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2021.08.08(sun) [22-03] 推古天皇3 ▼▲ |
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8目次 【十二年四月】 《肇作憲法十七條》
日本では、明治憲法の制定に向かう時代に、Verfassung(独)、constitution(英)の訳語に「憲法」があてられた。この訳語の決定にあたって「十七条憲法」が意識されたのは、間違いないと思われる。 明治に訳語として用いた「憲法」が、清の時代の中国にも影響を与えたことも考えられる。 というのは、日本で訳語として、physics→物理学、philosophy→哲学、communism→共産主義などが造語され、それが本家中国語に取り入れられた例は多いからである。 古代中国における「憲法」は〈汉典〉の②のように、法律や規範一般を表す。 和訓において、「憲」、「法」ともにノリが用いられるのもこの意味であろう。 ところが古訓「イツクシキノリ」〔=厳格な法〕には、既に平安時代において十七条憲法を特別視する価値観が含まれている。 書紀が書かれた時点では「憲法」は単なる「きまり」だったのが、「太子の作った十七条の憲法」が神聖化していくのに伴い 「憲法」という語にもそれが及び、特別な語感を伴うようになっていったのだろう。 《条》 条の原意はエダ〔枝〕で、枝を数える助数詞エがある。また「条」にはスジの意味もある。 ヲは細長いものを数える助数詞で、「緒」の意と思われる。ヲチは、接尾辞チをつけたものと思われるが、不詳。 〈推古三十一年秋七月〉には「小幡十二條」とある。 ヲ〔緒〕、スヂ〔筋〕ならどちらも自然な語だが、ヲヂは成り立ちが分からず、ヲとスジが誤って混合した結果かも知れない。 《第一条》 要点の一覧
《和》 前回《岩崎本》の項で見たことから、「やはらぐ」は平安中期、「あまなふ」は室町時代の訓である。 いずれも、他の人と争わない方向に振る舞うことを意味する。 《人皆有党》 「党」は出身氏族や地域などによる派閥であろう。 皆、属する党に閉じこもり、殻を破って広く仲良くする者はなかなかいない。 それができる人物を「達者」というのである。 《論》 倭語「あげつらふ」は書紀古訓がもっとも古い例で、上代に使われた確証はないようである。 恐らくはアグ+テラフ〔掲げて見せびらかす〕であろう。つまり、ことさらに持ち上げて見せつける。 これが意見を交わす意味に拡張されたと見られる。 《大意》 四月三日、 皇太子(ひつぎのみこ)親(みづから)肇(はじめて)憲法(けむほふ、いつくしきのり)十七条(とをあまりななを)を作りたまふ。 ――第一条 和を以って貴きとし、逆らうこと無きを旨とせよ。 人は皆党をなし、悟る人は少ない。 これにより、ある人は君父に順わず、また隣里と違える。 しかし、上に和し下に睦み、論ずる事を調和させれば、事の理は自ら通り、 どうして事の成らぬことがあろうか。 【十二年四月(二)】 《第二条》
仏法への帰依を具体的に奨めるのは、第二条のみである。 十七条憲法の基本的性格としては、群卿・百寮すなわち官僚組織の内部規律を保つ心得集である。 しかし、早くも第二条で仏教が出てくることが、聖徳太子による制定という印象を強めるものとなっている。 《四生》 四生は「ムマレ」〔うまれ〕と訓まれるが、 仏教用語は音読みが多い。「四生の終」を「うまれのをわり」と訓むと、背景にある輪廻思想が弱まってしまう。 《万国之極宗》 「万国之」という語が、仏教が天竺から唐、そして百済・高句麗を経て日本に伝わったとの認識によることは間違いないであろう。 極宗は、四生からその終わりまでの悩みを直視し、その問題意識をつきつめて生み出した思想であることを表している。 《直枉》 「直枉」から連想されるのは、伊邪那岐命の禊のシーンである。 伊邪那岐命は、黄泉の国で穢れた体を川で浄めた。 その穢れた垢から出現したのが八十禍津日神・大禍津日神で、それを直す神が神直毘神・大直毘神であった (第43回)。 このように、枉(まがり)を直すという考え方は、神道のものである。 それに対して、仏教への帰依とは煩悩でいっぱいの身が修行を積んで解脱を目指すものであり、「枉を直す」という考えにはなじまない。 飛鳥時代には、まだ仏教を神道の延長線上で捉える傾向があったということであろう。 それは、飛鳥寺の仏舎利の副葬品に古墳文化の名残が見えることにも、同質のものを感ずる。 《第三条》
「君」は明らかに天皇のことであるが、十七条憲法には「天皇」号を用いていないところが注目される。 これは、十七条憲法が「天皇」号開始以前の時代から存在した文書であり、かつ聖徳太子の神聖化とともに後から手を加えることが憚られる性質の文書であることを示すと見ることができる。 なお、ここでは「君」をオホキミと訓読してもよいかも知れない。 《天之》 「之」は形式目的語で、直前の文字を動詞化する。 従って、「君則天之」=「君即以レ是為レ天」である。 《臣》 オミは宮廷に仕える者。ヤツコは自らを遜って称する語だから臣が「ヤツコ」と称するのは一人称のときのみである。 ここでは臣に向かって心構えを説く文だから、古訓が用いたヤツコ、ヤツコラマは不適切であろう。 一人称のみに使う語を、誤って一般化したものと思われる。 《四時順行》 「四時順行」とは、豪雨や旱魃などの極端な気象現象がなく四季が順調に経過するという意味であろう。 「順行」の古訓は「めぐりゆく」と思われるが、「お〔こなふ〕」も併記されている。古訓には一文字目だけを記すことがしばしば見られ、興味深い。 《自敗》 自の古訓はオノヅカラであるが自然崩壊というよりも、一族が敢えなくも自滅したも同然であると読むべきであろう。 従って、ミヅカラと訓んだ方がよいと思われる。 《第四条》
