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2023.02.06(mon) [24-10] 皇極天皇10 

24目次 【四年六月八日】
《中大兄密謂倉山田麻呂臣》
六月丁酉朔甲辰。
中大兄
密謂倉山田麻呂臣曰。
密謂…〈岩崎本〔以下岩〕[ニ] 倉山田[ノ]麻呂[ノ][ニ]
〔四年〕六月(みなづき)丁酉(ひのととり)を朔(つきたち)として甲辰(ひのえたつ)〔八日〕
中大兄(なかのおほえ)
密(ひそかに)倉山田麻呂臣(くらやまだのまろのおみ)に謂(かた)りて曰(のたま)はく。
「三韓進調之日
必將使卿讀唱其表。」
遂陳欲斬入鹿之謀、
麻呂臣奉許焉。
進調…〈岩〉[ノ]カラヒトノカラヒト[ノ][ム]調ミツキタテマツラム[ヲ]之日[切]  ニ[ニ]使シメン  テ[ム]三レイマシイマシ[ヲ][テ]ヨミ-アケアケ[ヲ][句][ニ]ノフノフ スル[ス]入鹿[ヲ]之謀[ヲ][句] 麻呂[ノ][切] ル[ル]ユルシ[句]
…[代] 二人称。同僚の官に対して用いる。 
よみあぐ…[他]ガ下二
よむ…[他]マ四 朗誦する。
となふ…[自]ハ四 (万)3468可賀美可家 刀奈布倍美許曽 かがみかけ となふべみこそ」。
…[動] ①献上する。②謹んで命令を受ける。(古訓) たてまつる。うけたまはる。
「三(みつの)韓(からくに)の進調之(みつきたてまつらむ)日に、
必ず将(まさに)卿(いまし)をして其の表(ふみ)を読み唱(とな)へ使(し)めむとす」とのたまひて、
遂(つひに)[欲]入鹿(いるか)を斬(き)らむとせし[之]謀(はかりごと)を陳(の)べたまひて、
麻呂の臣、許(みゆるし)を奉(うけたま)はる[焉]。
《三韓進調》
 「三韓」は、古くは馬韓・辰韓・弁辰を称した(〈神功皇后〉三十九年)。 〈皇極〉の頃の三韓は「任那」の存在を前提とすれば、百済任那新羅だが、実質的には百済・高麗・新羅であろう。
 ただ、この段では漠然とこの方面を指したに過ぎず、実際にはどれかの一国であろう。
 古訓が「カラヒト」と訓むことについては、進調は国家行事だから不適切である。 ただし、古訓者はこれが偽の儀式だとして、倭国在住の韓人に「使者」を装わせたと見たのかも知れない。
 本物の進調だったとすれば居合わせた使人はびっくりであるが、 見たことを本国には言うなと脅して口止めすればよい。あるいは使者を殺してしまったとしても、無礼があったからと伝えれば相手国は気にしないであろう。 また、偽の進朝の儀式をでっち上げることができたと考えるのは、現実的ではない。 よって、本物の儀式であったと見た方がよいだろう。
《読唱》
 読唱への古訓「よみあぐ」を〈時代別上代〉は見出し語にはしないが、ヨムの欄に熟語として挙げているいる。 アグが発声に伴って使われる語には、コトアゲが多く見られるが、これは声高に言い募る意味である。 一方、トナフは、呪文などを唱える意である。 ここでは、上表の和訳の朗読だから、トナフの方が適切であろう。
 使者による上表文奏上の流れは、〈推古〉十八年に詳しい。
両国客等各再拝以奏使旨
四大夫起進啓於大臣
 とあるので、まず使者が自分の国〔または中国語〕の言葉で上表文〔漢文〕を奏上し、 次に大夫(まえつきみ)がその和訳を啓(まう)したことが分かる。漢文に対しては、既に当時の史人ふみひとによって一定の訓読法が開発されていたと想像される。
 ここではを麻呂臣が担ったわけであるから、その口調に相応しいのはアグではなく、トナフが相応しい。 ただ、この古訓からは、平安時代になると朗誦にもヨミアグが通用していたことが分かる。
《陳~奉許》
 「」はノブである。〈神代紀〉下に「彦火火出見尊具ノベタマフ」の古訓があるので、ノブ自体は尊敬・謙譲については中立である。 「」は心の内を広げて見せる意味だから、主語は大中兄のままであろう。
 「奉許」という表現については、命令があまり芳しくない内容なので、被命令者が自分の意思で行おうとしたことに対して許可を承った形にしたと見られる。
《大意》
 〔四年〕六月八日、 中大兄(なかのおおえ)は、 密かに倉山田麻呂臣(くらやまだのまろのおみ)に、 「三韓の進調の日に、 必ず卿〔=あなた〕に上表文を読み上げさせる」と語り、 遂に入鹿を斬る謀(はかりごと)を表に出して言い、 麻呂の臣は、その許しを承りました。


25目次 【四年六月十二日(一)】
《天皇御大極殿古人大兄侍》
戊申。
天皇御大極殿。
古人大兄侍焉。
中臣鎌子連、
知蘇我入鹿臣
爲人多疑晝夜持劒。
而教俳優方便令解。
大極殿…〈岩〉マシマス -レ案-殿 私記説オホ トノ[ニ][句] 古人大中大兄爾之弟[切]侍焉[句]。 〈北野本〔以下北〕大極オホナホ■ニ殿トノ。 〈内閣文庫本〔以下閣〕大極オホオホアニ殿トノ。 〈釈紀〉大極殿 オホアムトノ私記説。 〈甲本〉御大極殿タカミクラニマシマス
為人…〈岩〉蘇我[ノ]入鹿[ノ][ノ]  ナリ[切][テ] 晝夜ケル[コト][ヲ][テ] ヲ俳優ワサヒトワサヒト[ニ][テ] 方便タハカリタハカリ[テ]ヌカ[句]
戊申(つちのえさる)〔十二日〕
天皇(すめらみこと)大極殿(だいごくとの)に御(ましま)す。
古人大兄(ふるひとのおほえ)侍(さもら)ふ[焉]。
中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)、
[知]蘇我入鹿臣(そがのいるかのおみ)の
為人(ひととなり)多(さはに)疑ひて昼夜(よるひる)剣(つるぎのたち)を持てりとしりつ。
而(しかるがゆゑに)俳優(わざひと)に教(をし)へて方便(はか)りて解(と)か令(し)めき。
入鹿臣、咲而解劒、
入侍于座。
倉山田麻呂臣、
進而讀唱三韓表文。
解剣…〈岩〉 [句][テ]サフラフシキヰシキヰ/クラヰ[句]
読唱…〈岩〉 ヨミ-アクアク[ノ][ノ]-フミフミ[ヲ][句]
入鹿の臣(おみ)、咲(わら)ひて[而]剣(つるぎのたち)を解きて、
入りて[于]座(むしろ)に侍(さもら)ふ。
倉山田の麻呂の臣(おみ)、
進みて[而]三つの韓(からくに)の表文(ふみ)を読み唱へり。
於是、
中大兄
戒衞門府
一時倶鏁十二通門、
勿使往來。
召聚衞門府於一所、
將給祿。
戒衞門府…〈岩〉 イマシメ衞門 ユケヒノ - ツカサ ユケヒツカサ [ヲ][テ] -モロトモモロト[ニ][ニ] /サシカタメサシカタメ- /ヨモ ヨモ[ノ]- /ミカト ミカト[ヲ][テ][ス]使-カヨハ リカヨハ[句] 〔カヨハシメズ〕
衛門府…〈倭名類聚抄〉「職員令云。近衛府、兵衛府、衛門府【由介比乃豆加佐】」。
…[名] くさり。[動] とざす。(古訓) かなくさり。くさる。とつ。
ゆきく…[自]カ変 行き来する。
給禄…〈岩〉-聚-ユケヒ-ユケヒノツカサ[ヲ]於一所[ニ][テ] トス/カツケ[ニ]-モノサモノタマハン[ム][句] 〔マサニモノタマハムトス/モノサヅケムトス〕
於是(ここに)、
中大兄(なかのおほえ)
衛門府(ゆけひのつかさ)を戒(いまし)めて、
一時(おなじきとき)に倶(ともに)十二(とをちあまりふたつ)の通門(みかど)を鎖(と)じて、
勿使往来(ゆききせしむことなし)。
