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2022.01.13(thu) [22-07] 推古天皇7 

14目次 【十七年】
《筑紫大宰奏上言百濟僧泊于肥後國葦北津》
十七年夏四月丁酉朔庚子。
筑紫大宰奏上言
「百濟僧、道欣惠彌爲首一十人、
俗七十五人、
泊于肥後國葦北津。」
是時、遣難波吉士德摩呂
船史龍、
以問之曰、「何來也。」
對曰
「百濟王命以遣於吳國、
其國有亂不得入。
更返於本鄕、
忽逢暴風、漂蕩海中。
然、有大幸而
泊于聖帝之邊境、
以歡喜。」
葦北〈敏達十二年〉日羅
大宰奏…〈岩崎本〔以下岩〕大-宰オホミコトモチオホミコトモチノツカサ[切]奏上[テ][切]百済[ノ]〔ホフ〕-コン-恵-ムネトコノカミ[ト][テ]一-十-人トタリ[切]七-十五-人[切]  レトマレリ[リ] 于肥[ノ]-[ノ]-国ヒノクニ[ノ]葦北[ノ][句]
…〈図書寮本〔以後図〕カウヘ
このかみ…[名] ①長男。兄。②地域、群れの長。
しろぎぬ…[名] 白衣の人。すなわち、僧ではない俗人。
肥後国…〈倭名類聚抄〉{肥後【比乃美知乃之利】}。肥:ヒ、比:ヒ。平安中期は甲乙の区別が消失している。
徳摩呂…〈岩〉トコ-摩-呂[切][ノ]フンヒト タツ[ヲ]
何来…〈岩〉〔トハ〕[テ][切]ナン[カ]マウコシ。 〈図〉マイコシ。〈内閣文庫本〔以後閣〕マヒコシ
…[係助] 疑問。連体形で結ぶ。
百済王…〈岩〉百濟[ノ]キミ〔コ〕キシ[切]コトオホキ
呉国…〈岩〉クレ[ノ][句]其國[ニ]〔ミタ〕[テ][コト][句]
本郷…〈岩〉[ノ]クニ
暴風…〈岩〉[ニ]アラキアカラシマカセ[ニ][テ]-タゝヨフ[ニ][ク]。 〈図〉アカラシマ。 〈倭名類聚抄〉暴風:八夜知又乃和木乃加世〔ハヤチ、ノワキノカゼ〕
あからしまかぜ…[名] 〈時代別上代〉疾風。暴風。アカラシマはアカラサマと同じ。
あからさまに…[副] 急に。
はやち…[名] 突然の強風。ハヤテとも。
わたなか…[名] 大海の真ん中。
大幸…〈岩〉[ナル]サチ
聖帝…〈岩〉トゝマル  聖帝 キミ ホトリ[ノ][ニ][句]コレヲモテ[テ]歓喜ウレシムウレシフ[句]
十七年(ととせあまりななとせ)夏四月(うづき)丁酉(ひのととり)を朔(つきたち)として庚子(かのえね)〔四日〕
筑紫(ちくし)の大宰(おほみこともち)奏上(まを)して言(まを)さく、
「百済の僧(ほふし)、道欣(だうこむ)恵弥(ゑみ)、首(このかみ)と為(な)りて一十人(とたり)、
俗(しろぎぬ)七十五人(ななそたりあまりいつたり)、
[于]肥後(ひのみちのしり)の国の葦北(あしきた)の津に泊(と)まれり。」とまをす。
是の時、[遣]難波吉士(なにはのきし)徳摩呂(とくまろ)、
船史(ふなのふみひと)龍(たつ)をつかわし、
以ちて[之]問はして曰はく「何(なに)か来(まゐこし)[也]。」といへば、
対(こた)へて曰(まを)ししく
「百済(くたら)の王(わう)命(おほ)して、以ちて[於]呉(くれ)の国に遣(つか)はしき。
其の国に乱(みだれ)有りて、不得入(えいらね)ば、
更(また)[於]本郷(もとつくに)に返(かへ)しつ。
忽(たちまち)に暴風(あからしまかぜ)に逢(あ)ひて、海中(わたなか)に漂蕩(ただよ)へり。
然(しかれども)、大幸(おほきなるさち)有りて[而]、
[于]聖帝(ひじりのみかど)之(の)辺境(ほとり)に泊(とどま)りき。
以(もちて)歓喜(うれしぶ)。」とまをしき。
五月丁卯朔壬午。
德摩呂等復奏之。
則返德摩呂
龍二人而、
副百濟人等、送本國。
至于對馬、
以道人等十一皆請之欲留、
乃上表而留之。
因令住元興寺。
復奏…〈岩〉-カヘリコトマウ[ス][句]
…〈岩〉カハシ
副百済人等…〈岩〉ソヘ百済[ノ]トモ[ヲ][テ]オクリツカハス[ノ][ニ]
対馬…〈岩〉-ツシマ
道人等…〈岩〉-ヲコナイヒトオコナヒ アマリ[テ]/マウスマセ[テ]一レトゝメムト[句]マウシフミフミタテマツリテ而留[句]
おこなひ…[名] 修行。
住元興寺…〈岩〉[テ]ハムヘ元-興-寺[ニ]
五月(さつき)丁卯(ひのとう)を朔として壬午(みづのえうま)〔十六日〕
徳摩呂(とくまろ)等(ら)[之]復奏(かへりごとまをす)。
則(すなはち)[返]徳摩呂(とくまろ)、
龍(たつ)二人(ふたり)かへしつかはして[而]、
百済(くたら)の人等(ら)を副(そ)へ、本国(もとつくに)に送らしめき。
[于]対馬(つしま)に至り、
以ちて道人(おこなひびと)等(ら)十一(とたりあまりひとり)皆(みな)欲留(とどまることをほりすと)[之]請(こ)ひ、
乃(すなはち)表(ふみ)を上(たてまつ)りて[而][之]留(とど)めき。
因(よ)りて元興寺(ぐわむごうじ)に住(す)まは令(し)めたまふ。
秋九月。
小野臣妹子等至自大唐。
唯通事福利不來。
…〈岩〉マウク
不来…〈岩〉-利マウコ
秋九月(ながつき)。
小野の臣妹子等(ら)自大唐(おほから、もろこし)自(ゆ)至(まゐたる)。
唯(ただ)通事(をさ)福利(ふくり)不来(まゐきたらず)。
《大宰》
 〈宣化元年五月〉で見たように、 〈推古十七年〉〔609〕の時点では、「大宰府の機能は、まだ「那津之口官家」にあったと思われる」。 那津之口官家の比定地は、比恵遺跡群が有力視されている。
《呉国》
 の建国は581年であるから、もう統一されている。 それでは、この話はそれ以前の戦乱の時代であろうか。
 ここでは一応根拠のある話だと仮定して、話を進めよう。〔荒唐無稽の伝説と決めてしまうと、すべての検討は無意味となる〕 その場合、「元興寺に住まわせる」とする以上は元興寺建立年よりも後の話ということになる。 …一応塔が竣工した596年=〈推古四年〉が考えられる(資料[50])
