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2022.08.28(sun) [24-1] 皇極天皇1 ▼▲ |
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1目次 【即位前】 天豐財重日【重日、此云伊柯之比。】足姬天皇〔皇極〕……〔続き〕 2目次 【元年正月~二月二日】 《百濟國今大亂矣》
天皇即位については〈持統天皇紀〉には有司が三種の神器を奉るなどのきめ細かい描写があるが、〈皇極紀〉では最小限を書くのみで、即位に至る経過は何も書かれていない。 ただ、〈敏達紀十三年〉に東宮開別皇子が十六歳で誄 《盗賊》 盗賊の賊には、傷つけて強奪するニュアンスがあり、ヌスビトと訓むとやや意味が弱い。逆にアタと訓むと逆賊となり、「落とし物も盗まず」という文が続くには意味が強すぎる。 道に落ちているものを拾うことも躊躇するという表現からみて、やはり強盗よりも窃盗か。 それは取り締まりの強化であり、これを蘇我入鹿の専横ぶりの結果とするのは、やや飛躍がある。 《路不拾遺》 遺が落とし物を意味することは明らかだが、古訓「オチモノ」は各種古語辞典には載らない。意味は明白であるが、あまり用例がないらしい。 「路にノコレルモノ」と直訳しても十分意味は伝わるだろう。 拾の古訓「トル」は意訳である。 「拾」については、〈時代別上代〉は「万葉の東歌にはヒロフの例もあるが、あとはすべてヒリフである。名義抄には「拾・摭」など多くの字にヒロフの訓があるが、ヒリフの形は見出せない」と述べる。 つまり、平安時代にヒロフに移行したと見る一方で、万葉編者によって古い方の形に統一された可能性も見ているわけである。 《阿曇連比羅夫》 阿曇連比羅夫は、次の段に出て来る阿曇山背連比良夫と間違いなく同一人物である。阿曇山背氏について、〈姓氏家系大辞典〉は「阿曇氏の一族」で「阿曇連が其の居住地山背を続けて復式 阿曇連の起源や分布、記紀における活躍の様は、第43回にまとめた。 付け加えると、志賀島 安曇連は大連になることこそないが、有力氏族として朝廷を支え、天武十三年には宿祢姓〔八色の姓の第三位〕を給わる。 「比羅夫」はよくある名前で、他に荒田井直比羅夫〔〈孝徳紀〉〕などが見える。阿曇連の比羅夫は、次は〈天智紀〉に登場する。 《穂高神社の御祭神》 阿曇連比羅夫命は穂高神社の御祭神のうちの一柱で、若宮に祀られている。穂高神社〔長野県安曇野市穂高6079〕は式内社{信濃国/安曇郡/穂高神社【名神/大】}で、 この地の阿曇族の氏神と考えられ、同社の公式ページ「御由緒」によれば、「穂高見命は海神(わたつみ)族の祖神であり、その後裔である安曇族は北九州方面に栄え主として海運を司」る氏族で、 中殿に穂高見命、左殿に綿津見命が祀られている。
「豊玉彦」の名は記にはなく単に「海神」で、山幸彦が釣り針を求めて訪れた海底王国の神である。 「海神豊玉彦」は、一書1に出て来る(第89回)。 記では、海神の女 「穂高」は天を突く山の姿を思わせ、穂高見命はもともとは穂高連峰に坐す神であった可能性が濃厚である。これに阿曇族がオセアニアから持ってきた海神と血縁関係を結ばせたもので、一種の習合であろう。 若宮の祭神「阿曇連比羅夫命」は、〈皇極紀〉に登場した祖先を神として祀ったものと見られる。 《草壁吉士磐金》 草壁吉士磐金は、〈推古五年〉、〈同三十一年〉に新羅に派遣された。 同六年では「難波吉士」だが、他は単に「吉士」となっている。 「草壁」は日下部で、地名日下に因む名前をもつ王の御名代 草壁吉士の始祖伝承については、 〈安康〉元年に「難波吉師日香蛟、父子並仕二于大草香皇子一」。 〈雄略〉十四年に「二二-分子孫一、一分為二大草香部民以封皇后〔草香幡梭姫皇女〕一、一分賜二茅渟縣主一為二負嚢者一。即求二難波吉士日香々子孫一賜レ姓為二大草香部吉士一」。 一方、「吉士」は新羅の位階十四位で、先祖は新羅から渡来し「吉士」は姓 よって、渡来人の子孫である難波の吉士が、大草香皇子あるいは草香幡梭姫皇女に仕えて御名代となり、草壁吉士と呼ばれるようになったという筋書きが推定される。 なお、地名「日下」については、「孔舎衛坂」が〈神武〉即位前(神武4)にあり、また草香江(河内湖)がある。 《倭漢書直県》 倭漢書直県は、〈舒明十一年〉で、百済大寺と大宮の建造の際大匠を務めた。 《遣阿曇山背連比良夫~遣百済弔使所》 「遣阿曇山背連比良夫…」の文には「遣」が二つある。このままでは使者が更に使者を派遣したことになるが、ここでは不自然である。 もし二つ目の「遣」を「至」に直せば、正しい文になる。第二十四巻はα群に属するから中国人の執筆だが、それでもこの箇所は倭習と考えざるを得ない。 《百済大乱》 皇極元年〔壬寅〕は百済義慈王二年にあたる。〈三国史記〉には、その前年に「武王薨、太子〔義慈王〕嗣位。」とある。 武王四十二年〔=義慈王元年〕までの数年間、および義慈王二年に、国内の騒乱の記事はない。 しかし、〈皇極元年二月〉条は武王が薨じた後王位の継承を巡る対立があり、弟の子翹岐 《請付還使天朝不許》 「請付還使天朝不許」を、「弔使を今すぐ帰すように願い出ても、朝廷は許可しないだろう」と読むことができれば意味は通るが、「付」があるからそうはいかない。 文意は「帰国する使者に、倭の有力な者を同行させて助けてほしい」であろう。古訓もそのように読み取り、「付 二十二日の「以二国勝吉士水鶏一可レ使二於百済一」は、その要請に応えたものと言えよう。 《傔人等言》 古訓が「マウサク」ではなく「イハク」を用いるのは、公的な言上ではなく従者の雑談と位置付けたためと思われる。 その話の中身は、必ずしも信憑性があるとは限らないようである。 たとえば、翹岐が島流しされたことが事実だとすれば、それを二月二日に知り二十四日に「召」したことになるが、 その期間に朝廷との相談を終えて「嶋」まで出かけ、救出して連れ帰るには短すぎる。 また崑崙使を海に投げ込んだ件では、その経緯が不明で、きわめて断片的である。 書紀は、噂の類として書き加えたと見た方がよいだろう。 《大佐平智積卒》 佐平は周書〔636成立〕によれば十六品の第一位で定員5人(安閑2)。 『三国史記』には百済文周王〔475~477〕に「上佐平」「内臣佐平」「兵官佐平」が見え、官職名を兼ねるようである。 新羅本紀-武烈王七年〔660〕には、唐・新羅連合軍が百済を攻め「義慈子隆与大佐平千福等、出降。」とある。 大佐平は官職の最高位と見られる。 「大」の音については、〈釈紀〉の注音に「大人 《卒》 「卒」は、『礼記』によれば、天子の崩、諸侯王や妃などの薨に次ぐ称で、「大夫」の死である (第95回)。 古訓では、〈岩崎本〉にはミマカリヌ・ミウセヌが並記されているが、薨にミウス〔身失す〕が宛てられるので、区別してミマカル〔身罷る〕が適切であろう。 ただ、本サイトでは礼記に従い音読を用いている。実際には飛鳥時代には音読みは既に普通だったようである。古訓はなるべく倭の古語を用いようとするが、無理をして不自然になったと見られる訓みも多い。 《崑崙》
