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2023.01.07(sat) [24-6] 皇極天皇6 ▼▲ |
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13目次 【二年十一月(一)】 《掩山背大兄王等於斑鳩》
巨勢徳太臣は、元年十二月、〈舒明〉の喪に大派皇子の代理として誄した。 土師娑婆連は、二年九月、皇祖母命の喪を差配した猪手であろう。 《倭馬飼首》 倭馬飼首は、〈姓氏家系大辞典〔以下「姓氏」〕〉によれば「倭馬飼部の伴造家」、「馬飼首:馬飼部の部分的伴造なれど、後多くは造を称することとなれり」。 馬飼部(馬養部、馬甘部)は職業部のひとつで、馬の養育にあたった。 《数十》 数十への古訓は、習慣的に「トヲアマリ」とされるが、それは実際には11~19人のことで、数十を表すには無理がある。 イクバクも考えられるが、「数十」に使われた例を見ない。 「数」の直訳を用いてアマタとしてみると何となく意味が伝わり、この方ががまだ自然かも知れない。 《投置》 投置、逃出、指示は、それぞれナゲオク、ニゲイヅ、サシシメスと訓みたくなるが、上代語にもこの箇所の古訓にもそのような言い方は見られない。 『仮名日本紀』は「なげおき」、「にげ出て」、「さししめす」とするが、近代の言語感覚によるものであろう。 《胆駒山》
イコマヤマが4例、イコマノヤマが1例なので、基本的に助詞ノは入らないが、音数によって入れる場合があったようである。 ちなみに(天の)香久山は13例すべてがカグヤマ、三輪山はミワヤマ5例・ミワノヤマ1例、平城山はナラヤマ12例・ナラノヤマ3例である。 《三輪文屋君》 〈姓氏〉は、三輪君の氏人として、〈用明〉紀〔元年五月〕の三輪君逆、〈舒明〉紀〔八年〕の三輪君小鷦鷯とともに、三輪君文屋の名を挙げている。 三輪君は大神神社を氏神とする古来の大族で大三輪とも称し、〈天武〉十三年に朝臣姓を賜る。 《舎人田目連》 舎人はもともと職名で、〈姓氏〉によると「天皇、皇子達に近侍して雑役に仕へし者を云ふ」。 ここの「舎人田目連」あたりから、氏族名としての「舎人」が現れたと見られる。 同辞典は、「舎人連:舎人造の連姓を賜へる者也」、「舎人造:舎人部の伴造たりし氏なり」とする。 ただ、〈天武〉十一年に「舎人造糠虫…賜姓曰連」とあるから、造から連の昇進は個人、もしくは支族ごとになされたようである。 田目はこの時点で既に連を賜っていたか、遡って呼称を用いたかのどちらかである。 《菟田諸石》 菟田は、〈倭名類聚抄〉{大和国・宇陀【宇太】郡}の地域の氏族と見られる。 〈神武〉即位前紀に宇陀県主が出てくるが、〈姓氏〉は「書紀、此の氏を県主の祖と云はずして、 …中古に至り宇陀郡の名の見ゆるを思へば、後世変遷ありて廃され、更に宇陀郡を置かれしものか」と述べる。 《伊勢阿部堅経》 〈姓氏〉は「伊勢阿倍:皇極紀に伊勢阿倍堅経と云ふ者見ゆ」とだけ記す。 阿倍臣は、大和国葛下郡阿部発祥で(第108回【末裔の諸族】)、 分流の布勢氏は北陸道に進出した(第159回布勢君)。 《斑鳩宮》 斑鳩は、法隆寺の所在地。斑鳩宮は、法隆寺東院の地下にあった建物跡が斑鳩宮であったとする見方がある (〈用明〉元年【上宮】)。 斑鳩宮は、太子が薨じた後も上宮家の本拠であり続けたと考えられる。 《大意》 十一月朔日、 蘇我臣(そがのおみ)入鹿(いるか)は、 小徳(しょうとく)巨勢臣(こせののおみ)徳太(とくた)、 大仁(だいにん)土師連(はにしのさばのむらじ)娑婆(さば)を派遣し、 山背大兄王(やましろのおおえみこ)等を斑鳩で抑えさせました 【或る本にいう。 巨勢徳太臣(こせのとくたのおみ)、倭馬飼首(やまとのまかひのおびと)を 将軍とした】。 すると、奴(やつこ)三成(みなり)は、 数十の舎人が出て、抗戦しました。 土師娑婆連(はにしのさばのむらじ)は矢に当たって死に、 軍衆は恐れて撤退しました。 軍中の人は、 口々に 「一人当千とは、三成のことをいうのか。」と語らいました。 山背大兄は、 そこで馬の骨を取って、内寝に投げ置き、 その妃と子弟一族を率いて、 隙を見て逃げ出し、胆駒山(いこまやま)に隠れました。 三輪の君文屋(ふむや)、 舎人(とねり)の連(むらじ)田目(ため)及びその娘、 菟田諸石(うだのもろし) 伊勢阿部堅経(いせのあべのかたふ)が従いました。 巨勢の臣徳太らは、 斑鳩(いかるが)の宮を焼き、灰の中の骨を見て、 誤って王(みこ)は死んだと言い、包囲を解いて退却しました。 14目次 【二年十一月(二)】 《山背大兄王等曰以一身之故豈煩勞萬民》
〈倭名類聚抄〉に{山城国・紀伊郡・深草【不加乎佐】郷}〔不加久佐の誤り?〕。 この地名は、〈欽明〉即位前にあった。 そこには秦大津父の名前があり、太秦ともに秦氏の拠点のひとつであったと思われる。 『五畿内志』は、山城国紀伊郡に「村里:深草【属邑六其一曰瓦町 ○今呼上三栖已下惣曰伏見廻】」を挙げる。 『京都市内遺跡発掘調査 平成29年度』〔京都市文化市民局;2018〕は、 「この地は交通の要衝であるとともに秦氏の根拠地でもあることから、 皇室とも深い結びつきをもち、番神山古墳やけんか山古墳、稲荷山古墳群など多くの古墳が今も残る」と述べる(p.44)。
稲荷大社の辺りは、おそらく古墳時代から稲荷山の神を斎うところで、改めて秦氏の氏神に定められたものであろう。 『山城国風土記』逸文「伊奈利」を含む、「延喜式神名帳頭註」を見る。
