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2022.07.26(tue) [23-6] 舒明天皇6 ▼▲ |
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15目次 【五年~八年】 《大唐客高表仁等歸國》
「吉士」は、新羅の官位十七位中第十四位に由来する。 〈時代別上代〉「此を称する氏は、帰化族と見るを至当とすべし…多くが、阿倍氏管理」とされる。 〈雄略紀〉〈継体紀〉〈敏達紀〉〈推古紀〉で新羅などへの遣使に多く見えた。 〈推古紀〉では国内で外交使節の接待の場面に見え、ここでも同様である。 さまざまな「吉士」が出て来るが繰り返しての登場はあまりなく、雄摩呂、黒摩呂もこの一か所だけである。 《高表仁の帰国》 高表仁の帰国に際して送使を付き添わせたのは、外国からの使節は、基本的に警戒の対象であったからであろう。もちろん、外国からの使節には礼を尽くすが、それはそれとして警戒心は緩めない。 〈四年〉で見たように、新旧唐書によるとこのとき高表仁と朝廷の間はぎくしゃくしている。それがまた、警戒心を強めたのかも知れない。 送使が対馬で引き返したということは、そこまでが倭国の統治範囲内であったことを物語っている。 「隋書倭国伝(4)」の《皆附庸於倭》の項で、吉備地域より西は未だ独立性の強い小国の集合体であろうと推定した。 それでも、幾分緩めではあるが対馬までは中央に結びついていたと見るべきであろう。 《彗星》 彗星の用字は〈北野本〉では彗と篲、〈図書寮本〉は二つとも篲、〈内閣文庫本〉は二つとも彗で「星名は彗、清掃用具のホウキは篲」との注釈をつけている。 「中国哲学書電子化計画」で検索したところでは、「彗星」は161段落に対して、「篲星」は1段落だから、天体としての名称は基本的に彗である。 ただし、彗の語源もホウキである。
『信濃毎日新聞』〔2022/08/24〕に、「双頭蓮」発見の記事があった。 同記事には、「ハスの花を栽培する…〔中略〕…が珍しい「双頭蓮(れん)」を見つけ、SNSなどで話題になっている。「吉祥の花」「瑞兆(ずいちょう)の花」などと呼ばれ、良いことが起きる前触れとされているという」とある。 双頭蓮とはハスが一本の茎の先に二つの花をつけることで、 極めて珍しい現象と言われるが、検索すると2021年以後だけで16本の記事がある。 全国の寺や植物園などにハスの名所は無数にあるから、一つの池で考えると出現する確率がかなり小さいのは確かであろう。 《日蝕》 八年正月朔日は、ユリウス暦の636年2月12日である。 「NASA Eclipse Web Site」 で調べると、636年2月12日に日蝕はない。〈推古三十六年三月二日〉〔ユリウス暦628年4月10日〕 の日食が倭国内で観測されていたことは、ほぼ確実であった。九年三月乙酉朔丙戌(下記)の例でも記録に一致する。 従って、八年正月の日食についても実記録が存在し、恐らく誤った日付のところに紛れ込んだと考えるのが妥当であろう。 そこで、干支の読み間違えや、他の天皇の「八年」などの可能性を考えて調べたが、国内で日食が観測できる日付はなかった(右表)。
同論文が取り上げた『日本暦日原典』〔内田正男;雄山閣1981〕を読むと、 「〔舒明八年の日食〕は、その4年前の舒明天皇4年正月朔の日蝕記録が書紀編集にあたって、 誤って舒明8年に入れられたと考えるのがより確かと考える」、 「〔舒明八年の日食〕を舒明4年とすれば、暦始行〔持統五年〕前の5個の日食はいずれも日本で見られたものであり、実見の記録のみと言えよう」と述べている。 ここでなぜ「実見のみ」と言えるかというと、持統五年〔691〕の日食以後は「記録は急激に増加している。しかもその記録は見えなかったはずの日食を多数含んでいるので、この場合は明らかに推算結果をそのままのせたもの」 だからという(pp.554~555)。
四年正月朔日と八年正月朔日は、ユリウス暦では次の日付である。
ちなみに、「正月壬辰朔」となる他の年を探すと、この年の前は31年前の推古十三年〔ユリウス暦605年1月25日〕で、日食は三日前の1月22日にインド洋に見えるが無関係であろう。 この次は、93年後の神亀六年〔同729年2月3日〕だが日蝕はない。この日は書紀の完成後だから、書紀がこの日のことを載せることはあり得ない。 これらを見れば『日本暦日原典』のいう四年食誤記説は確かにうなずけるが、飛鳥では日没直前にほんの少し欠けただけだから本当に気づいたのだろうか。 中国から持ち込まれた記録によるかも知れない。 ただ対馬まで行けば、太陽が畿内で見るよりはもう少し日が高いうちに欠け始め、欠けて見える時間も長い。対馬は半島への経由地として船の往来は盛んであった。 その操船者は天文に詳しいと考えられるので、日食にも敏感に気づき、報告が中央に届いたかも知れない。
皆既日食ラインは、概ね太陽の最大高度とその時刻、春分からの日数、昇交点/降交点の区別によって定まる。 時間経過については、さらに月地球間の距離が必要である。 NASA Eclipse Web Site〔以下NASA/E〕の672年1月27日の日食の経路図に近いラインをエミュレートした。 (資料[64])。 それによれば、明日香においては日没前30分頃に欠け始め、日没時に食分が最大になり0.2程度である。 一方、対馬においては日没前1時間10分頃に欠け始め、日没前15分ぐらいに食分が最大になり、0.3程度である。 NASA/Eによればこのときは金環食なので、月地球間の距離の最小値として平均距離、最大値として楕円軌道の遠点を考えて二通りのグラフにした。 ケプラーの第二法則〔面積速度一定の法則〕により、遠点で月の公転の角速度が最小になる。日没間際なので、この角速度の違いは日蝕の見え方の推定に大きな影響を及ぼす。 資料[65]によれば比較的平均距離寄りで、従ってグラフの青線に近い。 