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2022.03.31(thu) [23-1] 舒明天皇1 ▼▲ |
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1目次 【即位前(一)】 卅六年春二月戊寅朔甲辰。〔推古〕天皇臥病。……〔続き〕 2目次 【即位前(二)】 《蘇我蝦夷臣欲定嗣位》
蘇我蝦夷の初出は〈推古〉十八年の「蘇我豊浦蝦夷臣」で、 新羅使・任那使の拝朝の場面で登場した。 現在では蝦夷が馬子の子であることを誰も疑わないが、実際には書紀にも『上宮聖徳法王帝説』にも直接の記述はない。 間接的には、〈即位前7〉段の〈推古〉が、山背大兄王に発した詔に「汝叔父大臣」という言葉がある。 大兄王自身も蘇我蝦夷大臣を叔父と呼び、これによって山背大兄王の母負古郎女〔蘇我馬子の娘;『上宮聖徳法王帝説』による〕と蘇我蝦夷が姉・弟の関係にあると判断され得るから、蝦夷は馬子の子ということになる(下述)。 「馬子の子」と明記するのは『公卿補任』である。 一方蝦夷が大臣に就任した時期については、『扶桑略記』〔阿闍梨皇円(1169没)著〕は、馬子が薨じた三十四年とする。 曰く、「大臣蘇我宿祢馬子薨…〔中略〕…三代自舅 在官五十五年也 同年蘇我宿祢蝦夷任大臣」。
『公卿補任』の成立時期は、『国史大辞典』によれば「弘仁二年〔811〕以前の部分は主に『歴運記』に基づくことは確実」、 「『歴運記』は一名を『公卿記』とも称し、現在は冒頭の総説の部分が『延喜式』〔927年成立〕に付けられて伝わり」 というから、811年までの部分は927年以前には存在したようである。 蘇我蝦夷への訓が複数並記されていることから見て、古訓が確立された時期〔平安末〕にエミシに統一される前に、書かれたと思われる。 前述した「汝叔父大臣」については、一般に未就任の時期のことでも後に得た立場を呼称に用いることは普通にあり得る〔「○○天皇は、幼少の頃…」のような言い方〕から、これだけで実際に大臣になっていたと言えるかどうかは分からない。 ただ、この記述によって「推古の晩年には既に大臣に就任していた。恐らく馬子が三十四年に薨じたときに、世襲したのであろう」と推定したことも考えられる。 前述したように、『扶桑略紀』の中に書かれた「〈推古〉三十四年大臣就任」は『公卿補任』に拠ったものとも考えられるが、「馬子宿祢之子」は引き継いでいない。 《阿倍麻呂臣》 「阿倍麻呂臣」は、〈推古〉三十二年にも、馬子が葛城郡を賜りたいとの要望を伝達するために遣わされた。 このように、二代の大臣の下で秘書の役割を負っている。 《令阿倍臣語群臣曰》 語・曰は、動詞が重複する。詔・曰の重複は大変多い。この曰は実際には引用符の機能だから、訓読においては特に訓む必要はないと思われる。 ただ、習慣的に「~にのたまひてのたまはく」などと訓読され、却って特徴的な言い回しとなっている。 《推古天皇の遺言》 蘇我蝦夷大臣が語る「推古天皇の遺詔」は、 ●田村皇子に対して:状況を察してここぞと思えば躊躇なく行動に移せと促す。 ●山背大兄王に対して:自己主張せずに群臣の意向に謹んで従うようにと言い聞かせる。 つまり、天皇になるべきは田村皇子であって、山背大兄王はそれを受け入れるべきだというのである。 天皇の遺詔と称するが実際には蝦夷大臣の意向であると、誰もが受け止めたことであろう。 《推古紀三十六年》 〈推古紀〉三十六年三月二日付には、二人に直接言い聞かせた言葉として「遺詔」の内容を載せている。 〈推古紀〉の中では田村皇子、山背大兄の名は共にそこが初出であるから、執筆の最後の段階で〈舒明即位前紀〉の内容と整合性を保つために書き加えたものであろう。 〈即位前5〉段(次回)では、山背大兄王は「そんなことは聞いたことがない」と言っているが、〈推古紀〉では直接言い聞かせたととれる記述になっている。 また、大臣がいう「遺詔」では田村皇子の継嗣を単に「天下大任」と表すのに対して、〈推古紀〉では「昇二天位一而経二-綸鴻基一馭二万機一以亭二-育黎元一」として表現を大幅に強化している。 よって、書紀本体は大臣が言った「遺詔」を、正式なものとして追認する立場に立っている。これを相対化したままで放置すれば以後の天皇すべての正当性が危うくなるわけだから、書紀としては当然であろう。 《田村皇子》 田村皇子までの系図は、「敏達天皇―日子人太子〔彦人大兄皇子〕―坐岡本宮治天皇〔田村皇子、息長足日広額天皇〕」となっている(第242回)。 彦人大兄皇子は即位していないから、本来は「田村王」のはずである。「皇子」は、即位したという結果から遡って用いた呼称だと考えるのが順当か。 ただ第242回で、記紀の編集委員の間で誰を天皇に決めるかという議論が行われ、その中で日子人太子を天皇とする案もあり、「忍坂日子人太子からの系図が天皇並みに詳しいのは、検討途上の姿が化石のように残った」のではないかと推察した。 田村皇子なる表記も、実は同じくその「議論の化石」かも知れない。その議論においては、第三十三代天皇の候補者として推古・上宮皇子(聖徳)・忍坂日子人太子が上がったのではないかと思われるのである。 《山背大兄》 〈推古紀〉三十六年で見たように、山背大兄王が上宮太子の子であることは書紀のどこにも書かれていない。 もし『上宮聖徳法王定説』が残らなければ、この血縁関係が知られることは永久になかったであろう。 書紀は、山背大兄を「山代王」として、出自を押坂彦人大兄皇子〔舒明天皇の父〕の子に付け替えようとした気配さえ感じられる。 《群臣の沈黙》 もともと、一介の臣が継嗣の決定に関わってよいのかと畏れる気持ちがあったのは確かだろう。 加えて、群臣が田村皇子派と山背大兄王派に二分されているのは分かっているから、駆け引きとして迂闊な発言は得策ではないという判断もあったようだ。 《大意》 九月。 葬礼を終えて、位を嗣ぐ人は未だ定まりません。 この時に当たり、蘇我の蝦夷(えみし)の臣(おみ)は 大臣(おおまえつきみ)となり、独り位を嗣ぐ人を定めようと欲しました。 ところが、群臣(まえつきみたち)は畏れて従おうとしません。 そこで阿倍(あべ)の麻呂(まろ)の臣と共に計り、 群臣を集めて大臣の家で饗食しました。 食事を終えて、さあ解散というとき、 大臣は阿倍の臣に命じて群臣に語らせました。 ――「今、天皇(すめらみこと)は既に崩じましたが、継嗣がいらっしゃいません。 もし速やかに計らずに、恐れるのは乱れが起こることです。 今、どの王(みこ)を継嗣といたしましょうか。 推古天皇が病に臥された日、田村の皇子に詔され、 『天下の大任は、本より容易に言えることではことではありません。 あなた、田村の皇子は、 慎んでことを察して、緩慢であってはなりません。』と仰りました。 次に山背大兄(やましろのおおえ)の王(みこ)に詔され、 『あなたが独りで言葉を言い立てることがあってはなりません。 必ず群臣の言葉に従い、慎んで違(たが)うことのないように。』と仰りました。 これが天皇の遺詔です。 今、どちらのみ子に天皇になっていただくのがよいでしょうか。」 この時、群臣は黙りこんで、答はありませんでした。 再び答えを促しましたが、答はありませんでした。 強てまたこれを問いました。 3目次 【即位前(三)】 《大伴鯨連進曰既從天皇遺命耳》
