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2022.08.28(sun) [24-1] 皇極天皇1 

目次 【即位前】
天豐財重日【重日、此云伊柯之比。】足姬天皇〔皇極〕……〔続き〕


目次 【元年正月~二月二日】
《百濟國今大亂矣》
元年春正月丁巳朔辛未。
皇后卽天皇位。
以蘇我臣蝦夷爲大臣如故。
大臣兒入鹿【更名鞍作。】
自執國政。威勝於父。
由是、盜賊恐懾、路不拾遺。
元年春正月…〈岩崎本〔以下岩〕[ノ][ノ]春正月[ノ]丁巳[ノ]朔辛未[切] 皇后[切]--皇位[句]蘇我[ノ]蝦夷エヒス[ヲ]大臣[ト][切][ノ][句] 大臣[ノ]鹿イルカ[切]マタ[ノ][ハ]クラツクリ ミ ラ[ノ][ヲ][テ]イキホヒイキホヒ[切] レ[リ]カソ[ヨリ][句] 由是[ニ]-ヌスヒトヌスヒト-オチヒシテ■■[テ][ニ]トラトラオチモノオチモノ[句]
[ ]はヲコト点による。
…[名] (古訓) ふるし。いにしへ。もと。
恐懾…〈北野本〔以下北〕〉恐懾オチテヒシ。 〈内閣文庫本〔以下閣〕〉恐-懾 ヒシテ オチ ヒシ
ぬすびと…[名] どろぼう。
…[動] おそれる。(古訓) おつ。おとろく。
おぢひす…[自]サ四 〈時代別上代〉など諸辞書に見出し語なし。
不拾遺…〈北〉トラオチモノ
ひりふ…[他]ハ四 拾う。(万)3709可比乎比里布等 かひをひりふと」。
元年(はじめのとし)春正月(むつき)丁巳(ひのとみ)を朔(つきたち)として辛未(かのとひつじ)〔十五日〕
皇后(おほきさき)天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。
蘇我(そが)の臣(おみ)蝦夷(えみし)を以ちて大臣(おほまへつきみ)と為(な)したまふこと故(もと)の如(ごと)し。
大臣(おほまへつきみ)の児(こ)入鹿(いるか)【更(また)の名は鞍作(くらつくり)。】、
自(みづから)国の政(まつりごと)を執(と)りて、威(いきほひ)[於]父(ちち)に勝(まさ)れり。
是(こ)に由(よ)りて、盗賊(ぬすびと)恐懾(おそりお)ぢて、路(みち)に遺(のこれるもの)さへ不拾(ひりはず)。
乙酉。
百濟使人大仁阿曇連比羅夫、
從筑紫國、乘驛馬來言、
「百濟國、
聞天皇崩、奉遣弔使。
臣隨弔使、共到筑紫。
而臣望仕於葬。
故先獨來也。
然其國者、今大亂矣。」
百済使人…〈岩〉 ノ使-人大-阿曇[ノ]連比-羅-夫
乗駅馬…〈岩〉驛馬ハイマハイマ[ニ][テ]マウキ[テ] ク[切] 百濟[ノ]ウケタマハリ天皇崩[ト][リ][テ]-タテマツセリ[セリ]トフライ-使[ヲ][句]ヤツカレ-使[ニ][ニ]マウイタレリマウイタレ[リ]筑紫[ニ][句]
弔使…〈北〉-遣タテマタセリ弔使トフラヒ
たてまだす…[他]サ四 遣わすの尊敬語。
而臣望…〈岩〉[ニ]ヤツカレヤツカレ[ハ]オモフ[コト][ヲ]ツカマツラント[句]故先[テ]マウケリ マウ [リ][句]
はぶり…[名] 葬儀。ハブルの名詞形。
其国…〈岩〉[モ]カノカノ國者[ハ]今大[ニ][タリ][句]
乙酉(きのととり)〔二十九日〕
百済(くたら)に使人(つかはせるつかひ)大仁(だいにむ)阿曇連(あづみのむらじ)比羅夫(ひらふ)、
筑紫国(つくしのくに)従(ゆ)、駅馬(はゆま)に乗りて来(まゐき)て言(まをさく)、
「百済国(くたらのくに)、
天皇(すめらみこと)崩(ほうず)と聞きまつりて、弔(とぶらひ)の使(つかひ)を奉遣(たてまだ)せり。
臣(やつかれ)弔使を隨(したが)へて、共に筑紫(つくし)に到(いた)りつ。
而(しかれども)臣(やつかれ)[於]葬(みはぶり)に仕(つか)へまつらむと望(おも)へり。
故(かれ)先(まづ)独(ひとり)来(まゐく)[也]。
然(しかれども)其(その)国者(は)、今大(はなはだ)乱(みだ)りてあり[矣]。」とまをす。
二月丁亥朔戊子。
遣阿曇山背連比良夫
草壁吉士磐金
倭漢書直縣、
遣百濟弔使所、
問彼消息。
遣百済弔使所…〈岩〉阿曇[ノ]山背[ノ]連比[切]草壁[ノ]吉士キシイハカネ◰倭ヤマト[ノ]アヤ[ノ][ノ]フムノアカタ[ヲ][切] マタシツカハシ百濟[ノ]-使[ノ]モト[ニ][テ]  シム[シム][ノ]-アルカタチアルカタチ[ヲ][句]
かの…[連体] 〈時代別上代〉用例ははなはだ少ない。
…[指代] (古訓) そこ。それ。かれ。