《深草屯倉》
それでは、秦氏が警戒の対象であったのだろうか。 秦氏は太子の仏教振興策に同調して、秦造(はたのみやつこ)河勝が蜂岡寺を建てた (〈推古〉十年資料[45])。 また、養蚕織絹と高度な稲作技術の普及は国造りの礎で、また大蔵官僚も輩出していたから、朝廷を支える大切な勢力である。 秦氏が朝廷と対立した記述は、書紀には見えない。野心の塊で権力闘争にうつつを抜かしてばかりの蘇我氏に比べれば、実直に実務に徹する秦氏は、 安心して頼りにできる存在であったのだろう。 したがって、深草屯倉は決して秦氏を警戒するものではなく、むしろ緊密な連絡のために朝廷が置いた支所の性格をもっていたと思われる。 《乳部》 〈姓氏〉は「上宮乳部:御名代部の一種にして、皇極紀に 「上宮乳部之民」とあるは、上宮聖徳太子の壬生の民也」、「壬生部」の項で「上宮太子の壬生部にて、封民の例なり」と述べる。 そして「皇子御養育に仕へ奉る人々、及び其の封民を壬生部と云ふ」、 「壬生部は、各皇子に存す。多くは一時的にて、其の職を完せる後は其の名を失ふ。されど時には 御名代部として、其の御子薨去後も、皇子養育に与りし人々、及び其の封民を以って、一の品部を組織し、 其の御子の御名を負ふ」ことを、書記の記述に基づいて導いている。 また、姓氏としての「壬生」を全国各地に大量に見出している。 名称は同じ「壬生部」であるが、複数の皇子の御名代に起源をもつ別々の部の総称であろう。 「壬生」はもともと各壬生部の伴造であったが、後には地名化した壬生、丹生などが氏族名になった場合もある。 結局、「上宮乳部」は、上宮家の別業に所属した私有民を指すと見られる。その別業はことによると相当広く、 副都と言い得る規模だったのかもしれない。というのは、 法隆寺東院で発掘された建造物の向きが筋違い道の向きと一致することから、独自の条坊があった可能性を直感したからである (〈推古〉十四年《岡本宮》、まとめ)。 《従茲乗馬詣東国》 三輪文屋君の献策によれば、まず「移二深草屯倉一」、すなわち深草屯倉に移動して拠点とする。 「乗馬」は、東山道、東海道を通っての移動を意味し、大道のネットワークの要という屯倉の性格を示すものと言えよう。 そして、相当の勢力である上宮乳部を中核として秦氏を味方につけ、 さらに朝廷に不満をもつ東国在地氏族を糾合すれば勝ち目はあるというものであろう。 ただし、この部分はフィクションで、「東国」とあるから、壬申の乱を参考にした可能性がある。 とは言え、深草屯倉という具体的な地名が頭の中だけで考え出されたことも考えにくいので、実際にそのような動きが始まりつつあったのかも知れない。 《以一身之故豈煩労万民》 三輪文屋君の献策に対して、山背大兄王は「以二一身之故一豈煩二-労万民一」 〔私一人の都合で、万民を煩わすことがあってよいか、いやない。〕という。 以の文法的機能は、接続詞と前置詞のどちらでも成り立つが、書紀では二重目的語をもつ構文において、 事物目的語を前置するときに用いている。 「百姓」・「万民」は、特に上宮乳部のことであろう。彼らを戦争のために動員したくないという。 さらに「於後世不レ欲下民言中由二吾之故一喪上二己父母一」 〔後世に、山背大兄王のために父母を失ったと、人々に言われたくない〕。 そして、「豈其戦勝之後。方言二丈夫一哉。 夫損レ身固レ国不二亦丈夫者一歟」 〔戦争に勝つのが本当に英雄と言えるのか、身を捨てて国が固まることを選ぶのが英雄ではないか〕という。 つまり、たとえ戦いに勝利したとしてもh人民に多大な犠牲者は出る。むしろ統治を入鹿に任せてでも国を落ち着かせる方が優先されるという。 道徳的な物言いであるが、敗北必至と見ての強がりともとれる。 あるいは、下で述べるが書記による潤色かも知れない。
者は、文末に置く語気詞としての用法があるが、なぜか日本の漢和辞典にはあまりきちんとは載っていない。 「国際電脳漢字及異体字知識庫」を見ると、語気詞として「①用在句末表示語気完畢。②用在句末、与疑問詞相配合表示疑問。」 〔①句末に置いて言い切りの語気を表す②句末に置いて、疑問詞と組み合わせて疑問を表す〕とある。 ①は、也と同じである。漢籍に「也歟」の用例はいくつかあるから、「者歟」も「断定の語気詞+疑問(反語、感歎)」であろう。 ただ、「者」を人・事・物として訓読しても結構成り立つ。ここでも「大夫者」を「大夫なる者」と訓むことができるので、語気詞との違いは微妙である。 〈岩崎本〉(右図)を見ると返し点「一」が二箇所あり、両方が消されることなく残されているので、誰も決定しなかったようである。 「夫一」の場合「者」〔ナリの未然形〕と思われる。「者一」の場合は、「者」に付けられたヲコト点[ニ]が生きて、 「不二亦丈夫ナル者ニアラ一歟」となろう。 この問題については『全訳漢辞海』〔三省堂2011〕が、「(者を語気詞として文末に置く場合も)従来の訓読では「…する人」と解して「もの」と読み習わしてきた」と述べていることが参考になる。 かつて古事記の訓読を始めた頃は、「~者~者。」に、幾度となく悩まされた。 《遥見上宮王等》 「遥見上宮王等」は、山背大兄王を上宮王と呼ぶところが注目される。上宮王は太子のことであるが、ここではその子孫の一族を指して上宮王等と呼んでいる。 太子は既に亡いが、太子を継ぐ一族が相変わらず大きな勢力を維持していたことの表れと思われる。 《高向臣国押》 〈舒明〉即位前に高向臣宇摩がいた。 