一方、『日本書紀天文記録の信頼性』の推定コースでは、シベリアではNASA/Eよりも北寄りである。また日没による終了位置も西寄りである。 同論文が「日没時の食分は0.05」とするのは、そのためだと思われる。 そのコースの西の部分はNASA/Eと重なるので、白道面と赤道面との角度が大きいわけだが、これはより冬至寄りのものである。 こうして明日香の食分をグラフ化してしまうと、もっともらしく見えてしまうが、あくまでも考え得る一つのケースにすぎない。 ただ、大まかに見れば明日香で見つけられたかどうかは微妙で、対馬からの後日の報告によったと考えた方がよさそうに思える。 その報告の書式が朝廷における通常の日蝕観察記録と異なっていたから、年月日の誤りが生じたのではないだろうか。 《三輪君小鷦鷯》 三輪君は、大田田根子を伝説上の祖とする。田根子は〈崇神段〉において、三輪山の大物主神の奉斎主として登場した (第111回/ 〈雄略即位前〉《三輪君》/ 第112回《大三輪君》)。 《長雨》 〈時代別上代〉によれば、「ナガアメは母音が二つ続き、それも同じアであるので、単独母音が脱落してナガメとなる」、 「上代には仮名書き例はなく、辞書にはナガアメ(和名抄)・ナガメ(名義抄)の両形が見えるが、古くからナガメと訓みならわしている」という。 《田中宮》
《時制》 十二支を用いた時刻表現は定時法で、24時間を十二等分して割り振る(右図)。 子は午前0時を中央とする2時間で、23時~1時。12時は午の中央にあたるので「正午」という。 卯の中央は午前6時、巳の中央は午前10時である。 《大意》 五年正月二十六日、 大唐の賓客、高表仁等は帰国しました。 見送りの使者、吉士(きし)雄摩呂(おまろ) 黒摩呂(くろまろ)は、 対馬に到着したところで帰りました。 六年八月、 細長い星が、南方の空に見え、当時の人は彗星(ほうきぼし)と呼びました。 七年三月、 彗星は東の空に移って見られました。 六月十日、 百済は達率(たつそつ)柔等(にゅうと)を遣わして朝貢しました。 七月七日、 百済の賓客を朝廷で饗応しました。 その月、 瑞々しい蓮が剣池に育ち、 一本の茎に二つの花をつけました。 八年正月一日、 日蝕がありました。 三月、 采女と姦淫した者を洗いざらい摘発し、全員に罪を科しました。 この時、 三輪君(みわのきみ)小鷦鷯(おさざき)は、 その尋問に苦しみ、頸(くび)を刺して死にました。 夏五月(さつき)。 霖雨大水でした。 六月(みなづき)。 岡本宮に火災があり、 天皇(すめらみこと)は田中宮(たなかのみや)に移りました。 七月一日、 大派王(おおまたのみこ)は、豊浦大臣(とゆらのおおまえつきみ)に 「群卿(まえつきみたち)から有司(つかさたち)まで、 朝参を怠るようになっている。 今から以後、 卯(う)の刻に朝参を始め、巳(み)の刻に退出することにして、 鍾で合図せよ。」と言いました。 けれども、大臣(おおまえつきみ)は従いませんでした。 この年は、 大旱魃があり、国中が飢えました。 16目次 【九年】 《大星從東流西便有音似雷》
〈時代別上代〉は、「ほし」の項で「諸外国の伝説や文学に比べて星のことがでてくる機会は概して少ない。 明星 枕草子は1000年頃の成立とされるから、まだオとヲの混用はなかったと見られる。よって、流れ星も少しはよいが尾がなければもっとよいという意味であろう。 倭名類聚抄は承平年間〔931~938〕成立だから、ヨバヒホシは枕草子が書かれた頃には一般的な名詞として存在していた。 よって書紀古訓の時代に存在していたはずだが、字のままでナガレホシと訓むことも普通だったかも知れない。 《僧旻》 学問僧僧旻は、〈舒明四年〉に帰朝した。 「僧旻僧」の訓み方は悩ましいが、舒明四年では「僧旻」が個人名であり、 〈孝徳紀〉では基本的に「僧旻法師」だから、「僧旻 〈孝徳紀〉には一か所だけ「沙門旻法師」があり、そのまま訓むと「ホフシ・旻・ホフシ」となって不自然であるが、 当時、実は「僧 《天狗》 狗はもともと愛玩用の子犬を意味し、後に犬一般となる。 漢書に天狗の説明がある。
他に、次のような天狗がある。
ただし、アマツキツネという妖怪も存在したようである。 中国では西晋の文献に載る。
『壒嚢鈔
民間伝承における天狗は、修験道の行者〔山伏〕の格好をしている。修験道は奈良時代の山岳の修行者に由来し、平安時代に発展する。 その修行者の超人的な伝説がもとになって、妖怪としての天狗が生まれたと見てよい。『壒嚢鈔』は「底ハ通ヒ侍ラン」というが、 漢書にいう天狗への関心は一般には広がらなかったと見てよい。但し名前だけはうっすらと知られ、空を自在に飛ぶ妖怪に用いられたのであろう。 《アマツキツネ》 古訓者が訓みにアマツキツネをあてたのは、我が国において妖怪「天狐」の伝承が存在し、こちらの方が一般的だったからであろう。 しかし、〈類聚名義抄〉では狗の訓にキツネはなく、〈倭名類聚抄〉でもキツネとは無関係である。 さらに「吠声」はイヌの声であり、総合的に見て漢書の天狗を指しているのは明らかである。 よって、訓読するならアマツイヌであろう。 《日蝕》 「九年三月乙酉朔丙戌」〔三月二日〕は、ユリウス暦で637年4月1日にあたる。 NASA/Eによると、637年4月1日に皆既日食帯が北海道を通っている。
