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2022.03.08(tue) [22-11] 推古天皇11 ▼▲ |
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22目次 【三十一年】 《新羅遣大使貢佛像一具及金塔幷舍利》
現代の通用本では三十一年・三十二年・三十三年・三十四年となっている年について、〈岩崎本-傍書前〉ではそれぞれ卅年・卅一年・卅二年・卅四年としている。 〈北野本〉と〈図書寮本〉では、既に通用本と同じになっている。
本サイトの元嘉暦モデルによる計算結果では、31年と32年は〈岩崎本〉が適切で、34年は〈北野本〉・〈図書寮本〉に合致する。 従って、元嘉暦との整合性を保つためには〈岩崎本〉の33年のみを34年に直し、他は〈岩崎本-傍書前〉の通りとするのがよい。 空白になる年は、〈北野本〉以後:30年、〈岩崎本-傍書前〉:34年、元嘉暦モデル:33年となる。 八木書店のコラムによると、それぞれの写本の年代は 〈推古〉巻の〈岩崎本〉:寛平・延喜年間〔889~923〕、〈図書寮本〉:平安末期〔1100年代〕、〈北野本〉:院政期〔1068~1221〕という。 これに拠れば、元々の書紀の形に忠実なのは〈岩崎本-傍書前〉で、以後の写本において修正され、それが逆に〈岩崎本〉の傍書に反映されたように思われる。 一方朝鮮半島の歴史を参照すると、後述するように、『三国史記』には〈推古〉三十年〔622〕に百済対新羅の戦闘はなく、〈推古〉三十一年〔623〕には百済が新羅の勒弩県に侵攻している。 これに関連付けるために、三十年の内容を三十一年に送り、以後三十三年までを玉突きで送られた可能性がある。 しかし、元嘉暦と合わなることには無頓着だから、随分雑な判断である。 関連して、『広隆寺資材校替実録帳面』には「推古三十歳次壬午」が広隆寺建立の年とある(下述)。この文書自体は室町時代のものであるが、 その元になった古い記録が、〈岩崎本-傍書前〉の「三十年」に拠ったのではないかと思える。 《大使奈末智洗爾》
比較のためにこの前後にある「遣…」の文を見ると、「遣」には直接人名が続き、「大使」が付くとすればここだけである。 従って、ここに「大使」がなかったとしても特に問題はない。 むしろ、「大使」があれば「副使」が対となるはずで〔実際に〈敏達〉元年の例がある〕、「大使」は本来考えにくい。 新羅の位階には「大奈麻」がある〈推古十八年〉から、初めの形で成り立つ。ところが、誰かがそこに「使」を挿入した。その人物は、新羅の位階に無知であったが如くである。 ところが、後段で出て来る「奈末智洗遅」は「智洗爾」の誤記である可能性が高く、こちらには「大」がついていないことが悩ましい。 結局、①「大[ ]奈末智洗爾」に"使"を補う。②「[ ]奈末智洗遅」に"大"を補い遅を爾に直す。③「大奈末智洗爾」と「奈末智洗遅」を別人物と見て〈岩崎本-傍書前〉のままで置く。から選択しなければならない。 あらゆる推定を排除するのなら③だが、書紀執筆の段階で既にぶれがあった〔古記録の段階で混在か〕と仮定するなら②もあり得る。しかし、①はもっとも不適切であろう。 《達率奈末智》 〈推古〉三十一年も十八年、十九年に引き続いて、新羅使と任那使がワンセットで来朝する。これまでは、任那使も新羅の位階を負っていたが、 今回の使者「達率奈末智」は、百済の位階を負う。百済と新羅の国境地帯は国土の奪い合いが続いており、時には服属した百済人が新羅の官僚組織に採用されることもあったが、 その場合でも、これまで負っていた位階が名前の一部のようになって維持されたことが考えられる。 あるいは、逆に十八年・十九年の「任那使」は旧加羅地域居住の人物で、新羅から新たに位階を与えられた可能性もある。 《貢仏像一具》 〈岩崎本〉の訓点は「貢下」…「舎利上」として、動詞「貢」の目的語の範囲を指定している。 また、よく見ると「十二条上」にも「上」があり、水で消したように見える。しかし、消す前の方が正しい。 「舎利上」だと、「且…十二条」は「且二…十二条ヲ一」としなければならないはずだが、この返り点はない。 従って返し点「上」の移動は中途半端に終わっている。「一二」の代わりに「上下」を使ったのは、暫定的な提案のように思える。 《葛野秦寺》 葛野秦寺は、秦造河勝が建立した「蜂岡寺」〔また広隆寺〕の別名とされている。 その後の移転について、〈推古十一年〉で詳しく見た。 『広隆寺資材校替実録帳面』〔『大日本仏教全書』119による〕には、その創立は 「推古天皇治天下卅歳次二壬午一。大花上秦造河勝奉為二上宮太子一所二建立一也」と書かれている。 ここでも、秦氏が国家の仏教化において相当の役割を果たしていたことが分かる。 《四天王寺》 四天王寺の建立は〈推古元年〉とされるが、「推古元年」は実記録というよりは象徴的な表現であろう。 〈崇峻天皇即位前紀(用明二年)〉に、当時少年だった聖徳太子が「必当レ奉下為二護世四王一起二上-立寺塔一」 〔必ず護世四王のために寺塔をたてまつるべし〕との決意を語った一文がある (〈崇峻3〉)。 その項では『四天王寺寺領帳』に、物部室屋を滅ぼした際に室谷の別業を接収し、それが四天王寺の寺領に宛てられたとする記録を見た。 《新羅伐任那任那附新羅》
任那は〈欽明天皇〉のときに新羅に滅ぼされたはずなのに、ここでまた「伐二任那一」と書かれる。 後述するように、百済の支配下にあった椵岑城が、〈推古〉二十六年〔618〕、新羅によって奪還された。椵岑城は現在の忠北と言われるが、 それを任那地域の如く扱い、その 実際、『朝鮮三国志 高句麗・百済・新羅の300年戦争』〔紀元社;小和田泰経〕)※のように、「椵岑城は、もともと伽耶諸国があった地域に位置している」と述べる書もある。 ※…一般向け読み物であるが、「すべて史料に依拠したものである」と序文で述べるので、椵岑城の位置についても何らかの研究の結果だと思われる。 もともと「任那国」なるものは存在せず、諸国の「総言」〔つまり地域名〕であることは〈欽明紀〉原注で明記されている(資料[32])。 《田中臣》 田中臣については〈天武天皇即位前期〉に「田中臣足麻呂」、〈天武十年〉に「田中臣鍛師」の名がある。 〈天武〉十三年には、「田中臣…凡五十二氏賜姓曰朝臣」とあり、朝臣姓を賜る。 同時に朝臣姓を賜った氏族には、膳臣、物部連、中臣連など錚々たる名前が並ぶから、 有力氏族であった。 神話上の祖は、古事記に「天津日子根命者…倭田中直…等之祖也」(第47回)が見え、 〈姓氏家系大辞典〉は「田中直:大和国高市郡田中邑より起る」、 「田中臣:蘇我氏の族にて…これも前項の田中邑より起る」と述べる。 〈孝元段〉には、建内宿祢〔武内宿祢〕の男に「蘇賀石河宿禰者…田中臣…等之祖也」、 〈新撰姓氏録〉〖田中朝臣/武内宿祢五世孫稲目宿祢之後也〗が見える(第108回)。 《中臣連国》 中臣連は、遠祖を天児屋命とする。 天石窟に閉じこもった天照大神を引っ張り出すときに、天児屋命は占いをして、また岩戸の前で祝詞を言祝ぎした(第49回)。 〈延喜式〉巻八に「凡祭祀祝詞者。御殿。御門等祭。斎部氏祝詞。以外諸祭。中臣氏祝詞」〔御殿・御門等の祭は斎部氏が祝詞し、その他の諸祭は中臣氏が祝詞する〕とあり、 中臣氏は、大部分の祭祀の祝詞を担当する。 〈姓氏家系大辞典〉の説明に基づいて、中臣連の系図の一部を示す。
