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2022.04.20(tue) [23-3] 舒明天皇3 ▼▲ |
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8目次 【即位前(八)】 《泊瀬仲王曰我等父子並自蘇我出之》
「我等父子並自二蘇我一出之」については、 上宮皇子は、父が用明天皇〔―(母)堅塩媛―(祖父)蘇我稲目〕、母が穴穂部間人皇女〔―(母)小姉君―(祖父)蘇我稲目〕で、 父母ともに蘇我稲目の孫である(右図)。 《泊瀬仲王への古訓》 王への古訓はオホキミが多いが、泊瀬仲王には「ミコ」が使われている。 皇子、王への呼称については、〈即位前4〉段の《三国王》、 〈即位前6〉段の《栗下女王》で見た。まとめると、
そして泊瀬仲王は、ハツセノナカノオホキミのはずで、ミコと訓むのは③の例外である。父の聖徳太子を高め、その貴種と見る感覚があったのだろう。 しかし書紀は山背大兄王から"王"を外すなどして、上宮家の家系を極力見せなくしたらしいことは、縷々述べているところである。 古訓は、逆に平安時代の太子崇拝の高まりの結果かも知れない。 《仲王》 辞書ではナカツコを第二子とする。正確には長子と末子を除いた子の意味ではないかと思われる。 令以前は王〔親王以外の天皇の親族〕もミコであったから、「仲王」は「ナカツミコ」と訓まれたのではないだろうか。 なお、漢字の「仲」は第二子である。兄弟を上から順に伯・仲・叔・季という。 《別喚二中臣連河辺臣一》 その泊瀬仲王がここで登場する。山背大兄王による継位を目指し、上宮王家全体で動いていたのである。 泊瀬仲王に呼び出しされた中臣連弥気は田村皇子推しを明言し、川辺臣は態度不明であった。泊瀬仲王は二人に継位について輒(たやす)く発言しないようにと要請する。 その理屈は、上宮王家はもともと蘇我氏族の一員だから、蘇我蝦夷大臣は上宮王家の者を推すのが本来当然なはずだというものである。 そこで三国王と桜井臣を群臣に付き添わせ、大臣のところに行かせた。 おそらく「以前、田村皇子を推すと言ったが、撤回して大臣に判断をお任せする」と言わせたものと考えられる。 大臣は、紀臣と大伴連を、三国王・桜井臣のところに遣わして「大臣は二人の王のどちらも推さない」と伝えさせた。 紀臣は山背大兄王を推し大伴連は田村皇子を推していたから、使者の人選は中立的である。 《令三国王桜井臣》 「令三国王桜井臣…」の区切りは、「令二三国王桜井臣一/副二群卿一/而/遣之/曰」である。 副はここでは使役文令+О+V〔ОをしてVせしむ〕のVにあたるから、自動詞でないと理屈に合わない。漢字の「副」は自動詞・他動詞の両方に使われるから、これ自体は問題ない。 曰はイフであるが実際的には引用文を引き出す符号として使われ、通常は言・告・謂・噵などが伴う。何となく和習と感じられるのは、これが省略されたためだろうか。「遣之謂曰」にしてみると、確かに漢文らしくなる。 訓読は、漢文訓読体では「三国王桜井臣をして群卿に副(そ)はしめ」だが、「三国王桜井臣に令(おほ)せて群卿に副(そ)へ」と訓んでも問題はないだろう。 古訓も基本的にこれだが、さらに省略された「言ふ」を補って令を「コトオホセ」(言仰せ)と訓読している。 《還言》 「かへりこと」は〈時代別上代〉には「天皇は朝廷などに対する報告・返事」とある。 ただ文例は「かへりことまをす」のみだから、これはマヲスを付けた場合で、カヘリコト自体は尊敬語ではないと考えられる。 《敢之軽誰王也》 「敢之軽誰王也重誰王也」には疑問詞誰があるから、疑問文である。ここでは反語で、「敢えてどちらかの王を軽んじ、どちらかの王を重んずるか?いやどちらもしない。」という。 群臣皆の意思で、自分は何も言っていないという。しかし、真偽も疑わしい遺詔を掲げて方向づけしたのが大臣であるのは明白で、白ばっくれているに過ぎない。 《寧違叔父》 山背大兄王の言葉は「叔父違」ではなく「違二叔父一」である。 つまり、「叔父が田村皇子に継位させることは間違っています」とは言わずに、「田村皇子継位の方向に動いていますが、これは叔父の本心とは違いますよね」と言うのである。 山背大兄王の粘り腰はしぶとい。 この段の「我等父子並自二蘇我一出之」の言葉を見れば、大臣を「叔父」と呼ぶのは「同族の私を推すのが当然ですよね」という気持ちを表現するものであることが分かる。 《大意》 既に泊瀬仲王(はつせのなかつみこ)は、 これとは別に中臣連(なかとみのむらじ)と河辺臣(かはべのおみ)を召喚し、 「我ら父子は揃って蘇我の出身であることは、 天下に知られている。 これにより、高い山の如くに頼りにする。 願わくば、継位のことを安易に言わないように。」と仰りました。 そして、三国王(みくにのみこ) 桜井臣(さくらいのおみ)に命じて、 群臣〔中臣連と河辺臣〕に付き添わせて〔大臣のもとに〕遣わし、 「返事をいただきたい」と要請させました。 その時、大臣(おおまえつきみ)は、 紀臣(きのおみ)と大伴連(おほとものむらじ)を 三国王(みくにのみこ)と桜井臣(さくらゐのおみ)のところに遣わして、 「先日言い終えて、 更に異とすることはありません。 しかし、わたしが敢えて どちらかの王(みこ)を軽んじて、どちらかの王を重んじましょうか。〔それはいたしません〕」と言いました。 そして数日後、 山背大兄は、 再度桜井臣を遣わして大臣に告げるに、 「先日の事は、すでに聞いたことを陳述されただけです。 寧ろ、叔父の心と違うのでは。」と告げられました。 9目次 【即位前(九)】 《大臣啓山背大兄言自磯城嶋宮御宇天皇之世》
「病動」という文字の組み合わせは、書紀ではこの一例のみ。 辞書類にも見えない。〈中国哲学書電子化計画〉で検索しても、熟語としての用例は見つからない。
