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2023.01.07(sat) [24-6] 皇極天皇6 

13目次 【二年十一月(一)】
《掩山背大兄王等於斑鳩》
十一月丙子朔。
蘇我臣入鹿、
遣小德巨勢德太臣
大仁土師娑婆連、
掩山背大兄王等於斑鳩。
【或本云。
以巨勢德太臣倭馬飼首
爲將軍。】
巨勢徳太…〈岩崎本〔以下岩〕小德巨勢[ノ][ノ][切] 大仁土師[ノ]娑婆[ノ][ヲ][テ] ヲソハシムオソ山背[ノ]大兄聖德之子[ノ]ミコミコタチ[ヲ]於斑-鳩[ニ]
小徳冠位十二階第二位。
大仁冠位十二階第三位。
…[動] おおう。かくす。(古訓) おさふ。おほふ。ふさかる。
斑鳩…上宮家の本拠地。斑鳩宮、法隆寺の所在地。
将軍…〈岩〉将軍[ト]
十一月(しもつき)丙子(ひのえね)の朔(つきたち)。
蘇我臣(そがのおみ)入鹿(いるか)、
[遣]小徳(せうとく)巨勢徳太臣(こせのとくたのおみ)
大仁(だいにむ)土師娑婆連(はにしのさばのむらじ)をつかはして、
山背大兄(やましろのおほえ)の王(みこ)等(たち)を[於]斑鳩(いかるが)に掩(おさ)へしむ
【或る本(ふみ)に云ふ。
巨勢徳太臣(こせのとくたのおみ)倭馬飼首(やまとのまかひのおびと)を以ちて
将軍(いくさのかみ)と為(な)せり】。
於是、奴三成、
與數十舍人、出而拒戰。
土師娑婆連、中箭而死。
軍衆恐退。
軍中之人、
相謂之曰
「一人當千、謂三成歟。」
拒戰…〈岩〉ヤツコ-ナリ[切]數-十トヲアマリトヲアマリ舍人[切][テ]フセキ-  フ[句]
中箭…〈岩〉[ニ][テ]而死[ヌ][句]ヒトゝモヒトゝモ[切]-退[句]
相謂…〈岩〉- カタリ[テ][切] [リ]ヒトリモ[ヲ]アタルト云[ハ]チタリチマミチマミ[切]  イフ三成[ヲ][カ][句]
[於]是(ここ)に、奴(やつこ)三成(みなり)、
数(あまた)十(と)たりの舎人(とねり)と与(とも)に、出(い)でて[而]拒(ふせ)き戦(たたか)ひて、
土師娑婆連(はにしのさばのむらじ)、箭(や)に中(あた)りて[而]死にせり。
軍衆(いくさのひとども)恐れて退(ひ)きき。
軍中之(いくさのなかの)人、
相(あひ)[之]謂(かた)りて曰ひしく
「一人(ひとり)千(ちたり)に当たるといふは、三成を謂ふ歟(か)。」といひき。
山背大兄、
仍取馬骨、投置内寢。
遂率其妃幷子弟等、
得間逃出隱膽駒山。
三輪文屋君
舍人田目連及其女
菟田諸石
伊勢阿部堅經從焉。
内寝…〈岩〉--ヨトノヨトノ[ニ][句]。 〈北野本〔以下北〕投-置ナケ
投置…〈汉典〉「through (oneself) into
よどの…[名] 寝る家。寝室。
率其妃…〈岩〉[ニ]-  ウ  ミヤ カラミウカラ[ヲ][テ]ヒトマヒマヒトマ[ヲ][テ]ニケ-[テ]  ヌ--[ニ][句]
ひとま…[名] 人の見ていない間。
ひま…[名] 空間的、時間的な間隙。
…[名] (古訓) あひた。さかふ。ひま。はさまる。
かくる…[自]〔上代〕ラ四 〔中古〕ラ下二
三輪文屋君…〈岩〉三輪[ノ]文屋/アヤ ヤフム ヤ[ノ]菟田[ノ]モロ[切]伊勢[ノ]-部[ノ]カタ-從焉ミトモニツカマツルミトモニハヘリミトモニツカマツル
山背大兄(やましろのおほえ)、
仍(よ)りて馬の骨を取りて、内寝(よどの)に投置(な)げたまひつ。
遂(つひに)其の妃(みめ)と并(あは)せて子弟(うがら)等(たち)を率(ゐ)て、
間(ひま)を得て逃出(に)げて、胆駒山(いこまやま)に隠(かく)りたまふ。
三輪文屋(みわのふむや)の君
舎人田目(とねりのため)の連(むらじ)[及]と其の女(むすめ)
菟田諸石(うだのもろし)
伊勢阿部堅経(いせのあべのかたふ)従(したが)ひまつる[焉]。
巨勢德太臣等、
燒斑鳩宮灰中見骨、
誤謂王死解圍退去。
徳太臣…〈岩〉徳-
誤謂…〈岩〉[ノ][ニ]ミテミテ[ヲ][テ][テ]ミコミコウセタマヒタリウセマシマシヌト[タリ][ト]トカカクミ[ヲ][テ]
かくみ…[名] カクム(囲む;四段)の名詞形。
巨勢の徳太の臣等(ら)、
斑鳩宮(いかるがのみや)を焼きて、灰の中に骨を見て、
誤(あやま)りて王(みこ)死(みまか)れりと謂ひて、囲(かくみ)を解きて退去(しりぞ)きつ。
《巨勢徳太臣・土師娑婆連》
 巨勢徳太臣は、元年十二月、〈舒明〉の喪に大派皇子の代理として誄した。 土師娑婆連は、二年九月、皇祖母命の喪を差配した猪手であろう。
《倭馬飼首》
 やまとの馬飼まかひのおびとは、〈姓氏家系大辞典〔以下「姓氏」〕〉によれば「倭馬飼部の伴造家」、「馬飼首:馬飼部の部分的伴造なれど、後多くは造を称することとなれり」。
 馬飼部(馬養部馬甘部)は職業部のひとつで、馬の養育にあたった。
《数十》
 数十への古訓は、習慣的に「トヲアマリ」とされるが、それは実際には11~19人のことで、数十を表すには無理がある。 イクバクも考えられるが、「数十」に使われた例を見ない。 「」の直訳を用いてアマタとしてみると何となく意味が伝わり、この方ががまだ自然かも知れない。
《投置》
 投置逃出指示は、それぞれナゲオク、ニゲイヅ、サシシメスと訓みたくなるが、上代語にもこの箇所の古訓にもそのような言い方は見られない。
 『仮名日本紀』は「なげおき」、「にげ出て」、「さししめす」とするが、近代の言語感覚によるものであろう。
《胆駒山》
斑鳩(法隆寺がある)と胆駒山(生駒山)の山頂
 胆駒山を詠んだ歌は万葉に五首あり、(万)3032伊駒山 雲莫蒙 いこまやま くもなたなびき」(万)3589伊故麻山 古延弖曽安我久流 いこまやま こえてぞあがくる」 (万)3590伊故麻乃山乎 故延弖曽安我久流 いこまのやまを こえてぞあがくる」などがある。
 イコマヤマが4例、イコマノヤマが1例なので、基本的に助詞は入らないが、音数によって入れる場合があったようである。 ちなみに(天の)香久山は13例すべてがカグヤマ、三輪山はミワヤマ5例・ミワノヤマ1例、平城山はナラヤマ12例・ナラノヤマ3例である。
《三輪文屋君》
 〈姓氏〉は、三輪君の氏人として、〈用明〉紀元年五月三輪君逆、〈舒明〉紀八年三輪君小鷦鷯とともに、三輪君文屋の名を挙げている。 三輪君は大神神社を氏神とする古来の大族で大三輪とも称し、〈天武〉十三年に朝臣姓を賜る。
《舎人田目連》
 舎人とねりはもともと職名で、〈姓氏〉によると「天皇、皇子達に近侍して雑役に仕へし者を云ふ」。 ここの「舎人田目連」あたりから、氏族名としての「舎人」が現れたと見られる。
 同辞典は、「舎人連:舎人造の連姓を賜へる者也」、「舎人造:舎人部の伴造たりし氏なり」とする。 ただ、〈天武〉十一年に「舎人造糠虫…賜姓曰連」とあるから、からの昇進は個人、もしくは支族ごとになされたようである。
 田目はこの時点で既にを賜っていたか、遡って呼称を用いたかのどちらかである。
《菟田諸石》
 菟田は、〈倭名類聚抄〉{大和国・宇陀【宇太】郡}の地域の氏族と見られる。 〈神武〉即位前紀に宇陀県主が出てくるが、〈姓氏〉は「書紀、此の氏を県主の祖と云はずして、 …中古に至り宇陀郡の名の見ゆるを思へば、後世変遷ありて廃され、更に宇陀郡を置かれしものか」と述べる。
《伊勢阿部堅経》
 〈姓氏〉は「伊勢阿倍:皇極紀に伊勢阿〔ママ〕堅経と云ふ者見ゆ」とだけ記す。 阿倍臣は、大和国葛下郡阿部発祥で(第108回【末裔の諸族】)、 分流の布勢氏は北陸道に進出した(第159回布勢君)
《斑鳩宮》
 斑鳩は、法隆寺の所在地。斑鳩宮は、法隆寺東院の地下にあった建物跡が斑鳩宮であったとする見方がある (〈用明〉元年【上宮】)
 斑鳩宮は、太子が薨じた後も上宮家の本拠であり続けたと考えられる。
《大意》
 十一月朔日、 蘇我臣(そがのおみ)入鹿(いるか)は、 小徳(しょうとく)巨勢臣(こせののおみ)徳太(とくた)、 大仁(だいにん)土師連(はにしのさばのむらじ)娑婆(さば)を派遣し、 山背大兄王(やましろのおおえみこ)等を斑鳩で抑えさせました 【或る本にいう。 巨勢徳太臣(こせのとくたのおみ)、倭馬飼首(やまとのまかひのおびと)を 将軍とした】。
 すると、奴(やつこ)三成(みなり)は、 数十の舎人が出て、抗戦しました。
 土師娑婆連(はにしのさばのむらじ)は矢に当たって死に、 軍衆は恐れて撤退しました。
 軍中の人は、 口々に 「一人当千とは、三成のことをいうのか。」と語らいました。
 山背大兄は、 そこで馬の骨を取って、内寝に投げ置き、 その妃と子弟一族を率いて、 隙を見て逃げ出し、胆駒山(いこまやま)に隠れました。
 三輪の君文屋(ふむや)、 舎人(とねり)の連(むらじ)田目(ため)及びその娘、 菟田諸石(うだのもろし) 伊勢阿部堅経(いせのあべのかたふ)が従いました。
 巨勢の臣徳太らは、 斑鳩(いかるが)の宮を焼き、灰の中の骨を見て、 誤って王(みこ)は死んだと言い、包囲を解いて退却しました。


14目次 【二年十一月(二)】
《山背大兄王等曰以一身之故豈煩勞萬民》
由是、山背大兄王等、
四五日間、淹留於山、
不得喫飲。
四五日間淹留…〈岩〉 ヨカヨカ五日[ノ][切]-留 スミテトゝマリタ /スミテ トゝマリ給於山[テ]--モノモエマウホラスモノモエマウホラス
淹留…一か所に長い間とどまる。
まうぼる…[他]ラ四 〔中古以後の語〕(尊敬語)召し上がる。
是(こ)に由(よ)りて、山背大兄王(やましろのおほえのみこ)等(たち)、
四五日(よかいつか)の間(ま)、[於]山に淹留(とどま)りたまひて、
喫飲(くらひもの)を不得(えたまはず)。
三輪文屋君、
進而勸曰。
「請移向於深草屯倉、
從茲乘馬、詣東國、
以乳部爲本、興師還戰、
其勝必矣。」
勧曰…〈岩〉 マツリマツリ[テ][切][切]-於深草[ノ]屯倉[ニ][テ]茲乗馬[ニ][テ] イ[ノ][ニ][テ]乳部 ミフ  ミフ [ヲ][テ][ト][ヲ][テ][テ] カハ[句] 其勝[ム][コト]  シ。 〈北・閣〉カナラシ  シ
…[副] かならず。[動] かならずする。(古訓) あきらかなり。かならし〔かならじ〕。 〈時代別上代〉「カナラは活用語の未然形であろう。名義抄に「必カナラジ」とあるのも参考になる」。
三輪文屋君(みわのふむやのきみ)、
進みて[而]勧めまつりて曰(まをさく)。
「請(ねがはくは)移りて[於]深草屯倉(ふかくさのみやけ)に向(おもぶ)きて、
茲(これ)従(よ)り馬に乗りて、東国(あづまのくに)に詣(いた)りて、
