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2022.02.11(fri) [22-09] 推古天皇9 ▼▲ |
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19目次 【二十ニ年~二十五年】 《遣犬上君御田鍬矢田部造於大唐》
犬上君の祖とされる稲依別王は、父は倭建命、母は垂仁の女の布多遅能伊理毘売命(両道入姫皇女)とされる (倭建命11)。 〈姓氏家系大辞典〉は犬上郡の多賀大社を、犬上君家の氏神だと推定する。 御田鍬は、〈舒明〉二年にも「犬上君三田耜〔=御田鍬〕」らを大唐に遣わすとある。 《矢田部造》 〈仁徳段〉で、矢田部造は物部の伴造であったと見た(第170回)。 《みなる》 〈岩崎本〉の訓ミナルは「実成る」であろう。 ただ、ミノルも上代から存在する語で〈類聚名義抄〉でも「實」の訓みにミノルがあるから、ここの「実之」をミノルと訓んでも問題ないだろう。 〈時代別上代〉は「ノルは乗ルの意であろう」というが、 ミナルの音韻変化ではないだろうか。「ワガオホキミ―ワゴオホキミ」などA⇒Oの転は多い。 さて、モモ・スモモの収穫時期は、太陰暦でも5~6月と思われるので、「正月」は異常な現象を述べたのであろう。 特殊なことだから敢えてミナルとしたとも考え得るが、「五穀登之」もミナレリと訓むので、この考えは当たらない。 《掖玖》
「掖玖三人・夜勾七人・掖玖二十人」の「計」が「三十人」だから、「掖玖」=「夜勾」は明らかである。表記の不統一は原資料を直さずに入れたためと思われる。 〈岩崎本〉の校訂者はこの不一致を気にしたようで、次の脚注が書き込まれている。 ――「掖玖者西海別嶋也。出二美貝一。今俗謂二之夜勾貝一。但此島與大隅国相近耳。或本爲二夜勾一同也」 〔掖玖は西の海に別れし嶋なり。美(うまし)貝を出で、今俗(くにひと)は夜勾貝と謂ふ。但この島と大隅国とは相近かるのみ。ある本は夜勾とし、同じきなり〕。 〈釈紀〉も同じ文を載せるが、「或本…」以下が先頭にきて「私記曰。或本爲夜勾同也。掖玖者…」となっている。 《朴井》 〈姓氏家系大辞典〉〔1934~1936〕は、榎井の項で「物部朴井連」と「榎井連」を挙げ、「榎井 エノヰ:又朴井ともあり。大和国高市郡朴井邑より起る」と述べるが、その出典は乗っていない。 さらに調べると『大日本地名辞書』〔1900~1907〕上巻大和国高市郡に「桜井:又按に 朴井と榎葉井は一所にて桜井に同じかるべし、推古紀、二十四年、掖玖人帰化…」とある。 しかし、この文からはなぜ朴井が桜井と同じところなのかが分からない。 それとは別に、〈五畿内志〉和泉国泉南郡に「山川:榎井池【在西内村広五百畝】」とあり、「西内村」については「村里:西内」とある。 この池は、現在の「岸和田市西之内町」の「栄之池」と見られる。 同町の隣の岸和田市小松里町に「栄之池遺跡」がある。『日本歴史地名大系』によると、 遺構は掘立柱建物跡15、方形周溝墓2など(大半が弥生時代と平安時代)。古墳時代以降の遺物は須恵器、土師器、埴輪など(「栄の池遺跡」岸和田遺跡調査会・1979年)。 掘立柱建物については飛鳥時代・奈良時代が空白で、また、周辺に関連すると思われる地名が全くないので、「朴井」を栄之池周辺とは決め難い。 また、「香川県那珂郡榎井村」〔現香川県仲多度郡琴平町榎井〕がある。 〈姓氏家系大辞典〉には「讃岐の榎井氏:讃岐国大内郡寛弘元年の戸籍に「榎井益戸自女」と云ふ者見ゆ」とある。 「物部朴井連」または「榎井連」の分流が、和泉国や讃岐国に移った可能性はある。だが本貫地が分からない。 助数詞が「人」でなく「口」であるのは、奴婢並みの扱いであったことを暗示する。おそらく痩せた土地に置かれたのだろう。 そして「未レ及レ還」というから、生存の困難さから帰郷を望んだのだろう。しかしそれは果たされず、結局全員病死または餓死したと思われる。 「桜井」説については「桜井道場」の設置などを見ると、桜井〔=豊浦〕は〈推古朝〉の頃は賑やかな市街地であっただろう。 掖玖人が餓死した可能性もあることを考えると、朴井=桜井説はなかなか考えにくい。 《二十四年七月》 二十四年条には、七月が二回出てくる。こういうとき、普通は「同月」などと書く。どちらか一方を後から挿入し、そのまま直さなかったのかも知れない。 この未整理を見るとき、桃・李が実った「正月」も誤りか。掖玖・夜勾の不統一も放置されている。二十四年条は、出典元の文が生のままで羅列されている。 《新羅貢仏像》 新羅における仏教の開始は、法興王十五年〔528〕に「肇行仏法」(〈三国史記〉新羅本紀)とあり、倭の仏教公伝と同時期である。 その振興のために皇龍寺が創建され、真興王二十七年〔566〕に「皇龍寺畢功」、九重塔については善德王十四年〔乙巳645〕に「創造皇龍寺塔」とある。 大雑把に言って、新羅の仏教化は、倭の仏教化と大体同時である。 この年に新羅が仏像を送った意図は、百済・高麗が倭を仏教で潤している状況に、楔を打ち込もうとしたものかも知れない。 《大意》 二十二年五月五日、 薬猟(くすりがり)しました。 六月十三日、 犬上(いゆかみ)の君御田鍬(みたすき)と 矢田部造(やたべのみやつこ)【名前不明】を大唐〔隋〕に遣しました。 八月、 大臣(おおまえつきみ)〔馬子〕は病に臥しました。 大臣のためとして、男女合わせて千人が出家しました。 二十三年九月、 犬上君御田鍬と 矢田部造は大唐から帰国し、 百済使が、犬上君に連れられて来朝しました。 十一月十一日、 百済の賓客に饗宴されました。 十五日、 高麗僧慧慈(えじ)は帰国しました。 二十四年正月、 桃と李(すもも)が実を結びました。 三月、 掖玖(やく)人三人が渡来しました。 五月、 夜勾〔掖玖〕人三人が渡来しました。 七月、 また掖玖人二十人が渡来しました。 前後併せて三十人は、皆朴井(えのい)に置き、 帰ることができずにいるうちに、全員死亡しました。 七月、 新羅の奈末(なま)竹世士(ちくせいし)を遣わし、仏像を献上しました。 二十五年六月、 出雲国から報告があり、 神戸(かみと)郡〔神門郡〕に大きな瓜が実り、大きさは缶(ほとぎ)ぐらいありました。 この年は、五穀豊作でした。 20目次 【二十六年~二十八年】 《高麗遣使貢方物》
――「十三年〔605〕。隋煬帝即位。廿六年〔618〕。煬帝為二宇文及等一所レ殺。恭帝〔楊侑〕遜二-位于唐高祖一」 「恭帝」は、王朝最後の帝の死後に奉る諡号〔おくりな〕としてしばしば用いられている。 隋から唐への政権の移行は、次の経過をたどる。
二十六年条頭注には、下線(1)、(2)のことが書かれている。 つまり、王朝が交代するにあたって、まず前王朝の帝を自分の意になる人物Aに交代させ、Aから禅譲を受ける形式をとったわけである。 王世充も最後は敗北したが、同じ手続きを踏んでいる。 Aを「恭帝」、Aからの譲位を「遜位」と称するのは、恭み深い前帝が遜って帝位を奉るという意味と思われる。 これは、ひとえに覇王〔徳によらず武力で権力を握った王〕の印象を薄めるためであろう。 新政権はまず官僚、諸侯、人民の心を幅広く掌握しなければ立ち行かない。 特に、国を実際に動かす官僚の頭脳は前政権を正統とする秩序に染まっているので、その継承の整合性を論理的に示さなければならないのである。 《隋煬帝興三十万衆攻我》 煬帝は612年から614年の間に、三次にわたる高句麗遠征を行った。 『三国史記』高句麗本紀の関係個所から、一部抜き出す。
