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2022.04.20(tue) [23-3] 舒明天皇3 

目次 【即位前(八)】
《泊瀬仲王曰我等父子並自蘇我出之》
既而泊瀬仲王、
別喚中臣連河邊臣
謂之曰
「我等父子並自蘇我出之、
天下所知。
是以、如高山恃之。
願嗣位勿輙言。」
則令三國王櫻井臣
副群卿而遣之曰
「欲聞還言。」
泊瀬仲王…〈北野本〔以下北〕泊瀬ハツセノ-王ノミコ。 〈図書寮本〔以下図〕泊瀬仲ミコ
なかつこ…[名] 第二子。
我等父子…〈北〉オノカソ天-下所ナリ
恃之…〈北〉恃之タノム コフマチイフ。 〈図〉マナイフ。 〈内閣文庫本〈閣〉マナイフコト
令三国王…〈北〉令三コトオホ国王。 〈閣〉コトヲホ
副群卿…〈図〉畐司ソヘ群卿。 〈閣〉ソヘテソフ
遣之…〈北〉ヤリ之曰欲還-言
既(すで)にして[而]泊瀬仲王(はつせのなかつみこ)、
別(わ)けて中臣連(なかとみのむらじ)河辺臣(かはべのおみ)を喚びて、
[之]謂(のたま)ひて曰ひしく
「我等(われら)父子(ちちこ)並(な)べて蘇我(そが)自(よ)り出之(いでしこと)、
天下(あめのした)に所知(しらゆ)。
是(これ)を以ちて、高き山の如く[之]恃(たの)めり。
願(ねが)はくは位(くらゐ)を嗣(つ)ぐことをば勿輒言(たやすくないひそ)。」とのたまひき。
則(すなはち)[令]三国王(みくにのみこ)桜井臣(さくらゐのおみ)をして、
群卿(まへつきみたち)〔中臣連河辺臣〕に副(そ)はしめて[而]遣(や)りて〔大臣に〕[之]曰(まをさしめつらく)
「還言(かへりこと)を聞かむと欲り。」とまをさしめつ。
時、大臣
遣紀臣大伴連、
謂三國王櫻井臣

「先日言訖、
更無異矣。
然、臣敢之
輕誰王也重誰王也。」
先日…〈閣〉
さきつひ…[名] 先日。
…〈北〉ケナル
軽誰王…〈北〉イツレキミ。 〈閣〉誰王イツレノキミヲ[切] セムヲカ
時に、大臣(おほまへつきみ)
紀臣(きのおみ)大伴連(おほとものむらじ)を遣(つかは)して、
三国王(みくにのみこ)、桜井臣(さくらゐのおみ)に謂ひて
曰ひしく
「先日(さきつに)に言ひ訖(を)へて、
更に異(けにあること)無し[矣]。
然(しかれども)、臣(やつかれ)[之]敢(あへて)
誰(いづれ)の王(みこ)をや軽(かる)くせむして[也]誰の王をや重くせむか[也]。」といひき。
山背大兄、
亦遣櫻井臣告大臣曰
「先日之事、陳聞耳。
寧違叔父哉。」
於是…〈北〉於是コゝニ
数日…〈北〉日之後〔日を数へし後に〕。 〈閣〉ヘテ之後
山背…〈北〉山-シロノ大-兄[切][切]𡖋。 〈閣〉ツ テ
先日…〈北〉先日 サキ ノフ。 〈閣〉イ  コト
…〈北〉叔父/哉。 〈図〉。 〈閣〉違叔父
於是(ここに)、数日(いくか)之(の)後(のち)、
山背大兄(やませのおほえ)、
亦(また)桜井臣(さくらゐのおみ)を遣(つかは)して大臣(おほまへつきみ)に告げたまひて曰(のたま)へらく
「先日(さきつひ)之(の)事(こと)、聞(ききしこと)を陳(の)ぶる耳(のみ)。
寧(むしろ)叔父(をぢ)に違(たが)へり哉(や)。」とのたまへり。
《泊瀬仲王》
 泊瀬仲王は、〈上宮聖徳法王定説〉の「長谷王」にあたると考えられている。 長谷王は、父が厩戸豊聡耳聖徳法王〔上宮皇子〕、母が菩岐岐美郎女である。
 「我等父子並自蘇我出之」については、 上宮皇子は、父が用明天皇〔―(母)堅塩媛―(祖父)蘇我稲目〕、母が穴穂部間人皇女〔―(母)小姉君―(祖父)蘇我稲目〕で、 父母ともに蘇我稲目の孫である(右図)。
《泊瀬仲王への古訓》
 王への古訓はオホキミが多いが、泊瀬仲王には「ミコ」が使われている。
 皇子、王への呼称については、〈即位前4〉段の《三国王》、 〈即位前6〉段の《栗下女王》で見た。まとめると、
飛鳥時代前半は皇族は皆ミコであったが、大宝令の頃から、親王〔天皇の子及び天皇の兄弟〕のみをミコと呼ぶようになった。
それにより、書紀では、親王を皇子・皇女、皇子の子以後を王と表記している。
そして、書紀古訓は皇子をミコ、皇女をヒメミコとし、王はオホキミと訓むことが多い。
 この基準に拠れば、田村皇子は「田村王」でなければならない(〈即位前2〉《田村皇子》)。
 そして泊瀬仲王は、ハツセノナカノオホキミのはずで、ミコと訓むのはの例外である。父の聖徳太子を高め、その貴種と見る感覚があったのだろう。 しかし書紀は山背大兄王から"王"を外すなどして、上宮家の家系を極力見せなくしたらしいことは、縷々述べているところである。 古訓は、逆に平安時代の太子崇拝の高まりの結果かも知れない。
《仲王》
 辞書ではナカツコを第二子とする。正確には長子と末子を除いた子の意味ではないかと思われる。 令以前は〔親王以外の天皇の親族〕もミコであったから、「仲王」は「ナカツミコ」と訓まれたのではないだろうか。
 なお、漢字の「」は第二子である。兄弟を上から順に伯・仲・叔・季という。
《別喚中臣連河辺臣
 その泊瀬仲王がここで登場する。山背大兄王による継位を目指し、上宮王家全体で動いていたのである。 泊瀬仲王に呼び出しされた中臣連弥気は田村皇子推しを明言し、川辺臣は態度不明であった。泊瀬仲王は二人に継位について輒(たやす)く発言しないようにと要請する。
 その理屈は、上宮王家はもともと蘇我氏族の一員だから、蘇我蝦夷大臣は上宮王家の者を推すのが本来当然なはずだというものである。 そこで三国王と桜井臣を群臣に付き添わせ、大臣のところに行かせた。 おそらく「以前、田村皇子を推すと言ったが、撤回して大臣に判断をお任せする」と言わせたものと考えられる。
 大臣は、紀臣大伴連を、三国王・桜井臣のところに遣わして「大臣は二人の王のどちらも推さない」と伝えさせた。 紀臣は山背大兄王を推し大伴連は田村皇子を推していたから、使者の人選は中立的である。
《令三国王桜井臣》
 「令三国王桜井臣…」の区切りは、「三国王桜井臣/副群卿/而/遣之/曰」である。 はここでは使役文令+О+V〔ОをしてVせしむ〕にあたるから、自動詞でないと理屈に合わない。漢字の「」は自動詞・他動詞の両方に使われるから、これ自体は問題ない。
 はイフであるが実際的には引用文を引き出す符号として使われ、通常は言・告・謂・噵などが伴う。何となく和習と感じられるのは、これが省略されたためだろうか。「遣之謂曰」にしてみると、確かに漢文らしくなる。
 訓読は、漢文訓読体では「三国王桜井臣をして群卿に副(そ)はしめ」だが、「三国王桜井臣に令(おほ)せて群卿に副(そ)へ」と訓んでも問題はないだろう。 古訓も基本的にこれだが、さらに省略された「言ふ」を補ってを「コトオホセ」(言仰せ)と訓読している。
《還言》
 「かへりこと」は〈時代別上代〉には「天皇は朝廷などに対する報告・返事」とある。 ただ文例は「かへりことまをす」のみだから、これはマヲスを付けた場合で、カヘリコト自体は尊敬語ではないと考えられる。
《敢之軽誰王也》
 「敢之軽誰王也重誰王也」には疑問詞があるから、疑問文である。ここでは反語で、「敢えてどちらかの王を軽んじ、どちらかの王を重んずるか?いやどちらもしない。」という。 群臣皆の意思で、自分は何も言っていないという。しかし、真偽も疑わしい遺詔を掲げて方向づけしたのが大臣であるのは明白で、白ばっくれているに過ぎない。
《寧違叔父》
 山背大兄王の言葉は「叔父違」ではなく「叔父」である。 つまり、「叔父が田村皇子に継位させることは間違っています」とは言わずに、「田村皇子継位の方向に動いていますが、これは叔父の本心とは違いますよね」と言うのである。 山背大兄王の粘り腰はしぶとい。
 この段の「我等父子並自蘇我出之」の言葉を見れば、大臣を「叔父」と呼ぶのは「同族の私を推すのが当然ですよね」という気持ちを表現するものであることが分かる。
《大意》
 既に泊瀬仲王(はつせのなかつみこ)は、 これとは別に中臣連(なかとみのむらじ)と河辺臣(かはべのおみ)を召喚し、 「我ら父子は揃って蘇我の出身であることは、 天下に知られている。 これにより、高い山の如くに頼りにする。 願わくば、継位のことを安易に言わないように。」と仰りました。
 そして、三国王(みくにのみこ) 桜井臣(さくらいのおみ)に命じて、 群臣〔中臣連と河辺臣〕に付き添わせて〔大臣のもとに〕遣わし、 「返事をいただきたい」と要請させました。
 その時、大臣(おおまえつきみ)は、 紀臣(きのおみ)と大伴連(おほとものむらじ)を 三国王(みくにのみこ)と桜井臣(さくらゐのおみ)のところに遣わして、 「先日言い終えて、 更に異とすることはありません。 しかし、わたしが敢えて どちらかの王(みこ)を軽んじて、どちらかの王を重んじましょうか。〔それはいたしません〕」と言いました。
 そして数日後、 山背大兄は、 再度桜井臣を遣わして大臣に告げるに、 「先日の事は、すでに聞いたことを陳述されただけです。 寧ろ、叔父の心と違うのでは。」と告げられました。


目次 【即位前(九)】
《大臣啓山背大兄言自磯城嶋宮御宇天皇之世》
是日。
大臣病動、
以不能面言於櫻井臣。
明日。
大臣喚櫻井臣。
卽遣阿倍臣
中臣連
河邊臣
小墾田臣
大伴連、
啓山背大兄言
病動…〈北〉オコリ
面言…〈北〉不能 タリ。 『仮名日本紀』まのあたり櫻井臣にえまうさず
まのあたり…[名] 眼前。〈時代別上代〉副詞的に用いられるときは「身近に・親しく、のような意味をもつ」。
明日…〈北〉 クルツ-日[切]大臣[切] ヨ。 〈図〉アクツ。〈閣〉クルツ-
…〈北〉マタ
小墾田臣…〈北〉小墾 ハタハリ 
…〈北〉
是の日。
大臣(おほまへつきみ)病(やまひ)に動(うご)きて、
以ちて[於]桜井臣に面(あひむかひて)言(いふこと)不能(あたはず)。
明日(くるつひ)。
大臣桜井臣(さくらゐのおみ)を喚(よ)びつ。
即(すなはち)[遣]阿倍臣(あべのおみ)
中臣連(なかとみのむらじ)
河辺臣(かはべのおみ)
小墾田臣(をはりたのおみ)
大伴連(おほとものむらじ)をまだして、
山背大兄(やましろのおほえ)に啓(まを)さしめして言(まを)ししく
「自磯城嶋宮御宇天皇之世
及近世者、
群卿皆賢哲也。
唯、今臣不賢、
而遇當乏人之時
誤居群臣上耳。
是以、不得定基。
然、是事重也、不能傳噵。
故、老臣雖勞、面啓之。
其唯不誤遺勅者也、
非臣私意。」
磯城嶋宮御宇天皇…〈北〉磯-城-嶋御宇アメノシ■■ラシゝ天皇。 〈図〉御-宇アメノシタシラシゝ天皇之コノ賢哲 サカシ也唯イマ不-賢ヲサナウシテ。 〈閣〉不-賢ヲサナウテ[テ]
をさなし…年少である。幼い。未熟。古訓において「不賢」は、専らヲサナシと訓まれている。
遇当…〈北〉遇當タマサカ
たまさかに…[形] 偶然。
…〈北〉ハヘラクハベリのク語法〕
老臣…〈北〉傳-マウス老臣オキナイタハレトマウサ
不誤…〈北〉〔あやまたじ〕
「磯城嶋宮(しきしまのみや)に御宇(しらしめしし)天皇(すめらみこと)〔欽明〕之(が)世(みよ)自(よ)り
近世(ちかきみよ)及(まで)者(は)、
群卿(まへつきみたち)皆(みな)賢哲(さと)かりき[也]。
唯(ただ)、今(いま)に臣(やつこ)不賢(さとからず)、
而(しかくし)て遇(たまさかに)人(ひと)乏之(ともしき)時に当たりて、
誤(あやま)ちて群臣(まへつきみたち)の上(かみ)に居(を)る耳(のみ)。
是を以ちて、基(もと)を定むることを不得(えじ)。
然(しかれども)、是の事重(おも)くありて[也]、伝へ噵(いふこと)不能(あたはじ)。
故(かれ)、老臣(おきな)労(いたは)れ雖(ど)、面(あひむか)ひて[之]啓(まを)さむ。
其(それ)唯(ただ)遺勅(のちのみことのり)を不誤(あやまたざる)者(なり)[也]。
臣(やつこ)が私(わたくし)意(ごころ)に非ず。」とまをさしめき。
既而大臣、
傳阿倍臣中臣連、
更問境部臣曰
「誰王爲天皇。」
對曰
「先是大臣親問之日、
僕啓既訖之。
今何更亦傳以告耶。」
乃大忿而起行之。
更問…〈閣〉 シメテ
誰王…〈北〉イツレノ タラ天皇
先是…〈北〉先是ヨリ。 〈閣〉ヨリ[切]大臣[切][切]ヒニ[切]〔問ひたまひし日に〕
僕啓…〈北〉ヤツカレ マウス。 〈閣〉ヤツカレ[切]マウスコト訖之[句]
亦伝…〈北〉𡖋傳以
大忿…〈閣〉忿
起行…〈北〉タチ イヌ
たち-…[接頭] 動詞に上接して、強調。タツの意は濃淡がある。
既にして[而]大臣(オホマヘツキミ)、
阿倍臣(あべのおみ)中臣連(なかとみのむらじ)に伝へて、
更に境部臣(さかひべのおみ)に問はしめて曰(いは)く
「誰(いづれの)王(みこ)をか天皇(すめらみこと)と為(な)さむや。」といひて、
対(こた)へて曰(まを)ししく
「先是(これよりさきに)大臣親(みづから)問之(とひたまひし)日に、
僕(やつかれ)の啓(まをすこと)既に[之]訖(を)へり。
今何(なにそ)更に亦(また)伝へ以ちて告(つ)げたまふ耶(や)。」とまをしき。
乃(すなはち)大(はなはだ)忿(いか)りて[而]起行之(たちゆきつ)。
適是時、
蘇我氏諸族等悉集、
爲嶋大臣造墓而次于墓所。
爰、摩理勢臣壞墓所之廬、
退蘇我田家而不仕。
適是時…〈北〉アタ