それによると、明日香で日食が観察できるのは午前中で、食分の最大値は0.9に達するほどの顕著な日食である。 《大仁上毛野君形名》 大仁は冠位十二階の第三位。 上毛野君については、崇神段などで述べた。 始祖伝説では、崇神天皇の皇子・豊木入日子が上毛野君(上野国)・下毛野君(下野国)の祖である(第113回崇神段4/【東方十二道】)。 《蝦夷の平定》 倭政権の統治範囲は、推古三十四年《六月雪也》において 712年の時点で仙台あたり、推古三十四年〔626〕には常陸国+αと見た。舒明九年〔637〕にはまだ福島県の辺りか。 蝦夷に立ち向かう地域にある上野国の上毛野君が、攻撃に向かえと命じられたようである。 〈安閑〉元年に遡ると朝廷と上毛野君小熊の間に緊張状態があり、朝廷の意になる人物である使主〔人名〕を武蔵国造とし、横渟(よこぬ)、橘花(たちばな)、多氷(たひ)、倉樔(くらす)の四屯倉を設置した。 同二年にはさらに緑野屯倉が置かれた。(元年、《上毛野国緑野屯倉》)。 〈舒明九年〉には、上毛野君はもう配下に組み込まれていたようであるが、まだ服従しきれない気持ちがあって蝦夷攻撃に力が入らず、逆に攻め込まれたのかも知れない。 それでも妻に尻を叩かれて反撃に転じ、どうやら名誉を損なわずに済んだわけである。 《為蝦夷見敗》 「為蝦夷見敗」は、英語の受け身の構文"Katana was defeated by Emishi."と同じで、「為」が、行為者の前置詞"by"に相当する。 推古10の《為》で、声点◳は、「do」ではなく「for」を明示する目的でつけられたことを見た。 ただ、〈時代別上代〉は、「for:~のために」については「理由を表すタメの用い方は上代にみられない」と断定している。 声点の付加は、ここでは"by"であることを示すものと見られる。 この用法について〈時代別上代〉は、「受身表現の能動者を表す語の上に「為」の字の位置することは漢籍の用法による。これがタメと訓まれたか否かは明らかにしがたい(点本類には訓まれた例がある)」という。 類聚名義抄を見ると(僧下/42) ――爲為:ツクル シワサ ヲコス ナス タリ ス スルトコロ マネス マナフ タツ セ セヌカ タスツ タメニ シカスル エラフ すなわち、大部分がdoで、for/byに相当するのはタメニが唯一である。 「Aのために」というときは、本来Aが便益の享受者であることを意味する。受け身構文の「by A」は多くの場合便益の享受者でもあるから、意味には相通づるものがある。 平安時代にはその感覚ゆえに「為」にタメニを宛て、それが漢文訓読体において行為者を指す語として定着したと思われる。 行為者を上代語で表すのは「~ニヨリテ」であろう。しかし、仮に訓読においてこれが使われたとしても〈類聚名義抄〉には載っていないわけから、定着せずに廃れたことになる。 上代語においても便益の享受者というニュアンスから、タメニは可能だと思われる。ただし、これは「必為後世見嗤」の文では破綻する。 そもそも「為P見V」は漢文である。漢文訓読体が一般化する前には、意訳して「必ず後の世に嗤はれむ」などが適当かも知れない。 それでも、飛鳥時代でも一部の教養人が"為"の訳語として形式的に用いることもあり得たと仮定し、タメニを用いることにする。 《大意》 九年二月二十三日、 大きな星が、東から西に流れました。 すると音が鳴り、雷のようでした。 時の人は流れ星の音と言い、 また地面の雷とも言いました。 これについて、僧旻(そうみん)僧は、 「流星ではなく、これは天狗(てんこう)である。 其の吠え声が雷に似るということだ。」と言いました。 三月二日、 日蝕でした。 この年、 蝦夷(えみし)が背き、拝朝しませんでした。 そこで大仁(だいにん)上毛野(かみつけの)の君形名(かたな)を 将軍に任命して討伐させましたが、 却って蝦夷よって敗北を被(こうむ)り、要塞に逃げ込みました。 遂に敵に囲まれ、 軍衆は皆漏れ出て、城は空でした。 将軍は惑い、なすすべを知らず、 日暮れ時となり、垣を越えて逃げようと思いました。 その時、方名君の妻は歎き 「いまいましい、 蝦夷(えみし)のためにまさに殺されようとしている。」と言い、 夫に語りかけました。 「あなたの先祖たちは、 大海を渡り万里を跨ぎ越え、海の向こうの政(まつりごと)を支配し、 その威武(いぶ)は後世に伝わります。 今、あなたがひたすら先祖の名を損なえば、 必ず後世に嗤(わら)われるでしょう。」 そして酒を酌み、無理やり夫に飲ませました。 このようにして、自ら夫の剣を身に着け、十本の弓を張り、 女人数十人に命じて弦(つる)を鳴らさせました。 そうするうちに、夫も再び立ち上がり、 武器を取って進みました。 蝦夷は軍衆がなお多いと思い込み、 しだいに退きました。 こうして、散り散りになった軍卒を再び集めて、 軍団を整え、 蝦夷を撃って大敗させ、悉く捕虜にしました。 まとめ 『日本書紀天文記録の信頼性』がいうように、α群(十四~二十一巻、二十四~二十七巻)には日食が載らないという(193回《α群》)。 二十二巻(推古紀)、二十三巻(舒明紀)がβ群であるのは、初めにα群(中国人スタッフによる執筆)として書かれたが、そこに大幅に手を加えたためだと考えた。 その理由は、天武天皇以後の祖である舒明天皇による皇位継承の正統性を確保するためだったと、本サイトは考えている。 古事記が「岡本宮治天下之天皇」の名を敢えて載せたのは、その正統性を示すためかも知れない(第242回)。 即ち、本来上宮家が皇位を継ぐべきであったとする主張を完全に葬り去るために、上宮皇子〔聖徳〕を天皇継承候補の系列から完全に取り除き、仏教界にその聖王として封じ込めたのである。 β群執筆者は、その書き直しに際して改めて古記録を精査したところ、その中に日食記録があり、〈推古紀〉〈舒明紀〉にそれも載せたのではないだろうか。 しかし、八年春正月壬辰朔の日蝕は誤りである。 ならば、何をどう誤ったのだろうか。それを知るためには、自然科学としての日食の推定データを照合する必要がある。 そこで、その候補とされる636年2月12日〔ユリウス暦〕の日食について、それが国内で観測されたとすれば実際にどのような見え方をしたのかを、どうしても知りたくなった。 そのために、丸々二か月かけて勉強し、その過程を資料[59]~[65]に収めた。 |
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2022.08.08(mon) [23-7] 舒明天皇7 ▼▲ |
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17目次 【十年~十一年】 《大風之折木發屋》
