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2022.01.13(thu) [22-07] 推古天皇7 

14目次 【十七年】
《筑紫大宰奏上言百濟僧泊于肥後國葦北津》
十七年夏四月丁酉朔庚子。
筑紫大宰奏上言
「百濟僧、道欣惠彌爲首一十人、
俗七十五人、
泊于肥後國葦北津。」
是時、遣難波吉士德摩呂
船史龍、
以問之曰、「何來也。」
對曰
「百濟王命以遣於吳國、
其國有亂不得入。
更返於本鄕、
忽逢暴風、漂蕩海中。
然、有大幸而
泊于聖帝之邊境、
以歡喜。」
葦北〈敏達十二年〉日羅
大宰奏…〈岩崎本〔以下岩〕大-宰オホミコトモチオホミコトモチノツカサ[切]奏上[テ][切]百済[ノ]〔ホフ〕-コン-恵-ムネトコノカミ[ト][テ]一-十-人トタリ[切]七-十五-人[切]  レトマレリ[リ] 于肥[ノ]-[ノ]-国ヒノクニ[ノ]葦北[ノ][句]
…〈図書寮本〔以後図〕カウヘ
このかみ…[名] ①長男。兄。②地域、群れの長。
しろぎぬ…[名] 白衣の人。すなわち、僧ではない俗人。
肥後国…〈倭名類聚抄〉{肥後【比乃美知乃之利】}。肥:ヒ、比:ヒ。平安中期は甲乙の区別が消失している。
徳摩呂…〈岩〉トコ-摩-呂[切][ノ]フンヒト タツ[ヲ]
何来…〈岩〉〔トハ〕[テ][切]ナン[カ]マウコシ。 〈図〉マイコシ。〈内閣文庫本〔以後閣〕マヒコシ
…[係助] 疑問。連体形で結ぶ。
百済王…〈岩〉百濟[ノ]キミ〔コ〕キシ[切]コトオホキ
呉国…〈岩〉クレ[ノ][句]其國[ニ]〔ミタ〕[テ][コト][句]
本郷…〈岩〉[ノ]クニ
暴風…〈岩〉[ニ]アラキアカラシマカセ[ニ][テ]-タゝヨフ[ニ][ク]。 〈図〉アカラシマ。 〈倭名類聚抄〉暴風:八夜知又乃和木乃加世〔ハヤチ、ノワキノカゼ〕
あからしまかぜ…[名] 〈時代別上代〉疾風。暴風。アカラシマはアカラサマと同じ。
あからさまに…[副] 急に。
はやち…[名] 突然の強風。ハヤテとも。
わたなか…[名] 大海の真ん中。
大幸…〈岩〉[ナル]サチ
聖帝…〈岩〉トゝマル  聖帝 キミ ホトリ[ノ][ニ][句]コレヲモテ[テ]歓喜ウレシムウレシフ[句]
十七年(ととせあまりななとせ)夏四月(うづき)丁酉(ひのととり)を朔(つきたち)として庚子(かのえね)〔四日〕
筑紫(つくし)の大宰(おほみこともち)奏上(まを)して言(まを)さく、
「百済の僧(ほふし)、道欣(だうこむ)恵弥(ゑみ)、首(このかみ)と為(な)りて一十人(とたり)、
俗(しろぎぬ)七十五人(ななそあまりいつたり)、
[于]肥後(ひのみちのしり)の国の葦北(あしきた)の津に泊(と)まれり。」とまをす。
是の時、[遣]難波吉士(なにはのきし)徳摩呂(とくまろ)、
船史(ふなのふみひと)龍(たつ)をつかわして、
以ちて[之]問はして曰はく「何(なに)か来(まゐこし)[也]。」といへば、
対(こた)へて曰(まを)ししく
「百済(くたら)の王(わう)命(おほ)せて、以ちて[於]呉(くれ)の国に遣(つか)はしき。
其の国に乱(みだれ)有りて、不得入(えいらね)ば、
更(また)[於]本郷(もとつくに)に返(かへ)しつ。
忽(たちまち)に暴風(あからしまかぜ)に逢(あ)ひて、海中(わたなか)に漂蕩(ただよ)へり。
然(しかれども)、大幸(おほきなるさき)有りて[而]、
[于]聖帝(ひじりのみかど)之(の)辺境(ほとり)に泊(とどま)りき。
以(もちて)歓喜(うれしぶ)。」とまをしき。
五月丁卯朔壬午。
德摩呂等復奏之。
則返德摩呂
龍二人而、
副百濟人等、送本國。
至于對馬、
以道人等十一皆請之欲留、
乃上表而留之。
因令住元興寺。
復奏…〈岩〉-カヘリコトマウ[ス][句]
…〈岩〉カハシ
副百済人等…〈岩〉ソヘ百済[ノ]トモ[ヲ][テ]オクリツカハス[ノ][ニ]
対馬…〈岩〉-ツシマ
道人等…〈岩〉-ヲコナイヒトオコナヒ アマリ[テ]/マウスマセ[テ]一レトゝメムト[句]マウシフミフミタテマツリテ而留[句]
おこなひ…[名] 修行。
住元興寺…〈岩〉[テ]ハムヘ元-興-寺[ニ]
五月(さつき)丁卯(ひのとう)を朔として壬午(みづのえうま)〔十六日〕
徳摩呂(とくまろ)等(ら)[之]復奏(かへりごとまをす)。
則(すなはち)[返]徳摩呂(とくまろ)、
龍(たつ)二人(ふたり)かへしつかはして[而]、
百済(くたら)の人等(ら)を副(そ)へて、本国(もとつくに)に送らしめき。
[于]対馬(つしま)に至り、
以ちて道人(おこなひびと)等(ら)十一(とたりあまりひとり)皆(みな)欲留(とどまることをほりすと)[之]請(こ)ふ、
乃(すなはち)表(ふみ)を上(たてまつ)りて[而][之]留(とど)めき。
因(よ)りて元興寺(ぐわむごうじ)に住(す)まは令(し)めたまふ。
秋九月。
小野臣妹子等至自大唐。
唯通事福利不來。
…〈岩〉マウク
不来…〈岩〉-利マウコ
秋九月(ながつき)。
小野の臣妹子等(ら)自大唐(おほから、もろこし)自(ゆ)至(まゐたる)。
唯(ただ)通事(をさ)福利(ふくり)不来(まゐきたらず)。
《大宰》
 〈宣化元年五月〉で見たように、 〈推古十七年〉〔609〕の時点では、「大宰府の機能は、まだ「那津之口官家」にあったと思われる」。 那津之口官家の比定地は、比恵遺跡群が有力視されている。
《呉国》
 の建国は581年であるから、もう統一されている。 それでは、この話はそれ以前の戦乱の時代であろうか。
 ここでは一応根拠のある話だと仮定して、話を進めよう。〔荒唐無稽の伝説と決めてしまうと、すべての検討は無意味となる〕 その場合、「元興寺に住まわせる」とする以上は元興寺建立年よりも後の話ということになる。 …一応塔が竣工した596年=〈推古四年〉が考えられる(資料[50])
 中国をと呼ぶことは〈雄略紀〉に見られ、三国時代の古い国名のまま呼称とされていたと見られる。 〈推古紀十五~十六年〉では既に「大唐」であるが、その後も一部に「」という呼称が紛れこんでおり、二十年にも百済人の味摩が帰化し「呉で学び、伎楽舞を習得した」と話したことが載る。
 十七年でも、一応のことだと考えた方がよさそうであるが、入国できなかった理由を「」とする部分だけは、別の時代のことだと見た方がよいだろう。 下述するように、船がこのときと同様にコースを外れることは珍しくないはずだから、複数の伝説の混合と見るべきか。
《聖帝》
 「聖帝」という表現から見て、出典は「百済文書」〔本サイトの造語〕ではないだろうか 〈(欽明十五年〉《百済文書》)。 入国を「歓喜」とするように、倭におもねる表現は、百済王氏が朝廷に食い込むための戦略であった。
《暴風》
4月に日本付近で低気圧が急発達した例
 〈推古〉十七年四月四日は、グレゴリオ暦で609年5月15日hosi.orgによる〕にあたる。 〔以後、漢数字=推古紀、アラビア数字=グレゴリオ暦とする〕 現地からの報告入り、徳麻呂らを派遣し、復命が五月十六日四月三十日までだから、四十二日間で一往復したことになる。協議から派遣までに各3日程度要するとして、片道は18日ほど。 すると、大宰から朝廷に報告する使者が出発したのは4月27日ぐらい。葦北郡で漂着し、報告の使者が大宰に到着するまでに7日間、太宰が報告を受け協議して上使を出すのが3日後だとすると、 漂着は4月17日頃か。
 「暴風」というとき第一候補は台風であるが、時期的に可能性は薄い。 4月中旬だと東シナ海で発生した低気圧が日本付近や日本海で急発達するケースがままある。 この場合、突然強まる暴風の風向は、東シナ海では北西である。
 すると、舟は長崎以北の東シナ海もしくは黄海で予定航路から外れ、北西の強風によって肥後まで流されたとするのが、最も考え得るコースである。 その場合、右図のような天気図が想定される。このときの福江(五島列島)では、瞬間最大風速は22.3m/秒(6日17時30~40分)が観測されている〔気象庁ホームページ;過去の気象データ検索による〕。 このような気象条件は、春先や晩秋にしばしば現れるから、同じように倭に流れ着くことはそれほど珍しいことではないだろう。よって上述したような、複数の伝説の混合は考え得る。
 暴風への訓は、おそらく台風ではないからノハキノカゼ(野分の風)は不適切である。ハヤテ、または古訓のアラカシマカゼ(またはアラカサマカゼ)となろう。
《大意》
 十七年四月四日、 筑紫の大宰(おおみこともち)の奏上があり、申すに 「百済の僧、道欣(どうこん)と恵弥(えみ)が首となり、 僧十人と俗七十五人が、 肥後の国の葦北津に停泊しました。」と申しました。
 そこで、難波の吉士(きし)徳摩呂(とくまろ)、 船史(ふなのふみと)龍(たつ)を遣わしました。 そして「どうして来たのか。」と問うと、 答えて、 「百済王は命により、呉(くれ)国に遣わしました。 その国に乱があり、入ることができず、 また本国に帰りました。 すると突然暴風に遭い、海中を漂いましした。
 けれども幸運なことに、 聖帝の国の辺境に停泊できました。 よって歓喜しております。」と申しました。
 五月十六日、 徳摩呂らは復命しました。
 そこで、徳摩呂、 龍の二人を現地に戻して、 百済人たちを引き連れて、本国に送らせました。 対馬に到着したところで、 修行者たち十一人が皆、倭に留まりたいと要請し、 そこで上表して留めました。
 よって、元興寺(がんごうじ)に住まわせました。
 九月、 小野妹子臣らは、大唐〔隋〕から帰国しました。 ただ、通訳の福利は帰国しませんでした。


15目次 【十八年】
《高麗王貢上僧曇徵法定》
十八年春三月。
高麗王貢上僧曇徵法定。
曇徵、知五經、
且能作彩色及紙墨、幷造碾磑。
蓋造碾磑、始于是時歟。
高麗王…〈岩崎本〔以下岩〕〉高麗キミ[切]-上僧曇-テウ◰法-テイ
曇徵…〈釈紀〉曇徵ドムテウ法定ホウテイ
五経…〈岩〉知キヤウ[ヲ]。 〈釈紀〉シリキヤウ
彩色…〈岩〉彩色シミノモノシミノヒノ
しみ…[名] ムの名詞化。彩色した糸。「しみのきぬ」。
紙墨…〈釈紀〉ドム紙墨歟可見他本然ハカミスミト可訓也〔紙墨歟(か)。他の本を見るし。然らばカミスミと訓む可し〕
かみ…[名] 紙。〈時代別上代〉「〔この十八年三月条〕の記事を根拠に、紙の伝来を推古朝とする説が行われているが、この記事による限りそうは解しがたい〔=この文ではそうは読めない〕
碾磑…〈岩〉-ミツウス
…[名] ひきうす。「碾磑(てんがい)」は水車で回して粉をひく石うす。
みづうす…[名] 水車の回転で挽く臼。水臼。
造碾磑…〈岩〉蓋造[コト]碾-磑[ヲ][切]于是時[ニ]
十八年(ととせあまりやとせ)春三月(やよひ)。
高麗(こま)の王(わう)、僧(ほふし)曇徵(どむちよう)法定(ほふてい)を貢上(たてまつ)る。
曇徵、五経(ごきやう)を知る。
且(また)能(よく)作彩色(しみのもの)及(と)紙(かみ)墨(すみ)とを作りて、并(あは)せて碾磑(てむぐわい、みづうす)を造る。
蓋(けだし)碾磑(みづうす)を造ること、[于]是の時に始(はじま)りし歟(か)。
秋七月。
新羅使人沙㖨部奈末竹世士、
與任那使人㖨部大舍首智買、
到于筑紫。
新羅使人…〈岩〉使-ツカヒ-タク-ホウ[切]--チクセイ-タク-ホウ--智-ハイ
秋七月(ふみづき)。
新羅(しらき)の使人(つかひ)沙㖨部(さたくほう)奈末(なま)竹世士(ちくせいし)と
[与]任那(みまな)の使人㖨部(たくほう)大舎(たさ)首智買(しゆちばい)と、
[于]筑紫(つくし)に到(まゐた)る。
九月。
遣使、
召新羅任那使人。
遣使 〈岩〉使[ヲ][テ]
〔使をつかはして/使をだして〕
九月(ながつき)。
使(つかひ)を遣(つかは)して、
新羅(しらき)任那(みまな)の使人(つかひ)を召(め)さしめたまふ。
冬十月己丑朔丙申。
新羅任那使人臻於京。
是日。
命額田部連比羅夫