「中臣連国」は「国子」の別名とされ、〈図書寮本〉では次段で「国」の下に「子」が傍書される。 可多能祜大連の子御食子・国子・糠手子からの各系列を、「中臣三門」という。 〈天武十三年〉に朝臣姓を賜る。〈姓氏家系大辞典〉によれば、神護景雲三年〔769〕に「大中臣朝臣」を賜り、「大中臣氏も中臣氏より出で、その後も通俗には中臣と云」ふ、すなわち大中臣氏は「中臣」に美称大を加えたもので中臣からの継続性をもつとする。 これについては〈釈紀〉神護景雲三年六月乙卯条に、「詔曰。神語有二言二大中臣一。而中臣朝臣清麻呂。両度任二神祇官一。供奉無レ失。是以、賜二姓大中臣朝臣一。」 〔神語〔夢で見た神のお告げか〕に「大中臣」と言われた。しかして中臣朝臣清麻呂は二度神祇官に任じられ、落ち度なく務めた。よって姓「大中臣朝臣」を賜る〕とある。 《寧非益有于新羅乎》 中臣連国の言葉「寧非益有于新羅乎」の「寧非~乎」〔むしろ~にあらずや〕は反語である。 ここで「益有」の語順では「益あり」とはならず、「有することに益あり」である。「有」については前の文の「新羅人伐而有之」でも「所有する」意味で使われている〔新羅の人伐ちて之を有(も)てり〕。 よって「于」は、比較の前置詞〔=than〕と見るべきであろう。そして、益ははっきりカガまたはクホサと訓む。 すなわち「寧ろ新羅より、〔百済の〕有てることに益非らむや」〔新羅よりも百済が所有した方がより利益があるだろう〕。こう読めば、直前の「取二任那一附二百済一。」からの繋がりもよい。 〈岩崎本〉の「寧ろ新羅を有るに益非ざらんや」〔むしろ新羅を獲得することに甲斐があるのではないか〕では、前文の「新羅から任那を切り離して百済に付けよ」からは繋がらない。 《吉士磐金》 吉士磐金は、〈推古〉五年に新羅に派遣された。「難波吉士」と「吉士」はほぼ同義であろう。 〈姓氏家系大辞典〉によれば、吉士が栄えたのはほぼ難波に限られるという(〈推古〉十六年)。 《吉士倉下》 倉下の古訓は、クラシタ、クラノシなどで一定しない。 また、〈岩崎本〉の朱点は「クラシモマ」のように読める。 一方、「倉下」という名前は〈神武即位前紀〉にも出てきた。その古訓は、北野本に「曰二熊野高倉下一」、 「兄-倉-下・弟-倉-下」とある。 〈釈紀〉による訓「クラジ」は、これに拠ったようである。 一方で「クラノシ」も並記し、私記によるものとしている。 〈時代別上代〉は「人名クラジに「倉下」の字をあてるのは、倉下という語があったからであろう」と推定する。 《新羅国主遣》 ここには「新羅国主遣~」はあるが、「任那国主遣~」がないことが注目される。 ここからは、新羅が八人全員を派遣し、その一部に任那国代表の役割を負わせたことが伺える。 新羅が遣使する際、形式上の「任那使」を同行させたことを、〈推古〉十八年で見た。 この段でも同じことであろう。実際、十一月条には「磐金倉下等至レ自二新羅一」とあり、 磐金・倉下は同一行動していて、共に新羅に行ったことが知れる。一貫性を保つなら「磐金至自新羅且倉下至自任那」とすべきで、こういうところから潤色がばれるのである。 このように新羅・任那にくっきりと二分したのは書紀による潤色であろうが、それがすべた書紀がしたこと(A)なのか、それとも史実として当時からある程度の細工がなされていた(B)かの判断は難しい。 もしBだとすれば、既に〈推古朝〉の頃から〈神功皇后〉的な半島像の確保が、何よりも大切であったことになる。 つまり、新羅国内に伝統的な倭の内官家が存在するが如く装うことを条件に、友諠を結んでいたのである。 《八大夫》 〈岩崎本〉では、八大夫に、ヤタリ〔八人〕ノマウチキミタチと訓が付されている。この訓について検討してみよう。 〈倭名類聚抄〉には「大政大臣【於保万豆利古止乃於保万豆岐美】。大臣【於保伊万宇智岐美】」とある。 ここから、「大臣」の大は「於保伊」〔オホキの音便〕とも「於保」とも訓まれたことがわかる。 臣の「万豆岐美」「万宇智岐美」〔恐らく"マチキミ"もあろう〕が、 「前つ君」〔ツは古い属格の助詞〕の音便であるのは明らかである。 マウチキミの複数形にはタチがつき、「群卿」の古訓はマウチキミタチである。ここの「大夫」もマ[ウ]チキミタチと訓まれているのは、八人だからであろう。 なお、姓としての「臣」は、基本的にオミと訓む。この段の田中臣にも「田中ノ臣」とある。 ヲは鎌倉時代におけるオとの混用、ンについては平安時代半ばまでムが[mu][n]の両方に使われていたが、そこから分離したものである。 新羅の官職名にもかかわらず、倭語のマヘツキミを用いるのはどうかとも思えるが、現代でもpresidentを大統領と訳し、またナポレオン皇帝と呼ぶようなものかも知れない。 《附庸》 附庸には、〈図・北・閣〉のすべてに古訓ホトスカノクニが添えられている。〈北・閣〉では誤読の余地のない丁寧さで、意味不明であるがゆえに慎重に筆記された様子が感じられる。 岩波文庫版は、濁点を加えて「ほどすかのくに」とし、意味は「不詳」とする。〈仮名日本紀〉は「ほとりのくに」〔辺の国〕に直すが、「付き従う国」という語感は薄れる。 〈岩〉以後は固定されたようだが、既に〈岩〉以前の段階で訓点が誤読され、それが固定化した可能性もある。 一つの考え方として、もともとはホドコス〔広くいきわたらせる意〕で、これによってなされた二種類の訓読:ホドコスガクニ・ホドコシノクニが混合し、さらにここからコが脱落したと考えてみたらどうだろうか。 本サイトではひとまずこの考えにより、尊敬の補助動詞をつけてホドコシタマフとしておく。 さて、附庸の本来の意味は、天子の国〔=中国〕以外の国が勝手に周辺の小国を付き従えることである。 『隋書』に見える「自二竹斯國一以レ東皆附二-庸於倭一」は、 まさにこの意味である(隋書倭国伝(4))。 よって「天皇附庸」は唐を夏華とする国際秩序を前提とした語であり、本来は書紀が用いるべき語ではない。 従って、この段では新羅発の実史料を、用語を厳密に吟味することなくそのまま用いた可能性がある 〔但し、もともとは「倭王附庸」であったであろう〕。 書紀がこの部分を実史料に拠ったとすれば、《新羅国主遣》の項(上記)で示した問題の答をBとするひとつの根拠になり得る。 《内宮家》 慶尚南道の倭系円墳〔九州系横穴式円墳〕の分布が、6世紀の倭人の入植地が点在する地域を示すと思われる (〈継体二十三年〉《四村之所掠》)。 〈推古〉の7世紀初頭になっても、その子孫の居住地は当然存続していただろう。 