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2023.02.06(mon) [24-10] 皇極天皇10 ▼▲ |
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24目次 【四年六月八日】 《中大兄密謂倉山田麻呂臣》
「三韓」は、古くは馬韓・辰韓・弁辰を称した(〈神功皇后〉三十九年)。 〈皇極〉の頃の三韓は「任那」の存在を前提とすれば、百済・任那・新羅だが、実質的には百済・高麗・新羅であろう。 ただ、この段では漠然とこの方面を指したに過ぎず、実際にはどれかの一国であろう。 古訓が「カラヒト」と訓むことについては、進調は国家行事だから不適切である。 ただし、古訓者はこれが偽の儀式だとして、倭国在住の韓人に「使者」を装わせたと見たのかも知れない。 本物の進調だったとすれば居合わせた使人はびっくりであるが、 見たことを本国には言うなと脅して口止めすればよい。あるいは使者を殺してしまったとしても、無礼があったからと伝えれば相手国は気にしないであろう。 また、偽の進朝の儀式をでっち上げることができたと考えるのは、現実的ではない。 よって、本物の儀式であったと見た方がよいだろう。 《読唱》 読唱への古訓「よみあぐ」を〈時代別上代〉は見出し語にはしないが、ヨムの欄に熟語として挙げているいる。 アグが発声に伴って使われる語には、コトアゲが多く見られるが、これは声高に言い募る意味である。 一方、トナフは、呪文などを唱える意である。 ここでは、上表の和訳の朗読だから、トナフの方が適切であろう。 使者による上表文奏上の流れは、〈推古〉十八年に詳しい。 ①両国客等各再拝以奏二使旨一。 ②四大夫起進啓二於大臣一。 とあるので、まず使者が自分の国〔または中国語〕の言葉で上表文〔漢文〕を奏上し、 次に大夫(まえつきみ)がその和訳を啓(まう)したことが分かる。漢文に対しては、既に当時の史人によって一定の訓読法が開発されていたと想像される。 ここでは②を麻呂臣が担ったわけであるから、その口調に相応しいのはアグではなく、トナフが相応しい。 ただ、この古訓からは、平安時代になると朗誦にもヨミアグが通用していたことが分かる。 《陳~奉許》 「陳」はノブである。〈神代紀〉下に「彦火火出見尊具ニ申」の古訓があるので、ノブ自体は尊敬・謙譲については中立である。 「陳」は心の内を広げて見せる意味だから、主語は大中兄のままであろう。 「奉許」という表現については、命令があまり芳しくない内容なので、被命令者が自分の意思で行おうとしたことに対して許可を承った形にしたと見られる。 《大意》 〔四年〕六月八日、 中大兄(なかのおおえ)は、 密かに倉山田麻呂臣(くらやまだのまろのおみ)に、 「三韓の進調の日に、 必ず卿〔=あなた〕に上表文を読み上げさせる」と語り、 遂に入鹿を斬る謀(はかりごと)を表に出して言い、 麻呂の臣は、その許しを承りました。 25目次 【四年六月十二日(一)】 《天皇御大極殿古人大兄侍》
大極殿を、古訓は「オホ晏ドノ」と訓む。晏の主な意味は、暗い・遅い・安らかである。「大晏殿」、「大安殿」ともに、漢籍には見えない語である。 「大晏殿」はある種の私記によるとされる。〈甲本〉では「御大極殿」となっている。 〈続紀〉を見ると、大極殿と大安殿とには用途に違いがあるようで、大極殿では「受朝」〔使節の朝拝を受ける〕、冠位の授与、「即位」など儀式的行事で、 大安殿では「宴」、「転読」〔僧たちによる読経〕で大人数による一般的な会合である。 ただ、大安殿での「受朝」もあるから一概には言えない。 それでも、〈続紀〉の大極殿・大安殿は別の施設と見るべきであろう。 〈天武〉紀を見ると、浄御原宮では「大極殿」の初出が十年二月、「大安殿」の初出が十四年九月である。 類する語句として、「内安殿」、「外安殿」、「旧宮安殿」、「大安殿」が順に出て来る。 訓点は(内閣文庫本など)「内ノ安殿」、以下「外ノ安殿」、 「旧宮ノ安殿」であるから、安殿はすべて「アムトノ」である。