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2022.03.08(tue) [22-11] 推古天皇11 

22目次 【三十一年】
《新羅遣大使貢佛像一具及金塔幷舍利》
卅一年〔卅年〕秋七月。
新羅遣大[使]奈末智洗爾
任那遣達率奈末智、
並來朝。
仍貢佛像一具及金塔幷舍利
且大觀頂幡一具小幡十二條。
卽佛像居於葛野秦寺、
以餘舍利金塔觀頂幡等
皆納于四天王寺。
奈末智洗爾…〈岩崎本〔以後岩〕〔ダス〕-使--セン-
奈麻…新羅の骨品制(〈推古十八年〉);第十一位。
大奈麻…新羅の骨品制;第十位。
達率…百済の位階(〈安閑元年〉);第三位。
達率奈末智…奈末智は人名。〈岩〉タツ-ソツ--
来朝…〈岩〉[ニ]来朝  ケリ〔ならびにまゐおもぶけり〕
ならびに…[副] 〈時代別上代〉:「廿二ノ衆ハナラビニ生死ノ淤泥ヲ出デタリ」 (高山市本弥勒上生経費古点)などのナラビニは、同様に並んで、ともにの意の副詞として用いられたもの。
仏像一具[テ][ノ]ヒト-ソナヘ[切]及金[ノ]-タウ[テ]-利[ヲ][句]且大[ナル]-クワン-チヤウ[ノ]ハタ一- ヘ[切]小-幡チヒサキハタアマリ二-スチ[句]りてほとけみかた一具ひとそなへ及び金塔こがねのたうあはせて舍利しやりたてまつる。かつおほきな観頂くわんてやうはた一具ひとそなへ小幡ちひさきはた十二條とをあまりふたすぢ(をたてまつる)。〕
…[動][副] (古訓) よる。かさぬる。ついて。
観頂幡…「灌頂幡」は、仏像の上方に天井から下げて飾る幡。 幡蓋(〈欽明20〉)も同じと思われる。 金銅製の「金銅灌頂幡」(国宝)が法隆寺宝物館に展示されている。
ましまさす…[他] マシマス(自動詞)の未然形+動詞語尾(四段)。マシマスの他動詞もしくは使役形と思われるが、各種の古語辞典とも見出し語マサス・マシマサスを立てない。
葛野秦寺…佛[ハ]ヲハマシマサシ於葛-野[ノ]ハタウツマサ[ニ][句]アタシ[ノ]舎-利。
葛野…〈倭名類聚抄〉{山城国・葛野【加止乃】郡・葛野【加度乃】郷}。
四天王寺…等[ヲ][テ]イレ于四[ニ][句]
三十一年〔三十年〕秋七月(ふみづき)。
新羅(しらき)は大[使]奈末(おほなま)智洗爾(ちせんに)を遣(まだ)して、
任那(みまな)は達率(たつそつ)奈末智(なまち)を遣(まだ)して、
並(な)べて来(まゐき)て朝(みかどををろが)む。
仍(よ)りて[貢]仏像(ほとけのみかた)一具(ひとそなへ)[及]と金(くがね)の塔(たふ)と并(あは)せて舎利(しやり)と
且(また)大(おほ)きなる観頂(くわんちやう)の幡(はた)一具(ひとそなへ)と小幡(ちひさきはた)十二条(とをあまりふたくだり)をたてまつる。
即(すなはち)仏像(ほとけのみかた)をば[於]葛野(かどの)の秦寺(はたでら)に居(す)ゑまつりて、
余(あたし)の舎利(しやり)金塔(くがねのたう)観頂(くわんちやう)の幡(はた)等(ら)を以ちて、
皆(みな)[于]四天王(してんわう)寺(じ)に納(をさ)めり。
是時、
大唐學問者僧惠齋
惠光
及醫惠日
福因等
並從智洗爾等來之。
於是、惠日等共奏聞曰
「留于唐國學者皆學以成業、
應喚。
且其大唐國者法式備定之珍國也、
常須達。」
学問者…〈岩〉是時[ニ]大-唐〔ロコシ〕--モノナラ-僧惠-サイ-光[切]クスシ-ニチ-因[切][ニ]
来之…〈岩〉[ニ][テ]来之〔マヰ〕[句][切]
成業…〈岩〉[ニ]奏-聞[テ][切]マル于唐-國モノナラヒ[切]ナラヒ[テ]ナセリ〔ナシ〕ミチ[ヲ][句]〔ベシ〕メス[句]
奏聞…臣下が天子に申し上げる。
…[名] (古訓) みち。なりはひ。
珍国…〈岩〉カノ大唐國[ハ]-ノリノ/ソナハリ[ル]サタマラ[ル]メツラシキ〔カラ〕[ノ]-國[ナリ]ナリ[句][ニ]〔ベシ〕メス[句]
是時(このとき)に、
大唐(だいたう、もろこし)の学問者(ものならひびと)僧(ほふし)恵斎(ゑさい)、
恵光(ゑくわう)らと
[及]医(くすし)恵日(ゑにち)、
福因(ふくいむ)等(ら)におよびて、
並(な)べて智洗爾(ちせんに)等(ら)に従ひて来之(まゐく)。
於是(ここに)、恵日等(ら)共に奏聞(まを)して曰(まを)ししく
「[于]唐国(たうのくに、もろこし)に留(とど)まる学者(ものならひひと)、皆(みな)学(ものなら)ひて以ちて業(みち)を成(な)せり、
喚(め)したまふ応(べ)し。
且(また)其の大唐(だいたう)の国者(は)法式(のり)備(そな)へ定(さだま)りたる[之]珍(めづら)の国(くに)なり[也]。
常に須(かならず)達(かよ)はしめたまふべし。」とまをしき。
《三十一年》
 現代の通用本では三十一年三十二年三十三年三十四年となっている年について、〈岩崎本-傍書前〉ではそれぞれ卅年卅一年卅二年卅四年としている。
 〈北野本〉と〈図書寮本〉では、既に通用本と同じになっている。
*1 岩崎本
*2 北野本
タツソツは"達率"に付された訓み。「」の左の「―○」は、岩波文庫版『日本書紀』によればミセケチ〔見せ消ち〕
*3内閣文庫本
"交本消"は"或本消"の誤写か
*4 元嘉暦モデルとの照合
岩崎本
傍書前
通用本朔日該当する
元嘉暦年
三十年三十一年 なし
三十一年三十二年四月丙午朔三十一年
九月甲戌朔三十一年
十月癸卯朔三十一年
三十二年三十三年正月壬申朔三十二年
三十三年三十四年五月戊子朔三十四年
三十五年三十五年 なし
通用本(現代)三十一年三十二年三十三年三十四年三十五年
岩崎本*1) 三イ四イ丗五年
図書寮本丗一年丗二年丗三年丗四年丗五年
北野本*2)-o一年 二丗三年丗四年丗五年
内閣文庫本*3)卅一。/交本消卅二年卅三年卅四年卅五年
元嘉暦モデル*4)三十一年三十二年三十四年
 〈北野本〉など後に変更された結果を、〈岩崎本〉は、後から傍書したと見られる。
 本サイトの元嘉暦モデルによる計算結果では、31年と32年は〈岩崎本〉が適切で、34年は〈北野本〉・〈図書寮本〉に合致する。 従って、元嘉暦との整合性を保つためには〈岩崎本〉の33年のみを34年に直し、他は〈岩崎本-傍書前〉の通りとするのがよい。
 空白になる年は、〈北野本〉以後:30年、〈岩崎本-傍書前〉:34年、元嘉暦モデル:33年となる。 八木書店のコラムによると、それぞれの写本の年代は 〈推古〉巻の〈岩崎本〉:寛平・延喜年間〔889~923〕、〈図書寮本〉:平安末期〔1100年代〕、〈北野本〉:院政期〔1068~1221〕という。 これに拠れば、元々の書紀の形に忠実なのは〈岩崎本-傍書前〉で、以後の写本において修正され、それが逆に〈岩崎本〉の傍書に反映されたように思われる。
 一方朝鮮半島の歴史を参照すると、後述するように、『三国史記』には〈推古〉三十年〔622〕に百済対新羅の戦闘はなく、〈推古〉三十一年〔623〕には百済が新羅の勒弩県に侵攻している。 これに関連付けるために、三十年の内容を三十一年に送り、以後三十三年までを玉突きで送られた可能性がある。 しかし、元嘉暦と合わなることには無頓着だから、随分雑な判断である。
 関連して、『広隆寺資材校替実録帳面』には「推古三十歳次壬午」が広隆寺建立の年とある(下述)。この文書自体は室町時代のものであるが、 その元になった古い記録が、〈岩崎本-傍書前〉の「三十年」に拠ったのではないかと思える。
《大使奈末智洗爾》
岩崎本
 〈岩崎本〉では「大使奈末智洗爾」の初めの形は「大奈末智洗爾」で、各文字に声点を添えている(右図)。そして、後世にの間に「使」を傍書している。奈末智洗爾ナ/ミ/チ/セン/ニと訓が振られているが「」には振られていないから、ナミチセンニと振ったのは「使」を傍書した後ということになる。 "奈麻"の別表記が"奈末"だと考えられるが、古訓者はナミと訓んでいる。これは二重の誤り〔①末と未の混同。②"奈麻の別表記"の無理解〕である。
 比較のためにこの前後にある「遣…」の文を見ると、「」には直接人名が続き、「大使」が付くとすればここだけである。 従って、ここに「大使」がなかったとしても特に問題はない。 むしろ、「大使」があれば「副使」が対となるはずで〔実際に〈敏達〉元年の例がある〕、「大使」は本来考えにくい。
 新羅の位階には「大奈麻」がある〈推古十八年〉から、初めの形で成り立つ。ところが、誰かがそこに「使」を挿入した。その人物は、新羅の位階に無知であったが如くである。
 ところが、後段で出て来る「奈末智洗遅」は「智洗爾」の誤記である可能性が高く、こちらには「大」がついていないことが悩ましい。 結局、大[ ]奈末智洗爾」に"使"を補う。[ ]奈末智洗」に""を補いに直す。大奈末智洗爾」と「奈末智洗遅」を別人物と見て〈岩崎本-傍書前〉のままで置く。から選択しなければならない。 あらゆる推定を排除するのならだが、書紀執筆の段階で既にぶれがあった〔古記録の段階で混在か〕と仮定するならもあり得る。しかし、はもっとも不適切であろう。
《達率奈末智》
 〈推古〉三十一年も十八年、十九年に引き続いて、新羅使と任那使がワンセットで来朝する。これまでは、任那使も新羅の位階を負っていたが、 今回の使者「達率奈末智」は、百済の位階を負う。百済と新羅の国境地帯は国土の奪い合いが続いており、時には服属した百済人が新羅の官僚組織に採用されることもあったが、 その場合でも、これまで負っていた位階が名前の一部のようになって維持されたことが考えられる。
 あるいは、逆に十八年・十九年の「任那使」は旧加羅地域居住の人物で、新羅から新たに位階を与えられた可能性もある。
《貢仏像一具》
 〈岩崎本〉の訓点は「」…「舎利」として、動詞「貢」の目的語の範囲を指定している。
 また、よく見ると「十二条」にも「」があり、水で消したように見える。しかし、消す前の方が正しい。 「舎利」だと、「且…十二条」は「カサヌ…十二条」としなければならないはずだが、この返り点はない。 従って返し点「」の移動は中途半端に終わっている。「一二」の代わりに「上下」を使ったのは、暫定的な提案のように思える。
《葛野秦寺》
 葛野秦寺は、秦造河勝が建立した「蜂岡寺〔また広隆寺〕の別名とされている。 その後の移転について、〈推古十一年〉で詳しく見た。
 『広隆寺資材校替実録帳面』〔『大日本仏教全書』119による〕には、その創立は 「推古天皇治天下卅歳次壬午。大花上秦造河勝奉為上宮太子建立」と書かれている。
 ここでも、秦氏が国家の仏教化において相当の役割を果たしていたことが分かる。
《四天王寺》
 四天王寺の建立は〈推古元年〉とされるが、「推古元年」は実記録というよりは象徴的な表現であろう。 〈崇峻天皇即位前紀(用明二年)〉に、当時少年だった聖徳太子が「必当護世四王二上-立寺塔〔必ず護世四王のために寺塔をたてまつるべし〕との決意を語った一文がある (〈崇峻3〉)。
 その項では『四天王寺寺領帳』に、物部室屋を滅ぼした際に室谷の別業なりどころを接収し、それが四天王寺の寺領に宛てられたとする記録を見た。
《新羅伐任那任那附新羅》
是歲。
新羅伐任那、
任那附新羅。
於是、天皇將討新羅、
謀及大臣詢于群卿。
田中臣對曰
「不可急討。
先察狀以知逆後擊之、
不晩也。
請試遣使覩其消息。」
…〈岩〉ハカリコト大臣[切]トフラヒタ〔マフ〕于群卿[句]
…[動] 一同にとう。はかる。(古訓) とふ。はかる。とふらふ。
…〈岩〉田中ヲン〔コタヘ〕〔ウシ〕[テ][切]スミヤカニ[ニ]ウツミテカタチ[ヲ][テ]以知シタカハヌ[コト][ヲ][テ][ニ][コト]トモヲソカラ[句]。 消息…〈岩〉コフ[ニ][シム]三レ使[ヲ][テ]-アルカタチ[ヲ][句] ふ。こころみ使つかひまだして其の消息あるかたち〔めたまへ〕〕。 「三レ」は再読を示す。
こころみに…[副] 『類聚名義抄』法上「嘗試【心ミニ】」。
是歳(このとし)。
新羅(しらき)任那(みまな)を伐(う)ちて、
任那、新羅に附(つ)けり。
於是(ここに)、天皇(すめらみこと)[将(まさ)に]新羅を討たむとして、
謀(はかりごと)大臣(おほまへつきみ)に及ぼて[于]群卿(まへつきみたち)に詢(とぶら)ふ。
田中の臣(おみ)対(こた)へて曰(まを)ししく
「急(すみやかに)討(うつ)不可(べきにあらず)。
先(まづ)状(ありさま)を察(み)て[以ちて]逆(さかふるかたち)を知りて後(のち)に[之(こ)を]擊(う)てど、
不晩(おそからじ)[也]。
請(ねがはくは)試(こころみに)使(つかひ)を遣(つかは)して其(その)消息(ありさま)を覩(み)しめたまへ。」とまをしき。
中臣連國曰
「任那是元我內官家。
今新羅人伐而有之。
請、戒戎旅征伐新羅
以取任那附百濟。
寧非益有于新羅乎。」
田中臣曰
「不然。
百濟是多反覆之國、
道路之間尚詐之。
凡彼所請皆非之。
故不可附百濟。」
則不果征焉。
内官家…〈岩〉〔ウス〕[切]任-那[ハ]是元我[カ]-ミヤナリ[ナリ][句]。 〈内閣文庫本〔以後閣〕官-家ミヤケナリ。 〈北野本〔以後北〕官家ミヤケナリ。 〈図書寮本〔以後図〕[切]ミヤケナリ[句]
…〈岩〉有之 ヱツ  エツ 。 〈図〉ヱツ。 〈北〉エル。 〈閣〉エツ〔得ツ〕
戎旅…〈岩〉イマシメテ戎-旅イクサ[ヲ]-ウテ新羅[ヲ]
…[名] 兵士。武器。
…[名] 軍隊。
非益…〈岩〉アラサランシルシ[ニ]于新羅[ヲ][句]
…[前] ここでは比較の前置詞と見られる。~よりも。
不然…〈岩〉田中臣曰[切][ハ][句] 〔しからば/しからず。〕
反覆…〈岩〉-カヘ\/シカヘ\/シキ之國[ナリ]ナリ 道-路之アヒタニスラモ[切]イツハレ〔サムク〕[句]
かへかへし…[形] 〈時代別上代〉「推古紀三十一年に見えるカヘカヘシ(形)はカヘスに関係する語であろう。
非之…〈岩〉凡彼マウス[切]非之ヨクモアラス[切]
…[動] (古訓) あらす。あらぬ。あし。
不果征…〈岩〉[テ]ウタ[句]
中臣連(なかとみのむらじ)の国(くに)曰(まを)ししく
「任那(みまな)是(これ)元(もとより)我(わが)内官家(うちつみやけ)なり。
今新羅(しらき)の人伐(う)ちて[而]之(こ)を有(も)てり。
請(ねがは)くは、戎旅(いくさ)を戒(いまし)めて新羅を征伐(う)つべし。
以ちて任那を取りて百済に附(つ)けば、
寧(むしろ)新羅(しらき)于(よ)り有(も)つことに益(かが)非(あらざ)らむ乎(や)。」とまをしき。
田中の臣(おみ)曰(まを)さく
「不然(しからず)。
百済(くたら)是(これ)多(さはに)反覆之(くつがへす)国にて、
道路之(みちゆく)間(ま)に尚(なほ)[之]詐(あざむ)く。
凡(おほよそ)彼(か)の請(こ)ふ所、皆(みな)[之]非(あ)し。
故(かれ)百済(くたら)に附(つ)く不可(ましじ)。」とまをして、
則(すなはち)征(うつこと)を不果(はたさず)[焉]。
爰遣吉士磐金於新羅
遣吉士倉下於任那
令問任那之事。
時、新羅國主遣八大夫、
啓新羅國事於磐金、
且啓任那國事於倉下。
因以約曰
「任那小國、天皇附庸。
何新羅輙有之。
隨常、定內官家。
願無煩矣。」
吉士…〈岩〉𠮷士キシ イハ - カネ [ヲ]
倉下…〈岩〉倉-下クラシタクラノシシモマ右図。 〈北〉倉下クラノシ/クラシ。 〈図〉。 〈閣〉倉下クラジクラノ シタヲ。 〈釈紀〉倉下/クラジクラノシ 私記説
八大夫…〈岩〉[ニ]新羅國[ノ]キミ[切]ヤタリノ[ノ]マチキミタチ[ヲ][テ]
国事…〈岩〉新羅國[ノ][ヲ]
附庸…〈岩〉任那小-國[ト][モ]トモ[切]天皇[ノ]附-庸ホトスカノクニナリ[句]。 〈北〉任那ミマナハ小国スコシキク■。 〈閣〉小国スコシキクニナレトモ。 〈北・図・閣・釈紀〉附庸ホトスカノクニナリ。 〈仮名日本紀〉附庸ホトりノクニ
隨常…〈岩〉何新羅エンエン[ム][句]マゝ[テ]内-官ウチツミヤ-家[ト][句]
無煩…〈岩〉[ハ]ワスラヒ[コト][コト][句]
爰(ここに)吉士(きし)磐金(いはかね)を[於]新羅(しらき)に遣(つかは)して、
吉士(きし)倉下(くらじ)を[於]任那(みまな)に遣して、
任那之(の)事(こと)を問は令(し)めたまひき。
時に、新羅(しらき)の国の主(きみ)八(やたり)の大夫(まへつきみ)たちを遣(まだ)して、
新羅の国の事を[於]磐金に啓(まを)して、
且(また)任那の国の事を[於]倉下に啓(まを)す。
因(よ)りて約(ちかひ)を以ちて曰(まを)ししく
「任那は小国(すこしきくに)なれど、天皇(すめらみこと)が附庸(ほどこしたまふくに)なり。
何(なに)そ新羅輙(すなはち)之(こ)を有(も)てるや。
常(つね)の隨(まにま)に、内つ官家(みやけ)を定めたまへ。
願(ねがは)くは煩(わづら)ひたまふこと無かれ[矣]。」とまをしき。
則遣奈末智洗遲
副於吉士磐金、
復以任那人達率奈未遲
副於吉士倉下、
仍貢兩國之調。
奈末智洗遲…〈岩〉-末-智セン-
達率奈未遲…〈岩〉-率-未-智
仍貢…〈岩〉[テ]兩國之調[ヲ][句] よりふたつの国調みつきたてまつる
則(すなはち)奈末(なま)智洗遅(ちせんち)を遣(まだ)して
[於]吉士磐金に副(そ)へて、
復(また)任那の人達率(たつそつ)奈未遅(なみち)を以ちて
[於]吉士倉下に副(そ)へて、
仍(よ)りて両国(ふたつのくに)之(の)調(みつき)を貢(たてま)つる。
《新羅伐任那》
 任那は〈欽明天皇〉のときに新羅に滅ぼされたはずなのに、ここでまた「任那」と書かれる。
 後述するように、百済の支配下にあった椵岑城が、〈推古〉二十六年〔618〕、新羅によって奪還された。椵岑城は現在の忠北と言われるが、 それを任那地域の如く扱い、その 実際、『朝鮮三国志 高句麗・百済・新羅の300年戦争』〔紀元社;小和田泰経〕)のように、「椵岑城は、もともと伽耶諸国があった地域に位置している」と述べる書もある。 …一般向け読み物であるが、「すべて史料に依拠したものである」と序文で述べるので、椵岑城の位置についても何らかの研究の結果だと思われる。
 もともと「任那国」なるものは存在せず、諸国の「総言〔つまり地域名〕であることは〈欽明紀〉原注で明記されている(資料[32])。
《田中臣》
 田中臣については〈天武天皇即位前期〉に「田中臣足麻呂」、〈天武十年〉に「田中臣鍛師」の名がある。 〈天武〉十三年には、「田中臣…凡五十二氏賜姓曰朝臣」とあり、朝臣姓を賜る。 同時に朝臣姓を賜った氏族には、膳臣、物部連、中臣連など錚々そうそうたる名前が並ぶから、 有力氏族であった。
 神話上の祖は、古事記に「天津日子根命…倭田中直…等之祖也」(第47回)が見え、 〈姓氏家系大辞典〉は「田中直:大和国高市郡田中邑より起る」、 「田中臣:蘇我氏の族にて…これも前項の田中邑より起る」と述べる。
 〈孝元段〉には、建内宿祢〔武内宿祢〕の男に「蘇賀石河宿禰…田中臣…等之祖也」、 〈新撰姓氏録〉〖田中朝臣/武内宿祢五世孫稲目宿祢之後也〗が見える(第108回)。
《中臣連国》
 中臣連は、遠祖を天児屋命あまのこやねのみこととする。 天石窟あまのいはやに閉じこもった天照大神を引っ張り出すときに、天児屋命は占いをして、また岩戸の前で祝詞を言祝ぎした(第49回)。
 〈延喜式〉巻八に「凡祭祀祝詞者。御殿。御門等祭。斎部氏祝詞。以外諸祭。中臣氏祝詞〔御殿・御門等の祭は斎部氏が祝詞し、その他の諸祭は中臣氏が祝詞する〕とあり、 中臣氏は、大部分の祭祀の祝詞を担当する。 〈姓氏家系大辞典〉の説明に基づいて、中臣連の系図の一部を示す。
 ・天児屋命─…〔中略〕…─阿麻毘舎卿連─阿毘古連─真人連─鎌子連─常盤大連公─中臣可多能祜大連 ┬御食子