衛門府(ゆけひのつかさ)を[於]一所(ひとつのところ)に召(め)し聚(あつ)めて、
将給録(まさにものたまはむとす)。
時、中大兄、
卽自執長槍、隱於殿側。
中臣鎌子連等、
持弓矢而爲助衞。
長槍…〈岩〉[ニ][ノ]大兄[切] 即自執[ヲ][テ]  シヌ於殿[ノ][ニ][句]
為助衛…〈岩〉 -- ヰマホル /マモルヰマモル
時に、中大兄(なかのおほえ)、
即(すなはち)自(みづから)長槍(ほこ)を執(と)りて、[於]殿(との)の側(かたはら)に隠(かく)りたまへり。
中臣の鎌子の連等(たち)、
弓矢を持ちて[而]助(すけ)の衛(まもり)を為(な)せり。
使海犬養連勝麻呂
授箱中兩劒
於佐伯連子麻呂
與葛城稚犬養連網田、曰
「努力努力急須應斬」。
海犬養…〈岩〉 使アマ犬養[ノ]カツノカツ麻呂[ヲ][テ][ノ][ノ][ノ][ヲ] 〔箱ノ中ノふたつノ剣ヲ〕
佐伯連子麻呂葛城稚犬養連網田…中大兄と中臣鎌子連との間の連絡役 (三年正月(二))。
努力努力…〈岩〉 努々ツトメヨ\/ユメ  ユメゝゝ力々 急須アカラサマアカラサマ ス[ニ]キル[句]
[使]海犬養連(あまのいぬかひのむらじ)勝麻呂(かつまろ)をして
[授]箱の中の両(ふたつ)の剣(つるぎたち)を
[於]佐伯連(さへきのむらじ)子麻呂(こまろ)
与(と)葛城稚犬養連(かつらきのわかいぬかひのむらじ)網田(あみた)とにさづけしめたまひて曰(のたま)はく
「努力努力(ゆめゆめ)急(すみやかに)須(すべからく)斬(き)る応(べ)し」とのたまふ。
子麻呂等、
以水送飯、恐而反吐。
中臣鎌子連嘖而使勵。
送飯…〈岩〉-イヒスクニイヒスク[句] 恐而[テ]-タマヒイタタマヒイタイテツ
…〈岩〉 セメセメ而使ハケマサハケマ[句]
すく…[他]カ四 食物を胃に流し込む。『播磨国土記』宍禾郡「安師里:【本名酒加里】土中上。大神すかしたまひき於此処故曰須加すか〔スカ:スクの未然形〕
たまふ…[自]ハ四 嘔吐する。タムの未然形+動詞語尾フ。〈時代別上代〉「類聚符宣抄巻三所載天平九年六月の官符に「嘔逆」を「多麻比タマヒ」と訓」む。
子麻呂等(たち)、
水を以ちて飯(いひ)を送(す)きて、恐りて[而]反吐(たぐ)れり。
中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)嘖(ころ)ひて[而]励ま使(し)む。
たぐる…[自]ラ四 嘔吐する。記上巻「多具理邇たぐりに」、書紀神代上「因為吐」(第37回)。
ころふ…[他]ハ四 叱責する。
はげます…[他]サ四 励ます。〈類聚名義抄〉「:ハケム」。「畾力:ハケマス」。
《大極殿》
 大極殿を、古訓は「オホ〔アム〕ドノ」と訓む。の主な意味は、暗い・遅い・安らかである。「大晏殿」、「大安殿」ともに、漢籍には見えない語である。 「大晏殿」はある種の私記によるとされる。〈甲本〉では「御大極殿タカミクラニマシマス」となっている。
 〈続紀〉を見ると、大極殿大安殿とには用途に違いがあるようで、大極殿では「受朝〔使節の朝拝を受ける〕、冠位の授与、「即位」など儀式的行事で、 大安殿では「」、「転読〔僧たちによる読経〕で大人数による一般的な会合である。 ただ、大安殿での「受朝」もあるから一概には言えない。 それでも、〈続紀〉の大極殿大安殿は別の施設と見るべきであろう。
 〈天武〉紀を見ると、浄御原宮では「大極殿」の初出が十年二月、「大安殿」の初出が十四年九月である。 類する語句として、「内安殿」、「外安殿」、「旧宮安殿」、「大安殿」が順に出て来る。 訓点は(内閣文庫本など)「安殿アムトノ」、以下「安殿」、 「旧宮安殿」であるから、安殿はすべて「アムトノ」である。「大安殿」に訓がないのは、 「オホアムトノ」と訓むことが明らかだからであろう。「大極殿」はその延長線上にあるものとして、これも「オホアムトノ」になったようである。 古訓者が大極殿大安殿とを物理的に同じ施設と見たかどうかは分からないが、少なくとも類似する性質の施設として捉えたようだ。
 それぞれの用途を見ると、「大極殿」ではを発し、「大安殿」では博戯であるから、〈続紀〉と同様に別の施設であろうと思われる。
 〈皇極〉紀の「大極殿」に話を戻すと、結局〈天武〉紀の訓「オホアムトノ」を遡らせて用いたものだと理解される。
 しかし〈皇極〉帝の時代には、現実には大極殿なる名称は存在せず、宮殿の典礼会場にあてて修辞的にこの呼称を用いたと見た方がよい。 少なくとも、板蓋宮内の大きな施設ではある。 そういうことならば〈天武〉紀の大極殿とは区別して考えるべきである。
 ならば、〈私記-甲本〉のように「大極殿=タカミクラニマシマス」とした方がむしろ賢明であろう。 ただし、この訓は建物への入場を、その中の御座につくことに置き変えて意訳したもので、「大極殿をどう訓むか」という問題を回避している。
 ここで〈倭名類聚抄〉を見ると「大極殿」には訓を添えないが、「殿」の字だけには「和名止乃」とし、 また武徳殿のみ「武徳殿:俗云【牟万岐止乃】」として和訓を添えている。 これらを見ると〈倭名類聚抄〉の趣旨には合う読み方をするなら、重箱読みのダイゴクトノとなろう。
《知蘇我入鹿臣為人》
 万葉に「終止形+ト+知る」の構文は多い。例えば、(万)4376由久等之良受弖 ゆくとしらずて」、(万)3545安須可河泊 世久登之里世波 あすかがは せくとしりせば」などが見られる。
 これを見ると、「知る」の目的語として動詞を名詞化する場合に、必ずしも古訓のように「~コトヲ」とする必要はなく、「~ト」でよい。
《俳優》
 「俳優」が舎人を演じて、実直に「腰のものを預からせていただきます」と言って預かり、蝦夷は何も疑うことなくにこやかに渡す場面が目に浮かぶ。
《方便》
 古訓は「方便タハカル」と訓む。〈時代別上代〉によれば、タバカリタバカルの用例はほぼ書紀古訓に限られる。 その点、ハカルは幅広く使われる語である。
《長槍》
 ナガ-ホコは、〈時代別上代〉を見ると、ひとつも出てこないようである。 漢籍には、『随書』巻二十四志九〔656〕に「始作長槍」があるので、 中国語としては存在していた。
《隠於殿側》
 「隠於殿側」は、中大兄自身が隠れたとも、中大兄が長槍を隠したとも読める。
 しかし、後の場面で「子麻呂等…以剣傷-割入鹿頭肩」とあるから、 中大兄は事件のときには殿内にいた。したがって、「隠於殿側」は、儀式が始まる前に準備を終えて参列したか、 ずっと隠れていて儀式の最中に乱入したかのどちらかである。 ただし、最初に持っていたのは長槍だが、入鹿臣を襲うときに手にしていたのはである。
《海犬養連勝麻呂》
 海犬養連あまのいぬかひのむらじについて、 〈姓氏家系大辞典〉は「海犬養 アマノイヌカヒ:海部族にして犬養の職にありしものを云ふ。」、 「海犬養連:安曇氏の族なり。天平二年の写書所解に「海犬甘連広足(年卅六、左京六条ニ坊戸主海犬甘連麻呂戸口)」と云ふ人見ゆ」と述べる。
 安曇氏は、代表的な海洋起源の氏族である (第43回【安曇連】・〈応神〉三年)。 〈天武紀〉十三年十二月に「海犬養連…五十氏賜姓曰宿祢。」とあり、宿祢姓を賜った。
《使海犬養連勝麻呂授箱中両剣》