二月(きさらき)丁亥(ひのとゐ)を朔(つきたち)として戊子(つちのえね)〔二日〕
[遣]阿曇山背連(あづみのやましろのむらじ)比良夫(ひらふ)、
草壁吉士(くさかべのきし)磐金(いはかね)、
倭漢書直(やまとのあやのふみのあたひ)県(あがた)をつかはして、
[遣]百済弔使の所(ところ)にいたらしめて、
彼(そこ)の消息(あるかたち)を問はしむ。
弔使報言、
「百濟國主謂臣言、
塞上恆作惡之。
請付還使、
天朝不許。」
報言…〈岩〉カヘリコトマウシテ[テ][切] 百濟[ノ][ノ]コキシコキシ[切]ヤツカレヤツカレ[ニ][テ]シク[切] サイ 人名シヤウ[切][ニ]作惡アシキワサスアサキワサ[ス][句][ト][モ]サツケム/サツケ給ハム[ト]還使[ニ]天朝スメラミコトスメラミコト[句]
国主…〈北〉コニキシヤツカレ[ニ]イヒシク[切]■ヒシヤウマウス[ト]還使サツケタマハム[ニ][切]天朝スメラミコトユルシタマハ
…[動] こう。(古訓) こふ。ねがふ。
…[動] 手渡す。(古訓) さつく。
弔使(とぶらひのつかひ)報(かへりことまをして)言(まをししく)、
「百済国(くたらのくに)の主(ぬし、こきし)臣(やつかれ)に謂(かた)りて言へらく、
『塞上(さいじやう)〔人名〕恒(つね)に作悪(あしきわざす)[之]。
還使(かへしづかひ)を付(さづけたま)はむと請(ねが)ひまつれど、
天朝(あまつみかど、すめらみこと)不許(ゆるしたまはじ)』といへり」とまをしき。
百濟弔使傔人等言、
「去年十一月、
大佐平智積卒。
又百濟使人、
擲崐崘使於海裏。
今年正月、
國主母薨。
又弟王子兒翹岐
及其母妹女子四人、
内佐平岐味、
有高名之人卌餘、
被放於嶋。」
弔使傔人…〈岩〉トモヒト トモ 
傔人…従者。ともびと。
去年…〈岩〉去年 コソ 。 〈北〉傔-人トモヒトイハク去年イニシトシ十一月シモツキタイヘイシヤクミマカリヌ
こぞ…[名] 去年。今夜。
智積…〈岩〉タイ-佐-ヘイシヤクミウセ[ヌ]ミマカリヌ
崐崘使…〈岩〉ナケイル[タリ]コム國名ロン使[ヲ]- ウミ [ニ]
国主母…〈岩〉[ノ]コキシコキシ[ノ]オモミウミウ[ヌ][句]。 〈北〉今年コトシ正月ムツキコニキシオモミウセヌ
弟王子児…〈岩〉タイタイ/ヲト-ワウ セシム-[ノ][ハ]ケウ[切] 及其ハゝ-ハラカラ/オモハラカラ-エハシトエハシト四人 ナイ-佐-平 -[切]  キ-名之[切]卌餘ヨソタリ/ヨソ■アマリ[切]   ル[ヌ]セマセマ[句]。 〈北〉ケウ。 〈釈紀〉弟王子タイワウジノ/ヲトセシムノ
母妹…〈汉典〉「同母之妹。別于庶妹〔庶妹と区別していう〕」
百済の弔使(とぶらひのつかひ)の傔人(ともびと)等(ら)言(いへらく)、
「去年(こそ)の十一月(しもつき)、
大佐平(たいさへい)智積(ちしやく)卒(そつす、みまかりぬ)。
又百済の使人(つかひ)、
崐崘(こむろむ)の使(つかひ)を[於]海の裏に擲(なげう)てり。
今年(ことし)の正月(むつき)、
国の主(ぬし、こきし)の母(はは)薨(こうず、みうせぬ)。
又(また)弟王子(たいわうじ、おとせしむ)の児(こ)翹岐(けうき)と、
[及]其の母妹(いろど)の女子(をみな、えはしと)四人(よたり)、
内佐平(ないさへい)岐味(きみ)、
高き名を有(もてる)[之]人四十(よそたり)余りと、
[於]嶋(しま)に被放(はなたえり)。」といへり。
《即天皇位》
 天皇即位については〈持統天皇紀〉には有司が三種の神器を奉るなどのきめ細かい描写があるが、〈皇極紀〉では最小限を書くのみで、即位に至る経過は何も書かれていない。 ただ、〈敏達紀十三年〉に東宮開別皇子が十六歳でしのひことしたとあることは、成長するまでの中継ぎであることを暗示する。
《盗賊》
 盗賊には、傷つけて強奪するニュアンスがあり、ヌスビトと訓むとやや意味が弱い。逆にアタと訓むと逆賊となり、「落とし物も盗まず」という文が続くには意味が強すぎる。 道に落ちているものを拾うことも躊躇するという表現からみて、やはり強盗よりも窃盗か。
 それは取り締まりの強化であり、これを蘇我入鹿の専横ぶりの結果とするのは、やや飛躍がある。
《路不拾遺》
 が落とし物を意味することは明らかだが、古訓「オチモノ」は各種古語辞典には載らない。意味は明白であるが、あまり用例がないらしい。 「路にノコレルモノ」と直訳しても十分意味は伝わるだろう。