├国子 

└糠手子
─鎌足─不比等

─国足─意美麿

─許米─大島
 ただし同辞典には、 「阿毘古の一代は詳かならざれど、阿麻毘舎以後は史実なるべし」、 「中央の中臣氏は、…鎌子、勝美〔勝海〕の二代・仏敵となりて亡び」 「常盤の家・これに代りて中臣連となり、遂に天下に大を成したるや明白ならんか。」とあり、 鎌子連と常盤大連公の接続は恣意的になされたものと見ている。中臣勝海は、仏教導入派の蘇我馬子と対立して殺された人物である (用明二年四月)。
 「中臣連」は「国子」の別名とされ、〈図書寮本〉では次段で「」の下に「」が傍書される。 可多能祜大連の子御食子国子糠手子からの各系列を、「中臣三門」という。
 〈天武十三年〉に朝臣姓を賜る。〈姓氏家系大辞典〉によれば、神護景雲三年〔769〕に「大中臣朝臣」を賜り、「大中臣氏も中臣氏より出で、その後も通俗には中臣と云」ふ、すなわち大中臣氏は「中臣」に美称を加えたもので中臣からの継続性をもつとする。 これについては〈釈紀〉神護景雲三年六月乙卯条に、「詔曰。神語有大中臣。而中臣朝臣清麻呂。両度任神祇官。供奉無失。是以、賜姓大中臣朝臣〔神語〔夢で見た神のお告げか〕に「大中臣」と言われた。しかして中臣朝臣清麻呂は二度神祇官に任じられ、落ち度なく務めた。よって姓「大中臣朝臣」を賜る〕とある。
《寧非益有于新羅乎》
 中臣連国の言葉「寧非益有于新羅乎」の「寧非~乎〔むしろ~にあらずや〕は反語である。 ここで「益有」の語順では「益あり」とはならず、「有することに益あり」である。「」については前の文の「新羅人伐而有之」でも「所有する」意味で使われている〔新羅の人伐ちて之を有(も)てり〕
 よって「」は、比較の前置詞〔=than〕と見るべきであろう。そして、ははっきりカガまたはクホサと訓む。 すなわち「寧ろ新羅より、〔百済の〕てることにかがあらざらむや〔新羅よりも百済が所有した方がより利益があるだろう〕。こう読めば、直前の「任那百済」からの繋がりもよい。 〈岩崎本〉の「むしろ新羅をるにしるしあらざらんや〔むしろ新羅を獲得することに甲斐があるのではないか〕では、前文の「新羅から任那を切り離して百済に付けよ」からは繋がらない。
《吉士磐金》
 吉士磐金は、〈推古〉五年に新羅に派遣された。「難波吉士」と「吉士」はほぼ同義であろう。 〈姓氏家系大辞典〉によれば、吉士が栄えたのはほぼ難波に限られるという(〈推古〉十六年)。
《吉士倉下》
 倉下の古訓は、クラシタクラノシなどで一定しない。 また、〈岩崎本〉の朱点は「クラシモマ」のように読める。
 一方、「倉下」という名前は〈神武即位前紀〉にも出てきた。その古訓は、北野本に「熊野タカ クラ シタト」、 「-クラ-ヲト-倉-下クラシ 」とある。 〈釈紀〉による訓「クラジ」は、これに拠ったようである。 一方で「クラノシ」も並記し、私記によるものとしている。
 〈時代別上代〉は「人名クラジに「倉下」の字をあてるのは、倉下クラジという語があったからであろう」と推定する。
《新羅国主遣》
 ここには「新羅国主遣~」はあるが、「任那国主遣~」がないことが注目される。 ここからは、新羅が八人全員を派遣し、その一部に任那国代表の役割を負わせたことが伺える。 新羅が遣使する際、形式上の「任那使」を同行させたことを、〈推古〉十八年で見た。 この段でも同じことであろう。実際、十一月条には「磐金倉下等至新羅」とあり、 磐金・倉下は同一行動していて、共に新羅に行ったことが知れる。一貫性を保つなら「磐金至自新羅且倉下至自任那」とすべきで、こういうところから潤色がばれるのである。
 このように新羅・任那にくっきりと二分したのは書紀による潤色であろうが、それがすべた書紀がしたこと()なのか、それとも史実として当時からある程度の細工がなされていた()かの判断は難しい。 もしだとすれば、既に〈推古朝〉の頃から〈神功皇后〉的な半島像の確保が、何よりも大切であったことになる。 つまり、新羅国内に伝統的な倭の内官家が存在するが如く装うことを条件に、友諠を結んでいたのである。
《八大夫》
 〈岩崎本〉では、八大夫に、ヤタリ〔八人〕ノマウチキミタチと訓が付されている。この訓について検討してみよう。
 〈倭名類聚抄〉には「大政大臣【於保万豆利古止乃於保万豆岐美】〔おほまつりことのおほまつきみ〕。大臣【於保伊万宇智岐美】〔おほいまうちきみ〕」とある。
 ここから、「大臣」のは「於保伊オホイ〔オホキの音便〕とも「於保オホ」とも訓まれたことがわかる。 の「万豆岐美マツキミ」「万宇智岐美マウチキミ〔恐らく"マチキミ"もあろう〕が、 「まへきみ〔ツは古い属格の助詞〕の音便であるのは明らかである。
 マウチキミの複数形にはタチがつき、「群卿」の古訓はマウチキミタチである。ここの「大夫」もマ[ウ]チキミタチと訓まれているのは、八人だからであろう。
 なお、かばねとしての「」は、基本的にオミと訓む。この段の田中臣にも「田中ノヲン」とある。 は鎌倉時代におけるとの混用、については平安時代半ばまで[mu][n]の両方に使われていたが、そこから分離したものである。
 新羅の官職名にもかかわらず、倭語のマヘツキミを用いるのはどうかとも思えるが、現代でもpresidentを大統領と訳し、またナポレオン皇帝と呼ぶようなものかも知れない。
《附庸》
 附庸には、〈図・北・閣〉のすべてに古訓ホトスカノクニが添えられている。〈北・閣〉では誤読の余地のない丁寧さで、意味不明であるがゆえに慎重に筆記された様子が感じられる。 岩波文庫版は、濁点を加えて「ほどすかのくに」とし、意味は「不詳」とする。〈仮名日本紀〉は「ほとりのくに〔辺の国〕に直すが、「付き従う国」という語感は薄れる。 〈岩〉以後は固定されたようだが、既に〈岩〉以前の段階で訓点が誤読され、それが固定化した可能性もある。 一つの考え方として、もともとはホドコス〔広くいきわたらせる意〕で、これによってなされた二種類の訓読:ホドコスガクニホドコシノクニが混合し、さらにここからが脱落したと考えてみたらどうだろうか。
 本サイトではひとまずこの考えにより、尊敬の補助動詞をつけてホドコシタマフとしておく。
 さて、附庸の本来の意味は、天子の国〔=中国〕以外の国が勝手に周辺の小国を付き従えることである。 『隋書』に見える「竹斯國東皆附-庸於倭」は、 まさにこの意味である(隋書倭国伝(4))。
 よって「天皇附庸」は唐を夏華とする国際秩序を前提とした語であり、本来は書紀が用いるべき語ではない。 従って、この段では新羅発の実史料を、用語を厳密に吟味することなくそのまま用いた可能性がある 〔但し、もともとは「倭王附庸」であったであろう〕。 書紀がこの部分を実史料に拠ったとすれば、《新羅国主遣》の項(上記)で示した問題の答をとするひとつの根拠になり得る。
《内宮家》
 慶尚南道の倭系円墳〔九州系横穴式円墳〕の分布が、6世紀の倭人の入植地が点在する地域を示すと思われる (〈継体二十三年〉《四村之所掠》)。 〈推古〉の7世紀初頭になっても、その子孫の居住地は当然存続していただろう。
 ここは全くの新羅の領土であるが、倭国が当該地域を倭の伝説の土地として扱うことを求めるなら、それを特に拒む必要もないであろう。 この時期、百済とは国境地帯の領土の奪い合いが続いていたから、倭を味方に付けるためとする打算も考えられる。
《大意》
 三十一年〔三十年〕七月、 新羅は大奈末(おおなま)智洗爾(ちせんに)を、 任那は達率(たつそつ)奈末智(なまち)を遣わして、 そろって来朝しました。
 そして仏像一揃えと金塔、併せて舎利、 且つ大観頂幡(だいかんちょうはた)一揃えに小幡(しょうはた)十二条を献上しました。
 そこで、仏像は葛野(かどの)の秦寺(はたでら)に安置し、 その他の舎利、金塔、観頂幡などは、 すべて四天王寺に納めました。
 この時、 大唐の学問僧恵斎(えさい)、 恵光(えこう)ら、 及び医師恵日(えにち)、 福因(ふくいん)らが、 そろって智洗爾(ちせんに)らと共にやって来ました。
 そして、恵日らは共に奏聞し、 「唐の国に留学した学生は、皆学問に業を成し、 呼び戻されるべきです。 また、大唐の国は法式が整備され特筆される国です。 常に欠かさず人を送るべきです。」と申し上げました。
 その年、 新羅は任那を征伐し、 任那は新羅に服従しました。
 そこで、天皇(すめらみこと)は新羅を討とうとして、 計略の相談を大臣(おほまえつきみ)に及ぼし、さらに群卿に諮問しました。
 田中臣はそれに答えて 「討つことを急いではならない。 まず、その状況を視察し、逆らうと分かった後に攻撃しても、 遅くはないだろう。 願わくば、試しに遣使され、その状況を視察させたい。」と申し上げました。
 中臣連(なかとみのむらじ)国(くに)〔人名〕は、 「任那はもともと我が国の内官家(うちつみやけ)であった。 今、新羅人が征伐してこれを所持している。 願わくば、旅団を厳しく派遣し、新羅を征伐すべきである。 そして任那を奪って百済に付与すれば、 むしろ新羅が所持することより、益があるのではないだろうか。」と申し上げました。
 田中臣は、 「それは違う。 百済は、たびたび覆す国で、 路を行く間にもなお欺く。 およそ、その要請はすべて拒否されるべきものである。 よって、百済に付けるべきではない。」と申し上げ、 こうして新羅攻撃は果たされませんでした。
 よって吉士(きし)磐金(いわかね)を新羅に、 吉士倉下(くらじ)を任那に派遣して、 任那のことについて喚問させました。
 この時、新羅の国主は八人の大夫(だいふ)を遣わし、 新羅の国のことを磐金に啓上し、 また任那の国のことを倉下に啓上しました。
 それによれば、誓約をもって 「任那は小国ですが、天皇(すめらみこと)が附庸(ふよう)される国です。 どうして新羅が自らに付して持つことがありましょうか。 常のまま、内つ官家(みやけ)にお定めください。 願わくば、心配することの御座いませんように。」と言上しました。
 このようにして、奈末(なま)智洗遅(ちせんち)を派遣して 吉士磐金に従え、 また任那人の達率(たつそつ)奈未遅(なみち)を 吉士倉下に従えて、 両国の貢を献上しました。


