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2022.01.13(thu) [22-07] 推古天皇7 ▼▲ |
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14目次 【十七年】 《筑紫大宰奏上言百濟僧泊于肥後國葦北津》
〈宣化元年五月〉で見たように、 〈推古十七年〉〔609〕の時点では、「大宰府の機能は、まだ「那津之口官家」にあったと思われる」。 那津之口官家の比定地は、比恵遺跡群が有力視されている。 《呉国》 隋の建国は581年であるから、もう統一されている。 それでは、この話はそれ以前の戦乱の時代であろうか。 ここでは一応根拠のある話だと仮定して、話を進めよう。〔荒唐無稽の伝説と決めてしまうと、すべての検討は無意味となる〕 その場合、「元興寺に住まわせる」とする以上は元興寺建立年※よりも後の話ということになる。 ※…一応塔が竣工した596年=〈推古四年〉が考えられる(資料[50])。 中国を呉と呼ぶことは〈雄略紀〉に見られ、三国時代の古い国名のまま呼称とされていたと見られる。 〈推古紀十五~十六年〉では既に「大唐」であるが、その後も一部に「呉」という呼称が紛れこんでおり、二十年にも百済人の味摩が帰化し「呉で学び、伎楽舞を習得した」と話したことが載る。 十七年でも、一応隋のことだと考えた方がよさそうであるが、入国できなかった理由を「乱」とする部分だけは、別の時代のことだと見た方がよいだろう。 下述するように、船がこのときと同様にコースを外れることは珍しくないはずだから、複数の伝説の混合と見るべきか。 《聖帝》 「聖帝」という表現から見て、出典は「百済文書」〔本サイトの造語〕ではないだろうか 〈(欽明十五年〉《百済文書》)。 入国を「歓喜」とするように、倭に阿る表現は、百済王氏が朝廷に食い込むための戦略であった。 《暴風》
「暴風」というとき第一候補は台風であるが、時期的に可能性は薄い。 4月中旬だと東シナ海で発生した低気圧が日本付近や日本海で急発達するケースがままある。 この場合、突然強まる暴風の風向は、東シナ海では北西である。 すると、舟は長崎以北の東シナ海もしくは黄海で予定航路から外れ、北西の強風によって肥後まで流されたとするのが、最も考え得るコースである。 その場合、右図のような天気図が想定される。このときの福江(五島列島)では、瞬間最大風速は22.3m/秒(6日17時30~40分)が観測されている〔気象庁ホームページ;過去の気象データ検索による〕。 このような気象条件は、春先や晩秋にしばしば現れるから、同じように倭に流れ着くことはそれほど珍しいことではないだろう。よって上述したような、複数の伝説の混合は考え得る。 暴風への訓は、おそらく台風ではないからノハキノカゼ(野分の風)は不適切である。ハヤテ、または古訓のアラカシマカゼ(またはアラカサマカゼ)となろう。 《大意》 十七年四月四日、 筑紫の大宰(おおみこともち)の奏上があり、申すに 「百済の僧、道欣(どうこん)と恵弥(えみ)が首となり、 僧十人と俗七十五人が、 肥後の国の葦北津に停泊しました。」と申しました。 そこで、難波の吉士(きし)徳摩呂(とくまろ)、 船史(ふなのふみと)龍(たつ)を遣わしました。 そして「どうして来たのか。」と問うと、 答えて、 「百済王は命により、呉(くれ)国に遣わしました。 その国に乱があり、入ることができず、 また本国に帰りました。 すると突然暴風に遭い、海中を漂いましした。 けれども幸運なことに、 聖帝の国の辺境に停泊できました。 よって歓喜しております。」と申しました。 五月十六日、 徳摩呂らは復命しました。 そこで、徳摩呂、 龍の二人を現地に戻して、 百済人たちを引き連れて、本国に送らせました。 対馬に到着したところで、 修行者たち十一人が皆、倭に留まりたいと要請し、 そこで上表して留めました。 よって、元興寺(がんごうじ)に住まわせました。 九月、 小野妹子臣らは、大唐〔隋〕から帰国しました。 ただ、通訳の福利は帰国しませんでした。 15目次 【十八年】 《高麗王貢上僧曇徵法定》
二人の使者の名前には、所属する部(ホウ)と位階が冠せられている。 ●〈新羅使人〉沙㖨部奈末竹世士:沙㖨部・奈麻。 ●〈任那使人〉㖨部大舎首智買:㖨部・大舎。 この部と位階は儒理尼師今の時代に定められたと、『三国史記』に記されている。
六部とは、「朝鮮古代の新羅王畿の地域区分。六村ともいわれ」、「新羅王畿は慶州盆地と周辺の五つの谷間からなり,ほぼ現在の慶尚北道慶州市・同月城郡にあたる」〔世界大百科事典;平凡社2014〕。 「history.go.kr」〔韓国の歴史解説サイト〕 の"教科書用語解説"によると、 六部は「及梁部[喙部]、沙梁部[沙喙部]、牟梁部[岑喙部]、本彼部[本波部]、韓岐部[漢只伐部]、習比部[斯彼部]」からなり、 「独立して特定の地域を支配する政治団体の性格を維持した。各部門は自治的に統治され」、 「4世紀半ばまでに、新羅は6部構成の段階を克服し始め、6世紀の初めまでに王室を中心とした中央権力に発展」したという。 要するに新羅の六部とは、建国時の六村に起源をもつ族名である。
竹世士と首智買は、共に六部に所属し位階を負っていることから見て、二人とも全くの新羅人で、 副使に名目として「任那使」を兼ねさせたと考えられる。これをもう少し細かく推察すると、 ①新羅が倭の要請を受け入れ、副使に「任那使」を名乗らせて派遣した。 ②倭が副使を一方的に「任那使」と呼んだ。 ③実際には二人とも新羅使であったが、書紀を書く段階で潤色した。 の三通りが考えられる。 直感的には、③の可能性が高い印象を受ける。それは、接待役があまりに整然と割り振られているからである。 しかし、かつて〈崇峻〉四年、 〈推古〉十年では筑紫に兵力を終結したが、 結果的に渡海に至らなかった。それぞれ同時期に新羅に使者を派遣しているところを見ると、外交交渉によって一定の成果を得たことによる攻撃中止と見られる。 その交渉の内容を想像すると、倭は任那〔実際には加羅地域の一部〕での倭の支配権を要求したが拒否され、新羅による朝貢の一部を「任那」からと装うことで折り合ったという筋書きが浮かび上がる。 十八年の新羅使の派遣は、まさにその成果を示す一大機会だったから、かつての新羅使への冷淡な仕打ち (〈敏達〉七年・十一年)とは打って変わって、 大歓迎の舞台を整えたと解釈すると、かなり理解しやすい。 出迎えスタッフを新羅使向けと任那使向けにスパッと二分したのは書紀による潤色であろうが、 新羅使の一人が名目上の任那使を演じた程度のことは考えてもよいかも知れない。 こういう細かい箇所を拾わないと、結局書紀の新羅の記述全体を頭ごなしに虚構と決めつけることになる。いわば思考停止に陥ってしまう。