 中国をと呼ぶことは〈雄略紀〉に見られ、三国時代の古い国名のまま呼称とされていたと見られる。 〈推古紀十五~十六年〉では既に「大唐」であるが、その後も一部に「」という呼称が紛れこんでおり、二十年にも百済人の味摩が帰化し「呉で学び、伎楽舞を習得した」と話したことが載る。
 十七年でも、一応のことだと考えた方がよさそうであるが、入国できなかった理由を「」とする部分だけは、別の時代のことだと見た方がよいだろう。 下述するように、船がこのときと同様にコースを外れることは珍しくないはずだから、複数の伝説の混合と見るべきか。
《聖帝》
 「聖帝」という表現から見て、出典は「百済文書」〔本サイトの造語〕ではないだろうか 〈(欽明十五年〉《百済文書》)。 入国を「歓喜」とするように、倭におもねる表現は、百済王氏が朝廷に食い込むための戦略であった。
《暴風》
4月に日本付近で低気圧が急発達した例
 〈推古〉十七年四月四日は、グレゴリオ暦で609年5月15日hosi.orgによる〕にあたる。 〔以後、漢数字=推古紀、アラビア数字=グレゴリオ暦とする〕 現地からの報告入り、徳麻呂らを派遣し、復命が五月十六日四月三十日までだから、四十二日間で一往復したことになる。協議から派遣までに各3日程度要するとして、片道は18日ほど。 すると、大宰から朝廷に報告する使者が出発したのは4月27日ぐらい。葦北郡で漂着し、報告の使者が大宰に到着するまでに7日間、太宰が報告を受け協議して上使を出すのが3日後だとすると、 漂着は4月17日頃か。
 「暴風」というとき第一候補は台風であるが、時期的に可能性は薄い。 4月中旬だと東シナ海で発生した低気圧が日本付近や日本海で急発達するケースがままある。 この場合、突然強まる暴風の風向は、東シナ海では北西である。
 すると、舟は長崎以北の東シナ海もしくは黄海で予定航路から外れ、北西の強風によって肥後まで流されたとするのが、最も考え得るコースである。 その場合、右図のような天気図が想定される。このときの福江(五島列島)では、瞬間最大風速は22.3m/秒(6日17時30~40分)が観測されている〔気象庁ホームページ;過去の気象データ検索による〕。 このような気象条件は、春先や晩秋にしばしば現れるから、同じように倭に流れ着くことはそれほど珍しいことではないだろう。よって上述したような、複数の伝説の混合は考え得る。
 暴風への訓は、おそらく台風ではないからノハキノカゼ(野分の風)は不適切である。ハヤテ、または古訓のアラカシマカゼ(またはアラカサマカゼ)となろう。
《大意》
 十七年四月四日、 筑紫の大宰(おおみこともち)の奏上があり、申すに 「百済の僧、道欣(どうこん)と恵弥(えみ)が首となり、 僧十人と俗七十五人が、 肥後の国の葦北津に停泊しました。」と申しました。
 そこで、難波の吉士(きし)徳摩呂(とくまろ)、 船史(ふなのふみと)龍(たつ)を遣わしました。 そして「どうして来たのか。」と問うと、 答えて、 「百済王は命により、呉(くれ)国に遣わしました。 その国に乱があり、入ることができず、 また本国に帰りました。 すると突然暴風に遭い、海中を漂いましした。
 けれども幸運なことに、 聖帝の国の辺境に停泊できました。 よって歓喜しております。」と申しました。
 五月十六日、 徳摩呂らは復命しました。
 そこで、徳摩呂、 龍の二人を現地に戻して、 百済人たちを引き連れて、本国に送らせました。 対馬に到着したところで、 修行者たち十一人が皆、倭に留まりたいと要請し、 そこで上表して留めました。
 よって、元興寺(がんごうじ)に住まわせました。
 九月、 小野妹子臣らは、大唐〔隋〕から帰国しました。 ただ、通訳の福利は帰国しませんでした。


15目次 【十八年】
《高麗王貢上僧曇徵法定》
十八年春三月。
高麗王貢上僧曇徵法定。
曇徵、知五經、
且能作彩色及紙墨、幷造碾磑。
蓋造碾磑、始于是時歟。
高麗王…〈岩崎本〔以下岩〕〉高麗キミ[切]-上僧曇-テウ◰法-テイ
曇徵…〈釈紀〉曇徵ドムテウ法定ホウテイ
五経…〈岩〉知キヤウ[ヲ]。 〈釈紀〉シリキヤウ
彩色…〈岩〉彩色シミノモノシミノヒノ
しみ…[名] ムの名詞化。彩色した糸。「しみのきぬ」。
紙墨…〈釈紀〉ドム紙墨歟可見他本然ハカミスミト可訓也〔紙墨歟(か)。他の本を見るし。然らばカミスミと訓む可し〕
かみ…[名] 紙。〈時代別上代〉「〔この十八年三月条〕の記事を根拠に、紙の伝来を推古朝とする説が行われているが、この記事による限りそうは解しがたい〔=この文ではそうは読めない〕
碾磑…〈岩〉-ミツウス
…[名] ひきうす。「碾磑(てんがい)」は水車で回して粉をひく石うす。
みづうす…[名] 水車の回転で挽く臼。水臼。
造碾磑…〈岩〉蓋造[コト]碾-磑[ヲ][切]于是時[ニ]
十八年(ととせあまりやとせ)春三月(やよひ)。
高麗(こま)の王(わう)、僧(ほふし)曇徵(どむちよう)法定(ほふてい)を貢上(たてまつ)る。
曇徵、五経(ごきやう)を知る。
且(また)能(よく)作彩色(しみのもの)及(と)紙(かみ)墨(すみ)とを作り、并(あは)せて碾磑(てむぐわい、みづうす)を造る。
蓋(けだし)碾磑(みづうす)を造ること、[于]是の時に始(はじま)りし歟(か)。
秋七月。
新羅使人沙㖨部奈末竹世士、
與任那使人㖨部大舍首智買、
到于筑紫。
新羅使人…〈岩〉使-ツカヒ-タク-ホウ[切]--チクセイ-タク-ホウ--智-ハイ
秋七月(ふみづき)。