舒明十年〔戊戌〕七月十九日は、グレゴリオ暦で638年9月5日にあたる〔hosi.orgによる〕。 時期から見て、「大風」は台風であろう。 「発」は、コボツ[毀]と訓読されるが、発の原義から考えて「吹き飛ばす」であろう。 《十年九月》 十年九月〔グレゴリオ暦で10月16日~11月14日〕の秋霖は天候不順が稲作などに打撃を与える時期ではないが、特筆されたのは豪雨による大被害があったことが考えられる。 とすればやはり台風の影響か。 この時期の「桃李花」が事実だとすれば、全くの狂い咲きである。 桜は、秋に急に気温が上がったときに開花することがある。桃の狂い咲きも、ブログに報告を見る。あるサイト【趣味の園芸談話室】では、日付が11月2日となっている。 《有間温湯》 有間温湯での湯治は、三年十二月以来である。 《任那》 加羅地域は、〈推古三十一年〉に百済が奪ったと見られる(推古三十一年是歳)。 よって、〈舒明十年〉の任那使は、百済使が副使に名目上の任那使を名乗らせたと見られる。 〈孝徳天皇紀〉大化元年には、百済使が任那使を兼ねたが、「任那からの貢」が明示されていなかったことを問題にした記事がある。 さらに、同二年九月には「遂二罷任那之調一」とあり、とうとう名目上の任那の朝貢も廃止されたようである。 《新嘗》 〈時代別上代〉「書紀古訓にはニハナヒの形が多」いとする。 通常は秋に収穫を祝う行事であるが、ここでは有間温湯に行っていたのでこの時期になったと注記されている。 《大風而雨》
十一年一月二十二日は、グレゴリオ暦で3月5日である。 図1は、近年の春先に発達する低気圧の例。この日は室戸岬で瞬間風速:南南西46.2m/sを記録している。 《造作大宮及大寺》 百済大寺については、吉備池廃寺が有力とされている(第152回)。 別項において、改めて詳細に見る。近くに大宮の遺跡もあるはずだが、こちらの調査報告はまだ見ない。 《西民東民》 いつもなら古訓としてオホムタカラが振られるが、ここにはない。 ・オホミタカラは朝廷との関係性による概念によるが、ここでは単なる人民の居住地域分けであるから、ミタミと訓む。 ・オホミタカラは明らかだから、省かれた。 このどちらかであろう。 《書直県》 県(あがた)は人名。 書直(ふみのあたひ)は、 文直とも表記される。〈姓氏家庭大辞典〉によると、 「文直:倭漢氏の族にして、こは大和の文氏なれば、東文氏とも云ふ。坂上氏の一族也。姓氏録には都賀直の 後とす。氏人は多く倭漢書直と載せ、天武紀に到り連姓を賜ふ。」、 「書直:倭漢東文氏の族也。宝亀五年の津高郡菟垣村地畠売買巻に「税長書値麻呂」など見えたり。」と述べる。 《恵隠恵雲》 〈推古十六年九月〉に、遣隋使小野妹子に随行したと見られる「学生」たちの中に、 「志賀漢人慧隠」の名前がある。「恵隠」と同一であろう。 「恵雲」の名前はここだけの登場で、隋または唐に渡った時期は不明である。 これを見ると、倭の学問僧たちは新羅に立ち寄って仏教振興を助けたようである。 この後に、改めて「百済川側建九重塔」と書かれていれることが注目される。 同時期に新羅で建てられた皇龍寺塔について、『三国史記』-新羅本記:善徳十四年〔645〕「三月。創二-造皇龍寺塔一。従二慈蔵之請一也。」とある。 ここで提言をしたと書かれる慈蔵は、同十二年に「三月。入レ唐求レ法高僧慈蔵還。」〔唐に入り法を学びし高僧慈蔵還りつ〕との記事があり、 善徳女王は仏教の振興に熱心だったと言われ、例えば、Wikipedia英語版に"Like her father, Queen Seondeok was drawn to Buddhism."〔父親と同様に、善徳女王も仏教に惹かれた〕とある。 〈十二年十月〉に書かれる清安・玄理の「伝新羅」も、新羅での伝道に一役を担ったという意味であろう。 恵隠らは、新羅使を伴って帰国し、皇龍寺九重塔(第152回)の計画を語らせ、それと双子をなす塔を倭に作るよう進言したと読める。 そして天皇はその進言を聞き入れ、当初の計画を変更して九重塔にしたのであろう。
〈倭名類聚抄〉に{伊予国・温泉【湯】郡}〔ゆのこほり〕がある。 〈釈紀〉に伊予国風土記の逸文を載せる(別項)。 経路は恐らく海路で、難波津と厩坂宮のまでの間は輿に乗っての移動であろう。 《大意》 十年七月十九日、 大風が吹き、木を折り家を吹き飛ばしました。 九月、 霖雨。桃・李(すもも)の花が咲きました。 十月、 有間温湯(ありまのゆ)の宮に行幸しました。 是の歳、百済・新羅・任那が揃って朝貢しました。 十一年正月八日、 天皇(すめらみこと)の車駕は、温湯から戻られました。 十一日、 新嘗(にいなめ)。 おそらく、有間に行幸していたことによって、新嘗を行えずにいたのでしょう。 十二日、 雲なく、雷が鳴りました。 二十二日、 激しい風雨。 二十五日、 長い星が西北の空に見えました。 その時、旻師(みんし)は 「彗星(ほうきぼし)である。これを見ると飢饉が起こる。」といいました。 七月、 詔を発して、 「今年のうちに、大宮と大寺を造れ。」と命じました。 そして、百済の川の畔(ほとり)を宮の地に定めました。 これにより、西の民は宮を作り、東の民は寺を作り、 そのために書直(ふみのあたい)県(あがた)を大匠(おおたくみ)〔匠の長〕としました。 九月、 大唐の学問僧、恵隠(えをん)恵雲(えうん)は、 新羅が送った使者を従えて、京に入りました。 十一月一日、 新羅の客人を朝廷に饗宴に招き、 冠位一級を給わりました。 十二月十四日、 伊予(いよ)の温湯宮(ゆのみや)に行幸しました。 この月、 百済の川の畔に九重塔を建てました。 【百済川側九重塔】
その位置取りを見ると、蘇我氏との関りが深い飛鳥寺・石川廃寺・和田廃寺・豊浦寺の地域とは一線を画していて、初めての官寺としての性格が表れているように感じられる。
