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2023.01.21(sat) [24-8] 皇極天皇8 ▼▲ |
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19目次 【三年三月】 《菟田郡人押坂直使童子採取紫菌》
〈倭名類聚抄〉および『類聚名義抄』を見れば、休留の訓がイヒトヨであるのは確定する。それでは、それは上代まで遡るのだろうか。 清寧天皇と顕宗天皇の間に「臨朝秉政」した飯豊女王がいた (第212回)。 その名前はこのイヒトヨによると思われるので、上代にこの名詞が存在したのは確実である。 鵂鶹、茅鴟ともにフクロウ属の鳥を意味するから、イヒトヨ=フクロウである。 《豊浦大臣》 豊浦大臣は蘇我蝦夷大臣の別名で、〈推古〉十八年の初出において、「蘇我豊浦蝦夷臣」と表記される (〈推古〉即位前(二)《蘇我蝦夷》参照)。 豊浦については、 石川廃寺から豊浦寺(向原寺)までの地域が蝦夷・入鹿の時期の拠点であったと見られる (第250回《大野岡》)。 《大津宅倉》 「大津宅倉」の大津は、万葉では(万)0029「淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 あふみのくにの ささなみの おほつのみやに」 とあるように、〈天智〉大津宮〔近江国〕を指すが、
大連や大臣を始めとして、主な官僚は難波周辺に別邸〔あるいは別業〕をもっていたと考えられる。 たとえば、〈欽明〉朝のとき、大伴金村連が非難を恐れて「住吉宅」に引きこもった記事がある(〈欽明〉元年九月)。 「宅倉」は、屯倉との類似から、別業を指す可能性もあるが、 〈岩崎本〉の訓点は「宅[ノ]倉」〔いへのくら〕としている。 イヘノクラと訓めば、文字通り倉の建物内にイヒトヨが巣を作ったことになり、ナリドコロと訓めば、その敷地内の樹木に巣くっていたことになる。 《押坂直》 押坂直の本貫は〈倭名類聚抄〉{大和国・城上郡・恩坂【於佐加】郷}と推定される。 〈姓氏家系大辞典〉は「押坂 オサカ オシサカ」 の項に「押坂直:倭の漢の族也。 又忍坂直に作る。城上郡恩坂郷(於佐加)より出でし氏なるが、刑部(オサカベ)と関係あるや否や明らかならず。」などと述べる。
宇陀郡〔現在の宇陀市と多く重なる〕の山は、額井岳(812.3m)、鳥見山(734.4m)、高城岳(810m)が代表的で、 このうち鳥見山は記紀、万葉にしばしば登場する(宇陀市公式ページによる)。 鳥見山は二箇所あるが、〈神武〉四年に出て来るのは東の方である。 《高六寸余満四町許》 〈岩崎本〉は「高」に何も書き添えていないが、普通に訓めばタカサである。 「形容詞語幹+サ」が完全に名詞化したことが確認できるのはナガサ(長さ)のみという(二年八月《厚三四寸》)。 万葉にはタカサはなくタカミのみで、(万)1722「吉野川 河浪高見 多寸能浦乎 よしのがは かはなみたかみ たぎのうらを」の場合は連用形のみの動詞または名詞と見られるが、 高いさまへの感歎で、物理的に寸法を指すものではなさそうである。 『類聚名義抄』に「高: タカサ」があり、これが上代に遡るかどうかは分からないが、ひとまずナガサがあるからタカサもあったと考えておく。 「六寸」は、漢代〔新莽嘉量〕で約14cm、 正倉院尺〔第116回【御身長・御脛長】〕で約18cmほどになる。 満は、〈岩崎本〉にイ〔ハメ〕リと、ミテリの両方が付されている。これでイハムとミツが同義であるのは確実となる。 書紀は原文の段階で地名「磐余」の起源譚とするから、もっぱらイハムを使おうとしたと見られる (〈神武〉即位前己未年)。 四町は、正倉院尺=29.6cmとすると、一町=3,600坪=11,360m2(〈仁徳〉十四年《感玖大溝の比定地》)、 すなわち四町=45,540m2で、広大である。ただし、マンネンタケ〔後述〕は枯れ木につくもので、草原のように一面を覆うとの表現は伝説上のものであろう。 《総言不知且疑毒物》 「総言不知且疑毒物…」の部分は分かりやすく、β群らしさが感じられる。伝説の内容を理解して漢文で簡潔に表したものであろう。 これに比べると、正月条はやはり倭人の作のように思われる。 総は、『類聚名義抄』では「総:フサ フサツク」だが、意味の似る統に「統:スフ ムネ」があるので、スベテでよいだろう。 毒物は生体内で起こす化学変化が生命に危険を及ぼす物質であるが、ドクと一対一対応する和語は見出し難い。 『類聚名義抄』では「毒:ウレフ ヤム ヲサム ニカシ ツカフ イタム」となっていて、 結局文脈に応じて意味を使い分けたわけである。 クスリはクスシ(形容詞)の語幹から派生したが、アシ、キラフなどから毒物にあたる語は派生しなかった。 〈岩崎本〉の毒物には、やや隔靴掻痒の感がある。 《由喫菌羹無病而寿》 その「菌」の「羹」を「喫」した結果、本当に「無病而寿」になるかどうかは、これから年数を経ないと分からないはずである。 食べてみて体にみなぎるものを感じて、無病長寿を実感したということであろう。 《芝草》 〈釈紀-述義〉は、「芝草:説文曰。神草也。臣鍇曰…」などと述べて、『説文』から引用している。 実際には『説文』本体からではなく、その注釈書である『説文解字繋伝』からの引用である。 孫引きを避けるために『繋伝』原文を見ると、次のように書かれている。