当時の政権は、大臣を筆頭とする群臣合議制を取っていたが、 入鹿は「大臣」を僭称しながら高向臣を従わせるだけの権威はなかったようである。 《古人大兄皇子》 古人大兄皇子の父は舒明天皇であるが、蘇我馬子の女、法提郎媛を母とする (関係系図)。 つまり、古人大兄皇子は蘇我氏の閨閥に属し、本来なら〈舒明〉の次の天皇になることが期待されていた。 二年十月条では入鹿が「立二古人大兄一為二天皇一」を謀った。その前に「将レ廃二上宮王等一」とあるから、 入鹿の目には、山背大兄王がその野望を妨げる存在として映っていた。 実際には、山背大兄王自身、あるいはその子が天皇になる目は既にないだろうが、 〈皇極〉天皇系列〔〈皇極〉ー軽皇子〈孝徳〉ー中大兄〈天智〉〕をがっちり支える側に回っていたのであろう。 《鼠伏穴而生》 「鼠伏レ穴而生。失レ穴而死」とは、「大将自らが宮を出ることは危険です」と言って入鹿を制止したのであろうか。 それとも「敵は自分の宮を捨てて外をさまよっているから、討ち果たされるのは時間の問題です。 大将が出撃するには及びません」と言って止めたのであろうか。 文章の流れからは、後者のように感じられる。ただし、書紀は山背大兄王がかなり劣勢であったが如く描いているが、 実際には互角であり、だとすれば前者かも知れない。 《大意》 これにより、山背大兄王らは、 四五日の間山に淹留(おんりゅう)し、 飲食もできませんでした。 三輪文屋君(みわのふむやのきみ)、 進み出てお勧めました。 ――「願わくば、ここから移り深草屯倉(ふかくさのみやけ)に向い、 そこから馬に乗って東国に行き、 乳部(みぶ)を本体として、軍を興して帰って戦えば、 必ず勝ちます。」 山背大兄王らは答えて言われました。 ――「卿が言われた如くすれば、必ず勝つであろう。 ただ、私の心は、冀(こいねが)わくば、十年は人民に役を課したくない。 我がひとつの身に理由をもって、豈(あに)万民を煩わすことがあってよいか。 また後世に、 民が私の理由をもって自分の父母を亡くしたとは言って欲しくない。 豈(あに)その戦に勝った後に英雄と言うのか、 むしろ身を捨てて国を固めるのが、また英雄ではないだろうか。」 ある人が、遥かに上宮王(かむつみやのみこ)たちを山中に見かけ、 帰って蘇我臣入鹿に知らせました。 入鹿はそれを聞き、大いに畏れ慌てて、速かに軍を興しました。 王(みこ)の居場所を高向臣(たかむこのおみ)国押(くにおし)に説明し、 「速かに山に向かい、王を探して捉えるべし。」と言いました。 国押はこれに答えて、 「私は天皇(すめらみこと)の宮を警護する役目です。敢えて外に出ることはできません。」と言いました。 入鹿は、直ちに自ら出向こうとしました。 その時、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)が、 息せききってやって来て「どこへ向かうのか。」とお尋ねになり、 入鹿は具(つぶさ)に事情を説明しました。 古人皇子は、 「鼠は穴に伏せれば生きる。穴を失えば死ぬだろう。」とおっしゃりました。 入鹿はこれによって行くことを止め、 軍将らを遣わして、胆駒を探させましたが、 とうとう見つけられませんでした。 15目次 《終與子弟妃妾一時自經倶死也》
斑鳩寺は法隆寺の前身と考えられているが、 法隆寺五重塔の年代測定によると心柱のみが594年、その他の部分の建材が650~673年であることが問題を投げかけている (資料[49]【五重塔の年代】)。 これについて、斑鳩寺は若草伽藍の位置にあり、594年頃に建ったと考えた。 次に、現法隆寺の場所に創建法隆寺が建ち、〈天智〉八年〔669〕に斑鳩寺が一部焼け、 〈天智〉九年〔670〕に創建法隆寺が全焼した。 その後に法隆寺が再建され、その際若草伽藍の斑鳩寺を解体してその塔の心柱を、再建法隆寺の五重塔のために転用したと推定した (資料[49]付記)。 この推定によれば、〈皇極〉二年の「斑鳩寺」は若草伽藍の位置に建っていたことになる。 《吾之一身賜於入鹿》 「由二一身之故一不レ欲レ傷二-残百姓一」、 よって「吾之一身賜二於入鹿一」とは言うが、実際には「吾之一身」どころか上宮乳部を丸ごと入鹿に賜ってしまう。 入鹿の支配下に置けば、どんな仕打ちを受けるかも分からないから、山背大兄王は実に無責任な選択をしたことになる。 ここは、人民のためにも邪悪な入鹿を殲滅させるべきだと論理構成すべきで、実際にはむしろこれであったと強く思われる。 ここの描き方には書紀による作為があり、その目的は上宮家同調勢力に対して、上宮家を宗教界に封じ込めることにより、 現実の政治勢力としての牙を抜くことではないだろうか。 《伎楽》
伎楽とは、「①インド・チベットから中国を経て渡米した、仮面を着けて演じる舞楽。仏寺の供養や朝廷の饗宴で行われた。 ②一般に、音楽。」とされる(全文全訳古語辞典〔小学館2004〕)。 〈時代別上代〉は「くれがく」(呉楽)を、上代語として認めている。 〈倭名類聚抄〉には「雅楽寮:宇多末比乃豆加佐」が見える。 〈時代別上代〉はまた、「和名抄廿巻本には「雅楽寮」をウタマヒノツカサと訓ませているところから、歌と舞を一般的に指すのではなく、特に雅楽をいうものと思われる」と述べる。 この説を採用すれば、伎楽をウタマヒと訓読することができる。 古訓の「オモシロキコヱ」〔面白き音〕は、かなりの意訳である。これで雅楽であることが伝わるものかと思うが、 次項で述べるように、平安時代になってこの場面を描いた絵巻物の類を目にしていたとすれば、容易に伝わっただろうと思われる。 《伝略》 「五色幡蓋」以下の部分を読み、思わず竹取物語絵巻の中でかぐや姫を迎えに来る場面を連想した。 そこには、雲に乗った天女が琵琶を抱えていた。 〈皇極〉紀では、ここから「不能得見」までが仏教説話に転ずる。 太子信仰は平安時代に爆発的に拡大するが、書紀のこの部分は、その端緒的な形態と言えよう。 ちなみに『聖徳太子伝暦』には、この部分が拡張されて次のように記されている。