 「使海犬養連勝麻呂…」以下は、当然儀式が始まった時点ではなく、事前に行われたことであろう〔この日の前夜か〕。 剣を箱から出して手渡し、式が始まったらこれで入鹿を襲えとの密命を受け、緊張で食事も喉を通らなかったと描く。 出典は、海犬養連または佐伯連の家伝であろうか。
《大意》
 十二日、 天皇(すめらみこと)は大極殿(だいごくでん)に御座し、 古人大兄(ふるひとのおおえ)が侍従しました。
 中臣鎌子(なかとみのかまこ)の連(むらじ)は、 蘇我の入鹿の臣が 為人(ひととなり)疑い深く、昼夜剣を携行していることを知っていました。 そこで、役者に演技を教え、方便を使って解かせました。
 入鹿の臣は、笑って剣を解き、 大極殿に入って座に控えました。 倉山田の麻呂の臣は、 進み出て三韓の表文を読唱しました。
 このとき、 中大兄(なかのおおえ)は 衛門府(ゆけいのつかさ)に厳戒させ、 一時に一斉に十二の通門に鎖をかけ、 往来させないようにしました。 そして衛門府を一か所に召集し、 俸禄を賜ろうとしていました。
 その時、中大兄は、 自ら長槍を手に取り、大極殿の傍らに隠れられました。 中臣の鎌子の連(むらじ)配下の者は、 弓矢を持って助衛を務めました。
 〔予め〕海犬養連(あまのいぬかいのむらじ)勝麻呂(かつまろ)を遣わして、 箱の中の二口の剣を 佐伯連(さへきのむらじ)子麻呂(こまろ) と葛城稚犬養連(かつらぎのわかいぬかいのむらじ)網田(あみた)に授けさせ、 「つとめて急ぎ必ず斬るべし」と仰(おっしゃ)りました。
 子麻呂たちは、 水で飯を流し込みましたが、恐ろしさに嘔吐しました。 中臣鎌子連は、𠮟責しつつも励ましました。


26目次 【四年六月十二日(二)】
《共子麻呂等出其不意以劒傷割入鹿頭肩》
倉山田麻呂臣、
恐唱表文將盡
而子麻呂等不來。
流汗浹身、亂聲動手。
将尽…〈岩〉  オクルヨミアクヨミアク[カ]表-文 フミ 〔ヲ〕スレトモ[ス][ニ]ツキナムト ツキ  而子麻呂等不一レ[テ] イツルイツル-アマネクアマネク/ウル[ニ][テ] ミタレワナゝクワナゝク[句]
あせ…[名] 〈倭名類聚抄〉「:【和名阿勢】人身上熱汁也」。
…[動] うるおう。(古訓) あまねし。そそく。あつむ。めくる。
倉山田の麻呂の臣、
[恐]唱(となふる)表文(ふみ)将(まさ)に尽きむとして、
而(しかれども)子麻呂等(ら)不来(きたらざる)ことをおそりて、
流るる汗身を浹(うる)ほして、声(こゑ)乱(みだ)りて手動(わなな)けり。
鞍作臣、怪而問曰、
「何故掉戰。」
山田麻呂對曰、
「恐近天皇不覺流汗。」
掉戦…〈岩〉何故[カ]フルヒフルヒ-ワナゝクワナゝク[句]
不覚…〈岩〉 カシコマ[ニ] ツケル  ツケルチカツケル天皇[ニ][切] 不-覺オロカニオロカニ[ニ][テ] イツ[ル][句]
…[動] (古訓) おもふ。おほゆ。〔オボユは上代語には見られない。〕
鞍作臣(くらつくりのおみ)、怪(あやし)びて[而]問ひて曰はく。
「何故(なにゆゑ)か掉(ふる)ひ戦(わなな)く。」といひて、
山田麻呂対(こたへ)て曰ひしく。
「天皇(すめらみこと)に近づきまつれるを恐(かしこまり)て、不覚(おもほえざ)りて汗を流しつ。」といひき。
中大兄見
子麻呂等畏入鹿威便旋不進。
曰「咄嗟」。
卽共子麻呂等出其不意、
以劒傷割入鹿頭肩。
入鹿驚起。
旋不進…〈岩〉子麻呂等[ノ]入鹿[カ]イキホヒイキホヒ[ニ][テ] 便- メクラヒ メクラヒ[テ][ヲ]上レ[テ][切]-ヤア ト宣テヤアトノタマフ[句] 即共[ニ]子麻呂タチト[切]--- ユクリモナクシニ  ユクリモナク [切]タチ[ヲ][テ]- ソコナフ/ヤフリサクソコナフ入鹿[カ]頭肩[ヲ][句]
ゆくりなし…[形]シク おもいがけず。〈時代別上代〉「連用形ユクリナクの副詞的用法ばかりで、ユクリモナクとしても用いられている」。
中大兄、[見]
子麻呂等(たち)の入鹿の威(いきほひ)を畏(おそ)りて便(すなは)ち旋(めぐ)らひて不進(すすまざる)かたちをめして、
曰(のたま)はく「咄嗟(やあ)」とのたまひて、
即(すなはち)子麻呂等(たち)と共に其の不意(おもはざる)に出(い)でたまひて、
剣(つるぎたち)を以ちて入鹿の頭(かしら)肩(かた)を傷割(そこな)ひつ。
入鹿驚きて起(た)てり。
子麻呂運手揮劒、
傷其一脚。
入鹿、轉就御座。
叩頭曰
「當居嗣位天之子也、
臣不知罪、乞垂審察。」
揮剣…〈岩〉 メクラシメクラシ[ヲ]フキフキ[ヲ][テ] ヤフレ[ノ][ノ][ヲ][句]
叩頭…〈岩〉 - /マロヒツキテ  マロヒ   御座 オモト オモト[ニ][テ] - ノム  ノム [テ][切][ニ]マシマス[ニ][切]天之ミコナリミコ [ナリ][句] ヤツコヤツコ[ヲ][句][切]--アキラメタアキラメ給ヘ
のむ…[自]マ四 頭を下げて願う。祈る。
…[助] 主部の後に置いた場合は強調する。
…[形] (古訓) あきらかなり。つはひらかなり。みる。
子麻呂(こまろ)手を運(めぐら)し剣(つるぎたち)を揮(ふ)きて、
其の一(ひとつ)の脚(あし)を傷(そこな)ふ。
入鹿、転(まろ)びて御座(みくらゐ)に就(つ)きて、
叩頭(の)みて曰(まを)ししく
「当(まさに)嗣(ひつぎ)の位(みくらゐ)に居(ましま)す天之子(あまつみこ)なり[也]、
臣(やつこ)罪(つみなはゆること)を不知(しりまつらず)、乞(こひねがはくは)垂審察(つまひらかにめしたまへ)。」とまをしき。
天皇大驚、
詔中大兄曰、
「不知所作、有何事耶。」
中大兄、
伏地奏曰、
「鞍作盡滅天宗將傾日位、
豈以天孫代鞍作乎」
【蘇我臣入鹿、更名鞍作】。
不知所作…〈岩〉[切]スル[ス][切]  ツル ツル何事[句]
なにごと…[名] (万)2036「何事在曽 なにごとあれぞ」。
伏地奏…〈岩〉ツチツチ[ニ][テ][テ][切] 鞍作[切]  ツ-ホ シ-キムタチキミタチ[ヲ][テ]   ニヒツキノヒツキ[ノ][ヲ][句] 豈以天孫アメミマ   コアメミマ[ヲ][テ] カヘ鞍作[ニ][句]
天皇(すめらみこと)大(はなはだ)驚(おどろ)きたまひて、
中大兄に詔(のたま)はく[曰]、
「不知所作(なさえしことをしりたまはず)、何事(なにごと)か有りし耶(や)。」とのたまふ。
中大兄、
地(つち)に伏(ふ)して奏(まを)したまはく[曰]、
「鞍作(くらつくり)尽(ことごと)に天宗(あまのあなすゑ)を滅(ほろぼ)して、将(まさ)に日の位(くらゐ)を傾(かたぶ)けむとしまつる、
豈(あに)天孫(あめみま)を以ちて鞍作りに代(か)ふ乎(や)」とまをしたまふ
【蘇我の臣入鹿、更(また)の名は鞍作なり】。
天皇卽起、入於殿中。
佐伯連子麻呂
稚犬養連網田、
斬入鹿臣。
…〈岩〉入鹿臣[ヲ][句]
天皇(すめらみこと)即(すなはち)起(た)ちたまひて、[於]殿(との)の中に入ります。
佐伯連(さへきのむらじ)子麻呂(こまろ)
稚犬養連(わかいぬかひのむらじ)網田(あみた)、
入鹿臣を斬りつ。
《乱声動手》