芝は漢音・呉音ともシ。芝生のシバは日本語用法である。 芝草の〈釈紀〉〔鎌倉〕、〈岩崎本〉訓点〔右墨書〕はともに「シサウ」である。 おそらく上代に伝わってきたときから音読だったと思われる。 《大意》 三月、 フクロウが 豊浦大臣(とようらのおおまへつきみ)の大津(おおつ)〔=難波津〕の別邸の倉で子を産みました。 大和国から報告がありました。 ――「最近、 宇陀郡(うだのこおり)の人押坂(おさか)の直(あたい)【名を欠く】は、 一人の子どもを連れて雪の上で楽しく遊びました。 菟田山(うだやま)に登ると、 紫色の茸(きのこ)が雪から抜き出て生えているのを見つけ、 その高さは六寸余り、四町ほどの広さを満たしていました。 そこで、子どもに採取させ、帰って隣家に見せましたが、 皆知らないと言い、また毒物ではないかと疑いました。 こうして、押坂の直(あたい)と子どもが、 煮て食べてみると、大変香りがよく美味でした。 翌日も行って見ましたが、全くありませんでした。 押坂の直と子どもは、 茸の羹(あつもの)を食べたことにより、病無く長寿となりました。」 ある人は 「おそらく、土地の人は霊芝を知らず、 やたらに茸と言ったものか。」と言いました。 20目次 【三年六月】 《猿歌上宮王等爲蘇我鞍作圍於膽駒山之兆也》
大伴馬飼連は、元年十二月に、〈舒明天皇〉の殯に、蝦夷大臣の代理で誄を奉った。 《本異而末連》 二本の木が幹の上の方で一体化した連理木は、吉兆とされて尊ばれた(第23回)。 これを「并柯」というが、ここでは使わずに平易に書かれている。 《志紀上郡》 志紀上郡が式上郡〔しきのかみのこほり〕であるのは、報告の文中に「三輪山」とあることからも明らかである。 上・下は都に近い方が上になので、 磯城郡〔しきのこほり〕の分割は、飛鳥に天皇の宮を置いた時代と思われる。 地名「磯城」は、金錯銘鉄剣の「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」〔ワカタケル(=雄略)大王の寺(=政庁)シキの宮に在りし時〕の時代まで遡る (資料[27])。 《三輪山》 三輪山(三諸山)は、大物主神が鎮座して以来の神聖な山である (第111回)。だから猿が歌詠みするような不思議な話が生まれる。 《歌意/第一案》 〈岩崎本〉は「儞古泥」に「能寝」と書き添え、「ニコネ(和らいで寝る)」=「よく寝る」と解したようである。 さらに、「拕我佐基泥」は「誰先来」〔誰が先去(ね)〕、「基作泥」は「不レ来」とする。 〈釈紀-和歌〉にも同じように傍書される。〈岩崎本〉の傍書〔室町時代と見られる〕は、鎌倉時代の〈釈紀〉を踏襲したと見られる。 「先」(サキ甲)は甲乙違いで誤りである。キサネを「不来」とするのは、「来+軽い尊敬のス+願望の助詞のネ」と解釈したらしいが、 ス(軽い尊敬の動詞語尾)は未然形につくから「コサネ」になるはずで、また仮にカ変では特別に連用形につくとしても、来の連用形はキ甲である。 時代が下り、岩波文庫版は「基佐泥曽母野」を『通証』によって「佐基泥曽母野」に直すが、『通証』は江戸時代〔1751〕の書で、古写本はすべて「基佐泥」となっている。 『仮名日本紀』を見ると、「むかつをに、たてるせらが、にこてこそは、わかてをとらめ、たがさきて、さきてぞもや、わがてとらずもや」として、既に『通証』説に拠っている。 『通証』以後の判断の理由は、基佐泥を「裂き手」と解釈するところにある。 しかし、「ニキデ・サキデ」を対にするのは疑問である。 「ニキ-」には、ニキタマ・ニキシネ・ニキハダなど柔・和の意味で添えた語が多数あるのに対し、 「裂」の意を帯びた「サキ-」から始まる語は全くない。 そもそもニキミタマ-アラミタマのように、ニキの対はアラである。だとすれば、ニキデに対してはアラデであるべきであろう。 この猿歌以外、全く例のない「サキデ」を想定することには賛成できない。 加えて四段活用の連用形はサキ甲だが、基はキ乙なので、ここのサクは上二段となる。 しかし、自動詞のサクは下二段である。 〈時代別上代〉は「下二段動詞の古形かと考えられる」として、上二段から下二段に転じたオソル(恐)、コム(籠)、トドム(停)、ヨク(避)の例を挙げる。 しかし、上二段のサクが使われた例は、この猿歌以外にはひとつもない。 第一案は、これらの問題を回避し、原文の語彙に忠実であろうと努めた読み方である。
ニコネは眠る猿に関連づけて、和寝とする。これは〈釈紀〉、〈岩崎本〉の見解に沿うものである。 すると、「野外で寝て、夢の中で男に手を握られたが、それは私の手が木に触れただけであった」と読める。意味は一応通じ、自らの勘違いへの諧謔の歌となる。 《歌意/第二案》 次に第二案として、書紀がもとの歌に後から修正を加えたとする説を考えた。
しかし、書き直した人物は甲乙の使い分けに疎く、誤って基(キ乙)を用いたとする。 本来ならキ甲として、吉、岐、棄、枳などが使われるべきである。 ただしこれは全くの想像なので、確かめるすべはない。 なお、基佐泥は『通証』以後の一般説に拠り佐基泥とする。 《歌の音数》 猿歌の音数は五六五七五六七で変則的である。是月条の謡歌は、第一歌が五七七、第二歌と第三歌は和歌である。 歌は古くはメロディーを伴っていたと考えられ、その場合は一つのシラブルを延々と伸ばしたりするから、音数は不規則で構わない。 しかし、次第に音楽から切り離されて朗読する時代になると、音韻そのものがリズムを刻むようになり、五七調になっていく。 よって猿歌は古い時代のスタイルだから語彙も古いとすれば、第二案は逆に解り易過ぎる。 馴染みにくい第一案の方があり得るのではないかと思うのである。
