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2022.12.17(sat) [24-4] 皇極天皇4 

目次 【元年十二月】
《發息長足日廣額天皇喪》
十二月壬午朔、
天暖如春氣。
甲申。
雷五鳴於晝、二鳴於夜。
春気…〈岩崎本〔以下岩〕[ノ]シルシ
雷五鳴…〈岩〉イツタヒ[切]-鳴於ヒルフタゝヒ[切]-鳴[ル]於夜[句]
十二月(しはす)壬午(みづのえうま)の朔(つきたち)。
天(あめ)暖(あたた)けし、春の気(け)の如し。
甲申(きのとさる)〔三日〕
雷(いかづち)[於]昼(ひる)に五(いつ)たび鳴りて、夜(よる)に二(ふた)たび[於]鳴る。
甲午。
初發息長足日廣額天皇喪。
是日。
小德巨勢臣德太代大派皇子而誄。
次小德粟田臣細目代輕皇子而誄。
次小德大伴連馬飼代大臣而誄。
初発…〈岩〉[テ]舒明足日廣額天皇[ノ][ヲ]
徳太…〈岩〉小德巨勢[ノ]トコ/トクタイ[切] カハリカハリマタノマタ敏達ノ子[ニ][テ]     上ルシノヒコトマウシノヒコトマウ[ス]。 〈北野本〔以下北〕德太トコタシノヒコトタテマツル
小徳冠位十二階第二位。
大派皇子…父:舒明天皇、母:老女子夫人〔更名薬君娘〕(敏達四年)。
細目…〈岩〉[切]軽皇子孝徳天皇[ニ]。 〈北〉アハ ノ/細 ホソ
軽皇子…孝徳天皇(〈皇極〉即位前)
馬飼…〈北〉カヒ
甲午〔十三日〕
初(はじめて)息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)〔舒明〕の喪(みも)を発(おこ)しまつる。
是の日。
小徳(せうとく)巨勢臣(こせのおみ)徳太(とくた)、大派皇子(おほまたのみこ)に代(かは)りて[而]誄(しのひこと)たてまつる。
次に小徳粟田臣(あはたのおみ)細目(ほそめ)、軽皇子(かるのみこ)に代りて[而]誄(しのひこと)たてまつる。
次に小徳大伴連(おほとものむらじ)馬飼(まかひ)、大臣(おほまへつきみ)〔蘇我蝦夷〕に代りて[而]誄(しのひこと)たてまつる。
乙未。
息長山田公奉誄日嗣。
山田公…〈岩〉ヲキ長山田[ノ][切]タテマツルマツ-シノヒコトシノヒ-[ヲ][句]。 〈北〉オキ-長山-田公奉ツキ。 〈内閣文庫本〔以下閣〕奉誄ツキヲ
乙未〔十四日〕
息長(おきなが)の山田(やまだ)の公(きみ)、日嗣(ひつぎ)に奉誄(しのひことたてまつる)。
辛丑。
雷三鳴於東北角。
庚寅。
雷二鳴於東而風雨。
東北角…〈岩〉-ウシトラノ ウシトラ[ノ]
辛丑(かのとうし)〔二十日〕
雷(いかづち)[於]東北(うしとら)の角(すみ)に三(みたび)鳴る。
庚寅(かのえとら)〔九日〕
雷(いかづち)[於]東(ひむがし)に二(ふたたび)鳴りて[而]風ふき雨ふる。
壬寅。
葬息長足日廣額天皇于滑谷岡。
是日、天皇遷移於小墾田宮
【或本云。
遷於東宮南庭之權宮】
滑谷岡…〈岩〉 マツル マツル息長足日廣額[ノ]天皇[ヲ]滑谷ナメハサマノナメハサマ[ノ][ニ][句]
はさま…[名] 谷。
遷移…〈岩〉- タ於小[ノ][ニ]
権宮…〈岩〉常-或本ヒツキ[ノ]南-庭  オホニハカリ-宮[ニ]。 〈北〉うつりたまふ東宮 アツマノミヤノ南-オホハノカリ
壬寅〔二十一日〕
息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)を[于]滑谷(なめはさま)の岡(をか)に葬(はぶ)りまつる。
是の日、天皇(すめらみこと)[於]小墾田宮(をはりたのみや)に遷移(うつ)ります
【或本(あるふみ)に云ふ。
[於]東宮(ひつぎのみこのみや)の南庭(おほには)之(の)権宮(かりみや)に遷(うつ)ります】。
甲辰。
雷一鳴於夜。其聲若裂。
辛亥。
天暖如春氣。
若裂…〈岩〉サクルサクル[カ][句]
甲辰(きのとたつ)〔二十三日〕
雷(いかづち)一(ひとつ)[於]夜(よる)に鳴る。其の声(こゑ)裂(さくる)が若(ごと)し。
辛亥〔三十日〕
天(あめ)暖けく春の気(け)の如し。
《巨勢臣徳太》
 巨勢臣巨勢雄柄宿祢とを祖とする。記では許勢小柄〔=巨勢雄柄〕宿祢は建内宿祢〔=武内宿祢〕の子。本貫は高市郡巨勢と見られる (第108回)。
 二年十一月に蘇我入鹿が、徳太を山代大兄王攻撃に派遣した。 また四年には中大兄が巨勢徳陀臣を送り、入鹿を殺されていきり立つ漢直の説得に当たらせる。
《粟田臣細目》
 粟田臣は、天押帯日子命〔孝昭天皇皇子〕を祖とする、春日氏の一派。本貫は山背国愛宕郡粟田 (第105回)。
 細目は、〈推古〉十九年の薬猟で一行の前部領〔列の先頭〕を務めた。
《大伴連馬飼》
 大伴連の始祖日臣は「大伴氏之遠祖日臣命」と書かれ、〈神武〉を助けた(〈神武〉即位前/戊午年六月)。
 大伴大連金村は権勢を誇ったが、〈欽明〉元年九月に失脚した。
 しかし、大伴連は平安期にも存続し、淳和天皇〔在位:823~833〕の諱が大伴だったことから、避諱によって「トモ」氏と改称したことが、古訓にも影響を与えている (用明二年七月(一))。
 大伴連馬飼の名前は、三年六月にも見える。
《息長山田公》
 記では、息長君は富富杼王〔応神天皇の孫〕を祖とする(第159回)。
 息長君〔=息長公〕は、同じく富富杼王を祖とする坂田君酒人君とともに近江国坂田郡を本貫とすると見られる (〈継体〉元年二月《三国君・息長君・坂田君・布勢君他》)。 〈天武〉十三年に「…息長公…十三氏賜姓曰真人。」とあり、真人姓を賜る。 山田は個人名だが、息長公に属する個人名は、ここ以外には見えない。
《奉誄日嗣》
 「奉誄日嗣」は、甲午の三名の誄とは書き方が異なる。息長山田公は誰の代理でもないから、個人の気持ちで誄を奉ったようだ。 「日嗣」は「天皇」と同義で、恐らく誄の中にあった言葉であろう。
 朱訓は「日嗣をしのびまつる」と訓んで山田の心情を表現している。 後の時代と見られる黒訓は、"タテマツル"、"シノヒヿ"2字分の仮名「コト」〕と訓んで標準化している。ただし、"タテ"は、後から書き加えた形跡がある。 しかしシノヒコトタテマツルとすると、「日嗣」のヲコト点[ヲ]と繋がらなってしまう。
 それでもシノフ〔=偲ふ〕では「」の意味が弱まってしまうので、シノヒコトとして「日嗣」の助詞を「」に変えるのがよいと思う。
 なお、は、漢語では副詞で、続く動詞に相手を尊敬する意を加える。したがって 〈岩田本〉の「-」のハイフンは正しく、〈北野本〉の「」は誤りである。
《雷》
 引き続き偏西風の蛇行が大きいか。
 三日、二十日は強い寒波の襲来。九日は強い低気圧の通過が考えられる。
十二月の気象記録
書紀グレゴリオ暦記録気象現象の推定
壬午十二月一日〔642年12月30日〕天暖如春気。西高東低が緩む。
甲申三日〔643年1月1日〕雷五鳴於昼。二鳴於夜。低気圧が通過した後の強い西高東低型。寒冷渦か。
辛丑二十日〔18日〕雷三鳴於東北角。西高東低における寒冷渦か。
庚寅九日〔7日〕雷二鳴於東。而風雨。近畿の北を低気圧が発達しながら通過し、その前面の温暖前線に伴うものか。
甲辰二十三日〔21日〕雷一鳴於夜。其聲若裂。寒冷渦または寒冷前線。
辛亥三十日〔28日〕天暖如春気。西高東低が緩み、移動性高気圧。
《日付の逆転》
 十二月は、辛丑(二十日)と庚寅(九日)が逆転している。誤写かと思ったが、その次が壬寅(二十一日)なので誤写も考えられない。 何らかの手違いによるとしか考えようがない。
《遷移於小墾田宮》
 小墾田宮(小治田宮)については〈推古〉帝の没した後も〈続記〉に記述があり、継続して存在している(第249回)。
 〈舒明天皇〉は八年に田中宮に遷ってから岡本宮には戻っていない。当時皇后だった〈皇極〉が同行したかどうか分からない。 即位後にどこを宮としていたか分からないが、十二月二十一日の時点で小墾田宮に遷ったというから、初めは岡本宮にいて建て替えのために仮住まいしたと考えるのが自然か。
《滑谷岡》
 元年十二月に舒明天皇を「…于滑谷岡」とするが、二年九月にも、再び「…于押坂陵」と、別の陵に葬る記事がある。 普通は「改葬」と書くが、ここでは「」がないので、異説が無造作に並記したのかも知れない。 ただ、「滑谷岡」には""の字がないから、正規の押坂陵ができるまでの仮埋葬ということかも知れない。
 この滑谷岡の陵を、小山田古墳〔奈良県高市郡明日香村川原410〕とする説がある。
 『朝日新聞デジタル/2019年1月31日19時16分』によると、「奈良県明日香村の小山田古墳は、 「2014年に養護学校の建て替え工事に伴って発見され、7世紀中ごろに造られた未知の古墳とされ」、 「橿考研によれば、昨年12月下旬から古墳の西南端付近にあたる約64平方メートルを発掘調査し、墳丘西端と想定される裾部がみつかった。 14年の調査では古墳北辺に石張りの大きな掘割が出土。北辺の長さは約70メートルとされたが、今回、南辺の長さは80メートルを超えることが明らかになった」という。 舒明天皇陵説については、「舒明天皇説を主張する木下正史・東京学芸大学名誉教授(考古学)は「飛鳥の中心部から離れた新たな宮殿の百済宮や国内最古の国家寺院の百済大寺を造営するなど、政治の中心にいた舒明天皇にふさわしい大きさだ」という。
 また『明日香村発掘調査報告会2017』〔講演会資料;明日香村教育委員会〕によれば、小山田古墳は 「墳丘盛土中」の「軒丸瓦片」から、「古墳の築造時期が飛鳥時代前半以降であったことが明らかと」なり、 「横穴式石室羨道基底の抜き取り穴の規模」から「羨道の検出長は8.7m」、 「一辺約70mの方墳とみられ」「小山田古墳は、最後にして最大級の古墳と位置付けることができる」と述べている。
 小山田古墳は、〈用明〉天皇陵とされる春日向山古墳(第246回)〔60m×65m〕を上回り、この時期では完全に天皇陵の規模であるが、 僅か九か月後にこの大陵を棄てて改葬されたことは、なかなか理解できない。
 ただ蘇我氏主導で築いた天皇陵の墳形が方墳であることを考えると、蘇我蝦夷の主導で一度滑谷岡の方墳に〈舒明〉を葬ったが、 それをよしとしない〈皇極〉が強引に八角墳の押坂陵に改葬させたとする想像は可能である。
 …押坂陵は段ノ塚古墳(奈良県桜井市)に比定され、八角形墳であることが明らかになっている 〔『天皇陵』矢澤高太郎;中公選書2012(p.16,p.218)〕。詳細は次回。
《東宮之南庭》
 〈北野本〉は「東宮」をアヅマノミヤと訓む。 アヅマについて、〈時代別上代〉は原義は方位の東で地域名は二次的とする。ただ同書が「東の方」の例として挙げる〈雄略〉段の 「つ枝は天をへり中つ枝は阿豆麻あづまを覆へりディづ枝はひなを覆へり」 のアマ・ヒナ・アヅマ都・鄙・蝦夷を対比的に列挙したもので、「方位の東」ではない。むしろ「東国」がアヅマの原義ではないだろうか。
 「東宮」は基本的に皇太子の宮で、〈岩崎本〉の訓「ヒツキ〔日継〕はそれによっている。 「南庭」は宮殿の南のオホニハのことなので、南庭のある宮殿ならやはり皇太子の東宮であろう。
 ここでは建物の名称なので、この時期に実際に皇太子が定まっていたかどうかは問題にならない。
《大意》
 〔元年〕十二月一日、 天暖かく、春気の如くでした。
 三日、 雷が昼に五度鳴り、夜に二度鳴りました。
 十三日、 初めて息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)〔舒明〕の御喪を発しました。
 是の日、 小徳(しょうとく)巨勢臣(こせのおみ)徳太(とくた)が、大派皇子(おおまたのみこ)に代わり誄を奉じました。
 次に小徳粟田臣(あわたのおみ)細目(ほそめ)が、軽皇子(かるのみこ)に代わり誄を奉じました。
 次に小徳大伴連(おおとものむらじ)馬飼(まかい)が、大臣(おおまへつきみ)〔蘇我蝦夷〕に代わり誄を奉じました。
 十四日、 息長(おきなが)の山田の公(きみ)は、日嗣(ひつぎ)に誄を奉じました。
 二十日、 雷が東北の方角に三度鳴りました。
 〔遡って〕九日、 雷が東の方角に二度鳴り、風雨でした。