爲迎新羅客莊馬之長、
以膳臣大伴
爲迎任那客莊馬之長、
卽安置阿斗河邊館。
…[動] いたる。〈岩〉 マウ〔ク〕ミヤコ[句]是日[切]ミコトシ
荘馬…〈岩〉カサリ馬之ヲサ
安置-ハムヘ阿斗[ノ]-カハムロツミ[ニ][句]
冬十月(かむなづき)己丑(つちのとうし)を朔(つきたち)として丙申(ひのえさる)〔八日〕
新羅(しらき)任那(みまな)の使人(つかひ)[於]京(みやこ)に臻(まゐた)る。
是の日。
額田部(ぬかたべ)の連(むらじ)の比羅夫(ひらふ)に命(おほ)せて
新羅(しらき)の客(まらひと)を迎(むか)ふる荘馬(かざりうま)之(が)長(をさ)と為(し)て、
膳(かしはで)の臣(おみ)の大伴(おほとも)を以ちて
任那(みまな)の客を迎ふる荘馬之長と為(し)て、
即(すなはち)阿斗(あと)の河辺(かはべ)の館(たち、むろつみ)に安(やすらけ)く置きたまへり。
丁酉。
客等拜朝庭。
於是、命秦造河勝
土部連菟
爲新羅導者、
以間人連鹽蓋
阿閉臣大籠
爲任那導者、
共引以自南門入之、
立于庭中。
時、大伴咋連
蘇我豐浦蝦夷臣
坂本糠手臣
阿倍鳥子臣、
共自位起之進伏于庭。
於是、兩國客等各再拜、
以奏使旨。
乃四大夫、起進啓於大臣。
時大臣自位起、
立廳前而聽焉。
既而賜祿諸客、各有差。
命秦造…〈岩〉〔ホ〕 土-部[ノ]ウサキ間人ハシヒト ノシホ-フタ[切]-
南門…〈岩〉ミカト-オホハ大-伴[ノ]クラフ[ノ][切]蘇-我[ノ]豊-浦トヨラ[ノ]蝦-夷エミシ[ノ][切]トリ-[ノ][切][ニ][切]タチ[テ][テ]フスオホハ[句]
おほには…[名] 朝廷の宮殿前の広場。
…[名] 官僚の格付け。地位。〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉①朝廷中群臣的位列。②所在的位置。
くらゐ…[名] 座。位階。
再拝…〈岩〉ヲカム[テ]マウス[ノ] リノ  ノ大夫マチキミ[切]-[テ]マウ於大臣[句]
大夫…実際に確認される訓は、カミ〔四等官制における長官〕とマスラヲ〔万葉〕のみである。音読みのダイブが一般的だったかも知れない (〈顕宗二年〉)。
…〈岩〉マツリコト
…[動] (古訓) きく。うけたまはる。ゆるす。
賜禄…〈岩〉-タマモノス モノタマ[ノ][ニ][句]。(右図)
丁酉(ひのととり)〔九日〕。
客(まらひと)等(ら)朝庭(みかど)を拝(をろが)む。
於是(ここに)、[命]秦造(はたのみやつこ)河勝(かはかつ)、
土部(はにしべ)の連(むらじ)菟(うさぎ)におほせ、
新羅(しらき)の導者(みちびきひと)と為(し)て、
[以]間人(はしひと)の連(むらじ)の塩蓋(しほふた)、
阿閉(あへ)の臣(おみ)の大籠(おほこ)を
任那(みまな)の導者と為(し)たまひて、
共に引きゐて、以ちて南(みなみ)の門(みかど)自(よ)り[之]入りて、
[于]庭(おほには)の中(うち)に立てり。
時に、大伴(おほとも)の咋(くらふ)の連(むらじ)、
蘇我豊浦(そがのとゆら)の蝦夷(えみし)の臣(おみ)、
坂本(さかもと)の糠手(あらて)の臣、
阿倍(あべ)の鳥子(とりこ)の臣、
共に位(くらゐ)自(よ)り[之]起(た)ち進みて[于]庭(おほには)に伏す。
於是(ここに)、両国(ふたつのくに)の客(まらひと)等(ら)各(おのもおのも)再拝(をろが)みて、
以ちて使(つかひ)の旨(むね)を奏(まを)す。
乃(すなは)ち四(よたり)の大夫(まへつきみ)、起(た)ちて進(すす)みて[於]大臣(おほまへつきみ)に啓(まを)しき。
時に大臣(おほまへつきみ)〔蘇我馬子〕位(くらゐ)自(よ)り起(た)ちて、
庁(まつりごとのみや)の前に立ちて[而]聴(うけたまは)りき[焉]。
既(すで)にして[而]禄(たまもの)を諸(もろもろ)の客(まらひと)に賜(たまは)れり、各(おのもおのも)差(しな)有り。
乙巳。
饗使人等於朝、
以河內漢直贄爲新羅共食者、
錦織首久僧爲任那共食者。
辛亥。
客等禮畢、以歸焉。
…〈岩〉アヘタ〔マフ〕河内 西ノ [ノ]ニヘ[ヲ][テ]新羅[ノ]-アヒタケ[句]-ソウ
あひたげひと…[名] 接待として食事に同席する役。他に〈雄略十四年〉など。
礼畢…〈岩〉ヰヤコト[テ]カヘリマカル
乙巳(きのとみ)〔十七日〕。
使人(つかひ)等(たち)を[於]朝(みかど)に饗(みあへ)す。
河内漢(かふちのあや)の直(あたひ)贄(にへ)を以ちて新羅(しらき)の共食者(あひたげひと)と為(し)て、
錦織首(にしごりのおびと)久僧(くそ)を任那(みまな)の共食者(あひたげひと)と為(し)たまふ。
辛亥(かのとゐ)〔二十三日〕。
客等(まらびとたち)礼(ゐやごと)を畢(を)へて、以ちて帰(まかりてかへ)る[焉]。
《新羅・百済の使人》
 二人の使者の名前には、所属する部(ホウ)と位階が冠せられている。
●〈新羅使人〉沙㖨部奈末竹世士沙㖨部奈麻
●〈任那使人〉㖨部大舎首智買㖨部大舎
 この部と位階は儒理尼師今の時代に定められたと、『三国史記』に記されている。
『三国史記』新羅本記 巻第一:儒理尼師今〔在位24~57〕九年
九年春。改六部之名仍賜姓。楊山部爲梁部、姓李。 高墟部爲沙梁部、姓崔。大樹部爲漸梁部〈一云牟梁〉、姓孫。 干珍部爲本彼部、姓鄭。加利部爲漢祇部、姓裴。明活部爲習比部、姓薛。
又設官有十七等。一曰伊伐飡、二曰伊尺飡、三曰迊飡、四曰波珍飡、五曰大阿飡、六曰阿飡、七曰一吉飡、八曰沙飡、 九曰級伐飡、十曰大奈麻、十一曰奈麻、十二曰大舍、十三曰小舍、十四曰吉士、十五曰大烏、十六曰小烏、十七曰造位。
 辰韓六部(六村)の名称を改め、かつ姓を賜った。すなわち、楊山部は梁部に改められ、姓として李を賜った〔以下略〕。
 また、官に十七等が設けられた。1伊伐飡、2伊尺飡、3迊飡〔以下略〕。
 ただし、これは六部十七等の起源を神話時代に遡らせ、儒理尼師の業績としたものである。
 六部とは、「朝鮮古代の新羅王畿の地域区分。六村ともいわれ」、「新羅王畿は慶州盆地と周辺の五つの谷間からなり,ほぼ現在の慶尚北道慶州市・同月城郡にあたる〔世界大百科事典;平凡社2014〕
 「history.go.kr〔韓国の歴史解説サイト〕 の"教科書用語解説"によると、 六部は「及梁部[喙部]、沙梁部[沙喙部]、牟梁部[岑喙部]、本彼部[本波部]、韓岐部[漢只伐部]、習比部[斯彼部]」からなり、 「独立して特定の地域を支配する政治団体の性格を維持した。各部門は自治的に統治され」、 「4世紀半ばまでに、新羅は6部構成の段階を克服し始め、6世紀の初めまでに王室を中心とした中央権力に発展」したという。
 要するに新羅の六部とは、建国時の六村に起源をもつ族名である。
〈参考〉『北史』〔659〕 巻九十四列伝第八十二 この項 2025.02.03
其官有十七等:一曰伊罰干/貴如相國、次伊尺干、次迎干、次破彌干、次大阿尺干、次阿尺干、次乙吉干、次沙咄干、次及伏乾、次大奈摩干、次奈摩、次大舍、次小舍、次吉士、次大烏、次小烏、次造位。
《任那使を装わせたか》
 竹世士と首智買は、共に六部に所属し位階を負っていることから見て、二人とも全くの新羅人で、 副使に名目として「任那使」を兼ねさせたと考えられる。これをもう少し細かく推察すると、 新羅が倭の要請を受け入れ、副使に「任那使」を名乗らせて派遣した。 倭が副使を一方的に「任那使」と呼んだ。 実際には二人とも新羅使であったが、書紀を書く段階で潤色した。
 の三通りが考えられる。 直感的には、の可能性が高い印象を受ける。それは、接待役があまりに整然と割り振られているからである。
 しかし、かつて〈崇峻〉四年〈推古〉十年では筑紫に兵力を終結したが、 結果的に渡海に至らなかった。それぞれ同時期に新羅に使者を派遣しているところを見ると、外交交渉によって一定の成果を得たことによる攻撃中止と見られる。 その交渉の内容を想像すると、倭は任那〔実際には加羅地域の一部〕での倭の支配権を要求したが拒否され、新羅による朝貢の一部を「任那」からと装うことで折り合ったという筋書きが浮かび上がる。
 十八年の新羅使の派遣は、まさにその成果を示す一大機会だったから、かつての新羅使への冷淡な仕打ち (〈敏達〉七年・十一年)とは打って変わって、 大歓迎の舞台を整えたと解釈すると、かなり理解しやすい。
 出迎えスタッフを新羅使向けと任那使向けにスパッと二分したのは書紀による潤色であろうが、 新羅使の一人が名目上の任那使を演じた程度のことは考えてもよいかも知れない。 こういう細かい箇所を拾わないと、結局書紀の新羅の記述全体を頭ごなしに虚構と決めつけることになる。いわば思考停止に陥ってしまう。
阿斗の推定地の候補
《阿斗河辺館》
 阿斗河辺館はどこにあったのだろうか。
 〈雄略紀七年是歳〉《吾砺広津》の項で、大和国磯城郡〔古くは式下郡〕の「阿刀」を見た。 そこには、「阿斗桑市の館」(〈敏達十二年〉)も出て来る。 阿斗は、{河内国・渋川郡・跡部【阿止倍】郷〈倭名類聚抄〉と見られ、式内跡部神社〔八尾市亀井町〕がある(〈用明二年四月〉《阿都》)。 アトであるのに対し、 〈倭名類聚抄〉のであるが、同書が成立した平安時代には甲乙の区別は既に消滅している。
 かつて阿斗には、物部守屋別業なりどころがあったと見られる。 守屋は〈用明二年七月〉の乱で敗れて別業は接収されたが、その邸宅が朝廷の所有となり、そこに新羅のムロツミが建ったことも考えられる。
 「河辺」の名がついているのは、移動に船を利用したことと関連するかも知れない。渋川郡の東には長瀬川(九宝寺川)が流れている。九宝寺川は、江戸時代に付け替えをする前の大和川から淀川に向かって流れていた。 大和川は、難波と飛鳥を結ぶ交通路として重要な役割を果たしていたと考えられる。 朝鮮半島からの使者が、朝貢の品とともに船で移動した可能性は高い。 ただ、ここに八日に落ち着き、飛鳥の小墾田宮の儀礼が九日に行われたとすると、その間隔はあまりにも短い。
 この観点のみで考えれば、式下郡の阿刀村むろつみの場所とする考えも捨てがたい。
 しかし、小墾田宮の建物の配置を第249回の図から想定してみると、 「オホニハ」をどれほど広く取れたかは疑問である。儀式の細部は実は観念的に書かれたものかも知れず、だとすれば日程の信憑しんぴょう性も危うくなってくる。 逆に、日程は信用できるものとすると、「」が難波の副都の建物であった可能性も考えなければならない。 奈良時代には、難波も京師と呼ばれ、摂津職が置かれていた(資料[19])。 〈推古朝〉の頃には、既に副都として機能していただろうと思われる。
《難波の政庁の可能性》
 裴世清を迎えたときは海石榴市で郊労しているので、小墾田宮前で儀式が行われたのは確実である。 そのときは、庭に返貢(国信物)を積み上げ、国書を読み上げた後に「大門前の机上」に置いた。従って大門内の庭に返貢を置いたらもう、人が並ぶことはできない狭さだと読むことが可能である。
 それに対して今回は、南門から庭に入って儀式を行い、最後は、大臣馬子が「」の前に立った。 「大殿」ではなく「」なのは、天皇の居住する宮殿ではなく、政務を執り行う建物だからである。 そして、参列者の座席を整然と並べるだけ広さが、庭にはあった。
 だから、阿斗河辺館から一日という距離を最優先しようとすれば、宮殿の構造の違いから新羅使の接受は難波宮で行われたとする仮定は、一応は成り立つ。
《接待役》
額田部連比羅夫…隋から訪れた裴世清一行を、海石榴市で郊労した(十六年八月)。
膳臣大伴膳臣の祖は磐鹿六獦命(資料[07])。 もともとは朝廷の膳〔食事の用意〕を担ったが、一族は外交などに幅広く活躍した。「大伴」は個人名で、登場はこの場面だけである。
秦造河勝秦造はたのみやつこは、秦氏全体の統率を担う。河勝は、蜂岡寺(広隆寺)を建立した(十一年十一月)。
