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2022.07.26(tue) [23-6] 舒明天皇6 

15目次 【五年~八年】
《大唐客高表仁等歸國》
五年春正月己卯朔甲辰、
大唐客高表仁等歸國。
送使吉士雄摩呂
黑摩呂等
到對馬而還之。
…〈北野本〔以下北〕〉マラ■ト。 〈内閣文庫本〔以下閣〕マラウト
五年(いつとせ)春正月(むつき)己卯(つちのとう)を朔(つきたち)として甲辰(きのえたつ)〔二十六日〕
大唐(だいたう、もろこし)の客(まらひと)高表仁(かうへうじむ)等(たち)国(くに)に帰(かへ)る。
送使(おくりづかひ)、吉士(きし)雄摩呂(をまろ)
黒摩呂(くろまろ)等(ら)、
対馬(つしま)に到りて[而][之]還(かへ)りき。
六年秋八月。
長星見南方、時人曰彗星。
長星…〈北〉ナカキ ホシ ユ
篲星… 〈倭名類聚抄〉「彗星:其形如箒篲也。音遂又音歳【和名八々木保之】」 〈北〉彗星ハゝキホシ。 〈図書寮本〔以下図〕ハゝイ。 〈閣〉ハゝキハゝイ ト /彗星星名 又音遂/掃帚 祥嵗切
ははき…[名] ほうき。
六年(むとせ)秋八月(はつき)。
長き星、南(みなみ)の方(かた)に見ゆ、時の人彗星(ははきほし)と曰ふ。
七年春三月。
彗星𢌞見于東。
夏六月乙丑朔甲戌。
百濟遣達率柔等朝貢。
秋七月乙未朔辛丑。
饗百濟客於朝。
是月。
瑞蓮生於劒池、
一莖二花。
達率柔等…〈北〉ニウ
達率百済の位階の二品。
剣池…軽の東、山田道沿い。孝元天皇陵の伝承地を囲む。 (第108回【剣池之中岡上】)〈応神天皇〉段。
瑞蓮…〈北〉瑞蓮アヤシキ
はちす…[名] 蓮。
くき…[名] 茎。クキは上代語として存在する。万葉の用例は、すべて枕詞「みづくきの」である〔岡、ミヅキ(水城)にかかる〕池一モト[ニ][ノ]アリ
…書紀古訓は「花あり」。の動詞化については、万葉集では「花さく」が用いられ、「花あり」は見られない。
七年(ななとせ)春三月(やよひ)。
彗星(ははきほし)廻(めぐ)りて[于]東(ひむがし)に見ゆ。
夏六月(むつき)乙丑(きのとうし)を朔として甲戌(きのえいぬ)〔十日〕
百済(くたら)、達率(たつそつ)柔等(にうと)を遣はして朝貢(みかどををろがみみつきたてまつる)。
秋七月(ふみづき)乙未(きのとひつじ)を朔として辛丑(かのとうし)〔七日〕
百済(くたら)の客(まらひと)を[於]朝(みかど)に饗(あ)へたまふ。
是(この)月。
瑞(みづ)蓮(はちす)[於]剣池(つるぎのいけ)に生(お)ふ、
一(ひともと)の茎(くき)に二つの花さけり。
八年春正月壬辰朔。
日蝕之。
三月。
悉劾姧采女者皆罪之。
是時、
三輪君小鷦鷯、
苦其推鞫、刺頸而死。
ミソザザイ
日蝕蝕之ハエタリケユ カケタリ。 〈図〉蝕之ハエタリケエ
はゆ…[自]ヤ下二 日食または月食が起こる。
劾姦…〈北〉劾姧カムカヘ ヲカセル。 〈閣〉劾姧カムカヘテ ヲカセシ采女者皆罪
小鷦鷯…〈北〉鷦鷯 サゝキ苦其推-鞫カムカフル。 〈閣〉推鞫カムカヘルコトヲ而死
鷦鷯…〈倭名類聚抄〉「鷦鷯:焦遼二音。和名佐々木。
さざき…[名] みそさざい。〈時代別上代〉第二音節は清濁両形〔ササキ/サザキ〕があった。
八年(やとせ)春正月(むつき)壬辰(みづのえたつ)の朔(つきたち)。
日(ひ)蝕之(はゆ)。
三月(やよひ)。
悉(ことごとく)采女(うねめ)を姦(をか)せる者(もの)を劾(かむが)へて皆(みな)罪之(つみなふ)。
是(この)時、
三輪君(みわのきみ)小鷦鷯(をさざき)、
其の推鞫(かむがへしこと)に苦しびて、頸(くび)を刺して[而]死にせり。
夏五月。
霖雨大水。
六月。
災岡本宮、
天皇遷居田中宮。
霖雨大水…〈北・図〉霖雨ナカメシ大水アリ
…〈倭名類聚抄〉「:三日以上雨也。音林。【和名奈加阿女】〔ナカアメ〕
大水…オホ-ミヅという語がなかったとは考えられない。〈時代別上代〉はミヅの項で熟語として挙げている。
…〈北・図〉ヒツケリ。 〈閣〉ヒツケタリ
田中宮…〈閣〉田中 〔うつり(たまひ)て田中の宮にまします〕
夏五月(さつき)。
霖雨(ながめ)大水(おほみづ)あり。
六月(みなづき)。
岡本宮(をかもとのみや)に災(やけるわざはひ)あり、
天皇(すめらみこと)田中宮(たなかのみや)に遷(うつ)り居(ましま)す。
秋七月己丑朔。
大派王、謂豐浦大臣曰
「群卿及百寮、
朝參已懈。
自今以後、
卯始朝之巳後退之、
因以鍾爲節。」
然、大臣不從。
是歲。
大旱、天下飢之。
大派王…〈北〉マタ ノ
朝参…〈北〉百寮  ツカサ朝參ミカトマヰリスル。 〈図〉ミカトマイリスルコト。 〈閣〉朝-参ミカトマイリスルコトレリ
始朝…〈北〉卯始マヰリ之巳後退マカテム。 〈閣〉マヰリテ之巳退マカランマカレ
鍾為節…〈北〉カネ セヨ トテヘ。 〈図〉トゝノヘ。〈閣〉トゝノヘト
…〈倭名類聚抄〉「:俗云於保加禰
ひでる…[自]ラ四 日が照る。旱魃が起こる。
…〈北〉飢之イヒウフ。 〈図〉イヒウヱ。 〈閣〉イヒウス
大派王…大派皇子。敏達天皇-母老女子夫人の第四子(〈敏達四年〉)。
豊浦大臣…『公卿補任』「蘇我蝦夷臣:字豊浦大臣」(即位前2)。
秋七月(ふみづき)己丑(つちのとうし)の朔(つきたち)。
大派王(おほまたのみこ)、豊浦大臣(とゆらのおほまへつきみ)に謂ひて曰へらく
「群卿(まへつきみたち)より百寮(もものつかさ)に及びて、
朝(みかど)に参(まゐること)已(すでに)懈(おこた)りつ。
今自(よ)り以後(ゆくすゑ)、
卯(う)に[之]朝(まゐること)を始めて、巳(み)に[之]後退(しりぞ)け。
因(よ)りて鍾(かね)を以ちて節(ふし)と為(せ)。」といへり。
然(しかれども)、大臣(おほまへつきみ)不従(したがはず)。
是歳(このとし)。
大(おほ)旱(ひでり)あり。天下(あめのした)[之]飢(う)う。
《吉士雄摩呂黒摩呂》
 「吉士」は、新羅の官位十七位中第十四位に由来する。 〈時代別上代〉「此を称する氏は、帰化族と見るを至当とすべし…多くが、阿倍氏管理」とされる。 〈雄略紀〉〈継体紀〉〈敏達紀〉〈推古紀〉で新羅などへの遣使に多く見えた。 〈推古紀〉では国内で外交使節の接待の場面に見え、ここでも同様である。 さまざまな「吉士」が出て来るが繰り返しての登場はあまりなく、雄摩呂黒摩呂もこの一か所だけである。 《高表仁の帰国》
 高表仁の帰国に際して送使を付き添わせたのは、外国からの使節は、基本的に警戒の対象であったからであろう。もちろん、外国からの使節には礼を尽くすが、それはそれとして警戒心は緩めない。
〈四年〉で見たように、新旧唐書によるとこのとき高表仁と朝廷の間はぎくしゃくしている。それがまた、警戒心を強めたのかも知れない。
 送使が対馬で引き返したということは、そこまでが倭国の統治範囲内であったことを物語っている。 「隋書倭国伝(4)」の《皆附庸於倭》の項で、吉備地域より西は未だ独立性の強い小国の集合体であろうと推定した。 それでも、幾分緩めではあるが対馬までは中央に結びついていたと見るべきであろう。
《彗星》
 彗星の用字は〈北野本〉では、〈図書寮本〉は二つとも、〈内閣文庫本〉は二つともで「星名は彗、清掃用具のホウキは篲」との注釈をつけている。 「中国哲学書電子化計画」で検索したところでは、「彗星」は161段落に対して、「篲星」は1段落だから、天体としての名称は基本的にである。 ただし、の語源もホウキである。
双頭蓮〔引用記事とは別の写真〕
《一茎二花》 この項2022.08.25
 『信濃毎日新聞〔2022/08/24〕に、「双頭蓮」発見の記事があった。 同記事には、「ハスの花を栽培する…〔中略〕…が珍しい「双頭蓮(れん)」を見つけ、SNSなどで話題になっている。「吉祥の花」「瑞兆(ずいちょう)の花」などと呼ばれ、良いことが起きる前触れとされているという」とある。
 双頭蓮とはハスが一本の茎の先に二つの花をつけることで、 極めて珍しい現象と言われるが、検索すると2021年以後だけで16本の記事がある。
 全国の寺や植物園などにハスの名所は無数にあるから、一つの池で考えると出現する確率がかなり小さいのは確かであろう。
《日蝕》
 八年正月朔日は、ユリウス暦の636年2月12日である。 「NASA Eclipse Web Site」 で調べると、636年2月12日に日蝕はない。〈推古三十六年三月二日〉〔ユリウス暦628年4月10日〕 の日食が倭国内で観測されていたことは、ほぼ確実であった。九年三月乙酉朔丙戌(下記)の例でも記録に一致する。 従って、八年正月の日食についても実記録が存在し、恐らく誤った日付のところに紛れ込んだと考えるのが妥当であろう。
 そこで、干支の読み間違えや、他の天皇の「八年」などの可能性を考えて調べたが、国内で日食が観測できる日付はなかった(右表)。
干支日付ユリウス暦日蝕記録
用明元年正月一日壬子586年1月25日586/1/25 南極大陸 
推古二十年正月一日辛巳612年2月7日612/2/7 南大西洋
天智五年正月二十五日壬辰666年3月9日666/3/11 南大西洋 
己巳天智八年正月一日壬午669年2月6日669/2/6 北アメリカ
天武五年正月一日庚子676年1月21日676/2/19 グリーンランド
丙申持統十年正月一日壬辰696年2月9日696/2/8 東太平洋
634年1月27日(ユリウス暦)のデータ〔『日本書紀天文記録の信頼性』表3〕
飛鳥長安(解説)
食甚17:2315:51食分が最大になる時刻。
食分0.050.44食の大きさ。右図 a/b
 一方、〈舒明四年〉正月朔日の日食を誤って八年に書いたのではないかと述べた論文があった。 その論文は『日本書紀天文記録の信頼性』〔河鰭公昭他;国立天文台報 第五巻2002 pp.145~149で、 『日本暦日原典』に基づいて、 「舒明4年1月朔の日食とすると,飛烏では日没直前に日食が始まり、日没時の食分は0.05だから僅かに欠けただけの日食ではあるが、確かに食は起こる」と述べる。 『旧唐書』『新唐書』にも記録があるというので確認すると、次のようになっている。
『旧唐書』/『新唐書』の記載
『旧唐書』巻三/太宗〔李世民〕〔貞観〕六年春正月乙卯朔。日有蝕之。
『新唐書』本紀第二 〔貞観〕六年正月乙卯朔。日有食之。
志第二十二天文二 六年正月乙卯朔。日有食之。在虚九度
「虚」は中国の星座名。「北方七宿」に属する「虚宿」。「九度」は北極星を中心とした角の単位で、一周365度。資料[A]参照
 なお、同論文によると、「α群の巻には一例も日食記録がない」という。
 同論文が取り上げた『日本暦日原典』〔内田正男;雄山閣1981〕を読むと、 「〔舒明八年の日食〕は、その4年前の舒明天皇4年正月朔の日蝕記録が書紀編集にあたって、 誤って舒明8年に入れられたと考えるのがより確かと考える」、 「〔舒明八年の日食〕を舒明4年とすれば、暦始行〔持統五年〕前の5個の日食はいずれも日本で見られたものであり、実見の記録のみと言えよう」と述べている。
 ここでなぜ「実見のみ」と言えるかというと、持統五年〔691〕の日食以後は「記録は急激に増加している。しかもその記録は見えなかったはずの日食を多数含んでいるので、この場合は明らかに推算結果をそのままのせたもの」 だからという(pp.554~555)。
NASA Eclipse Web Site/0601-0700 国立天文台報第5巻145-159(2002)/日本書紀天文記録の信頼性
632年1月27日の日蝕
 右図は、「NASA Eclipse Web Site」、「国立天文台報5/日本書紀天文記録の信頼性」による632年1月27日〔ユリウス暦〕の日蝕の記録である。
 四年正月朔日と八年正月朔日は、ユリウス暦では次の日付である。
元嘉暦ユリウス暦
四年壬辰正月乙卯朔632年1月27日
八年丙申正月壬辰朔636年2月12日