乳部(みぶ)を以ちて本(もと)と為(な)して、師(いくさ)を興(おこ)して還(かへ)りて戦(たたか)はば、
其れ勝つこと必(あきらけ)し[矣]。」とまをす。
山背大兄王等對曰。
「如卿所噵、其勝必然。
但吾情冀、十年不役百姓。
以一身之故、豈煩勞萬民。
卿所噵…〈岩〉[ハ]イマシイマシ[カ][切]其勝[ム][コト]必然[ム][句]
…[人称代] 官僚が相互に相手を呼ぶ称。
吾情…万葉は殆どアガココロ。(万)3627安我己許呂 あがこころ」。
不役…〈岩〉[カ][ニ][ハ]十年  ツカハツカハ百姓[ヲ][句] 〔吾がこころにこひねがはくは、十年百姓をつかはじ〕
煩労…〈岩〉[ノ]身之故[ニ][テ]-/ワツラハシワツラハシ ヤ/イタハラシヤ-[ヲ][句]
山背大兄王(やましろのおほえのみこ)等(ら)対(こた)へて曰(のたま)ひしく。
「卿(いまし)が所噵(いへる)如くせば、其れ勝つこと必然(あけらけ)し。
但(ただ)吾情(あがこころ)に冀(こひねがはくは)、十年(ととせ)百姓(みたみ、おほみたから)を不役(つかはじ)。
一身之故(ひとつのみがゆゑ)を以ちて、豈(あに)万民(よろづのたみ)をや煩労(わずらはす)か。
又於後世、
不欲民言由吾之故喪己父母。
豈其戰勝之後方言丈夫哉、
夫損身固國不亦丈夫者歟。」
民言…〈岩〉   シ[ノ][ム][ヲ][ノ][ニ]ニレ[ニ]之故[ニ][切] ヘリホロホセリト[セリ][ト][カ]カソカソ-[ヲ]
吾之故…万葉はワガユヱ。(万)3615「和我由恵仁 わがゆゑに」。
…[動] (古訓) ほろふ。うしなふ。うす。
丈夫…〈岩〉丈夫マスラヲマスラヲステステ[テ][ハ][ヲ] 〔身を損てて国を固めば〕 𡖋丈夫マスラヲマスラヲ[ニ][句]
又(また)[於]後世(のちのよ)に、
民(たみ)吾之故(わがゆゑ)に由(よ)りて己(おのが)父母(ちちなな)を喪(うしな)へりと言はむことを不欲(ほりせず)。
豈(あに)其の戦(たたかひ)に勝之(かちし)後(のち)に方(まさに)丈夫(ますらを)と言ふ哉(や)、
夫(それ)身(み)を損(す)てて国を固(かたむること)、[不]亦(また)丈夫(ますらを)[者]にあらじ歟(や)。」とのたまひき。
有人遙見上宮王等於山中、
還噵蘇我臣入々鹿々。
聞而大懼、速發軍旅。
述王所在於高向臣國押曰、
「速可向山求捉彼王。」
國押報曰、
「僕守天皇宮、不敢出外。」
還噵…〈岩〉[テ]蘇我[ノ]臣入々鹿[ニ][句]々聞而大[ニ]オツオツオトロキ[テ][ニ]-イクサイクサ[ヲ][テ] カタリカタラフカタリカタラフ[ノ][ヲ]マシマシ[切]於高ムク[ノ]臣 國オシオシ[ニ][テ][切][ニ][テ][ニ][テ]カスフ-カラムカラム[ノ]ミコ[ヲ][句]
やまなか…[名] 山の中。(万)0241真木乃立 荒山中尓 まきのたつ あらやまなかに」。
…〈岩〉ヤツカリヤツカ
人有りて、遥かに上宮王(かむつみやのみこ)等(ら)を[於]山中(やまなか)に見て、
還(かへ)りて蘇我臣(そがのおみ)入鹿(いるか)に噵(い)ひき。
入鹿聞きて[而]大(はなはだ)懼(お)じて、速(すみやか)に軍旅(いくさ)を発(おこ)せり。
王(みこ)の在る所を[於]高向臣(たかむこのおみ)国押(くにおし)に述べて曰(い)はく、
「速(すみやか)に山に向(おもぶ)きて彼の王(みこ)を求(ま)ぎて捉(とら)ふ可(べ)し。」といひて、
国押報(こた)へて曰(い)ひしく、
「僕(やつかれ)天皇(すめらみこと)の宮を守(も)りまつりて、[不]敢(あへ)て外(と)に出(い)でまつらじ。」といひき。
入鹿卽將自往。
于時、古人大兄皇子、
喘息而來問、「向何處。」
入鹿具說所由。
古人皇子曰、
「鼠伏穴而生。失穴而死。」
入鹿由是止行。
遣軍將等、求於膽駒。
竟不能覓。
喘息…〈岩〉 古人舒明之子[ノ]大兄皇子 喘息イワケイワケイテマシイテマシ[テ][切] ユクユク-イツチカイツチ[カ][句]。 〈北〉喘息イホケイワケ
いわく…[自]カ下二 あわてさわぐ。
喘息…〈類聚名義抄〉「喘息 アヘク/キ」。
あへく…[自]カ四 息を切らす。
…〈岩〉[ハ]カク[ニ][切][ヲ][テ]而死[ヌ][ト云フ?][句] 入鹿[切]由是[ニ][テ] ヤユク[ヲ][句]軍将等[ヲ]  メシム於膽  ヲ[句][ニ]モトメウルモトメウル[コト]。 〈北〉ツヒ
…[副] (古訓) つひに。
入鹿即(すなは)ち将(まさに)自(みづから)往(ゆ)かむとす。
[于]時に、古人大兄皇子(ふるひとのおほえのみこ)、
喘息(あへ)きて[而]来たりて問ひてのたまはく、「何処(いづく)へや向(おもぶ)く。」とのたまひて、
入鹿具(つぶさ)に所由(ゆゑ)を説きまつれり。
古人皇子曰(のたまはく)、
「鼠(ねずみ)穴に伏(かく)りて[而]生けり。穴を失ひて[而]死にせり。」とのたまひて、
入鹿是(こ)に由(よ)りて行くことを止(や)む。
軍将(いくさのかみ)等(たち)を遣(つか)はして、[於]胆駒(いこま)に求めしめど、
竟(つひ)に覓(ま)ぐこと不能(あたはず)。
《深草》
 〈倭名類聚抄〉に{山城国・紀伊郡・深草【不加乎佐】郷〔不加久佐の誤り?〕
 この地名は、〈欽明〉即位前にあった。 そこには秦大津父の名前があり、太秦ともに秦氏の拠点のひとつであったと思われる。
 『五畿内志』は、山城国紀伊郡に「村里:深草【属邑六其一曰瓦町 ○今呼上三栖已下惣曰伏見廻】」を挙げる。
 『京都市内遺跡発掘調査 平成29年度』〔京都市文化市民局;2018〕は、 「この地は交通の要衝であるとともに秦氏の根拠地でもあることから、 皇室とも深い結びつきをもち、番神山古墳やけんか山古墳、稲荷山古墳群など多くの古墳が今も残る」と述べる(p.44)。
深草:現代地名「京都市伏見区深草○○町」地域
 深草地域の北東隅に伏見稲荷大社〔京都市伏見区深草薮之内町68番地〕がある。 同社の公式ページ/「ご祭神」によると、 「社記(十五箇條口授伝之和解)には《元明天皇の和銅四年二月壬午の日に、深草の長者“伊呂具秦ノ公”が勅命をこうむって、 三柱の神を伊奈利山の三ヶ峰に祀ったのにはじまり、その年は五穀が大いにみのり、蚕織なって天下の百姓は豊かな福を得た》と伝えています」という。
 稲荷大社の辺りは、おそらく古墳時代から稲荷山の神をいわうところで、改めて秦氏の氏神に定められたものであろう。
 『山城国風土記』逸文「伊奈利」を含む、「延喜式神名帳頭註」を見る。
延喜式神名帳頭註/『群書類従』巻第二十三〔続群書類従完成会1952〕
人皇四十三代元明帝和銅四年辛亥二月十一日戊午
始顯-座伊奈利山三ヶ峯平處
風土記云 
伊奈利者 秦中家忌寸等遠祖伊侶具秦公 積稲粱冨裕
乃用餅爲的者 化白鳥飛翔居山峯伊祢奈利生 遂爲社名
其苗裔 悔先過而抜社之木 殖家禱祭也
人皇四十三代元明帝和銅四年〔711〕辛亥二月十一日戊午
始めて伊奈利いなり山の三ヶ峯みつがみねたひらところあらはす。
風土記に云ふ。
伊奈利いなりなづけたるは、はた中家なかつへ忌寸いみきたち遠祖とほつおや伊侶具いろぐはたきみいねあはのうるしねを積みて有冨裕ゆたかになりてあり
すなはち餅を用ゐていくはつくりたれば、白鳥くぐひに化はりて飛びけて山の峰にりて伊祢奈利生いねなりはえて、遂にやしろの名にりつ。
其の苗裔はつこに至りて、先の過ちを悔いてやしろの木を抜きて、家にゑていのり祭れり。
いくは…[名] 標的。まと。 …〈倭名類聚抄〉「粱米:和名阿波乃宇留之祢〔あはのうるしね〕」。
とびかける…[自]ラ四 〈仁徳〉四十年歌謡に「等弭箇慨梨〔とびかけり〕」。 はつこ…[名] 子孫。
 これを読むと、伊奈利は「伊祢奈利〔稲生り〕」の転と捉えられていたことが分かる。また、秦氏養蚕織絹の技術をもって渡来したが(第152回)、 稲作に関しても高い栽培技術を有していたことが窺われる。
《深草屯倉》
19経湍屯倉 20河邊屯倉 21蘇斯岐屯倉 22葦浦屯倉 竹村屯倉 深草屯倉 飛鳥宮 長谷朝倉宮 難波宮・難波津 斑鳩宮・法隆寺
参考:〈安閑〉二年【二十六屯倉設置の意味】
 各地の屯倉は、基本的に独立性を帯びた地方の氏族を監視するために朝廷の直轄地を置いたものと考えられている。 飛鳥時代には駅路が次第に整備されて中央と屯倉を結び、駅使はゆまづかひが往来した。 〈皇極〉紀にも駅使が出て来るが、この時代には実際に機能していたと思われる。
 それでは、秦氏が警戒の対象であったのだろうか。
 秦氏は太子の仏教振興策に同調して、秦造(はたのみやつこ)河勝が蜂岡寺を建てた (〈推古〉十年資料[45])。 また、養蚕織絹と高度な稲作技術の普及は国造りの礎で、また大蔵官僚も輩出していたから、朝廷を支える大切な勢力である。 秦氏が朝廷と対立した記述は、書紀には見えない。野心の塊で権力闘争にうつつを抜かしてばかりの蘇我氏に比べれば、実直に実務に徹する秦氏は、 安心して頼りにできる存在であったのだろう。
 したがって、深草屯倉は決して秦氏を警戒するものではなく、むしろ緊密な連絡のために朝廷が置いた支所の性格をもっていたと思われる。
《乳部》
 〈姓氏〉は「上宮乳部:御名代部の一種にして、皇極紀に 「上宮乳部之民」とあるは、上宮聖徳太子の壬生の民也」、「壬生部」の項で「上宮太子の壬生部にて、封民の例なり」と述べる。
 そして「皇子御養育に仕へ奉る人々、及び其の封民を壬生部と云ふ」、 「壬生部は、各皇子に存す。多くは一時的にて、其の職を完せる後は其の名を失ふ。されど時には 御名代部として、其の御子薨去後も、皇子養育に与りし人々、及び其の封民を以って、一の品部を組織し、 其の御子の御名を負ふ」ことを、書記の記述に基づいて導いている。 また、姓氏としての「壬生」を全国各地に大量に見出している。 名称は同じ「壬生部」であるが、複数の皇子の御名代みなしろに起源をもつ別々の部の総称であろう。 「壬生」はもともと各壬生部の伴造であったが、後には地名化した壬生、丹生などが氏族名になった場合もある。
 結局、「上宮乳部」は、上宮家の別業に所属した私有民を指すと見られる。その別業はことによると相当広く、 副都と言い得る規模だったのかもしれない。というのは、 法隆寺東院で発掘された建造物の向きが筋違い道の向きと一致することから、独自の条坊があった可能性を直感したからである (〈推古〉十四年《岡本宮》まとめ)。
《従茲乗馬詣東国》