受け身文の中にある"為"は、行為主につける前置詞である。 声点がつけられた"為"については、doではなく、forであると、〈推古〉十四年《為》の項で示した。 ここでは"by"であることを、同様に声点で表していると見られる。これをタメニと訓み得るかどうかは、〈仁徳〉三十八年などで述べたように判断は難しい。 《囲於胆駒山之兆》 この猿歌に対して、「囲二於胆駒山一之兆」であるとなぞ解きをしている。 柔手・裂手と解釈すれば、たしかに蘇我入鹿の裂手でなく、山背大兄王の柔手で私の手を取ってほしいと読める。 本来は第一案の歌であったが、謡歌として変則的に上二段の「裂く」があるかの如く読ませることによって、この解に導こうとしたのかも知れない。 《一茎二萼》 〈舒明〉七年にも「一茎二花」があった。このときも見つかったのは剣池であった。 ここの「豊浦大臣妄推」にも、"妄"を加えて貶めている。 このときの「金墨書」は、二連蓮の絵、あるいは経典が考えられる。 金墨とは、墨に金粉を混ぜたものと考えるのが自然であるが、 「金泥」を用いた「紫紙金字金光明最勝王経巻第二」という経典がある(右図)。 文化遺産オンラインによると、 これは全国の国分寺に納めるために書写されたもので、「金粉を膠に溶かした金泥で文字を書く」と説明されている。 あるいは、金メッキの銅板に墨書したとも考えられる。 現在、「金墨書」という名称で呼ばれる文化財は存在しないので、実際はどのようなものかは不明である。 丈六仏は、飛鳥大仏として現在の安吾院〔旧飛鳥寺〕に残る(資料[50]、〈欽明〉十年)。 《是月國內巫覡等》
この段は二年二月段と同じで、 同じ伝説が二箇所で使われたと見られる。 どちらも共通して、蘇我大臣の退潮と神道勢力の復古の文脈に置かれている。 ここではさらに「移風之兆」と付け加え、乙巳の変への伏線を一つ加えている。 《歌意》 これらの三謡歌のなぞ解きは、後段の四年六月己酉にあり、これらの謡歌もそこで再掲されている。
ただし、後段〔四年六月己酉〕のなぞ解きでは入鹿の暗殺謀議を指すと解するので、伝統的に「事」となっている。
万葉にアサノを探すと、(万)0388の中にズバリ「浅野之雉」がでてきて、この万葉歌が第三歌と関連するのは明らかである。その一部を抜粋すると、 ・「淡路嶋 中尓立置而 白浪乎 伊与尓廻之 あはぢしま なかにたておきて しらなみを いよにめぐらし」 〔淡路島を中に立てて、白波を伊予に巡らし〕。 ・「開乃門従者 あかしのとゆは」 〔明石海峡を通れば〕。 ・「淡路嶋 礒隠居而 何時鴨 此夜乃将明跡 侍従尓 寐乃不勝宿者 瀧上乃 淺野之鴙 開去歳 立動良之 あはぢしま いそがくりゐて いつしかも このよのあけむと さもらふに いのねかてねば たぎのうへの あさののきぎし あけぬとし たちさわくらし」 〔淡路島の磯にいて、いつか夜が明けるかと待ち、眠れずにいる。波のたぎる上で浅野の雉は夜が明けて騒いでいるらしい〕。 とある。 淡路島の浅野は、現代地名浅野神田・浅野南として遺っている。 その地域には「浅野漁港」があり、また観光案内サイトに「万葉の昔から歌に詠まれた由緒ある自然公園である浅野公園」などと紹介されている。
せしは、キの連体形シが、サ変動詞の未然形セに接続する形である。 ここでは、○○セシ〔=○○したところの〕の○○が省略され、これは男女の交わりと見るのが正解であろう。 伝統的にセに「殺」をあてるのは、後段〔四年六月己酉〕のなぞ解きにおいて、入鹿の殺害を暗示したと解したことによる。 《大意》 六月一日、 大伴の馬飼の連(むらじ)は、百合の花を献上しました。 その茎は長さ八尺、 その根元は別々の株で、先の方は一本になっていました。 三日、 志紀上(しきのかみ)の郡(こおり)は言上しました。 ――「ある人が、 三輪山で猿が昼寝しているのを見つけました。 そっとその猿の尻をつかんでみましたが、猿が襲ってその人の身を害することはありませんでした。 猿は、なお目を閉じたまま歌いました。 ――向峯(むかつを)に 立てる兄等(せら)が 柔手(にこで)こそ 我が手を取らめ 誰(たが)裂手(さきで) 裂手そもや 我が手取らすもや その人は猿の歌に驚き怪しみ、捨て置いて去りました。 それから数年を経て、 上宮王(かみつみやのみこ)〔山背大兄王〕らが、蘇我鞍作によって、 胆駒山(いこまやま)で囲まれたことの予兆でありましょう。」 この月、 国内の巫(かんなぎ)たちは枝葉を折り取り、 木綿(ゆう)を垂らしかけて、 大臣(おおまえつきみ)が橋を渡った時を見計らい、 競って神語の微に入る〔=幽玄の〕説を披露しました。 その巫(かんなぎ)は甚だ多く、すべてを聴くことは不可能でした。 老人たちは、「移風之兆(きざし)〔時代が変わる兆候〕である。」といいました。 その時、謡歌(わざうた)が三首ありました。 その一。 ――遥々(はろはろ)に 琴そ聞こゆる 島の藪原 その二。 ――遠方(をちかた)の 浅野の雉(きぎし) 響(とよも)さず 吾は寝しかと 人そ響(とよも)す その三。 ――小林(をはやし)に 吾を引入(ひきれ)て 為(せ)し人の 面(おもて)も知らず 家(いへ)も知らずも まとめ 三年三月~六月でもっとも検討を要したのは、猿歌の解釈であった。 結局、これも謡歌 さて、猿が寝言で歌を訓んだという、不思議な出来事が載る。 また、事件は既に謡歌によって密かに予言されていたとする。 宮廷クーデターという衝撃的な事件に対して、クッションを置こうとする心のメカニズムであろうか。 また、滅びの場面にはしばしば歌が添えられている。 思えば、円大臣 本質は惨殺であっても、物語においては滅びの美学に昇華されるのである。 |