 「乱声動手」のは他動詞で「声を乱し、手を震わす」であるが、倭語では「手をわななかす」とは言わず、自動詞として「手わななく」と表現する。 「」も、それに合わせて「声みだる(自動詞、四段)」と訓読することになる。 なお、古訓は平安の言葉なのでミダルを下二段活用させているが、上代は四段活用である。
《鞍作臣》
 入鹿が、震える倉山田臣を見てどうしたのだと声をかけたところに至り、入鹿臣を「鞍作臣」と表記する。
 ひとつの考え方としては、 畏まった儀式の場面であるから、正式に「鞍作臣」を用いたと見ることができる。 すなわち、鞍作が正式名で、入鹿は愛称あるいは蔑称という関係ではないだろうか。
 その後、中大兄が天皇に問われて入鹿の罪状を説明するときに「鞍作」を用いていることも、それを裏付けている。
 ただし、他の考え方としてこの段は複数の出典を部分として合成されていて、出典ごとの表記が統一されなかった可能性がある。
 すでに元年正月条に「入鹿【更名鞍作】」とあったが、この段でも再び【蘇我臣入鹿。更名鞍作】と注される。
《共子麻呂等》
 「子麻呂等…以剣傷-割入鹿頭肩」 とあるから、中大兄自身が剣を執り、先頭に立って襲ったのである。
 前半では中大兄は殿側に隠れていただろうと読んだ。 とすれば、子麻呂たち三人はそれまで外にいて、子麻呂らが逡巡して入ろうとしないから、業を煮やして自ら先頭にたって突入したわけである。
 しかし、前段の「中大兄即自執長槍隠於殿側。中臣鎌子連等持弓矢而為助衛。」を見ると、 入鹿を逃がさないように、大極殿を包囲して万全の体制を取っていたことと読める。 本当の史実はその大人数がそのままなだれ込んだもので、 中大兄など三人に絞って描くのは、後から潤色された可能性がある。
《乞垂審察》
 天皇に嘆願するときの言い回しとしては、「こひねがはくは」()がある。 「」はコフの部分だけであるが、「コヒマツル」とは普通言わないので、 「」だけでもコヒネガハクハと訓むのがよいだろう。
 「」は「垂訓」など上から下に言葉を賜る意味で、 鎌倉時代になると、『平家物語』〔13世紀〕巻二/康頼祝言の「南無権現金剛童子、ねがはくは憐をたれさせおはしまして」など、タルにその意味がある。 しかし、ここの古訓には使われていないから、平安時代になっても、タルはこの意味には使われていないようである。
 「」はツマヒラカナリアキラカナリなどと訓まれる。「」はアキラムアキラカニスミルである。
《当居嗣位天之子也》
 「位天之子」は、天降りした天孫の血統を嗣ぐべき者という意味で、 ここでは中大兄を指すと見るのが妥当であろう。皇太子になられようとするお方が、なぜ私にこんなことをするのかというわけである。 そして、ご審察を垂れていただくように天皇にお願いするのである。
《伏地奏》
 天皇に事情を問われ、「中大兄伏」とある。文字通り読めば外にいたことになるが、実際には殿内であるから一種の修辞法であろう。 ただし、殿内から入鹿が逃げ出し、外で殺害されて天皇も出てきたという別伝があった可能性もある。
《天宗》
 天宗の古訓「キムタチ」は、本来は「公-達」の意味で、一般的な語であるキミの複数形である。しかし、〈時代別上代〉が述べるように「日本書紀古訓で諸王(王家の一族)をキムダチと訓む」。 「」は「宗族」(同じ先祖をもつ一族)、「」は天降りしたニニギミコトを祖とする意味である。
《日位》
 「」は太陽神、すなわち天照大神で、「」は日嗣の位で、つまり日位=天皇である。 記では天照大神が祖であるが、書紀神代巻では次第に高皇産霊神に移している。 〈皇極紀〉も書紀の一部だが、ここでは厳密性に拘っていない。
《豈以天孫代鞍作乎》
 「入鹿臣が自ら天皇位につこうとした」というのは、いうまでもなく中大兄王と中臣鎌子連による言いがかりである。 ここでは、その言葉をあからさまに中大兄に語らせている。
 三年十一月のところで述べたように、「宮門」「王子」という呼称は、中大兄らによる悪口をそのまま書いたものと読み取れる。
《起入於殿中》
 中大兄の返答を聞いた天皇は「起(た)てり」と書くから、それまでは着席していた。よって事件は大極殿の内で起こった。 なのに「入於殿中」と書くのは、日常的に居住する殿に移動したということであろうが、釈然としない。
 遡ると、中大兄は「長槍」を持って隠れ、中臣鎌子連の弓矢部隊が控える。 その続きなら、長槍を持った中大兄を先頭に、弓矢を持った大部隊が乱入していそうなものである。 ところが、大極殿内の中大兄は三人で「」で切りつけ、その繋がりがしっくりしない。
 また、大極殿の中なのに「」に伏せた箇所や、「入鹿臣」と「鞍作臣」の呼称の不統一が見られる。 さらに、「授箱中両剣」の件は明らかに時間を遡らせているが、それが明示されていない。 これらのことから、この事件については様々な記録や伝説があり、それらをつぎはぎして書かれたものと思われる。
 ただ、種々の別説が生まれたのは、この事件の世間に与えた衝撃の大きさを物語るものであろう。 譬えていうなら、後世の義経伝説や忠臣蔵のようなものである。 多種多様な伝説の存在は、事実そのものの史実性を薄めるものではなく、むしろ事件が確実に存在した証拠となり得るものである。
 これに比べると、三年正月条はかなり滑らかに読むことができたが、むしろそれが真実性の薄い創作であることを示すものかも知れない。
《大意》
 倉山田麻呂(くらやまだのまろ)の臣は、 唱えている上表文が今にも尽きようとしているのに、 子麻呂らがまだ来ないことが恐ろしくなり、 流れる汗が全身をひたし、声は乱れ手は震えました。
 鞍作臣(くらつくりのおみ)〔=入鹿臣〕は、これを怪しみ、 「どうしてそんなに震えているのか」と問い、 〔倉〕山田麻呂はそれに対して、 「天皇(すめらみこと)の近くにいることが恐ろしく、不覚にも汗が流れたのです。」と答えました。
 中大兄は、 子麻呂らが入鹿の威を恐れ、逡巡して進めずにいるのを見て、 「やあ」と一声を発しました。 そして子麻呂らと共に不意を突いて飛び出し、 剣で入鹿の頭と肩に切りつけました。
 入鹿は驚いて立ち上がりました。
 子麻呂は腕を回して剣を振い、 その片方の脚を傷つけました。
 入鹿は、転げるようにして御前に近づき、 頭を下につけてお願いして、 「まさに継位にまします天つ御子であらせられる〔中大兄がこのようなことをなされるとは〕。 臣が罪に問われることが分かりません。冀(こいねが)わくば、審察を垂れてください。」と申し上げました。
 天皇(すめらみこと)は甚だ驚かれ、 中大兄に、 「あなたがたが行ったことが分かりません。何事があったのですか。」とお尋ねになりました。
 中大兄は 地に伏して、 「鞍作(くらつくり)は尽(ことごと)く天の宗家を滅ぼして、まさに日の位を傾けようとしております。 あに天孫を廃して、鞍作に代えることがありましょうや」と申し上げました。
 天皇(すめらみこと)はそのまま立ち上がり、殿中に入られました。 佐伯連(さへきのむらじ)子麻呂(こまろ)と 稚犬養連(わかいぬかいのむらじ)網田(あみた)は、 入鹿臣を斬りました。


27目次 【四年六月十二日是日】
《以席障子覆鞍作屍》
是日。
雨下潦水溢庭、
以席障子覆鞍作屍。