土部連菟土師部は〈姓氏家系大辞典〉「職業部の一にして、土器を製作するを職とせし品部也。」 神話的な起源は、殉葬の習慣を改めて埴輪を開始した、野見宿祢を始祖とする (〈垂仁三十二年〉)。 はこの場面のみ。卯年生まれによる名であろう。
間人連塩蓋…〈姓氏家系大辞典〉「間人 ハシビト ハシウト ハシフト マムト:御名代部の一種か。」 「間人連:神魂尊の裔にして、〔先代旧事記〕天神本紀に「天玉櫛彦命、間人連等の祖」と見ゆ。」 丹後国竹野郡の「間人」は、間人はしひと氏の本貫だったのかも知れない(第239回《丹後国竹野郡間人》)。 氏人に〈孝徳紀〉間人連老老、〈斉明紀〉間人連御廐、〈天智・天武紀〉間人連大蓋塩蓋はこの場面のみ。
阿閉臣大籠阿閉臣は孝元天皇の皇子大彦を祖とする(第108回)。 大籠はこの場面のみ。
《四大夫》
大伴咋連…また大伴囓連。物部守屋の乱に参戦(〈崇峻即位前〉用明二年七月)。 新羅攻撃の大将軍を務め、裴世清を迎えた朝廷前儀式に参加(十六年八月《大伴囓》)。
蘇我豊浦蝦夷臣蝦夷は、蘇我馬子の子。〈推古〉が崩じた後、次代天皇の有力候補であった山背大兄王を排除して田村皇子を即位させた。
坂本糠手臣…物部守屋の乱に参戦。 外交交渉のために百済に派遣(九年二月)。
阿倍鳥子臣阿倍鳥は、裴世清を迎えた朝廷前儀式で導者を務めた(十六年八月)。 は、酉年生まれによる名前であろう。「」は愛称の接尾語と見られる。
《自位立之》
 ここでは座席であるが、「地位による席順による席」のニュアンスを含むと見られる。
《河内漢直贄》
 もともと、西漢はおびと東漢はあたひであった(資料[25]《文宿祢》) 〔西は河内、東は大和を指す〕。なお東漢の祖は阿知使主、西漢の祖は王仁である。
 よって、「河内直」はかばねがねじれている。 この問題について〈姓氏家系大辞典〉は「〔河内漢直は〕その直姓なるを考ふれば倭漢氏と同族ならんか。 何となれば帰化族にして直姓なるは倭漢氏の外に見るを得ざればなり〔直(あたひ)を姓とするのは倭の方の漢(アヤ)氏だから、「河内漢直」はそちらに属するだろう〕と推定している。
 河内漢直贄は、ここ以外には登場しない。
《錦織首久僧》
 〈姓氏家系大辞典〉には錦部錦織(にしごりべ、にしごり)は、「錦を織る品部を云ふ…〔中略〕…雄略紀八年条…〔中略〕…仁徳紀に見ゆれば、甚だ古くより存ぜしを知るべし。 但し綿は支那〔=中国〕渡来のもの也」、そして美作から信濃まで幅広く見出している。 「錦織首(錦部首)」は「物部氏の族也。 〔けだ〕し山城錦部の伴造〔とものみやつこ〕家にて、和名抄、山城国愛宕郡錦部郷とある地の稲置〔いなぎ〕なるべし」という。 〈新撰姓氏録〉には〖山城国/神別/錦部首/〔神饒速日命〕十二世孫物部目大連之後也〗とあるが、天孫本記には出てこない (資料[37][39])。 〈姓氏家系大辞典〉が「物部氏が此の部と関係するに至りし起源は詳かならず」とするのも、そのためか。
 久僧の名が出て来るのは、ここだけである。
《大意》
 十八年三月、 高麗(こま)王、僧曇徵(どんちょう)、法定(ほうてい)を献上しました。
 曇徵は、五経を知り、 また上手に彩色の物、および紙、墨を作り、併せて碾磑(てんがい)〔水車で石臼でひく仕組み〕を造りました。 けだし、碾磑の製造は、この時から始まったかと思われます。
 七月、 新羅の使者、沙㖨部(さたくほう)奈末(まな)竹世士(ちくせいし)と、 任那の使者、㖨部(たくほう)大舎(たさ)首智買(しゅちばい)は、 筑紫に到着しました。
 九月、 使者を派遣し、 新羅と任那の使者を招致しました。
 十月八日、 新羅と任那の使者は〔飛鳥の〕京に至りました。
 この日、 額田部連(ぬかたべのむらじ)比羅夫(ひらふ)を、 新羅の客人を迎える飾り馬の長に任命し、 膳臣(かしわでのおみ)大伴(おおとも)を、 任那の客人を迎える飾り馬の長に任命し、 こうして阿斗(あと)の河辺(かわべ)の館(むろつみ)に滞在させました。
 九日、 客人たちは、朝庭に拝礼しました。
 このとき、秦造(はたのみやつこ)河勝(かわかつ)と 土部連(はにしべのむらじ)菟(うさぎ)を 新羅の誘導役とし、 間人連(はしひとのむらじ)塩蓋(しおふた)、 阿閉臣(あへのおみ)大籠(おおこ)を 任那の誘導役として、 共に案内して、南門から入り、 南庭の中に立ちました。
 その時、大伴の咋(くらう)連(むらじ)、 蘇我豊浦(そがのとゆら)の蝦夷(えみし)臣、 坂本の糠手(あらて)臣、 阿倍(あべ)の鳥子(とりこ)臣は、 共に座を起(た)って進み、庭に伏しました。
 そして、両国の客人のそれぞれが再拝して、 使者の趣旨を奏上しました。 そのあと、四人の臣は、起って進み、大臣(おおまえつきみ)に啓上しました。 そして大臣〔蘇我馬子〕は座から起って、 政庁の前に立ち、〔天皇の〕お言葉を承りました。 こうして拝礼を終え、禄をそれぞれに応じて客人に賜りました。
 十七日、 使者を朝廷に招き、饗宴しました。 河内漢直(かわちのあやのあたい)、贄(にえ)を新羅の共食者(あいたげひと)とされ、 錦織首(にしごりのおびと)久僧(くそ)を任那の共食者とされました。
 二十三日、 客人たちは拝礼の行事をすべて終え、帰国しました。


16目次 【十九年~二十年正月】
《藥獵於菟田野》
十九年夏五月五日。
藥獵於菟田野。
取鶏鳴時、集于藤原池上、
以會明乃往之。
粟田細目臣爲前部領、
額田部比羅夫連爲後部領。
是日諸臣服色皆隨冠色、
各著髻花、
則大德小德並用金、
大仁小仁用豹尾、
大禮以下用鳥尾。
くすりがり…鹿の若角や薬草を採る行事。〈時代別上代〉五月五日が普通であったが、四月ごろから一般には行われたらしい。
菟田野…〈岩〉菟田[ノ]
鶏鳴時…〈岩〉-アカツキ-[ニ][テ]于藤原[ノ][ノ]〔ミ〕[ニ][句]
鶏鳴…① 鶏の鳴き声。② 夜明け。
あかとき…[名] 夜明け。夜明け前。
つどふ…[自]ハ四 集まる。[他]ハ下ニ 集める。
会明…〈汉典〉及明、黎明。〈岩〉-ケホノ[ヲ][テ]ユク[句]
あけぼの…[名] アカトキより時間的に後。
栗田細目臣…〈岩〉栗田[ノ][ヲ]
部領…〈岩〉シリヘ[ノ]-ヲサコトリ。 ことり…[名] 〈時代別上代〉部属の長。コト=リの意か。
諸臣…諸に「」を表すヲコト点がないので、「諸臣」はマチキムタチと訓まれたと思われる。
服色…〈岩〉諸臣[ノ][ノ][切]ママナリ[ノ][ニ][句]〔冠の色にしたがふ/冠の色のままなり〕
著髻花…〈岩〉サセリサス[セリ]-ウス[句]
…〈岩〉大-仁小-仁[ハ]ナカツカミ[ノ][ヲ]大礼[ヨリ]以-下[ハ]モチウ/モテス[ノ][ヲ]〔モテスをモチウに直した痕跡がある〕
なかつかみ…[名] 豹(〈欽明十四年〉)。
十九年(ととせあまりここのとせ)夏五月(さつき)五日(いつか)〔乙酉朔己丑〕
[於]菟田(うだ)の野(の)に薬猟(くすりがり)す。
鶏鳴時(あかとき)を取りて、[于]藤原(ふぢはら)の池の上(へ)に集(つど)へて、
会明(あけぼの)を以ちて乃(すなはち)[之]往(ゆ)けり。
粟田(あはた)の細目(ほそめ)の臣(おみ)を前(さき)の部領(をみ)と為(し)て、
額田部(ぬかたべ)の比羅夫(ひらふ)の連(むらじ)を後(しりへ)の部領(をみ)と為(す)。
是の日諸臣(まへつきみたち)の服(きぬ)の色、皆冠(かがふり)の色に隨(したが)ひて、
各(おのもおのも)も髻花(うず)を著(つ)けて、
則(すなはち)大徳(だいとく)小徳(せうとく)は並(な)べて金(くがね)を用(もち)ゐて、
大仁(だいにむ)小仁(せうにむ)は豹(なかつかみ)の尾(を)を用ゐて、
大礼(だいらい)より以下(しもつかた)は鳥の尾を用ゐる。
秋八月。
新羅遣沙㖨部奈末北叱智、
任那遣習部大舍親智周智、
共朝貢。
沙㖨部…〈岩〉〔タス〕-タク-ホウ-[切]-ホク--[切]
習部…〈岩〉シフ-ホウ--シン-シユ-
朝貢…〈岩〉[ニ]朝-貢 カヨハ 
秋八月(はつき)。
新羅(しらき)沙㖨部(さたくほう)奈末(なま)北叱智(ほくしち)を遣(まだ)して、
任那(みまな)習部(しふほう)大舎(たさ)親智(しんち)周智(しゆち)を遣して、
共に朝貢(みかどををろがみみつきたてまつる)。
廿年春正月辛巳朔丁亥。
置酒宴群卿。
是日。
大臣上壽歌曰。
置酒宴群卿…〈岩〉メシオホミキ[テ]トヨノアカリ群卿[ニ][句]
とよのあかり…[名] 酒宴。特に宮中における。
寿歌…〈岩〉大-臣オホマチキミ〔てまつり〕オホムサカツキ/オホミキタテマツリ[テ][テ][切]
ほきうた…[名] 祝い歌。
二十年(はたとせ)春正月(むつき)辛巳(かのとみ)を朔として丁亥(ひのとゐ)〔七日〕。
酒宴(とよのあかり)を群卿(まへつきみたち)に置(まう)けたまふ。
是の日。
大臣(おほまへつきみ)寿歌(ほきうた)を上(たてまつ)りて曰(よみまつら)く。
夜酒瀰志斯 和餓於朋耆瀰能 訶句理摩須
阿摩能椰蘇河礙 異泥多々須 瀰蘇羅烏瀰禮麼
豫呂豆余珥 訶句志茂餓茂 知余珥茂
訶句志茂餓茂 訶之胡瀰弖 菟伽陪摩都羅武
烏呂餓瀰弖 菟伽陪摩都羅武 宇多豆紀摩都流
やそかげ…[名] 〈時代別上代〉八十ヤソ=カゲ、すなわち多くの蔭で、宮殿のことをいう。
…[副助] 『古典起訴後辞典』〔大野晋;角川2011〕:「種々の語につく」「基本的には、不確実・不確定であるとする話し手の判断を表明する語」「条件句や推量・打消の語を伴う例が多い」。
もが…[助] 〈時代別上代〉「文末にあって、主に体言、〔中略〕カ・カク(あるいはそれに助詞シのついたもの)〔中略〕を受け、ある状態の実現を希望する。モガに助詞モ〔中略〕がつくこともある。
夜酒瀰志斯(やすみしし) 和餓於朋耆瀰能(わがおほき) 訶句理摩須(かくります)
阿摩能椰蘇河礙(あまのやそかげ) 異泥多々須(いでたたす) 瀰蘇羅烏瀰礼麼(みそらをみれば)
予呂豆余珥(よろづよに) 訶句志茂餓茂(かくしもがも) 知余珥茂(ちよにも)
訶句志茂餓茂(かくしもがも) 訶之胡瀰弖(かしこて) 菟伽陪摩都羅武(つかへまつらむ)
烏呂餓瀰弖(をろがみて) 菟伽陪摩都羅武(つかへまつらむ) 宇多豆紀摩都流(うたづきまつる)
〈岩〉〔ルビのうち本サイトの訓読と一致するものは省いた。「.」=[句]
-八隅知-瀰 志 斯.和 餓 於 朋 耆 瀰 能.-隠坐-理 摩 須 .-天之--八十垣-.-不出立--.-大虚---- .-万代---.-如此--茂 餓-.-千代--. -如此--茂 餓 茂.畏也---.-奉仕也-陪 摩--- .-拝也---.-奉仕也-陪 摩---.-奉戴也--.--.
〈釈紀〉
夜酒瀰志斯知也。謂四界八埏也。見上。
八十垣也。謂多重也。私記云。謂上天也。或云。八十垣也。
異泥多々須出立也。言隠八十垣。不出立也。
宇多豆紀摩都流私記曰。師説。言献此歌弖加之津支テカシツキ奉也。〔この歌を献りてかしづきまつるなり〕
天皇和曰。
…[動] (古訓) あまなふ。ととのふ。にこし。ましふ。やはらかく。やはらく。
〈岩〉ヤワラケ[テ]
天皇(すめらみこと)和(やはら)ぎて曰(みうたよみたまは)く。
摩蘇餓豫 蘇餓能古羅破 宇摩奈羅麼
譬武伽能古摩 多智奈羅麼 句禮能摩差比
宇倍之訶茂 蘇餓能古羅烏 於朋枳瀰能
菟伽破須羅志枳
まそがよ…[枕] 「真蘇我ヨ」。蘇我にかかる。ヨは囃子言葉。
摩蘇餓予(まそがよ) 蘇餓能古羅破(そがのこらは) 宇摩奈羅麼(うまならば)
譬武伽能古摩(ひむかのこま) 多智奈羅麼(たちならば) 句礼能摩差比(くれのまさひ)
宇倍之訶茂(うべしかも) 蘇餓能古羅烏(そがのこらを) 於朋枳瀰能(おほき)
菟伽破須羅志枳(つかはすらしき)
〈岩〉
蘇我餓 豫.蘇 餓蘇我 .宇 摩為馬也 奈 羅 麼 .日向 伽 能 古 摩.多 智為釼也 奈 羅 麼.句 禮摩 差良釼名.宇 倍 之上也謂上世也 訶 茂.蘇 餓 蘇我  .於 朋大君也 枳 瀰 能 .菟 伽 破 須使使也又曰仕也 羅 志 枳.
