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2021.12.31(fri) [22-05] 推古天皇5 ▼▲ |
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11目次 【十五年七月~十六年六月】(一) 《小野臣妹子遣於大唐》
〈推古〉十五年~十六年〔607~608〕の時期の中国王朝は、実際にはまだ隋〔589~618〕である。 雄略天皇のときも、南朝宋あるいは斉への使者の派遣があったと見られるが、「呉」と表している(雄略十年・倭の五王)。 書紀においては、中国の時々の王朝名には無頓着だったように思われる。 但し、〈学研新漢和〉は「唐代は国威の輝いた時代なので、唐の滅亡後も外国では中国を唐といい」などと述べる。 書紀の成立した720年はまだ輝き始めたばかりの時期であるが、逆に時間を遡って中国への美称「大唐」を拡張したと考えられる。 当時の人々の目に、眩しく映っていた様を感じさせる呼び方である。 なお、古訓のモロコシは、「諸々の越」の意味であるという。 越は色々な時代に様々な場所の国の名称になったが、大まかに言って長江より南である。 隋・唐の都は長安であるから、あまり実態に合わないと思える。 国名唐を表す上代語には、カラもある。これは狗邪(くや)→伽耶(かや)→韓(から)→唐(から)と拡張した語で、 果てはペルシャ、エジプトの植物紋様を唐草模様というように、遂には外国一般を指す語となる。 モロコシもカラも漠然とした語である。それでは音読みするのはどうであろうか。 漢字の音読みは仏教経典などを通して伝わり、既に飛鳥時代から相当程度広がっていたと考えられる。 書紀古訓は平安時代に復古的に倭語をあてはめたもので、通常音読みされた語にあてられた語の中には、 書紀に限定的でその他には使われない言葉も多い。 唐はタウと音読した方が、却って飛鳥時代には合うかも知れない。 《鞍作福利》
鞍部もともと鞍作りの技術を持って渡来した一族であるのは明らかだが、敏達朝・用明朝・推古朝においては仏教の振興に尽力した。 鳥は仏像造りに優れたから、一族は経典、建築、美術など仏教に多面的に関わっていたのだろう。中には仏典研究をハード面から支えるために、中国語を専門とする一派もしくはグループがいたかも知れない。 あるいは、中国から人を招いて、鞍部に属させた可能性もある。 《高市池・藤原池・肩岡池・菅原池》 「於倭国作二高市池・藤原池・肩岡池・菅原池一。」とある。 このうち、肩岡池・菅原池については、それぞれの項で述べるように比較的比定が容易である。 容易には見つからないのが高市池と藤原池である。 その候補地に関する、議論すら見いだせない。 地名は明確だが、それらの範囲内に直接この名前がついたり、伝説が関係しそうな池が見つからないのである。それでも、可能性を追求してみたい。 《高市池》 高市は、六県に「高市県」があるから、古くから郡全体の名称と言える。 そして記紀に「高市池」が出て来るのはここだけなので、その位置をピンポイントで絞り込むことは困難である。 ここでは高市郡の代表的な場所として、右図に式内{高市御県坐鴨事代主神社}〔河俣神社に比定〕、式内{高市御県神社}、また「高市大寺」から改称した大官大寺(〈天武紀〉二年)を示す。 高市郡で存在が確定した大きな池に、磐余池がある。2009年から始まった調査で堤跡が検出され、2013年度に東池尻・池之内遺跡と命名された〔2013年度橿原市文化財調査年報〕 (第99回など)。 堤跡が残る広大な池としては益田池があるが、これは822年築造で書紀よりずっと後である (第134回)。 書紀の「作○○池」は、磐余池、依網池(下述)、狭山池のように堰堤を築いて流路を閉じる巨大土木工事が多い(ここでは堰堤式と呼ぶ)。 高市池でも同じく、未発見の堤が埋もれているかも知れない。 発見の手掛かりとして磐余池の状況を見ると、(現地案内板)で分かるように周囲の条里が及ばず、 条里制の時代より後まで貯水していたことを示す。また池尻・池之内の地名が残る。また背後に水源となる一定の高さの山がある。
こうして見ると、堰堤式ではなく単純に平地で地面を掘り下げた池を考えた方がよいかも知れない(ここでは皿池型と呼ぶ)。 第115回の《池はどこにあったか》の項で、 記紀に出て来る池のリストを作成した。 その中にある軽池については、大軽町に軽池と呼ばれる小さな皿池がある(右写真)。 〈五畿内志〉高市郡に「軽ノ池【在二大哥留村一広一百五十畝】」とあるのはこれであろう。 ただ、江戸時代にこれが軽池と呼ばれていたとしても、その呼び名が書紀の時代から続いているかどうかは分からない。 厩坂池については、〈五畿内志〉も「厩坂道未レ詳二在所一」としてそもそも不明であるが、厩坂の推定地は軽にある(〈応神三年〉)。 軽池・厩坂池の推定地は平地であり、また石川池(剣池)にごく近いので、小さな皿池だと見られる。 なにしろ記紀においても最重要地域のひとつであるから、小さな皿池であっても載ったことが考えられる。 仮に高市池も小さな皿池で、消失したり名前が変わっていたりしていればその位置を知ることは難しい。 《藤原池》
ここで、藤原宮周辺の池を見てみよう。 まず、高所寺池。この池は藤原宮の南東にある。既に発掘調査済みで、調査報告〔高所寺池発掘調査報告;奈良文化財研究所2006〕によると藤原京の 条坊路端の溝(「東二坊坊間路西側溝」)が検出されたというから、推古朝に築造された池ではない。 次に、古池(南浦町)。この池は香久山に近く、北西辺が高さ4mの堰堤になっている。 築造時期は不明であるが、東隣りの磐余池(前項)は6世紀後半と見られているからそれに近いかも知れない。 〈五畿内志〉で、十市郡のところに「在一南浦寺二」と書かれた池があり、「埴安池」(今曰二鏡池一)とする。埴安池は香具山近傍の池として〈神武紀〉に伝説がありる。 万葉歌に「(万)0257 天降付 天之芳来山 霞立 春尓至婆 松風尓 池浪立而〔中略〕百礒城之 大宮人乃 退出而 遊船尓波 梶棹毛 無而不樂毛 己具人奈四二 あもりつく〔枕〕 あめのかぐやま かすみたつ はるにいたれば まつかぜに いけなみたちて〔中略〕ももしきの〔枕〕 おほみやひとの まかりでて あそぶふねには かぢさをも なくてさぶしも こぐひとなしに」 があり、それは香具山の傍らの池であるが景色を愛でて舟遊びをするような池であるから相当広いと思われるが、古池なら広さは十分である。 現在「鏡池」とされている別の池があるが、とても狭く舟遊びなどはあり得ない。 しかし、古池が古くから存在していた池ならば、それを埴安池とする説はとっくの昔に唱えられていたはずだから、可能性は殆どなさそうである。 やはり相当新しい池なのだろう。 ここで観点を変えてみよう。そもそも池を維持し続けるためには、堤の修築や底泥の除去などのメンテナンスが不可欠である。 すると、推古朝において磐余池の大規模な修築が行われ、それ以後は藤原池と呼ばれていた可能性もある。 書紀では地名「磐余」は、用明天皇を最後にして出てこなくなる。それまでは歴史的な地名として使われたが、〈推古〉の頃からは「藤原」に吸収されたのではないだろうか。 やはり、〈推古紀〉の時代では、皿池の掘削程度では載らないだろうと思われる。 すると、前項で述べた高市池もやはり大きな堰堤式で、所在不明になった失われた池なのかも知れない。 《肩岡池》