潦水…〈岩〉フリフリ[テ]- イサラミツ イサラミツ イハメリ イハメ[リ] オホハ[ヲ][句]-- ムシロ シトミ ムシロ シトミ[ヲ][テ]鞍作[カ]カハネカハネ[ヲ][句]
いさらみづ…[名] あふれた水。書紀古訓限定の語。
…[名] (古訓) にはたつみ。
にはたづみ…[名] 庭にたまった水。
障子…〈漢典〉「[a barrier made of reeds] 樹枝等編成的籬笆;石頭、草皮等壘成的隔牆:泛指障礙物〔樹木の枝、石、草などで作った垣の類〕
しとみ…[名] 一種の建具。
是(この)日。
雨下(ふ)りて潦水(にはたづみ)庭(には)に溢(あふ)れて、
席(むしろ)障子(しとみ)を以ちて鞍作の屍(かばね)に覆(おほ)へり。
古人大兄、
見走入私宮、
謂於人曰、
「韓人殺鞍作臣
【謂因韓政而誅】、
吾心痛矣。」
卽入臥内、杜門不出。
韓人…〈岩〉カラ  カラノカラヒト   [ノ][ニ]  ツ[ル][ヲ]
古人大兄…〈舒明〉皇子。母は法提郎媛(蘇我馬子の女)。二年十月に入鹿が擁立を謀った。
臥内…〈岩〉ヨトノネヤノウチ[ニ][テ] サシサシ[テ][句]
臥内…寝室の中。
ねや…[名] 寝室。
よどの…[名] 寝る家。寝室。
…[動] とざす。(古訓) ふさく。とつ。
古人大兄(ふるひとのおほえ)、
見(め)して私宮(わたくしみや)に走(に)げ入りたまひて、
[於]人に謂(かた)りて曰(のたま)ひしく、
「韓人(からひと)鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ
【韓(からくに)が政(まつりごと)に因りて[而]誅(ころ)さえりと謂ふ】。
吾心(あがこころ)痛(いた)し[矣]。」とのたまひき。
即(すなは)ち臥内(ねやのうち)に入りて、門(みかど)を杜(と)ぢて不出(いでまさずあり)。
中大兄、
卽入法興寺爲城而備。
凡諸皇子諸王諸卿大夫
臣連伴造國造、
悉皆隨侍。
為城…〈岩〉法興寺[ニ][テ][ト][テ]
隨侍…〈岩〉[ニ]-ミトモニハヘリミトモニハヘ[リ][句]
中大兄、
即(すなは)ち法興寺(ほふこうじ)に入りたまひて、城(き)を為(つく)りて[而]備(そな)へり。
凡(おほよそ)諸(もろもろ)の皇子(みこ)諸の王(おほきみ)諸の卿大夫(まへつきみ)
臣(おみ)連(むらじ)伴造(とものみやつこ)国造(くにのみやつこ)、
悉皆(ことごと)に隨(したが)ひ侍(さもら)へり。
使人
賜鞍作臣屍於大臣蝦夷。
於是、漢直等、
總聚眷屬、擐甲持兵、
將助大臣處設軍陣。
眷属…〈岩〉-- ヤカラ ヤカラ[ヲ][切] [ヲ][ヲ][テ] マサニ大臣[ヲ][テ]處設- イクサ イクサ[ヲ][句]
…[動] 目をかける。
…[動] つらぬく。
擐甲…甲に下から頭を通して身に着ける。また擐甲した兵士。
いほりそこ…[名] 軍営。
人を使はして
鞍作(くらつくり)の臣の屍(かばね)を[於]大臣(おほまへつきみ)の蝦夷(えみし)に賜(たまは)る。
於是(ここに)、漢直(あやのあたひ)等(ども)、
総(すべて)眷属(うがら)を聚(あつ)めて、甲(よろひ)を擐(き)て兵(つはもの)を持ちて、
将(まさ)に大臣(おほまへつきみ)を助けむとして処(ところ)に軍陣(いほりそこ)を設(まう)けり。
中大兄、
使將軍巨勢德陀臣、
以天地開闢君臣始有
說於賊黨、
令知所赴。
使将軍…〈岩〉 使ツカツカ将軍 巨勢[ノ]德-陀[ノ][ヲ][テ]   テ--ヒラケテヨリヒラケテヨリヒラケシトキヨリ[切]キミ-ヤツコラマヤツコラマヤツコ  [テ]タモツコトヲ[ヲ][テ]  シメタ シメ給於賊[ノ]タムラタム[テ][ヲ][句]
中大兄(なかのおほえ)、
[使]将軍(いくさのかみ)巨勢徳陀臣(こせのとくたのおみ)をして、
天地(あめつち)開闢(ひらけしとき)より君(きみ)臣(おみ)のつぎて始まりて有りけるを[以ちて]
[於]賊党(あた)に説かしめたまひて、
赴(おもぶ)くべき所(ところ)を知ら令(し)めき。
於是、高向臣國押、
謂漢直等曰、
「吾等由君大郎、
應當被戮。
大臣亦於今日明日、
立俟其誅決矣。
然則爲誰空戰、
盡被刑乎。」
君大郎…〈岩〉 [切]ヨテキミキミタイラウ[ニ][テ] - ヘシ  /ヘシ  /ラレヌ[ヌ]コロサコロサ/ツミセ[句] オホ  モ[切]𡖋 於今-日 ケフ 明-日 アス [切] タチトコロタチトコロ[ニ] マタム[ム][コト]ツミ[ヲ][コト]ウタカハシウツムマシウツムマシ[句]
応当…同じ意味の助詞を重ねた強調表現。
大郎…〈漢典〉「即長子」。
たちどころに…[副] 〈延喜式-祝詞〉遷却崇神:「高津鳥殃尓依弖立処弖身亡支〔高つ鳥殃(わざはひ)に依りて、立処(たちどころに)て身亡(うせ)にき〕
…[動] まつ。
…[動] (古訓) さたむ。
為誰…〈岩〉[カ][ニ][ム]ツミセツミセ ヤト[カ][ト]
つみなふ…[他]ハ四 罪とする。
…[助] 文末用法は終止形から接続。古くは已然形から接続。
於是(ここに)、高向臣(たかむこのおみ)国押(くにおし)、
漢直(あやのあたひ)等(ども)に謂(かた)りて曰はく、
「吾等(われら)君(きみ)大郎(おほいらつこ)に由(よ)りて、
被戮(ころさゆ)応当(べ)し。 〔蘇我蝦夷〕大臣(おほまへつきみ)亦(また)[於]今日(けふ)明日(あす)に、
立(たちどころに)其の誅(ころさゆる)を俟(ま)たむと決(さだま)れり[矣]。
然(しかれども)則(すなはち)為誰(たがために)空(むな)しく戦(たたか)ひて、
尽(ことごとに)被刑(つみなはえ)め乎(や)」
言畢解劒投弓、
捨此而去。
賊徒亦隨散走。
解剣…〈岩〉 [ヲ]ヲリヲリ[ヲ][テ]  レ[ヲ]
散走…〈岩〉[テ]チリチリ-ニクニク
と言ひ畢(を)へて剣(つるぎたち)を解きて弓を投(な)げて、
此(こ)を捨(う)てて[而]去(い)ぬ。
賊徒(あたのたむら)亦(また)隨(したが)ひて散(あか)れ走(に)げつ。
《古人大兄》
 古人大兄も皇子だから尊敬表現されるべきである。しかし、〈岩崎本〉など古訓にはない。 訓点として動詞に一か所でも「」とあれば全体が尊敬語で訓まれたはずであるが、全く見られない。
 遡って山背大兄王の場合は皇太子になる目は全くなかったが、それでも尊敬表現が用いられていた。 よって、古人大兄は、古訓者からは逆賊の一味に貶められている。
 一方、中大兄には古訓において尊敬表現が用いられている。 ところが、書紀原文の段階では、その振る舞いに余り好感を持っていない。 それは、「中大兄」と表記しないところや、 発言に「」は用いず、単に「」であるところに現れている。
《韓人殺鞍作臣》
 古人大兄は参列していたから、一部始終を目撃していたはずである。 なのに、人には「韓人殺鞍作臣」と言ったのは何故だろうか。
 想像するに、中大兄は反対勢力に担がれていたとはいえ、同じ皇子としての同族意識があり、 殊更ことさらにその犯罪的行為を喧伝する気にはなれなかったのであろう。
 同時に、中大兄の名前を出すことにより中臣鎌子派に反発する意思があると受け止められることを恐れた。 すなわち、中大兄が何をやったかは私は全然知りませんと言って、謹慎蟄居してやり過ごそうとしたとも見られる。 下手に振舞えば、今度は自分が山背大兄王と同じ目に遭うのである。この方が主たる理由かも知れない。