ここでも大伴 《天下大任也》 古訓は、「治天下者大任也」〔天下 「天下大任」は動詞化せず、名詞「天下の大任」〔=国における重大な責務〕として主語に位置づけるべきであろう。 助詞「也」には、主語であることをを強調する用法があり、訓読には係助詞「は」が相応しい。 《采女臣摩礼志》 地名「采女」は各地にあり、〈姓氏家系大辞典〉は、〈倭名類聚抄〉{伊勢国・三重郡・采女【宇祢倍】郷}などを挙げる。 采女臣について、同辞典は「地名を負ひしものもあれど、多くは部名、職名を負ひしなり」、 「采女を検校し、采女部を管理するより起れる氏」で「即ち後世の采女正の如き職掌也。采女正は職員令に「采女司」…」などと述べる。 職制としては、『令義解』職員令に「宮内省/采女司:正一人。掌三検二-校采女等事一」とある。 古事記〈神武段〉に、「故邇芸速日命 娶二登美毘古之妹登美夜毘賣一 生子宇摩志麻遅命【此者物部連穂積臣婇臣祖也】」とある (第99回)。つまり邇芸速日の子孫だから、物部氏一族に属する。 『天孫本記』によれば、大水口宿祢命は、宇摩志摩治命系列の四世孫とする(資料[39])。 以後の人物には、〈孝徳紀〉采女臣使主麻呂、〈天武紀下〉小錦下采女臣竹羅が見える。 《高向臣宇摩》 高向臣について〈姓氏家系大辞典〉は、「高向臣:武内宿祢の裔、蘇我氏の族にして、越前国坂井郡高向郷より起りしもの」と述べる。 〈延喜式神名帳〉{越前国/坂井郡/高向神社}〔比定社:坂井市丸岡町高田1-7〕が氏寺か。 〈倭名類聚抄〉{越前国・坂井郡・高向【多加無古】郷}は、継体天皇の母布利比弥命〔振媛〕が幼子〔継体〕を連れて移った地である(資料[20])。 古事記〈孝元段/第108回〉によれば「建内宿祢―蘇我石河宿祢:高向臣の祖」。 宇摩の名はこの場面のみ。きっと午年生まれであろう。 《中臣連弥気》 中臣連は、〈推古〉三十一年《中臣連国》参照。 弥気の登場は、この場面のみ。 《難波吉士身刺》 難波吉士は、〈推古〉十六年《難波吉士雄成》参照。 身刺の登場はこの場面のみ。〈孝徳紀〉「蘇我臣日向;字 《許勢臣大麻呂》 古事記〈孝元段/第108回〉に「建内宿祢―許勢小柄宿祢:許勢臣の祖」。 一族の人物として〈欽明紀〉元年に「許勢臣稲持」がいた。 許勢臣大麻呂の名前はここだけ。大麻呂は一般的な男子名のようで、書紀・〈続紀〉に数多く見える。 《佐伯連東人》 佐伯氏族の伝説的祖先については、佐伯直(第122回)、佐伯部(〈景行紀18〉)が見え、 日本武尊が連れ帰った蝦夷が祖先とされる。 佐伯連については、〈姓氏家系大辞典〉「佐伯連:大伴氏の族にして、佐伯部の総領的伴造なり。大伴連室屋より出づ」とする。 「総領的伴造」とは、佐伯部を配下とする氏族の意。 同辞典はその根拠として、〈新撰姓氏録〉から〖佐伯宿祢/道臣命七世孫室屋大連公之後也〗、〖大伴宿祢/衛門開闔之務。…是大伴佐伯二氏。掌左右開闔之縁也。〗を挙げている。 佐伯部東人の名前は、この場面のみ。〈孝徳二年〉の三輪東人は別人。 《紀臣》 古事記〈孝元段/第108回〉に「建内宿祢―木角宿祢:木臣、都奴臣、坂本臣の祖」。 「木角宿祢」の名は、「紀〔木〕臣」・「都奴〔角〕臣」の共通の祖先となる人物を創作したように思われる。 紀臣については、第108回《木臣》以下で、詳しく考察している。 古い時代から、〈雄略〉紀小弓宿祢、〈顕宗〉紀生磐宿祢、〈欽明〉紀男麻呂宿祢が登場した。 〈欽明〉二年には、百済国から訪れた使者 「紀臣奈率弥麻沙」が登場する。〈欽明帝〉以後は実際には半島への軍の派遣はほとんど見られなくなっているが、 『広太王碑文』(倭の五王)や『三国史記』によれば、4世紀末から5世紀には倭軍の渡海は活発であった。 新羅本紀(『三国史記』)で、倭軍が渡海して攻撃した記事は500年が最後である(第232回《近江毛野臣率二衆六万一欲レ往二二任那一》)。 かつて渡海した「紀臣」の中に、現地に残留した者がいて、その一人が紀臣奈率弥麻沙だったと考えられる。 《先是》 書紀に先是は多い〔全28例〕。「先」は動詞〔さきんずる〕で、つまり「先レ是」〔是に先んじて〕と見られる。 用例から確認すると、〈神代下〉に、 ――「天稚彦之妻子、従レ天降来、将二柩上去一而於天作二喪屋一、殯哭之。先是、天稚彦与味耜高彦根神友善。故味耜高彦根神、登レ天弔喪大臨焉。」 〔天稚彦が妻子、天(あめ)従(よ)り降り来たりて、将(まさ)に柩を上げ去(ゆ)きて天に喪屋を作らむとして、殯(もがり)して哭(な)けり。是より先に、天稚彦と味耜高彦根(あぢすきたかひこね)の神と友善(よしみ)せり。故(かれ)味耜高彦根神、天に登りて弔喪(とぶらひ)に大きに臨(のぞ)めり。〕 「以前より天稚彦の友人であった味耜高彦根が天稚彦の弔喪に訪れた」という文だから「先是=以前に」である。 なお、古語のサキ〔先・前〕は常に過去を指し、〈時代別上代〉によれば「未来を表わす用例は見当たらない」。 《境部臣摩理勢》 〈推古〉二十年《境部臣摩理勢》参照。 《大意》 そこへ、大伴(おおとも)の鯨(くじら)の連(むらじ)が進み出て、 「既に天皇(すめらみこと)が遺命のままで十分で、 更に群臣(まえつきみたち)を待つまでもありません。」と発言しました。 阿倍の臣(おみ)は 「それは如何なることか、意味を開示せよ。」と尋ねました。 鯨は答えて、 「天皇(すめらみこと)がどのようにお考えであったかは、 田村皇子に詔して 『天下の大任は、ゆるがせになさいませんように』と仰りました。 つまり、そのお言葉の中で皇位は既に定まっております。 誰がその言葉に異を唱えられましょう。」と言いました。 その時、采女(うねめ)の臣摩礼志(まれし)、 高向(たかむこ)の臣(おみ)宇摩(うま)、 中臣の連(むらじ)弥気(やけ)、 難波の吉士(きし)身刺(むさし)の 四人の臣(まえつきみ)たちは、 「大伴連(むらじ)の言葉の通りです。さらに異はございません。」と言いました。 許勢(こせ)の臣大麻呂(おおまろ)、 佐伯(さえき)の連(むらじ)東人(あづまひと)、 紀の臣塩手(しおて)の 三人は、進み出て 「山背大兄(やましろのおおえ)の王(きみ)を、 天皇(すめらみこと)になされるべきです。」と言いました。 ただ、蘇我の倉麻呂(くらまろ)の臣は 【別名は雄当(おまさ)】、 ただ一人 「私は今すぐに容易く申し上げることはできません。 更に考えた後で、啓上いたします。」と言いました。 こうして大臣(おおまえつきみ)は、 群臣(まえつきみたち)は和さず、事を成すことができないと分かり、 引き下がりました。 この以前に、 大臣は一人で境部(さかいべ)の摩理勢(まりせ)の臣に 「今天皇が崩じて継嗣不在である。誰を天皇にすべきか。」と問うたところ、 摩理勢は 「山背大兄を推挙して天皇となさるべきです。」と答えました。 4目次 【即位前(四)】 《山背大兄漏聆是議》
