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2021.08.08(sun) [22-03] 推古天皇3 

目次 【十二年四月】
《肇作憲法十七條》
夏四月丙寅朔戊辰。
皇太子親肇作憲法十七條。
憲法…〈岩崎本〔以下岩〕親肇 ハツクリキ/タマフ憲-法イツクシキ ノリ十七條トヲチアマリナゝヲチ
〈図書寮本〔以下図〕 ミツカラ ハシメ ツクリタマフ憲法イツクシキ十七條トヲチアマリナゝヲチ
〈内閣文庫本〔以下閣〕ミツカラハシメテツクリ玉フ憲-法イツクシキ十七條トヲチアマリナゝヲチ
いつくし…[形]シク 威厳がある。
を・をち…[助数詞] 〈時代別上代〉細長いもの。また細長く連なったもの(条文など)。
…[名] (古訓) えた。
夏四月(うづき)丙寅(ひのえとら)を朔(つきたち)として戊辰(つちのえたつ)〔三日〕
皇太子(ひつぎのみこ)親(みづから)肇(はじめて)憲法(けんほふ、いつくしきのり)十七条(とをあまりななを)を作りたまふ。
《憲法》
憲法 〈汉典〉①在一国之内、規-定国家体制、政府組織、人民権利義務的基本法、称為「憲法」。 ②法度。《国語、晋語九》「賞善罰姦、国之憲法也」
 汉典では「憲法」の第一義は国家の基本法とするが、これは<wikipedia>中国語版に 「現代的「憲法」的概念是従西方伝入。」とあるように、西欧において国の基本的な政体を宣言する法の訳語である。
 日本では、明治憲法の制定に向かう時代に、Verfassung(独)、constitution(英)の訳語に「憲法」があてられた。この訳語の決定にあたって「十七条憲法」が意識されたのは、間違いないと思われる。
 明治に訳語として用いた「憲法」が、清の時代の中国にも影響を与えたことも考えられる。 というのは、日本で訳語として、physics→物理学、philosophy→哲学、communism→共産主義などが造語され、それが本家中国語に取り入れられた例は多いからである。
 古代中国における「憲法」は〈汉典〉の②のように、法律や規範一般を表す。 和訓において、「」、「」ともにノリが用いられるのもこの意味であろう。
 ところが古訓「イツクシキノリ〔=厳格な法〕には、既に平安時代において十七条憲法を特別視する価値観が含まれている。 書紀が書かれた時点では「憲法」は単なる「きまり」だったのが、「太子の作った十七条の憲法」が神聖化していくのに伴い 「憲法」という語にもそれが及び、特別な語感を伴うようになっていったのだろう。
《条》
 の原意はエダ〔枝〕で、枝を数える助数詞エがある。また「条」にはスジの意味もある。 ヲは細長いものを数える助数詞で、「緒」の意と思われる。ヲチは、接尾辞チをつけたものと思われるが、不詳。
 〈推古三十一年秋七月〉には「小幡十二スチヲチ」とある。 ヲ〔緒〕、スヂ〔筋〕ならどちらも自然な語だが、ヲヂは成り立ちが分からず、ヲとスジが誤って混合した結果かも知れない。
《第一条》 要点の一覧
一曰。
以和爲貴、無忤爲宗。
人皆有黨亦少達者。
是以、或不順君父乍違于隣里。
然、上和下睦諧於論事、
則事理自通、何事不成。
一曰…〈岩〉一曰。 〈図〉一日。〈北野本〔以下北〕〉
…〈岩〉 /アマナヒヤハラアマナヒ カナル タフトシ。 〈図〉ヤハラキ。 〈閣〉 アマナヒヤハラキ
あまなふ…[自]ハ四 仲良くする。〈時代別上代〉アマの派生語。
…〈岩〉 サカフルコト ムネ。 〈図〉サカフル。 〈閣〉サカフルコト為宗〔さかふることなきをむねとす〕
…[動] (古訓) さかふ。そむく。たかふ。
有党…〈岩〉 アリテタムラ。 〈図・閣〉タムラ
亦少達者…〈岩〉…𡖋サトレルサトル-者。 〈図〉サトリ。 〈閣〉サトレルモノサトリ
君父…〈岩〉-カソ。 〈図〉君父 カソ 。 〈閣〉カソニ
君父…〈汉典〉①対父為国君者的称呼。②特称天子
一(ひとを)に曰(い)ふ。
和(やはらぎ)を以ちて貴(たふとき)と為(し)て、忤(さかふること)の無(なき)を宗(むね)と為(せ)。
人(ひと)皆(みな)党(ともがら)を有(も)ち亦(また)達(さとり)の者(ひと)少なし。
是(こ)を以ちて、或(ある)は君父(きみちち)に不順(したがはず)、乍(また)[于]隣里(となりさと)に違(たが)へり。
然(しかれど)も、上(かみ)に和(やはら)ぎ下(しも)に睦(むつ)びて[於]論(ことあげてら)ふ事を諧(かな)へば、則(すなはち)事理(ことわり)自(おのづから)通(とほ)らむ。
何(いかに)や事(こと)不成(ならざら)むか。
隣里…〈岩〉アルヰハヘリ隣-里トナリサトサトゝナリ。 〈図〉マタ違于隣-里サトゝナリ。 〈閣〉アマヰハマタ違于トナリサトゝナリサト
…〈岩〉下- ムツ カナフトキヒヌルトキハ アケツラフ一レ- コト カヨフ。 〈図〉然・上・下ムツヒ諧於論事 カナフルトキハ アケツラフ・則事-理 コト カヨフ 〈閣〉・下ムツヒテカナヒヌルトキハ・於アケツラム・則事-理 コト 通。
…[動] やわらぐ、やわらげる。かなう。ととのえる。(古訓) やはらく。かなふ。ととのふ。

《和》
 前回《岩崎本》の項で見たことから、「やはらぐ」は平安中期、「あまなふ」は室町時代の訓である。 いずれも、他の人と争わない方向に振る舞うことを意味する。
《人皆有党》
 「」は出身氏族や地域などによる派閥であろう。 皆、属する党に閉じこもり、殻を破って広く仲良くする者はなかなかいない。 それができる人物を「達者」というのである。
《論》
 倭語「あげつらふ」は書紀古訓がもっとも古い例で、上代に使われた確証はないようである。 恐らくはアグ+テラフ〔掲げて見せびらかす〕であろう。つまり、ことさらに持ち上げて見せつける。 これが意見を交わす意味に拡張されたと見られる。
《大意》
 四月三日、
皇太子(ひつぎのみこ)親(みづから)肇(はじめて)憲法(けむほふ、いつくしきのり)十七条(とをあまりななを)を作りたまふ。
――第一条
 和を以って貴きとし、逆らうこと無きを旨とせよ。
 人は皆党をなし、悟る人は少ない。 これにより、ある人は君父に順わず、また隣里と違える。
 しかし、上に和し下に睦み、論ずる事を調和させれば、事の理は自ら通り、 どうして事の成らぬことがあろうか。


【十二年四月(二)】
《第二条》
二曰。
篤敬三々寶々。
者佛法僧也。
則四生之終歸萬國之極宗。
何世何人、非貴是法。
人鮮尤惡、能教從之。
其不歸三寶、何以直枉。
篤敬…〈岩〉ヰヤマヘヰヤマフ。 〈図〉ヰヤマヒ
…〈岩〉トケ。 〈図〉佛法僧ホトケ ノリ ホフシ
…〈岩〉ウシ
四生…[仏] 生物の4つの生まれ方。胎生・卵生・湿生・化生。
〈岩〉ムマレ。 〈図〉ウマレノ
終帰…〈岩〉_ヲハリノヨリトコロ萬國_キハメ ムネナリ
非貴…〈岩〉何_ツキ〔ツギ〕何_人、サルタウトハ〔ノリ〕
…〈図〉ミノリ
…[形] すくない。めったにないから目立つさま。(古訓) すくなし。
〈岩〉テヤケゝレトモ尤悪ハナハタ〔アシキ〕モノ
〈図〉鮮尤悪能教從ハナハタアシキモノ オシフルヲモ
二(ふたを)に曰ふ。
三宝(さむはふ)を篤(あつ)く敬(ゐやま)へ。
三宝者(は)仏(ほとけ)法(のり)僧(ほふし)也(なり)。
則(すなはち)四生(ししやう)之(の)終(をへ)は万国(よろづのくに)之(の)極(きはまれる)宗(むね)に帰(つ)く。
何世(いつ)の何人(たれ)そ、是(この)法(みのり)をや貴(たふとぶること)非(あらざる)か。
人尤(はなはだ)悪(あしきこと)鮮(すく)なし、能(よ)く教(をし)へ之(こ)に従(したが)へよ。
其(それ)三宝(さむはふ)に不帰(よらず)ありて、何(なに)をか以ちて枉(まがれること)を直(なほ)すや。
…[副] (古訓) もとも。はなはた。
…〈岩〉ヲシフルヲモテヲシフルトキハ
したがふ…[自]ハ四。[他]ハ下二。
不帰…〈岩〉ヨラヨリマツラ
…[動] (古訓) よる。おもむく。かへる。つく。
…〈図〉マカレル
《篤敬三宝》
 仏法への帰依を具体的に奨めるのは、第二条のみである。 十七条憲法の基本的性格としては、群卿・百寮すなわち官僚組織の内部規律を保つ心得集である。
 しかし、早くも第二条で仏教が出てくることが、聖徳太子による制定という印象を強めるものとなっている。
《四生》
 四生は「ムマレ〔うまれ〕と訓まれるが、 仏教用語は音読みが多い。「四生の終」を「うまれのをわり」と訓むと、背景にある輪廻思想が弱まってしまう。
《万国之極宗》
 「万国之」という語が、仏教が天竺から唐、そして百済・高句麗を経て日本に伝わったとの認識によることは間違いないであろう。 極宗は、四生からその終わりまでの悩みを直視し、その問題意識をつきつめて生み出した思想であることを表している。
《直枉》
 「直枉」から連想されるのは、伊邪那岐命みそぎのシーンである。
 伊邪那岐命は、黄泉の国で穢れた体を川で浄めた。 その穢れた垢から出現したのが八十禍津日まかつひ神・大禍津日神で、それを直す神が神直毘なほび神・大直毘神であった (第43回)。 このように、枉(まがり)を直すという考え方は、神道のものである。  
 それに対して、仏教への帰依とは煩悩でいっぱいの身が修行を積んで解脱を目指すものであり、「枉を直す」という考えにはなじまない。 飛鳥時代には、まだ仏教を神道の延長線上で捉える傾向があったということであろう。 それは、飛鳥寺の仏舎利の副葬品に古墳文化の名残が見えることにも、同質のものを感ずる。
《第三条》
三曰。
承詔必謹。
君則天之、臣則地之。
天覆地載、四時順行萬氣得通、
地欲覆天則致壞耳。
是以、君言臣承、上下行靡。
故承詔必愼、不謹自敗。
承詔必謹…〈岩〉ウケタマハリテハミコトノ〔ツツシ〕
臣則地之…〈岩〉/ヤツカラマヲハヤツコラマ。 〈閣〉ヲハアメトスヤツコラヲハツチトス
天覆地載…〈岩〉天覆ノセラ〔テ?〕。 〈図〉オホヒノス。 〈閣〉ヲホヒノセテノス
四時…①四季。②朝昼夕夜。
四時順行…〈岩〉四-時順-ユキ。 〈内閣〉時順-ユキヲ テ〔オコナヒテ/ユキテ〕
万気得通…〈岩〉萬-シルシ カヨフコトヲ
地欲覆天…〈岩〉地欲トキハ〔ホフ〕天則イタサムヤフルゝコト■ラソノミ
君言臣承…〈岩〉ノタマフトキハヤツコラウ タマハル
上下行靡…〈岩〉上下行トキハナヒク。 〈図〉上行下ナヒク。 〈閣〉上行
…〈岩〉ソレ詔必ンハヲノツカラ。 〈図〉。 〈閣〉テム
三(みを)に曰ふ。
詔(みことのり)を承(うけたまは)りては必ず謹(つつし)め。
君(きみ)則(すなはち)之(こ)を天(あめ)とし、臣(おみ)則ち之を地(つち)とす。
天(あめ)覆(おほ)ひて地(つち)に載(の)せてこそ、四(よつ)の時順行(めぐりゆ)きて万(よろづ)の気(け)得(え)通(かよ)ふ、
地(つち)[欲]天(あめ)を覆(おほ)はむとせば、則(すなはち)壊(こぼつこと)を致す耳(のみ)。
是(こ)を以ちて、君言(のたま)ひて臣(おみ)承(うけたま)はり、上(かみ)は行ひて下(しも)も靡(なび)く。
故(かれ)詔(みことのり)を承はりては必ず慎め、不謹(つつしまざらば)自(みづから)敗(やぶ)れてむ。
《君》
 「」は明らかに天皇のことであるが、十七条憲法には「天皇」号を用いていないところが注目される。 これは、十七条憲法が「天皇」号開始以前の時代から存在した文書であり、かつ聖徳太子の神聖化とともに後から手を加えることが憚られる性質の文書であることを示すと見ることができる。
 なお、ここでは「君」をオホキミと訓読してもよいかも知れない。
《天之》
 「」は形式目的語で、直前の文字を動詞化する。
 従って、「君則天之」=「君即以是為」である。
《臣》
 オミは宮廷に仕える者。ヤツコは自らを遜って称する語だから臣が「ヤツコ」と称するのは一人称のときのみである。 ここでは臣に向かって心構えを説く文だから、古訓が用いたヤツコヤツコラマは不適切であろう。
 一人称のみに使う語を、誤って一般化したものと思われる。
《四時順行》
 「四時順行」とは、豪雨や旱魃などの極端な気象現象がなく四季が順調に経過するという意味であろう。  「順行」の古訓は「めぐりゆく」と思われるが、「〔こなふ〕」も併記されている。古訓には一文字目だけを記すことがしばしば見られ、興味深い。
《自敗》
 の古訓はオノヅカラであるが自然崩壊というよりも、一族が敢えなくも自滅したも同然であると読むべきであろう。 従って、ミヅカラと訓んだ方がよいと思われる。
《第四条》
四曰。
群卿百寮、以禮爲本。
其治民之本、要在乎禮。
上不禮、而下非齊、
下無禮、以必有罪。
是以、群臣有禮、位次不亂、
百姓有禮、國家自治。
群卿…〈岩/図〉群-卿マチキミタチ
百寮…〈岩〉 モモノ-寮。 〈図〉百寮ツカサ\/
…〈岩〉ヰヤマヒヰヤヒ/ヰヤ
要在乎礼…〈岩〉 ナラスイヤ
…〈図〉カナラス
非斉…〈岩/図〉トゝノホラ
…〈岩/図〉ツイテ
国家自治…〈岩〉-アメノシタ〔オノヅカ〕ラ〔ヲサマ〕
〈図〉アメノシタ マル
四(よを)に曰(いふ)。
群卿(まへつきみたち)百寮(もものつかさ)、礼(ゐや)を以ちて本(もと)と為(せ)。
其(それ)治民之(たみををさむる)本(もと)、要(かならず)[乎]礼(ゐや)に在り。
上(かみ)不礼(ゐやまはざれば)、而(しかるがゆゑに)下(しも)斉(ととのほ)ら非(ず)、
下(しも)無礼(ゐやまはざれば)、以ちて必ず罪(つみ)有り。
是(こ)を以ちて、群臣(まへつきみたち)に礼(ゐや)有らば、位(くらひ)の次(つぎて)不乱(みだらざらむ)、
百姓(みたみ、もものかばね)に礼有らば、国家(くにいへ、あめのした)自(おのづから)治(をさ)まらむ。
《群卿》
 群卿の古訓マチキミタチは、〈倭名類聚抄〉にも「大臣於保伊万宇智岐美オホイマウチキミ」とある。 マチキミマウチキミは、マヘツキミ〔前ツ君;ツは属格の助詞〕の音便と見られる。 タチについては、上代語にキムダチ〔王の一族、公達きんだちに通ずる〕があり、複数の称〔つまり「群-」〕である。
《位次不乱》
 「」の古訓ツイテは、ツギテの音便と見られる。
 自動詞ミダル[下二]に対応する他動詞は、上代はミダル[四段]とされる(〈時代別上代〉)。 
 その前の「」を、仮定条件と見れば「礼あらば~乱らざらむ」、 恒常条件なら「礼あれば~乱らず」と訓読することになる。 「憲法」だから話者の願望よりも事象を客観的に記述する文体の方が適すると考えれば、 恒常条件の方となる。 ただ、実際に已然形で訓んでみるとどうもインパクトが弱い。未然形にした方が「これが望ましい」という気持ちが強く感じられる。
《百姓》
 「百姓」は、貴族や群卿百寮を除く平民を指すとも考えられるが、むしろ宮廷に出仕する者を代表とする諸族と読んだ方が文意に合う。 語源的には「百の姓=それぞれの姓をもつ諸族の集合体」である。
 十七条憲法では、通常の「オホムタカラ」なる古訓が付けられていない。第十六条で見る「民」と同様に、 書紀以前の訓が一般的に存在していたように思われる。可能性の一つとしては、そのまま「ももつかばね」かも知れない。 あるいは音よみの「ひやくしやう」が既に一般化していたことも考えられる。
《第五条》
五曰。
絶餮棄欲、明辨訴訟。
其百姓之訟、一日千事、
一日尚爾、況乎累歲。
〔須〕治訟者、得利爲常、
見賄聽讞。
便有財之訟、如石投水、
乏者之訴、似水投石。
是以、貧民則不知所由、
臣道亦於焉闕。
絶餮棄欲…〈岩〉 アチハヒヲアチハヒノムサホリ ステ タカラタカラホシミ
〈図〉アチハヒノムサホリタカラノホシミ
…[動] むさぼる。あるだけ食べつくす。(古訓) むさほる。
明弁訴訟…〈岩〉タメ/ワキマヘヨ 訴-訟ウタヘ。 〈図〉 ヨ訴-訟ウタヘ
一日千事…〈岩〉一-日ヒトヒ-ワサアリ 一- スラ況乎 テヲヤ〔一日すら尚(なほ)爾(しか)り、況(いはん)や歳を累(かさ)ねてをや〕
〈図〉一日千 アリ一日 スラ ル況乎カサネテ■ヤ
すら…[助] 主に大言に接して逆説的な状態を示し、裏返しに恒常的なことを導く。
頃治訟者…〈岩〉コノコロ ヘテ 須ク訟  モノヒトゝモクホサ シ常  マヒナヒキクコトワリマウス。 〈図〉須治訟者
…[名] 〈図〉クホサ
くほさ…[名] 利益。
まひなふ…[他]ハ四 賂(まひなひ)を贈る。
…[名] 裁判。かどめ正しくものを言う。
有財之訟…〈岩〉アルモノゝ財之訟如 モテナクル一レ水 乏-ヒトトモシキモノゝ 之訴ニタリ水投一レ
…[動] (古訓) にたり。
貧民…〈岩〉貧民マツシキオホムタカラ
所由…〈岩〉センスヘ
臣亦…〈岩〉ヤツコ道𡖋扵-コゝカケヌ
五(いつを)に曰ふ。
餮(むさぼり)を絶(た)ち欲(ほりすること)を棄(う)て、明(あきらけく)訴訟(うたへ)を弁(わきた)め。
其(それ)百姓(みたみ、もものかばね)之(が)訟(うたへ)、一日(ひとひ)に千(ひとちち)の事(わざ)あり、
一日(ひとひ)すら尚(なほ)爾(しか)り、況乎(いはむや)歳(とし)を累(かさ)ぬるをや。
頃(このごろ)〔須(すべからく)〕訟(うたへ)を治(をさ)むる者(もの)は、利(かが、くほさ)を得(うる)を常(つね)と為(し)、
見賄(まひなはえ)て讞(わきため)を聴(き)く〔べし〕
便(すなはち)有財(たからをもてるひと)之(の)訟(うたへ)、石(いし)もて水に投ぐるに如(に)たり、
乏者(とぼしきひと)之(の)訴(うたへ)、水もて石に投ぐるに似たり。
是以(こをもちて)、貧(まづしき)民(たみ、おほみたから)則(すなはち)所由(よし)を不知(しらず)、
臣(おみ)の道亦(また)[於]焉(ここに)闕(か)けり。
《絶餮棄欲》
 古訓は「:あぢはひ〔味わい〕、あぢはひのむさぼり〔貪り〕」、「:たから〔財〕ほしみ」。すなわち、美食を貪り、財産をがめつく求めると読む。 古訓は拡張的に意訳されており、これは平安時代に十七条憲法が広く読まれていたことの現れであろう。
《頃・須》
 「〔このごろ〕、別本の「〔すべからく〕はどちらでも文意が通じ、決め難い。
《見賄聴讞》
 「」の古訓「」は不適切である。「」は受け身の助動詞で、賂を贈られたと読むのが妥当。 「聴」は「聴政」など、統治する意味もある。「讞」は判決の意味だから、主語は裁判官で「賄賂を贈られ判決を下す」意味となる。 このことから「訟者」=裁判官であることが明らかとなる。
《如石投水/似水投石》
 石を水に投げ込めば水は大きく乱れるが、水を石に投げつけても石は微動だにしない。 財力によって裁判の結果が左右される現状を述べる。もちろん、これは許されないと第5条はいうのである。
《臣》
 「」をヤツコと訓むことの誤りは、前述した。 ただ、オミには多くの場合美称のニュアンスを伴う。
 この条文は、裁判官としての臣の心得を言う。この場合の臣は上から裁く立場だから、ますますオミであろう。
《大意》
――第二条
 三宝を篤く敬え。 三宝とは、仏法僧をいう。
 すなわち四生(しじょう)の終わりは万国の究極の宗に帰す。 いつの世の誰が、この法を貴ばずにおれよう。
 人は最も悪い人はわずかである。よく教えて従わせよ。
 三宝に依らずして、どうやって曲がりを直すのか。
――第三条
 詔(みことのり)を承れば、必ず慎んで受けよ。
 君はこれを天とし、臣はこれを地とする。 天が空を覆って地が戴いてこそ四時は順行し、万気が通い得る。
 地が天を覆おうとすれば、破壊に至るのみ。 これによって、君が宣(のたま)い臣は承り、上が行い下は靡(なび)く。
 よって、詔を承れば必ず慎んで受けよ。さもなければ自ら敗れよう。
――第四条
 群卿や百寮は、礼を基本とせよ。
 民を治める基本は、必ず礼にある。 上に礼なければ下は整わず、 下に礼なければ必ず罪となる。
 よって、群臣に礼があれば位の秩序は乱れず、 百姓に礼があれば国家は自ら治まるだろう。
――第五条
 貪(むさぼ)り食うことを絶ち欲求を棄て、明晰に訴訟を指揮せよ。 百姓(ひゃくせい)の訴えは、一日に千件あり、 一日すらその有様なのに、況(いわん)や歳を重ねてをや。
 この頃は〔(ある書では)須(すべか)らく〕訴えを裁く者は、利益を得ることを常とし、 賂(まいない)を受け弁論を聴く。 財をもつ人の訴えは石を水に投げこむようなものであり、 貧乏な人の訴えは水を石に投げつけるようなものである。
 このように、貧民はなすすべを知らず、 臣の道はまたここにも欠けている。