 これ見ると、四年の太歳が壬辰、そして八年正月朔日の干支が「壬辰」であることが注目される。 書紀が参照した記録に「壬辰」と「正月朔日」の文字があり、もともと「壬辰年〔632〕正月朔日」の意味であったが、 書紀はこれを「正月壬辰朔」と読み取り、日付の干支が該当する舒明八年に書いたことが考えられる。
 ちなみに、「正月壬辰朔」となる他の年を探すと、この年の前は31年前の推古十三年〔ユリウス暦605年1月25日〕で、日食は三日前の1月22日にインド洋に見えるが無関係であろう。 この次は、93年後の神亀六年〔同729年2月3日〕だが日蝕はない。この日は書紀の完成後だから、書紀がこの日のことを載せることはあり得ない。
 これらを見れば『日本暦日原典』のいう四年食誤記説は確かにうなずけるが、飛鳥では日没直前にほんの少し欠けただけだから本当に気づいたのだろうか。 中国から持ち込まれた記録によるかも知れない。
 ただ対馬まで行けば、太陽が畿内で見るよりはもう少し日が高いうちに欠け始め、欠けて見える時間も長い。対馬は半島への経由地として船の往来は盛んであった。 その操船者は天文に詳しいと考えられるので、日食にも敏感に気づき、報告が中央に届いたかも知れない。
金環食ラインの端に達したとき(右図:h=1.36)の食分 明日香と対馬で想定される食分
 これらの可能性については、実際にこの日の日蝕がどのように見えたかを突き止めなければ判断できない。 そこで、詳細な日食の経過をエミュレートするシステムを本サイト独自に組み立てた(資料[60]~[63])。ただし、まだ試用中である。
 皆既日食ラインは、概ね太陽の最大高度とその時刻春分からの日数昇交点/降交点の区別によって定まる。 時間経過については、さらに月地球間の距離が必要である。 NASA Eclipse Web Site〔以下NASA/E〕の672年1月27日の日食の経路図に近いラインをエミュレートした。 (資料[64])。
 それによれば、明日香においては日没前30分頃に欠け始め、日没時に食分が最大になり0.2程度である。 一方、対馬においては日没前1時間10分頃に欠け始め、日没前15分ぐらいに食分が最大になり、0.3程度である。
 NASA/Eによればこのときは金環食なので、月地球間の距離の最小値として平均距離、最大値として楕円軌道の遠点を考えて二通りのグラフにした。 ケプラーの第二法則〔面積速度一定の法則〕により、遠点で月の公転の角速度が最小になる。日没間際なので、この角速度の違いは日蝕の見え方の推定に大きな影響を及ぼす。 資料[65]によれば比較的平均距離寄りで、従ってグラフの青線に近い。
 一方、『日本書紀天文記録の信頼性』の推定コースでは、シベリアではNASA/Eよりも北寄りである。また日没による終了位置も西寄りである。 同論文が「日没時の食分は0.05」とするのは、そのためだと思われる。 そのコースの西の部分はNASA/Eと重なるので、白道面と赤道面との角度が大きいわけだが、これはより冬至寄りのものである。
 こうして明日香の食分をグラフ化してしまうと、もっともらしく見えてしまうが、あくまでも考え得る一つのケースにすぎない。 ただ、大まかに見れば明日香で見つけられたかどうかは微妙で、対馬からの後日の報告によったと考えた方がよさそうに思える。 その報告の書式が朝廷における通常の日蝕観察記録と異なっていたから、年月日の誤りが生じたのではないだろうか。
《三輪君小鷦鷯》
 三輪君は、大田田根子を伝説上の祖とする。田根子は〈崇神段〉において、三輪山の大物主神の奉斎主として登場した (第111回/ 〈雄略即位前《三輪君》/ 第112回《大三輪君》)。
《長雨》
 〈時代別上代〉によれば、「ナガアメは母音が二つ続き、それも同じアであるので、単独母音が脱落してナガメとなる」、 「上代には仮名書き例はなく、辞書にはナガアメ(和名抄)・ナガメ(名義抄)の両形が見えるが、古くからナガメと訓みならわしている」という。
《田中宮》
田中廃寺跡 位置は『橿原市埋蔵文化財調査報告13』〔奈良県橿原市教育委員会2016〕による
 田中宮は、田中廃寺の近くであろうと考えられている。そして、その田中廃寺の跡だと言われてきたのが、法満寺〔奈良県橿原市田中町175〕である。 「橿原市公式/ 田中廃寺」によると、 発掘調査の結果、田中廃寺は「〔法満寺の〕西側にある「弁天の森」付近に中心部分」にあり、「回廊状に並ぶ柱列や総柱建物、四面〔ひさし〕建物」、「大量の瓦片、梵鐘の竜頭の鋳型」が検出されたという。
《時制》
 現代は、一日のどの時間帯でも1時間の長さは変わらないが、 鎌倉時代から江戸時代までは昼と夜で時間の幅が異なり、日の出と日没を境に、昼間と夜間をそれぞれ六等分した。 前者を「定時法」、後者を「不定時法」という。
 十二支を用いた時刻表現は定時法で、24時間を十二等分して割り振る(右図)。 は午前0時を中央とする2時間で、23時~1時。12時はの中央にあたるので「正午」という。 の中央は午前6時、の中央は午前10時である。
《大意》
 五年正月二十六日、 大唐の賓客、高表仁等は帰国しました。 見送りの使者、吉士(きし)雄摩呂(おまろ) 黒摩呂(くろまろ)は、 対馬に到着したところで帰りました。
 六年八月、 細長い星が、南方の空に見え、当時の人は彗星(ほうきぼし)と呼びました。
 七年三月、 彗星は東の空に移って見られました。
 六月十日、 百済は達率(たつそつ)柔等(にゅうと)を遣わして朝貢しました。
 七月七日、 百済の賓客を朝廷で饗応しました。
 その月、 瑞々しい蓮が剣池に育ち、 一本の茎に二つの花をつけました。
 八年正月一日、 日蝕がありました。
 三月、 采女と姦淫した者を洗いざらい摘発し、全員に罪を科しました。 この時、 三輪君(みわのきみ)小鷦鷯(おさざき)は、 その尋問に苦しみ、頸(くび)を刺して死にました。
 夏五月(さつき)。 霖雨大水でした。
 六月(みなづき)。 岡本宮に火災があり、 天皇(すめらみこと)は田中宮(たなかのみや)に移りました。
 七月一日、 大派王(おおまたのみこ)は、豊浦大臣(とゆらのおおまえつきみ)に 「群卿(まえつきみたち)から有司(つかさたち)まで、 朝参を怠るようになっている。 今から以後、 卯(う)の刻に朝参を始め、巳(み)の刻に退出することにして、 鍾で合図せよ。」と言いました。 けれども、大臣(おおまえつきみ)は従いませんでした。
 この年は、 大旱魃があり、国中が飢えました。


16目次 【九年】
《大星從東流西便有音似雷》
九年春二月丙辰朔戊寅、
大星、從東流西、
便有音似雷。
時人曰流星之音、
亦曰地雷。
於是、僧旻僧曰
「非流星。是天狗也。
其吠聲似雷耳。」
三月乙酉朔丙戌、
日蝕之。
有音…〈北〉オト亦曰流星之オトナリ。〈閣〉ナカレ
流星…〈倭名類聚抄〉流星:一名奔星【和名与八比保之】。〈釈紀〉流星ナカレホシ
…[動] (古訓) にたり。ことし。
天狗…〈北〉天狗也アマツキツネ■リ。 〈図〉天狗也アマキツネナリ
…[名] いぬ。〈倭名類聚抄〉〔=狗〕:【和名恵沼又与犬同】〔ゑぬ、また犬(いぬ)と同じ〕犬子也。 〈類聚名義抄〉(狗):ヱヌ イヌ。
天狗(てんこう)…流星が地上に落ちて犬の形になり、炎を上げるもの。隕石から想像された怪物。 〈汉典〉①星名。天狼之北七星為天狗。主守財。②伝説中的一種動物,形状似狗。
吠声…〈北〉ホユル。 〈図〉ホユル。 〈閣〉ホユル
日蝕…〈北・図〉ハユタリ
九年(ここのとせ)春二月(きさらき)丙辰(ひのえたつ)を朔(つきたち)として戊寅(つちのえとら)〔二十三日〕。
大星(おほきなるほし)、東(ひむがし)従(ゆ)西に流(なが)る。
便(すなはち)有音(おとな)りて雷(いかづち)の似(ごと)し。
時の人流星(よばひぼし)之(の)音(おと)と曰(まを)して、
亦(また)地(つち)の雷(いかづち)と曰(まを)す。
於是(ここに)、僧旻(そうみむ)僧(ほふし)曰(い)へらく
「流星(よばひぼし)に非ず。是(こ)は天狗(あまついぬ、てむく)也(なり)。
其の吠(ほ)ゆる声(こゑ)雷(いかづち)に似てある耳(のみ)。」といへり。
三月(やよひ)乙酉(きのととり)を朔(つきたち)として丙戌(ひのえいぬ)〔二日〕
日(ひ)蝕之(はゆ)。
是歲。
蝦夷叛以不朝。
卽拜大仁上毛野君形名
爲將軍令討。
還爲蝦夷見敗而走入壘、
遂爲賊所圍。
軍衆悉漏城空之。
將軍迷不知所如。
時日暮、踰垣欲逃。
不朝…〈北・図〉マウテ
毛野君形名…〈図〉大◱仁◳上毛野君形名カタナ
将軍…〈北〉将軍イクサノキミトウタ
為蝦夷…〈北・図〉為◳蝦夷
入壘…〈北〉ソコ。 〈図〉ニケソコ
そこ…[名] 要塞。〈倭名類聚抄〉塞:険悪之処所以隔内外也先代反【和名曽古】
…[名] とりで。一時的に築いた城塞。
所囲…〈北・図〉為賊マル
軍衆…〈北〉軍-衆イクサノヒトモヒトゝモ悉漏 キシ -空之ウナシ。 〈図〉軍衆イクサノヒトモヒトゝモ悉漏空之
まとふ…[自]ハ四 道に迷う。思い悩む。
所如…〈北・図〉不知所如セムスヘニケムト
くる…[自]ラ下二 日が没する。〈時代別上代〉「暮ラス・暗シとは、同根」。
是(この)歳(とし)。
蝦夷(えみし)叛(そむ)きて以ちて不朝(みかどををろがまず)。
即(すなはち)大仁(だいにむ)上毛野(かみつけの)の君(きみ)形名(かたな)に拝(おほ)せて、
将軍(いくさのかみ)と為(し)て討(う)た令(し)めど、
還(かへ)りて蝦夷(えみし)の為(ため)に見敗(やぶらえ)て[而]塁(そこ)に走(に)げ入りつ。
遂(つひに)賊(あた)の為に所囲(かくまえ)て、
軍衆(いくさのひとども)悉(ことごとく)漏(も)れて城(き)[之]空(むな)し。
将軍(いくさのかみ)迷(まと)ひて所如(せむすべ)を不知(しらず)。
時に日暮れて、垣(かき)を踰(こ)えて欲逃(にげむとおもへり)。
爰、方名君妻歎曰
「慷哉、
爲蝦夷將見殺。」
則謂夫曰
「汝祖等、
渡蒼海跨萬里平水表政、
以威武傳於後葉。
今汝頓屈先祖之名、
必爲後世見嗤。」
慷哉…〈北・図〉ツマ[切][テ][切]慷哉ウレタキカナ
うれたし…[形] 腹立たしい。
将見殺…〈北〉為蝦夷[切] スルコトシムト。 〈図〉為◳蝦夷[切] スルコトレムト[句]
謂夫…〈北・図〉[ニ][テ][切]イマシ祖等オヤタチノ。 〈閣〉カタテ ヲ ニ〔をひとにかたりて〕
渡蒼海…〈北〉アヲ ウナハラ[ヲ][切] ア■トコヒ萬-里 トホキ■チ[テ]水表■■■■ト威武 ■シ■タケキ於後。 〈図〉蒼-海アヲウナハラ[ヲ][切]ア トコヒ萬-里 トホキミチ[ヲ][テ] ムケ水-表政◳以威武カシコシタケシ傳於後葉[ニ][句]。 〈閣〉蒼海アヲウナハラヲ[切]アニノトコヒアトコヒテ 萬里トホキミチヲ[切]ムケ テ 水表ヲチカタノ[切]威武カシコクタケキヲ[切] タリ於後ヨニ
あをうなはら…[名] 青々とした広い海。(万)4514阿乎宇奈波良 加是奈美奈妣伎 由久左久佐 都々牟許等奈久 布祢波々夜家無 あをうなはら かぜなみなびき ゆくさくさ つつむことなく ふねははやけむ。」
あとこふ…[他]ハ四 またぎこえる。〈時代別上代〉「アフトコフとも。…アフトコフの第二音節が促音化したものを表記しなかった形かも知れない。」 「その表記がはなはだ多様である。…語形そのものの揺れがあったと思われる。
水表…「海表」と同じで、三韓をやや婉曲的に指す(〈継体二十三年〉ほか)。
威武…〈汉典〉威力強大、有気勢。
つたふ…[他]ハ下二。[自]ハ四。
汝頓屈…〈北〉イマシ ヒタフルクシ■サキノ祖之名必為後世レテワラハ。 〈図〉ヒタフルニ屈先 クシカハ サキノ之名。 〈閣〉ヒタフルニ クシカハ サキノ之名タメニ[切]レナム ワラハ
爰(ここに)、方名君(かたなのきみ)が妻(つま)歎(なげ)きて曰(い)へらく
「慷(うれたき)哉(や)、
蝦夷(えみし)の為に将(まさに)見殺(ころさえむ)とす。」といへり。
則(すなはち)夫(つま)に謂(かた)りて曰ひしく