 三輪文屋君の献策によれば、まず「深草屯倉」、すなわち深草屯倉に移動して拠点とする。 「乗馬」は、東山道、東海道を通っての移動を意味し、大道のネットワークの要という屯倉の性格を示すものと言えよう。 そして、相当の勢力である上宮乳部を中核として秦氏を味方につけ、 さらに朝廷に不満をもつ東国在地氏族を糾合すれば勝ち目はあるというものであろう。
 ただし、この部分はフィクションで、「東国」とあるから、壬申の乱を参考にした可能性がある。 とは言え、深草屯倉という具体的な地名が頭の中だけで考え出されたことも考えにくいので、実際にそのような動きが始まりつつあったのかも知れない。
《以一身之故豈煩労万民》
 三輪文屋君の献策に対して、山背大兄王は「一身之故豈煩-労万民〔私一人の都合で、万民を煩わすことがあってよいか、いやない。〕という。
 の文法的機能は、接続詞と前置詞のどちらでも成り立つが、書紀では二重目的語をもつ構文において、 事物目的語を前置するときに用いている。
 「百姓」・「万民」は、特に上宮乳部のことであろう。彼らを戦争のために動員したくないという。 さらに「於後世不民言吾之故上二己父母〔後世に、山背大兄王のために父母を失ったと、人々に言われたくない〕。 そして、「豈其戦勝之後。まさに丈夫哉。 それ身固国不亦丈夫者〔戦争に勝つのが本当に英雄と言えるのか、身を捨てて国が固まることを選ぶのが英雄ではないか〕という。
 つまり、たとえ戦いに勝利したとしてもh人民に多大な犠牲者は出る。むしろ統治を入鹿に任せてでも国を落ち着かせる方が優先されるという。 道徳的な物言いであるが、敗北必至と見ての強がりともとれる。 あるいは、下で述べるが書記による潤色かも知れない。
岩崎本
《者歟》
 は、文末に置く語気詞としての用法があるが、なぜか日本の漢和辞典にはあまりきちんとは載っていない。
 「国際電脳漢字及異体字知識庫」を見ると、語気詞として「①用在句末表示語気完畢。②用在句末、与疑問詞相配合表示疑問。句末に置いて言い切りの語気を表す句末に置いて、疑問詞と組み合わせて疑問を表す〕とある。
 は、と同じである。漢籍に「也歟」の用例はいくつかあるから、「者歟」も「断定の語気詞+疑問(反語、感歎)」であろう。 ただ、「」をとして訓読しても結構成り立つ。ここでも「大夫者」を「大夫ますらをなるひと」と訓むことができるので、語気詞との違いは微妙である。
 〈岩崎本〉(右図)を見ると返し点「一」が二箇所あり、両方が消されることなく残されているので、誰も決定しなかったようである。 「」の場合「ナラ〔ナリの未然形〕と思われる。「」の場合は、「」に付けられたヲコト点[ニ]が生きて、 「マタ 丈夫マスラヲナルモノニアラ」となろう。 この問題については『全訳漢辞海』〔三省堂2011〕が、「(者を語気詞として文末に置く場合も)従来の訓読では「…する人」と解して「もの」と読み習わしてきた」と述べていることが参考になる。
 かつて古事記の訓読を始めた頃は、「~者~者。」に、幾度となく悩まされた。
《遥見上宮王等》
 「遥見上宮王等」は、山背大兄王を上宮王と呼ぶところが注目される。上宮王は太子のことであるが、ここではその子孫の一族を指して上宮王等と呼んでいる。 太子は既に亡いが、太子を継ぐ一族が相変わらず大きな勢力を維持していたことの表れと思われる。
《高向臣国押》
 〈舒明〉即位前高向臣宇摩がいた。 当時の政権は、大臣おほまへつきみを筆頭とする群臣まへつきみたち合議制を取っていたが、 入鹿は「大臣」を僭称しながら高向臣を従わせるだけの権威はなかったようである。
《古人大兄皇子》
 古人大兄皇子の父は舒明天皇であるが、蘇我馬子の女、法提郎媛を母とする (関係系図)。 つまり、古人大兄皇子は蘇我氏の閨閥に属し、本来なら〈舒明〉の次の天皇になることが期待されていた。
 二年十月条では入鹿が「古人大兄天皇」を謀った。その前に「上宮王等」とあるから、 入鹿の目には、山背大兄王がその野望を妨げる存在として映っていた。
 実際には、山背大兄王自身、あるいはその子が天皇になる目は既にないだろうが、 〈皇極〉天皇系列〔〈皇極〉ー軽皇子〈孝徳〉ー中大兄〈天智〉〕をがっちり支える側に回っていたのであろう。
《鼠伏穴而生》
 「鼠伏穴而生。失穴而死」とは、「大将自らが宮を出ることは危険です」と言って入鹿を制止したのであろうか。 それとも「敵は自分の宮を捨てて外をさまよっているから、討ち果たされるのは時間の問題です。 大将が出撃するには及びません」と言って止めたのであろうか。
 文章の流れからは、後者のように感じられる。ただし、書紀は山背大兄王がかなり劣勢であったが如く描いているが、 実際には互角であり、だとすれば前者かも知れない。
《大意》
 これにより、山背大兄王らは、 四五日の間山に淹留(おんりゅう)し、 飲食もできませんでした。
 三輪文屋君(みわのふむやのきみ)、 進み出てお勧めました。
――「願わくば、ここから移り深草屯倉(ふかくさのみやけ)に向い、 そこから馬に乗って東国に行き、 乳部(みぶ)を本体として、軍を興して帰って戦えば、 必ず勝ちます。」
 山背大兄王らは答えて言われました。
――「卿が言われた如くすれば、必ず勝つであろう。 ただ、私の心は、冀(こいねが)わくば、十年は人民に役を課したくない。 我がひとつの身に理由をもって、豈(あに)万民を煩わすことがあってよいか。
 また後世に、 民が私の理由をもって自分の父母を亡くしたとは言って欲しくない。 豈(あに)その戦に勝った後に英雄と言うのか、 むしろ身を捨てて国を固めるのが、また英雄ではないだろうか。」
 ある人が、遥かに上宮王(かむつみやのみこ)たちを山中に見かけ、 帰って蘇我臣入鹿に知らせました。
 入鹿はそれを聞き、大いに畏れ慌てて、速かに軍を興しました。 王(みこ)の居場所を高向臣(たかむこのおみ)国押(くにおし)に説明し、 「速かに山に向かい、王を探して捉えるべし。」と言いました。
 国押はこれに答えて、 「私は天皇(すめらみこと)の宮を警護する役目です。敢えて外に出ることはできません。」と言いました。
 入鹿は、直ちに自ら出向こうとしました。 その時、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)が、 息せききってやって来て「どこへ向かうのか。」とお尋ねになり、 入鹿は具(つぶさ)に事情を説明しました。
 古人皇子は、 「鼠は穴に伏せれば生きる。穴を失えば死ぬだろう。」とおっしゃりました。 入鹿はこれによって行くことを止め、 軍将らを遣わして、胆駒を探させましたが、 とうとう見つけられませんでした。


15目次
《終與子弟妃妾一時自經倶死也》
於是、山背大兄王等、
自山還、入斑鳩寺。
軍將等卽以兵圍寺。
入斑鳩寺…〈岩〉イリマス斑鳩寺[ニ]
於是(ここに)、山背大兄王(やましろのおほえのみこ)等(たち)、
山自(ゆ)還(かへ)りて、斑鳩寺(いかるがてら)に入ります。
軍将(いくさのかみ)等(ら)即(すなは)ち兵(いくさひと)を以ちて寺を囲(かく)めり。
於是、山背大兄王、
使三輪文屋君
謂軍將等曰、
「吾起兵伐入鹿者其勝定之。
然由一身之故不欲傷殘百姓。
是以、吾之一身賜於入鹿。」
終與子弟妃妾一時自經倶死也。
其勝定之…〈岩〉其勝[コト]ウツムナシウツムナシ/ウツムナシ[句]
…〈類聚名義抄〉「 サタム/シ ウツム」。
さだむ…[自]マ四
さだか…[形動語幹] たしかなこと。
傷残…〈岩〉身之故[ニ][テ]ホニ-[コト][ヲ]百姓[ヲ]。 〈北〉傷残ヤフリソコナハム
自経…〈岩〉[ニ]-ウカラウカラ[切] - ミメ  ミメ [切]-モロトモニモロトモ[ニ] ラ ラ-/ワナキワナキ[テ][ニ][ヌ][句]。 〈北〉自-経ワタキ
わなく…[自]カ四 首をくくる。クビルとも。〈時代別上代〉「ワタクはワナクの転じたものであろう」。
於是(ここに)、山背大兄王、
三輪文屋君(みわのふむやのきみ)をして軍将(いくさのかみ)等(ら)に謂(かた)ら使(し)めて曰(のたま)ひしく。
「吾(われ)兵(いくさ)を起(おこ)して入鹿を伐(う)た者(ば)、其の勝つこと[之]定(さだま)らむ。
然(しかれども)一つの身之(の)故(ゆゑ)に由(よ)りて、百姓(みたみ、おほみたから)を傷残(そこな)ふことを不欲(ほりせじ)。
是(こ)を以ちて、吾之(わが)一(ひとつの)身(み)を[於]入鹿に賜(たまは)らむ。」とのたまひき。
終(つひ)に子弟(うがら)与(と)妃妾(みめ)と、一時(ひとつのとき)に自経(わな)きて倶(とも)に死にき[也]。
于時、
五色幡蓋、種々伎樂、
照灼於空、臨垂於寺。
衆人仰觀稱嘆、
遂指示於入鹿。
其幡蓋等、變爲黑雲。
由是、入鹿不能得見。
五色幡蓋…〈岩〉[ノ][ノ]-キヌカサ 種々[ノ]-オモシロキヲト/コエオモシロキオト -テリ ヒカリテリ ヒカリヲホソラ[テ]- レリ[リ]於寺
…[動] 下を見下ろす高いところに位置する。「君臨」。
衆人…〈岩〉 モロ- キ[切]-ナケイナケイ/ホメ[テ]。 〈北〉稱嘆 ホメ 
…[動] (古訓) さす。しめす。
変為…〈岩〉 カヘリカヘリ [テ]ナリタリ[ヌ]黑雲[ニ]
不能得見…〈岩〉[ニ][コト][句] 〔見ること得るに能(あた)はず〕
于時(ときに)、
五(いつつ)の色の幡(はた)蓋(きぬがさ)、種々(くさぐさの)伎楽(うたまひ、くれがく)、
[於]空に照灼(てりかかや)きて、臨みて[於]寺に垂(た)れり。
衆人(もろひと)仰(あふ)ぎ観(み)て称(たた)へ嘆(なげ)きて、
遂(つひ)に[於]入鹿(いるか)を指示(しめ)す。
其の幡蓋等(たち)、変はりて黒き雲と為る。
是(こ)に由(よ)りて、入鹿見得ることを不能(あたはず)。
蘇我大臣蝦夷、
聞山背大兄王等總被亡於入鹿而、
嗔罵曰。
「噫、入鹿、
極甚愚癡、專行暴惡。
儞之身命、不亦殆乎。」
総被亡…〈岩〉ミナ[テ][コト][ヲ] 〔ミナ/すべろぼさるるコトヲ〕。
噫入鹿…〈岩〉 イカリイカリ-ノリノリ[テ]入鹿[切][テ]-カタクナニ[テ] タクメニタクメオコナフ-アシキワサスアシキワサアラキワサ[ス] 〔アシキワザス/アラキワザをオコナフ〕 イカイカイマシ-イノチミ イノチ[切]𡖋 ラ[句]〔アヤフカラズヤ〕
…[代] 二人称の人称代名詞。
蘇我大臣(そがのおほまへつきみ)蝦夷(えぞ)、
山背大兄王等(たち)総(すべ)て[於]入鹿に被亡(ほろぼさ)えぬと聞きて[而]、
嗔(いか)り罵(の)りて曰ひしく。
「噫(あ)、入鹿(いるか)、
極(きはま)りて甚(はなはだし)く愚痴(おろか)なり、専(もはら)行暴悪(あしきわざす)。