23目次 【三十一年即年】
《境部臣雄摩侶率數萬衆以征討新羅》
然、磐金等未及于還、
卽年、
以大德境部臣雄摩侶
小德中臣連國
爲大將軍。
以小德河邊臣禰受
小德物部依網連乙等
小德波多臣廣庭
小德近江脚身臣飯蓋
小德平群臣宇志
小德大伴連【闕名】
小德大宅臣軍
爲副將軍。
率數萬衆以征討新羅。
…〈岩〉[ニ]磐金等[切]于還[テ]
かへり…[名] 「かへる」の名詞形。
即年…〈岩〉[ノ]
境部臣…〈岩〉サカ-臣雄-摩-侶オホ-将-軍。 〈北〉大德タイトク境部サカヘノヲン雄摩侶ヲマロ。 〈図〉中臣連國〔前段「中臣連國曰任那」にはの挿入はない〕
川辺臣…〈岩〉河-邊 カハヘ -物部[ノ]-サミ[ノ]ヲト-波-多[ノ]臣廣-近-江-/アムノアナム[ノ]イヒ-フタ平群[ノ]宇-。 〈北〉小德セウトク河邊カハヘノヲム祢受ネス。 〈図・北・内〉脚-身アム
大宅臣…〈岩〉……大-宅[ノ]臣軍[ヲ][テ][ノ]将-軍[ト][句]。 〈北〉ヲホヤケノヲンイクサ。 〈閣〉大宅オホヤケノイクサ
征討…〈岩〉アマタ[ノ]イク〔サ〕[ヲ][テ]- ウツ 新羅[ヲ][句]
然(しかれども)、磐金(いはかね)等(ら)未(いまだ)[于]還(かへり)に及(およ)ばずありて、
即年(そのとし)、
[以]大徳(だいとく)境部臣(さかべのおみ)雄摩侶(をまろ)
小徳(せうとく)中臣連(なかとみのむらじ)国(くに)をもちて、
大将軍(いくさのかみ)と為(し)て、
[以]小徳(せうとく)河辺臣(かはべのおみ)禰受(ねず)
小徳物部の依網連(よさみのむらじ)乙等(おとと)
小徳波多臣(はたのおみ)広庭(ひろには)
小徳近江(あふみ)の脚身臣(あしつみのおみ)飯蓋(いひぶた)
小徳平群臣(へぐりのおみ)宇志(うし)
小徳大伴連(おほとものむらじ)【名を闕(か)く】
小徳大宅臣(おほやけのおみ)軍(いくさ)をもちて、
副将軍(いくさのすけ)と為(し)て、
数(あまた)万(よろづ)の衆(いくさ)を率(ゐ)て以ちて新羅(しらき)を征討(う)つ。
時、磐金等共會於津將發船、
以候風波。
於是、船師滿海多至。
兩國使人、望瞻之愕然、
乃還留焉。
更代堪遲大舍爲任那調使而貢上。
於是、磐金等相謂之曰
「是軍起之、既違前期。
是以、任那之事今亦不成矣。」
則發船而度之。
発船…〈岩〉[ニ]磐金等[切][ニ]トヒ於津[テ] トフタチセム/フナタチセン[テ]ウカゝフサフラフ風波[ヲ][句]
ふなたつ…[自]タ四 船出する。
さぶらふ…[他]ハ四 サモラフとも。貴人の側に仕える。風浪の静まるのを待つ。
船師…〈岩〉-滿イハミテ[ニ][テ]サハ ル[句]
いはむ…[自]マ四 軍勢が多数集まる。
望瞻…〈岩〉兩國[ノ]使-[切]- オセリ [テ]
…[動] みる。
おせる…[他]ラ四 遠くを見やる。〈時代別上代〉日本書紀古訓にのみ見える語。ほかにホセルの形もある。
愕然…〈岩〉-      チ カシコマリオツ〔畏まり-怖づ/怖ぢつ〕
堪遅大舎…〈岩〉カヘタン-チノオホ-クラ[ヲ][テ]任那[ノ]調[ノ]使[ト][テ]而貢-上[句]〔頭注の欄に小さく「倉」〕。 〈北〉堪遅大倉タンチノオホクラヲ。〈図〉堪遅大倉[ヲ]。 〈閣〉/カヘテ タン遅◱大倉オホ クラ。 〈釈紀〉更代サラニカヘテ堪遲大倉タンヂノオホクラヲ
…[動] (漢音)カム。(呉音)コム。(慣習)タン。
大舎…新羅の骨品制(〈推古十八年〉);第十二位。
違前期…〈岩〉是軍[ノ]オコスコトオコルコト[コト][切][ニ][ノ]チキリ[ニ][句]
不成…〈岩〉成矣[句]
…[副] 断定の語気詞。
発船…〈岩〉タテシナ船而ワタル[句]
時に、磐金(いはかね)等(たち)共に[於]津(つ)に会(つど)ひて[将(まさ)に]発船(ふなたち)せむとして、
以ちて風波(かぜなみ)を候(うかが)ふ。
於是(ここに)、船師(ふないくさ)海(わた)に満(いは)みて多(さはに)至(いた)れり。
両国(ふたつのくに)の使人(つかひ)、[之を]望(のぞ)み瞻(み)て愕然(おそりおぢ)て、
乃(すなはち)還(かへ)りて留(とど)まりつ[焉]。
更に堪遅(かむぢ)大舎(たさ)を代へて任那(みまな)の調(みつき)の使(つかひ)と為(し)て[而]貢上(みつきたてまつ)る。
於是(ここに)、磐金(いはかね)等(たち)[之]相謂(かたら)ひて曰(まを)ししく
「是の軍(いくさ)[之]起(おこ)れること、既に前(さき)の期(ちぎり)を違(たが)へつ。
是(こ)を以ちて、任那之(が)事今亦(また)不成(ならじ)[矣]。」とまをしき。
則(すなはち)発船(ふなたち)して[而][之]度(わた)りき。
唯、將軍等始到任那而議之、
欲襲新羅。
於是、新羅國主、
聞軍多至而豫慴之、請服。
時、將軍等共議以上表之、
天皇聽矣。
欲襲…〈岩〉[切]オソハン新羅[句]
新羅国主…〈岩〉新羅國[ノ]コキシキミ
予慴…〈岩〉オチ[テ]マウ[ス]マツロハムト[ト][句]
上表…〈岩〉マウ[ヲ]フミタテマツル[句]天-皇ユルシタ
唯(ただ)、将軍(いくさのかみ)等(ら)始めて任那に到りて[而][之]議(はか)らく、
[欲]新羅を襲(おそ)はむとす。
於是(ここに)、新羅の国の主(きみ)、
軍(いくさ)多(さはに)至れりと聞きて[而]予(あらかじめ)[之]慴(お)ぢて、服(まつろふ)ことを請(こ)ふ。
時に、将軍等共に議りて以ちて[之]上表(まをしふみ)たてまつりて、
天皇(すめらみこと)聴(ゆる)したまふ[矣]。
《即年》
 「即日〔"その日"、または"近日中"〕という語があるから、「即年」も「同年」と同じだろうと軽く通過しがちである。 しかし、日本の各種漢和辞典の熟語や「汉典」の見出し語に「即年」はなく、「中国哲学書電子化計画」で検索しても一件もヒットしない。 書紀でも基本的には「是歳」を用い、その他には元年の干支を示す文に「是年也太歳△△」が、また「其年」が二例、「同年」が一例ある。
 また「即年」は、通常は段落の頭に書かれるべき語だと思われ「使者が未だ帰らぬうちに、●●、大将軍~を任命して、新羅(しらき)を征討する」 の●●の位置には違和感がある。
《征討新羅》
 大将軍・副将軍の出身氏族について、その概要を見る。 
冠位氏族名氏族について人物名人物について
大将軍大徳境部臣  境部臣摩理勢は、堅塩媛の改葬でしのひことした(二十年参照)。 境部臣【闕名】は大将軍として〈推古〉八年に新羅を攻撃した記事があるが、史実性は乏しいと見た。 雄摩侶 八年と同一人物か否かは不明。
小徳中臣連  前段参照 七月の議で新羅から任那を奪回して、百済に附けるべしと主張。
副 将 軍小徳河辺臣  〈孝元天皇段〉に武内宿祢の子、蘇賀石河宿祢は「…川辺臣…等之祖也」と述べる(第108回)。 〈姓氏家系大辞典〉は「川辺臣:蘇我氏の族にて…大和十市郡川辺より起りしか」という。〈天武十三年〉に朝臣姓を賜る。 二十六年に河辺臣【闕名】が、むつ〔大きな船〕を建造した。 禰受 二十六年と同一人物か否かは不明。
小徳物部依網連  天孫本記-宇摩志摩治命系列に「十二世孫:物部多波連公 依網連等祖」とある(資料[39])。 〈姓氏家系大辞典〉に「依羅連:河内国依羅の地にありし豪族なり。」、「物部流の依羅連:前項氏〔依羅連〕を冒せる也。」とある。「後から物部氏の系図に組み込んだ」という意味か。 乙等 名前が出て来るのはここだけ。
小徳波多臣  〈孝元天皇段〉に武内宿祢の子、波多八代宿祢は「波多臣…等之祖也」と述べる(第108回)。 波多臣は、大和国高市郡波多郷から起こった氏族のひとつと見られる(第159回)。 広庭 同上。
小徳近江脚身臣  〈姓氏家系大辞典〉には「脚身 アシツミ:近江国高島郡の名族にして延喜式阿志都美神社とある地より起る」として、アツシミと訓む。 〈延喜式-神名帳〉に{近江国/高嶋郡/阿志都彌神社}。 飯蓋 同上。
小徳平群臣  〈孝元天皇段〉に武内宿祢の子、平群都久宿祢は「平群臣…等之祖也」と述べる(第108回)。 〈雄略紀〉に「平群臣真鳥」。〈天武紀〉で朝臣姓を賜る。 宇志 同上。丑年生まれであろう。
小徳大伴連  神話上の祖先は〈神武即位前紀〉に「大伴氏之遠祖日臣命」とあり、〈神武天皇〉による天下奪取を助けた。 その論功行賞により築坂邑に邸宅を賜り、鳥坂神社辺りが本貫地と言われる(〈宣化四年〉【桃花鳥坂】)。 〈闕名〉
小徳大宅臣  〈孝昭天皇段〉に、皇子天押帯日子命は「…大宅臣…之祖也」(第105回)。 〈時代別上代〉は〈倭名類聚抄〉{大和国・添上郡・大宅郷}発祥かと述べる。〈天武十三年〉朝臣姓を賜る。 いくさ 名前が出て来るのはここだけ。
 他の場面では出てこない名前ばかりであるのが、特徴的である。それでも何らかの記録があったと思われる。
 各氏が提出した氏文(うじふみ)か。あるいは、百済を応援する出撃であるから、「百済文書」の可能性もある(〈欽明〉十五年《百済文書》)。
《大将軍・副将軍》
 本サイトは四等官の呼称に依り、大将軍イクサノカミ副将軍イクサノスケと訓むことにする。
 〈倭名類聚抄〉には「長官:…鎮守府曰将軍。…【已上皆加美】」、「次官:…兵衛衛門曰佐…【已上皆須介】」とある。 ここに挙げられたどの人物も、他の場面には出てこないから小者であろう。よって「副将軍」は「ソヘの将軍」ではなく「将軍の補佐スケ」の印象が強い。
《満海》
 海を軍船が埋め尽くす様子を「」と表し、古訓は「海にイハミテ」とする。このイハムは、書紀だけに見える動詞である。 書紀で「」「」「」などをイハムと訓む確かな根拠は、〈神武即位前紀〉己未年にある。 曰く「磯城八十梟帥〔たける〕於彼処〔そこに〕屯聚居之【屯聚居、此云怡波瀰萎〔いはみ ゐ〕」。
《代堪遅大舎》
 任那からの使者は、「堪遅大舎」に交代した。 「大舎」は新羅の位階の十七位中第十二位。
 最初の「任那人達率奈未遅」は倭の軍船を見て恐怖感に襲われ、 新羅使はそれでも持ちこたえたが、奈未遅は耐えられず逃げ去ったようである。
 恐らくは「任那」地域に住む奈未遅は百済に従っていたが、新羅に占領された後は一転して新羅の官として取り立てられたから、 一番の目の敵になると考えたのであろう。
《新羅と百済の紛争》
 中臣連国の意見は「倭が任那を取り戻すべし」ではなく、「新羅から任那を切り離して百済に与えよ」であることに注意を払う必要がある。 つまり、対立関係にある新羅・百済のうち百済に加勢せよというのである。実際、この時期の新羅・百済紛争が『三国史記』に示されている。 関係個所を抜粋する。この時期、新羅は真平王、百済は武王である。 推古三十年〔壬午;622〕は真平王四十四年、武王二十三年にあたる。 
〔西暦〕    倭新羅本紀百済本紀
丁丑〔611〕 推古十九年 真平王三十三年。冬十月。百済兵来囲椵岑城百日。県令讃徳固守。力竭死之。城没。 武王十二年。冬十月。囲新羅椵岑城。殺城主讚徳。滅其城
  ●百済は兵を送り、椵岑城を包囲し100日。県令讃徳はよく守ったが力尽きて死に、落城した。
丁丑〔616〕 推古二十四年 三十八年。冬十月。百済来-攻母山城十七年。冬十月。命達率芍奇。領兵八千新羅母山城
  ●百済は、達率〔百済の位階;第三位〕芍奇に命じて、兵八千を率いて新羅の母山城を攻めさせた。
己卯〔618〕 推古二十六年 四十年。北漢山州軍主辺品。謀椵岑城。発兵与百済戦。奚論従軍。赴敵力戦死之。 十九年。新羅将軍辺品等。来-攻椵岑城。復之。奚論戦死。
  ●新羅は北漢山州の軍主の辺品を将軍として、椵岑城を奪回した。〔北漢山は現在のソウル特別市内〕百済は兵を興し、奚論は軍を従えて力戦したが、戦死した。
壬午〔622〕 推古三十年 
   (この年は戦闘の記録なし)
癸未〔623〕 推古三十一年 四十五年。…冬十月。遣-使大唐朝貢。百済襲勒弩県二十四年。秋。遣兵侵新羅勒弩県
  ●十月、百済は新羅の勒弩ろくどを襲い侵した。
丙戌〔626〕 推古三十四年 四十八年。…八月。百済攻主在城。城主東所。拒戦死之。築高墟城二十七年。秋八月。遣兵。攻新羅主在城。執城主東所。殺之。
  ●百済は新羅の主在城を攻め、城主の東所〔人名〕は抗戦の末殺された。
丁亥〔627〕 推古三十五年 四十九年。…秋七月。百済将軍沙乞。抜西鄙二城。虜男女三百余口二十八年。秋七月。王命将軍沙乞。抜新羅西鄙二城。虜男女三百余口。王欲新羅侵奪地分。大-挙兵。出屯於熊津。羅王真平聞之。遣使告急於唐。王聞之乃止。
  ●百済の将軍沙乞は、新羅の西鄙の二城を陥落し、男女三百人余を捕虜とした。
戊子〔628〕 推古三十六年 五十年。春二月。百済囲椵岑城。王出師撃-破之二十九年。春二月。遣兵攻新羅椵岑城。不克而還。
  ●百済は新羅の椵岑城を包囲したが、新羅王は軍を派遣して撃破した。
 両国が争奪戦を繰り広げる椵岑城〔かしんじょう、가잠성:カジャムソン〕の比定地を探した。すると、 「KCI;韓国引用索引」という韓国のサイトに、 「椵岑城の歴史的性格と戦闘」という論文が見つかった 〔『역사와경계』発行者:부산경남사학회2013;同サイトでキーワードを「椵岑城 位置 戰鬪」などとして検索すると得られる〕
 それによると、椵岑城の比定地は「충북 영동군 양산면 가곡리에〔忠清北道 永同郡 陽山面 柯谷里〕だという。
 また勒弩県〔ろくどけん、늑노현:ヌクノヒョン〕については、Academy of Korean Studiesのページに、 「具体的には不明」で、「勒弩」=オオカミという意味から「軍事傾向が強い地域だったと推測」できると書く。 新羅・百済両国は国境で繰り返し衝突したから、勒弩県も小白(ソベク)山脈のどこかであろうという。
 さて、三十一年条を表面的に読むと、境部臣雄摩侶・中臣連国子の出撃はあたかも「任那国」という独立国が新羅国に占領される事態に直面し、 倭国の船師ふないくさが任那国の開放に向かったという印象を与える。しかし『三国史記』と併せて見ると、事実としては新羅・百済紛争への倭国による介入であった。 実際、国子の主張は「新羅に奪われた領土を、奪回しようとする百済に加勢せよ」というもので、書紀もそれを隠さずに書いている。 それに対して、田中臣の主張は新羅の奪った領土はそのまま新羅が持ち続けるのがよいというものであった。 結局、倭国の臣は二派にわかれて、新羅と百済のどちらに肩入れするかを巡って争ったのである。
 この実態を正確に読み取るためには、上述の中臣連国の言葉「寧非益有于新羅乎」の厳密な理解は欠かせない。
 ただ、倭が架空の任那国を「実在する国」の如く見せることに、執着していたのは間違いないと見てよいだろう。 新羅は倭を自分の側につけるために、その希望に沿う行動をした。それは百済も同じことであろう。
《始到任那》
 「始到任那」の「任那」はここでは漠然とした地方を表し、朝鮮半島の南岸に着いたということであろう。
《新羅国主予慴之請服》
 「慴之請服」については戦果が何も書かれないので、言葉の上だけの潤色であるのは明らかである。 〈推古〉八年条の出撃は史実性が疑われるとは言え、戦果として六城の割譲が書かれている。
 ただし、このころ勒弩県での戦況は不利だから、その意味で国主は「おびえて」いたのかも知れない。 戦闘のエピソードが全く載らないのは記録がないからであろうが、実際にこれという戦闘はなかったのかも知れない。
 船師の派遣によって朝貢使の派遣は中止になったわけだが、持参する予定だった貢物だけは倭に送られている。 その名目を賠償に代えて、交渉の決着をつけたとも考えられる。将軍たちははこれを以て作戦に勝利したと見做して、さっさと帰国したわけである。
 二人の大将軍と七人の副将軍が「数万衆」を率いたとして、書きぶりは勇ましいが、実際の経過を見ると大した戦意は感じられない。 前述したように正副将軍の名前はここ以外に出てこないから、小者感が漂う。「数万衆」も「船師満海多至」も恐らく誇張であろう。
《大臣曰悔乎早遣師矣》
冬十一月。
磐金倉下等至自新羅。
時大臣問其狀、對曰
「新羅、奉命以驚懼之、
則並差專使、
因以貢兩國之調。
然、見船師至而朝貢使人更還耳。
但調猶貢上。」
爰大臣曰
「悔乎、早遣師矣。」
至自新羅…〈岩〉 新羅[句] 〔まゐく〕
…〈岩〉アルカタチ
奉命…〈岩〉ウケタ〔マハリ〕〔コト〕[ヲ][テ]以驚-カシコマル[ル][句]
專使…〈岩〉[ニ]サシ タウメ-使[ヲ][テ]
たうめ…[名] 老女。古狐。
たくめ…専一の。タウメとも。
専使…あることがらに専念して処理するための使者。
…〈岩〉タテマツル國之調[ヲ]
更還…〈岩〉[ニ]カヘシ[句]調ミツキ[ハ]猶貢〔タテマツ〕[句]
悔乎…〈岩〉クヤシキカナ ツルコト[ヲ][句]
冬十一月(しもつき)。
磐金(いはかね)倉下(くらげ)等(ら)新羅(しらき)自(よ)り至(まゐく)。
時に大臣(おほまへつきみ)其の状(ありさま)を問ひて、対(こた)へて曰(まを)ししく
「新羅、命(みこと)を奉(たてまつ)りて以ちて驚(おどろ)き[之]懼(かしこま)りて、
則(すなはち)並(なら)べて専使(たくめのつかひ)を差して、
因(よ)りて以ちて両国(ふたつのくに)之(の)調(みつき)を貢(たてま)つる。
然(しかれど)も、船師(ふないくさ)の至(いた)れることを見て[而]朝貢(みかどををろがみてみつきたてまつる)使人(つかひ)更に還(かへ)す耳(のみ)。
但(ただし)調(みつき)は猶(なほ)貢上(たてまつ)る。」とまをしき。
爰(ここに)大臣(おほまへつきみ)曰(い)ひしく 「悔(くやしき)乎(や)、早く師(いくさ)を遣(や)りしことは[矣]。」といひき。
時人曰
「是軍事者、
境部臣阿曇連、
先多得新羅幣物之故
又勸大臣。
是以、未待使旨而早征伐耳。」
幣物…〈岩〉サイ[トイフ][テ]サハ[ニ]新羅[ノ]-マヒナヒ[ヲ]之故[ニ]
まひなひ…[名] 一般的に賄賂。語源的には神への捧げもので、「幣」の用字はその意味による。
征伐…〈岩〉征-伐 ウツ 
時の人曰(まを)さく
「是の軍(いくさ)の事者(は)、
境部臣(さかべのおみ)阿曇連(あづみのむらじ)、
先に多(さはに)新羅(しらき)の幣物(まひなひ)を得しが[之]故(ゆゑ)に、
又(また)大臣(おほまへつきみ)に勧めき。
是(こ)を以ちて、未(いまだ)使(つかひ)の旨(むね)を待たざりて[而]、早く征伐(う)ちつ耳(のみ)。」とまをす。
初磐金等度新羅之日、
比及津、莊船一艘迎於海浦。
磐金問之曰「是船者何國迎船」。
對曰「新羅船也」。
磐金亦曰「曷無任那之迎船」。
卽時更爲任那加一船。
其新羅以迎船二艘、
始于是時歟。
…〈岩〉コロ[ニ][ニ][切]荘船/カサリサカリ一-フナ[切]ムカフワタ[ノ][句]
むかへぶね…[名] (万)1200 向舟 片待香光 むかへぶね かたまちがてり
…〈岩〉
更為任那…〈岩〉任那
迎船二艘…〈岩〉其新羅[ノ]〔モチ〕ヰルコト[コト]迎船二フナ[ヲ][切]マレ于是[ノ][ニ][カ][句]
初めに磐金(いはかね)等(ら)新羅(しらき)に度(わた)りし[之]日、
津(つ)に及ぶ比(ころ)に、荘船(かざりぶね)一艘(ひとふな)[於]海浦(わたのうら)に迎へり。
磐金[之]問ひて曰はく「是の船者(は)何(いづく)の国の迎船(むかへぶね)か」と曰ひて、
対(こた)へて曰(まを)ししく「新羅の船なり[也]。」とまをしき。
磐金亦(また)曰ひしく「曷(なに)そ任那(みまな)之(が)迎船(むかへぶね)や無き」といひき。
即時(そのとき)更(さら)に任那の為(ため)に一船(ひとふな)を加へり。
其(そ)の新羅の迎船(むかへぶね)二艘(ふたふな)を以(もちゐ)ること、 [于]是の時に始まれる歟(か)。
自春至秋霖雨大水、
五穀不登焉。
霖雨…〈岩〉マテ[ニ][切]-ナカメシ[テ][ニ]アリ[ノ][切]ミノラ
…[名] 〈倭名類聚抄〉「霖三日以上雨也。音林。【和名奈加阿女】
春自(よ)り秋至(まで)霖雨(ながめ)大(おほき)水(みづ)あり。
五穀(いつのたなつもの)不登(みのらず)[焉]。
《悔乎早遣師》
 任那の件については、倭の希望に沿う形で交渉が進んでいた。 ところが早まって船師を出したことによって、新羅はへそを曲げて台無しにしてしまった。 それを蘇我馬子大臣は、いたく後悔したという。
 必ずしもこのときの船師とは限らないが、倭国内の親百済派が活発な動きを見せ、 それに対して新羅が態度を硬化させたことはあり得るだろう。
《阿曇連》
 〈姓氏家系大辞典〉は「アヅミはアマツミ(海積)の約」、「原始的カバネの一にして」、「綿積海神わたつみの綿とは海の古語にて、積は安曇の「ツミ」と異なる処なし、即ち綿積とは安曇と云ふに同じ」。 そして、海彦山彦伝説の「海神豊玉彦の宮」は、「仲哀紀の儺縣、ひいては漢史〔後漢書〕に「奴國」、或は「倭の奴国」とある地の中心」で、 「此の氏の発祥地は筑前国糟屋郡、安曇郷ならんかと考へらる」と述べる。 安曇連については、「安曇連:安曇連は海神綿津見命の子宇都志金折命、或は穂高見命の後と伝へらる」と述べる。 第43回【安曇連】参照。
 三韓との外交や軍事との絡みで「阿曇連」の名が登場するのは、ここが初めてである。
《時人曰》
 時の人は、磐金らの帰国を待たずに進軍を命じたのは「これまでに境部臣と阿曇連が新羅から賄賂をせしめたことに味を占めて、進言したからだ」と噂したという。
 しかし、この論理は判りくい。新羅が倭に好意的だったのは上っ面に過ぎず、本音は誼を通づることを潰したかったとでもいうのだろうか。 だが、当時の新羅の主敵は百済であり、わざわざ倭を百済の側に追いやる工作など、するはずがない。よって大した根拠もない噂を、単に紹介したに過ぎないのかも知れない。
 ただ、ひとつの考え方としては、境部臣・阿曇連が軍事的な脅しをかけてみたら、それを宥めるために財宝が得られた経験があったとする。 そこで、「ここでもう一段強く軍事圧力をかけてやれば、もっと多くのものが取れますぜ」と進言したと考えてみよう。 大臣がそれにうっかり乗って失敗したという筋書きも、一応は成り立ちそうである。
《初磐金等度新羅之日》
 この段については、既に〈神功皇后紀4〉《形式としての任那使の同席》の項で考察し、 「 この頃の「任那」は恐らく新羅の一地方に過ぎなかったが、倭国はあたかも「任那」が一つの国として存在しているかの如く、形を作れと要求している。」と述べた通りである。
《霖雨大水》
 この年は、「オホーツク海高気圧が強く南岸に前線が停滞」という梅雨時の気圧配置が夏の間も続いたと見られる。エルニーニョ現象であろう。 〈推古〉三十六年《日食》の例を見ると、 推古紀における自然現象の記録には一般的に客観性があると見てよい。世界各地の気象の古記録を総合すれば、この年の気象の状況が見えてくるかも知れない。
《大意》
 ところが、磐金(いはかね)らが未だ帰還に及ばぬうちに、 その年、 大徳(だいとく)境部臣(さかべのおみ)雄摩侶(おまろ)、 小徳(せうとく)中臣連(なかとみのむらじ)国(くに)〔人名〕を 大将軍として、 小徳(しょうとく)河辺臣(かはべのおみ)祢受(ねず)、 小徳物部の依網連(よさみのむらじ)乙等(おとと)、 小徳波多臣(はたのおみ)広庭(ひろにわ)、 小徳近江の脚身臣(あしつみのおみ)飯蓋(いいぶた)、 小徳平群臣(へぐりのおみ)宇志(うし)、 小徳大伴連(おおとものむらじ)【名を欠く】、 小徳大宅臣(おおやけのおみ)軍(いくさ)〔人名〕を 副将軍として、 数万の兵を率いて新羅の征討に向かいました。
 その時、磐金(いわかね)らは港に集まり船をだそうとして、 風波を候(うかが)っていました。 そこに、軍の船団が海を満たして到着しました。 両国の使者は、これを望観して愕然とし、 港から帰って留まりました。 さらに任那の調使を交代させ、堪遅(たんじ)大舎(たさ)〔新羅の位階名〕を貢上使としました。
 このとき、磐金らは 「この軍を興して、既に前の約束を違えた。 これをもって、任那の事は今また成らなかった。」と話し合いました。 こうして、船を出して海を渡り本国に向かいました。
 ただ、将軍らは初めに任那に到着して議を開き、 新羅襲撃の計画を相談しました。
 すると、新羅の国主は 大軍が到着したと聞き、軍が来る前から怯え、服属を請いました。 そこで、将軍らは共に議って上表を送り、 天皇(すめらみこと)はお許しになりました。
 十一月、 磐金(いわかね)倉下(くらじ)らが新羅より帰国しました。
 そして、大臣(おおまえつきみ)〔馬子〕はその様子を尋ね、それに答えて 「新羅は命を拝領して驚き恐れ、 よって揃えて専使を差配して、 両国の調(みつき)を献上しました。 ところが、軍の船団が到着したのを見て、朝貢使は更には帰ってしまいました。 ただ、調(みつき)はそれでもなお献上されました。」と申し上げました。
 すると大臣(おおまえつきみ)は 「悔しいかな、軍を送るのが早すぎた。」と言いました。
 時の人が言うには、 「この軍事は、 境部臣(さかべのおみ)と阿曇連(あずみのむらじ)が、 先に新羅から多くの賄賂を得たから、 また大臣(おおまえつきみ)に勧めた。 だから、使者の復命を待たず、急いで征伐したのだ。」と言いました。
 初めに磐金(いわかね)らが新羅に渡った日、 港に着く頃、荘船(かざりぶね)が一艘(そう)海浦(わたのうら)で出迎えました。 磐金が「この船はどの国の迎え船か」と聞くと、 「新羅の船です」と答えました。
 磐金は再び「どうして任那の迎え船がないのだ。」と問いました。 その時、更に任那のための一船が加えられました。
 その新羅の迎え船として二艘を用いるのは、 この時に始まったとも言われます。
 この年は春から秋まで霖雨(りんう)〔長雨〕と大水で、 五穀は不作でした。