阿斗河辺館はどこにあったのだろうか。 〈雄略紀七年是歳〉《吾砺広津》の項で、大和国磯城郡〔古くは式下郡〕の「阿刀」を見た。 そこには、「阿斗桑市の館」(〈敏達十二年〉)も出て来る。 阿斗は、{河内国・渋川郡・跡部【阿止倍】郷}〈倭名類聚抄〉と見られ、式内跡部神社〔八尾市亀井町〕がある(〈用明二年四月〉《阿都》)。 刀、都はト甲、跡もアト甲であるのに対し、 〈倭名類聚抄〉の止はト乙であるが、同書が成立した平安時代には甲乙の区別は既に消滅している。 かつて阿斗には、物部守屋の別業があったと見られる。 守屋は〈用明二年七月〉の乱で敗れて別業は接収されたが、その邸宅が朝廷の所有となり、そこに新羅の館が建ったことも考えられる。 「河辺」の名がついているのは、移動に船を利用したことと関連するかも知れない。渋川郡の東には長瀬川(九宝寺川)が流れている。九宝寺川は、江戸時代に付け替えをする前の大和川から淀川に向かって流れていた。 大和川は、難波と飛鳥を結ぶ交通路として重要な役割を果たしていたと考えられる。 朝鮮半島からの使者が、朝貢の品とともに船で移動した可能性は高い。 ただ、ここに八日に落ち着き、飛鳥の小墾田宮の儀礼が九日に行われたとすると、その間隔はあまりにも短い。 この観点のみで考えれば、式下郡の阿刀村を館の場所とする考えも捨てがたい。 しかし、小墾田宮の建物の配置を第249回の図から想定してみると、 「庭」をどれほど広く取れたかは疑問である。儀式の細部は実は観念的に書かれたものかも知れず、だとすれば日程の信憑性も危うくなってくる。 逆に、日程は信用できるものとすると、「庁」が難波の副都の建物であった可能性も考えなければならない。 奈良時代には、難波も京師と呼ばれ、摂津職が置かれていた(資料[19])。 〈推古朝〉の頃には、既に副都として機能していただろうと思われる。 《難波の政庁の可能性》 裴世清を迎えたときは海石榴市で郊労しているので、小墾田宮前で儀式が行われたのは確実である。 そのときは、庭に返貢(国信物)を積み上げ、国書を読み上げた後に「大門前の机上」に置いた。従って大門内の庭に返貢を置いたらもう、人が並ぶことはできない狭さだと読むことが可能である。 それに対して今回は、南門から庭に入って儀式を行い、最後は、大臣馬子が「庁」の前に立った。 「大殿」ではなく「庁」なのは、天皇の居住する宮殿ではなく、政務を執り行う建物だからである。 そして、参列者の座席を整然と並べるだけ広さが、庭にはあった。 だから、阿斗河辺館から一日という距離を最優先しようとすれば、宮殿の構造の違いから新羅使の接受は難波宮で行われたとする仮定は、一応は成り立つ。 《接待役》 ●額田部連比羅夫…隋から訪れた裴世清一行を、海石榴市で郊労した(十六年八月)。 ●膳臣大伴…膳臣の祖は磐鹿六獦命(資料[07])。 もともとは朝廷の膳〔食事の用意〕を担ったが、一族は外交などに幅広く活躍した。「大伴」は個人名で、登場はこの場面だけである。 ●秦造河勝…秦造は、秦氏全体の統率を担う。河勝は、蜂岡寺(広隆寺)を建立した(十一年十一月)。 ●土部連菟…土師部は〈姓氏家系大辞典〉「職業部の一にして、土器を製作するを職とせし品部也。」 神話的な起源は、殉葬の習慣を改めて埴輪を開始した、野見宿祢を始祖とする (〈垂仁三十二年〉)。 菟はこの場面のみ。卯年生まれによる名であろう。 ●間人連塩蓋…〈姓氏家系大辞典〉「間人 ハシビト ハシウト ハシフト マムト:御名代部の一種か。」 「間人連:神魂尊の裔にして、〔先代旧事記〕天神本紀に「天玉櫛彦命、間人連等の祖」と見ゆ。」 丹後国竹野郡の「間人」は、間人氏の本貫だったのかも知れない(第239回《丹後国竹野郡間人》)。 氏人に〈孝徳紀〉間人連老老、〈斉明紀〉間人連御廐、〈天智・天武紀〉間人連大蓋。塩蓋はこの場面のみ。 ●阿閉臣大籠…阿閉臣は孝元天皇の皇子大彦を祖とする(第108回)。 大籠はこの場面のみ。 《四大夫》 ●大伴咋連…また大伴囓連。物部守屋の乱に参戦(〈崇峻即位前〉用明二年七月)。 新羅攻撃の大将軍を務め、裴世清を迎えた朝廷前儀式に参加(十六年八月《大伴囓》)。 ●蘇我豊浦蝦夷臣…蝦夷は、蘇我馬子の子。〈推古〉が崩じた後、次代天皇の有力候補であった山背大兄王を排除して田村皇子を即位させた。 ●坂本糠手臣…物部守屋の乱に参戦。 外交交渉のために百済に派遣(九年二月)。 ●阿倍鳥子臣…阿倍鳥は、裴世清を迎えた朝廷前儀式で導者を務めた(十六年八月)。 鳥は、酉年生まれによる名前であろう。「子」は愛称の接尾語と見られる。 《自位立之》 ここでは位は座席であるが、「地位による席順による席」のニュアンスを含むと見られる。 《河内漢直贄》 もともと、西漢は首姓、東漢は直姓であった(資料[25]《文宿祢》) 〔西は河内、東は大和を指す〕。なお東漢の祖は阿知使主、西漢の祖は王仁である。 よって、「河内直」は姓がねじれている。 この問題について〈姓氏家系大辞典〉は「〔河内漢直は〕その直姓なるを考ふれば倭漢氏と同族ならんか。 何となれば帰化族にして直姓なるは倭漢氏の外に見るを得ざればなり」 〔直(あたひ)を姓とするのは倭の方の漢(アヤ)氏だから、「河内漢直」はそちらに属するだろう〕と推定している。 河内漢直贄は、ここ以外には登場しない。 《錦織首久僧》 〈姓氏家系大辞典〉には錦部・錦織(にしごりべ、にしごり)は、「錦を織る品部を云ふ…〔中略〕…雄略紀八年条…〔中略〕…仁徳紀に見ゆれば、甚だ古くより存ぜしを知るべし。 但し綿は支那〔=中国〕渡来のもの也」、そして美作から信濃まで幅広く見出している。 「錦織首(錦部首)」は「物部氏の族也。 蓋し山城錦部の伴造家にて、和名抄、山城国愛宕郡錦部郷とある地の稲置なるべし」という。 〈新撰姓氏録〉には〖山城国/神別/錦部首/〔神饒速日命〕十二世孫物部目大連之後也〗とあるが、天孫本記には出てこない (資料[37]、[39])。 〈姓氏家系大辞典〉が「物部氏が此の部と関係するに至りし起源は詳かならず」とするのも、そのためか。 久僧の名が出て来るのは、ここだけである。 《大意》 十八年三月、 高麗(こま)王、僧曇徵(どんちょう)、法定(ほうてい)を献上しました。 曇徵は、五経を知り、 また上手に彩色の物、および紙、墨を作り、併せて碾磑(てんがい)〔水車で石臼でひく仕組み〕を造りました。 けだし、碾磑の製造は、この時から始まったかと思われます。 七月、 新羅の使者、沙㖨部(さたくほう)奈末(まな)竹世士(ちくせいし)と、 任那の使者、㖨部(たくほう)大舎(たさ)首智買(しゅちばい)は、 筑紫に到着しました。 