書紀は山背大兄に、基本的に王を付けていない。その理由は上宮皇子の子であることを伏せたことと共通すると見られる。 これらは編集過程でたまたま起こった欠落ではなく、意図的にどこの馬の骨とも知れない如き扱いをしているのである。 その理由は、上宮皇子〔聖徳〕を世俗界の"天皇"から遠ざけ、宗教界に封じ込めるためだと論じた (〈推古10〉《壬生部》、 〈推古21〉《皇子命》)。 だが、実際の文章中では「居於斑鳩宮」と述べて上宮皇子の御子であることが事実上示され、また登場人物が語る言葉中では「王」を付けるから一貫性を欠く。 古訓において尊敬表現が用いられるのは、文章の中身においては継嗣に値する高貴な人物として描かれ、そこには尊敬表現が見合うからである。 書紀においてこの人物を貶めることが原則的な位置づけであったとしても、文章の中身で経過を具体的に描いていけば、結局はこうなってしまうのである。 《三国王》 人物を示す三国には、臣、連がつかないから、氏族名の「三国公」、「三国君」などとは無関係で、「~王」は天皇の子孫につける個人名につけるものである。 それでは、実際には何代目まで「~王」を名乗るのだろうか。 『上宮聖徳法王定説』を見ると、上宮皇子の孫が「弓削王」、「尾治王」が載り、つまり三代孫まで「王」が確認できる。 釈日本紀所引『上宮記』逸文(資料[20])では、 「応神天皇―若野毛二俣王―意富富等王―乎日王―彦主人王―乎富等大公王」で、五代目まで「王」である。 この「乎富等大公王」は「男大迹天皇」〔継体〕のことで、大公 二代孫の「意富富等王」は『上宮記』では「大郎子」〔オホノイラツコ〕で、郎子尾・郎女 『上宮記』には垂仁天皇から振媛までの系図も載り、「伊久牟尼利比古大王〔伊久米伊理毘古伊佐知天皇;垂仁〕―偉波都久和希―伊波己里和気―麻加和介―阿加波智君―乎波智君―都奴牟斯君」でなっている。 和希・和気・和介はワケ(別)で、王に相当する古い称であろう。ワケがつくのは、三代孫までである。 いわば、特別視されるは三代までで、以後は自分で高貴な家柄を自慢する程度のことであろう。 山背大兄王は孫の代だが、まだ皇位継承の対象と十分なり得たと考えられる。 ましてや上宮皇子に天皇並みの権威を認めれば、実質皇子に相当する。 三国王は、使者に用いられるような立場だから高貴さは薄らぎ、三世以後だろうと想像される。 なお、王は大宝令で定式化されたようで、名目上は五世でも「王」、しかし「皇親之籍」〔現代の皇統譜に相当か〕に残るのは四世までであったことが、次の例で分かる。 〈続紀〉「慶雲三年〔706〕:二月庚寅。五世之王。雖レ得二王名一不レ在二皇親之限一。今五世之王。雖レ有二王名一。已絶二皇親之籍一。遂入二諸臣之例一。顧念二親々之恩一。不レ勝二絶レ籍之痛一。自レ今以後。五世之王、在二皇親之限一。其承レ嫡者相承為レ王。」 〔五世になると称は「~王」でも、「皇親之籍」から除かれる。五世まで「皇親之籍」に残せ〕。このように、706年に「皇親之籍」は五世まで延ばされた。 《桜井臣和慈古》 〈倭名類聚抄〉に{河内国・河内郡・桜井【佐久良井】郷}がある。 古事記〈孝元段/第108回〉に「建内宿祢―蘇我石河宿祢;桜井臣の祖」。 そして、〈天武〉十三年朝臣姓を賜る。 書紀で氏族「桜井臣」は、ここが初出である。〈姓氏家系大辞典〉に書かれことも、これだけである。和慈古の名はここだけである。 《叔父》 叔父の本来の意味は「父の弟」である。 これに従えば蘇我蝦夷は上宮皇子〔聖徳〕の弟となるが、これは全くあり得ない。 しかし、『上宮聖徳法王定説』〔以後〈法王定説〉〕によれば、山背大兄の母は負古郎女である(第249回)。 よって、蝦夷が馬子の子であったと仮定すれば、負古郎女は蝦夷と兄弟関係となる。 すると、次の①②のいずれかにり一定の説明が可能となる。 ① 「叔父」の日本語用法「父母の弟」を用いれば、負古郎女が蝦夷より年上だとすればこの関係に当てはまる。但し、母の兄又は弟を意味する漢語は「舅」である。 和訓は両者ともヲヂであるから、誤って混用された。 ② 太子は蝦夷の義理の兄にあたる。この言い方は、配偶者の結縁関係を本人に写したものである。同様に考えれば、蝦夷は山背大兄の義理の叔父となる。 書紀二十三巻(〈舒明紀〉)は倭習を含むβ群とされるので、ここの「叔父」も倭習の一種かも知れない。 なお、『日本書紀』〔岩波文庫;1995〕、『日本古典文学全集』〔小学館;1998〕版は、 いずれもその注において蝦夷は山背大兄の叔父であると解説する。これらは"叔父"の日本語用法に基づいていることに留意しなければならない。 (上述)したように、①②の何れかを確定させれば、蝦夷が馬子の子であると決定することができる。
●蝦夷…『公卿補任』による(上述)。 ●善德…〈推古四年〉に「法興寺…〔中略〕…大臣男善徳臣拝二寺司一」。 ●負古郎女…〈法王定説〉による(第249回)。 ●法提郎媛…〈舒明二年〉に「夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛」。 ●倉麿…〈舒明〉即位前2に「倉麻呂臣:更名雄当」、 『公卿補任』に「孝徳天皇御世:右大臣 蘇我山田石河麿。…〔中略〕…馬子大臣之孫。雄正子臣之子也」。 「山田石河麿」については、〈孝徳-大化元年〉「(以)蘇我倉山田石川麻呂臣為二右大臣一」とある。 もし『公卿補任』が蘇我氏の血縁関係の基本資料であったとすれば、問題は自身がいかなる資料を用いたかというところに移る。 〈釈紀〉〔鎌倉時代〕の「述義」には蘇我氏関係の文献の引用が全くないから、『公卿補任』の前に書紀・〈法王定説〉以外の古文書が存在した可能性は低い。 だとすれば、『公卿補任』もまた、〈舒明紀〉の「叔父」から推定した可能性が高まる。 《ヲヂノオキナドモ》 〈北野本〉は、最初の「叔父」を「オヂノオキナドモ」と訓んでいる。 オキナ(翁)は、ここでは大伴鯨など田村皇子を推す四臣を意味するか。「老」については、「老練」など年長者の知識経験を尊敬することから転じて、若くても熟練の人に使われる。 オキナにも同様の感覚があると思われる。 確かに、田村皇子を表立って推したのは大伴鯨など四名であり、大臣の蝦夷は一応中立的な立場を装っているから〈北野本〉の訓読はそれを表そうとしたととることができる。つまり、「叔父の翁ども=大臣の配下の臣たち」である。 しかし、この訓をヲヂ本人に対する蔑称とする見方もできる。『古典基礎語辞典』〔大野晋;学研2011〕によれば、 「『今昔物語集』の「翁」の例を検証すると…〔中略〕…本朝の世俗の部では、賤しい男、妖怪めいた老人など、老人に対する尊称とは思えない例が多い」、 そして「同義と考えられるオイビトは」『源氏物語』では「尊敬の対象とはされていない」という。 