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2022.02.11(fri) [22-09] 推古天皇9 

19目次 【二十ニ年~二十五年】
《遣犬上君御田鍬矢田部造於大唐》
廿二年夏五月五日。
藥獵也。
六月丁卯朔己卯。
遣犬上君御田鍬
矢田部造【闕名】於大唐。
秋八月。
大臣臥病。
爲大臣而男女幷一千人出家。
御田鍬…〈岩崎本〔以下岩〕犬-カン--スキ[切]--[ヲ]モラ[セリ]大-唐〔ロコシ〕[句]。 〈甲本〉スキ
為大臣…〈岩〉大臣
出家…〈岩〉一-千人チタリ[切]イヘテス[ス]
二十二年(はたとせあまりふたとせ)夏五月(さつき)五日(いか)。
薬猟(くすりがり)す[也]。
六月(みなづき)丁卯(ひのとう)を朔(つきたち)として己卯(つちのとう)〔十三日〕
[遣]犬上君(いぬかみのきみ)御田鍬(みたすき)
矢田部造(やたべのみやつこ)【名を闕(か)く】を[於]大唐(だいたう)につかはす。
秋八月(はつき)。
大臣(おほまへつきみ)病(やまひ)に臥(ふ)す。
大臣の為(ため)として[而]男女(なむによ)并(あは)せて一千人(ちたり)出家(いへで)す。
廿三年秋九月。
犬上君御田鍬
矢田部造、至自大唐。
百濟使、則從犬上君而來朝。
十一月己丑朔庚寅。
饗百濟客。
癸卯。
高麗僧慧慈歸于國。
来朝…〈岩〉来朝マウケリ
…〈岩〉アヘタ〔マフ〕
高麗僧慧慈…〈推古〉三年五月に帰化し、厩戸皇子が師事した。
慧慈…〈岩〉-慈/マカリカヘルカヘリマカル于國〔三年五月条では慧慈に声点をつけていない〕
二十三年(はたとせあまりみとせ)秋九月(ながつき)。
犬上君(いぬかみのきみ)御田鍬(みたすき)
矢田部造(やたべのみやつこ)、大唐(だいたう)自(ゆ)至(まゐき)たる。
百済(くたら)の使(つかひ)、則(すなは)ち犬上の君に従(したが)ひて[而]来(まゐき)たりて朝(みかどにをろが)む。
十一月(しもつき)己丑(つちのとうし)を朔(つきたち)として庚寅(かのえとら)〔十一日〕
百済(くたら)の客(まらびと)に饗(みあへ)したまふ。
癸卯(みづのとう)〔十五日〕
高麗(こま)の僧(ほふし)慧慈(ゑじ)[于]国(もとつくに)に帰(まかりかへ)る。
廿四年春正月。
桃李實之。
三月。
掖玖人三口歸化。
夏五月。
夜勾人七口來之。
秋七月。
亦掖玖人廿口來之。
先後幷卅人、皆安置於朴井、
未及還皆死焉。
秋七月。
新羅遣奈末竹世士貢佛像。
…[名] 〈倭名類聚抄〉桃子【和名毛々】
もも…[名] 実の中の核を薬用に供した。
…[名] 〈倭名類聚抄〉李子【和名須毛々】
…〈岩〉-ミナレ
掖玖人…〈岩〉-ヒト三-タリ歸化 マウオモムケリ[リ][句]
来之…〈岩〉タリタヘ[切] ムク[リ][句]
安置…〈岩〉-置ハヘラシム[シム]-井エノヰ[句]
…[名] ①エノキ。②[日本語]ホオノキ。[形] かざりけのないさま。(古訓) すなをなり。ほほのき。
…〈岩〉マカリカヘル[ニ][切]ミウセス[句] 〔いまだまかりかへるにおよばず…〕
奈末…〈岩〉-世-士[ノ][ヲ]
奈末竹世士…(十八年七月)。
二十四年(はたとせあまりよとせ)春正月(むつき)。
桃(もも)李(すもも)実之(みなる)。
三月(やよひ)。
掖玖(やく)の人三口(みたり)帰化(まゐきたる)。
夏五月(さつき)。
夜勾(やく)の人七口(ななたり)来之(まゐきたる)。
秋七月(ふみづき)。
亦(また)掖玖の人二十口(はたたり)来之(まゐきたる)。
先後(さきのち)并(あは)せて三十人(みそたり)、皆[於]朴井(えのゐ)に安けく置きて、
未(いまだ)還(かへる)に及ばず皆死(しに)せり[焉]。
秋七月(ふみづき)。
新羅(しらき)奈末(なま)竹世士(ちくせいし)を遣(ま)だし仏(ほとけ)の像(みかた)を貢(たてまつ)らしむ。
廿五年夏六月。
出雲國言。
於神戸郡有瓜、大如缶。
是歲、五穀登之。
神戸郡…〈倭名類聚抄〉{出雲国・神門【加無止】郡}。
…〈岩〉ウリ[句]大如モタシ/ホト[句] (古訓) ほとき。またし。
ほとぎ…[名] 『日本国語大辞典』:(古くは「ほとき」)①素焼きのうつわ。かめなど。特に、昔、湯水などを入れた腹が太く口の小さい瓦器。 ②特に、中古、湯殿で産湯に用いたかめ。紫式部日記「御湯まゐる…大木工馬くみわたして、御ほとき十六に余れば、いる」
五穀…〈岩〉[ノ]タナツモノ[切]ミナレ ノ  [リ]
二十五年(はたとせあまりいつとせ)夏六月(みなづき)。
出雲国(いづものくに)言(まを)す、
「[於]神戸(かむと)の郡(こほり)に瓜(うり)有り、大(おほきなること)缶(ほとき)の如し。」
是の歳、五穀(いつくさのたなつもの)[之]登(みの)れり。
《犬上君》
 犬上君の祖とされる稲依別王は、父は倭建命やまとたけるのみこと、母は垂仁の女の布多遅能伊理毘売ふたぢのいりひめの命(両道入姫皇女ふたちいりひめのみこ)とされる (倭建命11)。 〈姓氏家系大辞典〉は犬上郡の多賀大社を、犬上君家の氏神だと推定する。
 御田鍬は、〈舒明〉二年にも「犬上君三田耜〔=御田鍬〕」らを大唐に遣わすとある。
《矢田部造》
 〈仁徳段〉で、矢田部造物部の伴造であったと見た(第170回)。
《みなる》
 〈岩崎本〉の訓ミナルは「実成る」であろう。 ただ、ミノルも上代から存在する語で〈類聚名義抄〉でも「」の訓みにミノルがあるから、ここの「実之」をミノルと訓んでも問題ないだろう。 〈時代別上代〉は「ノルはルの意であろう」というが、 ミナルの音韻変化ではないだろうか。「ワガオホキミ―ワゴオホキミ」などA⇒Oの転は多い。
 さて、モモスモモの収穫時期は、太陰暦でも5~6月と思われるので、「正月」は異常な現象を述べたのであろう。 特殊なことだから敢えてミナルとしたとも考え得るが、「五穀登之」もミナレリと訓むので、この考えは当たらない。
《掖玖》
〈岩崎本〉「掖玖人三口」の下の脚注
掖玖者西海別
嶋也出美貝今
俗謂之夜勾貝
但此島与大隅
国相近耳或
本為夜勾同也
 掖玖屋久島である。〈天武〉十一年では、種子島屋久島奄美大島の人をそれぞれ「多禰人掖玖人阿麻彌人」と記す。
 「掖玖三人・夜勾七人・掖玖二十人」の「」が「三十人」だから、「掖玖」=「夜勾」は明らかである。表記の不統一は原資料を直さずに入れたためと思われる。
 〈岩崎本〉の校訂者はこの不一致を気にしたようで、次の脚注が書き込まれている。
――「掖玖者西海別嶋也。出美貝。今俗謂之夜勾貝。但此島與大隅国相近耳。或本爲夜勾同也〔掖玖は西の海に別れし嶋なり。美(うまし)貝を出で、今俗(くにひと)は夜勾貝と謂ふ。但この島と大隅国とは相近かるのみ。ある本は夜勾とし、同じきなり〕。 〈釈紀〉も同じ文を載せるが、「或本…」以下が先頭にきて「私記曰。或本爲夜勾同也。掖玖者…」となっている。
《朴井》
 〈姓氏家系大辞典〉〔1934~1936〕は、榎井の項で「物部朴井連」と「榎井連」を挙げ、「榎井 エノヰ:又朴井ともあり。大和国高市郡朴井邑より起る」と述べるが、その出典は乗っていない。 さらに調べると『大日本地名辞書』〔1900~1907〕上巻大和国高市郡に「桜井:又〔あんずる〕朴井エノヰと榎葉井は一所にて桜井に同じかるべし、推古紀、二十四年、掖玖人帰化…」とある。 しかし、この文からはなぜ朴井が桜井と同じところなのかが分からない。
 それとは別に、〈五畿内志〉和泉国泉南郡に「山川井池【在西内村広五百畝】」とあり、「西内村」については「村里:西内」とある。 この池は、現在の「岸和田市西之内町」の「栄之池」と見られる。
 同町の隣の岸和田市小松里町に「栄之池えいのいけ遺跡」がある。『日本歴史地名大系』によると、 遺構は掘立柱建物跡15、方形周溝墓2など(大半が弥生時代と平安時代)。古墳時代以降の遺物は須恵器、土師器、埴輪など(「栄の池遺跡」岸和田遺跡調査会・1979年)。 掘立柱建物については飛鳥時代・奈良時代が空白で、また、周辺に関連すると思われる地名が全くないので、「朴井」を栄之池周辺とは決め難い。
 また、「香川県那珂郡榎井えなゐ〔現香川県仲多度郡琴平町榎井えないがある。 〈姓氏家系大辞典〉には「讃岐の榎井氏:讃岐国大内郡寛弘元年の戸籍に「榎井益戸自女」と云ふ者見ゆ」とある。 「物部朴井連」または「榎井連」の分流が、和泉国や讃岐国に移った可能性はある。だが本貫地が分からない。
 助数詞が「人」でなく「」であるのは、奴婢並みの扱いであったことを暗示する。おそらく痩せた土地に置かれたのだろう。 そして「」というから、生存の困難さから帰郷を望んだのだろう。しかしそれは果たされず、結局全員病死または餓死したと思われる。
 「桜井」説については「桜井道場」の設置などを見ると、桜井〔=豊浦〕は〈推古朝〉の頃は賑やかな市街地であっただろう。 掖玖人が餓死した可能性もあることを考えると、朴井=桜井説はなかなか考えにくい。
《二十四年七月》
 二十四年条には、七月が二回出てくる。こういうとき、普通は「同月」などと書く。どちらか一方を後から挿入し、そのまま直さなかったのかも知れない。 この未整理を見るとき、桃・李が実った「正月」も誤りか。掖玖夜勾の不統一も放置されている。二十四年条は、出典元の文が生のままで羅列されている。
《新羅貢仏像》
 新羅における仏教の開始は、法興王十五年〔528〕に「肇行仏法(〈三国史記〉新羅本紀)とあり、倭の仏教公伝と同時期である。 その振興のために皇龍寺が創建され、真興王二十七年〔566〕に「皇龍寺畢功」、九重塔については善德王十四年〔乙巳645〕に「創造皇龍寺塔」とある。 大雑把に言って、新羅の仏教化は、倭の仏教化と大体同時である。
 この年に新羅が仏像を送った意図は、百済・高麗が倭を仏教で潤している状況に、楔を打ち込もうとしたものかも知れない。
《大意》
 二十二年五月五日、 薬猟(くすりがり)しました。
 六月十三日、 犬上(いゆかみ)の君御田鍬(みたすき)と 矢田部造(やたべのみやつこ)【名前不明】を大唐〔隋〕に遣しました。
 八月、 大臣(おおまえつきみ)〔馬子〕は病に臥しました。 大臣のためとして、男女合わせて千人が出家しました。
 二十三年九月、 犬上君御田鍬と 矢田部造は大唐から帰国し、 百済使が、犬上君に連れられて来朝しました。
 十一月十一日、 百済の賓客に饗宴されました。
 十五日、 高麗僧慧慈(えじ)は帰国しました。
 二十四年正月、 桃と李(すもも)が実を結びました。
 三月、 掖玖(やく)人三人が渡来しました。
 五月、 夜勾〔掖玖〕人三人が渡来しました。
 七月、 また掖玖人二十人が渡来しました。
 前後併せて三十人は、皆朴井(えのい)に置き、 帰ることができずにいるうちに、全員死亡しました。
 七月、 新羅の奈末(なま)竹世士(ちくせいし)を遣わし、仏像を献上しました。
 二十五年六月、 出雲国から報告があり、 神戸(かみと)郡〔神門郡〕に大きな瓜が実り、大きさは缶(ほとぎ)ぐらいありました。
 この年は、五穀豊作でした。


20目次 【二十六年~二十八年】
《高麗遣使貢方物》
廿六年秋八月癸酉朔。
高麗遣使貢方物、因以言
「隋煬帝興卅萬衆攻我、
返之爲我所破。
故、貢獻俘虜貞公
普通二人
及鼓吹弩抛石之類十物
幷土物駱駝一匹。」
方物…〈岩〉クニツ_モノ[ヲ][句]
隋煬帝…〈岩〉[ノ]ヤウ-タイ[切]ヲコシ卅萬ミソ ヨロツ[ノ]イク〔サ〕[ヲ][テ]オノレ[ヲ][句]返之[テ][切] シメ[ヌ][句]