…[副] (古訓) まさに。まこと。たまたま。あたる。すなはち。かなふ。あまなふ。
諸族…〈北〉蘇我ノ氏 ウチノ諸族 ヤカラトモ
やから…[名] 族。ウガラと同じ。
…〈北〉ツト
造墓…〈北〉ハカヤトレリ于墓所
おくつきところ…[名] 墓所。(万)1801奥城所 吾并 見者悲喪 おくつきところ われさへに みればかなしも」。
やどる…[自] 旅先で宿をとる。
摩理勢…〈図〉摩◰理◰勢◰臣
壊墓…〈北〉ハカ所之イホ退マカリテ蘇我田家ナリトコロ。 〈閣〉退マカリテマカリイテ蘇我田-家ナリトコロニ
いほ…[名] 草木で作った簡易な小屋。農作業用など。〈倭名類聚抄〉「:農人作廬以便田事【力魚反。和名伊保】」 「庵室:云草庵【和名伊保】草舎也。」 〈時代別上代〉「旅寝のために作られたもの」もいう。
田家…① いなかの家。② 農村。
是の時に適(あた)りて、
蘇我の氏(うぢ)諸(もろもろの)族等(うがらども)悉(ことごとく)集(つど)ひて、
嶋大臣(しまのおほまへつきみ)〔蘇我馬子〕の為に墓(はか)を造りて[而][于]墓所(おくつきところ)に次(やど)れり。
爰(ここに)、摩理勢臣(まりせのおみ)墓所之(の)廬(いほ)を壊(こほ)ちて、
蘇我の田家(なりところ)に退(まか)りて[而]不仕(つかへまつらず)。
《病動》
 「病動」という文字の組み合わせは、書紀ではこの一例のみ。 辞書類にも見えない。〈中国哲学書電子化計画〉で検索しても、熟語としての用例は見つからない。
群臣の推薦する継嗣と、これまでの饗・喚への参加状況
饗後推薦する継嗣
阿倍臣麻呂招集田村皇子※)××
中臣連弥気発言田村皇子×
紀臣塩手☆発言山代大兄×××
河辺臣【欠名】★不明××
高向臣宇摩★発言田村皇子××××
采女臣摩礼志発言田村皇子××××
大伴連鯨口火田村皇子××
許勢臣大麻呂☆発言山代大兄××××
小墾田臣★不明××××
佐伯連東人発言山代大兄×××××
難波吉士身刺発言田村皇子×××××
蘇我臣倉麻呂★発言保留×××××
境部臣摩理勢★山代大兄××××
★…武内宿祢 (蘇我石河宿祢)系。☆…武内宿祢 (その他)系。
①山背大兄王を訪問(一回目)。②泊瀬仲王による大臣への問い合わせ。
③大臣から泊瀬仲王への返事。④山背大兄王を訪問(二回目)。
⑤摩理勢に再度問い、摩理勢は強く反発。
※)…大臣の忠実な部下として行動するから、田村皇子派であろう。
 よって、は誤りとしか思えない。衍字あるいは、などの誤写かも知れないが、一つに絞り込むことは難しい。 「病起」の場合は、病から起きる=病気が治ることで、意味が逆になる。發・重・臥では病気を強調しすぎて、却って邪魔になる。
 ことによると、とは「何らかの動きをした」ということであり、病気を装って何かしたことを暗示するのかも知れない。 実際、ここは病を装って一日待たせた間に、じっくりと策を練ったと多くの人が読むだろう。想像をたくましくすれば、草稿段階の「詐病而動」が書きすぎたということで「病動」になったか。
 は幅広く行動を表すので、案外「病にうごき」と訓むのかも知れない。あるいは、古訓「つくる」があるので、「病をつくり」も可能か。
《喚桜井臣即遣阿倍臣》
 「喚桜井臣」と「即遣阿倍臣」の間に、「而聴其山背大兄之告」が省略されている。
《遣阿倍臣中臣連河辺臣小墾田臣大伴連》
 これまでの群臣の動きを、右表にまとめた。
 阿倍臣、中臣連、大伴連はここでは名前が省略されているが、最初に名前付きででてきた人と同一人物と見られる。 河辺臣は、相変わらず名前が示されない。 小墾田臣は初出であるが、「闕名」とさえ書かれていない。 ★印は武内宿祢―蘇我石河宿祢を始祖とする。☆印も武内宿祢系で、紀臣は木角宿祢、許勢臣は許勢小柄宿祢を祖とする (第108回)。
 臣のうち、阿部臣中臣連大伴連が特に積極的に動いたことがわかる。阿倍臣は大臣の秘書役である。
 中臣連の祖の天児屋命は、天岩戸に閉じこもった天照大神を引っ張り出すための祭事で祝詞を担当した(第49回)。
 大伴連は、祖の天忍日命が邇邇芸命の天降りを迎え(第84回)、 道臣命は神武天皇の大和地域制圧を助けて大活躍した(第97回)。
 太子と〈推古帝〉の存命中に急激に推し進められた仏教の国教化において、神道系の両氏が居場所をなくしていたのは想像に難くない。 今、彼らが上宮王家による権力継承に反発して、田村皇子を推すのは当然の成り行きである。
 それに対して、武内宿祢系は山背大兄王待望派が主流ではあるが、必ずしも一枚岩ではない。 このような情勢下で、仮に蘇我蝦夷大臣が山背大兄王を望んでいたとしても、貫くのは難しそうである。
《小墾田臣》
 小墾田臣については、後に〈天武紀〉十三年十一月「…小墾田臣…凡五十二氏賜姓曰朝臣」と載る。 〈天武紀〉十年に小墾田臣麻呂の名があり、副使として高麗に遣わされる。 〈天武即位前〉では壬申の乱のとき、「小墾田猪手」たちが加勢に馳せ参じて天武天皇が大喜びする。「」が脱字か。
 祖先は、〈孝元段〉(第108回)に「建内宿祢(武内宿祢)―蘇我石河宿祢:小治田臣の祖」。
小墾田宮周辺図
※1…『和州五郡神社神名帳大略注解』1446年。
※2…逝回丘〔ゆきみるをか、ゆききのをか〕は万葉歌に詠まれた地名。甘樫丘の別名と言われる。
(万)1557明日香河 逝廻丘之 秋芽子者 今日零雨尓 落香過奈牟
あすかがは ゆきみるをかの あきはぎは けふふるあめに ちりかすぎなむ
[寛永本] ゆききのをか
 〈姓氏家系大辞典〉には、「五郡神社記〔※1〕に「甘樫神社、社家は小治田臣、説曰、武内宿祢の斎祀る所なり」と見え、 又「治田神社、逝回〔※2〕小墾田村在り、社家は小治田臣」と載せたり。」とある。
 〈延喜式-神名帳〉{大和国/高市郡/治田神社【鍬靫】〔比定社;奈良県高市郡明日香村大字岡字治田964〕があり、 『五畿内志』大和国高市郡【神廟】には「治田神社 在岡村今称八幡」とある。
 このように、岡村にあった八幡が治田神社に比定されているが、実際はどうであろうか。 「治田」氏族はここには見えず、むしろ墨書土器が出土したように「小治田」には存在感があるので、 〈神名帳〉は早期に「小」が脱落したと思える。真の「小治田神社」は、小治田宮近くにあったのではないだろうか(資料[57])。
《乏人》
 「乏人」は、形容詞「」が動詞化して目的語「」をとったものらしく、「人材不足」の意と読める。
 類例を、〈中国哲学書電子化計画〉で探したところ、 『漢書』司馬遷伝に「如今朝雖乏人,柰何令刀鋸之餘薦天下豪雋哉」が見つかった 〔刀鋸之余…刑罰を受けた後、細々と余生を送る者〕。 意訳すると「今、いくら朝廷に人が乏しいからといって、どうして"刀鋸の余"に天下の豪俊を推薦させるのか」となる。
《既而問境部臣》
 「(すでに)」は、ことが現実に行われたことを示す。 ここでは、山背大兄王に謙虚な返事を送る前に、既に密かに行動を開始していたと読んでよいだろう。 やはり、前日の「」は怪しい。
《問境部臣》
 境部臣が答えた言葉の中には「」「」があり、大臣に対して尊敬表現が用いられている。 〈内閣文庫本〉が「」を「問タ〔マフ〕」と訓読するのは、それに合わせたものである。 ここでは、大臣と群臣の間の上下関係を表現したものである。
《今何更亦伝以告耶》
 境部臣が山背大兄王を推していることは既に分かっている。もう一度聞きにきたのは、その意思を変えよと圧力をかけにきたのである。 そんなことをすれば激しく抵抗する性格であることを大臣は分かっていて、それが利用された。
 病気と称して面会を一日延期している間に、こんな策略を講じていたのである。
《嶋大臣墓》
 一般的に、蘇我馬子は石舞台古墳の被葬者だと言われている。 ここで、蘇我氏が皆集まって造営を開始したというから、 少なくとも書紀の時代にそのストーリーを描かれ得るような大きな墓が、馬子のものとされていたわけである。
 〈推古三十四年〉には「仍葬于桃原墓」と書かれている。 そこでは石舞台古墳の向きが真北でないのは、馬子の邸宅の庭の借景として築かれたからであり、生前に築いたものと推定した。
 しかし、ここでは「嶋大臣」と書かれている。 葬礼にあたり桃原墓のところに諸族が挙って集まり、住居を仮設して一定期間生活したこと自体は常識的にあり得ることである。 「次于墓所〔墓所にやどる〕、「墓所之廬いほり;仮設した家〕という言葉は、 その様子を表したものと言えよう。
 ただ、「墓を造った」部分は潤色かも知れない。 実際に墓を造営するのは専門の技術集団であって、諸族が丸ごと滞在していても何の役にも立たないからである。 天皇陵造営に要する期間については、大仙陵古墳は反正天皇陵で、造営に最大10年を要したと見た(第183回)。石舞台古墳の規模の場合、一年以上はかかるのではないかと思われる。 蘇我氏の諸族のトップが丸ごと、これだけの長期間滞在し続けることが、果たして可能だろうか。
 むしろ、もがりを終え、副葬品とともに玄室に納め、しのひことを奉って云々という一連の行事を、一定の日数をかけて行ったということではないだろうか。
 以上を整理すると、次の二つの可能性がある。
  それでも書紀に書いてある通り、馬子が薨じた後に造営が開始された。
  実際には墓は概ね完成しており、蘇我の諸族が挙って集まったのは葬礼〔一定の日数をかけたのだろう〕のためである。
 実際には決定的な判断材料はなく、どちらとも決め難い。
《蘇我氏諸族等》
 ウヂと訓むことを疑う余地はないが、ここで古訓が明示されていることは押さえておきたい。
 「諸族等」は複数の族の表現であるから、古訓ではヤカラドモと訓まれている。 ただ、大族の蘇我氏は多数の支族から構成され、それらが馬子の大墓を造るという一大行事に揃ったという意味を込めたのが「」の字であるから、 敢えて「モロモロノ」と訓読した方がよいと思われる。
 ここで
《起行》
 古訓は、「起行」のイヌ(去ぬ)を宛てる。ユクは、行き先のある移動を表し、イヌはその場から姿を消すことに焦点を当てている。 漢語の「」の意味は移動だから、古訓のイヌは意訳となる。 タチ-イヌは母音が連続するところが気になるが、〈時代別上代〉にはタチ-アフタチ-イザヨフが存在する。これらには声門破裂音〔IPA記号[ʔ]〕が挟まれていたのかも知れない。
《田家》
蘇我氏関係遺跡
 ここでは、なりところ〔農業生産物を得る土地、またその家〕に「田家」の字を宛てていることは明らかである。この例では古訓は適切といってよい。 ほかに、田宅別業田荘の表記も用いられる。書記の用例では、大臣や皇族の私有地であるから、後の荘園のようなものである。
 屯倉(みやけ)は公的な性格のものではあるが、形態は同じようなものであろうと思われる。
 蘇我氏の田家は、島庄意外に石川廃寺から豊浦までの一帯が想定される (〈敏達十四年〉《大野丘北》第250回《大野丘》)。 石舞台古墳周辺のいほりに集まっていた蘇我諸族から離れて、摩理勢臣が引き籠ったとすれば、その地は豊浦方面であろう。
《大意》
 この日、 大臣(おおまえつきみ)は病となり〔実は病を装う動きを見せ〕、 桜井臣に対面して言うことができず、 翌日、 大臣は桜井の臣を喚び、山背大兄王の告げたことをお聞きしました。
 そこで阿倍の臣、 中臣の連(むらじ)、 河辺の臣、 小墾田(おはりた)の臣、 大伴の連を遣わし、 山背大兄王に申し上げるに、
――「磯城嶋宮(しきしまのみや)の天皇(すめらみこと)〔欽明天皇〕の御世から 最近までは、 群卿皆が賢哲の人でありました。 ところが、現在では私は賢明ではなく、 それがたまたま人材の乏しい時に当たり、 誤って群臣の上に立っているだけです。
 これにより、大本を定めることはできないでしょう。 けれども、これは重いことであって、言葉を間接的に伝えさせることはできません。 よって、老臣たちにはご苦労をかけましたが、私が対面して申し上げます。
 ただ、これだけは申し上げますが、遺勅に誤りはありません。 私の個人的な考えは入っておりません。」と啓上させました。
 既に大臣は、 阿倍の臣、中臣の連に伝え、 境部(さかいべ)の臣を遣わして、再び 「どちらを王を天皇とするか」と問わせていました。
 境部臣はこれを聞き、 「以前、大臣自らが問われた日に、 私が申し上げることは既に済んでいる。 今また、どうして更に告げられるのか。」と答えました。 そしてはなはだ怒り、そのまま立ち去りました。
 ちょうどこの時、 蘇我の氏(うじ)の諸族たちは悉く集まり、 嶋大臣〔蘇我馬子〕のために墓を造営し、墓所で宿泊していました。
 そして、摩理勢の臣は墓所に作られた宿泊小屋を打ち壊し、 蘇我の別業(なりどころ)に引きこもり、出仕しませんでした。


まとめ
 大臣は、田村皇子寄りのような遺詔を紹介した上で自分は遺詔に従うというから、田村皇子推しだろうと周囲は受け止めた。 だが、自分の真意は直接山背大兄王に言うつもりと述べ、決定的なことは言わない。 その裏で、摩理勢臣の暴発が暴発する仕掛けを作る。
 一方、山背大兄王が大臣をしきりに「叔父」と呼び、同族のよしみで自分を推して当然だと訴えている。 それが分かるのは、上宮王家は蘇我家と親戚ですよという泊瀬仲王の言葉があるからである。