籏尾池・分川池について『香芝市埋蔵文化財発掘調査概報 23』〔奈良県香芝市教育委員会;2007〕は、 「分川池は聖徳太子が築いた伝承をもち、この分川池から東の平野部へ水を引いた水路の痕跡が調査地の南約200mにおいて東西方向に残っている。 聖徳太子が築いた伝承をもつ池は市内に分川池のほか旗尾池があり、これらの池の水を引いて米を収穫する地域の人々は太子講をつくり、毎年収穫の一部として供米等を法隆寺へ納めている。」と述べる。 分川池の所在地は、香芝市今泉1061-28である。 旗尾池については、〈五畿内志〉に「葛下郡:【山川】旗尾池【在上里村広三千畝許】」とある。 『日本歴史地名大系』〔奈良県;平凡社1981〕によると、片岡は 「葛下川流域、現河合・王寺・上牧・香芝各町、大和高田市にわたる一帯の総称で、「片岡の葦田」ともいわれた」という。 そして、〈延喜式諸陵陵〉から名前に「片丘」、「傍丘」のついた陵墓を上げる。また肩岡池は「現王寺町内に比定」されると述べる。 さらに、「王寺町には式内片岡坐神社が鎮座、片岡王寺(放光寺)、香芝町には片崗尼寺(般若院)」の名を上げる。 そこに挙げられた陵墓や寺社(廃寺跡を含む)の位置は、右図の通りである。 なお、宮内庁治定の片岡馬坂陵・傍丘磐杯丘北陵は実際には完全に自然地形である。 傍丘磐杯丘南陵は前方後円墳ではあるが、真の埋葬者は不明である。 片岡葦田墓は、一説にいわれる平野塚穴山古墳を示した。〔詳細は第225回参照〕 片岡神社は{大和国/葛下郡/片岡坐神社}の比定社、片岡王寺跡は王寺小学校で検出された塔・金堂・講堂跡、尼寺廃寺跡は南北2カ所のうち「北廃寺」の方である。 一般的に天皇陵の治定はほぼ伝説に過ぎないが、江戸時代からこの辺りで探求されていたこと自体、地名片岡の範囲内であることを物語っているわけである。 同書が肩岡池が「現王寺町内に比定」されたというのは、芦田池のことであろう。東側に堰堤を設けたものであるが、 旗尾池に比べると相当見劣りがする。また、旗尾池・分川池に残る根強い太子伝説も、築造の頃から継続しているのかも知れない。 《旗尾池の堤》
「農林水産省/奈良のため池」によると、 「旗尾池は、周囲約2km、面積約6万6千m2のため池で、飛鳥時代に聖徳太子が農業用水確保のために築いたと言われて」いるという。 国土地理院地図サイトでは任意の点について標高が表示でき、それによると旗尾池(上池)の南西部の堤(Ⓐ)上端と、外側の地面との間には標高差が17mある。 これを「堤の高さ」と呼ぶことにする(以下同じ)。 もし、この堤がなければ旗尾池と旗尾下池は繋がってひとつの池になるだろうと想像される。 下池の堤(Ⓑ)の高さは6.5mである。Ⓐは高さの割に幅が狭く、近代のもののように思われる 〔ただ、古い時代に作られたものを改築されたことは考えられる〕。それに比べるとⒷは素朴で、修理はあっただろうが、概ね飛鳥時代の形状を保っているとしても不思議ではない。 仮に古い時代のⒶが今よりも低かったとすれば、上池はもっと狭かったであろう。 これらの推定の真相を突き止めるためには古い工事資料を発掘する必要があるが、かなりの時間を要しそうである。 それでも、下に述べる蛙股池、狭山池、依網池、そして磐余池を合わせて見ると、記紀の「○○池を作る」という記述は、ほぼ堤を築造して川を堰き止めることを意味するようである。 これは、現代におけるダム造りと本質において同じ工事である。堤に取水・排水用の樋管がないことは考えられないから、狭山池と同様に調査がなされれば年代を得ることは可能であろう。 《菅原池》 菅原池については 『日本地名大系』奈良県の「蛙股池」の項に 「現奈良市あやめ池南九丁目 西大寺の西方約二キロに所在。近世には大池とよばれ、菅原村に所在したので、「日本書紀」推古天皇十五年条に…みえる菅原池とも考えられる。」とある。 菅原村につては、<五畿内志>添下郡に 「村里:菅原」・「神廟:菅原神社【菅原村。今称二天神一】」、 「仏刹:菅原寺【菅原村。一名喜光寺。縁起文曰。霊亀元年釈行基建。有二金堂一宇及菅相公祠一】」とある。 その菅原神社は式内社(〈延喜式/神名〉{大和国/添下郡/菅原神社})で、 「菅原天満宮」に改称したのは2002年である〔奈良市菅原東一丁目13〕。「天満宮」は菅原道真を祀る社だから菅原天満宮も道長の死後に建立したように思えてしまうが、 実際には古く土師氏の氏神を起源とし、菅原はもともとその地名だったようである。 菅原天満宮の公式ページの社伝には、「土師氏はここを本拠地とし各地に勢力伸展し」、「発掘調査で、埴輪を焼いた窯跡が発見され」、 「天応元年〔781〕に、この土地の名「菅原」に改姓」したとある。 地名「菅原」の由来がスゲノハラであったのは想像に難くない。 近くに菅原伏見東陵(垂仁)〔第193回参照〕があり、 少なくとも書記が書かれた頃はこの付近一帯が菅原と呼ばれていたのは確実である。 陵や神社に名前が残るほど強力な地名なら、そこの大きな池が"菅原池"と呼ばれたことはあり得るだろう。 近年「菅原天満宮」になったのは、江戸時代に天神〔道真のこと;天(津)神とは概念が異なる〕と呼ばれたのを受けたものと見られ、道真信仰が中心になったのは一種の習合である。
それでは、蛙股池は狭山池や磐余池のように、人工的に築造されたものであろうか。 そこで国土地理院の地図サイトによって陰影起伏図(図左)を見ると、蛙股池の東辺が堤のように見える。 確認のためにグーグルのストリートビューを用いて陰影図のマーク位置から見ると(図右)、これが人工物であることは明らかである。 マーク位置と堤の上端との間の標高差は、約14mある。この堤の下から狭山池と同様に木製の樋管のようなものが出てくれば、年代も確定するだろう。 なお、そのような調査報告は、今のところ見つけられていない。 なお、蛙股池の北にも菖蒲上池があり、蛙股池とはうり二つである。やはり南東に人工的な堤と思われるつくりがあるが、堤の高さは5m程度である。
『日本歴史地名大系』〔京都府;平凡社1981〕によると、栗隈大溝のある〈倭名類聚抄〉{久世郡・栗隈郷}は「宇治市大久保町付近に比定され」、 栗隈大溝の比定地は①常陽市長池朝の長池(「山城名勝志」による)、②「巨椋池に向かって真っすぐに北流する古川」があるという。 そのうち②が「最も有力とされ」、「古川を木津川の旧流路(分流)の一つとみなし、条里制施行直前に木津川の分流を整理し、旧河道を掘り起こして現在の古川にほぼ一致するよう直線状に改修したとする説」という。 《旦椋遺跡》 この項 2022.04.02 栗隈郷の中心地であったと推定されているのが大久保地区で、そこには〈延喜式〉{山城国/久世郡/旦椋神社}に比定される「旦椋神社」(京都府宇治市大久保町北ノ山109)がある。 〈五畿内志〉山城国久世郡には、「神廟:旦椋神社【在大久保村栗隈杜】」と載る。 大久保地域では1991年から旦椋遺跡の発掘調査が行われ、 宇治市公式ページ/『発掘宇治'11』〔平成23年度 発掘調査・文化財速報〕によると、 2007年の調査では「古墳3基や竪穴建築物跡等」が検出され、時期は「4世紀頃までさかのぼる」という。 また、2011年調査では「古墳1基と竪穴建物6棟を発見」し、「竪穴建物は古墳を削って、その上に建てられており」、「古墳の築造時期と竪穴建築集落が形成された時間の差は四半世紀ほど」という。 このことについて、「一般的には、古墳を避けて集落を形成」するが、「古墳を壊してまで集落をつくる」事情として、栗隈大溝の掘削が考えられるという。 《依網池》 依網池の伝承地は、大依網神社〔大阪府大阪市住吉区庭井2丁目18-16〕の南に隣接する。 今池遺跡〔難波大道跡〕のすぐ西にあたる(第115回)。 その推定復元位置は『復原研究にみる古代依網池の開削』(川内眷三)〔四天王寺大学紀要第59号;2015〕に詳しい。 右図は、「「依羅池古図」を基本に、「陸地測量部:明治20年(1887)製版の2万分の1図(仮製地形図)」と比定して池岸線を確定して復原した」〔同書〕もの。 現大和川は宝永元年〔1704〕の付け替えによって新たに掘削されたもので、それによって依網池の「池床のほとんどが潰廃」した。 同書は、最初に開削されたのが仁徳朝、「第二段階目の築堤・修築が」推古朝で、さらに8世紀には「行基集団」が狭山池の改修などが「依網池の第三段階目の築堤に結びつくことが管見できる」と述べる。 〈崇神段/紀〉の「作依網池」が、史実とは言えないのは明らかである。 〈仁徳段〉の「作依網池」は書記にはないが、百舌鳥古墳群の巨大古墳を見れば既に相当な土木技術があったのは確かだから、否定はできない。 池・溝・堤の土木工事の記述は垂仁・応神・仁徳・推古に集中しており、これらの天皇の偉大性の表現として用いた側面があろう。 〈推古紀〉においては、池・溝の新たな掘削は、仏教を中心に据えた新たな国作りの息吹なのである。