「大安殿」に訓がないのは、 「オホアムトノ」と訓むことが明らかだからであろう。「大極殿」はその延長線上にあるものとして、これも「オホアムトノ」になったようである。 古訓者が大極殿を大安殿とを物理的に同じ施設と見たかどうかは分からないが、少なくとも類似する性質の施設として捉えたようだ。 それぞれの用途を見ると、「大極殿」では詔を発し、「大安殿」では博戯と宴であるから、〈続紀〉と同様に別の施設であろうと思われる。 〈皇極〉紀の「大極殿」に話を戻すと、結局〈天武〉紀の訓「オホアムトノ」を遡らせて用いたものだと理解される。 しかし〈皇極〉帝の時代には、現実には大極殿なる名称は存在せず、宮殿の典礼会場にあてて修辞的にこの呼称を用いたと見た方がよい。 少なくとも、板蓋宮内の大きな施設ではある。 そういうことならば〈天武〉紀の大極殿とは区別して考えるべきである。 ならば、〈私記-甲本〉のように「御二大極殿一=タカミクラニマシマス」とした方がむしろ賢明であろう。 ただし、この訓は建物への入場を、その中の御座につくことに置き変えて意訳したもので、「大極殿をどう訓むか」という問題を回避している。 ここで〈倭名類聚抄〉を見ると「大極殿」には訓を添えないが、「殿」の字だけには「和名止乃」とし、 また武徳殿のみ「武徳殿:俗云【牟万岐止乃】」として和訓を添えている。 これらを見ると〈倭名類聚抄〉の趣旨には合う読み方をするなら、重箱読みのダイゴクトノとなろう。 《知蘇我入鹿臣為人》 万葉に「終止形+ト+知る」の構文は多い。例えば、(万)4376「由久等之良受弖 ゆくとしらずて」、(万)3545「安須可河泊 世久登之里世波 あすかがは せくとしりせば」などが見られる。 これを見ると、「知る」の目的語として動詞を名詞化する場合に、必ずしも古訓のように「~コトヲ」とする必要はなく、「~ト」でよい。 《俳優》 「俳優」が舎人を演じて、実直に「腰のものを預からせていただきます」と言って預かり、蝦夷は何も疑うことなくにこやかに渡す場面が目に浮かぶ。 《方便》 古訓は「方便」と訓む。〈時代別上代〉によれば、タバカリ・タバカルの用例はほぼ書紀古訓に限られる。 その点、ハカルは幅広く使われる語である。 《長槍》 ナガ-ホコは、〈時代別上代〉を見ると、ひとつも出てこないようである。 漢籍には、『随書』巻二十四志九〔656〕に「始作長槍」があるので、 中国語としては存在していた。 《隠於殿側》 「隠於殿側」は、中大兄自身が隠れたとも、中大兄が長槍を隠したとも読める。 しかし、後の場面で「共二子麻呂等一…以レ剣傷二-割入鹿頭肩一」とあるから、 中大兄は事件のときには殿内にいた。したがって、「隠於殿側」は、儀式が始まる前に準備を終えて参列したか、 ずっと隠れていて儀式の最中に乱入したかのどちらかである。 ただし、最初に持っていたのは長槍だが、入鹿臣を襲うときに手にしていたのは剣である。 《海犬養連勝麻呂》 海犬養連について、 〈姓氏家系大辞典〉は「海犬養 アマノイヌカヒ:海部族にして犬養の職にありしものを云ふ。」、 「海犬養連:安曇氏の族なり。天平二年の写書所解に「海犬甘連広足(年卅六、左京六条ニ坊戸主海犬甘連麻呂戸口)」と云ふ人見ゆ」と述べる。 安曇氏は、代表的な海洋起源の氏族である (第43回【安曇連】・〈応神〉三年)。 〈天武紀〉十三年十二月に「海犬養連…五十氏賜姓曰宿祢。」とあり、宿祢姓を賜った。 《使海犬養連勝麻呂授箱中両剣》 「使海犬養連勝麻呂…」以下は、当然儀式が始まった時点ではなく、事前に行われたことであろう〔この日の前夜か〕。 剣を箱から出して手渡し、式が始まったらこれで入鹿を襲えとの密命を受け、緊張で食事も喉を通らなかったと描く。 出典は、海犬養連または佐伯連の家伝であろうか。 《大意》 十二日、 天皇(すめらみこと)は大極殿(だいごくでん)に御座し、 古人大兄(ふるひとのおおえ)が侍従しました。 中臣鎌子(なかとみのかまこ)の連(むらじ)は、 蘇我の入鹿の臣が 為人(ひととなり)疑い深く、昼夜剣を携行していることを知っていました。 