ここでは王子が死に追いやられたという痛ましい心の傷が、「五濁の身を施す」という尊い行為を称賛する感情として昇華される。 書紀古訓はこの捉え方が定式化された時代に付されたものだから、「称嘆」から「称嘆」に替るのである。 上代にはよいことにも使われたナゲクは、次第に悪いことのみに使う語となっていったと考えられる(次項)。 〈推古〉紀、そして上にも書いたが、書紀には尊い家系としての上宮家を、政治の世界から切り離して仏教界に封じ込めようとする意図があったと見た。 この段もその一環と見られるが、一方で伝説としての大幅な神聖化を触発した。書紀による記述は、その端緒的な時期のものであろう。 太子はこうして、仏教界の聖人としての絶大な地位を獲得していくのである。
右図は、〈岩崎本〉と〈北野本〉の称嘆の部分。 〈岩崎本〉に付された朱筆の右訓〔平安中期〕※1には「ナケイ」〔ナゲキのイ音便〕とある。 左訓〔平安院政期〕は基本的に朱訓と同じで、朱訓を鮮明化する意図で書き加えられたと見られる。 墨筆の右訓〔平安院政期〕※2は、「ナケイ」を打ち消すように「/ホメ」を上書きしている〔斜線は「または」の意味〕。 北野本は「ホメ」としている。 北野本の二十四巻〈皇極〉は1類〔院政期の写本のシリーズ〕に属し、訓点の時期もそんなには遠くない印象を受ける。 これらを見ると、朱訓はまだ「ナゲク」と訓まれた時期だったが、その後「ホム」が一般化し、それを受けて墨筆右訓が書き加えられたと見られる。
「不能得見」の得も能も be able to に当たり、いわば二重になっていて訓読しにくい。 この書き方は、「~しようとしてできなかった」ことを強調するためと思われる。 〈岩崎本〉は律儀で、「見ること得るに能はず」と逐字的に訓む。『仮名日本紀』は「えみることなし」としてあっさり済ましている。 入鹿としては遂に宿敵を滅ぼしたのだから、是非ともその現場を自分の目で見て確かたかったであろう。 だが、斑鳩寺は幡蓋が変じた黒雲によって覆い隠され、どうしても見ることができなかった。 こうして入鹿からは隔絶されて、清らかに魂が昇天したのである。 《極甚愚痴》 極甚愚痴は文法的には「甚だしき愚痴を極む」という構文であるが、これだと「愚痴=オロカナリ」が文章にうまく嵌らない。 その解決策として、「極」を分離する方法がある。 〈時代別上代〉は、万葉歌で副詞としてキハマリテを用いた例を挙げる。 その歌は、(万)0342「将言為便 将為便不知 極 貴物者 酒西有良之 いはむすべ せむすべしらず きはまりて たふときものは さけにしあるらし」である。 〈岩崎本〉の古訓は、この方法を用いている。 《時人説前謡之応》 前出の歌に対する「時の人」による「応」は、物語の筋書きに密着させて解釈したもので、 その中の特に「陀礙底」に難があると、前回《歌意》の項で述べた。 ここで、 「応〔=答〕を説〔=解〕く」という言い方は、謡(ワザウタ)の性格が「謎かけの歌」であることを示す。 ならば、「食げて」・「焚きて」は互いに異なる語だが、それは承知の上で似た言葉を用いて暗示した場合もあるだろう。 このように、いわば洒落のようなものだということなら、礙=キがあり得るかとか、下二段のタグがあったのかなどという問題に突っ込むことは不要となる。 〈岩崎本〉の古訓がこのように理解していたから、二種類のルビを付したのだとすれば、なかなかのものである。 《大意》 このとき、山背大兄王らは、 山から戻り、斑鳩寺に入りました。 軍将らはそれにより、兵で寺を囲みました。 そこで山背大兄王は、 三輪君文屋に軍将らに話させ、 「私が兵を興して入鹿を伐てば、勝つことは定まっている。 しかし、一身を理由として、人民を傷残することを欲しない。 これを以て、我が一身を入鹿に賜る。」とつげられました。 とうとう、子弟と妃妾とともに一斉に首をくくり、共に死にました。 そのとき、 五色の幡蓋、種々の伎楽が、 空を照灼(しょうしゃく)し〔照らし輝き〕、上空から寺に垂れました。 諸人はこれを仰ぎ見て称嘆し、 遂に入鹿を指し示しました。 その幡蓋などは、変じて黒雲となりました。 これにより、入鹿は〔山背大兄王が亡びた現場を〕どうしても見ることができまんでした。 蘇我の大臣(おおまえつきみ)蝦夷(えぞ)は、 山背大兄王ら総てが入鹿に亡ぼされたと聞き、 怒り罵(ののし)り、 「ああ、入鹿よ、 愚痴なること甚だしく、ここに極まる。専ら暴悪な行いをする。 お前の身命もまた、危うからずと言い切れようか。」と言いました。 当時の人は、先の謡(わざうた)の答えを、次のように解きました。 ――「岩の上(へ)に」は、上宮(かむつみや)の喩(たと)えです。 「子猿」は、林臣(はやしのおみ)の喩えです 【林臣は、入鹿のことである】。 「籠め焼く」は、上宮を焼くことの喩えです。 「籠めだにも 焚けて通(とほ)らせ 山羊(かましし)の叔父」は、 山背王(やましろのみこ)の髮の斑雜毛(ふふき)〔まだら模様〕が山羊(かましし)と似ていることによる喩えです。 