ドモについても、もともと複数を表すが「中世以降は一人称の卑下表現となる」また「人に対する呼びかけに軽く付ける。単数にも使う」〔同上〕とある。 現代語なら「叔父の老いぼれめが」のような語感であろう。 この説は叔父に悪態をつくものだから、前説の「老練の臣」とは真逆である。 このように理屈の上では蔑称もあるが、この場面で敢えて叔父に悪態をつくことは考えられないから、やはり大臣の配下の臣たちの意味であろう。 『仮名日本紀』が、下の表②で「叔父 一方、〈内閣文庫本〉は、「ヲチノヲチナレトモ」〔叔父の叔父なれ雖も〕に直している。 「叔父の叔父」といえば、『公卿補任』(上述)によれば境部臣麻理勢にあたる。しかし、麻理勢は最も強硬に山背大兄王を推していたのだから全く話と合わない。 よって、「叔父は、叔父であるのに」と解釈せざるを得ない。 声高に「田村皇子継嗣」を唱えたのは確かに大伴鯨など四名であるが、それは蘇我蝦夷大臣が推古天皇の〔おそらく偽りの〕遺詔なるものを掲げて、仕向けたものである。 「田村皇子継嗣」を主導したのは蝦夷と言えよう。〈内閣文庫本〉はこの立場に立ち、同時に伝統訓から修正を最小限にしようとする苦心の跡が見える。 なお、『仮名日本紀』と〈内閣文庫本〉は江戸時代とされている。 現代に至り、岩波文庫版は「をぢのおきなども」で〈北野本〉を踏襲し、『日本古典文学全集』版は「をぢのおきな」と訓み〈内閣文庫本〉の方の立場である。 《その後の叔父の訓読》 〈舒明即位前紀〉には、その後も「叔父」が繰り返し出てくる。
⑤「叔父之病」は、明らかにヲヂ個人の病気である。このように訓のない叔父は、すべてをヲヂのみとして訓んだと思われる。 〈仮名日本紀〉も、それらを「をぢ」と訓んでいる。 結局、〈北野本〉でも叔父はヲヂであり、唯①と③だけに、群臣を加えているのである。 その意図は、結局「山背大兄王は、叔父自身が田村皇子を推したとは決めつけていない」かの如く表現したかったところにあろう。 しかし、⑥の後のところで、山背大兄王は「冀正欲知天皇之遺勅」〔冀(こいねが)わくば正しく天皇の遺詔を知りたい〔=本当のこと言え〕〕と叔父に求めている。つまり、山背大兄王は叔父が嘘をついていると最初から思っているのである。 《山背大兄王の認識》 山背大兄王が事前に得ていた情報では、〈即位前6〉段のところで、 〈推古〉は山背大兄王に「汝本為二朕之心腹一。愛寵之情不レ可レ為レ比。其国家大基。是非二朕世一自レ本務之。汝雖二肝稚一慎以言」 〔あなたは私の心腹にあり、愛情は他に比べようもない。私の世に限らず国家の大基は本務である。お前は未熟であるが謹んで〔ことに当たれ〕〕と言い、数十人がこの言葉を聞いている。
確かに、③までの段階なら、それまでの経緯を受けて〈北野本〉のような読み方も不可能とは言い切れないが、少し読み進めるとそれは破綻する。 従って、「ヲヂノオキナドモ」という訓は、もはや継承すべきものとは言えないであろう。 《河辺臣》 河辺臣の人物は、〈欽明〉二十三年七月に「副将河辺臣瓊缶」、 〈推古〉二十六年に安芸国で舶を造った「欠名」、 三十一年に「小徳河辺臣祢受」が出てきた。 古事記〈孝元段/第108回〉「建内宿祢―蘇我石河宿祢;川辺臣の祖」とある。 〈天武〉十三年に朝臣姓を賜る。 〈姓氏家系大辞典〉は「本居不明なれど、これも川辺連と同様、大和十市郡川辺より起りしか」、「上古中央の大族なりき」と述べる。 〈舒明紀〉では欠名のまま、即位前の三か所に出て来る。 《便且謂大夫等曰》 「便且謂大夫等曰」〔すなはち、また、まへつきみたちに謂ひて曰はく〕として、蝦夷が群臣に語る。その言葉の最後の部分、 「但雖有臣私意而惶之不得伝啓乃面日親啓焉」は、これを完全に理解しようと思うとなかなかハードルが高い。 まず、古訓ではどう読んでいるかを見る。すると〈北野本〉は二つの説を併記し、〈内閣文庫本〉はそれを一つに絞ることなく踏襲している(右図)。
② マウシツトマウセトイフ。 一般に、上代の直接話法は「イハク~トイフ」の形〔〈時代別上代〉:前後から引用句を包む形〕をとる。ここの古訓もそれに沿っていて、 「トイフ」は、①②とも「〔蝦夷大臣〕謂二大夫等一曰…」を閉じる位置にある。 もう少し前の部分からの古訓は、次のようになっている。平仮名は、本サイトが補ったことを示す。 なお②を採用する場合は、伝から啓を離して、「マウセ」に回さなければならない。
《臣に独自の意見表明を許したか》 2022.04.15.修正 ここでは「但雖レ有二臣私意一而惶之不レ得二伝啓一」という。この文は「ただ、お前たちにはおのおの意見があろう。しかしそれを私が伝えることはできない」という意味にとれる。 「伝」は、文字通り「お前たちの思いを私の口で伝える」ことと読み取るのが正当に思えるのである。 一方、古訓①はこれを「自分〔大臣〕には独自の意見がある」と読んで、「私は日を改めて山背大兄王に会って自分で直接言うつもりである」と語るものである。 「推古天皇の〔田村皇子を継嗣とせよという〕遺詔に従うことを群臣の総意として申し上げる」と言いながら、「自分には独自の意見があるので会った日に言うつもりだ」では訳が分からない。
他方、古訓②のマウシツは、マウスの連用形+完了の助動詞ツである。つまりマウシツトマウセは「申したと申せ」である。 これは、「山背大兄王に会った日に、私は異論を唱えたと自分で言え」という意味か。 こんな直前に言ったことと矛盾するような指示をするものだろうかとは思うが、それでも「私意」を大臣以外の諸臣のものだ捉えている点は真っ当に思える。 つまり、「群卿の意見は田村皇子を推すことにまとまっていると公式には申し上げる。ただ、群臣が私意を自分で言うことは許す」と読めるのである。 なお、「面」を「まねばむ」と訓むのはかなりの意訳であるが、「ネハ」の字はかなり明瞭だから、実際にこう書いてある。 意味は、「お会いする日」に代えて「お教えいただく日」とするもので、実質的にはあまり変わらない。 因 《大臣の真意》 2022.04.15.追記 ところが、〈即位前9〉段に同じ内容の文章「不能伝噵。故老臣雖労、面啓之」がある。 これは「間接的に伝えることはできない。臣たちにはご苦労をかけるが、これだけは直接山背大兄王にお会いして自分の口で言う」という意味であり、 実際、策を弄して山背大兄王に談判し、結果的に田村皇子継位を納得させることに成功している。 すると、〈即位前4〉段の「有二臣私意一」は、これ同じことを事前に述べたものとして読まねばならない。 大臣が弄した策は、麻理勢を挑発して暴発を誘い、山背大兄王がこのまま自分の継位に拘れば内乱に発展するぞ、それでよいのかと迫ることであった。 大兄王は最終的に田村皇子の継位を受け入れ、内戦による国土の荒廃を避けるとともに、上宮王家の勢力を温存させる道を選んだのであった。 今の時点で、大臣にどの程度具体的なプランが描かれていたかは分からない。 しかし、少なくとも「大臣が本心ではどちらの王を推しているかは、まだ分からない」と思わせておいた方が得策だったのだろう。 詳しくは〈即位前9〉段で述べるが、要するに期待を持たせて足止めしたのである。 したがって、「有二臣私意一」とは、「本心は山背大兄王推しである」という単純なものではなく、