【十二年四月(三)】
《第六条》
六曰。
懲惡勸善、古之良典。
是以、无匿人善、見惡必匡。
其諂詐者
則爲覆國家之利器、
爲絶人民之鋒劒。
亦、侫媚者、
對上則好說下過、
逢下則誹謗上失。
其如此人、
皆无忠於君、无仁於民、
是大亂之本也。
懲悪勧善…〈岩〉コラシアシキホマレ。 〈閣〉コラシアシキヲアシキコトヲ
こる…[自]ラ上ニ 懲りる。
良典…〈岩〉ヨキ-ノリ
无匿人善…〈岩〉カクスコトホマレ悪必タゝセ
〈閣〉ナク ス コトカクサ〔かくすことなく/かくさず〕タゝス
諂詐者…〈岩〉 ヘツ-詐者 アサムクモノハ。 〈閣〉ヘツラヒ-サムク
…[動] へつらう。
覆国家…〈岩〉 クツ- アメカ下 -器-鋒釼スクレタルツルキ トキ ツルキ。 〈閣〉クツカヘス人-民ヲムタカラヲ
くつがへす…[他]サ四 覆す。
侫媚者…〈岩〉カタマシク-媚カタミ コフムカイ上則好トキアヤマリ アフ下則-ソシルアヤマ。 〈閣〉カタマシクコフル。 〈図〉コノム
かだまし…[形]シク 心がねじれている。 
利器…鋭い武器。
如此人…〈岩〉コレラノ
…〈岩〉■■■シサ。 〈図〉イサヲシキ
…〈岩〉メクミ
大乱…〈岩〉ナル
六(むを)に曰ふ。
悪(あしき)を懲(きた)み善(ほまれ)を勧(すすむ)は、古(いにしへ)之(の)良(よ)き典(みのり)なり。
是(こ)を以ちて、人の善(ほまれ)を匿(かくすこと)无(な)く、悪(あしき)を見てば必ず匡(ただ)せ。
其(それ)諂(へつら)ひ詐(あざむ)ける者(もの)は、則(すなはち)
国家(あめのした)を覆(くつがへ)せる[之]利器(ときつはもの)と為(な)り、
人民(みたみ、おほみたから)を絶(た)てる[之]鋒剣(ほこつるぎ)と為(な)らむ。
亦(また)、侫(かだま)しく媚(こ)ぶる者(もの)は、
上(かみ)に対(むか)ひて則(すなはち)下(しも)の過(あやまち)を説(とくこと)を好(この)み、
下(しも)に逢(あ)ひて則ち上(かみ)の失(あやまち)を誹謗(そし)る。
其(それ)如此(かくなる)人は、
皆(ことごとく)[於]君(きみ)に忠(いさをしき)无(な)く、[於]民(みたみ、おほみたから)に仁(めぐみ)无(な)し、
是(これ)大(おほきなる)乱(みだり)之(の)本(もと)也(なり)。
《懲》
 「こる」は上二段活用で、現代語の「懲りる」となる。 古訓の「コラシ」は、他動詞のコル〔四段〕に、動詞語尾〔四段〕がついた形である。 は軽い尊敬であるが、コラシムに似るから使役かも知れない。
 古訓コラスがあるから、平安時代には使われていたが、『現代語古語類語辞典』は上代語に入れている。 ただ〈時代別上代〉によると、コル[四段]は「受け身の助動詞ルの接した形の一例のみ」という。 従って、コラスが上代まで遡るかどうかは不明である。
 同じ「懲らしめる」意味の語に、キタムがある。 キタム[下二]は、〈続紀〉延暦八年〔789〕の詔に「支多米賜倍久〔きためたまふべく〕により、奈良時代後半まで遡ることができる。 〈皇極紀-三年七月〉の歌謡「宇智岐多麻須母〔うちきたますも〕は、キタム[四段]の未然形+動詞語尾である。 だから、飛鳥時代にはキタム[四段]があったと見ることができる。従って、上代語の訓みとしてはコラスよりキタムの方が確実である。
《其》
 文頭の「」は時には何らかの強調を伴うようだが、形式的に付けることも多いようである。 漢文には句読点がないから、しばしば文の境界を明確に示すために置いたと思われる例が見られる (魏志倭人伝をそのまま読む(47)【「其」の文法】)。
《利器/鋒剣》
 第六条では、諂(へつら)ひ詐(あざむ)く者の危険性を語るのに、かかる人物は国家を覆す利器であり人民を絶つ鋒剣であると述べる。 その「鋒剣」への古訓「スグレタルツルギ」は、あまりにも不適切である。 「すぐる」は上代から「優る」意で、誉め言葉である。 人民の命を絶つ危険なタイプの人物を責める文脈において、このような褒め言葉を用いて形容することはあり得ないだろう。
 この訓は、文脈を見ず熟語を孤立的に解釈してしまった故であろう。 この一例だけをとっても、古訓を無批判に受け入れて訓読すればそれでよしとするのは、無気力な態度と言えよう。
 「利器=鋭利な武器」の方は、「利し」の意味が「聡し」なら不適切だが、 単に物理的な性質〔よく切れる〕なら価値観を伴わない語として理解し得るから、ぎりぎりセーフであろう。
《第七条》
七曰。
人各有任、掌宜不濫。
其賢哲任官、頌音則起、
姧者有官、禍亂則繁。
世少生知、剋念作聖。
事無大少、得人必治、
時無急緩、遇賢自寛。
因此、國家永久社稷勿危。
故古聖王、
爲官以求人、爲人不求官。
有任…〈岩〉ヨサシ
よさし…[名] 任務。「ヨスの未然形+軽い尊敬の動詞語尾ス」の連用形の名詞化。
掌宜不濫…〈岩〉ツカサトルコト シ クミタレ〔よろしくみだれざるべし〕
賢哲…〈岩〉-サカシヒトヨサトキハ頌-ホム音則ヲコル
頌音(頌声)…人の徳や功績を褒め称える声や歌声。
姦者…〈岩〉姧-者カタマシキヒトタモツキ■ワサハヒ-ミタレ シ
生知…〈岩〉スクナシナカラシル人
剋念作聖…〈岩〉ヨクトキニオモ ナル ト 〔冠(かうぶ)るときに/剋(よく) 念(おも)ひ聖(ひじり)と作(な)る〕
…剋の異体字。
…[副] (古訓) よく。
大少…〈岩〉■サゝケキヲホイナリイサゝケト 私
いささけし…[形]ク 僅少である。
急緩…〈岩〉トキ-ヲソキトアフサカキヒト ユルフユルキユタカナリ
国家…〈岩〉-クニアメノシタ 永-久/トコメツラニシテ -イヱクニ  シ ス コトアヤウカラ
…〈岩〉キミ
不求官…〈岩〉人不モトメタマ
為人…「為人」は「ひととなり」訓むことが多いが、ここでは前文の「」に並列して「人の為(ため)に」である。
七(ななを)に曰ふ。
人各(おのもおのも)任(よさし)有り、掌(つかさどること)宜(よろしく)不濫(みだれざる)べし。
其(それ)賢哲(さかしきひと)官(つかさ)に任(よさ)して、頌音(ほまれ)則(すなはち)起(お)く。
姦者(かだましきひと)官(つかさ)を有(たも)ちて、禍(わざはひ)乱(みだれ)則ち繁(しげ)し。
世に生まれながらに知るひと少なく、剋(よく)念(おも)ひ聖(ひじり)と作(な)る。
事(こと)に大(おほきなり)少(いささけき)と無く、人を得て必ず治(をさ)め、
時に急(とき)緩(おそき)と無く、賢(さかしきひと)に遇(あ)ひて自(おのづから)寛(ゆる)ふ。
此(こ)に因りて、国家(あめのした)永く久しく社稷(くにいへ)勿危(あやぶむことなし)。
故(かれ)古(いにしへ)の聖(ひじり)の王(きみ)、
官(つかさ)の為(ため)に[以ちて]人を求(もと)め、人の為に官(つかさ)を不求(もとめたまはざ)りき。
《宜》
 「」の右下に、左下にの送り仮名が付くのは、「よろしく」、「べし」と再読することを示している。
 この訓点は、十五世紀のものかと思われる。影印本〔京都国立博物館;2013〕の解説によると、 訓点は、平安中期・院政期・室町の三種類が加えられ、そのうち室町の訓点は奥書から宝徳三年〔1451〕、文明六年〔1474〕と考えられている。 室町時代ではあるが、平安中期の訓点〔朱書〕を尊重して補足したものとなっている。
《爲官以求人》
 「以求人」の「」は「不求官」と字数を揃えるために付けたものだから、特に訳出する必要はないだろう。
 ここでは「為官以求人。為人不求官」、すなわち人事とは定められた役職に適材を配するものであって、 或る人物を優遇するためにわざわざ役職を作るのは本末転倒であるという。
《第八条》
八曰。
群卿百寮、早朝晏退。
公事靡盬、終日難盡。
是以、遲朝不逮于急、
早退必事不盡。
早朝晏退…〈岩〉 マヰリ オ 退マカテヨマカツ 〔は〔やく〕まゐり お〔そく〕まか〔り〕でよ〕
まかりづ…[自]ダ下二 貴人のもとから退出する。
公事…〈岩〉ヲホヤケ- ワサ
靡盬…〈岩〉-ナシ イトマイトナシ
…[動] ない。
…[名] 岩塩。岩塩のとれる池など。[形] もろい。あらい。(古訓) もろし。
()…[名] NaCl。
もろし…[形] もろい。はかない。
いとま…[名] ひま。時間のゆとり。
終日…〈岩〉ヒメモスニ シ シ
ひねもす…[副] 終日。ヒメモスとも。
遅朝不逮…〈岩〉マイルトキハ スルトキヲヨハスミヤケキナルニ■ヤク退マカルト■■。 〈図〉スミヤカナル退 トキハ
八(やを)に曰ふ。
群卿(まへつきみたち)百寮(ももつかさ)、早く朝(まゐ)で晏(おそ)く退(まかりで)よ。
公事(おほやけのわざ)に盬(もろきこと)靡(な)く、終日(ひねもす)尽(つく)し難し。
是(こ)を以ちて、遅(おそ)く朝(まゐ)らば[于]急(すみやかなること)に不逮(およばず)、
早く退(まかりで)ば必ずしも事(わざ)不尽(つきず)。
《早朝晏退》
 この条が設けられたのは、こう言っておかないと遅刻・早退をする不心得者が出てくるからであろう。 普通の職場の雰囲気が感じられ、何となく親近感を覚える。
《盬》
 は、もともと岩塩を意味し、精製する前の粗塩アラシホの結晶の崩れ易い様から、 形容詞モロシに転じたようである。 「盬悪こあく〔=粗悪〕という語があるように、劣ったイメージがある。 よって、「公事靡盬」とは、公の事には粗悪な仕事などないという意味となる。
 古訓「いとま(暇)なし」でもそれなりに意味は通るが、原文とは全く内容が異なる。 古訓者は「盬」という字の意味を実は調べきれず、大体当てはまりそうな読み方をしたかと思われる。
《第九条》
九曰。
信是義本、毎事有信。
其善惡成敗、要在于信。
群臣共信、何事不成。
群臣无信、萬事悉敗。
信是義本…〈岩〉マコトコトワリ本 毎アレ ヘシ
其善悪…〈岩〉  レ善悪ヨサ アシキ ササ ヨサ アシサ 成敗ナリ ナラヌナラス
-さ…[接尾語] 形容詞の語幹につけ、名詞化する。
共信…〈岩〉共- アラ〔信アラバ〕 -事
悉敗…〈岩〉ワサヤフレナム
九(ここのを)に曰ふ。
信(まこと)是(これ)そ義(ことわり)の本(もと)なる、事(わざ)毎(ごと)に信(まこと)有れ。
其(それ)善(よし)悪(あし)、成(なる)敗(やぶる)は、要(かならず)[于]信(まこと)に在り。
群臣(まへつきみたち)共に信(まこと)あらば、何(なに)の事(こと)か不成(ならざらむ)や。
群臣信(まこと)无(な)からば、万事(よろづのわざ)悉(ことごとく)敗(やぶ)れてむ。
《事》
 の古訓ワザは、事柄・行為を意味する和語で、コトと変わらない。 ただ「万事悉」=「ヨロヅノコトコトゴトク」はあまり優雅でないので、古訓ワザを用いておく。
《成敗》
 「成敗」の古訓はナルナラヌであるが、それぞれが後文の「何事不成〔反語文〕と、 のそれぞれが「万事悉敗」に対応するから、最初の「」もヤブルと訓んだ方がよいだろう。
《共信》
 「群臣共」の""は、次の「群臣无信」と揃えるために入れたもので、殆ど意味はない。
《大意》
――第六条
 懲悪勧善は、昔の良い法典である。 これを用いて、人の善を隠さず悪を見たら必ず正せ。
 諂(へつら)い欺く者は、 国家を覆す鋭利な刃物となり、 人民を絶つ鉾剣(ほこつるぎ)となろう。
 また、心ねじれて媚びる者は、 上に向かえば下の誤りを説くことを好み、 下に逢えば上の過失を誹謗する。
 このような人は 皆、君に忠なく民に仁なく、 大いなる乱れの元である。
――第七条
 人にはそれぞれの任務があり、職掌を濫用(らんよう)しないようにせよ。
 賢哲を官に任ずれば、頌声(ひんせい)〔=褒め称える声〕が沸き起こる。 姦人(かんじん)〔=心ねじれた人〕が官を続ければ、禍いや乱れが頻繁となろう。 世に生まれながらに知る人〔=聖人〕は少なく、剋念〔=よい心がけ〕により聖人に成長する。 事の大小によらず、賢人を得れば必ず治まり、 時の緩急によらず、賢人に遇えば自ずから平穏となろう。
 これにより、国家は永遠で、社稷(しゃしょく)〔=国家〕に危うさはなくなる。 ちなみに、古(いにしえ)の聖王は、 官のために〔役職に適する〕人を求めたのであって、人のために官〔役職を作ること〕を求めなかった。
――第八条
 群卿(まちきみたち)百寮(ももつかさ)は、早く出勤し、遅く退出せよ。
 公事に脆(もろ)いこと〔容易にこなせること〕などなく、一日かけてもやり尽くすことは難しい。 よって、遅く出勤したのでは急ぎに間に合わず、 早く退出したのでは要件をやり尽くせない。
――第九条
 信はこれこそ義の元で、事毎に信がある。
 善悪や成否には、必ず信がある。 群臣(まちきみたち)に共に信があれば、成らぬことなどあろうか。 群臣に信なければ、万事は悉く敗れるであろう。