また、その宮を棄てて深い山に隠れた様子でもあります。 まとめ もともと山背大兄王は、蘇我馬子の女であった負古郎女が、太子の妃となって生んだ子であった。 よって、〈推古〉天皇の次を山背大兄王とすることが蘇我蝦夷の予定であったと見られる。しかし諸臣多数派の支持が得られず〈敏達〉の即位に同意した。 その背景には、国家の急激な仏教化を進めてきた太子が薨じ、〈推古〉も崩じた後の神道勢力による巻き返しや、人民の反発の表面化があったと思われる。 〈皇極〉天皇も引き続き仏教には冷淡で、読経による雨乞いの失敗や、古代の神の再興が巫覡の跋扈として描かれている。 そのような情勢下で蘇我氏は仏教界をひとまず横に置いて、〈舒明〉の妃に送り込んだ法提郎媛〔馬子の女〕が生んだ古人大兄皇子の即位を狙う。 こうして閨閥型権力を継続しようとしたわけだから、これは書紀のいうような入鹿の「独謀」ではなく、蝦夷を含めた蘇我臣の意思であるのは明らかである。 それでは、その中で上宮家は実際にはどのように振舞っていたのであろうか。 仏教界を背負い、上宮家から皇太子を出したいという声は消えず、蘇我氏に働きかけていたことは当然考えられる。 古人大兄皇子支持派との争いが先鋭化すれば、流血に及ぶわけである。 天皇家〔と中臣鎌足〕から見れば、上宮家vs蘇我入鹿が準決勝で、乙巳の変〔入鹿の暗殺と蝦夷の自死〕が決勝である。 書紀が蘇我氏の一連の動きの原因を、なるべく入鹿の個人的資質に押し込めようとしたのは、悪印象が蘇我氏〔後の石川氏〕全体に及ぶことがないようにする配慮であろう。 〈天武〉十三年には石川臣が、朝臣姓を賜る。閨閥型権力はとうに失ったが、引き続き朝廷を支える一族として重要である。 今回の部分は、冒頭の十一月朔日以後、日付が完全に消失している。気象の記録も姿を消した。 この部分は物語として存在していたものを、基本的にそのまま取り込んだと考えられる。ただ、三輪文屋君の献策の件など、断片的に史実性を感じさせる部分もある。 しかし、全体としては無条件に史実として捉えることはできず、仏教説話への移行過程のものとして読むべきであろう。 さて、上宮家一族が滅びた後、その別業と上宮乳部はどうなったのだろうか。 これについては、別業はそのまま法隆寺の寺領となり、上宮乳部はその民として続いたと見るのが自然だと思われるが、 実際にどうであったかの探求は今後の課題である。 |
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2023.01.15(sun) [24-7] 皇極天皇7 ▼▲ |
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16目次 【二年是歳】 《餘豐以蜜蜂房四枚放養於三輪山》
〈舒明〉三年に、百済王子豊章が倭に質として送られた。 ただ、送られた年は実際には〈舒明〉十三年ではないかと推定した。 ここでの表記「餘豊」は、『三国史記』/百済本記の「扶餘豊」に近い(三年《百済王子豊章》)。 《蜜蜂》 蜂蜜に関する記述は、書紀ではここだけである。 〈続紀〉では天平宝字四年〔760〕に 「閏四月丁亥〔二十八〕:仁正皇大后遣使於五大寺。毎寺施雑薬二櫃。蜜缶一缶。以皇太后寝膳〔=寝食〕乖和〔=病〕也。」、すなわち皇太后の病気の快癒を願って五大寺に、「雑薬二櫃」とともに「蜜缶一缶」を施した。
世界史的には、 養蜂の「最古の証拠」は「紀元前2600年のものとされている」レリーフ(右図)で、「左から右へヒエログリフを読んでゆくと 「煙を吹きかける。ハチミツを満たす。圧搾する。封印する」」の4つの部分からなるという( 『ミツバチの文化史』〔渡辺孝;筑摩書房1994〕p.16)。 そして「エジプトの養蜂技術はギリシアやローマより水準が高」く、「すでに転地養蜂が行われ」、「蜂群を船にのせて、花を追いながらナイル川を上下した」という(同pp.18~19)。 倭には恐らく大陸から朝鮮半島経由で養蜂の技術が伝わったと思われる。 〈皇極二年〉是歳条はその先駆けとして書かれ、このときは失敗したが、平安時代には養蜂が完全に産業化していたのであろう。 しかし、その具体的な方法は不明である。 《大意》 この年、 百済の太子(せしむ)餘豊(よほう)は、 蜜蜂の房四枚を使って、 三輪山に放養しました。 けれども、結局繁殖しませんでした。 17目次 【三年正月(一)】 《中臣鎌子憤蘇我臣入鹿》
一月条に書かれたことがすべて朔日に起こったわけはないから、二年十一月条に引き続き日付に分けた書法は事実上放棄されている。 何らかの物語が存在していて、文章としての体裁を整えて書かれたものと思われる。 《神祗伯》 大宝令では、官の組織は神祇官と太政官に大別される。伯 ここは、まだ大宝令〔701〕以前であるから、その前身となる組織形態が度存在していたか、 あるいは職名を時代を遡らせて使ったかのどちらかである。 後者だとすれば、この段は史実性をかなり割り引いて読まなければならない。藤原氏の家伝の類かも知れない。 中臣氏は伝統的に祭事を担う氏族で、〈延喜式〉でも巻八に「凡祭祀祝詞者。御殿。御門等祭。斎部氏祝詞。以外諸祭。中臣氏祝詞。」とあり、 すなわち「御殿、御門等祭」を斎部氏が担う以外は、すべての祝詞を中臣氏が担う。 だから中臣氏が神祗伯を拝するのはあまりに当然なのだが、中臣鎌子はそこに留まることをよしとせず、意欲は完全に現実政治に向っている。 