ことによると、動とは「何らかの動きをした」ということであり、病気を装って何かしたことを暗示するのかも知れない。 実際、ここは病を装って一日待たせた間に、じっくりと策を練ったと多くの人が読むだろう。想像をたくましくすれば、草稿段階の「詐病而動」が書きすぎたということで「病動」になったか。 動は幅広く行動を表すので、案外「病にうごき」と訓むのかも知れない。あるいは、古訓「つくる」があるので、「病をつくり」も可能か。 《喚桜井臣即遣阿倍臣》 「喚桜井臣」と「即遣阿倍臣」の間に、「而聴其山背大兄之告」が省略されている。 《遣阿倍臣中臣連河辺臣小墾田臣大伴連》 これまでの群臣の動きを、右表にまとめた。 阿倍臣、中臣連、大伴連はここでは名前が省略されているが、最初に名前付きででてきた人と同一人物と見られる。 河辺臣は、相変わらず名前が示されない。 小墾田臣は初出であるが、「闕名」とさえ書かれていない。 ★印は武内宿祢―蘇我石河宿祢を始祖とする。☆印も武内宿祢系で、紀臣は木角宿祢、許勢臣は許勢小柄宿祢を祖とする (第108回)。 臣のうち、阿部臣、中臣連、大伴連が特に積極的に動いたことがわかる。阿倍臣は大臣の秘書役である。 中臣連の祖の天児屋命は、天岩戸に閉じこもった天照大神を引っ張り出すための祭事で祝詞を担当した(第49回)。 大伴連は、祖の天忍日命が邇邇芸命の天降りを迎え(第84回)、 道臣命は神武天皇の大和地域制圧を助けて大活躍した(第97回)。 太子と〈推古帝〉の存命中に急激に推し進められた仏教の国教化において、神道系の両氏が居場所をなくしていたのは想像に難くない。 今、彼らが上宮王家による権力継承に反発して、田村皇子を推すのは当然の成り行きである。 それに対して、武内宿祢系は山背大兄王待望派が主流ではあるが、必ずしも一枚岩ではない。 このような情勢下で、仮に蘇我蝦夷大臣が山背大兄王を望んでいたとしても、貫くのは難しそうである。 《小墾田臣》 小墾田臣については、後に〈天武紀〉十三年十一月「…小墾田臣…凡五十二氏賜姓曰朝臣」と載る。 〈天武紀〉十年に小墾田臣麻呂の名があり、副使として高麗に遣わされる。 〈天武即位前〉では壬申の乱のとき、「小墾田猪手」たちが加勢に馳せ参じて天武天皇が大喜びする。「臣」が脱字か。 祖先は、〈孝元段〉(第108回)に「建内宿祢(武内宿祢)―蘇我石河宿祢:小治田臣の祖」。
〈延喜式-神名帳〉{大和国/高市郡/治田神社【鍬靫】}〔比定社;奈良県高市郡明日香村大字岡字治田964〕があり、 『五畿内志』大和国高市郡【神廟】には「治田神社 在二岡村一今称二八幡一」とある。 このように、岡村にあった八幡が治田神社に比定されているが、実際はどうであろうか。 「治田」氏族はここには見えず、むしろ墨書土器が出土したように「小治田」には存在感があるので、 〈神名帳〉は早期に「小」が脱落したと思える。真の「小治田神社」は、小治田宮近くにあったのではないだろうか(資料[57])。 《乏人》 「乏人」は、形容詞「乏」が動詞化して目的語「人」をとったものらしく、「人材不足」の意と読める。 類例を、〈中国哲学書電子化計画〉で探したところ、 『漢書』司馬遷伝に「如今朝雖乏人,柰何令刀鋸之餘薦天下豪雋哉」が見つかった 〔刀鋸之余…刑罰を受けた後、細々と余生を送る者〕。 意訳すると「今、いくら朝廷に人が乏しいからといって、どうして"刀鋸の余"に天下の豪俊を推薦させるのか」となる。 《既而問境部臣》 「既(すでに)」は、ことが現実に行われたことを示す。 ここでは、山背大兄王に謙虚な返事を送る前に、既に密かに行動を開始していたと読んでよいだろう。 やはり、前日の「病」は怪しい。 《問境部臣》 境部臣が答えた言葉の中には「啓」「僕」があり、大臣に対して尊敬表現が用いられている。 〈内閣文庫本〉が「問」を「問タ〔マフ〕」と訓読するのは、それに合わせたものである。 ここでは、大臣と群臣の間の上下関係を表現したものである。 《今何更亦伝以告耶》 境部臣が山背大兄王を推していることは既に分かっている。もう一度聞きにきたのは、その意思を変えよと圧力をかけにきたのである。 そんなことをすれば激しく抵抗する性格であることを大臣は分かっていて、それが利用された。 病気と称して面会を一日延期している間に、こんな策略を講じていたのである。 《嶋大臣墓》 一般的に、蘇我馬子は石舞台古墳の被葬者だと言われている。 ここで、蘇我氏が皆集まって造営を開始したというから、 少なくとも書紀の時代にそのストーリーを描かれ得るような大きな墓が、馬子のものとされていたわけである。 〈推古三十四年〉には「仍葬二于桃原墓一」と書かれている。 そこでは石舞台古墳の向きが真北でないのは、馬子の邸宅の庭の借景として築かれたからであり、生前に築いたものと推定した。 しかし、ここでは「為二嶋大臣一造レ墓」と書かれている。 葬礼にあたり桃原墓のところに諸族が挙って集まり、住居を仮設して一定期間生活したこと自体は常識的にあり得ることである。 「次二于墓所一」〔墓所に次る〕、「墓所之廬」〔廬;仮設した家〕という言葉は、 その様子を表したものと言えよう。 ただ、「墓を造った」部分は潤色かも知れない。 実際に墓を造営するのは専門の技術集団であって、諸族が丸ごと滞在していても何の役にも立たないからである。 天皇陵造営に要する期間については、大仙陵古墳は反正天皇陵で、造営に最大10年を要したと見た(第183回)。石舞台古墳の規模の場合、一年以上はかかるのではないかと思われる。 蘇我氏の諸族のトップが丸ごと、これだけの長期間滞在し続けることが、果たして可能だろうか。 むしろ、殯を終え、副葬品とともに玄室に納め、誄を奉って云々という一連の行事を、一定の日数をかけて行ったということではないだろうか。 以上を整理すると、次の二つの可能性がある。 ① それでも書紀に書いてある通り、馬子が薨じた後に造営が開始された。 ② 実際には墓は概ね完成しており、蘇我の諸族が挙って集まったのは葬礼〔一定の日数をかけたのだろう〕のためである。 実際には決定的な判断材料はなく、どちらとも決め難い。 《蘇我氏諸族等》 氏をウヂと訓むことを疑う余地はないが、ここで古訓が明示されていることは押さえておきたい。 「諸族等」は複数の族の表現であるから、古訓ではヤカラドモと訓まれている。 ただ、大族の蘇我氏は多数の支族から構成され、それらが馬子の大墓を造るという一大行事に揃ったという意味を込めたのが「諸」の字であるから、 敢えて「モロモロノ」と訓読した方がよいと思われる。 ここで 《起行》 古訓は、「起行」の行にイヌ(去ぬ)を宛てる。ユクは、行き先のある移動を表し、イヌはその場から姿を消すことに焦点を当てている。 漢語の「行」の意味は移動だから、古訓のイヌは意訳となる。 タチ-イヌは母音が連続するところが気になるが、〈時代別上代〉にはタチ-アフ、タチ-イザヨフが存在する。これらには声門破裂音〔IPA記号[ʔ]〕が挟まれていたのかも知れない。 《田家》