儞之(いましが)身命(いのち)、不亦殆(またあやふからず)乎(や)。」といひき。
時人說前謠之應曰。
「以伊波能杯儞而、喩上宮。
以古佐屢而、喩林臣
【林臣、入鹿也】。
以渠梅野倶而、喩燒上宮。
以渠梅拕儞母
陀礙底騰褒羅栖
柯麻之々能鳴膩而、
喩山背王之頭髮斑雜毛似山羊。
又棄捨其宮匿深山相也。」
謡之応…〈岩〉[ノ]ワサウタワサウタコタヘコタヘ[ヲ][テ]
伊波能杯儞…〈岩〉伊波能杯儞 フ  ツ[ニ][句]
古佐屢…〈岩〉[ノ][ニ][ノ][ハ]入-鹿也
渠梅野倶…〈岩〉[ニ]-[ヲ]
陀礙底…〈岩〉
斑雜毛…〈岩〉山背[ノ]ミコミコ-ミクシミクシ --フゝキニシフゝキニシ/フゝキ[テ]ニタマヘル[ル][ニ]山羊カマシゝカマシ[ニ][句]
棄捨其宮…〈岩〉 - ステ  ステ 其宮[ヲ][テ]カクレマス深山[ニ]シルシナリシルシ[ナリ][句]
みくし…[名] 貴人の髪。
ふふき…[名] まだらであること。
時の人、前(さき)の謡(わざうた)之(の)応(こたへ)を説きて曰へらく。
「伊波能杯儞(いはのへに)を以ちて[而]、上宮(かむつみや)に喩(たと)ふ。
古佐屢(こさる)を以ちて[而]、林臣(はやしのおみ)に喩ふ
【林臣は、入鹿(いるか)なり[也]】。
渠梅野倶(こめやく)を以ちて[而]、上宮を焼くことに喩ふ。
[以]渠梅拕儞母(こめだにも)
陀礙底騰褒羅栖(たけてとほらせ)
柯麻之々能鳴膩(かまししのをぢ)をもちて[而]、
山背王(やましろのみこ)之(が)頭髮(みくし)の斑雜毛(ふふき)山羊(かましし)に似てあることに喩ふ。
又(また)其の宮を棄捨(す)てて深き山に匿(かく)るる相(かたち)なり[也]。」といへり。
《斑鳩寺》
 斑鳩寺は法隆寺の前身と考えられているが、 法隆寺五重塔の年代測定によると心柱のみが594年、その他の部分の建材が650~673年であることが問題を投げかけている (資料[49]【五重塔の年代】)。
 これについて、斑鳩寺若草伽藍の位置にあり、594年頃に建ったと考えた。 次に、現法隆寺の場所に創建法隆寺が建ち、〈天智〉八年〔669〕に斑鳩寺が一部焼け、 〈天智〉九年〔670〕に創建法隆寺が全焼した。 その後に法隆寺が再建され、その際若草伽藍の斑鳩寺を解体してその塔の心柱を、再建法隆寺の五重塔のために転用したと推定した (資料[49]付記)。
 この推定によれば、〈皇極〉二年の「斑鳩寺」は若草伽藍の位置に建っていたことになる。
《吾之一身賜於入鹿》
 「一身之故-残百姓」、 よって「吾之一身賜於入鹿」とは言うが、実際には「吾之一身」どころか上宮乳部を丸ごと入鹿に賜ってしまう。 入鹿の支配下に置けば、どんな仕打ちを受けるかも分からないから、山背大兄王は実に無責任な選択をしたことになる。 ここは、人民のためにも邪悪な入鹿を殲滅させるべきだと論理構成すべきで、実際にはむしろこれであったと強く思われる。
 ここの描き方には書紀による作為があり、その目的は上宮家同調勢力に対して、上宮家を宗教界に封じ込めることにより、 現実の政治勢力としての牙を抜くことではないだろうか。 
《伎楽》
伎楽面 研究情報アーカイブス
 ここでは音楽・舞踊全般を指す語として「伎楽」を用いたと思われる。
 伎楽は、〈推古〉二十年に 「百済人味摩之、帰化曰「学于呉得伎楽儛」」、「集少年令習伎楽儛」とある。
 伎楽とは、「①インド・チベットから中国を経て渡米した、仮面を着けて演じる舞楽。仏寺の供養や朝廷の饗宴で行われた。 ②一般に、音楽。」とされる(全文全訳古語辞典〔小学館2004〕)。 〈時代別上代〉は「くれがく」(呉楽)を、上代語として認めている。
 〈倭名類聚抄〉には「雅楽寮:宇多末比乃豆加佐」が見える。 〈時代別上代〉はまた、「和名抄廿巻本には「雅楽寮」をウタマヒノツカサと訓ませているところから、歌と舞を一般的に指すのではなく、特に雅楽をいうものと思われる」と述べる。 この説を採用すれば、伎楽をウタマヒと訓読することができる。
 古訓の「オモシロキコヱ〔面白き音〕は、かなりの意訳である。これで雅楽であることが伝わるものかと思うが、 次項で述べるように、平安時代になってこの場面を描いた絵巻物の類を目にしていたとすれば、容易に伝わっただろうと思われる。
《伝略》
 「五色幡蓋」以下の部分を読み、思わず竹取物語絵巻の中でかぐや姫を迎えに来る場面を連想した。 そこには、雲に乗った天女が琵琶を抱えていた。
 〈皇極〉紀では、ここから「不能得見」までが仏教説話に転ずる。 太子信仰は平安時代に爆発的に拡大するが、書紀のこの部分は、その端緒的な形態と言えよう。
 ちなみに『聖徳太子伝暦』には、この部分が拡張されて次のように記されている。
 聖徳太子伝暦下巻
山背大兄王子率諸弟幷王子等。出自山中斑鳩寺塔内。 立大誓願曰。吾暗三明之智因果之理。 然以佛言之。我等宿業于今可捨五濁之身二上八逆之臣。 願魂遊蒼旻之上陰入淨土之蓮。 擎香爐誓香氣郁烈上通烟雲。 天上三道現種々仙人之形種々伎樂之形種々天女之形種々禽獸之形。 向西方飛去。光明炫燿天花雰散音樂妙響。時人仰看遙加敬禮。 當于此時諸王共絕。 山背大兄の王子みこもろもろのあはせて王子みこ等をて、山中り出でて斑鳩寺のたううちに入りたまふ。 おほきなる誓願せいぐわんを立ててまうしたまはく「吾三明さむみやう智に暗く未だ因果のことわりりまつらず。 しかれども仏の言を以てこれしまつるに、我等われらが宿業しゆくごふ、今に吾をむくいて五濁之身を捨てて八逆はちぎやく之臣にほどこし。 願はくはたましひ蒼旻あをそらに遊びて陰に浄土之はちすに入りまつらむ。」とまうしたまひて、 香炉かうろささげておほきに誓ひたまへば香気こりのけ郁烈いくれつに上りて烟雲いんうんに通ふ。 天上てんじやう三道さむだう種々くさぐさの仙人形、種々の伎楽之形、種々の天女てんぢよ之形、種々の禽獣きむじう之形現れて、 西のかたに向ひて飛び去りつ。光明くわうみやう炫燿ぐゑんえう天花てんぐゑ雰散ふんさん音楽おむがく妙響めうきやうにして、時の人あふて遥かに敬礼ゐやを加へまつる。 この時に当たりてもろもろのみこ共に絶えたまへり。
 「捨五濁之身施八逆之臣」の八逆の臣が入鹿を指すのは明らかである。 また、語句「種々」に共通性が見られる。「音楽妙響」は「伎楽」が雅楽の意味で使われたことを示すとともに、逆に書紀の古訓「オモシロキコヱ」を導いたと思われる。
 ここでは王子みこが死に追いやられたという痛ましい心の傷が、「五濁の身を施す」という尊い行為を称賛する感情として昇華される。 書紀古訓はこの捉え方が定式化された時代に付されたものだから、「称嘆ナゲク」から「称嘆ホム」に替るのである。 上代にはよいことにも使われたナゲクは、次第に悪いことのみに使う語となっていったと考えられる(次項)。
 〈推古〉紀、そして上にも書いたが、書紀には尊い家系としての上宮家を、政治の世界から切り離して仏教界に封じ込めようとする意図があったと見た。 この段もその一環と見られるが、一方で伝説としての大幅な神聖化を触発した。書紀による記述は、その端緒的な時期のものであろう。
 太子はこうして、仏教界の聖人としての絶大な地位を獲得していくのである。
岩崎本(右訓拡大)※3北野本
《称嘆の古訓》
 右図は、〈岩崎本〉と〈北野本〉の称嘆の部分。 〈岩崎本〉に付された朱筆の右訓〔平安中期〕※1には「ナケイ〔ナゲキのイ音便〕とある。 左訓〔平安院政期〕は基本的に朱訓と同じで、朱訓を鮮明化する意図で書き加えられたと見られる。
 墨筆の右訓〔平安院政期〕※2は、「ナケイ」を打ち消すように「/ホメ」を上書きしている〔斜線は「または」の意味〕
 北野本は「ホメ」としている。 北野本の二十四巻〈皇極〉は1類〔院政期の写本のシリーズ〕に属し、訓点の時期もそんなには遠くない印象を受ける。
 これらを見ると、朱訓はまだ「ナゲク」と訓まれた時期だったが、その後「ホム」が一般化し、それを受けて墨筆右訓が書き加えられたと見られる。
※1… 訓点の時代の判断は、『国宝 岩崎本日本書紀』〔勉誠出版2013〕解説〔石塚晴通〕による。
※2… 左訓と同じ手で書かれたと見られる。これとは別に、細墨訓(宝徳三年〔1451〕または文明六年〔1474〕)がある。
※3… 朱訓の三文字目はイの書体の一つ。現在の「い」と似る。 
《不能得見》
 「不能得見」のbe able to に当たり、いわば二重になっていて訓読しにくい。 この書き方は、「~しようとしてできなかった」ことを強調するためと思われる。 〈岩崎本〉は律儀で、「見ること得るにあたはず」と逐字的に訓む。『仮名日本紀』は「えみることなし」としてあっさり済ましている。
 入鹿としては遂に宿敵を滅ぼしたのだから、是非ともその現場を自分の目で見て確かたかったであろう。 だが、斑鳩寺は幡蓋が変じた黒雲によって覆い隠され、どうしても見ることができなかった。
 こうして入鹿からは隔絶されて、清らかに魂が昇天したのである。
《極甚愚痴》
 極甚愚痴は文法的には「甚だしき愚痴を極む」という構文であるが、これだと「愚痴=オロカナリ」が文章にうまく嵌らない。 その解決策として、「」を分離する方法がある。 〈時代別上代〉は、万葉歌で副詞としてキハマリテを用いた例を挙げる。 その歌は、(万)0342将言為便 将為便不知 極 貴物者 酒西有良之 いはむすべ せむすべしらず きはまりて たふときものは さけにしあるらし」である。
 〈岩崎本〉の古訓は、この方法を用いている。
《時人説前謡之応》
 前出の歌に対する「」による「こたへ」は、物語の筋書きに密着させて解釈したもので、 その中の特に「陀礙底」に難があると、前回《歌意》の項で述べた。
 ここで、 「〔=答〕を説〔=解〕」という言い方は、謡(ワザウタ)の性格が「謎かけの歌」であることを示す。 ならば、「食げて」・「焚きて」は互いに異なる語だが、それは承知の上で似た言葉を用いて暗示した場合もあるだろう。 このように、いわば洒落のようなものだということなら、礙=キがあり得るかとか、下二段のタグがあったのかなどという問題に突っ込むことは不要となる。
 〈岩崎本〉の古訓がこのように理解していたから、二種類のルビを付したのだとすれば、なかなかのものである。
《大意》
 このとき、山背大兄王らは、 山から戻り、斑鳩寺に入りました。 軍将らはそれにより、兵で寺を囲みました。