〈即位前4〉段を読んだだけでは、ここまで汲み取ることは困難である。実際、古訓②の「マウシツ」は、「群臣は自分の意見を言え」と読み取っていたと強く感じられる。
これまでの群卿の立場を、右表にまとめた。斑鳩宮に行くメンバーは、田村皇子派からは5名中4名、山背大兄王派からは4名中に2名なので、 若干田村皇子派に偏っている。 《大意》 この時、山背大兄(やましろのおおえ)は、 斑鳩(いかるが)の宮にいて、この議のことを漏れ聞かれました。 そこで、三国王(みくにのみこ)、 桜井の臣和慈古(わじこ)の二人を遣わし、 密かに大臣に 「伝え聞くに、 叔父は、田村皇子(たむらのみこ)を天皇にされようとしておられる。 私はこの言葉を聞き、 立って考えても座って考えても、未だにその理(ことわり)が分からない。 願わくば、理解できるまで叔父の意を知りたいと思う。」と仰りました。 大臣(おおまえつきみ)は、 山背大兄が告げた言葉を聞き、 自分一人だけで答えることはできないと考え、 阿倍臣(あべのおみ)、 中臣連(なかとみのむらじ)、 紀臣(きのおみ)、 河辺臣(かわべのおみ)、 高向臣(たかむこのおみ)、 采女臣(うねめのおみ)、 大伴連(おおとものむらじ)、 許勢臣(こせのおみ)らを喚(よ)び、 詳しく山背大兄の言葉を知らせました。 教え終えたところで、重ねて群臣(まえつきみたち)に言うには 「あなた方群臣は私と共に斑鳩の宮に参上して、 山背大兄王に、 『私一人で、どうして容易く皇位の継嗣を定めることができましょう。 ただ、天皇(すめらみこと)〔推古〕の遺詔を群臣に示しました。 群臣は、揃って「遺詔のままに 田村の皇子が自(おのずか)ら位を嗣がれるべきだ」と申しております。 さらに、いかほどの異がございましょうか。』と申し上げる。 これは群臣の総意であって、単に私の意思ではない。 但し、私にはまだ自分の考えがある。だが、それを伝達していただくのは畏れ多い。 お会いした日に自分の口から申し上げるつもりである。」と言いました。 まとめ 2022.04.15.修正 この段では、蘇我蝦夷大臣が田村皇子を継嗣にすることを狙い、山背大兄王はがそれに反発したことから、群卿の全体を大臣の意見にまとめようとした経過が描かれている。 大筋において疑問の余地はないが、細かく見ると原文の文意と古訓のそれぞれに理解しにくい部分がある。 そのひとつは、「ヲヂノオキナドモ」である。古訓ではどういうわけか大臣は中立的で、群臣の大勢に押されて田村皇子継嗣に傾いたという読み方をしている。 しかし、大臣による「遺詔」の紹介の仕方を見れば、大臣が当初から田村皇子を推していたのは明らかである。 山背大兄王は、その「遺詔」なるものが自分がそれまでに聞いていた推古天皇の言葉とは異なるから、 最初から大臣に不信感を持っていたのは明白である。古訓者が①について「叔父よりも、むしろ仕える群臣たち」に不満の意思を示したと描くのは読み違えであろう。 どうも、その前の部分で大臣が一見中立を装っていることに影響を受けたのではないだろうか。後の部分を読んでから前の部分を顧みることを、しなかったように感じられる。 次に、「臣私意」を誰の「私意」とするかは悩ましい問題であった。 「伝」は、大臣が群臣の私意を「伝える」と読むのが適切であろうと一度は思ったが、実は「私意」は大臣が心に秘めた策のことであった。 なお、田村王を「皇子」とし、山背大兄王を呼び捨てにするのは、結果として皇位に就いたか否かに基づく形式上の区別であって、人物像そのものによるものではないだろう。 さて、ここでは古訓に対してかなり深入りした。 単に平安時代にはこのように訓まれたと分かればそれでよしとせず、古訓者はどのように原文の文脈を捉えたかまで踏み込んで分析すべきであろう。 この段には、それに適した材料がある。 |
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2022.04.13(wed) [23-2] 舒明天皇2 ▼▲ |
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5目次 【即位前(五)】 《群大夫等受大臣之言共詣于斑鳩宮》
山背大兄王と群大夫 二人は山背大兄王に「群大夫はこのように申しております」と伝えた。 大兄王はそれを聞き「使レ伝レ問」、 すなわち「ふむ。それでは郡大夫にこのような答えをお伝えせよ」と三国王・桜井臣に命じた。 恐らく面と向かって坐っており、声も筒抜けであろうが、直接言葉を交わさない面会形式が描かれているのが興味深い。 時代劇で見るような光景が、飛鳥時代の面会方式として飛鳥時代に書かれた文書に残っているわけである。 天皇は御簾を垂らすが、山背大兄王はどうであったあろうか。 いずれにしても山背大兄王は高貴な人物として描かれ、皇位継承の有力な候補者であったことを印象付けるものと言える。 《来之》 〈時代別上代〉は「さき:時間を表す場合、未来を表す用例は見当たらない」というが、 見出し語「ゆくさき」の意味に「行く末。将来。」を載せ、「さき」の項での説明とは食い違いがある。 ユクサキの文例として、書紀古訓の他に『類聚名義抄』と〈続紀-宣命〉を挙げている。 それぞれの出典を確認すると、 ●『類聚名義抄』仏上巻…彳部/往/「向― ユクサキ ユクスヱ」。 ●〈続紀天平神護元年〔764〕〉第32詔…「今由久前仁毛緩怠事無之天」〔今ゆく前 とある。『類聚名義抄』は11世紀末なので上代語以外が含まれる可能性は否定できないので、真正の上代語は764年の宣命である。 書紀の720年以前では、サキが未来を表すことはやはり希であろうから、ユクスヱが安全か。 《来之国政》 〈即位前2〉段で大臣が言った「推古の遺詔」とは細かな点で不一致がある。 田村皇子向けの言葉のうち「天下大任本非輙言」が、ここでは「非軽輙言来之国政是以」に置き換わっている。 「天下大任」はつまり「国政」だから、同じことである。山背大兄王向けの遺詔には天下・国政の語句が含まれていないから、田村皇子の方を推していることになる。 それでも、「汝可レ継レ位」のような直接表現を避け、ここでは「慎以言之」、〈即位前2〉段でも「慎以察之」として、 幾分相対化されている。この段は、山背大兄王の気持ちに寄り添って書かれているからであろう。 ところが、〈推古〉三十六年の詔になると、同じ内容が「昇二天位一而経二-綸鴻基一馭二萬機一以亭二-育黎元一本非二輙言一」と書かれ、もろに直接表現になっている。 思うに三十六年三月壬子条は、舒明紀を書き終えた後になって書き加えられたのではないだろうか。 