔670;庚午年〕)「二月。造二戸籍一」。 ●〈続紀〉大宝三年〔703〕に「宜下以二庚午年籍一為上レ定」。 ●〈続紀〉宝亀四年〔773〕五月辛巳の記事「官判依二庚午籍一為レ定」(資料[18])。 〈続紀〉には、庚午年籍への言及が全部で十八カ所に上り、極めて重視されたことが分かる。 ここで注目されるのは、戸籍作りの対象が「国家所有公民」とともに、「大小所領人衆」とされていることである。 現実は大小の諸族が所領する人衆が人口の大きな部分を占め、国民全体を国家所有の公民にするまでには、まだまだ道が遠いことを示している。 なお、「人衆」は名目上は天皇の民を諸族に領(あづ)けたもので、理念としては「オホミタカラ」に含まれる。 その意味では、ここの公民だけをオホミタカラと訓むのは不適切である。 《与百姓倶》 「与百姓倶」の「与百姓」は前置詞句〔=百姓と〕で、「俱」が動詞の命令形〔=ともにせよ〕であろう。『仮名日本紀』〔大同館書店1920〕は註解で 「国司等が独り利を占むる事を得ずの義」と述べる。 《在国不得判罪》 国司なのに「在レ国不レ得レ判レ罪」〔自国で罪を裁いてはならない〕というのは理解しがたい。 「在国」とあるのは、必ず朝廷に報告して裁可を受けよという意味かも知れないが、あまりにも非現実的である。 ここから「令致民於貧苦」に直結して「不レ得レ判レ罪令レ致二民於貧苦一」とすれば、 「裁判を怠れば、人民を苦しめることになる」と読める。しかし間に「不得取他貨賂」が入ることによって、奇妙な文章となる。 少し修正して「在国勿或不得判罪或取他貨賂而令致民於貧苦」〔国にあっては、必要な裁判を怠ったり、人から賄賂を取ったりして民を苦しめるようなことをするな〕とすれば意味が通る。 しかし、原文のままでも「罪を判(かむが)ふることを得ずして、他より貨賂(まひなひ)を取りて、民を貧苦に致らしむことを得ず」と和読してみると、不思議なことにその意味に聞こえてくる。 この和読文が真意だとすれば、第二十五巻はα群〔真正の中国語で書かれた巻〕とはいえ、この部分については倭習と考えざるを得ない。 すると、この段では〈孝徳天皇〉による詔の実物を、そのまま変えずに書き込んだ可能性が出て来る。 《大意》 〔元年〕八月五日、 東国などに国司を任命しました。 そして、国司らに詔を発しました。 ――「天神(あまつかみ)の命を承るに随い、 まさに今、初めて国々を治め正そうとする。 国家の所有する、また大小〔氏族〕に所領した人民は、 すべてお前たちに任せる。 皆戸籍を作り、田畝を検地せよ。 園地、水陸の利は、百姓と共にせよ。 また、国司らは、在国で罪を判ずることをまことに行わず、 人から貨賂を取り、民を貧苦に至らしめてはならない。 《上京之時不得多從百姓於己》
上京の際、「不レ得三多従二百姓於己一」は、 国司が領主然として振舞うこと禁止したものと読める。国司は地方行政官に過ぎず、多数の百姓の随行は必要ない。 中央集権化の一環であろう。 これを「其薗池水陸之利、与百姓倶」と併せると、人民に過剰な負担をさせない狙いもある。 〈皇極〉紀には、蘇我蝦夷入鹿による人民のへの圧迫は随所に書かれていた。 中大兄らによるクーデターの成功は、人民の不満が高まっていたという背景抜きには考えられない。 その経験から、政権の維持のためには国司が地方領主化して圧制することの防止は必須であることを学んだと見られる。 《郡領》 国司が国の四官であるのと同様に、郡の四官を郡領という。 〈倭名類聚抄〉によると、郡の四官は、大領・小領・主政・主張である。 郡(大宝令以前は評)は、国造、県と同レベルと考えられる〈欽明〉四年。 「郡領」の訓は「こほりのつかさ」であろう。 