ここは全くの新羅の領土であるが、倭国が当該地域を倭の伝説の土地として扱うことを求めるなら、それを特に拒む必要もないであろう。 この時期、百済とは国境地帯の領土の奪い合いが続いていたから、倭を味方に付けるためとする打算も考えられる。 《大意》 三十一年〔三十年〕七月、 新羅は大奈末(おおなま)智洗爾(ちせんに)を、 任那は達率(たつそつ)奈末智(なまち)を遣わして、 そろって来朝しました。 そして仏像一揃えと金塔、併せて舎利、 且つ大観頂幡(だいかんちょうはた)一揃えに小幡(しょうはた)十二条を献上しました。 そこで、仏像は葛野(かどの)の秦寺(はたでら)に安置し、 その他の舎利、金塔、観頂幡などは、 すべて四天王寺に納めました。 この時、 大唐の学問僧恵斎(えさい)、 恵光(えこう)ら、 及び医師恵日(えにち)、 福因(ふくいん)らが、 そろって智洗爾(ちせんに)らと共にやって来ました。 そして、恵日らは共に奏聞し、 「唐の国に留学した学生は、皆学問に業を成し、 呼び戻されるべきです。 また、大唐の国は法式が整備され特筆される国です。 常に欠かさず人を送るべきです。」と申し上げました。 その年、 新羅は任那を征伐し、 任那は新羅に服従しました。 そこで、天皇(すめらみこと)は新羅を討とうとして、 計略の相談を大臣(おほまえつきみ)に及ぼし、さらに群卿に諮問しました。 田中臣はそれに答えて 「討つことを急いではならない。 まず、その状況を視察し、逆らうと分かった後に攻撃しても、 遅くはないだろう。 願わくば、試しに遣使され、その状況を視察させたい。」と申し上げました。 中臣連(なかとみのむらじ)国(くに)〔人名〕は、 「任那はもともと我が国の内官家(うちつみやけ)であった。 今、新羅人が征伐してこれを所持している。 願わくば、旅団を厳しく派遣し、新羅を征伐すべきである。 そして任那を奪って百済に付与すれば、 むしろ新羅が所持することより、益があるのではないだろうか。」と申し上げました。 田中臣は、 「それは違う。 百済は、たびたび覆す国で、 路を行く間にもなお欺く。 およそ、その要請はすべて拒否されるべきものである。 よって、百済に付けるべきではない。」と申し上げ、 こうして新羅攻撃は果たされませんでした。 よって吉士(きし)磐金(いわかね)を新羅に、 吉士倉下(くらじ)を任那に派遣して、 任那のことについて喚問させました。 この時、新羅の国主は八人の大夫(だいふ)を遣わし、 新羅の国のことを磐金に啓上し、 また任那の国のことを倉下に啓上しました。 それによれば、誓約をもって 「任那は小国ですが、天皇(すめらみこと)が附庸(ふよう)される国です。 どうして新羅が自らに付して持つことがありましょうか。 常のまま、内つ官家(みやけ)にお定めください。 願わくば、心配することの御座いませんように。」と言上しました。 このようにして、奈末(なま)智洗遅(ちせんち)を派遣して 吉士磐金に従え、 また任那人の達率(たつそつ)奈未遅(なみち)を 吉士倉下に従えて、 両国の貢を献上しました。 23目次 【三十一年即年】 《境部臣雄摩侶率數萬衆以征討新羅》
「即日」〔"その日"、または"近日中"〕という語があるから、「即年」も「同年」と同じだろうと軽く通過しがちである。 しかし、日本の各種漢和辞典の熟語や「汉典」の見出し語に「即年」はなく、「中国哲学書電子化計画」で検索しても一件もヒットしない。 書紀でも基本的には「是歳」を用い、その他には元年の干支を示す文に「是年也太歳△△」が、また「其年」が二例、「同年」が一例ある。 また「即年」は、通常は段落の頭に書かれるべき語だと思われ「使者が未だ帰らぬうちに、●●、大将軍~を任命して、新羅(しらき)を征討する」 の●●の位置には違和感がある。 《征討新羅》 大将軍・副将軍の出身氏族について、その概要を見る。
各氏が提出した氏文(うじふみ)か。あるいは、百済を応援する出撃であるから、「百済文書」の可能性もある(〈欽明〉十五年《百済文書》)。 《大将軍・副将軍》 本サイトは四等官の呼称に依り、大将軍:イクサノカミ、副将軍:イクサノスケと訓むことにする。 〈倭名類聚抄〉には「長官:…鎮守府曰将軍。…【已上皆加美】」、「次官:…兵衛衛門曰佐…【已上皆須介】」とある。 ここに挙げられたどの人物も、他の場面には出てこないから小者であろう。よって「副将軍」は「副 《満海》 海を軍船が埋め尽くす様子を「満レ海」と表し、古訓は「海にイハミテ」とする。このイハムは、書紀だけに見える動詞である。 書紀で「満」「屯」「営」などをイハムと訓む確かな根拠は、〈神武即位前紀〉己未年にある。 曰く「磯城八十梟帥 《代堪遅大舎》 任那からの使者は、「堪遅大舎」に交代した。 「大舎」は新羅の位階の十七位中第十二位。 最初の「任那人達率奈未遅」は倭の軍船を見て恐怖感に襲われ、 新羅使はそれでも持ちこたえたが、奈未遅は耐えられず逃げ去ったようである。 恐らくは「任那」地域に住む奈未遅は百済に従っていたが、新羅に占領された後は一転して新羅の官として取り立てられたから、 一番の目の敵になると考えたのであろう。 《新羅と百済の紛争》 中臣連国の意見は「倭が任那を取り戻すべし」ではなく、「新羅から任那を切り離して百済に与えよ」であることに注意を払う必要がある。 つまり、対立関係にある新羅・百済のうち百済に加勢せよというのである。実際、この時期の新羅・百済紛争が『三国史記』に示されている。 関係個所を抜粋する。この時期、新羅は真平王、百済は武王である。 推古三十年〔壬午;622〕は真平王四十四年、武王二十三年にあたる。
それによると、椵岑城の比定地は「충북 영동군 양산면 가곡리에」〔忠清北道 永同郡 陽山面 柯谷里〕だという。 また勒弩県〔ろくどけん、늑노현:ヌクノヒョン〕については、Academy of Korean Studiesのページに、 「具体的には不明」で、「勒弩」=オオカミという意味から「軍事傾向が強い地域だったと推測」できると書く。 新羅・百済両国は国境で繰り返し衝突したから、勒弩県も小白(ソベク)山脈のどこかであろうという。 さて、三十一年条を表面的に読むと、境部臣雄摩侶・中臣連国子の出撃はあたかも「任那国」という独立国が新羅国に占領される事態に直面し、 倭国の船師 この実態を正確に読み取るためには、上述の中臣連国の言葉「寧非益有于新羅乎」の厳密な理解は欠かせない。 ただ、倭が架空の任那国を「実在する国」の如く見せることに、執着していたのは間違いないと見てよいだろう。 新羅は倭を自分の側につけるために、その希望に沿う行動をした。それは百済も同じことであろう。 《始到任那》 「始到任那」の「任那」はここでは漠然とした地方を表し、朝鮮半島の南岸に着いたということであろう。 《新羅国主予慴之請服》 「慴之請服」については戦果が何も書かれないので、言葉の上だけの潤色であるのは明らかである。 〈推古〉八年条の出撃は史実性が疑われるとは言え、戦果として六城の割譲が書かれている。 ただし、このころ勒弩県での戦況は不利だから、その意味で国主は「慴 船師の派遣によって朝貢使の派遣は中止になったわけだが、持参する予定だった貢物だけは倭に送られている。 その名目を賠償に代えて、交渉の決着をつけたとも考えられる。将軍たちははこれを以て作戦に勝利したと見做して、さっさと帰国したわけである。 二人の大将軍と七人の副将軍が「数万衆」を率いたとして、書きぶりは勇ましいが、実際の経過を見ると大した戦意は感じられない。 前述したように正副将軍の名前はここ以外に出てこないから、小者感が漂う。「数万衆」も「船師満海多至」も恐らく誇張であろう。 《大臣曰悔乎早遣師矣》