こうして奈良国立文化財研究所と桜井市教育委員会による共同調査が2001年までの5年間をかけて実施された。 《吉備池廃寺発掘調査報告》 吉備池廃寺発掘調査報告 〔奈良文化財研究所創立50周年記念学報第68冊;奈良文化財研究所2003。以下〈奈文研2003〉〕はその序文で、 「金堂基壇は間口37m・奥行約25m・高さ約2m、塔基壇は一辺約32m・高さ約2.8mという、当時としては破格の大きさです。 とくに塔の平面規模や高さは、新羅の皇龍寺九重塔に比肩」し、 「吉備池廃寺が、639年に創建された「百済大寺」にあたることは確実と思われます」と述べる(pp.1~2)。 図5はその見取り図と航空写真である。 百済廃寺の造営について、同書は 「着工後ほどなく舒明は死去するが、皇后であった皇極天皇が造営を引き継ぎ、孝徳朝(645~654)にはある程度寺観を整えつつあったらしい。 その後も、彼らの子である天智天皇が、のちに大安寺金堂本尊となる乾漆の丈六仏などを施入しており、造営は比較的順調に進展したようである。 また、百済大寺は、673年に高市の地へと移されて、高市大寺と百済大寺・高市大寺吉備池廃寺と百済大寺・高市大寺寺となった。」と述べる(pp.233~4)。 吉備池廃寺建立の時期については、瓦が手掛かりになる。同書は「この遺跡の年代や性格を考えるにあたって、瓦はきわめて重要」で、 いくつかの寺の瓦と比較検討した結果、 「軒丸瓦と軒平瓦の両者について、文様と製作技法および関連する軒瓦や遺跡との関係を勘案すれば、吉備池廃寺創建軒瓦は、おおむね630年代から640年代初頭に位置づけうる様式的特徴を備えていると判断してよいだろう。」(p.195) と結論付けている。 このように、建造時期は書紀に書かれた「百済大寺」に完全に当てはまる。 〈木下2005〉は、金堂跡に鍬入れして四日目にして「この遺跡は、7世紀中ごろに造営された寺院であることは疑いない」と確信し、 「幻の百済大寺だ! 調査に携わっていた研究員たちの脳裏をよぎった」と描写する。そして5年間の調査の結果、 「百済大寺ではないかという想定をより確かにする成果をもたらした」と述べる。 《塔の規模》
資料[50]、[51]から、尺表示付きの図から塔心礎のサイズを見ると、 飛鳥寺:一辺2.3m、崇福寺:一辺1.5m、山田寺:直径1.7m、若草伽藍:2.8×2.6mとなっている。 これらに比べて、吉備池廃寺の塔心礎はかなり大きい。 〈奈文研2003〉は、「基壇規模は、基壇土の残る範囲と推定塔心間の距離から、一辺約30mと復元できる。」(p.15)という。 図7のように、その基壇の大きさは法隆寺五重塔などを凌駕し、新羅の皇龍寺の九重の塔と同規模である。 これについて、〈奈文研2003〉は「吉備池廃寺とほぼ同規模の基壇をもつ新羅皇龍寺の九重塔の高さが、『三国遺事』などに伝える225尺で、これを「東魏尺」(高麗尺)とみる金東賢 の見解(金 東賢「皇龍寺跡の発掘」前掲註20))が正鵠を射ているとすると、その高さは80.2mとなる(172頁)。吉備池廃寺についても、前節で述べた ように、金堂と塔の間隔(心々間距離約84.0m)が塔の高さを反映しているとみれば、これに近い高さを想定することができる。」(p.192)と述べる。 慶州南山の塔谷第2寺址の石刻(図8)は、皇龍寺九重塔の姿を知るのに有効だという。 ただ、「礎石に関わる痕跡や足場穴などの確認を含めて、一定の面積を確保した発掘調査により、柱配置その他を解明することが望まれる。」(p.234)とある。 2003年の報告の時点では、回廊の北東外側の僧房跡については柱跡が検出されているのに対して(PLAN9)、塔・金堂の柱の配列は確定していないようである。 結局、塔基壇については、基壇の盛り上げの外周と礎石跡の確認に留まっている。
百済大寺は、その後移転して高市大寺、改名して大官大寺。奈良遷都に伴い移転して大安寺となる。 〈天武紀二年〉〔673〕十二月に「拝造高市大寺司。【今大官大寺、是】」。 〈続紀〉大宝二年〔702;文武〕「以二正五位上高橋朝臣笠間一為二造大安寺司一。」 平城京に遷したときの名称が大安寺なので、〈続紀〉は遷す前の大官大寺にも大安寺の名称を用いたと見られる。 平城京への移転については、〈続記〉天平十六年〔744〕十月二日に「属遷造大安寺於平城」とある。 天武朝の高市大寺と、文武朝の大官大寺は一般的に同一と考えられ、『三代実録』(下記)もそのように読み取れる。 これについて、〈木下2005〉では別寺説を展開する。 同書によると、文武天皇の大官大寺と見られる遺跡が1973年に発見され、発掘調査の結果、完成間近になって焼失したことが明らかになったという。 焼亡の記事は〈続紀〉にはないが『扶桑略記』和銅四年〔711〕に「大官等寺並藤原宮焼亡」とあり、1975年の大官大寺跡の発掘調査では焼失が明らかになった(p.41,61)。 文武天皇大官大寺の仏像などが伝えられず、天武天皇の大官大寺の仏像や経典が多く伝承されていることから、 同書によれば、「天武天皇建立の寺(高市大寺)と、文武天皇建立の寺(大官大寺)とは別寺で、二つの大官大寺があったと考えざるを得ない」(p.145)という。 その木之本大寺は、吉備池廃寺との関係が深く、〈奈文研2003〉は 「香具山北西麓の橿原市木之本町から、吉備池と同笵の瓦が比較的まとまって出土する、という事実であった。 これを木之本廃寺と仮称しているが、両者のあいだに強いつながりがあったことは疑いない。」(p.1)と述べる。 《広瀬郡百済寺》
まず、これまでの本サイトによる「広瀬郡百済」に関する考察を振り返ろう。地名百済に関するこれまでの考察では、敏達天皇の百済大井宮については摂津国百済郡を除外し、 広瀬郡百済の可能性も薄れ、吉備池廃寺付近を有力とした(第240回【百済大井宮】)。 ここで〈五畿内志〉を見ると、十市郡の巻で「百済宮:飯高村 舒明天皇秋七月構二大宮於百済川側一故址今半 さらに、百済については、 広瀬郡に「村里:百濟 百済寺については次のように述べる。