そこで、役者に演技を教え、方便を使って解かせました。 入鹿の臣は、笑って剣を解き、 大極殿に入って座に控えました。 倉山田の麻呂の臣は、 進み出て三韓の表文を読唱しました。 このとき、 中大兄(なかのおおえ)は 衛門府(ゆけいのつかさ)に厳戒させ、 一時に一斉に十二の通門に鎖をかけ、 往来させないようにしました。 そして衛門府を一か所に召集し、 俸禄を賜ろうとしていました。 その時、中大兄は、 自ら長槍を手に取り、大極殿の傍らに隠れられました。 中臣の鎌子の連(むらじ)配下の者は、 弓矢を持って助衛を務めました。 〔予め〕海犬養連(あまのいぬかいのむらじ)勝麻呂(かつまろ)を遣わして、 箱の中の二口の剣を 佐伯連(さへきのむらじ)子麻呂(こまろ) と葛城稚犬養連(かつらぎのわかいぬかいのむらじ)網田(あみた)に授けさせ、 「つとめて急ぎ必ず斬るべし」と仰(おっしゃ)りました。 子麻呂たちは、 水で飯を流し込みましたが、恐ろしさに嘔吐しました。 中臣鎌子連は、𠮟責しつつも励ましました。 26目次 【四年六月十二日(二)】 《共子麻呂等出其不意以劒傷割入鹿頭肩》
「乱声動手」の乱、動は他動詞で「声を乱し、手を震わす」であるが、倭語では「手をわななかす」とは言わず、自動詞として「手わななく」と表現する。 「乱レ声」も、それに合わせて「声みだる(自動詞、四段)」と訓読することになる。 なお、古訓は平安の言葉なのでミダルを下二段活用させているが、上代は四段活用である。 《鞍作臣》 入鹿が、震える倉山田臣を見てどうしたのだと声をかけたところに至り、入鹿臣を「鞍作臣」と表記する。 ひとつの考え方としては、 畏まった儀式の場面であるから、正式に「鞍作臣」を用いたと見ることができる。 すなわち、鞍作が正式名で、入鹿は愛称あるいは蔑称という関係ではないだろうか。 その後、中大兄が天皇に問われて入鹿の罪状を説明するときに「鞍作」を用いていることも、それを裏付けている。 ただし、他の考え方としてこの段は複数の出典を部分として合成されていて、出典ごとの表記が統一されなかった可能性がある。 すでに元年正月条に「入鹿【更名鞍作】」とあったが、この段でも再び【蘇我臣入鹿。更名鞍作】と注される。 《共子麻呂等》 「共二子麻呂等一…以レ剣傷二-割入鹿頭肩一」 とあるから、中大兄自身が剣を執り、先頭に立って襲ったのである。 前半では中大兄は殿側に隠れていただろうと読んだ。 とすれば、子麻呂たち三人はそれまで外にいて、子麻呂らが逡巡して入ろうとしないから、業を煮やして自ら先頭にたって突入したわけである。 しかし、前段の「中大兄即自執長槍隠於殿側。中臣鎌子連等持弓矢而為助衛。」を見ると、 入鹿を逃がさないように、大極殿を包囲して万全の体制を取っていたことと読める。 本当の史実はその大人数がそのままなだれ込んだもので、 中大兄など三人に絞って描くのは、後から潤色された可能性がある。 《乞垂審察》 天皇に嘆願するときの言い回しとしては、「こひねがはくは」(冀、希、庶)がある。 「乞」はコフの部分だけであるが、「コヒマツル」とは普通言わないので、 「乞」だけでもコヒネガハクハと訓むのがよいだろう。 「垂」は「垂訓」など上から下に言葉を賜る意味で、 鎌倉時代になると、『平家物語』〔13世紀〕巻二/康頼祝言の「南無権現金剛童子、ねがはくは憐をたれさせおはしまして」など、タルにその意味がある。 しかし、ここの古訓には使われていないから、平安時代になっても、タルはこの意味には使われていないようである。 「審」はツマヒラカナリ・アキラカナリなどと訓まれる。「察」はアキラム・アキラカニス・ミルである。 《当居嗣位天之子也》 「当レ居レ嗣レ位天之子」は、天降りした天孫の血統を嗣ぐべき者という意味で、 ここでは中大兄を指すと見るのが妥当であろう。皇太子になられようとするお方が、なぜ私にこんなことをするのかというわけである。 そして、ご審察を垂れていただくように天皇にお願いするのである。 《伏地奏》 天皇に事情を問われ、「中大兄伏レ地奏」とある。文字通り読めば外にいたことになるが、実際には殿内であるから一種の修辞法であろう。 