任那の件については、倭の希望に沿う形で交渉が進んでいた。 ところが早まって船師を出したことによって、新羅はへそを曲げて台無しにしてしまった。 それを蘇我馬子大臣は、いたく後悔したという。 必ずしもこのときの船師とは限らないが、倭国内の親百済派が活発な動きを見せ、 それに対して新羅が態度を硬化させたことはあり得るだろう。 《阿曇連》 〈姓氏家系大辞典〉は「アヅミはアマツミ(海積)の約」、「原始的カバネの一にして」、「綿積〔海神 三韓との外交や軍事との絡みで「阿曇連」の名が登場するのは、ここが初めてである。 《時人曰》 時の人は、磐金らの帰国を待たずに進軍を命じたのは「これまでに境部臣と阿曇連が新羅から賄賂をせしめたことに味を占めて、進言したからだ」と噂したという。 しかし、この論理は判りくい。新羅が倭に好意的だったのは上っ面に過ぎず、本音は誼を通づることを潰したかったとでもいうのだろうか。 だが、当時の新羅の主敵は百済であり、わざわざ倭を百済の側に追いやる工作など、するはずがない。よって大した根拠もない噂を、単に紹介したに過ぎないのかも知れない。 ただ、ひとつの考え方としては、境部臣・阿曇連が軍事的な脅しをかけてみたら、それを宥めるために財宝が得られた経験があったとする。 そこで、「ここでもう一段強く軍事圧力をかけてやれば、もっと多くのものが取れますぜ」と進言したと考えてみよう。 大臣がそれにうっかり乗って失敗したという筋書きも、一応は成り立ちそうである。 《初磐金等度新羅之日》 この段については、既に〈神功皇后紀4〉《形式としての任那使の同席》の項で考察し、 「 この頃の「任那」は恐らく新羅の一地方に過ぎなかったが、倭国はあたかも「任那」が一つの国として存在しているかの如く、形を作れと要求している。」と述べた通りである。 《霖雨大水》 この年は、「オホーツク海高気圧が強く南岸に前線が停滞」という梅雨時の気圧配置が夏の間も続いたと見られる。エルニーニョ現象であろう。 〈推古〉三十六年《日食》の例を見ると、 推古紀における自然現象の記録には一般的に客観性があると見てよい。世界各地の気象の古記録を総合すれば、この年の気象の状況が見えてくるかも知れない。 《大意》 ところが、磐金(いはかね)らが未だ帰還に及ばぬうちに、 その年、 大徳(だいとく)境部臣(さかべのおみ)雄摩侶(おまろ)、 小徳(せうとく)中臣連(なかとみのむらじ)国(くに)〔人名〕を 大将軍として、 小徳(しょうとく)河辺臣(かはべのおみ)祢受(ねず)、 小徳物部の依網連(よさみのむらじ)乙等(おとと)、 小徳波多臣(はたのおみ)広庭(ひろにわ)、 小徳近江の脚身臣(あしつみのおみ)飯蓋(いいぶた)、 小徳平群臣(へぐりのおみ)宇志(うし)、 小徳大伴連(おおとものむらじ)【名を欠く】、 小徳大宅臣(おおやけのおみ)軍(いくさ)〔人名〕を 副将軍として、 数万の兵を率いて新羅の征討に向かいました。 その時、磐金(いわかね)らは港に集まり船をだそうとして、 風波を候(うかが)っていました。 そこに、軍の船団が海を満たして到着しました。 両国の使者は、これを望観して愕然とし、 港から帰って留まりました。 さらに任那の調使を交代させ、堪遅(たんじ)大舎(たさ)〔新羅の位階名〕を貢上使としました。 このとき、磐金らは 「この軍を興して、既に前の約束を違えた。 これをもって、任那の事は今また成らなかった。」と話し合いました。 こうして、船を出して海を渡り本国に向かいました。 ただ、将軍らは初めに任那に到着して議を開き、 新羅襲撃の計画を相談しました。 すると、新羅の国主は 大軍が到着したと聞き、軍が来る前から怯え、服属を請いました。 そこで、将軍らは共に議って上表を送り、 天皇(すめらみこと)はお許しになりました。 十一月、 磐金(いわかね)倉下(くらじ)らが新羅より帰国しました。 そして、大臣(おおまえつきみ)〔馬子〕はその様子を尋ね、それに答えて 「新羅は命を拝領して驚き恐れ、 よって揃えて専使を差配して、 両国の調(みつき)を献上しました。 ところが、軍の船団が到着したのを見て、朝貢使は更には帰ってしまいました。 ただ、調(みつき)はそれでもなお献上されました。」と申し上げました。 すると大臣(おおまえつきみ)は 「悔しいかな、軍を送るのが早すぎた。」と言いました。 時の人が言うには、 「この軍事は、 境部臣(さかべのおみ)と阿曇連(あずみのむらじ)が、 先に新羅から多くの賄賂を得たから、 また大臣(おおまえつきみ)に勧めた。 だから、使者の復命を待たず、急いで征伐したのだ。」と言いました。 初めに磐金(いわかね)らが新羅に渡った日、 港に着く頃、荘船(かざりぶね)が一艘(そう)海浦(わたのうら)で出迎えました。 磐金が「この船はどの国の迎え船か」と聞くと、 「新羅の船です」と答えました。 磐金は再び「どうして任那の迎え船がないのだ。」と問いました。 その時、更に任那のための一船が加えられました。 その新羅の迎え船として二艘を用いるのは、 この時に始まったとも言われます。 この年は春から秋まで霖雨(りんう)〔長雨〕と大水で、 五穀は不作でした。 まとめ この時期、新羅と百済の間で領土の奪い合いが繰り広げられていた。 倭の政権内の対立は、結局新羅と百済のどちらを支援すべきかということであった。 田中臣と中臣連の対立の裏に、両国によるそれぞれの氏族への工作があったとするのは、当然の見方であろう。 ただ、このとき境部臣雄摩侶・中臣連国を大将軍とする船師の派遣が、実際にあったかどうかは微妙である。 八年の出撃については過去の記録をこの時期に移して書いたと見たが、三十一年もその可能性は残る。 とは言えこの時期に限らず、各氏族が頻繁に海峡を往来していたのは明らかで、ときにはある氏族が百済軍の一員として戦闘に加わっていたことも考えられる。 今回、これだけ具体的な人名が列挙されるということは、全く架空のものとは思われない。 さらに、新羅と百済が厳しく戦闘を繰り広げる情勢下だから、時期も噛み合っている。 ただし、挙げられた名前は小者ばかりだから、実際にはそれほど大軍ではなく「数万衆」、「満海多至」、「新羅国主…予慴之請服」はすべて誇張であろう。 『三国史記』にも倭軍の独自の動きは記録されないから、百済軍に吸収された形での参戦だろうと考えられる。 