 二十一日、 息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)を滑谷(なめはざま)の岡に埋葬しました。
 同じ日、天皇(すめらみこと)は小墾田宮(おはりたのみや)に遷られました 【或る本のいうには、 東宮の南庭の権宮〔一時的な宮〕)に遷られた】。
 二十三日、 雷が一度夜に鳴りました。その雷鳴は裂けるようでした。
 三十日、 天暖かく、春気の如くでした。


目次 【元年是歳】
《上宮大娘姬王發憤而歎曰蘇我臣專擅國政多行無禮》
是歲。
蘇我大臣蝦夷、
立己祖廟於葛城高宮而、
爲八佾之儛。
遂作歌曰。
葛城高宮…〈岩〉[カ]ヲヤ[ノ]マツリヤマツリヤ[ヲ]於葛城[ノ] タカノ[テ][ス]-ヤツラツラ之儛[ヲ][句][ニ][ヲ][テ][切]
…[名] (古訓) やしろ。
八佾…周代の天子の舞楽。一佾(8人)×8列の64人で舞う。
つら…[助数詞] 連なったもの。
是の歳。
蘇我の大臣蝦夷(えみし)、
己(おのが)祖(おや)の廟(みたまのやしろ)を[於]葛城(かつらき)の高宮(たかみや)に立たして[而]、
八佾之儛(やつらのまひ)を為(す)。
遂(つひ)に歌を作(よ)みて曰はく。
野麻騰能
飫斯能毗稜栖鳴
倭柁羅務騰
阿庸比陀豆矩梨
舉始豆矩羅符母
野麻騰能…〈岩〉 [句] 忍廣瀬[句] [句] [句]手作[句] 腰作[句]
あよひ…[名] あゆひ。袴の上から膝の下を結んだ紐。
…[接尾]ハ四 四段動詞の未然形につく動詞語尾。動作の継続・反復を表す。
ひろせ…[名] 〈時代別上代〉川の広い渡り瀬。
野麻騰能(やまとの)
飫斯能毗稜栖鳴(おしのひろせを)
倭柁羅務騰(わたらむと)
阿庸比陀豆矩梨(あよひたつくり)
挙始豆矩羅符母(こしつくらふも)
又盡發舉國之民、
幷百八十部曲、
預造雙墓於今來。
一曰大陵、爲大臣墓。
一曰小陵、爲入鹿臣墓。
望死之後、勿使勞人。
更悉聚上宮乳部之民
【乳部、此云美父】、
役使塋垗所。
部曲…〈岩〉[ニ]ヲコシテ コソ コソアメノシタノオホムタカラ[切][テ]百八十-カキノタミカキノタミ[ヲ][テ] コトゴトコゾリテ国のオホムタカラアハセテ百八十モモアマリヤソ部曲カキノタミオコシテ〕。 〈北野本〔以下北〕百-八-十-部曲モゝアマリヤソノヘ カキタミ
かき/かきべ(部曲)…[名] 部の一種で豪族の私有民を指す。カキ〔区画〕に封じ込められた民の意。
双墓…〈岩〉フタツノフタツ[ノ][ヲ]於今-[ニ][句][ヲ][ハ]ミサゝキミサゝキ[ト][句]大臣[ノ]ハカハカ[ト][句] 一曰ミサゝキミサゝキ[ト][句]
コ-…[接頭] 名詞に冠して小の意をそえる。〈時代別上代〉「ほぼ同義の接頭語にヲがある。
勿使…〈岩〉ネカハク[ハ]死之後[ニ][切]マナマナ/ナカレ使[コト]イタ[ヲ][句] 〔人ヲイタハラシムコトマナ/ナカレ〕
乳部…〈岩〉ニウ[ヲ][ハ]云美
悉聚…〈北〉マタ悉聚カムツ乳-部ミフ之民
役使…こきつかう。使役。
塋垗所-使ツカフツカフ--ハカトコロハカトコロ[ニ][句]。 〈北〉 ハカ-兆-所或本
又、[発]尽(ことごと)に挙(こぞ)りて国之(の)民(みたみ)に、
并(あは)せて百八十(ももあまりやそ)の部曲(かきのたみ)をもとめて、
預(あらかじめ)双(ふたつ)の墓を[於]今来(いまき)に造りて、
一つをば大陵(おほみささき)と曰ひて、大臣(おほまへつきみ)の墓に為(し)て、
一つをば小陵(こみささき)と曰ひて、入鹿(いるか)の臣(まへつきみ)の墓に為て、
望(ねがはくは)死之(みまかりし)後(のち)に、人をして勿(な)労(いたは)ら使(し)めそとねがひつ。
更(また)悉(ことごと)に上宮(かみつみや)の乳部(みぶ)之(の)民(たみ)を聚(あつ)めて
【乳部、此を美父(みぶ)と云ふ】、
塋垗所(はかどころ)に役使(つか)ふ。
於是、上宮大娘姫王、
發憤而歎曰、
「蘇我臣、專擅國政、
多行無禮。
天無二日、國無二王。
何由任意悉役封民。
自茲結恨、遂取倶亡。」
発憤…〈岩〉上宮[ノ]-イラツメ- イラツメ [ノ]ミレミレ/ミコ[切]-ムツカムムツカム。 〈北〉カムツ ノイラツ ミコ發-憤/ムツカテ
発憤…かっとする。
むつかる…[自]ラ四 いきどおる。
専擅国政…〈岩〉蘇我[ノ][切]タクサタクメタクメホシマゝホシマゝ[ノ][ヲ][テ]サハ[ニ]--ヰヤナキワサス ヰヤナキワサ [ス][句]
任意…〈岩〉何由[カ][テ]マゝマゝ[ノ][切][ニ]ツカフ   ハムツカフヨサセルヨサセ[ル][ヲ][句]。 〈北〉何-由ナニゝヨテマゝコゝロノ
取倶亡…〈岩〉[切][ヲ][テ][ニ]--トモニホロホサレヌトモニホロホサレ[ヌ][句]。 〈閣〉サレヌホロホ
…[副] わずかに〔~のみ〕。 〈国際電脳及異体字知識庫〉「副詞。表-示範囲、相-当於「」、「僅」
わづかに…[副] 少し。かろうじて。
於是(ここに)、上宮(かみつみや)の大娘姫王(おほいらつめのみこ)、
発憤(いきどほ)りて[而]歎(なげ)きて曰へらく。
「蘇我の臣(おみ)、専(もはら)国の政(まつりごと)を擅(ほしきまにま)にして、
多(さは)に行無礼(ゐやなきわざをす)。
天(あめ)に二(ふたつ)の日(ひ)無し、国に二(ふたり)の王(きみ)無し。
何(いか)なる由(よし)にありて任意(こころのまにまに)悉(ことごと)封民(よさせるたみ)をや役(つか)ふか。
茲(これ)自(よ)り恨(うらみ)を結びて、遂(つひに)取(わづかに)倶(ともに)亡(ほろ)ぶのみ。」といへり。
是年也、太歳壬寅。 是の年は[也]、太歳(おほとし)壬寅(みづのえとら)なり。
《葛城高宮》
 葛城高宮は〈倭名類聚抄〉に{大和国・葛上郡・高宮【多加美也】郷}。 南郷遺跡群、または高宮廃寺のところと見られる (神功皇后三年《高宮邑》、第167回《葛城高宮》)。 〈推古〉三十二年十月の蝦夷の言葉「葛城縣者元臣之本居也」に符合する。 同段の《蘇我氏》発祥の仮説「葛城氏族の主力が宗我坐宗我都比古神社の地域に移って蘇我氏を名乗」ったことは、ここに至って確定的になったと見てよいだろう。
《八佾之儛》
 『論語注疏』〔北宋;960~1127〕の 「孔子謂季氏、八佾舞於庭、是可忍也、孰不可忍也」への疏〔=解説〕に、 「佾、列也。舞者八人為列、八八六十四人。桓子用此八佾舞於家廟之庭」とある。
 『百度百貨』には「古代只有天子才資格使用的舞踏規格、為八行八列」とある。
 天子のみに許されるスタイルなので、ここでは蘇我蝦夷の尊大さを表現したようである。
《歌意》
第一歌 倭の おしの広瀬を 渡らむと 足結あよひ作り 腰作らふも
〔 倭の忍の広瀬を渡ろうとして、足結を手作りして足元を絞り上げ、それぞれに腰を整えて集まった。 〕
 〈釈紀-和歌六〉には「凡歌意者。只作祖廟之由也。歩手作腰作者。集人民之義也。〔凡その歌意は、ただ祖廟を作る由なり。歩手作腰作は、人民を集めたる義なり。〕
 〈時代別上代〉は、この歌の広瀬は普通名詞で、「川の広い渡り瀬」と解釈している。 川を渡るために、それぞれ袴の裾をまくり上げて紐で縛る。「腰作らふ」はその腰より下の格好を表すか。
 は、忍海郡〔葛上郡の北〕の元となった地名か。
《今来》
 〈欽明〉七年《今来郡》の項において、今来は飛鳥寺から檜前までの一帯と見た。 さらに、高市郡の旧称が「今来郡」であった可能性を見た。石舞台古墳も含まれル地域で、蘇我氏の勢力圏でもある。
《大陵・小陵》
菖蒲池古墳墳丘復元断面図(p.84)
菖蒲池古墳墳丘石室図(p.79)
菖蒲池古墳 橿原市埋蔵文化財調査報告10
 《滑谷岡》の項で見た小山田古墳は、〈舒明〉滑谷岡陵よりも蘇我蝦夷の「大陵」の可能性の方が高いかも知れない。 前述したように、〈用明〉天皇陵とされる春日向山古墳を上回り、完全に天皇陵の規模ではあるが、 蘇我蝦夷大臣の権勢を見ればあり得るかも知れない。位置も、蘇我氏の勢力圏のど真ん中である。「陵」は、天皇陵並みの大きさを表現する呼び名であろう。
 また〈舒明〉が翌年が改葬されたとすれば、最初の陵はもっと小規模であったようにも思われる。
 小山田古墳を「大陵」とした場合、「小陵」はその西側の菖蒲池古墳だろうと言われる。
 その菖蒲池古墳については、『橿原市埋蔵文化財調査報告第10冊 菖蒲池古墳』〔橿原市教育委員会;2015〕によると、 「一辺30mを志向するほぼ正方形の方墳で、二段構成と考えられる」(p.81)、 「墳丘と石室底面の関係からは7世紀でも前半の古墳といえるが、墳丘と石室の平面的な位置関係からは、新しい要素も見える」 「石室の各部分の構成比は羨道長:玄室長:玄室高≒ 16:9:4.5 で、岩屋山古墳石室と近似する。」(p.85)という。
 なお、『蘇我氏-古代豪族の興亡』〔倉本位置宏中公新書2015〕は、2000年に発見された五条野宮ヶ原1・2号古墳 「こそ、蝦夷と入鹿の墓に相応しいであろう(竹田政敬「五条野古墳群の形成とその被葬者についての憶説」)」と述べる。 一号墳が一辺約30mの方墳、二号墳が一辺約25mの方墳という。
 さて、菖蒲池古墳の石室には二棺が合葬されている。そのうち一棺が入鹿だとすれば、もう一棺はだれであろうか。 実は、二棺は蝦夷と入鹿かも知れない。 大陵が蝦夷、小陵が入鹿のためというは、彼らが滅びた後に広まった噂ではないだろうか。人々はそうやって専横ぶりを拡大して貶めるのである。
 蝦夷大臣が二墓を築いたのは事実だと思われる。しかし、少なくとも大陵は〈舒明〉天皇陵で、それが滑谷岡陵ではないだろうか。 天皇陵だったとすれば、「尽発挙国之民并百八十部曲」が非難される謂れはない。
 ここに「望死之後勿使労人」と書かれていることも注目される。 これはもともと蝦夷大臣の言葉ではなく、天皇が寿陵造営を命じた勅にしばしば使われた定型句で、それをここに使ったのではないだろうか。
 それでも小陵の方は蘇我氏自らのための寿墓で、それによって大陵も蘇我蝦夷のためだったと言われたのかも知れない。
 《滑谷岡》の項で見たように、 押坂陵に改葬したのは、〈皇極〉が蘇我蝦夷・入鹿の手によってなされたことを否定するとともに、これを機会に天皇陵の墳形を八角墳として大臣以下との差別化を図ったと考えることができる。
《上宮大娘姫王》
 上宮大娘姫王は、通説では舂米女王(つきしねの[ひめ]みこ)とされる。 舂米女王は異母兄の山代大兄王の妃になり、母は菩岐々美郎女(ほききみのいらつめ)である (〈推古〉十一年)。
 この時点で上宮家の首領は山代大兄王であるから、その妃舂米女王は女王最上位の「大郎女」かも知れない。
 ただ、もともと名前に「郎女いらつめ」がついていたのは聖徳の妃、菩岐々美郎女負古郎女だけである。 とりわけ負古郎女は山代大兄王の母だから、太子が薨じた後に大郎女と呼ばれるのは自然である〔キサキ⇒オホキサキからの類推〕。 太子は推古二十九年〔621〕に薨じたが、皇極元年〔642〕に負古郎女が存命していたことがないとは言えない。
 それでは、「上宮大娘姫王=舂米女王」説はいつ生まれたのであろうか。
 『扶桑略記』〔平安末〕、『伝暦』〔平安中期〕は書紀と共通する記述を含む。 そのうち『扶桑略記』には、十二月の蘇我氏の活動は全く載らない。 『伝暦』は「己祖廟」以下大体書紀と同じことを書くが、「…小陵為入鹿墓」で終わり、「上宮大娘姫王発憤…遂取倶亡」の部分はない。
 〈釈紀〉を見ると「述義」に上宮大娘姫王についての解説は載らず、「秘訓」にも訓はない。少なくともここまでは舂米女王説は見当たらない。
 明治まで下ると『日本書紀通釈』〔飯田武郷;1899〕には、「大娘姫王。聖徳太子の御女なり。法王定説に〔よる〕に。舂米女王。」とある。 同書は江戸時代の注釈書をまとめたものとされる。
 この経過を見ると、長らく上宮大娘姫王のくだりは気に留められず、それが誰かという詮索を始めたのは恐らく江戸時代の国学者であろう。 そもそも、信憑性なしと見られていたのかも知れない。 書紀が当時の俗説をエピソード的に添えただけなら、上宮大娘姫王の人物を特定することにそれほどの意味はない。
《自茲結恨遂取倶亡》