ただし、殿内から入鹿が逃げ出し、外で殺害されて天皇も出てきたという別伝があった可能性もある。 《天宗》 天宗の古訓「キムタチ」は、本来は「公-達」の意味で、一般的な語であるキミの複数形である。しかし、〈時代別上代〉が述べるように「日本書紀古訓で諸王(王家の一族)をキムダチと訓む」。 「宗」は「宗族」(同じ先祖をもつ一族)、「天」は天降りしたニニギミコトを祖とする意味である。 《日位》 「日」は太陽神、すなわち天照大神で、「位」は日嗣の位で、つまり日位=天皇である。 記では天照大神が祖であるが、書紀神代巻では次第に高皇産霊神に移している。 〈皇極紀〉も書紀の一部だが、ここでは厳密性に拘っていない。 《豈以天孫代鞍作乎》 「入鹿臣が自ら天皇位につこうとした」というのは、いうまでもなく中大兄王と中臣鎌子連による言いがかりである。 ここでは、その言葉をあからさまに中大兄に語らせている。 三年十一月のところで述べたように、「宮門」「王子」という呼称は、中大兄らによる悪口をそのまま書いたものと読み取れる。 《起入於殿中》 中大兄の返答を聞いた天皇は「起(た)てり」と書くから、それまでは着席していた。よって事件は大極殿の内で起こった。 なのに「入於殿中」と書くのは、日常的に居住する殿に移動したということであろうが、釈然としない。 遡ると、中大兄は「長槍」を持って隠れ、中臣鎌子連の弓矢部隊が控える。 その続きなら、長槍を持った中大兄を先頭に、弓矢を持った大部隊が乱入していそうなものである。 ところが、大極殿内の中大兄は三人で「剣」で切りつけ、その繋がりがしっくりしない。 また、大極殿の中なのに「地」に伏せた箇所や、「入鹿臣」と「鞍作臣」の呼称の不統一が見られる。 さらに、「授箱中両剣」の件は明らかに時間を遡らせているが、それが明示されていない。 これらのことから、この事件については様々な記録や伝説があり、それらをつぎはぎして書かれたものと思われる。 ただ、種々の別説が生まれたのは、この事件の世間に与えた衝撃の大きさを物語るものであろう。 譬えていうなら、後世の義経伝説や忠臣蔵のようなものである。 多種多様な伝説の存在は、事実そのものの史実性を薄めるものではなく、むしろ事件が確実に存在した証拠となり得るものである。 これに比べると、三年正月条はかなり滑らかに読むことができたが、むしろそれが真実性の薄い創作であることを示すものかも知れない。 《大意》 倉山田麻呂(くらやまだのまろ)の臣は、 唱えている上表文が今にも尽きようとしているのに、 子麻呂らがまだ来ないことが恐ろしくなり、 流れる汗が全身をひたし、声は乱れ手は震えました。 鞍作臣(くらつくりのおみ)〔=入鹿臣〕は、これを怪しみ、 「どうしてそんなに震えているのか」と問い、 〔倉〕山田麻呂はそれに対して、 「天皇(すめらみこと)の近くにいることが恐ろしく、不覚にも汗が流れたのです。」と答えました。 中大兄は、 子麻呂らが入鹿の威を恐れ、逡巡して進めずにいるのを見て、 「やあ」と一声を発しました。 そして子麻呂らと共に不意を突いて飛び出し、 剣で入鹿の頭と肩に切りつけました。 入鹿は驚いて立ち上がりました。 子麻呂は腕を回して剣を振い、 その片方の脚を傷つけました。 入鹿は、転げるようにして御前に近づき、 頭を下につけてお願いして、 「まさに継位にまします天つ御子であらせられる〔中大兄がこのようなことをなされるとは〕。 臣が罪に問われることが分かりません。冀(こいねが)わくば、審察を垂れてください。」と申し上げました。 天皇(すめらみこと)は甚だ驚かれ、 中大兄に、 「あなたがたが行ったことが分かりません。何事があったのですか。」とお尋ねになりました。 中大兄は 地に伏して、 「鞍作(くらつくり)は尽(ことごと)く天の宗家を滅ぼして、まさに日の位を傾けようとしております。 あに天孫を廃して、鞍作に代えることがありましょうや」と申し上げました。 天皇(すめらみこと)はそのまま立ち上がり、殿中に入られました。 佐伯連(さへきのむらじ)子麻呂(こまろ)と 稚犬養連(わかいぬかいのむらじ)網田(あみた)は、 入鹿臣を斬りました。 27目次 【四年六月十二日是日】 《以席障子覆鞍作屍》