〈釈紀〉
宇倍之訶茂上也。謂先代
宇陀郡:菟田野の推定地
《五月五日》
 日付を干支表記しないのは、節句の行事であることを示すためであろう。 他には、〈顕宗天皇〉の曲水宴は三月三日であるが、書紀では「三月上巳」と表現される。 なお、一月七日、七月七日、九月九日は書記には出てこない。
《菟田野》
 「菟田野町」が1956年~2006年の期間に存在し、現宇陀市の南東部にあたる。同町は宇太町と宇賀志村が合併して成立したもので、 書紀に因んで命名されたと思われるが、書紀の菟田野と比定する確かな根拠はなさそうである。 ただ、宇陀郡内ではあろうと思われる。
 現在、藤原京の辺りから宇陀郡に入る道は、国道166号線と165号線で、古代からの道であろうと考えられる。 よって、大宇陀内原あたりと榛原駅付近を想定してみた。いずれも藤原京〔〈持統五年〉の新益京〕からは10数km離れている。徒歩で4時間程度か。 それなら集合を夜明けとするのは、理屈に合う。だが、正装で野道を行くのは大変だったであろう。
《集》
 「集(つどふ)」は、自動詞〔四段〕だとすれば薬猟行事を自発的に立ち上げ、他動詞〔下二段〕だとすれば招集されて参加したことになる。 ここでは「前の部領」・「後の部領」が定められているから行動は統率され、従って他動詞と読むべきであろう。
《粟田細目臣》
 粟田臣は、〈倭名類聚抄〉{山城国・愛宕郡・上粟田【阿波多】郷/下粟田郷〔三条大橋から東山道・東海道沿い〕で起こったとされる。 伝説上の祖は、天押帯日子命〔孝昭天皇の皇子〕で、春日氏系(第105回)。
 細目は、後に〈皇極天皇紀〉にも登場。粟田臣は〈天武十三年〉に朝臣を賜る。
《部領》
 前部領後部領は、列の前後を挟んで途切れないようにする役割であろう。 遠足で小中学生を引率するときの、教員の配置を想起させる。古訓のコトリは、もともと子供を引率する意味の「子取り」だったのかも知れない。上代から存在した語かも知れない。
 このように前後に配置することから、狭い山道を進む様子が見えて来る。
《用》
 〈時代別上代〉によれば「もちゐる:この語はのちに上一段・上二段の両活用が現れ、行もハ行・ワ行の両形式が見られるので、もとの活用形式に議論があったが、 今はワ行上一段ということに落ち着いている」。すなわち、平安時代以後には、モチフモチウ(上二段)、モチヒルモチヰル(上一段)の四種類があったという。 〈岩崎本〉古訓では、はじめはモテス〔モテ+サ変動詞〕の第二画を消して上に点を加えて「」、と殆ど同型なので手を加えずにと読むことにしたようである。
《新羅・任那による朝貢》
沙㖨部奈末北叱智沙㖨部奈麻
習部大舍親智周智習比部大舎
 ここでも共に新羅の部と位階を負っていることから見て、二人とも新羅人である。
《歌意》
第一歌 八隅知し わが大王おほきみの 隠ります  天の八十影 出で立たす 御空を見れば  万代よろづよに 如此かくしもがも 千代にも  如此しもがも かしこみて 仕へまつらむ  をろがみて 仕へまつらむ 歌づきまつる
〔 我が大王は、お住まいの宮殿より出てお立ちになり、そのお姿の上の空を見上げるに、 萬代にも、千代にもこうありたい、すなわち拝み畏みてお仕えいたしましましょう。歌に託して〔わが身を〕献上いたします。 〕
 「隠ります」は"死ぬ"の敬避的表現にも使うが、この歌には無論あてはまらない。「出で立たす」とあるから、まだ宮殿内にいてお姿が見えないという意である。 そこから、〈時代別上代〉の「ヤソカゲ=多くの屋根=宮殿」という解釈が出て来る。ところが、同辞典でも「かくる」の項には同じ歌が 「訶句理かくります天のカゲ〔多くの光〕と表記されている。担当の執筆者が異なる結果であろうが、どちらも決定的とは言えず悩ましい箇所である。
 「如此しもがも」は願望で、「如此」は「仕へまつる」を予め指す。ツキは従来盃と解されてきたが、甲乙違いになるので、 〈時代別上代〉は「歌+貢=ウタヅキ」と解釈する。 なお、音仮名"豆"には清音も濁音もあるが、濁音が万葉では圧倒的・書紀でも優勢で、の意だとすれば連濁である。 「名詞+マツル」が抜きで直結することに疑問を感じたが、 万葉を見ると「幣奉(ぬさまつり)」が複数3217など6例〕あるので、問題なさそうである。
 この意味の場合、ウタヅキとして奉る歌の内容は「萬代千代に仕えます」なので、この歌を貢ぎすることは、事実上「歌に託してわが身を捧げます」と言うに等しい。 これは、〈釈紀-和歌〉の解釈「この歌をたてまつりてかしづきまつ」と結果的に一致する。
第二歌 真蘇我よ 蘇我の子等は 馬ならば  日向ひむかこま 太刀ならば 呉の真釼まさひ  うべしかも 蘇我の子等を 大王の  使つかはすらしき
〔 蘇我の子らは、馬ならば日向の駒。太刀ならば呉国の良刀です。 え、本当によいのですか?蘇我の子らを大王〔=私〕が使えるらしいのね。 〕
 サヒにあてる字にはがあるが、これは農耕具のスキを意味する字なので使えない。「小刀」と表現されることもあるが、ここでは太刀が小刀ではよくないだろう。 ひとまず、ツルギと訓む字のひとつ""をあてておく。 …サメが「紐小刀」をつけて返されたので佐比持サヒモチノ神と呼ばれるようになったという命名譚がある(第93回)。
 「宇倍」については、〈岩崎本〉〈釈紀〉は「」と読み、先祖代々と解釈している。一方「」も考えられ、yesの意である。 音仮名""の清:濁の比率は、書紀で約9:1、万葉集で約2:1である(「万葉仮名一覧」による)。 この比率では、清濁は決定できない。
 助詞カモには詠嘆と疑問があるが、感歎の文章の中ではどちらも可だろう。 ツカハスは「使ふ+軽い尊敬の」。大王とともに、自敬表現とみて差し支えないだろう。
 これらを組み合わせると、蘇我馬子が「敬い畏みて末永くお仕えします」と申し出ていることに対して、「本当に私が使ってよいのですか」という文として完結させることができる。 つまり、良馬・良剣にも例えられる優秀な人物を手に入れられると知り、その感激を表現する。と読めばこのようにみずみずしさが躍るから、もはや「」に固執する必要はない。
《天皇和曰》
 歌意から考えて、「」とは尽くしてくれる相手に対して、心からの信頼と親しみを寄せる感情である。 ただ「協調しましょう」という程度の薄っぺらいものではない。この歌の解釈は、十七条憲法の「以和為貴」の訓読にまで影響を及ぼすものといえる。
《大意》
 十九年五月五日、 菟田野で薬猟(くすりがり)〔薬草の採取〕を行いました。 鶏鳴(けいめい)〔夜明け〕に藤原池の辺りに集合し、 会明(かいめい)〔曙〕となったところで出かけました。
 粟田(あわた)の細目(ほそめ)臣が先頭の長、 額田部(ぬかたべ)の比羅夫(ひらふ)連(むらじ)が後尾の長となりました。
 この日は、諸臣の衣服の色を皆冠の色と同じくして、 それぞれも髻花(うず)を著け、 その髻花には大徳・小徳は揃って金を用い、 大仁(だいにん)・小仁は豹の尾を用い、 大礼(だいらい)以下は鳥の尾を用いました。
 二十年正月七日、 群卿とともに酒宴を開催されました。
 この日、 大臣〔蘇我馬子〕は、寿歌を献上しました。
――八隅知し 吾(わが)大王(おほきみ)の 隠ります  天(あま)の八十影(やそかげ) 出(い)で立たす 御空を見れば  万代(よろづよ)に 如此(かく)しもがも 千代にも  如此しもがも 畏(かしこ)みて 仕へまつらむ  拝(をろが)みて 仕へまつらむ 歌貢(うたづき)まつる
 天皇(すめらみこと)は、和して歌詠みされました。
――真蘇我よ 蘇我の子等は 馬ならば  日向(ひむか)の駒(こま) 太刀ならば 呉の真(ま)さひ  諾(うべ)しかも 蘇我の子等を 大王の  使(つか)はすらしき


まとめ
 新羅使が朝廷を拝したとき、儀式を主導したのは蘇我馬子大臣である。 また、酒宴の和歌においては、馬子に対する天皇の厚い信頼が示される。
 今や、最高権力者は馬子である。ここでは太子はすっかり影を潜めている。
 さて、任那は既に〈欽明二十三年〉に滅びたのに、〈推古十八年〉に使者を送ってきた。 今回「任那使」を称する人物は新羅の部と位階を負っていて、新羅人が演じていることは明らかである。
 ところが、さらに〈推古〉三十一年でも、既に滅びたはずの任那が蘇っていて、またも新羅によって討たれる。 もう、任那についての記述は、欺瞞とも言い得るレベルに達している。
 遣隋使の件では史料価値はとても高かったのだが、こと新羅と任那に関しては怪しげなものがかなり含まれており、まさに玉石混交である。 ただ、作為的な箇所についても、語句を丹念に拾っていけば作為の痕跡が容易に見えて来る。 それは、執筆担当者が実は上層部の方針に反発していて、読む人が読めば分かるようにわざと書いたのではないかと思えるほどである。
 そもそも任那国の実在性については、〈神功皇后紀〉と〈欽明紀〉の段階で、結論は明らかであった。 今や問題の焦点は、「百済国」の虚像が、書紀の段階で突然生み出されたのか、 史実として、既に古い時代〔例えば〈推古朝〉〕から形成されてきたものかに移っている。
 この問題については、資料[32]において「虚構の任那国を描くことは、書紀から始まったことではない。 既に聖徳太子の時代から「任那国」が存在するが如く演出することが、百済や新羅との外交儀式の一部になっていたのである。」との見通しを示したところである。



2022.01.27(thu) [22-08] 推古天皇8 

17目次 【二十年ニ月~是歳】
《改葬皇太夫人堅鹽媛於檜隈大陵》
〔廿年〕二月辛亥朔庚午。
改葬皇太夫人堅鹽媛於檜隈大陵。
是日、誄於輕術。
第一、阿倍內臣鳥、誄天皇之命、
則奠靈、
明器明衣之類萬五千種也。
第二、諸皇子等、以次第各誄之。
第三、中臣宮地連烏摩侶、誄大臣之辭。
第四、大臣引率八腹臣等、
便以境部臣摩理勢令誄氏姓之本矣。
時人云
「摩理勢烏摩侶二人能誄、
唯鳥臣不能誄也。」
皇太夫人…〈岩崎本〔以下岩〕-葬--- オホキサキ -キタシ
…〈岩〉シノヒコトタテマツル於軽[ノ]チマタ[句]
しのひこと…[名] 死者に捧げることば。誄詞るいし
第一…〈岩〉-ハシメ[ニ]第二ツキ[ニ]第-三ツキ[ニ]第-四ツキ[ニ]
阿倍内臣…〈岩〉阿-倍[ノ][ノ]-臣鳥[切]
奠霊…〈岩〉/物上ルモノムクミタマ[ニ][句]〔奠:モノタテマツル〕
明器明衣…〈岩〉-ミケツモノ -ミケヒタクヒ [切]ヨロツアマリ-也 〈図諸寮本〔以下図〕明-器ミケモノ
明器…死者とともに埋葬する器物のミニチュア。冥器。
明衣…死者の身体を洗ったあとで着せる衣。
みけつもの…[名] 天皇の食膳に奉る食物。
みけし…[名] お召し物。
諸皇子…〈岩〉[ノ]皇子タチ[切]次-第ツイテ[ヲ][テ]誄之シノヒコト上ルシノヒコトマウス[句]
中臣宮地連…〈岩〉中-臣[ノ]宮-■コロ[ノ]連烏-摩-侶大臣オホマチキミ之辞[ヲ][句]
引率…〈岩〉-ヒキヰ八-腹[ノ]臣等[ヲ]
八腹…〈岩〉八-腹[ノ]。〈仮名日本記〉はらの臣等
摩理勢…〈岩〉-理-勢
氏姓…〈岩〉-カハ〔ネ〕
能誄…〈岩〉〔ノヒコト〕タテマツル〔シノヒコトマウ〕ス[ノ][ハ][コト]〔シノヒコトマウスコトアタハズ〕
〔二十年〕二月(きさらき)辛亥(かのとゐ)を朔(つきたち)として庚午(かのえうま)〔二十日〕
皇太夫人(おほきさき)堅塩媛(きたしひめ)を[於]桧隈(ひのくま)の大陵(おほみささき)に改め葬(はぶ)りまつる。
是の日、[於]軽(かる)の衢(ちまた)に誄(しのひこと)たてまつりき。
第一(つぎてのひとつ)、阿倍の内(うち)の臣鳥、天皇(すめらみこと)之(の)命(おほせこと)を誄(しのひこと)まをして、
則(すなは)ち霊(みたま)を奠(ものたてまつ)るは、
明器(みうつはもの)明衣(みけし)之(の)類(たぐひ)〔一〕万五千種(ももあまりいつちくさ)也(なり)。
第二(つぎてのふたつ)、諸(もろもろ)の皇子(みこ)等(たち)、次第(つぎて)を以ちて各(おのもおのも)[之]誄(しのひこと)たてまつる。
第三(つぎてのみつ)、中臣(なかとみ)の宮地(みやところ)の連(むらじ)烏摩侶(うまろ)、大臣(おほまへつきみ)之(の)辞(こと)を誄(しのひこと)まをす。
第四(つぎてのよつ)、大臣(おほまへつきみ)八腹(やはら)の臣(おみ)等(ら)を引率(ひきゐ)て、
便(すなは)ち境部の臣(おみ)摩理勢(まりせ)を以ちて、氏姓(うじかばね)之(の)本(もと)を誄(しのひこと)まをせ令(し)めき[矣]。
時の人云(まを)さく
「摩理勢(まりせ)烏摩侶(うまろ)二人(ふたり)能(よ)く誄(しのひこと)たてまつりて、
唯(ただ)鳥臣(とりのおみ)誄(しのひこと)まをすこと不能(あたはず)[也]。」とまをす。
夏五月五日、
藥獵之、集于羽田。
以相連參趣於朝。
其裝束如菟田之獵。
相連…〈岩〉相-ツゝ[テ]〔イ音便〕
つつく…[自]カ四 続く。〈時代別上代〉〔八十連属:此云豆々企(書紀訓注)から〕上代ではツツクだったと思われる。
参趣…〈岩〉マウ-趣於朝[句]
装束…〈岩〉-ヨソヒ。 〈類聚名義抄〉 裝装ヨソホヒ カサル ヨソフ