さて、「任那国」に関しては、全羅南道の倭系古墳の地域に倭人がコロニーを形成していたのは事実と見てよい。 その地域を独立した「任那国」の如く描くことに協力するように倭に求められ、新羅もそれを受け入れた可能性が高い。 それは、新羅側が「倭王附庸」の語句を含む文書を倭に送ったと考えられるからである。 思えば、十八年にはこれまでの冷淡さとは打って変わって新羅使を大歓迎したのは、「任那使」を伴う形を作って訪れたからであろう。 三十一年にも任那使を伴った新羅朝貢使の準備が進められていたが、中止された。 その理由として、船師の派遣に反発した如くに書かれているが、実際には「任那国」に相当する地域を百済によって奪われ、名目が立たなくなったからであろう。 こうして見ると、はじめに「三十一年」条はもともと「三十年」であったらしいと述べたが、それでも「即年」から後は、三十一年のことが書いてあると見た方がよさそうである。 百済領になった時代の「任那国」については、〈孝徳大化元年〉〔745〕に「百済調使兼二-領任那使一。」とあり、 今度は百済に同じことを求めていることを、資料[32]で見た。 そこでも「虚構の任那国を描くことは、書紀から始まったことではない。既に聖徳太子の時代から「任那国」が存在するが如く演出することが、百済や新羅との外交儀式の一部になっていたのである。 古代に存在したとされる任那国の伝説が、飛鳥時代にいかに大切であったかを物語っている。」と述べたところである。 |
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2022.03.20(sun) [22-12] 推古天皇12 ▼▲ |
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24目次 【三十ニ年四月】 《惡逆僧及諸僧尼並將罪》
「祖父」の古訓は、どの本もオヤである。〈汉典〉を見ると「祖父 ①[grandfather]:父親的父親。②[grandfather and father]:祖父和父親。“祖父”対“子孫”説」となっている。 ②は、「子孫」の対極にある「父・祖父」だが、これは特定の文脈における使い方であって、基本的に①であるのは明らかである。 但し、倭語のオヤには、「生みの親」の他に「先祖」の意味もある。「先祖を殴る」では問題にならないから、オヤヲウツは「父を殴る」意となる。 しかし、漢語の祖父は全くgrandfatherであるから、古訓オヤは明確に誤りとすべきである。 素直に「僧になった若者が、たまたま彼のおじいちゃんを殴る」事件があったと読めばよい。 《召大臣詔之曰》 「召大臣詔」の詔を「謂」とする本がある。天皇の言葉にはいうまでもなく詔を用い、それが当然であるために主語が省略されることも多い。 もし「謂」であれば、主語は大臣となる。しかし、言葉の中身を見ると一人称に「朕」が使うから、「謂」は「詔」の誤写であろう。 《漢王朝》 仏教の伝搬を語る文中で、中国を「漢」と表現している。 古訓は「唐」と同様にモロコシとして、漠然と表現しているが、漢は実際の年代と見てよいようである。 仏教の中国への伝来を見ると、後漢に安世高という人物がおり、『世界人名大辞典』〔岩波書店;2013〕によれば、 「もと〔ペルシアの〕安息(パルティア)国の皇子という。桓帝〔146~167〕 の初めに洛陽に至り,霊帝の建寧年間〔168~172〕に至るまで、20余年訳経に従事」したという。 これを見ると、仏教の伝搬は実際に後漢のことである。 漢の隋唐音は[han]であるが、当時の日本語には[h]がないので、ハはすべてカと聞き取られる〔「海(ハイ)⇒カイ」など〕。 音仮名の存在を見れば、書紀が書かれた時点で音読みが知られていたのは明らかだから、古訓が音読みを避けるのはできるだけ倭語で表現しようとする意志がはたらいたためである。 実際の時期にも合うから、ここの「漢」をカンとよむことに問題はない。 ただし、文字ンが存在しない時代ではカムとなる。 《於百済国而僅一百年》 百済に仏教が伝搬してから「僅か百年」と書かれる。 『三国史記』百済本紀を見ると枕流王のときで、 「〔枕流王元年;384〕九月。胡僧摩羅難陁自晋至。王迎之。致宮内。礼敬焉。仏法始於此。二年春二月。創仏寺於漢山。度僧十人。」 とある。 これについて「現在では,百済の仏教受容を6世紀初頭とする見解が有力である。」『改訂新版 世界大百科事典』〔平凡社2014〕 とも言われるが、その説の出所は不明である。 〈欽明〉十三年によれば、倭への仏教の伝搬は552年。 『上宮聖徳法王帝説』〔以下〈帝説〉〕では538年である。 よって、百済に伝搬してから、倭に伝わるまでの年数を計算すると、
《未満百歳》 倭に伝搬してから推古三十四年までは、「未満百歳」と述べる。これについて計算すると、
《法律》 「僧尼未習法律」の「法律」は、いわゆる「戒律」だと見てよい。 仏教用語としての「戒律」は、『例文 仏教語大辞典』〔小学館;1997〕によれば、 「教団の秩序維持に規範が必要になったためにつくられた種々の規律条項や違反の際の罰則を規定したのが律で、これを内心より自発的に守ろうとして誓う点を戒という。」とされる。 つまり、自発性に基づく秩序維持が戒、強制による秩序維持が律であるが、実際にはすっぱり切り離せるものではないから、一体化して「戒律」という語になるのは自然である。 戒律には、思想や学問体系としての仏法を学ぶ態度を規定する側面と、集団の秩序を維持するための道徳的な側面がある。 《観勒僧の提言》 二十年以上昔に百済から来帰した僧観勒が天皇に対して行った提言には、次の2つの内容が見える。
《僧正・僧都》 朝廷は、観勒僧の提言を受け入れ、諸寺の僧尼をトータルに管理監督するために僧正・僧都を設置した。 僧正・僧都は、後に「僧綱」内の地位として位置づけられていく。 僧綱は僧を管理する職で玄蕃寮に属し、主席は大僧正(だいそうじょう)。次席が大僧都(だいそうづ)である (「元興寺伽藍縁起…」Ⅳ:諜)。 僧綱は、仏教界の実務を自律的に処理すると同時に、全体として朝廷監督下に置かれるという二つの側面をもっている。 《法頭》 〈延喜式-治部省〉には、僧綱の組織体系として僧正・大僧都・少僧津が見える。 〈続紀〉にも、増上・僧都がしばしば登場する。 ところが、法頭は〈延喜式〉にも〈続紀〉にも出てこない。古訓にホウヅ・ホウトウが並記されるのは、平安時代には死語になっていたということであろう。 奈良時代までに消滅した職名と見られる。「頭」からは、一般の僧尼により近い立場にいたことが想像される。 《功徳》 功徳には、古訓としてノリゴト、ノリノワザが当てられている。 ノリはすなわち「法」であるが、それが望まれる心構えの意味に転じて「徳」に宛てられ、それによる功績が功徳である。 ただ、三法を見ると、これを「みつのみのり」と訓んでもよさそうなものだが、古訓では音読みされている〔サンポウ〕ので、基本的な仏教用語はしばしば音読されたようである。 