これが書紀でいう「戸苅池」であるかどうかは、発掘調査により、築造時期がぴったり推古朝でなくとも、それなりの古い時期であることを確かめる必要がある。 ちなみに〈垂仁天皇段〉に載る狭山池については調査が実施され、その結果樋管のうち築造当初の5本は、年代測定の結果616年〔推古二十四年〕の伐採であることが明らかになった (「狭山池出土木樋の年輪年代」〔『狭山池埋蔵文化財編』狭山池調査事務所;1998〕)。 「狭山池」は記〔垂仁段〕には載るが、書紀にはない。〈推古紀〉に入れればよさそうなものだが、書紀執筆の時点で文書記録がなかったのであろう。 前項で述べたように、池の築造は実際の年代から動かして、偉大化すべき天皇に集約されたと思われる。 《毎国置屯倉》 〈安閑紀〉二年五月の二十六屯倉以来の、一斉の屯倉の設置がである。 〈隋書倭国伝〉(4)《皆附庸於倭》における考察と、〈安閑二年〉【二十六屯倉設置の意味】で見た屯倉の設置状況を照らし合わせると、 倭の政権の支配域は、畿内はさすがに完全に支配下であるが、その外については西は山陽道の備中まで、東は尾張までだろうと思われる。但し、筑紫はほぼ直轄であっただろう。 その外側は、独立性を残しつつ中央政権とやや緩く結ばれた国々と思われ、その最前線は西は肥後、東は上毛までと見る。 「毎レ国置二屯倉一」とは、その肥後~上毛の範囲で、まだ屯倉が置かれていない空白の国ごとに新たに屯倉を配置していったと解釈できる。 十五年の冬〔十~十二月〕と書かれてはいるが、これは形式的な記述であって実際の時期は分散していただろう。 この「国ごとの屯倉」が、後の律令国の国衙に移行していったと思われる。 《大意》 〔十五年〕七月三日、 大礼(だいらい)小野臣妹子(おののおみのいもこ)を大唐に遣わし、 鞍作福利(くらつくりのふくり)を通訳としました。 この歳の冬、 大和の国に高市池(たけちいけ)・ 藤原池・ 肩岡池・ 菅原池を作り、 山城の国に大運河を栗隈(くりくま)に掘り、 河内国に戸苅池(とかりいけ)・ 依網池(よさみいけ)を作り、 また、国ごとに屯倉(みやけ)を置きました。 【十五年七月~十六年六月】(二) 《小野臣妹子至自大唐》
〈岩崎本〉には、十六年の部分の上部に次の書き込みがある。筆跡は本文の訓点のいずれとも異なっている。
この中では「史の誤り」と述べるが、上で考察したように隋であることは承知の上で、大唐を中国の美称として用いた可能性が高い。 〈神功皇后紀〉で魏志を引用しているから、ここでも隋書を参照しなかったわけはないと思われ、この時期の中国が隋であったことも重々承知であろう。 《圀》 圀は、武則天〔在位690~705;唐の途中の一時的な王朝"周"〕が定めた則天文字と呼ばれる文字群のひとつ。 公的には則天退位後に廃止されたが、根強く残る。水戸光圀が有名。 書紀でこの字が使われているのは〈岩崎本〉のみ、その中でも「新漢人大圀」(下述)とここの二か所だけである。 〈岩崎本〉は最古の写本〔10世紀〕とされるので、國に改める前の形態が残っているのかも知れない。 ここでは、蘇因高が小野妹子と同一であることを説明する文である。この文は後から追加されたように感じられ、 その追記者が習慣として、専ら圀を用いていたことが考えられる。 《蘇因高》 この項:2022.3.1.に書き換え 通訳が臣をシンと発音したことにより、臣妹子 《裴世清》 隋書倭国伝には、大業四年〔608;=推古十六年〕に「上二-遣文林郎裴〔世〕清使於倭国一」とある (隋書倭国伝(4))。 《従妹子臣》 漢字の従は自動詞にも他動詞にも使われる。自動詞なら「妹子臣に従う」、他動詞なら「妹子臣を従える」の意味である。百済~難波の航路では倭人がパイロットを務めたと見るのが自然だろう。 となれば必然的に妹子が乗船や下船を案内しただろうから、従は自動詞であろう。和語のシタガフは、自動詞:四段活用、他動詞:下二段活用である。 《唐客》 既に「使人裴世清」とあったから裴世清が使人であったことは間違いないのだが、ここからは客と表現することにより、 通常の使者への扱いを越えた特別な厚遇がなされたことを示している。 《難波吉士雄成》 吉士は新羅の位階のひとつである。『北史』巻九十四列伝第八十二の「新羅者 ここまでに出てきた難波吉士には、 〈安康紀〉元年:難波吉師日香蛟〔ひかか〕、 〈雄略紀〉八年【任那王】:難波吉士赤目子〔あかめこ〕、 〈推古紀〉六年:難波吉士磐金〔いはかね〕、 八年:難波吉士木蓮子〔いたび〕がいる。 《高麗館之上》 「高麗館之上」については、上・下の「上」の意味を当てはめることは困難である。 漢字上には"傍ら"の意味もあり、古訓にも「ほとり」があるので、ここではそれであろう。 《江口》 江口および新館の比定地については、継体六年【難波館】で考察した。 その結果、「江口」は「難波の堀江」の入り口のことで、難波の宮の北方にあたると見た。 ここに飾り船をずらりと並べ、小野妹子と裴世清一行を載せた船を歓迎したのだろう。 また、高麗館と新館の位置は、大郡(おほごほり)の範囲内(谷町筋より東)であろうと考えた。 隋書には、竹斯国、秦王国の次に「経二十余国一達二於海岸一」〔二十国を経て海岸に達した〕とある (隋書倭国伝(4))。 この「海岸」が難波津であることは確実である。 《中臣宮地連烏磨呂》 宮地(ミヤドコロ)については、〈新撰姓氏録〉に〖神別/天神/中臣宮処連/大中臣同祖〗がある。 〈姓氏家系大辞典〉「宮処 ミヤドコロ」の項で、 「中臣宮処連:中臣氏の族にして讃岐宮所郷〔{讃岐国・山田郡・宮所【美也止古路】郷}〕より起こる。中臣宮処本系帳あり、天平六年の撰録と云」ふとして、その系帳の内容を紹介する。 すなわち、「神呂芸高御結命…〔中略〕…天子屋根命…〔中略〕…伊迦豆知大臣命―中臣連小橋臣―静依臣…〔中略〕…静麿」、 「志賀高穴穂宮」天皇〔成務か〕からの御世から天平六年〔734〕までの456年間、十五代にわたって「天皇朝廷の大御奴〔おほみやつこ〕と仕へ侍り来ぬ。」とあるが、「されど信じ難き点多し」と述べる。 中臣氏の中でも、宮廷で天皇にそば仕えするような高い地位というのが、ミヤドコロの意味なのだろう。 《大河内直糠手》 大河内直は、〈姓氏家系大辞典〉に「凡河内 オホシカフチ オホカフチ:…此の国域は、国内に河内郡のあるを見れば、その郡名が拡張して一国の名称となりしや想像するに難からず」、 「凡河内直:凡河内国造家の氏姓なり。…天武朝に至り、連姓を賜ひ、次ぎて忌寸 隋書では、裴世清が上陸したときに、倭王が「小徳阿輩台」を遣わして数百人の儀仗を並べ鼓角〔太鼓+角笛;「鳴り物」の意かも知れない〕で来迎した (隋書倭国伝(4))。 阿輩台(アハタイ)は糠手(アラテ)は、類似するとも言える。 《船史王平》 王氏については、姓氏録〖諸蕃/高麗/王/出自高麗国人従五位下王仲文【法名東楼】也〗とある。 従って"王"が氏、"平"が名である。 舟史については〈敏達元年〉の王辰爾のところで、「海運と史人の両道をこなしたが故の呼び名」と見た。 舟史は職名あるいはその職能集団を指すと見られる。さらには、そこに多くのメンバーを輩出した氏族名でもあろう。 《妹子臣奏》