「汝(いまし)が祖(おや)等(たち)、
蒼(あを)海(うなはら)を渡りて万里(よろづさと)を跨(あふとこ)へて水表(からくに)の政(まつりごと)を平(ことむ)けて、
以ちて威武(たけきいきほひ)[於]後葉(のちのよ)に伝ふ。
今汝(いまし)頓(ひたふるに)先祖(さきつおや)之(が)名(な)を屈(くじ)かば、
必ずや後の世のひとの為(ため)に見嗤(わらはえむ)。」といひき。
乃酌酒、强之令飲夫。
而親佩夫之劒、張十弓、
令女人數十俾鳴弦。
既而夫更起之、
取仗而進之。
蝦夷以爲軍衆猶多、
而稍引退之。
於是、散卒更聚、
亦振旅焉。
擊蝦夷大敗、以悉虜。
酌酒…〈北〉シヒ。〈閣〉シヒテ
佩夫之剣…〈北〉親佩夫之釼十弓 ツ ヲ令女-人ノリコ メノコ数十人 タウマリナサツル。 〈閣〉之剱[切] ツ[切]ノリコメノコ数十アヤタ引合ナラサ ツルヲ。 〈仮名日本記〉女人めのこ數十あまた
のりこつ…[他] 言い聞かせる。ノリコト〔令言〕の動詞化。
俾鳴…〈時代別上代〉「古訓としては「シムナラサ弦」(舒明紀九年)…などが見えるが、なお上代に、ナラスという確実な語形は見あたらない。
更起…〈北〉タチ之取ツハモノ。 〈閣〉ヲケル「イ无ツハモノ
蝦夷以為…〈北〉蝦夷エミシ 以為オモヘリ軍衆 イクサヒト多 サハナリトオモヒ。 〈図〉多 サハナリトオモヒテ。 〈釈紀〉蝦夷エヒス【養老説 衣比須】。 〈閣〉蝦-夷エヒス 以-為オモヒ テオモヘラク
散卒…〈北・図〉散卒アラケイクサノヒトアラケタルイクサ。 〈閣〉散-卒アラケタル イクサアラケ イクサノヒトアカレ イクサトモ
あらく…[自]カ下二 ばらばらになる。
振旅…〈北・図〉振-旅イクサトゝノフ。〈閣〉振-旅イクサトゝノウ。 〈汉典〉「整頓軍隊。《文選/任昉/勧進今上牋》:「班師振旅。大造王室。」」
悉虜…〈北〉トリコ■。〈図・閣〉トリコス
乃(すなはち)酒(さけ)を酌(く)みて、[之]強(し)ひて夫(つま)に飲ま令(し)めつ。
而(しかるがゆゑに)、親(みづから)夫(つま)之(が)剱(つるぎ)を佩(は)けて、十(と)つの弓を張りて、
女人(めのと)数十(あまた)に令(のりこ)ちて弦(つる)を鳴(な)さ俾(し)む。
既(すで)にして[而]夫(つま)更(また)[之]起(た)ちて、
仗(つはもの)を取りて[而][之]進む。
蝦夷(えみし)以為(おもへらく)軍衆(いくさのひとども)猶(なほ)多(さは)なりとおもひて、
而(しかるがゆゑに)稍(やくやく)[之]引退(しりぞ)けり。
於是(ここに)、散(あら)けし卒(いくさびと)を更(また)聚(あつ)めて、
亦(また)振旅(いくさととの)へき[焉]。
蝦夷(えみし)を撃ちて大(おほ)きに敗(やぶ)りて、以ちて悉(ことごとく)虜(とりこ)とす。
《流星》
 〈時代別上代〉は、「ほし」の項で「諸外国の伝説や文学に比べて星のことがでてくる機会は概して少ない。 明星アカホシ夕星ユウツヅ流星ヨバヒホシなどの名が見える程度である」と述べる。 その出典は枕草子の「星は すばる ひこぼし 明星 ゆふづゝ よばひ星 すこしをかし をだになからましかばまいて」だと見られる。 日本文学大系〔1925〕〔230段〕おだ」。国文大観〔1903〕は「すこしをかし」がなく、「をだに…まして」である。 日本古典文学全集は〔236段〕だに
 枕草子は1000年頃の成立とされるから、まだオとヲの混用はなかったと見られる。よって、流れ星も少しはよいががなければもっとよいという意味であろう。
 倭名類聚抄は承平年間〔931~938〕成立だから、ヨバヒホシは枕草子が書かれた頃には一般的な名詞として存在していた。 よって書紀古訓の時代に存在していたはずだが、字のままでナガレホシと訓むことも普通だったかも知れない。
《僧旻》
 学問僧僧旻は、〈舒明四年〉に帰朝した。 「僧旻僧」の訓み方は悩ましいが、舒明四年では「僧旻」が個人名であり、 〈孝徳紀〉では基本的に「僧旻法師」だから、「僧旻ソウミムホフシ」であろう。 因みに、『太子伝暦』〔後述〕の中の〈舒明紀〉の要約では「僧旻法師」となっている。
 〈孝徳紀〉には一か所だけ「沙門旻法師」があり、そのまま訓むと「ホフシ・旻・ホフシ」となって不自然であるが、 当時、実は「ホフシミム」と訓まれることもあったことの反映かも知れない。
《天狗》
 はもともと愛玩用の子犬を意味し、後に犬一般となる。
 漢書に天狗の説明がある。
漢書/天文志
天狗。状如大流星。有声。共下止地。類狗。所墜及之如火光炎炎中天。其下圜如数頃田処。上鋭見則有黄色。千里破軍殺将。
天狗。状(ありさま)大流星の如し。声有り、共に下り地に止まる。狗に類(に)る。墜ち及ぶ所、之を望むに火光炎の如し。炎(ほのほ)天に中(あた)る。其の下圜(めぐ)ること数頃の田処の如し。上に鋭く見て則ち黄色有り。千里に軍を破り将を殺す。
…鳴き声や物理的な音にも用いる。(けい)…面積の単位。漢代は4.6haとされる。
 このように、天狗は流星のようなものだが、一種の怪物であり流星とはひとまず区別している。 僧旻が「非流星」と言ったのは、この説明に沿ったものといえよう。
 他に、次のような天狗がある。
山海経/西山経
有獣焉。其状如狸而白首。名曰天狗。其音如榴榴。可以禦凶。
獣有り。其の状(ありさま)狸の如くして白き首あり。名づけて天狗と曰ふ。其の音榴榴の如し。禦凶を以(もちゐ)る可(べ)し。
榴榴…オノマトペ「リューリュー」。禦凶(ぎょきょう)…〈汉典〉抗拒凶邪之気。
説文解字
:天狗也
〔カワセミ〕の別名のひとつ。
《天狐》
 ただし、アマツキツネという妖怪も存在したようである。
 中国では西晋の文献に載る。
『太平広記』〔北宋977~984〕〈諸狐〉
狐五十歳、能変化為婦人。百歳為美女、為神巫、或為丈夫女人交接。能知千里外事、善蠱魅、使人迷惑失智。千歳即与天通、為天狐。出『玄中記』
狐五十歳、能(よ)く変化し婦人と為(な)る。百歳美女と為り、神巫と為り、或は丈夫と為り女人と交接す。能く千里の外の事を知り、蠱魅(くみ)に善(よし)みして、人をして迷惑失智せしむ。千歳即ち天に通ひ、天狐と為る。出『玄中記』
『玄中記』…一巻。西晋〔265~316〕の郭氏撰。逸書。〔東洋文庫和漢三才図会6;平凡社1987の解説による〕 …まじないに使う虫。
 そして、唐代には。
『太平広記』〈長孫無忌〉
是天狐。力不能制。出『広異記』
『広異記』…晩唐以前の書。
 この天狐という妖怪が日本に伝わっていたようで、『日本国語大辞典』は、中臣祓訓解〔12C後〕に「天狐地狐等怪」の語を見出している。
 『壒嚢鈔あいのうしょう〔1446〕八巻[三十二項]に天狗に関する考察がある。抜粋すると、
漢書ノ中ニハ天狗ハ流星也。則太白星と云へり。唯諸道ノ長者諸宗の行者依マン天狗云ハ。 其名同シケレ供種類各別ナル歟。其モ定テ底ハ通ヒ侍ラン」 「天狗共天狐共書テ通ヒ用也。サレハ日本紀ニハ天狗と書テアマツクツネトヨメリ。 字ハイヌニテ読ハクツネ也。是通ヘル事ヲ顕ス也。然レハ和漢共ニ其名ハ古来ヨリ侍ルト覚タリ。无本説ト云義若シ誤リ歟
 著者〔不明〕は漢籍から上記の漢書の例などを拾い上げ、「漢書の天狗は流星のことで、諸道の長者諸宗の行者を指す天狗とは別の種類である。だが底は通ずると考える」 「書紀はアマツ〔キ〕ツネと訓む。字はイヌだが訓みがクツネであることは、天狗と天狐が相通ずることを示す。和漢とも古来からそうだったと思えるが、 主要な文献にはそのような説が見られないので、誤りかも知れない
 と述べる。
 民間伝承における天狗は、修験道の行者〔山伏〕の格好をしている。修験道は奈良時代の山岳の修行者に由来し、平安時代に発展する。 その修行者の超人的な伝説がもとになって、妖怪としての天狗が生まれたと見てよい。『壒嚢鈔』は「底ハ通ヒ侍ラン」というが、 漢書にいう天狗への関心は一般には広がらなかったと見てよい。但し名前だけはうっすらと知られ、空を自在に飛ぶ妖怪に用いられたのであろう。
《アマツキツネ》
 古訓者が訓みにアマツキツネをあてたのは、我が国において妖怪「天狐」の伝承が存在し、こちらの方が一般的だったからであろう。
 しかし、〈類聚名義抄〉では狗の訓にキツネはなく、〈倭名類聚抄〉でもキツネとは無関係である。 さらに「吠声」はイヌの声であり、総合的に見て漢書の天狗を指しているのは明らかである。 よって、訓読するならアマツイヌであろう。
《日蝕》
 「九年三月乙酉朔丙戌」〔三月二日〕は、ユリウス暦で637年4月1日にあたる。 NASA/Eによると、637年4月1日に皆既日食帯が北海道を通っている。
NASA Eclipse Web Site/637-04-01 国立天文台報第5巻145-159(2002)/日本書紀天文記録の信頼性 明日香で食分最大のとき 資料[65]
明日香における推定食分の推移
 NASA/Eのデータ、「637年4月1日、高度41°、最大51N158E」により経路と食分図を作成した。 (資料[65])。
 それによると、明日香で日食が観察できるのは午前中で、食分の最大値は0.9に達するほどの顕著な日食である。
《大仁上毛野君形名》
 大仁冠位十二階の第三位。 上毛野君については、崇神段などで述べた。 始祖伝説では、崇神天皇の皇子・豊木入日子が上毛野君(上野国)・下毛野君(下野国)の祖である(第113回崇神段4/【東方十二道】)。
《蝦夷の平定》
 倭政権の統治範囲は、推古三十四年《六月雪也》において 712年の時点で仙台あたり、推古三十四年〔626〕には常陸国+αと見た。舒明九年〔637〕にはまだ福島県の辺りか。 蝦夷に立ち向かう地域にある上野国の上毛野君が、攻撃に向かえと命じられたようである。
 〈安閑〉元年に遡ると朝廷と上毛野君小熊の間に緊張状態があり、朝廷の意になる人物である使主〔人名〕を武蔵国造とし、横渟(よこぬ)、橘花(たちばな)、多氷(たひ)、倉樔(くらす)の四屯倉を設置した。 同二年にはさらに緑野屯倉が置かれた。(元年《上毛野国緑野屯倉》)。
 〈舒明九年〉には、上毛野君はもう配下に組み込まれていたようであるが、まだ服従しきれない気持ちがあって蝦夷攻撃に力が入らず、逆に攻め込まれたのかも知れない。 それでも妻に尻を叩かれて反撃に転じ、どうやら名誉を損なわずに済んだわけである。
《為蝦夷見敗》
 「為蝦夷見敗」は、英語の受け身の構文"Katana was defeated by Emishi."と同じで、「」が、行為者の前置詞"by"に相当する。 推古10《為》で、声点は、「do」ではなく「for」を明示する目的でつけられたことを見た。 ただ、〈時代別上代〉は、「for:~のために」については「理由を表すタメの用い方は上代にみられない」と断定している。 声点の付加は、ここでは"by"であることを示すものと見られる。
 この用法について〈時代別上代〉は、「受身表現の能動者を表す語の上に「為」の字の位置することは漢籍の用法による。これがタメと訓まれたか否かは明らかにしがたい(点本類には訓まれた例がある)」という。
 類聚名義抄を見ると(僧下/42)
――爲為:ツクル シワサ ヲコス ナス タリ ス スルトコロ マネス マナフ タツ セ セヌカ タスツ タメニ シカスル エラフ
 すなわち、大部分がdoで、for/byに相当するのはタメニが唯一である。
 「Aのために」というときは、本来Aが便益の享受者であることを意味する。受け身構文の「by A」は多くの場合便益の享受者でもあるから、意味には相通づるものがある。 平安時代にはその感覚ゆえに「」にタメニを宛て、それが漢文訓読体において行為者を指す語として定着したと思われる。
 行為者を上代語で表すのは「~ニヨリテ」であろう。しかし、仮に訓読においてこれが使われたとしても〈類聚名義抄〉には載っていないわけから、定着せずに廃れたことになる。