613年には、楊玄感の反乱の報を聞き、高句麗攻めの軍を反転させた。 乱は一応鎮圧されて楊玄感は自殺したが、このときから隋末の反乱期に入ったといわれる。 「zh.wikipedia.org」は、「隋対高句麗的連年戦争使経済受創、国力鋭減、煬帝民心尽失。」 〔隋の対高句麗の連年の戦争は経済を傷つけ、国力は著しく衰退し、煬帝は民心を尽く失った〕と述べる。 《高句麗からの方物》 二十六年八月条の「三十万衆攻我返之為我所破」は、三国史記の「三十万五千」を破ったという記載に合う。 高句麗は、長年隋煬帝による攻撃に悩まされてきたが、遂に隋朝が倒されたことを隋王朝が潰えたことを慶賀し、内祝いの方物を倭だけでなく周辺の各国に届けたと思われる。 煬帝が殺されたのは〈推古二十六年〉四月にあたり、使者が訪れたのが本当に同年の八月だったとすれば、間髪入れずに使者を出したわけで、 煬帝の死を知り跳びあがって喜んだ様子が目に浮かぶ。 この時期から考えて、次項で述べる国号「隋」の使用も併せて、〈推古〉二十六年八月条は史実と噛み合うといってよいだろう。 《隋》 〈推古〉二十六年までは中国の国号が「隋」であったことを、実際の執筆陣は完全に理解していたと思われる。 【十五年七月~十六年六月】《大唐》の項で、実際には隋使であることは分かっていたが、政治的配慮により中国への美称として隋の時期も含めて大唐を用いたと考えた。 ところが、ここの「隋」には手つかずである。 上層部は裴世清の箇所では「大唐に直すべし」と指示したが、専門家ではないから細かいところまで読み切れず、たとえば「随」を「したがふ」だと思って通過させたのかも知れない。 随・隋・隨は互いに異体字として、唐初までは比較的緩く通用し※、〈岩崎本〉の「随」も当時は必ずしも誤りではなかったようである。 ※…「唐初における国号〈隋〉字の変化:〈煬帝墓誌〉の発見によせて」 〔アジア文化研究所研究年報49号pp42-19;高橋継男〕。 《是年令造舶》
令には、ヨホロの制度が定められている。遡って〈孝徳紀/大化二年〉には、大化の改新の項目の一つに 「凡仕丁者、改下旧毎二卅戸一一人上、而毎二五十戸一一人」とあり、大宝令に繋がる。 「人夫」は動員されて河辺臣の下で労務にあたった人たちだから、ヨホロが近いであろう。 古訓オホミタカラは人民一般を指すので、適切とは言えない。 《舶》 「(万)3869 大舶尓 小船引副 おほぶねに をぶねひきそへ」 を見れば、舶の訓はオホブネで十分である。〈倭名類聚抄〉のツグノフネは辞書にないから誤写かと思ったが、 〈類聚名義抄〉(佛下)にも「舶:ツクノフネ ツム 今方 オホフネ」がある。 ツムについては、〈時代別上代〉での用例は書記古訓のみで、〈倭名類聚抄〉には載らないから、どの程度一般的だったか疑問が残る。 奈良時代には既に死語になっていたものを、古語から引っ張り出したのかも知れない。 大舶の建造は、遣隋使を載せたり、半島との貿易の品を運ぶために重要性を増している。よって大舶を立派に造り上げる者は讃えられ、その中でこのような伝説も生まれるのであろう。 《大雨》 古訓ヒサメは、〈倭名類聚抄〉がいうように書記古訓限定の語で、この言葉は少なくとも万葉にはない。 〈倭名類聚抄〉「日本私記云火雨【和名比左女】雨氷【同上】今按俗云【比布留】」は 「日本紀私記に火雨(ヒサメ)というが、ヒサメは氷雨である。今案ずるに、激しい雨のことを比喩して、俗に「火降る」と言ったことによるものか」 と読めるので、大雨=ヒサメには懐疑的だったらしい。 他の訓としては、(万)1370「甚多毛 不零雨故 はなはだも ふらぬあめゆゑ」という言い回しがあるから、「大雨」の訓は「雨降ることはなはだし」などが適当か。 《化少魚》 少には「寸法が小さい」意味もあり、ここではその用法。〈岩崎本〉のチヒサキは妥当で、〈図書寮本〉のチヒサイはそのイ音便である。 枝はもともとが分岐の意味で、わざわざマタと訓まなくても「木の枝に挟まる」で意は十分伝わり、かつ自然である。 大雨により川は増水したが天候回復後に水位が下がり、魚が枝に挟まって取り残されていたのであろう。 これを敗北した雷神のなれの果ての姿だとする、面白い話になっている。 《非魚非人》 〈釈紀〉「其ノ形如シレ兒。非レ魚ニモ非レ人ニモ。:兼名菀曰。人魚。一名■。魚身人面物也。」〔■…『国史大系』版は"魚麦"〕 《流来於伊豆嶋》 今回島を出た掖玖人は、本土には辿り着けずに、黒潮に乗って伊豆の島まで流された。 掖玖人については、二十五年の帰化以後警備が厳しくなって、例えば大隅国沿岸で上陸を拒まれたなどの可能性が考えられる。 想像に過ぎないが、この頃掖玖国で内乱が起こり、敗北した一族が亡命を余儀なくされたなどの事態が考えられる。 《葺》 葺の古訓シクは意訳で、標準の訓みがフクであったことは明らかである。 それを実証する例としては、〈神武〉の父の名前、 日子波限建鵜葺草葺不合命〔書紀は、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊〕にある(第94回)。 書紀上代巻はその命名譚に、「相通永無隔絶」の言葉を示す。 これが「葺草(かや)-葺(ふき)-不合(あはず)」のカヤフ-キ-アハズの由来だとする 〔ただし「一書」では、産屋の茅ぶきが未完成という解釈を示す〕。 カヨフ=カヤフはこじつけのように見えるが、フは反復を表す動詞語尾で、四段動詞の未然形に接続する。 フを除いた動詞が「離(か)ゆ」で、これが反復すればその度に「来」が挟まるから、結局カヨフ意味となる。そして[a]⇒[o]の音韻変化は珍しくない。 命名譚の発案者は、このように考えて「カヨフはカヤ・フの音韻変化」と見たのであろう。 ならばフの位置に葺があるのだから、葺の訓:フキが確定する。 よりストレートな例もある。 〈崇神段・紀〉に出てきたヒコクニフクノミコトは、記では丸邇臣之祖日子國夫玖命(第114回)、 書紀では和珥臣遠祖彦祖国葺命(崇神十年)と表記される。よって、葺=夫玖である。 なお、現代語では「〔茅で〕屋根を葺く」というが、当時は「〔茅を〕屋根に葺く」と言ったようである。 (万)2292「秋芽子之 花乎葺核 君之借廬 あきはぎの はなをふかさね きみがかりほに」、 (万)3691「波都乎花 可里保尓布伎弖 はつをばな かりほにふきて」〔初尾花(ススキの穂)仮庵(仮のいほり)に葺きて〕の例がある。 よって、「葺檜隈陵上」は「檜隈の陵の上に葺く」と訓むのが正統であろう。 《檜隈陵》 二十年二月に堅塩媛を改葬した「檜隈大陵」と同じ陵であろう。 葺石で覆うのは、通常の古墳の化粧である。つまり、改葬後も八年をかけて陵の整形が続けられてきた。 