貢献…〈岩〉-獻タテマツル- トリコ[ノ] テイ-コウ-トウ二人[切] 及鼓-[切][切]イシハシキ 〔クヒ〕[切]十-物トクサ[切][テ]〔ニ〕-物[切]-駝一-匹[ヲ][句]。 〈図書寮本〔以下図〕圡物クニツモノ
…[名] 機械仕掛けの大弓。
抛石(ほうせき)…「抛車」は、石を発射する仕掛けのある車。
二十六年(はたとせあまりむとせ)秋八月(はつき)癸酉(みづのととり)の朔(つきたち)。
高麗(こまのくに)使(つかひ)を遣(まだ)して方物(くにつもの)を貢(たてまつ)らしめ、因(よ)りて以ちて言(まを)さく
「隋(ずい)の煬帝(やうたい)三十万(みそよろづ)の衆(いくさ)を興(おこ)して我(われ)を攻(せ)めて、
[之]返(かへ)りて我(わ)が為(ため)に所破(やぶらえ)り。
故(かれ)、[貢献]俘虜(とりこ)の貞公(ていこう)、
普通(ふとう)二人(ふたり)と、
[及]鼓(つづみ)、吹(ふえ)、弩(おほゆみ)、石抛(いしはじき)之(の)類(たぐひ)十物(とくさ)と、
并(あは)せて土物(くにつもの)、駱駝(らくだ)一匹(ひとつ)をたてまつる。」とまをす。
《隋煬帝》
〈岩〉「二十六年秋八月」の上の頭注
十三年隋煬
帝即位
廿六年煬帝
為宇文及等
所殺恭帝遜
位于唐高祖
 〈岩崎本〉二十六年のところに頭注が書き加えられている(右図)。
――「十三年〔605〕。隋煬帝即位。廿六年〔618〕。煬帝為宇文及等殺。恭帝〔楊侑〕-位于唐高祖
 「恭帝」は、王朝最後の帝の死後に奉る諡号しごう〔おくりな〕としてしばしば用いられている。
 隋から唐への政権の移行は、次の経過をたどる。
二代皇帝煬帝〔在位604/8/21※1~618/4/11※2宇文化及によって殺さる。
三代皇帝楊侑(恭帝侑)煬帝の孫〔在位617/12/18※2~618/6/12〕長安で李淵が傀儡として擁立⇒李淵(高祖)に帝位を禅譲〔在位618/6/18~626/9/4〕
四代皇帝楊侗(恭帝侗)煬帝の孫〔在位618/6/22~619/5/23〕洛陽を守り擁立⇒619/6月に殺される。⇒王世充(鄭王朝)〔619~621〕。王世充は最後は唐に降伏。流刑地に赴く途中で殺さる。
※1…日付はすべてユリウス暦。※2…在位の重なりは、李淵が楊侑を一方的に即位させ、煬帝を太上帝と称したことによる。
 つまり、宇文化及らが煬帝を殺害(1)した後、李淵は次代皇帝として楊侑を擁立した。楊侑(恭帝侑)は李淵(唐高祖)に帝位を禅譲(2)して唐王朝が創始された。 反唐勢力は隋皇帝として楊侗を立て、ほどなく王世充に禅譲して鄭王朝が創始されたが、唐の李淵に攻められ敗北した。
 二十六年条頭注には、下線(1)(2)のことが書かれている。
 つまり、王朝が交代するにあたって、まず前王朝の帝を自分の意になる人物Aに交代させ、Aから禅譲を受ける形式をとったわけである。 王世充も最後は敗北したが、同じ手続きを踏んでいる。 Aを「恭帝」、Aからの譲位を「遜位」と称するのは、つつしみ深い前帝がへりくだって帝位を奉るという意味と思われる。
 これは、ひとえに覇王〔徳によらず武力で権力を握った王〕の印象を薄めるためであろう。 新政権はまず官僚、諸侯、人民の心を幅広く掌握しなければ立ち行かない。 特に、国を実際に動かす官僚の頭脳は前政権を正統とする秩序に染まっているので、その継承の整合性を論理的に示さなければならないのである。
《隋煬帝興三十万衆攻我》
 煬帝は612年から614年の間に、三次にわたる高句麗遠征を行った。 『三国史記』高句麗本紀の関係個所から、一部抜き出す。
『三国史記』〔1145成立〕高句麗本紀―嬰陽王:庚戌〔590〕即位
二十二年〔611〕春二月。煬帝下詔。討高句麗。
二十三年〔612〕春正月壬午,帝下詔曰:「高句麗小醜,迷昏不恭…」 …秋七月。至薩水。軍半済。我軍自後擊其後軍… 初。九軍到度遼。凡三十万五千。及還至遼東城。唯二千七百人。資儲器械巨万計。失亡蕩尽。 帝大怒。鎖繋述等。癸卯引還。
〔…七月(朔:戊寅)隋軍が薩水(清川江とされる)に至り、半ば渡ったところで高句麗軍が後ろから攻めた。…初め隋の九軍が到着して遼東半島に渡ったときは30万5千、遼東城に戻ったのはたった2700。資材の大部分を失った。… 煬帝は激怒し、大将軍宇文述らを鎖に繋ぐ。癸卯(二十六日)に撤退〕
二十四年〔613〕春正月。帝詔徴天下兵…
二十五年〔614〕春二月。帝詔百寮。議伐高句麗…
 併せて、隋側の記録を見る。
『隋書』
煬帝〔巻四〕
〔大業〕八年〔612〕 正月辛巳〔=朔日〕。大軍集于涿郡…。 壬午〔二日〕。下詔曰「…高麗小醜,迷昏不恭…称朕意焉。」総一百一十三万三千八百。号二百万。其餽運者倍之。癸未〔三日〕。第一軍発…。
七月壬寅〔二十五日〕。宇文述等敗績於薩水。右屯衛将軍辛世雄死之。九軍並陥。将帥奔還亡者二千餘騎。
『隋書』
東夷〔巻八十一〕:高麗
〔大業〕九年〔613〕 帝復親征之。乃勅諸軍以便宜従事。諸将分道攻城。賊勢日蹙。会楊玄感作乱。反書至。帝大懼。即日六軍並還。
〔大業〕十年〔614〕 …高麗亦困弊。遣使乞降。囚送斛斯政以贖罪。帝許之。頓於懷遠鎮。受其降款。
 612年の戦争では、薩水における乙支文徳の巧みな作戦によって隋軍に壊滅的な打撃を与えている。 「zh.wikipedia.org」(中国語版ウィキペディア)によると、「下令在清川江的上游修築堤壩蓄水。当隋朝軍隊到達清川江時、江水很浅。〔清川江(薩水)上流に堤防を築かせて水を蓄え、隋の軍隊が清川江に到達したときに水位はごく浅かった〕。 そして乙支文徳は偽りの投降をして、「七月二十四日,正当隋朝軍隊撤退過江之時、乙支文徳下令開閘放水。数千隋朝軍隊被淹死。〔まさに隋軍が撤退して清川江を通過する時に、水門を開いて放水し、数千の隋軍が水死した〕という。
 613年には、楊玄感ようげんかんの反乱の報を聞き、高句麗攻めの軍を反転させた。 乱は一応鎮圧されて楊玄感は自殺したが、このときから隋末の反乱期に入ったといわれる。
 「zh.wikipedia.org」は、「隋対高句麗的連年戦争使経済受創、国力鋭減、煬帝民心尽失。〔隋の対高句麗の連年の戦争は経済を傷つけ、国力は著しく衰退し、煬帝は民心を尽く失った〕と述べる。
《高句麗からの方物》
 二十六年八月条の「三十万衆攻我返之為我所破」は、三国史記の「三十万五千」を破ったという記載に合う。 高句麗は、長年隋煬帝による攻撃に悩まされてきたが、遂に隋朝が倒されたことを隋王朝が潰えたことを慶賀し、内祝いの方物を倭だけでなく周辺の各国に届けたと思われる。
 煬帝が殺されたのは〈推古二十六年〉四月にあたり、使者が訪れたのが本当に同年の八月だったとすれば、間髪入れずに使者を出したわけで、 煬帝の死を知り跳びあがって喜んだ様子が目に浮かぶ。
 この時期から考えて、次項で述べる国号「」の使用も併せて、〈推古〉二十六年八月条は史実と噛み合うといってよいだろう。
《隋》
 〈推古〉二十六年までは中国の国号が「」であったことを、実際の執筆陣は完全に理解していたと思われる。 【十五年七月~十六年六月】《大唐》の項で、実際には隋使であることは分かっていたが、政治的配慮により中国への美称として隋の時期も含めて大唐を用いたと考えた。
 ところが、ここの「」には手つかずである。 上層部は裴世清の箇所では「大唐に直すべし」と指示したが、専門家ではないから細かいところまで読み切れず、たとえば「随」を「したがふ」だと思って通過させたのかも知れない。 は互いに異体字として、唐初までは比較的緩く通用し、〈岩崎本〉の「」も当時は必ずしも誤りではなかったようである。 …「唐初における国号〈隋〉字の変化:〈煬帝墓誌〉の発見によせて〔アジア文化研究所研究年報49号pp42-19;高橋継男〕
《是年令造舶》
是年。
遣河邊臣【闕名】於安藝國
令造舶。
至山覓舶材、
便得好材、以將伐。
時有人曰
「霹靂木也、不可伐。」
河邊臣曰
「其雖雷神、豈逆皇命耶。」
多祭幣帛、遣人夫令伐。
…〈倭名類聚抄〉舶【都具能布禰〔つぐのふね〕】。 〈岩〉ツミツム■ク。 〈図〉ツムマク
便…〈岩〉便[ニ]〔アフサワニが考えられる〕
あふさわに…[副] 簡単に。
将伐…〈岩〉[ス][句]〔きらむとす〕
霹靂…〈岩〉-カムトキ[ノ][ナリ]ナリ[句]
かむとけ…[名] 落雷。〈時代別上代〉カムトケは、落雷であり、雷によって木や岩の裂けることを意味し、単なる雷鳴とは意味も異なっていよう。
雷神…〈岩〉〔カツチ〕[ナリ] ナリト[切]サカハレヤ[シム]キミ[ノ]ミコトミコト[ニ]ヤト云テ[トイフ][テ]
祭幣帛…〈岩〉イハヒマツイハヒマツ幣-帛テクラ[ヲ][テ]-[ヲ][テ][句]。 〈図〉人-夫オホムタカラ[ヲ][テ]
是の年。
河辺(かはべ)の臣(おみ)【名を闕(か)く】[於]安芸国(あきのくに)に遣(つか)はして
舶(つむ、おほぶね)を造ら令(し)む。
山に至りて舶の材(き)を覓(ま)げば、
便(あふさわに)好(よ)き材(き)を得て、以ちて[将]伐(き)らむとす。
時にひと有りて曰(まを)さく
「霹靂(かむとけ)の木也(なり)、伐(き)る不可(べからず)。」とまをして、
河辺の臣曰はく
「其(それ)[雖]雷神(なるかみ)なれど、豈(あに)皇(すめら)の命(おほせごと)に逆(さか)ふらむ耶(や)。」といひて、
多(さはに)幣帛(みてくら)を祭(いはひまつ)りて、人夫(よほろ)を遣(や)りて伐(き)ら令(し)めき。
則大雨雷電之。
爰、河邊臣案劒曰
「雷神無犯人夫、當傷我身」
而仰待之、
雖十餘霹靂不得犯河邊臣。
卽化少魚、以挾樹枝。
卽取魚焚之。遂脩理其舶。
大雨雷電…〈岩〉-ヒチサメフリ[テ]イカツチナリ-イナヒカリス イナツルミ [ス][句]。 〈図〉大雨ヒチサメフリ
大雨…〈倭名類聚抄〉霈:霈大雨也。日本私記云火雨【和名比左女】〔ひさめ〕
いなびかり…[名] 〈時代別上代〉別訓イナツルビのツルビはツルムことで稲の成長と関係づけた古代信仰による命名かという。
…[名] いなびかり。
案剣…〈岩〉トリシハリ ツルキタチツルキノタカミツルキヲトリシハリ[テ]
とりしばる…[他]ラ四 固く握りしめる。
…[名] 机。[動] かんがえる。上から下向きに押さえる。(古訓) かむかふ。みる。
無犯人夫…〈岩〉(右図)ナヲカシソ マナ [コト][ト]-オホムタカラ[ヲ][句][ニ]ヤフレト云[シム][ト][カ][ヲ] 〔人夫ヲ犯スコトマナ。/~ナヲカシソ。我ガ身ヲヤブレト云〕。 〈図〉無犯 ナ オカシソ
まな…[副] 〈時代別上代〉~スルコトマナの形で述語動詞をうけて、決して~するな、という禁止・制止の意を表す。
なをかしそ…[副] 「ナ+犯スの連用形+ソ」の形で禁止を表す。
十余…〈岩〉トヨリ-カムトキ[ト][切]。 〈図〉十-餘トヨリ 霹靂カムトキスト
少魚…〈岩〉ナリチヒサキ イヲ[ニ][テ]ハサマレ[リ][ノ]マタ[ニ][句]。 〈図〉 ナリ チヒサイ イヲ[ニ][テ]
取魚…〈岩〉[ヲ][テ]焚之ヤク[句][ニ]- ツクリツツミ ム[ヲ]
則(すなはち)大雨(はなはだしきあめ、ひさめ)ふりて[之]雷(いかづち)なり電(いなびかり)す。
爰(ここに)、河辺の臣剣(つるぎ)を案(おさ)へて曰(い)はく
「雷神(なるかみ)人夫(よほろ)を無犯(なをかしそ)。当(まさに)我が身を傷(やぶ)るべし」といひて、
[而]仰(あふ)ぎて[之を]待てり。
[雖]十(とより)余(あまり)霹靂(かむとけ)あれど、河辺の臣を犯(をか)し不得(えず)。
即(すなはち)少(ちひさ)き魚(いを)と化(な)りて、以ちて樹(き)の枝(え)に挟(はさま)れり。
即(すなはち)魚(いを)を取りて[之を]焚(や)きき。遂(つひ)に其の舶(つむ、おほぶね)を脩理(つく)りつ。