仮にフィクションであったとしても、後に鎌足〔鎌子〕が藤原姓を賜り、中臣から独立した大族として展開したのは史実である。 神祇伯の拒否の件は、それを象徴するものになっているのは確かである。 《曽》 曽の古訓イムサキは、書紀古訓特有の語と見られる。 曽は一般的にはカツテと訓まれるが、カツテは上代は「全く」の意味である。 イマダカツテと使われるうちに、イマダがカツテに染み込んでいったようである。 訓については、『類聚名義抄』「曽:カツテ ムカシ カサナル/カサヌル スナハチ コレ 経ゝ 《寵妃阿倍氏》 〈孝徳紀〉大化元年に「立二二妃一。元妃。阿倍倉梯麻呂大臣女。曰二小足媛一」とあるので、この小足媛が「阿倍氏」と呼ばれていたと言われる。 「国際電脳漢字及異体字知識庫」は、"氏"の用法の一つとして「古代称呼已婚婦女、常於其父姓之後繫「氏」。」 〔古代、既婚の女子を呼ぶとき、常に父の姓の後に「氏」をつけて呼ぶ〕を挙げる。 倭国宮廷でこの習慣が真似られていたかどうかはわからないが、そもそも書紀は基本的に中国語による表記であるから、 少なくとも物語が中国風に描かれたことはあり得る。 〈岩崎本〉がそのよみ方を「阿倍のうじ」ではなく「阿倍シ」としていることも注目される。平安時代に宮廷内にこの習慣があり、その際「氏」をシと発音していた可能性がある。 《浄掃別殿高鋪新蓐》 「浄掃別殿高鋪新蓐」という書きっぷりは古事記を思わせ、神殿に神を迎えてお休みいただく如くである。 これは、中臣鎌子の侍宿 《所遇》 所遇は、待遇の意で、とても心づかいのある応対をされた。 〈岩崎本〉はメグミ/メグムと訓む。これは所遇そのものではなく、所遇の中身を評価する語に置き換えたものだが、すると恩沢にメグミが使えなくなるので、 ウツクシビにしたと見られる。ウツクシビは、メグミと同じ意味である。 「遇 《駆使》 「駆使」はハユマヅカヒも考えられるが、公式の使者ではないから乗馬に限定する必要はなく、「駆」は「急ぎの」の意と見ればよいだろう。 記には「阿麻波勢豆加比」〔あまはせづかひ〕という語があり、「天馳使」の意と見られる (第64回)。 よって、ハセヅカヒという語はあったと見てよいだろう。 ここに原注を必要とした理由を考えてみると、舎人は宮廷内の仕え人のことだから、中臣鎌子のところにいることはないからだと考えられる。 そこで「ここでいう舎人は、使者の意味である」との説明を加えたようである。
この段には「𨶳𨵦」という珍しい熟語がある。まず、𨶳は闚の異体字で、 さらに闚は窺の異体字である。 『康煕字典』〔1710-1716〕には「𨵦:窺𨵦、私視也。闚𨵦、望也。」とある。 漢籍に用例を探すと、『三国志』/呉書/陸遜伝「陛下乘レ桴〔いかだ〕遠征,必致二闚𨵦一」がある。 一方「𨵦」単独では、「国際電脳漢字及異体字知識庫」の中にこの字はあるが、説明が何もない。 どうやら「闚」にくっつけるためだけに使われた字であるらしい。 ところが、この場合〈岩崎本〉の返り点「挾二闚𨵦社稷之權一」は成り立たない。 〈北野本〉では「挾四𨶳二-𨵦 社-稷一之権三」で、「二」の位置は正しいが数字(一~四)の振り方が異例である。 これは、くに 〈岩崎本〉の細訓「稷 〈北野本〉と〈岩崎本-室町訓点〉を現代の方法で返り点を振ると、 憤人蘇我臣入鹿失二君臣長幼之序一挾下𨶳二-𨵦社稷一之權上歷試接地於王宗之中天となる。(A) このように、外側の返り点「上・中・下」は「天・地・人」に格上げする必要がある。 Aは文法的には確かに成り立つのだが、「国を窺ふ謀を挟み」は意味が通じる文とは思えない。 仮に〈岩崎本-平安訓点〉の段階でこう訓まれていたとすれば、「稷」に必ずヲのヲコト点〔右上〕がついていなければならない。 それがない以上「闚𨵦 近代になると、『仮名日本紀』は「社稷 岩波文庫版は、「憤下…挾中闚二-𨵦社稷一之権上」 なのでAを用いている。ただし、「憤」の目的語の範囲を「社稷之権」のところで止めている(次項参照)。 もっともまともな訓み方は、「挟 《歷試接於王宗之中》 憤は、どこまでを目的語として包含するのかという問題がある。まず、憤に続く部分を整理すると、
①、②が「憤」の目的語であるのは明らかである。 また、④の主語が鎌子であることも明らかである。 問題になるのは③で、④の間に「而」があることから、〈岩崎本〉〈北野本〉はこれを目印にして③までを憤の目的語としている。 その場合、③は入鹿の言いなりになる王 しかし、③は鎌子が行おうとしていたことでもある。③はむしろ④にストレートに繋がるから、 「憤」の目的語は②で止めた方が自然である。 『仮名日本紀』は、古訓の「憤二①②③一。而④」を踏襲する。 ただし、「歷試接…」を「王宗 岩崎文庫版は前項で見たように「憤二①②一。③而④」で、文脈上自然な方を選んでいる。 ただ、これらのどちらにも読めるのは、結局蘇我氏と中臣氏〔後の藤原氏〕の行動は、 天皇を自分のコントロール下に置こうとする点で同質だったからである。 《挟・歴試の前置》 「挟闚𨵦…」、「歷試接…」の文は、実際にはそれぞれ、 ・「闚二-𨵦社稷之権一」のようなことをして「挾 ・「接二於王宗之中一」することによって「歷試 ということである。 これらは結局、後に述べるべき語を前置しているわけで、和文には時にありそうな表し方である。 だから、漢文としては読み取りにくいことになるのだが、その場合でも方法があって、「挾之而闚𨵦…」、「将歷試而接…」としておけば、奇妙な訓読を防ぐことができたと思われる。 