屯倉(みやけ)は公的な性格のものではあるが、形態は同じようなものであろうと思われる。 蘇我氏の田家は、島庄意外に石川廃寺から豊浦までの一帯が想定される (〈敏達十四年〉《大野丘北》、第250回《大野丘》)。 石舞台古墳周辺の廬に集まっていた蘇我諸族から離れて、摩理勢臣が引き籠ったとすれば、その地は豊浦方面であろう。 《大意》 この日、 大臣(おおまえつきみ)は病となり〔実は病を装う動きを見せ〕、 桜井臣に対面して言うことができず、 翌日、 大臣は桜井の臣を喚び、山背大兄王の告げたことをお聞きしました。 そこで阿倍の臣、 中臣の連(むらじ)、 河辺の臣、 小墾田(おはりた)の臣、 大伴の連を遣わし、 山背大兄王に申し上げるに、 ――「磯城嶋宮(しきしまのみや)の天皇(すめらみこと)〔欽明天皇〕の御世から 最近までは、 群卿皆が賢哲の人でありました。 ところが、現在では私は賢明ではなく、 それがたまたま人材の乏しい時に当たり、 誤って群臣の上に立っているだけです。 これにより、大本を定めることはできないでしょう。 けれども、これは重いことであって、言葉を間接的に伝えさせることはできません。 よって、老臣たちにはご苦労をかけましたが、私が対面して申し上げます。 ただ、これだけは申し上げますが、遺勅に誤りはありません。 私の個人的な考えは入っておりません。」と啓上させました。 既に大臣は、 阿倍の臣、中臣の連に伝え、 境部(さかいべ)の臣を遣わして、再び 「どちらを王を天皇とするか」と問わせていました。 境部臣はこれを聞き、 「以前、大臣自らが問われた日に、 私が申し上げることは既に済んでいる。 今また、どうして更に告げられるのか。」と答えました。 そしてはなはだ怒り、そのまま立ち去りました。 ちょうどこの時、 蘇我の氏(うじ)の諸族たちは悉く集まり、 嶋大臣〔蘇我馬子〕のために墓を造営し、墓所で宿泊していました。 そして、摩理勢の臣は墓所に作られた宿泊小屋を打ち壊し、 蘇我の別業(なりどころ)に引きこもり、出仕しませんでした。 まとめ 大臣は、田村皇子寄りのような遺詔を紹介した上で自分は遺詔に従うというから、田村皇子推しだろうと周囲は受け止めた。 だが、自分の真意は直接山背大兄王に言うつもりと述べ、決定的なことは言わない。 その裏で、摩理勢臣の暴発が暴発する仕掛けを作る。 一方、山背大兄王が大臣をしきりに「叔父」と呼び、同族のよしみで自分を推して当然だと訴えている。 それが分かるのは、上宮王家は蘇我家と親戚ですよという泊瀬仲王の言葉があるからである。 しかし、中臣氏や大伴氏が山背大兄王は推したくないという強い気持ちを、大臣はひしひしと感じ取っているのである。 ここで見なければならないのは、中臣氏は〈延喜式〉で祝詞を担う氏族だということである。 大伴氏は、神武天皇のときから朝廷に忠実に仕えてきた。つまり、中臣氏と大伴氏は神道の伝統を背負う氏である。 もし、今後上宮王家が天皇の血筋となれば、仏教国家の道にまっしぐらとなる。神道系氏族は、それをとにかく押し戻したいのである。 蘇我蝦夷が腹黒く策を弄しているように見えるのはやむを得ないが、かと言って自分が上宮王家についてしまえば内乱が勃発する恐れがある。 何とか平穏にことが収まるように、心を砕いているという見方もできよう。 |
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2022.05.05(thu) [23-4] 舒明天皇4 ▼▲ |
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10目次 【即位前(十)】 《大臣誨曰吾知汝言之非》
勝牛を、現代の版本では「身狭君勝牛」とする。 しかし、〈北野本〉をなどの古写本を見ると基本的に「狭身 この氏族について、まず地名サムから調べると〈倭名類聚抄〉では{讃岐国・寒川【佐無加波】郡}のみである。 〈姓氏家系大辞典〉には「佐武 サム:紀伊の名族」があるが、そこに載る人物「佐武伊賀守」は永禄年間〔1558~1570〕の人で、飛鳥時代のことは全く分からない。 身は基本的にミなので、サミを見ると、〈倭名類聚抄〉{越後国・頚城郡・佐味【佐美】郷}、{上野国・緑野郡・佐味郷}などがあり、また葛城襲津彦が新羅から連れ帰った俘虜が葛上郡佐糜 〈姓氏家系大辞典〉は「佐味 サミ」の項に「狭身君:毛野氏の族にて舒明紀に狭身君勝牛と云ふ者見ゆ」、 「佐味君:狭身君の後なり。天武前紀に佐味君宿奈麻呂」と載せる。すなわち、氏族「佐味君」の古い表記が「狭身」であったと判断している。 よって、〈姓氏家系大辞典〉〔1936年刊行〕の時点ではまだ「狭身」が一般的だったようである。 『仮名日本紀』は「狭身 その後、『新編日本古典文学全集』〔小学館1998〕、岩波文庫〔1995〕では身狭になっている。 岩波文庫版の校異によれば、「身狭」としたのは天理図書館蔵卜部兼右〔1516~1573〕本の傍書に拠ったという。 結局、「身狭」が一般化したのは戦後になってからである。 《身狭君説》 それでは、その「身狭君」説を検証してみよう。 身狭 『五畿内志』高市郡には、「牟佐坐神社:…在三瀬村。今称境原天神。天武紀所謂生雷神即此」と書かれる。 「天武紀所謂」とは、壬申の乱のとき〈天武紀-元年七月〉、高市県主の許梅に神が着き「身狭社所居。名生霊神者也」と名乗った記事と見られる。 『和州五郡神社神名帳大略注解』(資料[58])が牟佐坐神社の所在地とする「牟佐村」については、『五畿内志』高市郡-村里の「三瀬」が牟佐の訛りである可能性が高い。 また〈雄略二年〉では、「身狭村主青」が雄略天皇に仕え、 〈同十四年〉には呉国使として遣わされる。 ここまで見れば、現牟佐坐神社の地域に地名ムサが存在したことには、疑う余地がない。 それでは牟佐(身狭)村出身の氏族の記録については、どうなっているのだろうか。 〈姓氏家系大辞典〉は、身狭村主は牟佐村主と同一として、「坂上系図には、阿智使主 《錦織首赤猪》 〈姓氏家系大辞典〉は、「錦部首 物部氏の族也。蓋し山城錦部の伴造家〔上から統括する氏族〕」で、 〈倭名類聚抄〉{山城国・愛宕郡・錦部【爾之古利】郷}の「稲置なるべし。当国の計帳に「錦部首広羽売」など見え」と記す。 『新撰姓氏録』に〖錦部首/〔神饒速日命〕十二世孫物部目大連之後也〗とある(資料[37])が、「物部氏が此の部と関係するに至りし起源は詳かならず」という。 地名「錦部」は訓「爾之古利 『天孫本記』では「物部目大連公」は十一世孫の世代になっている(資料[39])。書記では物部目大連の登場は〈雄略十三年三月〉。『天孫本記』では清寧天皇の代になっている。 古訓は「ニシキオリ」とするが、上代から母音融合によってニシコリであった可能性がある。ただ、どの時代になっても漢字に忠実にニシキオリに改めたい人が時々出て来ることも自然であろう。 赤猪の名は、次に〈孝徳-大化五年〉〔649〕に「赤猪【更名秦】」があるが、阿倍内麻呂大臣の子で別人である。 《干支》 「干支之義」なる語は、全く意味不明である。辞書にはこのような熟語はなく、「中国哲学書電子化計画」で検索しても用例はない。 もともと干支とは十干十二支 原文はこのエトという音声を兄・弟の意味に戻して用いたのは確実で、一種の借訓である。 ところが、古訓はこれをさらに兄 この場合、干支の古訓は、上代の和訓「エト」を同義語に置き換えて作られたものである。 つまり、書紀古訓は決して漢文を本来の倭語に直そうとしたものではなく、平安時代に作り出されたある種の流儀であることを物語っている。 なお、「兄弟の義」とは言っても、蝦夷と摩理勢は兄弟関係にはなく、蝦夷の父馬子と摩理勢が兄弟であることによる。 この兄弟関係は〈推古二十年〉《境部臣摩理勢》並びに〈即位前2〉段で見た。 ただし、『公卿補任』が兄弟とする根拠は、実はこの「干支之義」なる記述かも知れない。 《唯他非汝是我必忤他従汝》