・「昆侖:②崑崙山。在二新疆西蔵 ・「崑崙:〔同上に加え〕⑨古代泛 古い書では、『説文解字』〔後漢〕に「虚:大丘也。崐崘丘謂二之崐崘虚一」。 これは"虚"の意味が「大丘」であることの用例で、これはつまり後漢の時代に山名としての「崐崘」があったことを示す。 「古代西方国名」とあるが、『漢書』西域伝の挙げる国名に「崑崙」は含まれず、伝説上のみの国のようである。『漢書』でも「河出昆侖」「昆侖高二千五百里余」など、国名はなく山名ばかりである。 よって、7世紀の時点で西域に「崑崙国」が存在していて百済と交流していたとは、とても考えられない。 〈皇極帝〉の頃の記事に崑崙を探すと、『隋書』列伝四十六東夷「琉求国」条に、大業四年〔608〕琉求に軍を送った文中にあった。 そこには、次のように書かれている。 「初稜将二南方諸国人従一レ軍。有二崑崙人一頗解二其語一。遣レ人慰諭之、流求不レ従、拒二-逆官軍一。稜擊走之、進至二其都一、頻戦皆敗、焚二其宮室一、虜二其男女數千人一、載二軍實一而還。自レ爾遂絶」 〔初めに陳稜は南方諸国人を率いて従軍させた。その中に崑崙人がいて頗 「遂絶」は、絶滅とも読めるが、「亡」「滅」ではないので、以後交流はないという意味かも知れない。 なお、琉求に攻め入る前に一度使者を送り、平和的に説得している。 「帝復令寬慰撫之、流求不レ從、寬取二其布甲一而還。時倭國使來朝,見レ之曰:「此夷邪久國人所レ用也。」」 〔帝は再び寛容に支配下に入るよう説得したが従わず、ここは穏やかに装甲をもらい受けて持ち帰った。たまたま訪れていた倭国使〔時期から見て小野妹子一行に相当〕に見せたところ、「これは夷邪久国人が用いるものである」と言った〕。 夷邪久 倭国使の言葉から、琉求はA現在の琉球のことで掖玖国と文化的な類似性があった。Bそもそも琉求国は掖玖国のことである。 C琉求は強大で、屋久島まで勢力圏に含んでいた。などと読み取ることができる。 B・Cだとすると、〈推古二十四年〉〔617〕以後の掖玖人帰化と関係があるようにも思われるが、帰化は9年後なので判断は難しい。 また、男女数千人を虜として本国に送ってしまえば、掖玖国の規模では無人になってしまうだろう。「尽男女」とは書いてないから、まだ相当の人口が残っていたはずである。 この点はまだまだ詰め切れないが、少なくとも「崐崘」は上記〈汉典〉の示す意味のうち「⑨南洋諸島各国人」を指すと見てよいだろう。 その候補には、沖縄本島も含まれるであろう。 西域の山「崑崙」の東夷の島への転用には驚かされるが、倭語でも最初は加羅国を指したカラが、三韓・唐・東南アジア・ペルシャ・欧米へと際限なく転用されるから、似たようなものであろう。 《嶋》 嶋は百済人の言葉ではセマだったとしても、全体が和文である中の一般名詞であるからシマが適切である。 《大意》 元年正月十五日、 皇后は天皇に即位されました。 蘇我臣(そがのおみ)蝦夷(えみし)を、引き続き大臣(おおまえつきみ)とされました。 大臣の子入鹿(いるか)【別名鞍作(くらつくり)】は、 自ら国政を執り、威は父に勝りました。 そのため、盗賊は恐慌に陥り、路に落ちているものさえ拾いませんでした。 二十九日、 百済国に派遣していた使者、大仁阿曇連(あずみのむらじ)比羅夫(ひらふ)が、 筑紫国から早馬に乗って来て報告しました。 「百済国は、 天皇(すめらみこと)の崩を聞き、弔使を派遣しました。 私は弔使を連れて、共に筑紫(つくし)に到着しました。 しかし、私は〔一刻も早く〕ご葬儀をお手伝いしたいと望み、 まずひとりで参上しました。 けれども、百済国は、今大乱にあります。」 二月二日、 阿曇山背連(あずみのやましろのむらじ)比良夫(ひらふ)、 草壁吉士(くさかべのきし)磐金(いわかね)、 倭漢書直(やまとのあやのふみのあたい)県(あがた)を派遣し、 百済の弔使の所に行かせ、 その国の消息を問わせました。 弔使の報告の言葉は、 「百済国の主(こんきし)〔義慈王〕は私にこう語りました。 『塞上(さいじょう)〔人名〕は、恒に悪事をはたらきました。 弔使が帰るときに、返使を付き添わせてほしい要請いたしますが、天朝はお許しなされないでしょう』」というものでした。 百済の弔使の従者たちは言いました。 「昨年の十一月、 大佐平(たいさへい)智積(ちしゃく)が卒し〔=死に〕ました。 また、百済の使者は、 崐崘(こんろん)〔南方の島嶼国〕の使者を海裏に投げ棄てました。 今年の正月、 国の主(こんきし)の母が薨じ、 またまた弟の王子(せしむ)の子、翹岐(きょうき)、 及びその同母の妹である女子四人、 内佐平(ないさへい)岐味(きみ)、 高名の持ち主四十人余りが、 島流しにされました。」 3目次 【元年二月六日~二十七日】 《高句麗大臣弑大王與百八十餘人》
泊の古訓「トドマル」は、<時代別上代>「トマルが動きを止める・停止するの意を主とするのに対し、トドマルは残留の意を主とするようである」 とされるように、到着した後動かない様子を意味する。 しかし、ここでは「到着する」動作を表すから、通常のハツの方がよい。 なお〈仮名日本紀〉は「とまれり」だが、これはこれで〈時代別上代〉「船が泊る意にはハツを用いて、トマルを用いた例を見ない」ので上代語から外れている。 ここの難波津は、〈岩崎本〉はナニハツ、〈北野本〉・〈内閣文庫本〉・〈仮名日本紀〉はナニハノツと訓む。 なお、〈岩崎本〉は元年五月「ナニハツ」、二年六月「ナニハノツ」で一定しない。 万葉では、明らかにナニハツが定着しているから、 〈北野本〉以後、ノを挟んだ形が踏襲され、奈良時代の習慣を考慮しない。 《難波郡》 〈継体六年〉【難波館】の項で見たように、高麗館や難波館本館が「難波大郡」に置かれていたのは確実である。 難波大郡は上町大地の東半分で、後に河内湖が陸化した部分を含めて東生郡となる。難波宮を中心とする副都なので「大郡」と呼び、 西の茅渟海〔大阪湾〕側は農村地帯なので「小郡」と呼んだようである。 したがって、「難波郡」は〈皇極紀〉に計三回出て来るが、これが難波大郡を意味するのは明らかである。 〈北野本〉の「郡 《諮云》 高麗からの貢献の品を検 よって「諮」は原義の通り上から下への問い合わせであり、「諸大夫」が使者に、高麗の政情を尋ねたと読むべきであろう。 《大臣》 大臣については三韓における名称が伝わっていないようで、古訓では「オホキオミ 《伊梨柯須弥》 『三国史記』に、対応する記事がある。
『三国史記』列伝にも、「淵蓋蘇文」の項がある。関係部分を訓読する。
ここで「王弟の子」とする点もまた、書紀の「弟王子ノ児」と一致する。 この蓋蘇文を、カスミの音写とする説がある。確かに子音のk[g]-s-mの並びが両者で一致するので、その説には一定の説得力がある。 〈推古紀〉十六年では小野妹子が唐国〔隋〕で「蘇因高」と呼ばれたことを紹介しており、これは「臣 さらに、もし「柯須弥=蓋蘇文」だとすれば「伊梨=泉または淵」にあたるはずだが、これを確かめるすべはない。 とは言え、事件の起こった年とあらすじが概ね一致するから、伊梨柯須弥と淵蓋蘇文が同一人物であることは間違いないだろう。 《詔大臣》 二月二十二日に、高麗・百済・新羅・任那に人を派遣するよう詔したと述べる。 遣わしたのは津守連と三人の難波騎士で、外交専門家を揃えている。おそらく現地の言葉に堪能であっただろう。 高麗・百済の変を知った朝廷は、彼の地で調停に当たらせる意図があったか。 あるいは、混乱の隙をついて倭国の影響力を強めようとしたことも考えられる。 五月には国勝吉士水鶏と百済国調使が相伴って到着するから、現地で一定の役割を果たしたのかも知れない。 《津守連大海》 津守連は住吉大神の神主家で、もともとは「津を守る」氏族で、海外に使いする者が多いとされる (第163回【墨江之津】)。 津守連大海という名前はここだけ。 《国勝吉士水鶏》 〈斉明紀〉に「難波吉士国勝」があり、〈姓氏家系大辞典〉は国勝吉士水鶏と同一人物として「難波吉士の族なり」とするが、 この氏族には、これ以外の名を挙げていない。