《大意》 三年春正月朔日、 中臣鎌子(なかとみのかまこ)の連(むらじ)を神祇官(かみのつかさ)の伯(かみ)に拝しましたが、 再三固辞して着任せず、 病と称して退出し、三嶋の家にいました。 そのとき、 軽皇子(かるのみこ)は脚を患い朝廷に参上していませんでした。 中臣連(なかとみのかまこのむらじ)は、かって軽皇子と誼があり、 そこで連の宮に参上して侍宿(とのい)しようとしました。 軽皇子は、 中臣鎌子連が意気高逸〔=こだわりがなく〕で容止〔=たたずまい〕は容易に他に左右されないことを深く知っていました。 そこで、寵妃阿倍氏〔=阿倍氏によって納められた妃〕を遣わし、 別殿を清浄し、高貴な寝具を新調して整えさせました。 細かなことまで不足なく、敬い重んじるさまは特別でした。 中臣鎌子連は、その処遇に感じ入り、 舎人(とねり)に語りかけ、 「特別な恩沢をいただいたことは、事前の所望を越えるものであった。 誰か、皇子を天下のためによく使おうとしない人がいるだろうか」と言いました 【舎人という語は、駆使(はせづかい)を作ったものである】。 そこで舎人は、連の語った言葉を皇子にご披露申し上げると、 皇子は、大いに悦ばれました。 中臣鎌子連は、為人(ひととなり)は忠誠で、 匡済(きょうさい)〔=乱れを正してすくう〕心の持ち主でした。 ですから蘇我臣入鹿(そがのおみいるか)が、 君臣長幼の秩序を壊し、 何かと差しはさんで社稷〔=国家〕の権力を窺っていることに憤り、 巡り試すために、王宗の中〔=王子たち〕に交わり、 立てるべき功名賢哲の主を求めていました。 18目次 【三年正月(二) 《中臣鎌子連請納蘇我倉山田麻呂長女爲妃》
預にはアラカジメ〔予め〕・アヅカル〔関与する〕の意味があるが、 次に「~侶」〔お供する〕があるから、アヅカルであろう。 古訓クハルは、クハゝル〔加わる〕の誤りであろう。室町時代に付された「/マシハル」 〔あるいは、交わる〕もある。 アヅカルは上代語で、また他の箇所では古訓に使われているから、これでも全く問題はない。 《打毱》 打毱については、〈倭名類聚抄〉に「鞠:和名萬利」、「蹴鞠:世間云末利古由〔マリコユ〕」がある。 コユは、クウの転である。 〈時代別上代〉には「くう:(動下二) 蹴る。」、「名義抄では「蹢 クヱル」のほかに、「蹴 化ル、クユ、コム」の形も見える」とする。 クウを下一段活用にするとクヱルになり、ここから後世のケルになったかと思われるが、ケル自体はラ行四段活用である。 〈時代別上代〉の見出し語にマリ(毬/鞠)はないが、半球状の容器「マリ(椀)」を載せ、「マロシ(円し)」という上代語もあるからおそらく上代から鞠をマリと訓んだと見られる。 同書は、確例〔上代の文献で実際に使われた例〕がない限り見出し語にしない。 《皮鞋隨毱脱落》 皮鞋については、〈倭名類聚抄〉に「靴:唐令云烏皮靴赤皮靴【和名化乃久都】」とある。「乃」が「波」の間違いでなければ、カハクツはなくなる。一方、ナクツ、シタグツ、ワラグツはある。 「脱」については、現代語では「靴が脱げる」〔下一段〕というが、上代語に下二段のヌクはない。中古になると下二段のヌクがあるが、脱く意味ではなく「毛が抜ける」、「抜け出づ」〔傑出する〕の抜くである。 意図せずに脱げてしまった場合でも、他動詞の「脱く」〔四段〕を使わざるを得ない。 《所懐》 所懐・所匿の「所」は動詞を名詞化する機能をもつ助詞で、受け身の意味を伴うこともある。「~ところ」と訓むのは後世の漢文訓読体であって、 上代語のトコロには、場所の意味しかなかったようである。 万葉では、「所念」=オモホスのように、受け身から自発に転じさせて用いた例が多い。 《恐他嫌頻接》 「恐他嫌頻接」、すなわち中大兄と中臣鎌子連が接近していることに対して、人々が悪口を言うことを恐れた。 よって、二人とも南淵先生の門下生となって、その道場への行き帰りにたまたま同道したように装ったのである。 《南淵先生》 南淵請安は、〈推古〉十六年九月〔608〕の遣隋使に同行した8人の学生の一人。 〈舒明〉十二年〔640〕に帰国した「清安」と見られる。 「先生」は、自分より先に道をおさめた人。あるいは、年長で学問を教える人の意。 《謀大事者不如有輔》 「大事」とは、中大兄が首尾よく登極をなすことである。輔〔=助け〕は、その戦略上役立つという意味である。 政略婚によって倉山田臣を味方につけ、同時に蘇我氏の内部分裂を促す戦略を描いたのである。
蘇我倉山田麻呂については、〈孝徳紀〉即位の段に「(以)二蘇我倉山田石川麻呂臣一為二右大臣一」とあり、また「蘇我山田石川麻呂大臣」の表記も用いられている。 その父については〈舒明〉即位前紀に「蘇我倉麻呂臣【更名雄當】」(即位前(三)とある。 この倉麻呂(倉麿)が倉山田麻呂の父、さらに倉麻呂は馬子の子といわれ、〈姓氏家系大辞典〉もそのような系図を載せる(右図)。 しかし、書紀にはその記述はない。『公卿補任』には、「孝徳天皇御世/右大臣/蘇我山田石河麿。…馬子大臣之孫。雄正子臣之子也。」とあるので、これが出典と見られる。 『公卿補任』の811年以前の部分は、927年には存在したと見られる(〈舒明〉即位前(ニ)《蘇我蝦夷》参照)。 雄正は雄当(をまさ)の別表記で、「子」は愛称の接尾辞であろう。 「倉」がつくのは、宮廷の大蔵を管理する職についていたためと想像される。 《身狭臣》 〈孝徳〉大化四年に「蘇我臣日向【日向字 《少女》 ここの「少女」は長女の対で、妹を指す。 