 上代語においても便益の享受者というニュアンスから、タメニは可能だと思われる。ただし、これは「必為後世見嗤」の文では破綻する。 そもそも「為P見V」は漢文である。漢文訓読体が一般化する前には、意訳して「必ず後の世に嗤はれむ」などが適当かも知れない。 それでも、飛鳥時代でも一部の教養人が""の訳語として形式的に用いることもあり得たと仮定し、タメニを用いることにする。
《大意》
 九年二月二十三日、 大きな星が、東から西に流れました。 すると音が鳴り、雷のようでした。
 時の人は流れ星の音と言い、 また地面の雷とも言いました。
 これについて、僧旻(そうみん)僧は、 「流星ではなく、これは天狗(てんこう)である。 其の吠え声が雷に似るということだ。」と言いました。
 三月二日、 日蝕でした。
 この年、 蝦夷(えみし)が背き、拝朝しませんでした。 そこで大仁(だいにん)上毛野(かみつけの)の君形名(かたな)を 将軍に任命して討伐させましたが、 却って蝦夷よって敗北を被(こうむ)り、要塞に逃げ込みました。 遂に敵に囲まれ、 軍衆は皆漏れ出て、城は空でした。
 将軍は惑い、なすすべを知らず、 日暮れ時となり、垣を越えて逃げようと思いました。
 その時、方名君の妻は歎き 「いまいましい、 蝦夷(えみし)のためにまさに殺されようとしている。」と言い、 夫に語りかけました。 「あなたの先祖たちは、 大海を渡り万里を跨ぎ越え、海の向こうの政(まつりごと)を支配し、 その威武(いぶ)は後世に伝わります。 今、あなたがひたすら先祖の名を損なえば、 必ず後世に嗤(わら)われるでしょう。」
 そして酒を酌み、無理やり夫に飲ませました。 このようにして、自ら夫の剣を身に着け、十本の弓を張り、 女人数十人に命じて弦(つる)を鳴らさせました。
 そうするうちに、夫も再び立ち上がり、 武器を取って進みました。
 蝦夷は軍衆がなお多いと思い込み、 しだいに退きました。 こうして、散り散りになった軍卒を再び集めて、 軍団を整え、 蝦夷を撃って大敗させ、悉く捕虜にしました。


まとめ
 『日本書紀天文記録の信頼性』がいうように、α群(十四~二十一巻、二十四~二十七巻)には日食が載らないという(193回《α群》)。 二十二巻(推古紀)、二十三巻(舒明紀)がβ群であるのは、初めにα群(中国人スタッフによる執筆)として書かれたが、そこに大幅に手を加えたためだと考えた。
 その理由は、天武天皇以後の祖である舒明天皇による皇位継承の正統性を確保するためだったと、本サイトは考えている。 古事記が「岡本宮治天下之天皇」の名を敢えて載せたのは、その正統性を示すためかも知れない(第242回)。 即ち、本来上宮家が皇位を継ぐべきであったとする主張を完全に葬り去るために、上宮皇子〔聖徳〕を天皇継承候補の系列から完全に取り除き、仏教界にその聖王として封じ込めたのである。
 β群執筆者は、その書き直しに際して改めて古記録を精査したところ、その中に日食記録があり、〈推古紀〉〈舒明紀〉にそれも載せたのではないだろうか。 しかし、八年春正月壬辰朔の日蝕は誤りである。 ならば、何をどう誤ったのだろうか。それを知るためには、自然科学としての日食の推定データを照合する必要がある。
 そこで、その候補とされる636年2月12日〔ユリウス暦〕の日食について、それが国内で観測されたとすれば実際にどのような見え方をしたのかを、どうしても知りたくなった。 そのために、丸々二か月かけて勉強し、その過程を資料[59]~[65]に収めた。



2022.08.08(mon) [23-7] 舒明天皇7 

17目次 【十年~十一年】
《大風之折木發屋》
十年秋七月丁未朔乙丑。
大風之折木發屋。
九月。
霖雨、桃李花。
大風…〈北野本〔以下北〕風之カセフク折木コホツ。 〈図書寮本〔以下図〕風之カセフク折木コホツ。 〈内閣文庫本〔以下閣〕カセフイテ之折木コホツ
大風…〈倭名類聚抄〉【於保加世】
…[動] (弓などを)はなつ。おこす。ひらく。
霖雨…〈北・図〉霖雨ナカアメ桃李ハナサケリ。 〈閣〉ナカメ-雨ナカアメフリテハナサケリハナヒラケリ
十年(ととせ)秋七月(ふみづき)丁未(ひのとみ)を朔(つきたち)として乙丑(きのとうし)〔十九日〕
大風(おほかぜ)[之]ふきて木を折(を)りて屋(や)を発(と)ばす。
九月(ながつき)。
霖雨(ながめ)ふりて、桃李(ももすもも)花さく。
冬十月。
幸有間温湯宮。
是歲。
百濟新羅任那並朝貢。
…〈北・図〉イテマ有間温 ユノ
朝貢…〈北・図〉朝貢ミツキタテマツル。 〈閣〉[切]朝貢ミツキタテマツル
冬十月(かむなづき)。
有間温湯(ありまのゆ)の宮に幸(いでま)す。
是の歳。
百済(くたら)新羅(しらき)任那(みまな)並びに朝貢(みかどををろがみみつきたてまつる)。
十一年春正月乙巳朔壬子、
車駕還自温湯。
乙卯。
新嘗、
蓋因幸有間以闕新嘗歟。
車駕…〈北・図〉車駕カヘリマススメラミコト  温湯。 〈閣〉車駕スヘテ ミカト〔テはラの誤り〕
新嘗…〈北〉新嘗ニハナヒキコシメス[切]オハシマセル有間以闕新嘗ニハナヒ。 〈図〉新嘗ニハナヒキコシメス[句][切][ニ]オハシマセル有間以[テ]新嘗ニハナヒ[句]
にはなひ…[名] ニヒナヘと同じ。その年の新穀を神に捧げ、人間が賜る。
十一年(むそとせあまりひととせ)春正月(むつき)乙巳朔壬子〔八日〕
車駕(しやか、すめらみこと)温湯(ゆ)自(よ)り還(かへ)ります。
乙卯(きのとう)〔十一日〕
新嘗(にひなへ)。
蓋(けだし)有間(ありま)に幸(いでま)ししに因(よ)りて、以ちて新嘗(にひなへ)を闕(か)ける歟(か)。
丙辰。
無雲而雷。
丙寅。
大風而雨。
己巳。
長星見西北。
時旻師曰
「彗星也、見則飢之。」
…〈北・図〉 ナル フイ フル
西北…〈北・図〉西北イヌヰノスミ彗星ハゝキ飢之イヒウヘス〔飯飢(名詞形)+サ変動詞〕。 〈閣〉西北イヌイノスミ
旻師…〈図〉
丙辰〔十二日〕
雲無くて[而]雷(いかづち)なる。
丙寅〔二十二日〕
大(おほきに)風ふきて[而]雨ふる。
己巳〔二十五日〕
長き星西北(いぬゐ)に見ゆ。
時に旻師(みむし)曰(いへらく)
「彗星(ははきほし)也(なり)、見(み)ば則(すなはち)飢之(うう)。」といへり。
秋七月
詔曰、
「今年、造作大宮及大寺。」
則以百濟川側爲宮處。
是以、西民造宮、東民作寺。
便以書直縣爲大匠。
おほてら…[名] 〈時代別上代〉大きな寺。
百済川側…〈北〉ホトリ
宮処…「(万)0029 百磯城之 大宮處 ももしきの おほみやところ」など、万葉はすべてミヤトコロ。
西民…〈閣〉西[ノ]造宮作寺
書直県…〈北〉便ステニフミノアタヒエアカタ大-タクミト。 〈閣〉 キタクミト オホキ 
秋七月(ふみづき)。
詔(みことのり)曰(のたまはく)、
「今年(ことし)、大宮(おほみや)及(と)大寺(おほてら)を造作(つく)れ。」とのたまふ。
則(すなはち)百済(くたら)の川(かは)の側(ほとり)を以ちて宮処(みやところ)と為(な)せり。
是(こ)を以ちて、西の民(みたみ)宮を造りて、東(ひむかし)の民(みたみ)寺を作れり。
便(すなはち)書直(ふみのあたひ)県(あがた)を以ちて大匠(おほたくみ)と為(せ)り。
秋九月。
大唐學問僧惠隱惠雲、
從新羅送使、入京。
冬十一月庚子朔。
饗新羅客於朝、
因給冠位一級。
学問僧…〈北〉学問モノナラフ ホフシ恵◱隠◱恵◱雲◱。 〈釈紀〉ヲンウン
入京…〈北〉マヰル。〈図〉マヰル。 〈閣〉マヰル ミ ニ
饗新羅客…〈北〉アヘタマフ新羅客於ミカト因給冠位カフリ ヒ シナ。 〈図〉アヘタマフ冠-位カフリ一級ヒトシナ
秋九月(ながつき)。
大唐(だいたう、もろこし)の学問僧(ものならふほふし)恵隠(ゑをむ)恵雲(ゑうむ)、
新羅(しらき)の送りし使(つかひ)を従へて、京(みやこ)に入れり。
冬十一月(しもつき)庚子(かのえね)の朔(つきたち)。
新羅の客(まらびと)を[於]朝(みかど)に饗(みあへ)したまひて、
因(よ)りて冠位(かがふり)一級(ひとしな)を給(たまは)る。
十二月己巳朔壬午。
幸于伊豫温湯宮。
是月。
於百濟川側建九重塔。
九重塔…〈北〉ホトリタツ コシ 。 〈図〉ホトリ タツコシ。 〈閣〉コシノ コゝノコシ 
こし…[名] 塔のひとつひとつの階。また助数詞。〈時代別上代〉「人体の腰に見立てたものか」。
十二月(しはす)己巳(つちのとみ)を朔として壬午(みづのえうま)〔十四日〕
[于]伊予(いよ)の温湯(ゆ)の宮に幸(いでま)す。
是の月。
[於]百済(くたら)の川の側(ほとり)に九重塔(ここのこしのたう)を建てり。
《十年七月》
 舒明十年〔戊戌〕七月十九日は、グレゴリオ暦で638年9月5日にあたるhosi.orgによる〕。 時期から見て、「大風」は台風であろう。
 「」は、コボツ[毀]と訓読されるが、発の原義から考えて「吹き飛ばす」であろう。
《十年九月》
 十年九月〔グレゴリオ暦で10月16日~11月14日〕の秋霖は天候不順が稲作などに打撃を与える時期ではないが、特筆されたのは豪雨による大被害があったことが考えられる。 とすればやはり台風の影響か。
 この時期の「桃李花」が事実だとすれば、全くの狂い咲きである。 桜は、秋に急に気温が上がったときに開花することがある。桃の狂い咲きも、ブログに報告を見る。あるサイト【趣味の園芸談話室】では、日付が11月2日となっている。
《有間温湯》
 有間温湯での湯治は、三年十二月以来である。
《任那》
 加羅地域は、〈推古三十一年〉に百済が奪ったと見られる(推古三十一年是歳)。
 よって、〈舒明十年〉の任那使は、百済使が副使に名目上の任那使を名乗らせたと見られる。
 〈孝徳天皇紀〉大化元年には、百済使が任那使を兼ねたが、「任那からの貢」が明示されていなかったことを問題にした記事がある。 さらに、同二年九月には「罷任那之調」とあり、とうとう名目上の任那の朝貢も廃止されたようである。
《新嘗》
 〈時代別上代〉「書紀古訓にはニハナヒの形が多」いとする。
 通常は秋に収穫を祝う行事であるが、ここでは有間温湯に行っていたのでこの時期になったと注記されている。
《大風而雨》
図1 1964年3月20日9時(jst)の天気図 『1956~65 天気図十年集成』日本気象協会1966
 「大風」はオホカゼだが、ここでは「」は風・雨の両方にかかると見た方がよいだろう。
 十一年一月二十二日は、グレゴリオ暦で3月5日である。 図1は、近年の春先に発達する低気圧の例。この日は室戸岬で瞬間風速:南南西46.2m/sを記録している。
《造作大宮及大寺》
 百済大寺については、吉備池廃寺が有力とされている(第152回)。 別項において、改めて詳細に見る。近くに大宮の遺跡もあるはずだが、こちらの調査報告はまだ見ない。
《西民東民》
 いつもなら古訓としてオホムタカラが振られるが、ここにはない。
・オホミタカラは朝廷との関係性による概念によるが、ここでは単なる人民の居住地域分けであるから、ミタミと訓む。
・オホミタカラは明らかだから、省かれた。
 このどちらかであろう。
《書直県》
 (あがた)は人名。
 書直(ふみのあたひ)は、 文直とも表記される。〈姓氏家庭大辞典〉によると、 「文直:倭漢氏の族にして、こは大和の文氏なれば、東文氏とも云ふ。坂上氏の一族也。姓氏録には都賀直の 後とす。氏人は多く倭漢書直と載せ、天武紀に到り連姓を賜ふ。」、 「書直:倭漢東文氏の族也。宝亀五年の津高郡菟垣村地畠売買巻に「税長書値麻呂」など見えたり。」と述べる。
《恵隠恵雲》
 〈推古十六年九月〉に、遣隋使小野妹子に随行したと見られる「学生」たちの中に、 「志賀漢人慧隠」の名前がある。「恵隠」と同一であろう。
 「恵雲」の名前はここだけの登場で、隋または唐に渡った時期は不明である。
 これを見ると、倭の学問僧たちは新羅に立ち寄って仏教振興を助けたようである。 この後に、改めて「百済川側建九重塔」と書かれていれることが注目される。