【十二年四月(四)】
《第十条》
十曰。
絶忿棄瞋、不怒人違。
人皆有心、々各有執、
彼是則我非、我是則彼非。
我必非聖、彼必非愚、
共是凡夫耳。
是非之理、詎能可定。
相共賢愚、如鐶无端。
是以、彼人雖瞋、還恐我失。
我獨雖得、從衆同舉。
絶忿棄瞋…〈岩〉タチ忿コゝロノイカリオヘリノイカリ 私オモヘリノイカリ/ヲモミイカリ  サ〔怒らざれ〕。 〈図〉忿ココロノイカリオモテノイカリオモヘリ   
忿…[動] (古訓) ここるやむ。ねたむ。いかる。うらむ。
…[動] (古訓) いかる。はらたつ。
人違…〈閣〉タカフヲ
…〈岩〉 ルコト〔とれること〕
是非…〈岩〉彼-ヨムスレ則我-アシアシム我-ヨミスレ則彼-アシアシンス
…[名] (古訓) よし。なほし。
凡夫耳…〈岩〉-タゝヒトヲクノミ
ただひと…[名] 平凡な人。世の常の人。
是非之理…〈岩〉是非ヨサ アシサノヨク アシキコトワリ。 〈図〉是非之ヨミシ アシムスル コトワリ
賢愚…〈岩〉カシコク- ナルコト シミゝカネ一レハシ
…[名] ゆびわ。みみわ。(古訓) みみかね。たまき。
たまき…[名] 手首に巻く玉のつい金属の腕飾り。クシロとも。
みみがね…[名] 〈現代語古語類語辞典〉[中世]。
恐我失…〈岩〉ヲソレヨアヤマチ
従衆同挙…〈岩〉モロ\/同-ヲコナヘオコナヘ。 〈図〉マコナヘ
十(とをを)に曰ふ。
忿(いきどほり)を絶(た)ち瞋(いかり)を棄(す)て、人の違(たがへるところ)を不怒(いかるな)。
人皆(みな)心を有(も)ち、心各(おのもおのも)執(とれるところ)を有(たも)ち、
彼(かの)是(よしみ)則(すなはち)我(わが)非(あしみ)なりて、我が是則ち彼の非なり。
我(われ)必(かならず)しも聖(ひじり)に非(あら)ず、彼(かれ)必しも愚(おろか)に非ず、
共に是(これ)凡夫(ただひと)なる耳(のみ)。
是非之(よしみあしみする)理(ことわり)、詎(なにそ)能(よ)く定(さだむること)を可(ゆる)すか。
相(あひ)共に賢(さか)しく愚(おろか)なりて、鐶(くしろ)の端(はし)无(な)きが如し。
是(こ)を以ちて、彼(かの)人を雖瞋(いかれど)、還(かへ)りて我が失(あやまち)を恐りよ。
我(われ)独(ひとり)雖得(えども)、衆(もろもろのひと)に従ひ同(とも)に挙(おこ)なへ。
《忿・瞋》
 忿は、『例文仏教語大辞典』〔小学館;1997〕によると、 法相宗が説くのは「大煩悩」として、貪・・痴・慢・疑・悪見。 「随煩悩二十」として、忿・恨・覆・悩・慳・嫉・誑…〔以下略〕が見える。
 根本にあるのが「大煩悩」で、そこから派生する多くの煩悩を「随煩悩」と呼ぶようである。
 第十条は、仏法の教義を説くというよりは、怒りを相手にぶつける前に自分を顧みよという心得である。 そのイカルの表記として、仏教用語の文字を用いたということであろう。
《如鐶无端》
金製耳飾 金・銀製。熊本県和水町江田船山古墳出土。全長14.9cm、6.7cm。古墳時代(5~6世紀) 腕輪 金・銀製。奈良県橿原市川西町新沢千塚126号墳出土。外径6.7×7.1cm。古墳時代
研究情報アーカイブズ
 「」は「環」に通じ、輪になった装身具で、金偏だから金属製である。 図は耳飾りで、出土した江田船山古墳は、銀象嵌銘鉄剣で有名である(資料[28])。 図は腕輪で、出土した新沢千塚古墳群(橿原市北越智町・川西町)126号墳からはペルシャのガラス碗なども出土し「地下の正倉院」とも言われる。
 古訓ミミカネは図の類がイメージされたと考えられる。しかし、文意に合う形は右側の腕飾りである。 ということは、訓はクシロタマキ〔手纏〕の方が適切かと思われる。
 は棒の両端のような排他的な概念ではなく、鐶のように連続しているという。 つまり、賢策は異なる立場から見れば愚策になり得ることを、どこまで行っても限りのないリングに喩えている。
《彼人雖瞋》
 「彼人雖瞋還恐我失」は自分が叱られたときに反発せず自分の失策を反省せよとも読める。 しかし、冒頭で「人違〔人が自分と違っていても怒るな〕 というから、人を怒りたくなった時は、その前にまず自分自身を振り返れという意味である。
 「」という語は、後者を感じされる。前者なら「不抗」などを用いると思える。 従って、「彼人」は受事主語〔行為の対象を主語として置く〕である。
《我独雖得》
 「我独雖得従衆同挙」、すなわち自分のアイディアが優れていると思っても、協調性を崩すなという。 常に相手の考えの方が優れている可能性があることも頭に入れて、対等な仲間として付き合うのがよい。
《第十一条》
十一曰。
明察功過、賞罰必當。
日者賞不在功、罰不在罪。
執事群卿、宜明賞罰。
明察…〈岩〉アキラカニモ-イサミ-ツミアヤマリ――二 ツミナヘツミナノタマモノ/アテムアタル
つみなふ…[他]ハ下二 罪に服させる。〈時代別上代〉四段のツミナフ〔他動詞〕に対して、使役の意が強いようである。
日者…〈岩〉/コノコロヒコロ
賞不在功…〈岩〉賞不オイテセ■サミツミナヘ。 〈図〉タマモオイテセ
執事…〈岩〉-〔事を執れ〕。
賞罰…〈岩〉 シ ク賞罸タマモノ ツミナヘ
十一(とをあまりひとを)に曰ふ。
明(あきらけ)く功(いさみ)過(つみ)を察(み)て、賞(たまもの)罰(つみなへ)を必ず当つ。
日者(このごろは)賞(たまもの)功(いさみ)に不在(おきてせず)、罰(つみなへ)罪(つみ)に不在(おきてせず)。
事(わざ)を執(と)れる群卿(まへつきみたち)、宜(よろしく)賞(たまもの)罰(つみなへ)を明(あきら)め。
《第十二条》
十二曰。
國司國造、勿斂百姓。
國非二君、民無兩主。
率土兆民、以王爲主。
所任官司、皆是王臣。
何敢與公、賦斂百姓。
国司国造…〈岩〉國-ミコトモチクニ-ツコ ヲサメトルヲサメトラ百姓
…[動] あつめる。税金を搾り取る。(古訓) をさむ。をさめとる。
非二君…〈岩〉アラ/ナシ二君アルシ
率土…〈岩〉-クニノウチ -〔オホムタカラ・キミ・アルシ〕
任官司…〈岩〉-ヨサ -ミコトモチツカサ\/
王臣…〈岩〉キミ-ヤツコナリ
賦斂…〈岩〉-ヲサメトラム百姓
十二(とをあまりふたを)に曰ふ。
国司(くにのつかさ)国造(くにのみやつこ)、百姓(みたみ、もものかばね)より勿斂(〔みつきを〕なをさめとりそ)。
国に二君(ふたりのきみ)非(あらず)、民(たみ)に両主(ふたりのあろじ)無し。
土(くに)の兆民(おほみたから、あまたなるたみ)を率(ひきゐ)るは、王(きみ)を以ちて主(あろじ)と為(す)。
所任(よささえし)官司(つかさつかさ)、皆(みな)是(これ)王(きみ)の臣(おみ)なり。
何(なに)そ敢(あ)へて公(おほやけ)に与(あづか)り、百姓(みたみ、おほみたから)より賦(みつき)を斂(をさめと)るか。
《国司・国造》
 「国司」が始めて本格的に使われたのは、孝徳天皇の大化元年〔645〕である。 同年八月に東国の国司に発した詔があり、その権限や性格を比較的具体的に定めている。
 特に注目されるのが、次の部分である。
 「若有名之人、元非国造伴造県〔主〕稲置而輙詐訴言、自我祖時此官家二上是郡県、汝等国司不詐便牒於朝、審得実用而後可申。
〔若し名を求める人有りて、元より国造・伴造・県主・稲置に非ずして詐(いつは)り訴(うた)へて言はく 「我が祖の時より此れ宮家に領(あづか)り是の郡県(こほりあがた)を治めり」といひへども、 汝等(いましら)国司、詐(いつはり)の隨(まにま)に便(たやすく)朝(みかど)に牒(まをすこと)を得ず、審(つまひらかに)実(まことに)用ゐることを得て後に申す可し〕
 すなわち、国造・伴造・県主・稲置を自称して公認を求める者がいるが、 その言のまま安易に牒〔報告書〕を上げず、詳細に調べてからにせよという。
 もともと国造伴造県主稲置は、地方を領する王を中央政権が地方官として追認した名目上の称号と思われる。 国造本紀や〈延喜式-祝詞〉の「六県」(第195回《五村苑人》)から見て、郡程度の規模であったと見られる。 これらは飛鳥時代前半までと思われ、以後地位としては消滅するが、姓として残るわけである。
 そして大化の改新において、新たに直轄の官として国司が定められる。 国司の称は大宝律令〔701〕でも維持され、四等官(かみすけじょうさかん)の総称となる。
 「国司」の始まりが大化元年〔645〕頃だとすれば、十七条憲法の成立はそれ以後である。
 書紀にはそれ以前に、〈雄略天皇記〉の「任那国司」、〈清寧天皇記〉の「播磨国司」、 〈崇峻天皇紀〉の「河内国司」」が見えるが、伝説的で時代を遡って称を用いたものと思われる。
 十二条で「国司国造」と並列するのは、国司に切り替えた直後を物語っている。
 ただ、大化二年の詔は「東国」の国司が対象なので、畿内などでは既に「国司」の称が始まっていた可能性もあるが、 それにしても推古十二年〔604〕と大化元年〔645〕では間隔が長すぎる。 十七条憲法は650年前後に成立したものを聖徳太子作として崇高化したか、または十二条は後から付け加えたと考えるのが妥当かも知れない。
《斂》
 は、集まる・集める意であるが(収斂)、特に税を取り立てる意味がある。「賦斂」ともあるから、この意味であろう。 すなわち、朝廷と国造による二重徴税、もしくは朝廷に上納する税の中抜きを非難する。
《国非二君》
 国司および国造は朝廷から遣わされたみこともちであって、地方権力をもつ王であってはならないという。 だから、「国非二君。民無両主」とは、領民が仕える君は大王のみであって、地方の王ではないという意味である。
 すると「国司国造」という言い方からは、国造=王を、国司=宰に置き換えたというニュアンスも取れる。 ならば、やはり少なくとも十二条は大化の改新の時期かと思える。
《第十三条》
十三曰。
諸任官者、同知職掌。
或病或使、有闕於事。
然、得知之日、和如曾識。
其以非與聞、勿防〔妨〕公務。
任官者…〈岩〉官-者ヨサセル  ツカサヒト 
職掌…〈岩〉-ツカサトリコトノ ツカサコト 
或病…〈岩〉ヤマイ■シ使アリキヲコタルコトニ 〔シカレト〕エムシルコト
〈図〉或或〔ママ〕〔ヤマ〕ヒシ使ツカヒシ
〈閣〉ヤマヒマウシキ ヒシ使 アリキツカヒシテシル之日ニハ
…〈岩〉アマナフコトクニセヨ/インサキヨリ  ムカシ  。 〈図〉イムサキヨリ
いむさき…[名] むかし。かつて。
以非与聞…〈岩〉サルナシト云フ テアツカリ-コト 勿-防フセキソ公-マツリコト
〈図〉 イフ アツカリ勿防ナサマタケソ
〈閣〉 テナシトイフイフコトヲアツカリキクコト -防ナサマタケソ公-務マツリコトヲ
…[動] (古訓) ふせく。さまたく。
十三(とをあまりみを)に曰ふ。
諸(もろもろの)任(よさせる)官(つかさ)者(は)、同(ともに)職掌(つかさどりこと)を知れ。
或(あるは)病(やまひ)して或は使(つかひ)して、[於]事(こと)に闕(かくること)有り。
然(しかれども)、得知之(しりえし)日(ひ)に、和(あまな)ひ曽(かつて)識(し)りし如くせよ。
其(それ)与(あづか)り聞くことの非(あら)ざるを以(も)ちて、公務(まつりごと)を勿(な)妨(さまた)げそ。
《以非与聞》
 標準は「以非与聞」、岩崎本は「非以与聞」だが、どちらでも意味は通る。
 なお、訓読において「」を加えて「云非与聞」とする流儀は、岩崎本以来の伝統と見られる。
《防》
 「」は禍をフセグ意であり、古訓でいうサマタグまさきものを「」げる意であることは、どの辞書を見ても揺るがない。 よって、岩崎本の古訓フセグは字の意味には忠実だが、文脈には合わない。
 〈類聚名義抄〉による「防」への古訓サマタグは、むしろ岩崎本の古訓を採用したものと推定される。 〈図書寮本〉などを見ると、後にはサマタグが主流になったようだが、それは「」が「」の誤りだと判断したのであろう。
《大意》
――第十条
 忿(ふん)〔いきどおり〕を絶ち瞋(しん)〔怒り〕を棄て、人の間違いを怒るな。
 人皆心をもち、心はそれぞれに捉われることを保ち、 彼が是とすることは自分は非で、自分が是とすることは彼は非である。 自分は必ずしも聖人ではなく、彼は必ずしも愚かではなく、 二人とも平凡な人にすぎない。
 是非の理など、どうやって定めることができようか。 互いに賢く愚かで、丸い腕輪に両端がないようなものである。
 だから、彼の人に怒りたいことがあっても、却って自分の過失を恐れよ。 自分ひとりに得たものがあっても、皆に従って同じ行動をせよ。
――第十一条
 はっきり功罪を見て、必ず賞罰を行え。
 この頃は〔(ある本)すべからく〕功があっても賞せず、罪があっても罰しない。 事を執り行なう群卿は、賞罰をはっきりさせるべきである。
――第十二条
 国司や国造は、百姓(ひゃくせい)の賦を収めるな〔=課税するな〕。
 国に二君はなく、民に二主はない。 土着の兆民を率いるに、王〔=天皇〕こそ主(あるじ)である。 任命された官司は、皆王の臣である。 どうして敢えて公に与り、百姓の賦を収めるか。
――第十三条
 諸(もろもろ)の任官は、等しく職掌の内容を知っておけ。
 時には病し、時には使者に発ち、用務に欠けることがある。 それでも、それが分かった日には、以前から仲良くして知識を得た通りに行え。 事前に関わって聞いておかなかったがために、公務を妨げてはならない。