 「望死之後勿使労人」は蘇我氏の行為にそれなりの道徳性があったことを示すが、その直後に蘇我親子を非難するのは唐突である。 「更悉聚上宮乳部之民~遂取倶亡」の部分は、蘇我親子が最後は処断されたという結果から遡って、 その根拠を強調するための材料として挿入されたものであろう。これを入れるのなら、「望死之後勿使労人」は削除した方がよい。
《取倶亡》
 「取倶亡」のを、古訓は受け身の助動詞〔被、見の類〕と扱うが、適切ではない。能動者も書かれていない。 これは副詞〔限定の意〕と見るべきである。 「」の副詞用法は、「一部を切り取る」意から派生したと見られる。
《大意》
 〔元年〕この年、 蘇我の大臣蝦夷(えみし)は、 おのれの祖の霊廟を葛城(かつらき)の高宮(たかみや)に立て、 八佾(はちいつ)の舞をまい、 遂に歌を詠みました。
――倭(やまと)の  忍(おし)の広瀬を  渡らむと  足結(あよひ)手(た)作り  腰作らふも
 また、悉く挙げて国の民と、 併せて数多くの部曲(かきべ)を徴発して、 予め双墓を今来(いまき)に造り、 一つは大陵(おおみささぎ)といって、大臣(おおまへつきみ)〔蝦夷〕の墓とし、 一つは小陵(こみささぎ)といって、入鹿(いるか)の臣(まえつきみ)の墓として、 願わくば薨じた後に、人に労力を使うことのないようにしました。
 また、悉く上宮(かみつみや)の乳部(みぶ)の民を集めて、 塋垗所(えいちょうじょ)〔墓所〕に使役しました。
 そして、上宮(かみつみや)の大娘姫王(おおいらつめのみこ)は、 発憤し、嘆いていいました。
――「蘇我の臣(おみ)、専ら国の政(まつりごと)を擅(ほしいまま)にして、多くの無礼をはたらく。 天に二つの太陽はなく、国に二人の王はいない。 何なる由があって勝手に悉く封民を使うか。 これによって恨みを結び、遂にはただ共に亡ぶのみである。」
 この年は、太歳壬寅(みづのえとら)でした。


10目次 【二年正月~六月】
《移幸飛鳥板蓋新宮》
二年春正月壬子朔旦。
五色大雲、滿覆於天。
而闕於寅一色靑、
霧周起於地。
辛酉。
大風。
満覆…〈岩〉[ノ][ノ]ナル[ナル]滿-イハミオホヘリ イハミ  オ 於天モラセリ[リ]トラノトコロトラノトコロ[句]
いはむ…[自]マ四 みちる。〈神武即位前期〉己未年の原注参照。
周起…〈岩〉ヨモニヨモ[ニ]於地
大風…〈岩〉-〔オホカゼフク〕。 〈倭名類聚抄〉「大風:【於保加世】」。
二年(ふたとせ)春正月(むつき)壬子(みづのえね)の朔(つきたち)の旦(あさ)。
五(いつくさ)の色(いろ)の大(おほ)きなる雲、[於]天(あめ)に満(み)ち覆(おほ)ふ。
而(しかれども)[於]寅(とらのかた)に闕(か)けて一色(ひとつのいろ)に青(あを)くなりて、
霧(きり)周(めぐ)りて[於]地(つち)に起(た)てり。
辛酉(かのととり)〔十日〕
大風(おほかぜ)ふく。
二月辛巳朔庚子。
桃花始見。
乙巳。
雹傷草木花葉。
是月。
風雷雨氷。
行冬令。
始見…〈岩〉[テ][句]
雹傷…〈岩〉アラレフリ[テ]カラセリカラ[セリ]草木[ノ]-[ヲ][句]
…〈倭名類聚抄〉「:雹雨氷也。補角反。【和名安良礼】〔半切ハク;和名あられ〕
…〈倭名類聚抄〉「:霰雨氷雪雑下也。七見反。【和名美曽礼】〔半切セン;和名みそれ〕
雨氷…〈岩〉雨氷ミソレフル ミソレ 
…「:霙雨雪相雑也。音於驚反。【和名三曽礼】〔半切ヤウ;和名みそれ〕
冬令…〈岩〉 フ[ハ][ナリ][ノ]マツリコトマツリコト[ヲ][句]
二月(きさらき)辛巳(かのとみ)を朔(つきたち)として庚子(かのえね)〔二十日〕
桃の花始めて見ゆ。
乙巳(きのとみ)〔二十五日〕
雹(あられ)ふりて、草木(くさき)の花葉(はなは)を傷(そこ)なふ。
是の月。
風ふき雷(いかづち)なりて雨氷(みぞれ)ふる。
冬の令(おほせごと)を行ふ。
國内巫覡等、折取枝葉、
懸掛木綿、
伺候大臣渡橋之時、
爭陳神語入微之説。
其巫甚多、不可悉聽。
巫覡…〈岩〉[ノ][ノ]巫覡カムナキカムナキ[切]-- エハ  シハ [ヲ][テ]-シテカケ シテカケ/トリシテゝ-綿[ヲ][テ]。 〈北〉-掛   ケテシテカケテ木-綿 ユフ。 〈閣〉枝葉 エハヲ エハノ ヲ
枝葉…〈時代別上代〉見出し語にエダハあり、エハなし。
しづ…[他]ダ下に 垂らす。〈時代別上代〉「垂ルとシヅとは意味が近いが、シヅはほとんど神を祭る場において、 木綿ユフ和幣ニキテを下げる場合に用いられる」。
かむなき/かみなき…[名] 神を祀り、神楽を奏し、神をおろす。
ゆふ…[名] コウゾなどの繊維を蒸し、水にさらして、細かく裂いて糸状にしたもの。幣帛にもちいる。
伺候…〈岩〉-大臣[ノ]橋之時[ヲ] イソヒ[テ]マウスコト[ノ]-タヘナルタヘ[ナル]コトハコトハ[ヲ][句]
いそふ…[自]ハ四 先を争う。
甚多…〈岩〉-ニヘサニニヘサニ
にへさ…たくさんあるさま。
国内(くぬち)の巫覡(かむなき)等(たち)、枝葉(えだは)を折り取りて、
木綿(ゆふ)を懸掛(しでか)けて、
大臣(おほまへつきみ)の橋を渡之(わたりし)時を伺候(うかか)ひて、
争(いそ)ひて神語(かむがたり)の入微之(かくれたる)説(ことば)を陳(まを)す。
其の巫(かむなき)甚多(にへさ)ありて、悉(ことごと)に聴く不可(べくもあらじ)。
三月辛亥朔癸亥。
災難波百濟客館堂與民家室。
乙亥。
霜傷草木花葉。
是月。
風雷雨氷。
行冬令。
館堂…〈岩〉ヒツケリヒツケ[リ]難波[ノ]百濟[ノ][ノ]-ムロツミムロツミ[ニ]ヲホ[ノ]-イヱ[句]
…[名] (古訓) わさわい。
霜傷…〈岩〉フリ フリ[テ]レリカラセリ[セリ]
三月(やよひ)辛亥(かのとゐ)を朔(つきたち)として癸亥(みづのとゐ)〔十三日〕
難波(なには)の百済(くたら)の客館堂(まらひとのたち、むろつみ)与(と)民(たみ)の家室(いへ)とに災(もゆるわざはひ)あり。
乙亥(きのとゐ)〔二十五日〕
霜ふりて草木(くさき)の花葉(はなは)を傷(そこな)ふ。
是の月。
風ふき雷(いかづち)なりて雨氷(みぞれ)ふる。
冬の令(おほせこと)を行ふ。
夏四月庚辰朔丙戌。
大風而雨。
丁亥。
風起天寒。
己亥。
西風而雹。
天寒、人著綿袍三領。
大風…〈岩〉[ニ][テ]而雨[ル]
西風…〈岩〉西[ノ]フイ[テ]
綿袍…〈岩〉[ル]綿-ワタキヌ- ミツ [ヲ][句]
夏四月(うづき)庚辰(かのえたつ)を朔(つきたち)として丙戌(ひのえいぬ)〔七日〕
大風(おほかぜ)ふきて[而]雨ふる。
丁亥(ひのとゐ)〔八日〕
風起(た)ちて天(あめ)寒し。
己亥(つちのとゐ)〔二十日〕
西風(にし)ふきて[而]雹(あられ)ふる。
天(あめ)寒し、人(ひと)綿袍(わたきぬ)三領(みつ)を著(き)る。
庚子。
筑紫大宰、馳驛奏曰、
百濟國主兒翹岐弟王子、
共調使來。
丁未。
自權宮移幸飛鳥板蓋新宮。
甲辰。
近江國言
「雹下、其大徑一寸。」
大宰…〈岩〉筑紫[ノ]-ミコトモノツカサ/オホミコトモチノツカサ[切]-ハイマシハイマシ[テ]
調使…〈岩〉百濟[ノ]コキシノコキシ兒翹岐弟-子セシム[切][ニ]調[ノ]使[切]ウケリ[リ]
板蓋新宮…〈岩〉[テ]飛鳥[ノ][ノ]ニヒニヒ[ニ][句]。 〈北〉飛鳥■スカノ板-蓋イタフキノニヒ
いたふき…[名] 板で葺いた屋根。
雹下…〈岩〉レリアラレフリ[リ]大サ[ノ]ワタリ一-寸ヒト キ
庚子(かのえね)〔二十一日〕
筑紫(つくし)の大宰(おほみこともちのつかさ)、馳駅(はゆまつかひ)をまだして奏(まを)して曰(まをさく)、
「百済(くたら)の国の主(ぬし、こにきし)の児(こ)翹岐(せうき)、弟王子(ていわうし、おとせしむ)、
共に調使(みつきのつかひ)をまだして来(まゐきたり)。」とまをす。
丁未(ひのとひつじ)〔二十八日〕
権宮(かりみや)自(よ)り移りたまひて、飛鳥の板蓋(いたふき)の新宮(にひみや)に幸(ましま)す。
甲辰(きのとたつ)〔二十五日〕
近江国(ちかつあふみのくに)言(まをさく)
「雹(あられ)下(ふ)る、其の大(おほ)きなること径(わたり)一寸(ひとき)なり。」とまをす。
五月庚戌朔乙丑。
月有蝕之。
蝕之…〈岩〉乙丑十六日[切]月有ハヱタル[コト][タリ][句]
五月(さつき)庚戌(かのえいぬ)を朔(つきたち)として乙丑(きのとうし)〔十六日〕
月[之]蝕(はえ)て有り。
六月己卯朔辛卯。
筑紫大宰、馳譯奏曰、
高麗遣使來朝。群卿聞而、
相謂之曰、
高麗、自己亥年不朝、
而今年朝也。
辛丑。
百濟進調船、泊于難波津。
遣使来朝…〈岩〉高麗[ノ]マタシマタ使[ヲ][テ]-マウコサシム   [句]群卿[切]聞而相カタリカタリ[テ]
不朝…〈岩〉己亥舒明之末年[切]ツカマツツカマツ[句][ヲ]今年[リ][句]
進調船…〈岩〉百濟[ノ]調舩[切]トマレリ[リ]于難波[ノ][ニ][句]
…[動] (古訓) たてまつる。
六月(みなつき)己卯(つちのとう)を朔(つきたち)として辛卯(かのとう)〔十三日〕
筑紫(つくし)の大宰(おほみこともちのつかさ)、馳駅(はゆまつかひ)をまだして奏(まを)して曰(まをさく)、
「高麗(こま)の遣使(つかひ)来朝(まゐく)。」とまをす。
群卿(まへつきみたち)聞きて[而]、
相(あひ)[之]謂(かたら)ひて曰(いへらく)、
「高麗(こま)、己亥年〔舒明十一年〕自(よ)り不朝(まゐこず)。
而(しかれども)今年(ことし)朝(まゐきたり)[也]。」といへり。
辛丑(かのとうし)〔二十三日〕
百済の調(みつき)を進(たてまつる)船、[于]難波津(なにはつ)に泊(は)つ。
《五色大雲》
 元旦を祝うかの如き、色彩豊かな空の様子が描かれている。
 イロについては、〈時代別上代〉は助数詞に認定しているが、示された用例はこの「五色」のみである。 万葉にイロは大量にあるが、助数詞として用いた例はない。〈岩崎本〉は「[ノ][ノ]」なので、 古訓もイツツノイロである。 ここでは、ひとまず色を二重に訓んで「いつくさのいろ」と訓むことにする。
 「」は、子〔真北〕から東に60°の方位。三十二方位の「北東微北」(56.25°)でもまだ誤差がある。
 「青霧」は漢籍になく、「アヲギリ」も倭語にないので、は切り離すべきと思われる。
 「而闕於寅一色青霧周起於地」をひとまとめにして、空を覆った雲のうち寅の方位の一端が欠けてそこから青空が広がり、 さらに全方位にわたって霧が地面からったと読むべきであろう。
《桃花始見》
一~三月の気象記録
書紀グレゴリオ暦記録気象現象の推定
辛酉一月十日〔2月7日〕大風。急速に発達する低気圧、またはその後の強い冬型による季節風。
庚子二月二十日〔3月18日〕桃花始見。モモの開花期は4月上旬とされるから、幾分早い(〈推古〉三十四年)。
乙巳二十五日〔3月23日〕雹傷草木花葉。急速に発達する低気圧に伴う積乱雲。発雷も。
二月〔2月27日~3月28日〕風雷雨氷。偏西風の蛇行が大きい。
乙亥三月二十五日〔4月22日〕霜傷草木花葉。移動性高気圧による遅霜(〈推古〉三十四年)。
《雹》
 現在の気象庁の基準では、直径5mm以上を(ひょう)、直径2~5mmを(あられ)とする。
 古語のアラレは、両者を含む。
 〈時代的上代〉の「あられは冬、水蒸気が凝結して落下するもの。ひょうは夏、水蒸気が氷結して落下するもの」との説明は、不正確。 実際には、落下してきた水滴または氷の粒が積乱雲中の強い上昇気流によって吹き上げられることを繰り返すうちに、大きな粒に成長したもの。 雪の結晶が融合したものなど様々なタイプがあるが、現在では粒の大きさによってひょうとあられに区別される。
《傷草木花葉》
 「傷草木花葉是月風雷雨氷行冬令」が、一月と三月の二箇所にある。 一月は、三月はを原因とする違いはあるが、誤って重複したようにも見える。
《冬令》
 冬令の前後の文章を流れで見ると、一月には冬に戻ったかのような天候不順があったから、「冬令」を行い、 その中身は、巫(かんなぎ)が祭を行い神の言葉を聞くことだと読める。