九月、 使者を派遣し、 新羅と任那の使者を招致しました。 十月八日、 新羅と任那の使者は〔飛鳥の〕京に至りました。 この日、 額田部連(ぬかたべのむらじ)比羅夫(ひらふ)を、 新羅の客人を迎える飾り馬の長に任命し、 膳臣(かしわでのおみ)大伴(おおとも)を、 任那の客人を迎える飾り馬の長に任命し、 こうして阿斗(あと)の河辺(かわべ)の館(むろつみ)に滞在させました。 九日、 客人たちは、朝庭に拝礼しました。 このとき、秦造(はたのみやつこ)河勝(かわかつ)と 土部連(はにしべのむらじ)菟(うさぎ)を 新羅の誘導役とし、 間人連(はしひとのむらじ)塩蓋(しおふた)、 阿閉臣(あへのおみ)大籠(おおこ)を 任那の誘導役として、 共に案内して、南門から入り、 南庭の中に立ちました。 その時、大伴の咋(くらう)連(むらじ)、 蘇我豊浦(そがのとゆら)の蝦夷(えみし)臣、 坂本の糠手(あらて)臣、 阿倍(あべ)の鳥子(とりこ)臣は、 共に座を起(た)って進み、庭に伏しました。 そして、両国の客人のそれぞれが再拝して、 使者の趣旨を奏上しました。 そのあと、四人の臣は、起って進み、大臣(おおまえつきみ)に啓上しました。 そして大臣〔蘇我馬子〕は座から起って、 政庁の前に立ち、〔天皇の〕お言葉を承りました。 こうして拝礼を終え、禄をそれぞれに応じて客人に賜りました。 十七日、 使者を朝廷に招き、饗宴しました。 河内漢直(かわちのあやのあたい)、贄(にえ)を新羅の共食者(あいたげひと)とされ、 錦織首(にしごりのおびと)久僧(くそ)を任那の共食者とされました。 二十三日、 客人たちは拝礼の行事をすべて終え、帰国しました。 16目次 【十九年~二十年正月】 《藥獵於菟田野》
日付を干支表記しないのは、節句の行事であることを示すためであろう。 他には、〈顕宗天皇〉の曲水宴は三月三日であるが、書紀では「三月上巳」と表現される。 なお、一月七日、七月七日、九月九日は書記には出てこない。 《菟田野》 「菟田野町」が1956年~2006年の期間に存在し、現宇陀市の南東部にあたる。同町は宇太町と宇賀志村が合併して成立したもので、 書紀に因んで命名されたと思われるが、書紀の菟田野と比定する確かな根拠はなさそうである。 ただ、宇陀郡内ではあろうと思われる。 現在、藤原京の辺りから宇陀郡に入る道は、国道166号線と165号線で、古代からの道であろうと考えられる。 よって、大宇陀内原あたりと榛原駅付近を想定してみた。いずれも藤原京〔〈持統五年〉の新益京〕からは10数km離れている。徒歩で4時間程度か。 それなら集合を夜明けとするのは、理屈に合う。だが、正装で野道を行くのは大変だったであろう。 《集》 「集(つどふ)」は、自動詞〔四段〕だとすれば薬猟行事を自発的に立ち上げ、他動詞〔下二段〕だとすれば招集されて参加したことになる。 ここでは「前の部領」・「後の部領」が定められているから行動は統率され、従って他動詞と読むべきであろう。 《粟田細目臣》 粟田臣は、〈倭名類聚抄〉{山城国・愛宕郡・上粟田【阿波多】郷/下粟田郷}〔三条大橋から東山道・東海道沿い〕で起こったとされる。 伝説上の祖は、天押帯日子命〔孝昭天皇の皇子〕で、春日氏系(第105回)。 細目は、後に〈皇極天皇紀〉にも登場。粟田臣は〈天武十三年〉に朝臣を賜る。 《部領》 前部領・後部領は、列の前後を挟んで途切れないようにする役割であろう。 遠足で小中学生を引率するときの、教員の配置を想起させる。古訓のコトリは、もともと子供を引率する意味の「子取り」だったのかも知れない。上代から存在した語かも知れない。 このように前後に配置することから、狭い山道を進む様子が見えて来る。
〈時代別上代〉によれば「もちゐる:この語はのちに上一段・上二段の両活用が現れ、行もハ行・ワ行の両形式が見られるので、もとの活用形式に議論があったが、 今はワ行上一段ということに落ち着いている」。すなわち、平安時代以後には、モチフ・モチウ(上二段)、モチヒル・モチヰル(上一段)の四種類があったという。 〈岩崎本〉古訓では、はじめはモテス〔モテ+サ変動詞〕。スの第二画を消して上に点を加えて「ウ」、テはチと殆ど同型なので手を加えずにチと読むことにしたようである。 《新羅・任那による朝貢》 ●沙㖨部奈末北叱智:沙㖨部・奈麻。 ●習部大舍親智周智:習比部・大舎。 ここでも共に新羅の部と位階を負っていることから見て、二人とも新羅人である。 《歌意》
「如此しもがも」は願望で、「如此」は「仕へまつる」を予め指す。ツキ乙は従来盃と解されてきたが、甲乙違いになるので、 〈時代別上代〉は「歌+貢=ウタヅキ乙」と解釈する。 なお、音仮名"豆"には清音も濁音もあるが、濁音が万葉では圧倒的・書紀でも優勢で、貢の意だとすれば連濁である。 「名詞+マツル」がヲ抜きで直結することに疑問を感じたが、 万葉を見ると「幣奉(ぬさまつり)」が複数〔3217など6例〕あるので、問題なさそうである。 この意味の場合、ウタヅキとして奉る歌の内容は「萬代千代に仕えます」なので、この歌を貢ぎすることは、事実上「歌に託してわが身を捧げます」と言うに等しい。 これは、〈釈紀-和歌〉の解釈「この歌を献りてかしづき奉る」と結果的に一致する。
「宇倍」については、〈岩崎本〉〈釈紀〉は「上」と読み、先祖代々と解釈している。一方「諾」も考えられ、yesの意である。 音仮名"倍"の清:濁の比率は、書紀で約9:1、万葉集で約2:1である(「万葉仮名一覧」による)。 この比率では、清濁は決定できない。 助詞カモには詠嘆と疑問があるが、感歎の文章の中ではどちらも可だろう。 ツカハスは「使ふ+軽い尊敬のス」。大王とともに、自敬表現とみて差し支えないだろう。 これらを組み合わせると、蘇我馬子が「敬い畏みて末永くお仕えします」と申し出ていることに対して、「本当に私が使ってよいのですか」という文として完結させることができる。 つまり、良馬・良剣にも例えられる優秀な人物を手に入れられると知り、その感激を表現する。諾と読めばこのようにみずみずしさが躍るから、もはや「上」に固執する必要はない。 《天皇和曰》 歌意から考えて、「和」とは尽くしてくれる相手に対して、心からの信頼と親しみを寄せる感情である。 ただ「協調しましょう」という程度の薄っぺらいものではない。この歌の解釈は、十七条憲法の「以和為貴」の訓読にまで影響を及ぼすものといえる。 《大意》 十九年五月五日、 菟田野で薬猟(くすりがり)〔薬草の採取〕を行いました。 鶏鳴(けいめい)〔夜明け〕に藤原池の辺りに集合し、 会明(かいめい)〔曙〕となったところで出かけました。 粟田(あわた)の細目(ほそめ)臣が先頭の長、 額田部(ぬかたべ)の比羅夫(ひらふ)連(むらじ)が後尾の長となりました。 