【十二年四月(五)】
《第十四条》
十四曰。
群臣百寮、無有嫉妬。
我既嫉人、々亦嫉我。
嫉妬之患、不知其極。
所以、智勝於己則不悅、
才優於己則嫉妬。
是以、五百之乃今遇賢、
千載以難待一聖。
其不得賢聖、何以治國。
嫉妬…〈岩〉ウラヤミ- ネタムコト
嫉人…〈岩〉ウラヤメハウ トキ 〔人をうらやむとき/人をうらやめば〕
…〈岩〉ウレヘキハマリ。 (古訓) うれふ。やまひ。
所以…〈岩〉所以コノユヘ  サト■  マサレハ トキヲノレ。 〈図〉マサルトナラハ
…〈岩〉カトマサレハ。 〈図〉カトマサルトナラハ
五百…〈岩〉五百イヲトキイホトセイマシ。 〈図〉五百イホトセイマシ
乃今遇賢…〈岩〉/令イ シムトモサカシヒト
いまし…[副] まさにいま。シは強調の副助詞。
さかし…[形]シク 賢明である。語幹による連体修飾(「さかし」)、連用形による修飾(「七のさかしき人等」)の両方が見られる。
千載…〈岩〉トロニナシ
…〈岩〉ヒシリヲ
賢聖…〈岩〉サカキヒシリ 何- ニヲ テカ メム
十四(とをあまりよを)に曰ふ。
群臣(まへつきみたち)百寮(もものつかさ)は、嫉妬(うらやみねたむこと)を有(もつこと)無(な)かれ。
我既に人を嫉(うらや)まば、人亦(また)我を嫉まむ。
嫉み妬むこと之(の)患(うれへ)、其の極(きはみ)を不知(しらず)。
所以(このゆゑに)、智(さときこと)[於]己(おのれ)に勝(すぐれてあ)れば則(すなはち)不悦(よろこばず)、
才(かど)[於]己に優(まさ)りてあれば則ち嫉み妬む。
是(ここに)、以ちて五百(いほとせ)之(の)乃今(いまし)賢(さかしひと)に遇(あ)ひ、
千載(ちとせ)に、以ちて一(ひとりの)聖(ひじり)を待ち難(がた)し。
其(それ)賢(さかしひと)聖(ひじり)を不得(うることなかりて)、何(なに)そ以ちて国を治(をさ)めむか。
《才優於己》
 「才優於己」は、〈岩崎本〉右側の黒色訓点〔室町〕の「マサレハ」は已然形、〈図書寮本〉の訓点の「マサルトナラハ」は未然形である。
 已然形の場合は恒常条件で、「他人の才が自己に勝れば嫉妬するものである」という客観記述となる。 未然形の場合は「他人の才が自己に勝るとなれば、嫉妬するであろう」という未確定の前提による構文となる。
 どちらでも可能だが、憲法という性質上、前者の客観記述体の方が適しているかも知れない。 已然形が仮定条件に用いられるようになったのは、近世(江戸時代。もしくは安土桃山+江戸)とされるので、 〈岩崎本〉の訓点はまだ仮定条件の時代のものではないと見てよいだろう。
 …『文章と表現』〔阪倉篤義;角川書店1975〕
 才能ある人に嫉妬して引き摺り下ろしてはならない。賢聖は国の財産だから大切にしろという。
《第十五条》
十五曰。
背私向公、是臣之道矣。
凡人有私必有恨、有憾必非同、
非同則以私妨公、
憾起則違制害法。
故初章云上下和諧、
其亦是情歟。
背私向公…〈岩〉ソムキユクオホヤケ
臣之道…〈岩〉ヤツコノ之道
…〈岩〉スヘテ
有私…〈岩〉 トキ必有〔私有る時〕
有憾…〈岩〉 トキウラミトゝノホラ
ととのほる…[自]ラ四 すっかり備わる。
…[形・動] (古訓) おなし。ひとしうす。ととのふ。
以私妨公…〈岩〉サマタク
違制害法…〈岩〉タカヒコトワリソコナフヤフルノリ
…[動] いさむ。いましむ。ことはる。
故初章云…〈岩〉ソレクタリ章讀件
和諧…〈岩〉和諧アマナヒトゝノホレト其亦是情歟コノコゝロナルカナ
十五(とをあまりいつを)に曰ふ。
私(わたくし)を背(そむ)け公(おほやけ)に向かふ、是(これ)臣(おみ)之(が)道(みち)なり[矣]。
凡(おほよそ)人に私(わたくし)有れば必ず恨(うらみ)有り、憾(うらみ)有れば必ず非同(ひとしからず)、
非同(ひとしからざ)れば則(すなはち)私(わたくし)を以ちて公(おほやけ)を妨(さまた)げ、
憾(うらみ)起(おこ)れば則ち制(ことわり)を違(たが)ひ法(のり)を害(そこな)ふ。
故(かれ)初(はじめ)の章(くだり)に上下(かみしも)和(やはらぎ)諧(かなへ)と云ふ、
其(それ)亦(また)是(この)情(こころ)なるや[歟]。
《同》
 わがままを通せば人に恨みが生まれ、その結果損なわれるのは協調性である。 古訓では、協調性を整然として一糸乱れぬ様=「トトノホル」と表現する。 より「」に近い語の、オナジヒトシトモニスなどでも全く差し支えない。
《哉》
 の古訓は「カナ」。この「かな」について、〈時代別上代〉は、これが見られるのは上代には常陸風土記の一例だけで、 その音仮名の中に一文字だけ訓仮名「津」が混ざるから〔後世に付した仮名と見られ〕、「この一例だけで上代にカナの存在したことを積極的に立証できるか、疑わしい」という。
《第十六条》
十六曰。
使民以時、古之良典。
故、冬月有間以可使民、
從春至秋農桑之節、不可使民。
其不農何食、不桑何服。
使民…〈岩〉使ツカハシムルニ ツカフ タミ
以時…〈岩〉 スルハ。 〈図〉 スル
有間…〈岩〉イトマ
…[名] (古訓) ひま。あひた。
いとま…[名] 「(万)4455 欲流乃伊刀末仁 都賣流芹子許礼 よるのいとまに つめるせりこれ」。
農桑…〈岩〉ヨリマテナリハヒ-コカヒトキナリ
…[名] 蚕。
不農何食…〈岩〉不-タツクラ〔※〕ナリハ〔ヒ〕ナニヲカナレ-クラハムクハトラ何-キム…田作らず。 〈閣〉ナニヲカ ム
十六(とをあまりむを)に曰ふ。
民(みたみ、おほみたから)を使ふに時を以(もちゐ)ることは、古(いにしへ)之(の)良き典(のり)なり。
故(かれ)、冬の月に間(いとま)有り以ちて民を使ふ可(べ)し。
春従(よ)り秋に至(いた)る農(なりはひ)桑(こかひ)之(の)節(とき)は、民を使う不可(べくにあらず)。
其(それ)不農(なりはひせず)ありて何(なにそ)食(くらは)むか、不桑(こかひせず)ありて何そ服(き)むか。
《民》
 古訓においてはは常にオホムタカラで、タミと訓むのは例外的である。 十七条憲法は書紀古訓時期以前から訓読されていた可能性がある。その頃の訓オミは既に一般化していて、今更オホムタカラが受け入れられる余地がなかったと考えられる。
《第十七条》
十七曰。
夫事不可獨斷、必與衆宜論。
少事是輕、不可必衆。
唯逮論大事、若疑有失、
故與衆相辨、辭則得理。
…〈岩〉コト
独断…〈岩〉獨断ヒトリサタム
…[動] (古訓) さたむ。
与衆…〈岩〉 ヘシ クアケツラ
少事…〈岩〉イサゝケキ-事是カル\/シク シモモロゝゝ
〈閣〉イサゝケノイサゝケコトハ不可 モモロ\/ス〔必ずしも衆(もろもろ)すべからず〕
大事…〈岩〉唯-逮タゝ ヲヨムアケツラフ大事  ナル コト ウタカハシキトキ アリアヤマチ
〈閣〉ウタカハシキトキハアヤマチアヤマツコト
与衆相弁…〈岩〉ワキマヘルトキ コト則得コトハリ
〈閣〉…相-辨ワキマウルトキハ引合〔引合;二文字をまとめて訓を付す〕
…[動] わける。(古訓) わきまう。
十七(とをあまりななを)に曰ふ。
夫(それ)事(こと)は独(ひとり)断(さだむ)不可(べくあらず)、必(かならず)衆(もろもろ)と与(とも)に宜(よろしく)論(ことあげてらふ)べし。
少(いささかき)事是(これ)軽(かる)し、必ずしも衆(もろもろとともにす)可(べ)くはあら不(じ)。
唯(ただ)大事(おほきなること)を論(ことあげてらふ)に逮(およ)びて、若(もし)失(あやまち)有りと疑(うたがはし)くあらば、
故(かれ)衆(もろもろ)に与(あづ)かり相弁(あひわきため)て、辞(こと)則(すなはち)理(ことわり)を得よ。
《衆》
 古訓では、二つ目のモロモロにはサ変動詞をつけて「もろもろす」と訓むが、やや舌足らずの感がある。 むしろ「与衆」と次の「」は両方とも「もろもろとともにす」と訓み、幅広い議論に委ねることをきちっと言った方がよいと思われる。
《不可必衆》
 不可必衆は部分否定の構文で、「否定の副詞+可能の助動詞+副詞+動詞」の構造をしている。 この「不可」を「~べからず」と訓むと全否定となり、「必ずしも」との折り合いが悪い。 訓読は、うまく部分否定の意を表すような工夫が必要となる。
《大意》
――第十四条
 群臣百寮は、嫉妬心を持つな。
 我が既に人を嫉(ねた)んだとき、人もまた我を嫉んでいるものである。 嫉妬の憂えは、その極みを知らない。
 そのために、知恵が自分より優れていれば喜ばず、 才能が自分より勝っていれば嫉妬する。
 ところが、五百年来のまさに今、賢者に遭遇しているかも知れず、 千年に一人の聖人を待つことは難しい。
 賢者聖人を得ることなしに、どうやって国を治めることができよう。
――第十五条
 私心には背を向け公を向くのが、臣の道である。
 凡そ人に私心があれば必ず恨みが起こり、恨みがあれば必ず協調できず、 協調できないから、結局私心が公を妨げる。 恨みが起これば定めを違え法を損なう。
 よって、初めの章において、上下が和して調和せよといった、 それもまたこの心による。
――第十六条
 民に使役を課すのに、時期の判断を用いることは、古(いにしえ)の良き法である。 つまり、冬には閑散期があり、その時期に民に使役を課すべきである。
 春から秋までの農業養蚕の時期には、民を使うべからず。 農業せずに何を食するか。養蚕せずにどうやって衣を着るか。
――第十七条
 事は独断せず、必ず多数で論議すべし。
 小事で軽ければ、必ずしも多数で行うことはない。 ただ、大事は論議にかけ、もし誤りが疑われるときは、 多数で論じて、言辞の理を得よ。