クイナには現代でも「水鶏」の字が宛てられ「ツル目クイナ科」に属し「北海道や東北などの本州北部以北で繁殖し、本州以南で越冬」する「主に水田や湿地、池沼畔や河川畔などに生息する水鳥」である (FUNDO)。 「しっかりした脚で、歩く生活」で「長距離を移動する場合も飛ぶ姿を見ることは稀」とされる鳥である (日本の鳥百科:クイナ)。 日本に生息するクイナのうち、全く飛べないのはヤンバルクイナ〔1981年に沖縄本島北部の山原(やんばる)で発見;天然記念物〕のみとされる。 《坂本吉士長兄》 〈姓氏家系大辞典〉は「難波吉士の族」と書くのみで、名前も「坂本吉士長兄」のみである。 《大意》 〔二月〕六日、 高麗(こま)国の使者が、難波津に停泊しました。 二十一日、 諸々の大夫(まえつきみ)を難波(なにわ)の郡(こおり)に遣わし、 高麗の国が貢した金銀などの献上物を点検しました。 使者が貢献を終えたところで、 問いに答えて言上しました。 ――「昨年六月、 弟王子(おとせしむ)が薨じました。 九月に、 大臣伊梨柯須弥(いりかすみ)は、大王(こんきし)を弑逆し、 併せて伊梨渠世斯(いりこせし)ら百八十余人を殺しました。 そして、弟王子の子を王(こんきし)として、 自分と同族の都須流金流(つするこむる)を大臣としました。」 二十二日、 高麗(こま)百済(くだら)の客人に、難波郡〔大郡か〕にて饗宴しました。 大臣(おおまえつきみ)に詔を発しました。 ――「津守連(つもりのむらじ)大海(おおあま)を高麗(こま)に遣わすべし。 国勝吉士(くにかつのきし)水鶏(くいな)を百済に遣わすべし。 草壁吉士(くさかべのきし)真跡(まと)を新羅に遣わすべし。 坂本吉士(さかもとのきし)長兄(ながえ)を任那(みまな)に遣わすべし。」 二十四日、 翹岐(きょうき)を召し出し、安曇(あずみ)の山背(やましろ)の連(むらじ)の家に置きました。 二十五日、 高麗と百済の客人を饗宴されました。 二十七日、 高麗の使者と百済の使者は、ともに辞して帰りました。 まとめ 百済と高句麗が弔使を同時期に送ってきたのは、連絡を取り合ってのことかも知れない。新羅も、賀騰極使と共に弔使を送るが、3月になってからで別行動である。 この時期、百済と高句麗は同盟して新羅に対抗していることが、反映しているとも考えられる。 〈舒明〉の期間は、百済と新羅が同時に訪れているが、十年には朝廷が、十二年には学問僧清安たちによる働きかけがあったことが考えられる。 「任那」地域はこの時点では百済領内にあり、百済が朝貢使を倭に送るときに、副使を名目上の「百済使」に仕立ててもらうには努力を要した。 弔使のように百済が自身の判断で送るときには、そのような配慮はしなかったようである。 二月二十二日に韓国に送ることを決めた使者のうち「可使任那」については行き先は実際には百済で、加羅地域が古代に倭の属国であったことを認めるよう要請したと思われる 〔その交渉の様は〈孝徳紀〉大化元年七月に見える〕。 |
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2022.11.23(wed) [24-2] 皇極天皇2 ▼▲ |
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4目次 【元年三月~六月】 《新羅遣賀騰極使與弔喪使》
新羅も、賀騰極使とともに弔喪使を派遣した。 これらの使者は三月の三日に来て、十五日に退出する。その間の面会や饗については何も書かれない。外交儀礼上、貢の献上と饗はあったはずである。 少なくとも書記の記述においては、前月の新羅の扱いは百済・高麗に比べると著しく冷淡である。 十月にも、「賀騰極使与弔喪使」が壱岐島に停泊する記事がある。三月に訪れた使者たちの帰路だとすれば、十月にまだ隠岐にいるのは不審である。 これが史実の通りなら、難波津から出航し筑紫の高麗館にしばらく滞在したと思われる。その目的は、倭国の国内情勢を探るためか。 この時期、百済と高句麗が連合して新羅に対抗する情勢となり、倭国内で親新羅派を優勢にすべく工作に当たっていた可能性もある。 この想像は決して荒唐無稽ではない。新羅の諜報活動はあり〔百済も行ったであろうが〕、〈推古九年〉に 「新羅之間諜者迦摩多到対馬則捕以貢之、流上野」〔対馬で新羅の間諜が捕えられ、朝廷に送られた後上野 ただ、この部分は複数のソースによっていて、三月と十月のどちらか〔あるいは両方〕が誤りということもあり得る。 《太使》 〈岩崎本〉には太使翹岐の「太」に訓「昆 〈釈紀〉は「私記曰。大讀レ渾云々。私案。使字誤歟。可レ消レ之歟。可レ見二他本一。猶可レ或ハ只可レ讀二オホツカヒ一也。」 〔私記に曰ふ。大をば渾と読め云々(しかじか)。私に案ずるに、使へる字の誤りか。之を消すべきか。他本を見るべし。猶(なほ)或(ある)は只(ただ)オホツカヒと読むべし。〕と述べる。 《太使翹岐》 翹岐は、正月には島に流され、二月二十四日には阿曇山背連比良夫の家に身を寄せた。そして、今回四月八日に「太使」として百済から遣わされている。 この頻繁な行き来は、とても不自然である。いつの間に赦されて百済に帰還し、大使に任命されたのだろうか。それとも実際には他の人だが、「翹岐」と混同されたのだろうか。 あるいは、出典の異なるいくつかの伝説を日付に合わせて並べただけかも知れない。 ただ、話の大筋は、政権から追放された翹岐を蘇我蝦夷が大切に扱い、その復権を求めて百済に圧力をかけたと読み取れる。 だとすれば、ここでは「亡命した翹岐を、我々は百済王から遣わされた大使として扱う」と言ってデモンストレーションしたわけである。 「唯不喚塞上」は、百済王が塞上を派遣した〔あるいは、しようとしていた〕が無視したとも読める。 つまり蘇我蝦夷は塞上を認めず翹岐を推し、百済の政情に手を突っ込もうとしていたわけである。 《霖雨》 〈皇極〉元年三月は、グレゴリオ暦では642年4月8日~5月7日にあたる。菜種梅雨よりは遅く梅雨よりは早いが、この時期の長雨もあり得る。 また、四月〔5月8日~6月6日〕にも霖雨があったとされる。 古訓のナガメスはサ変動詞による動詞化で、漢文訓読調である。動詞化としては「霖雨アリ」か、あるいは形容動詞「霖雨ナリ」もあり得るか。 体言止めがよさそうに思えるが、これは現代の感覚である。 ナガメの動詞化は、万葉集ではいかになされているのだろうか。調べると「霖雨」は三歌にある。 ● (万)2262「秋芽子乎 令落長雨之 零比者 あきはぎを ちらすながめの ふるころは」。 ● (万)3791「飛鳥壮蚊 霖禁 あすかをとこが ながめいみ」。 ● (万)4217「宇能花乎 令腐霖雨之 始水邇 うのはなを くたすながめの みづはなに」。 3791では「忌む」〔=うっとおしく思う〕の目的語である。 4217の「卯の花腐す」は霖雨への序詞で、「霖雨の」は「みづはな」〔=降り始め〕を連体修飾する。 すなわち霖雨の動詞化は2262のみで、「ふる」を用いている。やはり、雨はフルものなのであろう。 《依網屯倉》