「功徳」も、『勝鬘経疏』に「有大功徳有大利益」〔大日本仏教全書第四巻p.9〕とあるように、れっきとした仏教用語である。 『勝鬘経疏』を「太子が執筆した」説には反論もあるのだが、少なくとも書としての成立は推古朝の頃まで遡ると思われる(勝鬘経(十四年)。 古くから仏教用語として広まっていたのだから、音読されていたと考えてもよいのではないだろうか。 《大意》 三十二年〔三十一年〕 四月三日、 一人の僧がいて、斧を手にして祖父を殴(う)ちました。 その時、天皇(すめらみこと)はこれを聞かれ、大臣〔馬子〕を召して 詔されました。 ――「出家した人は、ひたすら三宝に帰依し、 つぶさに戒法を懐(ふところ)にもつべきである。 なぜ、後悔も禁忌もなく、悪逆(あくぎゃく)を犯すのか。 今朕が聞くに、ある僧が祖父を殴ったという。 よって、ことごとく諸寺の僧尼を集め、 問いただせ。 もしそのような事実があれば、重罪を課せ。」 こうして、諸僧尼を集めて問いただしました。 そして悪逆の僧をはじめとして諸僧尼を、まさに罰しようとしました。 そのとき、百済の僧観勒(かんろく)は、 上表して申し上げました。 ――「そもそも仏法は、 西の国から漢に伝わり三百年を経て、 さらに伝わり百済国に至り、 僅(わず)か百年でした。 けれども、我が王〔聖王〕は日本の天皇(すめらみこと)が賢哲であられると聞き、 仏像及び内典を献上し、 そのときから未だ百年も経ていません。 よって、今この時になっても、 僧尼は未だに戒律を習わず、こうして悪逆を犯しました。 これによって、諸僧尼は恐れをいだき、 どうしたらよいか解らなくなっています。 仰ぎみて願わくば、悪逆の者を除き、それ以外の僧尼は、 悉く赦免して罰することをなさいませんように。 これは、大功徳でございます。」 天皇(すめらみこと)は、これを聴き入れられました。 十三日、 詔を発しました。 ――「修行を重ねた人でも、なお法を犯すものである。どうやって世俗の人を教誨するか。 よって、今より以後、僧正(そうじょう)・僧都(そうず)を任命して、 それにより僧尼を監督すべし。」 十七日、 観勒僧を僧正として、 鞍部(くらづくり)の徳積(とくしゃく)を僧都(そうず)としました。 同日、阿曇連(あずみのむらじ)【名を欠く】を法頭(ほうず)としました。 25目次 【三十ニ年九月~十月】 《是時有寺四十六所僧八百十六人尼五百六十九人》
「寺所造之縁」を「寺所造之像」とする写本があるが、 次の文で集計結果として「有寺四十六所」と書かれるから、縁が正しいことは明らかである。 なお、後世「聖徳太子建立四十六箇寺」と言われるようになったのは、書紀のこの文が基になったのは明らかである。 《阿倍臣摩侶》 阿倍臣摩侶は、以後〈舒明紀〉に「阿倍麻呂臣」、〈孝徳紀〉に「阿倍内麻呂左大臣」、「阿倍倉梯麻呂大臣」が見える。 〈孝徳紀〉によれば、大化五年三月辛酉〔十七日;グレゴリオ暦649年5月6日〕に薨じた。 《蘇我氏》
葛城郡にはもともといたのは葛城氏であるが、その活躍が描かれるのは〈安康天皇〉以前である。 〈允恭五年〉その他によると、葛城氏の系図は、
葛城氏については、「もともとは葛上郡に住んだ人々のゆるやかな集まりが、まとめて「葛城」族と呼ばれ、 波多、巨勢、曽我各氏の母体となった印象を受ける」と考察した第162回。 武内宿祢を共通の始祖とすることが孝元天皇段第108回に示され、そこでは 葛城永江曽都毘古〔=襲津彦〕は玉手臣、的臣その他の祖、 許勢小柄宿祢は許勢臣その他の祖、 蘇賀石河宿祢は蘇我臣、川辺臣、田中臣、小治田臣、桜井臣その他の祖とされる。 有力氏族としての葛城氏が早い時期に姿を消したことから考えると、葛城氏族の主力が宗我坐宗我都比古神社の地域に移って蘇我氏を名乗り、 後に飛鳥に移動したという経路を描くことができる。 その経路のうち特徴的な地点を拾うと、「宇智郡(武内宿祢)⇒室宮山古墳(葛城氏)⇒宗我坐宗我都比古神社(蘇我氏)⇒石川精舎(〈敏達紀〉十三年) ⇒丸山古墳(堅塩媛を合葬した檜前大陵)⇒島庄遺跡(飛鳥河之傍の家)」となる(右図)。 《うぶすな》 「本居」に、ウブスナなる古訓が添えられている。 この語は、『今昔物語』巻十九の「以仏物餅造酒見蛇語第二十一」に「今昔、比叡ノ山ニ有ケル僧ノ、山ニテ指ル事無カリケレバ、山ヲ去テ、本ノ生土ニテ」 (『新版日本古典文学全集』小学館;2000[36]p.525)にあるとされる。 但し、仮名表記ではなく「生土」の訓読である。 明確な仮名書きとしては、『壒嚢鈔』〔1445または1446〕巻第八三条通菱屋町(京都) : ふ屋林甚右衛門/正保3〔1646〕 (国立国会図書館デジタルコレクション2597266)に、 「十一ウブスナト云ハ何事ソ:当時は所生ノ所ノ神ヲ云歟。或ハ本居ト書。或ハ産生ト書。又宇夫須那共書也。 尾州葉栗郡。若栗郷宇夫須那ノ社アり…」がある。 したがって、平安時代の言葉を「本居」に当てはめた可能性が強いが、それでは上代にはどう訓まれたのだのだろう。 本当のところは判らないが、万葉を見ると自動詞の「居」の訓みはヰル、ヲリばかりだから、本(モト)-居(ヲリ)が安全であろう。 《県》 古訓では、県をコホリと訓む。コホリ・アガタにそれほどの意味の違いはない。ただし、「県主」は必ずアガタヌシである。コホリの首長はコホリノツカサという。 〈欽明紀〉の「郡司」(コホリノツカサ)は、大宝令〔702〕より後に使われるようになった「郡(コホリ)」を遡らせたと見られる。なお、大宝令の前はコホリを「評」と表記したことが木簡によって明らかになっている(〈継体二十四年〉《背評》)。 また、大和国では県から郡に移行したことが祝詞によって実証されている (第195回《五村苑人》)。 初めに述べたように「県」の首長はアガタヌシだから、県は基本的にアガタのはずである。 〈時代別上代〉は「コホリは朝鮮語に由来したらしい」、アガタは「大化の改新以後は、郡 《朕舅》