群卿の古訓マチキミタチは、〈倭名類聚抄〉にも「大臣:於保伊万宇智岐美」とある。 マチキミ・マウチキミは、マヘツキミ〔前ツ君;ツは属格の助詞〕の音便と見られる。 タチについては、上代語にキムダチ〔王の一族、公達に通ずる〕があり、複数の称〔つまり「群-」〕である。 《位次不乱》 「次」の古訓ツイテは、ツギテの音便と見られる。 自動詞ミダル[下二]に対応する他動詞は、上代はミダル[四段]とされる(〈時代別上代〉)。 その前の「有レ礼」を、仮定条件と見れば「礼あらば~乱らざらむ」、 恒常条件なら「礼あれば~乱らず」と訓読することになる。 「憲法」だから話者の願望よりも事象を客観的に記述する文体の方が適すると考えれば、 恒常条件の方となる。 ただ、実際に已然形で訓んでみるとどうもインパクトが弱い。未然形にした方が「これが望ましい」という気持ちが強く感じられる。 《百姓》 「百姓」は、貴族や群卿百寮を除く平民を指すとも考えられるが、むしろ宮廷に出仕する者を代表とする諸族と読んだ方が文意に合う。 語源的には「百の姓=それぞれの姓をもつ諸族の集合体」である。 十七条憲法では、通常の「オホムタカラ」なる古訓が付けられていない。第十六条で見る「民」と同様に、 書紀以前の訓が一般的に存在していたように思われる。可能性の一つとしては、そのまま「ももつかばね」かも知れない。 あるいは音よみの「ひやくしやう」が既に一般化していたことも考えられる。 《第五条》
古訓は「餮:あぢはひ〔味わい〕、あぢはひのむさぼり〔貪り〕」、「欲:たから〔財〕ほしみ」。すなわち、美食を貪り、財産をがめつく求めると読む。 古訓は拡張的に意訳されており、これは平安時代に十七条憲法が広く読まれていたことの現れであろう。 《頃・須》 「頃」〔このごろ〕、別本の「須」〔すべからく〕はどちらでも文意が通じ、決め難い。 《見賄聴讞》 「見」の古訓「ミ」は不適切である。「見」は受け身の助動詞で、賂を贈られたと読むのが妥当。 「聴」は「聴政」など、統治する意味もある。「讞」は判決の意味だから、主語は裁判官で「賄賂を贈られ判決を下す」意味となる。 このことから「治レ訟者」=裁判官であることが明らかとなる。 《如石投水/似水投石》 石を水に投げ込めば水は大きく乱れるが、水を石に投げつけても石は微動だにしない。 財力によって裁判の結果が左右される現状を述べる。もちろん、これは許されないと第5条はいうのである。 《臣》 「臣」をヤツコと訓むことの誤りは、前述した。 ただ、オミには多くの場合美称のニュアンスを伴う。 この条文は、裁判官としての臣の心得を言う。この場合の臣は上から裁く立場だから、ますますオミであろう。 《大意》 ――第二条 三宝を篤く敬え。 三宝とは、仏法僧をいう。 すなわち四生(しじょう)の終わりは万国の究極の宗に帰す。 いつの世の誰が、この法を貴ばずにおれよう。 人は最も悪い人はわずかである。よく教えて従わせよ。 三宝に依らずして、どうやって曲がりを直すのか。 ――第三条 詔(みことのり)を承れば、必ず慎んで受けよ。 君はこれを天とし、臣はこれを地とする。 天が空を覆って地が戴いてこそ四時は順行し、万気が通い得る。 地が天を覆おうとすれば、破壊に至るのみ。 これによって、君が宣(のたま)い臣は承り、上が行い下は靡(なび)く。 よって、詔を承れば必ず慎んで受けよ。さもなければ自ら敗れよう。 ――第四条 群卿や百寮は、礼を基本とせよ。 民を治める基本は、必ず礼にある。 上に礼なければ下は整わず、 下に礼なければ必ず罪となる。 よって、群臣に礼があれば位の秩序は乱れず、 百姓に礼があれば国家は自ら治まるだろう。 ――第五条 貪(むさぼ)り食うことを絶ち欲求を棄て、明晰に訴訟を指揮せよ。 百姓(ひゃくせい)の訴えは、一日に千件あり、 一日すらその有様なのに、況(いわん)や歳を重ねてをや。 この頃は〔(ある書では)須(すべか)らく〕訴えを裁く者は、利益を得ることを常とし、 賂(まいない)を受け弁論を聴く。 財をもつ人の訴えは石を水に投げこむようなものであり、 貧乏な人の訴えは水を石に投げつけるようなものである。 このように、貧民はなすすべを知らず、 臣の道はまたここにも欠けている。 【十二年四月(三)】 《第六条》
「こる」は上二段活用で、現代語の「懲りる」となる。 古訓の「コラシ」は、他動詞のコル〔四段〕に、動詞語尾ス〔四段〕がついた形である。 スは軽い尊敬であるが、コラシムに似るから使役かも知れない。 古訓コラスがあるから、平安時代には使われていたが、『現代語古語類語辞典』は上代語に入れている。 ただ〈時代別上代〉によると、コル[四段]は「受け身の助動詞ルの接した形の一例のみ」という。 従って、コラスが上代まで遡るかどうかは不明である。 同じ「懲らしめる」意味の語に、キタムがある。 キタム[下二]は、〈続紀〉延暦八年〔789〕の詔に「支多米賜倍久」〔きためたまふべく〕により、奈良時代後半まで遡ることができる。 〈皇極紀-三年七月〉の歌謡「宇智岐多麻須母」〔うちきたますも〕は、キタム[四段]の未然形+動詞語尾スである。 だから、飛鳥時代にはキタム[四段]があったと見ることができる。従って、上代語の訓みとしてはコラスよりキタムの方が確実である。 《其》 文頭の「其」は時には何らかの強調を伴うようだが、形式的に付けることも多いようである。 漢文には句読点がないから、しばしば文の境界を明確に示すために置いたと思われる例が見られる (魏志倭人伝をそのまま読む(47)【「其」の文法】)。 《利器/鋒剣》 第六条では、諂(へつら)ひ詐(あざむ)く者の危険性を語るのに、かかる人物は国家を覆す利器であり人民を絶つ鋒剣であると述べる。 その「鋒剣」への古訓「スグレタルツルギ」は、あまりにも不適切である。 「すぐる」は上代から「優る」意で、誉め言葉である。 人民の命を絶つ危険なタイプの人物を責める文脈において、このような褒め言葉を用いて形容することはあり得ないだろう。 この訓は、文脈を見ず熟語を孤立的に解釈してしまった故であろう。 この一例だけをとっても、古訓を無批判に受け入れて訓読すればそれでよしとするのは、無気力な態度と言えよう。 「利器=鋭利な武器」の方は、「利し」の意味が「聡し」なら不適切だが、 単に物理的な性質〔よく切れる〕なら価値観を伴わない語として理解し得るから、ぎりぎりセーフであろう。 《第七条》