 しかし、中臣氏や大伴氏が山背大兄王は推したくないという強い気持ちを、大臣はひしひしと感じ取っているのである。 ここで見なければならないのは、中臣氏は〈延喜式〉で祝詞を担う氏族だということである。 大伴氏は、神武天皇のときから朝廷に忠実に仕えてきた。つまり、中臣氏と大伴氏は神道の伝統を背負う氏である。 もし、今後上宮王家が天皇の血筋となれば、仏教国家の道にまっしぐらとなる。神道系氏族は、それをとにかく押し戻したいのである。
 蘇我蝦夷が腹黒く策を弄しているように見えるのはやむを得ないが、かと言って自分が上宮王家についてしまえば内乱が勃発する恐れがある。 何とか平穏にことが収まるように、心を砕いているという見方もできよう。



2022.05.05(thu) [23-4] 舒明天皇4 

10目次 【即位前(十)】
《大臣誨曰吾知汝言之非》
時、大臣慍之、
狹身〔身狹〕君勝牛
錦織首赤猪而誨曰
「吾知汝言之非、
以干支之義、不得害。
唯他非汝是我必忤他從汝、
若他是汝非我當乖汝從他。
慍之…〈北野本〔以下北〕イカ之遣狹身サ ム〔ママ〕[切]勝-牛カツシ[切]錦-織ニシキヲリノヲム[切]赤-猪アカヰ。 〈図書寮本〔以下図〕˚
…〈北〉ヲシヘ
汝言之非…〈北〉 レトモイマシ言之ヨウモアラメ。 〈図〉ヨウモアラヌ。 〈内閣文庫本〔以下閣〕ヨウモアラヌコトヲ ヨクモアラス 
干支干イ  コノカミオトコトハリヤフル。 〈閣〉干-コノカミ支之義
このかみおと…兄弟。
唯他非汝是…〈北〉/ヒト/非ソシヨミセ我必タカ他従 ただ ひといましそしりて我をよみせば必ずひとたがひて汝に従はむ〕。 〈図〉[切]ヒト ソシ[テ]ヨミセ[句][切][切]タカ[テ]從汝[句]。 〈閣〉タゝシ[切]ソシテアシムシテソシナハヨミセハ
…[形] 正しい。(古訓) よし。
若他是汝非…〈北〉若他是汝非我當乖汝從
時に、大臣(おほまへつきみ)[之]慍(いか)りて、
[遣]狭身君(さみのきみ)勝牛(かつし)、
錦織首(にしこりのおびと)赤猪(あかゐ)をつかはして[而]誨(をしへ)しめて曰(いひしく)
「吾(われ)汝(いまし)が言(こと)之(の)非(よからざること)を知れど、
干支(えと)之(の)義(ことわり)を以ちて、不得害(えそこなはず)。
唯(ただ)他(ひと)非(あやま)ちて汝(いまし)是(まさ)しければ、我(われ)必ず他(ひと)に忤(さか)へて汝(いまし)に従ふのみ。
若(もし)他(ひと)是(まさ)しくて汝(いまし)非(あやま)たば、我当(まさに)汝(いまし)に乖(そむ)きて他(ひと)に従ふべし。
是以、汝遂有不從者、
我與汝有瑕。
則國亦亂、
然乃後生言之吾二人破國也。
是後葉之惡名焉、
汝愼以勿起逆心。」
然、猶不從而
遂赴于斑鳩住於泊瀬王宮。
有瑕…〈北〉/暇ヒマ。 〈図〉ヒマ
…[名] (古訓) きす。あやまつ。とか。
後生…〈北〉 ヒト イク。 〈閣〉ヒトノ マウサク
後葉…〈北〉後-- ナリ
勿起逆心…〈北〉マナサカヘタル。 〈閣〉マナ コト サカヘタル-心 〔逆へたる心を起こすことまな〕
まな…[助] 〈時代別上代〉~スルコトマナの形で述語動詞をうけて〔=述語動詞の下につけて〕、決して~するな、という禁止・制止の意を表す。
…〈北〉マウテ于斑鳩泊-瀬ハツセ 。 〈図〉遂赴 マウテ 
泊瀬王…〈即位前8〉段では、泊瀬仲王
是(これ)を以ちて、汝(いまし)遂(つひに)不従(したがはざること)有ら者(ば)、
我(われ)与(と)汝(いまし)とに瑕(とが)有らむ。
則(すなはち)国亦(また)乱(みだ)りて、
然(しかるがゆゑに)乃(すなはち)後生(のちのひと)言(まをせらく)[之]吾(われら)二人(ふたり)国を破りつとまをせり[也]。
是(これ)後葉(のちのよ)之(の)悪しき名なり[焉]、
汝(いまし)慎みて以ちて逆(さかふる)心をば勿起(なおこしそ)」といひき。
然(しかれども)、猶(なほ)不従(したがはず)て[而]
遂(つひに)[于]斑鳩(いかるが)に赴(おもぶ)きて[於]泊瀬王(はつせのみこ)の宮に住めり。
於是、大臣益怒、
乃遣群卿、請于山背大兄曰
「頃者、摩理勢違臣、
匿於泊瀬王宮。
願得摩理勢欲推其所由。」
爰大兄王答曰
「摩理勢、素聖皇〔子〕所好、
而暫來耳。
豈違叔父之情耶、願勿瑕。」
於是…〈北〉於是ココニ
ますます(に)…[副] 一層。
違臣…〈北〉コノコロ摩理勢マリセタカテヤツ タリ。 〈図〉摩◰理◰勢◰。 〈閣〉ヤツカレニ[切]タリ於泊瀬ミコノ
推其所由…〈北〉コフ タマハリ摩理勢 オモフ カムカヘムト所由ヨシ。 〈閣〉タウハリテタマハテ
聖皇所好…〈北〉摩理勢 ヨリミカトナリヨミシタマフ。 〈図〉聖-皇 ミカト
来耳〔コシノミ、キタリシノミ〕
願勿瑕…〈北〉コフ勿-瑕 ナトカメマシソ。 〈図〉勿-瑕カト〔ママ〕メマシソ。 〈閣〉勿-瑕ナトカマシソ
のみ…[副助] 体言、動詞の連体形を受ける。文末用法〔漢文訓読体・和歌に多い〕では限定+詠嘆・強調。〈時代別上代〉動詞連用形をうけることもある。
…[助] ここでは反語。文末用法では、終止形、古くは已然形にもつく。
於是(ここに)、大臣(おほまへつきみ)益(ますます)怒(いか)りて、
乃(すなはち)群卿(まへつきみたち)を遣(つかは)して、[于]山背大兄(やましろのおほえ)に請(こ)ひて曰(まを)せらく
「頃者(このころ)、摩理勢(まりせ)臣(やつこ)に違(たが)ひて、
[於]泊瀬王(はつせのみこ)の宮に匿(かく)れり。
願(ねがはくは)摩理勢を得(たまは)りて其の所由(ゆゑ)を推(かむが)へむと欲(おも)ひまつる。」とまをせり。
爰(ここに)大兄王(おほえのみこ)答へて曰(のたまひしく)
「摩理勢は素(もとより)聖皇〔子〕(ひじりのみこ)に所好(よしみたまはり)て、
[而]暫(しまらく)来たり耳(のみ)。
豈(あに)叔父(をぢ)之(の)情(こころ)に違(たが)へれ耶(や)、願(ねがはくは)勿(な)瑕(とが)めそ。」とのたまひき。
則謂摩理勢曰
「汝、不忘先王之恩、
而來甚愛矣。
然、其因汝一人而天下應亂。
亦先王臨沒謂諸子等曰、
『諸惡莫作諸善奉行』。
余承斯言以爲永戒。
是以、雖有私情忍以無怨。
復我不能違叔父
願、自今以後、
勿憚改意、從群而無退。」
先王之恩…〈北〉ミカトミメクミ
而来…〈図〉[切][コト]。 〈閣〉 コト〔キタリシコト〕
而来…以来。それから。(古訓) このかた。
甚愛…〈北〉メクシ
めぐし…[形]ク いとおしい。
先王臨没…〈北〉ミカト臨沒ウセタマハムトセシトキニ諸-子等ミコタチ
…[動] (古訓) のそむ。むかふ。
…[動] (古訓) しつむ。つきぬ。つくす。
諸悪莫作…〈北〉アシ莫作 ナセソヨキワサ奉行 オコナヘトノタマヒキ。 〈閣〉アシヲアシキコトヲハナセ〔ソ〕
…[代] 一人称の人称代名詞。〔"餘"の新字体ではなく、もともとの"余"〕
斯言…〈北〉オホセコト以為ナカキ-戒。 〈閣〉 ス永戒
…〈北〉私情シノムテ
不能…〈閣〉不能違コト叔父
…〈北〉コフ。 〈閣〉〔ネガハクハ〕
…〈図〉ハゝカル。 <閣>ハゝカルコト〔憚ルコトクシテココロヲ改メヨ〕
従群…〈北〉マチキムタチ而無退マタ。 〈図〉マナ退〔シリゾクコトマナ〕
則(すなはち)摩理勢(まりせ)に謂(つ)げたまひて曰(いはく)
「汝(いまし)、先(さき)の王(おほきみ)之(の)恩(みめぐみ)を不忘(わすれじ)、
而来(このかた)甚(いと)愛(めぐ)し[矣]。
然(しかれども)、其(それ)汝(いまし)一人(ひとり)に因(よ)りて[而]天下(あめのした)乱る応(べ)し。
亦(また)先の王(おほきみ)の没(つきたまはむとせしとき)に臨みて諸(もろもろの)子等(こたち)に謂(のたま)ひて曰(のたまひしく)、
『諸(もろもろの)悪(あしきわざ)をば莫(な)作(せ)そ、諸(もろもろの)善(よきわざ)をば行(おこな)ひ奉(まつ)れ』とのたまひき。
余(われ)斯(かかる)言(みこと)を承(うけたまは)りて永(なが)き戒(いさめ)と以為(おも)へり。
是以(こをもちて)、私(わたくし)の情(こころ)有れ雖(ど)、忍びて以ちて怨(うら)むること無し。
復(また)我(われ)叔父(をぢ)に違(たが)ふこと不能(あたはず)。
願(ねがはく)は、今自(よ)り以後(こののち)、
意(こころ)を改(あらたむること)を勿(な)憚(はばか)りそ。群(まへつきみたち)に従ひて[而]退(しりぞくこと)无(な)かれ」とつげたまひき。
《狭身君》
 勝牛を、現代の版本では「身狭君勝牛」とする。 しかし、〈北野本〉をなどの古写本を見ると基本的に「狭身サム」となってる。
 この氏族について、まず地名サムから調べると〈倭名類聚抄〉では{讃岐国・寒川【佐無加波】郡}のみである。 〈姓氏家系大辞典〉には「佐武 サム:紀伊の名族」があるが、そこに載る人物「佐武伊賀守」は永禄年間〔1558~1570〕の人で、飛鳥時代のことは全く分からない。
 は基本的になので、サミを見ると、〈倭名類聚抄〉{越後国・頚城郡・佐味【佐美】郷}、{上野国・緑野郡・佐味郷}などがあり、また葛城襲津彦が新羅から連れ帰った俘虜が葛上郡佐糜さびに置いた記事がある(〈神功皇后紀3《佐糜邑》)。
 〈姓氏家系大辞典〉は「佐味 サミ」の項に「狭身君:毛野氏の族にて舒明紀に狭身君勝牛と云ふ者見ゆ」、 「佐味君:狭身君の後なり。天武前紀に佐味君宿奈麻呂」と載せる。すなわち、氏族「佐味君」の古い表記が「狭身」であったと判断している。 よって、〈姓氏家系大辞典〉〔1936年刊行〕の時点ではまだ「狭身」が一般的だったようである。 『仮名日本紀』は「狭身さむ」と訓む。 古訓のは、平安時代以後の発音と見られる。については万葉仮名の時代から「」である。
 その後、『新編日本古典文学全集』〔小学館1998〕、岩波文庫〔1995〕では身狭になっている。 岩波文庫版の校異によれば、「身狭」としたのは天理図書館蔵卜部兼右〔1516~1573〕本の傍書に拠ったという。
 結局、「身狭」が一般化したのは戦後になってからである。
《身狭君説》
 それでは、その「身狭君」説を検証してみよう。 身狭むさは、〈雄略天皇紀〉(八年、十四年)や〈天武天皇即位前〉などに出て来る。 式内「牟佐坐神社」の比定社が、奈良県橿原市見瀬町にある(第108回)。
 『五畿内志』高市郡には、「牟佐坐神社:…在三瀬村。今称境原天神。天武紀所謂生雷神即此」と書かれる。 「天武紀所謂」とは、壬申の乱のとき〈天武紀-元年七月〉、高市県主の許梅に神が着き「身狭社所居。名生霊神者也」と名乗った記事と見られる。 『和州五郡神社神名帳大略注解』(資料[58])が牟佐坐神社の所在地とする「牟佐村」については、『五畿内志』高市郡-村里の「三瀬」が牟佐の訛りである可能性が高い。
 また〈雄略二年〉では、「身狭村主青」が雄略天皇に仕え、 〈同十四年〉には呉国使として遣わされる。
 ここまで見れば、現牟佐坐神社の地域に地名ムサが存在したことには、疑う余地がない。 それでは牟佐(身狭)村出身の氏族の記録については、どうなっているのだろうか。
 〈姓氏家系大辞典〉は、身狭村主牟佐村主と同一として、「坂上系図には、阿智使主〔おみ〕に随ひ来りし漢人村主〔あやひとすぐり〕の内に此の氏を載せ、下りて和銅三年〔710〕七月紀に「牟佐村主相模」なる人見ゆ」と載せる。 確認すると、〈続紀〉和銅三年〔710〕に「秋七月丙辰〔七日〕。左大臣舎人正八位下牟佐村主相摸依。文武百官因奏賀辞。賜禄各有差。〔左大臣(当時は石上朝臣麻呂)の舎人(身辺の雑役)である正八位下牟佐村主相摸が「依…」(何かを伝達して)、文武百官(下級役人たち)は因って賀辞を奏(まう)す。禄を賜り各(おのおの)差(しな)有り。おそらく「依」は不確かで「…」は脱落〕。 このように、牟佐氏族のかばねは710年時点でも村主であって、牟佐とする人は見えない。 よって狭身君を、安易に身狭君に変えることは軽率であろう。
《錦織首赤猪》
 〈姓氏家系大辞典〉は、「錦部首 物部氏の族也。蓋し山城錦部の伴造家〔上から統括する氏族〕」で、 〈倭名類聚抄〉{山城国・愛宕郡・錦部【爾之古利】郷}の「稲置なるべし。当国の計帳に「錦部首広羽売」など見え」と記す。  『新撰姓氏録』に〖錦部首/〔神饒速日命〕十二世孫物部目大連之後也〗とある(資料[37])が、「物部氏が此の部と関係するに至りし起源は詳かならず」という。 地名「錦部」は訓「爾之古利ニシコリ」が示すように、もともとの「錦織部郷」が好字令によって「錦部郷」になり、そこから逆に氏族名も「錦部首」と表記されるに至ったと見られる。
 『天孫本記』では「物部目大連公」は十一世孫の世代になっている(資料[39])。書記では物部目大連の登場は〈雄略十三年三月〉。『天孫本記』では清寧天皇の代になっている。 古訓は「ニシキオリ」とするが、上代から母音融合によってニシコリであった可能性がある。ただ、どの時代になっても漢字に忠実にニシキオリに改めたい人が時々出て来ることも自然であろう。
 赤猪の名は、次に〈孝徳-大化五年〉〔649〕に「赤猪【更名秦】」があるが、阿倍内麻呂大臣の子で別人である。
《干支》