依網については、依網池の遺跡が大阪市住吉区に確認されている(第115回)。 大依羅神社は、この地の氏族「依網阿弭古 依網屯倉が設置された記事は書紀には見えないのだが、副都の難波に近いところだから比較的古い時期ではないかと思われる。 〈倭名類聚抄〉に{河内国・丹比郡・依羅【与佐美】郷}、{同・三宅【三也介】郷}、{摂津国・住吉郡・大羅【於保与佐美】郷}が見える。 大羅郷〔好字令(資料[13])により"依"が省かれた〕は、大依羅神社を含む地域であろう。 三宅郷については、現在の松原市三宅西・三宅中・三宅東がその遺称であろう。 丹比郡依羅郷は、両者を含む地域だろうと想像される。 〈仁徳〉朝には数々の大土木工事が書かれる。百舌鳥古墳群の巨大墳丘を見れば当時の土木技術は高度で、あながち伝説と片付けられない。 依網池も実際にこの時期にダム池として築かれ、それが広大な屯倉の灌漑のためとすれば、依網屯倉の起源は〈仁徳朝〉に遡ることになる。 「依網屯倉阿弭古」は、屯倉が伝説上の人名に転じたのであろう。また阿弭古は姓 《百済国調使船与吉士船》 百済国調使船与吉士船の「吉士」は、二月二十二日の詔にある国勝吉士水鶏であろう。百済の調使を伴って意気揚々と帰国した様子が見える。 ただ、この時期蘇我蝦夷大臣が要求していたのは、翹岐の復権である。 結果的に、翹岐の帰国は叶わず逆に不孝に遭ったところを見ると、この件についてはゼロ回答だったと見られる。 もし水鶏が百済が進貢使を送ったことをもって成功と考えたのなら、自分の役割を理解できていない。 《父母兄弟夫婦姉妹》 古訓では、父を必ずカソと訓むことになっているが、万葉では(万)0890「知〃波〃良波母 ちちははらはも」のように、チチハハが普通に使われている。 なお、(万)0363「父母者知友 おやはしるとも」では父母をオヤと訓むが例外的で、和歌の文字数〔五七五七七〕によって判断されたと見られる。 また、兄弟と姉妹についてはまとめてハラガラと訓むのが、倭語らしい言い方であろう。 《無慈之甚豈別禽獣》 「無慈之甚豈別禽獣」と、珍しく執筆者の考えを自分の言葉で述べている。通常は自分の意見であったとしても、「時人曰」などを用いて、客観記述を貫いている。 だが、葬儀にあたって肉親が死に顔を見ないという習慣が、新羅百済で一般的であったとはとても思えない。 おそらく何らかの事情によって夫妻が葬儀に参加しなかったことをもって、一般的な風習だと誤解したのではないだろうか。 なお、その「事情」については、《百済大井家》の項で述べる。 《熟稲始見》
稲の早生種の収穫時期を探るために、高知県で行われていた二期作の収穫時期を見る。論文「 高知県における二期作農家の食生活の実態」 〔藤村千賀/『公衆衛生』31巻3号/医学書院1967〕によると、 「4月は苗の植付のみであるが、7月〜8月は稲の収穫と、苗の植付とが同時に行なわれる」とされ、 温暖な地方で7月ぐらいが収穫時期である。 「熟稲始見」は朝廷への報告であろうから畿内とは限らないが、温暖な地域だったとしても6月28日は極端に早い。「始見」は、「このように早い成熟は初めて見る」意味であろう。 6月6日という、例年だと梅雨入りの頃までが長雨で、6月後半から旱魃に入っているから、急に暑くなり温暖な地域の早生種は前倒しに早く成長したとすれば、あり得ないことではないかも知れない。 しかし、通常時期の栽培種の場合は雨が求められる時期に旱魃が襲ったから、たまったものではない。 《アカラムイネ》 現在、「古代米」と称して、赤米が生産されている。 赤米なら、アカラムは熟す・実ると同義である。それでは、古代の米はすべて赤かったのだろうか。 「「古代米」から稲の世界へ」 〔猪谷富雄;日本醸造協会誌107巻10号/2012〕によれば、 「古代米とは、赤米・黒米・緑米のような夕食米および香り米・紫稲などの普通の米でない、「変わりだね」が呼ばれるようである」という。 そこには、「赤舂米」と書かれた木簡があるという。 ● 「丹後国竹野郡芋野郷婇部古与曽五斗」 さらに「木簡庫」を検索すると、 ● 「丹後国加佐郡田辺郷赤舂米五斗」(丹後国加佐郡田辺郷)〔宮町木簡概報2-12頁〕 ● 「海部郷京上赤舂米五斗・矢田部首万呂○稲舂」(平城宮造酒司推定地)〔木研16-11頁〕 あえて「赤舂米」と書かれるのは、「舂米」が必ずしも赤色とは限らないからである。 また、字の意味で考えても「熟」は単に成熟する意味で、赤いとは限らない。 よって「アカラムルイネ」は、訓読者が知る風景を思い浮かべて書いたと考えるべきであろう。 訓者によるアカラムへの執着は強く、八月条でも「登 《百済大井家》
一方、河内国百済郡は、東生郡と住吉郡にまたがった存在したが、その地の百済王 ここでは依網屯倉で射猟を見学し、転居する道の途中で「石川」に児を葬ったとあるから百済大井家は河内国百済郡の地域と見た方が自然である。 その場合、敏達天皇の百済大井宮も他田宮から再びここに持ってこなければならない。しかし、敏達から皇極までの諸帝の宮が磐余池周辺地域に集中していることを考えると、やはり不自然である。 ここで、最初の居住地である「阿曇山背連比良夫の家」について考えてみよう。比良夫もまた外交の任を負うから難波吉士と同じように難波周辺に住んでいたと考えてみる。 すると、むしろそれまで住んでいたのが河内国の東生郡・住吉郡にまたがる後の百済郡で、射猟を見学した依網屯倉は、そこに近い。 そして、その地の百済人は塞上派が多く、翹岐に敵対していたと考えられる〔二月二日条参照〕。 だとすれば翹岐の従者と子は、塞上派の誰かによって襲撃されて殺された可能性がある。翹岐本人は蘇我大臣がバックについていたからさすがに手が出せなかったのではないか。 翹岐と妻は、子の葬儀に顔を出せば狙われる危険性があるから、敢えて参加しなかったとすれば、辻褄が合う。 一方、移住先の「百済大井」が、敏達天皇の他田宮の地域だと考えることは合理的である。 そこもまた百済人の居住地であったが、難波からは離れていて塞上派はいなかったのだろう。 このように、最初の居住地は東生郡、移った先は百済大寺〔吉備池廃寺〕周辺地域だとすれば、翹岐についての記述は合理的に整理できる。 従者と児の死を、「殺された」と書かなかった理由については、書紀が書かれた頃には百済王氏は朝廷に深く食い込んでいて、中には塞上派の流れを汲む者もいたから、その仕業であることを伏せたのかも知れない。 《葬児於石川》 「葬児於石川」は水葬のようにも読めるが、おそらくその習慣はまずなかっただろう。 石川沿いの古市古墳群が一般的な墓地としても使われていた、あるいは石川郡に葬ったと見るのが適当と思われる。 前項の百済大井家に移る途中で、遺体を運ばせて葬らせたと考えられる。 《大旱》
その後の経過を見ると、七月二十五日に各地の土着的な信仰による雨乞いが問題となり、読経による雨乞いを行った。 しかし効果はなく、二十九日に中止になっている。 ところが、八月一日に天皇が雨乞いをしたところ、すぐに雷雨となり雨は五日間続いた。 グレゴリオ暦と参照(右表)すると、7月はじめに梅雨が明け、それから8月いっぱいは晴天が続き、9月になって連日の雨に転じたと読み取れる。 この時期の旱魃は、稲作に重大なダメージを与えたであろう。 但しここでは、雨乞いの成否が蘇我氏の権威の失墜及び天皇家の復権に結びつけられている。 《大意》 三月三日、 雲無く雨が降りました。 六日、 新羅は賀騰極使〔即位を賀す使者〕と弔喪使を派遣しました。 十五日、 新羅の使者は帰りました。 この月は、霖雨〔長雨〕でした。 四月八日、 大使翹岐(きょうき)は、その従者を率いて朝廷を拝しました。 十日、 蘇我の大臣(おおまえつきみ)は、畝傍(うねび)の家に、 百済の翹岐らを招待し、 親ら応対して語り合いました。 そして、良馬一匹と鉄鋌二十鋌を賜りました。 しかし、塞上(さいじょう)は喚びませんでした。 是の月は、 霖雨でした。 五月五日、 河内国(かうちのくに)の依網(よさみ)の屯倉(みやけ)の〔平地に突き出た〕岬に、 翹岐らを招待して、射猟〔馬弓〕を観覧しました。 十六日、 百済国の調使の船と吉士(きし)の船が、 共に難波津に停泊しました。 【けだし、吉士は先日百済への使者を奉命したか。】 十八日、 百済の使者は調(みつき)を進上し、吉士は服命しました。 二十一日、 翹岐の従者一人が死去しました。 二十二日、 翹岐の子が、死去しました。 この時、翹岐と妻は、 忌むべき子の死を畏れ、とうとう喪に臨みませんでした。 およそ百済や新羅の風俗は、 死者があれば、 父母兄弟夫婦姉妹であっても、 常に自ら見送ることをしない。 これを見るに、 慈しみのなさは甚だしく、どうして禽獣と区別されましょうか。 二十三日、 熟した稲が始めて見られました。 二十四日、 翹岐は妻子を連れて、 百済の大井の家に移りました。 そして人を遣わして子を石川に葬りました。 六月十六日、 微雨でした。 是の月は、大旱魃でした。 5目次 【元年七月】 《可於寺々轉讀大乘經典敬而祈雨》