まとめ
 この時期、新羅と百済の間で領土の奪い合いが繰り広げられていた。 倭の政権内の対立は、結局新羅と百済のどちらを支援すべきかということであった。 田中臣と中臣連の対立の裏に、両国によるそれぞれの氏族への工作があったとするのは、当然の見方であろう。
 ただ、このとき境部臣雄摩侶・中臣連国を大将軍とする船師の派遣が、実際にあったかどうかは微妙である。 八年の出撃については過去の記録をこの時期に移して書いたと見たが、三十一年もその可能性は残る。
 とは言えこの時期に限らず、各氏族が頻繁に海峡を往来していたのは明らかで、ときにはある氏族が百済軍の一員として戦闘に加わっていたことも考えられる。 今回、これだけ具体的な人名が列挙されるということは、全く架空のものとは思われない。 さらに、新羅と百済が厳しく戦闘を繰り広げる情勢下だから、時期も噛み合っている。 ただし、挙げられた名前は小者ばかりだから、実際にはそれほど大軍ではなく「数万衆」、「満海多至」、「新羅国主…予慴之請服」はすべて誇張であろう。 『三国史記』にも倭軍の独自の動きは記録されないから、百済軍に吸収された形での参戦だろうと考えられる。
 さて、「任那国」に関しては、全羅南道の倭系古墳の地域に倭人がコロニーを形成していたのは事実と見てよい。 その地域を独立した「任那国」の如く描くことに協力するように倭に求められ、新羅もそれを受け入れた可能性が高い。 それは、新羅側が「倭王附庸」の語句を含む文書を倭に送ったと考えられるからである。
 思えば、十八年にはこれまでの冷淡さとは打って変わって新羅使を大歓迎したのは、「任那使」を伴う形を作って訪れたからであろう。
 三十一年にも任那使を伴った新羅朝貢使の準備が進められていたが、中止された。 その理由として、船師の派遣に反発した如くに書かれているが、実際には「任那国」に相当する地域を百済によって奪われ、名目が立たなくなったからであろう。
 こうして見ると、はじめに「三十一年」条はもともと「三十年」であったらしいと述べたが、それでも「即年」から後は、三十一年のことが書いてあると見た方がよさそうである。
 百済領になった時代の「任那国」については、〈孝徳大化元年〉〔745〕に「百済調使兼-領任那使」とあり、 今度は百済に同じことを求めていることを、資料[32]で見た。 そこでも「虚構の任那国を描くことは、書紀から始まったことではない。既に聖徳太子の時代から「任那国」が存在するが如く演出することが、百済や新羅との外交儀式の一部になっていたのである。 古代に存在したとされる任那国の伝説が、飛鳥時代にいかに大切であったかを物語っている。」と述べたところである。