 同時期に新羅で建てられた皇龍寺塔について、『三国史記』-新羅本記:善徳十四年〔645〕三月。創-造皇龍寺塔。従慈蔵之請也。」とある。 ここで提言をしたと書かれる慈蔵は、同十二年に「三月。入唐求法高僧慈蔵還。〔唐に入り法を学びし高僧慈蔵還りつ〕との記事があり、 善徳女王は仏教の振興に熱心だったと言われ、例えば、Wikipedia英語版に"Like her father, Queen Seondeok was drawn to Buddhism."〔父親と同様に、善徳女王も仏教に惹かれた〕とある。
 〈十二年十月〉に書かれる清安玄理の「伝新羅」も、新羅での伝道に一役を担ったという意味であろう。 恵隠らは、新羅使を伴って帰国し、皇龍寺九重塔(第152回)の計画を語らせ、それと双子をなす塔を倭に作るよう進言したと読める。
 そして天皇はその進言を聞き入れ、当初の計画を変更して九重塔にしたのであろう。
図2 伊予国温泉
図3 伊予温湯と厩坂宮
《伊予温湯》
 〈倭名類聚抄〉に{伊予国・温泉【湯】郡〔ゆのこほり〕がある。 〈釈紀〉に伊予国風土記の逸文を載せる(別項)。 経路は恐らく海路で、難波津と厩坂宮のまでの間は輿に乗っての移動であろう。
《大意》
 十年七月十九日、 大風が吹き、木を折り家を吹き飛ばしました。
 九月、 霖雨。桃・李(すもも)の花が咲きました。
 十月、 有間温湯(ありまのゆ)の宮に行幸しました。
 是の歳、百済・新羅・任那が揃って朝貢しました。
 十一年正月八日、 天皇(すめらみこと)の車駕は、温湯から戻られました。
 十一日、 新嘗(にいなめ)。 おそらく、有間に行幸していたことによって、新嘗を行えずにいたのでしょう。
 十二日、 雲なく、雷が鳴りました。
 二十二日、 激しい風雨。
二十五日、 長い星が西北の空に見えました。 その時、旻師(みんし)は 「彗星(ほうきぼし)である。これを見ると飢饉が起こる。」といいました。
 七月、 詔を発して、 「今年のうちに、大宮と大寺を造れ。」と命じました。
 そして、百済の川の畔(ほとり)を宮の地に定めました。
 これにより、西の民は宮を作り、東の民は寺を作り、 そのために書直(ふみのあたい)県(あがた)を大匠(おおたくみ)〔匠の長〕としました。
 九月、 大唐の学問僧、恵隠(えをん)恵雲(えうん)は、 新羅が送った使者を従えて、京に入りました。
 十一月一日、 新羅の客人を朝廷に饗宴に招き、 冠位一級を給わりました。
 十二月十四日、 伊予(いよ)の温湯宮(ゆのみや)に行幸しました。
 この月、 百済の川の畔に九重塔を建てました。


【百済川側九重塔】
図4 飛鳥地域周辺の遺跡
 吉備池廃寺は、藤原宮跡の東方、天香久山の北東に検出され、 これを〈舒明十二年〉にいう百済大寺とする見方が強まっている(図4)。
 その位置取りを見ると、蘇我氏との関りが深い飛鳥寺・石川廃寺・和田廃寺・豊浦寺の地域とは一線を画していて、初めての官寺としての性格が表れているように感じられる。
図5 吉備池廃寺
 〈奈文研2003〉(p.8) (PL.1)
 『飛鳥幻の寺、大官大寺の謎』〔木下正史;角川選書369(2005年)。以下〈木下2005〉〕によると、 1990年代、吉備池〔皿型溜池〕の護岸工事が進み、1997年に池の南東部に及んだところで、遺構の様子を確かめるために発掘調査が行われた。 すると、従来瓦の焼き窯址と思われていたところが、金堂の基壇であることが分かった。 続いて1998年に、西側の土壇状の高まりが文武朝大官大寺の九重塔に匹敵する巨大な塔基壇であることが明らかになった(pp.136~140)。
 こうして奈良国立文化財研究所と桜井市教育委員会による共同調査が2001年までの5年間をかけて実施された。
《吉備池廃寺発掘調査報告》
 
吉備池廃寺発掘調査報告 〔奈良文化財研究所創立50周年記念学報第68冊;奈良文化財研究所2003。以下〈奈文研2003〉〕はその序文で、 「金堂基壇は間口37m・奥行約25m・高さ約2m、塔基壇は一辺約32m・高さ約2.8mという、当時としては破格の大きさです。 とくに塔の平面規模や高さは、新羅の皇龍寺九重塔に比肩」し、 「吉備池廃寺が、639年に創建された「百済大寺」にあたることは確実と思われます」と述べる(pp.1~2)。 図5はその見取り図と航空写真である。
 百済廃寺の造営について、同書は 「着工後ほどなく舒明は死去するが、皇后であった皇極天皇が造営を引き継ぎ、孝徳朝(645~654)にはある程度寺観を整えつつあったらしい。 その後も、彼らの子である天智天皇が、のちに大安寺金堂本尊となる乾漆の丈六仏などを施入しており、造営は比較的順調に進展したようである。 また、百済大寺は、673年に高市の地へと移されて、高市大寺と百済大寺・高市大寺吉備池廃寺と百済大寺・高市大寺寺となった。」と述べる(pp.233~4)。
 吉備池廃寺建立の時期については、瓦が手掛かりになる。同書は「この遺跡の年代や性格を考えるにあたって、瓦はきわめて重要」で、 いくつかの寺の瓦と比較検討した結果、 「軒丸瓦と軒平瓦の両者について、文様と製作技法および関連する軒瓦や遺跡との関係を勘案すれば、吉備池廃寺創建軒瓦は、おおむね630年代から640年代初頭に位置づけうる様式的特徴を備えていると判断してよいだろう。」(p.195) と結論付けている。 このように、建造時期は書紀に書かれた「百済大寺」に完全に当てはまる。
 〈木下2005〉は、金堂跡に鍬入れして四日目にして「この遺跡は、7世紀中ごろに造営された寺院であることは疑いない」と確信し、 「幻の百済大寺だ! 調査に携わっていた研究員たちの脳裏をよぎった」と描写する。そして5年間の調査の結果、 「百済大寺ではないかという想定をより確かにする成果をもたらした」と述べる。
《塔の規模》
図6 塔心礎抜取穴〈奈文研2003〉(PL.9)
 塔基壇について〈奈文研2003〉は「西方土壇の調査では、ほぼその中央で、東西約6m、南北7m以上の巨大な心礎抜取穴を検出した(図6)。 深さは現状で約40㎝あり、底には人頭大の根石が多量に遺存している。 また、基壇西辺では、版築の途中で、心礎を引き上げるためのスロープの存在を確認することができた。 以上の点から、これが予想どおり塔の基壇であることは疑いない。」(p.15)と述べる。
 資料[50][51]から、尺表示付きの図から塔心礎のサイズを見ると、 飛鳥寺:一辺2.3m、崇福寺:一辺1.5m、山田寺:直径1.7m、若草伽藍:2.8×2.6mとなっている。 これらに比べて、吉備池廃寺の塔心礎はかなり大きい。
 〈奈文研2003〉は、「基壇規模は、基壇土の残る範囲と推定塔心間の距離から、一辺約30mと復元できる。」(p.15)という。
 図7のように、その基壇の大きさは法隆寺五重塔などを凌駕し、新羅の皇龍寺の九重の塔と同規模である。
 これについて、〈奈文研2003〉は「吉備池廃寺とほぼ同規模の基壇をもつ新羅皇龍寺の九重塔の高さが、『三国遺事』などに伝える225尺で、これを「東魏尺」(高麗尺)とみる金東賢 の見解(金 東賢「皇龍寺跡の発掘」前掲註20))が正鵠を射ているとすると、その高さは80.2mとなる(172頁)。吉備池廃寺についても、前節で述べた ように、金堂と塔の間隔(心々間距離約84.0m)が塔の高さを反映しているとみれば、これに近い高さを想定することができる。」(p.192)と述べる。
 慶州南山の塔谷第2寺址の石刻(図8)は、皇龍寺九重塔の姿を知るのに有効だという。
 ただ、「礎石に関わる痕跡や足場穴などの確認を含めて、一定の面積を確保した発掘調査により、柱配置その他を解明することが望まれる。」(p.234)とある。 2003年の報告の時点では、回廊の北東外側の僧房跡については柱跡が検出されているのに対して(PLAN9)、塔・金堂の柱の配列は確定していないようである。 結局、塔基壇については、基壇の盛り上げの外周と礎石跡の確認に留まっている。
図8 慶州南山・塔谷第2寺址にある唐の石刻(小場恒吉『慶州南山の仏跡』〔2002,p63〕より転載)〈奈文研2003〉p.192
図7 塔基壇の比較〈奈文研2003〉(p.184)
《大官大寺》
 百済大寺は、その後移転して高市大寺、改名して大官大寺。奈良遷都に伴い移転して大安寺となる。
 〈天武紀二年〉〔673〕十二月に「拝造高市大寺司。【今大官大寺、是】」。 〈続紀〉大宝二年〔702;文武〕正五位上高橋朝臣笠間造大安寺司」 平城京に遷したときの名称が大安寺なので、〈続紀〉は遷す前の大官大寺にも大安寺の名称を用いたと見られる。 平城京への移転については、〈続記〉天平十六年〔744〕十月二日に「属遷造大安寺於平城」とある。
 天武朝の高市大寺と、文武朝の大官大寺は一般的に同一と考えられ、『三代実録』(下記)もそのように読み取れる。 これについて、〈木下2005〉では別寺説を展開する。
 同書によると、文武天皇の大官大寺と見られる遺跡が1973年に発見され、発掘調査の結果、完成間近になって焼失したことが明らかになったという。 焼亡の記事は〈続紀〉にはないが『扶桑略記』和銅四年〔711〕に「大官等寺並藤原宮焼亡」とあり、1975年の大官大寺跡の発掘調査では焼失が明らかになった(p.41,61)。 文武天皇大官大寺の仏像などが伝えられず、天武天皇の大官大寺の仏像や経典が多く伝承されていることから、 同書によれば、「天武天皇建立の寺(高市大寺)と、文武天皇建立の寺(大官大寺)とは別寺で、二つの大官大寺があったと考えざるを得ない」(p.145)という。
 その木之本大寺は、吉備池廃寺との関係が深く、〈奈文研2003〉は 「香具山北西麓の橿原市木之本町から、吉備池と同笵の瓦が比較的まとまって出土する、という事実であった。 これを木之本廃寺と仮称しているが、両者のあいだに強いつながりがあったことは疑いない。」(p.1)と述べる。
《広瀬郡百済寺》
図9 広瀬郡の百済と天香具山地域の百済
 このように、発掘調査サイドでは吉備池廃寺は百済大寺であるとほぼ断定しているのだが、一方で古くからの広瀬郡百済寺〔付近〕は相当強力である。
 まず、これまでの本サイトによる「広瀬郡百済」に関する考察を振り返ろう。地名百済に関するこれまでの考察では、敏達天皇の百済大井宮については摂津国百済郡を除外し、 広瀬郡百済とした(第240回【百済大井宮】)。
 ここで〈五畿内志〉を見ると、十市郡の巻で「百済宮:飯高村 舒明天皇秋七月構大宮於百済川側故址今〔なかば〕広瀬郡」と述べる。 その飯高村については、「村里飯高ヒ タカ【属邑一】」と述べ、現在は橿原市飯高ひだか町である。
 さらに、百済については、 広瀬郡に「村里百濟クタラ【属邑一】」、 「山川:百濟川【自高市郡於郡東界于河合広瀬川」。 よって、広瀬郡の百済川は蘇我川の別名である(図9)。
 百済寺については次のように述べる。
仏刹:百濟寺【在百済属邑二条十市郡三代実録為十市郡 沿革年紀未詳 舒明天皇十一年十二月於百濟川建九重塔及大寺元慶四年冬十月大安寺三綱申牒昔日聖徳太子創-建平群郡熊凝道場 飛鳥岡本天皇遷建十市郡百濟川辺号曰百濟大寺 小部コベ大神在寺側崇於寺 堂塔屡災 天武天皇遷立高市郡云云今所見在此其余院也】」。
〔百済村の属邑二条にある。十市郡に隣接。三代実録は十市郡とする。(中略) 元慶四年の大安寺三綱〔幹部〕の牒〔報告〕によると、昔聖徳太子が平群郡に創建した熊凝道場を舒明天皇が十市郡百済川の辺りに移し百済大寺と称した。 寺の傍らにあった子部大神の崇於寺(?)となる(下述)。堂塔は焼け、天武天皇が高市郡に移す。(現在の百済寺は)その名残〕
 文中の「子部神社」は、 〈五畿内志〉大和国十市郡に「神廟子部コベ神社二座【並大月次新嘗貞観元年正月授従五位上〇在飯高村】」。 飯高村は十市郡だが、広瀬郡に隣接している。
 このように、百済大寺は江戸時代には完全に広瀬郡百済寺、またはその近辺と考えられていた。
《子部神社》 .