【十七条憲法の構成】
要点の一覧
主題仏教儒教臣順君以和為尊群卿百寮種別
第一条以和為尊順君父。上和下睦。諧於論事。人皆有党。道徳
第二条篤敬三宝仏法僧。宗教
第三条承詔必謹君言臣承。規則
第四条以礼為本位次不乱。道徳
第五条明弁訴訟臣道欠。貧民不所由規則
第六条懲悪勧善忠/仁忠於君。諂詐者…覆国家仁於民。政策
第七条掌宜不乱人不求官。政策
第八条早朝遅退早朝遅退。規則
第九条信是義本信/義群臣共信。事成。道徳
第十条不怒人違皆凡夫耳。道徳
第十一条賞罰必当賞罰規則
第十二条国司国造国非二君一。官司皆是王臣。百姓政策
第十三条同知職掌曽識於事規則
第十四条無有嫉妬智勝於己則不賢聖以治国。道徳
第十五条背私向公上下和諧。非同則以私妨公。道徳
第十六条使民以時冬間。可使民。規則
第十七条不可独断衆相弁。辞則得理。規則
 十七条憲法は、基本的に「群卿百寮〔官僚組織〕の内部規律を保つことを目的として、その心得を列挙した書である。 「和を以て貴しとなす」は非常に有名であるが、人民一般向けの言葉ではなくあくまでも官僚間の規律に関する言葉である。
《群卿百寮》
 群卿の訓「マチキミタチ」は「マヘつ君達」の音便で、 王の側近の意。官庁における上級官僚である。百寮の「」は令においては省の付属官署である(資料[24])。 一般にモモノツカサと訓み、ここでは下級官僚である。
 すなわち、群卿百寮は、結局宮廷に仕える官の集団を指す。
《仏教》
 仏教に関する部分は第二条のみで、仏法僧に敬意を持てというにとどまる。
《儒教》 
 儒教では「仁・義・礼・智・信」を五徳という。これに三綱「忠・孝・悌」を加えた八つの徳目が『南総里見八犬伝』にも出てくる。
 第六条では、国家安泰のための基本原理として、を用いている。第三条も同じく君臣の序を説いたものであるが、こちらで用いた「天地」は陰陽道の概念である。
 第四条では、を秩序を保つため原理とする。
 第九条では、〔=論理〕の泉源であり、すべてに貫かれるべきとする。 また、群臣の横の関係の基盤に信を置けという。だから、信は上下関係に関してはニュートラル〔中立〕である。
 については、知性〔intelligence〕と捉えられており、 第十四条で、智に優れた人の足を引っ張るなと言い、第七条では「知」は生まれながら備わったものではなく、努力して身に付けるものだとする。
 このように、儒教の徳目が官僚の規律を裏付けるものとして援用されているのは明らかである。
 なお、八徳目のうち〔親子間〕〔夫婦間〕が出てこないのは、十七条憲法の対象がやはり官僚であることを示している。
《民》
 民・百姓に対する言及は、五条、六条、十二条、十六条にある。 このうち、第十二条は国家に納める税を地方領主が横取りするするなと言っているだけだから、農民を大切にせよという趣旨ではない。
 第十六条は、農作業の季節に役(えたち)〔=徴用〕を課してはならないという。休息すべき時期に引っ張り出すのだから、全く仁とは言えない。
 第六条は、「民には仁を」と言うが、本質的には苛政によって反乱に決起させることを警戒してのことである。
 結局、真に民への仁を語るのは、裁判は貧富によらず公正に行えという第五条だけである。 全体として民に冷淡なのは、官僚向けの文書だからであろう。
《種別》
 各条文は、次のような種別によって分類することができよう。
 ●規則(7)…無条件に守るべき規則が、比較的端的に短く書かれている。秩序を保つための命令系統や服務規律の類である。
 ●道徳(6)…心得というべきものである。自分勝手を抑えよく話し合って協力して成果を得ることを求める。内面的な成長を要請するものである。
 ●政策(3)…これも規則ではあるが、実現には相当の努力を要しむしろ政策的目標というべきもので、長文となっている。
 ●宗教(1)…意外にも第二条のみである。
 全体として、官僚の行動や態度に向けられたものということができる。 あまり系統だっていないので、一度にまとめて書かれたものというよりは一定の時間をかけて積み重ねられたもののようにも思われる。
 ただ、簡潔な中に意味がよく通る文になっていて、なかなかの文章力が感じられる。 これに比べると弘仁私記序、元興寺伽藍縁起、古語拾遺などは、かなり読みにくい。
 また、書紀にしばしば見られる漢籍を下敷きにして韻文を作ったような部分は今のところ見つからず、オリジナルであろうと思われる。
《党》
 第一条「人皆有〔人は、皆属する党がある〕と、 第十二条「国司国造勿百姓〔人民から税を取るな〕を併せると、 在地独立勢力の連合体から中央集権へという指向性が浮かび上がってくる。
 それに伴い、官僚組織を出身氏族の利害を代表して調整する機関ではなく、対象を客観視してフラットに議論し、 いわば「三人寄れば文殊の知恵」を生み出す体制にしようとするのである。 これが十七条憲法の主要な狙いではないだろうか。
 孝徳天皇大化二年〔646〕の詔の最初に 「昔在天皇等所立子代之民処々屯倉及別臣連伴造国造村首所有部曲之民処々田荘。仍賜食封大夫以上各有差。…〔昔在りし天皇の立てたる子代(みこしろ)、処々(ところどころの)屯倉(みやけ)及び別・臣連(おみむらじ)伴造(とものみやつこ)村首(すぐり)の所有(もてる)部曲(かきべ)の民、処々の田荘(たどころ)を罷(や)めよ。 仍(すなはち)食封(じきふ)を大夫(たいふ)以上(いじやう)に賜(たまは)る。各(おのおの)差(しな)有り。〕とある。 すなわち、官僚による田荘(たどころ)の私有を廃止し、税を直接国家に納めさせ各官僚に支給する形を目指す。 実際には、この改革は大宝令〔701〕の頃まで及ぶ長い事業だったと考えられている。 この改革に伴い、官司は自己の領地の直接支配から離れ、国家のために立案する集団の一員になることが望まれる。
 このように考えると、十七条憲法の内容が現実と噛み合うのは、大化の改新以後ということになる。 一般に、偉大な業績の端緒を古い大王に遡らせることは珍しくない。それは例えば崇神天皇に調の始め(男弓端之調、女手末之調)、依網池の始め、斎王の始めを置いている。 同様に十七条憲法を聖徳太子に遡らせることは、十分考えられる。
 ただ、これだけの文章力をもつ真の執筆者を大化以後に見つけるのは大変である。

まとめ
 十七条憲法は、官司が氏族の利益代表の集まりではなく、朝廷にフラットに仕えて合議で政策を決める集団になるべきだと促す文書である。 この課題は大宝令までの長い期間、ずっと継続していたと思われる。 しかし、十二条で考察したように、国造を廃して国司を置いた大化の改新の時期に、成立した可能性が一番高いように思われる。
 だとすれば、その頃に洗練された文章を作る能力に優れた誰かが、権威付けのために聖徳太子の名前を使って仕立て上げたことになる。
 もしそうでないとするなら、聖徳太子が先駆的にこの問題意識をもっていたことになる。その可能性も、実は捨てきれない。 というのは、冠位十二階の制定は、唐に倣って塊としての官僚組織を太子が整えようとしたと考えられるからである。 ただ、その場合でも十二条だけは大化の改新の時期にに追加された〔最初から十七条なら置き換え〕ように思われる。
 何れにしても、十七条憲法の成立はまだ「天皇」の呼称のない時代で、この形で既に広まっていたから、書紀も「君」や「君父」を「天皇」に置き換える作為ができなかったと思われる。 もし、書紀編纂の時点で十七条憲法の存在が一般にあまり知られていなかったとすれば、絶対に「天皇」にしたはずである。
 さらには、早い時期から既に訓読されて「民」の訓にはタミが定着していたから、古訓もオホムタカラにできなかったと考えられる。



2021.10.29(fri) [22-04] 推古天皇4 

目次 【十二年九月~十四年四月】
《詔凡出入宮門以兩手押地兩脚跪之》
秋九月。
改朝禮。
因以詔之曰
「凡出入宮門、
以兩手押地兩脚跪之。
越梱則立行。」
是月。
始定黃書畫師山背畫師。
朝礼…〈岩〔岩崎本〕朝礼ミカトヰヤ
出入…〈岩〉マカテ/イテ-マヰラムトキハ- ミカト 
以両手押地…〈岩〉兩手兩脚 〔両手を以て地に押し両足をもて跪きて〕。「」は「」であろう。
両手…モロテは確認されないが、モロがつく語として、モロタブネ〔両舷に櫂をつけた船〕、モロハ〔両刃〕などがある。
…[名・形] (古訓) ふたつ。ふたり。
まで…[名] 左右の手。左右が揃ったことを「真」で表したと考えられている。(万葉)「0238 大宮之 内二手所聞 おほみやの うちまできこゆ」。ただし、この例は訓仮名。 蜻蛉日記下「御にまイ手に月と日とを受け給ひて」に「両手まて」の字を当てた刊本〔日本文学大系校註󠄀大三巻;国民図書1925〕がある。
両足…〈図〔図書寮本〕アシモ
…[動] (古訓) ひさまつく。
…<岩>シキミ則立-〔梱を越え則ち立ちて行け〕
しきみ…[名] しきい(閾)。
黄書画師…<岩>黄-書キフミ畫-師 エカキ 山-背 ヤマシロ畫-師。 〈図〉 ノ ヱ
〔十二年〕秋九月(ながつき)。
朝(みかど)の礼(ゐや)を改め、
因(よ)りて詔(みことのり)を以ちて[之]曰(のりたまはく)
「凡(おほよそ)宮門(みかど)に出入(まゐりまかる)ときは、
両手(まで)を以ちて地(つち)を押して両脚(ふたつのあし)を跪[之](ひざまつ)き、
梱(しきみ)を超えて則(すなは)ち立ちて行(ゆ)け。」とのりたまふ。
是の月。
始めて黄書(きふみ)の画師(ゑかき)山背(やましろ)の画師(ゑかき)を定(さだ)む。

十三年夏四月辛酉朔。
天皇、詔皇太子大臣及諸王諸臣、
共同發誓願。
以始造銅繡丈六佛像各一軀。
乃命鞍作鳥、爲造佛之工。
是時、高麗國大興王、
聞日本國天皇造佛像、
貢上黃金三百兩。
諸王諸臣…〈岩〉 ノ オホキミ  ヲン
発誓願…〈岩〉ヲコシ-チカヒ/フコヒチカフコト…フの上から打ち消すように、ヒを重ね書きしている。 〈図〉誓願 チカヒ 
こひちかふ…[動]ハ四 「こひ-」については、コヒ-ネガフ、コヒ-ノムの形がある。ただし〈時代別上代〉の見出し語にコヒチカフはない。
…[名] ①ぬいとり〔刺繍〕。②縫い取りのように華やかで美しい。
銅繍…〈汉典〉謂用銅嵌砌的紋彩。〔銅に象嵌した紋様〕
銅繡丈六仏像…〈岩〉銅繡アカゝネ ヌヒモノ丈-六ミカタ各一ハシ〔ラ〕。 「繍」「六」「佛」の中央に朱点:ヲコト点「〔銅繍丈六像〕。 〈図〉ハシラ。 〈釈紀-秘訓〔以下釈〕〉銅繡アカゝネヌモノゝ丈六佛ヂヤウロクノホトケ
…〈岩〉ミコトオ鞍作トリ ツクリマツル-佛ホトケツクリト之-工。 〈釈〉鞍作鳥クラツクリノトリ造佛之工ホトケツクリト
大興王…〈岩〉-ケウ-ワウ
造仏像…〈岩〉聞日本国天皇佛像〔造リタマフ〕
黄金…〈岩〉-上黄-金コカネモゝコロコロ。 〈釈〉/クヱコカネ
十三年(ととせあまりみとせ)夏四月(うづき)辛酉(かのととり)の朔(つきたち)。
天皇(すめらみこと)、皇太子(ひつぎのみこ)大臣(おほまへつきみ)諸王(もろもろのみこ)と諸臣(もろもろのおみ)に及び詔(みことのり)して、
共同(ともに)誓願(ちかひ、せいぐわむ)を発(た)てたまふ。
以(も)ちて始めて銅繡(あかかねのぬひもの)丈六(ぢやうろく)の仏像(ほとけのみかた)各(おのもおのも)一躯(ひとはしら)を造り、
乃(すなはち)鞍作(くらつくり)の鳥(とり)に命(おほ)せ、造仏之工(ほとけつくるたくみ)と為(し)たまふ。
是の時、高麗国(こまのくに)の大興王(だいけうわう)、
日本国(やまとのくに)の天皇(すめらみこと)仏像(ほとけのみかた)を造りたまふと聞きまつりて、
黄金(くがね)三百(みほ)両(ころ)を貢上(たてまつ)りき。
閏七月己未朔。
皇太子命諸王諸臣、俾着褶。
冬十月。
皇太子居斑鳩宮。
…〈岩〉ヒラヒヒラオヒ。 〈図〉シム キ ヒラヒ。 〈釈〉ヒラヒ
ひらおび…[名] 〈時代別上代〉衣服の名。語源はヒラオビか。 男は袴の上、女は唐裳の上につける。ヒラビ・ヒラミとも。
閏(うるふ)七月(ふみづき)己未(つちのとひつじ)の朔(つきたち)。
皇太子(ひつぎのみこ)諸王(もろもろのみこ)諸臣(もろもろのおみ)に命(おほ)せて、褶(ひらおび)を着(き)俾(し)む。
冬十月(かむなづき)。
皇太子斑鳩宮(いかるがのみや)に居(ましま)す。
十四年夏四月乙酉朔壬辰。
銅繡丈六佛像並造竟。
是日也。
丈六銅像坐於元興寺金堂。
時佛像、高於金堂戸、以不得納堂。
於是、諸工人等議曰、破堂戸而納之。
然鞍作鳥之秀工、不壞戸得入堂。
造竟…〈岩〉 マツリ。 〈図〉ヲハヌ
元興寺…〈岩〉 マセ/マセマス於元興寺金-堂コン タウ 〈釈〉元興寺グワンコウジノ金堂コムダウ
ます…[他]サ下二 坐らせる、行かせるの尊敬語。ます(四段)の他動詞。
於金堂戸…〈岩〉於金堂トヨリモ
…[前] 比較を表す用法がある。
…[名] (古訓) との。
納堂…〈岩〉イルゝコトイレマツル
工人等…〈岩〉トモ。 〈前〉ハカリ
壊戸…〈岩〉コホ
納之…〈岩〉イレム
秀工…〈岩〉-スクレタルタクミニシテスフコホ。 ※…𬼀〔合略仮名;シテ〕か。 〈前〉コホタ
十四年(ととせあまりよとせ)夏四月(うづき)乙酉(きのととり)を朔(つきたち)として壬辰(みずのえたつ)〔八日〕。
銅繡(あかかねのぬひもの)丈六(ぢやうろく)の佛(ほとけ)の像(みかた)並(ならび)に造(つく)り竟(を)ふ。
是の日[也]。
丈六銅(ぢやうろくのあかがね)の像(みかた)[於]元興寺(ぐわんごうじ)の金堂(こむだう)に坐(ま)せり。
時に仏像(ほとけのみかた)、高(たかさ)[於]金堂の戸(と)よりたかく、以ちて堂(との)に不得納(えをさめず)。
於是(ここに)、諸(もろもろの)工人(たくみ)等(たち)議(はか)りて曰(まを)せらく、堂(との)の戸(と)を破(こぼ)ちて[而]之(こ)を納(をさめむ)とまをせり。
然(しかれども)鞍作鳥(くらつくりのとり)之(の)秀(ひでてある)工(たくみ)、戸を不壊(こぼたず)て堂(との)に得入(えい)れてあり。
卽日。
設齋。
於是、會集人衆、不可勝數。
自是年初毎寺、
四月八日七月十五日設齋。
設斎…〈岩〉-ヲカミス 〔即日(このひ)〕會-集マカツトヘル人-衆 ヒトゝモ。 〈図〉會-集ツトヘル。 〈釈〉設齋ヲカミス
…[動・名] 〈類聚名義抄〉 イハフ。イム。イモヒ。ツツシム。モノイミ。
即日(このひ)。
設斎(せちさいす、をがみす)。
於是(ここに)、会集(つどへる)人衆(おほ)く、数(かず)に勝(まされること)不可(あらじ)。
是の年自(よ)り初めて寺毎(ごと)に、
四月(うづき)八日(やか)七月(ふみづき)十五日(とかあまりいつか)に設斎(せちさいす、をがみす)。
《朝礼》
 この頃、朝礼を改定をした。内容は、宮門の出入りの作法〔両手を突き両足を跪づく〕と、 服装の規定〔褶の着用〕である。
 冠位十二階、十七条憲法とともに、官吏に作法を教える一環と言える。 これも、後世に定めたルールを太子の名によって崇高化したと考えられる。
 ただ、官僚を組織として整備しようとする太子の努力は、実際になされたと考えてよいのではないか。
《黄書画師》
 〈姓氏家系大辞典〉は、「黄文画師 キブミノヱシ:職業部の一」、 「貴文〔ママ〕の義につきては、考証に「黄文は黄薬もて経巻を染むる由の名にして、則ち仏経を云へり。 仏経を造りものする、職なる事著し」とあるに従ふべし」とする。
 考証は、日本書紀通証〔国学者谷川士清(ことすが)著。全35巻;1762〕のことか。 『通釈』〔飯田武郷1899:江戸時代の諸注釈の集成。刊本:大鐙閣1923〕に、 「通証云。山谷薬名詩。天竺黄巻在。註󠄀謂仏書。斎宮式忌詞。経称染紙。とあり〔『通証』は、山谷薬名詩に天竺黄巻あり。注に仏書という。斎宮式忌詞に経を「染紙」と称するとある〕とあるからである。
 黄文は〈天武紀〉十二年九月に「…黄文造…凡卅八氏賜姓曰連。」とあり、連姓を賜る。 〈姓氏家系大辞典〉によれば、黄文きふみのみやつこは山城にあり、黄文画師伴造とものみやつこ。 〈姓氏録〉には〖黄文連/出自高麗国人久斯祁王〗。
 この時期、飛鳥寺を始めとして伽藍の建立が活発化するが、それとともに修行する僧も増え、経典を大量に複写しなければならない。 その経典の装丁作業を担うものとして、ここに黄書画師・山背画師が登場するわけである。
《共同発誓願》
 「詔皇太子大臣及諸王諸臣共同発誓願」を受けたと見られる記述が、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(以後〈元興寺縁起〉)にあり、 「歳次癸酉〔613〕 正月九日馬屋戸聡耳皇子 受勅記元興寺等之本縁 及等与弥気命之発願 并諸臣等発願」と述べる。
《銅繡丈六仏像》
 〈釈紀〉は""を挟んで「銅繡の丈六仏像」、すなわち「銅繡」を修飾語として「丈六仏像を二体造った」という訓み方をする。 後に出てくる「丈六銅像」が、「銅繡丈六仏像」の略だと考えたからであろう。〈岩崎本〉もヲコト点によって「銅繡の丈六の仏の像」とするから同様である。
 しかし、その後の文中に「」、「」があるから、二体の仏像は「銅繡仏像」と「丈六仏像」を示すとしか読めない。
 ちなみに、〈元興寺縁起〉で仏像の安置場所を述べたところでは「銅丈六」は講堂、「繍」は八角円堂に安置したと書く。 また〈元興寺縁起〉に付属する『丈六光銘』には「釋迦丈六像銅繍二躯」とあり、 "釈迦丈六像"と"銅繍〔像〕"が別の像であることを明確に表す書き方になっている(次項)。
《各一躯》
 ここには「丈六銅像」を鳥が見事に戸を壊さずに納めたという面白い話が載るが、それでは残りの一体はどこに安置されたのであろうか。
 この二体の行方に触れた文章は、〈元興寺縁起〉にある(縁起(k))。 曰く「地東有十一丈大殿 銅丈六作奉 西有八角円殿者繍奉〔地の東に十一丈の大殿有りて丈六を作り奉り、西に八角円殿有りて〔銅〕繍を奉りき〕
 「繍」本来の意味は刺繍で、実際「中宮寺天寿国繍帳」(資料[53])のようなものも存在するが、 『丈六光銘』には 「銅二萬三千斤 金七百五十九兩-造釋迦丈六像銅繍二躯并挾侍」とあるから、「」は銅繍像であろう。
 「西の八角円殿」は飛鳥寺跡には存在しないので、平城京移転後の元興寺の八角円殿のことが紛れ込んだ可能性を考えた。〔※…西塔院はその跡地か〕 このように、銅繍像については書紀には何も書かれず、〈元興寺縁起〉でもあやふやである。
《鞍作》
 鞍作について〈姓氏家系大辞典〉は、大和の鞍部、高麗族の鞍部、河内の鞍部などを挙げる。
 次の五月段に「祖父司馬達等」「父多須那」の名がある(下述)。
《黄金三百両》
 高麗大興王からプレゼントされた黄金三百両は、『丈六光銘』では「三百二十両」となっている。
 『漢書』-「律暦志上」によれば、一両=14.2gだから、三百両=4.26kgである (〈元興寺縁起〉丈六光銘)。
 『三国史記』 によればこの時期の高句麗王は嬰陽王で、590年に即位し「嬰陽王【一云平陽】諱元【一云大元】平原王長子也。」と書かれる。 〈推古〉十三年は、嬰陽王十六年にあたる。一般には大興王は嬰陽王と同一と考えられている。
《褶》
 〈釈紀-述義〉「ヒラヒ: 玉篇曰。徒頬切。衣有表裏而無絮也。又似立切。袴褶也。〔玉篇に曰ふ。音テフ〔徒(ト)+頬(ケフ)〕。表裏有り、絮(わた)無し。又立切に似る〔意味不明〕。袴褶〔うまのりばかま〕なり。〕
 唐には朝参に着用しべしとする「袴褶の制」があった。
 もともとの意味: …①テフ〔チョウ〕。裏地のついた服。あわせ。
《斑鳩宮》
 法隆寺東院の下層から宮殿跡が検出され、それが斑鳩宮かといわれている(用明元年【斑鳩宮】)。
《鞍作鳥之秀工》
 鞍作鳥之秀工は、 「鞍作鳥の配下の秀れたる匠たちが」と読み取るのが自然であろう。
《設斎》
 にあたる語として、イモヒ〔斎戒、転じて精進の会食〕が源氏物語にある。
 古訓のヲガミス〔拝み+サ変動詞〕の、ヲガミはもともと拝礼の動作である。 この一般的な語を仏教語に当てたと考えられるが、結局はイモヒが一般的になる。 ヲガミスは古訓学者の間で使われたが、それ以上の広がりがなかったと思われる。
 イハヒスも考えられ、これなら間違いなく上代に存在した語だが神道のイメージが強いので、仏教においては敢えて別の言い方を用いたのかも知れない。 上代にはそこまで考えず、そのままイハヒヲマウクと訓んだ可能性もありそうに思える。 
《四月八日/七月十五日》
 四月八日は、言うまでもなく灌仏会〔釈迦の誕生を祝う〕である。 現在の日本では誕生仏に甘茶を注ぐ風習になっているが、飛鳥時代から恐らく清浄な水をかける習慣があった。 〈元興寺縁起〉に「灌仏之器隠蔵〔攻撃から守るために隠す〕などとあるからである(縁起(c))。
 七月十五日は、道教では「中元」という。 古くは三元斎という行事があり、上元(1月15日)に天宮、中元に地官、下元(10月15日)に水官に対してそれぞれ懺悔する。
『大唐六典』巻四〔返り点は本サイト〕
其四曰三元齋【正月十五日天官爲上元 七月十五日地官爲中元 十月十五日水官爲下元 皆法身自懺諐〔=愆〕罪】
出典: ①〔近衛公府蔵版〕(国立国会図書館デジタルコレクション/id3439069コマ100)。 ②「中国哲学書電子化計画」/「大唐六典」影印(162~163) 〔両者に差異なし〕
《大意》
 〔十二年〕九月、 朝廷の礼を改め、 詔を発布しました。
――「凡(おおよ)そ宮門の出入りは、 両手で地面を押し両脚を跪き、 閾(しきい)を越えたら立ち上がって行け。」
 是の月、 初めて黄書(きふみ)の画師(えかき)、山背(やましろ)の画師(えかき)を定めました。
 十三年四月一日、 天皇(すめらみこと)は、皇太子〔聖徳〕、大臣、諸王、諸臣に詔して、 共同で誓願を発しました。
 こうして、始めて銅繡、丈六の仏像を各一体造り、 鞍作(くらつくりべ)の鳥(とり)に命じ、造仏工とされました。
 この時、高麗(こま)国の大興王(だいきょうおう)は、 日本国の天皇が仏像をお造りになると聞き、 黄金三百両〔4.26kg〕を貢上しました。
 閏七月一日、 皇太子、諸王諸臣に命じて、褶(ひらおび)を着用させました。
 十月、 皇太子は斑鳩宮(いかるがのみや)に居住しました。
 十四年四月八日、 銅繡、丈六の仏像をともに造り終わりました。
 是の日、 丈六の銅像を元興寺の金堂に安置しました。
 その時、仏像の高さは金堂の戸より高く、堂に納めることができませんでした。 そして、もろもろの工人たしは相談して、「堂の戸を壊して納めましょう」と申し上げました。 しかし、鞍作の鳥配下の優秀な工人は、戸を壊さずに堂に入れることができました。
 この日、 設斎(せっさい)〔会食を伴う拝礼の集い〕を行いました。 会に集まる人は多く、その数に勝るものはないでしょう。
 この年から寺毎に、 四月八日、七月十五日の設斎を開始しました。