 の古訓「トル」は意訳である。 「」については、〈時代別上代〉は「万葉の東歌にはヒロフの例もあるが、あとはすべてヒリフである。名義抄には「拾・摭」など多くの字にヒロフの訓があるが、ヒリフの形は見出せない」と述べる。 つまり、平安時代にヒロフに移行したと見る一方で、万葉編者によって古い方の形に統一された可能性も見ているわけである。
《阿曇連比羅夫》
 阿曇連比羅夫は、次の段に出て来る阿曇山背連比良夫と間違いなく同一人物である。阿曇山背氏について、〈姓氏家系大辞典〉は「阿曇氏の一族」で「阿曇連が其の居住地山背を続けて復式〔複式〕の氏としたるもの」とする。
 阿曇連の起源や分布、記紀における活躍の様は、第43回にまとめた。 付け加えると、志賀島しかのしまが発祥の地と言われ、〈倭名類聚抄〉には{筑前国・糟屋郡・阿曇郷}とある。 起源については、アマテラス族とともに渡来したアマ族の一つと見た。〈姓氏家系大辞典〉は「アヅミはアマツミ(海積)の約」とする。
 安曇連は大連になることこそないが、有力氏族として朝廷を支え、天武十三年には宿祢姓〔八色の姓の第三位〕を給わる。
 「比羅夫」はよくある名前で、他に荒田井直比羅夫〔〈孝徳紀〉〕などが見える。阿曇連の比羅夫はこの一か所だけの登場である。
《穂高神社の御祭神》
 阿曇連比羅夫命穂高神社の御祭神のうちの一柱で、若宮に祀られている。穂高神社〔長野県安曇野市穂高6079〕は式内社{信濃国/安曇郡/穂高神社【名神/大】}で、 この地の阿曇族の氏神と考えられ、同社の公式ページ御由緒」によれば、「穂高見命は海神(わたつみ)族の祖神であり、その後裔である安曇族は北九州方面に栄え主として海運を司」る氏族で、 中殿に穂高見命、左殿に綿津見命が祀られている。
穂高連邦 河童橋付近から見る
:西穂高岳 :奥穂高岳 :前穂高岳
穂高神社と穂高岳 穂高神社拝殿
 穂高見という神名は記にはなく、〈姓氏録〉〖安曇宿祢/海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也〗に見える。綿積ワタツミだが、海神ワタツミと訓む。 ワタツミの成り立ちは、ワタ〔海の古語〕〔古い属格の助詞〕〔霊〕と見られる。
 「豊玉彦」の名は記にはなく単に「海神」で、山幸彦が釣り針を求めて訪れた海底王国の神である。 「海神豊玉彦」は、一書1に出て来る(第89回)。 記では、海神のむすめの名前が「豊玉毘売」である(第90回)。
 「穂高」は天を突く山の姿を思わせ、穂高見命はもともとは穂高連峰に坐す神であった可能性が濃厚である。これに阿曇族がオセアニアから持ってきた海神と血縁関係を結ばせたもので、一種の習合であろう。
 若宮の祭神「阿曇連比羅夫命」は、〈皇極紀〉に登場した祖先を神として祀ったものと見られる。
《草壁吉士磐金》
 草壁吉士磐金は、〈推古五年〉、〈同三十一年〉に新羅に派遣された。 同六年では「難波吉士」だが、他は単に「吉士」となっている。 「草壁」は日下部で、地名日下に因む名前をもつ王の御名代みなしろということになる。 〈姓氏家系大辞典〉は「仁徳天皇の御子大日下王、若日下王の為に設けたる御名代部より発達し、後に天下の大性」、 「(大)草香部吉士:大日下王に仕へし難波吉士日香蚊の後なり」と述べる。
 草壁吉士の始祖伝承については、 〈安康〉元年に「難波吉師日香蛟、父子並仕于大草香皇子」。 〈雄略〉十四年に「-分子孫、一分為大草香部民以封皇后〔草香幡梭姫皇女〕、一分賜茅渟縣主負嚢者。即求難波吉士日香々子孫姓為大草香部吉士」。
 一方、「吉士」は新羅の位階十四位で、先祖は新羅から渡来し「吉士」はかばねとなった。
 よって、渡来人の子孫である難波の吉士が、大草香皇子あるいは草香幡梭姫皇女に仕えて御名代となり、草壁吉士と呼ばれるようになったという筋書きが推定される。
 なお、地名「日下」については、「孔舎衛坂」が〈神武〉即位前(神武4)にあり、また草香江(河内湖)がある。
《倭漢書直県》
 倭漢書直県は、〈舒明十一年〉で、百済大寺と大宮の建造の際大匠を務めた。
《遣阿曇山背連比良夫~遣百済弔使所》
 「遣阿曇山背連比良夫…」の文には「」が二つある。このままでは使者が更に使者を派遣したことになるが、ここでは不自然である。 もし二つ目の「」を「」に直せば、正しい文になる。第二十四巻はα群に属するから中国人の執筆だが、それでもこの箇所は倭習と考えざるを得ない。
《百済大乱》