夏五月(さつき)五日(いつか)、
薬猟[之](くすりがり)して、[于]羽田に集(つど)ふ。
以ちて相(あひ)連(つつ)きて[於]朝(みかど)に参(まゐ)趣(おもぶ)く。
其の裝束(よそほひ)菟田(うだ)之(の)猟(かり)の如し。
《堅塩媛の改葬》
 堅塩媛蘇我稲目の女で、記は「岐多斯比売」(第239回)。書記では欽明天皇の「五妃」の三番目の妃。 なお、皇后(石姫)は妃と区別され、地位は優越的である。 豊御食炊屋姫尊〔推古天皇〕の母にあたる。(〈欽明〉二年) 「皇太夫人」の「夫人」は「」とともに「皇后」以外のキサキである。 堅塩媛は皇后ではなかったから「皇太后」とは呼べず、「皇太夫人」という珍しい表記になったと思われる。
《夫人の地位》
 夫人については、『令義解』-後宮職員令:「二員:右四品以上。夫人三員:右三位以上。四員:右五位以上」との規定がある。 「」は定員を意味するが、実際に守られたとはあまり思えない。「後宮職員令」のメインはこの文の後、妃・夫人・嬪に仕える宮人のリストである。
 「皇后」については別に定められ、『令義解』-職員令:「中務省」内の「中宮職」が、皇后に仕える。 「中宮【謂皇后宮。其太皇大后・皇大后宮亦自中宮也】〔皇后の宮を謂ふ。太皇大后宮(天皇の祖母)、皇大后宮(天皇の母)もまた中宮に自(よ)る〕 と割注〔解が書き加えた解説〕される。
 書紀〔720年〕は、大宝令〔701年〕より後なので、「皇后夫人」の序列は書記の時代には既に定まっていた。 〈天武二年〉に「皇后(正妃)」1名、「」3名、「夫人」3名とあるのは、この序列を〈天武朝〉まで遡らせて適用したものと読める。
 ところが〈天智紀〉まで遡ると「皇后1・妃0・夫人0・嬪4」で、妃・夫人・嬪の間に明確な区別は見えなくなる。
 〈舒明紀〉では「皇后1・妃0・夫人1・嬪0」。 〈敏達紀〉では「皇后2・妃0・夫人2・嬪0」で、最初の皇后広姫は早逝し、替わって御食炊屋姫〔後の推古帝〕が皇后に就いている。
 〈欽明〉では「皇后(正妃)1・妃5・夫人1・嬪0」だが、夫人は「青梅夫人」で、堅塩媛は五人いる「」の一人となっている。 なお、それ以前の「夫人」に〈顕宗〉1名、〈雄略〉1名(崩後の呼称)、〈反正〉2名が見える。
 こうして見ると堅塩媛皇后とは呼べないのは確かだが、〈欽明〉の時点では、夫人の間にあまり差はなく、改葬した時点になって初めて「夫人」を用いたと考えられる。
 倭語では「」もキサキであるから、「皇太夫人」をオホキサキと訓んでも差し支えないが、「皇太后」との違いは漢字表記でないと表現できない。
《檜隈大陵》
 さて、堅塩媛が改葬された「檜隈大陵」として、丸山古墳が有力視されている。 丸山古墳は、〈欽明〉「檜隈坂合陵」の真陵と考えられており、堅塩媛は晴れて夫の欽明天皇に合葬されたわけである (〈欽明三十二年〉)。 玄室には二基の棺があり、奥が欽明天皇、入り口近くが堅塩媛と考えたいところだが、なぜか棺の形式では年代が逆転している。
 〈欽明天皇〉は、母の手白香皇后が、自身を引き継いだ正当な血筋を継承する皇子として、手塩にかけて育てたと本サイトは考えた。 それ故〈欽明〉陵は原点に戻って、復古的な大前方後円墳を寿陵として築いたものと考えられる。 「合陵」の名称は、堅塩媛が合葬された後の名称を、書紀が遡って用いたものと考えられるが、もともと「境」の意味だったサカイに「坂合」の字をあてたこともあり得る。
 改葬にあたって、「軽の衢」でルイしのひことをたてまつったとする記述は、檜隈大陵を丸山古墳と仮定すると整合する。
 この改葬は、堅塩媛を欽明天皇の皇后クラスに事実上昇格したことを意味する。 その理由は、堅塩媛が〈推古天皇〉の生母だったからに相違ない。 これまで豊御食炊屋姫が、本当に天皇に即位したのか懐疑的であったが、このことを考えると、 実際に天皇〔当時の呼称はオホキミだが、国家の主〕であったのは史実であろうと思われる。 必然的に聖徳太子天皇即位説は否定されることになる。
 書紀については、新羅・任那に関係する部分や伝説を納めた部分を除けば、概ね事実関係だと認めるべきであろう。
《阿倍内臣鳥》
 阿倍内臣鳥内臣は家内的な地位を表すようにも思えるが、どうであろうか。
 〈姓氏家系大辞典〉を見ると「内臣:大和国宇智郡より起る、延喜式当郡に宇智神社を載せたり」、 また「阿部内臣:阿倍臣の族にて宇智郡にありしにより斯く云ふなるべし。」と述べる。武内宿祢系列とは区別して、 阿倍臣の分岐と見たようである。ただし、ウチを地域名の宇智と捉えている。
 書紀全体を見ても、役職を示す外臣・内臣という語はどこにも出てこないので、妥当であろう。
 前回に登場した阿部鳥、また(阿部鳥子)とも、恐らく同一人物であろう。氏の呼称においてき、分流名を添えることも添えないこともあったと考えるべきかと思われる。
《中臣宮地連烏磨呂》
 烏磨呂十六年六月に、大唐の客〔隋使裴世清ら〕の掌客を務めた。
《八腹臣》
 腹臣=「腹心之臣」の意か。〈岩崎本〉、〈図書寮本〉、〈内閣文庫本〉のどれにも訓が振られないから、ごく普通の訓み方 「ヤハラノオミ」と思われる。もしヤタリノと訓んだのなら訓点が加えられたと思われる。〈仮名日本記〉も「やはら」としている。
 「腹心〔股肱の部下〕という語を知る人には、「腹臣」の意味は即座に理解されたと思われる。
《境部臣摩理勢》
 境部臣は、〈姓氏家系大辞典〉によれば「坂合部 サカヒベ:職業部の一なり。…境界を定むる為の品部と考へらる」、境界は紛争の起こりやすいので「確定する為に置かれしものなるべし」、 摩理勢については、「境部臣:境部臣摩理勢は、公卿補任に拠るに、蘇我稲目の子とあり。然らば馬子の弟なるべし」、「摩理勢は山背大兄王を奉ず、よりて馬子に〔にく〕まれて殺さる〔舒明紀〕」と述べる。
《参列者の力関係》
軽の衢…堅塩姫改葬の誄。軽寺…初出は〈天武紀〉。 丸山古墳…〈欽明天皇〉・堅塩姫合葬墓か。小墾田宮…推古天皇。飛鳥宮…〈舒明〉〈皇極〉〈斉明〉〈天武〉〈持統〉宮殿跡と見られる複合遺跡。 島庄遺跡…馬子邸跡とされる。石舞台古墳…「蘇我馬子の墓」説あり。 波多甕井神社…薬猟が行われた「羽田」に比定。
 誄の儀式では、 阿部鳥が、〈推古天皇〉の名代としてるいを代読。皇子が席次順に誄。中臣宮地連烏摩侶が大臣蘇我馬子の誄を代読。 大臣〔馬子〕が八腹臣を引き連れて並び立ち、代表して境部臣摩理勢が蘇我氏の系図を誄する。
 には具体名が載らない。〈推古〉の皇子には竹田皇子尾張皇子、皇女には菟道貝蛸皇女など五人がいた。 このうち竹田皇子〈用明〉二年の乱で、物部守屋への征討軍に加わっていて、 守屋側に像を作って厭われるから、その時点では皇位を争う一人であったようだ。ところがここには具体名が挙がらないから、その芽は既に潰えたようだ。
波多甕井神社
(高取町公式ページ)
(google map)
 を見ると、中臣氏蘇我氏と同盟関係にあり、『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』の後段にもそのように描かれている。
 からは、蘇我氏が圧倒的な権勢を誇る様子が見て取れる。「八腹臣」という語からは、武田信玄の二十四将図や家康の四天王のようなイメージが浮かぶ。
 では、阿部鳥は〈推古〉の秘書のような立場と思われるが、蘇我氏には圧倒されているようである。 その印象によって、摩理勢()と烏摩侶()はまことに堂々と誄を述べたが、阿部鳥()はおどおどして誄したと語られたのであろう。
 なお、ここに太子の影がないことが注目される。天皇も馬子も誄は代読されたから、太子の誄も代読されて当然だが、それがない。 ただ、太子は摂政だから、太子が天皇名の誄を作ったと見るのが穏当も知れない。
 いずれにしても、この改葬儀式は馬子が存在感を誇示するエピソードとなっている。堅塩姫が〈推古〉の生母であることは、ダシに使われたようだ。 だからと言って堅塩姫の棺を玄室の主座に置いたとすれば、それはやり過ぎではないだろうか。
《羽田》
 薬猟が行われた羽田は、式内波多はたみか神社付近と言われる。〈延喜式〉に{大和国/高市郡/波多𤭖井神社【大。月次。新嘗】}。
 「甕」は活版本では〈延喜式〉〈五畿内志〉ともに「瓦+長」で、「𤭖:U+24B56(瓦+镸)」とは多少字体が異なる。 比定社は、波多甕井神社〔奈良県高市郡高取町羽内235〕
 「高取町観光ガイド」には、 「男性は鹿の若角をとり、女性は薬草を摘んだといい、薬の町・高取町のルーツとも捉えられるような内容であった。」とある。
 〈五畿内志-大和国高市郡〉「村里羽内ハウチ」。 また「神廟:波多𤭖井神社【在羽内村今称天照太神傍有清泉闔村所汲潤-沢下田数頃〔羽内村にあり、今天照太神と称す。傍らに清泉あり、闔村の汲む所。「下の田数頃(頃は面積の単位;=代)を潤沢す(うるおす)」か〕
 波多甕井神社いかづちの丘(小墾田宮)との直線距離は5.9km。実際の道のりを10kmと仮定すると、3時間以内であろう。 十九年の菟田野の薬猟と同じく「曙」に出発したとすれば、「朝5時軽衢かるのちまた集合⇒8時羽田で薬猟⇒12時終了⇒15時小墾田宮到着」の日程は恐らく可能である。
《自百濟國有化來者》
是歲。
自百濟國有化來者、
其面身皆斑白。
若有白癩者乎。
惡其異於人、
欲棄海中嶋。
化来…〈岩〉〔モフキ〕〔ウク〕。 〈図〉化来オノツカラマウケル
斑白…〈岩〉- ムクロ ムク[切]-マタラナリ[句]
まだら…[名] まだらになっているようす。
白癩…〈岩〉 - ハタ。 〈仮名日本紀〉白癩者しらはたけのもの
…[名] ハンセン病。(古訓) しらはた。しらはたけ。
悪其異…〈岩〉[ナル][コト][ヲ]於人[テ]〔そのひとけなることをにくみて〕の声点は音読みせよとの指示ではなく、意味を表す〕
…①[形] わるい。②[動] にくむ。③[副] いずくにか。
欲棄…〈岩〉海中[ノ][ニ][句]
是歳(このとし)。
百済(くたら)の国自(よ)り化来(まゐおもぶける)者(ひと)有りて、
其の面(かほ)身(むくろ)皆(みな)斑白(まだら)なり。
若(もしや)白癩(しらはた)を有(も)つ者(もの)か[乎]と、
[於]人(ひと)に其の異(けにみゆること)を悪(にく)みて、
海中(わたなか)の嶋(しま)に棄(うてむ)と欲(ほり)す。
しらはた…[名] 〈時代別上代〉「はたけ:皮膚病の一種。顔や頸にできる円形の白いかさ。…「白癩シラハタ」(推古紀二〇年)もこの種の皮膚病であろう。ただし令義解戸令の「白癩」は癩病をいう」。
然其人曰
「若惡臣之斑皮者、
白斑牛馬不可畜於國中。
亦臣有小才、能構山岳之形。
其留臣而用則爲國有利、
何空之棄海嶋耶。」
斑皮…〈岩〉[ニ]其人[ノ][切][ハ]臣之マタラ-ハカ[ヲ][切]-マタラナル[ナル] 牛-馬[ヲ][ハ]於國[ノ][ニ][句]
小才…〈岩〉[ナル]イサゝカナルカト[句]ツクヲカ之形[ヲ][句]
為国…〈岩〉モチヰ■[コト]則為[切] ナム[ム]クホサ[句]
…[前] ために。
くほさ…[名] 利益。
棄海嶋耶…〈岩〉[ノ][ニ][句]
然(しかれども)其の人曰(まを)せらく
「若(もし)臣(やつかれ)之(の)斑皮(まだらのかは)を悪(にく)ま者(ば)、
白斑(しらふ)の牛(うし)馬(うま)[於]国中(くぬち)に畜(か)ふ不可(べからず)。
亦(また)臣(やつかれ)に小(いささかなる)才(かど)有り、能(よく)山岳(やまをか)之(の)形を構(かま)ふ。
其(それ)臣(やつかれ)を留めて[而]用(もちゐ)ば則(すなはち)国の為(ため)に利(くほひ)有らむ。
何(なにそ)之(これ)を空(むな)しくして海の嶋に棄(うつる)耶(か)。」とまをせり。
於是、聽其辭以不棄。
仍令構須彌山形及吳橋於南庭。
時人號其人曰路子工、
亦名芝耆摩呂。
須弥山形…〈岩〉[テ][テ]-弥[ノ]-セン形及クレ-ハシ[ノ]-オホニハオホハ[句]。 〈図〉オゝミハ
須弥山(しゅみせん)…[仏教] 仏教の宇宙像において、世界の中央に立つ巨大な山(〈崇峻即位前〉《護世四王》)。
くれ…[名] 「くれ(の)-」の形で中国由来を示す。
おほには…[名] 〈時代別上代〉「「南庭」と記すのは、宮殿が南向きであるため」。ただし、小墾田宮前の庭の規模や向きは不明。
路子工…〈岩〉其人[ヲ][テ]ミチ-コノ-タクミ[ト][句]𤆔名[ハ]--摩-呂[句]。 〈図〉ナツケ。〈図・閣〉芝◱◱摩◱呂◰。 〈仮名日本紀〉芝耆摩呂しこまろ
𦒿…〈岩〉〈図〉〈閣〉とも、耆ではなく「𦒿」(老+目)。〈国際電脳及異体字知識庫〉耆の異体字。
…漢音:キ・シ。呉音:ギ・ジ・シ。音仮名としては、通常キ・ギ
於是(ここに)、其の辞(こと)を聴きて以ちて不棄(うてず)。
仍(すなはち)須弥山(しゆみせん)の形(かた)及(と)呉橋(くれはし)とを[於]南庭(おほには)に構(つく)ら令(し)めき。
時の人其の人を号(なづ)けて路子工(みちのこのたくみ)と曰ふ、
亦の名は芝耆摩呂(しきまろ、しこまろ)。
又百濟人味摩之、歸化、
曰「學于吳、得伎樂儛。」
則安置櫻井而集少年令習伎樂儛。
於是、眞野首弟子
新漢濟文
二人習之傅其儛。
此今大市首
辟田首等祖也。