 だとすれば、三月もまた天候不順だったので再び冬令を行ったということになる。よって、前項で挙げた疑問については必ずしも誤りとは言えない。
 古訓マツリコトも「祀りの事」の意味ならあながち否定できない。ただし、マツリゴトは基本的にである。 オホセコトは主に天皇の勅の意であるが、神の命令もあり得るので、訓としても差し支えないと思われる。「」は、祭りというよりは命令である。
《災》
 ワザハヒを意味するが、古訓においてはすべてヒツケリ〔=放火〕と訓む。
《四月/大風而雨など》
四月の気象記録
書紀グレゴリオ暦記録気象現象の推定
丁亥四月七日〔5月3日〕大風而雨。日本海低気圧が発達しながら通過して、南の風雨が強い。
丁亥八日〔4日〕風起天寒。低気圧通過後の西高東低型。
己亥二十日〔16日〕西風而雹。天寒。寒冷前線。雷雨を伴う。
甲辰二十五日〔21日〕近江国言:雹下。其大径一寸。寒冷渦か。
《日付の逆転》
庚子辛丑壬寅癸卯甲辰乙巳丙午丁未戊申己酉
212528
 再び日付の逆転がある。ここで誤写である可能性を探ってみる。 甲辰戊申または己酉の誤写と見るのは難しく、丁未辛丑・壬寅・癸卯・甲辰の何れか誤写と見ることも難しいので、 やはり甲辰条を入れた位置が誤りであろう。
《筑紫大宰》
 大宰府の前身は、〈宣化〉元年〔536〕那津之口官家と見た(元年【那津之口官家】)。 那津之口官家は比恵遺跡群(福岡県福岡市博多区)に比定され、7世紀後半に太宰府に移転したと考えられる。
 〈皇極〉二年における「筑紫太宰」は、那津之口官家または未知の場所であろう。
《翹岐弟王子共調使来》
 ここでは翹岐を国主の児とするが、元年二月条では、「弟王子〔の〕〔であるところの〕翹岐」という関係になっている。
 この問題はひとまず保留するとして、文法が成り立つように読むなら「百済国主児翹岐弟王子共調使来」〔翹岐・弟王子、調使と共に来たり〕となる 〔〈岩崎本〉の訓点〔院政期か〕もこうなっている〕。 しかし、翹岐・弟王子自身も来た以上は使者であるから、この表し方には違和感がある。 本来は翹岐弟王子、共遣之調使来〔翹岐・弟王子が二人して派遣した調使がやって来た〕翹岐弟王子、共為調使来〔翹岐・弟王子が二人して調使となって訪れた〕などではないだろうか。 より単純に翹岐弟王子共遣使来〔①と同じ〕もあり得る。
 その後の経過を見ると、六月二十三日に「調船」が難波津に到着し、七月に「調」と「献物」の臨検が行われているので、その船が四月二十一日に筑紫に到着したのであろう。 馳駅の報告があってから難波津に来るまでに約二か月を要しているが、筑紫の鴻臚館あるいは百済館に滞在していたと考えておこう。
 臨検を受けた場面で、大使の名前は「達率自斯」、副使の名前は「恩率軍善」と書かれ、翹岐弟王子は全く見えないから、であろう。 使者は筑紫太宰に「翹岐と弟王子に命じられて参りました」と語ったが、報告が言葉足らずだったかも知れない。 むしろ報告は正しく記録が誤った、記録までは正しかったが書紀執筆者が読み誤ったなども考えられる。
《飛鳥板蓋新宮》
 近年「飛鳥宮跡」の調査が進み、〈舒明〉の飛鳥岡本宮、〈皇極〉の飛鳥板蓋宮、〈斉明〉〈天智〉の後飛鳥岡本宮、〈天武〉〈持統〉の飛鳥浄御原宮の、 重層的な遺跡と考えられている (資料[54])。
 板蓋について〈時代別上代〉は、「「草蓋」とともに、もっとも普通で簡素なふき方であったらしい」と述べる。 但し、そこで引用された〈続紀〉の内容は、神亀元年における見方である。
――〈続紀〉神亀元年〔724〕十一月甲子〔八日〕京師。帝王為居。万国所朝。非是壮麗。何以表徳。其板屋草舍。中古遺制。難営易破。空-殫民財。請仰有司。令五位已上及庶人堪営者搆-立瓦舍。塗為赤白〔都の帝王の住居は、どの国の朝廷にあっても壮麗に非ずしてどうやって徳を表すか。板屋・草葺は古い遺制であって、維持が難しく壊れやすい。これは民財の無駄使いである。五位以上の有司と庶民でも堪えうる者は、瓦葺きの家に朱・白を塗れ〕
 〈皇極〉二年の時点では、草葺きではなく板葺きにすることこそが先進的であっただろう。
《月蝕》
月食:643年6月8日 NASA Eclipse web site/LUNAR ECLIPSES
 五月十六日は、ユリウス暦643年6月8日にあたる。 NASA Eclipse Web Site/FIVE MILLENNIUM CATALOG OF LUNAR ECLIPSESによると、 643年6月8日の月食は、最大時刻0:14TD〔日本時間約9:14〕、食最大点は南緯23度東経14度、 部分月食継続時間は202.6分間、皆既月食継続時間は60.7分間。右図によると、日本では南西諸島以外観測できず、中国で部分月食。
 したがって、五月乙丑に倭国では月蝕は観測されず、「月有蝕之」は中国の記録によるものであろう。
《高麗自己亥年不朝》
 己亥〔639〕は、欽明十一年。〈岩崎本〉の書き込み「舒明之末年〔=舒明十三年。院政期以後の書き込みと見られる〕」は誤り。
 つまり朝貢は三年ぶりだというが、実際には〈皇極〉元年二月に、「高麗使人泊難波津」、「高麗国所貢金銀等并其献物」とあり、 前年に朝貢している。「群卿聞而相謂」以下は、〈皇極〉元年の高麗使のときのことを、誤ってここに書いたのかも知れない。
《大意》
 二年正月の朔旦、 五色の大雲が、天に満ち覆いました。 そして寅の方角が欠けて青一色となり、 霧が周囲の地面に起ちました。
 十日、 大風が吹きました。
 二月二十日、 桃の花が始めて見られました。
 二十五日、 雹(あられ)がふり、草木の花葉を傷めました。
 この月は、 風が吹き雷が鳴り、みぞれが降り、 冬令〔冬の神の声を聞く祭り〕を行いました。
 国内の巫(かんなぎ)たちは枝葉を折り取り、 木綿(ゆう)を垂らしかけて、 大臣(おおまえつきみ)が橋を渡った時を見計らい、 競って神語の微に入る〔=幽玄の〕説を披露しました。 その巫(かんなぎ)は甚だ多く、すべてを聴くことは不可能でした。
 三月十三日、 難波の百済客館堂(くだらのむろつみ)と民家に火災がありました。
 二十五日、 霜が降り、草木の花葉を傷めました。
 是の月は、 風が吹き雷が鳴り、みぞれが降り、 〔再び〕冬令を行いました。
 四月七日、 大風が吹き雨が降りました。
 八日、 風が起こり寒い天気でした。
 二十日、 西風が吹き、雹(あられ)が降りました。 天気は寒く、人は綿衣(わたぎぬ)を三枚重ねで着ました。
 二十一日、 筑紫(つくし)の大宰(おおみこともち)は、駅使を馳せて、 「百済の国主(こんきし)の子翹岐(しょうき)と弟王子(おとせしむ)は、 共に調使を送って参りました。」と奏上しました。
 二十八日、 権宮(かりみや)から、飛鳥の板蓋(いたふき)の新宮(にいみや)に遷られました。
 二十五日〔のことになりますが〕、 近江の国は「雹(あられ)が降り、その大きさは径一寸です。」と言上しました。
 五月十六日、 月蝕がありました。
 六月十三日、 筑紫の大宰(おおみこともち)は、駅使を馳せて 「高麗(こま)の遣使が来朝しました。」と奏上しました。 群卿(まえつきみたち)はこれを聞き、 互いに 「高麗は、己亥年〔舒明十一年〕から来朝がなかったが、 今年になって来朝したな。」と語らいました。
 二十三日、 百済の進調船が、難波津に停泊しました。


まとめ
 二年四月の、筑紫太宰による翹岐と弟王子がやって来たとする報告には、疑問がある。 また、二年六月の高麗からの使者についての群卿の会話には、本筋とは辻褄の合わないところがあった。 ただ、これらの信憑性が疑われる事項に関しては、「誰それが~と言っていた」という書き方をしている。
 元年二月の、翹岐を含む多くの人が島流しになったという話も、百済弔使の「とも人」〔使用人〕が口にしたことであった (元年二月)。 このように、噂話としての書き方をしている箇所は、書紀執筆者自身が信憑性を保証しない内容であろう。
 ただ、それを割り引いても、三韓の使者の来訪については整理がついていない。また、二箇所に見られる日付の逆転も点検が不十分なまま提出されたことが窺われる。 したがって、真実性を認め得る本筋と、信頼性を欠く末葉との選り分けは、結局読み手に委ねられている。
 その中で、蝦夷と入鹿の墓の造営という私的な活動のために、人民を動員したとする部分には作為が感じられる。 上で書いた通り、蝦夷大臣によってなされた〈舒明〉陵のための造陵が、歪められたのではないだろうか。
 ただ、〈皇極〉がその方形墳を嫌って〈舒明〉を八角形墳に改葬したとする仮説は、それほど荒唐無稽ではないと考える。
 なぜなら、かつての前方後円墳から方墳への墳形の変更は、仏教の国教化に伴うものであったからである。 ところが、仏教化を推進してきた蝦夷は、読経による雨乞いに失敗して面目を潰した。 春先の天候不順に対してはもう仏教は頼りにならず、古来のかんなぎによる冬令が用いられている。
 〈皇極〉は重祚して〈斉明〉になったときに、仏教とは異質な不思議な宗教施設を造った(資料[54])。 また、〈皇極〉即位前紀には「-考古道而為政也」と紹介されている。
 蘇我氏本流は間もなく滅ぼされることとなったが、宗教面でも〈皇極〉の脱仏教志向は明瞭であった。 その流れの中で、仏教的な方墳から古道順考による八角形墳への移行を強く印象付けるために、〈舒明〉天皇の改葬が行われたのではないだろうか。



2022.12.30(fri) [24-5] 皇極天皇5 

11目次 【二年七月~九月】
《葬息長足日廣額天皇于押坂陵》
秋七月己酉朔辛亥。
遣數大夫於難波郡。
檢百濟國調與獻物。
於是、大夫問調使曰。
「所進國調、欠少前例。
送大臣物、不改去年所還之色。
送群卿物、亦全不將來。
皆違前例、其狀何也。」
数大夫…〈岩崎本〔以下岩〕 -大夫 マチキムタチ  マチキムタチ[ヲ]於難波[ノ][テ]    ヘシム百濟國[ノ]調与[ヲ] レル[ル][句]
所進国調…〈岩〉[ノ][ノ]調ミツキモノ-タラスタラス[ノ]アトヨリアトアトミ[ヨリ][句]  レル[ル]大臣[ニ]物不去年所- カヘサルゝ [ル]之色[ヲ][句]。 〈内閣文庫本〔以下閣〕調使。 〈北野本〔以下北〕・閣〉所還カヘサル〔カヘサルルの誤り〕
不将来…〈岩〉 モハラモハラモテ-マウコ[句] ヘリタ■■リ[リ]アトアト[ニ][句]
…[名] (古訓) つねなり。ならふ。
〔二年〕秋七月(ふみづき)己酉(つちのととり)を朔(つきたち)として辛亥(かのとゐ)〔三日〕
数(あまた)の大夫(まへつきみたち)を[於]難波郡(なにはのこほり)に遣(つかは)して、
百済国(くたらのくに)の調(みつき)与(と)献(たてまつれる)物とを検(かむが)へしむ。
於是(ここに)、大夫(まへつきみ)調使(みつきのつかひ)に問ひて曰ひしく。
「所進(たてまつれる)国の調(みつきもの)、前(さき)の例(つね)より欠けて少なし。
大臣(おほまへつきみ)に送(たてまつ)れる物、去年(こぞ)に所還之(かへさゆる)色(くさ)を不改(あらためず)。
群卿(まへつきみたち)に送(たてまつ)れる物、亦(また)全(また)く不将来(もてきまつらず)。
皆(ことごと)に前例(さきのつね)に違(たが)へり、其の状(かたち)や何(いか)にかある[也]。」といひき。
大使達率自斯
副使恩率軍善
倶答諮曰
「卽今可備」。
自斯、質達率武子之子也。
大使…〈岩〉 使達率-[ニ]-マウマウ[テ]。 〈北〉大使オホツカヒ副使ソヒツカヒ
そひつかひ…[名] ① 次官。② 副使。
達率百済の位階第三位。
恩率百済の位階第四位。
…〈岩〉ムカハリムカハリ 達-率-[カ]之子[ナリ]
大使(おほつかひ)達率(たつそつ)自斯(じし)
副使(そひつかひ)恩率(おんそつ)軍善(くんぜん)
倶(ともに)答へて諮(まをさく)[曰]
「即(すなはち)今備(そな)ふ可(べ)し」とまをして、
自斯(じし)、達率(たつそつ)武子(むし)之(が)子(こ)を質(むかはり)とせり[也]。
是月。
茨田池水大臰。
小蟲覆水、其蟲口黑而身白。