この日は、諸臣の衣服の色を皆冠の色と同じくして、 それぞれも髻花(うず)を著け、 その髻花には大徳・小徳は揃って金を用い、 大仁(だいにん)・小仁は豹の尾を用い、 大礼(だいらい)以下は鳥の尾を用いました。 二十年正月七日、 群卿とともに酒宴を開催されました。 この日、 大臣〔蘇我馬子〕は、寿歌を献上しました。 ――八隅知し 吾(わが)大王(おほきみ)の 隠ります 天(あま)の八十影(やそかげ) 出(い)で立たす 御空を見れば 万代(よろづよ)に 如此(かく)しもがも 千代にも 如此しもがも 畏(かしこ)みて 仕へまつらむ 拝(をろが)みて 仕へまつらむ 歌貢(うたづき)まつる 天皇(すめらみこと)は、和して歌詠みされました。 ――真蘇我よ 蘇我の子等は 馬ならば 日向(ひむか)の駒(こま) 太刀ならば 呉の真(ま)さひ 諾(うべ)しかも 蘇我の子等を 大王の 使(つか)はすらしき まとめ 新羅使が朝廷を拝したとき、儀式を主導したのは蘇我馬子大臣である。 また、酒宴の和歌においては、馬子に対する天皇の厚い信頼が示される。 今や、最高権力者は馬子である。ここでは太子はすっかり影を潜めている。 さて、任那は既に〈欽明二十三年〉に滅びたのに、〈推古十八年〉に使者を送ってきた。 今回「任那使」を称する人物は新羅の部と位階を負っていて、新羅人が演じていることは明らかである。 ところが、さらに〈推古〉三十一年でも、既に滅びたはずの任那が蘇っていて、またも新羅によって討たれる。 もう、任那についての記述は、欺瞞とも言い得るレベルに達している。 遣隋使の件では史料価値はとても高かったのだが、こと新羅と任那に関しては怪しげなものがかなり含まれており、まさに玉石混交である。 ただ、作為的な箇所についても、語句を丹念に拾っていけば作為の痕跡が容易に見えて来る。 それは、執筆担当者が実は上層部の方針に反発していて、読む人が読めば分かるようにわざと書いたのではないかと思えるほどである。 そもそも任那国の実在性については、〈神功皇后紀〉と〈欽明紀〉の段階で、結論は明らかであった。 今や問題の焦点は、「百済国」の虚像が、書紀の段階で突然生み出されたのか、 史実として、既に古い時代〔例えば〈推古朝〉〕から形成されてきたものかに移っている。 この問題については、資料[32]において「虚構の任那国を描くことは、書紀から始まったことではない。 既に聖徳太子の時代から「任那国」が存在するが如く演出することが、百済や新羅との外交儀式の一部になっていたのである。」との見通しを示したところである。 |
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2022.01.27(thu) [22-08] 推古天皇8 ▼▲ |
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17目次 【二十年ニ月~是歳】 《改葬皇太夫人堅鹽媛於檜隈大陵》
堅塩媛は蘇我稲目の女で、記は「岐多斯比売」(第239回)。書記では欽明天皇の「五妃」の三番目の妃。 なお、皇后(石姫)は妃と区別され、地位は優越的である。 豊御食炊屋姫尊〔推古天皇〕の母にあたる。(〈欽明〉二年) 「皇太夫人」の「夫人」は「妃」とともに「皇后」以外のキサキである。 堅塩媛は皇后ではなかったから「皇太后」とは呼べず、「皇太夫人」という珍しい表記になったと思われる。 《夫人の地位》 夫人については、『令義解』-後宮職員令:「妃二員:右四品以上。夫人三員:右三位以上。嬪四員:右五位以上」との規定がある。 「員」は定員を意味するが、実際に守られたとはあまり思えない。「後宮職員令」のメインはこの文の後、妃・夫人・嬪に仕える宮人のリストである。 「皇后」については別に定められ、『令義解』-職員令:「中務省」内の「中宮職」が、皇后に仕える。 「中宮【謂二皇后宮一。其太皇大后・皇大后宮亦自二中宮一也】」〔皇后の宮を謂ふ。太皇大后宮(天皇の祖母)、皇大后宮(天皇の母)もまた中宮に自(よ)る〕 と割注〔解が書き加えた解説〕される。 書紀〔720年〕は、大宝令〔701年〕より後なので、「皇后>妃>夫人>嬪」の序列は書記の時代には既に定まっていた。 〈天武二年〉に「皇后(正妃)」1名、「妃」3名、「夫人」3名とあるのは、この序列を〈天武朝〉まで遡らせて適用したものと読める。 ところが〈天智紀〉まで遡ると「皇后1・妃0・夫人0・嬪4」で、妃・夫人・嬪の間に明確な区別は見えなくなる。 〈舒明紀〉では「皇后1・妃0・夫人1・嬪0」。 〈敏達紀〉では「皇后2・妃0・夫人2・嬪0」で、最初の皇后広姫は早逝し、替わって御食炊屋姫〔後の推古帝〕が皇后に就いている。 〈欽明〉では「皇后(正妃)1・妃5・夫人1・嬪0」だが、夫人は「青梅夫人」で、堅塩媛は五人いる「妃」の一人となっている。 なお、それ以前の「夫人」に〈顕宗〉1名、〈雄略〉1名(崩後の呼称)、〈反正〉2名が見える。 こうして見ると堅塩媛が皇后とは呼べないのは確かだが、〈欽明〉の時点では、妃と夫人の間にあまり差はなく、改葬した時点になって初めて「夫人」を用いたと考えられる。 倭語では「妃」もキサキであるから、「皇太夫人」をオホキサキと訓んでも差し支えないが、「皇太后」との違いは漢字表記でないと表現できない。 《檜隈大陵》 さて、堅塩媛が改葬された「檜隈大陵」として、丸山古墳が有力視されている。 丸山古墳は、〈欽明〉「檜隈坂合陵」の真陵と考えられており、堅塩媛は晴れて夫の欽明天皇に合葬されたわけである (〈欽明三十二年〉)。 玄室には二基の棺があり、奥が欽明天皇、入り口近くが堅塩媛と考えたいところだが、なぜか棺の形式では年代が逆転している。 〈欽明天皇〉は、母の手白香皇后が、自身を引き継いだ正当な血筋を継承する皇子として、手塩にかけて育てたと本サイトは考えた。 それ故〈欽明〉陵は原点に戻って、復古的な大前方後円墳を寿陵として築いたものと考えられる。 「合陵」の名称は、堅塩媛が合葬された後の名称を、書紀が遡って用いたものと考えられるが、もともと「境」の意味だったサカイに「坂合」の字をあてたこともあり得る。 改葬にあたって、「軽の衢」で誄 この改葬は、堅塩媛を欽明天皇の皇后クラスに事実上昇格したことを意味する。 その理由は、堅塩媛が〈推古天皇〉の生母だったからに相違ない。 これまで豊御食炊屋姫が、本当に天皇に即位したのか懐疑的であったが、このことを考えると、 実際に天皇〔当時の呼称はオホキミだが、国家の主〕であったのは史実であろうと思われる。 必然的に聖徳太子天皇即位説は否定されることになる。 書紀については、新羅・任那に関係する部分や伝説を納めた部分を除けば、概ね事実関係だと認めるべきであろう。 