このように、百済大寺は江戸時代には完全に広瀬郡百済寺、またはその近辺と考えられていた。 《子部神社》 . ここに出てきた子部神社については、〈延喜式神名帳〉に{十市郡/子部神社二座【並大。月次新甞】}とある。 『和州五郡神社神名帳大略註解』(1446年;資料[57]) には「在二意富郷飯富 もともとの地名は「意富 《三代実録》 〈五畿内志〉十市郡がから引用した箇所は、 『三代実録』三十八巻の元慶四年十月二十日にある。 以下、『国史大系』第四巻〔経済雑誌社;1897〕 (国立国会図書館デジタルコレクション991094コマ281)による。
これを見ると、880年の時点で百済大寺は十市郡の、広瀬郡との境界近くにあったと信じられていたようである。 しかし、百済はもともと広瀬郡内の地名であり、その隣接地域が「十市郡百済」と呼ばれたことは疑問で、もともとは明日香に近いところにあったのが「十市郡百済」だったかも知れない。 その記憶が失われた時代に、広瀬郡の百済の近接地域と解釈されたと考えられる。 ただ仮にそうであったとしても、〈天武天皇〉が造高市大寺司を任命したのが二年〔673〕で、仮に百済大寺焼失後だったとしても記憶はまだ新らしいであろう。 それが〈三代実録〉〔901年〕まで、僅か200年の間に失われた事情を見つけねばならない。 子部神社が吉備池廃寺の近くにあったとすれば解決するのだが、その可能性はないのだろうか。 この論点に対して、〈奈文研2003〉は、現在の子部神社は「13世紀に埋没した幅200mにおよぶ河川」で「条里の乱れ」る位置であるが、 吉備池廃寺なら付近に「カウベ」「コヲベ」「高部」という小字名があり、これが「小部神社」の位置であると確信的に述べる(p.155)。 ただ、この論法ではその河川跡からほど近い地域から移転したことは否定されず、「カウベ⇒子部」説も根拠薄弱である。この〈奈文研2003〉の論は雑と言ってよい。 子部について、〈姓氏家系大辞典〉には「小子部連:多氏の族にして、小子部の伴造家なり」、〈姓氏録〉には〖小子部宿祢/多朝臣同祖〗とある(〈雄略6年〉参照)ので、 やはり子部神社の所在地は、もともと大字多の辺りだと考えるのが妥当だと思われる。 それでは、その子部神が恨みによって寺を燃やしたという伝承は、事実ではなく想像のなせるわざだろうか。 《今昔物語》 比較のために『今昔物語』〔1120頃〕巻十一「代々天皇造大安寺所々語第十六」を見ると、 「今昔。聖徳太子熊凝ノ村ニ寺を造給フ。…〔中略〕…舒明天皇ノ御世ニ百済川ノ辺ニ広キ地ヲ選テ…〔中略〕…傍ナル神ノ木ヲ此ノ寺ノ料ニ多く伐リ用タリケレバ神瞋 ただ、物語の終わりの方には「寺ノ始メ焼〔ケ〕シ事ハ高市ノ郡ノ小部ノ■…■用ルニ依テ也。彼ノ神ハ雷神トシテ瞋ノ心火ヲ出セル也。ソノ後九代天皇所々に造リ移シ給フ」とあり、ここで初めて「小部神」が出て来る。 しかし「高市郡」と誤り、冒頭では単に「「神」だったから比較的不明瞭である。はじめは、ただ落雷に遭ったことを述べたのであろう。 よって、古い形の伝承では落雷は一般的な神の仕業であったが、所在地が広瀬郡の百済川と解釈される時代になって初めて「子部神」になったとも考えられる。 《百済大寺に遡る落雷の伝承》 ところが、〈木下2005〉によると、吉備池廃寺では金堂、塔ともに「火災の痕跡はまったく認められていない」という(pp.152~156)。 前述したように「文武天皇の大官大寺が火災にあった」ことは実証されているので、それを百済大寺の時点に遡らせた伝説が生まれたのであろう。 だから、熊凝道場から百済大寺までの記述はほぼ伝説であると考えた方がよいだろう。結局、事実を反映した記述は、『三代実録』の「建十市郡百済川辺」、『今昔物語』の「百済川ノ辺」の文字だけで、 書紀を継承したものである。その他は想像による付け足しではないだろうか。 〔なお、「九代天皇」については、第三十四代が舒明、第四十五代が聖武で、明治時代に追加された弘文天皇を除外し、重祚した皇極・斉明を一代と数えれば「九代」になる。〕 熊凝神社については、その跡は、現在の「熊凝山額安寺」〔大和郡山市額田部寺町36〕と伝承され、広瀬郡百済寺からは約6.5km北である。 吉備池廃寺は南東12kmだが、ともに遠距離でその差は五十歩百歩である。寺の起源を何かと太子に結びつけたと考えられる例は無数にあるから、これも自然発生的な伝承であろう。おそらく飛鳥時代創建の寺すべてに、太子が関わっている。 最後に前述した「僅か200年の間に失われた」点に関しては、社殿が廃れ参拝者が途絶えれば忘れ去られるには十分の時間かも知れない。 200年は短いが、ほぼ7世代にあたる。 《敏達天皇の百済大井宮》 第240回【百済大井宮】の項で、 地名「百済」を摂津国百済郡(後に住吉郡・東生郡)、河内国錦辺郡百済郷、大和国広瀬郡を見出した。 そして「(百済出身帰化人の)子孫が移住した小さな「百済」は無数にあり、多くは既に消滅したと想像される」と考えた。 〈敏達天皇〉は元年四月に「百済大井」を宮としたが、その年の内に訳語田の幸玉宮〔記は他田 百済大井宮については、〈欽明〉・〈用明〉・〈崇峻〉の宮は「磯城・磐余・飛鳥の周辺地域に収まる」から、摂津国、河内国、広瀬郡の「百済」ではなく、「吉備池廃寺」地域が有力だと考察した。 この大井宮と訳語田幸玉宮とが重なれば、ここが「吉備池廃寺の所在地=百済」としてずばり確定する。 これははじめに「百済大井を宮とする」と述べ、「卜によって訳語田幸玉宮を造営した」とされるから、遷都したように読める。 しかし実は同じ宮の別名で、〈敏達紀〉冒頭にまず形式的に「百済大井宮」と書き、次の「卜云々」はそのように決定した過程を詳述したものとも読める。 ここには「遷」の字はなく、記では「他田宮」一本なのである。 仮に両者が別のところだとしてもそんなには遠くはなく、少なくとも広瀬郡に及ぶことはないと思われる。 《和田萃説》