味摩之…〈岩〉---マウキオモフケ[リ][句]
得伎楽儛…〈岩〉 タリクレ-樂[ノ]マイ[ヲ][句]
安置…〈岩〉- ハム  ツ-ワラハヘ[テ]
真野首…〈岩〉[切]真-野[ノ]首弟-子[切]マキ[ノ]-アヤサイ-モン[ノ][切]
弟子…ここでは名前。
此今大市首…〈岩〉此字以下十一字本无シ〔"此"以下の十一字は、元の書に無し〕
又百済(くたら)の人味摩之(みまし)、帰化(まゐおもぶ)きて、
曰(まをせらく)「[于]呉(くれ)に学びて、伎(くれ)の楽(うた)儛(まひ)を得まつる。」とまをせり。
則(すなはち)桜井(さくらゐ)に安(やす)らけく置きて[而]少年(わらは)を集(つど)へて伎楽儛(くれのうたのまひ)を習(なら)は令(し)めき。
於是(ここに)、真野(まの)の首(おびと)弟子(てし)
新漢(いまきのあや)済文(さいもむ)
二(ふたり)の人之(これ)を習ひて其の儛(まひ)を伝へり。
此(こ)は今の大市(おほいち)の首(おびと)
辟田(ひきた)の首等(ら)の祖(おや)也(なり)。
《白癩》
 「中国哲学書電子化計画」で検索すると、病名として「」は非常に多いが、「白癩」は『太平広記』に一例あるのみで、決して一般的な語とはいえない。 したがって、書紀の「白癩」は最初から、古訓のようにシラハタもしくはシラハタケと訓まれていたように思われる。
 現代の日本では、ごく最近までハンセン病患者が国家の政策によって不当に隔離され、長年理由の全くない苦難を強いられていたが、その間一般に「らい病」と呼ばれていた。 この歴史的経過により、この病名は現在では一般的に使われない語となっている。
 古い時代の「癩」については、ハンセン病と必ずしもイコールではなく、それ以外の病気も含まれていたと考えられる。 〈是歳〉条に書いてあることは、「帰化した"面身皆斑白"の人の外見は、当時"白癩"と呼ばれる病気の症状に似ていた」、ただこれだけである。
《悪其異於人》
 もし「悪其異於人」が「悪其異於」だったなら、「其人」は「化来人」を指すことになる。 しかし「於人」のままでは住民を指すと読め、ならば「」は受け身〔=にくまれる〕と訓まねばならない。 だとすれば、「其異於人」の「」が隠れている。
 しかし、〈岩崎本〉は「其異於人〔人にそのなることを悪み〕で、 この場合は正確には一般的な対象への性向を述べた文〔=住民は、人にそのような異常があることを嫌う〕となる。
 なお、古訓「ケナルコト」には問題がある。万葉には副詞「ケニ」として使われる例ばかりで、形容動詞「ケナリ」の用例がないからである。
《芝耆摩呂》
 書紀歌謡に""は比較的多く、として使われる。 一例を挙げると〈仁徳二十二年〉の歌謡 「虚呂望虚曽(ころもこそ) 赴多弊茂予(ふたへもよ)〔衣こそ二重もよき〕がある。 は形容詞連体形の語尾で、上代にはコソによる係り結びである。
 したがって、「芝耆摩呂」はシキマロのはずであるが、〈岩崎本〉では朱書の上に墨書で力強くと重ね書きされ、 以来シコマロが定着している。
 おそらく、話の流れに沿ってシコ(醜)-マロと解されたのであろう。書記が最初に話し言葉を音写した段階でたがえたものと判断したらしい。
 なお「しこ(醜)」を恐れる感情は神への畏れに通じ、崇拝の対象となることがある。 ここでは、面身すべて斑白の人が追い払われそうになったとき、外見ではなく私の技量を見よと主張した。 それを受け入れて仕事をやらせてみたら、素晴らしい才能を発揮した。かくて、は親しみと尊敬に結びつく属性に転じたのである。
《桜井》
 桜井については、〈元興寺伽藍縁起并流記資財帳〉に「桜井道場」がある(同Ⅰ縁起)。 同ページでは、「楷井=櫻井=等由良=牟久原であるのも確定的である」と判断した。
 御食炊屋姫〔推古天皇〕が小墾田宮に移る前に住んだ「豊浦宮」跡に豊浦寺が建った。 その場所が桜井で、寺の中か隣接する建物であろうと考えられる。 僧侶の読経や伎楽やその舞の稽古をする少年少女の声が響く、賑やか景色が想像される。
《路子工の帰化》
 次の二十一年条に太子の慈悲深い行動を載せるので、 その関連で、外見のみで人を貶めることに警告を発する話を置いたとも考えられる。
 太子が学んだ、すべての善男子善女人は仏に親近する道に載ることができるという大乗思想は、自然に誰に対しても差別なく思いやる心に人を導く。 太子を描く〈推古紀〉には、またその仏教思想に直結するエピソードを載せ、その一つが芝耆摩呂の件だと言える。
《味摩之らの帰化》
 百済からは無数の人が帰化し、技術や芸術を伝えた。 ここには、そのエピソードが二つ取り上げられている。
 帰化人というテーマは主に〈応神紀〉に集約されているが、実際には絶え間なく続いていたわけである。 〈推古二十年〉にこれらの話を入れたのは、この時期にこの記録があったからだろう。
《伎楽儛》
 「伎楽儛」は、"伎の楽・舞"、"伎楽の舞"という二通りの区切り方ができるが、ここでは一応後者である。 その後に「その舞を習ふ」という文があるからである。
 ただ、実際には音楽と一体で伝わり、少年たちは両方を習ったのであろう。なおウタマヒという語はあり、〈倭名類聚抄〉に「雅楽寮【宇多末比乃豆加佐】」とある。
《真野首弟子》
 〈姓氏家系大辞典〉「真野」の項には筆頭に「真野臣」を挙げ、本貫{近江国・志賀郡・真野【末乃】郷〔倭名類聚抄〕で、 同郷に「神田神社が鎮座す、蓋し此の氏の氏神かと云ふ」と述べる。
 しかし、真野首については「推古紀に真野首弟子なる者見ゆ」とあるのみなので、その位置づけは不明らしい。
《大市首・辟田首》
 〈岩崎本〉は、傍書で「此今大市首辟田首等祖也」の十一字は「本」〔元の書〕にはないと述べ、 実際、〈図書寮本〉、〈内閣文庫本〉、〈仮名日本紀〉にはこの部分がない。
 これで分かるのは、〈岩崎本〉の校訂者が他の本も参照していたことである。
 さて、「此今大市首辟田首等祖也」に全く訓点が付されていないことが注目される。その理由として、 すべての箇所の訓点は、実は他の書から引き写したものである。誰かが筆写する段階で不正規に書き加えた部分と考え、訓点を検討する対象から除いた。 の二つが考えられる。いくら何でもはないから、であろう。 ただ、朱筆の訓点の性格が、集団検討の結果だったことも考えられる。 もしそうなら、誰も見たことがない箇所に訓点が付されないのは当然である。
《大市首》
 〈新撰姓氏録〉に〖諸蕃/大市首/出自任那国人都怒賀阿羅斯止也〗都怒我阿羅斯等は「大加羅国」の王子で、〈垂仁元年〉に倭国にやってきたと言われる。
 本貫の{大和国・城上郡・大市【於保以知】郷〈倭名類聚抄〉には、卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳があり(第111回《倭大国魂神》)大市首は何かと伝説に彩られている。
 〈姓氏家系大辞典〉には「天平十四年の優婆塞貢進解に「黒田郷戸主正八位大市首益山」と見ゆるは此の氏人なり」とあり、 大市首という氏族の存在自体は実証されている。
《辟田首》
 〈倭名類聚抄〉には{大和国・城上郡・辟田郷}とあるが、訓はない。
 万葉集ではサキタと訓まれている(4156、4157)。辟にはサクの訓がある 〔避クにあてたもの〕。但し、これは大伴家持が越中守として赴任していた期間に訓んだもので、 この辟田川は越中の川だから、「辟田首」とはほぼ無関係である。音は、漢音ヘキ・呉音ヒャクである。
 〈姓氏家系大辞典〉には「辟田 ヒキタ」、「辟田 ヒラタ」の二か所に見出し語を立てるが、主な説明はヒラタの項の方でなされる。 一方で、引田(ヒキタ)の項に「三輪引田君:三輪氏の族にして、大和国城上郡曳田邑より起る」とある。
 ヒキタについては、〈延喜式-神名帳〉に{城上郡/曳田神社二座【鍬靫】}があり、城上郡にヒキタの地名があったことは確実である。
 ここで〈五畿内志〉を見ると、「城上郡郷名辟田ヒラタ【方廃東田村存】」とある。 東田村は、現在の「桜井市東田(ひがいた)町」である。 一方ヒキタについては、「秉田神社二座【鍬靫〇在白川村轟瀧上今称白山】」 とあり、現在の秉田神社〔奈良県桜井市白河285〕のことである。
 すなわち、江戸時代の認識は「辟田(ひらた)郷=東田村、秉田(ひきた)=白川村」であった。 〈姓氏家系大辞典〉が辟田首の実質的な説明を辟田(ヒラタ)首の方に入れたのも、この江戸時代の認識を引き継いだものと思われる。
 けれども「白山」神社が「秉田(ひきた)神社」に比定されたのは明治七年〔1874〕のことというから、 実際には、「式内曳田神社=白山神社」は怪しく、真社は他のところにあったのかも知れない。
 一方、〈新撰姓氏録〉に〖諸蕃/辟田首/出自任那国主都奴加阿羅志等也〗とあり、前項の大市首と同じ表現だから大市首と辟田首は双生児的な関係が伺われる。
 さらに注目されるのは、古事記〈雄略段〉で、「引田部の赤猪子」が三輪川で見初められたことである (第202回)。 その回で詳細な検討を行った結果、歌謡ではヒケタだが本文では漢字「引田」がヒキタと訓まれたと結論づけた さらに〈天武紀〉十三年に、「三輪引田君難波麻呂」の名があることから、引田氏が三輪氏と同地域にいたことが考えられる。
 だから、双子氏族のうち大市首は大市に、引田首は隣接する三輪にいたと考えるのが合理的である。 辟田郷もそこかも知れない。
 そもそも、〈五畿内志〉の「辟田ヒラタ」なる訓みは不審である。東田村周辺にヒラタの地名を探すも、 小字名はなく式下郡の「大字平田」は東田村から遠い。「ヒラタはヒキタの誤り」説も見る。
 秉田神社については、先に述べたように江戸時代の不確かな判断かもしれないが、引田一族が白川地域に移動して曳田神社を氏神とした可能性もあろう。 その場合でも辟田の訓がヒキタであったことを否定されない。
 以上の検討により、辟田首の訓はヒキタノオビトとすべきと判断する。
《大市首辟田首等祖》
 「」が味摩之を指すのか、弟子済文を指すのかは不明寮である。 〈姓氏録〉では、大市首・辟田首ともその祖は「任那人のツヌガアラシト」と自称する。 前者なら、〈姓氏録〉とは始祖の名前と渡来した時期が大きく異なる。 後者だとすれば、始祖ではなく系図の通過点の人物とすれば矛盾はなくなるが、 この文脈で祖を書くのならやはり渡来人の方ではないだろうか。
 もっとも、〈岩崎本〉の注が述べるように、誤って紛れ込んだものだとすれば気にする必要もない。
《大意》
 〔二十年〕二月二十日、 皇太夫人堅塩媛を桧隈(ひのくま)の大陵に改葬しました。
 この日、軽の街頭で誄(るい)を捧げました。
 第一に、阿倍の内(うち)の鳥臣が、天皇(すめらみこと)の命(めい)を誄(るい)し、 次いで奠霊(てんれい)〔霊に捧げる副葬品〕は、 明器〔日常品の作り物〕、明衣の類、一万五千種がありました。
 第二に、諸の皇子(みこ)たちが、席次にしたがってそれぞれ誄しました。
 第三に、中臣の宮地(みやところ)連(むらじ)烏摩侶(うまろ)が、大臣〔馬子〕の辞を誄しました。
 第四に、大臣(おおまえつきみ)〔馬子〕は八腹(やふく)の臣〔八人の腹心〕を率いて、 境部の摩理勢(まりせ)臣に、祖先以来の氏姓を誄させました。
 当時の人は、 「摩理勢(まりせ)と烏摩侶(うまろ)の二人は上手に誄したが、 ただ鳥臣は誄することができなかった。」と言ったものです。
 五月五日、 薬猟(くすりがり)を行い、羽田(はた)に集いました。 その後列をなして朝廷に参上し、 その裝束は菟田の薬猟のときと同じでした。
 この年、 百済国から帰化した人がおり、 その顔と体全体に白斑がありました。
 人々は、もしや癩を患っているかもと、 その人の異様さを憎み、 海の離島に捨てることを欲しました。
 しかし、その人の言うには 「もし、私の皮膚の斑なさまを憎むのなら、 白斑(しらふ)の牛馬を国中で畜産してはならない。
 それに、私には小才があり、よく〔庭園に〕山岳の形を構えることができる。 それ、私を滞在させて使ってもらえば、国のために利があるだろう。 どうしてこれを無にして,離島に棄てようというのか。」と言いました。
 すると、人々はその言葉を聴いて棄てることをやめました。 そして須弥山(しゅみせん)の模して、呉橋〔唐橋〕を宮殿の南庭に構築しました。 当時の人はその人を路子工(みちのこのたくみ)と名付け、 別名醜麿(しこまろ)と呼びました。
 また百済人の味摩之(みまし)が帰化し、 「私は呉(くれ)で学び、伎楽の舞を取得しました。」と申しました。 そこで、桜井に置き少年を集めて、伎楽の舞を習わせました。
 こうして、真野の首(おびと)弟子(てし)と 新漢(いまきのあや)の済文(さいもん)の 二人がこれを習い、その舞を伝えました。
 これが今の大市の首、 辟田(ひきた)の首らの先祖です。


18目次 【二十一年】
《作掖上池畝傍池和珥池》
廿一年冬十一月。
作掖上池
畝傍池
和珥池。
又自難波至京置大道。
掖上池…〈岩〉[ノ]-上池[ノ]。 〈閣〉ワキノ。 〈仮名日本紀〉掖上池わきかんのいけ