「宣」の右下にク、左下にシの送り仮名が付くのは、「よろしく」、「べし」と再読することを示している。 この訓点は、十五世紀のものかと思われる。影印本〔京都国立博物館;2013〕の解説によると、 訓点は、平安中期・院政期・室町の三種類が加えられ、そのうち室町の訓点は奥書から宝徳三年〔1451〕、文明六年〔1474〕と考えられている。 室町時代ではあるが、平安中期の訓点〔朱書〕を尊重して補足したものとなっている。 《爲官以求人》 「以求人」の「以」は「不求官」と字数を揃えるために付けたものだから、特に訳出する必要はないだろう。 ここでは「為官以求人。為人不求官」、すなわち人事とは定められた役職に適材を配するものであって、 或る人物を優遇するためにわざわざ役職を作るのは本末転倒であるという。 《第八条》
この条が設けられたのは、こう言っておかないと遅刻・早退をする不心得者が出てくるからであろう。 普通の職場の雰囲気が感じられ、何となく親近感を覚える。 《盬》 盬 古訓「いとま(暇)なし」でもそれなりに意味は通るが、原文とは全く内容が異なる。 古訓者は「盬」という字の意味を実は調べきれず、大体当てはまりそうな読み方をしたかと思われる。 《第九条》
事の古訓ワザは、事柄・行為を意味する和語で、コトと変わらない。 ただ「万事悉」=「ヨロヅノコトコトゴトク」はあまり優雅でないので、古訓ワザを用いておく。 《成敗》 「成敗」の古訓はナルナラヌであるが、それぞれが後文の「何事不成」〔反語文〕と、 成・敗のそれぞれが「万事悉敗」に対応するから、最初の「敗」もヤブルと訓んだ方がよいだろう。 《共信》 「群臣共」の"共"は、次の「群臣无信」と揃えるために入れたもので、殆ど意味はない。 《大意》 ――第六条 懲悪勧善は、昔の良い法典である。 これを用いて、人の善を隠さず悪を見たら必ず正せ。 諂(へつら)い欺く者は、 国家を覆す鋭利な刃物となり、 人民を絶つ鉾剣(ほこつるぎ)となろう。 また、心ねじれて媚びる者は、 上に向かえば下の誤りを説くことを好み、 下に逢えば上の過失を誹謗する。 このような人は 皆、君に忠なく民に仁なく、 大いなる乱れの元である。 ――第七条 人にはそれぞれの任務があり、職掌を濫用(らんよう)しないようにせよ。 賢哲を官に任ずれば、頌声(ひんせい)〔=褒め称える声〕が沸き起こる。 姦人(かんじん)〔=心ねじれた人〕が官を続ければ、禍いや乱れが頻繁となろう。 世に生まれながらに知る人〔=聖人〕は少なく、剋念〔=よい心がけ〕により聖人に成長する。 事の大小によらず、賢人を得れば必ず治まり、 時の緩急によらず、賢人に遇えば自ずから平穏となろう。 これにより、国家は永遠で、社稷(しゃしょく)〔=国家〕に危うさはなくなる。 ちなみに、古(いにしえ)の聖王は、 官のために〔役職に適する〕人を求めたのであって、人のために官〔役職を作ること〕を求めなかった。 ――第八条 群卿(まちきみたち)百寮(ももつかさ)は、早く出勤し、遅く退出せよ。 公事に脆(もろ)いこと〔容易にこなせること〕などなく、一日かけてもやり尽くすことは難しい。 よって、遅く出勤したのでは急ぎに間に合わず、 早く退出したのでは要件をやり尽くせない。 ――第九条 信はこれこそ義の元で、事毎に信がある。 善悪や成否には、必ず信がある。 群臣(まちきみたち)に共に信があれば、成らぬことなどあろうか。 群臣に信なければ、万事は悉く敗れるであろう。 【十二年四月(四)】 《第十条》
忿・瞋は、『例文仏教語大辞典』〔小学館;1997〕によると、 法相宗が説くのは「大煩悩」として、貪・瞋・痴・慢・疑・悪見。 「随煩悩二十」として、忿・恨・覆・悩・慳・嫉・誑…〔以下略〕が見える。 根本にあるのが「大煩悩」で、そこから派生する多くの煩悩を「随煩悩」と呼ぶようである。 第十条は、仏法の教義を説くというよりは、怒りを相手にぶつける前に自分を顧みよという心得である。 そのイカルの表記として、仏教用語の文字を用いたということであろう。 《如鐶无端》
古訓ミミカネは図左の類がイメージされたと考えられる。しかし、文意に合う形は右側の腕飾りである。 ということは、訓はクシロ、タマキ〔手纏〕の方が適切かと思われる。 賢と愚は棒の両端のような排他的な概念ではなく、鐶のように連続しているという。 つまり、賢策は異なる立場から見れば愚策になり得ることを、どこまで行っても限りのないリングに喩えている。 《彼人雖瞋》 「彼人雖レ瞋還恐二我失一」は自分が叱られたときに反発せず自分の失策を反省せよとも読める。 しかし、冒頭で「不レ怒二人違二」〔人が自分と違っていても怒るな〕 というから、人を怒りたくなった時は、その前にまず自分自身を振り返れという意味である。 「還」という語は、後者を感じされる。前者なら「不抗」などを用いると思える。 従って、「彼人」は受事主語〔行為の対象を主語として置く〕である。 《我独雖得》 「我独雖レ得従レ衆同挙」、すなわち自分のアイディアが優れていると思っても、協調性を崩すなという。 常に相手の考えの方が優れている可能性があることも頭に入れて、対等な仲間として付き合うのがよい。 《第十一条》