①だけは、和田説は疑問である。〈延喜式-諸陵寮〉で高市皇子の「三立岡墓」が「在二大和国広瀬郡一」とされるから、「広瀬郡百済」と捉える方が適切であろう。 ③については、 (万)0760:題詞「大伴坂上郎女従竹田庄贈女子大嬢歌二首」〔大伴坂上の郎女 「道臣命〔大伴氏の祖〕宅地」比定地に「築坂邑伝称地」碑があり、畝傍山の南が本貫である(〈宣化四年〉)。 香久山を中心とする地域一帯に大伴一族が住んでいたと考えることは可能で、他に確実な根拠があれば補強する材料になるだろう。 ②については、図11の位置に確認できる。範囲はごく狭いが、かつて存在した広域の地名がこのような形で残った可能性がある。 《考察》 天武天皇の高市大寺と文武天皇の大官大寺が果たして同一かという議論はあるが、藤原宮に大官大寺が存在した年代については次のように整理できる。
700年頃から吉備池にあった百済大寺の記憶は薄らいでいく。 平安時代に至り、書紀の「百済川邊」が独り歩きして、広瀬・十市両郡の境界地域と解釈された。 さらに文武朝大官大寺の焼亡から遡って想像上の百済大寺焼亡説が生まれ、それが森林伐採を怒る神の所為となり、その神が遂に近くの小部神と解釈されるに至ったという筋書きが考えられる。 実際の百済大寺の比定地については、 ①敏達天皇の百済大井宮は、戒重村の他田宮と同一または近傍にあった可能性がある。 ②三代実録の「十市郡百済川辺」は、もともとは「広瀬郡百済」とは異なる場所と見られる。 ③小字名「百済」があり、大伴吹負の「百済家」も天香久山周辺であろう。 ④「百済大寺の落雷」は後の大官大寺の焼亡を遡らせたもので、さらにその瞋 このように、天香具山を含む一帯が百済と呼ばれた可能性が高く、とりわけ現在まで残った小字名の存在は重い。 何といっても九重塔の規模の基壇という物質的な根拠があるのだから、僅かでも遺称があれば決定的と考えてよいだろう。 【伊予国風土記逸文】 〈釈紀〉は、伊予国風土記の逸文を載せる〔巻十四;述義十〕。 ここで、その全文を読む。出典は『新訂増補 国史大系8』〔1932,吉川弘文館1999〕(釈日本紀p.188)〔以下〈国史大系〉〕。 参考文献:『風土記下』〔角川文庫19241、中村啓信2015〕〔以下〈角川文庫〉〕 《伊予国風土記逸文》
伊予温湯の話のはずなのに、冒頭にいきなり大分速見湯が出て来て面食らう(図12)。 最初に温湯の効能という一般論を置き、大国主神話から話を始めるのであろう。 《行幸五度》 「行幸五度」については、二つの異なる解釈を紹介している。 ①景行天皇・同皇后・仲哀天皇・神功皇后・聖徳太子。 ②舒明天皇・宝皇女皇后・斉明天皇・天智天皇・天武天皇。 ①の仲哀天皇は事績の中身はともかくとして実在はしたようである。神功皇后は完全に伝説中の人物。景行天皇はその時代の大王の集合人格であろう。 聖徳太子も人物としては実在だが、さまざまな伝説に姿を見せる。実際に訪問の有無については何とも言えないが、ここでは碑文の権威付けに使われている。 ②の宝皇女皇后〔即位して皇極天皇、重祚して斉明天皇〕、天智天皇、天武天皇には書紀に直接の記載はない。 ただし、〈斉明〉天皇は七年に伊予国の「石湯行宮」にしばらく滞在し、中大兄皇子〔天智〕も間違いなく同行した。 《若乃》 「若乃照給無偏私」の「若 ――「若乃:転折連接詞〔=逆説の接続詞〕。前面之事講完、続起二一事一時用之。与二「至於」之義一相当。」 このように「至於A、B」に相当するというので、「至於」を〈汉典〉で調べる。 そこで挙げられた文例のうち、解りやすいのは「今之孝者、是謂能養。至於犬馬,皆能有養。」(『論語』為政)である。 この例は逆説というより、例示による一層の強調である。このように逆説とは限らないが、若乃は仮定の意味を持たない接続詞であることが分かった。 「若乃照給無偏私 何異于寿国」の場合は、「(温泉の恩恵は人々を)分け隔てなく照らすというからには、長寿の国と異 《洪灌霄庭》 〈角川文庫〉は「洪灌霄庭」を人名と推定し、それに合わせて「意與」を「意歟」と解釈している〔歟は文末の助詞で感歎の語気を表す。與で表すこともある〕。 しかし、人名とせずに「洪灌霄庭」〔直訳:庭を水浸しにする〕を、庭が秀歌を生み出す雰囲気に包まれていることの譬えとして読むことは可能である。 碑文作者は、それを悟ることができない〔=歌作りの絶好の条件を生かせない〕という。「豈 そして、「後出君子幸無二蚩咲一也」〔後に君子が訪れてこの碑を見ても、笑わないでほしい〕という。 動詞が「幸」だから、主語は天皇である。しかし「後出」という表現は、今度こそよい歌を詠む才人とも読め、 その場合は「幸」は君主に擬えた最大級の敬語となるが、率直に言って無理がある。 結局「文聖」・「天皇」の両者をまとめて言ったのであろう。 《万葉集注釈》 〈角川文庫〉には、〈釈紀〉所引の逸文にない部分があった。 該当箇所の出典は、『万葉集注釈』〔仙覚;1269〕に見つかり、 その位置は、第三巻「(0322) 山部宿祢赤人至伊豫温泉作歌一首」の項である。 この部分も原文を読み下しておく。 出典は、国立国会図書館デジタルコレクション2575771;コマ12・13。 毛筆の和綴じ本で、表紙に「東氏秘伝」とある。書写年を窺わせるのは、第一巻の奥付「右点検畢 明和七年〔1770〕寅夏五月 六友堂 縁信」である。〔平縁信;国学者。荷田在満
〈延喜式-神名帳〉に{伊予国/温泉郡四座【大一座小三座】/伊佐尓波神社}とあり、式内小社。 比定社伊社爾波神社〔愛媛県松山市桜谷町173〕は道後温泉に近接している(図2)。 同社公式ページの「由緒」によれば、 「清和天皇〔858~876〕の御代に奈良大安寺の僧行教が」「道後に八社八幡宮を建立した中の一社で、神功皇后・仲哀天皇御来湯の際の行宮跡に建てられ」、 「当初は道後公園山麓に御鎮座していたと推定され、建武年間〔1334~1336〕頃、河野氏が湯月城築城に際して今の地に遷し」た。 《考察》 書紀から「温湯」を拾うと、 〈舒明天皇〉は有間温湯2回に伊予温湯1回。〈孝徳天皇〉は有間温湯1回、〈斉明紀〉では有間皇子が牟婁温湯1回、自身の行幸は紀温湯に1回。伊予石湯に行った可能性もある。 〈天武紀〉には、信濃に「束間温泉行宮」を作らせたとある。 実際には、書紀に書かれない行幸もあっただろう。少なくとも〈舒明朝〉には貴人・庶民を問わず湯治に出かける風習があったことは想像に難くない。 碑文のうち神功皇后以前は伝説であるが、大国主神まで遡っているところをみると石器時代以前まで遡るかも知れない。 18目次 【十二年~十三年】 《天皇至自伊豫便居廐坂宮》