廿七年夏四月己亥朔壬寅。
近江國言、
於蒲生河有物、其形如人。
蒲生川…〈岩〉生河[ニ]。 〈倭名類聚抄〉{近江【知加津阿不三】国・蒲生【加万不】郡
二十七年(はたとせあまりななとせ)夏四月(うづき)己亥(つちのとゐ)を朔(つきたち)として壬寅(みづのえとら)〔四日〕。
近江(ちかつあふみ)の国言(まを)す。
「[於]蒲生(かまふ)河(かは)に物有り、其の形(かた)人の如し。」
秋七月。
攝津國有漁父、沈罟於堀江、
有物入罟、
其形如兒、非魚非人不知所名。
漁父…〈岩〉-アマオケリアミ[を]於堀-江[句]
…[名] あみ。
如児…〈岩〉ワカコ[句][モ]ニモニモ[ス][ヲ][ム]ケム
秋七月(ふみづき)。
攝津国(つのくに)に漁父(あま)有り、罟(あみ)を[於]堀江(ほりえ)に沈(しづ)めて、
物有りて罟に入(い)る。
其の形(かた)児(わかこ)の如し、魚(いを)にも非(あら)ず人にも非ず名(なづ)けむ所を不知(しらず)。
廿八年秋八月。
掖玖人二口、流來於伊豆嶋。
流来…〈岩〉タヘフタリ- ル[リ]レリ
伊豆嶋…伊豆大島であることは確実。
二十八年秋八月(はつき)。
掖玖の人二口、[於]伊豆(いづ)の嶋に流れ来たる。
冬十月。
以砂礫、葺檜隈陵上。
則域外積土成山。
仍毎氏科之、建大柱於土山上。
時、倭漢坂上直樹柱勝之太高。
故時人號之曰大柱直也。
砂礫…〈岩〉[ト]-サゝレイシ[ヲ][テ]シク檜-隈[ノ][ノ][ニ][句]-メクリメクリ[ニ]ツム[ヲ][テ][ヲ][句]。 〈図〉砂-礫サゝレシ
さざれいし…[名] 小石。サザレシとも。
…[動] ふく。「鵜葺草不合命(うかやふきあはずのみこと)」(第94回)。
めぐり…[名] 周囲。
…〈岩〉〔ホセ〕[テ][シム]。 〈図〉科之オホセ
樹柱…〈岩〉タテタル [タル][切]スクレ[テ]ハナハタ[句]
大柱直…〈岩〉オホ[ノ][ト][句]
冬十月(かむなづき)。
砂礫(さざれし、さざれいし)を以ちて、檜隈(ひのくま)の陵(みささき)の上(へ)に葺(ふ)く。
則(すなはち)、域外(めぐり)に土(つちくれ、つち)を積みて山を成せり。
仍(すなはち)氏(うじ)毎(ごと)に[之を]科(おほ)せて、大柱(おほはしら)を[於]土の山の上(へ)に建(た)たしめたまふ。
時に、倭漢(やまとのあや)の坂上(さかのへ)の直(あたひ)樹(た)てたる柱(はしら)、[之]勝(すぐれ)て太(はなはだ)高し。
故(かれ)時の人[之を]号(なづ)けて大柱(おほはしら)の直(あたひ)と曰ふ[也]。
十二月庚寅朔。
天有赤氣、
長一丈餘、形似雉尾。
赤気…〈岩〉[ニ]アカ シルシ[句]〔ナカ〕一丈餘[句]
一丈…1丈=10尺。唐代の1尺=0.23m(資料[36])。正倉院尺では1尺=0.30m(第116回)。 この「一丈」は印象を示すにすぎないので、実数としての意味はない。
雉尾…〈岩〉形似-ウスヲ[ニ][句]。 〈図〉 ウス
十二月(しはす)庚寅(かのえとら)の朔(つきたち)。
天(あめ)に赤気(せきき、あかきしるし)有り、
長さ一丈(ひとつゑ)余(あまり)、形(かたち)雉(きぎし)の尾(を)に似てあり。
是歲、
皇太子嶋大臣共議之、
錄天皇記及國記、
臣連伴造國造百八十部
幷公民等本記。
嶋大臣…〈岩〉馬子也
天皇記…〈岩〉シルス天-皇スメラミコト[ノ]フミ[切]クニ-フミ[切]ヲンオムノコ[切]ムラシ[切][ノ]-造[切][ノ]-造[切] 百-八 アマリ -十-トモノヲ[切][テ]-〔ホムタカ〕トモ[ノ] -フミ/モトフミ[ヲ]。 〈内閣文庫本〉百八十部モゝトモロヲアマリヤソトモロヲ
是の歳、
皇太子(ひつぎのみこ)嶋(しま)の大臣(おほまへつきみ)共に[之]議(はか)りて、
[録]天皇記(すめらみことのふみ)と[及]国記(くにつふみ)、
臣(おみ)、連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)、百八十部(ももとものをあまりやそとものを)と、
并(あは)せて公民(こうみむ、おほみたから)等(たち)の本記(もとつふみ)をしるしたまふ。
《人夫》
 令には、ヨホロの制度が定められている。遡って〈孝徳紀/大化二年〉には、大化の改新の項目の一つに 「凡仕丁者、改旧毎卅戸一人、而毎五十戸一人」とあり、大宝令に繋がる。 「人夫」は動員されて河辺臣の下で労務にあたった人たちだから、ヨホロが近いであろう。
 古訓オホミタカラは人民一般を指すので、適切とは言えない。
《舶》
 「(万)3869 大舶尓 小船引副 おほぶねに をぶねひきそへ」 を見れば、の訓はオホブネで十分である。〈倭名類聚抄〉のツグノフネは辞書にないから誤写かと思ったが、 〈類聚名義抄〉(佛下)にも「:ツクノフネ ツム 今方 オホフネ」がある。
 ツムについては、〈時代別上代〉での用例は書記古訓のみで、〈倭名類聚抄〉には載らないから、どの程度一般的だったか疑問が残る。 奈良時代には既に死語になっていたものを、古語から引っ張り出したのかも知れない。
 大舶の建造は、遣隋使を載せたり、半島との貿易の品を運ぶために重要性を増している。よって大舶を立派に造り上げる者は讃えられ、その中でこのような伝説も生まれるのであろう。
《大雨》
 古訓ヒサメは、〈倭名類聚抄〉がいうように書記古訓限定の語で、この言葉は少なくとも万葉にはない。 〈倭名類聚抄〉「日本私記云火雨【和名比左女】雨氷【同上】今按俗云【比布留】」は 「日本紀私記に火雨(ヒサメ)というが、ヒサメは氷雨である。今案ずるに、激しい雨のことを比喩して、俗に「火降る」と言ったことによるものか」 と読めるので、大雨=ヒサメには懐疑的だったらしい。 他の訓としては、(万)1370甚多毛 不零雨故 はなはだも ふらぬあめゆゑ」という言い回しがあるから、「大雨」の訓は「雨降ることはなはだし」などが適当か。
《化少魚》
 には「寸法が小さい」意味もあり、ここではその用法。〈岩崎本〉のチヒサキは妥当で、〈図書寮本〉のチヒサイはそのイ音便である。
 はもともとが分岐の意味で、わざわざマタと訓まなくても「木のに挟まる」で意は十分伝わり、かつ自然である。
 大雨により川は増水したが天候回復後に水位が下がり、魚が枝に挟まって取り残されていたのであろう。 これを敗北した雷神のなれの果ての姿だとする、面白い話になっている。
《非魚非人》
 〈釈紀〉「形如ワカコノ。非ニモニモ:兼名菀曰。人魚。一名■。魚身人面物也。〔■…『国史大系』版は"魚麦"〕
《流来於伊豆嶋》
 今回島を出た掖玖人は、本土には辿り着けずに、黒潮に乗って伊豆の島まで流された。 掖玖人については、二十五年の帰化以後警備が厳しくなって、例えば大隅国沿岸で上陸を拒まれたなどの可能性が考えられる。
 想像に過ぎないが、この頃掖玖国で内乱が起こり、敗北した一族が亡命を余儀なくされたなどの事態が考えられる。
《葺》
 の古訓シクは意訳で、標準の訓みがフクであったことは明らかである。
 それを実証する例としては、〈神武〉の父の名前、 日子波限建鵜葺草葺不合命〔書紀は、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊〕にある(第94回)。
 書紀上代巻はその命名譚に、「相通永無隔絶」の言葉を示す。 これが「葺草(かや)-葺(ふき)-不合(あはず)」のカヤフ・・・-キ-アハズの由来だとする 〔ただし「一書」では、産屋の茅ぶきが未完成という解釈を示す〕
 カヨフ=カヤフはこじつけのように見えるが、フは反復を表す動詞語尾で、四段動詞の未然形に接続する。 フを除いた動詞が「離(か)ゆ」で、これが反復すればその度に「来」が挟まるから、結局カヨフ意味となる。そして[a]⇒[o]の音韻変化は珍しくない。 命名譚の発案者は、このように考えて「カヨフはカヤ・フの音韻変化」と見たのであろう。 ならばの位置にがあるのだから、葺の訓:フキが確定する。
 よりストレートな例もある。 〈崇神段・紀〉に出てきたヒコクニフクノミコトは、記では丸邇臣之祖日子國夫玖(第114回)、 書紀では和珥臣遠祖彦祖国(崇神十年)と表記される。よって、葺=夫玖である。
 なお、現代語では「〔茅で〕屋根葺く」というが、当時は「〔茅を〕屋根葺く」と言ったようである。 (万)2292秋芽子之 花乎葺核 君之借廬 あきはぎの はなをふかさね きみがかりほに」、 (万)3691波都乎花 可里保尓布伎弖 はつをばな かりほにふきて〔初尾花(ススキの穂)仮庵(仮のいほり)に葺きて〕の例がある。
 よって、「葺檜隈陵上」は「檜隈ひのくまみささき」と訓むのが正統であろう。
《檜隈陵》
 二十年二月堅塩きたし媛を改葬した「檜隈大陵」と同じ陵であろう。 葺石で覆うのは、通常の古墳の化粧である。つまり、改葬後も八年をかけて陵の整形が続けられてきた。
 つまり、事実上堅塩媛のために新たに陵を築いたに等しい。これをもって、新しい時代の石棺が古い石棺を傍らに追いやって、玄室の主座の位置を占めたことを説明できないだろうか。 この問題については、〈欽明〉三十二年【檜隈坂合陵】)で見た。
 和田晴吾は、『三瀬丸山古墳と天皇陵』(季刊考古学別冊2;雄山閣1992)の中で、「奥壁や羨道の石積み」の新しさから「石室の大改築」が考えられ、後円部が「独立した円墳状を呈する」ことから墳丘の再構築があったと見られる。 そして「堅塩媛の改葬行為は、当時の権力の頂点にあった蘇我氏の政治的セレモニーであった感が強い」。このことから「形式的に古い棺が前にあり、新しい棺が奥にある位置関係の逆転」が理解できると述べる。 同論文は、石棺・石室の石積みのそれぞれにおいて、様式の年代的変化を実証的に示すデータに基づいており、論建ては厳密である。
《葺石》
 陵の葺石がはっきり述べられたのは、記紀全部の中でここが唯一である。現在では古墳の通常の仕上げであることが明らになっている。 他の例としては、「赤石に山陵を興し」、船で淡路島から石を運んだことが〈神功皇后紀〉に見え、 実際に五色塚古墳〔この「山陵」に比定〕の葺石に淡路島産の石が用いられたことが明らかになっている ((9)《赤石》)。
《域外積土成山》
丸山古墳の周囲の標高
見瀬丸山古墳
季刊考古学別冊2「三瀬丸山古墳と天皇陵」
〔雄山閣出版1992〕

 檜隈陵の「域外」に、土を積んで山を成したと述べる。 檜隈陵丸山古墳であるなら、周囲に山の痕跡があるかも知れない。そこで国土地理院の地図サイトの陰影図機能で見ると、古墳の東から南にかけて少し高まりがある。 これが人工物かどうかは分からないが、周濠跡から高い部分への標高差は4~8m程度あるようである(右図)。
 「」と言えるほどの高さではないが、せっかく葺石で見栄えをよくしたのに見えなくするとは考えにくいから、これでよいのかも知れない。 陵の三方をなだらかな丘で囲む作りは、来目皇子の墓に見られた(十一年二月)。 ここでは陵形こそ古い前方後円墳であるが、この時代のスタイルとも考えられる。
《土》
 ツチは、上代ではアメと対になる語で、大地場所などを意味する。地球の表面を覆う物質の意味でツチが使われるのは、平安以後のようである。 『古典基礎語辞典』〔大野晋;角川学芸出版2011〕には、「中古以降も、ツチはほとんど大地の意味で使われるが、 その大地を形成している細かな粉末状の岩石類の泥や土壌を表すこともある」とある。 ハニという語もあるが、これは陶器の材料としての土に限定される。物質としての土一般を表す上代語を強いて挙げるなら、ツチクレだったようである。