茨田池…〈岩〉カヤ[ノ][ノ][切][ニ]クサリクサリ[テ] キナル  ヘリ[リ][ニ] 〔(チヒサ)キナルムシ〕。 〈北〉茨-田カヤタノ ナル。 〈仁徳〉段に「茨田堤」(第163回)。 〈北〉〈仁徳〉十一年四月「カヤ」。 〈倭名類聚抄〉{河内国・茨田【萬牟多】郡}。
/…[名] におい。[形] くさい。
くさし…[形]ク 臭気が強い。
是の月。
茨田(まむた)の池の水(みづ)大(はなはだ)臭(くさ)し。
小(ちひさ)き虫水を覆(お)ひて、其の虫口黒くありて[而]身(み)白し。
八月戊申朔壬戌。
茨田池水變如藍汁。
死蟲覆水。
溝瀆之流、
亦復凝結厚三四寸。
大小魚臰如夏爛死。
由是、不中喫焉。
池水変…〈岩〉[ノ]カヘリカヘ[テ]
藍汁…〈岩〉[ノ]。 〈倭名類聚抄〉「:唐韻云藍染草也。澱【音殿。和名阿井之流〔あゐしる〕】藍澱也
死虫…〈北〉 タル
溝涜…〈岩〉 -ウナテ ウナテミツ[切] 亦復 コホ- コホレリ[リ][句]  サ三四 ハカリミキ ヨキ ハカリ[句]  ニ-チ キクサレルコト[ル][コト][ハ]クタレクタレ-シゝタル[カ][句]
…[副] 復、且などの前に置き、強調する。
…[動] (古訓) たたる。くさる。
…〈岩〉 ラ/クラフクヒモノクヒモノ[ニ]
八月(はつき)戊申(つちのえさる)を朔(つきたち)として壬戌(みづのえいぬ)〔十五日〕
茨田池の水(みづ)変はりて藍汁(あゐしる)の如し。
死にせる虫水を覆(お)ふ。
溝涜(うなて)之(の)流るるみず、
亦復(また)凝結(こご)れる厚(あつさ)三四寸(みきよき)なり。
大小魚(おほきいをちひさきいを)の臰(くさきこと)夏に爛(く)ち死ぬるが如し。
由是(こによりて)、喫(くらひもの)に不中(あたらず)[焉]。
九月丁丑朔壬午。
葬息長足日廣額天皇于押坂陵。
【或本云。
呼廣額天皇、爲高市天皇也。】
…〈岩〉マウシ
高市…〈倭名類聚抄〉高市【多介知】郡〔たけちのこほり〕
九月(ながつき)丁丑(ひいのとうし)を朔として壬午(みづのえうま)〔六日〕
息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)を[于]押坂陵(おしさかのみささき)に葬(はぶ)りまつる。
【或る本(ふみ)に云ふ。
広額(ひろぬか)の天皇を呼びて、高市(たけち)の天皇と為(し)まつる[也]。】
丁亥。
吉備嶋皇祖母命薨。
吉備嶋皇祖母命…〈岩〉吉備嶋[ノ]--スヘミオヤノ スメミオヤノ [ノ][切]カミサカリマカミサリマ[ヌ]。 〈岩〉頭注: 「皇祖母者敏達之女彦大兄之妃茅渟王之母皇極之祖母也〔皇祖母は敏達の女、彦大兄の妃、茅渟王の母、皇極の祖母なり〕
かみさる…[自]ラ四 神となってこの世を去る。皇族の死を表す。
丁亥(ひのとゐ)〔十一日〕
吉備嶋皇祖母命(きびしまのすめみおやのみこと)薨(こう)ず。
癸巳。
詔土師娑婆連猪手、
視皇祖母命喪。
天皇、
自皇祖母命臥病、
及至發喪、
不避床側、
視養無倦。
土師娑婆連…〈岩〉圡師[ノ][ノ]-[ニ][テ]  ミシム[シム]スメミオヤ-母命[ノ] ミモ[ヲ][句]
及至…(あるところ、時間、状態に)いたる。およぶ。
発喪…〈岩〉皇祖母[ノ][ノ]-ミヤマヒシタ ミヤマヒシ給[ヨリ][切] -至イタルマテニ[テ][ニ]發喪オミ /モカリニ  ミ[ヲ][切]サリ給ミモト[ノ]-/モトコ私記ミモトノ  [ヲ][テ] - タテマツリタマフ/ミラサスコトタテマツリ給[コト]オコタル[コト][句]。 〈北〉サリタマハトコノモトヲ/モトコ視養ヲサメタマフヲコタル
視養…世話をしてやしなう。
…[動] うむ。(古訓) うみぬ。ものうし。
うむ…[自]マ四 うんざりする。あきる。
癸巳(みづのとみ)〔十七日〕
土師(はにし)の娑婆(さば)の連(むらじ)猪手(ゐて)に詔(おほせごと)して、
皇祖母命(すめみおやのみこと)の喪(みも)を視(み)しめたまふ。
天皇(すめらみこと)、
皇祖母命の臥病(みやまひ)したまひしとき自(よ)り、
喪(も)を発(お)こしたまふとき及至(まで)、
床(みとこ)の側(かたはら)ゆ不避(さけたまはざ)りて、
視養(まもりまつりたまひ、みたてまつりたまひ)て倦(うむこと)無し。
乙未。
葬皇祖母命于檀弓岡。
是日。
大雨而雹。
マユミ (左)葉とつぼみ (右)果実
檀弓岡…〈岩〉 ハフリマツル  マツル皇祖母命[ヲ]-ユミ[ノ][句]
…[名] 〈倭名類聚抄〉{:音弾。和名【萬由三】木名也。}〔発音ゼン。和名マユミ〕
まゆみ…[名] 植物名。ニシキギ科ニシキギ属の木本。弓の良材。
大雨…〈岩〉大雨ヒサメヒサメ
乙未(きのとひつじ)〔十九日〕
皇祖母命(すめみおやのみこと)を[于]檀弓岡(まゆみのをか)に葬(はぶ)りまつる。
是の日。
大雨(ひさめ)ふりて[而]雹(あられ)ふる。
丙午。
罷造皇祖母命墓役。
仍賜臣連伴造帛布各有差。
…〈岩〉[シム]皇祖母命[ノ]ミハカミハカエタチエタチ[ヲ][句]キヌキヌ-ヌノ[ヲ]
丙午(ひのえうま)〔三十日〕
皇祖母命(すめみおやのみこと)の墓(みはか)を造れる役(えたち)を罷(や)む。
仍(よりて)臣(おみ)連(むらじ)伴造(とものみやつこ)に帛布(きぬぬの)を賜(たまは)る、各(おのもおのも)差(しな)有り。
是月。
茨田池水漸々變成白色。
亦無臰氣。
漸々…〈岩〉 漸々ヤゝクニカヘリテカヘリ[テ][ヌ]白色[ニ][句] 𡖋無臭氣クサキ カクサ  カ[句]
是の月。
茨田池(まむたのいけ)の水(みづ)、漸々(やくやく)に変はりて白き色と成れり。
亦(また)臰気(くさきか)無し。
《調与献物》
 調献物は、調は義務的、献物はプレゼントの意か。
《調使》
 ここの「調使」には、訓点が付されていない。
 万葉にミツキの熟語は、ミツキタカラミツキノフネがある。調使は、ミツキノフネに準じてミツキノツカヒか。
《不改去年所還之色》
 「不改去年所還之色」のクサ〔=種類〕であろう。去年、大臣が贈られたものを見て気に入らないと言って返したのに、また同じ(ような)ものを送ってきたのはどういう訳かと問い詰める。 大臣がこうであるから、群卿も尻馬に乗って「我々の分はないのか」と言って騒ぐのである。
 調使は本国に戻って持ってくるから、それまでの間人質を預けておくと言ってその場をしのいだ。 これが事実なら、群卿のたかり体質は今読んでも恥ずかしい。
《大使達率自斯副使恩率軍善》
 恩率軍善元年七月に、 使人大佐平智積の随行として名前が挙がっている。ただし、この智積が来た件自体が信憑性を欠く。
 ここでは「大使達率自斯副使恩率軍善」とありその位階も妥当なので、おそらく確実な記録によると思われる。 ただ臨検した群卿が文句をつけたくだりの信憑性は疑わしい。蘇我蝦夷を貶める材料の一つとして噂話を書き加えたものではないだろうか。
《茨田池》
 茨田池は、〈仁徳〉段の茨田堤のところの池とするのが定説となっている(第163回)。 古訓カヤタノイケについては、〈北野本-仁徳紀〉でも「カヘ田連」と訓んでおり、 茨田堤と茨田池が同じ土地だと考えられていたことだけは確かなようである。
 一般にマムタと訓まれるのは、〈倭名類聚抄〉の{河内国・茨田【萬牟多】郡〔まむたのこほり〕}によると思われる。
《其虫口黒而身白》
蛆虫
 口が黒く体が白いのは、うじ(蝿の幼虫)の姿である。 ここでは虫が先に書かれているが、実際には大量の魚の腐敗が先にあり、それに伴う二次的な発生であろう。 「」を敢えて「腐る」と訓んだのは、それが理由かも知れない。
 次の八月条ともに恐らく伝説化したものが書かれ、現実の事実経過とは異なることが考えられる。
 実際には、水の富栄養化→藻類の増殖→動物プランクトンによる酸欠→魚の死亡・腐敗→害虫の大量発生の経過を辿る。
 農林水産省のサイト内の論文 「富栄養化現象」によると、 「アオコとは、富栄養化が進んだ湖沼やダム貯水池などの閉鎖性水域で、水温が20℃以上になる初夏から初秋にかけて、 ミクロキスティスやアナベナなどの藍藻類が異常増殖して、水面が青藍色の粉で覆いつくされたようになる現象であり、透明度が低下」し、 「魚類や底生生物…などへの影響が発生する」。
 「茨田池水変如藍汁」はちょうどこの現象にあたり、「凝結厚三四寸」は虫の死骸ではなく、アオコによるものであろう。
《不中喫》
 「」が、死骸となった魚は食物にならないという意味であるのは明らかである。 ここでは、「適する」意味のアタルに「」をあてたものであろう。漢字の「」の意味はもっと狭く、矢などが命中する意味である。
 したがって、この段は当時倭人の手で書かれた現地報告を、そのまま取り入れた可能性がある。
《厚三四寸》
舒明天皇押坂内陵の墳丘遺構
押坂内陵(p.56) 上円部拡大 DE辺石積平面(p.58中折)
〔笹野毅/書陵部紀要46/宮内庁書陵部1994〕
 への古訓アツサについては、〈時代別上代〉によれば「形容詞の語幹+サ」に含まれる。 しかし多くは「歌の末尾に置かれて、いわゆる喚体句〔感動を伴う体言止め〕をつくる」という。 後世になると「重さ」、「白さ」など完全な名詞化が可能であるが、上代語で認められるのは「長さ」のみだという。従って「」に古訓アツサを使用するのは、躊躇される。
 同じ名詞化でも「形容詞の語幹+ミ」の方は、サ変動詞や助詞を伴っても使われるので、まだ普通の名詞に近い。 よって、アツミの方がまだよさそうである。
《押坂陵》
 押坂陵については、〈延喜式-諸陵寮〉に「押坂内陵。高市崗本宮御宇舒明天皇。在大和国城上郡。兆域東西九町。南北六町。陵戸三烟。」とある。 地名押坂については、〈倭名類聚抄〉に{大和国・城上郡・忍坂【於佐加】}とある。
舒明帝 押坂内陵 (上)荒蕪 (下)成功 『文久修陵図』
参考文献略称
〈森浩一〉…『天皇陵古墳』〔森浩一編;大巧社1996〕
〈矢澤高太郎〉…『天皇陵』〔矢澤高太郎;中央公論新社2012〕
〈書陵部〉…「舒明天皇押坂内陵の墳丘遺構/笹野毅」『書陵部紀要』第46号〔宮内庁書陵部1994〕
 忍坂は、〈雄略〉の泊瀬朝倉宮跡、〈欽明〉磯城嶋金刺宮跡と考えられる脇本遺跡の南西にあたる(第198回。 また、その西には初期大型古墳のメスリ山古墳、桜井茶臼山古墳がある(第115回)土地である。
 〈森浩一〉によると、「桜井市忍阪おつさか段々塚だんだんづか(だんつかとも)は、 元禄十年〔1697〕におこなわれた修陵以来、舒明陵に治定され現在に至っている。 その際の見分を総合すると、巨石を用いた横穴式石室で、玄室内には二つの家形石棺が安置されているらしい」(p.94)という。
また〈矢澤高太郎〉は「忍阪の近辺には、同天皇〔舒明〕に相応しい規模と刎頸を持ち。年代も一致する古墳は他のどこにもない。 このため、段ノ塚古墳が古文献にある舒明帝の真陵であることはほぼ間違いないと見られている。 宮内庁の治定が正しいと見られる珍しい陵墓なのである。江戸時代の山陵の考定においても、段ノ塚古墳は常に舒明陵に間違いないと判断されてきた」(p.222)と述べる。
 〈書陵部〉によると墳丘の諸元は、「長軸が北で東に約15度偏るが、ほぼ南面」し、「長さ(南北)約77m、下方部最大幅(東西)約105mを計る」(p.54)という。 その墳形については、天武持統合葬陵では1959年、1961年に「平面八角形、四段分の段築、石貼りの墳丘であることが判明」し、 「その際に当陵も同じ八角形・石貼りの墳丘ではないかと注意にのぼ」り、 1960年8月の調査により「二個の隅角石が確認され」、「ともに頂点の内角が135度であったから、上円部は、 相対する二角を主軸上におく平面八角形で、一辺19.7mと考えられた」という(p.55)。
 「(右図-中の)A・Dには頂角を135度に整えられた隅角石がある」という(p.63)。 正八角形は正方形の4隅の角を切り落とした形なので、一つの内角は90°+45°=135°となるから、上円部は正確な正八角形である。
 BC部には改変が見られ、Cは156度、Bは158度で正八角形の一つの頂点を切り取った形になっている。 〔正八角形の一つの頂点を切り取ってできる角は、計算上157.5°である。〕