10目次 【十四年五月~十五年二月】
《勅鞍作鳥曰朕欲興隆內典》
五月甲寅朔戊午。
勅鞍作鳥曰
「朕、欲興隆內典、
方將建佛刹、肇求舍利時、
汝祖父司馬達等便獻舍利。
又於國無僧尼。
於是、汝父多須那、
爲橘豐日天皇、出家恭敬佛法。
又汝姨嶋女、初出家、
爲諸尼導者、以脩行釋教。
興隆…〈岩〉ヲコ-サカ  シメ  -ホトケノミノリ。 〈図〉オモフ
仏刹…〈岩〉タテシトキニ ケミヤ。[声点]。 〈釈〉佛刹ホトケミヤ
方将…"方"と"将"が熟し、近接未来を示す。「まさに~せんとす」。
舎利…〈岩〉ハシメ メキ舎利。[声点]
祖父…〈岩〉イマシ 祖-父 ヲホチ  オ■チ 
おほぢ…[名] 〈倭名類聚抄〉祖父【於保知】〔おほぢ〕
司馬達等…〈岩〉[声点]ナシ
献舎利…〈岩〉獻  ツリリキ
僧尼…〈岩〉僧尼ホウシ アマ
多須那…〈岩〉[声点]ミタメニ橘豊日天皇
出家…〈岩〉イエテシ  ツゝシミ- ヰヤ■マフ
…〈岩〉ウハ
導者ナシ諸尼導者ミチヒキ-ヲコナフオコナハシムホトケ トホ ミノリ
五月(さつき)甲寅朔戊午〔五日〕
鞍作(くらつくり)の鳥(とり)に勅(みことのり)して曰(のたまはく)
「朕(われ)、内典(うちつみのり、ほとけのみのり)を興(おこし)隆(さかりとせむ)と欲(おもほす)、
方将(まさに)仏刹(ぶつさつ、ほとけのみや)を建てむとして、肇(はじめ)に舎利(しやり)を求めし時に、
汝(いまし)が祖父(おほぢ)司馬達等(しばたつと)便(すなはち)舎利を献(たてまつ)りき。
又(また)[於]国(くに)に僧(ほふし)尼(あま)無し。
於是(ここに)、汝(いまし)が父(ちち、かそ)多須那(たすな)、
橘豊日天皇(たちばなとよひのすめらみこと)〔用明〕の為に、出家(いへで)して仏法(ほとけのみのり)を恭(つつし)み敬(ゐやま)へり。
又汝(いまし)が姨(をば)嶋女(しまめ)、初めて出家(いへで)し、
諸(もろもろ)の尼(あま)の導者(みちびき)と為(な)り、以ちて釈教(ほとけのをしへ)を修行(をこな)はしめき。
今朕爲造丈六佛、以求好佛像、
汝之所獻佛本則合朕心。
又造佛像既訖、不得入堂、
諸工人不能計、以將破堂戸、
然汝不破戸而得入、
此皆汝之功也。」
造丈六仏…〈岩〉[声点] マツラムカ丈六佛 〔丈六仏を造らむがために〕
…〈岩〉
所献…〈岩〉 タメシ -朕心。 〈図〉カナヘリ
…〈岩〉ミヤ 諸工-人タクミ 以トスコホ堂戸 然
…〈図〉コホタ
…〈岩〉イサヲシイタハリナリ。 〈図〉イタハリ
今朕(われ)丈六仏(ぢやうろくのほとけ)を造らむが為(ため)に、以ちて好(よき)仏像(ほとけのみかた)を求め、
汝之(いましが)[所]献(たてまつ)りし仏(ほとけ)の本(ためし)則(すなは)ち朕心(わがみこころ)に合(かな)へり。
又、仏像を造りまつりしこと既に訖(を)へて、堂(との)に不得入(えいらず)、
諸(もろもろの)工人(たくみ)計(はかること)不能(あたはず)、以ちて将(まさに)堂(との)の戸を破(こほ)たむとして、
然(しかれども)汝(いまし)戸を不破(こほたず)して[而]得入(えいる)、
此(これ)皆(みな)汝之(いましが)功(いさをし)也(なり)。」とのたまひて、
則賜大仁位。
因以給近江國坂田郡水田廿町焉。
鳥、以此田爲天皇作金剛寺、
是今謂南淵坂田尼寺。
大仁…〈岩〉[声点]ニン。 冠位十二階の第三位(〈推古〉十一年)。
因以…〈岩〉「因」の左下の朱点は、ヲコト点で「テ」。
水田廿町…〈岩〉水-田廿ハタチ トコロ
…[助数詞] 長さ一町=360尺〔108m〕。面積は一辺一町の正方形の面積〔11700m〕。
金剛寺…〈岩〉[声点]天皇-剛-寺。 〈釈〉金剛寺コンガウジ
南淵…〈岩〉今謂ミナ-淵坂-田アマ テラヲ。 〈図〉南淵ミナフチ。 〈釈〉南淵ミナフチノ坂田サカタノ尼寺あまてら
則(すなはち)大仁(だいにむ)の位(くらゐ)を賜る。
因(よ)りて近江国(ちかつあふみのくに)の坂田郡(さかたのこほり)の水田(た)二十町(はたまち)を以ちて給はりき[焉]。
鳥、此の田を以ちて天皇(すめらみこと)の為に金剛寺(こんがうじ)を作りまつる。
是(これ)今(いま)に南淵坂田尼寺(みなふちのさかたのあまでら)と謂ふ。
《汝祖父司馬達等》
 司馬達等が仏舎利を手に入れて蘇我馬子に献上した記事が、〈敏達〉十三年にある。 「鞍部村主司馬達等」が 蘇我馬子らと斎食(いもひ)したときに手に入れた仏舎利を披露した。
《汝父多須那》
 多須那の出家の記事は、〈用明紀〉二年四月二日。 〈用明紀〉(二年)に「鞍部多須奈【司馬達等子也】」が、 用明天皇の快癒を願い出家修道を申し出、南淵坂田寺の建立を誓った(下述)。丈六仏木像と挾侍の菩薩が安置される。
《汝姨嶋女初出家》
 司馬達等は、〈敏達〉十三年に娘の嶋女を出家させ、 尼〔戒名善信尼〕として修業させた。
 鳥は司馬達等の孫だから、嶋女はたしかに鳥の姨(おば)である。
《堂》
 〈岩崎本〉は、ミヤと訓むが、〈同〉十四年四月のところでは「」に声点をつけているから音読み(〔ド〕ウ)で、読み方は一定しない。
《為》
『全訳漢辞海』三省堂2011 〈岩崎本〉京都国立博物館編;勉誠出版2013
 字の四隅のうち一か所につけた小マルは、詩韻における四声を示すもので、声点という。 現代の漢和辞典では、左上(◰)=上声、左下(◱)=平声、右上(◳)=去声、右下(◲)=入声で示されている。 辞書の声点は古い伝統を受け継いだものと思われ、 〈岩崎本〉の朱色が小マルを付けた位置は、現代の辞書でも同じと見られる(右図)。 声点がついている字は、音読みするよう指示したものと判断できる。
 ところが、の中には明らかに訓読みであるにも関わらず、声点がついているものがある。
 もともと「」には〔do〕」とタメ〔for〕」の二つの意味があり、 詩韻によって区別される。は平声〔左下には去声〔右上にである。 〈岩崎本〉の「」は、(ア)去声()、または(イ)声点なしである。 は現代の辞書でも同じく去声でタメである。(イ)はすべてと見られる。 したがって、声点がつく「」は、 「音読みせよ」という意味ではなく、「この"為"は、doではなくforである」ことを示すためにつけたものである。 つまり、「この"為"はタメと訓め」と指示したと見られる。
 五月戊午の「多須那為」の"為"のところには、朱書で声点が付され、墨書の「ミタメニ〔御為に〕があるが、 朱書は11世紀、右側の墨書の訓は15世紀に付されたと見られている (推古5《岩崎本》)。 つまり15世紀の人が11世紀につけられた声点の意味を理解して、墨書の訓を書き加えたのである。
《南淵坂田尼寺》
 「南淵坂田寺」が、〈用明紀〉二年に出てきて、 飛鳥の石舞台古墳の近くに検出された廃寺に比定されている。
 これが南淵坂田尼寺と同じなら、坂田寺を建立するという多須奈の誓いは生前には果たされず、の代になって初めて実現したと考えられる。
 そうではなく対になる尼寺だったとすれば、坂田寺は多須奈の代に完成していて尼寺を新しく建立したことになる。ただし、一対の僧寺・尼寺には別々の名がつくのが通例である。
 若しくは、坂田寺創建に関わる二種類の伝承があったことも考えられる。 つまり、鞍部多須奈・鳥親子が坂田寺に関わったことは漠然と伝わっていて、そこから複数の伝説が生まれたのかも知れない。
 〈用明紀〉二年で見たところでは、「坂田寺の出土遺物は7世紀から平安時代」で、 また「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」には、如来像は用明元年〔587〕に快癒を願って造像を発願したが、 生前には完成せず推古十五年〔607〕に造像したとある。
 また、本格的大寺院の嚆矢は何といっても飛鳥寺と思われ、それより古い多須奈の代に本格的な寺院は考えにくい。
 これらを併せて考えると、
南淵坂田寺と南淵坂田尼寺は同一である。
創建は、推古十四年以後。
多須奈が用明天皇の快癒のために寺院の建立を誓ったが生前には果たせず、の代になって実現したとの言い伝えがあった。
 と考えるのが妥当であろう。
《大意》
 五月五日、 鞍作(くらつくり)の鳥(とり)に勅(みことのり)されました。
――「朕は、内典を興隆しようと思う。 まさに仏刹を建てようとして、初めて舎利を求めたとき、 お前の祖父司馬達等(しばたつと)がちょうど舎利を献(たてまつ)った。
 また、国に僧尼はまだおらず、 そのとき、お前の父多須那(たすな)は、 橘豊日天皇(たちばなとよひのすめらみこと)のために、出家して仏法を恭敬した。
 また、お前の姨(おば)嶋女(しまめ)が初めて出家し、 もろもろの尼を導く人となり、以ちて釈教を修行させた。
 今、朕は丈六仏を造るために好ましい仏像を求めていた。 お前が献った仏の例は、朕の心に適った。
 また、仏像を造ることを既に終え、堂に入れることができなかった。 もろもろの工人は工夫することができず、まさに堂の戸を壊そうとしていたが、 しかし汝は戸を壊さずに入れることができた。 これは、皆お前の功績である。」
 このように勅して、大仁(だいにん)位を賜りました。 これにより、近江国坂田郡の田二十町を給わりました。 鳥は、この田の収益によって天皇(すめらみこと)のために金剛寺を作りました。 これが、今にいう南淵(みなふち)の坂田の尼寺です。