奏之を〈岩崎本〉は「奏レ之」とはせず、「之」の左下にヲコト点(朱書)をつける。これは、動詞を連用形にして助詞テをつけることを意味する。 したがって、"之"は読まない。 怠之・勅之・赦之も同じパターンで、〔ヲコタリテ・ノタマヒテ・ユルシテ〕と訓む。 「之」には指示詞としての性格を弱めて、形式目的語として前の字が動詞であることを示す用法がある。 「雖死之不失旨」では代名詞でコレと読むようである。「失書之罪」では、連体修飾の助詞として機能する 〔ただし、訓読では"書を失ひし罪";完了の助動詞キの連用形〕。 《参還之時》 「参帰之」の古訓はマウコシ。マウクは、「まゐく」(参来)と同じで「まゐたる」(参到)と同義。 シは完了キの連体形。カ変動詞「来(ク)」との接続は特別で、クは未然形(コ)または連用形(キ)となる。 古事記の訓読において、「之」はシの音仮名でもあるので、「~之時」は「~しとき」と訓読されただろうと推定したが、 この古訓はその推定を裏付ける。また、ここでは古事記的な用字法が用いられていることが注目される。 「之時」はα群にもあるが、どちらかというとβ群に多い。 《唐帝》 帝の古訓をキミとしたことは、理解できる。もしミカドと訓めば、天皇を指すことになってしまうからである。 ただ、唐の皇帝であったことは重要だから、「キミ=一般的な君主」では意を尽くしきれない感がある。 このような場合は、音読みの方がよいだろう。 《経過百済国之日》 「経過百済国」というコースは、隋書の「度二百済一行」と一致することが注目される。 裴世清の遣使の件が全体に隋書と書紀とでかなりよく対応することの、一例である。 《探》 墨書の訓点サトリは、サクリ〔さぐり〕の誤りであろう。墨書の古訓は、院政期と推定されている。 誤りがあるということは、他に訓点本が存在し、それを基にしたことを意味する。 《失大國之書》 「百済人探以掠取」、すなわち百済を通ったときに、百済人が小野妹子の荷を漁って書を持ち去ったというが、どう見ても不自然である。 書の内容が倭国にとって不都合であったから闇に葬ったのだと、誰もが読み取るだろう。それでは、何が不自然なのだろう。 隋書倭国伝(4)で裴世清が倭王に対面したときの言葉を見る。 倭王:「遣二朝貢一。我夷人僻二-在海隅一 不レ聞二禮義一。」 〔ここに〔小野妹子を〕遣わして朝貢させた。我らは辺境の夷人で礼儀を知らない〕 裴世清:「皇帝徳並二二儀一。澤流二四海一以王慕化。故遣レ行レレ人来此宣レ諭。」 〔皇帝の徳は天地に及び、恩恵は世界に広がり各地の王を感化する。倭も人を送って先進的な華夏で学ばせ、学んだことを国に帰って広めさせるがよい〕 倭王がこのような言葉を実際に口にしたかどうかは疑問だが、 どちらにしても、文脈は倭王が当初「日出づる処の天子」と自称したことを叱責する流れである。 小野妹子が授かった唐帝の書にも、このような考えが盛り込まれていたのは想像に難くない。 よって、小野妹子は親書が盗まれたことにしたのだろう。群臣は流刑にせよと主張したが、 天皇が赦したのは事情を察知したからだと、これまた誰もが読み取ることだろう。 しかしよく考えてみると、実際には妹子に連れだってやって来た裴世清隋の親書にはマイルドな形ではあるが、この尊大な思想が隠すことなく盛り込まれ、 倭もそれを承諾している〔次回〕。 とすれば、小野妹子が授かった書を隠す意味はない。 考えられるのは、蘇因高を褒め、官職を賜ったと書いてあった可能性があることである。 魏志では、魏使の難升米が率善中郎将、牛利が率善校尉を賜っている(魏志倭人伝(73))。 これは、恐らく中国が朝貢使を迎えるときの習慣であろう。 ところが、妹子はこのような習慣は知らないから、倭国の朝廷に外から手を突っ込まれたと受け止め、推古帝と太子にそのまま報告することなど、とてもできなかったのではないだろうか。 《赦之不坐》 罪を赦した理由として、裴世清らの耳に入るとまずいからだと述べている。 隋にとってみれば、自国に派遣されて大切に扱った使者が罰せられるのは、自国にケチをつけているように受け止められるということであろう。 さらに、前項のようにもし使者が官職を賜ったのであれば、その使者を罰すれば官職授与という行為を否定したと受け止められて、国家対国家の敵対行動になってしまう。 この場合は、罰しない理由は極めて明瞭であると言える。 《大意》 十六年四月、 小野の臣(おみ)の妹子が、大唐から帰国しました。 唐は、妹子臣を蘇因高(そいんこう)と名付けました。 そして大唐の使者裴世清(はいせいせい)と随行する十二人が、 妹子臣に従って筑紫に到着しました。 難波の吉士(きし)雄成(おなり)を派遣し、 大唐の客裴世清らを召しました。 唐の客のために、改めて新館を難波の高麗館の傍らに建てました。 六月十一日、 客たちは難波津に停泊しました。 この日、飾船(かざりふね)三十隻を並べて客たちを江口(えぐち)に迎え、 新館に滞在させました。 このとき、中臣(なかとみ)の宮地(みやところ)の連(むらじ)の烏磨呂(おまろ)・ 大河内(おおしこうち)の直(あたい)の糠手(あらて)・ 船史(ふなふひと)の王平(おうへい)を、 掌客にあたらせました。 このとき、妹子臣は奏上しました。 ――「臣が帰国する際、唐帝は書を臣に授けました。 ところが、百済の国を通過する日、 百済の人が物色して掠奪しました。 このため、奉ることができませんでした。」 これについて、群臣は議論して申し上げました。 ――「そもそも使者は、死んでも本旨を失ってはならない。 なのにこの使者はどうしてそれを怠り、大国の書を失ってしまったのか。 となれば、流刑に処せ。」 すると、天皇(すめらみこと)は勅されました。 ――「妹子に、書を失った罪はあるが、好き勝手に罰するべきではない。 この大国の客たちがこれを聞けば、それはよいことではないぞ。」 こうして罪を赦免し、罰しませんでした。 まとめ 狭山池や磐余池を見れば、記紀において「池を作る」は、堤の築造により流水を堰き止めて大規模貯水池を作り出すことであろう。 記紀では、その業績は垂仁・応神・仁徳・推古に限定される。実際には他の天皇の時期にも行われたはずだが、この四代に集約する。 そのうち垂仁は、現実の天皇を描くというよりは、天皇の姿を借りて国作りの理念を示す。 そして農業生産力の向上のために築堤したと述べる。 次に応神段・紀は帰化人の活動を集約した部分であるが、その中に含まれていた築堤の技術集団が池づくりの出発点にいたことを示す。 仁徳天皇は善政の人で、人民の生活向上のために治水に力を尽くす。 そして推古天皇の時代は、仏教の導入による新鮮な国作りの基盤としての農業の発展を、水源開発によって支える。 人民の統治を成し遂げる力は決して懲罰による強制ではなく、人民の豊かさを実現するための政策的な差配であり、 「池を作る」ことは、そのために組織的に農業用水の供給を安定させ、農業生産力を高める偉大な事業である。 記紀は、この事業の複数の側面を限られた天皇に割り振り、それぞれを偉大化することによって、その意義を掲げるのである。 ここに雄略天皇が含まれないのは皮肉なことで、やはり記紀による雄略の性格付けは覇王〔王道によらず覇道=力づくで勝ち取った王〕なのである。 池作りという事業のこのような位置づけを見れば、〈推古紀〉で作られた池はすべてが堰堤式の大規模工事であるはずである。 肩岡池が旗尾池で、菅原池が蛙股池であったとすれば、それぞれの規模は十分である。依網池も適切、戸苅池も概ね適切であろう。 藤原池は、磐余池を修築したと見るのがもっとも現実的に思える。 高市池についても、やはり未発見の大きな池があるはずだという思いは強まる。 さて、小野妹子の隋への派遣については、隋書を対照して詳細に比較検討するとなかなか興味深いものが見えて来る。 これについては次回、まとめて論ずる。 |