《阿倍内臣鳥》 阿倍内臣鳥内臣は家内的な地位を表すようにも思えるが、どうであろうか。 〈姓氏家系大辞典〉を見ると「内臣:大和国宇智郡より起る、延喜式当郡に宇智神社を載せたり」、 また「阿部内臣:阿倍臣の族にて宇智郡にありしにより斯く云ふなるべし。」と述べる。武内宿祢系列とは区別して、 阿倍臣の分岐と見たようである。ただし、ウチを地域名の宇智と捉えている。 書紀全体を見ても、役職を示す外臣・内臣という語はどこにも出てこないので、妥当であろう。 前回に登場した阿部鳥、また(阿部鳥子)とも、恐らく同一人物であろう。氏の呼称においてき、分流名を添えることも添えないこともあったと考えるべきかと思われる。 《中臣宮地連烏磨呂》 烏磨呂は十六年六月に、大唐の客〔隋使裴世清ら〕の掌客を務めた。 《八腹臣》 腹臣=「腹心之臣」の意か。〈岩崎本〉、〈図書寮本〉、〈内閣文庫本〉のどれにも訓が振られないから、ごく普通の訓み方 「ヤハラノオミ」と思われる。もしヤタリノと訓んだのなら訓点が加えられたと思われる。〈仮名日本記〉も「やはら」としている。 「腹心」〔股肱の部下〕という語を知る人には、「腹臣」の意味は即座に理解されたと思われる。 《境部臣摩理勢》 境部臣は、〈姓氏家系大辞典〉によれば「坂合部 サカヒベ:職業部の一なり。…境界を定むる為の品部と考へらる」、境界は紛争の起こりやすいので「確定する為に置かれしものなるべし」、 摩理勢については、「境部臣:境部臣摩理勢は、公卿補任に拠るに、蘇我稲目の子とあり。然らば馬子の弟なるべし」、「摩理勢は山背大兄王を奉ず、よりて馬子に悪 《参列者の力関係》
②には具体名が載らない。〈推古〉の皇子には竹田皇子と尾張皇子、皇女には菟道貝蛸皇女など五人がいた。 このうち竹田皇子は〈用明〉二年の乱で、物部守屋への征討軍に加わっていて、 守屋側に像を作って厭われるから、その時点では皇位を争う一人であったようだ。ところがここには具体名が挙がらないから、その芽は既に潰えたようだ。
④からは、蘇我氏が圧倒的な権勢を誇る様子が見て取れる。「八腹臣」という語からは、武田信玄の二十四将図や家康の四天王のようなイメージが浮かぶ。 ①では、阿部鳥は〈推古〉の秘書のような立場と思われるが、蘇我氏には圧倒されているようである。 その印象によって、摩理勢(④)と烏摩侶(③)はまことに堂々と誄を述べたが、阿部鳥(①)はおどおどして誄したと語られたのであろう。 なお、ここに太子の影がないことが注目される。天皇も馬子も誄は代読されたから、太子の誄も代読されて当然だが、それがない。 ただ、太子は摂政だから、太子が天皇名の誄を作ったと見るのが穏当も知れない。 いずれにしても、この改葬儀式は馬子が存在感を誇示するエピソードとなっている。堅塩姫が〈推古〉の生母であることは、ダシに使われたようだ。 だからと言って堅塩姫の棺を玄室の主座に置いたとすれば、それはやり過ぎではないだろうか。 《羽田》 薬猟が行われた羽田は、式内波多 「甕」は活版本では〈延喜式〉〈五畿内志〉ともに「瓦+長」で、「𤭖:U+24B56(瓦+镸)」とは多少字体が異なる。 比定社は、波多甕井神社〔奈良県高市郡高取町羽内235〕。 「高取町観光ガイド」には、 「男性は鹿の若角をとり、女性は薬草を摘んだといい、薬の町・高取町のルーツとも捉えられるような内容であった。」とある。 〈五畿内志-大和国高市郡〉「村里:羽内 波多甕井神社と雷 《自百濟國有化來者》
「中国哲学書電子化計画」で検索すると、病名として「癩」は非常に多いが、「白癩」は『太平広記』に一例あるのみで、決して一般的な語とはいえない。 したがって、書紀の「白癩」は最初から、古訓のようにシラハタもしくはシラハタケと訓まれていたように思われる。 現代の日本では、ごく最近までハンセン病患者が国家の政策によって不当に隔離され、長年理由の全くない苦難を強いられていたが、その間一般に「癩 古い時代の「癩」については、ハンセン病と必ずしもイコールではなく、それ以外の病気も含まれていたと考えられる。 〈是歳〉条に書いてあることは、「帰化した"面身皆斑白"の人の外見は、当時"白癩"と呼ばれる病気の症状に似ていた」、ただこれだけである。 《悪其異於人》 もし「悪其異於人」が「悪其異於其人」だったなら、「其人」は「化来人」を指すことになる。 しかし「於人」のままでは住民を指すと読め、ならば「悪」は受け身〔=にくまれる〕と訓まねばならない。 だとすれば、「見レ悪二其異於人一」の「見」が隠れている。 しかし、〈岩崎本〉は「悪三其異二於人一」〔人にその異 なお、古訓「ケナルコト」には問題がある。万葉には副詞「ケニ」として使われる例ばかりで、形容動詞「ケナリ」の用例がないからである。 《芝耆摩呂》 書紀歌謡に"耆"は比較的多く、キ甲として使われる。 一例を挙げると〈仁徳二十二年〉の歌謡 「虚呂望虚曽(ころもこそ) 赴多弊茂予耆(ふたへもよき甲)」〔衣こそ二重もよき〕がある。 キ甲は形容詞連体形の語尾で、上代にはコソによる係り結びである。 したがって、「芝耆摩呂」はシキ甲マロのはずであるが、〈岩崎本〉では朱書の上に墨書で力強くコと重ね書きされ、 以来シコマロが定着している。 おそらく、話の流れに沿ってシコ乙(醜)-マロと解されたのであろう。書記が最初に話し言葉を音写した段階で違 なお「しこ(醜)」を恐れる感情は神への畏れに通じ、崇拝の対象となることがある。 ここでは、面身すべて斑白の人が追い払われそうになったとき、外見ではなく私の技量を見よと主張した。 それを受け入れて仕事をやらせてみたら、素晴らしい才能を発揮した。かくて、醜は親しみと尊敬に結びつく属性に転じたのである。 《桜井》 桜井については、〈元興寺伽藍縁起并流記資財帳〉に「桜井道場」がある(同Ⅰ縁起)。 同ページでは、「楷井=櫻井=等由良=牟久原であるのも確定的である」と判断した。 御食炊屋姫〔推古天皇〕が小墾田宮に移る前に住んだ「豊浦宮」跡に豊浦寺が建った。 その場所が桜井で、寺の中か隣接する建物であろうと考えられる。 僧侶の読経や伎楽やその舞の稽古をする少年少女の声が響く、賑やか景色が想像される。 《路子工の帰化》 次の二十一年条に太子の慈悲深い行動を載せるので、 その関連で、外見のみで人を貶めることに警告を発する話を置いたとも考えられる。 太子が学んだ、すべての善男子善女人は仏に親近する道に載ることができるという大乗思想は、自然に誰に対しても差別なく思いやる心に人を導く。 太子を描く〈推古紀〉には、またその仏教思想に直結するエピソードを載せ、その一つが芝耆摩呂の件だと言える。 《味摩之らの帰化》 百済からは無数の人が帰化し、技術や芸術を伝えた。 