《請皇太子令講勝鬘經》
秋七月。
天皇、請皇太子令講勝鬘經、
三日說竟之。
勝鬘経…〈岩〉[声点] 皇太子シメタマフセウ-マン-経キヤウ。 〈図〉マセ〔マキとも読める〕。 〈北野本〔以下北〕〉マキ。 〈閣〉マキテ セ 。 〈図〉添え書き;三日此地■橘寺
まぐ…[他]ガ四 求め尋ねる。
ます…[他]サ下二 「来させる」「いさせる」の尊敬語。
…〈図〉
秋七月(ふみづき)。
天皇(すめらみこと)、皇太子(ひつぎのみこ)に請(こ)ひ勝鬘経(せうまんきやう)を講(と)か令(し)めたまひて、
三日(みか)に[之を]説(と)き竟(を)へり。
是歲。
皇太子亦講法華經於岡本宮、
天皇大喜之、
播磨國水田百町施于皇太子、
因以納于斑鳩寺。
法華経…〈岩〉[声点]。 〈釈〉キヤウ
岡本宮…〈岩崎本〉[添え書き]:右側「此地邊橘寺 在高市郡飛鳥」。左側「始建法隆寺」。
大喜之播磨…〈岩〉ヨロコヒタマヒテ 。 〈図〉喜之播磨
水田戸…〈岩〉水-田
施于皇太子…〈岩〉 オクリ マツリ/オクル
…[動] 自分の金品を広く他人に与える。(古訓) あたふ。しく。はなる。ほとこす。わたる。
ほどこす…[他]サ四 広く及ぶようにする。
…〈岩〉イレ玉フ于斑-鳩寺。 (古訓) いる。をさむ。
是歳(このとし)。
皇太子(ひつぎのみこ)亦(また)法華経(ほけきやう)を[於]岡本宮(をかもとのみや)に講(と)きたまふ。
天皇(すめらみこと)を大(はなはだ)[之を]喜(よろこ)びたまひ、
播磨国(はりまのくに)の水田(た)百町(ももまち)を[于]皇太子(ひつぎのみこ)に施(ほどこ)し、
因(よ)りて以ちて[于]斑鳩寺(いかるがのてら)に納(をさ)む。
《請皇太子》
「請」の古訓の比較
〈岩崎本〉 〈北野本〉 〈図書寮本〉 〈内閣文庫本〉
国立国会図書館デジタルコレクション 国立公文書館 京都国博編/勉誠出版2013
 は、〈岩崎本〉では「マセ」以外には読めない。「坐す〔他動詞;下二〕(上述)を「こふ」の敬体として用いたと見られる。
 〈北野本〉は「マキ」。「ぐ=求める」はあり得る。マグは尊敬語ではないが、少なくとも遜る意味合いは取り除くことができる。 〈図書寮本〉は「マキ」とであろうが「マセ」とも読め微妙。〈内閣文庫本〉はその双方を付す。
 「請(こ)ふ」は基本的に下から上への要望で、さかんに神仏に祈り願うときに使われることにもこの動詞の性格が表れている。 したがって天皇が皇太子を相手とする動詞には使えず、敬体としたのが「ます〔坐す〕(下二)」だと思われるが、 苦し紛れの感を免れない。 〈内閣文庫本〉が「覓ぐ」を併記したのは、やはり「坐す」に疑問を感じたからだろう。 しかし、「覓ぐ」は本来探し求める意味であり、面と向かう相手に要請することとはやや異なる。
 書紀の原文が書かれた時点では、執筆者はコフなる訓みを想定したと考えられる。 それが平安時代の古訓では天皇には絶対敬語を用いるものとし、それを例外なく当てはめようとしたわけである。
 しかし、後文の「水田百町施于皇太子」を見ると、「」には 仏教の先達としての皇太子への敬意が表れている。だから、政治的には天皇は皇太子より上位であるが、 仏教界の格としては聖徳太子は推古天皇より上位にある。
 原文作者は仏教界の上下関係を前提としたと考えられるので、古訓のフィルターを取り除けば「」の訓みは「こふ」・「ねがふ」となろう。
《勝鬘経》
《勝鬘経》~《岡本宮》項における引用文献の略称
〈法隆寺資材帳〉…『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』――『寧楽遺文』竹内理三編;東京堂出版1943/1962
〈花山〉…『花山信勝校訳 勝鬘経義疏』付解説・宝治板勝鬘経義疏(影印);吉川弘文館1977
〈国史大辞典〉…『国史大辞典』吉川弘文館;1979~1997。
〈田村〉…『聖徳太子 勝鬘経義疏・維摩経義疏(抄)』中村元・早島鏡正訳;中央公論新社2007の冒頭解説〔田村晃祐〕。
〈世界大百科事典〉…『改訂新版 世界大百科事典』平凡社;2007。
〈奈文研70〉…『奈良国立文化財研究所年報』〔1970〕p.26「法起寺旧境内の発掘」村上訒一。
〈伊藤寿和11〉…「「条坊呼称法」と「条里呼称法」の導入・整備過程に関する基礎的研究」伊藤寿和。『日本女子大学紀要』文学部vol.60〔2011〕pp.149~169。
〈歴史地名大系〉…『日本歴史地名大系』30奈良県〔平凡社;1981〕
〈飛鳥宮解説〉…『飛鳥宮跡 解説書』関西大学文学部考古学研究室〔奈良県明日香村;2017〕
 勝鬘経(一巻)は、「原題 シュリーマーラーデービー・シンハナーダ・スートラŚrīmālādevī-siṃhanāda-sūtra。 チベット語訳と2種の漢訳(求那跋陀羅(ぐなばだら)訳,菩提流支訳)が現存」し、 求那跋陀羅訳の題名は『勝鬘師子吼一乗大方広方便経』という(〈世界大百科事典〉)。
 「パセーナディ王Pasenadi(波斯匿王)の娘である勝鬘夫人が、仏の威神力を〔う〕けてこの経を説き、釈尊がそれを承認する形をとっている」(〈国史大辞典〉)。
 書紀は太子が勝鬘経を三日かけて講義したと書くから、少なくとも書紀の書かれた時点では、 太子が勝鬘経について深く研究していたと記憶されていたわけである。
 『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』の中に、法華経疏維摩経疏勝鬘経疏が「上宮聖徳王御製」として記されている。 これらは「三経義疏さんぎょうぎしょ」と総称され、 『法華経疏』については、その現物と見られるものが「法隆寺御物」として遺されている〔1975年時点では京都御所に奉安〕。 「義疏」とは経典の注釈書のことである。
 このときの講の筆録をまとめたものが『勝鬘経疏』だと考えると繋がりがよいが、今のところ根拠はない。 むしろ、推古天皇への講の方が伝説で、逆に『勝鬘経疏』の存在から遡って創作されたものかも知れない。
 書紀の成立はこの〈推古〉十四年から114年後であるが、恐らくその時点には三経義疏は法隆寺に所蔵されていて、太子の自筆と伝わっていたと思われる。
 「義疏」は中国で盛んに書かれていたので、三流義疏も中国で書かれたものが倭に持ち込まれたという説も根強い。
 資料[52]において詳しく検討した結果、次のように考えられる。
《三経義疏》
 〈田村〉によれば、『法華経疏』には著しい箇所に誤字があることから、仏教の専門知識が不十分な倭の筆写家が書いたものと見られる。 また、内容については『勝鬘経疏』から一部を訓読したところでは、「第二」という語の使い方の、中国には見られないあいまいさなどの点で明らかに倭習が見られ、 その独自の主張にはオリジナリティーがあり、恐らく倭人による著作であろう。
 それでは、その著者は言われるように「上宮聖徳法王」であろうか。 〈花山〉は、三経義疏はその文体などから「同一著者の撰として疑う余地のないものである」(p.267)と述べる。 もしそんな大人物が上宮太子以外に存在したのなら、その名前が残っていなければならないと思われる。
 よって、上宮太子が三経義疏の著作に少なくとも関わっていたと見るのは妥当であろう。 ただ、単に太子個人の業績ではないと思われる。
 というのは、寺院の建立は国家事業として組織的になされたからである。その中身である仏教教義における経典研究も、また組織的に行われたであろう。 よって、何らかの研究組織があり、上宮太子はその主宰者と見るのが順当か。
 法華経、勝鬘経のついて中国で書かれた義疏が、「本義」として引用されていることが明らかになっている。 それらの文献の学習を基礎として、百済僧、高麗僧の助力も得て組織的に研究されたものと思われる。
 『勝鬘経疏』の中身を見ると、国に仏教を導入するにあたって経典自体の思想を理解し、吟味した上で出発しようとする姿勢が感じられる。 既成の仏教国家の外面のみの真似ではなく、まずその神髄を理解して自ら内面化しようとするのである。
 そして、特に大乗思想により大衆的に信忍を広める立場に、深く同意していたと感じられる。 特に勝鬘経の「善男子善女人」なる言葉が、実際に僧寺と尼寺を常に対で設置する定めに繋がったと思われる。
《法起寺》
〈岩崎本〉十四年七月「岡本宮」の添え書き
右「此地邊橘寺 在高市郡飛鳥」左「始建法隆寺」
 太子(聖徳)は、岡本宮で法華経を講じたという。
 一般的には、平群郡の法起寺が岡本宮の跡とされる。 その根拠とされるのが、鎌倉時代の法隆寺僧顕真の書〈聖徳太子伝私記〉に記された「法起寺塔露盤銘」である。 露盤銘〔の現物は残っていない〕の文は、「山本宮〔岡本宮の誤写であるのは確実〕の殿宇の場所を法起寺にしたと読める。
 1968~1969年の調査では法起寺遺跡のさらに下に建物の遺構が発見され、〈奈文研70〉はこれが露盤銘のいうところの岡本宮であろうと述べている。
 しかし、いくつかの論文の導きによって古文献に当たると、次の事実が確認できる。
 岡本寺は、天平勝宝二年〔750〕には実在していたことが古文書によって確認できる。
 天平十九年〔747〕の『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』が述べる、聖徳太子建立七寺に「池後尼寺」がある。 他にも「法起寺(別名池後寺)」がいくつかの文献に見られるが、いずれも〈七代記〉(宝亀二年〔771〕以前。逸文のみ)などに基づくと見られる。
 法起寺・池子寺・岡本寺の同一視は、鎌倉時代の顕真〈聖徳太子伝私記〉が恐らく最初であろう。
 これに、次の仮定を加える。
 〈仮定〉太子の聖地である斑鳩に、経典の写しを大量に所蔵し必要に応じて貸し出すセンターとして岡本寺が設置された。
 ①②③と〈仮定〉から、岡本寺は現在の法起寺であるが、法起寺の名前で呼ばれるようになったのは鎌倉時代からで、それまでは「法起寺」は伝説のみに出て来る名前であった。 これが本サイトの判断である(詳しくは資料[53])。
《岡本宮》
 太子が法華経を講じた岡本宮の跡地に建った寺だからその名を岡本寺といい、斑鳩の法起寺の別名であるというのが、一般的な考え方である。 しかし、〈舒明天皇紀〉と〈斉明天皇紀〉にも「岡本宮」が出てくる。
 これらついては、神護景雲元年〔767〕の太政官符に「岡本田」の名があり、大官大寺の西にあたると考えられ(〈伊藤寿和11〉)、ここが岡本宮であるとする説が唱えられたことがあった(〈歴史地名大系〉)。
 一方、〈飛鳥宮解説〉によると、それまでは「伝飛鳥板蓋宮跡」と呼ばれていた遺跡が3時期の複合遺跡であることが判明した結果、 2016年に「飛鳥宮跡」に改称された。その第Ⅰ期を舒明天皇の岡本宮、第Ⅱ期を皇極天皇の板蓋宮、第Ⅲ期を斉明天皇以後の後飛鳥岡本宮と対応づけることができる。
 〈斉明紀〉二年で石垣を積んだと述べる「宮東山」は「宮〔=後飛鳥岡本宮〕の東の山」の意味で、その地名「」の遺称が「明日香村大字岡」だと考えられる。
 岡本田については、これが出て来るのは太政官符に限られ宮跡の検出もないようなので可能性は薄れた(詳しくは資料[54])。
 さて、太子が講じた岡本宮は法起寺に限定せず、飛鳥岡本宮周辺も俎板まないたに載せてよいのではないだろうか。 そこで注目されるのは、〈岩崎本〉で「岡本宮」に添えられた「此地辺橘寺。在高市郡飛鳥」なる書き込みである。 橘寺は太子縁の寺で、飛鳥宮跡の南西800mにあたる。 この書き込みは平安時代後期か鎌倉時代のものだろうと思われるが、その頃でもまだ岡本宮の所在地を飛鳥だとする見方が存在したわけである。
 今、候補地である法起寺岡本田飛鳥岡本宮についていくつかの可能性を考える。
 (法起寺説の否定):岡本寺は奈良時代中期以後の名称で、もともと斑鳩に「岡本宮」は存在しなかった。
 (岡本田説を裏付):岡は小墾田の丘を指し、その北側を岡本と言った。講は、推古天皇の小墾田宮の近くで催されたと考えることができる。
 (岡本田説の否定):「岡本田」はごく限られた地名であった。
 (飛鳥岡本宮説を裏付):舒明天皇以前から、ここには「岡本宮」と呼ばれる宮があった。
 (法起寺説否定論の補足):斑鳩が仏教の聖地になるのは、実は太子信仰が盛んになった奈良時代以後であって、太子の生前にはまだ僻地で講を開いて人を集めるような場所ではない。
 (法起寺説を主張):法起寺の下から検出された宮の方位「北20°西」は、若草伽藍と共通する。これは筋違い道と平行であることを考えると、 条坊をもつ小規模な都が作られていて、岡本宮は後の法起寺の場所である。
 (アエオから):当時は飛鳥宮跡が都の中心で、斑鳩の地は太子の拠点ではあるが都から見れば僻地であるから、法華経の講ともに飛鳥の岡本宮で行われたと考えるのが自然であろう。
 はなかなか魅力的な仮説で、これなら斑鳩で催された講に貴族たちを呼んだとしても自然であるが、この場合太子は既に地方権力の主であったことになる。 次項で述べるように太子も一定の独立権力を握っていたと見られるが、条坊制の都までもっていたとは誰も唱えたことがないから、その実証はなかなかの難題である。
 の可能性はあるが、によって否定されたと見るのが順当であろう。
 やはりを推したい。「岡本宮」に郡名を添えないのは、「舒明天皇の岡本宮と同じ場所」が共通理解だったから改めてつける必要がなかったと解釈することもできる。 しかし、奈良時代も半ばを過ぎて、いつしか岡本宮は斑鳩にあったと考えられるようになったのではないか。その筋書きはこうである。
書紀の少し前から太子の神聖化は急速に深まり、斑鳩は太子の聖地となる。
聖地となった斑鳩のひとつの寺に経典の所蔵と貸出を担わせた。その寺には太子の宮の跡という伝承があったので、そこを〈推古紀〉の「岡本宮」と見做して初めて「岡本寺」と名付けた。
 思うに、太子信仰の開始は太子の薨から数十年を経た後で、ほとんどの伝承はそれ以後に作られたものであり、実際の太子の事績とは断絶があると見るべきであろう。 太子の生前において斑鳩は都から離れた土地でまだ仏教の聖地ではなく、従って飛鳥の貴族を集めて講を開くような場所ではなかったと推測する。
《施》
 「」には僧や寺に寄進する意味も、既にあったと思われる。 それは、聖徳太子に施された田を、斑鳩寺の所管に移したと読めるからである。
 この部分の書き方を見ると、太子と寺は独立的にそれぞれの田荘たどころと寺領を所有してたようである。 推古天皇もまた即位前から別業なりどころを私有し、豊浦寺の建立地として寄進した他、海石榴市にも別業をもっていた(資料[48])。
 ここから浮かび上がってくるのは、太子と推古帝にはそれぞれ独立性があったということである。 朝廷には、国家機関として人民に課税して、天皇・皇后・皇子(女)の生活を公的に維持するイメージがあるが、 これは後世になって実現したものではないだろうか。
 中央政権への税収としては、 白猪屯倉みやけ(〈欽明紀〉三十年〔569〕) については、屯倉の田部に「戸籍を脱し課税を免れる者多し」という記述が見られるが、屯倉の税収は主に滞在する官の生活の糧と想像され、中央にははどれほど送られただろうか。 むしろ現地氏族が徴収した中から、一定の割合で上納させる仕組みが考えられる。 庚午年籍(第135回)は670年成立で、 この頃になって、ようやく中央集権的に人民から徴税する仕組みが整っていったようである。
 よって、推古帝の頃には公的な徴税の仕組みは未成熟で、大王クラスであっても出身氏族から、あるいは私的に別業から糧を得るウェイトが高かったのではないか。 また豊浦寺や斑鳩寺、法隆寺などは成立の始めから、教団として寺領をもつ独立的な存在であり、そのまま奈良時代以後の寺領、さらには平安時代の荘園に繋がるようである。 〈元興寺縁起〉縁起(j)で、推古帝が、私有財産から元興寺に寄進するという書き方がなされるのも、そのような社会形態を反映したものであろう。
 この時点ではまだ、天皇、皇后、太子が基本的にそれぞれの別業を私有する独立的存在で、それらが集合して国家権力を形成しているのである。
 群卿百寮についても、中央の官署に出勤して職務に当たっていたのは間違いないだろうが、基本的な生活の支えはそれぞれの出身氏族が所有する別業で、公から十分な禄を賜るのは後世のことではないだろうか。 群卿百寮は各氏族からの出向のようなもので、冠位十二階も名目に留まったかも知れない。 すると、前回に見た十七条憲法は、やはり大化の改新の時期ではないかという考えが強まるのである。
《斑鳩寺》
 斑鳩寺は、ここが初出である。次は〈天智紀〉八年十二月に「災斑鳩寺」があり、この二か所ですべてである。
 一般には斑鳩寺法隆寺の別名で、 創建法隆寺〔若草伽藍(資料[51])といわれる〕を指すと考えられている。 法隆寺五重塔の建材の年代測定の結果は、〈天智〉八年〔669〕の「法隆寺」の記事に見合うが、心柱だけが例外で594年〔推古二年〕と飛びぬけて古いので、焼失した創建法隆寺の心柱を転用した可能性がある。
 ところが〈天智紀〉の八年に「災斑鳩寺」、九年に「災法隆寺 一屋無余」とあり、これが確かな記録であれば斑鳩寺と法隆寺は別寺である。 だとすれば若草伽藍こそが本来の斑鳩寺で、真の創建法隆寺は再建法隆寺と同じ場所にあったのではないだろうか。 もともと「法隆寺」が「一屋無余〔一屋も残すことなく〕燃えたのに、塔の心柱を再利用したとすることには無理があり、 若草伽藍の五重塔はしばらく残っていて、法隆寺再建のときに解体して心柱のみを転用したと考えた方が自然であろう(資料[49])。 なお、若草伽藍の塔心礎の彫り込みは、再建五重塔の心柱とぴったり合う(資料[51]/若草伽藍)。
《大意》
 〔十四年〕七月、 天皇(すめらみこと)は、皇太子(ひつぎのみこ)に請い、勝鬘経(しょうまんきょう)を講じていただき、 三日かけて講を終えました。
 この年、 皇太子(ひつぎのみこ)は、また法華経(ほけきょう)を岡本宮で講じました。 天皇(すめらみこと)は大いに喜び、 播磨国(はりまのくに)の水田百町を皇太子に寄進し、 太子はそのまま斑鳩寺に納入し〔寺領とし〕ました。