 そこで山背大兄王は、 三輪君文屋に軍将らに話させ、 「私が兵を興して入鹿を伐てば、勝つことは定まっている。 しかし、一身を理由として、人民を傷残することを欲しない。 これを以て、我が一身を入鹿に賜る。」とつげられました。
 とうとう、子弟と妃妾とともに一斉に首をくくり、共に死にました。
 そのとき、 五色の幡蓋、種々の伎楽が、 空を照灼(しょうしゃく)し〔照らし輝き〕、上空から寺に垂れました。 諸人はこれを仰ぎ見て称嘆し、 遂に入鹿を指し示しました。 その幡蓋などは、変じて黒雲となりました。 これにより、入鹿は〔山背大兄王が亡びた現場を〕どうしても見ることができまんでした。
 蘇我の大臣(おおまえつきみ)蝦夷(えぞ)は、 山背大兄王ら総てが入鹿に亡ぼされたと聞き、 怒り罵(ののし)り、 「ああ、入鹿よ、 愚痴なること甚だしく、ここに極まる。専ら暴悪な行いをする。 お前の身命もまた、危うからずと言い切れようか。」と言いました。
 当時の人は、先の謡(わざうた)の答えを、次のように解きました。
――「岩の上(へ)に」は、上宮(かむつみや)の喩(たと)えです。
 「子猿」は、林臣(はやしのおみ)の喩えです 【林臣は、入鹿のことである】。
 「籠め焼く」は、上宮を焼くことの喩えです。
 「籠めだにも  焚けて通(とほ)らせ  山羊(かましし)の叔父」は、 山背王(やましろのみこ)の髮の斑雜毛(ふふき)〔まだら模様〕が山羊(かましし)と似ていることによる喩えです。
 また、その宮を棄てて深い山に隠れた様子でもあります。


まとめ
 もともと山背大兄王は、蘇我馬子の女であった負古郎女が、太子の妃となって生んだ子であった。 よって、〈推古〉天皇の次を山背大兄王とすることが蘇我蝦夷の予定であったと見られる。しかし諸臣多数派の支持が得られず〈敏達〉の即位に同意した。
 その背景には、国家の急激な仏教化を進めてきた太子が薨じ、〈推古〉も崩じた後の神道勢力による巻き返しや、人民の反発の表面化があったと思われる。 〈皇極〉天皇も引き続き仏教には冷淡で、読経による雨乞いの失敗や、古代の神の再興が巫覡かむなき跋扈ばっことして描かれている。
 そのような情勢下で蘇我氏は仏教界をひとまず横に置いて、〈舒明〉の妃に送り込んだ法提郎媛〔馬子の女〕が生んだ古人大兄皇子の即位を狙う。 こうして閨閥型権力を継続しようとしたわけだから、これは書紀のいうような入鹿の「独謀」ではなく、蝦夷を含めた蘇我臣の意思であるのは明らかである。
 それでは、その中で上宮家は実際にはどのように振舞っていたのであろうか。 仏教界を背負い、上宮家から皇太子を出したいという声は消えず、蘇我氏に働きかけていたことは当然考えられる。 古人大兄皇子支持派との争いが先鋭化すれば、流血に及ぶわけである。 天皇家〔と中臣鎌足〕から見れば、上宮家vs蘇我入鹿が準決勝で、乙巳の変〔入鹿の暗殺と蝦夷の自死〕が決勝である。
 書紀が蘇我氏の一連の動きの原因を、なるべく入鹿の個人的資質に押し込めようとしたのは、悪印象が蘇我氏〔後の石川氏〕全体に及ぶことがないようにする配慮であろう。 〈天武〉十三年には石川臣が、朝臣姓を賜る。閨閥型権力はとうに失ったが、引き続き朝廷を支える一族として重要である。
 今回の部分は、冒頭の十一月朔日以後、日付が完全に消失している。気象の記録も姿を消した。 この部分は物語として存在していたものを、基本的にそのまま取り込んだと考えられる。ただ、三輪文屋君の献策の件など、断片的に史実性を感じさせる部分もある。 しかし、全体としては無条件に史実として捉えることはできず、仏教説話への移行過程のものとして読むべきであろう。
 さて、上宮家一族が滅びた後、その別業なりどころと上宮乳部はどうなったのだろうか。 これについては、別業はそのまま法隆寺の寺領となり、上宮乳部はその民として続いたと見るのが自然だと思われるが、 実際にどうであったかの探求は今後の課題である。



2023.01.15(sun) [24-7] 皇極天皇7 

16目次 【二年是歳】
《餘豐以蜜蜂房四枚放養於三輪山》
是歲。
百濟太子餘豐、
以蜜蜂房四枚、
放養於三輪山。
而終不蕃息。
蜜蜂房…〈岩崎本〔以下岩〕 百濟[ノ]- セシム  昆キシ -豊[切]蜜-蜂ミチノハチミカハチ[ノ]ヒラ[ヲ][テ] - カフ   カフ於三輪山[句][テ][ニ]-ウマハラスウマハラス
…[名] (古訓) はち。
…[名] (古訓) みち。やすうす。〈倭名類聚抄〉「:音密俗云美知」。
うまはる…[自]ラ四 子が生まれる。
是の歳。
百済(くたら)の太子(たいし、せしむ)餘豊(よほう)、
蜜蜂(みちはち)の房(す)四枚(よつ)を以ちて、
[於]三輪山(みわやま)に放ちて養(か)ふ。
而(しかれども)終(つひに)不蕃息(うまはらず)。
《餘豊》
 〈舒明〉三年に、百済王子豊章が倭に質として送られた。 ただ、送られた年は実際には〈舒明〉十三年ではないかと推定した。 ここでの表記「餘豊」は、『三国史記』/百済本記の「扶餘豊」に近い(三年《百済王子豊章》)。
《蜜蜂》
 蜂蜜に関する記述は、書紀ではここだけである。
〈続紀〉では天平宝字四年〔760〕に 「閏四月丁亥〔二十八〕:仁正皇大后遣使於五大寺。毎寺施雑薬二櫃。蜜缶一缶。以皇太后寝膳〔=寝食〕乖和〔=病〕也。」、すなわち皇太后の病気の快癒を願って五大寺に、「雑薬二櫃」とともに「蜜缶一缶」を施した。
太陽神殿〔第五王朝:ネウセルラ王〕出土のリレーフ
『ミツバチの文化史』p.18
 〈延喜式〉では巻五/神祇五「年料供物」の中に、「薬部司所請」の「合薬十七剤」のための「所須薬種〔薬の原料〕があり、その中に「蜜五升」が見える。 また、巻十五/内蔵寮の「諸国年料供進〔=諸国からの毎年の献上物〕の中に「:甲斐国一升。相摸国一升。信濃国二升。能登国一升五合。越中国一升五合。備中国一升。備後国二升。」が挙げられている。 したがって、平安時代にはいくつかの国で蜂蜜を産出していたことがわかる。
 世界史的には、 養蜂の「最古の証拠」は「紀元前2600年のものとされている」レリーフ(右図)で、「左から右へヒエログリフを読んでゆくと 「煙を吹きかける。ハチミツを満たす。圧搾する。封印する」」の4つの部分からなるという( 『ミツバチの文化史』〔渡辺孝;筑摩書房1994〕p.16)。 そして「エジプトの養蜂技術はギリシアやローマより水準が高」く、「すでに転地養蜂が行われ」、「蜂群を船にのせて、花を追いながらナイル川を上下した」という(同pp.18~19)。
 倭には恐らく大陸から朝鮮半島経由で養蜂の技術が伝わったと思われる。 〈皇極二年〉是歳条はその先駆けとして書かれ、このときは失敗したが、平安時代には養蜂が完全に産業化していたのであろう。 しかし、その具体的な方法は不明である。
《大意》
 この年、 百済の太子(せしむ)餘豊(よほう)は、 蜜蜂の房四枚を使って、 三輪山に放養しました。
 けれども、結局繁殖しませんでした。


17目次 【三年正月(一)】
《中臣鎌子憤蘇我臣入鹿》
三年春正月乙亥朔。
以中臣鎌子連拜神祗伯、
再三固辭不就、
稱疾退居三嶋。
神祇伯…〈岩〉中臣[ノ]鎌子[ノ][ヲ]メスツカサ[ノ]カミカミ[ニ][テ] -シキリ  シキリ[ニ]固辞イナビ  イナビ[テ]ツカムマツラツカムマツラ マウシマウシゝ[ヲ][テ]退マカリイテ[テ]ハヘリハヘ[リ]三嶋[ニ][句]。 ※…「ツカヘマツラ」の誤りであろう。
神祇伯…〈倭名類聚抄〉「:神祇官【加美〔乃〕豆加佐】〔かみのつかさ〕」 「長官:…神祇曰伯…【已上皆加美】」。
三島…〈倭名類聚抄〉{摂津国/島上郡・島下郡・豊島郡}(〈雄略〉九年二月《三嶋郡藍原》)。
三年春正月(むつき)乙亥(きのとゐ)の朔(つきたち)。
中臣鎌子(なかとみのかまこ)の連(むらじ)を以ちて神祇(かむのつかさ)の伯(かみ)に拝(おほ)せたまへど、
再(ふたたび)三(みたび)固く辞(いな)びて不就(つきまつらざ)りて、
疾(やまひ)と称(まを)して退(まか)りて三嶋(みしま)に居(を)り。
于時、
輕皇子、患脚不朝。
中臣鎌子連、
曾善於輕皇子、
故詣彼宮、而將侍宿。
患脚…〈岩〉 軽皇子孝徳帝患-脚ミアシノヤマヒシミアシノヤマヒシマヰリツカヘ/タママヰリツカヘ
曽善…〈岩〉 イムサキイムサキ[ヨリ]ウルハシウルハシ於軽[ノ]皇子[ニ][句]マウテマウテソノ[ニ] 而将[ト][ス]侍宿トノヰニハムラヘムトノヰニハムラヘム
…[副] (古訓) かつて。そのかみ。むかし。
とのゐ…[名] 御殿に宿直すること。
[于]時に、
軽皇子(かるのみこ)患脚(みあしのやまひ)したまひて不朝(みかどにまゐでたまはず)。
中臣(なかとみ)の鎌子(かまこ)の連(むらじ)、
曽(むかし)[於]軽の皇子に善(よみ)しまつりて、
故(かれ)彼(その)宮に詣(まゐで)て[而]将(まさ)に侍宿(とのゐ)しまつらむとす。
輕皇子、深識
中臣鎌子連之
意氣高逸容止難犯。
乃使寵妃阿倍氏、
淨掃別殿、高鋪新蓐、
靡不具給、敬重特異。
意気…〈岩〉[切]中臣[ノ]鎌子[ノ]連之 - ハヘノココロハセハヘ[ノ]-  スクレタ カ スクレ[テ] - カタチ [コト][ヲ]一レナシナシナシ[テ]
こころばせ…[名] 気立て。
こころばへ…[名] 心情。
高逸…高く、自由な境地にいる人。
容止…たちふるまい。止は立ち止まった姿。
寵妃…〈岩〉 使ミメクミシメクム給阿倍[ヲ][テ]  メ- ヘ コト コト-殿[ヲ][テ]シキシキ/シクニヒシキニヒシキネトコネトコ/シトネ[ヲ][テ][コト][ニ]ツカツカ[句] ヰヤヰヤヒ-アカメム■マフアカメ給[コト][ニ]ケナリ[ナリ][句]。 〈内閣文庫本〉  ノ
たか-しく…[他]カ四 タカ-は名詞・動詞への接頭語。「高い」意を添えるか、もしくは美称。
…[動] ない。(古訓) なし。
…[動] (古訓) たふとふ。
たふとぶ…[他]バ上二 尊ぶ。
軽皇子(かるのみこ)、深く[識]
中臣鎌子(なかとみのかまこ)の連(むらじ)之(が)
意気(こころばへ)高逸(たかくとらはれざる)容止(ふるまひ)の犯(をか)し難きことをしりたまへり。
乃(すなは)ち寵(めぐみたまふ)妃(みめ)阿倍氏(あべし)を使はして、
別殿(こととの)を浄(きよ)め掃(はら)へて、新(にひしき)蓐(ねどこ)を高(たか)鋪(し)きせしめたまふ。
不具給(つぶさにたまはらざること)靡(な)かりて、敬(ゐやま)ひて重(たふとぶ)ること特異(け)し。
中臣鎌子連、便感所遇而
語舍人曰、
「殊奉恩澤、過前所望、
誰能不使王天下耶」