 皇極元年〔壬寅〕は百済義慈王二年にあたる。〈三国史記〉には、その前年に「武王薨、太子〔義慈王〕嗣位。」とある。 武王四十二年〔=義慈王元年〕までの数年間、および義慈王二年に、国内の騒乱の記事はない。
 しかし、〈皇極元年二月〉条は武王が薨じた後王位の継承を巡る対立があり、弟の子翹岐〔きょうき〕の一族を弾圧したと描くものである。
《請付還使天朝不許》
 「請付還使天朝不許」を、「弔使を今すぐ帰すように願い出ても、朝廷は許可しないだろう」と読むことができれば意味は通るが、「」があるからそうはいかない。 文意は「帰国する使者に、倭の有力な者を同行させて助けてほしい」であろう。古訓もそのように読み取り、「サヅク」と訓んでいる。 「天朝不許」は言葉の綾で、物事を要請するときに遜って 「~していただきたいのですが、お許しだけいただけないでしょうね」と言うものである。
 二十二日の「国勝吉士水鶏使於百済」は、その要請に応えたものと言えよう。
《傔人等言》
 古訓が「マウサク」ではなく「イハク」を用いるのは、公的な言上ではなく従者の雑談と位置付けたためと思われる。 その話の中身は、必ずしも信憑性があるとは限らないようである。
 たとえば、翹岐が島流しされたことが事実だとすれば、それを二月二日に知り二十四日に「召」したことになるが、 その期間に朝廷との相談を終えて「嶋」まで出かけ、救出して連れ帰るには短すぎる。
 また崑崙使を海に投げ込んだ件では、その経緯が不明で、きわめて断片的である。 書紀は、噂の類として書き加えたと見た方がよいだろう。
《大佐平智積卒》
 佐平は周書〔636成立〕によれば十六品の第一位で定員5人(安閑2)。 『三国史記』には百済文周王〔475~477〕に「上佐平」「内臣佐平」「兵官佐平」が見え、官職名を兼ねるようである。 新羅本紀-武烈王七年〔660〕には、唐・新羅連合軍が百済を攻め「義慈子隆与大佐平千福等、出降。」とある。 大佐平は官職の最高位と見られる。
 「」の音については、〈釈紀〉の注音に「大人タイジム」とあるので、清音だったようである。
《卒》
 「」は、『礼記』によれば、天子の崩諸侯王や妃などの薨に次ぐ称で、「大夫」の死である (第95回)。
 古訓では、〈岩崎本〉にはミマカリヌミウセヌが並記されているが、薨にミウス〔身失す〕が宛てられるので、区別してミマカル〔身罷る〕が適切であろう。 ただ、本サイトでは礼記に従い音読を用いている。実際には飛鳥時代には音読みは既に普通だったようである。古訓はなるべく倭の古語を用いようとするが、無理をして不自然になったと見られる訓みも多い。
《崑崙》
「崑崙」関連地名
 崐崘〔崑崙、昆侖〕は、基本的に中国西域の山脈である。 〈汉典〉を見ると、次のようになっている。
・「昆侖:②崑崙山。在新疆西蔵〔チベット〕之間、西接帕米爾〔パミール〕高原、東延-入青海境内。勢極高峻、多雪峯、氷川。最高峯達七七一九米。古代神話伝説、崑崙山上有瑤池、閬苑、增城、県圃等仙境。 ③古代西方国名。
・「崑崙〔同上に加え〕⑨古代〔あまねく〕中印半島南部及南洋諸島各国或其国人
 古い書では、『説文解字』〔後漢〕に「:大丘也。崐崘丘謂之崐崘虚」。 これは"虚"の意味が「大丘」であることの用例で、これはつまり後漢の時代に山名としての「崐崘」があったことを示す。
 「古代西方国名」とあるが、『漢書』西域伝の挙げる国名に「崑崙」は含まれず、伝説上のみの国のようである。『漢書』でも「河出昆侖」「昆侖高二千五百里余」など、国名はなく山名ばかりである。 よって、7世紀の時点で西域に「崑崙国」が存在していて百済と交流していたとは、とても考えられない。
 〈皇極帝〉の頃の記事に崑崙を探すと、『隋書』列伝四十六東夷「琉求国」条に、大業四年〔608〕琉求に軍を送った文中にあった。 そこには、次のように書かれている。
 「初稜将南方諸国人従一レ軍。有崑崙頗解其語。遣人慰諭之、流求不従、拒-逆官軍。稜擊走之、進至其都、頻戦皆敗、焚其宮室、虜其男女數千人、載軍實而還。自爾遂絶
 〔初めに陳稜は南方諸国人を率いて従軍させた。その中に崑崙人がいてすこぶる言葉を解した。使者を送り流求を説得したが従わず、陳稜は撃走し都に至り、ひたすら戦い皆破り、宮室を焼き、男女数千人を虜にし、軍実〔戦利品〕を載せて帰還した。これより遂に〔関係は〕絶えた〕
 「遂絶」は、絶滅とも読めるが、「」「」ではないので、以後交流はないという意味かも知れない。