客星の古訓「マラウトボシ」〔マラヒトボシの音便〕は、「客星」の直訳である。〈時代別上代〉は見出し語に採用しないので、上代には用例はないようである。 一般の古語辞典には載らないので、日本の中古以後の文献にも出てこないと見られる。 中国の記録では、『新唐書』天文志の「○孛彗」の項に客星の出現が含まれ、最初が太和三年〔829〕、最後が天復二年〔902〕で、皇極元年〔643〕の客星の記事はない(資料[68])。 『新唐書』で「客星」とされた中には、「如レ孛」とされたり、移動するものもあるが、それらを除いては位置を変えないようなので、基本的に新星または超新星であろう。 たとえば、837年5月3日〔グレゴリオ暦、以下も〕の「東井〔距星ふたご座μ〕下」に現れた客星は、25日に「東井下客星没」し、出現後22日で場所を変えないまま見えなくなる。 同月7日に「端門内」〔おとめ座βとおとめ座ηの間〕に現れた客星は、6月21日に「東井下客星没」とあり、出現後45日で見えなくなる。 「新星は数10日から数年かけて次第に暗くなる」(理科年表オフィシャルサイト/天文部/新星とは何か)という。 〈皇極天皇紀〉は中国人が執筆したといわれるα群に含まれ、執筆者が使った「客星」は、一般の倭人には馴染のない語であっただろう。 《大佐平智積》 大佐平智積には、元年二月、百済使の従者の言葉として「去年十一月大佐平智積卒」と述べ、死亡説があったことを記している。 その智積を接待した「饗」が七月二十二日。五月十五日の「百済調使停二難波津一」の調使が智積だったのかも知れないが、 だとすればなぜ五月十五日にその名前を書かないのだろうか。 また、位階「大佐平」は倭でいえば大臣 だから、五月の「調使」が智積と一致するかどうかについては何とも言えない。 その問題はひとまず保留して、読み進む。 「乃命健児相撲於翹岐前」は、「乃」があるから饗宴の余興であろう。 そこに翹岐も同席していたと解釈される。 だとすれば、「智積等宴畢而退、拝翹岐門。」は、宴の帰りに翹岐の帰り道に同行し、その門前で挨拶して別れたのだろう。 ところが、接続詞「乃」は逆説にも使われ得ることが、解釈を難しくする。 もし逆説ならば、饗宴と同時刻に翹岐の家で相撲が催されていて、智積も招待されていた。智積は宴を終えてかけつけたがすでに相撲は終わり、智積の庭先は静まり返っていた。 呼びかけたが居留守を使われ、門前で一礼して帰った。むしろこの読み方の方が文章に合っているかも知れない。 何れにしてもこの二十二日条は、根本的に不自然である。 倭で言えば大臣 さらに『三国史記』を見ると、この時期〔義慈王二年七月〕は、百済本記/第六「秋七月。王親帥レ兵。侵二新羅一。下 但し、智積の位階「大佐平」が、本人による僭称、もしくは書紀による粉飾であったとすれば話は別である。それなら、五月にやって来た「調使」と同一人物だとしても差し支えない。 二十二日条は全体が、または少なくとも使者名はフィクションだと思われるが、その内容は翹岐の存在を高める方向で書かれている。 その翹岐を庇護していたのは蘇我蝦夷大臣であるから、後に蘇我氏の子孫の間で先祖を美化する伝説として伝わっていたものを、無批判に書き加えたことが疑われる。 《饗と宴》 七月二十二日条が「饗」で始まり、その終わりは「宴を畢 「饗」について当然想像されることではあるが、ここで確定する。 《入鹿豎者》
「鹿」の上部の朱点は平安中期点の「カ」、左側の朱点は院政期点の「カ」にあたる。このカは習慣により濁点が省略されたもので、属格の助詞「ガ」である。 「獲」の左下の長短二本の縦線は平安中期点の「タリ」、右上角の斜線は院政期点の「タリ」である。 すなわち、二箇所とも院政期点が平安中期点を踏襲している。 なお、ヲコト点による助詞ガは、「翹岐児」「翹岐門」にも用いられている。後者は墨書左訓に「翹岐ノ門」とあり、 このことから、朱ヲコト点から墨書左訓までには相当の時代の隔たりがあることが窺われる。院政期よりもさらに後である。 なお「竪子」は、浦嶼子(丹後国風土記逸文)に出て来る 〔「竪」は豎の異体字〕。 《白雀》 白雀は、アルビノと見られる。 《於寺々転読大乗経典》 前置詞「於」は、それだけで「見」「被」を使わずに受け身文にすることができる。 可於寺々転読大乗経典の「於」は能動主〔by~〕を表すから、 文法的には「Buddhist scriptures should be recited by temples.」〔経典が寺々によって読まれるべきである〕である。 古訓は、シテ~シムを用いて使役文「You shuould make temples recite Buddhist scriptures.」としている。意訳であるが、実質は同じである。 《大寺南庭》 蘇我氏の氏寺は飛鳥寺だが、ここでは「大寺」というから百済大寺であろう。 百済大寺は、移転後に大官大寺と呼ばれるように、官寺〔朝廷が建てた寺〕である。 「南庭」については、天皇の宮殿の場合は「南庭 《厳仏菩薩像》 古訓では、仏もホトケ、菩薩もホトケと訓む。〈岩崎本〉は佛をフツと訓じ、菩薩には声点も訓もない。〈北野本〉・〈内閣文庫本〉は「佛菩薩」全体に訓も声点もない。 〈釈紀〉は「仏菩薩」を一語として「ぶつぼさつ/ほとけぼさつ」と訓むがこのような言い方は他には見えず、苦しい。 「厳」は基本的に形容詞で、動詞に転用する場合も「きびしくする」意である。古訓では他に動詞がないので、これを動詞として扱い「厳格に仏を庭に設 しかし、熟語「厳仏」は力のある言葉なので、菩薩像と四天王像はその内訳と読む方が自然である。筆写の段階で動詞〔設、飾、祀、齊などが考えられる〕が脱落したと見るべきであろう。 《大雲経》 大雲経を〈釈紀〉は大乗経と解釈するが、「大雲経」もれっきとして存在する。 大雲経は、『大方等無想大雲経』の略称。曇無讖(どんむしん)が漢訳した。 『世界人名大辞典』〔岩波書店;2013〕によると、 曇無讖〔385~433〕は中国五胡十六国北涼〔397~439〕の訳経僧。 中インドの人で、呪術、経典に通じ、北涼の沮渠蒙遜(そきょもうそん)に招かれ訳経を行った。 漢訳した主な経典は、『大集経』『大雲経』『悲華経』『菩薩地持経』『優婆塞戒経』『金光明経』『海龍王経』『菩薩戒本』など。 『日本国語大辞典』〔小学館;2000~2002〕によると、則天武后が「実権を握ったとき、薛懐義(せつかいぎ)らが本経をもとに讖文などを偽作し、武后の政権の正当化を図った」 という。但し、則天武后が帝位についたのは天授元年〔690〕で、〈皇極〉元年〔642〕よりしばらく後の話である。 《大意》 七月九日、 客星(かくせい)〔新星〕が月に隠れました。 二十二日、 百済の使者、大佐平(たいさへい)智積(ちしゃく)らを招き朝廷で饗宴しました。 