〈応神紀三年〉に、「厩坂道」がある。 その推定地は、軽の衢の近くだと考えた。 〈応神紀〉十一年に「厩坂池」が出てくる (第115回《軽池》)。 十一年十二月に伊予温湯宮に行幸し、帰ったのは田中宮ではなく厩坂宮であった。 そして、次は新築の百済宮である。 田中宮は蘇我氏の居住地域の中にある。その前に消失した岡本宮も同じところに再建せず、離れた場所に百済宮を新たに作った。 有間温湯、伊予温湯に出かけたことも含めて、晩年にはどうやら蘇我氏の勢力圏から脱出したいという思いが強まったようである。 《星入月》 舒明十二年二月七日は、ユリウス暦の641年3月23日にあたる。 7世紀の日本天文学〔谷川清隆他;Spaceguard Research Vol.1(2008)〕によると、 「舒明十二年春二月戊辰朔甲戌、星入月」については「1等星αTau(アルデバラン)が隠されたことが計算でわかる」(p.72)という。 《玄理・清安》 高向漢人玄理は、〈推古十六年九月〉、恐らく遣隋使小野妹子に随行して学問僧として隋に渡った。 白雉五年〔654〕に唐で客死。 学問僧清安は、玄理とともに隋に渡った南淵請安と同一人物と見られている。 清の呉音はシヤウ 《伝新羅》 「伝新羅」は一見「新羅を経由して」のように思えるが、「伝」はあくまで伝承・伝達・伝授であって、人がある場所を通る意味には使わない。 隋唐で学んだ学問を、新羅にも伝えたと読むべきであろう。 《百済新羅朝貢之使共従来之》 従〔したがふ〕は、自動詞〔四段;したがう〕と他動詞〔下二段;したがえる〕が考えられるが、他動詞だとすると「共」が新羅使と百済使の共同行動となり不自然なので、 自動詞であろう。 ここには「任那使」がないことが注目される。これは、玄理・清安が主導して倭国に連れてきたことを物語っている。 倭朝廷の主導なら、必ず百済の副使を名目上の任那使に装わせたはずだからである。自由にこのような動きができるのだから、特に玄理は相当高い権威をもつ人であったことが窺われる。 想像をたくましくすると、百済大寺の建造のために工人を新羅・百済から派遣する打ち合わせが目的だったのかも知れない。 《開別皇子》 天智天皇の名前は「天命開別天皇」なので、「開別皇子」は天智天皇と見られる。これを疑う説は見ない。 「東宮」とされるが継位したのは皇極天皇で、天智天皇は20年後の661年に称制、正式な即位は668年である。 東宮を差し置いて皇極天皇が即位した理由は〈皇極紀〉にも書かれていないが、 ここで「年十六」と書くのは、即位しないのは若年故と暗に述べたものか。 《大意》 十二年二月七日、 星が月に隠れました。 四月十六日、 天皇は伊予から戻られ、取り敢えず廐坂(うまやさか)の宮に住まわれました。 五月五日、 大設斎。よって恵隠(えをん)僧に要請して無量寿経(むりょうじゅきょう)を説かせました。 十月十一日、 大唐の学問僧清安(しょうあん)、 学生高向(たかむこ)の漢人(あやひと)玄理(げんり)は 新羅で伝道して帰国しました。 そこに百済と新羅の朝貢使が従って来倭し、 それぞれに爵一級を賜りました。 是の月、 百済宮(くだらのみや)に移りました。 十三年十月九日、 天皇(すめらみこと)は百済宮で崩じました。 十八日、 宮の北で殯(もがり)し、これを百済の大殯(おおもがり)といいます。 この時、東宮の開別(ひらかすわけ)の皇子(みこ)が、十六歳にして誄(しのひこと)されました。 まとめ 考古学側のアプローチと、文献研究者によるアプローチはそれぞれ独立して展開され、それぞれの学問世界は閉鎖的である。 しかし、百済宮・百済大寺を中心とする都の位置取りは、朝廷の蘇我氏からの独立志向を考えると、つかず離れずの絶妙な位置にある。 このように遺跡という物的資料から演繹して得られる政治動向は、文献のより的確な読み取りを期す上で有意義と言えよう。 もともと舒明天皇は、蘇我蝦夷大臣が身内の上宮家の期待に反して、大局的な判断から擁立した大王である。 その背景として、馬子-太子-推古のトライアングル体制が終焉し、その否定的側面に対する諸族の反発が噴き出したことがあろう。 舒明と蝦夷は当初はタッグを組んでいたと思われるが、晩年には独立志向を強め、遂に朝廷の主導による巨大な官寺の建立に踏み切った。 その経過として、伊予温湯から田中宮に戻らず、厩坂宮に滞在したことの意味も見えてくる。 このように、蘇我氏と朝廷との政治的距離感を測る上で、考古学的に確定した遺跡の配置は大きな役割を果たすものと言える。 さて、その文献資料においては、飛鳥時代と平安時代との間の断絶に注意を払う必要がある。 書紀は、上宮家が皇統の本来の継承者であるとする見方を極端に警戒し、それを潰すことに最大限の注意を払った。そのために太子を仏教界に閉じ込めたのだが、 それが不意に平安時代の爆発的な太子の神聖化を生み出すことになった。 『三代実録』の熊凝道場移転の件もその動向のうちにあるが、このように大幅な認識の変化の過程にあるから、 飛鳥-平安の諸文献については時系列上に位置づけて、その変容を的確に捉える必要がある。 今回、百済大寺の広瀬郡百済川説に関する文献に深入りしたのも、そのためである。 考古学と文研研究の互いの閉鎖性に話を戻すと、ここでは考古学側の論のうち「子部」の古地名考察は厳密性を欠くと見た。考古学も文献学も、互いに相手方のことについては門外漢であると感じられる。 当サイト主は双方共に門外漢だから偉そうなことは全く言えないが、文献学と考古学双方の研究手法を自在に操る研究組織があってもよいのではないだろうか。 |
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⇒ [24-1] 皇極天皇1 |