 これについては追葬時の開口部で、閉口するときに「完全に復元されないことも起こりうる」と推定している(p.68)。
 隅石は正八角形の内角に一致する角度に正確に加工されているから、これが八角形墳であることは疑いようがない。
陰影起伏図・地形図合成
 さて、「現代の考古学では舒明、斉明、天智、天武、持統、文武と、六人の天皇が八角形墳に葬られていることはほぼ確実」(〈矢澤高太郎〉p.214)で、 そのうち〈舒明〉が最初の八角形墳であるのは明らかである。
 また段ノ塚古墳だけの特徴として、下方部の南辺が東西に張り出し、あたかも前方後円墳のようになっている点が注目される。 このことは、〈矢澤高太郎〉も『王陵の考古学』〔都出比呂志;岩波新書2000〕を引用する形で指摘している(p.218)。
 下方部の張り出しは、文久の修陵によって前方後円墳に似せる改変をしたのではないかと疑ったが、〈書陵部〉には「文化度〔=文化年間〔1804~1818〕の修復〕以前の山陵図には、下方部下段裾に石積みまたは石貼りと思われる表現がある」とあるので、 修陵以前の形態から変わっていないようだ。『文久修陵図』(右図)を見ても、「荒蕪」図でも下方部が扇形に広がっている。
 改めて〈皇極〉即位前紀の「-考古道而為政也」に注目すると、 〈皇極〉は舒明陵として、復古的に前方後円墳に似せた。ただし単純な復古ではなく、正八角形という新規性を盛り込んでいる。 正八角形は、大王にへの枕詞ヤスミシシ〔八隅知し〕に通づるものであろう。 天皇の徳は八方に及び、「八紘而為〔八方を覆って屋根の下に置く〕という (〈神武〉即位前/己未)。 法隆寺夢殿も正八角形である。古事記では、八岐大蛇を始めとして吉数八への執着があった(第52回)。
 こうして八角形墳は〈皇極〉以後に天皇専用となったが、ただ前方後円墳の模倣は〈舒明〉陵限りで以後は継承されない。 かつての前方後円墳は、諸族の王に広く奨励された墳形であったことに気づいたのかも知れない。今や天皇は諸族から隔絶した存在で、前方後円墳はそれに逆行してしまうのである。
《押坂陵の立地》
東西と北の三方を丘に囲まれ、南側に開けた」立地は、来目皇子墓において典型的であった (推古十一年二月《来目皇子墓》)。 段ノ塚古墳も同様である。
 陵の場所は蘇我氏の今木からは遠く離れ、また蘇我大臣が皇族の墓所として推奨した磯長谷(太子町)でもない。
 蘇我氏からの独立の表現は、飛鳥あるいは磯長谷から離れることである。 〈舒明〉晩年の百済大寺〔おそらく百済宮も〕、〈崇峻〉の倉梯柴垣宮倉梯岡陵にそれが見える。いずれも明日香から一山超えた地である。
 段ノ塚古墳は、さらに飛びぬけて遠い。 墳形は独自性を表現したが、埋葬地の選択においても蘇我氏主導を拒否したのであろう。改装前の滑谷岡陵が蘇我蝦夷によって作られた飛鳥の小山田古墳だったとすれば、そこから遠隔地への改葬はこれ見よかしといわんばかりである。
 また、〈雄略〉泊瀬朝倉宮・〈欽明〉磯城嶋金刺宮に近く、前期巨大古墳メスリ山古墳桜井茶臼山古墳の方面であることも、〈皇極〉の「順考古道」の表れかも知れない。
《吉備嶋皇祖母命》
 〈釈紀〉は「述義十」(巻十四)で、「吉備嶋祖母命=小墾田皇女」説を提唱する。 小墾田皇女は敏達天皇の皇女で、推古天皇を母とする。
『釈日本紀』〔卜部兼方;1275〕巻十四 述義十(皇極)
吉備嶋皇祖母命
 古事記曰※1。日子人太子又娶漢王之妹大俣王御子智奴王
 敏達天皇紀曰※2。五年。 詔立豐御食炊屋姬尊皇后。是生二男五女。其三曰小墾田皇女。是嫁於彥人大兄皇子。
※1…敏達段(第242回)  ※2…〈敏達〉五年
レ之。大俣ヲハタノ王。小墾田皇女者。同人也。然則皇祖母命者。敏達天皇之皇女也。(母推古天皇也。) 彥人大兄皇子之妃。茅渟王之母也。皇極天皇之内祖母也。
 〔兼方これを案ずるに、大俣をはたの王と小墾田皇女とは同じき人なり。然るに則ち皇祖母命は、敏達天皇の皇女(母は推古天皇なり)は、 彦人大兄皇子の妃、茅渟王の母にして、皇極天皇之内祖母なり。〕
〈敏達〉四年系図、 〈皇極〉即位前系図から作成。 『上宮聖徳法王定説』『本朝皇胤紹運録』『釈日本紀』『日本書紀通釈』による独自説を書き加えた。
第241回の系図から作成
 〈皇極〉即位前紀には、「敏達天皇-押坂彦人大兄皇子ー茅渟王ー皇極天皇」の血縁関係が示されている。 記紀には、茅渟王の母が誰であるかに関しては何も書かれていない。
 しかし、〈敏達紀〉五年に小墾田皇女が〈敏達〉に嫁いだとあることから、茅渟王は〈敏達〉と小墾田皇女に生まれた子であろうと〈釈紀〉は推定する。 だとすれば、小墾田皇女は皇極の祖母、すなわち吉備嶋皇祖母命ということになる。
 一方、「吉備嶋祖母命=吉備姫女王」説もある。 『日本書紀通釈』は次のように述べる。
『日本書紀通釈』巻五十六〔飯田武郷1899/日本書紀通釈刊行会1935〕
吉備島祖母命は。吉備姫王。即〔皇極〕天皇。並〔び〕に孝徳天皇の大御母にます。島は地名にて。大和高市郡なり。 其〔の〕地に住ひしなるへし。 【後に舒明天皇の御母も。其処〔そこ〕住坐〔すみませ〕りと通えたり。】 さて祖母は親母の義なり。記伝云。「…〔いにし〕は母を多く美意夜と申して古書ともに御祖と申す…又皇祖尊と書〔き〕ては。 先代天皇に〔嫁〕きるゝ故に。御母なることを知しめる為に。母時を添られたる…」 〔吉備島祖母命は、吉備姫王、即ち皇極・孝徳両天皇の大御(おおみ)母である。島は、大和国高市郡の地名※1。 「祖母」については、古事記伝〔本居宣長〕は「母は古く御祖(みおや)と書き、「皇祖尊」と書くのは先代天皇の妃※2だったからである。母であることを示すために母の字を重ねた」と述べる〕
※1…島庄遺跡の地。用明元年《蘇我馬子邸宅》。推古三十四年
※2…古事記伝の原文(帝王部二十)は「皇祖尊」についての一般的な説明を述べたもので、吉備姫〔茅渟王の妃〕のところで述べたものではない。
 すなわち、「吉備嶋皇祖母命吉備〔吉備姫〕〔居住地〕〔天皇の血筋〕御祖〔母〕」 との解釈が、おそらく江戸時代頃に始まったと見られる。
 しかし、が地名だとすれば名前は「嶋吉備王」になると思われる。 また、そもそも「」と「」は分離され得るだろうか。〈釈紀〉は鎌倉時代の書で、より上代に近いから、その言語感覚によって「祖母」と捉えられたことは見逃せない。 さらに古事記の記きっぷりから、押坂彦人兄王子には一時天皇に認定すべしとの議論があったと見た(第242回)。
 「押坂彦人天皇」とも言われ得る権威があったとすれば、その妃が彦人皇子が薨じた後に「皇祖母命」と呼ばれたことはあり得る。 だから、皇祖母命を茅渟王の母と見る説は簡単には捨てられない。
《土師娑婆連猪手》
 〈推古〉十一年二月に「土師連猪手」がある。周防国娑婆(佐波郡)で来目皇子の殯を行い、孫は娑婆連を名乗る。 土師(はにし、はじ)連は天皇の葬儀をつかさどる氏族である。伝説的始祖は野見宿祢で、垂仁三十二年にはじめて埴輪作りを担った。
 ここでも土師娑婆連猪手が、吉備嶋皇祖母命の喪を差配する。
《視養》
 視養の養はヤシナフであるが、これは幼い子や養育したり人民に施す意味なので、使いにくい。 〈岩崎本〉の「タテマツル」は、尊敬する相手に物を献上することに限らず幅広く尽くす意味なので便利である。 〈北野本〉の「ヲサメタマフ」は、「人民を養う」意味の語を置いたもので不適切である。 マモルのマは"目"なので、視養=マモルも可能かも知れない。
《檀弓岡墓》
 「吉備姫=吉備嶋皇祖母命」説を採用した場合、〈延喜式:神名帳〉「檜隈墓吉備姫王。在大和国高市郡檜隈陵域内。無守戸。」の檜隈墓は、 が檀弓岡墓となる。
参考文献略称
〈明日香村紀要1〉…『明日香村文化財調査研究紀要』創刊号〔明日香村教育委員会2000〕/欽明天皇檜隅坂合陵・陪塚 カナヅカ古墳の覚書〔西光慎治〕
〈明日香村紀要2〉…同上 第2号〔同上2002〕/今城谷の合葬墓〔西光慎治〕
鬼の俎
鬼の雪隠 〈明日香村紀要2〉(pp.14-15)
 「檜隈陵」は、〈延喜式:神名帳〉に{檜隈坂合陵。磯城嶋金刺宮御宇欽明天皇。在大和国高市郡。}とあり、すなわち欽明天皇陵である。
 『本朝皇胤紹運録』が「皇極天皇:母吉備姫女王。欽明孫。櫻井皇子女也」とするのは、 〈延喜式-神名帳〉で吉備姫王について「檜隈墓:吉備姫王。在大和国高市郡檜隈陵域内。」とあるのがその理由であろう。 すなわち、檜隈陵が〈欽明〉陵であることを前提として、その「陵域内」に「吉備姫王」墓があるから吉備姫王は〈欽明〉と血縁であると考えたためと見られる。 なお「檜隈大内陵」〔天武〕もあるが、吉備姫女王とは時代が離れ過ぎている。
 〈欽明〉の真陵は丸山古墳とする説が有力であるが、宮内庁の治定ではまだ平田梅山古墳(以後、梅山古墳)である (〈欽明〉三十二年九月)。
 宮内庁は「梅山古墳=檜隈坂合陵」を前提として、平田梅山古墳のすぐ西隣に「檜隈墓」を治定しているが、 〈矢澤高太郎〉は、「古墳の可能性はゼロに近い」(p.236)と酷評する。
 〈森浩一〉は、「〔梅山古墳の〕陵域内(兆域内)にある平田岩屋古墳〔カナヅカ古墳〕を吉備姫王の檜隅墓とすることも可能だろう」と述べる(p.93)。 梅山古墳からは、東方向の直線上にカナヅカ古墳鬼の俎・雪隠古墳野口王墓古墳が並ぶ。
 このうち、野口王墓古墳については「丸山古墳を天武・持統陵とされ、明治政府にも踏襲されるのだが、 1880年に『阿不幾あおき山陵記』(1235年)が発見されて再考の結果、翌年二月に天武・持統天皇の「檜隅大内陵」に改定された」という (〈森浩一〉p.352)。
 鬼の雪隠鬼のまないたについては、〈明日香村紀要2〉によると、明治十年〔1978〕頃、鬼の俎と東に隣接して「鬼の俎と同じ形状をした板石が出土した」ことから、 二つの石室が並んでいたことが判明したという。両者の「心々間は約9m」と考えられるという。
 カナヅカ古墳については、〈明日香村紀要1〉によると、発掘調査で得られた所見によって復元すると 「一辺約35mの二段構成の方墳で」、「テラスは大規模なもので東西60m、南北25m」、 「石室は南に開口する全長約16mの両袖式横穴式」などという(p.44)。
 カナヅカ古墳が吉備姫王墓である可能性については、現在の「明日香村大字真弓地区はそれほど広い範囲ではないが高取川の左岸に位置」し、 小字名からみて「檀乃・真弓と呼ばれる地域が天武・持統陵付近から高取町佐田に及ぶ」見方もあり、 「『延喜式』にあるように吉備姫王檜隅墓の候補として蓋然性が高い古墳と考えておきたい」と述べている(p.47)。
 ただ、吉備姫王と吉備嶋皇祖母命が別人だとすれば墓も別だから、皇祖母命墓さえ真弓(檀)にあればよく、 吉備姫王墓の場所が「真弓」に含まれることを要しない。
 もし〈延喜式〉が〈欽明〉陵を丸山古墳と見ていたならば、吉備姫王墓は丸山古墳の陪塚の一つとなる。
《真弓丘陵》
梅山古墳~野口大墓古墳ラインに並ぶ古墳
「真弓」地域の広がり
 小字(真弓田芳欅・真弓田・真弓細田・真弓川原・コマユミ)の位置は〈小字データベース〉による。
 紀路の推定位置は『事典 日本古代の道と駅』〔木下良;吉川弘文館2009〕(p.66)による。
岡本天皇陵の宮内庁実測図(〈矢澤高太郎〉p.252)
 ここで、地名マユミを深堀りしてみよう。
 〈延喜式-神名帳〉に{真弓丘陵。岡宮御宇天皇。在大和国高市郡。}とある。岡宮天皇は草壁皇子のことで、皇子は即位しなかったが文武天皇の父であったため、追尊された。
――〈続紀〉天平宝字二年〔758〕八月戊申〔九〕:「日並知皇子〔=草壁皇子〕命。天下未天皇。追-崇尊号。古今恒典。自今以後。宜-称岡宮御宇天皇
 その「岡宮天皇真弓丘陵」は高取町大字森にあり、宮内庁管理となっている。
 その「陵」が真弓丘陵であることの信憑性については、〈矢澤高太郎〉は次のように論じている。
 万葉歌0147・0177・0179・0182・0187・0192に詠まれた(まゆみ)、佐太の地名により真弓丘が佐太まで包むことがわかる。