書紀を選上した元正天皇は、言うまでもなくその血筋が舒明天皇から直結しており、舒明即位の正当性への疑問は微塵 《大王》 群臣の答え「臣等不知其深…」内の二重引用「称『…』」の中では、 山背大兄王を「大兄王」及び「大王」と表している。 〈北野本〉は「大兄王」についても「大王」し、二つの字の間に「兄イ」を傍書している 〔「大王:異本に大兄王」の意〕。 ここでは、〈北野本〉に従い尊敬の二人称「大王(オホキミ)」に統一するのがよいだろう。〈内閣文庫本〉が「大王 ただ、万葉集では皇子や王までオホキミと称す。 漢語の大王は、王〔皇帝の親族、諸侯王〕への尊称である。 原文を著した時点では、倭読においてはオホキミとするつもりだったと思われる。 《イヒツトマウス》 「対曰臣等不知其深……大王所察」の段は、話法が三重の入れ子になっている。 その構造は、群大夫対 古訓のトイヒツトマウスは、2・1の閉じ括弧のところに対応しているわけである。 なお、日本語の現代の書法ではかぎ括弧は「」と『』のみなので、三層目の引用を表す括弧がない。 一部に、三層目以後は「『を無限に循環するという提案を見たので、取り敢えずこれを採用した。 《大意》 このようにして、群臣(まえつきみたち)は、 大臣(おおまえつきみ)の言葉を受けて 共に斑鳩(いかるが)の宮に参上し、 三国王と 桜井臣とを通して、 大臣の言辞を山背大兄(やましろのおおえ)に啓上しました。 その時、山背大兄は言上した使いに、 群臣にこの問いを伝えよと言って 「天皇の遺詔とはどのようなものか」と仰りました。 お答え申し上げるに。 「臣どもは、その深いところを、存じ上げません。 ただ、大臣(おおまえつきみ)の仰る状況を得ただけです。 大臣が唱えるには。 『天皇(すめらみこと)が御病床に臥された日、 田村皇子に詔(みことのり)されて仰るには、 「安易に軽々しく来たるべき国の政(まつりごと)についての発言は、あってはなりません。 これにより、あなた、田村皇子は、 慎んで発言し、緩慢であってはなりません。」と仰りました。 次に君に詔されて仰るには、 「あなたは、心根はまだ若く、大騒ぎしてはなりません。 必ず群臣の言葉に従いなさい。」と仰りました。 このことはすなわち、 近侍のもろもろの女王(ひめみこ)及び采女(うねめ)たちが、 悉く存じており、また君も察せられている』と唱えました」と申し上げました。 すると、大兄王(おおえのみこ)は、 重ねて質問を伝えさせ 「この遺詔を、專ら誰が聞いたのか」と仰りました。 それに答えて 「臣どもは、その密のところを存じ上げません。」と申し上げました。 6目次 【即位前(六)】 《令告群大夫等曰愛之叔父勞思》
内容は叔父への真っ向からの反論であるが、儀礼上「愛之叔父」と前置きをする。 「親愛なる叔父様。御心配をおかけして申し訳ございません」という程度のことである。 この愛之叔父が、叔父一人に向けた挨拶であることは明らかである。「告」は最後のところに群卿向けの言葉があるが、 全体として叔父に向けられたものである。 〈即位前2〉段では「叔父の翁ども」と訓読する理由として、田村皇子を推すことへの叔父の関与を弱める意図を見た。 仮にそうだったとしても、ここでは単なる形式に過ぎない挨拶文を複雑化してしまい不自然であろう。 さらに〈内閣文庫本〉では、〈即位前2〉段で直したときに倣って〈北野本〉の「叔父の翁ども」を「叔父の叔父なれども」に置き換えるが、 「うつくしき叔父の叔父なれども労(いたは)しく思ひて」では、もはや珍妙としか言いようがない。 《栗隈采女黒女》
大久保地区の旦椋遺跡が、栗隈郷の中心地域であろうと考えられている。県が律令郡に移行したことから考えると、 栗隈県は久世郡の旧称、あるいはその中の大きな部分であったのかも知れない。 その首長であった栗隈県主家の子女が朝廷に出仕し、「栗隈の采女」と呼ばれていたようなことが考えられる。 「黒女」はその一人の名前と読むのが自然であろう。 〈姓氏家系大辞典〉の見出し語「采女」は、采女臣・采女連など「采女部の総領的伴造 《栗下女王》 栗下女王の女王には、古訓ヒメオホキミが付されている。 〈時代別上代〉によると〔ミコは〕「大宝令以前は皇子から諸王までのよび名であったが、大宝令のころより親王(天皇の兄弟や皇子)をのみミコと称した」。 また、オホキミは天皇、皇子、王、皇女、女王への敬称とされる。〈時代別上代〉によれば「男女にかかわりなく用いる尊称」とされる。 諸辞書を見ると、ミコは男女ともにいうのが一般的で、ヒメミコは書紀古訓に限定されるようである。 同様に、女王をヒメオホキミと訓むのは、書紀古訓に特有と考えられる。 書紀の成立は大宝令の後だから、その時点の呼称を全般に用いるとすれば、親王(皇子、皇女)は男女ともミコ、それ以外はオホキミとなる。 しかし、物語の中身の時代に遡り、当時の呼称を用いることにすれば、すべてミコとなる。 《女孺》 孺の本来の意味は乳飲み子である。よって女孺は、采女の小間使いの少女を指すようにも想像される。 一定の教育を受けて、聖人の采女として必要な素養を備えていったのだろうか。 そこで『令義解』を見ると、女孺は「後宮令」のみに見られる役職である。 「内侍司:女孺一百人」とある他、内侍司のひとつの役割として「検二-校女孺一」が挙げられている。 内侍司以外には女孺として、蔵司十人、書司六人、薬司四人、兵司六人、闡司十人、殿司六人、掃司十人とある。 一方女孺がおらず、采女のみ見られるのが、水司の采女六人と膳司の采女六十人。酒司・縫司には両者ともともいない。 書司、薬司、兵司への少人数の配置を見ると、専門的な仕事には携わらず、雑用を担ったと想像される。 逆に水司・膳司はすべて采女で女孺がいないのは、調理においては専門性のある作業と、雑用の区別があまりなかったためかも知れない。 これらを見ると、女孺に年齢は無関係で職名を指したとも考えられる。 しかし、内侍司に100人を抱えたのは、プールして教育を施した上で各部署に送ったことを示すとも考えられる。 すると、やはり年少者だったのかも知れない。 なお、ここでいう采女・女孺は大宝令や養老令で規定された職名であり、〈即位前7〉段の「八口采女」が「女孺八口」と同じだとすれば、ここでは采女と同じ意味で使っていることになる。 《鮪女》 鮪女(しびめ)は『令義解』の役職名には見えないから個人名であろう。他の文献にも今のところ見当たらない。 「女孺鮪女等八人」は「女孺の、鮪女(首の名前)ら八人」の意味か。 《みそなはす》 古訓では「覩」をみそはなすと訓んでいる。 〈乙本〉は、天照大神が天磐戸に閉じこもった場面で「窺之【宇加加比美多万比又美曾奈波須】」〔窺ひ見給ひ、又見そなはす〕と訓む (『新訂増補国史大系8』〔吉川弘文館1999;日本書紀私記 p.75〕)。 『政事要略』所引の『高橋氏文』逸文にも「見曽胡奈波佐牟」〔"胡"は恐らく誤り〕がある(資料[56])。 日本紀私記は奈良時代~平安中期はじめと見られている。また、『高橋氏文』成立の「792年」には確実性がある。 