 「干支之義」なる語は、全く意味不明である。辞書にはこのような熟語はなく、「中国哲学書電子化計画」で検索しても用例はない。
 もともと干支とは十干十二支じっかんじゅうにしの略である。十干=「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」の和訓はキノエ(木兄)・キノエ(木弟)・ヒノエ(火兄)・ヒノト(火弟)…であり、~エ~トが繰り返されることから、エトという語が生じたと考えられる。 だから、本来は十干の部分だけを意味するはずであるが、習慣的に「十干十二支」を丸ごとエトという。
 原文はこのエトという音声をの意味に戻して用いたのは確実で、一種の借訓である。 ところが、古訓はこれをさらに⇒コノカミ⇒オトと置き換えて「コノカミオト」と訓むことにしたものである。
 この場合、干支古訓は、上代の和訓「エト」を同義語に置き換えて作られたものである。 つまり、書紀古訓は決して漢文を本来の倭語に直そうとしたものではなく、平安時代に作り出されたある種の流儀であることを物語っている。
 なお、「兄弟の義」とは言っても、蝦夷と摩理勢は兄弟関係にはなく、蝦夷の父馬子と摩理勢が兄弟であることによる。 この兄弟関係は〈推古二十年〉《境部臣摩理勢》並びに〈即位前2〉段で見た。 ただし、『公卿補任』が兄弟とする根拠は、実はこの「干支之義」なる記述かも知れない。
《唯他非汝是我必忤他従汝》
(白文)
第一文 唯他非汝是我必忤他従汝 
第二文 若他是汝非我當乖汝従他 
 古訓が第一文「唯他非汝…」につけた返り点は、「他非汝是我、必忤他従ひとが汝を非とし、我を是とせば、〔我〕必ず他にき、汝に従はむ〕である。 つまり「もしあなたが孤立してしまったら、私は自分の意見に固執することを止め、あなたの味方になろう」という。これは随分屈折しているが、それでも「これぞ兄弟の義である」と理解することが、できなくはない。
 ところが、同じ返り点を第二文「若他是汝…」に適用すると、「若他是汝非我当乖汝従他」 〔若し他が汝を是、我を非となさば、我は当(まさ)に汝にき、他に従うべし〕つまり、 「他の人があなたに賛成すれば、私はあなたにではなく他の人に従うつもりだ。」という、奇妙な文になる。 実際には、第二文には「若他是汝非 我当汝従一レ〔もし、他が是で汝が非ならば、まさに我は汝に背き他に従うべし〕 以外の読み方はない。
 もともと第一文と第二文は、白文を見れば分かるように完全に対になっており、それぞれに異なった文法解析法を用いるのは論理的ではない。
 もし第一文の文法解析を、第二文と同じように行えば、「唯、他が非であり汝が是であれば、必ず我は他に背き汝に従はむ」となる※)。 これは素直で分かりやすい読み方で、このことからも第一文に付された古訓が不適当なのは明らかである。 近代になるとさすがにこの古訓は是正され、『仮名日本紀』や現代の版本はまともな訓みになっている。
 ※)…伝統的な訓読ルールでは、は再読するがは再読しないという違いがあるが、のもともとの文法的な機能は同じである。
《是・非》
 このように、第一文・第二文は「ただし他者が間違っていてお前が正しければ、私は必ず他者に反対してお前に付く。 もし他者が正しくお前が間違っているなら、私はお前に反対して他者に付かなければならない」意味であるから、 「」は正当、「」は不当を意味する。これらは真実性への客観的な評価の語である。 ところが、これを正確に上代語で表そうとすると苦労する。
 古訓には「」をヨミス、「」をアシムスが見えるが、これらは主観的な好みについての言葉である。 ウベナフ(肯定)、イナブ(否定)もあり得るが、正確には賛成・反対の意思表示の語だから、客観的な真実性とは別のことである。
 この文脈にもっとも適する上代語は、マサシアヤマツである。 動詞と形容詞の組み合わせを用いざるを得ないのは残念だが、意味を正しく表すことを優先したい。 〔本当はマサシも動詞化したいところだが、マサルにすると優秀さを表し、意味が変わってしまうから使えない。〕
《無退》
 「無退」は、本当は「勿退」と書くべきところだが、その前に「勿憚」があるので重なりを避けて「無」〔本によっては「无」〕にしたと古訓者は受け止めたようである。 従って、古訓は「勿退」を想定した形になっている。
 の訓読は、下に付ける「~ナカレ」、上に付ける「ナ~」が考えられるが、 古訓では「マナ」が使われている。
 これについて〈時代別上代〉は、「禁止の表現をうけもつナは、動詞連用形に上接する場合〔※1〕も、述語動詞に下接するする場合〔※2〕も、 述語動詞に直接接しようとする傾向があり、漢文の「勿」や「莫」などは文頭におかれる定めなので、漢文訓読の際に、 独立の用法をもつマナを用いたのであろう。」と述べる。 翻訳すると、「「勿」にあたる禁止の助詞ナは直接動詞にくっつけるが、漢文の「勿」は文頭に置く語であって動詞からは離れてしまうので、 動詞と離れていても使える「マナ」にしたのだろう」という。
 ※1の例散りまがひそ。 ※2の例あさな。
《聖皇》
 山背大兄王は群卿に向かって、「摩理勢は聖皇に可愛がってもらった場所を、懐かしんで訪れただけで他意はない」と言って庇った。 聖皇には「」の字があるから、天皇を指す。ところが推古天皇がいた小墾田宮ではなく斑鳩に行ったのだから、「聖皇」は上宮皇子を指すはずである。 上宮皇子の別名に「豊耳聡」があるように、は太子を形容するが、〈推古帝〉を""で形容した例はない 〈用明元年〉。 書紀は一般に「皇」の字を注意深く扱うが、民間では聖徳太子を「聖皇」と呼んだこともあり得、それが不用意に書紀に持ち込まれたのかも知れない。
 あるいは草稿段階の「聖王」を、完成段階で天皇と解釈して「聖皇」に代えた可能性もある。 〈推古十六年八月〉条では、隋帝の親書の「倭王」を「倭皇」に替えたと見られ、ここでも同じようなことがありそうである。
 「」の次に「子」を補うと、一応は太子を指す形になる。
 これに関して、『日本古典文学全集』〔小学館〕は「聖皇みかど」頭注「聖徳太子をさす」、 岩波文庫版は「聖徳太子のことと考えた方が、下の文章との続き具合からみて、よいのではないか…ミカドの語は天皇だけを指すとは限らないので、古訓のままミカドと訓む。」とする。ミカドの一般的な使い方を見ると、やはり強引であろう。 それに対して江戸時代の『仮名日本紀』は「聖皇ひじりのみこ」で、こちらの方が却って割り切りがよい。
《豈違叔父之情耶》
 山背大兄王は「豈違叔父之情耶〔あに叔父のこころを違へたるや〕と言って、本人には厳しく注意しつつ外に向けては庇う。 この上司と部下の関係を踏まえた対応は時代を越えて、よく理解できる。
《先王》
 古訓は「」をミカド〔天皇〕と訓む。 しかし、摩理勢に対して説得力をもつのは天皇の言葉よりも、太子の言葉とすることである。 この読み方をすれば、「王=上宮皇子」となる。 しかし、「先の」という語は代々の王が継承のイメージがあるから、その点から言えば天皇である。 一方「謂諸子等」というが、山背大兄王は推古天皇の子ではなく、上宮皇子の子である。 ここで、一文字補って「於先」とすれば、迷うことなく王を太子と訓むことできる。
 どちらにしても、会話の中で対象を明示しないまま、亡くなった尊敬すべき人のことを指しているわけだから、 オホキミと訓んで、どちらとも決めずにおくのがよいのかも知れない。
 こちらも小学館、岩波ともに「先王さきのみかど」+注釈「聖徳太子を指す」であるのに対し、 『仮名日本紀』は「先王さきのみこ」で割り切りがよい。
《我不能違叔父》
 「我不叔父〔我、叔父に違へることあたはず〕という言葉により、山背大兄王はあくまでも大臣に翻意させる道を考えていたことが分かる。 諸臣を二派に分かちてその一方の支持を拠り所するのは覇王となることであるが、大兄王はこの道を決して選ばない。これで山背大兄王への継位の目は、完全に潰えた。摩理勢臣の暴発は却って道を閉ざしたのである。
《大意》
 すると、大臣(おおまえつきみ)は怒り、 身狭君(むさのきみ)勝牛(かつし)と 錦織首(にしこりのおびと)赤猪(あかい)を遣わして説得させました。
――「私は、あなたの言葉の非を知ったが、 兄弟の義を、害ないたくない。 ただ他が非であなたが是だったなら、私は必ず他に逆らってあなたに従う。 しかし、もし他が是であなたが非ということなら、私はあなた逆らって他に従わなければならない。
 これにより、お前が遂に従わないことがあれば、 私とあなたの両方に瑕(きず)がつく。
 すなわち国はまた乱れ、 そうなれば後の世の人は、私たち二人が国を壊したと言うだろう。 これは、後世に悪名を残すことである。 あなたは行動を慎み、逆心を起こしてはならない。」
 けれども、なお従わず、 遂に斑鳩(いかるが)に赴いて泊瀬王(はつせのみこ)の宮に引きこもりました。
 これに、大臣はますます怒り、 すなわち群卿(まえつきみたち)を遣わして、山背大兄(やましろのおおえ)に請うて 「この頃、摩理勢は臣に逆らい、 泊瀬王の宮に隠れております。 願わくば摩理勢の身柄をお受けし、その理由を問い質したいと望みます。」と申し上げました。
 これに大兄王(おほえのみこ)は答えて 「摩理勢は素より聖王によくしていただき、 〔懐かしんで〕暫く滞在するためにきただけです。 あに叔父の心に背くことがありましょうか。願わくば咎めませんように」と仰りました。
 そして、摩理勢に告げられました。
――「お前は、先の王の恩を忘れるな、 ずっと、とても愛おしんでおられた。
 それなのに、なんとお前一人のために天下が乱れようとしている。 また、先王が亡くなるに臨んで、子らの皆に、 『諸(もろもろ)の悪行をしてはならない、諸の善行を奉れ』と仰った。 私はこのお言葉を承り、永く戒(いさ)めにしょうと考えてきた。 これにより、私情があっても忍び、怨むことはしなかった。 また、私は叔父に逆らうことはできない。
 願わくば、今より以後、 改心することを憚らず、群卿に従い、退いてはならぬ。」


11目次 【即位前(十一)】
《大夫等誨摩理勢臣之曰不可違大兄王之命》
是時、大夫等、
且誨摩理勢臣之曰、
「不可違大兄王之命。」
於是、摩理勢臣、進無所歸、
乃泣哭更還之居於家十餘日、
泊瀬王忽發病薨。
爰摩理勢臣曰、
「我生之誰恃矣」。
大夫等…〈北〉大-夫マチキム-等マタ ヲシヘ
不可違…〈北〉不可大兄キミオホムコト
無所帰…〈北〉ヨラム泣哭イサチ マタ還之ヲル於家十-餘-日トウカアマリ
いさちる…[自]ラ四 泣き叫ぶ。〈記上巻〉「伊佐知流」(第44回)。
発病…〈北〉泊-瀬ハツセノ ミコタチマオコリウセマシヌ
我生…〈北〉イケリトモ ヲカ- タノマム
とも…[接助] 逆説。終止形に接続。「イケリ=生クの已然形+完了の助動詞リ」。
是(この)時、大夫等(まへつきみたち)、
且(また)摩理勢(まりせ)の臣(おみ)に[之]をしへて曰ひしく、
「大兄王(おほえのみこ)之(が)命(おほせこと)に違(たがふ)不可(ましじ)。」といひき。
於是(ここに)、摩理勢の臣、進みて帰(よ)らむ所無くて、
乃(すなはち)泣哭(いさち)りて更(また)[之]還(かへ)りて[於]〔泊瀬王の〕家(いへ)に居(を)ること十余日(とをかあまり)、
泊瀬王(はつせのみこ)忽(たちまちに)病(やまひ)を発(おこ)して薨(こう)ず。
爰(ここに)摩理勢の臣曰(まを)ししく、
「我(われ)[之]生くとも誰(たれ)をか恃(たの)まむや[矣]」とまをしき。
大臣、將殺境部臣而
興兵遣之。
境部臣聞軍至、
率仲子阿椰、
出于門坐胡床而待。
時軍至、
乃令來目物部伊區比以絞之、
父子共死、
乃埋同處。
将殺…〈北〉大臣蘇我蝦夷之コロサムトサカヘ摩理勢之
軍至…〈北〉境部臣聞ヒキヰ仲子ナカチコニアタルヤヲ
胡坐…〈北〉胡-床アクラ
…〈北〉ノリコテノリコト来-目クメ物部伊區比イクヒクヒラシム
くびる…[他]ラ四 ひもなどで首を絞める。
大臣(おほまへつきみ)、将(まさに)境部(さかひべ)の臣を殺さむとして[而]
兵(つはもの)を興(おこ)して[之]遣(つか)はしき。
境部の臣軍(いくさ)至れりと聞きて、
仲子(なかつこ)なる阿椰(あや)を率(ひき)ゐて、
[于]門(かど)に出(い)でて胡床(あぐら)に坐(を)りて[而]待てり。
時に軍(いくさ)至りて、
乃(すなはち)来目(くめ)の物部(もののべ)伊区比(いぐひ)に令(おほ)して以ちて[之を]絞(くび)らしめき。
父子(ちちこ)共に死(し)にて、
乃(すなはち)同じき処(ところ)に埋(う)めり。
唯、兄子毛津、
逃匿于尼寺瓦舍、
卽姧一二尼。
於是、一尼嫉妬令顯。
圍寺將捕、乃出之入畝傍山。
因以探山、毛津走無所入、
刺頸而死山中。
時人歌曰。
寺瓦舍…〈北〉兄子コノカミニアタルコ毛津 ケツ ニケカクル于尼寺瓦舍ホ■シヤ。 〈閣〉˚午寡切土器也ヤトニ〔午寡切…(反切)ŋɯa〕
…〈北〉ヲカシ
嫉妬…〈北〉嫉妬ウハナリネタミシ
うはなりねたみ…後妻(うはなり)を妬むこと。ここでは一人目の姦通者が二人目の姦通者を嫉妬する意。
畝傍山…〈北〉ウネヤマ因以アナクル
走無所入…〈北〉ニケ无所入刺■ウセヌ
唯(ただ)、兄子(このかみ)なる毛津(けつ)、