つまり、事実上堅塩媛のために新たに陵を築いたに等しい。これをもって、新しい時代の石棺が古い石棺を傍らに追いやって、玄室の主座の位置を占めたことを説明できないだろうか。 この問題については、〈欽明〉三十二年【檜隈坂合陵】)で見た。 和田晴吾は、『三瀬丸山古墳と天皇陵』(季刊考古学別冊2;雄山閣1992)の中で、「奥壁や羨道の石積み」の新しさから「石室の大改築」が考えられ、後円部が「独立した円墳状を呈する」ことから墳丘の再構築があったと見られる。 そして「堅塩媛の改葬行為は、当時の権力の頂点にあった蘇我氏の政治的セレモニーであった感が強い」。このことから「形式的に古い棺が前にあり、新しい棺が奥にある位置関係の逆転」が理解できると述べる。 同論文は、石棺・石室の石積みのそれぞれにおいて、様式の年代的変化を実証的に示すデータに基づいており、論建ては厳密である。 《葺石》 陵の葺石がはっきり述べられたのは、記紀全部の中でここが唯一である。現在では古墳の通常の仕上げであることが明らになっている。 他の例としては、「赤石に山陵を興し」、船で淡路島から石を運んだことが〈神功皇后紀〉に見え、 実際に五色塚古墳〔この「山陵」に比定〕の葺石に淡路島産の石が用いられたことが明らかになっている ((9)《赤石》)。 《域外積土成山》
檜隈陵の「域外」に、土を積んで山を成したと述べる。 檜隈陵が丸山古墳であるなら、周囲に山の痕跡があるかも知れない。そこで国土地理院の地図サイトの陰影図機能で見ると、古墳の東から南にかけて少し高まりがある。 これが人工物かどうかは分からないが、周濠跡から高い部分への標高差は4~8m程度あるようである(右図)。 「山」と言えるほどの高さではないが、せっかく葺石で見栄えをよくしたのに見えなくするとは考えにくいから、これでよいのかも知れない。 陵の三方をなだらかな丘で囲む作りは、来目皇子の墓に見られた(十一年二月)。 ここでは陵形こそ古い前方後円墳であるが、この時代のスタイルとも考えられる。 《土》 ツチは、上代ではアメと対になる語で、大地・場所などを意味する。地球の表面を覆う物質の意味でツチが使われるのは、平安以後のようである。 『古典基礎語辞典』〔大野晋;角川学芸出版2011〕には、「中古以降も、ツチはほとんど大地の意味で使われるが、 その大地を形成している細かな粉末状の岩石類の泥や土壌を表すこともある」とある。 ハニという語もあるが、これは陶器の材料としての土に限定される。物質としての土一般を表す上代語を強いて挙げるなら、ツチクレだったようである。 とは言っても、盛り土によって「大地が上方に厚みを増す」のは確かだから、「ツチを積んで山を成す」という言い方も可能かも知れない。 《倭漢坂上直》 倭漢坂上直について、〈姓氏家系大辞典〉は 「東漢坂上直: 倭漢氏の宗家なりしが猶ほ中世に於ても、此の氏族中・最も栄えたり。後漢献帝の後裔と称す」、 「丹波氏系図には「阿智王―高貴王―志努直(本朝に於いて生れ、丹波国に住み、坂上を賜ひて住む)―駒子―弓東」と載せ…」などとある。 同辞典は、(東漢)坂上直は、後の坂上大宿祢に繋がると見ている。 〈欽明紀〉三十一年に「東漢坂直子麻呂」、 坂上直はその東漢坂上直と同一で、天武十一年に「倭漢直等、姓を賜ひて連と曰ふ」、この「等」に坂上直も含まれ、坂上連になったと見られる。 次に〈天武〉十四年に「倭漢連云々、姓を賜ひて忌寸と曰ふ」、このときも坂上連が坂上忌寸になったと見られる。 そして、〔続記〕天平宝字〔764〕八年九月に「坂上忌寸苅田麻呂⇒坂上大忌寸」、 延暦四年〔785〕に「忌寸⇒宿祢」、苅田麻呂のみ「大忌寸⇒大宿祢」。 苅田麻呂の子が有名な坂上大宿祢田村麻呂。 延暦四年に東漢の忌寸たちが宿祢に上った記事は、資料[25]《坂上大宿祢》の項で取り上げた。 田村麻呂は大伴弟麻呂に次いで二人目の征夷大将軍。(『日本紀略』延暦十六年〔797〕十一月「丙戌〔五日〕。従四位下坂上大宿祢田村麻呂。為征夷大将軍」) なお、大柱直については、〈姓氏家系大辞典〉に「大柱直:こは名にして氏にあらざるべし」という。 《赤気》
古代文献に現れる赤気は、〈汉典〉によれば「紅色的雲気」のことで、①夏至冬至・春分秋分に雲色を見て、赤色なら「主兵荒」を示す。 ②「伝説謂二帝王的祥瑞一。旧史稗説〔=フィクション〕中每二載帝一王降生或所処之地有二赤気出現一。」を示す 〔帝を戴く土地に出現するという伝説がある〕。つまり、中国古文献においては、伝説における雲気占いの中の言葉である。 その後、滅多に見られない中緯度地方のオーロラが、一般に赤気と呼ばれるようになったと見られる。その一例が江戸時代の古文献に見出されている。 国立極地研究所の2017年の発表によると、「京都・東羽倉家の日記に1770年のオーロラの記録を発見し」、「『星解』という別の古典籍に描かれたオーロラの絵図の形状が再現」された (国立極地研究所/江戸時代のオーロラ絵図…)。 『星解』は現在は三重県松坂市の「郷土資料室」に所蔵され、明和七年七月二十八日〔1770年9月17日〕の「朱気」の観察図が描かれる。 本居宣長記念館「7月の宣長」 によると、このときの極光〔オーロラ〕は全国的なもので、 宣長が『日記』に「赤気甚大高而、其中多有白筋立登、其筋或消或現」と記す他、江戸の「『武江年表』には、「七月二十八日、夜乾の空赤き事丹の如し。又、幡雲出る」」とあり、 長崎や京都でも見られたという。 さて、〈推古〉二十八年十二年一日の「赤気」について、この『星解』などと比較検討した論考が「国立極地研究所」から発表されている (国立極地研究所/研究成果〔2020年3月16日〕)。 そこには、 「日本のような中緯度で見られるオーロラは赤く、扇形の構造」を示し、 「〔推古紀〕当時の日本の磁気緯度は現在よりも10度ほど高かったため、大規模な磁気嵐が起これば、日本でオーロラが見えても不思議は」ない、 「ただし、現代の鳥類研究者でも、雉が尾羽を扇形に開く様子を目撃することは多くな」く、 当時の「人々の、鳥との距離感や観察眼の鋭さを前提とする必要がありそう」だなどと述べられている。 つまり、赤気を雉の尾に例えるためには、雉がそのディスプレイ行動まで、人々にしっかり観察されていたことが必要だと述べる。 〈推古紀〉における自然現象の記録については、三十六年三月二日の日食については、その日に実際にあったことがほぼ確実なので (三十六年)、基本的に信頼性があると思われる。 《録天皇記及国記》 ●弘仁私記序…「録天皇記及国記」の段は、『弘仁私記序』([2])によって引用され、 その場所は、「天皇勅二阿礼一使三習二帝王本記及先代旧事一」という文に付けた割注の中である。 『弘仁私記序』のこの文は、古事記序の「勅語阿礼 令誦習帝皇日継及先代旧辞」の引用である(第二十回)。 「天皇記+国記」の撰録という共通項によって挙げたのであろうが、阿礼のことは天武天皇のときであるから直接の関係はない。 ●先代旧事本紀…『先代旧事本紀』における「先代旧事」という語句は書紀にはなく、記の序文から取ったものである。 