但し、郡は大宝令以前は評と呼ばれ、書紀の「郡」は「評」を書き換えたもので、この詔が存在したのなら「評領」と書かれていたはずである。 評の前身は国造・県主と見られる(資料[26])。 「国造郡〔評〕領」は、旧い呼称国造と新しい呼称評領を並記したのであろう。 〈時代別上代〉は「大化改新以後は祭祀を司り、政治的な官職ではなくなったが、多くは郡司に任じられ、勢力を保ち続けた」と述べる。 日前神宮・国懸神宮の宮司は現在でも「紀伊国造」である(第108回《天道根命》)。 《部内》 部の古訓のひとつ、コホリは朝鮮語由来の語といわれるので、百済の「五方五部」〔首都の行政区画〕の「部」によるか。 馬や食料などの差配は、実質的な行政機構である郡(評)が担ったと思われる。「国」は、まだ郡の代表者による調整機関に過ぎないようである。 《須》 『類聚名義抄』には、「須」に「スヘカラク……スヘシ」がある。 『古典基礎語辞典』には「上代には、活用形が未発達で、連用形ベク・終止形ベシ・連体形ベキのみが使われていた」 というので、未然形ベカラは中古以後である。おそらく漢文訓読体の生成の時期に、ク語法を用いて作り出されたと思われる。 従って、上代にはまだ「すべからく…すべし」はなかったようだ。『類聚名義抄』の「須」の訓にはカナラス〔=必〕、ヘシ〔べし〕、モテス〔=以てす〕などがある。 《判官》 国司の四等官は、守・介・掾・目である。ここでは介は一致するが、掾にあたる語が「判官」となっている。 一般的な称である判官から掾が分化したのは、もう少し後の時期なのかも知れない。 《二倍徵之》 「取二他貨賂一二倍徵之」、すなわち賄賂を取った場合は罰としてその二倍が徴収される。 現代の不正乗車については、本来の運賃に加えて罰則として二倍、計三倍の額を徴収することになっている。 それと同じ発想なのが興味深い。 《其長官従者九人》 「其長官従者九人」の「其」も命令文の文頭に置く、または区切りの助詞である。 《従者》 「従者」には、平安時代には字音によるズサがある。上代に遡るかも知れない。 トモは「友」、「共」であり、 「供」(随行)でもある。従者には、トモ、トモヒト、トモノヒト、トモナラムヒト、トモナヘルヒトのどれも使い得ると思われる。 《主典》 「主典」に類似する官名としては、 〈倭名類聚抄〉に「次官:内侍曰典侍」「判官:内膳曰典膳」「佑官:大宰府曰典」とあり、四官のどれにあたるかは定まらないが、フミを扱う官職の意と思われる。 よって、四官制とは無関係にフムヒト〔フミヒト;=史人〕と訓んだのであろう。 文脈から見ると、長官(カミ)、次官(スケ)に次ぐ地位を指したと考えられる。 《若違限外将者》 「若違限外将者」を漢文として訓もうとすると、「若し限られし外の将(いくさのきみ)を違(たが)はば」などとなるが、意味不明である。 ところが、文法を無視して字を順番に読んでいくと「若し違へて限りの外に将(ひきゐ)者(ば)」となり、和文としては意味が通る。 「将」を「率いる」の意味で使おうとするなら「将外者」、少なくとも「将之者」として目的語を将の後に置くべきであろう。 ここでも和風漢文によって書かれた詔が残っていて、それをそのまま録したと考えざるを得ない。 《大意》 上京の時には、 多くの人民を自分に従わせてはならず、 ただ国造(くにのみやつこ)、郡領(こおりのつかさ)だけを同行させることができる。 但し、公事のための往来の時には、 部内の馬に騎乗し、 部内の食料を食してもよい。 介(すけ)以上は、 法を正しく守れば必ず褒賞し、 法を違えれば相当に爵位を落とすべし。 判官(まつりごとひと)以下は、 人から貨賂を取れば、二倍を徵せ。 その上で、軽重に従って罪を科せ。 長官(かみ)の従者は九人、 次官(すけ)の従者は七人、 主典(まつりごとひと)の従者は五人とし、 もしこの限度を越えて率いれば、 主と従者に、揃って罪を科すべし。 《若有求名之人元非國造伴造縣稻置》