[于]尼寺(あまでら)の瓦舍(ぐわしや、ぐわをく)に逃げ匿(かく)りて、
即(すなはち)一二(ひとりふたり)の尼を姦(をか)す。
於是(ここに)、一(ひとりの)尼が嫉妬(うはなりねたみ)して顕(あらは)にせ令(し)めき。
寺を囲(かく)みて[将]捕へむとして、乃(すなはち)[之より]出(い)でて畝傍山(うねびやま)に入れり。
因(よ)りて以ちて山を探(あなぐ)りて、毛津走(に)げ入る所無くて、
頸(くび)を刺して[而]山の中に死につ。
時の人歌(うたよみ)して曰はく。
于泥備椰摩 虛多智于須家苔 多能彌介茂
 氣菟能和區吳能 虛茂羅勢利祁牟
于泥備椰摩(うねびやま) 虚多智于須家苔(こたちうすけと) 多能彌介茂(たのみかも)
 気菟能和区呉能(けつのわくごの) 虚茂羅勢利祁牟(こもらせりけむ)
《大夫》
 群臣群卿大夫等はすべて「マチキムタチ」と訓読される。 いずれも朝廷に伺候する諸臣を意味する。多様な表記を用いるのは、一種の修辞である。大夫については、〈顕宗二年〉で考察した。 十七条憲法は、結局このマチキムタチを対象として、その規律を定めたものであった。
 マチキムタチが、まへつきみたち〔御前に伺候する君たち〕の転であることは明らかである。
《不可違大兄王之命》
 山背大兄王の言葉を受け、大夫たちは摩理勢を訪れて「大兄王之命」、すなわち大兄王の言うことに従うように促した。 摩理勢は山背大兄王への継位の実現を目指して奮闘したが、最後はその大兄王自身によって梯子を外されたのである。
《泊瀬王忽発病薨》
 「泊瀬王忽発病薨」、すなわち摩理勢は泊瀬王という庇護者を失いいよいよ孤立に追い込まれた。
 よって、泊瀬王については当然のことながら暗殺が疑われる。しかし、判断材料は何もない。
《来目物部伊区比》
 〈姓氏家系大辞典〉には「久米物部 クメノモノノベ:職業部の一にして、大和来目の地にありし物部なり。天神本記天物部等廿五部人の一に見え」とある。 「大和久米」については、〈神武紀〉二年二月に「使大来目居于畝傍山以西川辺之地。今号久目邑此其縁也。」 〔大来目をして畝傍山より西の川の辺の地に居らしむ。今久目邑と号(なづ)くるは此其の縁なり〕とあり、畝傍山の西が久米邑と呼ばれた。 現在の久米町の北西にあたり、久米郷の中心部と見られる()。
 伊区比の名前が出て来るのは、ここだけである。
畝傍山
《畝傍山》
 畝傍山は、大和三山のひとつで、神武天皇の宮と陵の地として記紀に載る。 神武天皇は、「畝傍山東南橿原地」に宮を置いた 〈神武己未年三月〉/《畝傍山東南》)。
 陵は、記によれば「畝火山之北方白檮尾上第101回、 書記によれば「傍山東北」にある (〈神武七十六年〉、第103回/【畝火山之美富登】
 〈神武元年〉「於神日本磐余彦天皇之陵。奉馬及種々兵器」とあり、 当時、神武天皇陵と言われた古墳があったようである。 現在では、橿原市四条古墳群の古墳、あるいは綏靖天皇陵が候補に挙げられている (橿原市/四条古墳群、 『天皇陵古墳』〔大巧社1996〕pp.337~340)
《歌意》
畝傍うねび山 だちうす たのみかも  毛津けつわくの こもらせりけむ
〔畝傍山の木立はまばらだが、隠れるのに頼りになるのだろうか。毛津という若い子が籠ったらしいが。〕
 字数は五七五七七で、短歌である。
 ○うすけど薄しの已然形+接続助詞。逆説の確定条件。すなわち「薄いといえども」。
 ○タノムには、(相手の力を頼る)、(よりかかる)、(なにかをあてにする)、(相手に責任を押し付ける)、 (盾にして自分を守る)などの意味がある。
 〈釈紀-和歌〉は「」の字を宛てているが、意思のあるものにたよるイメージが強い。ここでは、姿を隠すために木立にたよる意で、意思のないモノにたよる場合はか。
 ○タノミは、タノム(四段)の連用形。
 〈時代別上代〉は、この「タノミカモは、文脈から考えて、頼みに思ってであろう、の意で、やはりこのタノムの一例であろうが、 普通の動詞連用形がカモに直接することはない」と述べ、例外扱いしている。 カモは体言または連体形に接するものだから、「タノムカモ」になるはずだというのである。
 ○ケムは過去推量。回想的な推量(~であっただろう)、過去の伝聞・婉曲(~であったという)など。連用形につく。
 ○籠ら・せ・り・けむ籠る(四段)の未然形+軽い尊敬の命令形+完了の連用形+過去推量ケムの終止形。すなわち、「籠られたようです」。
 〈釈紀-和歌〉は 「凡歌意者。彼山樹木薄兮顕也。毛津憑之。無于隠一レ身之由也。〔凡その歌意は、かの山樹木薄く顕(あらは)なり。毛津これに憑(たよ)る。身を隠すに処無き由なり。;兮は、形容詞への接尾語〕と説明する。 すなわち、山に隠れようとしても木立が薄く、頼みになりそうにない。つまり隠れる場所がないという。
《大意》
 この時、群卿らは、 また摩理勢の臣を説得して、 「大兄王の命令に逆らってはならない」と言いました。 こうして、摩理勢の臣は、行くところもなく、 号泣してまた帰り、〔泊瀬王の〕家に滞在すること十日あまり、 泊瀬王(はつせのみこ)は突然発病して薨じました。
 そして、摩理勢の臣は、 「私は生きているのに、誰を頼ったらよいのか」と言いました。
 大臣(おおまえつきみ)〔蝦夷〕は、境部(さかいべ)の臣を殺そうとして、 兵を興して遣わしました。 境部の臣は軍がやってきたと聞き、 第二子の阿椰(あや)を率いて、 門に出て胡床(あぐら)に座って待ちました。
 そして軍が到着して、 来目(くめ)の物部(もののべ)の伊区比(いぐい)に命じて絞首に処しました。 父子は共に死に、 同じところに埋められました。
 ただ一人、兄の毛津(けつ)は、 尼寺の瓦屋に逃げ隠れ、 そして、一人二人と尼を姦しました。
 すると、一人の尼が嫉妬してことを明るみに出しました。
 追手は寺を囲んで捕えようとしましたが、逃げ出して畝傍山に入りました。 そして山を探索され、毛津は逃げ入る所がなく、 頸を刺して山中で死にました。
 時の人は、歌を詠みました。
――畝傍山 木立薄けど 恃(たの)みかも  毛津(けつ)の稚子(わくご)の 籠らせりけむ


まとめ
 蝦夷大臣は山背大兄王支持派に手を焼いていたが、一計を案じて摩理瀬を挑発するという策を考え出し、最終的に山背大兄王を抑え込むことに成功した。 大臣の行動はとても腹黒い印象を与えるが、その老獪さの奥底に、戦乱に発展することだけは避けたいという確固たる思いがあったことも窺える。 それは今回の場面の、「吾二人破国也。是後葉之悪名焉」なる言葉に現れている。
 さて、今回、誤りかと思われる古訓がいくつか見られた。 明らかに不適切なものは、これまでの歴史で改められてきているが、未だ検討を要する箇所もある。
 中でも問題なのは、「聖皇」である。いろいろ検討したが、結局は一般の人々の間に上宮皇子(聖徳太子)は天皇だと信じたい思いが根強く、伝説を組み込んだときに一緒に書紀に紛れ込んだとも思える。 もともと書紀には上宮皇子起点の家系が書かれない〔推古紀のところで、意図的に割愛したと見た(推古10《壬生部》)〕ので、書紀だけでは物語は完結しない。 むしろそこに、民間で称えられた「聖皇」が紛れ込む隙があったと思われる。
 書紀古訓においても、この際太子を天皇のイメージで読みたいと考えてその意識で訓を振った者がいなかったとも限らない。何しろ古訓が研究された時代は、太子信仰の盛り上がりの真っただ中であった。
 さて、現代の版本において「狭牟君」を「牟狭君」としたことは、不用意な修正だと考えざるを得ない。 奈良時代に「牟佐村主」が存在したことが確認できるのに対し、姓「君」をもつ「牟佐(身狭)君」はなかなか見つからないからである。 この問題に取り組む過程で、『五郡神社記』の精読にまで及んだ(資料[58])が、とても興味深いものであった。



2022.05.14(sat) [23-5] 舒明天皇5 

12目次 【元年】
《以天皇之璽印獻於田村皇子》
元年春正月癸卯朔丙午。
大臣及群卿、
共以天皇之璽印、
獻於田村皇子。
則辭之曰
「宗廟重事矣。
寡人不賢、何敢當乎」。
天皇之璽印…〈北野本〔以下北〕璽印ミシルシイナヒ宗-廟クニイヘ寡-人オノレ[切]不賢ヲサナシ
璽印…天位を証する印章。次第に三種の神器のひとつ「勾玉」の意に転じていく。 (継体元年《璽符》、宣化即位前《奏上剣鏡》)。
元年(はじめのとし)春正月(むつき)癸卯(みづのとう)を朔(つきたち)として丙午(ひのえうま)〔四日〕
大臣(おほまへつきみ)より群卿(まへつきみたち)に及びて、
共に天皇(すめらみこと)之(の)璽印(みしるし)を以ちて、
[於]田村皇子(たむらみこ)に献(たてま)つる。
則(すなはち)[之を]辞(いな)びて曰(のたま)はく
「宗廟(くにいへ)は重(おも)き事なり[矣]。
寡人(われ)不賢(さかしきにあらじ)、何(なに)をか敢(あ)へて当たらむや[乎]」とのたまふ。
群臣伏固請曰
「大王、
先朝鍾愛、幽顯屬心。
宜纂皇綜、光臨億兆」。
卽日、卽天皇位。
固請…〈北・図書寮本〔以下図〕〉マウシ[テ]大王キミ
先朝鍾愛…〈北・図〉ミカト鍾愛メクミオイタマメクシトオモホイテ幽顕/カミモ/ヒトモツケタリ
…[動] あつめる。
鍾愛…愛をあつめる。非常にかわいがること。
幽顕…〈汉典〉猶陰陽。亦指陰間与陽間〔なお陰陽のごとし。また陰間(黄泉)と陽間(現世)を指す。〕
宜纂皇綜…〈北・図〉[切]ツイタマヒキミ-ミツキ[テ]光臨億-兆オホ〔ム〕タカラ 〔返り点は〈北〉のみ〕。 〈内閣文庫本〔以下閣〕/ツキタマヒツイテ皇綜アマツヒツキヲ引合キミノミツキヲ光臨テラシノソミタマヘ億兆オホムタカラニ
…[動] あつめる。うけつぐ。
…[動] すべる。=総。
億兆文脈上オホミタカラを用いる。(2023.03.04)
光臨…来訪を丁寧にいう。
群臣(まへつきみたち)伏して固(かた)く請(こ)ひまつりて曰(まを)ししく
「大王(おほきみ)、
先(さき)の朝(みかど)愛(めぐみ)を鍾(あつ)めたまひて、幽顕(かげにあらはに)心を属(つ)けたまへり。
宜(よろしく)皇綜(みかどのひつぎ)を纂(つ)ぎたて、億兆(おほみたから)に光臨(きみ)したまふべし」とまをしき。
即(おなじき)日、天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。
夏四月辛未朔。
遣田部連【闕名】於掖玖。
是年也、太歲己丑。
四月…〈北〉四月ウツキマタス
夏四月(うづき)辛未(かのとみ)の朔(つきたち)。
田部連(たべのむらじ)【名を闕(か)く】を[於]掖玖(やく)に遣(つか)はす。
是(この)年は[也]、太歳(おほとし)己丑(つちのとうし)。
《宗廟重事矣》
 大臣と群臣が田村皇子に即位を促す意志の表現として璽印じいんたてまつり、皇子は一度は辞退するがさらに強く要請を受けた末に、受け入れて即位する。 皇太子が定まっていないときに群臣たちが相談して後継を定めるパターンは、 他には允恭仁賢継体宣化推古持統に見える。 そのうち仁賢天皇(億計皇子)が最初に推薦されたときには、本当に辞退して弟(顕宗天皇)に譲っている (宣化即位前《奏上剣鏡》)。 その億計皇子以外は、群臣が粘り強く説得して最後は受け入れる。 このパターンをとるのは、謙虚で道徳的に優れた人柄を賛美するためであろう。
 それもあるが、しかし群臣が合議で次期天皇を指名すること自体が、そもそもが越権行為である。 その後ろめたさを隠すためには誰が見ても相応しい人物に、お願いして引き受けていただく必要があった。 あくまで客観的にその人がもつ資質によって選ばれるべきであるから、そこに本人の野望が入ってはいけない。それを強調するために、いったん遠慮する形をとるのである。
 舒明天皇の場合もこの定型通りではあるが、これまでの例と比べると形式的である。 これは、もう一人の候補である山背大兄王にも、相当の正統性があるかに描かれていたことに関係があろう。 つまり、田村皇子があまり強く辞退すると、せっかく打ち消した山背大兄王即位待望論がまたぞろ蘇ってきてしまう。
 その辺りが痛しかゆしで、結果的に「辞意⇒再度の要請⇒受諾」を、形ばかりのものに留めたようである。
《掖玖》
 掖玖〔屋久島〕の人の帰化は〈推古〉二十四年にあり、同二十八年には伊豆島に漂着した記事がある。 〈舒明〉三年二月にも、その人数は書かれないが帰化した人がいる。
 その原因として掖玖国の内乱による亡命を想像したが、田部連が遣わされたのはその混乱の収拾のためかも知れない。 田部連が帰朝したのは派遣から1年5か月後の、二年九月である。「〔欠〕」とあるから、それほど詳しい記録はなかったようである。
《大意》
 元年正月四日、 大臣(おおまえつきみ)及び群卿(まえつきみたち)は、 共に天皇(すめらみこと)の璽印(じいん)を 田村皇子(たむらみこ)に献じました。
 すると辞退され、 「宗廟(そうびょう)〔=国家〕は重き事である。 寡人(かじん)〔=「私」の遜称〕は賢明ではなく、どうして当たることができようか」と仰りました。