この『先代旧事本紀』は、〈推古二十八年〉に太子と馬子が録した「天皇記及国記…」であるかの如く装う十巻〔と系図一巻〕の書だが、 実際には物部を後継する石上氏によって奈良時代中頃より後に撰録されたものと見られ、中でも国造本紀は平安時代に至る(資料[55])。 ●帝王本紀…一方「天皇記」に関連するものとしては、 〈欽明二年〉の原注が「帝王本紀」に触れる。 「帝王本紀、多有古字、撰集之人、屢経遷易。後人習読、以意刊改、伝写既多、遂致舛雜、前後失次、兄弟参差。」 〔帝王本記には古い字が多く、選集の〔の際書き写す〕過程で字が変わり易い。また読み習わすうちに解釈が変わり、 筆写を繰り返すうちに誤りが増え、前後の順を失い兄弟が入れ替わったりする〕。 この「帝王本紀」と、太子・馬子編纂の「天皇記」との関係については何とも言えない。 皇極四年〔645〕六月条に「蘇我臣蝦夷等臨レ誅、悉焼二天皇記、国記、珍宝一。船史恵尺、即疾取二所レ焼国記一」 〔蘇我蝦夷が殺されたとき、天皇記・国記は燃やされたが、国記だけは救出された〕と述べられているからである。 ●帝紀及上古諸事…〈天武十年〉〔681〕、川嶋皇子を筆頭とする十二名に「帝紀及上古諸事」を「記定」することを命じた。 記の編纂グループのもともとの役割は、書紀の文字記録以前の時代を書くための伝承の蒐集と見られ、阿礼が記のための「誦習」を命じられたのも天武天皇のときであったから、〈天武十年〉前後に記紀は一体でスタートしたと思われる。 記序文によれば、長らく中断があった後に〈元明天皇〉の712年に献上されたとあるから、書紀も〈天武十年〉に開始され、中断を挟んで700年代ぐらいに再開して720年に撰上したと考えられる。 ●録天皇記及国記…一つの考え方としては、天皇記・国記の編纂事業を偉大化するために〈推古朝〉に遡らせたに過ぎず、実体はないことも考えられる。 しかし、この時期は新たな仏教国家をスタートさせる意欲に溢れていたのだから、国の正史の編纂に手を付けるのもごく当然であろう。 さらに、645年に作成途上の書が燃えたとあるから、この正史作りには現実味がある。これが〈天武朝〉の「帝紀及上古諸事」の記に直接繋がるわけではないが、 「天皇記・国記」の作成途上で放棄された断片が、資料として利用されたことはあり得よう。 〈推古朝〉の頃、少なくとも『天皇記』や『国記』を書くための資料となり得る、様々な文書記録が既に存在していたことは間違いないと思われる。 《大意》 二十六年八月一日、 高麗国は遣使して方物を献上し、 「隋の煬帝(ようたい)は三十万の軍勢を興して我が国を攻めましたが、 却って我々によって破られました。 よって、俘虜の貞公(ていこう)、 普通(ふとう)の二人(ふたり)、 及び鼓、笛、弩(ど)〔機械仕掛けの大弓〕、抛石(ほうせき)〔放石機〕の類十種、 併せて特産品と、駱駝一匹を献上いたします。」と申しました。 この年、 河辺(かわべ)の臣(おみ)【名前不明】を安芸(あき)の国に遣わして、 大舶(おほぶね)を造らせました。 山に入り大舶の木材を探したところ、 簡単に好い木材が見つかり、それを伐採しようとしました。 その時、ある人が申すに、 「これは落雷の木である。伐ってはならない。」と申しましたが、 河辺の臣は、 「それについては、雷神と雖(いえど)も、豈(あに)天皇の仰せ言に逆らうことがあろうか。」と言って、 大量の幣帛(みてぐら)を祀った上で、人員を送って伐らせました。 その直後に大雨となり、雷鳴と雷光を伴いました。 すると、河辺の臣は剣を押さえつけて 「雷神よ、作業の人には決して手を出すな。まさに我が身を傷めよ」と言って、 空を仰いで待ちました。 十回余の落雷がありましたが、河辺の臣を犯すことはできませんでした。 そして、小さな魚となって、樹の枝に挟まりました。 その魚を取って焼き、遂にその大舶を完成しました。 二十七年四月四日、 近江の国が言上しました。 蒲生川に異様な物が見つかり、その形は人の如きといいます。 七月、 攝津の国のある漁師が、網を堀江に沈めたところ、 物が網に入りました。 その形は子供のようで、魚でもなく人でもなく、名付けようがありませんでした。 二十八年八月、 掖玖の人が二人、伊豆の島〔大島〕に流れ着きました。 十月、 砂礫で、檜隈陵(ひのくまのみささぎ)の上を葺きました。 そして、周囲に土を積んで山を作りました。 氏ごとに、大柱(おおばしら)を土の山の上に立てることを命じました。 その時、倭漢(やまとのあや)の坂上(さかのえ)の直(あたう)が立てた柱は、他に勝りはなはだ高いものでした。 よって時の人は、彼を大柱(おおばしら)の直と呼びました。 十二月一日、 空に赤気があり、 長さ一丈余り、形は雉(きじ)の尾の如くでした。 この年、 皇太子と嶋(しま)の大臣(おおまえつきみ)は二人で相談して、 天皇記と国記、 臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)・数多くの部(べ)、 また公民らの本記を編集しました。 まとめ 二十二年から二十八年までの期間には、いくつかの出来事が脈絡なく収められている。 未整理な部分もあるが、それだけ実記録が生のまま取り込まれたということであろう。 とすれば、赤気の記事は貴重である。 高句麗からの方物の日付も、当時の国際情勢と合致する。 人魚の話自体は伝説であるが、風説の記録という事実を収めたと見られる。 さて、二十年と二十八年の堅塩媛合葬の記述も、丸山古墳の知見とよく噛み合い真実味がある。 丸山古墳の考古学的知見からは、蘇我馬子大臣の想像以上の専横ぶりがリアルに浮かび上がる。 合葬とは言うが、事実上堅塩媛を中心的な埋葬主とする陵として作り直したものである。 この改葬は、氏族が女を皇后として送り込んで権力を握るという形式を描き出したもので、いわば歴史を書き換えたわけである。 これが、後に藤原氏が閨閥として権力を握る仕組みの、ひな形になったと言ってよいだろう。 藤原氏の時代には事実として、〈延喜式-諸陵寮〉において皇后の墓が「陵」と表現され、天皇と同格であったことを公式に認めている。 |
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2022.02.24(thu) [22-10] 推古天皇10 ▼▲ |
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21目次 【二十九年】 《厩戸豐聰耳皇子命薨》