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2023.01.30(mon) [24-9] 皇極天皇9 ▼▲ |
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21目次 【三年七月】 《東國人大生部多勸祭蟲於村里之人》
すなわち、富士川(右図)である。 《大生部》 〈姓氏家系大辞典〉は「大生部 オホミブベ オホフベ:大壬生部に同じ。」と述べ、「大生部」は大壬生部の略とする。 大壬生については、〈姓氏録〉に
《捨》 捨・棄捨は、仏教における喜捨に准 古訓では字のままにスツと訓むが、仏教用語には音読みが用いられる場合が多いので、キシヤ(喜捨)と訓まれた可能性もある。 《加勧捨》 古訓は「加勧捨」の加をマスマスと訓み、喜捨をエスカレートする意味としている。 しかし、文章構成としては礼拝としての「常世虫の祀り」に「加えて」、物質的な「財宝、酒食、家畜の喜捨」を勧めたものである。 したがって、古訓マスマスは厳密さを欠く。 《陳酒陳菜》 漢籍に陳酒を見ると、『太平御覧』人事部/游俠に 「登高樓。臨大路。設樂陳酒。擊博樓上。俠客相隨而行。樓上博者大笑…」 〔高楼(たかどの)に上り、大路を見下ろし、陳酒の楽しみを設け、楼上で擊博(遊戯のひとつ)を行い、 俠客(男気のある人)とともに行う。楼上の参加者は大笑いして…〕 とあり、熟成した貴重な酒を陳酒と称していたのは確実である。 一方、「陳菜」は〈汉典〉になく漢籍にも見つからない。現代語で名前等に用いられているが、一般的な語ではないようである。 おそらく、陳酒に語調を合わせて一時的に造語したのだろう。 陳酒の訓読についてはフルサケは上代語にはなく、平安中期点は「フルキサケ」だから、それより後にフルサケに作られ、あわせて陳菜にもフルナが振られたようである。 陳酒は熟成して美味になった酒のことだから、上代語としてはウマサケが適当であろう。「陳菜」と造語したことに倣えば、和読でもウマナと造語して差し支えないだろう。 しかし、古訓のフルナはいただけない。 《葛野秦造河勝》 秦造河勝は蜂岡寺〔移転して広隆寺〕を創建した (〈推古〉十一年、資料[45])。 秦造の拠点は山背国葛野(かたの)郡にあり、現在の京都市西区太秦荒木町等である。その北に広隆寺がある。 「虫=常世神」の熱狂は葛野郡内と見るのが順当であるが〔"都鄙"は言葉のあやであろう〕、 大生部多が駿河国から伝道しながらやってきたとすれば、国をまたがっていたかも知れない。 仮に広域に及んでいたとすれば、秦造は中央で警察の任を担っていたことになる。 《歌意》
歌中ではキタマ-ス〔スは軽い尊敬の動詞語尾〕であるから、ここでのキタムは四段活用であるが、 〈時代別上代〉は「古く四段であったものが、のちに下二段になる例もある」と述べる。 ウチ-キタマスの接頭語ウチ-には単に語調を整えるのみの場合もあるが、物語中では河勝が大生部多を「打つ」から、 書記原文の段階から「打つ」と解釈している。 書紀歌謡には、既存の歌を基にして、そこから逆算して物語を組み立てた例がしばしば見られる。 しかし、殊
「虫」として考えられるのは、ある種の蛾の幼虫である。 右図のクロメンガタスズメはスズメガ科に属し、老齢幼虫の体長は110mmに達し、スズメガ科で最大という (昆虫エクスプローラ/スズメガの幼虫図鑑による)。 正倉院尺四尺=12cmには及ぼないが、飛鳥時代の一尺は若干短かった可能性はある。 実際には「緑色」に限らず、黄色、褐色があるという。気門が「黒点」状なのは確かである。 「其児全似養蚕」については、初齢幼虫の段階では似ている。 ただ、スズメガ科の食性はナス科、マメ科、キリ科などで、橘が属するミカン科は見えない。 ミカン科の植物に幼虫がつくといえばアゲハであるが、アゲハの老齢幼虫は4~5cmで四尺よりはかなり小さい。 《其大如頭指許》 その虫は、「其大如二頭指許一」とある。指の名称については、『通典』〔唐/801〕に 「凡控弦有二法:無名指畳小指。中指圧大指。頭指当弦直豎…」〔豎=立〕がある。 これは弓の弦