「辺国近与蝦夷接境処」の対象は、 具体的には蝦夷と向かい合う最前線であった越後国と読める。〔太平洋側では常陸国が該当する〕 〈皇極〉元年で見たように、蝦夷に備えるために 「磐舟柵」(〈大化四年〉)、「石船柵」(〈文武二年〉)を整備した記事がある。 辺国は「国内の境界近く」のようにも読めるが、基本的には「周辺にある国」を意味する。 よって、文の区切りは「辺国近/与二蝦夷一接レ境処者」で、 すなわち「外側の国が近く、(その国の)蝦夷と境と接する所は」であろう。 《猶仮授本主》 「猶仮二-授本主一」〔なお、これまでの領主の支配に委ねる〕という。 蝦夷と向かい合う最前線では兵力を国司の直轄下に置くことは実際には不可能で、 現在の地方領主が私兵を率いる形態を維持せざるを得ないという現実を、赤裸々に述べている。 律令国の設置は、まだ緒に就いたばかりである。 《仮授》 ここで「仮授」に仮がついている理由を考える。 「窃自レ仮二開府儀一。同二三司一。其余咸各仮授。以勤二忠節一。」(宋書夷蛮倭国伝をそのまま読む)を例にとると、 これは既に認められた「三司」〔新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓〕に加えて、「其余」〔百済〕を倭に授けることを要求した文である。 形式的に倭が宋によって封じられる形をとるから、「領地を一時的に授かる」という意味で「仮」をつけるわけである。 《其於倭国六県被遣使者》
前置詞「於」は、受け身文においては能動者を表すから、 この部分はどう読んでも、大和国の六県から遣わされた使者に向けたものである。 しかし、詔自体は国司に向けたものであった。 内容的には、六県向けの「宜造戸籍幷校田畝」と、国司向けの「作戸籍及校田畝」と同じである。 郡領〔または県主〕に対しては、当然同じ内容の指令が国司から伝達される。 既に《東国》の項で述べたように、大和国六県にはその手間を省くために同席させたことが考えられる。 もしそうでなければ、書紀執筆時に誤って混入したものとなる。 「六県」は、第195回《五村苑人》の項で見たように、 高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布である。 そこに宇智郡・宇陀郡・吉野郡の地域は含まれていない。 〔吉野郡については、716年頃に芳野監が置かれるまでは「吉野国」だったかも知れない〕 ここから大宝令までの間に分割や追加があり、十数個の評〔こほり〕になったのであろう。 《大意》 もしも称号を求める人がいて、 元々国造(くにのみやつこ)伴造(とものみやつこ)県(あがた)の稲置(いなき)でもないのに、 安易に偽りの訴えを起こし 『我が祖の時よりこの官家(みやけ)を領する、この郡県を治めている』と申したとしても、 お前たち国司は偽りのまま容易く朝廷に牒してはならず、 詳らかに実情を調べ得た後に、牒すべし。 また、閑散とした地に、 兵庫を起造し、国郡が集めた刀甲や弓矢を納めよ。 隣国が近く、そこにいる蝦夷(えみし)と境界を接するところでは、 できる限り数多い兵器兵員を集め、 しかしなお元の主に預けるべし。 倭国(やまとのくに)の六県(あがた)から遣わされた使者は、 戸籍を造り、田畝を検地すべし 【墾田の代(しろ)〔面積の単位〕、畝を検査し、 及び民の戸の口年紀(構成員の年齢の記録)を謂ふ】。 お前たち国司は、この詔を明確に聴き、退出すべし。」 すなわち、それぞれに応じて帛布(はくふ)を賜りました。 8目次 【大化元年八月五日是日】 《設鍾匱於朝》