「国司」が始めて本格的に使われたのは、孝徳天皇の大化元年〔645〕である。 同年八月に東国の国司に発した詔があり、その権限や性格を比較的具体的に定めている。 特に注目されるのが、次の部分である。 「若有二求レ名之人一、元非二国造伴造県〔主〕稲置一而輙詐訴言下、自二我祖時一領二此官家一治二上是郡県一、汝等国司不レ得三隨レ詐便牒二於朝一、審得二実用一而後可レ申。」 〔若し名を求める人有りて、元より国造・伴造・県主・稲置に非ずして詐(いつは)り訴(うた)へて言はく 「我が祖の時より此れ宮家に領(あづか)り是の郡県(こほりあがた)を治めり」といひへども、 汝等(いましら)国司、詐(いつはり)の隨(まにま)に便(たやすく)朝(みかど)に牒(まをすこと)を得ず、審(つまひらかに)実(まことに)用ゐることを得て後に申す可し〕 すなわち、国造・伴造・県主・稲置を自称して公認を求める者がいるが、 その言のまま安易に牒〔報告書〕を上げず、詳細に調べてからにせよという。 もともと国造・伴造・県主・稲置は、地方を領する王を中央政権が地方官として追認した名目上の称号と思われる。 国造本紀や〈延喜式-祝詞〉の「六県」(第195回《五村苑人》)から見て、郡程度の規模であったと見られる。 これらは飛鳥時代前半までと思われ、以後地位としては消滅するが、姓として残るわけである。 そして大化の改新において、新たに直轄の官として国司が定められる。 国司の称は大宝律令〔701〕でも維持され、四等官(守 「国司」の始まりが大化元年〔645〕頃だとすれば、十七条憲法の成立はそれ以後である。 書紀にはそれ以前に、〈雄略天皇記〉の「任那国司」、〈清寧天皇記〉の「播磨国司」、 〈崇峻天皇紀〉の「河内国司」」が見えるが、伝説的で時代を遡って称を用いたものと思われる。 十二条で「国司国造」と並列するのは、国司に切り替えた直後を物語っている。 ただ、大化二年の詔は「東国」の国司が対象なので、畿内などでは既に「国司」の称が始まっていた可能性もあるが、 それにしても推古十二年〔604〕と大化元年〔645〕では間隔が長すぎる。 十七条憲法は650年前後に成立したものを聖徳太子作として崇高化したか、または十二条は後から付け加えたと考えるのが妥当かも知れない。 《斂》 斂は、集まる・集める意であるが(収斂)、特に税を取り立てる意味がある。「賦斂」ともあるから、この意味であろう。 すなわち、朝廷と国造による二重徴税、もしくは朝廷に上納する税の中抜きを非難する。 《国非二君》 国司および国造は朝廷から遣わされた宰 すると「国司国造」という言い方からは、国造=王を、国司=宰に置き換えたというニュアンスも取れる。 ならば、やはり少なくとも十二条は大化の改新の時期かと思える。 《第十三条》
「才優於己」は、〈岩崎本〉右側の黒色訓点〔室町〕の「マサレハ」は已然形、〈図書寮本〉の訓点の「マサルトナラハ」は未然形である。 已然形の場合は恒常条件で、「他人の才が自己に勝れば嫉妬するものである」という客観記述となる。 未然形の場合は「他人の才が自己に勝るとなれば、嫉妬するであろう」という未確定の前提による構文となる。 どちらでも可能だが、憲法という性質上、前者の客観記述体の方が適しているかも知れない。 已然形が仮定条件に用いられるようになったのは、近世(江戸時代。もしくは安土桃山+江戸)とされる※ので、 〈岩崎本〉の訓点はまだ仮定条件の時代のものではないと見てよいだろう。 ※…『文章と表現』〔阪倉篤義;角川書店1975〕。 才能ある人に嫉妬して引き摺り下ろしてはならない。賢聖は国の財産だから大切にしろという。 《第十五条》
わがままを通せば人に恨みが生まれ、その結果損なわれるのは協調性である。 古訓では、協調性を整然として一糸乱れぬ様=「トトノホル」と表現する。 より「同」に近い語の、オナジ、ヒトシ、トモニスなどでも全く差し支えない。 《哉》 哉の古訓は「カナ」。この「かな」について、〈時代別上代〉は、これが見られるのは上代には常陸風土記の一例だけで、 その音仮名の中に一文字だけ訓仮名「津」が混ざるから〔後世に付した仮名と見られ〕、「この一例だけで上代にカナの存在したことを積極的に立証できるか、疑わしい」という。 《第十六条》
古訓においては民は常にオホムタカラで、タミと訓むのは例外的である。 十七条憲法は書紀古訓時期以前から訓読されていた可能性がある。その頃の訓オミは既に一般化していて、今更オホムタカラが受け入れられる余地がなかったと考えられる。 《第十七条》
古訓では、二つ目のモロモロにはサ変動詞をつけて「もろもろす」と訓むが、やや舌足らずの感がある。 むしろ「与衆」と次の「衆」は両方とも「もろもろとともにす」と訓み、幅広い議論に委ねることをきちっと言った方がよいと思われる。 《不可必衆》 不可必衆は部分否定の構文で、「否定の副詞+可能の助動詞+副詞+動詞」の構造をしている。 この「不可」を「~べからず」と訓むと全否定となり、「必ずしも」との折り合いが悪い。 訓読は、うまく部分否定の意を表すような工夫が必要となる。 《大意》 ――第十四条 群臣百寮は、嫉妬心を持つな。 我が既に人を嫉(ねた)んだとき、人もまた我を嫉んでいるものである。 嫉妬の憂えは、その極みを知らない。 そのために、知恵が自分より優れていれば喜ばず、 才能が自分より勝っていれば嫉妬する。 ところが、五百年来のまさに今、賢者に遭遇しているかも知れず、 千年に一人の聖人を待つことは難しい。 賢者聖人を得ることなしに、どうやって国を治めることができよう。 ――第十五条 私心には背を向け公を向くのが、臣の道である。 凡そ人に私心があれば必ず恨みが起こり、恨みがあれば必ず協調できず、 協調できないから、結局私心が公を妨げる。 恨みが起これば定めを違え法を損なう。 よって、初めの章において、上下が和して調和せよといった、 それもまたこの心による。 ――第十六条 民に使役を課すのに、時期の判断を用いることは、古(いにしえ)の良き法である。 つまり、冬には閑散期があり、その時期に民に使役を課すべきである。 春から秋までの農業養蚕の時期には、民を使うべからず。 農業せずに何を食するか。養蚕せずにどうやって衣を着るか。 ――第十七条 事は独断せず、必ず多数で論議すべし。 小事で軽ければ、必ずしも多数で行うことはない。 ただ、大事は論議にかけ、もし誤りが疑われるときは、 多数で論じて、言辞の理を得よ。 【十七条憲法の構成】