古人大兄も皇子だから尊敬表現されるべきである。しかし、〈岩崎本〉など古訓にはない。 訓点として動詞に一か所でも「タ」とあれば全体が尊敬語で訓まれたはずであるが、全く見られない。 遡って山背大兄王の場合は皇太子になる目は全くなかったが、それでも尊敬表現が用いられていた。 よって、古人大兄は、古訓者からは逆賊の一味に貶められている。 一方、中大兄には古訓において尊敬表現が用いられている。 ところが、書紀原文の段階では、その振る舞いに余り好感を持っていない。 それは、「中大兄王」と表記しないところや、 発言に「詔」は用いず、単に「曰」であるところに現れている。 《韓人殺鞍作臣》 古人大兄は参列していたから、一部始終を目撃していたはずである。 なのに、人には「韓人殺鞍作臣」と言ったのは何故だろうか。 想像するに、中大兄は反対勢力に担がれていたとはいえ、同じ皇子としての同族意識があり、 殊更にその犯罪的行為を喧伝する気にはなれなかったのであろう。 同時に、中大兄の名前を出すことにより中臣鎌子派に反発する意思があると受け止められることを恐れた。 すなわち、中大兄が何をやったかは私は全然知りませんと言って、謹慎蟄居してやり過ごそうとしたとも見られる。 下手に振舞えば、今度は自分が山背大兄王と同じ目に遭うのである。この方が主たる理由かも知れない。 他の可能性としては、噂は様々な形で伝わるから、その一つに韓人犯人説があったことを反映してこのように書かれたかも知れない。 原注は、そのような噂が生まれ得る背景として「謂下因二韓政一而誅上」、すなわち少なからず外交的な摩擦が存在していたと説明する。 《入法興寺為城》 法興寺(飛鳥寺)は、飛鳥川を挟んで蘇我蝦夷の拠点、甘樫丘に向かい合う位置にある。 寺は、軍事拠点になり得る。後世には「瑞巌寺は伊達政宗の隠し砦」などと言われた。 「桙削寺」についても、その可能性を読み取った。 後世の言語感覚では法興寺を城(シロ)として使ったと読めるが、実際には垣の外側に城柵(キ)を作って強化したという文かもしれない。 「為城」は前者なら「キとなす」、後者なら「キヲツクル」と訓むことになる。 《諸皇子諸王諸卿大夫臣連伴造国造》 卿・大夫・臣はすべてマヘツキミで、これらを訓読で区別するのは難しい。ただ、臣だけは「臣連」(おみむらじ)と言い慣わされたことを用いることができる。 当時でも音読も用いられていたと考えられるが、この箇所だけ音読みを用いるのは不自然である。 皇子・王についても両方ともミコであるが、王については万葉風にオホキミを用いることができる。 《賜鞍作臣屍於大臣蝦夷》 書紀において二重目的語をとる構文は、通例では「以+事物目的語」を前に出すので「以鞍作臣屍賜於大臣蝦夷」になるはずだが、ここは例外である。 《漢直》 漢直は、蘇我氏を助けるために結集した勢力の中心であった三年十一月。 《眷属》 眷属(眷族)は、親身になって目をかける一族。和語ではウガラまたはヤカラに相当するが、ウガラとヤカラの意味は区別し難い。 《巨勢徳陀臣》 巨勢徳陀臣については、元年十二月、「小徳巨勢臣徳太」の表記で、舒明天皇の喪において大派皇子の名代として誄を捧げた。 《天地開闢君臣始有》 「以天地開闢君臣始有説於賊党」において、動詞「説」は二重の目的語をとり、「Ot〔事物目的語〕をOp〔人格目的語〕に説く」という構文である。 Otは「天地開闢君臣始有」で、"以"をつけて明確化される。Opは「賊党」で、前置詞"於"をつけて明確化する。 すなわち「天地開闢のときに君臣の秩序が始まり存在し続けていることOtを、賊党Opに説く」である。 その上で、この動詞句〔動詞+2つの目的語〕を徳太に課した事柄とする。 この動詞句を含む文全体は、英語で言えばSVOC〔主語・述語動詞・目的語・目的補語〕の文型で、 この動詞句はCにあたる。 文の各構成要素は、S=「中大兄」、V=「使」、O=「将軍巨勢徳陀臣」、C=「以天地開闢君臣始有説於賊党」からなる。 