《其大》 「其大」の「大」は、しばしば「太」に通用する。 実際、『類聚名義抄』には「大:ヲホキナリ オホイサ フトシ ヒタスラ カタチ ワタイ」とあり、フトシを含む。 ここではオホキサではなくフトサと訓まないと不自然である。 接尾辞-サについては、ナガサ、タカサ同様、フトサもあったと考えておく(《高六寸余満四町許》参照)。 《大意》 七月(ふみづき)、 東国の不尽河〔富士川〕の川辺の人、大生部(おおみぶべ)の多(おお)は、 虫を祭るように村里の人に勧め、 「これは常世神(とこよのかみ)である。 この神を祭れば、富と長寿を得られるであろう」と言いました。 巫覡(かんなぎ)たちまで、 とうとう偽りのご神託として 「常世神を祭れば、 貧しい人は富を得て、 老いたる人は若返るだろう。」と言うようになりました。 これによって、 加えて民の家の財宝、 陳酒、陳菜、六種の家畜を道路沿いに出して喜捨することを勧め、 「新富入来(にいとみいりこよ)」と叫ばせました。 都の人も鄙の人も、常世虫(とこよのむし)を取り、 清めた座に置き、歌舞して、 福を求めて珍宝を喜捨しました。 ところが全く御利益はなく、損費すること極甚となりました。 そこで、葛野(かどの)の秦造(はたのみやつこ)河勝(かわかつ)は、 民が惑わされたことを悪として、大生部の多を打ちました。 かかわった巫覡(かんなぎ)たちは、恐れて虫の祭りを勧めることを止めました。 当時の人は、歌に詠みました。 ――太秦(うつまさ)は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち罰(きたま)すも この虫は、常に橘の木に生じ、 或いは曼椒(ほそき)に生じます。 長さは四寸余り、 太さは人差し指ぐらいで、 緑色で黒点があり、 その幼体は全く蚕に似ています。 22目次 【三年十一月】 《蘇我大臣蝦夷兒入鹿臣雙起家於甘檮岡》
●A 『甘樫丘東麓遺跡 飛鳥藤原第141次調査』 〔奈良文化財研究所藤原宮跡発掘調査部;2005〕。 …「最大の成果は、7世紀の掘立柱建物5棟と塀1列を確認したことです。これらの建物の軸線は、北で西に約10~40°振れています。 調査範囲が限られているために建物の全体を確認できたものはありませんが、1棟は桁行5間×梁行2間(柱間7尺=約2.1m)であること、 別の1棟には南西方向に延びる塀が付属することがわかりました。」、 「調査区の広い範囲で多くの柱穴や溝を確認しました。柱穴には1辺が1.2mに達する大きなものもあります。 建物1の北東側の溝では、埋土のなかに焼土と炭の入っている状況が見られました。」、 「整地土中に7世紀前半の土器が含まれることは、1994年の調査で確認した焼土層とともに、 この場所が蘇我氏の邸宅の候補地であることを示しています」という。 ●B 『飛鳥・藤原宮発掘調査概報25』〔奈良国立文化財研究所;1995〕 …第75-2次調査で見出された「焼土層」について、 「多量の土師器、須恵器、焼け壁土、焼け焦げた建築部材などが出土した」(p.98)〔写真4と見られる〕、 「7世紀中葉の焼土層は、検出状況や包含層の内容、 また土師器の中には二次的な加熱をうけて灰白色に変色したものも見られることなどから推定して、 調査区北方の尾根上に存在した建物の焼失に伴う灰塵の投棄、もしくは流れ込みにより形成されたものと考えられる」と述べる(p.101)。 ●Ⅽ 『飛鳥藤原第177次調査現地見学会資料/甘樫丘東麓遺跡の調査』〔国立文化財機構 奈良文化財研究所 都城発掘調査部;2013〕 …「C区では、斜面を削り谷を埋めて広い平坦面を造り、建物を建て、溝を造るなどして利用してきたことが明らかになりました。 これらの建物や溝は7世紀中頃をあまり降らない時期に廃絶し、利用されなくなったようです」と述べる。 ●D 『明日香村文化財調査研究紀要15』 [甘樫丘をめぐる遺跡の動態ー甘樫丘東麓遺跡群の評価をめぐってー]相原嘉之〔明日香村教育委員会文化財課;2016〕 …「注目されるのが、甘樫丘頂上の展望台から東へ向かう小規模な谷に、「エベス谷」の小字が遺存することである。〔中略〕 「エベス谷」が「蝦夷の谷」の転化であるとすると、このあたりが有力な候補地となろう。 また、甘樫丘東麓遺跡から、飛鳥板蓋宮(飛鳥宮跡)は目視できないが、甘樫丘頂上からは、 飛鳥板蓋宮も飛鳥寺も眼下に望むことができる。立地からみても有力な候補地と考える」(p.15)と述べる。 Aからは、明確に五棟の建物跡が確認されている。 Bの焼土層は低地にあたるから、報告のいうように上から流されてきたものであろう。 四年六月に「蘇我臣蝦夷等臨レ誅。悉焼二天皇記国記珍宝一」とあるから、そのときのものであるかも知れないが、 断定するためにはそれらの遺物の年代測定によって、645年頃に燃えたことが確認されなければならない。 Cの場所は、谷を埋め立てて平地にしたというから、当時の蘇我一族の建物が広範囲に存在していたと見るべきであろう。 したがって、Aの五棟のみをもって上宮門または谷宮門の建物だと断定することはできない。 Dについては、蝦夷が別名「豊浦大臣」とも呼ばれるように、甘樫丘全体が蘇我蝦夷の占有地なのは間違いないから、 エベス谷という狭い場所に限定されるものではないだろう。但し、 想像をたくましくすれば、甘樫丘の頂上付近に板蓋宮や飛鳥寺を見下ろす楼台を作っていたとしても不思議ではない。 結局、甘樫丘全体が蘇我氏の帝都のようなものであって、その建造物群の全容は未だ知られていないと考えるべきであろう。 《上宮門/谷宮門》 上宮門・谷宮門の宮は、本来皇族の住居に限った名称である。蝦夷と入鹿がその邸宅の門を宮門と呼ばせたことをもって、その奢れるさまを描いたようだ。つまり、天皇と皇子を僭称した。 宮門はもちろん宮殿の門であり、〈推古〉十二年の朝礼改定の詔でも「凡出入宮門以両手押地両脚跪之」とする。 宮門の訓みがミカドであることは揺るがない。 「上宮門」・「谷宮門」においても、訓みは当然ミカドである。 しかし、本来の意味はミカド=御門であり、宮門(ミカド)は意味が宮廷の門として分化したものである。