 他の可能性としては、噂は様々な形で伝わるから、その一つに韓人犯人説があったことを反映してこのように書かれたかも知れない。 原注は、そのような噂が生まれ得る背景として「韓政而誅」、すなわち少なからず外交的な摩擦が存在していたと説明する。
《入法興寺為城》
 法興寺(飛鳥寺)は、飛鳥川を挟んで蘇我蝦夷の拠点、甘樫丘に向かい合う位置にある。
 は、軍事拠点になり得る。後世には「瑞巌寺は伊達政宗の隠し砦」などと言われた。 「桙削寺」についても、その可能性を読み取った。
 後世の言語感覚では法興寺を城(シロ)として使ったと読めるが、実際には垣の外側に城柵()を作って強化したという文かもしれない。 「為城」は前者なら「キとなす」、後者なら「キヲツクル」と訓むことになる。
《諸皇子諸王諸卿大夫臣連伴造国造》
 大夫はすべてマヘツキミで、これらを訓読で区別するのは難しい。ただ、だけは「臣連」(おみむらじ)と言い慣わされたことを用いることができる。 当時でも音読も用いられていたと考えられるが、この箇所だけ音読みを用いるのは不自然である。
 皇子についても両方ともミコであるが、については万葉風にオホキミを用いることができる。
《賜鞍作臣屍於大臣蝦夷》
 書紀において二重目的語をとる構文は、通例では「以+事物目的語」を前に出すので「以鞍作臣屍賜於大臣蝦夷」になるはずだが、ここは例外である。
《漢直》
 漢直は、蘇我氏を助けるために結集した勢力の中心であった三年十一月
《眷属》
 眷属(眷族)は、親身になって目をかける一族。和語ではウガラまたはヤカラに相当するが、ウガラとヤカラの意味は区別し難い。
《巨勢徳陀臣》
 巨勢徳陀臣については、元年十二月、「小徳巨勢臣徳太」の表記で、舒明天皇の喪において大派皇子の名代として誄を捧げた。
《天地開闢君臣始有》
 「以天地開闢君臣始有説於賊党」において、動詞「」は二重の目的語をとり、「Ot〔事物目的語〕Op〔人格目的語〕」という構文である。 Otは「天地開闢君臣始有」で、""をつけて明確化される。Opは「賊党」で、前置詞""をつけて明確化する。 すなわち「天地開闢のときに君臣の秩序が始まり存在し続けていることOtを、賊党Opに説く」である。 その上で、この動詞句〔動詞+2つの目的語〕を徳太に課した事柄とする。 この動詞句を含む文全体は、英語で言えばSVOC〔主語・述語動詞・目的語・目的補語〕の文型で、 この動詞句にあたる。
 文の各構成要素は、=「中大兄」、=「使」、=「将軍巨勢徳陀臣」、=「以天地開闢君臣始有於賊党」からなる。 〈岩崎本〉の訓点も、これと同じ構文解析によっている。
 本稿の訓読では基本的に「」を明示的に訓むことにしているが、この文では却って文意が不明瞭になるので置き字とする。 対格の格助詞「」と与格の格助詞「」の機能は極めて明瞭で、日本語の優れる点のひとつと言え、訓読には大いに生かすべきである。
 さて、「始有」の後に主語がないことについては、漢籍から類例を探すと 『史記』〔前漢〕酈生陸賈列伝に、ここと類似する文「中國之人以億計…〔中略〕…自天地剖泮未始有也〔泮=わかれる〕がある。 これを見ると、「」の後の主語が省略されること自体はあり得る。ただし、もう少しきちんと「君臣之序自天地開闢始有」と書くことが望まれる。 巨勢徳陀臣の冠位「小徳」がここでは省略されたところも含めて、この辺りの文章は雑である。 〔上で、複数の出典をつぎはぎして書かれたと考えたから、ここでも元文でこう書かれていたのかも知れない〕
 また、「」をヤツコと訓むことについては、臣=ヤツコ〔遜った一人称〕を機械的に当てはめたと見られ不適切である。 君臣キミオミとするのがよい。
 「天地開闢始有」は相当に大げさであるが、要するに君臣の秩序は不変の公理であるという。 結果的に中大兄を押し立てた中臣鎌子派が官軍、蝦夷・入鹿派が賊軍となったから、 今や臣はすべて中大兄に従うことこそが、君臣の秩序を保つ道なのである。
《高向臣国押》
 高向臣国押は、二年十一月では、 蘇我派に属しながら、山背大兄王の捕獲に向かうことを拒否している。
《大郎》
 書紀古訓としては大変珍しく、大郎を「タイラウ」と音読みしている。 〈漢典〉は、「大郎」を長男の意としているが、「」は男子の美称で、ここでは中大兄を「麗しい兄」と呼ぶニュアンスと見られる。 よって、通常の訓み通りオホイラツコと訓んでも差し支えないと思われる。
《大意》
 この日、 雨が降り水がたまり、庭に溢れ、 筵と戸板によって鞍作の屍を覆いました。
 古人大兄(ふるひとのおおえ)は、 これを見て自分の宮に逃げ帰り、 人に語るに、 「韓人(からひと)が鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺した 【韓の国が政によって殺されたという】。 私は心が痛い。」と言いました。
 そして寝室に入り、門を閉じて外出しませんでした。
 中大兄は、 そこで法興寺に入いられ、城柵を作って備えました。 大部分の、もろもろの皇子、諸王、もろもろの卿大夫、 臣(おみ)連(むらじ)伴造(とものみやつこ)国造(くにのみやつこ)が、 ことごとく従い仕えました。
 〔天皇は〕使者によって、 鞍作臣の屍を大臣(おおまえつきみ)の蝦夷(えみし)に届けられました。
 これにより、漢直(あやのあたい)たちは、 総て眷属(けんぞく、=同族)を集め、甲冑をまとい、武器を手にとって、 大臣(おおまえつきみ)を助けようとして、その場に軍陣を設けました。
 中大兄は、 将軍巨勢徳陀臣(こせのとくたのおみ)を派遣して、 天地開闢(かいびゃく)のときに君臣の秩序は始まり以後ずっと続いていることを 賊党に説かせ、 向うべき所を知らしめました。
 すると、高向臣(たかむこのおみ)国押(くにおし)は、 漢の直たちに向って言うに、 「われらは、君(きみ)大郎(だいろう)によって、 殺されるであろう。 〔蘇我蝦夷〕大臣(おおまえつきみ)もまた、今日明日のうちに、 たちどころに殺されるのを待つに決まっている。 にもかかわらず、誰のために虚しく戦い、 ことごとく罰せられるのか。」
 と、このように言い終えたところで剣を解き弓を投げ、 これらを捨てて去りました。
 賊徒たちもそれに従い、散り散りになって逃げました。


まとめ
 入鹿臣の屍は、無残にも降りしきる雨の中で水あふれる庭に打ち捨てられ、かろうじて筵とシトミが掛けられただけで放置された。 ここでも滅びる者の姿の描き方には、無常感が漂う。入鹿の所業をあれほど否定的に描いたにも拘わらずである。 その精神性は、後世の平家物語の愛好に繋がっていく。
 殺伐とした事件を受け止めるには、物語化という一種の美意識で包みこまなければ耐えられない。これは、精神に備わった機能であろう。 猿歌や虎に授かった針など荒唐無稽な伝説の挿入についても、その機能の一つとして受け止めてきた。
 さて、入鹿臣を失った蘇我本家にもはや求心力はなく、強固に見えた結束はあっという間に崩壊した。 その没落を、物語として過度に大袈裟に描いたと読めないこともないが、実際に民衆の心が離反していたと考えられる。