 群卿は伏して固くお願いして 「大王(おおきみ)は、 先の帝〔推古天皇〕が恩恵を一身に注がれ、陰に陽に心をかけておられました。 宜しく、皇綜(こうそう)〔=皇統〕を継ぎ、人民に光臨してくださいませ。」と申し上げました。 その日のうちに、天皇(すめらみこと)の位に即(つ)かれました。
 四月一日、 田部連(たべのむらじ)【名を欠く】を掖玖(やく)に遣わされました。 この年は、太歳(たいさい)己丑(つちのとうし)でした。


13目次 【二年】
《立寶皇女爲皇后》
二年春正月丁卯朔戊寅。
立寶皇女爲皇后。
后生二男一女。
一曰葛城皇子
【近江大津宮御宇天皇】。
二曰間人皇女。
三曰大海皇子
【淨御原宮御宇天皇】。
…〈北〉アレマセリ二男[切]一女
宝皇女…〈皇極紀〉「敏達天皇―押坂彦人大兄皇子―茅渟王―宝皇女〔皇極・斉明天皇〕
間人…〈閣〉[切]ハシ皇女。 第239回【間人穴太部王】参照。
大海皇子…〈北・図〉大海オホサマ皇子〔ママ〕。 〈閣〉大-海オホアマノ
二年(ふたとせ)春正月(むつき)丁卯(ひのとう)を朔(つきたち)として戊寅(つちのえとら)〔十二日〕
宝皇女(たからのみこ)を立たせて皇后(おほきさき)と為(し)たまふ。
后(きさき)の生(う)みたまひし二男(ふたはしらのひこ)一女(ひとはしらのひめ)は、
一(ひとはしら)は[曰]葛城皇子(かつらきのみこ)
【近江(ちかつあふみ)の大津宮(おほつのみや)にましまして御宇(あめのしたをしろしめたまへる)天皇(すめらみこと)】〔天智〕といひ、
二(ふたはしら)は間人皇女(はしひとのみこ)と曰ひ、
三(みはしら)は[曰]大海皇子(おほあまのみこ)
【浄御原宮(きよみはら)にましまして御宇(あめのしたをしろしめたまへる)天皇】〔天武〕といふ。
夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛。
生古人皇子
【更名大兄皇子】。
又娶吉備國蚊屋采女、
生蚊屋皇子。
夫人…令によれば、妃の地位は「皇后>妃>夫人>嬪」(〈推古二十年〉《婦人の地位》)。 〈北〉夫-人 オフトシ   ■フトシオトシ   。 〈図〉夫-人 オフトシ   ムウトシオトシ   。 〈閣〉夫-人ヲホトシ ムラトモヲノトシ     ヲトシ
おほとじ…[名] トジ(刀自)〔主婦〕の美称。
法提郎媛…〈北〉ムスメ[切]法提ホゝテノ郎-媛 イラツメ[切]フル皇子
蚊屋采女…〈北〉吉備國蚊屋カヤ[ノ]采女[ヲ]蚊屋皇子
夫人(おほとじ)蘇我の嶋の大臣(おほまへつきみ)の女(むすめ)法提(ほふて、ほほて)の郎媛(いらつめ)、
[生]古人(ふるひと)の皇子(みこ)
【更名(またのな)大兄皇子(おほえのみこ)】をうみたまひて、
又(また)吉備国(きびのくに)の蚊屋采女(かやのうねめ)を娶(めあは)せて、
蚊屋皇子(かやのみこ)を生みたまふ。
三月丙寅朔。
高麗大使宴子拔
小使若德
百濟大使恩率素子
小使德率武德
共朝貢。
高麗大使…〈北〉大使ツカヒ[切] 音妟 音拝[切]小使 ソヒ。 〈図〉宴◳子◰拔◳若◲德◲恩◳率◲素子◰德率武◱德◲。 〈釈紀〉大使ヲホツカヒアム〃晏ハイ小使ソヒツカヒ若德ジヤクトク○恩率○德率武トク
恩卒《百済の位階》「恩率三品」、「徳率四品」。
そひつかひ…[名] 〈時代別上代〉副使。大使オホツカヒの対。
朝貢…〈北〉朝-貢ミツキタテマツル
三月(やよひ)丙寅(ひのえとら)の朔(つきたち)。
高麗(こま)の大使(おほつかひ)宴子抜(あむしはい)
小使(そひつかひ)若徳(じやくとく)、
百済(くたら)の大使恩率(おんそつ)素子(そし)
小使徳率(とくそつ)武德(ぶとく)、
共に朝貢(みかどををろがみみつきたてまつる)。
秋八月癸巳朔丁酉。
以大仁犬上君三田耜
大仁藥師惠日
遣於大唐。
庚子。
饗高麗百濟客於朝。
犬上君三田耜…〈北〉タイ-ニ■犬上君■ヌカンノキミスキ大仁薬師クスシ ニチ。 〈図〉大◱仁◳犬上君[切]スキ
大仁冠位十二階第三位。
大唐…〈北〉モロコシ
…〈北〉アヘタマフ高麗百濟マラウトミカト。 〈閣〉百済  ヲマラフトニ
秋八月(はつき)癸巳(みづのとみ)を朔(つきたち)として丁酉(ひのととり)〔五日〕
[以]大仁(だいにん)犬上君(いぬかみのきみ)三田耜(みたすき)
大仁(だいにん)薬師(くすし)恵日(ゑにち)をもちて、
[於]大唐(だいたう、もろこし)に遣(つか)はす。
庚子(かのえね)〔八日〕
高麗(こま)百済(くたら)の客(まらひと)を[於]朝(みかど)に饗(あ)へたまふ。
九月癸亥朔丙寅。
高麗百濟客歸于國。
是月。
田部連等、至自掖玖。
…古訓なし。
…古訓なし。
九月(ながつき)癸亥(みづのとゐ)を朔として丙寅(ひのえとら)〔四日〕
高麗(こま)百済(くたら)の客(まらひと)[于]国に帰(まか)る。
是(この)月。
田部連(たべのむらじ)等(たち)、掖玖(やく)自(よ)り至(まゐた)れり。
冬十月壬辰朔癸卯。
天皇遷於飛鳥岡傍、
是謂岡本宮。
是歲。
改修理難波大郡
及三韓館。
修理…〈北〉 テ-理 ツクル難波大郡オホサト乃三カラト ムロツミ。 〈閣〉修-理ツクル難波オホ◱郡◱[切][切]韓館カラ トノカラクニノ ムロツミヲ
岡本宮資料[54]参照。
大郡…後の東成郡ひむがしなりのこほりと見られる。〈継体六年〉【難波館】参照。
冬十月(かむなづき)壬辰(みづのえとら)を朔(つきたち)として癸卯(みづのとう)〔十二日〕
天皇(すめらみこと)[於]飛鳥(あすか)の岡(をか)の傍(ほとり)に遷りまして、
是(こ)をば岡本宮(をかのもとのみや)と謂ふ。
是(この)歳。
改(あらた)めて難波(なには)の大郡(おほこほり)を修理(つく)りて、
三(みつ)の韓(からくに)の館(たち、むろつみ)に及ぼせり。
《宝皇女》
 宝皇女の父茅渟王は、記の「智奴王」にあたると見られる。 記紀の血縁関係を合わせれば、押坂彦人大兄皇子とは異母の姪という関係で、〈敏達天皇〉系の血筋である。
 これで用明天皇―上宮皇子系からの天皇への道筋は潰えた。 古事記では、ここまでの血筋を見極めたところで終了している。 つまり、太子は傍流であると示すことによって、暗に仏教の隆盛は国の本筋ではないと主張するのである。
《夫人》
 夫人の古訓に「オフトシ」とあるが、上代はオホトジであったと考えられている。
 〈天武紀二年〉に「夫人藤原大臣女氷上娘、生但馬皇女。次夫人氷上娘弟五百重娘。生新田部皇子」 とある。この藤原夫人については、 (万)1465 の題詞に「藤原夫人歌一首 明日香清御原宮御宇天皇之夫人也 字曰大原大刀自 即新田部皇子之母也〔藤原夫人の歌一首。明日香清御原宮御宇天皇〔天武〕の夫人なり。字(あざな)は大原の大刀自(おほとじ)といひ、即ち新田部皇子の母也〕とある。
 これを見ると、少なくとも〈天武朝〉の時代には夫人が「~のおほとじ」と呼ばれることがあったことが分かる。 古訓の時代になると、オフトジオトジなどに変化していたようである。
《法提郎媛》
 郎媛については、女性名の敬称に「」が入ればイラツメと訓むと見てよい。多くは郎女女郎と表記される。
 には、古訓にホホが振られている。 〈学研新漢和〉によると、「」は、上古音(周・秦)[pɪuăp]、中古音(隋・唐)[pɪuɅp]で、閉音節〔英語"cap"ような音節〕であった。 漢字が入いってきたころは、日本でのハ行の発音はパ行であったと考えられている。よってハフと表記される語の上代の発音は[papu]である〔昔から、外来語がカタカナ語になると閉音節[pap]の語尾に母音[u]が加わって、二音節になる〕。 ただし、には「ハフシ」ではなく「ホフシ」と訓が振られているから、仏教用語の「」は早い段階で[popu]になったようである。 よって「法提」は[popute]のはずだが、[popote]になっている。人名中の「徳」がトコになったのと同じで、一種の習慣かも知れない。 ただ、それが上代からか、平安時代になってからの変化なのかは分からない。
《犬上君三田耜》
 犬神君の本貫と言われるのが、〈倭名類聚抄〉{近江国・犬神郡}である。
 日本武尊の子、稲依別王が「犬上君、建部君等の祖」とされ、母(大吉備建比売)は「近淡海〔=近江〕の安〔=野洲〕国造の祖 意富多牟和気」のむすめとされる (第122回第135回)。 〈姓氏家系大辞典〉は「其の関係より此地に領土を獲給ひしものならむ」と述べ、犬神君が犬神郡で発祥した根拠とする。
 三田鍬(三田耜)は、〈推古二十二年〉に遣唐使に任じられた。
《薬師恵日》
 薬師恵日は、〈推古三十一年〉に唐から帰国した。 この人についての記事は〈孝徳〉紀(白雉五年)、〈続紀〉(天平宝字二年〔758〕四月己巳)にもある。
   『続日本紀』巻第二十。〔朝日新聞社『増補 六国史』1940〕
天平宝字二年四月己巳。
内薬司佑兼出雲国員外掾正六位上難波薬師奈良等一十一人言。
奈良等遠祖徳来。本高麗人。帰百済国。昔泊瀬朝倉朝廷詔百済国
-求才人。爰以、徳来貢-進聖朝
徳来五世孫恵日。小治田朝廷御世。被大唐。学得医術
因号薬師。遂以為姓。
今愚闇子孫。不男女共蒙薬師之姓
窃恐名実錯乱。伏願薬師字二上難波連。許之。
〔続記〕天平宝字二年〔758〕四月己巳〔28日〕
内薬司(くすりのつかさ)の佑(すけ)、出雲国の員外(ゐむぐわい)の掾(まつりことひと)を兼ぬる、正六位上難波薬師(なにはのくすし)の奈良(なら)等(ら)一十一人(とあまりひとり)言(まを)ししく。
「奈良等(ども)の遠つ祖(おや)徳来(とくらい)。本高麗(こま)の人にて百済の国に帰(よ)る。昔(いにしへ)に、泊瀬朝倉(はつせのあさくら)の朝廷(みかど)〔雄略天皇〕百済国に詔して才人(てひと)を訪(たづ)ね求(ま)がしむ。爰(ここ)を以(も)て、徳来を聖朝(ひじりのみかど)に貢進(たてまつ)る。
徳来の五世(いつよ)の孫(むまご)恵日(ゑにち)。小治田(をはりた)の朝廷(みかど)の御世(みよ)〔推古天皇〕大唐に被遣(つかはさ)れて学びて医術を得(う)。
因りて薬師(くすし)と号(なづ)けて遂に以て姓(かばね)と為(な)りき。
今愚闇(おろか)なる子孫(うみのこ)。男女(だむぢよ)を不論(あげつらはず)て共に薬師(くすし)之(の)姓(かばね)を蒙(かがふ)る。
窃(ひそかに)名(な)と実(まこと)の錯乱(まがふこと)を恐りまつる。伏して願はくは、薬師の字(な)を改めて難波連(なにはのむらじ)を蒙(かがふること)をねがひまつる」とまをしき。之を許したまふ。
『職員令』―国の官制
中務省/内薬司正一人・佑一人・令史一人・侍医四人
上国守一人・介一人・掾一人・目一人・史生三人。
大国守一人・介一人・大掾一人・小掾一人・大目一人・小目一人・史生三人。
 律令国は、「大国上国中国下国」にクラス分けされる。 大国・上国・中国・下国の一覧は、〈延喜式-巻二十二〉「民部上」にある。
 出雲国のランクは「上国」である。
 大国は掾二人制だが、掾一人制の上国が掾を追加して「員外掾」と呼んだと見られる。 「員外」は、「大宝令で定められた、定員外の官吏」(〈学研新漢和〉)などと説明されている。
 この文の意味を見ておく。まず「難波薬師奈良」の官職「内薬司佑/兼/出雲国員外掾」については、右表の通りである。
 次に、雄略天皇のときに百済から献上されたことについては、〈雄略-七年是歳〉条にその記述がある。 そこには百済に「勅書巧者巧者てひとの献上を求め〕、 命じられた弟君は「-聚百済所貢今来才伎於大嶋中〔百済に献上された今来いまき才伎てひとを大嶋に集めた〕まま殺され、天皇は日鷹吉士堅磐固安銭を派遣して連れ帰らせたとある。 その「今来いまき応神朝の渡来人に対して雄略朝に新しく渡来した意才伎てひと(巧者)」の中に徳来もいたことになる。恵日はその五代孫だという。
 続けて、恵日は〈推古朝〉のとき「大唐。学得医術」と述べる。 書記によると遣隋使の派遣は〈推古十五年七月〉、 〈同十六年九月〉にあるが、いずれも同行者に恵日の名前はない。 『隋書』には、〈大業三年〔推古十五年〕の遣隋使に同行した者として「沙門數十人来学仏法」 とあるので、その中に恵日が含まれていた可能性はある。十六年の再派遣のときかも知れないが、再派遣のことは隋書に載っていないので判断のしようがない。
 こうして医術を身に着けて帰国した恵日の肩書「(薬師)」がそのまま子孫の姓(かばね)になったが、薬師でもない者が全員薬師を名乗ることは紛らわしいからと、「難波連」に改姓することを願い出て、許可されたという。 ここでは氏姓を自分たちで決めたが如く書いているが、実際には事前に有司と相談したのであろう。有司の間では前々から問題視されていて、自ら名乗り出る形を取らせたことも考えられる。
《大郡及三韓館》
 大郡は、上町大地の谷町筋より東(河内湖側)で、後に拡張して{摂津国・東生郡}になったと考えられている。 〈仁徳段〉では、「難波高津宮」(第161回)が置かれたが、その後もずっと宮殿が置かれ副都として機能していたのは想像に難くない。 いわば官庁街であったと想像され、百済館新羅館高麗館もその建物群の中にあったと考えられる。 つまり難波宮を中心として、副都としての本格的に整備がなされ、これはひとえに唐および三韓との外交機能の強化のためと考えられる。 そして「改修理難波大郡及三韓館」と書かれるのは、 「その副都の建設の一部として、特に使者を迎える三韓の館も改修された」という意味だと思われる。〈時代別上代〉は「オヨビのような接続詞的な例も、上代に確証を見ない」というから、 動詞「及ぶ」に戻して訓読した方がよい例もあると思われ、ここでもそれではないかと見られる。