《群卿百寮》 群卿の訓「マチキミタチ」は「前 すなわち、群卿百寮は、結局宮廷に仕える官の集団を指す。 《仏教》 仏教に関する部分は第二条のみで、仏法僧に敬意を持てというにとどまる。 《儒教》 儒教では「仁・義・礼・智・信」を五徳という。これに三綱「忠・孝・悌」を加えた八つの徳目が『南総里見八犬伝』にも出てくる。 第六条では、国家安泰のための基本原理として、忠・仁を用いている。第三条も同じく君臣の序を説いたものであるが、こちらで用いた「天地」は陰陽道の概念である。 第四条では、礼を秩序を保つため原理とする。 第九条では、信は義〔=論理〕の泉源であり、すべてに貫かれるべきとする。 また、群臣の横の関係の基盤に信を置けという。だから、信は上下関係に関してはニュートラル〔中立〕である。 智については、知性〔intelligence〕と捉えられており、 第十四条で、智に優れた人の足を引っ張るなと言い、第七条では「知」は生まれながら備わったものではなく、努力して身に付けるものだとする。 このように、儒教の徳目が官僚の規律を裏付けるものとして援用されているのは明らかである。 なお、八徳目のうち孝〔親子間〕・悌〔夫婦間〕が出てこないのは、十七条憲法の対象がやはり官僚であることを示している。 《民》 民・百姓に対する言及は、五条、六条、十二条、十六条にある。 このうち、第十二条は国家に納める税を地方領主が横取りするするなと言っているだけだから、農民を大切にせよという趣旨ではない。 第十六条は、農作業の季節に役(えたち)〔=徴用〕を課してはならないという。休息すべき時期に引っ張り出すのだから、全く仁とは言えない。 第六条は、「民には仁を」と言うが、本質的には苛政によって反乱に決起させることを警戒してのことである。 結局、真に民への仁を語るのは、裁判は貧富によらず公正に行えという第五条だけである。 全体として民に冷淡なのは、官僚向けの文書だからであろう。 《種別》 各条文は、次のような種別によって分類することができよう。 ●規則(7)…無条件に守るべき規則が、比較的端的に短く書かれている。秩序を保つための命令系統や服務規律の類である。 ●道徳(6)…心得というべきものである。自分勝手を抑えよく話し合って協力して成果を得ることを求める。内面的な成長を要請するものである。 ●政策(3)…これも規則ではあるが、実現には相当の努力を要しむしろ政策的目標というべきもので、長文となっている。 ●宗教(1)…意外にも第二条のみである。 全体として、官僚の行動や態度に向けられたものということができる。 あまり系統だっていないので、一度にまとめて書かれたものというよりは一定の時間をかけて積み重ねられたもののようにも思われる。 ただ、簡潔な中に意味がよく通る文になっていて、なかなかの文章力が感じられる。 これに比べると弘仁私記序、元興寺伽藍縁起、古語拾遺などは、かなり読みにくい。 また、書紀にしばしば見られる漢籍を下敷きにして韻文を作ったような部分は今のところ見つからず、オリジナルであろうと思われる。 《党》 第一条「人皆有レ党」〔人は、皆属する党がある〕と、 第十二条「国司国造勿レ斂二百姓一」〔人民から税を取るな〕を併せると、 在地独立勢力の連合体から中央集権へという指向性が浮かび上がってくる。 それに伴い、官僚組織を出身氏族の利害を代表して調整する機関ではなく、対象を客観視してフラットに議論し、 いわば「三人寄れば文殊の知恵」を生み出す体制にしようとするのである。 これが十七条憲法の主要な狙いではないだろうか。 孝徳天皇大化二年〔646〕の詔の最初に 「罷二昔在天皇等所レ立子代之民処々屯倉及別臣連伴造国造村首所レ有部曲之民処々田荘一。仍賜二食封大夫以上一各有差。…」 〔昔在りし天皇の立てたる子代(みこしろ)、処々(ところどころの)屯倉(みやけ)及び別・臣連(おみむらじ)伴造(とものみやつこ)村首(すぐり)の所有(もてる)部曲(かきべ)の民、処々の田荘(たどころ)を罷(や)めよ。 仍(すなはち)食封(じきふ)を大夫(たいふ)以上(いじやう)に賜(たまは)る。各(おのおの)差(しな)有り。〕とある。 すなわち、官僚による田荘(たどころ)の私有を廃止し、税を直接国家に納めさせ各官僚に支給する形を目指す。 実際には、この改革は大宝令〔701〕の頃まで及ぶ長い事業だったと考えられている。 この改革に伴い、官司は自己の領地の直接支配から離れ、国家のために立案する集団の一員になることが望まれる。 このように考えると、十七条憲法の内容が現実と噛み合うのは、大化の改新以後ということになる。 一般に、偉大な業績の端緒を古い大王に遡らせることは珍しくない。それは例えば崇神天皇に調の始め(男弓端之調、女手末之調)、依網池の始め、斎王の始めを置いている。 同様に十七条憲法を聖徳太子に遡らせることは、十分考えられる。 ただ、これだけの文章力をもつ真の執筆者を大化以後に見つけるのは大変である。 まとめ 十七条憲法は、官司が氏族の利益代表の集まりではなく、朝廷にフラットに仕えて合議で政策を決める集団になるべきだと促す文書である。 この課題は大宝令までの長い期間、ずっと継続していたと思われる。 しかし、十二条で考察したように、国造を廃して国司を置いた大化の改新の時期に、成立した可能性が一番高いように思われる。 