ところが、同じ返り点を第二文「若他是汝…」に適用すると、「若他是レ汝非レ我当乖レ汝従レ他」 〔若し他が汝を是、我を非となさば、我は当(まさ)に汝に乖 もともと第一文と第二文は、白文を見れば分かるように完全に対になっており、それぞれに異なった文法解析法を用いるのは論理的ではない。 もし第一文の文法解析を、第二文と同じように行えば、「唯、他が非であり汝が是であれば、必ず我は他に背き汝に従はむ」となる※)。 これは素直で分かりやすい読み方で、このことからも第一文に付された古訓が不適当なのは明らかである。 近代になるとさすがにこの古訓は是正され、『仮名日本紀』や現代の版本はまともな訓みになっている。 ※)…伝統的な訓読ルールでは、当は再読するが必は再読しないという違いがあるが、当・必のもともとの文法的な機能は同じである。 《是・非》 このように、第一文・第二文は「ただし他者が間違っていてお前が正しければ、私は必ず他者に反対してお前に付く。 もし他者が正しくお前が間違っているなら、私はお前に反対して他者に付かなければならない」意味であるから、 「是」は正当、「非」は不当を意味する。これらは真実性への客観的な評価の語である。 ところが、これを正確に上代語で表そうとすると苦労する。 古訓には「是」をヨミス、「非」をアシムスが見えるが、これらは主観的な好みについての言葉である。 ウベナフ(肯定)、イナブ(否定)もあり得るが、正確には賛成・反対の意思表示の語だから、客観的な真実性とは別のことである。 この文脈にもっとも適する上代語は、マサシ・アヤマツである。 動詞と形容詞の組み合わせを用いざるを得ないのは残念だが、意味を正しく表すことを優先したい。 〔本当はマサシも動詞化したいところだが、マサルにすると優秀さを表し、意味が変わってしまうから使えない。〕 《無退》 「無退」は、本当は「勿退」と書くべきところだが、その前に「勿憚」があるので重なりを避けて「無」〔本によっては「无」〕にしたと古訓者は受け止めたようである。 従って、古訓は「勿退」を想定した形になっている。 勿の訓読は、下に付ける「~ナカレ」、上に付ける「ナ~」が考えられるが、 古訓では「マナ」が使われている。 これについて〈時代別上代〉は、「禁止の表現をうけもつナは、動詞連用形に上接する場合〔※1〕も、述語動詞に下接するする場合〔※2〕も、 述語動詞に直接接しようとする傾向があり、漢文の「勿」や「莫」などは文頭におかれる定めなので、漢文訓読の際に、 独立の用法をもつマナを用いたのであろう。」と述べる。 翻訳すると、「「勿」にあたる禁止の助詞ナは直接動詞にくっつけるが、漢文の「勿」は文頭に置く語であって動詞からは離れてしまうので、 動詞と離れていても使える「マナ」にしたのだろう」という。 ※1の例…勿 《聖皇》 山背大兄王は群卿に向かって、「摩理勢は聖皇に可愛がってもらった場所を、懐かしんで訪れただけで他意はない」と言って庇った。 聖皇には「皇」の字があるから、天皇を指す。ところが推古天皇がいた小墾田宮ではなく斑鳩に行ったのだから、「聖皇」は上宮皇子を指すはずである。 上宮皇子の別名に「豊耳聡聖徳」があるように、聖は太子を形容するが、〈推古帝〉を"聖"で形容した例はない 〈用明元年〉。 書紀は一般に「皇」の字を注意深く扱うが、民間では聖徳太子を「聖皇」と呼んだこともあり得、それが不用意に書紀に持ち込まれたのかも知れない。 あるいは草稿段階の「聖王」を、完成段階で天皇と解釈して「聖皇」に代えた可能性もある。 〈推古十六年八月〉条では、隋帝の親書の「倭王」を「倭皇」に替えたと見られ、ここでも同じようなことがありそうである。 「皇」の次に「子」を補うと、一応は太子を指す形になる。 これに関して、『日本古典文学全集』〔小学館〕は「聖皇 《豈違叔父之情耶》 山背大兄王は「豈違叔父之情耶」〔あに叔父のこころを違へたるや〕と言って、本人には厳しく注意しつつ外に向けては庇う。 この上司と部下の関係を踏まえた対応は時代を越えて、よく理解できる。 《先王》 古訓は「王」をミカド〔天皇〕と訓む。 しかし、摩理勢に対して説得力をもつのは天皇の言葉よりも、太子の言葉とすることである。 この読み方をすれば、「王=上宮皇子」となる。 しかし、「先の」という語は代々の王が継承のイメージがあるから、その点から言えば天皇である。 一方「謂諸子等」というが、山背大兄王は推古天皇の子ではなく、上宮皇子の子である。 ここで、一文字補って「於先」とすれば、迷うことなく王を太子と訓むことできる。 どちらにしても、会話の中で対象を明示しないまま、亡くなった尊敬すべき人のことを指しているわけだから、 オホキミと訓んで、どちらとも決めずにおくのがよいのかも知れない。 こちらも小学館、岩波ともに「先王 《我不能違叔父》 「我不レ能レ違二叔父一」 〔我、叔父に違へることあたはず〕という言葉により、山背大兄王はあくまでも大臣に翻意させる道を考えていたことが分かる。 諸臣を二派に分かちてその一方の支持を拠り所するのは覇王となることであるが、大兄王はこの道を決して選ばない。これで山背大兄王への継位の目は、完全に潰えた。摩理勢臣の暴発は却って道を閉ざしたのである。 《大意》 すると、大臣(おおまえつきみ)は怒り、 身狭君(むさのきみ)勝牛(かつし)と 錦織首(にしこりのおびと)赤猪(あかい)を遣わして説得させました。 ――「私は、あなたの言葉の非を知ったが、 兄弟の義を、害ないたくない。 ただ他が非であなたが是だったなら、私は必ず他に逆らってあなたに従う。 しかし、もし他が是であなたが非ということなら、私はあなた逆らって他に従わなければならない。 これにより、お前が遂に従わないことがあれば、 私とあなたの両方に瑕(きず)がつく。 すなわち国はまた乱れ、 そうなれば後の世の人は、私たち二人が国を壊したと言うだろう。 これは、後世に悪名を残すことである。 あなたは行動を慎み、逆心を起こしてはならない。」 けれども、なお従わず、 遂に斑鳩(いかるが)に赴いて泊瀬王(はつせのみこ)の宮に引きこもりました。 これに、大臣はますます怒り、 すなわち群卿(まえつきみたち)を遣わして、山背大兄(やましろのおおえ)に請うて 「この頃、摩理勢は臣に逆らい、 泊瀬王の宮に隠れております。 願わくば摩理勢の身柄をお受けし、その理由を問い質したいと望みます。」と申し上げました。 これに大兄王(おほえのみこ)は答えて 「摩理勢は素より聖王によくしていただき、 〔懐かしんで〕暫く滞在するためにきただけです。 あに叔父の心に背くことがありましょうか。願わくば咎めませんように」と仰りました。 そして、摩理勢に告げられました。 ――「お前は、先の王の恩を忘れるな、 ずっと、とても愛おしんでおられた。 それなのに、なんとお前一人のために天下が乱れようとしている。 また、先王が亡くなるに臨んで、子らの皆に、 『諸(もろもろ)の悪行をしてはならない、諸の善行を奉れ』と仰った。 私はこのお言葉を承り、永く戒(いさ)めにしょうと考えてきた。 これにより、私情があっても忍び、怨むことはしなかった。 また、私は叔父に逆らうことはできない。 願わくば、今より以後、 改心することを憚らず、群卿に従い、退いてはならぬ。」 11目次 【即位前(十一)】 《大夫等誨摩理勢臣之曰不可違大兄王之命》