2022.03.20(sun) [22-12] 推古天皇12 

24目次 【三十ニ年四月】
《惡逆僧及諸僧尼並將罪》
卅二年〔卅一年〕
夏四月丙午朔戊申。
有一僧、執斧毆祖父。
時天皇聞之召大臣、
詔之曰
「夫出家者、頓歸三寶、
具懷戒法。
何無懺忌輙犯惡逆。
卅二年…〈岩崎本〔以下岩〕[ノ]夏四月[ノ]丙午[ノ]戊申[切]
執斧…〈岩〉ヒトリ ホウシ[テ]ヲノ[ヲ]ウツ祖父 ヲヤ [ヲ][句]。 〈図書寮本〔以下図〕ウツ祖-父 オヤ 
祖父…〈倭名類聚抄〉祖父【於保知】〔おほぢ〕
詔之…〈北野本〔以下北〕〉〈図〉謂之曰
頓帰…〈岩〉出-家イエテセルモノハ[ハ]ヒタフルヨリテリマツ三-寶[ニ][テ]タモツタモチイタリ[ノ][ノ][句]。 〈北〉頓歸ヒタフル タモツ。 〈図〉ヒト頓歸 ヒタフル[ニ]。 〈内閣文庫本〔以下閣〕戒法イムコトノゝノリ
ひたふる…[形動] 一途なさま。〈時代別上代〉フが濁音であることを証する例は見当たらない。
懺忌…〈岩〉クイ-イム[コト][コト][テ] ヘキサカ/アシキ-ワサ[コト][ヲ][句] 〔何(な)ぞ懺(く)い忌むこと無きて輙(すなは)ち悪逆(あしきわざ/さかふること)を犯すべきか〕。 〈閣〉ヲカスコト アシキ ワサニ
悪逆…人の道に背くたちの悪いおこない。
三十二年(みそとせあまりふたとせ)〔三十一年(みそとせあまりひととせ)〕
夏四月(うづき)丙午(ひのえうま)を朔(つきたち)として戊申(つちのえさる)〔三日〕
一僧(ひとりのほふし)有りて、斧(をの)を執(と)りて祖父(おほぢ)を殴(う)つ。
時に天皇(すめらみこと)[之を]聞こして大臣(おほまへつきみ)を召して、
[之]詔(みことのり)たまひて曰(のたま)はく
「夫(それ)出家(いへで)せし者(ひと)は、頓(ひたふる)に三宝(さむほう)を帰(たの)みて、
具(つぶさに)戒法(いましめののり)に懐(なつ)くべし。
何(な)ぞ懺(く)いて忌(い)むこと無かりて輙(すなは)ち悪逆(あしきわざ)を犯(をか)せるか。
今朕聞、有僧以毆祖父。
故、悉聚諸寺僧尼、
以推問之。
若事實者、重罪之。」
於是、集諸僧尼而推之。
則惡逆僧及諸僧尼並將罪。
…〈岩〉[ニ]アツメツト諸寺[ノ]僧尼[ヲ][テ] 〔悉(ことごと)に諸(もろもろの)寺の僧尼を聚(あつめ/つどへ)て〕
つどふ…[自]四段。[他]下二段。
推問…〈岩〉-カムカトヘ
事実…〈岩〉若事[ハ] ナラハ  キモノ[テ]セム[句]
悪逆僧…〈岩〉 サカアシキ- モノワサキル[テ]〔ワサセル?〕
将罪…〈岩〉〔ナラヒ〕[ニ]マサニ[ス] セント[句]
今朕(われ)聞こすに、僧(ほうし)有りて以ちて祖父(おほぢ)を殴(う)ちき。
故(かれ)、悉(ことごとく)に諸(もろもろの)寺(てら)の僧(ほうし)尼(あま)を聚(つど)へて、
以ちて[之を]推問(かむが)へ。
若(も)し事(こと)実(まこと)なら者(ば)、重(おもきつみ)を[之]罪(つみな)へ。」
於是(ここに)、諸(もろもろの)僧(ほうし)尼(あま)を集(つど)へて[而][之を]推(かむが)へり。
則(すなはち)悪逆(あしきわざ)せし僧(ほうし)より諸(もろもろ)の僧尼に及びて並(な)べて将(まさ)に罪(つみな)はむとす。
於是、百濟觀勒僧、
表上以言
「夫佛法
自西國至于漢經三百歲、
乃傳之至於百濟國而
僅一百年矣。
然我王聞日本天皇之賢哲而
貢上佛像及內典、
未滿百歲。
観勒…〈推古〉十年十月百済僧観勒来之」。
観勒僧…〈岩〉百-済[ノ]-勒ホウシマウ■フミタテマツリテ[テ]以言[切]
仏法…〈岩〉[ノ]ミノリ[切]西ニシ[ノ]/テンチク秘説ツタハリモロコシ[テ] タリ-モゝ-トセ[ヲ][句]。 〈北〉ソレ佛-法ホトケノミノリヨリ西國ニシノクニ/テムチク秘説ツタハリテモロコシニヘタリ三百歳ミモゝトセヲ
伝之至…〈岩〉[テ]於百済國[テ]ワツカサ[ニ]一-百モモトセニ- ナリ[ヌ][句]。 〈北〉スナハチ傳之ツタハリテイタリテ百濟國クタラクノタニゝワツカニ一-百-年モゝトセニナリヌ
わづかに…[副] 数量、程度の小さいことをいう。
我王…〈岩〉[ニ]/コキシキミ
賢哲…〈漢典〉[good sense] 賢明的人。
賢哲…〈岩〉-サカシクマシマスコト[コト][ヲ]-上タテマツリシテ[ノ]像及 ノリホトケノミノリ[ヲ][テ]。 〈北〉シカルヲワカ/コキシコキシキゝタマテ日本ヤマトノクニ■天皇スメラミコトノサカシキ/サカシクマシマスコトヲタテマツルヨリホトケミカタヲヨヒ内典ホトケノミノリヲ
未満…〈岩〉滿 ナラ ニタモ[ニ][句]。 〈北〉イ■滿 ナラ百歳 モゝトセニ/ゝモ
於是(ここに)、百済(くたら)の観勒(くわんろく)僧(ほうし)、
表上(ふみたてまつ)りて以ちて言(まを)さく
「夫(それ)仏法(ほとけのみのり)は
西の国自(よ)り[于]漢(かむ)に至りて三百歳(みももとせ)を経て、
乃(すなはち)[之]伝(つたは)りて[於]百済国(くたらのくに)に至りて[而]
僅(わづか)一百年(ももとせ)なり[矣]。
然(しかれども)我が王(わう)日本(やまとの)天皇(すめらみこと)之(これ)賢哲(さか)しと聞きて[而]
仏像(ほとけのみかた)[及]と内典(ほとけのみのり)とを貢上(たてまつ)りて、
未(いまだ)百歳(ももとせ)に満たず。
故當今時、
以僧尼未習法律、輙犯惡逆。
是以、諸僧尼惶懼、
以不知所如。
仰願、其除惡逆者以外僧尼、
悉赦而勿罪。
是大功德也。」
天皇乃聽之。
今時…〈岩〉カレコノ[ニ][テ]僧尼 ナ タナラハス- ノリ [ヲ][テ]スナハチアシキ-ワサ[コト][ヲ][句]。 〈北〉カレアタテ今時コノトキアマ
惶懼…〈岩〉-ヲソレ ヲチテカシコマリ[テ]以不-セムスヘ[句]
仰願…〈岩〉[テ][ハ]ノソヒテ逆者ワサキルアシキモノ[ヲ][テ]-ホカノ[ノ]僧-尼[ヲ][ハ][ニ]ユルシ勿-罪ツミシ玉ソ[句]ヲ ナル[ナル]功-徳/ノリノワサナランノリコトナリ[ナリ][テ]。 〈図〉勿罪ナツミシタマヒソ是大功-徳ノリコトナリ。 〈北〉仰願■フキネカハクハソノノソヒテ悪逆者アシキモノ以外アタシコトホウシハコト\/クニ
のぞふ…[他]ハ四 古語辞典類に見出し語なし。ノゾヒテは、ノゾキテの音便か。
故(かれ)今(いま)時に当(あた)りて、
以ちて僧(ほふし)尼(あま)未だ法律(のり)を習はずて、輙(すなはち)悪逆(あしきわざ)を犯(をか)せり。
是(これ)を以ちて、諸(もろもろの)僧尼惶懼(かしこま)りて、
以ちて所如(ゆくところ)を不知(しらず)。
仰(あふ)ぎ願はくば、其(それ)悪逆(あしきわざ)せし者(もの)を除(のぞ)きて以外(あたし)僧尼、
悉(ことごとく)赦(ゆる)して[而]勿罪(なつみなひたまひそ)。
是(これ)大(おほきなる)功徳(くどく)なり[也]。」とまをす。
天皇(すめらみこと)乃(すなはち)[之を]聴(ゆる)したまふ。
戊午。
詔曰
「夫道人尚犯法、何以誨俗人。
故、自今已後、任僧正僧都、
仍應檢校僧尼。」
道人…〈岩〉道人ヲコナヒ人タ〔チ〕オコナヒスル[モ]
俗人…〈岩〉[テ]ヲシヘ[ム]タゝ-人[ヲ][句]
検校…〈岩〉已後ユクサキ[切]メシ-正-都[ヲ][テ][テ]ヘシカンカウ僧尼[句]
戊午(つちのえうま)〔十三日〕
詔(みことのり)たまひて曰(のたま)は)く
「夫(それ)道人(おこなひするひと)尚(なほ)法(のり)を犯(をか)す、何(いかに)以ちて俗人(ただひと)を誨(をし)へむか。
故(かれ)、今自(よ)り已後(のち)、僧正(そうじやう)僧都(そうづ)を任(おほ)せて、
仍(よ)りて僧(ほうし)尼(あま)を検校(かむがふ)応(べ)し。」
壬戌。
以觀勒僧爲僧正、
以鞍部德積爲僧都。
卽日以阿曇連【闕名】爲法頭。
鞍部…〈岩〉鞍-部クラツクリ[ノ]-トク-シヤク[ヲ][テ]
即日…〈岩〉ソノ[ノ]ホウ/トウ[ト][句]
壬戌(みづのえいぬ)〔十七日〕
観勒僧(くわんろくほうし)を以ちて僧正(そうじやう)と為(し)て、
鞍部(くらつくり)の徳積(とくしやく)を以ちて僧都(そうづ)と為(す)。
即日(そのひ)阿曇連(あづみのむらじ)【名を闕(か)く】を以ちて法頭(ほうづ)と為(す)。
《祖父》
 「祖父」の古訓は、どの本もオヤである。〈汉典〉を見ると「祖父 ①[grandfather]:父親的父親。②[grandfather and father]:祖父和父親。“祖父”対“子孫”説」となっている。 は、「子孫」の対極にある「父・祖父」だが、これは特定の文脈における使い方であって、基本的にであるのは明らかである。
 但し、倭語のオヤには、「生みの親」の他に「先祖」の意味もある。「先祖を殴る」では問題にならないから、オヤヲウツは「父を殴る」意となる。 しかし、漢語の祖父は全くgrandfatherであるから、古訓オヤは明確に誤りとすべきである。 素直に「僧になった若者が、たまたま彼のおじいちゃんを殴る」事件があったと読めばよい。
《召大臣詔之曰》
 「召大臣詔」のを「」とする本がある。天皇の言葉にはいうまでもなくを用い、それが当然であるために主語が省略されることも多い。 もし「」であれば、主語は大臣となる。しかし、言葉の中身を見ると一人称に「」が使うから、「謂」は「詔」の誤写であろう。
《漢王朝》
 仏教の伝搬を語る文中で、中国を「」と表現している。 古訓は「唐」と同様にモロコシとして、漠然と表現しているが、は実際の年代と見てよいようである。
 仏教の中国への伝来を見ると、後漢に安世高という人物がおり、『世界人名大辞典』〔岩波書店;2013〕によれば、 「もと〔ペルシアの〕安息(パルティア)国の皇子という。桓帝〔146~167〕 の初めに洛陽に至り,霊帝の建寧年間〔168~172〕に至るまで、20余年訳経に従事」したという。
 これを見ると、仏教の伝搬は実際に後漢のことである。
 の隋唐音は[han]であるが、当時の日本語には[h]がないので、はすべてと聞き取られる〔「海(ハイ)⇒カイ」など〕。 音仮名の存在を見れば、書紀が書かれた時点で音読みが知られていたのは明らかだから、古訓が音読みを避けるのはできるだけ倭語で表現しようとする意志がはたらいたためである。 実際の時期にも合うから、ここの「」をカンとよむことに問題はない。 ただし、文字が存在しない時代ではカムとなる。
《於百済国而僅一百年》
 百済に仏教が伝搬してから「僅か百年」と書かれる。 『三国史記』百済本紀を見ると枕流王のときで、 「〔枕流王元年;384〕九月。胡僧摩羅難陁自晋至。王迎之。致宮内。礼敬焉。仏法始於此。二年春二月。創仏寺於漢山。度僧十人。」 とある。
 これについて「現在では,百済の仏教受容を6世紀初頭とする見解が有力である。」『改訂新版 世界大百科事典』〔平凡社2014〕 とも言われるが、その説の出所は不明である。 〈欽明〉十三年によれば、倭への仏教の伝搬は552年。 『上宮聖徳法王帝説』〔以下〈帝説〉〕では538年である。
 よって、百済に伝搬してから、倭に伝わるまでの年数を計算すると、
書紀〈定説〉
『三国史記』(384年) 168年間 154年間 
「6世紀初頭」説 40年間前後 30年間前後 
 となる。これを見ると、少なくとも「6世紀初頭」説では、「僅一百年」にははるかに及ばない。
《未満百歳》
 倭に伝搬してから推古三十四年までは、「未満百歳」と述べる。これについて計算すると、
書紀〈定説〉
 74年間  88年間 
 となる。『三国史記』と、書紀の「僅一百年」、「未満百歳」を併せて見ると、仏教公伝の年は〈帝説〉の方がやや有利である。
《法律》
 「僧尼未習法律」の「法律」は、いわゆる「戒律」だと見てよい。
 仏教用語としての「戒律」は、『例文 仏教語大辞典』〔小学館;1997〕によれば、 「教団の秩序維持に規範が必要になったためにつくられた種々の規律条項や違反の際の罰則を規定したのが律で、これを内心より自発的に守ろうとして誓う点を戒という。」とされる。
 つまり、自発性に基づく秩序維持が、強制による秩序維持がであるが、実際にはすっぱり切り離せるものではないから、一体化して「戒律」という語になるのは自然である。 戒律には、思想や学問体系としての仏法を学ぶ態度を規定する側面と、集団の秩序を維持するための道徳的な側面がある。
《観勒僧の提言》
 二十年以上昔に百済から来帰した僧観勒が天皇に対して行った提言には、次の2つの内容が見える。
 :天皇は性悪説に立って僧侶全員を推問して、少しでも落ち度があれば罰しようとしている。
 :教団内の悪逆は、教団自身がもつ「法律〔=戒律〕によって自律的に処理すべきである。
 観勒は、「仏教公伝からはまだ日が浅く、「僧尼未習法律〔僧尼への「法律」の徹底が未だ不十分〕だから悪逆が起こる」と説明した。 この発言は、結局を主張するものである。 一方、「諸僧尼惶懼」という訴えはを諫めるものである。
《僧正・僧都》
 朝廷は、観勒僧の提言を受け入れ、諸寺の僧尼をトータルに管理監督するために僧正僧都を設置した。 僧正・僧都は、後に「僧綱」内の地位として位置づけられていく。 僧綱は僧を管理する職で玄蕃寮に属し、主席は大僧正(だいそうじょう)。次席が大僧都(だいそうづ)である (「元興寺伽藍縁起…」Ⅳ:諜)。
 僧綱は、仏教界の実務を自律的に処理すると同時に、全体として朝廷監督下に置かれるという二つの側面をもっている。
《法頭》
 〈延喜式-治部省〉には、僧綱の組織体系として僧正大僧都少僧津が見える。 〈続紀〉にも、増上僧都がしばしば登場する。 ところが、法頭は〈延喜式〉にも〈続紀〉にも出てこない。古訓にホウヅ・ホウトウが並記されるのは、平安時代には死語になっていたということであろう。 奈良時代までに消滅した職名と見られる。「」からは、一般の僧尼により近い立場にいたことが想像される。
《功徳》
 功徳には、古訓としてノリゴトノリノワザが当てられている。 ノリはすなわち「」であるが、それが望まれる心構えの意味に転じて「」に宛てられ、それによる功績が功徳である。
 ただ、三法を見ると、これを「みつのみのり」と訓んでもよさそうなものだが、古訓では音読みされている〔サンポウ〕ので、基本的な仏教用語はしばしば音読されたようである。
 「功徳」も、『勝鬘経疏』に「有大功徳有大利益〔大日本仏教全書第四巻p.9〕とあるように、れっきとした仏教用語である。 『勝鬘経疏』を「太子が執筆した」説には反論もあるのだが、少なくとも書としての成立は推古朝の頃まで遡ると思われる(勝鬘経(十四年)。 古くから仏教用語として広まっていたのだから、音読されていたと考えてもよいのではないだろうか。
《大意》
 三十二年〔三十一年〕 四月三日、 一人の僧がいて、斧を手にして祖父を殴(う)ちました。 その時、天皇(すめらみこと)はこれを聞かれ、大臣〔馬子〕を召して 詔されました。
――「出家した人は、ひたすら三宝に帰依し、 つぶさに戒法を懐(ふところ)にもつべきである。 なぜ、後悔も禁忌もなく、悪逆(あくぎゃく)を犯すのか。
 今朕が聞くに、ある僧が祖父を殴ったという。 よって、ことごとく諸寺の僧尼を集め、 問いただせ。 もしそのような事実があれば、重罪を課せ。」
 こうして、諸僧尼を集めて問いただしました。 そして悪逆の僧をはじめとして諸僧尼を、まさに罰しようとしました。
 そのとき、百済の僧観勒(かんろく)は、 上表して申し上げました。
――「そもそも仏法は、 西の国から漢に伝わり三百年を経て、 さらに伝わり百済国に至り、 僅(わず)か百年でした。
 けれども、我が王〔聖王〕は日本の天皇(すめらみこと)が賢哲であられると聞き、 仏像及び内典を献上し、 そのときから未だ百年も経ていません。
 よって、今この時になっても、 僧尼は未だに戒律を習わず、こうして悪逆を犯しました。 これによって、諸僧尼は恐れをいだき、 どうしたらよいか解らなくなっています。
 仰ぎみて願わくば、悪逆の者を除き、それ以外の僧尼は、 悉く赦免して罰することをなさいませんように。 これは、大功徳でございます。」
 天皇(すめらみこと)は、これを聴き入れられました。
 十三日、 詔を発しました。
――「修行を重ねた人でも、なお法を犯すものである。どうやって世俗の人を教誨するか。 よって、今より以後、僧正(そうじょう)・僧都(そうず)を任命して、 それにより僧尼を監督すべし。」
 十七日、 観勒僧を僧正として、 鞍部(くらづくり)の徳積(とくしゃく)を僧都(そうず)としました。
 同日、阿曇連(あずみのむらじ)【名を欠く】を法頭(ほうず)としました。