だとすれば、その頃に洗練された文章を作る能力に優れた誰かが、権威付けのために聖徳太子の名前を使って仕立て上げたことになる。 もしそうでないとするなら、聖徳太子が先駆的にこの問題意識をもっていたことになる。その可能性も、実は捨てきれない。 というのは、冠位十二階の制定は、唐に倣って塊としての官僚組織を太子が整えようとしたと考えられるからである。 ただ、その場合でも十二条だけは大化の改新の時期にに追加された〔最初から十七条なら置き換え〕ように思われる。 何れにしても、十七条憲法の成立はまだ「天皇」の呼称のない時代で、この形で既に広まっていたから、書紀も「君」や「君父」を「天皇」に置き換える作為ができなかったと思われる。 もし、書紀編纂の時点で十七条憲法の存在が一般にあまり知られていなかったとすれば、絶対に「天皇」にしたはずである。 さらには、早い時期から既に訓読されて「民」の訓にはタミが定着していたから、古訓もオホムタカラにできなかったと考えられる。 |
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2021.10.29(fri) [22-04] 推古天皇4 ▼▲ |
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9目次 【十二年九月~十四年四月】 《詔凡出入宮門以兩手押地兩脚跪之》
この頃、朝礼を改定をした。内容は、宮門の出入りの作法〔両手を突き両足を跪づく〕と、 服装の規定〔褶の着用〕である。 冠位十二階、十七条憲法とともに、官吏に作法を教える一環と言える。 これも、後世に定めたルールを太子の名によって崇高化したと考えられる。 ただ、官僚を組織として整備しようとする太子の努力は、実際になされたと考えてよいのではないか。 《黄書画師》 〈姓氏家系大辞典〉は、「黄文画師 キブミノヱシ:職業部の一」、 「貴文〔ママ〕の義につきては、考証※に「黄文は黄薬もて経巻を染むる由の名にして、則ち仏経を云へり。 仏経を造りものする、職なる事著し」とあるに従ふべし」とする。 ※…考証は、日本書紀通証〔国学者谷川士清(ことすが)著。全35巻;1762〕のことか。 『通釈』〔飯田武郷1899:江戸時代の諸注釈の集成。刊本:大鐙閣1923〕に、 「通証云。山谷薬名詩。天竺黄巻在。註󠄀謂二仏書一。斎宮式忌詞。経称二染紙一。とあり」 〔『通証』は、山谷薬名詩に天竺黄巻あり。注に仏書という。斎宮式忌詞に経を「染紙」と称するとある〕とあるからである。 黄文は〈天武紀〉十二年九月に「…黄文造…凡卅八氏賜レ姓曰レ連。」とあり、連姓を賜る。 〈姓氏家系大辞典〉によれば、黄文 この時期、飛鳥寺を始めとして伽藍の建立が活発化するが、それとともに修行する僧も増え、経典を大量に複写しなければならない。 その経典の装丁作業を担うものとして、ここに黄書画師・山背画師が登場するわけである。 《共同発誓願》 「詔皇太子大臣及諸王諸臣共同発誓願」を受けたと見られる記述が、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(以後〈元興寺縁起〉)にあり、 「歳次癸酉〔613〕 正月九日馬屋戸聡耳皇子 受レ勅記二元興寺等之本縁 及等与弥気命之発願 并諸臣等発願一也」と述べる。 《銅繡丈六仏像》 〈釈紀〉は"ノ"を挟んで「銅繡の丈六仏像」、すなわち「銅繡」を修飾語として「丈六仏像を二体造った」という訓み方をする。 後に出てくる「丈六銅像」が、「銅繡丈六仏像」の略だと考えたからであろう。〈岩崎本〉もヲコト点によって「銅繡の丈六の仏の像」とするから同様である。 しかし、その後の文中に「各」、「並」があるから、二体の仏像は「銅繡仏像」と「丈六仏像」を示すとしか読めない。 ちなみに、〈元興寺縁起〉で仏像の安置場所を述べたところでは「銅丈六」は講堂、「繍」は八角円堂に安置したと書く。 また〈元興寺縁起〉に付属する『丈六光銘』には「釋迦丈六像銅繍二躯」とあり、 "釈迦丈六像"と"銅繍〔像〕"が別の像であることを明確に表す書き方になっている(次項)。 《各一躯》 ここには「丈六銅像」を鳥が見事に戸を壊さずに納めたという面白い話が載るが、それでは残りの一体はどこに安置されたのであろうか。 この二体の行方に触れた文章は、〈元興寺縁起〉にある(縁起(k))。 曰く「地東有二十一丈大殿一 銅丈六作奉 西有二八角円殿一者繍奉」 〔地の東に十一丈の大殿有りて丈六を作り奉り、西に八角円殿有りて〔銅〕繍を奉りき〕。 「繍」本来の意味は刺繍で、実際「中宮寺天寿国繍帳」(資料[53])のようなものも存在するが、 『丈六光銘』には 「以二銅二萬三千斤 金七百五十九兩一敬二-造釋迦丈六像銅繍二躯并挾侍一」とあるから、「繍」は銅繍像であろう。 「西の八角円殿」は飛鳥寺跡には存在しないので、平城京移転後の元興寺の八角円殿※のことが紛れ込んだ可能性を考えた。〔※…西塔院はその跡地か〕 このように、銅繍像については書紀には何も書かれず、〈元興寺縁起〉でもあやふやである。 《鞍作》 鞍作について〈姓氏家系大辞典〉は、大和の鞍部、高麗族の鞍部、河内の鞍部などを挙げる。 次の五月段に「祖父司馬達等」「父多須那」の名がある(下述)。 《黄金三百両》 高麗大興王からプレゼントされた黄金三百両は、『丈六光銘』では「三百二十両」となっている。 『漢書』-「律暦志上」によれば、一両=14.2gだから、三百両=4.26kgである (〈元興寺縁起〉丈六光銘)。 『三国史記』 によればこの時期の高句麗王は嬰陽王で、590年に即位し「嬰陽王【一云平陽】諱元【一云大元】平原王長子也。」と書かれる。 〈推古〉十三年は、嬰陽王十六年にあたる。一般には大興王は嬰陽王と同一と考えられている。 《褶》 〈釈紀-述義〉「褶 唐には朝参に着用しべしとする「袴褶の制」があった。 