漢語「尊長」は、先輩、上役などを広く指す。古訓の「ヒトゴノカミ」は書紀古訓特有の語と見られる。 「尊長」と表記される役職や地位は、書紀・続記・『令義解』・〈倭名類聚抄〉のどこにも見られない。一般的な長としてはカミ甲・ヌシ・ウシ・キミ・ヲサがある。 伴造は、部民を統括する役職。「伴造尊長」は、「伴造、またはそれに相当する立場の人」の意か。 あるいは、(万)3847「五十戸長我 課役徴者 さとをさが えつきはたらば」 にあるサトヲサも考えられる。 《阿党有曲訴者》 牒を櫃に納めるのは、伴造や尊長に訴えを握りつぶされた場合を想定しているが、偽りの牒を提出して陥れようとすることも当然考えられる。 「阿党有曲訴」は後者を指す。このように、鍾匱の制度設計は性善説にも性悪説にも偏らず合理的である。 《懸鍾置匱於朝》 牒が結果的に曲訴と判断された場合を含め、朝廷はともかくは対応したということを鐘を撞いて知らせる。 これにより、匱に牒を納めよとは言うが、どうせ格好だけで実際には無視するに違いないという人民の疑念を払拭するのである。 つまり、鍾匱の制は確実に受け取って処理したことを天下に示す効果がある。 一見後世に創作された善政伝説のようにも見えるが、考え方に合理性があり〈孝徳〉朝の詔の内容が大宝令まで繋がっていくことを考えると、 史実と考えてよいのではないだろうか。 《男女之法》 「男女之法」はもともと別建であった詔または法を、書紀をまとめる段階で「設鍾匱」の詔に接続した印象を受ける。 詔の閉じ括弧は「又男女之法」の前に置くのが自然ではあるが、 そうすると男女之法の前に「又詔曰」がないことが逆に不自然になる。 ひとまずくっつけたままで、一つの詔としておくしかない。 さて、この男女之法が奈良時代末期まで効力を保っていたことを示す記事が、続紀にある。
これを書紀が大化元年に遡らせた可能性は残るが、 一連の法制が大化年間に定められていて、その一部と見做せるから大体はこの時期と見てよいのではないだろうか。 《良人》 良人については、『後漢書』梁統列伝に「或取二良人一。悉為二奴婢一。至二数千人一」、 また『三国志』魏書/斎王紀に「官奴婢六十已上。免為二良人一」とある。 これらから、奴婢に堕ちていない民を良人ということが分かる。 『令義解』の「良人」は、それを取り入れたと見られる。 書紀古訓では、「人民」を「オホムタカラ」と訓んだ。人民に奴婢は含まれないものとすれば、公民・良民・良人はすべてオホミタカラである。 それを徹底すれば良男・良女はオホミタカラノヲノコ、オホミタカラノメノコとなる。実際〈北野本〉はオホムタカラヲノコ、オホムタカラメノコとする。 『仮名日本紀』もそれを継承し、 「おほんたからのをのこ、おほんたからのめのこ」とする。 一方、『類聚名義抄』の「良」の項には、良人、良民の訓みを載せていない。 一般的な訓みについては、(万)0027「淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三 よきひとの よしとよくみて よしと[い]ひし よしのよくみよ よきひとよくみ」という駄洒落のような和歌がある。 これに見るように、良人=ヨキヒトである。あまりにも当たり前だから、『類聚名義抄』も載せなかったのであろう。 『令義解』の良人にも訓は付されない。少なくとも書記古訓以外では、良人と良女の「良」をオホミタカラと訓読することはなく、 書紀古訓のみがオホミタカラを絶対視して突っ走った結果と思われる。 さらには、《公民》の項で見たように、オホミタカラは必ずしも奴婢を排除していないから、"良=オホミタカラ"には問題が残る。 