ここには、そのエピソードが二つ取り上げられている。 帰化人というテーマは主に〈応神紀〉に集約されているが、実際には絶え間なく続いていたわけである。 〈推古二十年〉にこれらの話を入れたのは、この時期にこの記録があったからだろう。 《伎楽儛》 「伎楽儛」は、"伎の楽・舞"、"伎楽の舞"という二通りの区切り方ができるが、ここでは一応後者である。 その後に「その舞を習ふ」という文があるからである。 ただ、実際には音楽と一体で伝わり、少年たちは両方を習ったのであろう。なおウタマヒという語はあり、〈倭名類聚抄〉に「雅楽寮【宇多末比乃豆加佐】」とある。 《真野首弟子》 〈姓氏家系大辞典〉「真野」の項には筆頭に「真野臣」を挙げ、本貫{近江国・志賀郡・真野【末乃】郷}〔倭名類聚抄〕で、 同郷に「神田神社が鎮座す、蓋し此の氏の氏神かと云ふ」と述べる。 しかし、真野首については「推古紀に真野首弟子なる者見ゆ」とあるのみなので、その位置づけは不明らしい。 《大市首・辟田首》 〈岩崎本〉は、傍書で「此今大市首辟田首等祖也」の十一字は「本」〔元の書〕にはないと述べ、 実際、〈図書寮本〉、〈内閣文庫本〉、〈仮名日本紀〉にはこの部分がない。 これで分かるのは、〈岩崎本〉の校訂者が他の本も参照していたことである。 さて、「此今大市首辟田首等祖也」に全く訓点が付されていないことが注目される。その理由として、 ①すべての箇所の訓点は、実は他の書から引き写したものである。②誰かが筆写する段階で不正規に書き加えた部分と考え、訓点を検討する対象から除いた。 の二つが考えられる。いくら何でも①はないから、②であろう。 ただ、朱筆の訓点の性格が、集団検討の結果だったことも考えられる。 もしそうなら、誰も見たことがない箇所に訓点が付されないのは当然である。 《大市首》 〈新撰姓氏録〉に〖諸蕃/大市首/出自任那国人都怒賀阿羅斯止也〗。 都怒我阿羅斯等は「大加羅国」の王子で、〈垂仁元年〉に倭国にやってきたと言われる。 本貫の{大和国・城上郡・大市【於保以知】郷}〈倭名類聚抄〉には、卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳があり(第111回《倭大国魂神》)、 大市首は何かと伝説に彩られている。 〈姓氏家系大辞典〉には「天平十四年の優婆塞貢進解に「黒田郷戸主正八位大市首益山」と見ゆるは此の氏人なり」とあり、 大市首という氏族の存在自体は実証されている。 《辟田首》
万葉集ではサキタと訓まれている(4156、4157)。辟にはサクの訓がある 〔避クにあてたもの〕。但し、これは大伴家持が越中守として赴任していた期間に訓んだもので、 この辟田川は越中の川だから、「辟田首」とはほぼ無関係である。音は、漢音ヘキ・呉音ヒャクである。 〈姓氏家系大辞典〉には「辟田 ヒキタ」、「辟田 ヒラタ」の二か所に見出し語を立てるが、主な説明はヒラタの項の方でなされる。 一方で、引田(ヒキタ)の項に「三輪引田君:三輪氏の族にして、大和国城上郡曳田邑より起る」とある。 ヒキタについては、〈延喜式-神名帳〉に{城上郡/曳田神社二座【鍬靫】}があり、城上郡にヒキタの地名があったことは確実である。 ここで〈五畿内志〉を見ると、「城上郡-郷名:辟田 すなわち、江戸時代の認識は「辟田(ひらた)郷=東田村、秉田(ひきた)=白川村」であった。 〈姓氏家系大辞典〉が辟田首の実質的な説明を辟田(ヒラタ)首の方に入れたのも、この江戸時代の認識を引き継いだものと思われる。 けれども「白山」神社が「秉田(ひきた)神社」に比定されたのは明治七年〔1874〕のことというから、 実際には、「式内曳田神社=白山神社」は怪しく、真社は他のところにあったのかも知れない。 一方、〈新撰姓氏録〉に〖諸蕃/辟田首/出自任那国主都奴加阿羅志等也〗とあり、前項の大市首と同じ表現だから大市首と辟田首は双生児的な関係が伺われる。 さらに注目されるのは、古事記〈雄略段〉で、「引田部の赤猪子」が三輪川で見初められたことである (第202回)。 その回で詳細な検討を行った結果、歌謡ではヒケタだが本文では漢字「引田」がヒキタと訓まれたと結論づけた さらに〈天武紀〉十三年に、「三輪引田君難波麻呂」の名があることから、引田氏が三輪氏と同地域にいたことが考えられる。 だから、双子氏族のうち大市首は大市に、引田首は隣接する三輪にいたと考えるのが合理的である。 辟田郷もそこかも知れない。 そもそも、〈五畿内志〉の「辟田 秉田神社については、先に述べたように江戸時代の不確かな判断かもしれないが、引田一族が白川地域に移動して曳田神社を氏神とした可能性もあろう。 その場合でも辟田の訓がヒキタであったことを否定されない。 以上の検討により、辟田首の訓はヒキタノオビトとすべきと判断する。 《大市首辟田首等祖》 「此」が味摩之を指すのか、弟子・済文を指すのかは不明寮である。 〈姓氏録〉では、大市首・辟田首ともその祖は「任那人のツヌガアラシト」と自称する。 前者なら、〈姓氏録〉とは始祖の名前と渡来した時期が大きく異なる。 後者だとすれば、始祖ではなく系図の通過点の人物とすれば矛盾はなくなるが、 この文脈で祖を書くのならやはり渡来人の方ではないだろうか。 もっとも、〈岩崎本〉の注が述べるように、誤って紛れ込んだものだとすれば気にする必要もない。 《大意》 〔二十年〕二月二十日、 皇太夫人堅塩媛を桧隈(ひのくま)の大陵に改葬しました。 この日、軽の街頭で誄(るい)を捧げました。 第一に、阿倍の内(うち)の鳥臣が、天皇(すめらみこと)の命(めい)を誄(るい)し、 次いで奠霊(てんれい)〔霊に捧げる副葬品〕は、 明器〔日常品の作り物〕、明衣の類、一万五千種がありました。 第二に、諸の皇子(みこ)たちが、席次にしたがってそれぞれ誄しました。 第三に、中臣の宮地(みやところ)連(むらじ)烏摩侶(うまろ)が、大臣〔馬子〕の辞を誄しました。 第四に、大臣(おおまえつきみ)〔馬子〕は八腹(やふく)の臣〔八人の腹心〕を率いて、 境部の摩理勢(まりせ)臣に、祖先以来の氏姓を誄させました。 当時の人は、 「摩理勢(まりせ)と烏摩侶(うまろ)の二人は上手に誄したが、 ただ鳥臣は誄することができなかった。」と言ったものです。 五月五日、 薬猟(くすりがり)を行い、羽田(はた)に集いました。 その後列をなして朝廷に参上し、 その裝束は菟田の薬猟のときと同じでした。 この年、 百済国から帰化した人がおり、 その顔と体全体に白斑がありました。 人々は、もしや癩を患っているかもと、 その人の異様さを憎み、 海の離島に捨てることを欲しました。 しかし、その人の言うには 「もし、私の皮膚の斑なさまを憎むのなら、 白斑(しらふ)の牛馬を国中で畜産してはならない。 それに、私には小才があり、よく〔庭園に〕山岳の形を構えることができる。 それ、私を滞在させて使ってもらえば、国のために利があるだろう。 どうしてこれを無にして,離島に棄てようというのか。」と言いました。 すると、人々はその言葉を聴いて棄てることをやめました。 そして須弥山(しゅみせん)の模して、呉橋〔唐橋〕を宮殿の南庭に構築しました。 当時の人はその人を路子工(みちのこのたくみ)と名付け、 別名醜麿(しこまろ)と呼びました。 また百済人の味摩之(みまし)が帰化し、 「私は呉(くれ)で学び、伎楽の舞を取得しました。」と申しました。 そこで、桜井に置き少年を集めて、伎楽の舞を習わせました。 こうして、真野の首(おびと)弟子(てし)と 新漢(いまきのあや)の済文(さいもん)の 二人がこれを習い、その舞を伝えました。 これが今の大市の首、 辟田(ひきた)の首らの先祖です。 18目次 【二十一年】 《作掖上池畝傍池和珥池》