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2022.01.06(thu) [22-06] 推古天皇6 ▼▲ |
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12目次 【十六年八月】(一) 《唐客入京》
海石榴市で歓迎式典を行ったことから見て、「京」は難波(副都)ではなく飛鳥だと考えられる。 《海石榴市衢》 隋書に「遣下大礼哥多毗従二二百余騎一郊労上」という一節がある。 「郊労」は、郊外で来訪を労 隋書の哥多毗(カタビ)は、額田部(ヌカタベ)であろう (隋書倭国伝(4))。 前回見たように、阿輩台(アハタイ)も糠手(アラテ)の音写だとすれば、隋書に出てきた倭の接待役二人が、ともに書紀の人物と一致することになる。 《難波津から京までの経路》 海石榴市は歌垣が盛んに行われて万葉や書紀の題材になったが(資料[34])、 各地から人が集まって商業活動が盛んであったと考えられる。 難波津とは陸路は横大路、水路は大和川を経由して結ばれ、人や物の移動が盛んであったであろう。 裴世清が持参した唐国の信物は恐らく相当な量であろう。 魏志に描かれた卑弥呼への信物は膨大であったが、時代が変わってもそれが通例だったと思われる。 石棺の石材に水運を用いたことから見て、信物は恐らく水路で運ばれ、海石榴市付近の港で荷揚げされたと思われる。 荷揚げは飛鳥のある側の南岸であろう。 使者は、水路も陸路も考えられる。陸路なら乗馬か。輿は基本的に天皇に限られる。 「小野妹子に従って」〔十六年四月〕の表現から見て、大使のために輿を用意した可能性は低いと思われる。 《宮殿》 出迎えた宮殿は、小墾田宮が順当であろう。ただ〈雄略〉初瀬朝倉宮に比定される脇本遺跡には7世紀後半までの掘立柱建物が検出され、 恒久的に使われていたから、こちらかも知れない(第198回)。 磐余の宮も古く〈履中〉から〈用明〉まで出て来るから、同様に恒久的であったと考えられる。 飛鳥の岡本宮が建ったのは〈舒明〉であるが、〈推古〉のときにも建て替える前の宮殿があって太子が法華経を講じた可能性もある(推古十四年)。 ただ、まだ外交使節を迎えるような豪奢なものではなかっただろうから、これは除外したい。 いずれにしても、海石榴市を宮殿の「郊」〔都のはずれの土地〕と見做すことができる。 《額田部連比羅夫》 額田部は全国各地に分布する。現在の奈良県大和郡山市の額田部地域は、その本貫地と見られる(〈仁賢六年〉)。 額田部連について〈姓氏家系大辞典〉は 「凡河内氏の族人にして、額田部の伴造家也。…〔略〕…「額田部連比羅夫」、次いで孝徳紀大化元年条に「額田部連甥」等を見る。大族たりしを知るべし。」と述べる。 神話上の始祖は天津日子根命(第46回)で、記上巻に「天津日子根命者、凡川内国造 額田部湯坐連 茨木国造…〔略〕…等の祖也」とある(第47回)。 額田部連比羅夫の名前は、以後〈推古〉十八年、同十九年に見える。 《阿倍臣鳥》 〈姓氏家系大辞典〉は、「後世安藤系図には次の如き系図を挙ぐ。」として、 「大彦命―武渟川別命〔建沼河別命〕―瀬立大稲起命―大稲誉命―火麻呂―摩侶阿倍臣―鳥子阿倍臣 推古天皇之大臣也―目臣…」〔一部を抜粋〕なる系図を載せるが、 「もとより信用すべきにあらず」という。それでも、一応は大彦(〈孝元天皇〉皇子)を祖とする氏族に属すると言えよう。 阿倍臣鳥は、他には〈推古〉十八年に「阿部鳥子臣」の名前で登場する。 《物部依網連抱》 〈新撰姓氏録〉に〖河内国/神別/天神/物部依羅連/神饒速日命之後也〗。 〈姓氏家系大辞典〉には「物部流の依依羅連:天孫本記に「(饒速日命 物部依網連抱の名前が出て来るのは、この場面のみ。 《使主》 使主への〈岩崎本〉の朱訓シシムは、ム/ンが未分化の時期の表記と思われ、使人、使臣が考えられる。どちらかと言えば、使人の方が一般的か。 十六年四月の「使人裴世清」ではツカヒなので、本来なら両者ともにツカヒまたはシジムに統一されるべきだろう。 ここでは使者の一行の主の意味だが、訓読には盛り込みにくいので無視しても差し支えないであろう。 おそらく上代からシジム 〈図書寮本〉では、十六年四月に「ツカヒ」とあるが、ここには訓がないので、ツカヒに統一したと見られる。 〈内閣文庫本〉は「オミ」とするが、「使主」をオミと訓むのは姓 《両度再拝》 「両度再拝」を文字通り読むと、2×2=4回のお辞儀となる。 ただ「再拝」は、本来はいわゆる「二礼」の意味であったと思われるが、仮に一礼であっても丁寧なお辞儀を意味する語になったようである。 他の巻でも「二度お辞儀した」必然性は見えず、常にこの使われ方である。 古訓「再拝 すなわち、両度再拝は丁寧なお辞儀を二度行ったという意味だと思われる。 《而立之》 「言上使旨而立之」の"而"を時間的順序だと受け取ると、使旨を言上してから立つというおかしなことになる。 ここでは、「"言上使旨"を起立して行った」意味であるのは明らかである。ここでは"之"が代名詞〔=言上使旨〕として機能していると捉えることも可能である。 《大意》 八月三日、 唐の客人は京に入りました。 この日、 飾りたてた騎馬七十五匹を遣わし、 唐の客人を海石榴市(つばきち)の巷に迎え、 額田部(ぬかたべ)の連(むらじ)の比羅夫(ひらふ)は、礼辞を申し上げました。 十二日、 唐の客人を朝庭に招き、使者の旨を奏上させました。 その時、阿倍(あべ)の鳥(とり)の臣(おみ)、 物部の依網(よさみ)の連(むらじ)抱(いだく)の二人を 客人の案内人とされました。 そして、大唐国の信物〔返貢〕を、宮庭の中に置きました。 そして、使者の主裴世清(はいせいせい)は、親ら書をもち二度拝礼して、 使わされた旨を立ち上がって言上しました。 【十六年八月】(二) 《皇帝問倭皇》
文書中に疑問文はないが、「問」としている。 問は明文化せず、使者が口頭で行ったであろう。 《倭皇》 "皇"は天皇であろう。しかし、中国での「天皇」の初出は新唐書で、それまでは「王」が用いられている。特に隋書は「倭王」を三回使っている。 そこでまず、この書は実在せず、書紀が創作したものとする可能性を検討する。これまで他の巻において、しばしば行われたことで、 フィクションの韻文や詔には、通例下敷きにした漢籍の文章が存在する そこで、いくつかのキーワードを使って「中国哲学書電子化計画」で検索をかけたが、今のところは見つかっていない。 そこで、この「書」自体の検討をすすめると、内容は隋書と一致し、しかし隋書より物言いが直接的でないところに外交文書としての配慮が見える。 一方、倭王による「朝貢」を皇帝が褒めた部分は、書記による創作なら絶対に書かないだろう。 しかし、仮に「朝貢」が気に入らなかったとしても、書紀は中国でも読まれ得るから改竄はできないのである。 よって、この隋帝の書は実在した記録だと思われる。ただし、ただ一か所「倭王」のみを「倭皇」に直したようである。 「皇」は中国では一般的な語で、この程度の置き換えは差し支えなかったと思われる。 なお、天皇号の使用開始は680年頃の可能性が高く、天智天皇以前は、すべて記紀が遡って呼称したものである(資料[41])。 《皇帝・倭皇のよみ方》 皇帝の古訓キミは中国を周辺国のひとつとして扱おうとするもので、 皇帝の書の趣旨:「中国=華夏である。周辺国=蝦夷はその教化を受け入れよ」とは開きがある。 齎 そこでキミ以外で皇帝の訓を求めると、普通はミカドであるが、これは天皇にしか使えない。結局音読みが妥当であろう。 "皇"の呉音はワウ それでも、書紀の時代には既に漢音の積極的な導入が始まっていたと思われ、 知識層においては受け入れ得る状況であろうと想定して、ここでは漢音を用いておく。 倭皇についても、倭語のスメラミコトを混ぜるのは不自然であろう。 皇子にはワウシ