〈岩崎本〉の訓点も、これと同じ構文解析によっている。 本稿の訓読では基本的に「以」を明示的に訓むことにしているが、この文では却って文意が不明瞭になるので置き字とする。 対格の格助詞「ヲ」と与格の格助詞「ニ」の機能は極めて明瞭で、日本語の優れる点のひとつと言え、訓読には大いに生かすべきである。 さて、「始有」の後に主語がないことについては、漢籍から類例を探すと 『史記』〔前漢〕酈生陸賈列伝に、ここと類似する文「中國之人以億計…〔中略〕…自天地剖泮未始有也」〔泮=わかれる〕がある。 これを見ると、「有」の後の主語が省略されること自体はあり得る。ただし、もう少しきちんと「君臣之序自天地開闢始有」と書くことが望まれる。 巨勢徳陀臣の冠位「小徳」がここでは省略されたところも含めて、この辺りの文章は雑である。 〔上で、複数の出典をつぎはぎして書かれたと考えたから、ここでも元文でこう書かれていたのかも知れない〕。 また、「臣」をヤツコと訓むことについては、臣=ヤツコ〔遜った一人称〕を機械的に当てはめたと見られ不適切である。 君臣=キミオミとするのがよい。 「天地開闢始有」は相当に大げさであるが、要するに君臣の秩序は不変の公理であるという。 結果的に中大兄を押し立てた中臣鎌子派が官軍、蝦夷・入鹿派が賊軍となったから、 今や臣はすべて中大兄に従うことこそが、君臣の秩序を保つ道なのである。 《高向臣国押》 高向臣国押は、二年十一月では、 蘇我派に属しながら、山背大兄王の捕獲に向かうことを拒否している。 《大郎》 書紀古訓としては大変珍しく、大郎を「タイラウ」と音読みしている。 〈漢典〉は、「大郎」を長男の意としているが、「郎」は男子の美称で、ここでは中大兄を「麗しい兄」と呼ぶニュアンスと見られる。 よって、通常の訓み通りオホイラツコと訓んでも差し支えないと思われる。 《大意》 この日、 雨が降り水がたまり、庭に溢れ、 筵と戸板によって鞍作の屍を覆いました。 古人大兄(ふるひとのおおえ)は、 これを見て自分の宮に逃げ帰り、 人に語るに、 「韓人(からひと)が鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺した 【韓の国が政によって殺されたという】。 私は心が痛い。」と言いました。 そして寝室に入り、門を閉じて外出しませんでした。 中大兄は、 そこで法興寺に入いられ、城柵を作って備えました。 大部分の、もろもろの皇子、諸王、もろもろの卿大夫、 臣(おみ)連(むらじ)伴造(とものみやつこ)国造(くにのみやつこ)が、 ことごとく従い仕えました。 〔天皇は〕使者によって、 鞍作臣の屍を大臣(おおまえつきみ)の蝦夷(えみし)に届けられました。 これにより、漢直(あやのあたい)たちは、 総て眷属(けんぞく、=同族)を集め、甲冑をまとい、武器を手にとって、 大臣(おおまえつきみ)を助けようとして、その場に軍陣を設けました。 中大兄は、 将軍巨勢徳陀臣(こせのとくたのおみ)を派遣して、 天地開闢(かいびゃく)のときに君臣の秩序は始まり以後ずっと続いていることを 賊党に説かせ、 向うべき所を知らしめました。 すると、高向臣(たかむこのおみ)国押(くにおし)は、 漢の直たちに向って言うに、 「われらは、君(きみ)大郎(だいろう)によって、 殺されるであろう。 〔蘇我蝦夷〕大臣(おおまえつきみ)もまた、今日明日のうちに、 たちどころに殺されるのを待つに決まっている。 にもかかわらず、誰のために虚しく戦い、 ことごとく罰せられるのか。」 と、このように言い終えたところで剣を解き弓を投げ、 これらを捨てて去りました。 賊徒たちもそれに従い、散り散りになって逃げました。 まとめ 入鹿臣の屍は、無残にも降りしきる雨の中で水あふれる庭に打ち捨てられ、かろうじて筵とシトミが掛けられただけで放置された。 ここでも滅びる者の姿の描き方には、無常感が漂う。入鹿の所業をあれほど否定的に描いたにも拘わらずである。 その精神性は、後世の平家物語の愛好に繋がっていく。 