 その事情を改めて考えてみると、元年から二年のところで天候不順が繰り返し書かれたことは伊達ではなかった。 旱魃が終わったと思えば長雨が続き、凶作が襲ったと見られる。それにも拘わらず重税を課され、次々と華麗な寺院が建てられていくことを目の当たりにして、 反発する感情が、かんなぎが神言を大臣に浴びせかけるという形で表現されたものと見られる。 蝦夷大臣が組織した読経による雨乞いの失敗もまた、その権威の失墜を象徴的に描いたものであろう。
 民衆が直面した困難の元凶として目のかたきにされたのが、大臣と入鹿臣である。 その背景があったからこそ、諸族は一気に大臣たちから離反して中大兄王・中臣鎌子派の許に走ったのであろう。
 中大兄皇子は、国家に集約すべき税収が蘇我蝦夷のような諸族によって私物化されているという現在の国の形が、 人民の生活を損ない国家経営に損害を与えている元凶だと考えた。 そして、今こそ公(おおやけ)の仕組みを確立すべき時だとして、大化の改新に踏み出したと想像される。



2023.02.09(thu) [24-11] 皇極天皇11 

28目次 【四年六月十三日】
《蘇我臣蝦夷等臨誅悉燒天皇記國記珍寶》
己酉。
蘇我臣蝦夷等臨誅、
悉燒天皇記國記珍寶。
船史惠尺
卽疾取所燒國記而、
奉獻中大兄。
臨誅…〈岩崎本〔以下岩〕 ムトシ  シ[ム] ツミセムコト[テ][ニ]天皇[ノ]ミフミミフミ[切]クニツ フミ フミ[切] 珍寶タカラモノタカラモノ[ヲ]
…[動] 死刑にする。ほろぼす。責める。
ころすつみ…[名] 死刑。
船史…〈岩〉[ノ]フムヒト-サカ[切]トクトク[切][ル]ヤカルゝ[切]  -フミフミ[ヲ][テ]而 奉-献中[ノ]大兄[ニ][句]
己酉〔十三日〕
蘇我臣(そがのおみ)蝦夷(えみし)等(ら)誅(ころさゆる)に臨(のぞ)みて、
悉(ことごと)に天皇記(すめらみことのふみ)国記(くにつふみ)珍宝(たからもの)を焼く。
船史(ふねのふみひと)恵尺(ゑさか)、
即(すなはち)疾(と)く所焼(やかえし)国記(くにつふみ)を取りて[而]、
中大兄(なかのおほえ)に奉献(たてまつ)れり。
是日。
蘇我臣蝦夷及鞍作屍、
許葬於墓。
復許哭泣。
許葬…〈岩〉 /ユルシハフル[コト][ヲ]ハカハカ[句] 復許[ス]-ネツカヒスルコトヲネツカヒ   [句]
なきめ…[名] 葬礼において号泣慟哭することを職業とする女。
是(この)日。
蘇我の臣蝦夷(えみし)及(と)鞍作(くらつくり)との屍(かばね)をば、
[於]墓(はか)に葬(はぶ)ることを許(ゆる)したまへり。
復(また)哭泣(なきめ)を許したまへり。
《臨誅》
 蘇我臣蝦夷等(蝦夷と入鹿〔あるいは他の者も含まれるか〕)が「〔誅に臨みて〕と書かれる。 次に、「蘇我臣蝦夷及鞍作屍」と書かれる。この二文から蘇我臣蝦夷も殺された、または自死したことが演繹えんえきされる。
 しかし、「蘇我臣蝦夷個人の死」が直接書かれた文はない。
 一般には蝦夷は自死したと言われているが、少なくとも書記の中にはそう言い得る根拠はない。 通例なら、中大兄と中臣鎌子の軍勢が蝦夷の家を包囲し、蝦夷は自死したなどと書かれたはずである。 ただ、「焼天皇記国記珍宝」からは、実際には攻撃側によって邸宅に火を放たれたことが窺われる。
 蝦夷臣の死についての記事は、原案にはあったが削除されたのかも知れない。
 ここには、蘇我氏が滅びた原因をすべて入鹿個人に負わせて、蝦夷臣の関与は極力小さく見せようとする書紀の意図がはたらいたのは明白である。 遡って、入鹿が山背大兄王を殺したときにも、蝦夷臣は入鹿を罵ったと描かれている(二年十一月)
 悪行と滅亡について仮に蝦夷臣が中心だったと書くと、後の世に蝦夷臣に相当する立場となる中臣鎌子〔藤原鎌足〕を貶めるかの如くに読めてしまうからであろう。
《焼天皇記国記珍宝》
 「天皇記」に相当する文書については、 〈欽明〉二年の原注に、 「帝王本紀、多有古字、撰集之人、屢経遷易。後人習読、以意刊改、伝写既多、遂致舛雑、前後失次、兄弟参差。」とある。 つまり、書記の執筆時において少なくとも「帝王本記」は失われることなく存在していた。
 「天皇記国記」は蘇我馬子厩戸皇子〔聖徳〕が執筆を開始した文書を指したものかも知れない(推古二十八年)。 天皇号の使用開始は680年頃と推定されるので(資料[41])、 名称は「天皇記」ではなかったと考えられる。 よって「天皇記国記」は正式な書名ではなく、概念的なものであろう。 さらに、「天皇記」は古くから大切に守られてきた「帝王本記」などとは別物で、厩戸皇子と馬子が作成を開始した作成途上の文書を指すと見た方がよかろう。 とすれば損害は少なく、ほっとできる。
 この「焼天皇記国記」については、以前に朝廷にとって不都合な記録が残らないように朝廷の側が燃やしたと見たが、深読みし過ぎたかも知れない (〈履中〉即位前(3))
《船史恵尺》
 船史〔ふねのふみひと〕は、王辰爾を始祖とする(〈欽明〉十四年)。 もともと半島-難波間の交易を担う渡来族で、操船術に優れ、かつ史人の能力を兼ね備えた一族だったと思われる。
《哭泣》 .
 「哭泣」が、いわゆる泣きを指すのは確実である(魏志倭人伝をそのまま読む(44))。 〈時代別上代〉〔1967〕は、「地方にはいまなお、報酬によって「一升泣き」「五合泣き」など泣き方に差異のあった泣きおんな、泣きばばの伝承が残っている」と述べる。
 古訓は「ねつかひ」と訓み、実際にそのような呼び方があったのかも知れないが、 記上巻に「雉為哭女(第75回)とあるから、 一般的にナキメと称されたのは確実である。
 古訓「ネツカヒ」からは下二段動詞「泣(ぬ)」の存在が想定されるが、この語はどの辞書にもないから文献にはないと見られる。
《或人説謡歌曰》
於是、
或人說第一謠歌曰。
其歌所謂。
…〈岩〉 トキ- ハシメノ ハシメ[ノ]謡歌 ワサ  ワサ [ヲ][テ][切] 其歌[ニ]フ  [切]
於是(ここに)、
或人(あるひと)第一(つぎてのひとつ)の謡歌(わざうた)を説(と)きて曰はく。
其の歌に所謂(いふ)。
波々魯々儞
渠騰曾枳舉喩屢
之麻能野父播羅
波魯波魯儞…〈岩〉 ハル ハルニ[句] [句][句] [ト][句]
波魯波魯儞(はろはろに)
渠騰曽枳挙喩屢(ことそきこゆる)
之麻能野父播羅(しまのやぶはら)。
此卽宮殿
接起於嶋大臣家而、
中大兄
與中臣鎌子連、
密圖大義、
謀戮入鹿之兆也。
接起…〈岩〉-殿 ミヤ [ヲ]  マセ マセ[テ]  テテ タコ  タユ 於嶋[ノ]大臣[ノ][ニ]
…[動] (古訓) ましはる。ともから。
嶋大臣…蘇我馬子大臣の別名(〈推古〉三十三年)。
密図…〈岩〉 ヒソカ[ニ] ナル[ナル]コトワリ/コトワリ[ヲ][テ]-コロサムトセシ  コロサ[ム][ト]入鹿[ヲ] ナリキサシ[句]
此(こ)は即(すなはち)宮殿(みや)、
[於]嶋大臣(しまのおほまへつきみ)が家(いへ)に接(つ)きて起(た)ちて[而]
中大兄(なかのおほえ)
与(と)中臣鎌子(なかとみのかまこ)の連(むらじ)と、
密(ひそかに)大(おほ)きなる義(ことわり)を図りて、