 ここに出てきた子部神社については、〈延喜式神名帳〉に{十市郡/子部神社二座【並大。月次新甞】}とある。 『和州五郡神社神名帳大略註解』(1446年;資料[57]) には「意富郷飯富イヒトミ村平盛」、〈倭名類聚抄〉に{十市郡・飯富郷}とある。
 もともとの地名は「意富オフ」で、多氏の本貫にあたり、遺称は現在の田原本町多(大字)と見られる。
《三代実録》
 〈五畿内志〉十市郡がから引用した箇所は、 『三代実録』三十八巻の元慶四年十月二十日にある。
 以下、『国史大系』第四巻〔経済雑誌社;1897〕 (国立国会図書館デジタルコレクション991094コマ281)による。
日本三代実録〔901成立〕巻第卅七〈起元慶四年〔880〕七月、尽十二月〉
冬十月辛巳朔。
廿日庚子。勅。大和國十市郡百濟川邊他一町七段百六十歩、高市郡夜部村田十町七段二百五十歩、返-入大安寺
是、彼寺三綱申牒偁。昔日、聖德太子、創-建平群郡熊凝道場
飛鳥岡本天皇、遷-建十市郡百済川邊、施-入封三百戸、號曰百濟大寺
子部大神在寺近側。含怨屡焼堂塔。天武天皇遷-立高市郡夜部村、號曰高市大官寺、施-入封七百戸
和銅元年、遷都平城、聖武天皇降詔、預律師道慈、令-造平城、號大安寺
今検両處𦾔地、水湿之地、収爲公田、高燥之處、百姓居住。請。依實返入、爲寺家田
之。
十月二十日。
:大和国十市郡百済の川辺他1町7段160歩と高市郡夜部村の田10町7段250歩を大安寺に返入すべし。
先に大安寺の三綱が提出したは申す。「昔聖徳太子が平群郡熊凝道場を創建し、舒明天皇が十市郡百済川辺に移し、百済大寺と名付けた。
子部大神が寺の近側にあり、怨を含みしばしば堂塔を焼いた。天武天皇が高市郡夜部村に移し、高市大官寺と名付け封戸700を施入した。
和銅元年に平城遷都、聖武天皇は詔して律師道慈に預け平城京に移し、大安寺と名付けた。
今、両所の旧地を調査すると、水湿の〔田に適した〕ところが公田に接収され、高地の乾燥したところに百姓が住まわされた。請う。この事情によって寺の家田に返還していただくことを。」と。
(は)このに従う。
図10
 大官大寺があった「百済川辺」の田と高市大官寺があった「高市郡夜部村」の公田は、もともと大安寺のものであるから返してほしいという要請があり、それを認めたのがこの詔である。 子部神社は、近くに建った百済大寺が社領を奪ったことを怨み、度々放火した如くに読める。 〈五畿内志〉の「崇於寺」は活版本に至るどこかの段階で「」を読み違ったものであろう(図10)。
 これを見ると、880年の時点で百済大寺は十市郡の、広瀬郡との境界近くにあったと信じられていたようである。
 しかし、百済はもともと広瀬郡内の地名であり、その隣接地域が「十市郡百済」と呼ばれたことは疑問で、もともとは明日香に近いところにあったのが「十市郡百済」だったかも知れない。 その記憶が失われた時代に、広瀬郡の百済の近接地域と解釈されたと考えられる。
 ただ仮にそうであったとしても、〈天武天皇〉が造高市大寺司を任命したのが二年〔673〕で、仮に百済大寺焼失後だったとしても記憶はまだ新らしいであろう。 それが〈三代実録〉〔901年〕まで、僅か200年の間に失われた事情を見つけねばならない。
 子部神社が吉備池廃寺の近くにあったとすれば解決するのだが、その可能性はないのだろうか。 この論点に対して、〈奈文研2003〉は、現在の子部神社は「13世紀に埋没した幅200mにおよぶ河川」で「条里の乱れ」る位置であるが、 吉備池廃寺なら付近に「カウベ」「コヲベ」「高部」という小字名があり、これが「小部神社」の位置であると確信的に述べる(p.155)。 ただ、この論法ではその河川跡からほど近い地域から移転したことは否定されず、「カウベ⇒子部」説も根拠薄弱である。この〈奈文研2003〉の論は雑と言ってよい。
 子部について、〈姓氏家系大辞典〉には「小子部連:多氏の族にして、小子部の伴造家なり」、〈姓氏録〉には〖小子部宿祢/多朝臣同祖〗とある(〈雄略6年〉参照)ので、 やはり子部神社の所在地は、もともと大字の辺りだと考えるのが妥当だと思われる。 それでは、その子部神が恨みによって寺を燃やしたという伝承は、事実ではなく想像のなせるわざだろうか。
《今昔物語》
 比較のために『今昔物語』〔1120頃〕巻十一「代々天皇造大安寺所々語第十六」を見ると、 「今昔。聖徳太子熊凝ノ村ニ寺を造給フ。…〔中略〕…舒明天皇ノ御世ニ百済川ノ辺ニ広キ地ヲ選テ…〔中略〕…傍ナル神ノ木ヲ此ノ寺ノ料ニ多く伐リ用タリケレバ神〔イカ〕リテ火ヲ放テ寺ヲ焼〔キ〕」 とあり、子部神社の名は挙げず、単に「」の怒りによる落雷とする。つまり、社領・寺領を巡る争いではなく、落雷を主旨とする文である。
 ただ、物語の終わりの方には「寺ノ始メ焼〔ケ〕シ事ハ高市ノ郡ノ小部ノ■…■用ルニ依テ也。彼ノ神ハ雷神トシテ瞋ノ心火ヲ出セル也。ソノ後九代天皇所々に造リ移シ給フ」とあり、ここで初めて「小部神」が出て来る。 しかし「高市郡」と誤り、冒頭では単に「「神」だったから比較的不明瞭である。はじめは、ただ落雷に遭ったことを述べたのであろう。 よって、古い形の伝承では落雷は一般的なの仕業であったが、所在地が広瀬郡の百済川と解釈される時代になって初めて「子部神」になったとも考えられる。
《百済大寺に遡る落雷の伝承》
 ところが、〈木下2005〉によると、吉備池廃寺では金堂、塔ともに「火災の痕跡はまったく認められていない」という(pp.152~156)。 前述したように「文武天皇の大官大寺が火災にあった」ことは実証されているので、それを百済大寺の時点に遡らせた伝説が生まれたのであろう。 だから、熊凝道場から百済大寺までの記述はほぼ伝説であると考えた方がよいだろう。結局、事実を反映した記述は、『三代実録』の「建十市郡百済川辺」、『今昔物語』の「百済川ノ辺」の文字だけで、 書紀を継承したものである。その他は想像による付け足しではないだろうか。
 〔なお、「九代天皇」については、第三十四代が舒明、第四十五代が聖武で、明治時代に追加された弘文天皇を除外し、重祚した皇極・斉明を一代と数えれば「九代」になる。〕
 熊凝神社については、その跡は、現在の「熊凝山額安寺〔大和郡山市額田部寺町36〕と伝承され、広瀬郡百済寺からは約6.5km北である。 吉備池廃寺は南東12kmだが、ともに遠距離でその差は五十歩百歩である。寺の起源を何かと太子に結びつけたと考えられる例は無数にあるから、これも自然発生的な伝承であろう。おそらく飛鳥時代創建の寺すべてに、太子が関わっている。
 最後に前述した「僅か200年の間に失われた」点に関しては、社殿が廃れ参拝者が途絶えれば忘れ去られるには十分の時間かも知れない。 200年は短いが、ほぼ7世代にあたる。
《敏達天皇の百済大井宮》
 第240回【百済大井宮】の項で、 地名「百済」を摂津国百済郡(後に住吉郡・東生郡)、河内国錦辺郡百済郷、大和国広瀬郡を見出した。 そして「(百済出身帰化人の)子孫が移住した小さな「百済」は無数にあり、多くは既に消滅したと想像される」と考えた。
 〈敏達天皇〉は元年四月に「百済大井」を宮としたが、その年の内に訳語田の幸玉宮〔記は他田をさた宮〕に移った。 この地は他田庄に比定され、実は吉備池廃寺の地域でもある。
 百済大井宮については、〈欽明〉・〈用明〉・〈崇峻〉の宮は「磯城・磐余・飛鳥の周辺地域に収まる」から、摂津国、河内国、広瀬郡の「百済」ではなく、「吉備池廃寺」地域が有力だと考察した。 この大井宮と訳語田幸玉宮とが重なれば、ここが「吉備池廃寺の所在地=百済」としてずばり確定する。
 これははじめに「百済大井を宮とする」と述べ、「卜によって訳語田幸玉宮を造営した」とされるから、遷都したように読める。 しかし実は同じ宮の別名で、〈敏達紀〉冒頭にまず形式的に「百済大井宮」と書き、次の「卜云々」はそのように決定した過程を詳述したものとも読める。 ここには「」の字はなく、記では「他田宮」一本なのである。
 仮に両者が別のところだとしてもそんなには遠くはなく、少なくとも広瀬郡に及ぶことはないと思われる。
《和田萃説》
図11 小字の位置は小字データベース(奈良女子大学コラボレーションセンター)による。
 吉備池廃寺を百済に置くことについて、〈木下2005〉は 「香久山周辺の地を指す呼称とする京都教育大学教授和田あつむ説は、非常に魅力的である」(p.127)と述べる。 その説の中身を要約すると、
(万)0199の長歌。柿本人麻呂が、高市皇子薨に際して詠んだ挽歌。「埴安の 御門の原に…百済の原ゆ 神葬り 麻裳よし 城上きのへの宮を」とある。 通説で北葛城郡とされる城上を、飛鳥川に近い小字「木部きべ」と見て、「百済の原」を埴安池(香久山北西麓)に近いところと見る。
藤原宮跡内に、小字「東百済」「百済」「西百済」がある。
〈天武紀〉(上)に大伴吹負の「百済家」があり、(万)0760/0761に出て来る「竹田之原」により大伴氏の本拠地は香久山付近で、その地名を百済と言った。
 となっている。ただ、和田萃自身は百済大宮と百済大寺を香久山の北西麓に想定したという。
 だけは、和田説は疑問である。〈延喜式-諸陵寮〉で高市皇子の「三立岡墓」が「大和国広瀬郡」とされるから、「広瀬郡百済」と捉える方が適切であろう。
 については、 (万)0760:題詞「大伴坂上郎女従竹田庄贈女子大嬢歌二首〔大伴坂上郎女いらつめ、竹田庄より女子むすめ大嬢おほをとめに贈りし歌二首〕、 (万)0760竹田之原尓 たかたのはらに」とある。竹田庄の遺称「橿原市東竹田町」は、耳成山の北東1.7kmにある(図9)。
 「道臣命〔大伴氏の祖〕宅地」比定地に「築坂邑伝称地」碑があり、畝傍山の南が本貫である(〈宣化四年〉)。 香久山を中心とする地域一帯に大伴一族が住んでいたと考えることは可能で、他に確実な根拠があれば補強する材料になるだろう。
 については、図11の位置に確認できる。範囲はごく狭いが、かつて存在した広域の地名がこのような形で残った可能性がある。
《考察》
 天武天皇の高市大寺と文武天皇の大官大寺が果たして同一かという議論はあるが、藤原宮に大官大寺が存在した年代については次のように整理できる。
673年:〔天武〕造高市大寺司。702年:〔文武〕造大安寺司。711年:〔元明〕大官等寺藤原宮焼亡。744年:〔聖武〕属遷-造大安寺於平城
 そして、『三代実録』〔901成立〕の「子部大神在寺近側」が、広瀬郡百済川説が生まれて間もない頃と思われる。
 700年頃から吉備池にあった百済大寺の記憶は薄らいでいく。 平安時代に至り、書紀の「百済川邊」が独り歩きして、広瀬・十市両郡の境界地域と解釈された。 さらに文武朝大官大寺の焼亡から遡って想像上の百済大寺焼亡説が生まれ、それが森林伐採を怒る神の所為となり、その神が遂に近くの小部神と解釈されるに至ったという筋書きが考えられる。
 実際の百済大寺の比定地については、
敏達天皇の百済大井宮は、戒重村の他田宮と同一または近傍にあった可能性がある。
三代実録の「十市郡百済川辺」は、もともとは「広瀬郡百済」とは異なる場所と見られる。
小字名「百済」があり、大伴吹負の「百済家」も天香久山周辺であろう。
「百済大寺の落雷」は後の大官大寺の焼亡を遡らせたもので、さらにそのいかる神に、子部神を宛てたのは後世の付会と見られる。
 このように、天香具山含む一帯が百済と呼ばれた可能性が高く、とりわけ現在まで残った小字名の存在は重い。 何といっても九重塔の規模の基壇という物質的な根拠があるのだから、僅かでも遺称があれば決定的と考えてよいだろう。

【伊予国風土記逸文】
 〈釈紀〉は、伊予国風土記の逸文を載せる〔巻十四;述義十〕