【ある書によれば、 百済の使者は大佐平智積、及びその子達率(たつそつ)名は不明、 恩率(おんそつ)軍善(ぐんぜん)です。】 そして〔別解:同じ時に〕力士に命じて、翹岐の前で相撲をとらせました。 智積らは、宴を終えて退出し、 翹岐の門を拝しました。 二十三日、 蘇我の臣入鹿(いるか)の豎子(じゅし)〔子どもの従者〕が、 白雀(しろさざき)の子を獲りました。 この日の同じ時に、人がいて、 白雀を籠(かご)に納めて、蘇我の大臣(おおまえつきみ)に送りました。 二十五日、 群臣(まえつきみたち)は、口々に語りました。 ――「村々の祝部(ほうり)の教えのままに、 或いは牛馬を殺して、諸社の神に祭祀する。 或いは頻繁に市を移す。 或いは河伯(かわのかみ)に祈祷する。 既にこのようにしているが効き目がない。」 蘇我の大臣(おおまえつきみ)は答えて言いました。 ――「寺々により、大乗経典(だいじょうきょうてん)が転読されるべきである。 過(あやまち)を悔いること仏の説かれる如くにして、慎んで雨乞いせよ。」 二十七日、 大寺の南庭に、 菩薩像と四天王像を厳仏として飾り、 諸僧に屈請して、大雲経などを読経させました。 その時、蘇我大臣(おおまえつきみ)は、 手に香鑪(こうろ)を取り、焼香して発願しました。 二十八日、 微雨が降りました。 二十九日、 雨の祈祷は効果なく、そのまま読経を終えました。 まとめ 翹岐は流されたというが、救出して倭に招くまでの経緯が書かれていない。 また、相撲の催しの件には曖昧さが拭えない。翹岐の従者と子の死亡については、襲撃が想定されるが何も書かれていない。 このように翹岐に関しては記述も不完全で真実性を疑わせる部分もあるが、 にも拘わらず蘇我蝦夷が翹岐を倭国内に住まわせ、庇護優遇していたのは史実であったと思われる。 そして、翹岐が初めに住んだ難波周辺は塞上派の巣窟 一方、新羅からの使者の派遣についての記述が冷淡になっているのは、18年後に唐新羅連合軍によって百済が滅ぼされる日を迎えるからであろう。 天皇と蘇我氏との関係については、雨乞いを通して蘇我蝦夷の権威が失墜しつつある様子が描かれる。 さて、客星については『新唐書』ではどのように描かれているかを調べるうちに、中国の星座名から地球の歳差運動まで深入りすることになった。 その調べたところは、資料[66]~[70]に詳しい。 |
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2022.12.08(thu) [24-3] 皇極天皇3 ▼▲ |
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6目次 【元年八月】 《天皇幸南淵河上跪拜四方仰天而祈》
南淵の訓みは〈推古〉十四年五月に、古訓「南淵 《至徳天皇》 天皇の徳を、古訓者はイキホヒと訓む。イキホヒは天皇の権勢を表す言葉であるが、 ここでの文脈においては天皇の内面的な優れた徳によって雨乞いを成功させたのであって、権力のなせる業ではない。 イキホヒには人民が恐れ慄いてひれ伏すニュアンスがあり、平安期の感覚であろう。 「徳」=イキホヒなる訓読は反射的で、思考停止に陥っていると言わざるを得ない。 「徳」の古訓を見ると、そのうちメグミが最も近い。漢字「至」は「極致に至る」意味を含むが、 和語のイタルは万葉では目的地に物理的に達する場合ばかりで、「イタリ=最上のもの」とする用法は後の時代のものと見られる。 ここの「至」に対しては、シク〔=隅々まで行き渡らせる〕が使えるかも知れない。 《百済使參官》 百済使参官は、一月に筑紫に到着した弔使のことであろうか。 帰りの船が授けられたというが、乗って来た船はどうなったのであろうか。 もし「参官」が個人名ならばあるはずの位階がなく、何かと不審である。 参官は「罷免された官」の場合もあるから、かつて追放された翹岐がここでは参官と表記された可能性もある。 ただし、この意味を載せる〈汉典〉にも文例が挙げられない。 〈中国哲学書電子化計画〉で検索したところでは、「参官」自体の用例が少なく、あっても「朝参官」〔朝廷に参上する官の意〕などで、 「罷免された官」と読める例は見つからない。また、『三国史記』にも用例はない。 ただ、「百済使」とされながら帰る船がないのは、翹岐の事情に外形的に合致している。 すなわち、追放された翹岐が蝦夷大臣に保護ざれて名目上の「大使」として優遇された。 翹岐に、帰国するための船はない。 草稿段階で「翹岐」と書かれていたものが、「参官」に書き改められたとすれば、確かに合理性がある。 《質》 〈舒明〉三年の「入王子豊章為質」は、 実際には641年のことだったと見た。豊章が「達率長福」と同一人物だとすれば時期は合うが、 王子だとすれば位階第二位ということは考えにくく、冠位を与える対象でもないだろう。
賜った船が「触岸而破」したときの天候は「雷鳴於西南角而風雨」と描かれている。 元年八月六日は、グレゴリオ暦642年9月8日に当たり、台風シーズンである。 〔右図の第2室戸台風はけた違いに強力だが、それほど強くなくともこのコースの台風はしばしば阪神地方に甚大な被害をもたらす。〕 「触レ岸而破」は、この日に台風が襲来して、激しい風波によって難波津に用意されていた船が埠頭に衝突したと読める。 「雷鳴於西南角」は、暴風雨が南西から襲ったことを示唆し、台風のコースに合っている。 しかし、九日後の十五日に出航しているから損害は軽微であったか、あるいは船を差し替えたと思われる。 《百済質達率長福》 記述の順番は、船舶・同船三艘を賜る⇒暴風雨で破損⇒冠位・級位の授与⇒船を賜って出発で、 出航が延期された間に予定外に冠位の授与が決まったかのように読める。 しかし、そんな場当たり的なことはあり得なず、最初から出航予定日は十五日ごろだったのであろう。 六日の時点では、実際には罷帰を申し出て、船舶を賜ることが決まっただけだと思われる。 この時点で「罷帰」と書いたのは、原文執筆者による記録の読み違えであろう。 「客人」は使者を接待するときに用いられる表現であるから、使者一行が帰国するに当たって、冠位・級位を授与するセレモニーが行われたということである。 ということは、質だった長福は参官一行と共に帰国したわけである。 王子豊章が新たに質として送られたので、入れ替わりにこれまで質を務めていた長福が帰されたと読むと、理解しやすい。 《発遣》 「発遣」を普通に訓めばタテマダスとなるが、これは下位から上位に向って使者を送る意である。 ここではそれではなく、参官一行が「帰国する」意で使われている。 もともと漢語としての「遣」には役目を解いて自由に行かせる意味もあり、ここではそれにあたり、訓読するならヤルであろう。 「発」は、下二段のタツに「出発させる」意があるから、タテでよいだろう。 《百済新羅使人罷帰》 十六日に高麗使人、二十六日に百済新羅使人が罷帰したと書かれている。 二月二十七日に高麗使人が罷帰したとあるが、八月十六日の高麗使人はこれとは別と見られる。 同様に二十六日の百済使人は十五日に罷帰した参官とは別、二十六日の新羅使人も三月十五日及び十月十五日の弔使・賀騰極使とは別であろう。 ひとつの考え方として、用件に応じて様々なレベルの「使人」が頻繁に行き来していたのかも知れない。 二十六日については身分の低い使者だったから、百済使と新羅使がいわば定期船の乗客として同時に帰ったと考えられる。 使者の行き来全体を見ると〈皇極元年条〉の使者に関する記述は、特定の使者の動きを系統的に追った書き方をしていない。 