【謂充舍人爲駈使也】。
感所遇…〈岩〉 カマケテカマタカマケ/メテゝ  ムニメクミ メクマ/メクミスゝミ
かまく…[自]カ下二 感じ入る。 (万)3794老夫之歌丹 大欲寸 九兒等哉 蚊間毛而将居 おきなのうたに おほほしき ここののこらや かまけてをらむ」 〈時代別上代〉かまけテメグマ」(皇極紀三年)
…[動] あう。「待遇」。(古訓) あふ。おもふく。めくる。
恩沢…〈岩〉[ニ]ウケタマハルウケ給ハル[コト]-ミウツクシヒミウツクシヒサキヨリ[ヨリ]-[ニ]一レネカフ[句]
…[動] (古訓) のそむ。ねかふ。
…[動] (古訓) こゆ。 
誰能…〈岩〉[カ]能不[ム][カ]使キミトマシキミトマシ[ト][ノ][ニ]
舎人…〈岩〉  フアテゝ- ヲ[ヲ][テ]セシ[ヲ]-使ツカヒトツカヒト[ト]一ナリツカヒト
中臣鎌子(なかとみのかまこ)の連(むらじ)、便(すなは)ち所遇(あへること)に感(かま)けて[而]
舎人(とねり)に語(かた)らひて曰(い)ひしく、
「殊(こと)に恩沢(うつくしび)を奉(うけたまは)ること、前(さき)に所望(ねがひまつりしかたち)を過(こ)えり。
誰(た)そ能(よ)く王(みこ)を天下(あめのした)に使ひまつら不(ざ)る耶(や)」といひき
【舎人に充(あ)てて謂ふは、駆使(はせづかひ)を為(つく)れり[也]】。
舍人、
便以所語陳於皇々子々、
大悅。
中臣鎌子連、爲人忠正、
有匡濟心。
語陳…〈岩〉  ラフ ラフ[テ] マウス  マ[ス] 皇々子[句]
為人…〈岩〉 ナリ ト[切]-タゝシクタゝシク[テ]- スクフ タスケ スクフ
…[名] 君主に忠実な心。(古訓) たかし。まこと。
…[形] ただしい。
…[動] 平等に均す。(古訓) すくふ。
匡済…みだれをただして救う。
舎人(とねり)、
便(すなは)ち所語(かたらひしこと)を以ちて[於]皇子(みこ)に陳(の)べまつりて、
皇子、大(おほ)きに悦(よろこ)びたまへり。
中臣鎌子(なかとみのかまこ)の連(むらじ)、為人(ひととなり)忠正(まこと)なりて、
匡(ただ)しく済(すく)ふ心有り。
乃憤蘇我臣入鹿、
失君臣長幼之序、
挾𨶳𨵦社稷之權、
歷試接於王宗之中而、
求可立功名哲主。
憤蘇我臣入鹿…〈岩〉 ス イタミイクミ/イクムテ蘇我[ノ]臣入鹿[カ] ウシ テ-ヤツコラマ ヤツコラマ キミ ヤツコラ ヲイタルコノカミコノカミ-ワカキオトゝオトゝツイテ[ヲ][切] ワイハサムサシハサミワイハサム𨶳-𨵦ウカゝフウカゝフ- クニ  クニ  ハカリコトハカリコト[コト][ヲ][テ] -試 /ツタヒ  ツタヒ [ヲ][テ]マシハルコトヲ[ヲ]-キムタチキムタチミナカ[ニ]。 〈北〉/サシハサミテキハサミ𨶳𨵦ウカゝフクニハカリコト歷試 ツカヒ/ツタヒ マシ王宗キムタチミナカ
…[動] (古訓) いきとほる。いかる。むつかる。
…[動] (古訓) わきはさむ。さしはさむ。
わきばさむ…[他]マ四 腋にはさんで愛護する。
𨶳…[動] 闚・窺の異体字。
闚𨵦…(古訓) うかかひみる。
歷試…次々と試みる。人の能力を繰り返し評価する。
求可…〈岩〉   ムヘキコトヲ[ヲ][ハ]-イタハリイタハリ[ヲ]サカシキサカシキ-キミ[ニ][句]
乃(すなはち)[憤]蘇我臣入鹿(そがのおみいるか)が、
君臣(きみとおみ)長幼(このかみとおとひと)之(の)序(つぎて)を失(う)して、
挾(さしはさ)みて社稷(くに)之(の)権(はかりごと)を闚𨵦(うかがひみ)しことをむつかりて、
歷(めぐ)り試(こころみ)て、[於]王宗(みこたち)之(が)中(みなか)に接(まじは)りて[而]、
立たしまつる可(べ)き功(いさを)しき名(みな)哲(さかし)き主(ぬし)を求めまつれり。
《春正月乙亥朔》
 一月条に書かれたことがすべて朔日に起こったわけはないから、二年十一月条に引き続き日付に分けた書法は事実上放棄されている。 何らかの物語が存在していて、文章としての体裁を整えて書かれたものと思われる。
《神祗伯》
 大宝令では、官の組織は神祇官太政官に大別される。かみは神祇官の長官である (資料[24])。
 ここは、まだ大宝令〔701〕以前であるから、その前身となる組織形態が度存在していたか、 あるいは職名を時代を遡らせて使ったかのどちらかである。
 後者だとすれば、この段は史実性をかなり割り引いて読まなければならない。藤原氏の家伝の類かも知れない。
 中臣氏は伝統的に祭事を担う氏族で、〈延喜式〉でも巻八に「凡祭祀祝詞者。御殿。御門等祭。斎部氏祝詞。以外諸祭。中臣氏祝詞。」とあり、 すなわち「御殿、御門等祭」を斎部氏が担う以外は、すべての祝詞中臣氏が担う。 だから中臣氏が神祗伯を拝するのはあまりに当然なのだが、中臣鎌子はそこに留まることをよしとせず、意欲は完全に現実政治に向っている。
 仮にフィクションであったとしても、後に鎌足〔鎌子〕が藤原姓を賜り、中臣から独立した大族として展開したのは史実である。 神祇伯の拒否の件は、それを象徴するものになっているのは確かである。
《曽》
 の古訓イムサキは、書紀古訓特有の語と見られる。
 は一般的にはカツテと訓まれるが、カツテは上代は「全く」の意味である。 イマダカツテと使われるうちに、イマダカツテに染み込んでいったようである。
 訓については、『類聚名義抄』「:カツテ ムカシ カサナル/カサヌル スナハチ コレ 経ゝ〔つねづね〕 ソノカミ」とある。 ムカシと訓めば間違いはなく、かつ平易である。
《寵妃阿倍氏》
 〈孝徳紀〉大化元年に「二妃。元妃。阿倍倉梯麻呂大臣女。曰小足媛」とあるので、この小足媛が「阿倍氏」と呼ばれていたと言われる。
 「国際電脳漢字及異体字知識庫」は、""の用法の一つとして「古代称呼已婚婦女、常於其父姓之後繫「氏」。〔古代、既婚の女子を呼ぶとき、常に父の姓の後に「氏」をつけて呼ぶ〕を挙げる。 倭国宮廷でこの習慣が真似られていたかどうかはわからないが、そもそも書紀は基本的に中国語による表記であるから、 少なくとも物語が中国風に描かれたことはあり得る。
 〈岩崎本〉がそのよみ方を「阿倍のうじ」ではなく「阿倍シ」としていることも注目される。平安時代に宮廷内にこの習慣があり、その際「氏」をと発音していた可能性がある。
《浄掃別殿高鋪新蓐》
 「浄掃別殿高鋪新蓐」という書きっぷりは古事記を思わせ、神殿に神を迎えてお休みいただく如くである。 これは、中臣鎌子の侍宿とのゐにあたって丁寧に準備を整えたさまを比喩したものであろう。
《所遇》
 所遇は、待遇の意で、とても心づかいのある応対をされた。 〈岩崎本〉はメグミ/メグムと訓む。これは所遇そのものではなく、所遇の中身を評価する語に置き換えたものだが、すると恩沢にメグミが使えなくなるので、 ウツクシビにしたと見られる。ウツクシビは、メグミと同じ意味である。
 「ぐうする」を直接表す上代語は、アフしかない。人が何らかの状況に近づくことには、あらゆる場合にアフが使われる。
《駆使》
 「駆使」はハユマヅカヒも考えられるが、公式の使者ではないから乗馬に限定する必要はなく、「」は「急ぎの」の意と見ればよいだろう。
 記には「阿麻波勢豆加比〔あまはせづかひ〕という語があり、「天馳使」の意と見られる (第64回)。 よって、ハセヅカヒという語はあったと見てよいだろう。
 ここに原注を必要とした理由を考えてみると、舎人は宮廷内の仕え人のことだから、中臣鎌子のところにいることはないからだと考えられる。 そこで「ここでいう舎人は、使者の意味である」との説明を加えたようである。
岩崎本北野本
《闚𨵦》
 この段には「𨶳𨵦」という珍しい熟語がある。まず、𨶳の異体字で、 さらにの異体字である。
 『康煕字典』〔1710-1716〕には「𨵦:窺𨵦、私視也。闚𨵦、望也。」とある。 漢籍に用例を探すと、『三国志』/呉書/陸遜伝「陛下乘〔いかだ〕遠征,必致闚𨵦」がある。
 一方「𨵦」単独では、「国際電脳漢字及異体字知識庫」の中にこの字はあるが、説明が何もない。 どうやら「」にくっつけるためだけに使われた字であるらしい。
 ところが、この場合〈岩崎本〉の返り点「闚𨵦社稷之權」は成り立たない。 〈北野本〉では「𨶳-𨵦 社-稷之権」で、「」の位置は正しいが数字()の振り方が異例である。 これは、くに社稷うかが闚𨵦はかりごとさしはさと訓むようである(右図)。
 〈岩崎本〉の細訓「 ヲ」も、実は〈北野本〉の訓み方によるものであろう。 細墨訓は、室町時代と推定される。なお、右朱訓は平安中期、左太墨訓は院政期と見られる(参照)。
 〈北野本〉と〈岩崎本-室町訓点〉を現代の方法で返り点を振ると、 蘇我臣入鹿失君臣長幼之序𨶳-𨵦社稷之權歷試接於王宗之中となる。()
 このように、外側の返り点「上・中・下」は「天・地・人」に格上げする必要がある。
 は文法的には確かに成り立つのだが、「国を窺ふ謀を挟み」は意味が通じる文とは思えない。
 仮に〈岩崎本-平安訓点〉の段階でこう訓まれていたとすれば、「稷」に必ずのヲコト点〔右上〕がついていなければならない。 それがない以上「闚𨵦ウカゝフ社稷クニハカリコトワイハサム〔窺ふ国の謀を脇挟むて〕である。 不自然であるが、の不自然さと五十歩百歩である。
 近代になると、『仮名日本紀』は「社稷くにのはかりごとをわきばさみうかがひ」 とする。これならまともな和文といえる。 しかし、その場合の返り点は「-闚-𨵦社稷之権」となり、このような動詞の複合化は漢籍には例を見ない。
 岩波文庫版は、「…挾-𨵦社稷之権」 なのでを用いている。ただし、「」の目的語の範囲を「社稷之権」のところで止めている(次項参照)。
 もっともまともな訓み方は、「さしはさみて〔=介入して〕社稷くにはかりこと〔ここでは政治の意味〕闚𨵦うかが」であろう。
《歷試接於王宗之中》
 は、どこまでを目的語として包含するのかという問題がある。まず、に続く部分を整理すると、
 失君臣長幼之序…君臣長幼の秩序を崩す。
 挾闚𨵦社稷之権…国の政に介入して権力を窺う。
 歷試接於王宗之中…王子たちに順番に接してそれぞれの適性を見極める。
 求可立功名哲主…功名、賢哲の主を探す。
 となる。
 が「」の目的語であるのは明らかである。 また、の主語が鎌子であることも明らかである。
 問題になるのはで、の間に「而」があることから、〈岩崎本〉〈北野本〉はこれを目印にしてまでをの目的語としている。 その場合、は入鹿の言いなりになるみこを探すということで、その僭越を非難する意味となる。