 とは言っても、盛り土によって「大地が上方に厚みを増す」のは確かだから、「ツチを積んで山を成す」という言い方も可能かも知れない。
《倭漢坂上直》
 倭漢やまとのあやの坂上さかのへのあたひについて、〈姓氏家系大辞典〉は 「東漢坂上直: 倭漢氏の宗家なりしが猶ほ中世に於ても、此の氏族中・最も栄えたり。後漢献帝の後裔と称す」、 「丹波氏系図には「阿智王―高貴王―志努直(本朝に於いて生れ、丹波国に住み、坂上を賜ひて住む)―駒子―弓東」と載せ…」などとある。
 同辞典は、(東漢)坂上直は、後の坂上大宿祢に繋がると見ている。
 〈欽明紀〉三十一年に「東漢坂直子麻呂」、 坂上直はその東漢坂上直と同一で、天武十一年に「倭漢直等、姓を賜ひて連と曰ふ」、この「」に坂上直も含まれ、坂上連になったと見られる。 次に〈天武〉十四年に「倭漢連云々、姓を賜ひて忌寸と曰ふ」、このときも坂上連坂上忌寸になったと見られる。 そして、〔続記〕天平宝字〔764〕八年九月に「坂上忌寸苅田麻呂坂上大忌寸」、 延暦四年〔785〕に「忌寸宿祢」、苅田麻呂のみ「大忌寸大宿祢」。 苅田麻呂の子が有名な坂上大宿祢田村麻呂
 延暦四年に東漢の忌寸たちが宿祢に上った記事は、資料[25]《坂上大宿祢》の項で取り上げた。 田村麻呂は大伴弟麻呂に次いで二人目の征夷大将軍。(『日本紀略』延暦十六年〔797〕十一月「丙戌〔五日〕。従四位下坂上大宿祢田村麻呂。為征夷大将軍」)
 なお、大柱直については、〈姓氏家系大辞典〉に「大柱直:こは名にして氏にあらざるべし」という。
《赤気》
明和七年七月二十八日夜
紅気 弥北天 子刻正見図
 『星解』村井古巖献納本写本
三重県松坂市郷土資料室所蔵
(本居宣長記念館/7月の宣長)
 〈推古紀〉の赤気は、日本でも希に見られるオーロラではないかと考えられている。
 古代文献に現れる赤気は、〈汉典〉によれば「紅色的雲気」のことで、①夏至冬至・春分秋分に雲色を見て、赤色なら「主兵荒」を示す。 ②「伝説謂帝王的祥瑞。旧史稗説〔=フィクション〕中每載帝王降生或所処之地有赤気出現」を示す 〔帝を戴く土地に出現するという伝説がある〕。つまり、中国古文献においては、伝説における雲気占いの中の言葉である。
 その後、滅多に見られない中緯度地方のオーロラが、一般に赤気と呼ばれるようになったと見られる。その一例が江戸時代の古文献に見出されている。
 国立極地研究所の2017年の発表によると、「京都・東羽倉家の日記に1770年のオーロラの記録を発見し」、「『星解』という別の古典籍に描かれたオーロラの絵図の形状が再現」された (国立極地研究所/江戸時代のオーロラ絵図…)。
 『星解』は現在は三重県松坂市の「郷土資料室」に所蔵され、明和七年七月二十八日〔1770年9月17日〕の「朱気」の観察図が描かれる。 本居宣長記念館「7月の宣長」 によると、このときの極光〔オーロラ〕は全国的なもので、 宣長が『日記』に「赤気甚大高而、其中多有白筋立登、其筋或消或現」と記す他、江戸の「『武江年表』には、「七月二十八日、夜乾の空赤き事丹の如し。又、幡雲出る」」とあり、 長崎や京都でも見られたという。
 さて、〈推古〉二十八年十二年一日の「赤気」について、この『星解』などと比較検討した論考が「国立極地研究所」から発表されている (国立極地研究所/研究成果〔2020年3月16日〕)。
 そこには、 「日本のような中緯度で見られるオーロラは赤く、扇形の構造」を示し、 「〔推古紀〕当時の日本の磁気緯度は現在よりも10度ほど高かったため、大規模な磁気嵐が起これば、日本でオーロラが見えても不思議は」ない、 「ただし、現代の鳥類研究者でも、雉が尾羽を扇形に開く様子を目撃することは多くな」く、 当時の「人々の、鳥との距離感や観察眼の鋭さを前提とする必要がありそう」だなどと述べられている。
 つまり、赤気を雉の尾に例えるためには、雉がそのディスプレイ行動まで、人々にしっかり観察されていたことが必要だと述べる。
 〈推古紀〉における自然現象の記録については、三十六年三月二日の日食については、その日に実際にあったことがほぼ確実なので (三十六年)、基本的に信頼性があると思われる。
《録天皇記及国記》
弘仁私記序…「録天皇記及国記」の段は、『弘仁私記序』([2])によって引用され、 その場所は、「天皇勅阿礼使帝王本記及先代旧事」という文に付けた割注の中である。 『弘仁私記序』のこの文は、古事記序の「勅語阿礼 令誦習帝皇日継及先代旧辞」の引用である(第二十回)。 「天皇記+国記」の撰録という共通項によって挙げたのであろうが、阿礼のことは天武天皇のときであるから直接の関係はない。
先代旧事本紀…『先代旧事本紀』における「先代旧事」という語句は書紀にはなく、記の序文から取ったものである。
 この『先代旧事本紀』は、〈推古二十八年〉に太子と馬子が録した「天皇記及国記…」であるかの如く装う十巻〔と系図一巻〕の書だが、 実際には物部を後継する石上氏によって奈良時代中頃より後に撰録されたものと見られ、中でも国造本紀は平安時代に至る(資料[55])。
帝王本紀…一方「天皇記」に関連するものとしては、 〈
欽明二年〉の原注が「帝王本紀」に触れる。 「帝王本紀、多有古字、撰集之人、屢経遷易。後人習読、以意刊改、伝写既多、遂致舛雜、前後失次、兄弟参差。〔帝王本記には古い字が多く、選集の〔の際書き写す〕過程で字が変わり易い。また読み習わすうちに解釈が変わり、 筆写を繰り返すうちに誤りが増え、前後の順を失い兄弟が入れ替わったりする〕
 この「帝王本紀」と、太子・馬子編纂の「天皇記」との関係については何とも言えない。 皇極四年〔645〕六月条に「蘇我臣蝦夷等臨誅、悉焼天皇記、国記、珍宝。船史恵尺、即疾取焼国記〔蘇我蝦夷が殺されたとき、天皇記・国記は燃やされたが、国記だけは救出された〕と述べられているからである。
帝紀及上古諸事…〈天武十年〉〔681〕、川嶋皇子を筆頭とする十二名に「帝紀及上古諸事」を「記定」することを命じた。 記の編纂グループのもともとの役割は、書紀の文字記録以前の時代を書くための伝承の蒐集と見られ、阿礼が記のための「誦習」を命じられたのも天武天皇のときであったから、〈天武十年〉前後に記紀は一体でスタートしたと思われる。 記序文によれば、長らく中断があった後に〈元明天皇〉の712年に献上されたとあるから、書紀も〈天武十年〉に開始され、中断を挟んで700年代ぐらいに再開して720年に撰上したと考えられる。
録天皇記及国記…一つの考え方としては、天皇記・国記の編纂事業を偉大化するために〈推古朝〉に遡らせたに過ぎず、実体はないことも考えられる。 しかし、この時期は新たな仏教国家をスタートさせる意欲に溢れていたのだから、国の正史の編纂に手を付けるのもごく当然であろう。 さらに、645年に作成途上の書が燃えたとあるから、この正史作りには現実味がある。これが〈天武朝〉の「帝紀及上古諸事」の記に直接繋がるわけではないが、 「天皇記・国記」の作成途上で放棄された断片が、資料として利用されたことはあり得よう。
 〈推古朝〉の頃、少なくとも『天皇記』や『国記』を書くための資料となり得る、様々な文書記録が既に存在していたことは間違いないと思われる。
《大意》
 二十六年八月一日、 高麗国は遣使して方物を献上し、 「隋の煬帝(ようたい)は三十万の軍勢を興して我が国を攻めましたが、 却って我々によって破られました。 よって、俘虜の貞公(ていこう)、 普通(ふとう)の二人(ふたり)、 及び鼓、笛、弩(ど)〔機械仕掛けの大弓〕、抛石(ほうせき)〔放石機〕の類十種、 併せて特産品と、駱駝一匹を献上いたします。」と申しました。
 この年、 河辺(かわべ)の臣(おみ)【名前不明】を安芸(あき)の国に遣わして、 大舶(おほぶね)を造らせました。 山に入り大舶の木材を探したところ、 簡単に好い木材が見つかり、それを伐採しようとしました。
 その時、ある人が申すに、 「これは落雷の木である。伐ってはならない。」と申しましたが、 河辺の臣は、 「それについては、雷神と雖(いえど)も、豈(あに)天皇の仰せ言に逆らうことがあろうか。」と言って、 大量の幣帛(みてぐら)を祀った上で、人員を送って伐らせました。
 その直後に大雨となり、雷鳴と雷光を伴いました。 すると、河辺の臣は剣を押さえつけて 「雷神よ、作業の人には決して手を出すな。まさに我が身を傷めよ」と言って、 空を仰いで待ちました。
 十回余の落雷がありましたが、河辺の臣を犯すことはできませんでした。 そして、小さな魚となって、樹の枝に挟まりました。 その魚を取って焼き、遂にその大舶を完成しました。
 二十七年四月四日、 近江の国が言上しました。 蒲生川に異様な物が見つかり、その形は人の如きといいます。
 七月、 攝津の国のある漁師が、網を堀江に沈めたところ、 物が網に入りました。 その形は子供のようで、魚でもなく人でもなく、名付けようがありませんでした。
 二十八年八月、 掖玖の人が二人、伊豆の島〔大島〕に流れ着きました。
 十月、 砂礫で、檜隈陵(ひのくまのみささぎ)の上を葺きました。 そして、周囲に土を積んで山を作りました。 氏ごとに、大柱(おおばしら)を土の山の上に立てることを命じました。 その時、倭漢(やまとのあや)の坂上(さかのえ)の直(あたう)が立てた柱は、他に勝りはなはだ高いものでした。 よって時の人は、彼を大柱(おおばしら)の直と呼びました。
 十二月一日、 空に赤気があり、 長さ一丈余り、形は雉(きじ)の尾の如くでした。
 この年、 皇太子と嶋(しま)の大臣(おおまえつきみ)は二人で相談して、 天皇記と国記、 臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)・数多くの部(べ)、 また公民らの本記を編集しました。


まとめ
 二十二年から二十八年までの期間には、いくつかの出来事が脈絡なく収められている。 未整理な部分もあるが、それだけ実記録が生のまま取り込まれたということであろう。 とすれば、赤気の記事は貴重である。
 高句麗からの方物の日付も、当時の国際情勢と合致する。
 人魚の話自体は伝説であるが、風説の記録という事実を収めたと見られる。
 さて、二十年と二十八年の堅塩媛合葬の記述も、丸山古墳の知見とよく噛み合い真実味がある。 丸山古墳の考古学的知見からは、蘇我馬子大臣の想像以上の専横ぶりがリアルに浮かび上がる。 合葬とは言うが、事実上堅塩媛を中心的な埋葬主とする陵として作り直したものである。
 この改葬は、氏族が女を皇后として送り込んで権力を握るという形式を描き出したもので、いわば歴史を書き換えたわけである。 これが、後に藤原氏が閨閥として権力を握る仕組みの、ひな形になったと言ってよいだろう。 藤原氏の時代には事実として、〈延喜式-諸陵寮〉において皇后の墓が「陵」と表現され、天皇と同格であったことを公式に認めている。



2022.02.24(thu) [22-10] 推古天皇10 

21目次 【二十九年】
《厩戸豐聰耳皇子命薨》
廿九年春二月己丑朔癸巳。
半夜。
厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮。
是時。
諸王諸臣及天下百姓
悉長老如失愛兒而
鹽酢之味在口不嘗。
少幼如亡慈父母
以哭泣之聲滿於行路。
半夜…〈岩崎本〔以下岩〕- ヨナカ [ニ]
半夜…夜中。夜半。
よなか…(万)1701 佐宵中等 夜者深去良斯 さよなかと よはふけぬらし
斑鳩宮…〈北野本〔以後北〕・図書寮本〔以後図〕〉斑鳩イカルカ