25目次 【三十ニ年九月~十月】
《是時有寺四十六所僧八百十六人尼五百六十九人》
秋九月甲戌朔丙子。
校寺及僧尼、
具錄其寺所造之緣
亦僧尼入道之緣
及度之年月日也。
當是時有寺卌六所
僧八百十六人
尼五百六十九人
幷一千三百八十五人。
…[動] しらべる。
具録…〈岩〉ツフサ[ニ]シ ス
…〈岩〉其寺[ノ]-ツ レ[ル]コトノモト ヨシ ホトケノミカタ[切]亦僧尼[ノ]-コナフコトノモト[切]度之イヘテノセル年月日。 〈北〉ソノ所造テラヲツクレルホトケノミカタホウシアマノ入道 ヲコナフコトノモト。 〈図〉其所造之ヨシ。 〈釈紀〉其寺ソノテラニ所造之像ツクレルホトケノミカタ。 〈閣〉イ无所造之ヨシ 交本
有寺…〈岩〉六-所ムトコロ八-百ヤホアマリ アマリ六-人ムハシラ ムタリ [切]イツ-ホ アマリ六- アマリ九人コゝノハシラコゝノタリ[切]アハ[テ]一-チ アマリ三- アマリ八- アマリ五-人イツハシラ。 〈北〉卌六所ヨソアマリムトコロ
秋九月(ながつき)甲戌(きのえいぬ)を朔(つきたち)として丙子(ひのえね)〔十一日〕
寺と[及]僧尼とを校(かむが)へて、
具(つぶさに)[録]其の寺の所造(つく)れる[之]縁(よし)と、
亦(また)僧(ほうし)尼(あま)の入道之(おこなひせる)縁(よし)
と[及]度之(いへでせし)年月日(としつきひ)とをしるす[也]。
是の時に当たりて[有]寺四十六所(よそあまりむところ)、
僧(ほうし)八百十六人(やほあまりとをあまりむたり)
尼(あま)五百六十九人(いほあまりむそあまりここのたり)
并(あはせて)一千三百八十五人(ちあまりみほあまりやそあまりいつたり)あり。
冬十月癸卯朔。
大臣遣阿曇連【闕名】
阿倍臣摩侶二臣、
令奏于天皇曰
「葛城縣者、
元臣之本居也、
故因其縣爲姓名。
是以、冀之常得其縣
以欲爲臣之封縣。」
二臣…〈岩〉阿-曇連[切]阿-倍[ノ]臣摩-侶二[ノ]/マチキミ[ヲ][テ]。 〈北・図・閣〉阿曇連【闕名】
本居…〈岩〉モト ヤツカレ-ウフスナゝリウフスナ[ナリ][句]。 〈北・図・閣〉本-居ウフスナ
うぶ…〈時代別上代〉出産に関する意の語の構成要素。〔ウブスナを見出し語に立てない〕
其県…〈岩〉其縣[ニ][テ][セリ][ヲ]
常得…〈岩〉トキハ[ニ]/タマハリタウハ其縣[ヲ][テ]。 〈閣〉タマヘリ
ときは…[名] 常盤。動かぬ岩、転じて永久不変のさまを表す。ニをつけて副詞のように用いる。
封県…〈岩〉ヨサス コヲリト[ト]
冬十月(かむなづき)癸卯(みづのとう)の朔(つきたち)。
大臣(おほまへつきみ)〔馬子〕、[遣]阿曇連(あづみのむらじ)【名を闕(か)く】
阿倍臣(あべのおみ)摩侶(まろ)二(ふたりの)臣(まへつきみ)をまだして、
[于]天皇(すめらみこと)に奏(まを)さ令(し)めて曰(まを)さく
「葛城県(かつらきのあがた)者(は)、
元(はじめ)臣(やつがれ)之(が)本居(もとつくに)なり[也]。
故(かれ)其の県(あがた)に因りて姓名(かばねのな)と為(な)せり。
是(こ)を以ちて、[之を]冀(こひねがは)くは常(つね)に其の県(あがた)を得(え)まつらむ。
以ちて臣(やつかれ)之(の)封(よさしたまはる)県(あがた)と為(な)したまふことを欲(ねが)ひまつる。」
於是、天皇詔曰
「今朕則自蘇何出之、
大臣亦爲朕舅也。
故大臣之言、
夜言矣夜不明、
日言矣日不晩、
何辭不用。
詔曰…〈岩〉天皇詔[テ][ク]
朕舅…〈岩〉[タリ][カ]ヲチ[句]
…[名] ①母親の兄弟。②夫または妻の父親。③妻の兄弟。 〈倭名類聚抄〉:母之昆弟為舅【其九反母方之乎知】
夜言…〈岩〉大臣之言[ヲ][ハ]ヨヒニ マウサ[ハ]矣夜[モ] スアカサ[切]
…[助] 文中では、停頓、感動の語気を表す。
日言…〈岩〉アシタニ[ハ][モ][句]〔カ〕 コトカ[コト][カ]サル[句]。 〈閣〉アシタニ矣則日クラサ〔ママ〕。 〈図・北〉日言矣日不晩
…[動] (古訓) くれ。くれぬ。
くらす…[他]サ四 クル(自:下二)の他動詞。もたもたして日を暮れさせてしまう。
於是(ここに)、天皇(すめらみこと)詔(みことのり)たまひて曰(のたま)はく
「今朕(われ)則(すなはち)蘇何(そが)自(よ)り[之]出(い)でき。
大臣(おほまへつきみ)亦(また)朕(わが)舅(をぢ)為(にあり)[也]。
故(かれ)大臣之(の)言(こと)、
夜(よる)に言(まを)さば[矣]夜(よ)も不明(あかさず)て、
日(ひる)に言(まを)さば[矣]日(ひ)も不晩(くらさず)て、
何(な)ぞ辞(こと)をば不用(もちゐざる)か。
然今朕之世、
頓失是縣、
後君曰
『愚癡婦人臨天下
以頓亡其縣。』
豈獨朕不賢耶、
大臣亦不忠。
是、後葉之惡名」
則不聽。
…〈岩〉[ニ]今朕之世[ニ][テ]ヒタフル[テ][ハ]是縣[ヲ][切]〔然:しかるに/しかれども〕
愚癡…〈岩〉[切]-ヲロカナル カタク婦-人 メノコ ノソムキミトシノソミ[ニ][テ]頓亡ヒタフル ウシナヘルト[セリ]コホリ[ヲ][句]。 〈北・図・閣〉ノタマハク愚-癡オロカナル婦-人メノコ。 〈北・図〉〔ロホス〕。 〈閣〉ウシナヘルコトホ 
愚癡(ぐち)…また愚痴。おろかなこと。
不賢…〈岩〉不賢ヲサナキノミナラム
不忠…〈岩〉不忠ツタナクナリナ
不聴…〈岩〉 レヨノ悪-名アキナゝラントノタマキコシメセキコシ タ
然(しかれども)今朕之(わが)世(みよ)にありて、
頓(ひたふる)是の県(あがた)を失はば、
後(のち)の君(きみ)曰(のたま)はく、
『愚癡(おろかなる)婦人(めのこ)天下(あめのした)に臨みて
以ちて頓(ひたふる)其の県(あがた)を亡(う)せり。』とのたまはむ。
豈(あに)独(ひとり)朕(われ)不賢(さかしからず)耶(や)、
大臣(おほまへつきみ)亦(また)不忠(まことならず)。
是(これ)、後葉(のちのよ)之(の)悪(あしき)名とならむ」とのたまひて
則(すなはち)不聴(ゆるしたまはず)。
《寺所造之縁》
 「寺所造之」を「寺所造之」とする写本があるが、 次の文で集計結果として「有寺四十六所」と書かれるから、が正しいことは明らかである。
 なお、後世「聖徳太子建立四十六箇寺」と言われるようになったのは、書紀のこの文が基になったのは明らかである。
《阿倍臣摩侶》
 阿倍臣摩侶は、以後〈舒明紀〉に「阿倍麻呂臣」、〈孝徳紀〉に「阿倍内麻呂左大臣」、「阿倍倉梯麻呂大臣」が見える。 〈孝徳紀〉によれば、大化五年三月辛酉〔十七日;グレゴリオ暦649年5月6日〕に薨じた。
《蘇我氏》
葛城氏・蘇我氏の足取り関係地(推定)
 蘇我氏の本貫は宗我坐宗我都比古神社(奈良県橿原市蘇我町)の一帯〔高市郡内〕第239回とされるが、 もともとは葛城郡から移ってきたのかも知れない。
 葛城郡にはもともといたのは葛城氏であるが、その活躍が描かれるのは〈安康天皇〉以前である。 〈允恭五年〉その他によると、葛城氏の系図は、
武内宿祢―葛城襲津彦―○―玉田宿祢」ー葛城円大臣
…『公卿補任』〔原型は平安初めか〕による。「反正天皇御世:葛城円使主 葛城襲津彦孫 玉田宿祢子」。
 となっている。 葛城襲津彦は、〈神功皇后〉のとき新羅に渡って戦い 〈神功皇后六十二年〉、 その女〔=娘〕石之日売命は仁徳天皇の太后となった第161回葛城玉田宿祢は、允恭天皇に叛意を見せて殺される〈允恭五年〉葛城円大臣は、殺される前に別業「葛城宅七区」と女の円媛を雄略天皇に献上した〈雄略即位前3〉
 葛城氏については、「もともとは葛上郡に住んだ人々のゆるやかな集まりが、まとめて「葛城」族と呼ばれ、 波多、巨勢、曽我各氏の母体となった印象を受ける」と考察した第162回武内宿祢を共通の始祖とすることが孝元天皇段第108回に示され、そこでは 葛城永江曽都毘古〔=襲津彦〕は玉手臣、的臣その他の祖、 許勢小柄宿祢は許勢臣その他の祖、 蘇賀石河宿祢は蘇我臣、川辺臣、田中臣、小治田臣、桜井臣その他の祖とされる。
 有力氏族としての葛城氏が早い時期に姿を消したことから考えると、葛城氏族の主力が宗我坐宗我都比古神社の地域に移って蘇我氏を名乗り、 後に飛鳥に移動したという経路を描くことができる。
 その経路のうち特徴的な地点を拾うと、「宇智郡(武内宿祢)⇒室宮山古墳(葛城氏)⇒宗我坐宗我都比古神社(蘇我氏)⇒石川精舎(〈敏達紀〉十三年) ⇒丸山古墳(堅塩媛を合葬した檜前大陵)⇒島庄遺跡(飛鳥河之傍の家)」となる(右図)。
《うぶすな》
 「本居」に、ウブスナなる古訓が添えられている。 この語は、『今昔物語』巻十九の「以仏物餅造酒見蛇語第二十一」に「今昔、比叡ノ山ニ有ケル僧ノ、山ニテ指ル事無カリケレバ、山ヲ去テ、本ノ生土ニテ(『新版日本古典文学全集』小学館;2000[36]p.525)にあるとされる。 但し、仮名表記ではなく「生土」の訓読である。
 明確な仮名書きとしては、『壒嚢鈔』〔1445または1446〕巻第八三条通菱屋町(京都) : ふ屋林甚右衛門/正保3〔1646〕 (国立国会図書館デジタルコレクション2597266)に、 「十一ウブスナト云ハ何事ソ:当時は所生ノ所ノ神ヲ云歟。或ハ本居ト書。或ハ産生ト書。又宇夫須那共書也。 尾州葉栗郡。若栗郷宇夫須那ノ社アり…」がある。
 したがって、平安時代の言葉を「本居」に当てはめた可能性が強いが、それでは上代にはどう訓まれたのだのだろう。 本当のところは判らないが、万葉を見ると自動詞の「」の訓みはヰルヲリばかりだから、本(モト)-居(ヲリ)が安全であろう。
《県》
 古訓では、コホリと訓む。コホリアガタにそれほどの意味の違いはない。ただし、「県主」は必ずアガタヌシである。コホリの首長はコホリノツカサという。 〈欽明紀〉の「郡司」(コホリノツカサ)は、大宝令〔702〕より後に使われるようになった「郡(コホリ)」を遡らせたと見られる。なお、大宝令の前はコホリを「」と表記したことが木簡によって明らかになっている(〈継体二十四年〉《背評》)。 また、大和国では県から郡に移行したことが祝詞によって実証されている (第195回《五村苑人》)。 初めに述べたように「」の首長はアガタヌシだから、県は基本的にアガタのはずである。
 〈時代別上代〉は「コホリは朝鮮語に由来したらしい」、アガタは「大化の改新以後は、コホリというようになったが、なお、地名・人名の上にそのおもかげを多く残す」と述べる。 アガタの語源は「我が田」であろう。〈時代別上代〉は「諸地方の山河などの形勢によって境をわかち、田畑を開墾して耕作した土地の称」と説明する。 渡来人は自身の言語によってアガタをコホリと呼び、それが次第に広まって優勢になったと想像される。 〈推古朝〉の時代の呼び名は、まだ祝詞にあるアガタだったと思われる。
《朕舅》
上宮聖徳法王定説による系図
稲目の子の同母・異母は不明。年齢順も不明。
…元興寺伽藍縁起并流記資財帳。…記紀。