 なお、琉求に攻め入る前に一度使者を送り、平和的に説得している。
 「帝復令寬慰撫之、流求不從、寬取其布甲而還。時倭國使來朝,見之曰:「此夷邪久國人所用也。」
 〔帝は再び寛容に支配下に入るよう説得したが従わず、ここは穏やかに装甲をもらい受けて持ち帰った。たまたま訪れていた倭国使〔時期から見て小野妹子一行に相当〕に見せたところ、「これは夷邪久国人が用いるものである」と言った〕
 夷邪久イヤクは、掖玖国〔屋久島〕であろう。 「布甲」の意味は軍勢だが、原意は身に着ける鎧と見られ、ここでは文脈から見てそれであろう。それを記念にしたいのでプレゼントして下さいと言って持ち帰ったが、その目的は、琉求の軍事的な水準を推しはかり、送る軍勢の規模や作戦を定めるためであろう。
 倭国使の言葉から、琉求現在の琉球のことで掖玖国と文化的な類似性があった。そもそも琉求国は掖玖国のことである。 琉求は強大で、屋久島まで勢力圏に含んでいた。などと読み取ることができる。 だとすると、〈推古二十四年〔617〕以後の掖玖人帰化と関係があるようにも思われるが、帰化は9年後なので判断は難しい。 また、男女数千人を虜として本国に送ってしまえば、掖玖国の規模では無人になってしまうだろう。「尽男女」とは書いてないから、まだ相当の人口が残っていたはずである。
 この点はまだまだ詰め切れないが、少なくとも「崐崘」は上記〈汉典〉の示す意味のうち「⑨南洋諸島各国人」を指すと見てよいだろう。 その候補には、沖縄本島も含まれるであろう。 西域の山「崑崙」の東夷の島への転用には驚かされるが、倭語でも最初は加羅国を指したカラが、三韓・唐・東南アジア・ペルシャ・欧米へと際限なく転用されるから、似たようなものであろう。
《嶋》
 は百済人の言葉ではセマだったとしても、全体が和文である中の一般名詞であるからシマが適切である。
《大意》
 元年正月十五日、 皇后は天皇に即位されました。
 蘇我臣(そがのおみ)蝦夷(えみし)を、引き続き大臣(おおまえつきみ)とされました。
 大臣の子入鹿(いるか)【別名鞍作(くらつくり)】は、 自ら国政を執り、威は父に勝りました。 そのため、盗賊は恐慌に陥り、路に落ちているものさえ拾いませんでした。
 二十九日、 百済国に派遣していた使者、大仁阿曇連(あずみのむらじ)比羅夫(ひらふ)が、 筑紫国から早馬に乗って来て報告しました。 「百済国は、 天皇(すめらみこと)の崩を聞き、弔使を派遣しました。 私は弔使を連れて、共に筑紫(つくし)に到着しました。
 しかし、私は〔一刻も早く〕ご葬儀をお手伝いしたいと望み、 まずひとりで参上しました。 けれども、百済国は、今大乱にあります。」
 二月二日、 阿曇山背連(あずみのやましろのむらじ)比良夫(ひらふ)、 草壁吉士(くさかべのきし)磐金(いわかね)、 倭漢書直(やまとのあやのふみのあたい)県(あがた)を派遣し、 百済の弔使の所に行かせ、 その国の消息を問わせました。
 弔使の報告の言葉は、 「百済国の主(こんきし)〔義慈王〕は私にこう語りました。 『塞上(さいじょう)〔人名〕は、恒に悪事をはたらきました。 弔使が帰るときに、返使を付き添わせてほしい要請いたしますが、天朝はお許しなされないでしょう』」というものでした。
 百済の弔使の従者たちは言いました。 「昨年の十一月、 大佐平(たいさへい)智積(ちしゃく)が卒し〔=死に〕ました。
 また、百済の使者は、 崐崘(こんろん)〔南方の島嶼国〕の使者を海裏に投げ棄てました。
 今年の正月、 国の主(こんきし)の母が薨じ、 またまた弟の王子(せしむ)の子、翹岐(きょうき)、 及びその同母の妹である女子四人、 内佐平(ないさへい)岐味(きみ)、 高名の持ち主四十人余りが、 島流しにされました。」


目次 【元年二月六日~二十七日】
《高句麗大臣弑大王與百八十餘人》
壬辰。
高麗使人、泊難波津。
…〈岩〉トゝマレリトゝマレ[リ]難波津[ニ][句]。 〈北・閣〉難波。(万)4330 奈尓波都尓 なにはつに
〔二月〕壬辰(みづのえたつ)〔六日〕
高麗使人(こまのくにのつかひ)、難波津(なにはつ)に泊(は)つ。
丁未。
遣諸大夫於難波郡、
檢高麗國所貢金銀等幷其獻物。
…〈岩〉カ  シム[シム]高麗[ノ][ノ]レル[切][テ]タテマツル[ヲ][句]。 〈北〉於難波サトニカムカヘシム
丁未(ひのとひつじ)〔二十一日〕