新羅(しらき)の使人(つかひ)沙㖨部(さたくほう)奈末(まな)竹世士(ちくせいし)と
[与]任那(みまな)の使人㖨部(たくほう)大舎(たさ)首智買(しゆちばい)と、
[于]筑紫(ちくし)に到(まゐた)る。
九月。
遣使、
召新羅任那使人。
遣使 〈岩〉使[ヲ][テ]
〔使をつかはして/使をだして〕
九月(ながつき)。
使(つかひ)を遣(つかは)して、
新羅(しらき)任那(みまな)の使人(つかひ)を召(め)さしめたまふ。
冬十月己丑朔丙申。
新羅任那使人臻於京。
是日。
命額田部連比羅夫
爲迎新羅客莊馬之長、
以膳臣大伴
爲迎任那客莊馬之長、
卽安置阿斗河邊館。
…[動] いたる。〈岩〉 マウ〔ク〕ミヤコ[句]是日[切]ミコトシ
荘馬…〈岩〉カサリ馬之ヲサ
安置-ハムヘ阿斗[ノ]-カハムロツミ[ニ][句]
冬十月(かむなづき)己丑朔丙申〔八日〕。
新羅(しらき)任那(みまな)の使人(つかひ)[於]京(みやこ)に臻(まゐた)る。
是の日。
額田部(ぬかたべ)の連(むらじ)の比羅夫(ひらふ)に命(おほ)して
新羅(しらき)の客(まらひと)を迎(むか)ふる荘馬(かざりうま)之(が)長(をさ)と為(し)て、
膳(かしはで)の臣(おみ)の大伴(おほとも)を以ちて
任那(みまな)の客を迎ふる荘馬之長と為(し)て、
即(すなはち)阿斗(あと)の河辺(かはべ)の館(たち、むろつみ)に安(やすらけ)く置きたまへり。
丁酉。
客等拜朝庭。
於是、命秦造河勝
土部連菟
爲新羅導者、
以間人連鹽蓋
阿閉臣大籠
爲任那導者、
共引以自南門入之、
立于庭中。
時、大伴咋連
蘇我豐浦蝦夷臣
坂本糠手臣
阿倍鳥子臣、
共自位起之進伏于庭。
於是、兩國客等各再拜、
以奏使旨。
乃四大夫、起進啓於大臣。
時大臣自位起、
立廳前而聽焉。
既而賜祿諸客、各有差。
命秦造…〈岩〉〔ホ〕 土-部[ノ]ウサキ間人ハシヒト ノシホ-フタ[切]-
南門…〈岩〉ミカト-オホハ大-伴[ノ]クラフ[ノ][切]蘇-我[ノ]豊-浦トヨラ[ノ]蝦-夷エミシ[ノ][切]トリ-[ノ][切][ニ][切]タチ[テ][テ]フスオホハ[句]
おほには…[名] 朝廷の宮殿前の広場。
…[名] 官僚の格付け。地位。〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉①朝廷中群臣的位列。②所在的位置。
くらゐ…[名] 座。位階。
再拝…〈岩〉ヲカム[テ]マウス[ノ] リノ  ノ大夫マチキミ[切]-[テ]マウ於大臣[句]
大夫…実際に確認される訓は、カミ〔四等官制における長官〕とマスラヲ〔万葉〕のみである。音読みのダイブが一般的だったかも知れない (〈顕宗二年〉)。
…〈岩〉マツリコト
…[動] (古訓) きく。うけたまはる。ゆるす。
賜禄…〈岩〉-タマモノス モノタマ[ノ][ニ][句]。(右図)
丁酉(ひのととり)〔九日〕。
客(まらひと)等(ら)朝庭(みかど)を拝(をろが)む。
於是(ここに)、[命]秦造(はたのみやつこ)河勝(かはかつ)、
土部(はにしべ)の連(むらじ)菟(うさぎ)におほし、
新羅(しらき)の導者(みちびきひと)と為(し)、
[以]間人(はしひと)の連(むらじ)の塩蓋(しほふた)、
阿閉(あへ)の臣(おみ)の大籠(おほこ)を
任那(みまな)の導者と為(し)たまひて、
共に引きゐて、以ちて南(みなみ)の門(みかど)自(よ)り[之]入りて、
[于]庭(おほには)の中(うち)に立てり。
時に、大伴(おほとも)の咋(くらふ)の連(むらじ)、
蘇我豊浦(そがのとゆら)の蝦夷(えみし)の臣(おみ)、
坂本(さかもと)の糠手(あらて)の臣、
阿倍(あべ)の鳥子(とりこ)の臣、
共に位(くらゐ)自(よ)り[之]起(た)ち進みて[于]庭(おほには)に伏す。
於是(ここに)、両国(ふたつのくに)の客(まらひと)等(ら)各(おのもおのも)再拝(をろが)み、
以ちて使(つかひ)の旨(むね)を奏(まを)す。
乃(すなは)ち四(よたり)の大夫(まへつきみ)、起(た)ちて進(すす)み[於]大臣(おほまへつきみ)に啓(まを)しき。
時に大臣(おほまへつきみ)〔蘇我馬子〕位(くらゐ)自(よ)り起(た)ちて、
庁(まつりごとのみや)の前に立ちて[而]聴(うけたまは)りき[焉]。
既(すで)にして[而]禄(たまもの)を諸(もろもろ)の客(まらひと)に賜(たまは)り、各(おのもおのも)差(しな)有り。
乙巳。
饗使人等於朝、
以河內漢直贄爲新羅共食者、
錦織首久僧爲任那共食者。
辛亥。
客等禮畢、以歸焉。
…〈岩〉アヘタ〔マフ〕河内 西ノ [ノ]ニヘ[ヲ][テ]新羅[ノ]-アヒタケ[句]-ソウ
あひたげひと…[名] 接待として食事に同席する役。他に〈雄略十四年〉など。
礼畢…〈岩〉ヰヤコト[テ]カヘリマカル
乙巳(きのとみ)〔十七日〕。
使人(つかひ)等(たち)を[於]朝(みかど)に饗(みあへ)す。
河内漢(かふちのあや)の直(あたひ)贄(にへ)を以ちて新羅(しらき)の共食者(あひたげひと)と為(し)て、
錦織首(にしごりのおびと)久僧(くそ)を任那(みまな)の共食者(あひたげひと)と為(し)たまふ。
辛亥(かのとゐ)〔二十三日〕。
客等(まらびとたち)礼(ゐやごと)を畢(を)へ、以ちて帰(まかりてかへ)る[焉]。
《新羅・百済の使人》
 二人の使者の名前には、所属する部(ホウ)と位階が冠せられている。
●〈新羅使人〉沙㖨部奈末竹世士沙㖨部奈麻
●〈任那使人〉㖨部大舎首智買㖨部大舎
 この部と位階は儒理尼師今の時代に定められたと、『三国史記』に記されている。
『三国史記』新羅本記 巻第一:儒理尼師今〔在位24~57〕九年