大臣は高貴な地位であるから、仕え人がその門を指す言葉は当然ミカドである。ただし、意味は御門である。 書紀は、その発音を利用して親子への悪意を込めて、「宮門」と呼ばせたが如くに描いたと見られる。それをもって奢りの表れとしたのである。 王子(ミコ)も同じことである。やはり仕え人は、大臣らの子をミコ(御子)と呼ぶが、それを敢えて「王子」と表記したわけである。 さすがに「皇子」は使わないが、王子でも同じことである。 ところが、蝦夷や入鹿自身が、自ら天皇になろうとしたことなどそもそもあり得ない。なぜなら、古人皇子を皇位につけようと画策したとちゃんと書かれているからである。 なお、宮門につけた上・谷は書紀が潤色したものかも知れない。書紀は蝦夷の責任をなるべく薄め、悪質なのは入鹿一人だと描こうとするからである。 上には高め、谷には貶めるイメージがある。 《家外作城柵》 蝦夷と入鹿は「家外作二城柵一」以下防火や警備体制の中身は、防御的なものである。 それでは、本当に攻撃が迫っていたのだろうか。 前項で述べた「宮門」「王子」などと呼ぶのはけしからんという非難は、攻撃する側〔中心は中臣鎌子であろう〕が難癖をつけて呼んだことを受けたものであろう。 このように攻撃側も敵対意識を高めていたから、具体的には書かれないが軍事的な準備も当然進んでいたと見てよいであろう。 つまり、緊張は双方の側から高まっていた。 蘇我蝦夷が防御を固めたのはある意味当然で、ここではそれを悪だくみの一環に見せるべく、蝦夷側だけを殊更に大げさに書いたものと言えよう。 《兵庫》 〈岩崎本〉は、兵庫にヤクラと訓を振る。ヤグラの語源は矢-倉だが、戦国時代の櫓 ここでは門前の構えであるから、武器貯蔵庫ではなく櫓と見るべきで、その点から見て古訓は妥当であろう。 《盛水》 モル(盛る)には、高く積むイメージがあるが、液体の高さは容器の上端を越えられないから「盛水」を「みづをもる」とする訓はたしかに使いづらい。 「中国哲学書電子化計画」で漢籍を検索すると、「以盆盛水」、「以缽盛水」など用例は多く、かなりありふれた言い回しである。 解り易い例としては 『太平御覧』釈部に、「請二僧行道一。有下獻二花供レ佛一者上。眾僧以二銅罌一盛レ水漬二其莖一。欲二花不一レ萎。」 〔僧の行道に請ふ。花を献じて仏に供する者有らば、銅罌〔胴が太く口の狭い大型の缶〕を以て盛水して其の茎を漬け花の萎へざるを欲す〕がある。 このように「盛水」は単に容器に水を入れるだけの意味であるが、「たっぷり入れる」ニュアンスはあると思われる。 《盛水舟一木鉤数十》
「一」に添えるべき助数詞については、乗り物のフネにはフナであるが、容器のフネの場合はどうであろうか。何とも言い難いが、ツとしておけば無難である。 《火災》 ここには「以備二火災一」とあるから、火災〔ヒノワザハヒであろう〕という語は普通にあったことが分かる。 宮殿の火災の場合に単に「災」とするのは、「火」を忌み言葉としたためと見られる。 「蘇我蝦夷児入鹿」の家に対しては、遠慮する必要はないのである。 《恒使力人持兵守家》 兵(つはもの)を携行する力人による警護、防火対策としての盛水舟、木鉤は、むしろ宮廷における日常的な警備体制がこのようなものであったと思われ、 このような体制はない方が不自然である。 ここではその宮廷の警備体制を、蝦夷と入鹿の家に投影したと読んだ方がよいだろう。 逆に、宮殿の普段の警護の形をここから読み取ることができそうである。 《於大丹穗山造桙削寺》
「長」も「直」も姓 「長直」と「長費」に関する記事が〈続紀〉宝亀四年〔773〕にあった (資料[18]【続日本紀】)。 それによると、長費人立 神護景雲元年〔767〕には、「阿波国板野、名方、阿波等三郡〔の〕百姓」が同じく天平宝字二年に姓「直」を「費」に直せと言われたことに異議を唱え、このときはすべて認められている。 このように複雑な経過はあるが「長」という氏族名は確かに存在し、庚午年籍では「長費」であったが、書紀の時期には「長直」が通用していたと見られる。 「長」の訓みについては、長国造が那賀郡に繋がったと見られることから、本来はナガである。ただ、一部でヲサと呼ばれたこともあり得ると思われる。 なお、ここでは「長直」に個人名がなく、他の箇所に倣えば「闕名」を添えるべきであるから、この段は書き方が大雑把である。
桙削寺廃寺は、今のところ未発見である。 大丹穗山については、高取町大字丹生と明日香村大字入谷に「大仁保神社」がある。 地名のニフがニホの転で、またオホ-が美称であることは明白である。 それらの位置を、右図に示した。 『五畿内志』には、次のように記されている。