諸(もろもろ)の大夫(まへつきみ)たちを[於]難波郡(なにはのこほり、なにはのおほきこほり)に遣(つかは)して、
高麗(こま)の国の所貢(たてまつれる)金(くがね)銀(しろがね)等(ら)并(なら)びに其の献(たてまつれる)物(もの)を検(かむが)へしむ。
使人貢獻既訖而、
諮云。
「去年六月。
弟王子薨。
秋九月。
大臣伊梨柯須彌弑大王、
幷殺伊梨渠世斯等百八十餘人。
仍以弟王子兒爲王。
以己同姓都須流金流爲大臣。」
諮云…〈岩〉貢獻[コト][ニ][テ]マウマウ[テ]イハク[切] 貢献(ミツキ)タテマツルコトスデヘテマウシテハク〕
…[動] 上から下に相談する。諮問。
弟王子薨…〈岩〉ヲト--セシム[切]ミウセミウセ[ヌ][句]。 〈北〉ヲト王子セシムミウセヌ
大臣…〈岩〉大臣オホ  キ オミキ オミ 伊梨姓也  柯須弥名也 大王コニキシコ■シム[ヲ][切]。 〈北〉オホキオミ大王コホオシム。 〈閣〉大臣オホキオミ/オホオミ大王コニキシコホオシム
[テ]等百八十餘[ノ][ヲ][句]
…[動] 目下が目上を殺す。
仍以弟王子…〈岩〉[テ]ヲト-王-子キシノ/セシム[ノ][ヲ][テ][セリ]コキシコキシ[ト] リテ〕
己同姓…〈岩〉[カ]-ウカラ -人名--コム [ヲ]大臣オホヲミオム  オム[ト]。 〈北〉コニキシアカ同-姓ウカ大-オム
使人(つかひ)貢(みつき)献(たてま)つること既に訖(を)へて[而]、
〔諸大夫〕諮(はか)りて、云(まをししく)。
「去年(こそ)六月(みなづき)に、
弟王子(たいわうじ、おとせしむ)薨(こうず、みうせぬ)。
秋九月(ながつき)に、
大臣(おほきおみ)伊梨柯須弥(いりかすみ)、大王(たいわう、こきし)を弑(ころ)して、
并(なら)びに伊梨渠世斯(いりこせし)等(ら)百八十余人(ももたりあまりやそたりあまり)を殺しつ。
仍(よ)りて弟王子(おとわうし、おとせしむ)の児(こ)を以ちて王(わう、こきし)と為(な)して、
己(おのが)同姓(うがら)都須流金流(つするこむる)を以ちて大臣と為せり。」とまをしき。
戊申。
饗高麗百濟於難波郡。
…〈岩〉アヘタマフ高麗百[ノ]ノマラウトマラウト難波[ノ][句]
…〈閣〉高麗マフトニ客イ・―下加客字讀之〔下に客の字を加へて之を読め〕
戊申(つちのえさる)〔二十二日〕
高麗(こま)百済(くたら)のまらひと〔客〕に[於]難波の郡(こほり、おほきこほり)に饗(あへ)たまふ。
詔大臣曰。
「以津守連大海可使於高麗。
以國勝吉士水鶏可使於百濟
【水鶏、此云倶毗那】。
以草壁吉士眞跡可使於新羅。
以坂本吉士長兄可使於任那。」
大海…〈岩〉津守[ノ]オホ-アマアマ[ヲ][テ]-使ツカハス ツカハス[ス]於高麗[句]
水鶏…〈岩〉國勝◰[ノ]吉士-クヒナクヒナ[ヲ][テ]【水鶏此云倶 -◱[ヲ][テ]ナカ-◱[ヲ][テ]
大臣(おほまへつきみ)に詔(みことのり)曰(のりたまはく)。
「津守連(つもりのむらじ)大海(おほあま)を以ちて[於]高麗(こま)に使(つか)はす可(べ)し。
国勝吉士(くにかつのきし)水鶏(くひな)を以ちて使[於]百済に使はす可し
【水鶏、此(こ)を倶毗那(くひな)と云ふ】。
草壁吉士(くさかべのきし)真跡(まと)を以ちて[於]新羅(しらき)に使はす可し。
坂本吉士(さかもとのきし)長兄(ながえ)を以ちて[於]任那(みまな)に使はす可し。」とのりたまふ。
庚戌。
召翹岐、安置於安曇山背連家。
…〈岩〉ハムヘハムへラシム[シム]
庚戌(かのえいぬ)〔二十四日〕
翹岐(しやうき)を召し、[於]安曇(あづみ)の山背(やましろ)の連(むらじ)の家(いへ)に安(やすら)けく置けり。
辛亥。
饗高麗百濟客。
辛亥(かのとゐ)〔二十五日〕
高麗(こま)百済(くたら)の客(まらひと)に饗(あへ)たまふ。
癸丑。
高麗使人百濟使人、並罷歸。
癸丑(みづのとうし)〔二十七日〕
高麗(こま)の使人(つかひ)百済(くたら)の使人(つかひ)、並びに罷帰(まかる)。
《泊難波津》
 の古訓「トドマル」は、<時代別上代>「トマルが動きを止める・停止するの意を主とするのに対し、トドマルは残留の意を主とするようである」 とされるように、到着した後動かない様子を意味する。
 しかし、ここでは「到着する」動作を表すから、通常のハツの方がよい。 なお〈仮名日本紀〉は「とまれり」だが、これはこれで〈時代別上代〉「船が泊る意にはハツを用いて、トマルを用いた例を見ない」ので上代語から外れている。