具懐に〈岩崎本〉が振った訓はツフサムスとしか読めず〈内閣文庫本〉もそれを踏襲しているが、意味不明である。 これとは別に、そのすぐ下に墨書の訓「欽 ニの字体のひとつに、ムから「、」の画を省いた形(∠)があるので〔図右のクニツモノ〕、これを誤ったのかも知れない。 《具懐の主語》 さて、具懐の主語は、蘇因高と皇帝の二通りが考えられるが、判断は難しい。 ①皇帝が主語だとすれば「私の心の中をありのままにお話しする」という意味となり、「朕…」以下を導く。 ②蘇因高を主語とする場合は、「天皇の"懐"(胸中)を"具"(つぶさ)に伝達した」という意味で、 「言いたいことはよくわかった。しかし…」と言って反論につなげる。 但し、①でも「朕の心情を具に言おう」という言葉には、「東の天子」と称したことを正そうとする意志がはっきり表れている。 ③案外「相具懐」〔互いに胸襟を開いて意見を交わした〕の省略形かも知れない。つまり①②の両方を兼ねる。 ①②は、訓読によって確定することができる。 すなわち、「こころをつぶさにつぐ」と訓読すれば①、「みこころをつぶさにまをしき」と訓読すれば②となる。 しかし、訓読者の恣意的な断定を避けようとすれば、「ツブサニス」となり、実は古訓がこれである。 マウス、ツグ、カタラフの何れかを補うことはできるが、それでは訓読者が①②③のひとつに決定することになるから、古訓もこれを逃れようとしてサ変動詞にした可能性がある。 そもそもは、元の書の段階で、この部分をわざと不明瞭にしたのかも知れない。現代でも外交交渉のまとめの文書には、対立があったことをあからさまに書かないのが通例で、それに似た感覚が感じられる。 《朕》 「朕~無隔遐邇」の部分は、周辺国を中国の臣下としようとする意思を、「皇帝の徳を広めて感化させる」と表現したものである。 あまりに尊大だから一人称で言うべき言葉ではないが、これは国家の意思を定式化した文である。 この言葉が、隋書で裴世清が倭王に語った「皇帝徳並二二儀一 澤流二四海一以王慕化」 〔皇帝の徳は天地を潤し、(周辺国の)王はそれに感化される〕と、 完全に同内容であるところが注目される。このことからも、この皇帝の書が現実に送られたものだという感は強まる。 《宝命》 宝命は命令の美称で、中国では天子〔=皇帝〕の命令、日本では天皇の命令を意味することになる。 それでは、天子自身へは誰が宝命を発するのかと言えば、それは天であろう。つまりは、天が「即位せよ」命じる意味である。 古訓の「オホミコト」は天皇が発行する勅の意だが、天皇自身が受けるとすれば天による発行だから、 天の声としてのオホミコトなら必ずしも問題はない。 しかし、これもほぼ天皇専用の語だから、中国皇帝への使用はできれば避けたいところである。 ミコトをオホセコト、ミコトノリに置き換えたとしても、すべて天皇専用の語だと考えるのであれば残る手段は音読しかない。 《含霊》
〈岩崎本〉を見ると、当初はこの含霊をヨロヅノモノ(万物)と訓んだらしい。その後、疑問が持たれたようで少し手直してヨミツモノ (黄泉物)となった。確かに死者の霊魂は黄泉に眠るが、ここでは生身の皇帝がもつ霊的な力を指すから、意味がずれている。 万物のままの方が、まだよかった。 ここでは古訓者が必ずしも文脈を正確に読み取っていないことに、留意しておく必要がある。 《無隔遐邇》 、 愛育之情無隔遐邇〔愛育の情は、遐邇〔=遠近〕の隔てなし〕、すなわち国の遠近に関係なく恩恵を及ぼそうと言う。 この言葉が「皇介居海表」すなわち、海の彼方で孤立する国の王に向かって呼びかけたものであるのは明らかである。 《介居海表》 この介居について、〈釈紀〉は特に次の意見を陳述する。
●居を「ゐて」と訓むことはよくない。わが国が忌む読み方は、たとえ唐天子の書の引用の中であっても避けるべきで、天皇を主語とするときは主体的に「ましまして」を用いなければならない。 ●介は、音をカツをいうとか「時」の意味とか言うがいずれも同意できず、もともとの意味の通り「へだつ」と読むべきである。 以上から、「介居」は「へだたりましまして」(隔たり坐して)と読むべきだと言う。 〈岩崎本〉による訓は、「介居」の右に「ヨリイテ」、左に「ヘタゝリマシ〱テ」とある。 ヨリイテに"私"が添えられるが、これは「私記による」意と見られる。〈岩崎本〉の訓点者と兼方は、同じ私記を見ていたのである。 《介居河北》 ここで、介居河北の意味を確認するために、その部分の文脈を見ておこう。 ーー秦朝末期に、陳勝〔~前208〕という人物がいた。陳勝は前209年に反乱を起こし、一時王位に即き国号を張楚に改めたが半年で鎮圧された。 張楚はもう衰退に向かっていた時期、陳勝は趙に武臣を送って平定させた。案の定、武臣は帰らず独立して趙王となった。 そのとき武臣の即位を進言したのが張耳と陳余で、「介居河北」は、その言葉の中にある。
よって、「独介居河北」は「〔現在武王は〕ひとり咸陽〔秦の都〕から離れた河北の地にいる」意味と見てよいだろう。 これを応用すれば「介居海表」は「海の彼方の隔たったところにひとりいる」という理解でよいと思われる。 《風俗融和》
なお、"ヿ"はコトを一字で表したカナで、もともとは「事」の略字とされる。 この部分の訓点は、一条兼良(室町)の宝徳三年〔1451〕・文明六年〔1474〕によるという〔京都博物館編影印本(2013)の解説〕。 "ヿ"の使用開始は近世(安土桃山~江戸)といわれるが、兼良の訓点はそれよりも古いことになる。 なお、「朕有嘉焉」の「嘉」の右側墨書も"ヨミスルヿ"である。 ここは朱筆のヲコト点〔平安中期〕がコトを表し、墨書の訓〔院政期以後〕がそれを継承したものと見られる。 《稍暄比如常也》 「稍(やうやく)暄(あたたかく)比(このごろは)如レ常(つねのごとし)」は、 そのまま「今年は暖かくなるのが遅れたが少しずつ暖かくなり、この頃は例年並みの気候になった」と読めばよいと思われるが、時候の挨拶であろう。 妹子と裴世清が到着した十六年〔608〕四月は、グレゴリオ暦では5月23日~6月20日にあたる。〔hoshi.orgによる〕。 隋の都長安を出発したのが仮にその2~3か月前だとすると立春前後となり、時期は概ね文章に合う。 隋書では、裴世清の上遣〔天子が遣使すること〕は大業三年〔607〕の「明年」とあるだけで、月の明示はない。 なお、大業四年の元旦はグレゴリオ暦で1月26日だから、出発はそれよりは後である。 〈岩崎本〉墨書訓「稍暄比:コノコロ」は、「稍暄比」の三文字まとめて形式的な挨拶語となったもので、「暄〔暖〕」の実質的な意味は既に失われたと見たようである。 《稍宣往意》 往意とは、「裴世清を遣した理由」である。「稍宣」は「徐々に話す」、すなわち追って使者が口頭で伝えるという意味と見られる。 書面では「朝貢をしてくれてうれしい」と書くに留め、あとは使者が口頭で「朝貢国としての枠組みに入ることを定着していただきいが、どうか。」と「問うた」〔事実上強い要請〕のであろう。 文書の冒頭に「皇帝問倭皇」を置く所以である。 《送物如別》