朝廷に残されていた日誌形式の記録を、単に書き写したのではないだろうか。 《大意》 八月一日、 天皇(すめらみこと)は南淵(みなぶち)の川上に行幸され、 四方に跪拝して、天を仰ぎ祈られました。 間もなく雷が鳴り、大雨となりました。 遂に雨は五日に及び、遍(あまね)く天下を潤しました 【ある本にいう。 五日間の連雨となり、九穀が登熟した】。 このとき、天下の民は、 ともに万歳を唱え、至徳の天皇(すめらみこと)だといいました。 六日、 百済の使者参官(さんかん)一行が退出〔を申し出〕しました。 そのために、大船ともろき船の三艘を賜りました。 この日の夜半、 雷が西南方向に鳴り、風雨となりました。 参官らが乗る予定だった船舶は、〔難波津の〕岸壁に当たり破損しました。 十三日、 小徳(しょうとく)を百済(くたら)の質、達率(たつそつ)長福(ちょうふく)に授けました。 中客(ちゅうきゃく)以下には、位一級を授けました。 クラスに応じて賜物がありました。 十五日、 船を百済の参官等に賜り、出発させました。 十六日、 高麗の使人が退出しました。 二十六日、 百済と新羅の使人が退出しました。 7目次 【元年九月~十一月】 《詔欲營宮室可於國國取殿屋材》
〈皇極紀〉の大寺は、〈舒明紀〉の「百済大寺」と〈天武紀〉の「大官大寺」の間にあたる。大官大寺は、天武二年〔673〕の「拝造高市大寺司」が初出である。 百済大寺は、〈舒明〉在位中には完成せず、〈皇極天皇〉が造営を継続したと考えられている(舒明十一年【百済川側九重塔】)。 原注に「百済大寺」と書かれたのは、書紀が書かれた頃〈皇極朝〉に百済大寺の造営が続いていた記録〔または記憶〕が確実に存在したことを表すと解釈することができる。 《近江与越》 「近江与越」の"近江"は国名であるから、「越」も国名である。 「越辺蝦夷」(後述)の「越」も、明らかに「越国」である。すなわち、〈皇極紀〉の時点で越国は分割前である。 それでは、越国が分割されたのはいつであろうか。
大宝令の行政区画に従えば、『国造本記』の国造の多くは実際には「郡造」とも呼ぶべきもので、『隋書』の「軍尼」もこのレベルと思われる (隋書倭国伝(1))。 ただし、丹後国造については、丹波国を分割して丹後国が成立したのは奈良時代のことだが、国造として挙げられている。 これについては、既に 資料[37]【先代旧辞本紀の評価】で 「飛鳥時代から残されていた国造本紀の原型に、奈良時代の律令国の遷移を付け加え」たのが『国造本記』だと述べた通りである。 ここでいう「原型」は、702年に集約された「国造記」を基にしたのではないかと思われる。 〈続日本紀〉大宝二年〔702〕四月に、「詔。定二諸国国造之氏一。其名具二国造記一」 (資料[55])とある。 ここでは古い県主レベルのものを県主国造、律令国成立以後を律令国造と呼ぶ。 それでは、狭域の県主国造が束ねられて、律令国が成立したのでとあろうか。 ところが広域の国が、はるか以前から確実に存在した。 たとえば、魏志倭人伝の「投馬国」はほぼ出雲国と考えられ、独立した広域の国であったと見てよいだろう。 〈神武〉が東征して畿内に国を打ち立てたが、実際にはたかだか大和国〔恐らく邪馬台国に相当〕一国の制圧を描いたもので、 すなわち大和国は存在していた。 キビノクニ、コシノクニ、ケノクニも弥生時代には広域の独立国として存在したと見てよいであろう。 魏志倭人伝では、毛野国のみ「鬼奴國」が見えるが、キビ、コシはまだ見えない(原文を読む26)。 それでも、律令国についての区分の根源は、弥生時代の広域首長国まで遡るであろう。 越については、『大日本地名辞書』は 「高志国、越国とて上代より名たかきは、北陸出羽までの総号なれど、本来は此〔の〕古志郡の地を根として、 遠く拡布したるごとし」とする。『国造本記』の「高志国造」だけは、表記が「古志」ではないから、郡レベルではなく分割前の越国を名乗るものかも知れない。 上毛国・下毛国には下位の県主国造は載らないので、強い支配氏族が継続して統治していたと思われる。
それでは、越国の地域に越前・越中・越後の三国が置かれたのはいつであろうか。 書紀と〈続紀〉から越地域の記述を抜き出したのが、左の表である。 越国については早い時期に強い権力が失われて狭域権力に分散し、それが『国造本記』の国造に表れているのではないだろうか。 越国とは呼ばれるが、統一的な行政機構としてはあまり実質を伴っていなかったように思われる。 大化元年の「越国言」、〈天智〉七年の「越国献」は、 実際には朝廷の出先としての屯倉がその主体か、あるいはこの土地のどれかの国造を表したもののように思える。 朝廷が本格的に中央集権的な行政機構を構築するに至って、越前国・越中国・越後国を置いたのではないだろうか。 「越国」の区画は出羽地域まで含み、北東の境界は長らく不明瞭だったと思われる。越後国が成立してもその状況は変わらず、和銅五年〔712〕になってやっと出羽国が分離する (《越辺蝦夷》の項参照)。 これらのうち、〈天武〉の「入レ越」は、地域名なので国名は判断できない。 越国の分割は、「越国」の最後が668年、「越前国」の最初が692年であるから、その間ということになる。 直感的には、大宝令〔701〕が近づいた、〈持統〉六年の数年前のようにも思われる。 しかし、同じく広域であった吉備国の分割時期を見ると、〈安閑〉二年〔535頃〕の二十六屯倉の設置のところで「備前国」、「備後国」が見える。ただし、 後に改称〔再編を伴うかも知れない〕があり、概ね備前国⇒備前国、備後国⇒備中国、婀娜国⇒備後国となった (「備後国」の屯倉《河音屯倉》)。 実際の屯倉の設置時期には幅があり、形式的に〈安閑〉二年に集約したと見られるので535年とは限らないが、それでも吉備国の分割は大宝令より1世紀以上は遡ると見られる。 この例を見れば、越国の分割を〈持統朝〉に限定する理由は失われる。 《課諸國使造船舶》 「課二諸国一使レ造二船舶一」は直接的には大寺造営の勅の文中にあるが、 実際には安芸国から遠江国の範囲で伐採させているから、船舶はその殿屋材を飛鳥まで運ぶためであろう。 西国産の木材の水路は、山陽道諸国⇒瀬戸内海⇒難波津⇒河内湖⇒大和川⇒飛鳥川のルートが考えられる。 東国産は、初瀬街道⇒初瀬川が考えられる。遠江国からは東海道(海路)経由で、伊勢で水揚げしたか。 陸路は高低差が大きく大変そうであるから、供出は実際には象徴的な量に限られたかも知れない。 紀伊半島大回りコースもあり得るが、外洋の荒海なので考えにくい。ただ〈神武〉東征で使われているので、この航路が存在したのは事実であろう (〈神武〉戊午年六月(三)【書紀における経路】)。 《東限遠江西限安芸》 ここで建造を意図した「宮室」は、二年四月の「飛鳥板蓋新宮」と思われる(資料[54])。 その建材を供出する割り当ては、安芸国から遠江国までである。 この地域が、強制力をもって通達を発することができる範囲なのであろう。 実際には殿屋材は、紀伊国産だけでまかなえると思われるが、 諸国に事業を請け負わせることにより、中央への帰属意識を強めようとする意図があったのではないだろうか。 ここでこの時点の葦原中国の範囲を考えると、〈安閑〉の二十六屯倉を振り返ると、 西は春日屯倉(肥後国)、東は緑野屯倉(上野国)までで、これが駅使によって通達が届いた範囲だと見られる。 但し、『隋書』の頃に完全な国内として直轄されていたのは尾張国から備前国までで、その外側は未だ統治する氏族の独立性が濃いと見た (隋書倭国伝(4))。 〈皇極〉に至り、直轄地としての安心感をもてる範囲は幾分拡大して、西は安芸、東は遠江までになったと見られる。 《越辺蝦夷》