 ここの難波津は、〈岩崎本〉はナニハツ、〈北野本〉・〈内閣文庫本〉・〈仮名日本紀〉はナニハノツと訓む。 なお、〈岩崎本〉は元年五月「ナニハツ」、二年六月「ナニハノツ」で一定しない。 万葉では、明らかにナニハツが定着しているから、 〈北野本〉以後、を挟んだ形が踏襲され、奈良時代の習慣を考慮しない。
《難波郡》
 〈継体六年〉【難波館】の項で見たように、高麗館や難波館本館が「難波大郡」に置かれていたのは確実である。 難波大郡は上町大地の東半分で、後に河内湖が陸化した部分を含めて東生郡となる。難波宮を中心とする副都なので「大郡」と呼び、 西の茅渟海〔大阪湾〕側は農村地帯なので「小郡」と呼んだようである。
 したがって、「難波郡」は〈皇極紀〉に計三回出て来るが、これが難波大郡を意味するのは明らかである。 〈北野本〉の「サト」は不適切である。
《諮云》
 高麗からの貢献の品をかむがたのは、高麗による弔使の派遣が不意のことで、その意図を知ろうとしたと見られる。 「泊難波津」、すなわち船が着いたという表現に、突然来たニュアンスが感じられる。さもなければ「高麗国奉遣弔使」と普通に書くだろう。 この部分は、高麗船の突然の到来に驚き、大夫たちが様子を見に集まったところ、金銀を含む豪華な朝貢品を持参したことがわかり驚いたと読める。
 よって「」は原義の通り上から下への問い合わせであり、「諸大夫」が使者に、高麗の政情を尋ねたと読むべきであろう。
《大臣》
 大臣については三漢における名称が伝わっていないようで、古訓では「オホキオ」と直訳している。
《伊梨柯須弥》
 『三国史記』に、対応する記事がある。
『三国史記』巻二十:高麗本紀第十「建武王」〔栄留王〕二十五年〔壬寅(642);皇極元年〕
冬十月 蓋蘇文弑冬十月、蓋蘇文、王をころす。
『三国史記』巻二十一:「宝蔵王上」〔元年〕
建武王在位第二十五年 蓋蘇文弑之 立蔵継建武王在位第二十五年。蓋蘇文を弑す。蔵〔宝蔵王〕を立てて位を継がしむ。
 話の大筋は書紀と一致しており、「伊梨柯須弥」が蓋蘇文、「大王」が栄留王に対応する。 時期に関してはは書紀が「九月」、『三国史記』が「十月」で多少の不一致がある。
 『三国史記』列伝にも、「淵蓋蘇文」の項がある。関係部分を訓読する。
『三国史記』巻四十九:列伝第八「淵蓋蘇文」 東部…高句麗の五部制〔五族による分割統治〕のひとつ。『新唐書』列伝第一百四十五東夷:「五部」:内部、北部、東部、南部、西部。
大対盧…高句麗の最高官職。
…「若~者」は仮定の形だが、意味が通じないので「部兵」と「将校」を繋ぐ接続詞とする。
陳酒…〈漢典〉[old wine]∶存放多年的酒。
…神に供える食物。ここでは宴の料理。
…賓客。
蓋蘇文或云蓋金 姓泉氏〔中略〕
其父東部大人大対盧死 蓋蘇文当〔中略〕
位而凶残不道 諸大人与王密議欲
事洩 蘇文悉集部兵若将校閲者
并盛陳酒饌於城南 召諸大臣共臨視
賓至 尽殺之凡百余人
-入宮王 断為〔段〕 棄之溝中
王弟之子臧王 自為莫離支
其官如唐兵部尚書兼中書令職
蓋蘇文がいそもんあるに蓋金と云ふ。姓泉氏。
其の父東部大人だいじん大対盧だいたいろ死す。蓋蘇文し。
位をぎて凶残不道、もろもろの大人王密議しころんとす
事洩れて、蘇文ことごと部兵しくは将校を集めえつすれば、
あはせて陳酒ちんしゅせんを城の南に盛り、諸の大臣を召し共に臨みし。
ひん至りてことごとを殺せり、凡そ百余人。
宮に馳せ入り王をころし、断ちて数きだして、之を溝の中につ。
王弟の子臧〔蔵〕を立てて王とし、自ら莫離支まくりしと為りき。
の官、唐のへいしやうしよちうしよれい職の如し。
 王と官僚は蓋蘇文の残忍さを嫌い、殺そうと密議するも事が漏れ、蓋蘇文は大臣たちと共に謁見し宴を開くと称して南庭に官僚たち集め、来た者を皆殺しにした。そのまま宮廷に攻め入り王を殺し体を数段に刻み溝に捨て、王の弟の子、宝蔵王を立てた。 その後は百済と結んで新羅を攻め、調停にあたった唐の使者を幽閉し、唐の攻撃に耐えた。
 ここで「王弟の子」とする点もまた、書紀の「弟王子」と一致する。
 この蓋蘇文を、カスミの音写とする説がある。確かに子音のk[g]-s-mの並びが両者で一致するので、その説には一定の説得力がある。 〈推古紀〉十六年では小野妹子が唐国〔隋〕で「蘇因高」と呼ばれたことを紹介しており、これは「シンイモコ」の音写の可能性がある。 この変形を見れば、カスミ⇒蓋蘇文はあり得るかも知れない。 もっとも「柯須弥」もまた倭における〔おそらく中国人による〕音写であり、さらに母音a・u・ⅰのホルマントは、現代のア・ウ・イとも相違するだろうから、断定は難しい。