『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』〔以後〈三尊光背銘〉〕には、 「法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩。明年正月廿二日上宮法皇枕レ病弗レ悆。干食王后仍以労レ疾並著二於床一。」 〔法興〔私年号〕三十一年歳次辛巳〔621〕十二月鬼前太后(おほきさき)〔穴太部間人皇女〕崩(かむさ)りたまふ。明年(くるつとし)正月二十二日上宮法皇病に枕し、弗悆(いえず)。干食〔=膳〕王后以て疾(やまひ)に労(いとほ)し、並びて床に著けり〕、 「二月廿一日癸酉王后即世。翌日法皇登遐。」 〔二月廿一日癸酉王后即世(かむさ)りたまふ。翌日法皇登遐(かむさ)りたまふ。〕とある。 文中の「鬼前太后」については、その解釈が『上宮聖徳法王定説』〔以後〈定説〉〕にあり、それによる即ち「神前太后」で、同母の兄の崇峻天皇が坐した「石寸 このように、〈三尊光背銘〉は太子の薨は推古三十年〔622〕二月二十二日のことだと述べる。 この三尊像の製作自体については、「癸未年三月中…具竟」〔推古三十一年〔623〕三月…具(そな)へ竟(を)へり〕とある。 この〈三尊光背銘〉の線刻の内部には鍍金が及んでいないので、線刻の時期は623年以後ならいつでもあり得る。 線刻の時期は、「元興寺伽藍縁起…[3]【法隆寺金堂薬師如来像光背銘】」の項で、「680~700年頃の時期に刻まれたと見るのが妥当か」と見た。 この「法皇」という呼び名に、「天皇」号の影響があったことも考えられる。天皇号の使用開始は680年頃かと判断した(資料[41])。 『中宮寺天寿国繍帳』〔以後〈天寿国繍帳〉〕でも「辛巳〔推古二十九年〕十二月廿一日癸酉。日入孔部間人母王崩。明年二月廿二日甲戌。夜半太子崩」とあり、太子の薨の日付は〈三尊光背銘〉と同じである。 〈天寿国繍帳〉の製作は、「天皇」号使用開始後から、書紀が「崩・薨」の用法を整理するまでの間と見られる(資料[53])。 太子崩の日付「明年二月二十二日甲戌」については、元嘉暦モデルによれば推古三十年二月は「甲寅朔」となっており、「二十二日甲戌」はこれに合致する。 「入日孔部間人母」の日入は日没を意味すると見られる。夕日のことを上代語で「いりひ」といい、また(万)4525「日入国尓 所遣 ひのいるくにに つかはさる」〔「日入国」=隋〕の例がある。 この「孔部間人母」が「崩」じた「辛巳十二月廿一日癸酉」には問題がある。 元嘉暦モデルによると二十九年十二月は甲寅朔で、「甲戌」は実際は二十日である。 実は、「辛巳十二月廿一日癸酉」は〈定説〉に載るものだが、このままでは四字区切りに合わなくなる。 〈天寿国繍帳〉は、全四百字を四文字ごとに分割して、その四文字ずつを亀のイラストに組み込んで散りばめたものである(資料[53])。 『聖徳太子伝の研究 (飯田瑞穗著作集1)』〔吉川弘文館2000〕〔以下〈飯田瑞穂〉〕において、 四字区切りの形を復元している。 やや横道に逸れるが、同書はこの部分を「辛巳十二/月廿一癸/酉日入孔/部間人母/」として、「廿一日」から「日」を省いて文字数を合わせている。 〈天寿国繍帳〉は他の箇所では「明年二月廿二日甲戌」だから、ここだけ「日」を落とすのも不自然である。 けれども〈定説〉の「廿一日」が誤写で、もともとの形が「辛巳十二/月廿日癸/酉日入孔/部間人母/」であったとすれば、「癸酉」にも合い問題は解決する。
このように細かな問題はあるが、概ね680年頃より書紀の前までの期間は、太子の「崩」は「推古三十年二月二十二日」だったと考えてよいだろう。 因みに、〈伝暦〉(10世紀;下述)では「二十九年【辛巳】春二月…遷化…【時年四十九。或説壬午年〔三十年〕者誤也】」とあり、書紀による薨年を採用している。 《皇子命》 書紀で、「~皇子」に"命"を添えることは殆どない。他には、〈天武紀〉の「高市皇子命」のみである。 興味深いのは、〈天武紀〉には「草壁皇子尊」も出てくることである。草壁皇子は皇太子に指名されたが、夭折して即位には至らなかった。 ここには、「皇子尊>皇子命>皇子」の格付けが見える。 上宮皇子は太子で、かつ摂政でもあるから当然「皇子尊」であるべきであろう。これを「皇子命」に留めたのは、 〈舒明即位前紀〉で山背大兄王の即位が阻止されたことによるかも知れない。 太子に「尊」がつけば天皇レベルとなるから、その子である山背大兄王も皇太子格を主張できる。 ところが、上宮太子起点の系図を、書紀はなかったことにする。この系図は『上宮聖徳法王定説』に明示されているから、既に周知だったと見られる。 ところが、書紀はこの系図を載せないから山背大兄王はどこの馬の骨とも知れぬ如くの扱いになってしまった(第249回)。 このように考えると、山背大兄王が"尊"の子という高貴性を否定するために、最初は"厩戸豊聡耳皇子尊"だったのにその表記を変更したのではないかと思えてくる。 ここで、書紀の〈雄略〉~〈天智〉巻がα群※であるなかで〈推古〉巻と〈舒明〉巻がβ群であることに注目しよう。 これは、当初α群で書かれたものに、相当な修正が加えられた結果ではないだろうか。〔※…〈雄略1〉などで解説。〕 その修正の目的は、高皇産霊神を起源とする皇統における太子の位置づけを弱め、聖人として仏教界に封じ込めようとするためだったと思われる。 それは、主に山代王による皇位継承の否定を合理化するためだろうが、その一環として"上宮皇子尊"を"上宮皇子命"に直したのではないかと思われるのである。 但し、太子が天皇に準ずる立場で高度の現実政治を担った記述も残存し、この段の慧慈の言葉にある「三統」もその一つである。 結局、尊から命への変更は、内容的には中途半端ではある。 《諸王諸臣》 ここでは、諸臣(朝廷に仕えるもろもろのオミ)と並べて、諸王は皇族全体を指す。従って皇子・皇女の子孫や親戚までも含むものであろう。そして、古事記ではその意味における「王」がミコと訓まれたのは明らかである。 ただし「大宝令のころより親王(天皇の兄弟や皇子)をのみミコと称した」(〈時代別上代〉)という。よって書紀の時代の用語法では「王」はオホキミとなる。 ただ、〈推古朝〉の頃はまだ幅広く「御子」を意味したので、古い時代のことを陳述する場合はミコも可能であろう。 《悉長老》 悉は平安以後は副詞コトゴトクであるが、〈時代別上代〉によれば「上代に確実にそれ〔副詞としての用法〕と指摘できるものはない」という。実際万葉にはコトゴトが17例あるが、「ひとのことごと」(0460)のようにすべて名詞である。 副詞としては、上代にも存在したミナの方が確実である。 長老はオキナと訓読されるが、この語は男性に限られる。下に「父母」とあるから、ここにはオミナを加えるべきであろう。 《愛児》 愛児はイツクシミノコと訓める。古訓メグミノコは、「慈父母」の慈(イツクシミ)と「愛」とを読み分けるためであろう。 「長老如失…」と「少幼如亡…」は、対句構造における視覚効果のために漢字の置き換えで、失⇒亡、而⇒以、愛⇒慈としたものである。 倭語としては読み分けることに意味はないから、訓読では同じ語を用いても差し支えないだろう。 この対句における字の置き換えは、古事記序文で多用されている(第3回以下多数)。 《塩酢之味》 長老は太子の薨のショックで「塩酢之味在口不嘗」、すなわち悲しみのあまり、口にいれたものの味も感じないという。 「嘗」の本義は「舌に乗せて味を感じ取る」である。 古訓「塩酢之味 また「行路」も古訓では「行」を捨てるが、「道を歩くと、泣き声が満ちている」とそのまま読んだ方が強く感性に訴える。 この段落の文章表現は、古事記スタッフによるようにも思える。 