畝傍…(万)0013高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 かぐやまは うねびををしと みみなしと あひあらそひき」〔香具山は畝傍山を男にしたくて、耳成山と争った〕。「畝火山」とも表記される。
大道…〈岩〉難波[ニ][テ]ミヤコ[ニ][切]ミチヲ[ヲ][句]。 (万)3728安乎尓与之 奈良能於保知波 由吉余家杼 許能山道波 由伎安之可里家利 あをによし ならのおほちは ゆきよけど このやまみちは ゆきあしかりけり」。
二十一年(ふたとせあまりひととせ)冬十一月(しもつき)。
[作]掖上池(わきのかみのいけ)、
畝傍(うねび)の池、
和珥(わに)の池をつくりたまふ。
又難波(なには)自(ゆ)京(みやこ)に至り大道(おほち)を置きたまふ。
《掖上池》
町村制〔1889〕による掖上村と秋津村の範囲
掖上、池心宮の推定地の周辺
 掖上池については、他には〈持統紀〉に「于腋上陂」とある。 このときは大夫〔マヘツキミ〕たちが乗馬して並び、謁見した。""は堤、もしくは池の意味。 現在この名前がつく池はないが、他の多くの池については比定が可能なので、掖上池も書紀編纂期には存在していたのだろう。
 現在、JRの駅名に"掖上"がある。これは、かつて存在した「掖上村」によるが、明治時代に発足した村に新しくつけた村名だから、書紀の「掖上」の位置を定めるのには役立たない。
 文献を見ると、例えば『国史大辞典』〔吉川弘文館;1997〕は、「斎藤美澄〔1857~1915〕の編纂した『大和史料』〔1914〕では、掖上池心宮の所在地を「御所町ト秋津村大字池ノ内トノ間ニアリ」」 とし、現在の奈良県御所(ごせ)市の市街地と御所市池之内との間に求めている」と述べる。
 次に『大日本地名辞書』〔1907〕は「掖上池心宮址」の項で「大和志書紀通証に池内イケノウチ(今秋津村)御所二村の間に在り、 此地一名大韋古オホイコ原今蓬原ヨモキハラと云ふとあり。掖上は御所東西広く被むれる名なり」 と述べる。同書は、『大和史料』よりも古い。
 「掖上村」は町村制で初めて登場し、書紀の「掖上池」、「〈孝安天皇〉掖上心池宮」がこの辺りだと考えられていたことを示すものである。 町村制〔1889年〕は、『大日本地名辞書』よりも古い。
 さらに遡ると、〈五畿内志-大和国葛上郡〉〔1734〕に「山川:腋上池【在井戸村推古天皇二十一年冬十月作腋上池即此】」とあり、 ここで初めて、掖上池を池之内の外に求めた説が現れる。 以上から、掖上池が池内村付近となったのは、1734年から1889年までの間となる。 その「御所と池内の間」説が何を根拠にして出てきたかを知りたいが、それが分かる資料にはまだ辿り着いていない。
《書紀の記述と推定地》
 本サイトでは、既に〈孝昭天皇段〉(第105回)において、 この地が掖上である可能性について独自に考察した。 その時注目したのは、「掖上室山」なる語である(〈履中紀三年〉)。 そして池之内が地理的に室村〔現在は御所市室(大字)〕に隣接するのは確かである。室の背後は山地で、それが「室山」であろう。
 について〈五畿内志〉には「村里:室【一作牟婁」、 「山川:室山【室村上方桜チル室山風即此】」とある。これは〈履中紀〉の市磯池の宴のことを書いたと見られる。
 もう一つ、〈神武三十一年〉に「腋上嗛間ほほま而廻-望国状」とあり、 現在も「本間山」がある。 〈五畿内志〉に「山川:嗛間丘【本間村南一名望国クニミ山 神武天皇…巡幸…】」、 「村里本間ホンマ日本紀作嗛間ホホマ」が載る。 ホホマは、書紀以前からあった地名かも知れない。
 つまり「掖上」の""、「掖上嗛間」の"本間"、「掖上」・「腋上」の"池之内"はこの地にあった地名だが、不思議なことに"掖上"だけがない。
《掖上の訓み》
 掖上の古訓は、〈北野本〉によると次のようになっている。北野本は多くの巻に末尾に卜部兼永〔1467~1536〕により「加一見畢」等の添え書きがなされている。
●〈神武三十一年〉ノホリマシ 腋上ワキノカム[ノ]嗛間丘[ニ][テ]
●〈孝昭元年〉ウツス ミヤコヲ掖上ワキノカミニ
●〈履中三年〉掖上ワキノカム[ノ]ムロ[ノ][ニ]
 いずれもワキノカミとなっている。は音便と見られ、/が未分化の時期の他の本につけた訓点を模した可能性があるが、確かなことは分からない。
 「」は、陵の名前の中では「~ノヘ」と訓まれるから本当はワキノヘで、ワキノカミは古訓の段階での判断で決めたものかも知れない。
《畝傍池》
 畝傍池は畝傍山の南、現在の深田池であろうと言われている。 『日本歴史地名大系』奈良県〔1981〕によると、 「橿原神宮南側の深田ふかた池は畝傍・久米くめ池尻いけじり大窪おおくぼ山本やまもと四条しじよう慈明寺じみようじ寺田てらだの八ヵ村が共有、灌漑用水として利用している(山本区有文書)」 という。 …区有文書(くゆうもんじょ)の「区」は旧村の意(大字とも)。区長宅に持ち回りで保管された古文書。その山本町(旧山本村)のものであろう〕
 その「八村」の配置を見ると、深田池の水を桜川を通して利用していたようである。 橿原市史〔橿原市役所;1988〕本編下巻には、 「水がかりが複数の集落の領域に及ぶ場合、用水源のためのため池を共同で維持管理する池郷と呼ばれるまとまりが成立」し、 「深田池は久米、畝傍、大久保、山本、慈明寺、四条、寺田の七集落からなり、…池の下流部の集落から構成されている」とある。
 畝傍池の建造時期は、他のいくつかの池とともに〈推古〉の偉大化のために〈推古紀〉に集約されたとも考えられるが、書紀に書かれる以上、その編纂期には既に存在していて農業用水に利用されていたのだろう。 なお、深田池は、現在は橿原神宮の境内に組み込まれている。
《和珥池》
 和珥池は、〈仁徳天皇段〉 でも作られた(第163回)。 大きな皿池で、〈五畿内志〉添上郡には、「山川:和珥池【在池田村一名光寺台池広一千五百畝 推古天皇二十一年十一月作即此】」 とある。
 『日本歴史地名大系』は「文治二年〔1186;鎌倉冒頭〕の大和池田庄丸帳(根津文書)に「細井池」「香台寺ノ池」」、 「弘法大師が稗田ひえだの農民を救うために築造」、「稗田の池として、古来水利権は稗田村が支配した」と述べる。 書紀編纂期から存在していたとすれば、「弘法大師築造」は牽強付会である〔空海は774~835〕。 やはり空海築造と伝わる満濃池〔香川県仲多度郡〕は実際には大宝年間に築かれ、空海が行ったのは修復作業だという(香川県公式/空海)。
 一つの事業が〈仁徳朝〉と〈推古朝〉の二つの時代に投影されているのは、難波大道でも同様である。 依網池に至っては、さらに〈崇神朝〉が加わり、三つの時代である。
 実際にはすべて推古より新しく、偉大な天皇の業績として描くために、やみくもに時代を遡らせたという疑いが生まれる。 しかし、狭山池の樋管が616年〔推古二十四年;推古天皇5 であるから、〈推古朝〉における池作りには現実性があり、また〈仁徳朝〉でも巨大な陵を築くだけの土木技術があった。
 よって、同名の池を「作る」が複数の時代に書かれている問題は、もし書紀の史実性にできるだけ寄せようとすれば、同一の池に対する築造・修復となる。 一方、記述の不確かさを前提とするなら、同一の池に複数の言い伝えがあると判断することになる。 その場合でも、池の築造そのものは〈推古〉は確実で、恐らく〈仁徳〉ぐらいまでは遡るだろうと思われる。
《大道》
青谷遺跡――竹原井頓宮跡に推定
『柏原市埋蔵文化財発掘調査概報1984』p.35
 大道の経路「難波京置大道」は、大まかには難波大道-丹比道-横大路と考えられる。 〈仁徳紀〉十四年に 「大道於京中、自南門直指之至丹比邑」とあり、 難波宮から丹比までの大道のことが載る(〈仁徳段〉163回《大道》)。
 この大道を〈仁徳〉まで遡らせたのは偉大化であろうが、〈推古朝〉の大道についてはどうであろうか。 難波大道は存在し、難波大道(大和川今池遺跡)現地説明会によると、 検出された大道の幅は17mあり、「大和の下ツ道・山田道や藤原京の朱雀大路とほぼ同規模」というから、持統天皇の頃と見るのが現実的である。
 ただ、「大道」となるはるか以前から、この経路が陸上交通路として存在していたのは疑いないところである。
 もう少し現実的に考えていくと、《歌意》の項で述べるように太子は後に頓宮が建つ竹原井を通った可能性が高い。 竹原井頓宮は、小墾田宮と難波宮のほぼ中間点にあたり、さらに肩岡池に比定される旗尾池にもかなり近い。 また、跡部神社の地には十八年で見た阿斗河辺館も考え得、交通の要所と考えることができる。 すると、横大路から丹比道に入らず、「大坂道から片岡―竹原井―跡部―難波宮」のコースの方が、〈推古二十一年〉前後の太子や新羅使の移動経路に合う。
 だから、「大道」とはこの経路の道路の整備と見た方がしっくり来るのである。問題は、この道の幅員がどれほどであったかということになる。 令で「大路」とされる奈良時代の山陽道(幅12mほど)には、当然及ばないであろう。それでも数mはあったかも知れない。いつか大道跡が検出されることを期待したい。
《竹原井頓宮》
 〈続記〉には、「竹原井頓宮」への行幸が四例載る(右表)。
養老元年〔717〕二月庚寅〔十九〕。車駕〔元正〕還。至竹原井頓宮。
天平六年〔734〕三月戊寅〔十七〕。車駕〔聖武〕発自難波。宿竹原井頓宮。
天平十六年〔744〕十月庚子〔十一〕。太上天皇〔元正〕行幸珍努及竹原井離宮。
宝亀二年〔771〕二月戊申〔二十一〕。車駕〔光仁〕取竜田道。還到竹原井行宮。
 柏原市公式ページによると、 竹原井頓宮に比定されるのは青谷遺跡〔大阪府柏原市青谷〕で、1984年の調査により 「調査地の東寄りで大規模な礎石建物とそれを回廊状に取り囲む礎石建物が確認されました。そして、その遺跡は寺院ではなく、竹原井頓宮に伴う可能性が高いと判断」されたという。 同年調査前は寺院跡と考えられ、名称も「青谷廃寺」であった。 『柏原市埋蔵文化財発掘調査概報1984』〔柏原市教育委員会;1985〕によると、 建物は大きさ「南北14m、東西22.5m」で、「礎石を利用した建物であったと考えられる」という。
 その時期は、「土器及び瓦の製作年代から当地では、8世紀初頭に何らかの生活が営まれて」いて、「8世紀中葉に瓦葺き建物が建てられ」 「9世紀には放棄されたことが読み取れ」、 遺跡の性格については「寺院跡 とは考えられない」、「龍田道がこの付近を通っていたと考えられる」、 「文献史学の立場から塚口義信氏が」「「竹原井行宮」は高井田あるいは青谷の地にあったと推論」し、「当遺跡は、まさにその青谷の地にある」と述べる。
 〈続記〉は平城京の時代だから、北東の龍田道から入る経路である。 竹原井頓宮は717年には既に頓宮と記述され、太子伝説の存在を考えると、平城京遷都以前から飛鳥京―難波宮の中継地として、飛鳥時代から何らかの宿泊施設が存在したことが考えられる。
《皇太子視飢者臥道垂》
十二月庚午朔。
皇太子、遊行於片岡。
時飢者臥道垂。
仍問姓名、而不言。
皇太子視之與飲食、
卽脱衣裳、覆飢者而、
言、安臥也。
則歌之曰。
遊行…〈岩〉-イタマス〔イテマス?〕
片岡…奈良県王寺町から香芝市。推古十五年《肩岡池》〕
飢者…〈岩〉-[切][セリ][ノ][ニ][句]〔道のほとりのふせり〕
問姓名…〈岩〉[テ] ハネ[ヲ][句][ニ][句]〔かくありて、姓名を問ひたまふ。しかる(に/を)まうさず〕
飲食…〈図〉飲食ヲシモノ
視之…〈岩〉視之ミソナハシ[テ]マフ飲食クラヒモノヲシモノ[句]
みそこなはす…[他] 〈時代別上代〉「ミソナハスの語構成は、…ミシオコナハス―ミソコナハス―ミソコナスとつづまったものと考えられている。ミソコナハスの例は…多く見える。」
脱衣裳…〈岩〉ヌキヌイタ〔マヒ〕-ミソミケシ[ヲ][テ]〔ホヒ〕〔マフ〕飢者[ヲ]
安臥…〈岩〉〔タマハク〕[ク]ヤスクヤスラ〔カニ〕フセレ
…[助動]ラ変 完了。『古語林』〔大修館1997〕命令形「れ」は上代だけに見られる。
十二月(しはす)庚午(かのえうま)の朔(つきたち)。
皇太子(ひつぎのみこ)、[於]片岡(かたをか)に遊行(いでま)す。
時に飢(う)ゑたる者(ひと)道(みち)の垂(ほとり)に臥(ふ)せり。
仍(すなはち)姓名(かばねな)を問ひたまへど、而(しかれども)不言(まをさず)。
皇太子之(これ)を視(め)して、飲食(くらひもの)を与(たまは)りて、
即(すなは)ち衣裳(みけし)を脱ぎ、飢ゑたる者(ひと)を覆(おほ)ひたまひて[而]
言(のたま)はく、「安(やすらけ)く臥(ふ)せれ」とのたまふ[也]。
則(すなはち)歌之曰(みうたよみたまはく)。
斯那提流 箇多烏箇夜摩爾 伊比爾惠弖
 許夜勢屢 諸能多比等阿波禮 於夜那斯爾
 那禮奈理雞迷夜 佐須陀氣能 枳彌波夜那祗
 伊比爾惠弖 許夜勢留 諸能多比等阿波禮
しなてる…[枕] 地名片岡山などにかかる。
うう…[自]ワ下二 飢える。「ゑ」は連用形「うゑ」の短縮形。
こやす…[自]サ四 コユ〔寝転ぶ〕の未然形+軽い尊敬の動詞語尾ス。
…[助動]ラ変 完了。四段動詞の命令形から接続。
たびと…[名] 旅人。タビ-ヒトの短縮形。〈時代別上代〉タヒトで田人の意であり、それがタビトと発音されたために、万葉における異伝では「旅人」となったものとする説もある。