「上代」は奈良時代までだから、ミソナハスも上代語である。しかし、書紀が成立した720年の時点で使われていたのだろうか。 万葉には「見る」の尊敬語として「見(め)し賜へば」(0052)があるが、ミソナハスはないから、8世紀半ば以後ではないだろうか。 「窺之」に二種類の古訓がつくのは、それぞれが異なる時代につけられたことを反映しているようにも思える。 《寡薄》 「寡薄」の寡にはやもめ(寡婦)の意味があるので、推古天皇自身の境遇を含める意味合いもあるのかも知れない。 基本的には、自らを取るに足らない人物であると、謙遜するものである。ただ古訓「賤しき身」は身分としての賤民の意味合いが強く、ややニュアンスが異なる。 《慎以言》 推古天皇が山背大兄王にこれだけ好意的に、あなたこそが天下に当たるべきだという如く語りながら、締めくくりが「謹以言」では肩透かしである。ここは「慎以継」〔あるいは慎以即位〕であるべきであろう。 即位を促した上で「慎以言」と言ったのなら、「自分で皇位に就くと言え」と読まねばならず、これはなかなか敷居が高い。 しかし、山背大兄王は「勇躍歓喜」〔歓びに躍り上がる〕したのは、皇位に即けと言われたと受け取ったからである。 ことによると、もともとの「継」の字を、書紀が最終段階で「言」に直したのかも知れない。 しかし、よく見ると〈即位前5〉段で田村皇子を指名したとされる箇所でも、「継げ」ではなく「慎以言之」になっている。 結局、論点は「状況を慎重に見極めて、自分が即位すべきだと判断したら言え」と、二人のうちどちらに向かって言ったのかということになる。 これは、推古天皇による指名の絶対性を、ここでは弱めたものと言える。 少なくともこの場面では、書紀は立ち位置を山背大兄王への同情に、一歩近づけている。 但し、決定的なのは「必宜従二群臣言一」なる文言で、これにより群臣の意見が「田村皇子即位」にまとまれば、山背大兄王はそれに抗うことはできなくなるのである。 《必宜従群臣言》 この①「必宜従群臣言」は、群臣に言ったときは②「必従群言慎以勿違」、〈推古〉三十六年では③「必待群言以宣従」であった。 これらは同じ意味であるが、②に「臣」がないのが気にかかる。 ②が最初の形で、「群」は本来「朕」だったとは考えられないであろうか。 そして「群」をより明確にするために、①では「臣」を加えた。 ③でも「待て」を加えることで「群臣」の意味を持たせようとしたと感じられる。 《大意》 聞き終えて、さらにまた群大夫等(まえつきみたち)に告げさせました。 ――「愛しい叔父(おじ)には、ご苦労のことと思います。 一介の使者ではなく、重臣等を遣わされ教え諭されることは、 大恩でございます。 しかしながら、今群卿(まえつきみたち)が言う天皇(すめらみこと)〔推古〕の遺詔は、 少々私の聞いたところと相違があります。 私は天皇が御病気と聞き、 馳せ参上して御門のところで待機しました。 その時、中臣連(なかとみのむらじ)弥気(やけ)が、 禁裏より出てきて申すには『天皇の仰せでお喚びになったおられます』と申しました。 そこで、お進みして内門に向かいました。 そこでまた、栗隈(くりくま)の采女(うねめ)の黒女(くろめ)が、 大庭の中で迎え、大殿に引入れました。 そして、近習の者は栗下(くりもと)女王を始めとして、 女孺(にょじゅ)は鮪女(しびめ)らの八人、 併せて数十人が天皇の側に仕えておりました。 また、田村の皇子もいらっしゃいました。 その時、天皇は御病気が重く、私をご覧になることができませんでした。 そこで、栗下女王が、 『お喚びになった山背大兄王が到着いたしました』と申し上げました。 すぐに天皇は起き臨まれ、詔されるに、 『朕は、寡薄(かはく)ではありましたが、久しく大業に労しました。 今、暦は巡り、まさに終わろうとして、病を諱(い)む〔=逃れる〕べくもありません。 よって、あなたはもともと朕の心腹にあり、 愛寵の情は比ぶべくもありません。 国家の大基(おおもと)というものは、 朕の世に限らず、自ずから本務です。 あなたは肝若くあります〔=若年〕が、慎しんで言いなさい』と詔されました。 7目次 【即位前(七)】 《我蒙是大恩而踊躍歡喜不知所如》
「然我豈餮二天下一」〔しかれども、あに我、天下を貪(むさぼ)らむか〕、 つまり自分の野望ではないという。ひたすら遺詔の真実を明らかにすることを求める。 もちろん、その結果自分が指名されたことが明らかになれば受ける気満々なのは、「踊躍歓喜」の言葉から分かる。 群臣たちには、「厳矛(いかしほこ)」の如く厳正に判断し、モノ申して欲しいと要請するのである。 《以懼以悲》 「以懼以悲」の以は前置詞または動詞と見るのが妥当であろう。 すると、懼・悲は名詞としなければならない。 ウツクシビ、カナシビなどは、形容詞にビ(または)ミをつけた形である。 これは、形容詞の語幹に、動詞語尾ビ乙〔またはミ乙〕をつけたものと理解され、 上二段活用動詞の連用形となる。ただ、連用形以外は使用されない。 そのまま名詞化するとも考えられ、〈時代別上代〉はウツクシビを名詞として見出し語を立てる。 また、カナシビは動詞「かなしぶ」の項において「名詞としてのカナシビも想定される」と述べる。 懼は動詞オソル・カシコムが考えられる。動詞の連用形について〈時代手別上代〉は「連用形は名詞に転生する。 …先行の叙述を受けて体言化することもある。もちろん独立した名詞になることもある」と述べる。 ならば名詞オソリ、カシコミもあるはずだが、同辞典は見出し語に立てない。実際に用例が発見できたもののみを載せるようである。 《踊躍歓喜不知所如》 踊躍歓喜・不知所如は対句構造で、肯定的な感情と否定的な感情を対比的に並べる。 前文のうち「以懼」は「畏れ多くも継位を仰せつかった」意味で、これを「踊躍歓喜」が受ける。 「以悲」は推古天皇の余命僅かを知ったときの感情で、「不知所如」が受ける。 つまりは「以レ懼踊躍歓喜・以レ悲不レ知レ所レ如」ということである。 「不知所如」の古訓「せむすべをしらず」は、書紀古訓における定型表現で、著しく嘆き悲しむ様子を表す。 セムのセはスの未然形、ムは推量〔ここでは意思〕の助動詞の連体形である。 《曽》 曽は一般的にカツテと訓む。古訓の「イムサキ」は書記古訓限定の語。「忌む先」のようにも思えるが、使い方から見て考えにくい。 イニシヘが「往にし辺」と解されてことから考えると、その類語「イニシサキ(往にし先)」が誤写され、固定化したのではないだろうか。 《社稷宗廟重事也》 山背大兄王は「社稷宗廟重事也。我眇少以不賢何敢当焉」 〔国家は重いことなのに、若輩で聡いわけでもない私が受けてよいものだろうか〕という。 これは、推古天皇が自分を指名したと受け止めたからこそ、出た言葉である。 《未有可噵之時》 未有可噵之時への〈北野本〉の古訓は、「未」に「レ」のただ一文字を振るのみである。 一見不可解だが、これは未が「イマダ…ズ」と再読される文字で、そのズを已然形にして接続助詞バをつけよという意味である。 