磐船郡は、その蝦夷との対決の最前線であった。蝦夷との争いからから出羽国の成立に至る過程は、次の通りである。
ここにある通り、〈孝徳朝〉で蝦夷への備えとして磐舟柵が作られ、文武二年に補修が行われている。 同じ文武二年では蝦狄と呼ばれ、方物〔=地方の産物〕が献上されるなど一定の友好関係を保ちながら、一方で警戒を怠らない。 和銅元年には岩船郡の北側を出羽郡と定め、和銅五年には「凶賊霧消」と宣言して出羽国設立に至る。 磐舟柵については、『磐舟-磐舟柵跡推定地調査報告書ー(新潟県文化財調査報告書第九)』〔新潟県教育委員会;1962。以下〈1962報告〉〕によると、 浦田山西の丘陵のふたつの「石槨堡」が磐舟柵の関連構造物ではないかと取りざたされ、1957~1959年に「緊急調査」が行われた。 ところが『史跡村上城跡保存活用計画』〔新潟県村上市教育委員会;2021〕によると、 「緊急発掘調査が行われた結果、磐舟柵設置時期を1世紀以上遡る6世紀の古墳時代後期の石組石室であると判明し、それぞれ「磐舟浦田山古墳群1号墳」「磐舟浦田山古墳群2号墳」と命名されている」(p.45)。 ただし、〈1962年報告〉は、「高く封土をもつ構築物がなかったのではないか」、「古墳を裏付ける遺物を何一つ発見できなかった」などとして、 「(古墳とは)断じ難い」、「石槨堡」は「冊の出張り的な施設と見られぬことはない」(pp.121~132)として、なお磐舟柵に関連する構造物の一部とする見方から抜け出していない。 しかし、肝心の柵の本体と思われる遺跡は全く未発見であるから、すべては推定に過ぎない。 「石槨堡」の写真を見る限り、内面の壁はきれいな平面に整えられており、石室を思わせる。墳丘及び石槨の天井石が失われたのは、洪水などによるのではないだろうか。 磐舟郡内の別の場所に、誰が見ても疑いなく柵跡と言い得る遺跡が埋もれているに違いない。 《慰問》 「慰問」の意味は、国語辞典では主に見舞いとして訪問を伴うが、〈汉典〉では「安慰問候」、 すなわち安んじ慰め、候〔その人の様子〕を問うことであって、特に足を運ぶ意味は加わらない。〈岩崎本〉は、ここでは漢語の意味に沿って、 「慰 饗に呼んだ蝦夷に向って、その場で親しく声をかけたと読むべきであろう。 《新羅弔使賀騰極使》 新羅の弔使賀と騰極使は三月六日に倭に到着し、十五日に罷帰した。 その船が十月十五日になってやっと壱岐島に到着したとすれば、その七か月間に何をしていたのだろうか。 この日付は誤りかも知れないが、筑紫の新羅館にしばらく滞在して、倭国の内情の偵察をしていたことも十分考えられる。 外国からの使節は基本的に警戒の対象とされたと見られる (〈舒明〉五年《吉士雄摩呂黒摩呂》)。 使節の出国にあたっては、対馬・壱岐から「只今通過しました」との報告が義務付けれていたかも知れない。 〈皇極元年〉においては、一般的に日付は原資料〔朝廷の記録など〕にあったものをそのまま記した可能性が高い。 それは、百済などからやって来た使者の動きを繋いでストーリー化せず、一見脈絡のないまま書かれているからである。 むしろこの方が、個々の事実の記録としての信憑性は高いと思われる。 《春気》
このパターンでは、低気圧が発達しながら日本列島を通過し、暖気が入った後、寒冷前線の通過に伴って発雷する(右図)。 寒冷前線は北西方向から移動してくるから、「雷五鳴於西北角」、「雷一鳴於北方」はそれに見合う。 但し、九日の春気については前日の雨の後、強い寒気の到来はまだなく、低気圧への南からの暖気がまだ残っていたと見られる。 十一日の春気の後の十三日の落雷は、寒冷前線によるものであろう。 春気の古訓ハルノシルシは春の予兆という意味であるが、まだ時期が早い。 気はやはりケであろう。ただ、〈時代別上代〉は「平安時代にはその複合語の種類も多く、独立して「けも無し」などとも用いられるが、上代では接辞ふうの例ばかりで、数も少ない」と述べる。 ただ、火気に「ホケ」とともに、助詞ノを入れた「ホノケ」も示しているから、「ハルノケ」もあったと見てよいと思われる。 《夏令》 夏令は、夏〔四月~六月〕に行うべき恒例行事のはずだが、晩秋の九月にずれ込んでいる。 「無雲而雨」を「雲一つない日が続いていたのに雨が始まった」と読めば、夏令から繋がって 「怠っていた夏令を遅ればせながら実施したところ、雨乞いの効果があった」という文意かも知れない。 ただ、言葉が少なすぎるので、この読み方が当を得ているかどうかは分からない。 朝廷に残っていた日誌形式の記録文書をそのまま写したことが、ここでも窺わせる。 《新嘗》 新嘗の古訓はニハナヘであるが、〈記/雄略段〉に仮名書きの確例ニヒナヘがあるので、上代はこれが標準であったと見るべきであろう。 なお、「皇子大臣各自新嘗」は注目される。本来なら宮中の最重要行事だから一同に会して行われるはずだが、この年は分裂状態であったと読める。 蘇我大臣と天皇と間に隙間風が吹いていたのであろう。 板挟みの皇子はどちらに与することもできず、それでは私も別々にということになったと見られる。 《大意》 九月三日、 天皇(すめらみこと)、大臣(おおまえつきみ)に詔して曰く、 ――「朕は大寺を造ろうと思召(おぼしめ)す。 宜く近江国と越国の役丁(えきてい)を徴用すべし 【百済大寺】。 また諸国に課して、船舶を造らしめよ。」 十九日、 天皇は大臣に詔して曰く、 ――「今月から十二月までを限りとして、 宮室を造営しようと思召す。 国々で殿屋の材を取るべし。 しかるに、東の限界は遠江、 西の限界は安芸(あき)として、宮造りの役丁を徴用せよ。」 二十一日、 越の辺境の蝦夷(えみし)、数千人が内附しました。 十月八日、 地震あり、雨でした。 九日、 地震あり。 その夜に 地震あり、風が吹きました。 十二日、 蝦夷を朝廷で饗宴しました。 十五日、 蘇我(そが)の大臣(おおまえつきみ)は、家で蝦夷に饗宴を設け、 自ら慰労し様子を尋ねました。 この日、 新羅の弔使の船と賀騰極使(がとうきょくし)〔即位を祝賀する使者〕の船が、 壱岐嶋(いきのしま)に停泊しました。 二十四日、 夜中に地震がありました。 この月に 夏令を行い、雲が無かったのに雨が降りました。 十一月二日、 大雨と雷がありました。 五日、 夜半に、雷が一回西北方向に鳴りました。 八日、 雷が五回西北方向に鳴りました。 九日、 天暖かく、春気の如きでした。 十日、 雨が降りました。 十一日、 天暖かく、春気の如きでした。 十三日、 雷が一回北方に鳴り、風が起こりました。 十六日、 天皇(すめらみこと)は御新嘗されました。 この日、 皇子(みこ)、大臣(おおまえつきみ)は、各自新嘗しました。 まとめ 磐舟柵は、岩船郡の北の境界〔現在の新潟・山形の県境〕に沿って設置されていたと推定するのが合理的であろう。 必ず痕跡は残っているはずである。 「参官」についてはいつ来たのかも書かれていないが、実は翹岐ではないかという思いは強まる。 倭国に亡命した翹岐を、大使として扱い厚遇したのだから、帰路にはそれに相応しい立派な船を用意したのは当然のこととなる。 この後、二年四月には「百済国主児翹岐弟王子共調使来」とある。これは翹岐らが自ら調使となってやって来たとも、使者をあつらえて派遣したとも読めるが、 どちらにしても、翹岐は既に本国に戻っていたことになるのである。 |
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⇒ [24-4] 皇極天皇2 |