 現代語では、(しゅうと)を妻の父の意味で使うが、「」の第一義は母の兄弟である。
 蘇我馬子が蘇我稲目の子であることは、次の三十四年条で明示されるとともに、 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』癸卯年〔583〕でも 「稲目大臣子馬古足禰」とある([10])。
 第249回第239回の系図にある通り、 〈推古〉の母堅塩媛は馬子と兄弟関係だから、〈推古〉から見て馬子は〔ヲヂ〕に確かに該当する。
《夜言矣夜不明》
 古訓の「夜(よる)に言(まを)さば夜(よ)も明かさず」は、このままで上代語として通用すると見てよいだろう。 「」は大臣による提言を意味すると見て、マヲスと訓めば意味が通る。但し、漢文のままだと意味が通じない。 漢文として意味をなすためには、「汝言」「卿言」などと主語を補う必要がある。 また「夜不明」は言葉足らずで、「朕将未明為」などとすべきであろう。「夜言矣夜不明日言矣日不晩」は相当の和習だと思われる。
《不賢》
 「不賢」は「をさなし」と訓むことが定着している。 〈仁徳紀〉即位前紀の場合は、即位するにあたってまだ年若いことへの謙遜として、妥当性があるが、 〈推古紀〉三十二年ではもう年長であるから不適当であろう。〈仁徳紀〉で用いた訓みを、機械的に当てはめてしまったと思われる。
 ここでは文字通り「賢明でない」意味であって、普通に考えれば「幼し」を用いることはないはずである。
《大意》
 九月十一日、 寺と僧尼とを調査し、 つぶさにその寺が作られた由縁、 また、僧尼の入道のきっかけ、 及び得度の年月日を記録しました。
 この時に当たり、寺四十六か所、 僧八百十六人、 尼五百六十九人、 併せて千三百八十五人がありました。
 十月一日、 大臣〔馬子〕は阿曇連(あずみのむらじ)【名を欠く】と 阿倍臣(あべのおみ)摩侶(まろ)の二臣を遣わし、 天皇(すめらみこと)に奏上させました。
――「葛城県(かつらきのあがた)は、もともと私の本の居所です。 そこで、そこから姓氏の名としました。 よって、冀(こひねがわ)くば、常にその県を得て、 私が封建する県(あがた)にしていただくことを欲します。」
 これに、天皇(すめらみこと)は詔(みことのり)されました。
――「今朕は蘇何〔=蘇我〕の出身です。 大臣(おおまえつきみ)は、また朕の舅(おじ)にあたります。 よって大臣の言葉は、 夜に奏(もう)されれば夜も明けぬうちに用いて、 昼に奏(もう)されれば日も暮れぬうちに用いて、 どうしてその言葉を用いないことがありましょうか。
 しかし、今朕の世に丸ごとこの県を失えば、 後の時代の君主は、 『愚かな婦人が天下に臨み、丸ごとその県を失った』と言われるでしょう。 あに朕一人が、賢明でないのでしょうか。いえ、大臣(おおまえつきみ)もまた不忠です。 これによって、後世に悪名を残すことでしょう。」
 このように詔され、聞き入れられませんでした。