現在、JRの駅名に"掖上"がある。これは、かつて存在した「掖上村」によるが、明治時代に発足した村に新しくつけた村名だから、書紀の「掖上」の位置を定めるのには役立たない。 文献を見ると、例えば『国史大辞典』〔吉川弘文館;1997〕は、「斎藤美澄〔1857~1915〕の編纂した『大和史料』〔1914〕では、掖上池心宮の所在地を「御所町ト秋津村大字池ノ内トノ間ニアリ」」 とし、現在の奈良県御所(ごせ)市の市街地と御所市池之内との間に求めている」と述べる。 次に『大日本地名辞書』〔1907〕は「掖上池心宮址」の項で「大和志書紀通証に池内 「掖上村」は町村制で初めて登場し、書紀の「掖上池」、「〈孝安天皇〉掖上心池宮」がこの辺りだと考えられていたことを示すものである。 町村制〔1889年〕は、『大日本地名辞書』よりも古い。 さらに遡ると、〈五畿内志-大和国葛上郡〉〔1734〕に「山川:腋上池【在二井戸村一推古天皇二十一年冬十月作腋上池即此】」とあり、 ここで初めて、掖上池を池之内の外に求めた説が現れる。 以上から、掖上池が池内村付近となったのは、1734年から1889年までの間となる。 その「御所と池内の間」説が何を根拠にして出てきたかを知りたいが、それが分かる資料にはまだ辿り着いていない。 《書紀の記述と推定地》 本サイトでは、既に〈孝昭天皇段〉(第105回)において、 この地が掖上である可能性について独自に考察した。 その時注目したのは、「掖上室山」なる語である(〈履中紀三年〉)。 そして池之内が地理的に室村〔現在は御所市室(大字)〕に隣接するのは確かである。室の背後は山地で、それが「室山」であろう。 室について〈五畿内志〉には「村里:室【一作二牟婁一】」、 「山川:室山【室村上方桜落 もう一つ、〈神武三十一年〉に「登二腋上嗛間 つまり「掖上室山」の"室"、「掖上嗛間」の"本間"、「掖上池」・「腋上陂」の"池之内"はこの地にあった地名だが、不思議なことに"掖上"だけがない。 《掖上の訓み》 掖上の古訓は、〈北野本〉によると次のようになっている。北野本は多くの巻に末尾に卜部兼永〔1467~1536〕により「加一見畢」等の添え書きがなされている。 ●〈神武三十一年〉登 ●〈孝昭元年〉遷 ●〈履中三年〉掖上 いずれもワキノカミとなっている。ムは音便と見られ、ム/ンが未分化の時期の他の本につけた訓点を模した可能性があるが、確かなことは分からない。 「上」は、陵の名前の中では「~ノヘ」と訓まれるから本当はワキノヘで、ワキノカミは古訓の段階での判断で決めたものかも知れない。 《畝傍池》
その「八村」の配置を見ると、深田池の水を桜川を通して利用していたようである。 橿原市史〔橿原市役所;1988〕本編下巻には、 「水がかりが複数の集落の領域に及ぶ場合、用水源のためのため池を共同で維持管理する池郷と呼ばれるまとまりが成立」し、 「深田池は久米、畝傍、大久保、山本、慈明寺、四条、寺田の七集落からなり、…池の下流部の集落から構成されている」とある。 畝傍池の建造時期は、他のいくつかの池とともに〈推古〉の偉大化のために〈推古紀〉に集約されたとも考えられるが、書紀に書かれる以上、その編纂期には既に存在していて農業用水に利用されていたのだろう。 なお、深田池は、現在は橿原神宮の境内に組み込まれている。 《和珥池》 和珥池は、〈仁徳天皇段〉 でも作られた(第163回)。 大きな皿池で、〈五畿内志〉添上郡には、「山川:和珥ノ池【在池田村一名光寺台池広一千五百畝 推古天皇二十一年十一月作即此】」 とある。 『日本歴史地名大系』は「文治二年〔1186;鎌倉冒頭〕の大和池田庄丸帳(根津文書)に「細井池」「香台寺ノ池」」、 「弘法大師が稗田 一つの事業が〈仁徳朝〉と〈推古朝〉の二つの時代に投影されているのは、難波大道でも同様である。 依網池に至っては、さらに〈崇神朝〉が加わり、三つの時代である。 実際にはすべて推古より新しく、偉大な天皇の業績として描くために、やみくもに時代を遡らせたという疑いが生まれる。 しかし、狭山池の樋管が616年〔推古二十四年;推古天皇5〕 であるから、〈推古朝〉における池作りには現実性があり、また〈仁徳朝〉でも巨大な陵を築くだけの土木技術があった。 よって、同名の池を「作る」が複数の時代に書かれている問題は、もし書紀の史実性にできるだけ寄せようとすれば、同一の池に対する築造・修復となる。 一方、記述の不確かさを前提とするなら、同一の池に複数の言い伝えがあると判断することになる。 その場合でも、池の築造そのものは〈推古〉は確実で、恐らく〈仁徳〉ぐらいまでは遡るだろうと思われる。 《大道》
この大道を〈仁徳〉まで遡らせたのは偉大化であろうが、〈推古朝〉の大道についてはどうであろうか。 難波大道は存在し、難波大道(大和川今池遺跡)現地説明会によると、 検出された大道の幅は17mあり、「大和の下ツ道・山田道や藤原京の朱雀大路とほぼ同規模」というから、持統天皇の頃と見るのが現実的である。 ただ、「大道」となるはるか以前から、この経路が陸上交通路として存在していたのは疑いないところである。 もう少し現実的に考えていくと、《歌意》の項で述べるように太子は後に頓宮が建つ竹原井を通った可能性が高い。 竹原井頓宮は、小墾田宮と難波宮のほぼ中間点にあたり、さらに肩岡池に比定される旗尾池にもかなり近い。 また、跡部神社の地には十八年で見た阿斗河辺館も考え得、交通の要所と考えることができる。 すると、横大路から丹比道に入らず、「大坂道から片岡―竹原井―跡部―難波宮」のコースの方が、〈推古二十一年〉前後の太子や新羅使の移動経路に合う。 だから、「大道」とはこの経路の道路の整備と見た方がしっくり来るのである。問題は、この道の幅員がどれほどであったかということになる。 令で「大路」とされる奈良時代の山陽道(幅12mほど)には、当然及ばないであろう。それでも数mはあったかも知れない。いつか大道跡が検出されることを期待したい。 《竹原井頓宮》 〈続記〉には、「竹原井頓宮」への行幸が四例載る(右表)。