群臣・群卿・大夫等はすべて「マチキムタチ」と訓読される。 いずれも朝廷に伺候する諸臣を意味する。多様な表記を用いるのは、一種の修辞である。大夫については、〈顕宗二年〉で考察した。 十七条憲法は、結局このマチキムタチを対象として、その規律を定めたものであった。 マチキムタチが、まへつきみたち〔御前に伺候する君たち〕の転であることは明らかである。 《不可違大兄王之命》 山背大兄王の言葉を受け、大夫たちは摩理勢を訪れて「不レ可レ違二大兄王之命一」、すなわち大兄王の言うことに従うように促した。 摩理勢は山背大兄王への継位の実現を目指して奮闘したが、最後はその大兄王自身によって梯子を外されたのである。 《泊瀬王忽発病薨》 「泊瀬王忽発レ病薨」、すなわち摩理勢は泊瀬王という庇護者を失いいよいよ孤立に追い込まれた。 よって、泊瀬王については当然のことながら暗殺が疑われる。しかし、判断材料は何もない。 《来目物部伊区比》 〈姓氏家系大辞典〉には「久米物部 クメノモノノベ:職業部の一にして、大和来目の地にありし物部なり。天神本記天物部等廿五部人の一に見え」とある。 「大和久米」については、〈神武紀〉二年二月に「使三大来目居二于畝傍山以西川辺之地一。今号二久目邑一此其縁也。」 〔大来目をして畝傍山より西の川の辺の地に居らしむ。今久目邑と号(なづ)くるは此其の縁なり〕とあり、畝傍山の西が久米邑と呼ばれた。 現在の久米町の北西にあたり、久米郷の中心部と見られる(図)。 伊区比の名前が出て来るのは、ここだけである。
畝傍山は、大和三山のひとつで、神武天皇の宮と陵の地として記紀に載る。 神武天皇は、「畝傍山東南橿原地」に宮を置いた 〈神武己未年三月〉/《畝傍山東南》)。 陵は、記によれば「畝火山之北方白檮尾上」第101回、 書記によれば「傍山東北」にある (〈神武七十六年〉、第103回/【畝火山之美富登】 〈神武元年〉「於神日本磐余彦天皇之陵。奉二馬及種々兵器一。」とあり、 当時、神武天皇陵と言われた古墳があったようである。 現在では、橿原市四条古墳群の古墳、あるいは綏靖天皇陵が候補に挙げられている (橿原市/四条古墳群、 『天皇陵古墳』〔大巧社1996〕pp.337~340)。 《歌意》
○うすけど乙=薄しの已然形+接続助詞ド。逆説の確定条件。すなわち「薄いといえども」。 ○タノムには、憑(相手の力を頼る)、馮(よりかかる)、恃(なにかをあてにする)、頼(相手に責任を押し付ける)、 阻(盾にして自分を守る)などの意味がある。 〈釈紀-和歌〉は「憑」の字を宛てているが、意思のあるものにたよるイメージが強い。ここでは、姿を隠すために木立にたよる意で、意思のないモノにたよる場合は恃か。 ○タノミ甲は、タノム(四段)の連用形。 〈時代別上代〉は、この「タノミカモは、文脈から考えて、頼みに思ってであろう、の意で、やはりこのタノムの一例であろうが、 普通の動詞連用形がカモに直接することはない」と述べ、例外扱いしている。 カモは体言または連体形に接するものだから、「タノムカモ」になるはずだというのである。 ○ケムは過去推量。回想的な推量(~であっただろう)、過去の伝聞・婉曲(~であったという)など。連用形につく。 ○籠ら・せ・り・けむ=籠る(四段)の未然形+軽い尊敬スの命令形+完了リの連用形+過去推量ケムの終止形。すなわち、「籠られたようです」。 〈釈紀-和歌〉は 「凡歌意者。彼山樹木薄兮顕也。毛津憑レ之。無レ処二于隠一レ身之由也。」 〔凡その歌意は、かの山樹木薄く顕(あらは)なり。毛津これに憑(たよ)る。身を隠すに処無き由なり。;兮は、形容詞への接尾語〕と説明する。 すなわち、山に隠れようとしても木立が薄く、頼みになりそうにない。つまり隠れる場所がないという。 《大意》 この時、群卿らは、 また摩理勢の臣を説得して、 「大兄王の命令に逆らってはならない」と言いました。 こうして、摩理勢の臣は、行くところもなく、 号泣してまた帰り、〔泊瀬王の〕家に滞在すること十日あまり、 泊瀬王(はつせのみこ)は突然発病して薨じました。 そして、摩理勢の臣は、 「私は生きているのに、誰を頼ったらよいのか」と言いました。 大臣(おおまえつきみ)〔蝦夷〕は、境部(さかいべ)の臣を殺そうとして、 兵を興して遣わしました。 境部の臣は軍がやってきたと聞き、 第二子の阿椰(あや)を率いて、 門に出て胡床(あぐら)に座って待ちました。 そして軍が到着して、 来目(くめ)の物部(もののべ)の伊区比(いぐい)に命じて絞首に処しました。 父子は共に死に、 同じところに埋められました。 ただ一人、兄の毛津(けつ)は、 尼寺の瓦屋に逃げ隠れ、 そして、一人二人と尼を姦しました。 すると、一人の尼が嫉妬してことを明るみに出しました。 追手は寺を囲んで捕えようとしましたが、逃げ出して畝傍山に入りました。 そして山を探索され、毛津は逃げ入る所がなく、 頸を刺して山中で死にました。 時の人は、歌を詠みました。 ――畝傍山 木立薄けど 恃(たの)みかも 毛津(けつ)の稚子(わくご)の 籠らせりけむ まとめ 蝦夷大臣は山背大兄王支持派に手を焼いていたが、一計を案じて摩理瀬を挑発するという策を考え出し、最終的に山背大兄王を抑え込むことに成功した。 大臣の行動はとても腹黒い印象を与えるが、その老獪さの奥底に、戦乱に発展することだけは避けたいという確固たる思いがあったことも窺える。 それは今回の場面の、「吾二人破国也。是後葉之悪名焉」なる言葉に現れている。 さて、今回、誤りかと思われる古訓がいくつか見られた。 明らかに不適切なものは、これまでの歴史で改められてきているが、未だ検討を要する箇所もある。 中でも問題なのは、「聖皇」である。いろいろ検討したが、結局は一般の人々の間に上宮皇子(聖徳太子)は天皇だと信じたい思いが根強く、伝説を組み込んだときに一緒に書紀に紛れ込んだとも思える。 もともと書紀には上宮皇子起点の家系が書かれない〔推古紀のところで、意図的に割愛したと見た(推古10《壬生部》)〕ので、書紀だけでは物語は完結しない。 むしろそこに、民間で称えられた「聖皇」が紛れ込む隙があったと思われる。 書紀古訓においても、この際太子を天皇のイメージで読みたいと考えてその意識で訓を振った者がいなかったとも限らない。何しろ古訓が研究された時代は、太子信仰の盛り上がりの真っただ中であった。 さて、現代の版本において「狭牟君」を「牟狭君」としたことは、不用意な修正だと考えざるを得ない。 奈良時代に「牟佐村主」が存在したことが確認できるのに対し、姓「君」をもつ「牟佐(身狭)君」はなかなか見つからないからである。 この問題に取り組む過程で、『五郡神社記』の精読にまで及んだ(資料[58])が、とても興味深いものであった。 |