厩戸豊聡耳皇子…〈図〉厩戸ムマゝトトヨミゝ[ノ]皇子[ノ]
…〈岩〉厩戸[ノ][ノ]皇子[ノ][切]カムサリマシヌカムサリマシ[ヌ]于斑鳩[ノ][切]
諸王…〈岩〉オホキミヲム
長老…〈岩〉[ニ]-オキナ[ハ]シテメク-兒[ヲ]。 〈北〉コト\/クニ長老オキナハ コトクウシナヘルカ愛兒メクミノコヲ
塩酢…〈岩〉-アチハイ之味[切][ト][モ]レトモ[ニ]ナメ[句]。 〈内閣文庫本〔以下閣〕塩酢之味アチハヒ 四字引合  
なむ…[自]下二 舌で味わう。
少幼…〈岩〉-ワカイ[ハ]ツクシミ[ノ]-カソ[ヲ][テ]
哭泣…〈岩〉ナキ-イサツル之聲[切]滿[リ]テリ- ミチ [句]
ゆくみち…(万)3444 和我由久美知尓 安乎夜宜乃 わがゆくみちに あをやぎの
二十九年(はたとせあまりここのとせ)春二月(きさらき)己丑(つちのとうし)を朔(つきたち)として癸巳(みづのとみ)〔五日〕
半夜(よなか)。
厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)の命(みこと)[于]斑鳩宮(いかるがのみや)に薨(こう)ず。
是(この)時。
諸(もろもろ)の王(みこ)諸(もろもろ)の臣(おみ)及(と)天下(あめのした)の百姓(みたみ、おほみたから)と、
悉(みな)長老(おきなおみな)は愛(うつくしび)の児(こ)の失(う)すが如くして[而]、
塩酢之(しほすの)味(あぢはひ)口に在れど不嘗(なめず)。
少幼(わらは)は慈(うつくしび)の父母(ちちはは)の亡(う)すが如くして、
[以ちて]哭泣之(なきいさちる)声(こゑ)[於]行路(ゆくみち)に満てり。
乃耕夫止耜、
舂女不杵。
皆曰
「日月失輝、
天地既崩。
自今以後、誰恃哉。」
是月。
葬上宮太子於磯長陵。
耕夫耕夫 スルモノ[ハ]ヤメ ヤミ スキヲ。 〈北〉耕-夫タカヘスルモノヤメスキヲ
舂女春-女/ツキメイネク[ハ]キネオトセ[句]。 〈北〉イネツク-女 ツキメ。 〈図〉キオトセ
…[名] 杵。〈時代別上代〉上代にはたして独立して用いられたかどうかわからない。接尾語ネを伴ったキネの形が普通だったのではないかと思われる。
失輝…〈岩〉-月失[ヲ][テ]。 〈北〉ウシヒカリヲ
…〈岩・北・閣〉クツレヌヘシ
以後以-後ユクサキ[切][カ][カ]ヲカタ ム ノミタテマツラム[句]。 〈北〉タレヲカ恃哉タノマムヤタノミタテマツラレ
磯長陵…〈岩〉上宮[ノ]太子[ヲ]-河内國ナカ[ノ]
乃(すなはち)耕夫(たかへすひと)耜(すき)を止(や)めて、
舂女(つきめ)不杵(きねをやむ)。
皆(ひとみな)曰(まを)さく
「日月(ひつき)輝(ひかり)を失ひて、
天地(あめつち)既に崩(く)えり。
今自(よ)り以後(こののち)、誰(たれ)をか恃(たの)まむや[哉]。」
是(こ)の月。
上宮(かみつみや)の太子(ひつぎのみこ)を[於]磯長(しなが)の陵(みささき)に葬(はぶ)りまつる。
當于是時、
高麗僧慧慈、
聞上宮皇太子薨、
以大悲之、
爲皇太子請僧而設齋。
是時…〈岩〉[ニ][テ]〔この時に当たりて〕
設斎…〈岩〉[ニ]悲之カナシヒタチマツル[句]ミタメニ皇太子 ヒツキノミコ[切]/マセテマキ[ヲ][テ]-ヲカミ[ス][句]。 (〈推古〉十三年《設斎》)。
ます…[他]サ下二 マス(四段)の他動詞。請フの尊敬語として用いる。
[于]是の時に当たりて、
高麗(こま)の僧(ほふし)慧慈(ゑじ)、
上宮(かみつみや)の皇太子(ひつぎのみこ)薨(こう)ずと聞きて、
以ちて大(はなはだ)[之]悲(かなし)びて、
皇太子(ひつぎのみこ)の為に僧(ほふし)を請(こ)ひたまひて[而]設斎(せちせ、をがみ)す。
仍親說經之日、
誓願曰
「於日本國有聖人、
曰上宮豐聰耳皇子。
固天攸縱、
以玄聖之德生日本之國。
苞貫三統、纂先聖之宏猷、
恭敬三寶、救黎元之厄。
是實大聖也。
説経…〈岩〉トクキヤウ[ヲ]
日本国…〈岩〉-コヒチカヒ[テ][切]日本ヤマトノ[ニ]マシマス[ス]聖人ヒシリ[ノ]豊聡耳[ノ]皇子ミコト
マコト[ニ]アメ[ニ][タリ]タリユルサ[句]。 〈図書本〔以下図〕レタリ ユルサ
…[助] 古代語。下に接する動詞を名詞化する。
…[動] (古訓) したがふ。ゆるす。
玄聖…〈岩〉-聖ヒシリノイキホヒ[ヲ][テ]アレマセタリ[セリ]日本之國[ニ][句]
…[形] くらい。深遠な。(古訓) はるかなり。
苞貫三統…〈岩〉ツゝミ-ツラヌキキミ[ノ]-ミチ[ヲ][テ]ツキ[ノ]-ヒシリオゝイナル-ノリ[ニ][切]
三統…〈汉典〉夏、商、周三代的正朔。即人統、地統、天統。
…[形] ひろい。(古訓) おほいなり。ひろし。
宏猷…〈汉典〉遠大的謀略。宏偉的計画。
…[動] かぞえる。うけつぐ。
…[動・名] はかる。はかりごと。(古訓) のり。はかりこと。
黎元…〈汉典〉百姓、民衆。 〈岩〉ツゝシミ-ウヤマ三-寶[ヲ][テ]スクヒタマヒキ-オホムタカラタシナミ[ヲ][句]マコトニ[ノ]大-聖ヒシリナリ[句]
黎民(れいみん)…浅黒く日焼けした顔の民。すなわち庶民。
…[名] 行き詰まるさま。
たしなむ…[自]マ四 苦しむ。[他]下四 苦しめる。
仍(すなはち)親(みづか)ら経(きやう)を説(と)きし[之]日、
誓(ちか)ひ願(ねが)ひて曰(まを)さく
「[於]日本(やまと)の国に聖人(ひじり)有り、
上宮の豊聡耳の皇子(みこ)と曰ひたまふ。
固く天(あめ)の攸従(ゆるしたまふところ)、
玄(はるかなる)聖(ひじり)之(の)徳(いきほひ)を以ちて日本(やまと)之(の)国に生(あ)れませり。
三統(さむとう)を苞(つつ)み貫(つらぬ)きて、先(さき)の聖(ひじり)之(の)宏(おほきなる)猷(はかりこと)を纂(つ)ぎたまひて、
三宝(さむほう)を恭(つつし)み敬(ゐやま)ひて、黎元(れいぐゑん、おほみたから)之(が)厄(たしなみ)を救ひたまへり。
是(これ)実(まこと)に大(おほきなる)聖(ひじり)なり[也]。
今太子既薨之。
我雖異國心在斷金。
其獨生之何益矣。
我以來年二月五日必死。
因以遇上宮太子於淨土。
以共化衆生。」
既薨…〈岩〉[ニ][ヌ]
異国…〈岩〉[ト]-國/アタシクニト
在断金…〈岩〉-/ムツマシキウルハシキ[ニ][句]
断金…金属を断つ。強い友情のたとえ。
独生…〈岩〉獨-イ トモ[ト][モ]之何[切]シルシ[カ][ム]カアランヤ[句]
来年…〈岩〉キタランコム[ム]-年[ノ]ミマカラン[句]
くるつ…[連体詞] 翌~の意を添える。
浄土…〈岩〉[テ]アヒ奉テマウアヒ上-宮[ノ]太-子[ニ]シヤウ-トニ[テ]以共[ニ]ワタサム[ム]ウマルモノヲ[ヲ][句]
衆生…〈仏教語〉仏・菩薩がすくう命あるすべてのもの。
今太子(ひつぎのみこ)既に[之]薨(こう)ず、
我(われ)異国(あたしくに)にあれ雖(ど)心[在]断金(だんきむにあり、むつましかり)。
其(それ)独(ひとり)[之]生きて何(なに)そ益(まさ)れる[矣]。
我来年(くるつとし)の二月(きさらき)の五日(いつか)を以ちて必ず死(し)にせむ。
因(よ)りて以ちて上宮(かみつみや)の太子(ひつぎのみこ)と[於]浄土(じやうど)にて遇(あ)ひまつらむ。
以ちて共に衆生(しゆじやう)を化(わたらし)めむ。」とまをす。
於是、慧慈、
當于期日而死之。
是以、時人之彼此共言
「其獨非上宮太子之聖、
慧慈亦聖也。」

期日…〈岩〉チカヒシミマカレリ
彼此…〈岩〉カレモ コレモ[ニ][切]
亦聖…〈岩〉獨非上宮太子之 マシマスノミニ慧-慈亦聖[ナリ]ナリケリ[句]
於是(ここに)、慧慈(ゑじ)、
[于]期(ちぎ)りし日に当たりて[而][之]死(し)につ。
是(こ)を以(も)ちて、時の人之(の)彼(か)も此(こ)も共に言(まを)せらく
「其(それ)独(ひとり)上宮の太子[之]のみ聖(ひじり)にましますに非(あら)ず、
慧慈亦(また)聖(ひじり)なり[也]。」とまをせり。
是歲。
新羅遣奈末伊彌買朝貢、
仍以表書奏使旨。
凡新羅上表、
蓋始起于此時歟。
奈末伊弥買…〈岩〉----ハイ[テ]
奈末…また「奈麻」。新羅の位階の第十一位(〈推古紀〉十八年)。
朝貢…〈岩〉朝貢ミツキ ル カヨハ [シム][句] 〔カヨハシム/ミツキタテマツル〕
表書…〈岩〉表-書 フミ マウシフミ[ヲ][テ]使-旨[ヲ][句]
新羅上表…〈岩〉新羅[ノ]コト[コト]フミ[切]
上表…君主にたてまつる意見書。
始起…〈岩〉[テ]レル[ル]マル于此-時ヨリ[ニ][切] 〔始めて此の時に起れるか/此の時にはじまるか〕
是歳(このとし)。
新羅(しらき)奈末(なま)伊弥買(いみばい)を遣(まだ)して朝貢(みかどををろがみみつきたてまつ)らしめて、
仍(すなは)ち表書(まをしふみ)を以ちて使(つかひ)の旨(むね)を奏(まを)す。
凡(おほよそ)新羅(しらき)の上表(じやうへう)は、
蓋(けだし)始めて[于]此の時に起(おこ)れる歟(か)。
《二十九年二月五日》
 『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』〔以後〈三尊光背銘〉〕には、 「法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩。明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾並著於床〔法興〔私年号〕三十一年歳次辛巳〔621〕十二月鬼前太后(おほきさき)〔穴太部間人皇女〕崩(かむさ)りたまふ。明年(くるつとし)正月二十二日上宮法皇病に枕し、弗悆(いえず)。干食〔=膳〕王后以て疾(やまひ)に労(いとほ)し、並びて床に著けり〕、 「二月廿一日癸酉王后即世。翌日法皇登遐。〔二月廿一日癸酉王后即世(かむさ)りたまふ。翌日法皇登遐(かむさ)りたまふ。〕とある。
 文中の「鬼前太后」については、その解釈が『上宮聖徳法王定説』〔以後〈定説〉〕にあり、それによる即ち「神前太后」で、同母の兄の崇峻天皇が坐した「石寸いはれ〔磐余〕神前宮」に由来するという(第247回【上宮聖徳法王定説】)。
 このように、〈三尊光背銘〉は太子の薨は推古三十年〔622〕二月二十二日のことだと述べる。 この三尊像の製作自体については、「癸未年三月中…具竟〔推古三十一年〔623〕三月…具(そな)へ竟(を)へり〕とある。
 この〈三尊光背銘〉の線刻の内部には鍍金が及んでいないので、線刻の時期は623年以後ならいつでもあり得る。 線刻の時期は、「元興寺伽藍縁起…[3]【法隆寺金堂薬師如来像光背銘】」の項で、「680~700年頃の時期に刻まれたと見るのが妥当か」と見た。 この「法皇」という呼び名に、「天皇」号の影響があったことも考えられる。天皇号の使用開始は680年頃かと判断した(資料[41])。
 『中宮寺天寿国繍帳』〔以後〈天寿国繍帳〉〕でも「辛巳〔推古二十九年〕十二月廿一日癸酉。日入孔部間人母王崩。明年二月廿二日甲戌。夜半太子崩」とあり、太子の薨の日付は〈三尊光背銘〉と同じである。 〈天寿国繍帳〉の製作は、「天皇」号使用開始後から、書紀が「崩・薨」の用法を整理するまでの間と見られる(資料[53])。
 太子崩の日付「明年二月二十二日甲戌」については、元嘉暦モデルによれば推古三十年二月は「甲寅朔」となっており、「二十二日甲戌」はこれに合致する。