 しかし、は鎌子が行おうとしていたことでもある。はむしろにストレートに繋がるから、 「」の目的語はで止めた方が自然である。
 『仮名日本紀』は、古訓の「①②③。而④」を踏襲する。 ただし、「歷試接…」を「王宗きんだちの中につかへまじはる歷試接」と訓んで意味が通るようにするが、 この訓み方はかなり恣意的である。
 岩崎文庫版は前項で見たように「①②。③而④」で、文脈上自然な方を選んでいる。
 ただ、これらのどちらにも読めるのは、結局蘇我氏と中臣氏〔後の藤原氏〕の行動は、 天皇を自分のコントロール下に置こうとする点で同質だったからである。
《挟・歴試の前置》
 「挟闚𨵦…」、「歷試接…」の文は、実際にはそれぞれ、
・「-𨵦社稷之権」のようなことをして「さしはさ」む。
・「於王宗之中」することによって「歷試めぐりてこころみ」する。
 ということである。 これらは結局、後に述べるべき語を前置しているわけで、和文には時にありそうな表し方である。
 だから、漢文としては読み取りにくいことになるのだが、その場合でも方法があって、「挾之而闚𨵦…」、「将歷試而接…」としておけば、奇妙な訓読を防ぐことができたと思われる。
《大意》
 三年春正月朔日、 中臣鎌子(なかとみのかまこ)の連(むらじ)を神祇官(かみのつかさ)の伯(かみ)に拝しましたが、 再三固辞して着任せず、 病と称して退出し、三嶋の家にいました。
 そのとき、 軽皇子(かるのみこ)は脚を患い朝廷に参上していませんでした。
 中臣連(なかとみのかまこのむらじ)は、かって軽皇子と誼があり、 そこで連の宮に参上して侍宿(とのい)しようとしました。
 軽皇子は、 中臣鎌子連が意気高逸〔=こだわりがなく〕で容止〔=たたずまい〕は容易に他に左右されないことを深く知っていました。
 そこで、寵妃阿倍氏〔=阿倍氏によって納められた妃〕を遣わし、 別殿を清浄し、高貴な寝具を新調して整えさせました。 細かなことまで不足なく、敬い重んじるさまは特別でした。
 中臣鎌子連は、その処遇に感じ入り、 舎人(とねり)に語りかけ、 「特別な恩沢をいただいたことは、事前の所望を越えるものであった。 誰か、皇子を天下のためによく使おうとしない人がいるだろうか」と言いました 【舎人という語は、駆使(はせづかい)を作ったものである】。
 そこで舎人は、連の語った言葉を皇子にご披露申し上げると、 皇子は、大いに悦ばれました。
 中臣鎌子連は、為人(ひととなり)は忠誠で、 匡済(きょうさい)〔=乱れを正してすくう〕心の持ち主でした。
 ですから蘇我臣入鹿(そがのおみいるか)が、 君臣長幼の秩序を壊し、 何かと差しはさんで社稷〔=国家〕の権力を窺っていることに憤り、 巡り試すために、王宗の中〔=王子たち〕に交わり、 立てるべき功名賢哲の主を求めていました。


18目次 【三年正月(二)
《中臣鎌子連請納蘇我倉山田麻呂長女爲妃》
便附心於中大兄、
䟽然未獲展其幽抱。
偶預中大兄
於法興寺槻樹之下打毱之侶。
而候、皮鞋隨毱脱落、
取置掌中、前跪恭奉。
中大兄、對跪敬執。
便附心…〈岩〉 ツクルトモ[ヲ]天智[ノ]大兄オヒネオヒネ[句] - サカリ  サカリ [テ]イマタフルヲ[コト]-フカキオモフカキオモヒ[ヲ][句]。 〈北〉䟽然サカリテ
さかる(疎)…[自]ラ四 遠ざかる。
幽抱…〈汉典〉「幽独的情懐〔ひそかな独りの心〕
偶預…〈岩〉 タゝマゝタマサカニクハリ/マシリテ[ノ]  ニ[ノ]ホウ-コウ-寺[ノ]ツキ[ノ]モトニマ[ニ] 打毱クユル マリクウル マリトモカラトモカラ[ニ]。 〈北〉タマサカ マシリテホウ-コウ-シノ
法興寺…元興寺(飛鳥寺。〈崇峻〉元年《法興寺》《飛鳥真神原》)。
つき…[名] けやき。
ともがら…[名] 仲間。同類。
皮鞋…〈岩〉 マモリテマモリ-ミクツノミクツ[ノ]マゝマゝマリノ[切]  ヌ-[ヲ][テ]   リ-モチテ-タナウラタナウラ[ニ][テ] スゝスゝミスゝ[テ]-ヒサマツキテヒサツキ[テ]ツゝツゝシンテ[テ]  ル[ル][句]-[テ]ヰヤヒヰヤヒヰヤマヒ[テ]タマ[句]。 〈北〉掌中タナウラタナコゝロ
とりおく…[他]カ四 〈時代別上代〉は上代語に認定。
たなうら…[名] 手のひら。
便(すなはち)心を[於]中大兄(なかのおほえ)に附(つ)けてあれど、
疎然(とほくさかり)て、未(いまだ)其の幽抱(ひそむるこころ)を展(のぶこと)を獲(え)ず。
偶(たまさかに)[預]中大兄(なかのおほえ)に、
[於]法興寺(ほふこうじ)の槻樹(つきのき)之(の)下(もと)に、打毱(くうるまり)之(の)侶(ともがら)にあづかりまつる。
而(しかるがゆゑに)候(さもら)ひて、皮鞋(みくつ)毱(まり)の隨(まにま)に脱落(ぬ)ければ、
掌中(たなうら)に取り置きて、前(みまへ)に跪(ひざまづ)きて恭(つつし)みて奉(たてまつ)れり。
中大兄、対(むか)ひて跪(ひざまづ)きて敬(ゐや)びて執(と)りたまふ。
自茲相善、倶述所懷。
既無所匿。
後恐他嫌頻接而倶手把黃卷、
自學周孔之教於南淵先生所。
遂於路上往還之間、
並肩潛圖。無不相協。
相善…〈岩〉[切]ムツヒ/ムツヒ-[ニ]  フ[ヲ][句][ニ]カゝルゝ[句]
嫌頻…〈岩〉[ニ]人ノ[ノ]ウタカフウタ/キラハムコト[ヲ][ニ] マシマシ[コト][ヲ] 而倶[ニ][ト][ニ]トリテ-フミマキフミマキ[ヲ][テ]マ フシウコウノリノリ[ヲ]南淵ミナ フチセムシヤウ[ノ]モトモト[ニ][句][ニ]於路[ノ]アヒタアヒタ[切]往還カヨフカヨフコロホヒコロホヒ[ニ][ヲ][テ]ヒソヒソ[ニ]ハカリタマヘリ[ル][句][トイフ][コト]-カナハ[句]。 〈北〉トリテ黄卷フムマキミツカラ マナフ
…[動] (古訓) つく。ましはる。
まじはる…[自] 交際する。
…[動] (古訓) つかむ。にきる。とる。
黄巻…書物。巻物に黄色の紙を用いたことから。(資料[52]【法華義疏】)。
周孔之教…儒教。
ゆきかへる…[自]ラ四 (万)1065清濱部者 去還 雖見不飽 きよきはまへは ゆきがへり みれどもあかず」。
…[動] (古訓) かなふ。やはらく。
茲(これ)自(よ)り相(あひ)善(よみ)して、倶(つぶさ)に所懐(おもひ)を述(の)べて、
既(すで)にして所匿(かくるるもの)無し。
後(のち)に他(ひと)が頻(しば)接(まじはること)を嫌(きら)はむことを恐りて[而]倶(とも)に手に黄巻(ふみ)を把(にぎ)りて、
自(みづから)周(しう)孔(こう)之(の)教(をしへ)を[於]南淵(みなふち)先生(せんしやう)の所(もと)に学(まな)びて、
遂(つひ)に[於]路上(みちのへ)を往還之(ゆきかへりし)間(ま)に、
肩(かた)を並(な)べて潜(ひそかに)図(はか)りたまへり。無不相協(あひかなはざることなし)。
於是、中臣鎌子連議曰、
「謀大事者、不如有輔。
請、納蘇我倉山田麻呂長女爲妃、
而成婚姻之眤。
然後陳說、欲與計事。
成功之路、莫近於茲。
謀大事…〈岩〉[ニ][ハ] ナル-事[ヲ][切][ニ][ハ][句][切]メシイレ蘇我[ノ]クラ-ヤマ-ロ カ[ノ]- エヒメ /ムスメ[ヲ][テ][ト][テ]  ン[ム]-ムコシフトノ ムコシフト/ムツマシキムツヒムツヒ[ヲ][句] 然後[ニ]ノヘ-トイ[テ]ハカハカ一レ[ヲ][句]イタハリイタナリ之路[切][ハ]於茲[句]。 〈北野本〔北〕/タスケ
には…[格助+係助] 「連体形+ニハ」の例:(万)2101吾衣 揩有者不在 あがころも すれるにはあらず」。
…[動] 昵と同じ。
…[動] 近づいて慣れ親しむ。「昵懇(じっこん)」。
むつぶ…[他]バ下二 睦ぶ。仲良くする。ムツムの形も。
あづく…[他]カ下ニ 関係させる。
於是(ここに)、中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)議(はか)りて曰(まを)さく、
「大(おほ)きなる事を謀(はか)るに者(は)、輔(たすけ)の有るに不如(しかず)。
請(ねがは)くは、蘇我倉山田麻呂が長女(えむすめ)を納(をさ)めたまひて妃(みめ)と為(し)たまひて[而]、
婚姻(とつぎ)之(の)眤(むつび)を成したまへ。
然(しかる)が後(のち)に陳(つら)ね説(と)きて、計(はかりごと)に与(あづ)くる事を欲(ほり)しまつれ。
成功之(いさみをなしし)路(みち)、[於]茲(ここ)に近づきぬること莫(な)きや。」とまをす。
中大兄、聞而大悅。
曲從所議。
中臣鎌子連、卽自往媒要訖。
而長女、所期之夜、被偸於族。
【族謂身狹臣也。】
由是、倉山田臣憂惶、
仰臥不知所爲。
大悦…〈岩〉[ノ]大兄[切]聞而大[ニ][句] ヒハヒラヒハヒラ/ツマヒラカニ[ム][ニ][ニ][句]
つばらかに…[副] くわしく。ツバラニ。
媒要…〈岩〉自往[テ]ナカタチナカタチ-カタメカタメムルコト  ヌ[ヌ][句]
被偸…〈岩〉[ヲ]-女[切]-チキリシチキリシ之夜[切]  レヌ[ヌ][タリ] ヌ ヌヤカラヤカラ
…[動] 窃と同じ。(古訓) ぬすみに。
身狹臣…〈岩〉[ハ][ノ][ヲ]
憂惶…〈岩〉ウレヘ-カシコマカシコマ-[テ]-セムスヘセムスヘ
中大兄、聞(き)こして[而]大(おほ)きに悦(よろこ)びたまひて、
曲(つばらに)所議(はかりまつれしこと)に従(よ)りたまへり。
中臣鎌子連、即ち自(みづから)往(ゆ)きて要(ちぎり)を媒(なかだち)して訖(を)へり。
而(しかれども)長女(えむすめ)、所期之(ちぎりし)夜(よる)に、[於]族(やから)に被偸(ぬすまゆ)
【族は身狭臣(むさのおみ)を謂(い)ふ[也]】。
是(こ)に由(よ)りて、倉山田臣憂(うれ)へて惶(かしこ)まりて、
仰(あふ)ぎ臥(ふ)して所為(せむすべ)を不知(しらず)。
少女怪父憂色、
就而問曰、「憂悔何也」。
父陳其由。少女曰、
「願勿爲憂。以我奉進、
亦復不晩。」
少女…〈岩〉少女ヲト ムスメ
憂悔…〈岩〉 憂悔[コト]ナソ ナ ソ[句]カソカソ[切]陳其[ヲ]
いろ…[名] ①色彩。②感情を表す意味での顔色。
勿為憂…〈岩〉[ハ][切]--ナウレヘタマソナウレヘ給ソ[句][ヲ][テ]-タテマツリタタテマツリ給[モ][切] 𡖋復  シ[句]
少女(おとむすめ)父(ちち)の憂色(うれふるいろ)を怪(あやし)びて、
就(つ)きて[而]問ひて曰はく、「憂(うれ)へ悔(くゆ)ることや何(な)そ[也]」といひて、
父其の由(よし)を陳(の)ぶ。少女(おとむすめ)曰(い)へらく、