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2022.05.14(sat) [23-5] 舒明天皇5 ▼▲ |
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12目次 【元年】 《以天皇之璽印獻於田村皇子》
大臣と群臣が田村皇子に即位を促す意志の表現として璽印 それもあるが、しかし群臣が合議で次期天皇を指名すること自体が、そもそもが越権行為である。 その後ろめたさを隠すためには誰が見ても相応しい人物に、お願いして引き受けていただく必要があった。 あくまで客観的にその人がもつ資質によって選ばれるべきであるから、そこに本人の野望が入ってはいけない。それを強調するために、いったん遠慮する形をとるのである。 舒明天皇の場合もこの定型通りではあるが、これまでの例と比べると形式的である。 これは、もう一人の候補である山背大兄王にも、相当の正統性があるかに描かれていたことに関係があろう。 つまり、田村皇子があまり強く辞退すると、せっかく打ち消した山背大兄王即位待望論がまたぞろ蘇ってきてしまう。 その辺りが痛しかゆしで、結果的に「辞意⇒再度の要請⇒受諾」を、形ばかりのものに留めたようである。 《掖玖》 掖玖〔屋久島〕の人の帰化は〈推古〉二十四年にあり、同二十八年には伊豆島に漂着した記事がある。 〈舒明〉三年二月にも、その人数は書かれないが帰化した人がいる。 その原因として掖玖国の内乱による亡命を想像したが、田部連が遣わされたのはその混乱の収拾のためかも知れない。 田部連が帰朝したのは派遣から1年5か月後の、二年九月である。「闕 《大意》 元年正月四日、 大臣(おおまえつきみ)及び群卿(まえつきみたち)は、 共に天皇(すめらみこと)の璽印(じいん)を 田村皇子(たむらみこ)に献じました。 すると辞退され、 「宗廟(そうびょう)〔=国家〕は重き事である。 寡人(かじん)〔=「私」の遜称〕は賢明ではなく、どうして当たることができようか」と仰りました。 群卿は伏して固くお願いして 「大王(おおきみ)は、 先の帝〔推古天皇〕が恩恵を一身に注がれ、陰に陽に心をかけておられました。 宜しく、皇綜(こうそう)〔=皇統〕を継ぎ、人民に光臨してくださいませ。」と申し上げました。 その日のうちに、天皇(すめらみこと)の位に即(つ)かれました。 四月一日、 田部連(たべのむらじ)【名を欠く】を掖玖(やく)に遣わされました。 この年は、太歳(たいさい)己丑(つちのとうし)でした。 13目次 【二年】 《立寶皇女爲皇后》
宝皇女の父茅渟王は、記の「智奴王」にあたると見られる。 記紀の血縁関係を合わせれば、押坂彦人大兄皇子とは異母の姪という関係で、〈敏達天皇〉系の血筋である。 これで用明天皇―上宮皇子系からの天皇への道筋は潰えた。 古事記では、ここまでの血筋を見極めたところで終了している。 つまり、太子は傍流であると示すことによって、暗に仏教の隆盛は国の本筋ではないと主張するのである。 《夫人》 夫人の古訓に「オフトシ」とあるが、上代はオホトジであったと考えられている。 〈天武紀二年〉に「夫人藤原大臣女氷上娘、生但馬皇女。次夫人氷上娘弟五百重娘。生二新田部皇子一」 とある。この藤原夫人については、 (万)1465 の題詞に「藤原夫人歌一首 明日香清御原宮御宇天皇之夫人也 字曰大原大刀自 即新田部皇子之母也」 〔藤原夫人の歌一首。明日香清御原宮御宇天皇〔天武〕の夫人なり。字(あざな)は大原の大刀自(おほとじ)といひ、即ち新田部皇子の母也〕とある。 これを見ると、少なくとも〈天武朝〉の時代には夫人が「~のおほとじ」と呼ばれることがあったことが分かる。 古訓の時代になると、オフトジ、オトジなどに変化していたようである。 《法提郎媛》 郎媛については、女性名の敬称に「郎」が入ればイラツメと訓むと見てよい。多くは郎女・女郎と表記される。 法には、古訓にホホが振られている。 〈学研新漢和〉によると、「法」は、上古音(周・秦)[pɪuăp]、中古音(隋・唐)[pɪuɅp]で、閉音節〔英語"cap"ような音節〕であった。 漢字が入いってきたころは、日本でのハ行の発音はパ行であったと考えられている。よってハフと表記される語の上代の発音は[papu]である〔昔から、外来語がカタカナ語になると閉音節[pap]の語尾に母音[u]が加わって、二音節になる〕。 ただし、僧には「ハフシ」ではなく「ホフシ」と訓が振られているから、仏教用語の「法」は早い段階で[popu]になったようである。 よって「法提」は[popute]のはずだが、[popote]になっている。人名中の「徳」がトコになったのと同じで、一種の習慣かも知れない。 ただ、それが上代からか、平安時代になってからの変化なのかは分からない。 《犬上君三田耜》
日本武尊の子、稲依別王が「犬上君、建部君等の祖」とされ、母(大吉備建比売)は「近淡海〔=近江〕の安〔=野洲〕国造の祖 意富多牟和気」の女 三田鍬(三田耜)は、〈推古二十二年〉に遣唐使に任じられた。 《薬師恵日》 薬師恵日は、〈推古三十一年〉に唐から帰国した。 この人についての記事は〈孝徳〉紀(白雉五年)、〈続紀〉(天平宝字二年〔758〕四月己巳)にもある。