 「入日孔部間人母」の日入は日没を意味すると見られる。夕日のことを上代語で「いりひ」といい、また(万)4525日入国尓 所遣 ひのいるくにに つかはさる〔「日入国」=隋〕の例がある。 この「孔部間人母」が「」じた「辛巳十二月廿一日癸酉」には問題がある。 元嘉暦モデルによると二十九年十二月は甲寅朔で、「甲戌」は実際は二十日である。 実は、「辛巳十二月廿一日癸酉」は〈定説〉に載るものだが、このままでは四字区切りに合わなくなる。 〈天寿国繍帳〉は、全四百字を四文字ごとに分割して、その四文字ずつを亀のイラストに組み込んで散りばめたものである(資料[53])。
 『聖徳太子伝の研究 (飯田瑞穗著作集1)』〔吉川弘文館2000〕〔以下〈飯田瑞穂〉〕において、 四字区切りの形を復元している。 やや横道に逸れるが、同書はこの部分を「辛巳十二/月廿一癸/酉日入孔/部間人母/」として、「廿一日」から「」を省いて文字数を合わせている。 〈天寿国繍帳〉は他の箇所では「明年二月廿二甲戌」だから、ここだけ「」を落とすのも不自然である。
 けれども〈定説〉の「廿一日」が誤写で、もともとの形が「辛巳十二/月廿日癸/酉日入孔/部間人母/」であったとすれば、「癸酉」にも合い問題は解決する。
 〈飯田瑞穂〉は、この「一」衍字説を「定円の「太子曼荼羅講式」その他によって原銘文には確かに十二月廿一日とあったらしいことが知られる」ことを理由に退けている。そして「長暦」(元嘉暦)の十二月癸酉朔については「余り確かとは云ひきれ」ないとする。
 『太子曼荼羅講式』の指摘の箇所は、「〔文永〕十一年二月廿六日遂以出現宛如符契即於霊亀四百字之中忽知臘月〔=十二月〕廿一日之忌」などとあり、真如が法隆寺の蔵の中から〈天寿国繍帳〉を発見したと述べる。
 しかし、文永十一年〔鎌倉時代の1274年〕は既に飛鳥時代から600年も過ぎている。「十二月廿一日」という日付は既に〈定説〉などによって知られていることだから、これをさも発見した如く装うフィクションだと考えた方がよいだろう。
 〈光背銘〉では「十二月鬼前太后崩」だが、ここに日付まで書いてあれば確かめられたはずである。
 このように細かな問題はあるが、概ね680年頃より書紀の前までの期間は、太子の「崩」は「推古三十年二月二十二日」だったと考えてよいだろう。 因みに、〈伝暦〉(10世紀;下述)では「二十九年【辛巳】春二月…遷化…【時年四十九。或説壬午年〔三十年〕者誤也】」とあり、書紀による薨年を採用している。
《皇子命》
 書紀で、「~皇子」に""を添えることは殆どない。他には、〈天武紀〉の「高市皇子」のみである。 興味深いのは、〈天武紀〉には「草壁皇子」も出てくることである。草壁皇子は皇太子に指名されたが、夭折して即位には至らなかった。 ここには、「皇子尊>皇子命>皇子」の格付けが見える。
 上宮皇子太子で、かつ摂政でもあるから当然「皇子」であるべきであろう。これを「皇子」に留めたのは、 〈舒明即位前紀〉で山背大兄王の即位が阻止されたことによるかも知れない。
 太子に「」がつけば天皇レベルとなるから、その子である山背大兄王も皇太子格を主張できる。 ところが、上宮太子起点の系図を、書紀はなかったことにする。この系図は『上宮聖徳法王定説』に明示されているから、既に周知だったと見られる。 ところが、書紀はこの系図を載せないから山背大兄王はどこの馬の骨とも知れぬ如くの扱いになってしまった(第249回)。
 このように考えると、山背大兄王が""の子という高貴性を否定するために、最初は"厩戸豊聡耳皇子"だったのにその表記を変更したのではないかと思えてくる。
 ここで、書紀の〈雄略〉~〈天智〉巻がα群であるなかで〈推古〉巻と〈舒明〉巻がβ群であることに注目しよう。 これは、当初α群で書かれたものに、相当な修正が加えられた結果ではないだろうか。…〈雄略1〉などで解説。〕 その修正の目的は、高皇産霊神を起源とする皇統における太子の位置づけを弱め、聖人として仏教界に封じ込めようとするためだったと思われる。 それは、主に山代王による皇位継承の否定を合理化するためだろうが、その一環として"上宮皇子尊"を"上宮皇子命"に直したのではないかと思われるのである。
 但し、太子が天皇に準ずる立場で高度の現実政治を担った記述も残存し、この段の慧慈の言葉にある「三統」もその一つである。 結局、からへの変更は、内容的には中途半端ではある。
《諸王諸臣》
 ここでは、諸臣(朝廷に仕えるもろもろのオミ)と並べて、諸王は皇族全体を指す。従って皇子・皇女の子孫や親戚までも含むものであろう。そして、古事記ではその意味における「」がミコと訓まれたのは明らかである。
 ただし「大宝令のころより親王(天皇の兄弟や皇子)をのみミコと称した」(〈時代別上代〉)という。よって書紀の時代の用語法では「王」はオホキミとなる。 ただ、〈推古朝〉の頃はまだ幅広く「御子」を意味したので、古い時代のことを陳述する場合はミコも可能であろう。
《悉長老》
 は平安以後は副詞コトゴトクであるが、〈時代別上代〉によれば「上代に確実にそれ〔副詞としての用法〕と指摘できるものはない」という。実際万葉にはコトゴトが17例あるが、「ひとのことごと」(0460)のようにすべて名詞である。 副詞としては、上代にも存在したミナの方が確実である。
 長老はオキナと訓読されるが、この語は男性に限られる。下に「父母」とあるから、ここにはオミナを加えるべきであろう。
《愛児》
 愛児イツクシミノコと訓める。古訓メグミノコは、「慈父母」の(イツクシミ)と「」とを読み分けるためであろう。 「長老如失…」と「少幼如亡…」は、対句構造における視覚効果のために漢字の置き換えで、としたものである。 倭語としては読み分けることに意味はないから、訓読では同じ語を用いても差し支えないだろう。
 この対句における字の置き換えは、古事記序文で多用されている(第3回以下多数)。
《塩酢之味》  長老は太子の薨のショックで「塩酢之味在口不嘗」、すなわち悲しみのあまり、口にいれたものの味も感じないという。 「」の本義は「舌に乗せて味を感じ取る」である。 古訓「塩酢之味アヂハヒ」は、「塩酢」の具体的な意味を捨てて概念的であるが、 むしろ、しょっぱさもすっぱさも感じないと読んだほうが文学表現として豊かさである。
 また「行路」も古訓では「」を捨てるが、「道を歩くと、泣き声が満ちている」とそのまま読んだ方が強く感性に訴える。
 この段落の文章表現は、古事記スタッフによるようにも思える。
《耕夫》
 タカヘス〔現代語"たがやす"〕が「田-反す〔田の土の上下を入れ替える意〕なのは明らかである。 古訓タカヘスルにおいては、タカヘ+サ変動詞と解釈している。それを突き進めると、「タカヘ=田+カフ〔下二段〕の名詞形」、 「下二段のカフ(替ふ、易ふ)では人が所有する田を交換する意味」となり、土に鍬を入れる行為から離れていく。
 『類聚名義抄』(仏下巻)には「犂牛 タカヘスウシ」とあり、タカヘスを四段活用している。この方がまともであろう。
《舂女不杵》
 「不杵」の古訓キネオトセズ〔杵音せず〕は、意訳である。の動詞化はキヌツクだが、古訓はツキメツキとの重複を嫌ったのであろう。
…『出雲国風土記』出雲国「杵築〔キツキ〕:諸皇神等参集宮処杵築故云寸付【神亀三年改字杵築」とあり、〔キ、キネ〕には動詞ツクを用いる。
《新羅上表始起于此時》
 新羅からは既に十八年及び十九年に遣使され、共食者を指定して饗するなど公式の接待をなされている。このときに上表を持参しなかったとは思えない。
 国書の確かな記録があるのは二十九年が初めてなのかも知れないが、かと言って「始起」と書いてしまってはいけない。記述の調整不足であろう。
《高麗僧慧慈》
 〈推古紀〉では、高麗からの僧の来帰や献上が目立つようになった。二十六年には方物が献上されたように、国家の関係は深まっている。 慧慈が本国で太子の薨を悼んだ場面は、仏教を通した両国の一体感の高まりを描くものと言える。
 対照的に、百済の影は薄れつつある。
《大意》
 二十九年二月五日、 夜半に 厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)の命(みこと)は斑鳩宮(いかるがのみや)で薨じました。
 この時、 諸王諸臣、及び天下(あめのした)の人民は、 悉(ことごと)く、長老は愛しの子を失った如くに、 塩や酢を口に入れても味はなく、 幼子は愛しの父母を亡くした如くに、 泣く声が行く道に満ちました。
 こうして農夫は鍬で耕すことをやめ、 舂女(つきめ)は杵つくことをやめ、 人は皆 「太陽も月も輝きを失い、 天地は既に崩れた。 今から以後、誰を頼りにしたらよいのだろうか。」と言いました。
 この月、 上宮の太子〔聖徳〕を磯長(しなが)の陵(みささぎ)に埋葬しました。
 この時に当たり、 高麗(こま)の僧慧慈(えじ)は、 上宮の皇太子が薨じたと聞き、 大いに悲み、 皇太子のために僧を集めて設斎を催しました。
 そして、親ら経を説いた日、 誓願して、 「日本(やまと)の国に聖人がいらっしゃり、 上宮豊聡耳皇子(かみつみやのとよとみみのみこ)といわれます。 固く天がおゆるしになり、 玄聖の徳をもって日本(やまと)の国に生まれました。 三統(さんとう)〔天地人の統治〕を苞貫(ほうかん)〔包括〕し、先の聖帝の宏猷(こうゆう)〔偉大な計画〕を継がれ、 三宝(さんぽう)〔仏法僧、仏教〕を恭敬し、黎元(れいげん)〔人民〕の災難を救われました。 このように、実に偉大な聖人でいらっしゃいます。
 今、太子は既に薨じ、 私は異国にあれども、断金の心〔強固な絆〕で結ばれています。 それを、一人だけ生き延びて何の益がありましょう。
 私は来年の二月五日をもって、必ず死ぬでしょう。 こうして、上宮の太子と浄土でお遇いします。 そして、共に衆生を彼岸に救いましょう。」と申しました。
 こうして、慧慈は、 ちょうど期した日に亡くなりました。
 これにより、当時の人は誰も彼も口を揃えて 「独り上宮の太子のみが聖(ひじり)ではなく、 慧慈もまた聖であった。」と言いました。
 この年、 新羅の奈末(なま)伊弥買(いみばい)を遣わして朝貢し、 その際表書をもって使旨を奏上しました。
 およそ新羅からの上表は、 この時に始まったように思われます。


【磯長陵】
   引用文献略称
〈伝暦〉…『太子伝暦』全二巻。「延喜十七年〔917〕藤原兼輔著」説は疑問視される。正暦三年〔992〕成立説など。―国立国会図書館デジタルコレクション:pid1879811
〈梅原末治〉…『聖徳太子諭纂』〔平安考古会;〈1921〉1976復刻〕梅原末治「聖徳太子磯長の御廟」
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〈猪熊兼勝〉…『明日香風131号』特集「今、聖徳太子を考える」〔古都飛鳥保存財団;2014〕―「聖徳太子の墓」〔猪熊兼勝〕
〈安福寺の夾紵棺〉大阪市柏原市公式ページ/「安福寺の夾紵棺
〈柏原市〉…大阪市柏原市公式ページ/「安福寺所蔵夾紵棺
〈明日香/牽牛子1〉…『明日香村の文化財⑮牽牛子塚古墳〔明日香村教育委員会;2010〕
〈明日香/牽牛子2〉…明日香村公式ページ「文化財/牽牛子塚古墳
〈橿原/菖蒲池1〉…奈良県橿原市公式/「菖蒲池古墳
〈橿原/菖蒲池2〉…奈良県橿原市公式/「勝負池古墳現地説明会資料〔橿原市教育委員会;2010〕
〈菖蒲池古墳2015〉…『橿原市埋蔵文化財調査報告 第10冊』〔奈良県橿原市教育委員会;2015〕
〈歴史地名大系〉…『日本歴史地名大系』30奈良県〔平凡社;1981〕
〈高槻市阿武山1〉…高槻市公式ページ/インターネット歴史館「史跡阿武山古墳
〈高槻市阿武山2〉…高槻市公式ページ/インターネット歴史館「阿武山古墳の被葬者は?