九年春。改六部之名仍賜姓。楊山部爲梁部、姓李。 高墟部爲沙梁部、姓崔。大樹部爲漸梁部〈一云牟梁〉、姓孫。 干珍部爲本彼部、姓鄭。加利部爲漢祇部、姓裴。明活部爲習比部、姓薛。
又設官有十七等。一曰伊伐飡、二曰伊尺飡、三曰迊飡、四曰波珍飡、五曰大阿飡、六曰阿飡、七曰一吉飡、八曰沙飡、 九曰級伐飡、十曰大奈麻、十一曰奈麻、十二曰大舍、十三曰小舍、十四曰吉士、十五曰大烏、十六曰小烏、十七曰造位。
 辰韓六部(六村)の名称を改め、かつ姓を賜った。すなわち、楊山部は梁部に改められ、姓として李を賜った〔以下略〕。
 また、官に十七等が設けられた。1伊伐飡、2伊尺飡、3迊飡〔以下略〕。
 ただし、これは六部十七等の起源を神話時代に遡らせ、儒理尼師の業績としたものである。
 六部とは、「朝鮮古代の新羅王畿の地域区分。六村ともいわれ」、「新羅王畿は慶州盆地と周辺の五つの谷間からなり,ほぼ現在の慶尚北道慶州市・同月城郡にあたる〔世界大百科事典;平凡社2014〕
 「history.go.kr〔韓国の歴史解説サイト〕 の"教科書用語解説"によると、 六部は「及梁部[喙部]、沙梁部[沙喙部]、牟梁部[岑喙部]、本彼部[本波部]、韓岐部[漢只伐部]、習比部[斯彼部]」からなり、 「独立して特定の地域を支配する政治団体の性格を維持した。各部門は自治的に統治され」、 「4世紀半ばまでに、新羅は6部構成の段階を克服し始め、6世紀の初めまでに王室を中心とした中央権力に発展」したという。
 要するに新羅の六部とは、建国時の六村に起源をもつ族名である。
《任那使を装わせたか》
 竹世士と首智買は、共に六部に所属し位階を負っていることから見て、二人とも全くの新羅人で、 副使に名目として「任那使」を兼ねさせたと考えられる。これをもう少し細かく推察すると、 新羅が倭の要請を受け入れ、副使に「任那使」を名乗らせて派遣した。 倭が副使を一方的に「任那使」と呼んだ。 実際には二人とも新羅使であったが、書紀を書く段階で潤色した。
 の三通りが考えられる。 直感的には、の可能性が高い印象を受ける。それは、接待役があまりに整然と割り振られているからである。
 しかし、かつて〈崇峻〉四年〈推古〉十年では筑紫に兵力を終結したが、 結果的に渡海に至らなかった。それぞれ同時期に新羅に使者を派遣しているところを見ると、外交交渉によって一定の成果を得たことによる攻撃中止と見られる。 その交渉の内容を想像すると、倭は任那〔実際には加羅地域の一部〕での倭の支配権を要求したが拒否され、新羅による朝貢の一部を「任那」からと装うことで折り合ったという筋書きが浮かび上がる。
 十八年の新羅使の派遣は、まさにその成果を示す一大機会だったから、かつての新羅使への冷淡な仕打ち (〈敏達〉七年・十一年)とは打って変わって、 大歓迎の舞台を整えたと解釈すると、かなり理解しやすい。
 出迎えスタッフを新羅使向けと任那使向けにスパッと二分したのは書紀による潤色であろうが、 新羅使の一人が名目上の任那使を演じた程度のことは考えてもよいかも知れない。 こういう細かい箇所を拾わないと、結局書紀の新羅の記述全体を頭ごなしに虚構と決めつけることになる。いわば思考停止に陥ってしまう。
阿斗の推定地の候補
《阿斗河辺館》
 阿斗河辺館はどこにあったのだろうか。
 〈雄略紀七年是歳〉《吾砺広津》の項で、大和国磯城郡〔古くは式下郡〕の「阿刀」を見た。 そこには、「阿斗桑市の館」(〈敏達十二年〉)も出て来る。 阿斗は、{河内国・渋川郡・跡部【阿止倍】郷〈倭名類聚抄〉と見られ、式内跡部神社〔八尾市亀井町〕がある(〈用明二年四月〉《阿都》)。 アトであるのに対し、 〈倭名類聚抄〉のであるが、同書が成立した平安時代には甲乙の区別は既に消滅している。
 かつて阿斗には、物部守屋別業なりどころがあったと見られる。 守屋は〈用明二年七月〉の乱で敗れて別業は接収されたが、その邸宅が朝廷の所有となり、そこに新羅のムロツミが建ったことも考えられる。
 「河辺」の名がついているのは、移動に船を利用したことと関連するかも知れない。渋川郡の東には長瀬川(九宝寺川)が流れている。九宝寺川は、江戸時代に付け替えをする前の大和川から淀川に向かって流れていた。 大和川は、難波と飛鳥を結ぶ交通路として重要な役割を果たしていたと考えられる。 朝鮮半島からの使者が、朝貢の品とともに船で移動した可能性は高い。 ただ、ここに八日に落ち着き、飛鳥の小墾田宮の儀礼が九日に行われたとすると、その間隔はあまりにも短い。
 この観点のみで考えれば、式下郡の阿刀村むろつみの場所とする考えも捨てがたい。
 しかし、小墾田宮の建物の配置を第249回の図から想定してみると、 「オホニハ」をどれほど広く取れたかは疑問である。儀式の細部は実は観念的に書かれたものかも知れず、だとすれば日程の信憑しんぴょう性も危うくなってくる。 逆に、日程は信用できるものとすると、「」が難波の副都の建物であった可能性も考えなければならない。 奈良時代には、難波も京師と呼ばれ、摂津職が置かれていた(資料[19])。 〈推古朝〉の頃には、既に副都として機能していただろうと思われる。
《難波の政庁の可能性》
 裴世清を迎えたときは海石榴市で郊労しているので、小墾田宮前で儀式が行われたのは確実である。 そのときは、庭に返貢(国信物)を積み上げ、国書を読み上げた後に「大門前の机上」に置いた。従って大門内の庭に返貢を置いたらもう、人が並ぶことはできない狭さだと読むことが可能である。
 それに対して今回は、南門から庭に入って儀式を行い、最後は、大臣馬子が「」の前に立った。 「大殿」ではなく「」なのは、天皇の居住する宮殿ではなく、政務を執り行う建物だからである。 そして、参列者の座席を整然と並べるだけ広さが、庭にはあった。