次に、雄略天皇のときに百済から献上されたことについては、〈雄略-七年是歳〉条にその記述がある。 そこには百済に「下二勅書一令レ献二巧者一」〔巧者 続けて、恵日は〈推古朝〉のとき「被レ遣二大唐一。学得二医術一」と述べる。 書記によると遣隋使の派遣は〈推古十五年七月〉、 〈同十六年九月〉にあるが、いずれも同行者に恵日の名前はない。 『隋書』には、〈大業三年〉〔推古十五年〕の遣隋使に同行した者として「沙門數十人来学二仏法一」 とあるので、その中に恵日が含まれていた可能性はある。十六年の再派遣のときかも知れないが、再派遣のことは隋書に載っていないので判断のしようがない。 こうして医術を身に着けて帰国した恵日の肩書「医(薬師)」がそのまま子孫の姓(かばね)になったが、薬師でもない者が全員薬師を名乗ることは紛らわしいからと、「難波連」に改姓することを願い出て、許可されたという。 ここでは氏姓を自分たちで決めたが如く書いているが、実際には事前に有司と相談したのであろう。有司の間では前々から問題視されていて、自ら名乗り出る形を取らせたことも考えられる。 《大郡及三韓館》 大郡は、上町大地の谷町筋より東(河内湖側)で、後に拡張して{摂津国・東生郡}になったと考えられている。 〈仁徳段〉では、「難波高津宮」(第161回)が置かれたが、その後もずっと宮殿が置かれ副都として機能していたのは想像に難くない。 いわば官庁街であったと想像され、百済館・新羅館・高麗館もその建物群の中にあったと考えられる。 つまり難波宮を中心として、副都としての本格的に整備がなされ、これは偏 ここでは「三韓館」というが、「唐館」(仮称)も含まれるのは明らかである。〈推古十六年〉には「更造二新館於難波高麗館之上一」とある。 新羅館については、〈欽明二十二年〉「穴門の館」〔長門国〕が出て来る。難波の館について直接触れた記事はないが、難波の「三韓館」に新羅が含まれるのは間違いない。 百済館については〈孝徳〉大化元年に「百済大使佐平縁福。遇レ病留二津館一而不レ入二於京一。」とあり、 この「津館」〔=摂津館〕が難波津にあったことに疑問の余地はない。 《大意》 二年一月十二日、 宝皇女(たからのひめみこ)を皇后(おおきさき)に立てられました。 皇后は二男一女をお生みになり、 一人目は葛城皇子 【近江大津宮に御宇(しろしめす)天皇(すめらみこと)】〔天智〕、 二人目は間人皇女(はしひとのひめみこ)、 三人目は大海皇子(おほあまのみこ) 【浄御原宮(きよみはら)に御宇(しろしめす)天皇】〔天武〕といいます。 夫人、蘇我の嶋の大臣(おおまえつきみ)の娘、法提郎媛(ほほてのいらつめ)、 古人皇子(ふるひとのみこ) 【別名、大兄皇子(おおえのみこ)】をお生みになりました。 また、吉備の国の蚊屋采女(かやのうねめ)を娶(めあわ)せて、 蚊屋皇子(かやのみこ)をお生みになりました。 三月一日、 高麗(こま)の大使宴子抜(えんしはい)、 小使若徳(じやくとく)、 百済の大使恩率(おんそつ)素子(そし) 小使徳率(とくそつ)武德(ぶとく)は、 共に朝貢しました。 八月五日、 大仁(だいにん)犬上君(いぬかみのきみ)三田耜(みたすき)、 大仁薬師(くすし)恵日(えにち)を、 唐に派遣しました。 八日、 高麗(こま)および百済の客を朝で饗宴しました。 九月四日、 高麗と百済の客は国に帰りました。 この月、 田部連(たべのむらじ)等は、掖玖(やく)から帰国しました。 十月十二日、 天皇(すめらみこと)は飛鳥の岡の傍らに遷られ、 これを岡本宮(おかもとのみや)といいます。 この年、 難波の大郡(おほごおり)を改修し、 その改修は三韓の館(むろつみ)に及びました。 14目次 【三年~四年】 《百濟王義慈入王子豐章爲質》
〈釈紀〉述義十(推古天皇・舒明天皇)に、この有間温湯について述べた『摂津風土記』の逸文が載る。 ここで、その全文を精読する。なお、ここでは〈釈紀〉が加えたと見られる訓点は用いず、本サイトによる訓読である。
地元では「有馬温湯」ではなく「塩湯」と呼ぶのは興味深い。地名のついた呼び名は、外の人が呼ぶときの名前である。 その塩湯から数キロメートル北に「公智 実際には「功地」は語源ではないが、それでも豊かな森林に関係していると見られ、木々に宿る「木(ク)霊(チ)」であろう。 《温湯》 〈倭名類聚抄〉に「温湯:…佷山県有二温泉一百病久病人此水多愈矣一云湯泉【和名由 《百済王子豊章》 〈舒明三年〉に、豊章が倭に質として送られた。豊章(豊璋)は、百済が滅亡した660年に倭から返され、王に立てられた。 その経緯について、書紀と『三国史記』の記述を対照する。
ところが、はじめに質として送った時のことは、『三国史記』には書いていない。また、書記は三年に〔631年〕に「義慈王が質を送った」と書くが、 義慈王が王になったのは641年になってからである。 この誤りを正すとすれば、 A 631年は正しく、実際には武王が質を送ったとする。〔その場合豊璋は武王の子で、義慈とは兄弟となろう。〕 B 実際には641年〔辛丑〕以後に義慈王が質を送ったとする。 この二通りが考えられるが、Bが妥当か。 書紀が参照した古記録に「辛丑」とあったのを「辛卯」と読み誤り、舒明三年〔辛卯〕にこの事項を書き込んだことが考えられるからである。 さらに、豊璋が即位した年に王子を質として送ることは、ひとつのタイミングとして考え得るから、この可能性は十分ある。 〔ただし三月「武王薨」・三月一日「入王子豊章」をどう見るかという問題が残る。〕 《高表仁》 貞観五年に倭から朝貢の遣使があり、続けて高表仁を倭に遣使したことが、『旧唐書』及び『新唐書』に載る。
太宗は、遠方からの朝貢は大変だから、毎年でなくてもよいと勅した。そして、高仁表を倭に遣わした。 書記では仁表は帰国する三田鍬と恵日と一緒に、〈舒明四年〉〔貞観六年〕八月に対馬、十月に難波津に到着したと書かれている。 こうして到着した仁表は、倭国王(または王子)と「争レ礼」と書かれている。 『旧唐書』は、この高仁表について「無二綏遠之才一」と、酷評している。 「儀礼の流儀は国ごとに異なって当然なのに、頑なに中国流に拘り柔軟に対応できないのでは、遠くの国を治めるセンスを欠く」という意味であろう。 『新唐書』はそれほどあからさまではないが、「不平」という言葉を使うから、やはり大人げない態度だと見ているようである。 「不レ宣二朝命一」、「不レ肯レ宣二天子命一」は、 裴世清のときのような、宮殿の南庭で勅書を読み上げる儀式が行われなかったということであろう。勅書の中身は、恐らく有司が宿所に聞きにいくなどして伝わっていたに違いない。 《霊雲》 霊雲・僧雲の名はここが初出。渡った時期については〈推古朝〉十六年の遣隋使同行者にはこの名前はないから、十五年の遣隋使に同行した可能性はある。 『隋書』〈大業三年〉〔推古十五年〕に「兼沙門数十人来学二仏法一」とある。 《僧旻》 僧旻は、〈孝徳天皇〉のとき、十師の一人として「教導衆僧修行釈教」を担い活躍する。 「沙門旻法師」とも書かれ、この場合は「旻」一文字が名前であるが、「僧旻」で名前扱いの文も多く、どちらもあったようである。 二文字で名前扱いの場合は「ホフシ-ミム」は不自然なので、「ソウ-ミム」であろう。 旻は漢音ビン、呉音ミンである。 《勝馬飼》 使者に学問僧が同行したのは通常のことであるが、その他に一見無関係な人が合流している。 このときの渡航は官船ではなく、対馬の海運業者に依頼していて、たまたま同乗したのかも知れない。 しかしやはり官船で、回賜の品に馬が含まれていて、その世話するための馬飼ということも考えられないではない。 「勝」の訓みについては、〈姓氏録〉〖摂津国/諸蕃/百済/勝〗があり、百済系氏族に「村主 その勝氏のある一族が馬飼部の伴造 《新羅送使》 「新羅送使」は新羅が倭に送った使としか読めないが、倭に入国した後の記述は何もない。 〈推古三十一年〉の紛争では、実際にどの程度の戦闘があったかは分からないと考えたが、それ以来倭・羅関は気まずくなっていたのは確かであろう。 唐はその調停のために一肌脱ごうとして、新羅使を呼び寄せて同行させた可能性はある。そういうことなら、前項の業者船同乗説は否定される。 次に新羅使が遣わされた記録は、〈舒明十年〉である。 《江口》