 ここで、その全文を読む。出典は『新訂増補 国史大系8』〔1932,吉川弘文館1999〕(釈日本紀p.188)〔以下〈国史大系〉〕参考文献:『風土記下』〔角川文庫19241、中村啓信2015〕〔以下〈角川文庫〉〕
《伊予国風土記逸文》
伊豫國風土記日
湯郡
大穴持命見悔恥而宿奈毗古那命欲活而
大分速見湯自下樋持度來
宿奈毗古奈命而漬1)
蹔間有 活起居 然詠曰眞蹔寢哉。
踐健跡處今在湯中石上
伊予いよの国の風土記ふどきに日ふ。
こほり
大穴持命おほなむちのみこと悔恥くいはぢを見たまひて宿奈毗古那命すくなびこなのみことけむとおもほして、
大分おほきだ速見はやみの湯を下樋したびより持ちてわたり来ませり。
宿奈毗古奈命を以ちてけてゆかはあみしたまへば、
しまらの間有りてきて起きせり。しかれどうたひて曰へらく「まさしまらぬる」といへり。
みしたけ跡処あと、今に湯の中の石のに在り。
1)…〈釈紀〉
大穴持命…大穴牟遅神(大国主神の別名)(第55回)。 宿奈毗古那命…少名毘古那神(第69回)。
湯郡…〈倭名類聚抄〉{伊豫國・溫泉【湯】郡}。  大分速見…〈倭名類聚抄〉{豊後國・大分【於保伊多】郡/速見【波夜美】郡}。 『豊後国風土記』「氷室:豊後国速見ノ郡ニ温泉アマタアリ〔『塵袋』(13世紀)/〈角川文庫〉〕
したび…[名] 地下に埋設した木製の通水路(允恭段歌謡;第188回)。  きだ(分)…[名] 切れ目。
凡湯之貴奇不神世時耳
於今世染疹痾万生
病存レ一身要藥也
おほよそ湯たふとあやしきこと、神世かみよの時のみにはあら
今の世に疹痾やまひみてよろづ生けるひと、
やまひけて見を存(たも)つ為にかならくすりとなせり。
不〇〇耳…「耳」は文末におく語気詞なので、「不〇〇耳〔~のみにあらず〕と訓読するのは日本語用法である。
…はしか、湿疹。また病一般。  …こじれて治りにくい病気。「宿痾」。また病一般
天皇等於湯幸行降坐五度也 以大帶日子天皇與大后八坂入姬命二驅一度也 以帶中日子天皇與大后息長帶姬命二軀一度也 以上宮聖德皇子一度。及侍高麗惠総僧葛城臣等 天皇等すめらみことたち湯に幸行いでまして降坐くだりませること五度いつたびあり。 大帯日子おほたらしひこの天皇〔景行〕大后おほきさき八坂入姫命やさかいりひめのみこと二躯ふたはしらを以て一度ひとたび帯中日子たらしなかつひこの天皇〔仲哀〕と大后息長帯姫命おきながたらしひめのみこと〔神功皇后〕の二躯を以て一度と上宮聖徳皇子かみつみやのしやうとくのみこを以て一度と。及びて高麗こま恵総僧ゑそうほふし葛城臣かつらきのおみはべり。
于時立湯岡側碑文1)記云。 時に湯のをかほとりに立ちてあるの碑文いしぶみしるして云ふ。
1)『万葉集注釈』逸文では、ここから「其立碑文處謂伊社邇波之岡也…」に続く〔下記
いしぶみ…[名] 碑文。
法興六年十月歲在丙辰
我法王大王與惠忩法師及葛城臣
-遙夷與村正觀神井
世妙驗
聊作碑文一首
法興ほふこう六年むとせ十月かむなづきとし丙辰ひのえたつに在り。
我が法王ほふわう大王おほきみ恵忩ゑそう法師ほふしと葛城臣(かつらきのおみ)とともに、
夷与いよ村に逍遙たはぶれて、正まさくすしきゆ。
世の妙験めうげむたへなるしるしなげきてこころむとして、
いささか碑文いしぶみ一首ひとうたを作れり。
法興…私年号。元年は591年。「元興寺伽藍縁起并流記資財帳をそのまま読む」【光背・造像記の線刻】 法興六年は〈推古〉四年。
逍遙…ぶらつく。(古訓) たはふれ。  …[動] のべる。(古訓) のふ。  いささか…[副] かりそめ。程度のひどくないことを示す。
惟夫日月照於上而不私。
神井出於下給。
万機所以1)妙應。
百姓所以潛扇。
-乃照給無偏私
何異2)壽國
華臺而開合。
神井而瘳疹。
詎舛3)落花池而化弱。
ここそれ日月はかみに照らしてわたくし
くすしきしもに出でてたまること無し。
万機まつりごとは所以ゆゑ妙応めうおうしたへにこたへて、
百姓おほみたからは所以ゆゑ潜扇せむせむすひそめてあふぐ
照らし給ふことひとへに私すること無きに若乃およべば、なに寿いのちながき国にならむか。
はなうてなまにまにして開き合はす。
くすしきゆかはあみしてやまひゆ。
なにそ落つる花の池にたがひて弱きにはらむや。
1)〈国史大系〉は、釈紀底本〔前田本〕の「万所以機」を「万機所以」に改める。 同様に、2)子⇒于。3)子⇒于。
若乃…〈汉典〉「「至於」之義相当〔「至於…」に相当する〕
…[動] いえる。(古訓) いゆ。  …[動] くいちがう。(古訓) たかふ。  寿…[形] (古訓) いのちなかし。  …[助] なんぞ。[副] いやしくも。
-望山岳之巗崿
反冀子平之能往
椿樹相廕而穹窿 
實想五百之張盖
山岳やまなみさがしき崿きしうかがひ望む。
かへりてこひねがはく子平しへいかむことを。
椿樹つばきあひおほひて穹窿おほぞらなり。 
まこと五百之いほの張りたるきぬがさおもふ。
…[名] いわお。[形] けわしいさま。  崿…[名] がけ。(古訓) きし。[形] ごつごつしてけわしいさま。
子平…後漢〔22~220〕の歌人。《高士伝》:向長字子平,河内朝歌人也。《後漢書/向長伝》:隱居不仕,性尚中和,好通「老子」、「易経」。
…[名] かげ。[動] おおう。  …[名] テント。テントを広く張ったような大空。  穹隆穹窿…アーチ形のテント、屋根、大空。  張蓋…〈汉典〉張開傘蓋。
朝啼島而戲𠱚1)
何曉乱音之聒耳
丹花卷葉映照
玉菓 弥葩 以垂
朝に臨みてく島ありてたはぶく。
いかあかときみだるるかましきのみや。
あかき花巻ける葉え照る。
玉のこのみいよよはなさきて以てに垂れり。
1)𠱚 [動] 〈国史大系〉は、釈紀底本〔前田本〕の「吐下」二字を𠱚(の異体字)に改める。
たはぶる…[自] たわむれる。  …[動] 〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉鳥鳴。異体字「𠱚」
…[形] かまびすしい。(古訓) かまひすし。  かまし…[形]ク やかましい。〈時代別上代〉「カマビスシは、当時は…カマミスシの形で見える」
…[名] 〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉①草木的花。②華麗;華美。③草花白。(古訓) はなひらく。  …[名] (古訓) あかし。に。
-過其下優遊
豈悟-灌霄庭
意與才拙實慚七步 
後出君子幸無蚩咲
其の下を経過ぎてすぐれて遊ぶし。
あによひには洪灌うるほすことをさとりなすや。
こころかどつたなくてまこと七步ななあしづ。
のちのよに出づる君子ひじりいでまして蚩咲わらふこと無かれ。
…[名] そら。よい。(古訓) おほそら。そら。よひ。よる。
洪灌霄庭…〈角川文庫〉は脚注で洪灌・霄庭を「人名と思われるが不詳」とする。
1)以岡本天皇皇后二軀爲一度2)
3)後岡本天皇
近江大津宮御宇天皇
淨御原宮御宇天皇
三驅爲一度
此謂幸行五度
岡本天皇をかもとのすめらみこと〔舒明〕皇后おほきさきとをあはせて二躯ふたはしらを以て一度ひとたび
岡本天皇より以後このかた
近江大津宮ちかつあふみのおほつのみやにましまして御宇あめのしたをしろしめす天皇すめらみこと〔天智〕
浄御原宮きよみがはらのみやにましまして御宇あめのしたをしろしめす天皇すめらみこと〔天武〕
三躯みはしらを一度と
をば幸行いでまし五度いつたびと謂ふ。
1)万葉集注釈〔下記〕の「…因謂伊社爾波本也」から、ここに続く。
2)万葉集注釈は、ここから「于時於大殿戸…」と続ける。
3)万葉集注釈は、「…穂等養賜也」からここに続く。
図12 豊後国/速見郡・大分郡
《大分速見湯》
 伊予温湯の話のはずなのに、冒頭にいきなり大分速見湯が出て来て面食らう(図12)。 最初に温湯の効能という一般論を置き、大国主神話から話を始めるのであろう。
《行幸五度》
 「行幸五度」については、二つの異なる解釈を紹介している。
景行天皇・同皇后・仲哀天皇・神功皇后・聖徳太子。
舒明天皇(二度)・同皇后・天智天皇・天武天皇。
 ①の仲哀天皇は事績の中身はともかくとして実在はしたようである。神功皇后は完全に伝説中の人物。景行天皇はその時代の大王の集合人格であろう。 聖徳太子も人物としては実在だが、さまざまな伝説に姿を見せる。実際に訪問の有無については何とも言えないが、ここでは碑文の権威付けに使われている。
 宝皇女皇后、天智天皇、天武天皇には書紀に記載はない。舒明天皇の行幸は、書紀では1回だけである。
《若乃》
 「若乃照給無偏私」の「し」は仮定と思われたが、だとすれば「無偏私」は「偏私」でなければならない。 「もし~」だとすれば、背理法的な論理展開が想定されるからである。 理屈が合わないから、そもそも「若乃」は仮定としたことが誤りかも知れない。そこで調べて見ると、「若乃」の説明は日本のいくつかの漢和辞典には見つからず、〈汉典〉にあった。
――「若乃:転折連接詞〔=逆説の接続詞〕。前面之事講完、続起一事時用之。与「至於」之義相当。
 このように「至於A、B」に相当するというので、「至於」を〈汉典〉で調べる。 そこで挙げられた文例のうち、解りやすいのは「今之孝者、是謂能養。至於犬馬,皆能有養。」(『論語』為政)である。 この例は逆説というより、例示による一層の強調である。このように逆説とは限らないが、若乃は仮定の意味を持たない接続詞であることが分かった。
 「若乃照給無偏私 何異于寿国」の場合は、「(温泉の恩恵は人々を)分け隔てなく照らすというからには、長寿の国となることなどあろうか」 を意味すると見られる。
《洪灌霄庭》
 〈角川文庫〉は「洪灌霄庭」を人名と推定し、それに合わせて「意與」を「意歟」と解釈している〔歟は文末の助詞で感歎の語気を表す。與で表すこともある〕。 しかし、人名とせずに「洪灌霄庭〔直訳:庭を水浸しにする〕を、庭が秀歌を生み出す雰囲気に包まれていることの譬えとして読むことは可能である。
 碑文作者は、それを悟ることができない〔=歌作りの絶好の条件を生かせない〕という。「あに」は反語の副詞で、疑問文の形をした否定文である。 それは、「意与才拙実慚七歩〔私には七歩歩む間に優れた歌を詠むような心と才はなく、拙劣な歌しか詠めない〕からである。
 そして、「後出君子幸無蚩咲〔後に君子が訪れてこの碑を見ても、笑わないでほしい〕という。 動詞が「」だから、主語は天皇である。しかし「後出」という表現は、今度こそよい歌を詠む才人とも読め、 その場合は「」は君主に擬えた最大級の敬語となるが、率直に言って無理がある。 結局「文聖」・「天皇」の両者をまとめて言ったのであろう。
《万葉集注釈》
 〈角川文庫〉には、〈釈紀〉所引の逸文にない部分があった。 該当箇所の出典は、『万葉集注釈』〔仙覚;1269〕に見つかり、 その位置は、第三巻「(0322) 山部宿祢赤人至伊豫温泉作歌一首」の項である。
 この部分も原文を読み下しておく。 出典は、国立国会図書館デジタルコレクション2575771;コマ12・13。 毛筆の和綴じ本で、表紙に「東氏秘伝」とある。書写年を窺わせるのは、第一巻の奥付「右点検畢 明和七年〔1770〕寅夏五月 六友堂 縁信」である。〔平縁信;国学者。荷田在満かだのありまろ(1706~51)門下。(日本人名辞典;講談社)〕
伊豫國風土記日。
湯郡
大穴持命見悔恥而宿奈毗古那命欲活而
大分速見湯自下樋持度來
以宿奈毗古奈命而漬
〔〈釈紀〉所引『伊予国風土記』と同じ〕
碑文處謂伊社邇波之岡
伊社邇波
當土諸人等其碑文欲見而
伊社那比來
因謂伊社爾波本1)
其の碑文を立てしところをば伊社邇波之いざにはのをかと謂へり。
伊社邇波いざにはと名づけたる所
まさくにのもろもろのひと、其の碑文いしぶみを見まくりて、
伊社那比いざなひ来たり。