もともとの意味: 褶…①テフ〔チョウ〕。裏地のついた服。あわせ。 《斑鳩宮》 法隆寺東院の下層から宮殿跡が検出され、それが斑鳩宮かといわれている(用明元年【斑鳩宮】)。 《鞍作鳥之秀工》 鞍作鳥之秀工は、 「鞍作鳥の配下の秀れたる匠たちが」と読み取るのが自然であろう。 《設斎》 斎にあたる語として、イモヒ〔斎戒、転じて精進の会食〕が源氏物語にある。 古訓のヲガミス〔拝み+サ変動詞〕の、ヲガミはもともと拝礼の動作である。 この一般的な語を仏教語に当てたと考えられるが、結局はイモヒが一般的になる。 ヲガミスは古訓学者の間で使われたが、それ以上の広がりがなかったと思われる。 イハヒスも考えられ、これなら間違いなく上代に存在した語だが神道のイメージが強いので、仏教においては敢えて別の言い方を用いたのかも知れない。 上代にはそこまで考えず、そのままイハヒヲマウクと訓んだ可能性もありそうに思える。 《四月八日/七月十五日》 四月八日は、言うまでもなく灌仏会〔釈迦の誕生を祝う〕である。 現在の日本では誕生仏に甘茶を注ぐ風習になっているが、飛鳥時代から恐らく清浄な水をかける習慣があった。 〈元興寺縁起〉に「灌仏之器隠蔵」〔攻撃から守るために隠す〕などとあるからである(縁起(c))。 七月十五日は、道教では「中元」という。 古くは三元斎という行事があり、上元(1月15日)に天宮、中元に地官、下元(10月15日)に水官に対してそれぞれ懺悔する。
〔十二年〕九月、 朝廷の礼を改め、 詔を発布しました。 ――「凡(おおよ)そ宮門の出入りは、 両手で地面を押し両脚を跪き、 閾(しきい)を越えたら立ち上がって行け。」 是の月、 初めて黄書(きふみ)の画師(えかき)、山背(やましろ)の画師(えかき)を定めました。 十三年四月一日、 天皇(すめらみこと)は、皇太子〔聖徳〕、大臣、諸王、諸臣に詔して、 共同で誓願を発しました。 こうして、始めて銅繡、丈六の仏像を各一体造り、 鞍作(くらつくりべ)の鳥(とり)に命じ、造仏工とされました。 この時、高麗(こま)国の大興王(だいきょうおう)は、 日本国の天皇が仏像をお造りになると聞き、 黄金三百両〔4.26kg〕を貢上しました。 閏七月一日、 皇太子、諸王諸臣に命じて、褶(ひらおび)を着用させました。 十月、 皇太子は斑鳩宮(いかるがのみや)に居住しました。 十四年四月八日、 銅繡、丈六の仏像をともに造り終わりました。 是の日、 丈六の銅像を元興寺の金堂に安置しました。 その時、仏像の高さは金堂の戸より高く、堂に納めることができませんでした。 そして、もろもろの工人たしは相談して、「堂の戸を壊して納めましょう」と申し上げました。 しかし、鞍作の鳥配下の優秀な工人は、戸を壊さずに堂に入れることができました。 この日、 設斎(せっさい)〔会食を伴う拝礼の集い〕を行いました。 会に集まる人は多く、その数に勝るものはないでしょう。 この年から寺毎に、 四月八日、七月十五日の設斎を開始しました。 10目次 【十四年五月~十五年二月】 《勅鞍作鳥曰朕欲興隆內典》
司馬達等が仏舎利を手に入れて蘇我馬子に献上した記事が、〈敏達〉十三年にある。 「鞍部村主司馬達等」が 蘇我馬子らと斎食(いもひ)したときに手に入れた仏舎利を披露した。 《汝父多須那》 多須那の出家の記事は、〈用明紀〉二年四月二日。 〈用明紀〉(二年)に「鞍部多須奈【司馬達等子也】」が、 用明天皇の快癒を願い出家修道を申し出、南淵坂田寺の建立を誓った(下述)。丈六仏木像と挾侍の菩薩が安置される。 《汝姨嶋女初出家》 司馬達等は、〈敏達〉十三年に娘の嶋女を出家させ、 尼〔戒名善信尼〕として修業させた。 鳥は司馬達等の孫だから、嶋女はたしかに鳥の姨(おば)である。 《堂》 〈岩崎本〉は、堂をミヤと訓むが、〈同〉十四年四月のところでは「堂」に声点をつけているから音読み(ダ 《為》
ところが、為の中には明らかに訓読みであるにも関わらず、声点がついているものがある。 もともと「為」にはA「ス〔do〕」とB「タメ〔for〕」の二つの意味があり、 詩韻によって区別される。Aは平声〔左下に○〕、Bは去声〔右上に○〕である。 〈岩崎本〉の「為」は、(ア)去声B(◳)、または(イ)声点なしである。 Bは現代の辞書でも同じく去声でタメである。(イ)はすべてスと見られる。 したがって、声点がつく「爲」は、 「音読みせよ」という意味ではなく、「この"為"は、doではなくforである」ことを示すためにつけたものである。 つまり、「この"為"はタメと訓め」と指示したと見られる。 五月戊午の「多須那為」の"為"のところには、朱書で声点が付され、墨書の「ミタメニ」〔御為に〕があるが、 朱書は11世紀、右側の墨書の訓は15世紀に付されたと見られている (推古5《岩崎本》)。 つまり15世紀の人が11世紀につけられた声点の意味を理解して、墨書の訓を書き加えたのである。 《南淵坂田尼寺》 「南淵坂田寺」が、〈用明紀〉二年に出てきて、 飛鳥の石舞台古墳の近くに検出された廃寺に比定されている。 これが南淵坂田尼寺と同じなら、坂田寺を建立するという多須奈の誓いは生前には果たされず、鳥の代になって初めて実現したと考えられる。 そうではなく対になる尼寺だったとすれば、坂田寺は多須奈の代に完成していて尼寺を新しく建立したことになる。ただし、一対の僧寺・尼寺には別々の名がつくのが通例である。 若しくは、坂田寺創建に関わる二種類の伝承があったことも考えられる。 つまり、鞍部多須奈・鳥親子が坂田寺に関わったことは漠然と伝わっていて、そこから複数の伝説が生まれたのかも知れない。 〈用明紀〉二年で見たところでは、「坂田寺の出土遺物は7世紀から平安時代」で、 また「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」には、如来像は用明元年〔587〕に快癒を願って造像を発願したが、 生前には完成せず推古十五年〔607〕に造像したとある。 