江口は、〈仁徳段〉(第163回)に出てくる「難波之堀江」の大阪湾への開口部ではないかと考えた。 一般に、難波の堀江は現在の大川と言われているが、大川はもともと自然河川であったように思える。 むしろ、難波宮跡の北のところで、平野川と大川を結ぶ運河ではないかと考えた (【難波の堀江】)。 難波の堀江と江口の場所については、〈継体六年〉でも考察した(【難波館】)。 ひとまず、現在の大川は〈推古〉・〈舒明〉の頃はまだ大阪湾の入り江で、右図Aから東向きと南向きに掘られた水路が難波の堀江だとしておく。 三十二隻の船が並ぶのだから、湾口でなければならない。 また「及鼓・吹・旗幟皆具整飾」という書き方から見て、鼓笛隊が並んだ場所は飾り船を並べた海に面していたであろう。 その場所は、難波津の構内とするのが自然であろう。この点からも、Aが江口とした方がよい。 なお、大隅神社・味原牧にも「江口」があるが、ここでいう江口とは別であるのは明らかである(〈安閑二年〉)。 《天子所命》 天子は中国皇帝と同義であるから、古訓「モロコシ〔唐〕ノミカド〔皇帝〕」はそれなりに文脈に合っている。 ただ、ミカドとは天皇を指す語なので、これを中国皇帝に適用するのは言葉のあやとして用いたものである。 その点、〈釈紀〉は筋を通して「モロコシノキミ」と訓んでいる。 この用語法について敢えて正面から検討すると、中国の感覚による世界秩序によれば、中国皇帝が世界の支配者で、周辺国はすべて皇帝に仕える諸侯の国である。 中国の統治者の呼称に天皇と同じレベルのミカドを用いれば、中国が宗主国であることを自ら認めてしまうことになる。 奈良時代は本気で唐による侵攻を警戒し、西日本に防御の城を設けて防人を配置したが、 平安時代になると警戒感が薄まり、皇帝の呼称にも無頓着となって安易にミカドを使ってしまったのではないだろうか。 鎌倉時代には、武家政権ということもあり国の防御に再び敏感になり、それが〈釈紀〉による訓読:ミカド⇒キミに反映したように感じられる。 これを書記の原文執筆の時点まで遡ると、唐がこの箇所を目にしても差し支えないように、外交文書の引用には細心の注意を払ったようである (推古十六年八月〉《倭皇》など)。 だから倭から大唐に「朝貢」した部分も文書中の語句であるから、心ならずもそのままにしたと見られる。 ところが、平安時代の訓読「モロコシノミカド」は、むしろ迎合に輪をかける。これは書紀の執筆者の気持ちに反するであろう。 《伊岐史》 〈姓氏家系大辞典〉は「伊伎(壹伎)史 前項諸氏〔伊吉島造、壹岐県主など〕とは全く流を異にし、帰化の大姓なり。 舒明紀に壹伎〔ママ〕史乙等、孝徳紀に伊岐史麻呂など見ゆ。」と述べる。 〈天武十二年十月〉に「壹伎史…賜レ姓曰レ連」とあり、連 〈続日本後紀〉承和二年〔835〕九月に「河内国人左近衛将監伊吉史豊宗。及其同族惣十二人。賜二姓滋生宿祢一。唐人楊雍七世孫。貴仁之苗裔也。」 とあり、〈姓氏家系大辞典〉はこの「伊吉史」については「伊伎史と同族にして河内国を本貫」〔一族のうち、河内国に移ったもの〕とする。 なお、劉楊雍なる人物のことについては、今のところ見出だせていない。 言うまでもなく壱岐島は半島との交通の経由地で、この地には多くの帰化民が住み、その族のひとつが史 《大意》 三年二月十日、 掖玖(やく)の人が帰化しました。 三月一日、 百済王義慈(ぎじ)は、 王子豊章を入れて人質にしました。 九月十九日、 摂津国の有間〔有馬〕の温泉に行幸しました。 十二月十三日、 天皇(すめらみこと)は温泉から帰られました。 四年八月、 唐は高表仁(こうひょうじん)を遣わして三田耜(みたすき)を送らせ、 共に対馬に泊まりました。 この時、 学問僧霊雲(りょうあん)と 僧旻(そうみん)、 及び勝鳥養(かちのとりかい) 新羅の送った使者が高表仁と行動を共にしました。 十月四日、 唐の使者高表仁(こうひょうじん)らは難波津に停泊しました。 そこで、大伴連(おおともむらじ)馬養(うまかい)を派遣して江口に迎えさせ、 船三十二艘(そう)及び鼓、笛、旗幟(きし)を皆つぶさに整え飾りました。 そして高表仁等に 「天子の命による使者が天皇(すめらみこと)の朝廷に到着したと聞き、 お迎えに参りました。」と告げ、 高表仁はそれに答えて、 「寒風の候、船を装飾してお迎えいただき、 喜ばしく、恐縮いたします。」と言いました。 こうして、 難波吉士(なにわのきし)小槻(おつき)、 大河内直(おおしかうちのあたい)矢伏(やふし)に命じて 案内人として、 館(むろつみ)の門前に到着しました。 そして、 伊岐史(いきのふひと)乙等(おつと)、 難波吉士(なにわのきし)八牛(やつし)を遣わして、 客を誘導して館(むろつみ)に入場しました。 同じ日に、 神酒(みき)を提供しました。 まとめ 試しに、高表仁一行に対馬で新羅の使が合流したのは、唐が呼んだからだと考えてみる。 それが、倭と新羅との間の関係修復を図るためだとすれば、唐は両国の上位に君臨する調整者として振舞おうとしたのである。 ここで遣隋使についての書記と隋書の記述の比較を思い起こすと、倭と隋との狙いには明確なすれ違いがあった。 すなわち、倭側は隋から進んだ仏教を得ることを目的としたが、隋側は倭を冊封体制に組み込むことが目的であった。 唐は、この時期太宗による発展期で血気盛んであるから、周辺国への支配体制を明確化したいという意欲は隋以上であろう。 高表仁の持参した国書は、「詔除A倭王」〔「除」=任命。Aは舒明天皇の中国名。「倭の五王」参照〕のような高圧的なものであったに違いない。 しかし倭の側には、自国が唐に冊封された国だという意識は全くない。江口に飾り船に並べ難波津に鼓笛隊を置いて大歓迎したのも、自立した国としての実力を示すためである。 したがって、冊封国としての存在を認めるという皇帝の勅書は、決して受け入れられない。勅書を受領する南庭の儀式を行わなかったのは、むしろ倭の意思であろう。 また、「新羅送使」の入国後の行動が何も書かれないのは、実際に唐が狙った会談等は皆無だったのだろう。 それが『旧唐書』に「与二王子 |
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⇒ [23-6] 舒明天皇3 |