 さらに、もし「柯須弥蓋蘇文」だとすれば「伊梨または」にあたるはずだが、これを確かめるすべはない。
 とは言え、事件の起こった年とあらすじが概ね一致するから、伊梨柯須弥淵蓋蘇文が同一人物であることは間違いないだろう。
《詔大臣》
 二月二十二日に、高麗百済新羅任那に人を派遣するよう詔したと述べる。 遣わしたのは津守連と三人の難波騎士で、外交専門家を揃えている。おそらく現地の言葉に堪能であっただろう。
 高麗・百済の変を知った朝廷は、彼の地で調停に当たらせる意図があったか。 あるいは、混乱の隙をついて倭国の影響力を強めようとしたことも考えられる。 五月には国勝吉士水鶏百済国調使が相伴って到着するから、現地で一定の役割を果たしたのかも知れない。
《津守連大海》
 津守連は住吉大神の神主家で、もともとは「津を守る」氏族で、海外に使いする者が多いとされる (第163回【墨江之津】)。 津守連大海という名前はここだけ。
《国勝吉士水鶏》
 〈斉明紀〉に「難波吉士国勝」があり、〈姓氏家系大辞典〉は国勝吉士水鶏と同一人物として「難波吉士の族なり」とするが、 この氏族には、これ以外の名を挙げていない。
獲物を狙うクイナ
《倶毗那》
 クイナには現代でも「水鶏」の字が宛てられ「ツル目クイナ科」に属し「北海道や東北などの本州北部以北で繁殖し、本州以南で越冬」する「主に水田や湿地、池沼畔や河川畔などに生息する水鳥」である (FUNDO)。
 「しっかりした脚で、歩く生活」で「長距離を移動する場合も飛ぶ姿を見ることは稀」とされる鳥である (日本の鳥百科:クイナ)。
 日本に生息するクイナのうち、全く飛べないのはヤンバルクイナ〔1981年に沖縄本島北部の山原(やんばる)で発見;天然記念物〕のみとされる。
《坂本吉士長兄》
 〈姓氏家系大辞典〉は「難波吉士の族」と書くのみで、名前も「坂本吉士長兄」のみである。
《大意》
 〔二月〕六日、 高麗(こま)国の使者が、難波津に停泊しました。
 二十一日、 諸々の大夫(まえつきみ)を難波(なにわ)の郡(こおり)に遣わし、 高麗の国が貢した金銀などの献上物を点検しました。
 使者が貢献を終えたところで、 問いに答えて言上しました。
――「昨年六月、 弟王子(おとせしむ)が薨じました。 九月に、 大臣伊梨柯須弥(いりかすみ)は、大王(こんきし)を弑逆し、 併せて伊梨渠世斯(いりこせし)ら百八十余人を殺しました。
 そして、弟王子の子を王(こんきし)として、 自分と同族の都須流金流(つするこむる)を大臣としました。」
 二十二日、 高麗(こま)百済(くだら)の客人に、難波郡〔大郡か〕にて饗宴しました。
 大臣(おおまえつきみ)に詔を発しました。
――「津守連(つもりのむらじ)大海(おおあま)を高麗(こま)に遣わすべし。
国勝吉士(くにかつのきし)水鶏(くいな)を百済に遣わすべし。
草壁吉士(くさかべのきし)真跡(まと)を新羅に遣わすべし。
坂本吉士(さかもとのきし)長兄(ながえ)を任那(みまな)に遣わすべし。」
 二十四日、 翹岐(きょうき)を召し出し、安曇(あずみ)の山背(やましろ)の連(むらじ)の家に置きました。
 二十五日、 高麗と百済の客人を饗宴されました。
 二十七日、 高麗の使者と百済の使者は、ともに辞して帰りました。


まとめ
 百済と高句麗が弔使を同時期に送ってきたのは、連絡を取り合ってのことかも知れない。新羅も、賀騰極使と共に弔使を送るが、3月になってからで別行動である。 この時期、百済と高句麗は同盟して新羅に対抗していることが、反映しているとも考えられる。
 〈舒明〉の期間は、百済と新羅が同時に訪れているが、十年には朝廷が、十二年には学問僧清安たちによる働きかけがあったことが考えられる。
 「任那」地域はこの時点では百済領内にあり、百済が朝貢使を倭に送るときに、副使を名目上の「百済使」に仕立ててもらうには努力を要した。 弔使のように百済が自身の判断で送るときには、そのような配慮はしなかったようである。
 二月二十二日に韓国に送ることを決めた使者のうち「可使任那」については行き先は実際には百済で、加羅地域が古代に倭の属国であったことを認めるよう要請したと思われる 〔その交渉の様は〈孝徳紀〉大化元年七月に見える〕