殺伐とした事件を受け止めるには、物語化という一種の美意識で包みこまなければ耐えられない。これは、精神に備わった機能であろう。 猿歌や虎に授かった針など荒唐無稽な伝説の挿入についても、その機能の一つとして受け止めてきた。 さて、入鹿臣を失った蘇我本家にもはや求心力はなく、強固に見えた結束はあっという間に崩壊した。 その没落を、物語として過度に大袈裟に描いたと読めないこともないが、実際に民衆の心が離反していたと考えられる。 その事情を改めて考えてみると、元年から二年のところで天候不順が繰り返し書かれたことは伊達ではなかった。 旱魃が終わったと思えば長雨が続き、凶作が襲ったと見られる。それにも拘わらず重税を課され、次々と華麗な寺院が建てられていくことを目の当たりにして、 反発する感情が、巫が神言を大臣に浴びせかけるという形で表現されたものと見られる。 蝦夷大臣が組織した読経による雨乞いの失敗もまた、その権威の失墜を象徴的に描いたものであろう。 民衆が直面した困難の元凶として目の敵にされたのが、大臣と入鹿臣である。 その背景があったからこそ、諸族は一気に大臣たちから離反して中大兄王・中臣鎌子派の許に走ったのであろう。 中大兄皇子は、国家に集約すべき税収が蘇我蝦夷のような諸族によって私物化されているという現在の国の形が、 人民の生活を損ない国家経営に損害を与えている元凶だと考えた。 そして、今こそ公(おおやけ)の仕組みを確立すべき時だとして、大化の改新に踏み出したと想像される。 |
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2023.02.09(thu) [24-11] 皇極天皇11 ▼▲ |
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28目次 【四年六月十三日】 《蘇我臣蝦夷等臨誅悉燒天皇記國記珍寶》
蘇我臣蝦夷等(蝦夷と入鹿〔あるいは他の者も含まれるか〕)が「望レ誅」〔誅に臨みて〕と書かれる。 次に、「蘇我臣蝦夷及鞍作屍」と書かれる。この二文から蘇我臣蝦夷も殺された、または自死したことが演繹される。 しかし、「蘇我臣蝦夷個人の死」が直接書かれた文はない。 一般には蝦夷は自死したと言われているが、少なくとも書記の中にはそう言い得る根拠はない。 通例なら、中大兄と中臣鎌子の軍勢が蝦夷の家を包囲し、蝦夷は自死したなどと書かれたはずである。 ただ、「焼天皇記国記珍宝」からは、実際には攻撃側によって邸宅に火を放たれたことが窺われる。 蝦夷臣の死についての記事は、原案にはあったが削除されたのかも知れない。 ここには、蘇我氏が滅びた原因をすべて入鹿個人に負わせて、蝦夷臣の関与は極力小さく見せようとする書紀の意図がはたらいたのは明白である。 遡って、入鹿が山背大兄王を殺したときにも、蝦夷臣は入鹿を罵ったと描かれている(二年十一月)。 悪行と滅亡について仮に蝦夷臣が中心だったと書くと、後の世に蝦夷臣に相当する立場となる中臣鎌子〔藤原鎌足〕を貶めるかの如くに読めてしまうからであろう。 《焼天皇記国記珍宝》 「天皇記」に相当する文書については、 〈欽明〉二年の原注に、 「帝王本紀、多有古字、撰集之人、屢経遷易。後人習読、以意刊改、伝写既多、遂致舛雑、前後失次、兄弟参差。」とある。 つまり、書記の執筆時において少なくとも「帝王本記」は失われることなく存在していた。 「天皇記国記」は蘇我馬子と厩戸皇子〔聖徳〕が執筆を開始した文書を指したものかも知れない(推古二十八年)。 天皇号の使用開始は680年頃と推定されるので(資料[41])、 名称は「天皇記」ではなかったと考えられる。 よって「天皇記・国記」は正式な書名ではなく、概念的なものであろう。 さらに、「天皇記」は古くから大切に守られてきた「帝王本記」などとは別物で、厩戸皇子と馬子が作成を開始した作成途上の文書を指すと見た方がよかろう。 とすれば損害は少なく、ほっとできる。 この「焼天皇記国記」については、以前に朝廷にとって不都合な記録が残らないように朝廷の側が燃やしたと見たが、深読みし過ぎたかも知れない (〈履中〉即位前(3))。 