その時期は、「土器及び瓦の製作年代から当地では、8世紀初頭に何らかの生活が営まれて」いて、「8世紀中葉に瓦葺き建物が建てられ」 「9世紀には放棄されたことが読み取れ」、 遺跡の性格については「寺院跡 とは考えられない」、「龍田道がこの付近を通っていたと考えられる」、 「文献史学の立場から塚口義信氏が」「「竹原井行宮」は高井田あるいは青谷の地にあったと推論」し、「当遺跡は、まさにその青谷の地にある」と述べる。 〈続記〉は平城京の時代だから、北東の龍田道から入る経路である。 竹原井頓宮は717年には既に頓宮と記述され、太子伝説の存在を考えると、平城京遷都以前から飛鳥京―難波宮の中継地として、飛鳥時代から何らかの宿泊施設が存在したことが考えられる。 《皇太子視飢者臥道垂》
片岡は、王寺町から香芝市までの地域と考えられている。 これについては、十五年七月の肩岡池のところで考察した。 肩岡池に比定される旗尾池と近くの分川池については、聖徳太子が築いた伝説がある。 片岡山の飢えて臥す旅人の話も、この地に深く伝わる太子伝説のひとつかも知れない。 《歌意》
「親無しに汝成りけめや」は反語であるから、「お前をここまで育てたのに、親はさぞ残念だろう」の意と見られる。 すると、旅路で倒れたこの男性はまだ若年であろうか。 〈時代別上代〉は、この歌のナルを「生物が生育する。成長する。生じる。実を結ぶ」意味としている。 そして面倒を見てくれる主君もおらず、孤独の旅に出たのであろうか。 万葉に類歌がある。
この題詞では「こやす」を死と解釈している。 しかし、〈推古紀〉の物語の文脈においては「横たわる」意味である。 《~トノタマヒテ》 この段に付された〈岩崎本〉の訓点には、「ノタマハク~トノタマヒテ」のように、会話文を前後から「言」で囲む形が目立つ。 これは上代語の形で、もちろん他の箇所にも潜在的にはあるのだろうが、ここでは明示される。 また、完了のラ変助動詞「リ」の多用は物語的である。これらの訓読は古事記のスタイルに似て口承文学的である。 なお、〈岩崎本〉訓点のタリについて〈時代別上代〉は「記紀にはまだ用例がなく」というが、これは主に歌謡のことであって、平安時代に付された古訓は範囲の外である。 「哉 《屍骨既空》 墓に葬った後に遺体が消えた伝説は、日本武尊に続き二例目である。 第134回では、これについて「不意に新約聖書を連想させる」と述べた。 太子については、厩戸皇子の名をもつように出生伝説にもキリストとの共通もあり、単なる偶然とは言い切れないように思える。 シルクロードを通した伝説の伝搬も考えたところである。 中国には唐代にキリスト教ネストリウス派が伝わり、「景教」と呼ばれた。 『国士大辞典』〔吉川弘文館;1979~1997〕によれば「中国への公式の伝来は、唐の太宗の貞観九年〔635〕にアルワーン(阿羅本)たちが来たとされ」、 徳宗〔在位779~805〕のときに絶頂期を迎え、武宗になって弾圧されたという。 日本から唐に渡った学問僧が景教徒と接触して新約聖書を知り、それが日本の伝説にも影響を及ぼしたことは十分に考えられる。 《大意》 二十一年十一月、 掖上(わきのかみ)池、 畝傍(うねび)池、 和珥(わに)池を作りました。 また、難波から〔飛鳥の〕都まで大道を敷きました。 十二月一日、 皇太子は、片岡(かたおか)にお出かけになりました。 その時、飢えた人が道の傍らに臥せていました。 そこで、姓名を問われましたが、言いませんでした。 皇太子はこれをご覧になり、食物を与えられ、 そして着ていたものをお脱ぎになり、飢えた人を覆い、 「安らかに臥せよ」と仰りました。 そのとき、御歌を詠まれました。 ――級照(しなてる) 片岡(かたをか)山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる 其の旅人(たびと)哀(あは)れ 親無(な)しに 汝(なれ)成りけめや 刺竹(さすたけ)の 君はや無き 飯に飢て 臥せる 其の旅人哀れ 二日、 皇太子は使者を遣し、飢えた人を見に行かせました。 使者は帰還して、「飢えた人は既に死にました」と復命しました。 すると皇太子は大変悲しまれ、 よって、その場所に埋葬し、墓として塚を固めさせました。 数日の後、 皇太子は、近習を召し、 「先日、道に臥せて飢えていた人は、 凡人ではなく、必ず聖人である。」と仰り、 使者を遣して見に行かせました。 すると、使者が復命するに、 「墓所に到着して見てみたところ、墓に埋めたところに変化はありませんでした。 そこで開いて見ると、屍骨は既に空でした。 ただ、衣が畳まれて棺の上に置いてありました」と申しました。 そこで、皇太子は再び使者を戻し、その衣を取って来させ、 当たり前のように、またご着用になりました。 当時の人はこれを大変不思議に思い、 「聖(ひじり)は聖を知る、これは真実(まこと)である。」と申し、 いよいよかしこまりました。 まとめ 飯に飢えて臥す旅人を詠んだ歌の類歌の舞台の竹原井であった。その比定地は難波と小墾田宮を直線で結んだ中央にあたる。 さらに、竹原井は肩岡池に比定される旗尾池にもかなり近いことが分かった。 すると、太子の片岡山への行幸と、「難波より〔飛鳥〕京に至る大道を作った」話とが結びついてくる。 というのは、難波と飛鳥を結ぶ道は往来が盛んであり、片岡や竹原井はその経路上にある。 通行する人々は多様で、中には飢えて横たわる旅人もいるし、太子のような皇族もいるだろう。 そこに、このような伝説が生まれる素地がある。つまり、この伝説自体が往時の交通量を表現しているのである。 そこから考えると、二十一年十一月条の「大道」は、難波と飛鳥を最短距離で結ぶ経路であろうということになる。 竹原井頓宮は奈良時代の話であるが、その原型は飛鳥の宮の頃に遡り、それが平城京遷都の後も継続して立派な建物が建ったのではないかとも思われる。 さて、片塩媛の改葬では、現実政治の舞台における蘇我馬子の存在感が誇示された。 それに対して、太子は宗教界の聖人としての姿を一層鮮やかにする。道端で臥せっている旅人への太子の哀れみの歌は、 「聖人は聖人を知る」伝説に高められる。芝耆摩呂 このように、〈推古紀〉二十年~二十一年においては、馬子と太子の進む道の違いは、際立っている。 |
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⇒ [22-09] 推古天皇5 |