 称徳天皇が天平神護元年〔765〕に紀伊国に行幸する際「檀山陵を過ぐるときに」とあり「紀路は、佐田丘陵のすぐ東を通っていたことから、 この丘の一画に岡宮天皇陵が築かれていたことは、ほぼ間違いない」。
 〈矢澤高太郎〉は、①②のことから「岡宮陵は、現在の場所に完全に合致している」と述べる(pp.253-255)。
 こうして見ると、マユミは南は大字佐太の南端、東は小字真弓田まで及ぶ広い範囲で、 ならば檀弓岡墓は、カナヅカ古墳であってもよい。
 但し、その場合鎌倉時代の〈釈紀〉が「吉備嶋祖母命=小墾田皇女」説を提唱する以前に、 平安時代の〈延喜式〉は既に「吉備姫=吉備嶋皇祖母命」説を採用していたことになり、 その認識がどのような経過を辿ってきたかの推定は、一筋縄にはいかない。
《血縁関係における異説の存在》
 ここで飯豊女王に遡ると、記および〈履中天皇〉元年条では履中天皇の女で、磐坂市辺押羽皇子の妹とした (第176回)。
 それに対して、〈顕宗〉即位前紀では「『譜第』による」として、市辺押磐皇子の王女で〈顕宗〉・〈仁賢〉の姉とする。
 この不一致について「血縁関係の不統一はそれぞれが異なるソースを用いた結果と見られ、それが未調整のまま放置されていることを示す。」と見た (第212回【飯豊王】)。
 この例のように、血縁関係について異なる伝承が共存するのは、ごく普通のことであろう。
 吉備姫の場合も、はじめから「茅渟王の妃(〈皇極〉の母)」、「茅渟王の母(〈皇極〉の祖母)」の両説が存在していたと思われる。 書紀も〈延喜式〉も真弓墓は吉備姫のものだとしたが、ただ書紀は血縁関係を後者、〈延喜式〉は前者だと思っていたわけである。
《大雨而雹》
 皇極二年九月乙未〔十九日〕は、グレゴリオ暦で643年11月8日にあたる。 この時期なら、大雨而雹は発達しながら通過する低気圧、あるいは低気圧に伴う寒冷前線の通過であろう。
《変成白色亦無臭気》
 変成白色亦無臭気は、気温が低下し、緑藻類が死滅して色が抜けてと考えられる。やがて沈澱して水は透明を取り戻すであろう。
 「無臭気」は臭気がなくなる意味だから、七月是月の「大臭」、八月の「大小魚臭」は本来の意味〔=臭気を発する〕によってクサシと訓むべきであろう。
《大意》
 〔二年〕七月三日、 数多くの大夫(まえつきみ)たちを難波郡(なにわのこおり)に派遣し、 百済国の調と献上物を臨検しました。
 そして、大夫(まえつきみ)は調使に問いました。 ――「進上された国の調は、前例によりも欠け少ない。 大臣(おおまえつきみ)に送られた物は、去年返されたものから種類を改めていない。 また、群卿(まえつきみたち)に送る物は、全く持ってきていない。 ことごとく前例に相違しているが、この状態は何たることか。」
 大使達率(たつそつ)自斯(じし)と 副使恩率(おんそつ)軍善(ぐんぜん)は、 共に答えて 「今すぐに備えましょう」と申し上げ、 自斯は、達率(たつそつ)武子(むし)子を〔持参し直すまでの〕質としました。
 同じ月、 茨田(まんた)池の水はひどく臭く、 小さな虫が水を覆い、その虫は口黒く身は白いものでした。
 八月十五日、 茨田池の水は変じて藍汁(あいじる)のようになり、 虫の死骸が水面を覆いました。 水路の流れも、 また凝結し厚さは三四寸ありました。 大小の魚の臭さは、夏に腐り死んだ如くでした。 これにより、食物になりませんでした。
 九月六日、 息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)を押坂陵(おっさかのみささぎ)に埋葬しました。 【ある本のいうには、 広額(ひろぬか)の天皇を、高市(たけち)の天皇という。】
 十一日、 吉備嶋皇祖母命(きびしまのすめみおやのみこと)が薨じました。
 十七日、 土師娑婆連(はにしのさばのむらじ)猪手(いて)に詔して、 皇祖母命(すめみおやのみこと)の喪をつかさどらせました。
 天皇(すめらみこと)は、 皇祖母命の発病から、 喪を起こされるまで 床の傍らから離れず、 視養され倦(う)むことはありませんでした。
 十九日、 皇祖母命(すめみおやのみこと)を檀弓岡(まゆみのおか)に埋葬しました。
 この日は、 大雨で雹が降りました。
 三十日、 皇祖母命(すめみおやのみこと)の墓造りの役を終えました。 よって、臣(おみ)連(むらじ)伴造(とものみやつこ)に綿布を賜りました。
 同じ月、 茨田池の水は、徐々に白色に変わりました。 また、臭気はなくなりました。


12目次 【二年十月】
《蘇我臣入鹿將廢上宮王等而立古人大兄爲天皇》
冬十月丁未朔己酉、
饗賜群臣伴造於朝堂庭。
而議授位之事。
遂詔國司。
「如前所勅。
更無改換。
宜之厥任。
愼爾所治。」
饗賜…会食の酒食を賜る。〈類衆名義抄〉「饗賜 アヘタマフ」。 〈岩〉 アヘタマフモノタマフ群臣伴[ノ][ニ]-[ノ] オホハ[ニ][テ]而 議[ル]タマハム位之事[ヲ][句]
国司…〈岩〉[ニ][ノ]ミコトモチ[ニ][切] [ニ]ミコトノリセシミコトノリセ[ル][切] 更無 メ-カフル[コト][句]   ヘシヨ ク〔下〕マカリマカリテ[ノ]マケタマヘルトコロ/ヨサシゝトコロニマケ給ヘルトコロ[ニ][テ]   ムイマシカ[ノ][ヲ]シラ ヲサムルシラ[句]
…[指] 其と同じ。
冬十月丁未朔己酉〔三日〕
群臣(おほまへつきみたち)、伴造(とものみやつこ)に[於]朝堂(みかどのとの)の庭(おほには)に饗賜(あへたま)ふ。
而(しかるがゆゑに)位(くらゐ)を授(さづ)くる[之]事を議(はか)れり。
遂(つひ)に国司(くにのつかさ)に詔(おほせごと)してのたまはく。
「前(さき)に所勅(みことのりせし)如(ごと)きは、
更に改めて換(か)ふること無し。
宜(よろしく)厥(その)任(よさし)に之(おもぶ)くべし。
慎爾所治(いましがをさむるところゆめ)。」とのたまふ。
壬子。
蘇我大臣蝦夷、緣病不朝。
私授紫冠於子入鹿、擬大臣位。
復呼其弟、曰物部大臣。
々々之祖母、物部弓削大連之妹。
故因母財、取威於世。
縁病…〈岩〉 ヨリ[ニ]/マケラツカマツツカマツ[句]
…〈岩〉 ヒソカ[ニ][ノ][ヲ]於子入鹿[ニ][テ]ナスラフ大臣[ノ][ニ][句]ヨヒ其弟[ヲ][テ]物部[ノ]大臣[ト][句]
なそふ…[自]ハ下二 なぞらえる。
祖母…〈岩〉祖母 オハ  ハ 。 〈倭名類聚抄〉「祖母【於波】」。
…[名] 〈倭名類聚抄〉「:【和名於止宇止】」〔おとうと〕はオトヒトの音便。
…〈岩〉イロトナリ[ナリ]
取威…〈岩〉[カ][ニ] レリ[リ]イキオヒ[ヲ]於世[句]
壬子(みづのえね)〔六日〕
蘇我大臣蝦夷、病(やまひ)に縁(よ)りて不朝(みかどにまゐでず)。
私(わたくし)に紫冠(むらさきのかがふり)を[於]子入鹿(いるか)に授(さづ)けて、大臣(おほまへつきみ)の位(くらゐ)に擬(なそ)ふ。
復(また)其の弟(おとひと)を呼びて、物部(もののべ)の大臣(おほみ)と曰ふ。
大臣(おほみ)之(の)祖母(おば)、物部弓削(もののべのゆげ)の大連(おほむらじ)之(が)妹(おと)なり。
故(かれ)〔祖〕母(おば)の財(たから)に因(よ)りて、威(いきほひ)を[於]世(よ)に取(と)れり。
戊午。
蘇我臣入鹿、獨謀、
將廢上宮王等而、
立古人大兄爲天皇。
于時、有童謠曰。
独謀…〈岩〉 獨謀[テ]スルコトヲステカムツ[ノ]王等ミコ タチミコ タチ[ヲ] 而立大-兄舒明之子オホエ[ヲ][テ]セムト天皇[ト][句]。 〈釈紀〉上宮カミツミヤ(〈推古〉元年)。
古人大兄王…〈舒明〉皇子。母は法提郎媛(蘇我馬子の女)。
童謡…〈岩〉-ワサウタワサウタ
わざうた…[名] ものごとにたとえて世情を風刺する歌謡。
戊午〔十二日〕
蘇我臣(そがのおみ)入鹿(いるか)、独(ひとり)謀(はか)りて、
[将]上宮王(かみつみやのみこ)等(たち)を廃(す)てて[而]、
古人大兄(ふるひとのおほえ)を立てて天皇(すめらみこと)に為(せ)むとす。
[于]時に、童謡(わざうた)有りて曰(うた)へらく。
伊波能杯儞
古佐屢渠梅野倶
渠梅多儞母
多礙底騰裒囉栖
歌麻之々能烏膩
伊波能杯儞…〈岩〉 岩野邊[句] 子猿篭焼[句] 篭也[句] 焼也[句] 山羊也叔父 〈北〉。 〈閣〉
かましし…[名] カモシカ。
伊波能杯儞(いはのへに)
古佐屢渠梅野倶(こさるこやく)
渠梅多儞母(こだにも)
多礙底騰裒囉栖(たげてとほらせ)
歌麻之々能烏膩(かまししのをぢ)
【蘇我臣入鹿、
深忌上宮王等威名振於天下、
獨謨僭立。】
深忌…〈岩〉 蘇我[ノ]臣入鹿[切]ニクム テ上宮[ノ]王等[ノ] 威名イキヲヒイキホヒ[テ]-マシマスヲ[コト][ヲ]於天 ニ[テ]ハカル ヒトコロタゝム[ム][コト][ヲ]。 〈北〉ミコタチイキホヒナアリ。 〈閣〉威-名-振イキヲヒマシマスヲハカルヒトコロヒ タゝムコトヲ
…[動] 人の領分を勝手におかす。「僭越」〔王と同格と自称する〕。(古訓) なすらふ。ひとし。
ひところふ…[他]ハ四 匹敵する。
【蘇我の臣(おみ)入鹿(いるか)、
深く上宮王(かむつみやのみこ)等(ら)が威(たけ)き名(みな)の[於]天下(あめのした)に振(にぎは)ふことを忌(い)みて、
独り僭(なそ)ひ立たむと謨(はか)れり。】
是月。
茨田池水還淸。
還清…〈岩〉[テ]スメリスミ[ヌ][句]
…[形] (古訓) きよし。すめり。
是の月。
茨田池(まむたのいけ)の水(みづ)還(かへ)りて清(きよ)し。
《国司》
 十七条憲法《第十二条》において、 「国司」は大化元年に朝廷直轄の官として定められたと見た。
 ただ、書紀ではこれより古い時代にも「国司」が現れ、〈仁徳〉六十二年遠江国司」、 〈雄略〉七年是歳任那国司」、 〈顕宗〉元年播磨国司」、 〈崇峻〉即位前河内国司」が見える。
 これらのうち〈顕宗〉紀の「播磨国司」は、記(顕宗段)では「針間国宰(第213回)となっており、 ミコトモチに、書紀が「国司」の表記をあてたことがわかる。 つまり〈崇峻〉以前は、もともと伝説だったものを文章を整えて書紀に載せ、それらに時代を遡って「国司」の表記をあてたものと見られる。
 制度としての「国司」の任命はこの〈皇極〉二年が最初であったことが、「遂詔国司」の""の字に表れている。
 これが本当の意味での「国司」の始めと見て、ここから「くにのつかさ」の訓を用いることにする。 大化元年の国司制定の記事は、これを成文化したものであろう。
 「如前所勅更無改換」は、「これまで国造や国宰と呼んでいたが、今回呼び名が国司となった。しかし、決まり事は以前の詔から変わらない」と読める。 ただ、実際には改称と同時に中央集権を進めようとする意図は明白である。
《宜之厥任慎爾所治》
 「宜之厥任慎爾所治」は分かりにくいが、文脈から「任地に赴き、慎んで統治せよ」を意味するのは明らかである。 よって、が動詞ゆくであることが決定される。
 「」は「」と同じ意味であるが、比較的珍しいので、当時の文書記録をそのまま書紀に納めたのかもしれない。
 後半の「爾所一レ」は「爾(いまし)の治むる所を慎め」であるが倭語として不自然なので、「慎みて~」と訓みたくなる。しかしこれでは動詞がなくなってしまう。
 すると、副詞「ゆめ」を文末に置く形かもしれない。 文末の「ゆめ」は、「(万)4334 児良我牟須敝流 比毛等久奈由米 こらがむすべる ひもとくなゆめ」など否定文が多いが、 「(万)1356 汝情勤 ながこころゆめ」に「体言+ゆめ」の形がある。「爾所治」も体言だから、「爾(いまし)が治むる所ゆめ」が使えそうである。
 なお、〈岩崎本〉の訓点では平安中期が「よろしけたまへるところにまかりていまししらす所をつつしむべし」、 院政期が「よろしよさししところにまかりていましをさむる所をつつしむべし」となっている。 マカルは「罷る」だから任務をもって向かう意味からそれる。シラスは本来は天皇専用の語で、国司による統治にはそぐわないと思われる。 文体は漢文訓読体そのもので、上代語からは遠いと感じられる。
《紫冠》