現代語では、舅(しゅうと)を妻の父の意味で使うが、「舅」の第一義は母の兄弟である。 蘇我馬子が蘇我稲目の子であることは、次の三十四年条で明示されるとともに、 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』癸卯年〔583〕でも 「稲目大臣子馬古足禰」とある([10])。 第249回、第239回の系図にある通り、 〈推古〉の母堅塩媛は馬子と兄弟関係だから、〈推古〉から見て馬子は舅〔ヲヂ〕に確かに該当する。 《夜言矣夜不明》 古訓の「夜(よる)に言(まを)さば夜(よ)も明かさず」は、このままで上代語として通用すると見てよいだろう。 「言」は大臣による提言を意味すると見て、マヲスと訓めば意味が通る。但し、漢文のままだと意味が通じない。 漢文として意味をなすためには、「汝言」「卿言」などと主語を補う必要がある。 また「夜不明」は言葉足らずで、「朕将未明為」などとすべきであろう。「夜言矣夜不明日言矣日不晩」は相当の和習だと思われる。 《不賢》 「不賢」は「をさなし」と訓むことが定着している。 〈仁徳紀〉即位前紀の場合は、即位するにあたってまだ年若いことへの謙遜として、妥当性があるが、 〈推古紀〉三十二年ではもう年長であるから不適当であろう。〈仁徳紀〉で用いた訓みを、機械的に当てはめてしまったと思われる。 ここでは文字通り「賢明でない」意味であって、普通に考えれば「幼し」を用いることはないはずである。 《大意》 九月十一日、 寺と僧尼とを調査し、 つぶさにその寺が作られた由縁、 また、僧尼の入道のきっかけ、 及び得度の年月日を記録しました。 この時に当たり、寺四十六か所、 僧八百十六人、 尼五百六十九人、 併せて千三百八十五人がありました。 十月一日、 大臣〔馬子〕は阿曇連(あずみのむらじ)【名を欠く】と 阿倍臣(あべのおみ)摩侶(まろ)の二臣を遣わし、 天皇(すめらみこと)に奏上させました。 ――「葛城県(かつらきのあがた)は、もともと私の本の居所です。 そこで、そこから姓氏の名としました。 よって、冀(こひねがわ)くば、常にその県を得て、 私が封建する県(あがた)にしていただくことを欲します。」 これに、天皇(すめらみこと)は詔(みことのり)されました。 ――「今朕は蘇何〔=蘇我〕の出身です。 大臣(おおまえつきみ)は、また朕の舅(おじ)にあたります。 よって大臣の言葉は、 夜に奏(もう)されれば夜も明けぬうちに用いて、 昼に奏(もう)されれば日も暮れぬうちに用いて、 どうしてその言葉を用いないことがありましょうか。 しかし、今朕の世に丸ごとこの県を失えば、 後の時代の君主は、 『愚かな婦人が天下に臨み、丸ごとその県を失った』と言われるでしょう。 あに朕一人が、賢明でないのでしょうか。いえ、大臣(おおまえつきみ)もまた不忠です。 これによって、後世に悪名を残すことでしょう。」 このように詔され、聞き入れられませんでした。 26目次 【三十三年~三十五年】 《高麗王貢僧惠灌仍任僧正》
推古三十四年(丙戌)正月一日~三十日は、ユリウス暦〔以下〈J〉〕626年2月2日~3月3日にあたる。 したがって、この年の桃李の開花は例年に比べて一か月程度、またはそれ以上に早かったことになる。 《遅霜》 遅霜は4~5月に、雲がなく風が弱い夜に放射冷却によって発生する。主に移動性高気圧による。 推古三十四年三月一日~三十日は、〈J〉626年4月2日~5月1日にあたる。 奈良地方気象台の統計記録から4月の低温日の記録を拾う。
この時期の遅霜自体は珍しくないのだが、〈推古紀〉の文脈中では、あくまでも暖かかった一月から一転して低温に転じたと語るものである。 《わきわきし》 辨への古訓「ワイワイシ」は、ワキワキシ(形容詞)のイ音便。ワキはワク(別、判)の名詞形で、動詞ワキタム〔弁別する〕の語根である。 語根を反復して形容詞を作る例には、カロガロシなどがある。 《桃原墓》
遡って石舞台古墳を桃原墓とするのは、近くの島庄遺跡を馬子の家跡とする説に基づき、かつ古墳の規模が権勢を誇った大臣に相応しいことによると思われる。 墓の規模を他の陵墓と比較すると、〈用明天皇〉の改葬陵(〈推古元年〉)に比定される春日向山古墳が、東西65m・南北60m。 また来目皇子墓と考えられる方墳が一辺約52m(〈推古十一年〉《来目皇子墓》)。 石舞台古墳については、「残存している墳丘の下段部分は、一辺約50m」とされる(明日香村公式/「石舞台古墳~古代古墳の謎~解説書」;2012〔以下〈明日香村2012〉〕)。 用明天皇陵より一回り小さく、来目皇子墓と同程度だから、大きさについては大臣墓としての妥当性があると思われる。 第246回《石舞台古墳》で見たように、 その向きは、北から東に30.8°偏している。〈推古朝〉における〈用明〉改葬陵、来目皇子墓が正方位となっているから、 被葬者は馬子ではなく、〈推古朝〉以前のごとくである。 また、玄室の石積みは岩屋山古墳〔7世紀第三四半期(651~675年)とされる〕の洗練された石組みに比べて、一時代昔を感じさせる (〈推古二十九年〉《大石》)。 さらに、馬子の家といわれる島庄遺跡に近すぎるのも疑問である。陵墓は、居住地から離れた郊外の奥墓 ところが、石舞台古墳については通例では推し量れない特異な面がある。 〈明日香村2012〉によると、「石舞台古墳の下層にはいくつかの〔7基〕小規模古墳があった」、「7基とも横穴式〔つまり、後期古墳〕」で 「出土した遺物や石室の形態から6世紀末頃の築造」という。つまり、まだできたばかりの古墳でも平気で壊して、自分のための墓を作った。 この不遜なふるまいは、馬子の個性というべきであろう。思い返せば、堅塩媛を檜前に改葬する際、その棺を玄室内の主座に置き後円部を積み増すなど、 あたかも欽明陵を堅塩媛のための陵に作り替えた如くである。軽の衢 こうして見ると、この桃原墓〔だったとして〕の向きが正方位に合わないのは、馬子の家からの見え方を優先したためであろう。 方形池辺りから石舞台古墳を見るとき、視線が古墳の側辺に垂直に当たる向きに築かれている。 自宅に近すぎるという問題については、この一帯が馬子の別業 《家》
方形池内に島があったのではとも想像されるが、池内の島の痕跡については特に報告はない。また小池はごく小さなもので、「興二小嶋於池中一」と書かれるような代物とは思われない。 発掘調査が実施された範囲はまだごく一部に過ぎないから、 さらに未発見の池が邸宅の庭園内にあっても不思議ではない。 その中にこそ、築山のようにして島が作られていたのではないだろうか。 方形池自体は恐らく灌漑用で、多分馬子の別業 但し、そもそもこの土地の地名がシマで、そこに住んだから「島大臣」と呼ばれた可能性もある。小池を掘って島を興したという話は逆に名前から作られた伝説かも知れない。 それなら方形池一つあれば十分で、島が実際に存在する必要はない。 《開小池》 アマクニオシハラキヒロニハノスメラミコト〔欽明天皇〕の、ハラキ〔記はハルキ〕に書紀が「開」をあてたのは、"open"を表す上代語に、ハラクがあったためと見てよい。 ハは古くは[pa]と発音され、その音韻構造「口唇破裂音⇒最も口内空間の広い母音」が"閉鎖⇒解放"のイメージと結びつき、ハナツ(放つ)などの語ができたと思われる。 よって、ヒラクはもともとハラクであったとする見方には説得力がある。ハル〔=開墾する〕ももともとopenの意味で、それが田畑や道の開削の意に特定化したと思われる。 土を掘って池を作ることを、上代に「池をはらく」、「池をはる」と表した可能性はある。池の掘削も農地の開墾も農業生産力を高める行為だから、開墾する「ハル」が池の掘削にも転用されたのかも知れない。 《六月雪也》 〈推古朝〉の頃の統治範囲内に、「六月雪也」となる地域が、果たしてあったのだろうか。 当時の倭の統治域を推定するために〈続記〉を見ると、708年三月に「陸奥守」〔むつのかみ〕を任命するが、709年三月には「陸奥越後二国〔の〕蝦夷。野心難レ馴」なる事態に直面し、「陸奥鎮東将軍」および「征越後蝦夷将軍」を派遣する。 何とか710年に「陸奥蝦夷等。請レ賜二君姓一同二於編戸一。許之。」〔つまり、戸籍を作り得る状態〕にこぎ着けたようである。 712年十月には「割二陸奥国最上置賜二郡一。隷二出羽国一焉」〔陸奥国の最上郡と置賜郡を、出羽国に移す〕とあるから、 この時点で陸奥国の北端は仙台辺りかと思われる。その時代から〈推古朝〉まで遡ると、北限は常陸国+α程度であろうか。