《耕夫》 タカヘス〔現代語"たがやす"〕が「田-反す」〔田の土の上下を入れ替える意〕なのは明らかである。 古訓タカヘスルにおいては、タカヘ+サ変動詞と解釈している。それを突き進めると、「タカヘ=田+カフ〔下二段〕の名詞形」、 「下二段のカフ(替ふ、易ふ)では人が所有する田を交換する意味」となり、土に鍬を入れる行為から離れていく。 『類聚名義抄』(仏下巻)には「犂牛 タカヘスウシ」とあり、タカヘスを四段活用している。この方がまともであろう。 《舂女不杵》 「不杵」の古訓キネオトセズ〔杵音せず〕は、意訳である。杵の動詞化はキヌツクだが※、古訓はツキメのツキとの重複を嫌ったのであろう。 ※…『出雲国風土記』出雲国「杵築 《新羅上表始起于此時》 新羅からは既に十八年及び十九年に遣使され、共食者を指定して饗するなど公式の接待をなされている。このときに上表を持参しなかったとは思えない。 国書の確かな記録があるのは二十九年が初めてなのかも知れないが、かと言って「始起」と書いてしまってはいけない。記述の調整不足であろう。 《高麗僧慧慈》 〈推古紀〉では、高麗からの僧の来帰や献上が目立つようになった。二十六年には方物が献上されたように、国家の関係は深まっている。 慧慈が本国で太子の薨を悼んだ場面は、仏教を通した両国の一体感の高まりを描くものと言える。 対照的に、百済の影は薄れつつある。 《大意》 二十九年二月五日、 夜半に 厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)の命(みこと)は斑鳩宮(いかるがのみや)で薨じました。 この時、 諸王諸臣、及び天下(あめのした)の人民は、 悉(ことごと)く、長老は愛しの子を失った如くに、 塩や酢を口に入れても味はなく、 幼子は愛しの父母を亡くした如くに、 泣く声が行く道に満ちました。 こうして農夫は鍬で耕すことをやめ、 舂女(つきめ)は杵つくことをやめ、 人は皆 「太陽も月も輝きを失い、 天地は既に崩れた。 今から以後、誰を頼りにしたらよいのだろうか。」と言いました。 この月、 上宮の太子〔聖徳〕を磯長(しなが)の陵(みささぎ)に埋葬しました。 この時に当たり、 高麗(こま)の僧慧慈(えじ)は、 上宮の皇太子が薨じたと聞き、 大いに悲み、 皇太子のために僧を集めて設斎を催しました。 そして、親ら経を説いた日、 誓願して、 「日本(やまと)の国に聖人がいらっしゃり、 上宮豊聡耳皇子(かみつみやのとよとみみのみこ)といわれます。 固く天がおゆるしになり、 玄聖の徳をもって日本(やまと)の国に生まれました。 三統(さんとう)〔天地人の統治〕を苞貫(ほうかん)〔包括〕し、先の聖帝の宏猷(こうゆう)〔偉大な計画〕を継がれ、 三宝(さんぽう)〔仏法僧、仏教〕を恭敬し、黎元(れいげん)〔人民〕の災難を救われました。 このように、実に偉大な聖人でいらっしゃいます。 今、太子は既に薨じ、 私は異国にあれども、断金の心〔強固な絆〕で結ばれています。 それを、一人だけ生き延びて何の益がありましょう。 私は来年の二月五日をもって、必ず死ぬでしょう。 こうして、上宮の太子と浄土でお遇いします。 そして、共に衆生を彼岸に救いましょう。」と申しました。 こうして、慧慈は、 ちょうど期した日に亡くなりました。 これにより、当時の人は誰も彼も口を揃えて 「独り上宮の太子のみが聖(ひじり)ではなく、 慧慈もまた聖であった。」と言いました。 この年、 新羅の奈末(なま)伊弥買(いみばい)を遣わして朝貢し、 その際表書をもって使旨を奏上しました。 およそ新羅からの上表は、 この時に始まったように思われます。 【磯長陵】
伝統的には、叡福寺〔大阪府南河内郡太子町太子2146〕の「聖徳太子御廟」が墓所として崇敬されている。 考古学名は「叡福寺北古墳」で、「墳丘は直径40m、高さ6mの二段築成の円墳」(〈猪熊兼勝〉)とされる。 《叡福寺》 叡福寺公式ページの「叡福寺由緒」には「太子薨去後、推古天皇より方六町の地を賜り、霊廟を守る香華寺として僧坊を置いたのが始まりです。神亀元年〔724〕には聖武天皇の勅願より七堂伽藍が造営されたと伝わります。」とある。 その確かな記録はないようで、 〈森浩一〉によると「叡福寺の創建年代が…鎌倉時代の十二世紀末から十三世紀前半にあるという新たな見解が生まれている」とし、さらに墓自体も 「1024年(治安四)の九条家本『天王寺事』には、「聖徳太子御墓、治安四年六月十四日記云、右御墓所古今雖奉尋
〈伝暦〉〔通説は10世紀成立〕の〈推古〉十八年十月に「膳氏妃侍レ座。太子謂レ妃曰。…我得レ汝者我之幸也。吾死之日同穴共埋」 〔膳氏妃〔=菩岐々美郎女 以下〈梅原末治〉による。御廟には「諸陵寮での御修理成つて、前に南面した霊屋が設けられ」ている。「中世には其の内部を穿たれたようで、園大暦〔南北朝時代の洞院公賢の日記〕の貞和四年〔1348〕二月三日の条には、伝聞として、太子御廟…太子御骸破損歟…」などとあり、 「明治十二年〔1879〕御修理の際岩石を以て堅く閉ざされた」という。 《聖徳太子御廟》
〈梅原末治〉はこれについて、 「此の記事から推すと、〔棺の〕側面は推古朝の彫刻や工芸品に見る雄健な格狭間や、或は唐草等を以て飾られてた立派な芸術品であることが自〔づか〕ら肯定せられ、是れが新来の仏教美術家の技巧になったものと思はるゝ」、 「此の上に安置せられた御棺は二つながら乾漆で作られ」、「考古学上特記すべき事実」で、「我が国に於ける此の種技術の年代を窺ふ重要な一標準が示される」。 「御母后穴穂部間人皇女の御棺はこれに反して棺台がなく一石を彫り抜いた」で、「普通にある石棺の身と相似て居る」。 「奥の御棺は本来此の石室と共に営造せられたもので、前の二棺はこれとは別に造られて、ここに葬られたこと殆んど疑を容れない」、 「其の前の御棺の一か〔が〕太子なりと…伝へはこゝに信ずべき根拠を増す訳である」と述べ、 奥の穴穂部間人皇女と見られる石は棺そのもので石室と同時に作られ、その前の太子及び妃と見られる石は棺台で、 後になって乾漆棺が置かれたと判断している。 この乾漆棺と類似する例として、 五条菖蒲池古墳の石棺内部が「五分〔1.52cm〕許 《夾紵棺》
そのうちもっとも保存状態がよいと言われるのが、安福寺〔大阪府柏原市玉手町7-21〕所蔵の夾紵棺である。 〈安福寺の夾紵棺〉(柏原市公式ページ)には、 玉手山5号墳の発掘調査〔1958年〕に「参加していた北野耕平氏、勝部明生氏、猪熊兼勝氏らが、〔宿舎にしていた安福寺の〕床の間に置いてあった漆塗りの板が、夾紵棺の断片であることを発見した」という逸話を載せる。 同ページによると、「安福寺の夾紵棺は、長さ94cm、幅47.5cm、厚さ3cmの板状のもの」で、「京都芸術大学の岡田文男教授が調査され、45枚の絹で作られていること、製作地は日本」であることが明らかになったという。
その他の夾紵棺の例として〈梅原末治〉も挙げた五条菖蒲池古墳・牽牛子塚古墳、そして阿武山古墳の例を見る。 《牽牛子塚古墳》 牽牛子塚古墳