 だから、阿斗河辺館から一日という距離を最優先しようとすれば、宮殿の構造の違いから新羅使の接受は難波宮で行われたとする仮定は、一応は成り立つ。
《接待役》
額田部連比羅夫…隋から訪れた裴世清一行を、海石榴市で郊労した(十六年八月)。
膳臣大伴膳臣の祖は磐鹿六獦命(資料[07])。 もともとは朝廷の膳〔食事の用意〕を担ったが、一族は外交などに幅広く活躍した。「大伴」は個人名で、登場はこの場面だけである。
秦造河勝秦造はたのみやつこは、秦氏全体の統率を担う。河勝は、蜂岡寺(広隆寺)を建立した(十一年十一月)。
土部連菟土師部は〈姓氏家系大辞典〉「職業部の一にして、土器を製作するを職とせし品部也。」 神話的な起源は、殉葬の習慣を改めて埴輪を開始した、野見宿祢を始祖とする (〈垂仁三十二年〉)。 はこの場面のみ。卯年生まれによる名であろう。
間人連塩蓋…〈姓氏家系大辞典〉「間人 ハシビト ハシウト ハシフト マムト:御名代部の一種か。」 「間人連:神魂尊の裔にして、〔先代旧事記〕天神本紀に「天玉櫛彦命、間人連等の祖」と見ゆ。」 丹後国竹野郡の「間人」は、間人はしひと氏の本貫だったのかも知れない(第239回《丹後国竹野郡間人》)。 氏人に〈孝徳紀〉間人連老老、〈斉明紀〉間人連御廐、〈天智・天武紀〉間人連大蓋塩蓋はこの場面のみ。
阿閉臣大籠阿閉臣は孝元天皇の皇子大彦を祖とする(第108回)。 大籠はこの場面のみ。
《四大夫》
大伴咋連…また大伴囓連。物部守屋の乱に参戦(〈崇峻即位前〉用明二年七月)。 新羅攻撃の大将軍を務め、裴世清を迎えた朝廷前儀式に参加(十六年八月《大伴囓》)。
蘇我豊浦蝦夷臣蝦夷は、蘇我馬子の子。〈推古〉が崩じた後、次代天皇の有力候補であった山背大兄王を排除して田村皇子を即位させた。
坂本糠手臣…物部守屋の乱に参戦。 外交交渉のために百済に派遣(九年二月)。
阿倍鳥子臣阿倍鳥は、裴世清を迎えた朝廷前儀式で導者を務めた(十六年八月)。 は、酉年生まれによる名前であろう。「」は愛称の接尾語と見られる。
《自位立之》
 ここでは座席であるが、「地位による席順による席」のニュアンスを含むと見られる。
《河内漢直贄》
 もともと、西漢はおびと東漢はあたひであった(資料[25]《文宿祢》) 〔西は河内、東は大和を指す〕。なお東漢の祖は阿知使主、西漢の祖は王仁である。
 よって、「河内直」はかばねがねじれている。 この問題について〈姓氏家系大辞典〉は「〔河内漢直は〕その直姓なるを考ふれば倭漢氏と同族ならんか。 何となれば帰化族にして直姓なるは倭漢氏の外に見るを得ざればなり〔直(あたひ)を姓とするのは倭の方の漢(アヤ)氏だから、「河内漢直」はそちらに属するだろう〕と推定している。
 河内漢直贄は、ここ以外には登場しない。
《錦織首久僧》
 〈姓氏家系大辞典〉には錦部錦織(にしごりべ、にしごり)は、「錦を織る品部を云ふ…〔中略〕…雄略紀八年条…〔中略〕…仁徳紀に見ゆれば、甚だ古くより存ぜしを知るべし。 但し綿は支那〔=中国〕渡来のもの也」、そして美作から信濃まで幅広く見出している。 「錦織首(錦部首)」は「物部氏の族也。 〔けだ〕し山城錦部の伴造〔とものみやつこ〕家にて、和名抄、山城国愛宕郡錦部郷とある地の稲置〔いなぎ〕なるべし」という。 〈新撰姓氏録〉には〖山城国/神別/錦部首/〔神饒速日命〕十二世孫物部目大連之後也〗とあるが、天孫本記には出てこない (資料[37][39])。 〈姓氏家系大辞典〉が「物部氏が此の部と関係するに至りし起源は詳かならず」とするのも、そのためか。
 久僧の名が出て来るのは、ここだけである。
《大意》
 十八年三月、 高麗(こま)王、僧曇徵(どんちょう)、法定(ほうてい)を献上しました。
 曇徵は、五経を知り、 また上手に彩色の物、および紙、墨を作り、併せて碾磑(てんがい)〔水車で石臼でひく仕組み〕を造りました。 けだし、碾磑の製造は、この時から始まったかと思われます。
 七月、 新羅の使者、沙㖨部(さたくほう)奈末(まな)竹世士(ちくせいし)と、 任那の使者、㖨部(たくほう)大舎(たさ)首智買(しゅちばい)は、 筑紫に到着しました。
 九月、 使者を派遣し、 新羅と任那の使者を招致しました。
 十月八日、 新羅と任那の使者は〔飛鳥の〕京に至りました。
 この日、 額田部連(ぬかたべのむらじ)比羅夫(ひらふ)を、 新羅の客人を迎える飾り馬の長に任命し、 膳臣(かしわでのおみ)大伴(おおとも)を、 任那の客人を迎える飾り馬の長に任命し、 こうして阿斗(あと)の河辺(かわべ)の館(むろつみ)に滞在させました。
 九日、 客人たちは、朝庭に拝礼しました。
 このとき、秦造(はたのみやつこ)河勝(かわかつ)と 土部連(はにしべのむらじ)菟(うさぎ)を 新羅の誘導役とし、 間人連(はしひとのむらじ)塩蓋(しおふた)、 阿閉臣(あへのおみ)大籠(おおこ)を 任那の誘導役として、 共に案内して、南門から入り、 南庭の中に立ちました。
 その時、大伴の咋(くらう)連(むらじ)、 蘇我豊浦(そがのとゆら)の蝦夷(えみし)臣、 坂本の糠手(あらて)臣、 阿倍(あべ)の鳥子(とりこ)臣は、 共に座を起(た)って進み、庭に伏しました。
 そして、両国の客人のそれぞれが再拝して、 使者の趣旨を奏上しました。 そのあと、四人の臣は、起って進み、大臣(おおまえつきみ)に啓上しました。 そして大臣〔蘇我馬子〕は座から起って、 政庁の前に立ち、〔天皇の〕お言葉を承りました。 こうして拝礼を終え、禄をそれぞれに応じて客人に賜りました。