平安期には日本書紀はひとつの教養とされていたようで、 『紫式部日記』〔1008~1010〕には、「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」という「日本紀の御局」の話がある。 この平安の言語空間においても、書紀古訓は特殊な世界を形成していたと思われる。 ところが、鎌倉時代の〈釈紀-秘訓〉を見ると、そこには良人・良男・良女に訓を示していないところが注目される。 〈釈紀-述義〉にも、これらの語に関する解説はない。〔但し公民については、〈推古二十八年〉で「公民」としている。〕 卜部兼方はこれらに訓を付けないことによって、暗黙のうちに行き過ぎだと批判しているようにも感じられる。 もし良人=ヨキヒトが許容されれば、良男=ヨキヲノコ、良女=ヨキメノコも可能であろう。 『令義解』の「良人」は、漢語の「奴婢でない人」の意であるが、これがヨキヒトと訓まれたか、あるいはもっぱら音読が用いられていたかは定かではない。 《奴婢》 〈倭名類聚抄〉には、奴婢は 「奴僕:奴【和名豆布祢】人之下也【和名夜豆加礼】侍従人也」、 「婢:婢【和名夜豆古】女之卑称也」 とあるが、奴〔男子〕をヤツカレ、婢〔女子〕をヤツコと呼ぶのは実際のところには合っていない。 書紀古訓に用いられた一人称の卑称、ヤツカレを誤解したと思われる。 万葉には、(万)3828「痛女奴 いたきめやつこ」 とあるので、性別を添えるときは、奴=ヲヤツコ、婢=メヤツコであろう。 〈北野本〉はヲノコヤツコ・メノコヤツコと訓んでいる。 《大意》 この日、 鍾(かね)匱(ひつ)を朝廷に設けて、 詔を発しました。 ――「もし憂えて訴える人がいて、 伴造(とものみやつこ)がいれば、 その伴造がまず勘案して上奏せよ。 尊長がいれば、 その尊長がまず勘案して上奏せよ。 もしその伴造や尊長が訴えを審査しないときは、 文書を返却させ牒として匱(ひつ)に納めて、無視した伴造や尊長を罰せよ。 その収められた牒は、 暁に牒を取り出し、内裏に上奏せよ。 朕は年月を題して群卿に示す。 或る場合は伴造や尊長の怠慢で審理せず、 或る場合は一族に阿って曲訴することもあるが、 いずれも鍾を撞くべし。 以上により、朝廷に鐘を懸けて匱を置け。 天下の民は、皆朕の御心を知れ。 また、男女の法は、 良男良女の間に生まれた子は、父に配せよ。 もし良男が婢を娶れば、生まれた子は母に配せよ。 もし良女が奴に嫁げば、生まれた子は父に配せよ。 もし両家の奴婢の間なら、生まれた子は母に配せよ。 もし寺家の仕丁なら、子は良人の法の如くにせよ。 もし別に入れた奴婢であれば、奴婢の法の如くにせよ。」 今、確実に人の制を作った始めを、ここに見ます。 まとめ 大化元年の詔が命じた戸籍作り、田畑の検査、軍備、鐘櫃令、男女法は、実質的に国造(郡領)及び伴造への指示である。 それが大化元年における地方行政の実態であったが、この年の詔によって朝と郡領の間の中二階として、国司が管理する確かな国を設けようとしている。 それまでに「~国」の称は確かにあったが、それらの国名は弥生時代から古墳時代に存在した地方政権の名残であって、 国家による地方行政機関としては確立していなかったと思われる。吉備国・越国・毛国については、それぞれの広大な地域を分割して複数の律令国が置かれたのであろう。 国衙を中心とした律令国の経営が安定したのは、奈良時代の半ばと言われており、大化元年の国司への詔から約100年を要している。 しかし、大化元年の詔において、その歩みの方向性だけは確立されたと言ってよいだろう。 |
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⇒ [25-04] 孝徳天皇(2) |