「石室内に納められた棺は乾漆棺で、大正三年の調査時や今回の調査の際にも、その破片が棺に取付けられたと思われる棺座金具・鉄釘・鉄鋲などとともに出土し、そのほか勾玉・ガラス玉・臼玉などの玉類、人骨片も検出されている」 (〈歴史地名大系〉)。 「築造年代については出土遺物等から7世紀後半頃」、 「被葬者については古墳の立地や歯牙等から斉明天皇〔661年崩〕と間人皇女の合葬墓と考える説が有力」という (〈明日香/牽牛子2〉)。 このように、牽牛子塚古墳は最初から二基の合葬陵として作られている。 《菖蒲池古墳》 菖蒲池古墳〔橿原市五条野町〕は、甘樫丘より西方に起伏する低い丘陵の南斜面にある。 横穴式石室は、 「長さ約六メートル、幅二・四メートル、高さ約二・五メートルの玄室内には二個の刳抜式家形石棺が、南北に縦に安置され」、 「通常の家形石棺よりもはるかに整美なものである。両棺とも内面に乾漆を張りつけ、朱を塗っている」、 「精巧の極に達した家形石棺」で「計画的な合葬墓」と見られ、 「天武天皇〔在位673~686〕につながる皇族の墳墓の一つとも考えられる」という (以上〈歴史地名大系〉)。
〈橿原/菖蒲池1〉によると、「2010年に行った発掘調査によって一辺約30m、二段築盛の方墳であることが明らかになり」、 石棺「2基は同じ形状をもつことから、同一の工人によって作られたと考えられ」、「築造当初からふたつの棺を並べて安置する計画があったものと推察」されるという。 当初から合葬墓として計画されたとする根拠は、間口が狭く奥行きが深い玄室の形態にあるようである。 伝統を引き継ぎ高度化した家形石棺と、新スタイルの夾紵棺を止揚した作品であることが興味深い。 《阿武山古墳》 阿武山古墳には、夾紵棺が納められていた。 阿武山を含む安威の地域は、歴史的に由緒がある。 〈安閑〉元年閏十二月の三島郡の屯倉の場所は安威村と見られる。 〈継体〉藍御陵の真陵と言われる今城塚古墳があり、 新池遺跡は埴輪製作所で、また新羅土器の発見地でもあった(〈欽明〉二十三年)。 舎利容器が出土した太田廃寺もある。 さて、阿武山古墳について、〈高槻市阿武山1〉によれば、 「漆で麻布を何枚も貼り固めた夾紵棺(きょうちょかん)が安置」され、 「棺内には、銀線で青と緑のガラス玉をつづった玉枕(たままくら)を用い、きらびやかな錦をまとった60才ほどの男性」が被葬者で、 「X線写真などの分析から、男性は亡くなる数ヵ月前に肋骨などを折る事故に遭っていたことや、金糸で刺繍した冠帽(かんぼう)」が副葬されていたことが判明した。
〈多武峯略記〉を確認すると、多武峰 一方、肋骨などを折る事故については、 〈天智天皇紀〉八年〔669〕五月に「縦猟二於山科野一。大皇弟、藤原内大臣及群臣皆悉従焉。」、 八年秋「霹二-靂於藤原内大臣家一」、「冬十月丙午朔乙卯〔十日〕。天皇幸藤原内大臣家。親問所患」、 「庚申〔十五日〕。天皇…授二大織冠一与二大臣位一。仍賜レ姓為二藤原氏一。自此以後。通曰二藤原内大臣一。」、「辛酉〔十六日〕。藤原内大臣薨」 〔八年五月山科野で猟に随行。秋私邸に落雷。十月十日、天皇が見舞う。十五日藤原氏を賜る。通称藤原内大臣。十六日薨〕とある。 記録はこれだけだから「狩りで落馬・ろっ骨骨折」説は、遺体のX線撮影で得られた知見から推定したものである。 やや深入りしたが、鎌足の落馬記事が一次資料にないことは押さえておく必要がある。 〈高槻市阿武山2〉は、鎌足説を補強する材料として、発見された「金糸から復元された冠帽の立派さ」を挙げると同時に、 「古墳から出土した土器は、七世紀の中ごろのもの」ことだから時期に合わないという。ただし、生前に大切にしていたものを副葬することはあり得よう。 〈ブリタニカ小項目〉は、「構造形式が百済古墳に似ていること、大化改新の墓制に決められた規格に合っている」と述べる。 この記述の検証は別の機会に行いたい。 《夾紵棺の年代》 〈世界大百科〉は「漆工芸」の項で「漆棺の製作年代は620年ころから680年ころまでとされる」という。 「620年」は、叡福寺太子廟の夾紵棺を太子の棺と見做したからだと思われる。 堅塩姫〔丸山古墳か;〈推古〉二十年〕の家形石棺の612年から、太子の「夾紵棺」の621年への変化は突然すぎる印象を受ける。 牽牛子塚古墳・菖蒲池古墳・阿武山古墳は660年以後と見られる。 蘇我馬子の墓とも言われる石舞台古墳のサイズは、玄室が奥行7.7ⅿ、間口3.5ⅿ、高さ4.7ⅿで、羨道を含た石室は全長19.4ⅿである。 それに対して「太子廟」は、羨道長が7.27m、玄室の高さ幅各3.03m、奥行き5.45mである。 石舞台古墳の被葬者が馬子だとした場合、太子廟にはそれより狭い玄室に三体が詰め込まれていることになり、どうも解せない。 本来皇族レベルの一人用の玄室に、いかにも後から詰め込んだ印象を受ける。 菖蒲池古墳や葉室山古墳(第243回)も合葬であるが、 これらは最初から二棺を予定して石槨が仕切られている。ところが、叡福寺北古墳の場合はそれほど広くない一室に並べられるから、予定外の棺を後から納めたように見える。 とは言え、叡福寺北古墳が古い時代から太子廟として伝わる事実は重視すべきであろう。 前述のように、叡福寺を鎌倉時代創建とする説や、平安中期には太子墓の所在不明との記録もある。 しかし、書紀の時代に既に太子は仏教の聖人と規定され、仏教諸寺院の創建は飛鳥時代から平安時代まで途絶えることなく続くわけだから、 太子の存在が忘れられた時代など存在しないと思われる。だから、太子墓の所在地が広くは知られていなかったおとしても、墓の周辺には伝承が続いていたと見るのが自然であろう。 鎌倉時代になって何の伝承もない土地に突然寺院を建て、そこが太子の墓だと唱え始めても受け入れられるものではないだろう。 よって、「太子廟」の夾紵棺はやはり太子のものと見た方がよい。だが、だとすれば夾紵棺の年代や、玄室の狭さが問題になる。 これについては、叡福寺北古墳へは7世紀後半に改葬されたと考えれば合理的に解決することができる。
また、夾紵棺は一般的な「660年以後」という時期に合致する。 最早大きな墓は作れないが、そのエネルギーを美の粋を凝らした棺に注力したわけである。 さらに、新たに置いた棺が夾紵棺であるのに対し、最初の被葬者の棺が石棺であったとすれば、これも年月の隔たりを示すと考えられる。 《「奥棺も夾紵棺」説》 この問題について〈猪熊兼勝〉は、「磯長墓は聖徳太子の墓には間違いはないと考える。しかし、記録に基づく石室内容は、太子逝去年より半世紀ほど後世の室礼である」、 「聖徳太子は斑鳩の地で殯を行い、河内飛鳥の磯長谷に埋葬された後、…七世紀後半…再び改修と改葬が行われた姿と理解している」と述べる。 専門家が年代差を認めたことには、励まされる。 ただし、太子の最初の墓は推古天皇と同じ飛鳥、あるいは斑鳩だと考えた方が自然と感じられる。 磯長谷を王族の集約的な埋葬地で、推古天皇陵も飛鳥から移されたから、太子の場合も同様に考えてよいだろう 〔書紀が「是の月に磯長谷に葬った」と書く点は、取り敢えず留保する〕。 また奥棺について〈実検記〉は「其平面ノ正中ヲ手水鉢ノ如ク深六寸許ニ彫り左右漸ク深クシテ八寸余アリ左右の横方に水抜ノ如ク孔ヲヱリタリ其子細詳ナラス〔〟〕」と述べる。 この文章のみから実際の姿を読み取るのは難しいが、例えば右図のような姿が想像される。 〈猪熊兼勝〉は、「奥壁に沿う棺台を石棺身と理解することが多いが、…手洗い鉢へ加工前は、上面が平坦な棺台だったのだろう」、そして 「採集した夾紵片は棺の用材で、三棺用だろう」と述べ、奥棺も夾紵棺だと見ている。