《船史恵尺》 船史〔ふねのふみひと〕は、王辰爾を始祖とする(〈欽明〉十四年)。 もともと半島-難波間の交易を担う渡来族で、操船術に優れ、かつ史人の能力を兼ね備えた一族だったと思われる。 《哭泣》 . 「哭泣」が、いわゆる泣き女を指すのは確実である(魏志倭人伝をそのまま読む(44))。 〈時代別上代〉〔1967〕は、「地方にはいまなお、報酬によって「一升泣き」「五合泣き」など泣き方に差異のあった泣きおんな、泣き婆の伝承が残っている」と述べる。 古訓は「ねつかひ」と訓み、実際にそのような呼び方があったのかも知れないが、 記上巻に「雉為二哭女一」(第75回)とあるから、 一般的にナキメと称されたのは確実である。 古訓「ネツカヒ」からは下二段動詞「泣(ぬ)」の存在が想定されるが、この語はどの辞書にもないから文献にはないと見られる。 《或人説謡歌曰》
また、歌意から見ると、中大兄と中臣鎌子が謀議している声が、 遥か遠くの宮殿にまで聞こえてくるという意味かと思われる。すると「接」はマジハルで、中大兄と中臣鎌子連が親密になった意に取りたくなる。 しかし、この文字の並びではその意味にとることはできない。 ただ少なくとも「宮殿」は、もともと板蓋宮を指したのではないだろうか。 もし「接」が「遥」の誤字だったとすれば、意味は極めて明快となる。 歌にハロハロニがあるから、その可能性は相当高い。 なお、〈岩崎本〉の訓点は「宮殿ヲ接セテ起テテ」〔宮殿を混ぜて建てて〕で、広大な嶋大臣の家の一画に宮殿を建てたと読んでいる。
歌には表面上の意味のほかに、隠された意味が秘められているというのが、謡歌(わざうた)の謡歌たる所以であった。 それを読み解くことを、「説く」というのである。 《大意》 十三日、 蘇我臣(そがのおみ)蝦夷(えみし)らは殺されるに臨み、 天皇記、国記、珍宝をことごとく焼きました。 船史(ふねのふみひと)恵尺(えさか)は、 そこで素早く焼かれた中から国記を取り出し、 中大兄(なかのおおえ)に奉りました。 この日、 蘇我の臣蝦夷(えみし)及び鞍作(くらつくり)の屍を、 墓に葬ることを許されました。 また、哭き女を許されました。 このとき、 或る人が第一の謡歌(わざうた)を説くに、 その歌にいう。 ――遥々(はろはろ)に 言こそ聞こゆる 嶋の藪原 これは即ち、宮殿が 嶋大臣(しまのおおまえつきみ)〔蘇我馬子〕の家に接して〔「遥かに」の誤りか〕立ち、 中大兄(なかのおおえ) と中臣鎌子(なかとみのかまこ)の連(むらじ)が、 密かに大義を図り、 入鹿を殺そうと謀(はかりごと)する兆しです。 第二の謡歌(わざうた)を説くに、 その歌にいう。 ――遠方(をちかた)の 浅野の雉(きぎし) 響(とよも)さず 我は寝しかと 他人(ひと)そ響す これは即ち、上宮王らの性質が穏やかで、 全く罪無くして、 入鹿によって殺され、 自分では反撃しなかったが、 天が人を使って殺させる兆しです。 第三の謡歌(わざうた)を説くに、 その歌にいう。 ――小林(をはやし)に 吾を引き入れて 殺(せ)し人の 面(おもて)も知らず 家(いへ)も知らずも これは即ち、入鹿臣(いるかのおみ)が、 ことごとく宮中で、 佐伯連(さへきのむらじ)子麻呂(こまろ)と 稚犬養連(わかいぬかいのむらじ)網田(あみた)によって、 殺されることの兆しです。 29目次 【四年六月十四日】 《讓位於輕皇子》
十四日、 天皇(すめらみこと)の位(くらい)を軽皇子(かるのみこ)にお譲りになりました。 中大兄(なかのおおえ)を立て、皇太子(ひつぎのみこ)になされました。 まとめ かくて、〈皇極天皇〉紀は謡歌のなぞ解きをして、物語文学風に締めくくられた。 時代は、氏族の集合体政治から脱して公による国家支配に向って歩みを進める。 〈皇極天皇〉は一歩退いて、若い中大兄と中臣鎌子連を中心とする新体制による新しい国造りを見守ることにしたのであろう。 |
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⇒ [25-01] 孝徳天皇1 |