丹生谷の大仁保神社は、いくつかの写真で見る限り送電線鉄塔の傍らに置かれた小さな祠のみであるが、 「高取町公式/ 広報たかとり/2021/8」 には、「古くからこの地を見守ってきた大仁保神社には、火を鎮める水神で豊穣をもたらす農耕神「罔象女神」〔ミツハノメノカミ〕が祭られています。 罔象女神が神域を求め、吉野水分神社から大仁保神社にしばらく留まり、高野山に至ったという記録が残っています。 地元の人はこの神社を「お丹生さん」と呼び、昔は雨乞いの風習がありました。 」と紹介されている。 入谷の大仁保神社については、 明日香村公式/ 明日香村歴史文化基本構想」 によると、祭神は仁徳天皇で「通称、「お丹生さん」と呼ばれている。明治44年(1911)に飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社に合祀 されたが、その後、旧社を復して現在に至る」という。 他にも「丹生川上」が〈神武〉即位前戊午年九月に出てきた。 そこでは候補として東吉野村の丹生川上神社を挙げた。祭神は罔象女神とされ、雨乞いの神社と見られる。 ニフ川は罔象女神および雨乞いの川名として、高市郡南部から吉野郡北部一帯に広く分布していたと考えられる。 《桙削寺》 よってニホ山もあちこちに考えられるが、ひとまずオホがつく大仁保神社がある二箇所に絞って考える。 兵庫の記事の次に出て来るから、桙削寺も軍事拠点の一つと考えてみる。 甘樫丘の家のほかに、畝傍山に翼を広げて軍事的な拠点とした。反蘇我勢力の中心は中臣鎌子であるが、鎌子は三島の家に籠っていたから攻撃は西からだと仮定する。 すると、もう一方の翼として、距離はやや遠いが高取町の丹生谷が当てはまる。 かつて、蘇我馬子は葛城県を私領とすることを要求した。先祖はもともと宇智郡出身で、 この時点でも葛上郡に同族が居住していたのかも知れない(〈推古〉三十二年十月)。 すると、丹生谷はその勢力が紀路を通って結集する位置に当たるので好都合である。もし、この付近に塔礎などが見つかれば、俄然候補として浮かび上がる。 南西に1kmほど離れた先に巨勢寺の塔礎が見つかってはいるが蘇我川を挟んでいるから、そこが大丹穗山の桙削寺とは考えにくい。 逆に大丹穗山が明日香村の入谷のところだった場合は、その先は山に分け入るだけなので戦略的な意味はない。 この場合桙削寺建立の記事は、文脈とは無関係にここに置かれたに過ぎない。 《穿池為城起庫儲箭》 〈岩崎本〉は「穿池為城」を「イケヲホリテキトナス」と訓んでいるが、池を掘ることで城ができるわけではない。 キは上代ではまだ建物としての城というよりも、構造を指す言葉と思われる。 「為城」は、キヲツクルと訓んだ方がよいだろう。 「庫」をツハモノクラと訓むのは、古訓特有語だから避けたい。ここではクラで十分であろう。 《五十兵士》 上代には五十は、「イ」の訓仮名として用いられる例ばかりである 〈時代別上代〉によれば、「すべて借訓仮名として見え、…五十の意そのものとして使用された例を見ない」という。 しかし、上代の文献に数詞として用いた例が残っていないだけであって、本来イソであろう。 『後拾遺和歌集』〔1006〕の序文に「百 《東方儐従者》 東方儐従者は、捕虜にした蝦夷のうち勇猛な種族を組織して仕えさせたことに由来するものであろう。 佐伯部について、日本武尊が連れ帰った蝦夷を祖と述べる伝説がある (〈仁徳〉三十八年《佐伯部》)。 《祖子孺者》 祖子孺者は、蘇我本家を祖(おや)、氏人を子孺(幼子)として親密な関係を親子に準えて表現した語であろう。 〈舒明〉即位前紀に見られるように、蘇我の諸族はそれぞれの代表者が臣(おみ)として出仕していたが、必ずしも一枚岩ではなかった (〈舒明〉即位前(四))。 政敵との対立が深まり、防御態勢を整えるために一族の結束を図ったものであろう。 子孺を表す上代語としてはミドリコが近く、譬えだからこれでも成り立つはずだが現代人が恣意的に決めることはできない。 古訓の「コ-ワラハ」〔子-孺〕も平安人による造語である。「子孺」を音読みし、「者」は切り離して文末の助詞とするのが妥当であろう。 《漢直等全》 倭漢直(やまとのあやのあたひ)は、阿知使主を祖とする渡来民がルーツで、史人(ふみひと)の職務を担ってきた (二十年)。 ここでは、蘇我氏以外からも味方を広く集めようとしたと読める。「漢直等全」は「漢直をはじめとして幅広く」の意味であろう。 《大意》 冬十一月、 蘇我大臣(そがのおおまえつきみ)蝦夷(えみし)とその子入鹿臣(いるかのおみ)は、 二つ並べて家を甘樫丘に建てました。 大臣の邸宅を上宮門(かみつみかど)と呼び、 入鹿の家を谷宮門(はさまのみかど)と呼びました 。 男子女子を王子(みこ)と呼びました。 家の外には城柵を作り、 門の傍らに櫓(やぐら)を作りました。 門ごとに、 水を満たした舟を一個、木鉤(きかぎ)〔=鳶口〕数十本を置き、 火災に備えました。 つねに逞しい人に武器を持たせ、家を守らせました。 大臣(おおまえつきみ)は、長直(ながのあたい)に命じて 大丹穗山(おおにほやま)に桙削寺(ほこぬきでら)を造らせました。 更に家を[於]畝傍(うねび)山の東に建て、 池を穿ち城柵を作り、 武器庫を建てて矢を準備しました。 つねに五十人の兵士を率いて、自身を囲ませて出入りしました。 彼らは健人と名づけられ、東国出身の従者といいます。 蘇我の氏々の人たちも入り、その門内で侍従し、 名付けて祖(そ)の子孺(しじゅ)といいます。 漢直(あやのあたい)たちも全て二つの門内で侍従しました。 23目次 【四年正月~四月】 《遙見有物而聽猨吟》