「別」への訓「コトクタり如く」は「別 ただ、上代に遡るとき「コト〇〇」の○○にクダリが入り得たかどうかは分からない。 さらに、クダリに「文字を連ねたもの」の意味が上代にあったかどうかも分からない。 さらに、この「別」は「別文書」を意味し、クダリ〔=文章の一部分〕と読むのは不適切である。 これを「あたしふみ」と訓むことにすれば、これらの問題を回避することができる。 《大意》 その書の内容は次の通りです。 ――「皇帝、倭の皇(おう)に問う。 使者の長吏、大礼(たいらい)蘇因高(そいんこう)の一行が至り、 懐心を具(つぶさ)にする〔した〕。 朕は 欽(つつし)んで宝命を承り、 区宇〔=天下〕に臨み仰ぎ、 徳化を広め、 含霊〔=内なる魂〕を及ぼし被(こうむ)らせようと思う。 愛育の情に、 遠近を隔てることは無い。 皇(おう)は 海外にひとり居(きょ)し、 庶民を撫寧(ぶねい)し、 国内は安楽に、 風俗は融和していることを知った。 気深く誠至り、 遠く朝貢を納められ、 その丹款〔=真心〕の美しさに、 朕の心は好ましさであふれる。 ようやく暖かくなり、この頃は常のごとくである〔例年並みに暖かい〕。 そこで、鴻臚寺(こうろじ)の掌客(しょうかく)裴世清(はいせいせい)らを遣わし、 ゆくゆく訪問した意図を述べさせる。 併せて贈った信物は、別書の通りである。」 【十六年八月】(三) 《阿倍臣受其書》
「阿倍臣出進…」以下、裴世清が読み上げた書を阿部臣鳥が受け取り大伴連囓 ただ、これは一つの側面に過ぎず、メインはやはり最高クラスの大臣の重々しい振舞いを描写することによって、儀式の荘厳さを印象付けるところにあろう。 何よりも、隋は倭を東夷の未開の国だと見做しているようだがそうではないということを、倭は行事そのものを見せつけることによって示そうとした。 書紀は海石榴市での郊礼に始まる一連の儀式を記述するにあたって、隋書に礼を知らない国だと書かれたことを相当意識した印象を受ける。 やはり、書紀執筆にあたっては、隋書も読み込まれたのだろう。 《大伴囓》 オホトモは淳和天皇の諱 大伴囓連は、〈崇峻〉四年に新羅攻撃の大将軍の一人として筑紫に陣を敷いたが、結局渡海せず〈推古〉三年に軍は解かれた〔〈崇峻五年〉〕。 〈推古〉九年には高麗に派遣され外交交渉にあたり、 十年には先遣隊として渡海したが、新羅攻撃は中止された。 なお、〈推古〉八年の新羅攻撃には囓の名がない。もしこの攻撃が事実なら囓の名がないことは考えられない。 この年は実際には新羅攻撃は行われず、ある氏族にたまたま伝承されていたものを載せたに過ぎないと見た 〔〈推古八年〉〕。 《悉以金髻花着頭》 隋書に、このときの装束に通ずる記述がある(隋書(4))。 いわく「至レ隋其王始制レ冠以二錦綵一為レ之以二金銀鏤花一為レ飾」。 ここでは、一同正装で参列したと書くことにより、上記の「儀式が荘厳に行われたこと」を強める。 また、冠位十二階の制度が定着していたことも示す。 《大意》 言上を終え、阿倍(あべ)の臣〔鳥〕は 進み出てその書を受け取り進み行きました。 大伴の連(むらじ)の囓(くらう)は、出迎えて書を承り、 大門の前の机上に置いて献じました。 こうして事を終え、退出しました。 この時、 皇子、諸王、諸臣は、悉く金の髻花(うず)を頭に着けました。 また衣服には皆、錦、紫の刺繍のある織物、及び五色の綾(あや)の紗(さ)を用いました 【一説には、着衣の色には皆冠の色を用いた】。 十六日、 唐の客人たちを招き、朝廷で饗宴されました。 13目次 【十六年九月】 《饗客等於難波大郡》
難波大郡は東生郡にあたると考えられている(継体六年【難波館】)。 難波宮跡や、法円坂遺跡の一帯にあったのではないかと思われる。 おそらく饗の会場は難波新館で、ここでは地名で表したのではないかと思われる。 《東天皇敬白西皇帝》 「東天皇敬白二西皇帝一」は、隋書の「日出処天子致二書日没処天子一」の修正型に見える。 従って、書紀が大業三年〔〈推古〉十五年〕の書は載せず、その代わりに内容を修正した書を創り上げ、翌年の遣使が持参する書として描いたのだろうと直感した。
その冒頭を第一文書〔隋書;大業三年〕と比べると、 ①「日出処」⇒東、「日没処」⇒西。 ②「(倭)天子」⇒「天皇」。 ③「至書」⇒「敬白」。 の三点を変えている。これにより、少なくとも失礼さはなくなっている。 現在一般には、隋帝が怒ったのは"東の天子"の箇所であって"日沈む処"は問題にしなかったと考えられているが、 ①を見ると、ここでは後者も気にしているようである。 ②は、「東の天子」は取り消すが、皇帝号に天皇号を対置して別の形で対等性を主張する。 ③は、対等であっても"敬"〔つつしみて〕をつけるは常識の範囲内であろう。 しかし改めて検討すると、第二文書が存在しないのは不自然である。 そもそも遣使する以上、上表を持参しないことは考えられない。 加えて、第二文書の中に「久憶方解」なる言葉があり(次項)、それが事態の動きとまさに噛み合っているからである。 よって、第二文書も存在したと考えた方がよい。 ただし、この場合②の解釈が難しくなる。「天皇」は書紀に載せる時点で直された結果であろう。 元の文書では「王」だったとするのが最も自然ではあるが、これでは完全屈服である。 結局、「東天皇敬白西皇帝」の部分は第二文書にはもともとなかったもので、書紀の段階で第一文書の修正の役割を果たす文として、付け加えたとするのが最も合理的であろう。 第二文書の一行目は、単に「敬白」だったとも考えられる。 《久憶方解》 実際、久憶方解の四文字が書の要である。「久憶」〔久しき憶(おも)ひ〕が「日出る処の天子などと言ってはいけない。華夏の皇帝に東夷の王が感化されるという関係を受け入れよ」 という隋の年来の主張を意味し、「方解」〔方(まさ)に解けぬ〕」が「それを正面から理解した」意味であるのは明らかである。だが、やや言葉足らずの印象を受ける。 実は、これに続いてもう少し具体的に書いてあったが、屈辱的な内容だから書紀に載せる段階で削ったとも考えられる。 それは、もしかしたら隋書において裴世清と会見した際の倭王の言葉(隋書(4)【其王与清相見】)。 「我聞三海西有二大隋礼義之国一。故遣二朝貢一。 我夷人僻二-在海隅一。不レ聞二礼義一」 に近い内容かも知れない。 《季秋薄冷》 小野妹子らが出発した十六年九月十一日は、グレゴリオ暦では10月28日にあたり、そろそろ晩秋である。 太陽太陰暦では秋は七~九月、〈倭名類聚抄〉では「七月:初秋。八月:仲秋。九月:季秋」となっており、 「季秋薄冷」は定型句としての九月の時候の挨拶と見られる。 古訓の「秘説」(もしくは最秘説)は、隋皇帝の書の「稍暄比」と同様に「季秋薄冷」も実質的な意味をもたない定型句と捉えて、コノコロとしたわけである。 「秘説」という書名は探しても見つからないので、どれかの研究流派の秘伝のことであろうかと思われる。 《謹白不具》 「謹白不具」は、不可解である。このまま読むと「謹んで不十分なことを申し上げる」だが、これでは全く意味をなさない。 恐らくは、「まだまだ言い尽くせませんが、これにて筆を置きます」という謙遜の結句であろう。 《遣於唐學生八人》