「願(ねがはく)は勿為憂(うれふることなかれ)。我(われ)を以ちて奉進(たてまつ)らば、
亦復(また)不晩(おそからじ)。」といへり。
父便大悅、遂進其女。
奉以赤心、更無所忌。
中臣鎌子連、舉佐伯連子麻呂
葛城稚犬養連網田於中大兄
曰云々。
赤心…〈岩〉 ツカツカ[ヲ]キヨキキヨキ[ヲ][テ]  ニナカレイム[句] 中臣[ノ]鎌子[ノ][切] キシメキシメスゝメテ佐伯[ノ]連子麻呂[切] 葛城[ノ]稚犬養[ノ]連網於中[ノ]大兄[ニ][テ][切]云々シゝカゝイフシカゝゝイフ[句]
父便(すなは)ち大(おほ)きに悦(よろこ)びて、遂に其の女(むすめ)を進(たてまつ)りき。
奉(つかへまつ)るに赤心(きよきこころ)を以ちて、更に忌(い)む所無し。
中臣鎌子(たかとみのかまこ)の連(むらじ)、
[挙]佐伯連(さへきのむらじ)子麻呂(こまろ)、
葛城稚犬養連(かつらきのわかいぬかひのむらじ)網田(あみた)を
[於]中大兄にあげまつりて、
云々(しかしか)と曰(まを)せり。
《預》
 にはアラカジメ〔予め〕アヅカル〔関与する〕の意味があるが、 次に「~〔お供する〕があるから、アヅカルであろう。
 古訓クハルは、クハゝル〔加わる〕の誤りであろう。室町時代に付された「/マシハル〔あるいは、交わる〕もある。
 アヅカルは上代語で、また他の箇所では古訓に使われているから、これでも全く問題はない。
《打毱》
 打毱については、〈倭名類聚抄〉に「:和名萬利」、「蹴鞠:世間云末利古由〔マリコユ〕」がある。
 コユは、クウの転である。 〈時代別上代〉には「くう:(動下二) 蹴る。」、「名義抄では「蹢 クヱル」のほかに、「蹴 化ル、クユ、コム」の形も見える」とする。 クウを下一段活用にするとクヱルになり、ここから後世のケルになったかと思われるが、ケル自体はラ行四段活用である。
 〈時代別上代〉の見出し語にマリ(毬/鞠)はないが、半球状の容器「マリ(椀)」を載せ、「マロシ(円し)」という上代語もあるからおそらく上代から鞠をマリと訓んだと見られる。 同書は、確例〔上代の文献で実際に使われた例〕がない限り見出し語にしない。
《皮鞋隨毱脱落》
 皮鞋については、〈倭名類聚抄〉に「:唐令云烏皮靴赤皮靴【和名化乃久都】」とある。「乃」が「波」の間違いでなければ、カハクツはなくなる。一方、ナクツ、シタグツ、ワラグツはある。
 「」については、現代語では「靴が脱げる」〔下一段〕というが、上代語に下二段のヌクはない。中古になると下二段のヌクがあるが、脱く意味ではなく「毛が抜ける」、「抜け出づ」〔傑出する〕抜くである。
 意図せずに脱げてしまった場合でも、他動詞の「脱く」〔四段〕を使わざるを得ない。
《所懐》
 所懐所匿の「」は動詞を名詞化する機能をもつ助詞で、受け身の意味を伴うこともある。「~ところ」と訓むのは後世の漢文訓読体であって、 上代語のトコロには、場所の意味しかなかったようである。 万葉では、「所念」=オモホスのように、受け身から自発に転じさせて用いた例が多い。
《恐他嫌頻接》
 「恐他嫌頻接」、すなわち中大兄と中臣鎌子連が接近していることに対して、人々が悪口を言うことを恐れた。 よって、二人とも南淵先生の門下生となって、その道場への行き帰りにたまたま同道したように装ったのである。
《南淵先生》
 南淵請安は、〈推古〉十六年九月〔608〕の遣隋使に同行した8人の学生の一人。 〈舒明〉十二年〔640〕に帰国した「清安」と見られる。
 「先生」は、自分より先に道をおさめた人。あるいは、年長で学問を教える人の意。
《謀大事者不如有輔》
 「大事」とは、中大兄が首尾よく登極をなすことである。〔=助け〕は、その戦略上役立つという意味である。 政略婚によって倉山田臣を味方につけ、同時に蘇我氏の内部分裂を促す戦略を描いたのである。
『姓氏家系大辞典』掲載の蘇我氏系図(部分)
《蘇我倉山田麻呂》
 蘇我倉山田麻呂については、〈孝徳紀〉即位の段に「(以)蘇我倉山田石川麻呂臣右大臣」とあり、また「蘇我山田石川麻呂大臣」の表記も用いられている。
 その父については〈舒明〉即位前紀に「蘇我倉麻呂臣【更名雄當】」(即位前(三)とある。 この倉麻呂(倉麿)が倉山田麻呂の父、さらに倉麻呂は馬子の子といわれ、〈姓氏家系大辞典〉もそのような系図を載せる(右図)。
 しかし、書紀にはその記述はない。『公卿補任』には、「孝徳天皇御世/右大臣/蘇我山田石河麿。…馬子大臣之孫。雄正子臣之子也。」とあるので、これが出典と見られる。 『公卿補任』の811年以前の部分は、927年には存在したと見られる(〈舒明〉即位前(ニ)《蘇我蝦夷》参照)。 雄正雄当(をまさ)の別表記で、「」は愛称の接尾辞であろう。
 「」がつくのは、宮廷の大蔵を管理する職についていたためと想像される。
《身狭臣》
 〈孝徳〉大化四年に「蘇我臣日向【日向〔あざな〕身刺】…曰「僕之異母兄麻呂」」とあるので、 身狭臣倉山田麻呂の異母弟の日向である。
《少女》
 ここの「少女」は長女の対で、を指す。 オトヒメオトムスメのどちらに訓んでもよいが、長女をエムスメと訓む場合は、オトムスメとなる。 妃として納める文中では「蘇我倉山田麻呂ムスメ」であるから、ここではエムスメオトムスメが適当か。
 〈天智〉七年に「四嬪。有蘇我山田石川麻呂大臣女遠智娘【或本云美濃津子娘】生一男二女…其二曰鸕野皇女」 とあるので、「少女」の名前は遠智をちのいらつめ、別名美濃津子みのつこのいらつめで、持統天皇の母である。 「次有遠智娘弟姪娘」とあるから、その妹も天智天皇の嬪である。
《族謂身狭臣也》
 長女は別に誘拐されたわけではなく、「」とは以前から恋愛関係にあったのだろう。 中大兄、鎌子、そして倉山田麻呂にとっては、「被偸〔盗まれた〕というわけである。
 原注「族謂身狭臣」は、蘇我氏の内部対立を匂わせる。蘇我氏内の反中大兄派が、美男子である身狭臣を使って長女を誘惑させることに成功したのかもしれない。
《奉以赤心更無所忌》
 「赤心更無」、 すなわち「妹は決して無理したわけではなく純粋な気持ちで行ったのだから、心配することはない」と言って読者を安心させる。
《佐伯連子麻呂》
 佐伯連子麻呂については、〈天智紀〉五年に「皇太子〔=天智天皇;称制〕親往於佐伯子麻呂連家、問其所一レ」とある。
 佐伯連については、〈仁賢〉三年《佐伯宿祢など》の項で、 佐伯宿祢が大伴大連の下で宮門警備の任にあたった話を見た。〈姓氏家系〉は、この佐伯宿祢の話を佐伯連に関わるものとする。
 それは、系図では大伴室屋の子が大伴談、その二人の子が大伴金村と佐伯連歌で、これにより大伴氏が大伴連佐伯連に分かれたからである。
《葛城稚犬養連網田》
 〈姓氏家系大辞典〉は「葛木稚犬連〔ママ;「養」欠〕」は「若犬甘連」と同じで、 「若犬甘連:尾張氏の族にして、若犬甘部の伴造家也。天孫本記に「火明命六世孫建多乎利命は笛連、若犬甘連等の祖」」とあると述べる (資料[38]参照)。
《大意》
 こうして心を中大兄(なかのおおえ)に寄せていましたが、 依然として疎遠で、いまだ心の内を表に開くことができませんでした。
 たまたま中大兄は、 法興寺(ほうこうじ)〔=飛鳥寺〕の槻(つき)の木のところで、 打毱〔=蹴鞠〕をされ、そのおともに与りました。
 よって侍るうちに、皮の沓(くつ)が毱(まり)とともに脱げ落ちたので、 手で受け取り、御前に跪(ひざまづ)いて謹んでお渡ししました。 すると、中大兄は向かい合って跪かれ、敬意をもってお受け取りになりました。
 このことがあってから互いに好意を持ち、つぶさに思いを述べ、 そのうちに隠しごともなくなりました。
 後には、他人がしばしば接する様を見て嫌うことを恐れ、ともにに手に巻物を握り、 自ら周孔の教え〔=儒教〕を南淵(みなふち)先生の所て学び、 遂に路上を往復する間に、 肩を並べ、密かに謀するようになりました。互いに協力しないことはありませんでした。
 そのうちに、中臣鎌子連はこのように提案しました。
――「大事を謀るには、少しでも助けになることがある方がよろしいでしょう。 願わくば、蘇我倉山田麻呂の長女を納めて妃として、 婚姻の誼を結びなさいませ。 その後にありのままを説いて、計画に与かることを望んでいると示しなさいませ。 成功の路には、こうすれば近づけないことなどありましょうや。」
 中大兄はこれをお聞きになり、大層悦ばれ、 子細に提案に従われました。
 中臣鎌子連はただちに、自ら出向いて要になることを媒(なかだち)して終わりました。
 ところが、長女は契りの夜に、一族の者に盗まれました 【一族の者は、身狭臣(むさしのおみ)という】。 これにより、倉山田臣は憂え恐れて、 天を仰ぎ地に伏せて、なすすべを知りません。
 長女の妹は、父の憂色を怪しみ、 そばに寄って、「何を憂え悔いておられるのですか。」と質問したところ、 父は事情を説明しました。妹は、 「お願いですから、憂えることをおやめください。私をたてまつれば、 まだ、遅くはありませんわ。」と言いました。
 父はこれに大いに悦び、遂にその娘をたてまつりました。 娘が仕えるにあたっては、赤心〔=清らかな心〕をもち、何も心配することはありませんでした。
 中臣鎌子連は、 佐伯連(さへきのむらじ)子麻呂(こまろ)、 葛城稚犬養連(かつらきのわかいぬかいのむらじ)網田(あみた)を 中大兄に差し向け、 しかじかと申し上げました。


まとめ
 特筆されるのは、「中臣鎌子連」と「中大兄」の表記が安定していることで、一人の著者によって内容を吟味して丁寧に書かれたと思われる。 元は藤原氏の家伝の類であろうと推定したが、だとしてもきちんと文章の形を整えたのは書紀の段階であろう。 史実性はともかくとして、内容豊かでなかなか読ませるから、古事記のスタッフの手によったかも知れない。
 仮に全くのフィクションであったとしても、ポイントは的確に押さえられている。 そのポイントとは、藤原氏が祭祀家であった中臣氏から離れて国政への野心を露わにしたこと、 娘を皇子の妃に送ることによって影響力をもつという当時の権力構造、 曽我氏の内部対立の存在、鎌子が軽皇子や中大兄を登極させるための明確なビジョンを早い段階でもっていたことなどである。
 こうしてみると、三年正月条の著者はことによると太安万侶その人なのかもしれない。 そう考えると、鎌子のために寝室をきめ細かく準備する阿倍氏の献身や、 長女の代わりを申し出て父のピンチを救った少女の場面などが、古事記の香りが漂うように思えて来る。



[24-8]  皇極天皇4