不能獲覩は、"be able to" に当たる語が、能、獲(得)と二重になっているから訓読しにくい。 動詞への接頭辞エ-は可能を示すが、もともとはウ(得)の連用形だから、 エ-ミルは「(視界に)捕えて見る」意味にもできるかも知れない。 よって、古訓「エミルコト」も可能と思われる。 《是歳移京於難波》 原注で、「是歳。移二京ヲ於難波ニ一」により、「〈皇極〉板蓋宮が墟となる兆しである」とする。 難波への遷都については、〈孝徳〉大化元年〔=〈皇極〉四年〕十二月に「天皇遷二都難波長柄豊碕一。老人等相謂之曰。自レ春至レ夏、鼠向二難波一、遷レ都之兆也。」と述べる。 《墟》 墟は廃墟である。古訓はアラトコロとする。上代には、アラタ(荒田)、アラトコ(荒床)などの語があり、 〈推古〉元年には「荒陵」が見える(元年九月)。 しかし、アラトコロは上代には見えず、平安時代の造語と見られる。 《伊勢大神》 「伊勢大神」は、天照大神である。 《高麗学問僧等言》 「高麗学問僧等言」末尾に「高麗国知二得志欲レ帰之意一与レ毒殺之」とあるから、まだ高麗国に滞在していた最中の学問僧による報告である。 《虎》 虎にてぃて〈時代別上代〉は、「絵や彫刻や、当時すでに輸入されていた毛皮などによって、あらましの形は知っていたと思われる」と述べる。 《授其針》 針(鍼)については、『黄帝内経』〔戦国:前475~9〕を見ると、 「感則害二皮肉筋脈一。故善用レ鍼者。従レ陰引レ陽。従レ陽引レ陰…」など、鍼術による治療法が無数に載っている。 中国では、少なくとも戦国時代には確立していたのである。 日本では、『令義解』巻八「医疾令第二十四」に 「医針生:各分レ経受レ行。医生:…〔略〕…。針生:習二素問、黄帝針経、明堂、脉决一。兼習二流注、櫃側等図、赤鳥神針等経一。」 〔医生・針生はおのおの経〔漢籍の解説書〕を分けて行を受ける。そのうち針生は、素問、黄帝内経の針経、…等を習う〕 とあり、大宝令の頃には定着していたことがわかる。 《此是》 "此"も"是"もコレである。それでは、この二字が連結するとどうなるのだろうか。 漢籍を見ると、『顏氏家訓』〔南北朝;420~581〕に「問左右「此是何物」…答云「是豆逼耳」」〔左右:側近。豆逼:豆粒。耳:のみ〕がある。 この例では、"是"は繋辞〔be動詞にあたる〕である。 『学研新漢和大字典』〔2005〕は是は「六朝から後、認定をあらわす繋辞」となったと述べる。 そのためか、六朝〔3~6世紀〕以後「此是」の用例は急増し、以後大量に出て来る。 《与毒殺之》 この話の一つの解釈は、得志は高麗国で勝手に鍼治療を開業し、客集めのために途方もないことを吹聴していたと読むことである。 そのような営業を続けていたことが高麗国にも知られ、 立場がまずくなった得志が帰国しようとしたところ、捕まって毒殺されたということか。 鍼灸治療法の国外への流出自体を禁じていた可能性もある。 もうひとつの解釈としては、このように奇怪な話の出現を〈皇極帝〉の頃はまだ鍼術が日本に伝わったばかりで、さまざまな迷信が飛び交っていたことの表れとすることである。 いずれにせよ、この段は学問僧の一部が鍼灸医学を学んだことに伴って生まれた話であると見られる。 《大意》 四年正月、 あるいは岡や嶺に、 あるいは河辺に、 あるいは宮寺の間に、 遥かに物があるのが見え、猿のうめく声を聴きました。 あるいは十か所ばかり、あるいはニ十か所ばかりでした。 近づいて見ても何も見えず、 それでもなお、息をはく声が聞こえましたが、 その姿を捉え見ることはできませんでした。 【旧本にいう。 この年、都を難波に移した。 故に、板蓋宮が廃墟となる兆しとした。】 当時の人は、 「これは伊勢の大神の使いである。」と言いました。 四月一日、 高麗(こま)の学問僧らは言上しました。 ――同じく学ぶ鞍作(くらつくり)の得志(とくし)は、 虎を友としてその術を学び取りました。 あるいは枯山をして青山に変え、 あるいは黄土を白水に変え、 種々の奇術は究め尽くすことができません。 また、虎は針を授けて 「ゆめゆめ人に知られてはならない。 これを使って治療すれば、癒えない病気はない」と言いました。 果たして言われた通り、治療して癒えない病気はありませんでした。 得志は、常にその針を柱の中に隠していたのですが、 後に虎はその柱を折って針を取り逃走しました。 高麗(こま)の国は、 得志が帰ろうとしていることを知り、 毒を与えて殺しました。 まとめ 蘇我大臣親子を追い落とそうとする、中臣鎌子派の動きは強まっていた。 反蘇我派は、蝦夷派の悪質性を訴えるべくさまざまな形で宣伝していたと想像され、 それが記録として残り、そのまま書紀に記された面もあると思われる。 故に、通常の屋敷の防御すらも誇張し、何か異常なことの如く描かれた。 それでもその三年十一月条に関しては、多少割り引けば概ね史実であろう。 その前の七月の常世虫騒動は肩の凝らない話題で、その後の四年の話は夢想的である。 これらは、一種のクッションのように感じられる。すなわち蘇我親子の滅亡への歩みのみをひたすら描いていては、実に殺伐として息苦しいからである。 物語としてある程度楽に読めるようにとの配慮が感じられ、いわば一種の読者サービスであろう。 それが意図的だったのかどうかは分からないが、少なくともバランス感覚が感じられる。 正史だからといって無機質の字が並んでいればよいわけではなく、文学として工夫された側面は確かにあろう。 常世虫騒動は、神道派に押されっぱなしだった仏教派の反撃と解釈できないことはないが、そのような意図をもって書かれたわけではなく、単なるエピソードであろう。 虎の針の件は、背景として鍼術が学問僧によって倭にもたらされたことが窺われ、興味深い。一方、姿を見せない猿のうめき声については、合理的な理解は不可能である。 |
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⇒ [24-10] 皇極天皇5 |