〈多武峯略記〉…『群書類従』巻四百三十六〔塙保己一;1799〕―『新校群書類従 第十九巻』〔内外書籍株式会社;1932〕国立国会図書館デジタルコレクション:pid1879811
〈ブリタニカ小項目〉…「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
〈世界大百科〉…改訂新版 世界大百科事典〔平凡社;2014〕
 〈延喜式-諸陵寮〉には、 「磯長墓【橘豊日天皇之皇太子。名云聖徳。在河内国石川郡。兆域東西三町。南北二町。守戸三烟。】」 と載る。
 伝統的には、叡福寺〔大阪府南河内郡太子町太子2146〕の「聖徳太子御廟」が墓所として崇敬されている。 考古学名は「叡福寺北古墳」で、「墳丘は直径40m、高さ6mの二段築成の円墳」(〈猪熊兼勝〉)とされる。
《叡福寺》
 叡福寺公式ページの「叡福寺由緒」には「太子薨去後、推古天皇より方六町の地を賜り、霊廟を守る香華寺として僧坊を置いたのが始まりです。神亀元年〔724〕には聖武天皇の勅願より七堂伽藍が造営されたと伝わります。」とある。 その確かな記録はないようで、 〈森浩一〉によると「叡福寺の創建年代が…鎌倉時代の十二世紀末から十三世紀前半にあるという新たな見解が生まれている」とし、さらに墓自体も 「1024年(治安四)の九条家本『天王寺事』には、「聖徳太子御墓、治安四年六月十四日記云、右御墓所古今雖奉尋〔たづねまつれども〕乎今楢所不〔いまになほところしれず〕也」」とあり、平安時代後期には行方が知れなかったという。
叡福寺太子廟 叡福寺北古墳 磯長谷古墳群(第243回【磯長陵】参照)
 また〈太子町〉(p.18)は、「叡福寺の東西の金剛砂採掘場や境内で古瓦や瓦器などが発見さますが…飛鳥から奈良時代の遺物、遺構は今のところ全くみあたらず(『叡福寺西方の寺院址調査概報』太子町教育委員会1973)」と述べる。 ただし、〈森浩一〉は叡福寺の「出土瓦とされるもののなかには、奈良時代後半や白鳳期の軒丸瓦もあって考古学上の検討が尽くされたとはいえない」という。
 〈伝暦〉〔通説は10世紀成立〕の〈推古〉十八年十月に「膳氏妃侍座。太子謂妃曰。…我得汝者我之幸也。吾死之日同穴共埋〔膳氏妃〔=菩岐々美郎女ほききみのいらつめ〕座(むしろ)に侍り、太子妃に謂(かたら)ひて曰(のたまは)く、…我汝(いまし)を得たることは我が幸(さき)なり。吾死にせむ日、同じき穴に共に埋もれむ〕とあり、 平安中期には、既に合葬墓の存在が知られていた可能性がある。
 以下〈梅原末治〉による。御廟には「諸陵寮での御修理成つて、前に南面した霊屋が設けられ」ている。「中世には其の内部を穿たれたようで、園大暦〔南北朝時代の洞院公賢の日記〕の貞和四年〔1348〕二月三日の条には、伝聞として、太子御廟…太子御骸破損歟…」などとあり、 「明治十二年〔1879〕御修理の際岩石を以て堅く閉ざされた」という。
《聖徳太子御廟》
聖徳太子御廟窟絵記文より
〈猪熊兼勝〉―『明日香風131号』p.12。
:〈梅原末治〉(p.350)に「叡福寺に伝ふる聖徳太子御廟窟絵記文に載するもの」があると述べ、 梅原が「叡福寺に詣でた際」、それを「抄写して置いた」という略図を同書p.350に載せている(右図)。
 その元になった「聖徳太子御廟窟絵記文」の図が上の「此丸内御廟図」であろう。
〈梅原末治〉p.360
「聖德太子御廟石室圖(實檢記に基き製作)」  〈梅原末治〉の中で引用された〈実検記〉 によると、御廟の「隧道ノ口ヲ開クレハ其高六尺四寸、広六尺、長二丈四尺許ニシテ奥ニ石室アリ、高広各一丈、長一丈八尺許ナリ〔羨道の高さ1.94m、幅1.82m、長さ7.27m。玄室の高さ幅各3.03m、奥行き5.45m〕で、 「正面及ヒ左右に石三枚を据ヘタリ」、 「正面ノ一枚ハ高一尺六寸、長六尺六寸幅二尺五寸許アリ左右の横方ニ水抜ノ如ク孔ヲヱリタリ〔48.5cm×200.0cm×75.8cm〕。 「右ニ据エタル一箇ハ…高二尺二寸、長八尺、幅三尺六寸五分〔66.7cm×242.4cm×110.6cm〕。 「左ニアル一箇ハ…高二尺二寸、長七尺一寸五分、幅三尺アリ、此左右相対スル二箇ハ上面平ナリ〔66.7cm×216.7cm×90.9cm〕。 「且此三箇ノ石ハ皆切石ニテ側面は礼盤ノ側面ノ如ク彫レリ、又此石ノ辺箱ノ破砕シタル如キ板ノ腐朽セルアリ掻キ集ムルニ凡ニ斗許アリ、 日光に照シミルニ布張黒漆ノ箱ノ腐朽シテ如此ナレルナリ、是全ク御棺ノ破砕セルモノ歟」ということである。
 〈梅原末治〉はこれについて、 「此の記事から推すと、〔棺の〕側面は推古朝の彫刻や工芸品に見る雄健な格狭間や、或は唐草等を以て飾られてた立派な芸術品であることが自〔づか〕ら肯定せられ、是れが新来の仏教美術家の技巧になったものと思はるゝ」、 「此の上に安置せられた御棺は二つながら乾漆で作られ」、「考古学上特記すべき事実」で、「我が国に於ける此の種技術の年代を窺ふ重要な一標準が示される」。 「御母后穴穂部間人皇女の御棺はこれに反して棺台がなく一石を彫り抜いた」で、「普通にある石棺の身と相似て居る」。 「奥の御棺は本来此の石室と共に営造せられたもので、前の二棺はこれとは別に造られて、ここに葬られたこと殆んど疑を容れない」、 「其の前の御棺の一か〔が〕太子なりと…伝へはこゝに信ずべき根拠を増す訳である」と述べ、 奥の穴穂部間人皇女と見られる石は棺そのもので石室と同時に作られ、その前の太子及び妃と見られる石は棺台で、 後になって乾漆棺が置かれたと判断している。
 この乾漆棺と類似する例として、 五条菖蒲池古墳の石棺内部が「五分〔1.52cm〕〔ばか〕りの厚さの乾漆で張られて居る」、 また「牽午〔ママ〕子塚石棺〔石槨〕内の整理に当って、乾漆棺の破片が多数発見せられ」、 「その年代等も明でなかったが、〔い〕ま絶対年代の確実な聖徳太子の御棺の同式であることを知り得たのは此の方面の研究上にも興味を与ふるものである。」 〈梅原末治〉はこのように、太子の棺の〈推古二十九年〉〔621〕を基準にできることの意義を述べるが、現在は以下で述べるように、 夾紵棺は7世紀後半とするのが定説となっている。
《夾紵棺》
〈安福寺の夾紵棺〉外側の面
〈安福寺の夾紵棺〉断面
 夾紵棺きょうちょかん〔乾漆棺とも〕は、麻布などを漆で張り重ね固めて棺をつくったものという。
 そのうちもっとも保存状態がよいと言われるのが、安福寺〔大阪府柏原市玉手町7-21〕所蔵の夾紵棺である。 〈安福寺の夾紵棺〉(柏原市公式ページ)には、 玉手山5号墳の発掘調査〔1958年〕に「参加していた北野耕平氏、勝部明生氏、猪熊兼勝氏らが、〔宿舎にしていた安福寺の〕床の間に置いてあった漆塗りの板が、夾紵棺の断片であることを発見した」という逸話を載せる。 同ページによると、「安福寺の夾紵棺は、長さ94cm、幅47.5cm、厚さ3cmの板状のもの」で、「京都芸術大学の岡田文男教授が調査され、45枚の絹で作られていること、製作地は日本」であることが明らかになったという。
〈柏原市〉
 叡福寺太子廟は安福寺の南5kmにあり、この夾紵棺片を太子の棺とする説がある。 〈猪熊兼勝〉は、「後世、太子信仰が進行するとともに結縁の証として、室内の品物を持ち出された可能性」があり、 「この漆板を棺とすると、天皇級の夾紵棺で」、「太子棺の小口部分右図かと思う」と述べている。
 その他の夾紵棺の例として〈梅原末治〉も挙げた五条菖蒲池古墳牽牛子塚古墳、そして阿武山古墳の例を見る。
《牽牛子塚古墳》
 牽牛子塚古墳けごしづかこふんは、明日香村大字越にある。
牽牛子塚古墳・菖蒲池古墳の位置 牽牛子塚古墳石槨内部
〈明日香牽牛子1〉
 「墳丘は対角長18.5m高さ約4mの八角形墳で版築によって」築かれ、 石槨は「二上山の凝灰岩を使用して南に開口する横口式石槨」、 「石槨内の中央には間仕切りがあり、それを境に二つの埋葬施設」があり、 「長さ約1.9m、幅約80cm、高さ約10cmの二つの棺台」、開口部は凝灰岩の二重の閉塞石で塞がれているという (以上〈明日香/牽牛子1〉)。
 「石室内に納められた棺は乾漆棺で、大正三年の調査時や今回の調査の際にも、その破片が棺に取付けられたと思われる棺座金具・鉄釘・鉄鋲などとともに出土し、そのほか勾玉・ガラス玉・臼玉などの玉類、人骨片も検出されている」 (〈歴史地名大系〉)。
 「築造年代については出土遺物等から7世紀後半頃」、 「被葬者については古墳の立地や歯牙等から斉明天皇〔661年崩〕と間人皇女の合葬墓と考える説が有力」という (〈明日香/牽牛子2〉)。
 このように、牽牛子塚古墳は最初から二基の合葬陵として作られている。
《菖蒲池古墳》
 菖蒲池古墳〔橿原市五条野町〕は、甘樫丘より西方に起伏する低い丘陵の南斜面にある。
 横穴式石室は、 「長さ約六メートル、幅二・四メートル、高さ約二・五メートルの玄室内には二個の刳抜式家形石棺が、南北に縦に安置され」、 「通常の家形石棺よりもはるかに整美なものである。両棺とも内面に乾漆を張りつけ、朱を塗っている」、 「精巧の極に達した家形石棺」で「計画的な合葬墓」と見られ、 「天武天皇〔在位673~686〕につながる皇族の墳墓の一つとも考えられる」という (以上〈歴史地名大系〉)。
〈橿原/菖蒲池2〉
家形石棺(南から)〈菖蒲池古墳2015〉
 〈菖蒲池古墳2015〉は、 「付属施設を含めると東西67~90m、南北82m という墓域の規模は、7世紀中頃の古墳としては破格の規模といえ、 その装飾性だけでなく、他の古墳では類を見ない優美な家形石棺とともに、菖蒲池古墳の周辺古墳との隔絶性と被葬者の地位の高さを示すといえる」と述べる。
 〈橿原/菖蒲池1〉によると、「2010年に行った発掘調査によって一辺約30m、二段築盛の方墳であることが明らかになり」、 石棺「2基は同じ形状をもつことから、同一の工人によって作られたと考えられ」、「築造当初からふたつの棺を並べて安置する計画があったものと推察」されるという。 当初から合葬墓として計画されたとする根拠は、間口が狭く奥行きが深い玄室の形態にあるようである。
 伝統を引き継ぎ高度化した家形石棺と、新スタイルの夾紵棺を止揚した作品であることが興味深い。
《阿武山古墳》
 阿武山古墳には、夾紵棺が納められていた。 阿武山を含む安威の地域は、歴史的に由緒がある。 〈安閑〉元年閏十二月の三島郡の屯倉の場所は安威村と見られる。 〈継体〉藍御陵の真陵と言われる今城塚古墳があり、 新池遺跡は埴輪製作所で、また新羅土器の発見地でもあった(〈欽明〉二十三年)。 舎利容器が出土した太田廃寺もある。
 さて、阿武山古墳について、〈高槻市阿武山1〉によれば、 「漆で麻布を何枚も貼り固めた夾紵棺(きょうちょかん)が安置」され、 「棺内には、銀線で青と緑のガラス玉をつづった玉枕(たままくら)を用い、きらびやかな錦をまとった60才ほどの男性」が被葬者で、 「X線写真などの分析から、男性は亡くなる数ヵ月前に肋骨などを折る事故に遭っていたことや、金糸で刺繍した冠帽(かんぼう)」が副葬されていたことが判明した。
安威の遺跡
阿武山古墳:夾紵棺〔高槻市/インターネット歴史館4
 また〈高槻市阿武山2〉によれば、被葬者は「藤原氏繁栄の基礎を築いた中臣(藤原)鎌足〔614~669〕だといわれ」、 「その根拠は、『多武峯略記』(とうのみねりゃくき)などが記す、鎌足は山階(山科)に埋葬された後、安威山を経て、大和(奈良)の多武峯へ葬られたという記事に」あるという。
 〈多武峯略記〉を確認すると、多武峰とうのみね〔寺院名〕「草創」項に「天武天皇治天下戊寅〔678〕…謁弟右大臣問云。大織冠〔=鎌足〕御墓処何地哉。 〔多武峰の恵和和尚〕答曰。摂津国島下郡阿威山也。…改大織冠聖廟。移倉橋山多武峯。其上起十三重塔」 とある。つまり「被葬者=鎌足」説においては、「多武峯に改葬」の部分は伝説だが「安威山〔=阿武山〕に墓有り」までの部分は信用できるということらしい。
 一方、肋骨などを折る事故については、 〈天智天皇紀〉八年〔669〕五月に「縦猟於山科野。大皇弟、藤原内大臣及群臣皆悉従焉。」、 八年秋「-靂於藤原内大臣家」、「冬十月丙午朔乙卯〔十日〕。天皇幸藤原内大臣家。親問所患」、 「庚申〔十五日〕。天皇…授大織冠大臣位。仍賜姓為藤原氏。自此以後。通曰藤原内大臣」、「辛酉〔十六日〕。藤原内大臣薨〔八年五月山科野で猟に随行。秋私邸に落雷。十月十日、天皇が見舞う。十五日藤原氏を賜る。通称藤原内大臣。十六日薨〕とある。
 記録はこれだけだから「狩りで落馬・ろっ骨骨折」説は、遺体のX線撮影で得られた知見から推定したものである。 やや深入りしたが、鎌足の落馬記事が一次資料にないことは押さえておく必要がある。