 ここでは「三韓館」というが、「唐館」(仮称)も含まれるのは明らかである。〈推古十六年〉には「更造新館於難波高麗館之上」とある。 新羅館については、〈欽明二十二年〉「穴門の館〔長門国〕が出て来る。難波の館について直接触れた記事はないが、難波の「三韓館」に新羅が含まれるのは間違いない。 百済館については〈孝徳〉大化元年に「百済大使佐平縁福。遇病留津館而不於京」とあり、 この「津館〔=摂津館〕が難波津にあったことに疑問の余地はない。
《大意》
 二年一月十二日、 宝皇女(たからのひめみこ)を皇后(おおきさき)に立てられました。
 皇后は二男一女をお生みになり、 一人目は葛城皇子 【近江大津宮に御宇(しろしめす)天皇(すめらみこと)】〔天智〕、 二人目は間人皇女(はしひとのひめみこ)、 三人目は大海皇子(おほあまのみこ) 【浄御原宮(きよみはら)に御宇(しろしめす)天皇】〔天武〕といいます。
 夫人、蘇我の嶋の大臣(おおまえつきみ)の娘、法提郎媛(ほほてのいらつめ)、 古人皇子(ふるひとのみこ) 【別名、大兄皇子(おおえのみこ)】をお生みになりました。
 また、吉備の国の蚊屋采女(かやのうねめ)を娶(めあわ)せて、 蚊屋皇子(かやのみこ)をお生みになりました。
 三月一日、 高麗(こま)の大使宴子抜(えんしはい)、 小使若徳(じやくとく)、 百済の大使恩率(おんそつ)素子(そし) 小使徳率(とくそつ)武德(ぶとく)は、 共に朝貢しました。
 八月五日、 大仁(だいにん)犬上君(いぬかみのきみ)三田耜(みたすき)、 大仁薬師(くすし)恵日(えにち)を、 唐に派遣しました。
 八日、 高麗(こま)および百済の客を朝で饗宴しました。
 九月四日、 高麗と百済の客は国に帰りました。
 この月、 田部連(たべのむらじ)等は、掖玖(やく)から帰国しました。
 十月十二日、 天皇(すめらみこと)は飛鳥の岡の傍らに遷られ、 これを岡本宮(おかもとのみや)といいます。
 この年、 難波の大郡(おほごおり)を改修し、 その改修は三韓の館(むろつみ)に及びました。


14目次 【三年~四年】
《百濟王義慈入王子豐章爲質》
三年春二月辛卯朔庚子。
掖玖人歸化。
三月庚申朔。
百濟王義慈、
入王子豐章爲質。
秋九月丁巳朔乙亥。
幸于津國有間温湯。
冬十二月丙戌朔戊戌。
天皇至自温湯。
帰化…〈北・図〉歸化マウケリ。 〈閣〉帰-化マウケリマウヲモフク
百済王…〈北〉オコタレル百濟クタラクノコキシタテマツレ  イレタテマツリ王子 セシムホウ シヤウムカヘリ/ムカハリ。 〈図〉タテマツレタテマツリイレ王-子豊◱章◱[テ]ムカハリ[句]。 〈閣〉ムカハサト
むかはり…[名] 「身(む)-代(かは)り」の意とみられる。
…〈北・図〉イテマス
温湯…〈北・図〉于津國有間温-。 〈閣〉于摂津國有間-湯
天皇至…〈北・図・閣〉天皇 マス
三年(みとせ)春二月(きさらき)辛卯(かのとう)を朔(つきたち)として庚子(かのえね)〔十日〕
掖玖(やく)の人帰化(まゐきたる)。
三月(やよひ)庚申(かのえさる)の朔(つくたち)。
百済王(くたらわう)義慈(ぎじ)、
王子(わうし)豊章(ほうしやう)を入(たてまつ)りて質(むかはり)と為(し)まつる。
秋九月(ながつき)丁巳(ひのとみ)を朔として乙亥(きのとゐ)〔十九日〕
[于]津国(つのくに)の有間(ありま)の温湯(ゆ)に幸(いでま)す。
冬十二月(しはす)丙戌(ひのえいぬ)を朔として戊戌(つちのえいぬ)〔十三日〕
天皇(すめらみこと)温湯(ゆ)自(よ)り至(いたります)。
四年秋八月。
大唐遣高表仁送三田耜、
共泊于對馬。
是時、
學問僧靈雲
僧旻
及勝鳥養
新羅送使等、從之。
高表仁…〈図〉高◱表◰仁◱。〈閣〉高◳表◰仁◱。 〈釈紀〉高表仁カウヘウジム
共泊…〈北〉トゝマレリ
学問僧…〈北〉學問モノナラフ ホウシ リヤウ ウム ソウ ミムカチ ツトリ カヒ新羅 シラキノ送-使等[切]從之トモタリ。 〈図〉學問モノナラフ ホウシ霊◳雲◱[切]僧◳是◱[切]カチカヒ[切]新羅送使等[切]従之トモタリ。 〈閣〉云民〔民と音読〕従之トモニシタカヘリトモタリ  。 〈釈紀〉靈雲リヤウウム
四年(よとせ)秋八月(はつき)。
大唐(だいたう、もろこし)高表仁(かうへうじん)を遣(まだ)して三田耜(みたすき)を送らしめて、
共に[于]対馬(つしま)に泊(は)つ。
是(この)時、
学問僧(ものならふほふし)霊雲(りやううむ)
僧旻(そうみむ)より、
[及]勝鳥養(かちのとりかひ)
新羅(しらき)の送(まだ)しし使(つかひ)等(ら)におよびて、之(こ)に従(したが)へり。
冬十月辛亥朔甲寅。
唐國使人高表仁等泊于難波津。
則遣大伴連馬養迎於江口、
船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整飾。
便告高表仁等曰
「聞天子所命之使到于天皇朝、
迎之。」
時、高表仁對曰
「風寒之日、飾整船艘以賜迎之、
歡愧也。」
使人…〈北〉使人ツカヒ
難波津…〈北〉于難波
…〈北〉フナ卅二艘。 〈図〉船卅二フナ
よそふ…[他]ハ四 船を飾り整える。 〈北・図〉[切][切][切]フエ[切]旗-幟ハタ[切]整飾ヨソヘリ[句]
天子…〈北〉天-子モロコシノミカト所命之 オホムコトノタマヘル使 レリ于天皇ミカト。 〈図〉天-子モロコシノミカト所命之 ナホムコトノタマヘル使[切] レリ于天皇ミカトニ。 〈釈紀〉天子モロコシノキミノ所命之ヲホムコトノタマヘル使ミツカヒマウツト天皇スメラミコトノミカトニムカヘシム
風寒…〈閣〉風寒カセスサマシキコロ ニ。 〈釈紀〉風寒之日カセスサマシキコロコノコロ。 (万)2175 秋風寒 あきかぜさむし
飾整船艘…〈北・図〉飾-整ヨソヒ船-艘 フネ 
歓愧…〈北〉歡愧カタシケマカル。 〈図〉歡愧ヨロコヒカシコマルカタゝケマカル。 〈閣〉 コト歡愧カタシケナカルヨロコヒ カシコマル
…[動] はじる。(古訓)はつ。
かたじけなし…[形]ク 畏れ多い。もったいない。
冬十月(かむなづき)辛亥朔甲寅〔四日〕
唐国(たうのくに、もろこし)の使人(つかひ)高表仁(かうへうじん)等(ら)[于]難波(なには)の津に泊(は)つ。
則(すなはち)大伴連(おほとものむらじ)馬養(うまかひ)を遣(まだ)して[於]江口(えぐち)に迎へしめて、
船(ふね)三十二艘(みそふなあまりふたふな)より鼓(つつみ)吹(ふへ)旗幟(はた)に及びて皆(みな)具(つぶさ)に整飾(よそ)はしむ。
便(すなはち)高表仁等に告げて曰(い)へらく
「天子(てむし)の所命之(おほせたまひし)使(つかひ)[于]天皇(すめらみこと)が朝(みかど)に到(いた)れりと聞きて、
[之]迎へり。」といへり。
時に、高表仁対(こた)へて曰ひしく
「風寒之(かぜさむき)日に、飾整船艘(かざりふね)をよそひて以ちて[之]迎(むかへ)を賜(たまは)りて、
歓(よろこぼ)しく愧(は)ぢてあり[也]。」といひき。
於是、
令難波吉士小槻
大河內直矢伏
爲導者、
到干館前。
乃遣
伊岐史乙等
難波吉士八牛
引客等入於館。
卽日。
給神酒。
…〈北〉ノリコト小槻ヲツキオフシ河内直■シ導者ミチヒキ。 〈図〉フシ
大河内直…〈安閑二年《大河内直》、〈雄略九年二月〉参照。
…〈図〉ムロツミ。 〈閣〉ムロツミノ
…〈北〉フヒトヤツ客等。 〈図〉◰岐◱フヒト乙◲等。 〈閣〉◰岐フヒトヲトツト 。 〈釈紀〉ヲフシ河内カウチノアタヒフシキノフヒト乙等ヲツト ノ吉士キシ八牛ヤツシ
伊岐…〈倭名類聚抄〉{壱岐嶋【由岐】}。
神酒…〈北・閣〉神酒ミニ。 〈図〉神-須ミオ。 〈釈紀〉神酒ミワ
みき…[名] 酒の美称。「許能美岐波このみきは 和賀美岐那良受わがみきならず〔この神酒は吾が神酒ならず〕(第146回)。
みわ…[名] 神に献ずる酒〔おそらく三輪の神にささげた酒が語源〕。古訓「神酒刀尓〔ミニ〕」の〔=ニ〕は、 失われた古い訓点本〔=ワ〕の誤読から生じたと見られる。
於是(ここに)、
[令]難波吉士(なにはのきし)小槻(をつき)
大河内直(おほしかふちのあたひ)矢伏(やふし)におほせて
導者(みちびき)と為(し)て、
[干]館(たち、むろつみ)の前(まへ)に到(いた)れり。
乃(すなはち)[遣]
伊岐史(いきのふひと)乙等(おつと)
難波吉士(なにはのきし)八牛(やつし)をつかはして、
客(まらひと)等(ら)を引(ゐ)て[於]館(たち、むろつみ)に入(い)らしむ。
即(その)日。
神酒(みき)を給(たま)へり。
《有間温湯》
 〈釈紀〉述義十(推古天皇・舒明天皇)に、この有間温湯について述べた『摂津風土記』の逸文が載る。
 ここで、その全文を精読する。なお、ここでは〈釈紀〉が加えたと見られる訓点は用いず、本サイトによる訓読である。
『釈日本紀』巻十四-述義十。「幸于津国有馬温湯」〔新訂増補 国史大系第八巻/吉川弘文館/p.187;1999〕
摂津国風土記曰
有馬郡又有塩之原山此山近在塩湯
此辺因以為
久牟知川 右因山為
山本名功地山
昔難波長楽豊前宮御宇天皇世
車駕幸温泉行宮於温泉
于時採材木於久牟知山 其材木美麗
於是勅云此山有功之山
因号功地山俗人弥誤曰久牟知山
又曰 始得塩湯等云々
土人云 不時世之号名但知嶋大臣時
摂津国(つのくに)の風土記に曰ふ。
有馬郡(ありまのこほり)に又塩之原(しほがはら)山有り、此の山の近きに塩湯(しほゆ)在り。
此の辺り、因(よ)りて為以(おもへらく)、
久牟知(くむち)川と名づくは、右の山に因りて名を為せり。
山、本(もと)功地(くち)山と名づけり。
昔(いにしへ)、難波長楽豊前宮(なにはのながらとよさきのみや)に御宇(あめのしたしろしめす)天皇(すめらみこと)の世(みよ)〔孝徳〕、
車駕(すめらみこと)温湯(ゆ)に幸(いでま)さむが為(ため)に、行宮(かりみや)を[於]温泉(ゆ)に作りたまひき[之]。
于時(ときに)材木(き)を[於]久牟知(くむち)山に採(と)りて、其の材木(き)美麗(うるは)し。
於是(ここに)勅(のたま)ひて云(のたま)ひしく「此の山之(いさみ)有りし[之]山なり」とのたまひき。
因りて功地(くち)山と号(なづ)けて、俗人(くにひと)弥(やくやく)誤りて久牟知山と曰へり。
又曰ふ。始めて塩湯(しほゆ)を得(え)見ゆの等(たぐひ)云々(しかしか)。
土人(くにひと)の云ふ。時世(ときよ)之(の)号(なづ)けし名を不知(しらず)、但(ただ)嶋大臣(しまのおほまへつきみ)の時と知る耳(のみ)。
難波長楽豊前宮…〈孝徳/大化元年十二月〉「遷都難波長柄豊碕」。 有馬郡…〈倭名類聚抄〉{摂津国・有馬【阿利万〔ありま〕】郡}。 時世…その時代。(古訓)ときよ。
〔 有馬郡には、塩ケ原山、その近くに塩湯がある。思うに久牟知くむち川の名は山の名にるもので、その山はもとは功地くち山といった。 昔、孝徳天皇は温泉に行幸し、滞在するための行宮あんぐうを建てた。 その材木を久牟知山から伐採し、その材木は美麗だったので「この山は功ある山である」と仰ったことから功地くち山と名付けられた。 その後、土地の人は次第に誤って久牟知山となった。 また初めて塩湯を見つけたなどというが、土地の人によれば名付けられたのはその時代ではなく、嶋大臣〔蘇我蝦夷大臣〕の時だという。〕
 この文は久牟知山の地名由来譚で、舒明天皇ではなく孝徳天皇の行幸に関連付けられている。 〈孝徳紀/大化三年十月〉に「天皇幸有間温湯」とあるのがそれである。 「功(いさみ)の地(ところ)」が地名になるときに、急に音読してクチになるのは不自然なので、風土記執筆者による創作であろう。
 地元では「有馬温湯」ではなく「塩湯」と呼ぶのは興味深い。地名のついた呼び名は、外の人が呼ぶときの名前である。
 その塩湯から数キロメートル北に「公智くち神社〔兵庫県西宮市山口町下山口3-14-30〕がある。式内社で{有馬郡三座:公智神社/鍬靫}。 公式ページの「御由緒」には、「「功地山」(功ある山の意)の山名を賜わり、当社を厚く崇敬祈願されました。」と載る。
 実際には「功地」は語源ではないが、それでも豊かな森林に関係していると見られ、木々に宿る「木()霊()」であろう。
《温湯》
 〈倭名類聚抄〉に「温湯:…佷山県有温泉百病久病人此水多愈矣一云湯泉【和名〔ゆ〕」とあるように、 温泉の倭語は上代からである。この語は現代にも生きていて「有馬の湯」、「草津の湯」などという。
《百済王子豊章》
 〈舒明三年〉に、豊章が倭に質として送られた。豊章(豊璋)は、百済が滅亡した660年に倭から返され、王に立てられた。 その経緯について、書紀と『三国史記』の記述を対照する。
『三国史記』-百済本記日本書紀
庚申〔600〕武王元年。武王即位。「〔いみな〕璋。法王之子。推古天皇八年
辛卯〔631〕武王三十二年。 舒明天皇三年三月一日 「百済王義慈。入王子豊章為質。
壬辰〔632〕武王三十三年。「春正月。封元子〔長男〕義慈太子舒明天皇四年。