 十七日、 使者を朝廷に招き、饗宴しました。 河内漢直(かわちのあやのあたい)、贄(にえ)を新羅の共食者(あいたげひと)とされ、 錦織首(にしごりのおびと)久僧(くそ)を任那の共食者とされました。
 二十三日、 客人たちは拝礼の行事をすべて終え、帰国しました。


16目次 【十九年~二十年正月】
《藥獵於菟田野》
十九年夏五月五日。
藥獵於菟田野。
取鶏鳴時、集于藤原池上、
以會明乃往之。
粟田細目臣爲前部領、
額田部比羅夫連爲後部領。
是日諸臣服色皆隨冠色、
各著髻花、
則大德小德並用金、
大仁小仁用豹尾、
大禮以下用鳥尾。
くすりがり…鹿の若角や薬草を採る行事。〈時代別上代〉五月五日が普通であったが、四月ごろから一般には行われたらしい。
菟田野…〈岩〉菟田[ノ]
鶏鳴時…〈岩〉-アカツキ-[ニ][テ]于藤原[ノ][ノ]〔ミ〕[ニ][句]
鶏鳴…① 鶏の鳴き声。② 夜明け。
あかとき…[名] 夜明け。夜明け前。
つどふ…[自]ハ四 集まる。[他]ハ下ニ 集める。
会明…〈汉典〉及明、黎明。〈岩〉-ケホノ[ヲ][テ]ユク[句]
あけぼの…[名] アカトキより時間的に後。
栗田細目臣…〈岩〉栗田[ノ][ヲ]
部領…〈岩〉シリヘ[ノ]-ヲサコトリ。 ことり…[名] 〈時代別上代〉部属の長。コト=リの意か。
諸臣…諸に「」を表すヲコト点がないので、「諸臣」はマチキムタチと訓まれたと思われる。
服色…〈岩〉諸臣[ノ][ノ][切]ママナリ[ノ][ニ][句]〔冠の色にしたがふ/冠の色のままなり〕
著髻花…〈岩〉サセリサス[セリ]-ウス[句]
…〈岩〉大-仁小-仁[ハ]ナカツカミ[ノ][ヲ]大礼[ヨリ]以-下[ハ]モチウ/モテス[ノ][ヲ]〔モテスをモチウに直した痕跡がある〕
なかつかみ…[名] 豹(〈欽明十四年〉)。
十九年(ととせあまりここのとせ)夏五月五日〔乙酉朔己丑〕
[於]菟田(うだ)の野(の)に薬猟(くすりがり)す。
鶏鳴時(あかとき)を取りて、[于]藤原(ふぢはら)の池の上(へ)に集(つど)へて、
会明(あけぼの)を以ちて乃(すなはち)[之]往(ゆ)けり。
粟田(あはた)の細目(ほそめ)の臣(おみ)を前(さき)の部領(をみ)と為(し)、
額田部(ぬかたべ)の比羅夫(ひらふ)の連(むらじ)を後(しりへ)の部領(をみ)と為(す)。
是の日諸臣(まへつきみたち)の服(きぬ)の色、皆冠(かがふり)の色に隨(したが)ひて、
各(おのもおのも)も髻花(うず)を著(つ)け、
則(すなはち)大徳(だいとく)小徳(せうとく)は並(な)べて金(くがね)を用(もち)ゐ、
大仁(だいにむ)小仁(せうにむ)は豹(なかつかみ)の尾(を)を用ゐ、
大礼(だいらい)より以下(しもつかた)は鳥の尾を用ゐる。
秋八月。
新羅遣沙㖨部奈末北叱智、
任那遣習部大舍親智周智、
共朝貢。
沙㖨部…〈岩〉〔タス〕-タク-ホウ-[切]-ホク--[切]
習部…〈岩〉シフ-ホウ--シン-シユ-
朝貢…〈岩〉[ニ]朝-貢 カヨハ 
秋八月(はつき)。
新羅(しらき)沙㖨部(さたくほう)奈末(なま)北叱智(ほくしち)を遣(まだ)し、
任那(みまな)習部(しふほう)大舎(たさ)親智(しむち)周智(しゆち)を遣し、
共に朝貢(みかどををろがみみつきたてまつる)。
廿年春正月辛巳朔丁亥。
置酒宴群卿。
是日。
大臣上壽歌曰。
置酒宴群卿…〈岩〉メシオホミキ[テ]トヨノアカリ群卿[ニ][句]
とよのあかり…[名] 酒宴。特に宮中における。
寿歌…〈岩〉大-臣オホマチキミ〔てまつり〕オホムサカツキ/オホミキタテマツリ[テ][テ][切]
ほきうた…[名] 祝い歌。
二十年(はたとせ)春正月(むつき)辛巳(かのとみ)を朔として丁亥(ひのとゐ)〔七日〕。
酒宴(とよのあかり)を群卿(まへつきみたち)に置(まう)けたまふ。
是の日。
大臣(おほまへつきみ)寿歌(ほきうた)を上(たてまつ)りて曰(よみまつら)く。
夜酒瀰志斯 和餓於朋耆瀰能 訶句理摩須
阿摩能椰蘇河礙 異泥多々須 瀰蘇羅烏瀰禮麼
豫呂豆余珥 訶句志茂餓茂 知余珥茂
訶句志茂餓茂 訶之胡瀰弖 菟伽陪摩都羅武
烏呂餓瀰弖 菟伽陪摩都羅武 宇多豆紀摩都流
やそかげ…[名] 〈時代別上代〉八十ヤソ=カゲ、すなわち多くの蔭で、宮殿のことをいう。
…[副助] 『古典起訴後辞典』〔大野晋;角川2011〕:「種々の語につく」「基本的には、不確実・不確定であるとする話し手の判断を表明する語」「条件句や推量・打消の語を伴う例が多い」。
もが…[助] 〈時代別上代〉「文末にあって、主に体言、〔中略〕カ・カク(あるいはそれに助詞シのついたもの)〔中略〕を受け、ある状態の実現を希望する。モガに助詞モ〔中略〕がつくこともある。
夜酒瀰志斯(やすみしし) 和餓於朋耆瀰能(わがおほき) 訶句理摩須(かくります)
阿摩能椰蘇河礙(あまのやそかげ) 異泥多々須(いでたたす) 瀰蘇羅烏瀰礼麼(みそらをみれば)
予呂豆余珥(よろづよに) 訶句志茂餓茂(かくしもがも) 知余珥茂(ちよにも)
訶句志茂餓茂(かくしもがも) 訶之胡瀰弖(かしこて) 菟伽陪摩都羅武(つかへまつらむ)
烏呂餓瀰弖(をろがみて) 菟伽陪摩都羅武(つかへまつらむ) 宇多豆紀摩都流(うたづきまつる)
〈岩〉〔ルビのうち本サイトの訓読と一致するものは省いた。「.」=[句]
-八隅知-瀰 志 斯.和 餓 於 朋 耆 瀰 能.-隠坐-理 摩 須 .-天之--八十垣-.-不出立--.-大虚---- .-万代---.-如此--茂 餓-.-千代--. -如此--茂 餓 茂.畏也---.-奉仕也-陪 摩--- .-拝也---.-奉仕也-陪 摩---.-奉戴也--.--.