入鹿(いるか)を戮(ころ)さむと謀(はかりごと)せし[之]兆(きざし)なり[也]。
說第二謠歌曰。
其歌所謂。
…〈岩〉ツキ [ノ]- ツキノ[ノ] ワサ[ヲ][テ]
第二(つぎてのふたつ)の謡歌(わざうた)を説きて曰はく。
其の歌に所謂(いふ)。
烏智可拕能
阿娑努能枳々始
騰余謀作儒
倭例播禰始柯騰
比騰曾騰余謀須
烏智可拕能…〈岩〉[切] [ノ] [句] [句] [ト][句]
烏智可拕能(おちかたの)
阿娑努能枳々始(あさののきぎし)
騰余謀作儒(とよもさず)
倭例播禰始柯騰(われはねしかと)
比騰曽騰余謀須(ひとそとよもす)。
此卽上宮王等性順、
都無有罪而、
爲入鹿見害。
雖不自報、
天使人誅之兆也。
性順…〈岩〉  ツ ノ[ノ]ミコミコ[ノ]性-順ヒトゝナリヒトゝナリ- ユルクシユルクシスヘテ[テ][コト][テ]而 為入鹿[カ][切] タリ  ル[リ]コロサコロサソコナハ[句][ト] ラムクヒ[切] アメ[ノ]使シムル  シテ二レ ヲ[ヲ][テ]コロサ ナリ[句] アメノ人ヲ使コロサ使ムル兆ナリ〕
此は即ち上宮王(かむつみやのみこ)等(たち)の性順(ひととなりしたがへるにあり)て、
都(かつて)有罪(つみなひてあること)無(な)かりて[而]、
入鹿が為(ため)に見害(そこなはゆ)。
雖不自報(みづからむくいざれども)、
天(あめ)の、人をして誅(ころ)さ使(し)めむ[之]兆(きざし)なり[也]。
說第三謠歌曰。
其歌所謂。
…〈岩〉ツキ[ノ]謡歌[ヲ][テ]
第三(つぎてのみつ)の謡歌(わざうた)を説きて曰はく。
其の歌に所謂(いふ)。
烏麼野始儞
倭例烏比岐以例底
制始比騰能
於謀提母始羅孺
伊弊母始羅孺母
烏麼野始儞…〈岩〉 [句] [句][句] [句] [句] [ト][ハ][句]
比岐以例底三年六月の同一歌の「比岐例底」を、ここでは「比岐以例底」として、を加えている。
烏麼野始儞(をはやしの)
倭例烏比岐以例底(われをひきいれて)
制始比騰能(せしひとの)
於謀提母始羅孺(おもてもしらず)
伊弊母始羅孺母(いへもしらずも)
なり[也]。
此卽入鹿臣、
忽於宮中
爲佐伯連子麻呂
稚犬養連網田、
所誅之兆也。
所誅…〈岩〉即入鹿[ノ]  カ[カ][切][ニ]於宮[ノ] シ[テ]   ニ佐伯[ノ]連子麻呂[切] 稚犬カヒ[ノ]アミ[切] レシ 斬イ ナリ[句]
此は即ち入鹿臣(いるかのおみ)、
忽(ことごと)に[於]宮の中(うち)に
[為]佐伯連(さへきのむらじ)子麻呂(こまろ)
稚犬養連(わかいぬかいのむらじ)網田(あみた)がために、
所誅之(ころさえし)兆(きざし)なり[也]。
《歌意》
第一謡歌 はろはろに  そ聞こゆる  嶋の藪原やぶはら
〔 遥かに、謀の声が聞こえる嶋の藪原。 〕
 「或人説」の「宮殿接起於嶋大臣家」を普通に読めば、「宮殿、嶋大臣の家に接(つ)き起(た)てり」となるが、 嶋大臣〔蘇我馬子臣〕に接して建っていたという宮殿の話は、どこにも出てこない。
 また、歌意から見ると、中大兄と中臣鎌子が謀議している声が、 遥か遠くの宮殿にまで聞こえてくるという意味かと思われる。すると「」はマジハルで、中大兄と中臣鎌子連が親密になった意に取りたくなる。 しかし、この文字の並びではその意味にとることはできない。 ただ少なくとも「宮殿」は、もともと板蓋宮を指したのではないだろうか。 もし「」が「」の誤字だったとすれば、意味は極めて明快となる。 歌にハロハロニがあるから、その可能性は相当高い。
 なお、〈岩崎本〉の訓点は「宮殿ミヤセテテテ〔宮殿を混ぜて建てて〕で、広大な嶋大臣の家の一画に宮殿を建てたと読んでいる。
第二謡歌 遠方をちかた  浅野あさのきぎし  とよもさず  我は寝しかと  他人ひととよも
〔 遠方の浅野の雉は騒がず、私は寝たかと人が騒ぐ。 〕
 「或人説」では、雉が響(とよも)さずに静かにしている様を、山背大兄王の穏やかさに譬え、 天がその山背大兄王に代わって、 人〔中大江〕を使って入鹿を殺したことの譬えとする。
第三謡歌 はやしに  吾を引入ひきいれて  し人の  おもても知らず  いへも知らずも
〔 小さな林に私を引き入れて殺した人の、顔も知らず家も知らない。 〕
 「或人説」のように「」を入鹿臣に喩えて読む場合は、セシヒトは「殺せし人」の意となる。
 歌には表面上の意味のほかに、隠された意味が秘められているというのが、謡歌(わざうた)の謡歌たる所以であった。 それを読み解くことを、「説く」というのである。
《大意》
 十三日、 蘇我臣(そがのおみ)蝦夷(えみし)らは殺されるに臨み、 天皇記、国記、珍宝をことごとく焼きました。
 船史(ふねのふみひと)恵尺(えさか)は、 そこで素早く焼かれた中から国記を取り出し、 中大兄(なかのおおえ)に奉りました。
 この日、 蘇我の臣蝦夷(えみし)及び鞍作(くらつくり)の屍を、 墓に葬ることを許されました。 また、哭き女を許されました。
 このとき、 或る人が第一の謡歌(わざうた)を説くに、 その歌にいう。
――遥々(はろはろ)に  言こそ聞こゆる  嶋の藪原
 これは即ち、宮殿が 嶋大臣(しまのおおまえつきみ)〔蘇我馬子〕の家に接して〔「遥かに」の誤りか〕立ち、 中大兄(なかのおおえ) と中臣鎌子(なかとみのかまこ)の連(むらじ)が、 密かに大義を図り、 入鹿を殺そうと謀(はかりごと)する兆しです。
 第二の謡歌(わざうた)を説くに、 その歌にいう。
――遠方(をちかた)の  浅野の雉(きぎし)  響(とよも)さず  我は寝しかと  他人(ひと)そ響す
 これは即ち、上宮王らの性質が穏やかで、 全く罪無くして、 入鹿によって殺され、 自分では反撃しなかったが、 天が人を使って殺させる兆しです。
 第三の謡歌(わざうた)を説くに、 その歌にいう。
――小林(をはやし)に  吾を引き入れて  殺(せ)し人の  面(おもて)も知らず  家(いへ)も知らずも
 これは即ち、入鹿臣(いるかのおみ)が、 ことごとく宮中で、 佐伯連(さへきのむらじ)子麻呂(こまろ)と 稚犬養連(わかいぬかいのむらじ)網田(あみた)によって、 殺されることの兆しです。


29目次 【四年六月十四日】
《讓位於輕皇子》
庚戌。
讓位於輕皇子。
立中大兄爲皇太子。
譲位…〈岩〉 [ヲ] 於軽[ノ][ニ][句][ノ]大兄[ヲ][テ]皇太子[ト]
軽皇子…〈岩〉添え書き:「孝徳者皇極之弟」。
中大兄…〈岩〉添え書き:「天智者舒明之子母皇極」。
庚戌〔十四日〕
位(みくらゐ)を[於]軽皇子(かるのみこ)に譲りたまふ。
中大兄(なかのおほえ)を立たして皇太子(ひつぎのみこ)と為(な)したまふ。
《大意》
 十四日、 天皇(すめらみこと)の位(くらい)を軽皇子(かるのみこ)にお譲りになりました。
 中大兄(なかのおおえ)を立て、皇太子(ひつぎのみこ)になされました。


まとめ
 かくて、〈皇極天皇〉紀は謡歌のなぞ解きをして、物語文学風に締めくくられた。
 時代は、氏族の集合体政治から脱して公による国家支配に向って歩みを進める。 〈皇極天皇〉は一歩退いて、若い中大兄と中臣鎌子連を中心とする新体制による新しい国造りを見守ることにしたのであろう。




[25-01]  孝徳天皇1