すなわち、「未だ噵ふべき時に有らざれば」と訓む。已然形だから因果関係は確定し、ここでは過去の時制をも示す。 〈内閣文庫本〉はその意図を理解して「レハ」と訓を振っている。 《八口采女鮪女》 「八口采女鮪女」は、〈即位前6〉段の「女孺鮪女等八人」と同じ八人か。 だとすれば、「職員令」(上述)では采女と女孺を異なる職として規定するが、ここでは厳密な区別はされていない。 ただ、そもそも両伝説は別個の出典によるもので、同じように「八人の女性の側近」が出ては来るが、それぞれに別個に職名が宛てられていたという見方もできる。 問題は「鮪女」で、〈即位前6〉段では個人名として切り抜けようとしたが、「八口采女鮪女」に至り不可能となった。 もし鮪女があるのなら鯛女 話を本筋に戻すと、おそらくは、何らかの文字記録が残っており、書紀執筆者はそれを見てシビメが職名であると誤解したのではないだろうか。 実際には八名の代表者の名前と見るのが順当だから、訓読によって何とかならないものかと思う。 《上宮王家》 前項で述べたように、元となった古記録または伝説の存在が想定される。さらには、これだけ字数を割いて山背大兄王の事績を載せたこと自体に、上宮王家の勢力の大きさを感じさせる。 上宮王家を納得させる配慮がなされたと、考えるべきであろう。 そこで、上宮家の行く末が実際どうだったかを見てみる。 〈姓氏家系大辞典〉には「上宮乳部 カミツミヤノミブ:上宮家の壬生の民を云ふ。皇極紀元年条に「上宮乳部の民」と見ゆ。 上宮とは聖徳太子の後なる諸王家を云ふ」とあるのみである。 「聖徳太子の後なる諸王家」について、この他の記載はない。 様々な検索語を用いても、上宮家の末裔を自称する氏族が登場する史料は、なかなか見つからない。 その後〈皇極〉二年になり、蘇我入鹿が遂に山背大兄王一族を滅ぼした。その行動は 「独謀、将下廃二上宮王等一而立二古人大兄一為二上天皇一」で、 その動機については「蘇我臣入鹿、深忌三上宮王等威名振二於天下一、独謨二僭立一。」と書かれる。 これらの記述からは、上宮王家が依然として大勢力であったことが窺える。 その後については、〈天武紀〉〈持統紀〉で登場する難波王が、難波麻呂子王と同一であるとする見方がある。その真偽は判定のしようがないが、上宮王家からの家系が全く残っていないとするのも現実的ではないのは確かである。 皇位を目指し得るような勢いは既にないが、 それでも一族が一定の規模で存続し、その私家文書が保持されて、〈舒明即位前期〉や『帝説』に用いられたと見ることもできる。 書紀は、公式には〈推古〉三十六年の遺詔によって田村皇子への継承を規定する。それは書紀の時代の天皇家の正統性を保証するために、必要であろう。 それでも、エピソードとして山背大兄王の道徳的で高潔さのある人物像を盛り込み、その言い分に一定の理解が得られそうな記述がなされている。 それは一族の自尊心を満たし、居場所を与えるためだろうと考えることができる。 加えて、後の入鹿の所業を見るとき、蝦夷による田村皇子擁立を肯定的に描き切ることも、躊躇されたのであろう。 《所遣》 所遣の古訓には、ツカハセル・ツカハサレタル〔それぞれツカハセリ・ツカハサレタリの連体形〕の二種類があることは、まさに「所」に名詞化と、受け身の機能があることを表している。 万葉では、日本語の受け身の助動詞「ラル」に受け身と自発があることから、「所」字はしばしば自発に用いられる。 もし「為」を補って「為大臣所遣」とすれば、受け身であることが確定する〔為は、英語の受動態で行為者を示す"by"に相当する〕。 なお、ツカハサレタルについては、完了の助動詞タリは記紀〔古訓を除く〕にはまだ使用されないとされる。 上代の受け身の助動詞は、ルよりユの方が優勢だったと言われるので、上代語らしい訓は、ツカハサユル〔受け身〕・ツカハサエル〔受け身+完了〕となろう。 また、同意語のマダスを用いると、マダセル〔完了〕・マダサユル〔受け身〕・マダサエル〔受け身+完了〕となる。 《大意》 このことを、当時仕えていた近習は、皆知っています。 よって、私はこの大恩を蒙り、 一方では畏まり、他方では悲しみ、 踊躍歓喜しつつ、なすすべを知りませんでした。 その時思ったのは、社稷宗廟〔国家〕とは重いものである。 私は愚か者で賢明ではなく、どうして敢て引き受けられるかということです。 当時、叔父や群卿たちに語ろうと思いましたが、 しかし、まだ言うべき時ではなかったので、 今まで黙っていただけです。 私はかつて叔父の病気を見舞おうと、 〔飛鳥の〕都に向かい、豊浦寺におりました。 この日、天皇は鮪女(しびめ)はじめ八人の采女(うねめ)を遣わし、 詔を伝えさせ、 『あなたの叔父の大臣(おおまえつきみ)は、常にあなたのことを貶(けな)して、 「百年後にも嗣位があなたに回ってくることはないだろう」と言っていました。 ですので、慎んで自愛しなさい』と仰りました。 既にことは明らかです、何を疑うことがありましょう。 だからと言って、私が天下を餮(むさぼ)る〔欲望のままに手に入れる〕ことなどありましょうか。ただ、聞いたことを明らかにしただけです。 これは、天神(あまつかみ)、地祇(くにつかみ)が共に証していただけることです。 よって、冀(こひねがわ)くば、正しく天皇(すめらみこと)の遺詔を知りたいと望むものです。 また、大臣(おおまえつきみ)が遣わした群臣(まえつきみたち)は、 もとより厳矛(いかしほこ)のように厳正に、 事の中を取り持ち、奏請する役目を負った人たちです。 このように、よく叔父に申し上げなさい」。以上が、山背大兄が告げたことです。 まとめ 公式には、推古天皇から田村皇子への皇位継承は決して揺るがない。 ただ、この場面ではかなり山背大兄王に同情的に描かれたことが、微妙な表現に現れている。 経過が事細かに書かれていることからは、上宮王家の子孫が依然として残り、それだけの記録を保持していたことが窺われる。 だとすれば、その内容が山背大兄王寄りになるのは当然である。 古事記においては、敗北した側への好意的な扱いが目立った。先祖が敗北した氏族は数多く存在するが、 彼らも誇りをもって国の営みに参加できるようにしようという姿勢を見た。こうして意識を統合して、中央集権化を推進しようとする。 〈舒明即位前〉に多くの文字数を割いていることにも、同様の意義が感じられる。 ただ、それだけではなく、より根源的には判官贔屓 上層部は、皇位継承の正統性だけは崩せないから、問題になる表現があれば辻褄が合うように修正や削除を行ったようである。 今回の部分を細かく見ると、そのような字句修正の痕跡が見える。 ただ、直してもまだ疑念が払拭しきれず、最終的に〈推古紀〉に三十六年三月壬子条を書き加えることによって決着をつけたと思われる。 |
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⇒ [23-3] 舒明天皇2 |