26目次 【三十三年~三十五年】
《高麗王貢僧惠灌仍任僧正》
卅三年〔卅二年〕
春正月壬申朔戊寅。
高麗王貢僧惠灌。
仍任僧正。
卅三年…〈岩〉三イ[ノ]春正月[ニ]壬申
高麗王…武王。隋書での名前は余璋。 〈岩〉高麗[ノ]〔コ〕キシ[切]僧恵-灌[ヲ][句][テ]僧正[ニ]。 〈釈紀〉ヂヤウ
卅三年(みそとせあまりみとせ)〔卅二年(みそとせあまりふたとせ)〕
春正月(むつき)壬申(みづのえさる)を朔(つきたち)として戊寅(つちのえとら)〔七日〕
高麗(こま)の王(わう)僧(ほふし)恵灌(ゑくわん)を貢(たてまつ)る。
仍(よりて)僧正(ぞうじやう)を任(おほ)す。
卅四年春正月。
桃李花之。
三月。
寒以霜降。
卅四年…〈岩〉四イ[ノ]
桃李…〈岩〉桃李ハナサケリ[リ][句]
霜降…〈岩〉フレリ[ル][句]
卅四年(みそとせあまりよとせ)春正月(むつき)。
桃(もも)李(すもも)が花之(はなさけり)。
三月(やよひ)。
寒(さむ)し、以ちて霜(しも)降(ふ)れり。
夏五月戊子朔丁未。
大臣薨、仍葬于桃原墓。
大臣則稻目宿禰之子也、
性有武略亦有辨才、
以恭敬三寶。
家於飛鳥河之傍、
乃庭中開小池、
仍興小嶋於池中、
故時人曰嶋大臣。
…〈岩〉ミマカルミウセ[ヌ][句]ハカ
…〈岩〉稲-宿祢之子[ナリ][句] ヒトゝナリ[切]/タケキ-/ワサ タハカリ[テ]亦有辨才ワイ\/シキカトワイ\/シコト[句]。 〈図・北〉辨才ワイマヘ
わきわきし…[形]シク 分別のあるさまを表す。〈時代別上代〉ワイワイシは音便の例。
…〈岩〉[セリ]アリセリ
…〈岩〉[ノ][ニ] ケリハレ/ホレリ[リ][ナル][ヲ][句]すこしきなる池を(掘れり/掘りけり)〕。 〈図〉ハレリ。 〈北〉ハレリ/ホレリ小池。 〈欽明段〉天国押波流岐〔はるき〕広庭天皇(第238回) 〈継体紀〉天国排開広庭尊【開、此云波羅企〔はらき〕(継体元年)。
はる…[他]ラ四 開墾する。地を掘り開いて道をつくる。
…〈岩〉[テ] ツク小嶋[ヲ]於池[ノ][句]
こしま…(万)0967 日本道乃 吉備乃兒嶋乎 過而行者 筑紫乃子嶋 所念香聞 やまとぢの きびのこしまを すぎてゆかば つくしのこしま おもほえむかも
夏五月(さつき)戊子(つちのえ)を朔(つきたち)として丁未(ひのとひつじ)〔二十日〕
大臣(おほまへつきみ)薨(こう)ず。仍(よ)りて[于]桃原(ももはら)の墓(はか)に葬(はぶ)る。
大臣は則(すなはち)稲目宿祢(いなめがすくね)之(が)子なり[也]。
性(さが)、武(たけ)き略(はかりごと)有り。亦(また)弁(わきた)める才(かど)有り、
以ちて三宝(さむはう)を恭敬(つつしみゐやま)へり。
家(いへ)をば飛鳥河(あすかのかは)之(の)傍(ほとり)に於(お)きて、
乃(すなはち)庭の中に小池を開(はる)きて、
仍(すなはち)小嶋(こしま)を[於]池の中に興(おこ)せり。
故(かれ)、時の人嶋大臣(しまのおほまへつきみ)と曰(まを)す。
六月。
雪也。
是歲。
自三月至七月霖雨。
天下大飢之、
老者噉草根而死于道垂、
幼者含乳以母子共死。
又强盜竊盜、
並大起之不可止。
…〈岩〉-  フレリ[句]
霖雨…〈岩〉霖雨 ナカメフ[句]
…〈岩〉[ニ]ウヱ[句]
老者…(万)1034 老人之 變若云水曽 おいびとの をつ〔=若返る〕といふみづぞ
噉草…〈岩〉クラ[ノ][ヲ][テ]
道垂…〈岩〉[ノ]ホトリ
みどりこ…(万)4122 弥騰里兒能 知許布我其登久 みどりこの ちこふがごとく
強盗…〈岩〉---ヌスヒト 四字引合
不可止…〈岩〉[ニ][ニ]起之[テ]不可 。 〈図・北〉不可ヤム
六月(みなつき)。
雪(ゆき)ふる[也]。
是の歳。
三月(やよひ)自(よ)り七月(ふみづき)至(まで)霖雨(ながめふ)れり。
天下(あめのした)大(おほきに)[之]飢(う)ゑて、
老(おいびと)者(は)草の根を噉(くら)ひて[而][于]道(みち)の垂(ほとり)に死にせりて、
幼(みどりこ)者(は)乳(ち)を含(ふふ)みて[以]母子(ははこ)共に死にせり。
又(また)強盗窃盗(ぬすびと)、
並(な)べて大(おほきに)[之]起(おこ)りて不可止(やむましじ)。
卅五年春二月。
陸奧國有狢、
化人以歌之。
夏五月。
有蠅聚集、
其凝累十丈之、
浮虛以越信濃坂、
鳴音如雷、
則東至上野國而自散。
有狢…〈岩〉ウシナ[テ]ナリ[ニ][テ]歌之ウタゝゝフ[句]
むじな…[名] 〈時代別上代〉「上代のムジナがその〔タヌキとアナグマの〕いずれをさしたか、あるいは両方含めていったものか、明らかでない」。
有蠅…〈岩〉ハエ聚-集 アツマレリ[句]コリカサナルコト[コト][コト]十-ハカリトツエアマリハカリ[句]。 〈北〉ハヘナル
…〈岩〉オホソラ[ニ][テ]
おほぞら…[名] 〈時代別上代〉「地をオホツチというのと同様、空をその広大であるのについていう美称」。
信濃坂…〈岩〉信濃[ノ][ヲ][句]鳴-[句]
…〈岩〉ノカタ[カ][切]
…〈岩〉[ニ]チリウセタリ[ヌ]
信濃坂…また、碓日坂(〈景行13〉《上毛野国緑野屯倉》)。
おのづから…[副] 〈時代別上代〉訓点類には……オノヅカラニとある例が多い。
三十五年(みそとせあまりいつとせ)春二月(きさらき)。
陸奥(みちのく)の国に狢(むじな)有りて、
人に化(な)りて以ちて[之]歌(うた)うたふ。
夏五月(さつき)。
蝿(はへ)有りて聚集(むらが)りて、
其(それ)凝累(こりかさなること)十丈(とつゑ)[之]、
虚(おほぞら)に浮かびて[以]信濃(しなの)の坂を越ゆ。
鳴る音(おと)雷(いかづち)の如し。
則(すなはち)東(ひむがし)に上野国(かみつけのくに)に至りて[而]自(みづから)散りつ。
《桃李》
2012年4月8日9時jst (気象庁/過去の天気図)
移動性高気圧に覆われた気圧配置
 モモの開花期は4月上旬、スモモの開花期は3月下旬~4月上旬とされる (『みんなの趣味の園芸』;NHK出版)。
 推古三十四年(丙戌)正月一日~三十日は、ユリウス暦〔以下〈J〉〕626年2月2日~3月3日にあたる。 したがって、この年の桃李の開花は例年に比べて一か月程度、またはそれ以上に早かったことになる。
《遅霜》
 遅霜は4~5月に、雲がなく風が弱い夜に放射冷却によって発生する。主に移動性高気圧による。 
 推古三十四年三月一日~三十日は、〈J〉626年4月2日~5月1日にあたる。
 奈良地方気象台の統計記録から4月の低温日の記録を拾う。
 ・観測期間:1954年4月~2021年4月。
 ・最低気温記録1位~10位: -2.4℃~-1.3℃。
 (気象庁/過去のデータ検索による)
 右図は、最低気温-1.3℃を記録した2012年4月8日午前9時の天気図。遅霜を警戒すべきとして、教科書に載るような気圧配置となっている。 この日の最低気温の観測時刻は午前5時20分。午前0時~5時20分の平均風速は0.56m/秒で微風である。
 この時期の遅霜自体は珍しくないのだが、〈推古紀〉の文脈中では、あくまでも暖かかった一月から一転して低温に転じたと語るものである。
《わきわきし》
 への古訓「ワイワイシ」は、ワキワキシ(形容詞)のイ音便。ワキはワク(別、判)の名詞形で、動詞ワキタム〔弁別する〕の語根である。
 語根を反復して形容詞を作る例には、カロガロシなどがある。
《桃原墓》
石舞台古墳 玄室
石舞台古墳 外観
石舞台古墳 全景明日香村公式~石舞台古墳解説書
 地名「桃原」は、〈雄略-七年是歳〉に「新漢」の諸族を置いた地として出てくる (〈雄略天皇3〉即位前《真神原》)。 この付近が桃原だとする説は、石舞台古墳を馬子の桃原墓とする仮定から演繹したものである。
 遡って石舞台古墳を桃原墓とするのは、近くの島庄遺跡を馬子の家跡とする説に基づき、かつ古墳の規模が権勢を誇った大臣に相応しいことによると思われる。
 墓の規模を他の陵墓と比較すると、〈用明天皇〉の改葬陵(〈推古元年〉)に比定される春日向山古墳が、東西65m・南北60m。 また来目皇子墓と考えられる方墳が一辺約52m(〈推古十一年《来目皇子墓》)。 石舞台古墳については、「残存している墳丘の下段部分は、一辺約50m」とされる(明日香村公式/「石舞台古墳~古代古墳の謎~解説書」;2012〔以下〈明日香村2012〉〕)。 用明天皇陵より一回り小さく、来目皇子墓と同程度だから、大きさについては大臣墓としての妥当性があると思われる。
 第246回《石舞台古墳》で見たように、 その向きは、北から東に30.8°偏している。〈推古朝〉における〈用明〉改葬陵、来目皇子墓が正方位となっているから、 被葬者は馬子ではなく、〈推古朝〉以前のごとくである。
 また、玄室の石積みは岩屋山古墳〔7世紀第三四半期(651~675年)とされる〕の洗練された石組みに比べて、一時代昔を感じさせる (〈推古二十九年〉《大石》)。 さらに、馬子の家といわれる島庄遺跡に近すぎるのも疑問である。陵墓は、居住地から離れた郊外の奥墓おくつきに作られるのが一般的ではないだろうか〔古市古墳群など〕
 ところが、石舞台古墳については通例では推し量れない特異な面がある。 〈明日香村2012〉によると、「石舞台古墳の下層にはいくつかの〔7基〕小規模古墳があった」、「7基とも横穴式〔つまり、後期古墳〕」で 「出土した遺物や石室の形態から6世紀末頃の築造」という。つまり、まだできたばかりの古墳でも平気で壊して、自分のための墓を作った。
 この不遜なふるまいは、馬子の個性というべきであろう。思い返せば、堅塩媛を檜前に改葬する際、その棺を玄室内の主座に置き後円部を積み増すなど、 あたかも欽明陵を堅塩媛のための陵に作り替えた如くである。軽のちまたしのひことをたてまつったときは、馬子は一族を引き連れて来てわが物顔に振る舞い、天皇の使者をおどおどさせた 〈推古二十年〉。 そして、三十二年には広大な葛城県を自らの私領とすることを要求した。やることなすこと傍若無人である。
 こうして見ると、この桃原墓〔だったとして〕の向きが正方位に合わないのは、馬子の家からの見え方を優先したためであろう。 方形池辺りから石舞台古墳を見るとき、視線が古墳の側辺に垂直に当たる向きに築かれている。
 自宅に近すぎるという問題については、この一帯が馬子の別業なりどころであって、わざわざその領域内に大きな墓を作ってひけらかしたと考えることができる。 きっと、馬子の生前に築いたのであろう〔天皇陵の場合は寿陵という〕。 自宅には庭に池を堀り、築山のような島を作ったと見られる。方墳は、豪奢な庭の借景になっていたのではないだろうか。
《家》
島庄遺跡・石舞台古墳遠景  島庄遺跡周辺図 遺構(2003年度調査)
明日香村公式/明日香村の文化財⑤「島庄遺跡」;2005 明日香村の文化財④「島庄遺跡」;2004
 蘇我馬子邸宅跡は、島庄遺跡にあったとされる〈用明元年〉。 「飛鳥京の古代庭園」(卜部行弘)〔『日本庭園学会誌』11:2003〕によれば、島庄遺跡のについては、 「7世紀初頭。方形池、石組暗渠、曲溝、柵、流路、掘立柱建物、小池によって構成。 方形池は護岸、池底、堤の一部 を確認 。隅丸で、内法 一辺42m、 深さ2m。池底は中央部に向かって緩傾斜し、川原石を敷く。」という。 「小池」については、「長さ2.3m、幅0.7m、深さ0.3m」とある。
 方形池内に島があったのではとも想像されるが、池内の島の痕跡については特に報告はない。また小池はごく小さなもので、「小嶋於池中」と書かれるような代物とは思われない。
 発掘調査が実施された範囲はまだごく一部に過ぎないから、 さらに未発見の池が邸宅の庭園内にあっても不思議ではない。 その中にこそ、築山のようにして島が作られていたのではないだろうか。 方形池自体は恐らく灌漑用で、多分馬子の別業なりどころの田を潤したと思われる。 同時に、庭園の池や遣水やりみずのための水源となり、曲水宴(〈顕宗元年三月〉)の開催も想像される。
 但し、そもそもこの土地の地名がシマで、そこに住んだから「島大臣」と呼ばれた可能性もある。小池を掘って島を興したという話は逆に名前から作られた伝説かも知れない。 それなら方形池一つあれば十分で、島が実際に存在する必要はない。
《開小池》
 アマクニオシハラキヒロニハノスメラミコト〔欽明天皇〕の、ハラキ〔記はハルキ〕に書紀が「」をあてたのは、"open"を表す上代語に、ハラクがあったためと見てよい。 は古くは[pa]と発音され、その音韻構造「口唇破裂音⇒最も口内空間の広い母音」が"閉鎖⇒解放"のイメージと結びつき、ハナツ(放つ)などの語ができたと思われる。 よって、ヒラクはもともとハラクであったとする見方には説得力がある。ハル〔=開墾する〕ももともとopenの意味で、それが田畑や道の開削の意に特定化したと思われる。
 土を掘って池を作ることを、上代に「池をはらく」、「池をはる」と表した可能性はある。池の掘削も農地の開墾も農業生産力を高める行為だから、開墾する「ハル」が池の掘削にも転用されたのかも知れない。
《六月雪也》
 〈推古朝〉の頃の統治範囲内に、「六月雪也」となる地域が、果たしてあったのだろうか。
 当時の倭の統治域を推定するために〈続記〉を見ると、708年三月に「陸奥守〔むつのかみ〕を任命するが、709年三月には「陸奥越後二国〔の〕蝦夷。野心難」なる事態に直面し、「陸奥鎮東将軍」および「征越後蝦夷将軍」を派遣する。 何とか710年に「陸奥蝦夷等。請君姓於編戸。許之。〔つまり、戸籍を作り得る状態〕にこぎ着けたようである。 712年十月には「陸奥国最上置賜二郡。隷出羽国〔陸奥国の最上郡と置賜郡を、出羽国に移す〕とあるから、 この時点で陸奥国の北端は仙台辺りかと思われる。その時代から〈推古朝〉まで遡ると、北限は常陸国+α程度であろうか。
1993年7月6日9時jst
『気象年鑑』1994年版
 この統治域北端あたりで六月〔〈J〉626年6月30日~7月28日〕の気温が低い記録を「気象庁ホームページ/過去のデータ検索」で調べると、 福島県浪江で、1993年7月6日に最低気温11.0℃を記録している。
 この年は記録的な冷夏で、沖縄を除くすべての地域で「梅雨明けがはっきりしない」という珍しい年となった 〔気象年鑑1994年度版;気象庁監修〕。同年鑑によるとこの年の春から夏にかけて、エルニーニョ現象が観測されている。 このパターンではオホーツク海気団が優勢で、東北から関東の太平洋岸には「やませ〔オホーツク気団からの東風が親潮で冷やされて吹き付ける〕となる。
 〈推古〉三十四年の天候が、この1993年と類似するパターンなら、「自三月至七月〔4月2日~8月29日〕霖雨」は当然の天候といえる。 またエルニーニョ現象では、冬から春先にかけては逆に気温が高めになる(気象庁/エルニーニョ現象発生時の日本の天候の特徴)。 「正月桃李花之」は、この特徴にも合っている。
 11℃程度では、流石ににはならない。余程の異常気象でなければ、誇張であろう。 それでも、雪になる気温は4℃、湿度が低ければ10℃でもあり得ると言われるので、あと一歩かも知れない。
 なお、1993年の冷夏は、1991年6月15日のフィリピンのピナツボ火山の大噴火との関連が指摘されている 〔「1993年の大冷夏」近藤純正;『天気』日本気象学会編41巻8号1994〕。 俗に「噴煙が成層圏に留まり日射を遮ったのが原因」と言われるが、気象への影響はそれほど単純ではないらしい。 
《陸奥国》
 前項で見たように、〈推古朝〉当時の統治範囲は常陸国のやや北までと見られる。 〈斉明紀〉には、元年〔655〕に「饗…東【東蝦夷】蝦夷九十五人」、五年〔659〕に「饗陸奥」とあり、まだ倭国に属さない別民族の国から使節を迎えて接待する関係が示されている。 但し、同じ五年に「道奧与越国司位各二階」とあり、「道奥国司」の存在が示されるから、大体この頃が陸奥国の成立かと思われる。詳細の検討は〈斉明紀〉の精読の際に行う。
 倭が陸奥方面へ領土を拡張する志向は一貫しており、日本武尊伝説はそれを時代を遡らせて描いたものである(〈景行天皇紀13〉)。
 〈推古帝〉の時期はこの方面は「陸奥」ではあるが、「陸奥""」は成立していない。ここでは律令国になった後の名称を遡らせて用いたものである。
《狢》
 『世界大百科事典』によれば、ムジナは「動物学上の呼称ではなく、哺乳類のタヌキまたはアナグマの俗称」で、「人を化かす点はタヌキと同様で、しかしどこか憎めないところがある」という。
 が登場する民話は、全国に無数にある(怪異・妖怪伝承データベース)
《有蝿聚集》
 ハエの大発生自体は、珍しいことではない。 それでも柱状に密集して羽音は雷の如しと言うのは、物凄いさまである。話が伝わるうちに誇張されたと受け止めるべきか。
《十丈之》
 「中国哲学書電子化計画」〔ウェブサイト〕で「丈之」を検索すると、たとえば「乃立三丈之木於国都市南門」(『通典』/礼/刑法)、 「千丈之陂〔=堤〕、潰於一蟻之穴」(『太平御覧』/虫豸部/蟻)など、「長さ~丈の~~」という用法ばかりである。 当然ここでは当てはまらない。「」のその他の用法としては
 ・形式目的語として、直前の文字が動詞であることを示す用法。直前の「歌之」はそれに該当する。
 ・代名詞として主語になる。「之浮空」は成り立つようにも思えるが、「之」を主語とする文は実際には見当たらない。
 ・VOを倒置するときの「O之V」。「浮」には既に目的語「虚」〔=空〕が存在するから、成り立たない。
 があるが、どれにも当てはまらないから、誤写であろう。それでは、本来はどういう字だったか。 「〔ばかり〕、「〔あまり〕だとすれば意味は成り立つ。しかし、字形が違い過ぎる。 ただ〈岩崎本〉の古訓からは、「之」をこの意味に取ろうとした様子が感じられる。
 「也」なら字形も近く文法上もOKだが、どの本も「」だから推しにくい。ひとまず衍字えんじ〔誤って紛れ込んだ字〕と考えておく。
《上野国》
 好字令〔713年〕(資料[13])以前は「上毛野」だったと思われる。 好字令による改称だとすれば何とか書紀〔720年〕には間に合うが、その前から改称されていたかも知れない。好字令以前の改称としては、明日香⇒飛鳥の例がある(第180回)。
《大意》
 三十三年〔三十二年か〕 正月七日、 高麗(こま)王〔武王〕は僧恵灌(えかん)を貢上し、 直ちに僧正に任じました。
 三十四年正月、 桃李〔モモとスモモ〕の花が咲きました。
 三月、 寒く、霜が降りました。
 五月二十日、 大臣(おおまえつきみ)〔=蘇我馬子〕が薨じ、桃原の墓に埋葬しました。 大臣は稲目宿祢の子で、 人柄は武略があり、また弁才〔物事の理解力〕があり、 三宝〔=仏教〕を恭敬しました。 家を飛鳥川の傍らに置き、 庭の中に小池を開き、 小島を池の中に興しました。 よって、時の人は嶋大臣(しまのおおまえつきみ)と呼びました。
 六月、 雪がふりました。
 是の年は、 三月から七月まで霖雨(りんう)〔=長雨〕でした。 天下は大いに飢え、 老いた人は草の根を食べ道端に死に、 幼なき子は乳を口にくわえたまま母子共に死にました。 また、強盗窃盗は 並んで頻発し、止むべくもありませんでした。
 三十五年二月、 陸奧の国に狢(むじな)がいて、人に化けて唄を歌いました。
 五月、 蝿が群がり、固まり重なるさまは十丈に及び、 空に浮かんで信濃の〔碓日〕坂を越えました。 鳴る音は雷のようで、 こうして東方に上野国(かみつけのくに)に至り、自ら散りました。


27目次 【三十六年】
卅六年春二月戊寅朔甲辰。天皇臥病。……〔続き〕


まとめ
 権勢を振った大臣蘇我馬子であるが、生涯の終わりに近づいてもなおエピソードが付け加わる。 思えば、崇峻天皇の殺害を始めとしてやりたい放題の人生であった。 このような人物なら、まだ真新しい古墳をいくつも潰して自分のための巨大墓を作ることは十分考えられる。 それが、石舞台古墳の被葬者を馬子とする説にリアリティーを感じさせるのである。
 ただ、最後は推古天皇は強気で、馬子による広大な所領の要求を拒否している。 即位の頃はまだ馬子の傀儡だったかも知れないが、長年大王の地位にあれば権力基盤は自動的に固まって来るものであろう。 晩年は、実際に『元興寺伽藍縁起…』でいう「大大王」として奉られる立場であったと思われる。
 このように考えると、馬子の薨についてはその専横への人々の反発を背景に、天皇が暗殺を命じた可能性もある。 ただ、仮に暗殺だったとすれば、書紀がその事実を伏せた事情を説明することが必要になる。
 さて、三十五年条は無論伝説である。 それに対して、三十四年条の気象記録の部分はエルニーニョ現象の特徴と重なり合うので、幾分の誇張はあろうが概ね史実であろう。 その情景からは江戸時代の三大飢饉が連想されるが、江戸時代の飢饉でもその要因として、夏場の冷害や長雨が指摘されている。
 太子と馬子が薨じ、〈推古〉も晩年を迎えた。 一つの時代の終わろうとしているとき、赤気、極端な天候不順、日食〔三十六年条〕などは自然現象ではあるが、 一連の出来事が不吉な時代の予感として文脈に位置づけられているのも、また確かであろう。



[23-01] 舒明天皇紀