りて伊社爾波いざにはもととなりきと謂ふ云々しかしか
以岡本天皇幷皇后二軀爲一度 以て岡本天皇をかもとのすめらみことならびに皇后およきさき二躯ふたはしら一度ひとたび
于時於大殿戸有椹云臣木
於其上集2)鵤云比米鳥
天皇爲此鳥枝繋穂等養賜也3)
時に大殿戸おほとののとむくのき有りて臣木おみのきと云ふ。
其の上につどへるいかるがをば、比米ひめ鳥と云へり。
天皇すめらみこと、此の鳥のために枝に穂等ほらつなぎて養賜やしなひたまへり
1)ここから共通部分
2)原文「於其集上鵤」は誤りであろう。
3)ここから共通部分「後岡本天皇近江大津宮御宇天皇…」へ。
…[名] (古訓) むくのき。  むく…[名] ニレ科の落葉高木。
《伊社爾波》
 〈延喜式-神名帳〉に{伊予国/温泉郡四座【大一座小三座】/伊佐尓波神社}とあり、式内小社。 比定社伊社爾波神社〔愛媛県松山市桜谷町173〕は道後温泉に近接している(図2)。 同社公式ページの「由緒」によれば、 「清和天皇〔858~876〕の御代に奈良大安寺の僧行教が」「道後に八社八幡宮を建立した中の一社で、神功皇后・仲哀天皇御来湯の際の行宮跡に建てられ」、 「当初は道後公園山麓に御鎮座していたと推定され、建武年間〔1334~1336〕頃、河野氏が湯月城築城に際して今の地に遷し」た。
《考察》
 書紀から「温湯」を拾うと、 〈舒明天皇〉は有間温湯2回に伊予温湯1回。〈孝徳天皇〉は有間温湯1回、〈斉明紀〉では有間皇子が牟婁温湯1回、自身の行幸は紀温湯1回。 〈天武紀〉には、信濃に「束間温泉行宮」を作らせたとある。
 実際には、書紀に書かれない行幸もあっただろう。少なくとも〈舒明朝〉には貴人・庶民を問わず湯治に出かける風習があったことは想像に難くない。 碑文のうち神功皇后以前は伝説であるが、大国主神まで遡っているところをみると石器時代以前まで遡るかも知れない。

18目次 【十二年~十三年】
《天皇至自伊豫便居廐坂宮》
十二年春二月戊辰朔甲戌。
星入月。
夏四月丁卯朔壬午。
天皇至自伊豫、
便居廐坂宮。
五月丁酉朔辛丑。
大設齋、
因以請惠隱僧
令說無量壽經。
星入月…〈北〉 レリ
至自伊予…〈北・図〉カヘリオハシマス自伊豫
便…〈北・図〉便ステ。〈閣〉便ステニ
居廐坂宮…〈北・図〉マシマス 廐坂ムマヤサカノ
設斎…〈北〉設齋ヲカミス。〈図〉設齋■■ミス (〈推古〉十三年《設斎》)。
請恵隠僧…〈北〉因以 マナヌ マセ惠隱ホシ。 〈図〉因以 マナス マセ惠◱隱◱ホシ[テ]説无◳量◱壽◱經[ヲ][切]。 〈閣〉マケテマセ无◳量◱壽◱經◳[ヲ]
無量寿経…法蔵菩薩が四十八願の大願を成就して阿弥陀仏となり、一切衆生を救済して極楽浄土に導くと説く。のちに浄土宗、真宗の根本となる。
十二年(ととせあまりふたとせ)春二月(きさらき)戊辰(つちのえたつ)を朔として甲戌(きのえいぬ)〔七日〕
星月に入れり。
夏四月(うづき)丁卯(ひのとう)を朔として壬午(みづのえうま)〔十六日〕
天皇伊予(いよ)自(ゆ)至(かへ)りまして、
便(すなは)ち廐坂宮(うまやさかのみや)に居(ましま)す。
五月(さつき)丁酉(ひのととり)を朔として辛丑(かのとうし)〔五日〕
大設斎(おほきにせつさいす、おほをがみす)。
因(よ)りて以ちて恵隠(ゑをむ)僧(ほふし)に請(こ)ひて
無量寿経(むりやうじゆきやう)を説(と)か令(し)めき。
冬十月乙丑朔乙亥。
大唐學問僧淸安
學生高向漢人玄理、
傳新羅而至之。
仍百濟新羅朝貢之使
共從來之、
則各賜爵一級。
是月。
徙於百濟宮。
学生…〈北〉學生フムヤワラハ 高向タカムク漢人アヤヒト玄理。 〈図〉清◱安◱學生フムヤワラハ高向漢人玄◳理。 〈閣〉クロマサ
伝新羅…〈北・図〉ツタハリ ヨリ
朝貢…〈北・図〉朝貢之ミツキタテマツル
従来之…〈北・図〉来之マウケリ
爵一級…〈北〉カフリ一- シナヒトシテ。 〈図〉カフリ一級ヒトシナ。 「冠位一級」(十一年九月)と同義と見られる。
冬十月乙丑朔乙亥〔十一日〕
大唐(だいたう、もろこそ)の学問僧(ものならふほふし)清安(しやうあむ)、
学生(がくしやう、ふむやわらは)高向(たかむこ)の漢人(あやひと)玄理(げむり)、
新羅(しらき)に伝へて[而]至之(まゐく)。
仍(すなはち)百済(くたら)新羅(しらき)の朝貢之(みかどををろがみみつきたてまつる)使(つかひ)
共に従(したが)ひて来之(まゐきたりて)、
則(すなはち)各(おのもおのも)爵(かがふり)一級(ひとしな)を賜(たまは)る。
是の月。
[於]百済宮(くたらのみや)に徙(うつ)りませり。
十三年冬十月己丑朔丁酉。
天皇崩于百濟宮。
丙午。
殯於宮北、
是謂百濟大殯。
是時、東宮開別皇子、
年十六而誄之。
…〈北・図〉カミアカリマシヌ
…〈北・図〉モカリスイフ百濟オホモカリ
東宮…〈北・図〉東宮マウケノキミ ヒラカスワケノ皇子年十六而誄之シノヒコトシタマフ。 〈閣〉東宮マウケノキミマウケノミヤ開別比良加須祢波ヒラカス ワケノ皇子年十六ニシテ
まうけのきみ…[名] 〈時代別上代〉マウケキミ・マケノキミ・マウケノミヤ・ヒツギノミコとも。
開別皇子…〈北-天智紀〉アメミコトヒラカスワケ天皇スメラミコト
十三年(ととせあまりみとせ)冬十月(かむなづき)己丑(つちのとうし)を朔(つきたち)として丁酉(ひのととり)〔九日〕
天皇(すめらみこと)[于]百済宮(くたらのみや)に崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
丙午(ひのえうま)〔十八日〕
[於]宮の北に殯(もがり)す、
是(これ)百済(くたら)の大殯(おほもがり)と謂ふ。
是の時、東宮(まうけのきみ)開別(ひらかすわけ)の皇子(みこ)、
年(よはひ)十六(とつあまりむつ)にして[而]誄之(しのひことしたまふ)。
《廐坂宮》
 〈応神紀三年〉に、「厩坂道」がある。 その推定地は、軽の衢の近くだと考えた。 〈応神紀〉十一年に「厩坂池」が出てくる (第115回《軽池》)。
 「便」をスナハチと訓読するとその意味合いが隠れるが、その字には「便宜的に」のニュアンスがある。 仮住まいということだろう。 岡本宮は、八年に火災があり田中宮に移った。十一年正月に有間温湯から戻った先は田中宮であろう。
 十一年十二月に伊予温湯宮に行幸し、帰ったのは田中宮ではなく厩坂宮であった。 そして、次は新築の百済宮である。
 田中宮は蘇我氏の居住地域の中にある。その前に消失した岡本宮も同じところに再建せず、離れた場所に百済宮を新たに作った。 有間温湯、伊予温湯に出かけたことも含めて、晩年にはどうやら蘇我氏の勢力圏から脱出したいという思いが強まったようである。
《星入月》
 舒明十二年二月七日は、ユリウス暦の641年3月23日にあたる。
 7世紀の日本天文学〔谷川清隆他;Spaceguard Research Vol.1(2008)〕によると、 「舒明十二年春二月戊辰朔甲戌、星入月」については「1等星αTau(アルデバラン)が隠されたことが計算でわかる」(p.72)という。
《玄理・清安》
 高向漢人玄理は、〈推古十六年九月〉、恐らく遣隋使小野妹子に随行して学問僧として隋に渡った。 白雉五年〔654〕に唐で客死。
 学問僧清安は、玄理とともに隋に渡った南淵請安と同一人物と見られている。 の呉音はシヤウ〔ショウ〕
《伝新羅》
 「伝新羅」は一見「新羅を経由して」のように思えるが、「伝」はあくまで伝承・伝達・伝授であって、人がある場所を通る意味には使わない。 隋唐で学んだ学問を、新羅にも伝えたと読むべきであろう。
《百済新羅朝貢之使共従来之》
 〔したがふ〕は、自動詞〔四段;したがう〕と他動詞〔下二段;したがえる〕が考えられるが、他動詞だとすると「共」が新羅使と百済使の共同行動となり不自然なので、 自動詞であろう。
 ここには「任那使」がないことが注目される。これは、玄理清安が主導して倭国に連れてきたことを物語っている。 倭朝廷の主導なら、必ず百済の副使を名目上の任那使に装わせたはずだからである。自由にこのような動きができるのだから、特に玄理は相当高い権威をもつ人であったことが窺われる。
 想像をたくましくすると、百済大寺の建造のために工人を新羅・百済から派遣する打ち合わせが目的だったのかも知れない。
《開別皇子》
 天智天皇の名前は「天命開別天皇」なので、「開別皇子」は天智天皇と見られる。これを疑う説は見ない。 「東宮」とされるが継位したのは皇極天皇で、天智天皇は20年後の661年に称制、正式な即位は668年である。
 東宮を差し置いて皇極天皇が即位した理由は〈皇極紀〉にも書かれていないが、 ここで「年十六」と書くのは、即位しないのは若年故と暗に述べたものか。
《大意》
 十二年二月七日、 星が月に隠れました。
 四月十六日、 天皇は伊予から戻られ、取り敢えず廐坂(うまやさか)の宮に住まわれました。
 五月五日、 大設斎。よって恵隠(えをん)僧に要請して無量寿経(むりょうじゅきょう)を説かせました。
 十月十一日、 大唐の学問僧清安(しょうあん)、 学生高向(たかむこ)の漢人(あやひと)玄理(げんり)は 新羅で伝道して帰国しました。
 そこに百済と新羅の朝貢使が従って来倭し、 それぞれに爵一級を賜りました。
 是の月、 百済宮(くだらのみや)に移りました。
 十三年十月九日、 天皇(すめらみこと)は百済宮で崩じました。
 十八日、 宮の北で殯(もがり)し、これを百済の大殯(おおもがり)といいます。 この時、東宮の開別(ひらかすわけ)の皇子(みこ)が、十六歳にして誄(しのひこと)されました。


まとめ
 考古学側のアプローチと、文献研究者によるアプローチはそれぞれ独立して展開され、それぞれの学問世界は閉鎖的である。 しかし、百済宮・百済大寺を中心とする都の位置取りは、朝廷の蘇我氏からの独立志向を考えると、つかず離れずの絶妙な位置にある。 このように遺跡という物的資料から演繹して得られる政治動向は、文献のより的確な読み取りを期す上で有意義と言えよう。
 もともと舒明天皇は、蘇我蝦夷大臣が身内の上宮家の期待に反して、大局的な判断から擁立した大王である。 その背景として、馬子-太子-推古のトライアングル体制が終焉し、その否定的側面に対する諸族の反発が噴き出したことがあろう。
 舒明と蝦夷は当初はタッグを組んでいたと思われるが、晩年には独立志向を強め、遂に朝廷の主導による巨大な官寺の建立に踏み切った。 その経過として、伊予温湯から田中宮に戻らず、厩坂宮に滞在したことの意味も見えてくる。 このように、蘇我氏と朝廷との政治的距離感を測る上で、考古学的に確定した遺跡の配置は大きな役割を果たすものと言える。
 さて、その文献資料においては、飛鳥時代と平安時代との間の断絶に注意を払う必要がある。 書紀は、上宮家が皇統の本来の継承者であるとする見方を極端に警戒し、それを潰すことに最大限の注意を払った。そのために太子を仏教界に閉じ込めたのだが、 それが不意に平安時代の爆発的な太子の神聖化を生み出すことになった。
 『三代実録』の熊凝道場移転の件もその動向のうちにあるが、このように大幅な認識の変化の過程にあるから、 飛鳥-平安の諸文献については時系列上に位置づけて、その変容を的確に捉える必要がある。 今回、百済大寺の広瀬郡百済川説に関する文献に深入りしたのも、そのためである。
 考古学と文研研究の互いの閉鎖性に話を戻すと、ここでは考古学側の論のうち「子部」の古地名考察は厳密性を欠くと見た。考古学も文献学も、互いに相手方のことについては門外漢であると感じられる。 当サイト主は双方共に門外漢だから偉そうなことは全く言えないが、文献学と考古学双方の研究手法を自在に操る研究組織があってもよいのではないだろうか。



[24-1]  皇極天皇1