〈猪熊兼勝〉説の通りだとすれば、三体が同時に改葬されたことになる。ただその場合、奥棺だけ高さが低いのが謎である。 そして、格狭間が埋葬時ではなく後世の、例えば仏教儀式の場として手洗い鉢を設置した時点で彫刻されたものだとすれば、三体の埋葬は同時でなくてもよいことになる。 その「聖徳太子廟窟絵記文」の図には、井戸と鏡が描かれている〔〈実検記〉の時点では取り除かれていた〕。玄室内に井戸を設けることなど考えられないから、 鏡、狛犬とともに後世に設置したものであろう。手洗い鉢の部分もその時に作られ、釈迦生誕像を立てて灌仏会 もし三体同時に改葬されたのなら、狭い玄室に詰め込まれた事情を考えなければならない。 《大石》 さて、叡福寺北古墳は岩屋山古墳に類似すると言われる。 岩屋山古墳はウイリアム・ゴーランド※によって実測図が作られ、 「岩屋山石室の提唱者・白川太一郎氏によって岩屋山古墳は七世紀第3四半期〔651年~675年〕説が強調されていて、叡福寺の古墳を聖徳太子墓とした場合、改修を考慮されている」、 「梅原はこの図に触発され、岩屋山古墳を参考に太子墓を復元した」(〈猪熊兼勝〉)という。 ※ウイリアム・ゴーランド〔1842~1922〕…造幣寮技師として英国より明治政府に招かれた。その一方で各地の古墳を学術的に調査して、日本の古墳研究の先駆者と言われる。
《三体合葬》 被葬者については伝統的に、奥棺を太子の母である穴太部 《夾紵棺の年代》の項で、叡福寺北古墳はもともと太子崩の前年に薨じた間人皇女一人が、石棺に納められて葬られたと見た。 そして、660年以後に他の墓に埋葬されていた太子と妃を改葬してもともとあった間人皇女墓に合葬し、その際高級な夾紵棺を新たに作ったと見た。 しかし〈猪熊兼勝〉は、叡福寺北古墳は六世紀後半のもので、三体すべてが夾紵棺に納められて叡福寺北古墳に改葬されたと述べる。 その場合、最初から墓はこの場所にあり、それが改装され棺も作り直された。または他の場所に葬られていた遺体をこの場所に移して新たに円墳を築いた。 この二通りが考えられる。しかし、このどちらにしても三体同時に改葬されたなら、奥棺の台石だけ低いのは何故だろうか。 やはり、改めて学術的調査がなされることを望みたい。石室の石組の技術水準によって、築陵の時期は相当絞られるであろう。 格狭間の様式や、正面棺の加工を見れば、石が彫られた時期も推定できるであろう。それらによって、太子が薨じてから埋葬されるまでの経過もある程度推定できよう。 仮に、学術調査の結果太子墓ではないという結論が出てしまったとしても、それはそれで一つの進歩ではないだろうか。 《真の被葬者》 墓誌がなければ、被葬者を特定することはできない。しかし、 夾紵棺が用いられたことから見て、被葬者は少なくとも7世紀後半に納棺され、相当尊い地位にあった人物であったと見てよいであろう。 また、〈伝暦〉の記述を見ると、平安に入る以前の段階で叡福寺北古墳が太子と妃の合葬墓と認識されていた可能性が高いと思われる。 太子が薨じてから、仏教の発展に伴って太子の聖人化は絶え間なく進んでおり、 太子が忘れ去られる時期などはなかったと考えるのが自然である。ならば太子墓の位置の記憶も、埋葬時から途絶えることなく継承されたのではないかと思うのである。 仮に叡福寺北古墳が太子墓だとすれば、改葬された墓であることは明らかで、その改葬自体が宗教行為としての何らかの意味をもっていたのは間違いないであろう。 まとめ 書紀における太子は、摂政としての現実政治を推進し、また勝鬘経・法華経〔おそらく維摩経も〕を説く仏教界の聖人という二重性をもって描かれている。 その政治的行為として特筆されるのは、冠位十二階の制定である。実際に人物名が「大礼」「大徳」などを添えて表記されるから、史実であろう。 十七条憲法には後世の加筆があると思われるが、〈推古朝〉の段階でも、ひたすら官僚が一体の組織となって働くことを望んでいたと考えてよい。 政府機関は諸族の代表者による利害調整機関から脱して、単一体として国家を運営する組織であれという。 十七条憲法は出身氏族の壁を取り除く心得の指南で、冠位十二階は単一組織内における格付けである。 朝廷に出勤した官が門を通る際の作法の定式化も、その中に位置づけられる。 この官僚の統一体を確立する努力はその後も続き、大化の改新から大宝令・養老令に発展する。 ただし、政治面で権力を握ったのが実は蘇我馬子大臣であったことは、堅塩媛の改葬などの場面で隠すことなく描かれている。 ならば、太子が行ったと描かれる政策も実際には馬子の業績なのであろうか。 しかし、冠位十二階制定などの政策は、太子・推古・馬子の合議による政府の営みと見るべきだろう。 これは国家の根幹をなす支配体制の確立であり、政府の構成員の個々の利害を超えている。 その決定事項は、形式として必ず天皇〔当時はオホキミ〕の勅として発せられた。 その意味で、現実政治の営みにおいて太子は決して蚊帳の外ではない。 しかし、皇太子・摂政といういわば天皇と同等とも言える立場を子孫に引き継ぐことは叶わなかった。 書紀は歴史の結果に合わせて、太子の子孫の系図をばっさり削除したのだろう。 関連する部分を含めて書き直され、その結果〈推古〉・〈舒明〉巻の初稿はα群であったが、β群になったと見る。 仏教の面では、太子の巨大な業績は疑いのないところである。 太子が仏教国家としての国の再生にあたって、仏教の古典的教義の真髄を自分の頭脳で理解しようとしたのは明らかである〔資料[52]参照〕。 仏教化が高句麗や隋から招いた僧、また隋に派遣した留学僧の力によることは間違いないが、その枠組みは太子が作ったと見てよい。 太子が即位することなく早逝し、子孫も皇位につくことを妨げられた現実を見て、当時の人々の中にそれに同情する気持ちは間違いなくあったであろう。 〈天寿国繍帳〉で太子に「崩」が使われ、〈三尊光背銘〉で「法皇」と表現するのはその表れかも知れない。 その感情が、太子をせめて仏教界において、不世出の聖人として讃えようとする気持ちを高めたと考えてみたらどうであろうか。 太子は、政治的存在としては天皇を継承できなかった敗北者として、いったんは小さな墓に納められたのかも知れない。 しかし、その後になって業績を再評価する心ある人々の声により、当時としては精いっぱいの規模の墳墓を築き〔または穴太部間人皇女墓を改造して〕、夾紵棺に納めて改めて葬儀をしたと考えることもできよう。 |
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⇒ [22-11] 推古天皇6 |