オトヒメ、オトムスメのどちらに訓んでもよいが、長女をエムスメと訓む場合は、オトムスメとなる。 妃として納める文中では「蘇我倉山田麻呂ノ女 〈天智〉七年に「納二四嬪一。有二蘇我山田石川麻呂大臣女一曰二遠智娘一【或本云二美濃津子娘一】生二一男二女一…其二曰二鸕野皇女一」 とあるので、「少女」の名前は遠智 《族謂身狭臣也》 長女は別に誘拐されたわけではなく、「族」とは以前から恋愛関係にあったのだろう。 中大兄、鎌子、そして倉山田麻呂にとっては、「被偸」〔盗まれた〕というわけである。 原注「族謂二身狭臣一也」は、蘇我氏の内部対立を匂わせる。蘇我氏内の反中大兄派が、美男子である身狭臣を使って長女を誘惑させることに成功したのかもしれない。 《奉以赤心更無所忌》 「奉レ以二赤心一更無レ所レ忌」、 すなわち「妹は決して無理したわけではなく純粋な気持ちで行ったのだから、心配することはない」と言って読者を安心させる。 《佐伯連子麻呂》 佐伯連子麻呂については、〈天智紀〉五年に「皇太子〔=天智天皇;称制〕親往二於佐伯子麻呂連家一、問二其所一レ患」とある。 佐伯連については、〈仁賢〉三年《佐伯宿祢など》の項で、 佐伯宿祢が大伴大連の下で宮門警備の任にあたった話を見た。〈姓氏家系〉は、この佐伯宿祢の話を佐伯連に関わるものとする。 それは、系図では大伴室屋の子が大伴談、その二人の子が大伴金村と佐伯連歌で、これにより大伴氏が大伴連と佐伯連に分かれたからである。 《葛城稚犬養連網田》 〈姓氏家系大辞典〉は「葛木稚犬連〔ママ;「養」欠〕」は「若犬甘連」と同じで、 「若犬甘連:尾張氏の族にして、若犬甘部の伴造家也。天孫本記に「火明命六世孫建多乎利命は笛連、若犬甘連等の祖」」とあると述べる (資料[38]参照)。 《大意》 こうして心を中大兄(なかのおおえ)に寄せていましたが、 依然として疎遠で、いまだ心の内を表に開くことができませんでした。 たまたま中大兄は、 法興寺(ほうこうじ)〔=飛鳥寺〕の槻(つき)の木のところで、 打毱〔=蹴鞠〕をされ、そのおともに与りました。 よって侍るうちに、皮の沓(くつ)が毱(まり)とともに脱げ落ちたので、 手で受け取り、御前に跪(ひざまづ)いて謹んでお渡ししました。 すると、中大兄は向かい合って跪かれ、敬意をもってお受け取りになりました。 このことがあってから互いに好意を持ち、つぶさに思いを述べ、 そのうちに隠しごともなくなりました。 後には、他人がしばしば接する様を見て嫌うことを恐れ、ともにに手に巻物を握り、 自ら周孔の教え〔=儒教〕を南淵(みなふち)先生の所て学び、 遂に路上を往復する間に、 肩を並べ、密かに謀するようになりました。互いに協力しないことはありませんでした。 そのうちに、中臣鎌子連はこのように提案しました。 ――「大事を謀るには、少しでも助けになることがある方がよろしいでしょう。 願わくば、蘇我倉山田麻呂の長女を納めて妃として、 婚姻の誼を結びなさいませ。 その後にありのままを説いて、計画に与かることを望んでいると示しなさいませ。 成功の路には、こうすれば近づけないことなどありましょうや。」 中大兄はこれをお聞きになり、大層悦ばれ、 子細に提案に従われました。 中臣鎌子連はただちに、自ら出向いて要になることを媒(なかだち)して終わりました。 ところが、長女は契りの夜に、一族の者に盗まれました 【一族の者は、身狭臣(むさしのおみ)という】。 これにより、倉山田臣は憂え恐れて、 天を仰ぎ地に伏せて、なすすべを知りません。 長女の妹は、父の憂色を怪しみ、 そばに寄って、「何を憂え悔いておられるのですか。」と質問したところ、 父は事情を説明しました。妹は、 「お願いですから、憂えることをおやめください。私をたてまつれば、 まだ、遅くはありませんわ。」と言いました。 父はこれに大いに悦び、遂にその娘をたてまつりました。 娘が仕えるにあたっては、赤心〔=清らかな心〕をもち、何も心配することはありませんでした。 中臣鎌子連は、 佐伯連(さへきのむらじ)子麻呂(こまろ)、 葛城稚犬養連(かつらきのわかいぬかいのむらじ)網田(あみた)を 中大兄に差し向け、 しかじかと申し上げました。 まとめ 特筆されるのは、「中臣鎌子連」と「中大兄」の表記が安定していることで、一人の著者によって内容を吟味して丁寧に書かれたと思われる。 元は藤原氏の家伝の類であろうと推定したが、だとしてもきちんと文章の形を整えたのは書紀の段階であろう。 史実性はともかくとして、内容豊かでなかなか読ませるから、古事記のスタッフの手によったかも知れない。 仮に全くのフィクションであったとしても、ポイントは的確に押さえられている。 そのポイントとは、藤原氏が祭祀家であった中臣氏から離れて国政への野心を露わにしたこと、 娘を皇子の妃に送ることによって影響力をもつという当時の権力構造、 曽我氏の内部対立の存在、鎌子が軽皇子や中大兄を登極させるための明確なビジョンを早い段階でもっていたことなどである。 こうしてみると、三年正月条の著者はことによると太安万侶その人なのかもしれない。 そう考えると、鎌子のために寝室をきめ細かく準備する阿倍氏の献身や、 長女の代わりを申し出て父のピンチを救った少女の場面などが、古事記の香りが漂うように思えて来る。 |
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⇒ [24-8] 皇極天皇4 |