《祭祠神祗豈有怠乎》
十五年春二月庚辰朔。
定壬生部。
戊子。
詔曰
「朕聞之、
曩者、我皇祖天皇等宰世也、
跼天蹐地、敦禮神祗、
周祠山川、幽通乾坤。
壬生部…〈岩〉壬-生-部ミフヘ
曩者…〈岩〉朕聞ワレ キク-ムカシ
皇祖…〈岩〉〔ヤ〕天皇タチ ヲサメ給 コト   タマヘル
跼天蹐地…〈岩〉セカゝマリヌキアシゝヌキアシニフミ。 〈図〉セクゝマリ
せかがまる…[自]ラ四 身をかがめる。セクグマルとも。
…[動] (古訓) ぬきあし。
ぬきあし…[名] 「ぬく」は逃れ出る。〈時代別上代〉見出し語なし。〈現代語古語類語辞典〉上代語に挙げる。
敦礼…〈岩〉アツクヰヤヒ給タマフ神祇
周祠…〈岩〉アマ マツリ山川。 〈図〉アマネク
幽通…〈岩〉ハルカニ カヨハス〔メ〕ツチ
十五年(ととせあまりいつとせ)春二月(きさらき)庚辰(かのえたつ)の朔(つきたち)。
壬生部(みぶべ)を定む。
戊子(つちのえね)〔九日〕
詔(みことのり)して曰(のたまはく)
「朕(われ)[之]聞こす、
曩者(むかしは)、我(わが)皇祖(すめらみおや)天皇(すめらみこと)等(ら)世を宰(をさ)めたまひて[也]、
天(あめ)に跼(せかがま)り地(つち)に蹐(ぬきあし)して、敦(あつく)神(あまつかみ)祗(くにつかみ)を礼(ゐやま)ひたまひ、
周(あまねく)山川(やまかは)を祠(まつ)り、幽(はるかなる)乾坤(あめつち)に通(かよ)ひたまふ。

是、以陰陽開和、造化共調。
今當朕世、祭祠神祗、豈有怠乎。
故、群臣共爲竭心、宜拜神祗。」
陰陽…〈岩〉陰陽フユ ナツ
開和…〈岩〉ヒ ケ-ア■イアマナ
造化共調…〈岩〉-/ナシツルコトナシ イツル共-調 レリ。 〈図〉造-化ナシツル調トシ
なしづ…[他]ダ下二 ナシヅルは為シ+出ヅの連体形であろう。
祭祠神祗…〈岩〉イハヒマツル-v〔"祀"と"祇"の間に印をつけて"神"が入ることを示したもの〕
豈有怠乎…〈岩〉豈有
竭心…〈岩〉ツクシ〔ベ〕 ク ヰヤマヒマツル/ウヤマフヰヤヒマツル 神祗
…[動] つくす。(古訓) つく。つくす。ことことく。
是(こ)は、陰(めがみ)陽(をがみ)が開き和(やはら)ぎて、造化(つくりな)し共に調(ととの)へるを以ちてあり、
今当(まさに)朕(わが)世(みよ)に、神祗(あまつかみくにつかみ)を祭祠(いはひまつること)、豈(あに)有怠(おこたりてある)べき乎(や)。
故(かれ)、群臣(まへつきみたち)共に心を竭(つ)くさむが為(ため)に、宜(よろしく)神祗(あまつかみくにつかみ)を拝(をろが)むべし。」とのたまふ。
甲午。
皇太子及大臣、
率百寮以祭拜神祗。
祭拝神祗〈岩〉マツリ〔ハヒ〕〔-〕ウヤマフヰヤ神祗
甲午(きのえうま)〔十五日〕
皇太子(ひつぎのみこ)及(と)大臣(おほまへつきみ)と、
百寮(もものつかさ)を率(ゐ)て以ちて神祗(あまつかみくにつかみ)を祭(いは)ひ拝(をろが)む。
《壬生部》
 壬生部は、皇子の養育を担う職業部として設置され、役割を終えた後も私的な氏族として「○○壬生部」の名前で存続することがあったようである (第162回)。
 ここだけを読むと、その壬生の制度が〈推古〉のときに創始されたが如く読めてしまうが、 記では、既に仁徳天皇段において邪本和気命〔履中天皇〕のために壬生部が設けられている。だから、ここでは「誰のための」壬生であるかが省略されたのであろう。
 この「定壬生部」では文脈から孤立していているが、このような場合はむしろ古記録がそのまま取り入れたものと考えられるので、逆に信憑性がある。 但し、誰のための壬生部かは全く分からない。しかし、山背大兄王やましろのおほえのみこのための壬生部と見るのが順当であろう。
 太子からの系図は記紀では省かれ『上宮聖徳王定説』だけにあり、そこでは山代大兄王〔山背大兄王の別表記〕は太子の子である(第209回)。 そして、〈舒明天皇紀〉の内容を見れば、山背大兄王が本来は皇太子であったことを明らかである。
 そもそも記紀で天皇系列を定式化するまでは太子はオホキミであり、天皇にしてもよかっただろうのが、記紀では推古天皇の摂政に位置付けた。 〈元興寺縁起〉においては、記紀以前は太子が「大王」だったからこそ、推古天皇を「大大王」と呼んだのだろうと推定した。 だから、もともとは太子は実質的に天皇で、山背大兄王がその皇太子として壬生部が定められることを当然とする感覚があったのだろう。
 だが、書紀は最終的に太子を仏教界の聖人に封じ込め、政治の世界の天皇を思わせる子孫の系図を削除し、山背大兄王が皇太子であった事実も抹消した。 それに伴って、「為山背大兄王定壬生部」から「為山背大兄王」を削除したと見ることができる。
《陰陽》
 古訓は、陰陽を冬夏と訓読する。すると「開和造化」は、花開き和し自然が創造されたという意味になる。 すなわち、国土の豊かな自然を愛でる文章と解釈したものである。
 しかし、陰陽造化を神代巻の言葉として読めば、陰陽が伊邪那岐命と伊邪那美命を指すのは明らかである。「開和」は両神が結ばれることで、「造化」は国生み・神生みを表している。
 ただ、「是以」の前に歴代の天皇が神祇を祀り崇拝してきたことを述べているので、「開和造化」は伊邪那岐伊弉冉以来の長い期間全体を指すことになる。 また、「是以」が直接的にかかるのは「今当」以後で、「陰陽開和造化共調」は挿入されてものとして読むこともできる。
 古訓は緑あふれる国土を詩情豊かに描き確かに魅力的であるが、この段の本質は高天原神学の要約だと見るべきであろう。
《祭拝神祗》
 おそらく「祭拝神祗」が歴史的事実であると裏付ける記録はなく、仏法偏重を緩和するために観念的に挿入したものであろう。 何しろ「祭拝神祗」に記述に地名などは伴わず、具体性がないのである。
 専ら仏法の導入に勤しむ太子と推古天皇の姿が描かれてきたが、ここに至り神道への揺り戻しを見せる。
 これまで見てきたように、書紀スタッフの中には仏法導入派と高天原神学原理主義者が派閥をなしていたと見られる。 後者は、書紀前半の伝承部分のために素材集めを担い、研究成果を古事記に結実させた太安万侶らのグループだと思われる(第251回)。
 〈推古紀〉十五年のような文脈を無視した神道尊崇の挿入は、〈欽明紀〉の十六年二月の蘇我稲目の言葉にも見られた。
 さて、神仏習合の体系としての本地垂迹説は10世紀ごろとされる。そこでは、天照大神が大日如来の化身であるなどとして構造化する。
 それよりは明らかに古い〈元興寺縁起〉では、(縁起(k))に中臣連らの「左肩三宝坐右肩我神坐〔左肩に仏、右肩に神を置く〕 とあり、ここではまだ神仏共存のレベルに留まっている。〈元興寺縁起〉には複数の時代の文が混合していると見られるが、この部分が書かれたのは記紀と同時期かと思われる。 書紀編纂の出発点は、天武天皇が唐の進出を警戒して唐に対抗しうる国作りを急ぐ中で、その一環としての歴史書作りだと見た。
 イデオロギー面では、外来思想である仏教に対して国粋的に高天原神学の再興を期した。一例として、伊勢神宮への皇女を派遣を始めた。 但し、天武天皇によってなされた神道の再興は、仏教の否定を伴うものではない。一般人の間では既に、多神教のようにして共存させる感覚があったのだろう。
 確かに〈神代巻〉においては神道再興の面目躍如であるが、〈欽明天皇紀〉の辺りからは歴史書として仏教の隆盛への歩みもまた遠慮なく記述される。 書紀の時代おいては神仏両派は排斥も融合もなく、ただ共存していたのであろう。 ただし、学者レベルで教義を詳しく知れば両者が相容れないのは明らかで、例えば古事記では仏教に関わりそうな記述を欠片かけらも入れないようにしたのは意図的であろう。 このように、書紀スタッフ内部でも一定の緊張関係があったことが伺われる。
《大意》
 十五年二月一日、 壬生部(みぶべ)を定めました。
 九日、 詔を発せられました。
――「朕は聞く。 昔は、我が皇祖天皇らは世を知ろしめし、 天に背を屈め、地に抜き足して、篤く神祗を礼され、 遍く山川を祠(まつ)り、幽遠の乾坤〔=天地〕に通わされた。
 これは、陰陽が開和し〔天地開闢のとき伊弉諾神・伊弉冉神が和合し〕、造化共調〔国生み神産みを共同して整える〕によるもので、 まさに今の朕の世に、豈(あに)神祗への祭祠を怠ることがあろうか。
 よって、群臣(まえつきみたち)と共に心を尽くし、神祗を拝すべし。」
 十五日、 皇太子(ひつぎのみこ)と大臣(おおまえつきみ)〔蘇我馬子〕は、百寮(もものつかさ)を率いて神祗を祭拝しました。


まとめ
 十四年「是歳」に太子が水田100町の施しを受けたことや、推古天皇の「別業」の記述から、太子も私領をもっていたことが分かる。 古くから皇女・皇子の名前にしばしば地名がつくのも、都から離れて地方に領地を賜るのが通例だったのであろう。
 太子の場合はそれ以上に、若草伽藍と法起寺の地下の宮跡の方位が筋違い道と平行することから、条坊制による都が存在した可能性も浮かび上がる。 もしそうなら、法隆寺から法起寺まで包含するほどの広さがあるから、副都と言い得る規模である。 すると、飛鳥の推古天皇との間で、緊張関係のもとに政権運営されたイメージが浮かび上がってくる。
 斑鳩がそんなに立派な都なら、法華経の講は斑鳩に貴族を呼んで開催されたとも考えられるのだが、仏教拠点としては7世紀はまだ飛鳥寺や豊浦寺がある飛鳥地域が中心だったと思われるから、 岡田宮は飛鳥にあったように思える。 何よりも、飛鳥の「岡本宮」は7世紀半ばに確認できるが、斑鳩の「岡本寺」が確認できるのは8世紀半ばだという事実を重んじたい。
 太子と勝鬘経・法華経を講じたとある。太子が講じた中身はどのようなものか、また会場とされる岡本宮はどこにあったのか。 それらを突き止めたいと思って調べたところ、文献が芋づる式に出てきて、一応の結論を得るまでに結局2か月を要した。調べた内容は、資料[52]~[54]にまとめた。
 また、斑鳩寺について調べる過程で「災斑鳩寺」と「災法隆寺」が別々に書かれていることに気づき、これを尊重すると法隆寺五重塔の心柱再利用説がより自然に組み立てられることがわかった。 新しい発見は尽きない。




[22-5]  推古天皇3