辛丑〔641〕武王四十二年三月。「武王薨。義慈王即位元年。舒明天皇十三年。
庚申〔660〕義慈王二十年。「〔唐〕高宗詔:…統兵十三万。以来征。兼以新羅王金春秋〔武烈王〕…領精兵五万以赴之。…〔百済〕及太子孝〔と〕諸城皆降。斉明天皇六年九月。「百済遣…曰:今年七月。新羅恃力作勢。不於隣。引-搆唐人。傾-覆百済。君臣総俘…
古王子扶餘豊〔かつて〕於倭国者。立之為王。同十月。「百済遣…曰:〔まさに〕今謹願。迎百済国〔はべる〕天朝王子豊璋。将国主。…【天皇。立豊璋王】
 百済は義慈王二十年、唐・新羅連合軍に完敗し、王の投降に追い込まれた。『三国史記』(新羅本記-武烈王七年)に 「定方〔まさに〕百済王及王族臣寮九十三人…泗沘-廻唐」とあるように、王と王族はすべて唐に送られた。 百済人は、国の反撃を期して倭に質として送られていた扶餘豊(豊璋)の返還を求め、王に立てた。 こと質の返還に関しては、書紀と『三国史記』の記述は一致する。
 ところが、はじめに質として送った時のことは、『三国史記』には書いていない。また、書記は三年に〔631年〕に「義慈王が質を送った」と書くが、 義慈王が王になったのは641年になってからである。
 この誤りを正すとすれば、
  631年は正しく、実際には武王が質を送ったとする。〔その場合豊璋は武王の子で、義慈とは兄弟となろう。〕
  実際には641年〔辛丑〕以後に義慈王が質を送ったとする。
 この二通りが考えられるが、が妥当か。 書紀が参照した古記録に「辛丑」とあったのを「辛卯」と読み誤り、舒明三年〔辛卯〕にこの事項を書き込んだことが考えられるからである。 さらに、豊璋が即位した年に王子を質として送ることは、ひとつのタイミングとして考え得るから、この可能性は十分ある。 〔ただし三月武王薨」・三月一日入王子豊章」をどう見るかという問題が残る。〕
《高表仁》
 貞観五年に倭から朝貢の遣使があり、続けて高表仁を倭に遣使したことが、『旧唐書』及び『新唐書』に載る。
『旧唐書』〔945〕
巻一百九十九
貞観五年。遣使献方物。太宗矜其道遠。敕所司無レ上歳貢。 又遣新州刺史高表仁節往撫之。表仁無綏遠之才。与王子礼。不朝命而還。
貞観五年〔631〕。〔倭〕使を遣はし方物を献ず。太宗其の道の遠きことを矜(あはれ)み、所司に歳貢(さいこう)の令無(なさしめ)と敕(ちよく)す。 又、新州刺史高表仁を遣はし節(しるし)を持たしめ往(ゆ)き撫(ぶ)さしむ。表仁に綏遠(すいえん)の才無く、王子と礼を争ふ。朝命を不宣(せんせず)して還る。
貞観五年…辛卯。舒明三年。太宗…李世民(唐第二代皇帝)。…=憐。歳貢…毎年の朝貢。持節…節〔正式な使者の印〕を持つ。綏遠…遠くの地方をしずめおさめる。…天子の意向を知らせる。
『新唐書』〔1060〕
列伝一百四十五 東夷
太宗貞観五年。遣使者朝。帝矜其遠。詔有司毋レ上歳貢。 遣新州刺史高仁表往諭。与王争礼不平,不天子命而還。
太宗貞観五年。使者を遣はし入朝す。帝其の遠きことを矜み、有司に歳貢に拘(とらは)るること毋(な)かれと詔す。 新州刺史高仁表を遣はし、往(ゆ)かしめ諭(さと)さしむ。王と礼を争ひて不平(たひらかならず)、天子の命を宣することを不肯(がえんじず)して還る。
 書記によれば〈舒明二年〉に三田鍬恵日を遣わし、その年は貞観四年にあたる〔630年。庚寅〕。 八月に出発したというから、長安に到着して「朝貢の儀式が行われたのが貞観五年」ということであろう。
 太宗は、遠方からの朝貢は大変だから、毎年でなくてもよいと勅した。そして、高仁表を倭に遣わした。 書記では仁表は帰国する三田鍬と恵日と一緒に、〈舒明四年〉〔貞観六年〕八月に対馬、十月に難波津に到着したと書かれている。
 こうして到着した仁表は、倭国王(または王子)と「」と書かれている。 『旧唐書』は、この高仁表について「綏遠之才」と、酷評している。 「儀礼の流儀は国ごとに異なって当然なのに、頑なに中国流に拘り柔軟に対応できないのでは、遠くの国を治めるセンスを欠く」という意味であろう。 『新唐書』はそれほどあからさまではないが、「不平」という言葉を使うから、やはり大人げない態度だと見ているようである。
 「朝命」、「天子命」は、 裴世清のときのような、宮殿の南庭で勅書を読み上げる儀式が行われなかったということであろう。勅書の中身は、恐らく有司が宿所に聞きにいくなどして伝わっていたに違いない。
《霊雲》
 霊雲僧雲の名はここが初出。渡った時期については〈推古朝〉十六年の遣隋使同行者にはこの名前はないから、十五年の遣隋使に同行した可能性はある。 『隋書』〈大業三年〔推古十五年〕に「兼沙門数十人来学仏法」とある。
《僧旻》
 僧旻は、〈孝徳天皇〉のとき、十師の一人として「教導衆僧修行釈教」を担い活躍する。 「沙門旻法師」とも書かれ、この場合は「旻」一文字が名前であるが、「僧旻」で名前扱いの文も多く、どちらもあったようである。 二文字で名前扱いの場合は「ホフシ-ミム」は不自然なので、「ソウ-ミム」であろう。
 は漢音ビン、呉音ミンである。
《勝馬飼》
 使者に学問僧が同行したのは通常のことであるが、その他に一見無関係な人が合流している。 このときの渡航は官船ではなく、対馬の海運業者に依頼していて、たまたま同乗したのかも知れない。 しかしやはり官船で、回賜の品に馬が含まれていて、その世話するための馬飼ということも考えられないではない。
 「」の訓みについては、〈姓氏録〉〖摂津国/諸蕃/百済/勝〗があり、百済系氏族に「村主すぐり」もあるので、 「スグリ」と訓む「」もあったらしい。 〈姓氏家系大辞典〉は「勝 スグリ スグロ カチ カツ マサ」と載せる。 岩波文庫版はスグリとし、注釈で「よみはカチ・カツ・スグリ・マサなど諸説がある」という。 但し古訓は〈釈紀〉、『仮名日本紀』まで含めて、すべてカチである。
 その勝氏のある一族が馬飼部の伴造とものみやつこ〔管轄する役職〕になったとも考えられるが、想像の域を出ない。
《新羅送使》
 「新羅送使」は新羅が倭に送った使としか読めないが、倭に入国した後の記述は何もない。
 〈推古三十一年〉の紛争では、実際にどの程度の戦闘があったかは分からないと考えたが、それ以来倭・羅関は気まずくなっていたのは確かであろう。 唐はその調停のために一肌脱ごうとして、新羅使を呼び寄せて同行させた可能性はある。そういうことなら、前項の業者船同乗説は否定される。
 次に新羅使が遣わされた記録は、〈舒明十年〉である。
《江口》
…江口の候補地 地理院地図を加工
 使者を難波津に迎えるときには、歓迎儀式の常として「江口」に多数の飾り船を並べる (推古十六年)。
 江口は、〈仁徳段〉(第163回)に出てくる「難波之堀江」の大阪湾への開口部ではないかと考えた。 一般に、難波の堀江は現在の大川と言われているが、大川はもともと自然河川であったように思える。 むしろ、難波宮跡の北のところで、平野川大川を結ぶ運河ではないかと考えた (【難波の堀江】)。
 難波の堀江と江口の場所については、〈継体六年〉でも考察した(【難波館】)。
 ひとまず、現在の大川は〈推古〉・〈舒明〉の頃はまだ大阪湾の入り江で、右図から東向きと南向きに掘られた水路が難波の堀江だとしておく。 三十二隻の船が並ぶのだから、湾口でなければならない。 また「及鼓・吹・旗幟皆具整飾」という書き方から見て、鼓笛隊が並んだ場所は飾り船を並べた海に面していたであろう。 その場所は、難波津の構内とするのが自然であろう。この点からも、江口とした方がよい。
 なお、大隅神社・味原牧にも「江口」があるが、ここでいう江口とは別であるのは明らかである(〈安閑二年〉)。
《天子所命》
 天子中国皇帝と同義であるから、古訓「モロコシ〔唐〕ノミカド〔皇帝〕」はそれなりに文脈に合っている。 ただ、ミカドとは天皇を指す語なので、これを中国皇帝に適用するのは言葉のあやとして用いたものである。 その点、〈釈紀〉は筋を通して「モロコシノキミ」と訓んでいる。
 この用語法について敢えて正面から検討すると、中国の感覚による世界秩序によれば、中国皇帝が世界の支配者で、周辺国はすべて皇帝に仕える諸侯の国である。 中国の統治者の呼称に天皇と同じレベルのミカドを用いれば、中国が宗主国であることを自ら認めてしまうことになる。
 奈良時代は本気で唐による侵攻を警戒し、西日本に防御の城を設けて防人を配置したが、 平安時代になると警戒感が薄まり、皇帝の呼称にも無頓着となって安易にミカドを使ってしまったのではないだろうか。
 鎌倉時代には、武家政権ということもあり国の防御に再び敏感になり、それが〈釈紀〉による訓読:ミカド⇒キミに反映したように感じられる。
 これを書記の原文執筆の時点まで遡ると、唐がこの箇所を目にしても差し支えないように、外交文書の引用には細心の注意を払ったようである (推古十六年八月《倭皇》など)。 だから倭から大唐に「朝貢」した部分も文書中の語句であるから、心ならずもそのままにしたと見られる。
 ところが、平安時代の訓読「モロコシノミカド」は、むしろ迎合に輪をかける。これは書紀の執筆者の気持ちに反するであろう。
《伊岐史》
 〈姓氏家系大辞典〉は「伊伎(壹伎)史 前項諸氏〔伊吉島造、壹岐県主など〕とは全く流を異にし、帰化の大姓なり。 舒明紀に壹伎〔ママ〕史乙等、孝徳紀に伊岐史麻呂など見ゆ。」と述べる。 〈天武十二年十月〉に「壹伎史…賜姓曰」とあり、むらじ姓を賜わる。 〈新撰姓氏録〉には〖右京/諸蕃/漢/伊吉連/出自長安人劉家楊雍也〗とある。
 〈続日本後紀〉承和二年〔835〕九月に「河内国人左近衛将監伊吉史豊宗。及其同族惣十二人。賜姓滋生宿祢。唐人楊雍七世孫。貴仁之苗裔也。」 とあり、〈姓氏家系大辞典〉はこの「伊吉史」については「伊伎史と同族にして河内国を本貫〔一族のうち、河内国に移ったもの〕とする。
 なお、劉楊雍なる人物のことについては、今のところ見出だせていない。
 言うまでもなく壱岐島は半島との交通の経由地で、この地には多くの帰化民が住み、その族のひとつがふひととして重用されていたことは、想像に難くない。 また、その一部は難波に移り通訳などに従事したのだろう。
《大意》
 三年二月十日、 掖玖(やく)の人が帰化しました。
 三月一日、 百済王義慈(ぎじ)は、 王子豊章を入れて人質にしました。
 九月十九日、 摂津国の有間〔有馬〕の温泉に行幸しました。
 十二月十三日、 天皇(すめらみこと)は温泉から帰られました。
 四年八月、 唐は高表仁(こうひょうじん)を遣わして三田耜(みたすき)を送らせ、 共に対馬に泊まりました。
 この時、 学問僧霊雲(りょうあん)と 僧旻(そうみん)、 及び勝鳥養(かちのとりかい) 新羅の送った使者が高表仁と行動を共にしました。
 十月四日、 唐の使者高表仁(こうひょうじん)らは難波津に停泊しました。
 そこで、大伴連(おおともむらじ)馬養(うまかい)を派遣して江口に迎えさせ、 船三十二艘(そう)及び鼓、笛、旗幟(きし)を皆つぶさに整え飾りました。
 そして高表仁等に 「天子の命による使者が天皇(すめらみこと)の朝廷に到着したと聞き、 お迎えに参りました。」と告げ、 高表仁はそれに答えて、 「寒風の候、船を装飾してお迎えいただき、 喜ばしく、恐縮いたします。」と言いました。
 こうして、 難波吉士(なにわのきし)小槻(おつき)、 大河内直(おおしかうちのあたい)矢伏(やふし)に命じて 案内人として、 館(むろつみ)の門前に到着しました。
 そして、 伊岐史(いきのふひと)乙等(おつと)、 難波吉士(なにわのきし)八牛(やつし)を遣わして、 客を誘導して館(むろつみ)に入場しました。
 同じ日に、 神酒(みき)を提供しました。


まとめ
 試しに、高表仁一行に対馬で新羅の使が合流したのは、唐が呼んだからだと考えてみる。 それが、倭と新羅との間の関係修復を図るためだとすれば、唐は両国の上位に君臨する調整者として振舞おうとしたのである。
 ここで遣隋使についての書記と隋書の記述の比較を思い起こすと、倭と隋との狙いには明確なすれ違いがあった。 すなわち、倭側は隋から進んだ仏教を得ることを目的としたが、隋側は倭を冊封体制に組み込むことが目的であった。
 唐は、この時期太宗による発展期で血気盛んであるから、周辺国への支配体制を明確化したいという意欲は隋以上であろう。 高表仁の持参した国書は、「詔除倭王」〔「除」=任命。は舒明天皇の中国名。「倭の五王」参照〕のような高圧的なものであったに違いない。
 しかし倭の側には、自国が唐に冊封された国だという意識は全くない。江口に飾り船に並べ難波津に鼓笛隊を置いて大歓迎したのも、自立した国としての実力を示すためである。 したがって、冊封国としての存在を認めるという皇帝の勅書は、決して受け入れられない。勅書を受領する南庭の儀式を行わなかったのは、むしろ倭の意思であろう。 また、「新羅送使」の入国後の行動が何も書かれないのは、実際に唐が狙った会談等は皆無だったのだろう。
 それが『旧唐書』に「王子〔王〕礼。不朝命」と書かれたことの真相だと考えられる。 唐書はこれを高表仁の資質の問題に矮小化するが、実際には唐の外交政策自体が原因であった。



[23-6]  舒明天皇3