〈釈紀〉
夜酒瀰志斯知也。謂四界八埏也。見上。
八十垣也。謂多重也。私記云。謂上天也。或云。八十垣也。
異泥多々須出立也。言隠八十垣。不出立也。
宇多豆紀摩都流私記曰。師説。言献此歌弖加之津支テカシツキ奉也。〔この歌を献りてかしづきまつるなり〕
天皇和曰。
…[動] (古訓) あまなふ。ととのふ。にこし。ましふ。やはらかく。やはらく。
〈岩〉ヤワラケ[テ]
天皇(すめらみこと)和(やはら)ぎて曰(みうたよみたまは)く。
摩蘇餓豫 蘇餓能古羅破 宇摩奈羅麼
譬武伽能古摩 多智奈羅麼 句禮能摩差比
宇倍之訶茂 蘇餓能古羅烏 於朋枳瀰能
菟伽破須羅志枳
まそがよ…[枕] 「真蘇我ヨ」。蘇我にかかる。ヨは囃子言葉。
摩蘇餓予(まそがよ) 蘇餓能古羅破(そがのこらは) 宇摩奈羅麼(うまならば)
譬武伽能古摩(ひむかのこま) 多智奈羅麼(たちならば) 句礼能摩差比(くれのまさひ)
宇倍之訶茂(うべしかも) 蘇餓能古羅烏(そがのこらを) 於朋枳瀰能(おほき)
菟伽破須羅志枳(つかはすらしき)
〈岩〉
蘇我餓 豫.蘇 餓蘇我 .宇 摩為馬也 奈 羅 麼 .日向 伽 能 古 摩.多 智為釼也 奈 羅 麼.句 禮摩 差良釼名.宇 倍 之上也謂上世也 訶 茂.蘇 餓 蘇我  .於 朋大君也 枳 瀰 能 .菟 伽 破 須使使也又曰仕也 羅 志 枳.
〈釈紀〉
宇倍之訶茂上也。謂先代
宇陀郡:菟田野の推定地
《五月五日》
 日付を干支表記しないのは、節句の行事であることを示すためであろう。 他には、〈顕宗天皇〉の曲水宴は三月三日であるが、書紀では「三月上巳」と表現される。 なお、一月七日、七月七日、九月九日は書記には出てこない。
《菟田野》
 「菟田野町」が1956年~2006年の期間に存在し、現宇陀市の南東部にあたる。同町は宇太町と宇賀志村が合併して成立したもので、 書紀に因んで命名されたと思われるが、書紀の菟田野と比定する確かな根拠はなさそうである。 ただ、宇陀郡内ではあろうと思われる。
 現在、藤原京の辺りから宇陀郡に入る道は、国道166号線と165号線で、古代からの道であろうと考えられる。 よって、大宇陀内原あたりと榛原駅付近を想定してみた。いずれも藤原京〔〈持統五年〉の新益京〕からは10数km離れている。徒歩で4時間程度か。 それなら集合を夜明けとするのは、理屈に合う。だが、正装で野道を行くのは大変だったであろう。
《集》
 「集(つどふ)」は、自動詞〔四段〕だとすれば薬猟行事を自発的に立ち上げ、他動詞〔下二段〕だとすれば招集されて参加したことになる。 ここでは「前の部領」・「後の部領」が定められているから行動は統率され、従って他動詞と読むべきであろう。
《粟田細目臣》
 粟田臣は、〈倭名類聚抄〉{山城国・愛宕郡・上粟田【阿波多】郷/下粟田郷〔三条大橋から東山道・東海道沿い〕で起こったとされる。 伝説上の祖は、天押帯日子命〔孝昭天皇の皇子〕で、春日氏系(第105回)。
 細目は、後に〈皇極天皇紀〉にも登場。粟田臣は〈天武十三年〉に朝臣を賜る。
《部領》
 前部領後部領は、列の前後を挟んで途切れないようにする役割であろう。 遠足で小中学生を引率するときの、教員の配置を想起させる。古訓のコトリは、もともと子供を引率する意味の「子取り」だったのかも知れない。上代から存在した語かも知れない。
 このように前後に配置することから、狭い山道を進む様子が見えて来る。
《用》
 〈時代別上代〉によれば「もちゐる:この語はのちに上一段・上二段の両活用が現れ、行もハ行・ワ行の両形式が見られるので、もとの活用形式に議論があったが、 今はワ行上一段ということに落ち着いている」。すなわち、平安時代以後には、モチフモチウ(上二段)、モチヒルモチヰル(上一段)の四種類があったという。 〈岩崎本〉古訓では、はじめはモテス〔モテ+サ変動詞〕の第二画を消して上に点を加えて「」、と殆ど同型なので手を加えずにと読むことにしたようである。
《新羅・任那による朝貢》
沙㖨部奈末北叱智沙㖨部奈麻
習部大舍親智周智習比部大舎
 ここでも共に新羅の部と位階を負っていることから見て、二人とも新羅人である。
《歌意》
第一歌 八隅知し わが大王おほきみの 隠ります  天の八十影 出で立たす 御空を見れば  万代よろづよに 如此かくしもがも 千代にも  如此しもがも かしこみて 仕へまつらむ  をろがみて 仕へまつらむ 歌づきまつる
〔 我が大王は、お住まいの宮殿より出てお立ちになり、そのお姿の上の空を見上げるに、 萬代にも、千代にもこうありたい、すなわち拝み畏みてお仕えいたしましましょう。歌に託して〔わが身を〕献上いたします。 〕
 「隠ります」は"死ぬ"の敬避的表現にも使うが、この歌には無論あてはまらない。「出で立たす」とあるから、まだ宮殿内にいてお姿が見えないという意である。 そこから、〈時代別上代〉の「ヤソカゲ=多くの屋根=宮殿」という解釈が出て来る。ところが、同辞典でも「かくる」の項には同じ歌が 「訶句理かくります天のカゲ〔多くの光〕と表記されている。担当の執筆者が異なる結果であろうが、どちらも決定的とは言えず悩ましい箇所である。
 「如此しもがも」は願望で、「如此」は「仕へまつる」を予め指す。ツキは従来盃と解されてきたが、甲乙違いになるので、 〈時代別上代〉は「歌+貢=ウタヅキ」と解釈する。 なお、音仮名"豆"には清音も濁音もあるが、濁音が万葉では圧倒的・書紀でも優勢で、の意だとすれば連濁である。 「名詞+マツル」が抜きで直結することに疑問を感じたが、 万葉を見ると「幣奉(ぬさまつり)」が複数3217など6例〕あるので、問題なさそうである。