この年は記録的な冷夏で、沖縄を除くすべての地域で「梅雨明けがはっきりしない」という珍しい年となった 〔気象年鑑1994年度版;気象庁監修〕。同年鑑によるとこの年の春から夏にかけて、エルニーニョ現象が観測されている。 このパターンではオホーツク海気団が優勢で、東北から関東の太平洋岸には「やませ」〔オホーツク気団からの東風が親潮で冷やされて吹き付ける〕となる。 〈推古〉三十四年の天候が、この1993年と類似するパターンなら、「自三月至七月〔4月2日~8月29日〕霖雨」は当然の天候といえる。 またエルニーニョ現象では、冬から春先にかけては逆に気温が高めになる(気象庁/エルニーニョ現象発生時の日本の天候の特徴)。 「正月桃李花之」は、この特徴にも合っている。 11℃程度では、流石に雪にはならない。余程の異常気象でなければ、誇張であろう。 それでも、雪になる気温は4℃、湿度が低ければ10℃でもあり得ると言われるので、あと一歩かも知れない。 なお、1993年の冷夏は、1991年6月15日のフィリピンのピナツボ火山の大噴火との関連が指摘されている 〔「1993年の大冷夏」近藤純正;『天気』日本気象学会編41巻8号1994〕。 俗に「噴煙が成層圏に留まり日射を遮ったのが原因」と言われるが、気象への影響はそれほど単純ではないらしい。 《陸奥国》 前項で見たように、〈推古朝〉当時の統治範囲は常陸国のやや北までと見られる。 〈斉明紀〉には、元年〔655〕に「饗…東【東蝦夷】蝦夷九十五人」、五年〔659〕に「饗陸奥」とあり、まだ倭国に属さない別民族の国から使節を迎えて接待する関係が示されている。 但し、同じ五年に「授二道奧与越国司位各二階一」とあり、「道奥国司」の存在が示されるから、大体この頃が陸奥国の成立かと思われる。詳細の検討は〈斉明紀〉の精読の際に行う。 倭が陸奥方面へ領土を拡張する志向は一貫しており、日本武尊伝説はそれを時代を遡らせて描いたものである(〈景行天皇紀13〉)。 〈推古帝〉の時期はこの方面は「陸奥」ではあるが、「陸奥"国"」は成立していない。ここでは律令国になった後の名称を遡らせて用いたものである。 《狢》 『世界大百科事典』によれば、ムジナは「動物学上の呼称ではなく、哺乳類のタヌキまたはアナグマの俗称」で、「人を化かす点はタヌキと同様で、しかしどこか憎めないところがある」という。 狢が登場する民話は、全国に無数にある(怪異・妖怪伝承データベース)。 《有蝿聚集》 ハエの大発生自体は、珍しいことではない。 それでも柱状に密集して羽音は雷の如しと言うのは、物凄いさまである。話が伝わるうちに誇張されたと受け止めるべきか。 《十丈之》 「中国哲学書電子化計画」〔ウェブサイト〕で「丈之」を検索すると、たとえば「乃立三丈之木於国都市南門」(『通典』/礼/刑法)、 「千丈之陂〔=堤〕、潰二於一蟻之穴一」(『太平御覧』/虫豸部/蟻)など、「長さ~丈の~~」という用法ばかりである。 当然ここでは当てはまらない。「之」のその他の用法としては
「也」なら字形も近く文法上もOKだが、どの本も「之」だから推しにくい。ひとまず衍字 《上野国》 好字令〔713年〕(資料[13])以前は「上毛野」だったと思われる。 好字令による改称だとすれば何とか書紀〔720年〕には間に合うが、その前から改称されていたかも知れない。好字令以前の改称としては、明日香⇒飛鳥の例がある(第180回)。 《大意》 三十三年〔三十二年か〕 正月七日、 高麗(こま)王〔武王〕は僧恵灌(えかん)を貢上し、 直ちに僧正に任じました。 三十四年正月、 桃李〔モモとスモモ〕の花が咲きました。 三月、 寒く、霜が降りました。 五月二十日、 大臣(おおまえつきみ)〔=蘇我馬子〕が薨じ、桃原の墓に埋葬しました。 大臣は稲目宿祢の子で、 人柄は武略があり、また弁才〔物事の理解力〕があり、 三宝〔=仏教〕を恭敬しました。 家を飛鳥川の傍らに置き、 庭の中に小池を開き、 小島を池の中に興しました。 よって、時の人は嶋大臣(しまのおおまえつきみ)と呼びました。 六月、 雪がふりました。 是の年は、 三月から七月まで霖雨(りんう)〔=長雨〕でした。 天下は大いに飢え、 老いた人は草の根を食べ道端に死に、 幼なき子は乳を口にくわえたまま母子共に死にました。 また、強盗窃盗は 並んで頻発し、止むべくもありませんでした。 三十五年二月、 陸奧の国に狢(むじな)がいて、人に化けて唄を歌いました。 五月、 蝿が群がり、固まり重なるさまは十丈に及び、 空に浮かんで信濃の〔碓日〕坂を越えました。 鳴る音は雷のようで、 こうして東方に上野国(かみつけのくに)に至り、自ら散りました。 27目次 【三十六年】 卅六年春二月戊寅朔甲辰。天皇臥病。……〔続き〕 まとめ 権勢を振った大臣蘇我馬子であるが、生涯の終わりに近づいてもなおエピソードが付け加わる。 思えば、崇峻天皇の殺害を始めとしてやりたい放題の人生であった。 このような人物なら、まだ真新しい古墳をいくつも潰して自分のための巨大墓を作ることは十分考えられる。 それが、石舞台古墳の被葬者を馬子とする説にリアリティーを感じさせるのである。 ただ、最後は推古天皇は強気で、馬子による広大な所領の要求を拒否している。 即位の頃はまだ馬子の傀儡だったかも知れないが、長年大王の地位にあれば権力基盤は自動的に固まって来るものであろう。 晩年は、実際に『元興寺伽藍縁起…』でいう「大大王」として奉られる立場であったと思われる。 このように考えると、馬子の薨についてはその専横への人々の反発を背景に、天皇が暗殺を命じた可能性もある。 ただ、仮に暗殺だったとすれば、書紀がその事実を伏せた事情を説明することが必要になる。 さて、三十五年条は無論伝説である。 それに対して、三十四年条の気象記録の部分はエルニーニョ現象の特徴と重なり合うので、幾分の誇張はあろうが概ね史実であろう。 その情景からは江戸時代の三大飢饉が連想されるが、江戸時代の飢饉でもその要因として、夏場の冷害や長雨が指摘されている。 太子と馬子が薨じ、〈推古〉も晩年を迎えた。 一つの時代の終わろうとしているとき、赤気、極端な天候不順、日食〔三十六年条〕などは自然現象ではあるが、 一連の出来事が不吉な時代の予感として文脈に位置づけられているのも、また確かであろう。 |
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⇒ [23-01] 舒明天皇紀 |