けり…[助動]ラ変 過去の推量。已然形[ケレ]+助詞[ヤ]は反語を表す。
さすたけの…[枕] 君などにかかる。語義不詳。
…[助] 間投助詞ヤは疑問、詠嘆、反語。連体形で結ぶ。
斯那提流(しなてる) 箇多烏箇夜摩爾(かたをかやまに) 伊比爾恵弖(いひにゑて)
 許夜勢屢(こやせる) 諸能多比等阿波礼(そのたひあはれ) 於夜那斯爾(おやなしに)
 那礼奈理鶏迷夜(なれなりけや) 佐須陀気能(さすたけの) 枳弥波夜那祗(きみはやなき)
 伊比爾恵弖(いひにゑて) 許夜勢留(こやせる) 諸能多比等阿波礼(そのたひあはれ)
〈岩〉〔ルビは本サイトの訓読と一致する。声点は省略。〕
斯 那 提所名又曰級照也[句]箇 多 行岡山烏 箇[句]夜 摩 爾[句]伊 比 飯飢也爾 恵 弖[句] 許 夜 寝臥也勢 屢[句]諸 能 多 比旅人[句]阿 波[句]於 夜 無親也那 斯 爾[句] 那 礼 奈 理[切]雞 迷 夜[句]佐 須刺竹 陀 氣 能[句]枳 彌 波 夜 [句] 伊 比 爾 恵 弖[句]許 夜 寝臥勢 留[句]諸 能 多 比旅人[句]阿 波[句]
〈釈紀〉
斯那提流級照也。私記曰。山乃之奈倍留也。 箇多烏箇夜摩爾片岡山也。 伊比爾恵弖飯也。略宇也。  許夜勢屢私記曰。師説。寝臥之義也。 諸能多比等其旅人也。 阿波礼哀也。  於夜那斯爾無礼イ説也。  那礼奈理鶏迷夜成也。或曰。那礼者汝也。言飢-臥親歟之由也。  佐須陀気能私記曰。師説。謂矢也。言以矢刺身之事。其可恐懼。故欲君之発語有此辞也。 〔矢を以て身を刺す事、恐懼おそるべし。故に君を言はむとせし発語[=枕詞]この辞にあり〕 或説。古謂胡録之矢刺矢也。 〔胡録[矢を入れるケース]に刺しし矢を謂ひて、刺矢とす〕陀気謂矢也。  枳弥波夜那祗君也。
辛未。
皇太子遣使令視飢者。
使者還來之曰、飢者既死。
爰皇太子大悲之、
則因以葬埋於當處、墓固封也。
數日之後、
皇太子召近習者謂之曰
「先日臥于道飢者、
其非凡人、必眞人也。」
遣使令視。
遣使…〈岩〉マタシ使[ヲ][テ]タマフ飢者[ヲ][句]
還来…〈岩〉マウキテ[テ][切]
既死…〈岩〉-ヒト[ニ] マカルミマ タリ[タリ][句]
大悲…〈岩〉[ニ]〔マフ〕[句]
葬埋…〈岩〉/ハフリオサメ-ウツマシム[シム]ソコ[ノ][句]/ハカツカ- ツキカタム
数日…〈岩〉數日ヒヘテ之後[切]。〈図〉数日 ヒイヘテ之後
近習者…〈岩〉-[ヲ][テ]。 〈図〉ツカマツル
さきつひ…[名] 過ぎし日。先日。
飢者…〈岩〉-日[ニ]于道[テ]ウヘ[タル]ヒト[切]ナラシ凡人タゝヒト[ニ][句]-ヒシリナリ   ナラントノタマ[ト][テ] 〔…必ずひじり(なり/ならん)とのたまひて〕
ただひと…[名] 平凡な人。凡人。
それ…[助] 指示語としての意味を持たずに使う場合がある。感歎。漢語「夫」の訳語。
まひと…[名] 八色の姓の第一位。もともとは一般名詞で、とても優れた人の意か。
真人…[名] 後文でヒジリに"聖"を宛てているので、マヒトと訓むべきか。八色の姓の最高位にも使われので、マヒトには聖人、優れた人の語感があったと見られる。
辛未(かのとひつじ)〔二日〕
皇太子(ひつぎのみこ)使(つかひ)を遣(つかは)して飢者(うゑてあるひと)を視(み)令(し)めたまふ。
使者(つかひ)の還(かへ)り[之]来(まゐき)て曰(まを)さく、「飢者(うゑてあるひと)既に死(まか)りつ」とまをしき。
爰(ここに)皇太子(ひつぎのみこ)大(おほひに)[之を]悲(かな)しびたまひて、
則(すなはち)因(よ)りて以ちて[於]当(そこの)処(ところ)に葬(はぶ)り埋(うづ)ましめ、墓(はか)は封(つか)を固(かた)めしめたまひき[也]。
数日之(そこばくのひへて)後(のち)に、
皇太子、近習者(もとこ)を召したまひて謂之曰(のたまへらく)
「先日(さきつひ)に[于]道(みち)に臥(ふ)せりて飢ゑたる者(ひと)、
其(それ)凡人(ただひと)に非(あら)ず、必ず真人(まひと、ひじり)也(なり)。」とのたまへりて、
使(つかひ)を遣(つかは)して視(み)令(し)めたまふ。
於是、使者還來之曰
「到於墓所而視之、封埋勿動。
乃開以見、屍骨既空。
唯衣服疊置棺上。」
於是、皇太子復返使者令取其衣、
如常且服矣。
時人大異之曰
「聖之知聖、其實哉。」
逾惶。
視之…〈岩〉[ハ]カタメカタメ -ウツメタリウツムシトコロ[切][ス]ウコカス[句]。 〈閣〉カス
屍骨…〈岩〉[テ][ハ]-カハネ[ニ]ムナシムナシクナリタリ[タリ][句]
衣服…〈岩〉-キモノミケシタゝ[テ][リ]ヒツキ[ノ][ニ][句]
返使者…〈岩〉使者[ヲ][テ]タマ〔マヒ〕其衣[ヲ][句][切]キタマフタテマツル[句]
大異…〈岩〉[ニ]  ア
知聖…〈岩〉[コト][ヲ][切]マコト カナト云[ト][テ]イヨ\/ カシコマル
…[助] (古訓) かな。や。
かな…[助] 詠嘆。〈時代別上代〉「(常陸風土記現存本文の)一例だけで上代にカナの存在したことが積極的に実証できるか、疑わしい」。
於是(ここに)、使者(つかひ)還(かへ)り[之]来(まゐきた)りて曰(まをさく)、
「[於]墓所(おくつき)に到りて[而]之(これ)を視(み)たれば、封(つか)に埋(うづ)めるところ勿動(うごかず)。
乃(すなはち)開きて以ちて見れば、屍骨(かばね)既(すで)に空(むな)し。
唯(ただ)衣服(ころも)畳(たた)みて棺(ひとき)の上(へ)に置けり」とまをす。
於是(ここに)、皇太子(ひつぎのみこ)復(また)使者(つかひ)を返(かへ)して其の衣(みけ)を取ら令(し)めたまひて、
常(つね)の如く且(また)服(き)たまへり[矣]。
時の人大(おほ)きに[之を]異(あやし)びて曰(まを)さく
「聖(ひじり)之(これ)聖(ひじり)を知ること、其(それ)実(まこと)かも[哉]。」とまをして、
逾(いよいよ)惶(かしこま)りき。
《片岡》
 片岡は、王寺町から香芝市までの地域と考えられている。 これについては、十五年七月肩岡池のところで考察した。 肩岡池に比定される旗尾池と近くの分川池については、聖徳太子が築いた伝説がある。 片岡山の飢えて臥す旅人の話も、この地に深く伝わる太子伝説のひとつかも知れない。
《歌意》
級照しなてる 片をか山に いひて  こやせる 其の旅人たびと哀れ 親無しに  なれりけめや 刺竹の 君はや無き  飯に飢て 臥せる 其の旅人哀れ
〔 片岡山に飯(いい)に飢え、横たわる旅人哀れ。親なしでお前は育つことができたか?。そんなことはあるまい。 主君はいないのか。飯に飢え、横たわる旅人哀れ。 〕
 コヤスについて〈時代別上代〉は、「臥ユに対する敬語ではあるが、用例のほとんどが人の死をあらわすのに用いられている」とする。 ただ、臥ユには殆ど死の用法はなく、「敬意を含むコヤスにこの傾向が顕著に認められるのは、使者に対する畏敬の念に基づくものか」という。
 「親無しに汝成りけめや」は反語であるから、「お前をここまで育てたのに、親はさぞ残念だろう」の意と見られる。 すると、旅路で倒れたこの男性はまだ若年であろうか。 〈時代別上代〉は、この歌のナルを「生物が生育する。成長する。生じる。実を結ぶ」意味としている。
 そして面倒を見てくれる主君もおらず、孤独の旅に出たのであろうか。
 万葉に類歌がある。
(万)
0415
〔題詞〕上宮聖徳皇子出-遊竹原井之時、見龍田山死人悲傷御作歌一首。【小墾田宮御宇天皇〔御〕代。〔小〕墾田宮御宇者、豊御食炊屋姫天皇也。諱額田。謚推古。】
家有者 妹之手将纒 草枕 客尓臥有 此旅人憾怜  いへにあらば いもがてまかむ くさまくら たびにこやせる このたびとあはれ
〔家にあらば 妹が手纏かむ 草枕 旅に臥せる この旅人哀れ〕
 ここで、題詞にある「竹原井」は、柏原市内と言われる(柏原市公式/竹原井頓宮)。 同市青谷(大字)に竹原井頓宮跡と見られる遺跡が検出されており、推定肩岡池(旗尾池)はかなり近く(右図)、この地域の共通伝説からそれぞれの歌が生まれたと見られる。
 この題詞では「こやす」を死と解釈している。 しかし、〈推古紀〉の物語の文脈においては「横たわる」意味である。
《~トノタマヒテ》
 この段に付された〈岩崎本〉の訓点には、「ノタマハク~トノタマヒテ」のように、会話文を前後から「」で囲む形が目立つ。 これは上代語の形で、もちろん他の箇所にも潜在的にはあるのだろうが、ここでは明示される。
 また、完了のラ変助動詞「リ」の多用は物語的である。これらの訓読は古事記のスタイルに似て口承文学的である。
 なお、〈岩崎本〉訓点のタリについて〈時代別上代〉は「記紀にはまだ用例がなく」というが、これは主に歌謡のことであって、平安時代に付された古訓は範囲の外である。 「カナ」も、上代にはなかったとされる。
《屍骨既空》
 墓に葬った後に遺体が消えた伝説は、日本武尊に続き二例目である。 第134回では、これについて「不意に新約聖書を連想させる」と述べた。 太子については、厩戸皇子の名をもつように出生伝説にもキリストとの共通もあり、単なる偶然とは言い切れないように思える。 シルクロードを通した伝説の伝搬も考えたところである。
 中国には唐代にキリスト教ネストリウス派が伝わり、「景教」と呼ばれた。 『国士大辞典』〔吉川弘文館;1979~1997〕によれば「中国への公式の伝来は、唐の太宗の貞観九年〔635〕にアルワーン(阿羅本)たちが来たとされ」、 徳宗〔在位779~805〕のときに絶頂期を迎え、武宗になって弾圧されたという。 日本から唐に渡った学問僧が景教徒と接触して新約聖書を知り、それが日本の伝説にも影響を及ぼしたことは十分に考えられる。
《大意》
 二十一年十一月、 掖上(わきのかみ)池、 畝傍(うねび)池、 和珥(わに)池を作りました。
 また、難波から〔飛鳥の〕都まで大道を敷きました。
 十二月一日、 皇太子は、片岡(かたおか)にお出かけになりました。
 その時、飢えた人が道の傍らに臥せていました。 そこで、姓名を問われましたが、言いませんでした。
 皇太子はこれをご覧になり、食物を与えられ、 そして着ていたものをお脱ぎになり、飢えた人を覆い、 「安らかに臥せよ」と仰りました。 そのとき、御歌を詠まれました。
――級照(しなてる) 片岡(かたをか)山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て  臥(こや)せる 其の旅人(たびと)哀(あは)れ 親無(な)しに  汝(なれ)成りけめや 刺竹(さすたけ)の 君はや無き  飯に飢て 臥せる 其の旅人哀れ
 二日、 皇太子は使者を遣し、飢えた人を見に行かせました。
 使者は帰還して、「飢えた人は既に死にました」と復命しました。 すると皇太子は大変悲しまれ、 よって、その場所に埋葬し、墓として塚を固めさせました。
 数日の後、 皇太子は、近習を召し、 「先日、道に臥せて飢えていた人は、 凡人ではなく、必ず聖人である。」と仰り、 使者を遣して見に行かせました。
 すると、使者が復命するに、 「墓所に到着して見てみたところ、墓に埋めたところに変化はありませんでした。 そこで開いて見ると、屍骨は既に空でした。 ただ、衣が畳まれて棺の上に置いてありました」と申しました。
 そこで、皇太子は再び使者を戻し、その衣を取って来させ、 当たり前のように、またご着用になりました。
 当時の人はこれを大変不思議に思い、 「聖(ひじり)は聖を知る、これは真実(まこと)である。」と申し、 いよいよかしこまりました。


まとめ
 飯に飢えて臥す旅人を詠んだ歌の類歌の舞台の竹原井であった。その比定地は難波と小墾田宮を直線で結んだ中央にあたる。 さらに、竹原井は肩岡池に比定される旗尾池にもかなり近いことが分かった。
 すると、太子の片岡山への行幸と、「難波より〔飛鳥〕京に至る大道を作った」話とが結びついてくる。
 というのは、難波と飛鳥を結ぶ道は往来が盛んであり、片岡や竹原井はその経路上にある。 通行する人々は多様で、中には飢えて横たわる旅人もいるし、太子のような皇族もいるだろう。 そこに、このような伝説が生まれる素地がある。つまり、この伝説自体が往時の交通量を表現しているのである。 そこから考えると、二十一年十一月条の「大道」は、難波と飛鳥を最短距離で結ぶ経路であろうということになる。 竹原井頓宮は奈良時代の話であるが、その原型は飛鳥の宮の頃に遡り、それが平城京遷都の後も継続して立派な建物が建ったのではないかとも思われる。
 さて、片塩媛の改葬では、現実政治の舞台における蘇我馬子の存在感が誇示された。 それに対して、太子は宗教界の聖人としての姿を一層鮮やかにする。道端で臥せっている旅人への太子の哀れみの歌は、 「聖人は聖人を知る」伝説に高められる。芝耆摩呂しこまろの話には太子の直接の関わりはないが、 太子の慈悲の心が人々に広まりつつあることの一つの側面を描いたものと位置付けられよう。
 このように、〈推古紀〉二十年~二十一年においては、馬子と太子の進む道の違いは、際立っている。



[22-09]  推古天皇5