 この意味の場合、ウタヅキとして奉る歌の内容は「萬代千代に仕えます」なので、この歌を貢ぎすることは、事実上「歌に託してわが身を捧げます」と言うに等しい。 これは、〈釈紀-和歌〉の解釈「この歌をたてまつりてかしづきまつ」と結果的に一致する。
第二歌 真蘇我よ 蘇我の子等は 馬ならば  日向ひむかこま 太刀ならば 呉の真釼まさひ  うべしかも 蘇我の子等を 大王の  使つかはすらしき
〔 蘇我の子らは、馬ならば日向の駒。太刀ならば呉国の良刀です。 え、本当によいのですか?蘇我の子らを大王〔=私〕が使えるらしいのね。 〕
 サヒにあてる字にはがあるが、これは農耕具のスキを意味する字なので使えない。「小刀」と表現されることもあるが、ここでは太刀が小刀ではよくないだろう。 ひとまず、ツルギと訓む字のひとつ""をあてておく。 …サメが「紐小刀」をつけて返されたので佐比持サヒモチノ神と呼ばれるようになったという命名譚がある(第93回)。
 「宇倍」については、〈岩崎本〉〈釈紀〉は「」と読み、先祖代々と解釈している。一方「」も考えられ、yesの意である。 音仮名""の清:濁の比率は、書紀で約9:1、万葉集で約2:1である(「万葉仮名一覧」による)。 この比率では、清濁は決定できない。
 助詞カモには詠嘆と疑問があるが、感歎の文章の中ではどちらも可だろう。 ツカハスは「使ふ+軽い尊敬の」。大王とともに、自敬表現とみて差し支えないだろう。
 これらを組み合わせると、蘇我馬子が「敬い畏みて末永くお仕えします」と申し出ていることに対して、「本当に私が使ってよいのですか」という文として完結させることができる。 つまり、良馬・良剣にも例えられる優秀な人物を手に入れられると知り、その感激を表現する。と読めばこのようにみずみずしさが躍るから、もはや「」に固執する必要はない。
《天皇和曰》
 歌意から考えて、「」とは尽くしてくれる相手に対して、心からの信頼と親しみを寄せる感情である。 ただ「協調しましょう」という程度の薄っぺらいものではない。この歌の解釈は、十七条憲法の「以和為貴」の訓読にまで影響を及ぼすものといえる。
《大意》
 十九年五月五日、 菟田野で薬猟(くすりがり)〔薬草の採取〕を行いました。 鶏鳴(けいめい)〔夜明け〕に藤原池の辺りに集合し、 会明(かいめい)〔曙〕となったところで出かけました。
 粟田(あわた)の細目(ほそめ)臣が先頭の長、 額田部(ぬかたべ)の比羅夫(ひらふ)連(むらじ)が後尾の長となりました。
 この日は、諸臣の衣服の色を皆冠の色と同じくして、 それぞれも髻花(うず)を著け、 その髻花には大徳・小徳は揃って金を用い、 大仁(だいにん)・小仁は豹の尾を用い、 大礼(だいらい)以下は鳥の尾を用いました。
 二十年正月七日、 群卿とともに酒宴を開催されました。
 この日、 大臣〔蘇我馬子〕は、寿歌を献上しました。
――八隅知し 吾(わが)大王(おほきみ)の 隠ります  天(あま)の八十影(やそかげ) 出(い)で立たす 御空を見れば  万代(よろづよ)に 如此(かく)しもがも 千代にも  如此しもがも 畏(かしこ)みて 仕へまつらむ  拝(をろが)みて 仕へまつらむ 歌貢(うたづき)まつる
 天皇(すめらみこと)は、和して歌詠みされました。
――真蘇我よ 蘇我の子等は 馬ならば  日向(ひむか)の駒(こま) 太刀ならば 呉の真(ま)さひ  諾(うべ)しかも 蘇我の子等を 大王の  使(つか)はすらしき


まとめ
 新羅使が朝廷を拝したとき、儀式を主導したのは蘇我馬子大臣である。 また、酒宴の和歌においては、馬子に対する天皇の厚い信頼が示される。
 今や、最高権力者は馬子である。ここでは太子はすっかり影を潜めている。
 さて、任那は既に〈欽明二十三年〉に滅びたのに、〈推古十八年〉に使者を送ってきた。 今回「任那使」を称する人物は新羅の部と位階を負っていて、新羅人が演じていることは明らかである。
 ところが、さらに〈推古〉三十一年でも、既に滅びたはずの任那が蘇っていて、またも新羅によって討たれる。 もう、任那についての記述は、欺瞞とも言い得るレベルに達している。
 遣隋使の件では史料価値はとても高かったのだが、こと新羅と任那に関しては怪しげなものがかなり含まれており、まさに玉石混交である。 ただ、作為的な箇所についても、語句を丹念に拾っていけば作為の痕跡が容易に見えて来る。 それは、執筆担当者が実は上層部の方針に反発していて、読む人が読めば分かるようにわざと書いたのではないかと思えるほどである。
 そもそも任那国の実在性については、〈神功皇后紀〉と〈欽明紀〉の段階で、結論は明らかであった。 今や問題の焦点は、「百済国」の虚像が、書紀の段階で突然生み出されたのか、 史実として、既に古い時代〔例えば〈推古朝〉〕から形成されてきたものかに移っている。
 この問題については、資料[32]において「虚構の任那国を描くことは、書紀から始まったことではない。 既に聖徳太子の時代から「任那国」が存在するが如く演出することが、百済や新羅との外交儀式の一部になっていたのである。」との見通しを示したところである。