 「紫冠」は正式には、〈孝徳〉大化三年に「七色一十三階之冠」を「」したとする。紫冠は、七色中第三位である。 冠色制はこの頃には概ね決まっていて、大化三年の記事はその成文化かも知れない。
 ここで「」と書くのは、書紀の段階で「入鹿"大臣"は僭称である」ことにしたのであろう。 ただ、この時点で〈皇極〉天皇は本当に認めなかったかも知れない。
 〈岩崎本〉は"紫冠"に声点を付さず、ヲコト点[ノ]が「」に付されているので、訓読みとみられる。 すなわち古訓は「ムラサキノカウブリ」らしい〔上代はムラサキノカガフリ〕
 「」への古訓はヒソカニであるが、実際には大っぴらである。 すなわち、「蝦夷は病気を理由に欠席し、代理として入鹿を出勤させた。その際紫冠など大臣の格好をさせ、「大臣」職の継承を強引に認めさせようとした」という文章であるのは明らかである。 これでは、ヒソカニどころではない。
《物部弓削大連》
 「物部大臣」は、物部弓削大連の妹が祖母であったことによる呼称と読める。
 物部弓削守屋大連は、〈敏達〉 〈用明〉の代に大連おほむらじであった。 〈用明〉が崩じた後の二年七月に、蘇我馬子によって滅ぼされた。
 「母財」については、《物部室屋大連宅》の項で渋川郡と志紀郡の中の一定部分が守屋の別業なりどころであったと見た。 〈用明紀〉二年には、室屋大連の奴の半ばと宅を四天王寺のために接収したとある。 別業のうち接収されなかった部分を、妹が引き継いだのであろう。
 「祖母」なのに「母財」と書かれていることについては、「母を祖母と呼んだ」とも、「祖母の財を母が受け継いだ」とも考えられる。
 もし前者だとすれば、上述した「吉備姫王〔〈皇極〉の母〕=皇祖母命」説を裏付けることになる。
 しかし、やはり祖母は grandmother で、"母財"は、「祖母財」の""が抜けていると考えるのが妥当かも知れない。
《妹》
 イモは、上代にはまだ恋人の意味が中心である。一方、オトは男女の区別なく弟・妹を表す。「祖母」によって女性であることは示されているから、ここではオトと訓んだ方がよいだろう。
《大臣》
 「物部大臣」を「モノノベノオホマヘツキミ」と訓むと、何人も大臣ができて奇妙である。 大臣の訓は本来オホミ〔オホオミの母音融合〕で、そのことは 書紀の「逃入円大臣宅」が、記で「逃入都夫良意富美〔オホミ〕之家也」と表記されていることによって分かる (第194回)。
 古訓で、大臣はすべてオホ(イ)マチキミ〔上代のオホマヘツキミが訛った形〕となっているのは、平安時代の判断である。
 では、大臣の本来の訓はすべてオホミかというと、そうとは限らない。 「蘇我稲目宿祢大臣為大臣…如」(〈欽明〉即位) は、天皇の即位に伴う役職の任命であり、ここではかばねのオホミではない。
 マヘツキミ(卿、大夫)は、御前に伺候する官を意味し、オホマヘツキミはその最上位である。この呼称は上代からあったと見てよい。 (万)0076物部乃 大臣 楯立良思母 もののふの おほまへつきみ たてたつらしも」の"大臣"は、音数から見てオホマヘツキミと訓むのは確実である。
 したがって大臣への訓みは、姓としての「オホミ」、朝廷内の役割としての「オホマヘツキミ」を、使い分けるべきであろう。
《古人大兄王》
 古人大兄王については、〈舒明〉二年に「(舒明)夫人蘇我嶋〔馬子〕大臣女法提郎媛。生古人皇子【更名大兄皇子】」とある関係で、 閨閥による蘇我氏独裁体制を志向する。ここで「蘇我大兄」に""をつけないのは、書紀が意図的に貶めたものであろう。 〈舒明〉即位前紀で、「山背大兄」に""をつけなかったのも同じである。
《歌意/釈紀説》
  『釈日本紀』卷第廿八 和歌六
伊波能杯儞イハノヘニ岩野邊也古佐屢コサル子猿也渠梅野倶コメヤク籠焼也渠梅多儞母コメタニモ籠也多礙底タキテタキテ。騰裒囉栖トホラセ融也歌麻之々能カマシゝノ山羊カマシゝ烏膩ヲヂ叔父
  〈皇極〉二年十一月条から〈釈紀〉が引用
人説ワサウタ  テコタヘ曰。
テハ伊波能杯儞ト云ヲタトフ上宮カムツミヤ
テハ古佐屢ト云ヲタトフハヤシ林臣入鹿也
渠梅野倶而喩上宮
渠梅多儞母多礙底騰裒囉栖歌麻之々能烏膩ト云ヲ而喩山背頭髪ミクシ斑雑フゝキニタマヘル山羊カマシゝ
又曰。-カクレマス深山シルシナリ也。
時の人、さきわざうたこたへを説きて曰ふ。
「イハノヘニ」と云ふを以ては、上宮かむつみやたとふ。
「コサル」と云ふを以ては、子猿こさるなり。
「コメヤク」と云ふを以ては、上宮を焼くを喩ふ。
「コメタニモタキテトホラセカマシゝノヲヂ」と云ふを以ては、山背王やましろのみこ頭髪みはつ斑雑ふゝきな毛山羊やましゝに似たまへるに喩ふ。
又曰ふ。其の宮を棄捨かくれますしるしなり。
ふふき…[名] まだらであること。
カモシカ
 コム〔下二段;閉じ込める〕の連用形はなので、「籠め」は誤りではない。 トホルにあてた「」は、融通の融だから「何とか工夫して逃げ出せ」と読んだのであろう。 また、カマシシは山代大兄王の頭髪の斑雑〔白髪が混ざりまだら模様の意か〕がカマシシに似るという。
 「時人曰」以下は、〈皇極〉二年十一月に入鹿が山背王を滅ぼした件の後に書かれたことを〈釈紀〉が写したもの。 「人曰」というから、一定の人々の間でこのように解されていたのであろう。
 ただ、この読み方はコメタニモ(またはコメダニモ)に問題が残る。無理をすれば、籠むの連用形「籠め」が名詞形として使われ、 「籠められたことさえも」かも知れない。
 それ以上に、=キは苦しい。
《礙の発音》
 はこの歌以外に〈推古紀〉二十年正月 の「阿摩能椰蘇河礙」〔天の八十影〕など他に五例あるが、すべてと見るのが妥当である。
 ただ、ほぼ同じ発音のと読む場合が古事記に一例、「疑理迩多多牟叙きりにたたむぞ」がある(第66回)。
 また、歌謡の聞き取りを担当した中国人スタッフが、発音を聞き誤った〔もしくは話者の訛り〕と見られる例はある (〈継体〉七年《歌意-第一歌》)。
 このように、かなり無理をしてとするか、 あるいは下二段活用の「焚く」〔連用形タケがあったことにする方法もある。 『仮名日本紀』がこれに当てはまり、「こざるこめやく、こめだにも、たけてとほらせ」とあり、確信的に清音のとしている。
 しかし、このどちらも他には例が見つけられない。
 〈岩崎本〉にの二通りの訓が付されているのは、この状況を反映したものと言えよう。 なお、〈北野本〉〈内閣文庫本〉はのみとする。
《歌意》
 は、でもある。〈時代別上代〉は多くの見出し語で繰り返しこの歌を文例に挙げるが、すべて「」、「」と解釈している。 同辞典は、コメの項で〈倭名類聚抄〉から二例、万葉から一例を挙げている。 挙げられた用例について、検証してみよう。
 まず〈倭名類聚抄〉(巻十七;米類)での訓を見ると「:…【和名与称】〔ヨネ〕で、類語四例も「~ヨネ」である。 コメと訓む例は少なく、次の二例である。
●(巻十七;米類)「:【今案俗云焼米。夜木古女】…焼稲為米也」。は、米をもみごと焼いて、ついて殻を除いたもの。
●(巻十六;酒醴類)「:【加須古女。俗云糟交〔米〕】」。は泡立った濁り酒(こす前の酒)。 〔なお、古・女はいずれも甲類であるが、〈倭名類聚抄〉の時代は甲乙の区別が消滅している。〕
 〈時代別上代〉が挙げた万葉の用例は、次の歌である。
●(万)1813巻向之 桧原丹立流 春霞 欝之思者 名積八方 まきむくの ひばらにたてる はるかすみ おほにしおもはば なづみこめやも」。
 「なづみこめやも」を分解すると、「なづみ〔ナヅム(難渋する)の連用形〕〔ク(来)の未然形〕〔ムの已然形〕やも〔助詞〕」、 「ムの已然形+ヤモ」は、反語推量〔来るだろうか?、いや来ないだろう〕である。 〈時代別上代〉は、借訓コメのためにを用いたことをもって、米をコメと訓んだ実例とするのである。
 ダニは、否定の文中では「~でさえも」、願望の文中では「せめて~」の意を表す。 つまり、コザルはカマシシに向かって「せめて米をやるから、食べて通れ」と言ったわけである。
 この歌の下の原注に「入鹿は、上宮王らの威名が天下に振うことを深く忌む」とあるから、 コザル=入鹿カマシシ=山代大兄王であろう。
 すると、子ザルが岩山の上から通りかかったカマシシを見て少し米をまき、これだけ食べて通れと言う。 子ザルごときがカマシシの一族の上に立つと言って舞い上がっているぜ、と皮肉っているのである。
童 謡 いはに 子猿米焼く 米だにも げてとほらせ 山羊かまししの叔父
〔岩の上で子猿が米を焼く。せめてこの米を食べて通れ、カモシカの叔父よ。〕
 だから、この解釈によっても十分に入鹿の思い上がりを風刺するものになっている。 書紀の「」による解釈は入鹿と山背大兄を巡る現実に近づけすぎて、却って「」の一字に難を生じてしまったと言えよう。
 なお、下の《大意》においては、もともと「米焼く」・「食げて」であったことを書紀は十分知っていて、二年十一月条はその上で「時の人」による俗解を紹介したものと解釈しておく。
《大意》
 〔二年〕十月三日、 群臣(おおまえつきみたち)、伴造(とものみやつこ)を招き、朝堂の庭で饗食を賜りました。 そして授位の事を議りました。
 また、遂に〔新たな制度で定めた〕国司に詔しました。
――「さきに勅したようなことを、 更に改新することはない。 宜しくその任を担って赴くべし。 あなたが治める所を慎め。」
 六日、 蘇我蝦夷(えみし)大臣(おおまえつきみ)は、病気によって欠席しました。 私的に紫冠を子入鹿(いるか)に授け、大臣(おおまえつきみ)の位に擬し〔て参上させ〕ました。
 また、その弟を、物部大臣(もののべのおおおみ)と称しました。 大臣(おおおみ)の祖母は、物部弓削大連(もののべのゆげのおおむらじ)の妹です。 よって〔祖〕母の財によって、威を世に示したものです。
 十二日、 蘇我臣(そがのおみ)入鹿(いるか)は、独り策謀して、 上宮王(かみつみやのみこ)の一族を廃し、 古人大兄(ふるひとのおおえ)を天皇(すめらみこと)に立てようとしました。
 その時、謡歌(わざうた)があり、このように歌われました。
――石(いは)の上(へ)に  子猿米焼く  米だにも  食(た)げて通(とほ)らせ  山羊(かましし)の叔父(をぢ)
【蘇我の臣入鹿(いるか)は、 上宮王(かむつみやのみこ)らが威名を天下に振るうことを心の底から嫌がり、 独り〔上宮王家を凌ぐ地位を〕僭称しようと謀った。】
 同じ月、 茨田池(まんたいけ)の水は、元通り澄みました。


まとめ
 〈舒明天皇〉は、遠隔地に改葬した。それではその後の代はどうなっているのだろうか。 〈皇極〉が重祚した〈斉明〉陵の真陵説が有力になっている牽牛子塚(けんごしづか)古墳〔八角形墳;明日香村大字越〕は、飛鳥の地に戻っている。 蘇我蝦夷・入鹿が滅びた後だから、何も気にせずに飛鳥地域に陵を置いたとも考えられる。〈天武〉〈持統〉合葬陵〔野口王墓古墳〕も同様であろう。 ただ〈孝徳〉は磯長谷、〈天智〉は山背国だから、陵所の選定には個別の事情をもう少し考える必要がある。
 真弓地域のカナヅカ古墳が吉備姫王の墓だとする伝承は、恐らく古くから存在したのではないかと思われる。 しかし、吉備姫王が皇極天皇の母なのか、あるいは祖母なのかについては相異なる伝承があったと見られる。
 さて、「童謡」については微細な点まで立ち入って検討した。 この作業は本筋から離れ過ぎにも見えるが、実は書紀が蘇我入鹿の人物像をどのように描こうとしたかを確実に知るための重要な手掛かりになる。 ここでも「真実は細部に宿る」ことを実感する。
 なお、茨田池のアオコ汚濁の件については、蘇我入鹿の悪だくみなどとは全く無関係な事象として取り上げられている。 このような箇所は、書紀には歴史資料としての信頼できる部分も多いことを示す。 半面、入鹿については、その殺害に至る伏線となり得ることなら、真偽不明の噂話でも洗いざらい盛り込んでいる。 その部分に関しては、史実としての信憑性を欠く。
 客観性のある記述と、ある意図のもとに操作された部分とを識別することは、引き続く課題である。



[24-6]  皇極天皇3