●倭漢(やまとのあや): 一般的には半島からの帰化民は漢人の末裔を自称したと見られている。 『国史大辞典』によれば、漢人(あやひと)の項に「おそらく四、五世紀ごろには、楽浪・帯方郡の遺民と称して渡来したものを一般に「あやひと」と呼んでいたと思われる。」とある。 倭漢は西漢とも表記し、阿知使主を始祖とする渡来族。「倭」は大和国を意味する。一方、東漢(かふちのあや)は王仁を祖とし、河内の族。 この族についてはいろいろな場所で述べたが、第152回【漢直】の項が、一番要領よくまとまっている。 倭漢福因は、〈推古〉三十一年に帰国した。 ●奈羅訳語: 〈姓氏家系大辞典〉によれば、〈欽明〉元年に帰化した秦氏の一族の己知部が{大和国・添上郡・山村郷}〈倭名類聚抄〉に住み山村己知部となり、 中国・韓国の語に通じ訳語を務めたので、奈良訳語とも呼ばれたとされる (〈欽明〉元年《己知部》)。 奈羅訳語恵明の名前が出て来るのは、ここだけ。書紀以外には見えない。 ●高向: 継体天皇の母の出身地として出てきた。〈倭名類聚抄〉に{越前国・坂井郡・高向【多加無古】郷}(継体即位前、 資料[20])。 但し、高向漢人については、〈姓氏家系大辞典〉に「坂上氏の族にして、こは河内国錦織郡高向村の漢人か」。 遺称は、大阪府南河内郡高向(たこう)小学校区で、旧高向(たこう)村。近くの光滝寺〔河内長野市滝畑117〕は、「欽明天皇の時、行満が開基」した(『日本歴史地名大系』〔平凡社1986〕)。 高向玄理は黒麻呂とも称し、以後〈舒明〉十二年〔640〕、〈孝徳〉大化元年~五年〔645~649〕に登場、そして白雉五年〔654〕に唐で客死した。 その没した年から見て、学生のときは青少年であったと思われ、これによって「学生」の古訓が「フムヤワラハ」であることがよく納得できる。 ●新漢人(いまきのあやひと): イマキは、奈良県吉野郡大淀町今木(大字)とも言われる。一方、〈雄略天皇紀〉には新漢らを真神原・上桃原・下桃原に移したとある。 〈崇峻天皇紀〉では飛鳥寺は真神原に建立したと述べ、また蘇我馬子を葬った「桃原墓」は石舞台古墳のことだと言われる。よって、その辺りが新漢の居住地だろうと見た (雄略即位前)。 ここで請安の南淵には坂田寺(次項)があることから、 寺僧や在家の仏教勢力の子弟が、隋への派遣に奮って応募したと考えてみる。 飛鳥寺を中心とする地域に、仏教振興の担い手として新漢人がいたと仮定すれば、学生8名のうち3名を新漢人が占めたのはごく当然である。 大淀町今木は、神武紀の祭祀の比定地で弥生の祭祀遺物が出土し、それはそれで由緒のある土地だが(『日本歴史地名大系』〔前出〕)、大寺院の形跡はない。 よって、イマキノアヤヒトの居住地が今木ではなく、飛鳥寺付近であったのは確定的である。 新漢人日文は、〈舒明紀〉・〈孝徳紀〉の「旻」であろう。"麻呂=麿"の場合と同じである。 旻は〈舒明〉四年〔632〕に帰国した。〈孝徳紀〉では沙門法師・釈僧などの肩書で呼ばれ、白雉四年〔653〕に死去した。 日文と旻はどちらかが誤記であろうと言われるが、案外、隋・唐にいる間に自ら改名したのかも知れない。 新漢人大国・新漢人広済は、名前が他には出てこない。ことによるとどちらかが〈舒明〉四年に「僧旻」とともに帰国した「学問僧霊雲」と、同一人物かも知れない。 ●南淵: 用明天皇に篤く仕えた鞍部多須奈は、天皇の病の快癒を願って寺の建立を誓った。その伝説をもつ寺が南淵坂田寺で、その遺跡が明日香村に残る。位置は島庄遺跡(蘇我馬子邸跡)と石舞台古墳に近い (用明二年《南淵坂田寺》)。 南淵請安の墓が、飛鳥川上流にある(「南渕先生之墓」寛文二年建立)。〈舒明〉十二年〔640〕に玄理(上述)とともに唐から帰国した「清安」と同一か。 ●志賀: 「志賀の高穴穂宮」は、成務天皇が坐 大寺院崇福寺があったところだが、同寺は天智天皇七年〔668〕の創建なので〈推古〉よりは随分後のことである。 しかし、この土地の漢人の仏教活動の結果として崇福寺の建立に至ったとも考えられる。〈推古〉の時代から崇福寺の前身、もしくは未発見の寺院がどこかにあった可能性は十分ある。 志賀新漢恵隠〔「慧」は「惠」の〈推古紀〉より前の表記と考えられる。〕は、〈舒明〉十一年〔639〕に帰国、同十二年に無量寿経を説く。〈孝徳〉白雉二年〔651〕には、聴衆1000人に無量寿経を説く。 慧隠もまた、「学生」として派遣されたときは青少年だったと見られる。 《大圀》 「唐圀号小野臣」の項でも述べたが、〈岩崎本〉は最古の写本とされている。 新漢人大国が武則天の頃まで生きていたことはあり得ないが、子孫が作った系図で使われていた「大圀」がそのまま書紀に取り入れられ、 〈岩崎本〉にはまだ古い字のままで残っていたが、後の写本において國に統一されたと思われる。 《新羅人多化来》 百済の工人、百済・高句麗の僧の到来は丁寧に書かれるが、新羅人の帰化についての記述は常に冷淡である。 《大意》 九月五日、 客人たちに、難波の大郡(おおごおり)で饗宴されました。 十一日、 唐の客人裴世清は辞して帰国しました。 そこで、再び小野妹子臣を大使、 吉士(きし)の雄成(おなり)を副使とし、 福利(ふくり)を通訳として、 唐の客人に同行させて派遣しました。 このとき、天皇(すめらみこと)は唐の皇帝に伺いの意を述べました。 その言葉はこれです。 ーー「東の天皇(すめらみこと)が謹んで西の皇帝に白(もう)します。 使者鴻臚寺(こうろじ)の掌客(しょうかく)裴世清らがおいでになり、 久しき思いはまさに解けました。 晩秋は日に日に冷え、尊台はいかにお過ごしでしょうか。 想いは清らかに喜ばしく、常の如きです。 今、大礼(だいらい)蘇因高 大礼乎那利(おなり)らを使者として派遣します。 謹しんで白しあげます。言葉は尽くせません。」 この時、唐の国に 学生(がくしょう)、 倭漢(やまとのあや)の直(あたい)福因(ふくいん)、 奈羅(なら)の訳語(おさ)恵明(えみょう)、 高向(たかむく)の漢人(あやひと)玄理(げんり)、 新漢人(あらきのあやひと)大圀(おおくに)、 学問僧新漢人(あらきのあやひと)日文(にちもん)、 南淵(みなふち)の漢人(あやひと)請安(しょうあん)、 志賀の漢人慧隠(えおん)、 新漢人広済(こうざい)ら、計八人を派遣しました。 この年、 新羅の人が多数帰化しました。 まとめ 隋は、長らく続いた分裂時代に終止符を打ち統一中国の時代を迎え、改めて周辺国との関係を再定義しようとする。それに対して、倭は仏教国としての国作りを急ぎ仏典の供給源を隋に求めようとする。 これについては、隋書倭国伝(4)のまとめで「太子が隋に使者を送った目的は、倭国内の仏教振興のために仏典の提供や学問僧の現地での修行などを通して、力を貸してほしいと要請するためであった。 ところが、隋は倭に対して朝貢国になれと言うのみで、最初から両者の思惑はすれ違っていた。」と述べた通りである。 書記が隋書を参考にしたことも多少はあっただろうが、 隋帝と倭王が往復した書は隋書に載らず書紀だけだから、日本の独自資料として確実に存在したわけである。〈推古〉十六年は、それを中心にして書かれている。 ここで書紀に書かれた内容は、隋書との間にかなりの整合性がある。 同じ〈推古紀〉の中でも、八年の新羅攻撃は史実性を著しく欠くが、それとは対照的に〈推古〉十五~十六年はかなり信頼できる。 大筋において、史実に相当近いところにあると見てもよいであろう。 特に書紀執筆時期の唐との外交関係への配慮があるとは言え、「朝貢」の文字をそのまま残しているのは驚きである。 この部分の原文執筆者には歴史への誠実さが見られるから、訓読においてもこれを真剣に受け止めるべきであろう。 その点、〈釈紀〉が「大唐の天子の書と雖も隠忌すべき処なり」というのはどうであろうか。 要するに「大唐の天子の書」の引用の中であっても天皇には尊敬表現を用い、天子には謙遜の言葉を用いさせよということであるが、それではもとの書が濁って文意が読み取りにくくなってしまう。 たとえ不都合な内容であってもありのまま残した原文作者の、そのせっかくの誠実さを損なうものとなろう。 もちろん、書紀には学究的な箇所もあるが、ひどく恣意的な部分や真偽不明な伝説も入り混じっている。 むしろ、だからこそ各部分の性格に相応しい読み方が求められるのではないだろうか。 |
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⇒ [22-07] 推古天皇4 |