 〈高槻市阿武山2〉は、鎌足説を補強する材料として、発見された「金糸から復元された冠帽の立派さ」を挙げると同時に、 「古墳から出土した土器は、七世紀の中ごろのもの」ことだから時期に合わないという。ただし、生前に大切にしていたものを副葬することはあり得よう。 〈ブリタニカ小項目〉は、「構造形式が百済古墳に似ていること、大化改新の墓制に決められた規格に合っている」と述べる。 この記述の検証は別の機会に行いたい。
《夾紵棺の年代》
 〈世界大百科〉は「漆工芸」の項で「漆棺の製作年代は620年ころから680年ころまでとされる」という。 「620年」は、叡福寺太子廟の夾紵棺を太子の棺と見做したからだと思われる。
 堅塩姫〔丸山古墳か;〈推古〉二十年の家形石棺の612年から、太子の「夾紵棺」の621年への変化は突然すぎる印象を受ける。 牽牛子塚古墳菖蒲池古墳阿武山古墳は660年以後と見られる。
 蘇我馬子の墓とも言われる石舞台古墳のサイズは、玄室が奥行7.7ⅿ、間口3.5ⅿ、高さ4.7ⅿで、羨道を含た石室は全長19.4ⅿである。 それに対して「太子廟」は、羨道長が7.27m、玄室の高さ幅各3.03m、奥行き5.45mである。 石舞台古墳の被葬者が馬子だとした場合、太子廟にはそれより狭い玄室に三体が詰め込まれていることになり、どうも解せない。 本来皇族レベルの一人用の玄室に、いかにも後から詰め込んだ印象を受ける。
 菖蒲池古墳葉室山古墳(第243回)も合葬であるが、 これらは最初から二棺を予定して石槨が仕切られている。ところが、叡福寺北古墳の場合はそれほど広くない一室に並べられるから、予定外の棺を後から納めたように見える。
 とは言え、叡福寺北古墳が古い時代から太子廟として伝わる事実は重視すべきであろう。
 前述のように、叡福寺を鎌倉時代創建とする説や、平安中期には太子墓の所在不明との記録もある。 しかし、書紀の時代に既に太子は仏教の聖人と規定され、仏教諸寺院の創建は飛鳥時代から平安時代まで途絶えることなく続くわけだから、 太子の存在が忘れられた時代など存在しないと思われる。だから、太子墓の所在地が広くは知られていなかったおとしても、墓の周辺には伝承が続いていたと見るのが自然であろう。 鎌倉時代になって何の伝承もない土地に突然寺院を建て、そこが太子の墓だと唱え始めても受け入れられるものではないだろう。
 よって、「太子廟」の夾紵棺はやはり太子のものと見た方がよい。だが、だとすれば夾紵棺の年代や、玄室の狭さが問題になる。
 これについては、叡福寺北古墳へは7世紀後半に改葬されたと考えれば合理的に解決することができる。
"正面棺"の想像図
 まず、狭い玄室に三体詰め込まれたという問題については、 改葬時期が改葬令〔大化の改新で規定〕以後で、既に大きな墓を新造することは認められず、穴穂部間人皇女の円墳に合葬することを選んだと考えられる。
 また、夾紵棺は一般的な「660年以後」という時期に合致する。 最早大きな墓は作れないが、そのエネルギーを美の粋を凝らした棺に注力したわけである。
 さらに、新たに置いた棺が夾紵棺であるのに対し、最初の被葬者の棺が石棺であったとすれば、これも年月の隔たりを示すと考えられる。
《「奥棺も夾紵棺」説》
 この問題について〈猪熊兼勝〉は、「磯長墓は聖徳太子の墓には間違いはないと考える。しかし、記録に基づく石室内容は、太子逝去年より半世紀ほど後世の室礼である」、 「聖徳太子は斑鳩の地で殯を行い、河内飛鳥の磯長谷に埋葬された後、…七世紀後半…再び改修と改葬が行われた姿と理解している」と述べる。 専門家が年代差を認めたことには、励まされる。
 ただし、太子の最初の墓は推古天皇と同じ飛鳥、あるいは斑鳩だと考えた方が自然と感じられる。 磯長谷を王族の集約的な埋葬地で、推古天皇陵も飛鳥から移されたから、太子の場合も同様に考えてよいだろう 〔書紀が「是の月に磯長谷に葬った」と書く点は、取り敢えず留保する〕
 また奥棺について〈実検記〉は「其平面ノ正中ヲ手水鉢ノ如ク深六寸許ニ彫り左右漸ク深クシテ八寸余アリ左右の横方に水抜ノ如ク孔ヲヱリタリ其子細詳ナラス〔〟〕」と述べる。 この文章のみから実際の姿を読み取るのは難しいが、例えば右図のような姿が想像される。 〈猪熊兼勝〉は、「奥壁に沿う棺台を石棺身と理解することが多いが、…手洗い鉢へ加工前は、上面が平坦な棺台だったのだろう」、そして 「採集した夾紵片は棺の用材で、三棺用だろう」と述べ、奥棺も夾紵棺だと見ている。
赤松妙見尊の国東塔――格狭間
 実際、「聖徳太子御廟窟絵記文」の図(上述)を見ると、三棺とも格狭間こうざまが彫られているから、 これを見れば奥の石も夾紵棺の台であろうと思われる。※格狭間…須弥壇などの基壇部に彫られた紋様。台の足を強化するための連結材に由来すると言われる(右写真)。
 〈猪熊兼勝〉説の通りだとすれば、三体が同時に改葬されたことになる。ただその場合、奥棺だけ高さが低いのが謎である。 そして、格狭間が埋葬時ではなく後世の、例えば仏教儀式の場として手洗い鉢を設置した時点で彫刻されたものだとすれば、三体の埋葬は同時でなくてもよいことになる。 その「聖徳太子廟窟絵記文」の図には、井戸と鏡が描かれている〔〈実検記〉の時点では取り除かれていた〕。玄室内に井戸を設けることなど考えられないから、 鏡、狛犬とともに後世に設置したものであろう。手洗い鉢の部分もその時に作られ、釈迦生誕像を立てて灌仏会かんぶつえを催した可能性も想像し得る。 この手洗い鉢石を、空の棺身に嵌めこんだ可能性はないのだろうか。
 もし三体同時に改葬されたのなら、狭い玄室に詰め込まれた事情を考えなければならない。
《大石》
 さて、叡福寺北古墳は岩屋山古墳に類似すると言われる。 岩屋山古墳はウイリアム・ゴーランドによって実測図が作られ、 「岩屋山石室の提唱者・白川太一郎氏によって岩屋山古墳は七世紀第3四半期〔651年~675年〕説が強調されていて、叡福寺の古墳を聖徳太子墓とした場合、改修を考慮されている」、 「梅原はこの図に触発され、岩屋山古墳を参考に太子墓を復元した」(〈猪熊兼勝〉)という。
※ウイリアム・ゴーランド〔1842~1922〕…造幣寮技師として英国より明治政府に招かれた。その一方で各地の古墳を学術的に調査して、日本の古墳研究の先駆者と言われる。
岩屋山古墳 ja.wikipedia.org石舞台古墳
 〈実検記〉には確かに「其隧道〔羨道〕ノ左右ハ大石四枚ヲ以テ築並ヘ蓋フニ三石を以テセリ 又石室ハ左右大右〔ママ〕各五枚奥ハ二枚ヲ以テ築上ケ蓋フニ又大石二枚ヲ以テセリ」とあり、 岩屋山古墳を見ると、確かに石室の側面と奥の石の個数は同じである。ただし、基本構造は石舞台古墳とも大差はない。同古墳の側面には更に三段目があり、奥は三枚縦重ねであるが、これは石室のサイズによって理解される 〔高さの比較:叡福寺北古墳3.0m、石舞台古墳7.7m〕。 むしろ岩の枚数は玄室のサイズによって決まるものであって、枚数だけで時代は決めることはできないのではないか。それは接合面の精密さや研磨技術等などを総合して判断すべきものであろう。
《三体合葬》
 被葬者については伝統的に、奥棺を太子の母である穴太部あなほべの間人はしひとの皇女ひめみこに、奥に向かって右棺〔東棺〕上宮太子、左棺を妃の菩岐々美ほききみの郎女いらつめに宛てている。 この配置について、〈猪熊兼勝〉は「親を敬う道教や儒教思想と先に逝去した間人皇女を歩室内の優先順位とした」ことによると解釈している。
 《夾紵棺の年代》の項で、叡福寺北古墳はもともと太子崩の前年に薨じた間人皇女一人が、石棺に納められて葬られたと見た。 そして、660年以後に他の墓に埋葬されていた太子と妃を改葬してもともとあった間人皇女墓に合葬し、その際高級な夾紵棺を新たに作ったと見た。
 しかし〈猪熊兼勝〉は、叡福寺北古墳は六世紀後半のもので、三体すべてが夾紵棺に納められて叡福寺北古墳に改葬されたと述べる。 その場合、最初から墓はこの場所にあり、それが改装され棺も作り直された。または他の場所に葬られていた遺体をこの場所に移して新たに円墳を築いた。 この二通りが考えられる。しかし、このどちらにしても三体同時に改葬されたなら、奥棺の台石だけ低いのは何故だろうか。 やはり、改めて学術的調査がなされることを望みたい。石室の石組の技術水準によって、築陵の時期は相当絞られるであろう。 格狭間の様式や、正面棺の加工を見れば、石が彫られた時期も推定できるであろう。それらによって、太子が薨じてから埋葬されるまでの経過もある程度推定できよう。 仮に、学術調査の結果太子墓ではないという結論が出てしまったとしても、それはそれで一つの進歩ではないだろうか。
《真の被葬者》
 墓誌がなければ、被葬者を特定することはできない。しかし、 夾紵棺が用いられたことから見て、被葬者は少なくとも7世紀後半に納棺され、相当尊い地位にあった人物であったと見てよいであろう。
 また、〈伝暦〉の記述を見ると、平安に入る以前の段階で叡福寺北古墳が太子と妃の合葬墓と認識されていた可能性が高いと思われる。
 太子が薨じてから、仏教の発展に伴って太子の聖人化は絶え間なく進んでおり、 太子が忘れ去られる時期などはなかったと考えるのが自然である。ならば太子墓の位置の記憶も、埋葬時から途絶えることなく継承されたのではないかと思うのである。 仮に叡福寺北古墳が太子墓だとすれば、改葬された墓であることは明らかで、その改葬自体が宗教行為としての何らかの意味をもっていたのは間違いないであろう。

まとめ
 書紀における太子は、摂政としての現実政治を推進し、また勝鬘経・法華経〔おそらく維摩経も〕を説く仏教界の聖人という二重性をもって描かれている。
 その政治的行為として特筆されるのは、冠位十二階の制定である。実際に人物名が「大礼」「大徳」などを添えて表記されるから、史実であろう。 十七条憲法には後世の加筆があると思われるが、〈推古朝〉の段階でも、ひたすら官僚が一体の組織となって働くことを望んでいたと考えてよい。 政府機関は諸族の代表者による利害調整機関から脱して、単一体として国家を運営する組織であれという。 十七条憲法は出身氏族の壁を取り除く心得の指南で、冠位十二階は単一組織内における格付けである。 朝廷に出勤した官が門を通る際の作法の定式化も、その中に位置づけられる。 この官僚の統一体を確立する努力はその後も続き、大化の改新から大宝令・養老令に発展する。
 ただし、政治面で権力を握ったのが実は蘇我馬子大臣であったことは、堅塩媛の改葬などの場面で隠すことなく描かれている。 ならば、太子が行ったと描かれる政策も実際には馬子の業績なのであろうか。
 しかし、冠位十二階制定などの政策は、太子・推古・馬子の合議による政府の営みと見るべきだろう。 これは国家の根幹をなす支配体制の確立であり、政府の構成員の個々の利害を超えている。 その決定事項は、形式として必ず天皇〔当時はオホキミ〕の勅として発せられた。 その意味で、現実政治の営みにおいて太子は決して蚊帳の外ではない。
 しかし、皇太子・摂政といういわば天皇と同等とも言える立場を子孫に引き継ぐことは叶わなかった。 書紀は歴史の結果に合わせて、太子の子孫の系図をばっさり削除したのだろう。 関連する部分を含めて書き直され、その結果〈推古〉・〈舒明〉巻の初稿はα群であったが、β群になったと見る。
 仏教の面では、太子の巨大な業績は疑いのないところである。 太子が仏教国家としての国の再生にあたって、仏教の古典的教義の真髄を自分の頭脳で理解しようとしたのは明らかである〔資料[52]参照〕。 仏教化が高句麗や隋から招いた僧、また隋に派遣した留学僧の力によることは間違いないが、その枠組みは太子が作ったと見てよい。
 太子が即位することなく早逝し、子孫も皇位につくことを妨げられた現実を見て、当時の人々の中にそれに同情する気持ちは間違いなくあったであろう。 〈天寿国繍帳〉で太子に「崩」が使われ、〈三尊光背銘〉で「法皇」と表現するのはその表れかも知れない。 その感情が、太子をせめて仏教界において、不世出の聖人として讃えようとする気持ちを高めたと考えてみたらどうであろうか。
 太子は、政治的存在としては天皇を継承できなかった敗北者として、いったんは小さな墓に納められたのかも知れない。 しかし、その後になって業績を再評価する心ある人々の声により、当時としては精いっぱいの規模の墳墓を築き〔または穴太部間人皇女墓を改造して〕、夾紵棺に納めて改めて葬儀をしたと考えることもできよう。



[22-11]  推古天皇6