また、本格的大寺院の嚆矢は何といっても飛鳥寺と思われ、それより古い多須奈の代に本格的な寺院は考えにくい。 これらを併せて考えると、 ①南淵坂田寺と南淵坂田尼寺は同一である。 ②創建は、推古十四年以後。 ③多須奈が用明天皇の快癒のために寺院の建立を誓ったが生前には果たせず、鳥の代になって実現したとの言い伝えがあった。 と考えるのが妥当であろう。 《大意》 五月五日、 鞍作(くらつくり)の鳥(とり)に勅(みことのり)されました。 ――「朕は、内典を興隆しようと思う。 まさに仏刹を建てようとして、初めて舎利を求めたとき、 お前の祖父司馬達等(しばたつと)がちょうど舎利を献(たてまつ)った。 また、国に僧尼はまだおらず、 そのとき、お前の父多須那(たすな)は、 橘豊日天皇(たちばなとよひのすめらみこと)のために、出家して仏法を恭敬した。 また、お前の姨(おば)嶋女(しまめ)が初めて出家し、 もろもろの尼を導く人となり、以ちて釈教を修行させた。 今、朕は丈六仏を造るために好ましい仏像を求めていた。 お前が献った仏の例は、朕の心に適った。 また、仏像を造ることを既に終え、堂に入れることができなかった。 もろもろの工人は工夫することができず、まさに堂の戸を壊そうとしていたが、 しかし汝は戸を壊さずに入れることができた。 これは、皆お前の功績である。」 このように勅して、大仁(だいにん)位を賜りました。 これにより、近江国坂田郡の田二十町を給わりました。 鳥は、この田の収益によって天皇(すめらみこと)のために金剛寺を作りました。 これが、今にいう南淵(みなふち)の坂田の尼寺です。 《請皇太子令講勝鬘經》
〈北野本〉は「マキ」。「覓 「請(こ)ふ」は基本的に下から上への要望で、さかんに神仏に祈り願うときに使われることにもこの動詞の性格が表れている。 したがって天皇が皇太子を相手とする動詞には使えず、敬体としたのが「ます〔坐す〕(下二)」だと思われるが、 苦し紛れの感を免れない。 〈内閣文庫本〉が「覓ぐ」を併記したのは、やはり「坐す」に疑問を感じたからだろう。 しかし、「覓ぐ」は本来探し求める意味であり、面と向かう相手に要請することとはやや異なる。 書紀の原文が書かれた時点では、執筆者はコフなる訓みを想定したと考えられる。 それが平安時代の古訓では天皇には絶対敬語を用いるものとし、それを例外なく当てはめようとしたわけである。 しかし、後文の「水田百町施二于皇太子一」を見ると、「施」には 仏教の先達としての皇太子への敬意が表れている。だから、政治的には天皇は皇太子より上位であるが、 仏教界の格としては聖徳太子は推古天皇より上位にある。 原文作者は仏教界の上下関係を前提としたと考えられるので、古訓のフィルターを取り除けば「請」の訓みは「こふ」・「ねがふ」となろう。 《勝鬘経》
「パセーナディ王Pasenadi(波斯匿王)の娘である勝鬘夫人が、仏の威神力を承 書紀は太子が勝鬘経を三日かけて講義したと書くから、少なくとも書紀の書かれた時点では、 太子が勝鬘経について深く研究していたと記憶されていたわけである。 『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』の中に、法華経疏・維摩経疏・勝鬘経疏が「上宮聖徳王御製」として記されている。 これらは「三経義疏 このときの講の筆録をまとめたものが『勝鬘経疏』だと考えると繋がりがよいが、今のところ根拠はない。 むしろ、推古天皇への講の方が伝説で、逆に『勝鬘経疏』の存在から遡って創作されたものかも知れない。 書紀の成立はこの〈推古〉十四年から114年後であるが、恐らくその時点には三経義疏は法隆寺に所蔵されていて、太子の自筆と伝わっていたと思われる。 「義疏」は中国で盛んに書かれていたので、三流義疏も中国で書かれたものが倭に持ち込まれたという説も根強い。 資料[52]において詳しく検討した結果、次のように考えられる。 《三経義疏》 〈田村〉によれば、『法華経疏』には著しい箇所に誤字があることから、仏教の専門知識が不十分な倭の筆写家が書いたものと見られる。 また、内容については『勝鬘経疏』から一部を訓読したところでは、「第二」という語の使い方の、中国には見られないあいまいさなどの点で明らかに倭習が見られ、 その独自の主張にはオリジナリティーがあり、恐らく倭人による著作であろう。 それでは、その著者は言われるように「上宮聖徳法王」であろうか。 〈花山〉は、三経義疏はその文体などから「同一著者の撰として疑う余地のないものである」(p.267)と述べる。 もしそんな大人物が上宮太子以外に存在したのなら、その名前が残っていなければならないと思われる。 よって、上宮太子が三経義疏の著作に少なくとも関わっていたと見るのは妥当であろう。 ただ、単に太子個人の業績ではないと思われる。 というのは、寺院の建立は国家事業として組織的になされたからである。その中身である仏教教義における経典研究も、また組織的に行われたであろう。 よって、何らかの研究組織があり、上宮太子はその主宰者と見るのが順当か。 法華経、勝鬘経のついて中国で書かれた義疏が、「本義」として引用されていることが明らかになっている。 それらの文献の学習を基礎として、百済僧、高麗僧の助力も得て組織的に研究されたものと思われる。 『勝鬘経疏』の中身を見ると、国に仏教を導入するにあたって経典自体の思想を理解し、吟味した上で出発しようとする姿勢が感じられる。 既成の仏教国家の外面のみの真似ではなく、まずその神髄を理解して自ら内面化しようとするのである。 そして、特に大乗思想により大衆的に信忍を広める立場に、深く同意していたと感じられる。 特に勝鬘経の「善男子善女人」なる言葉が、実際に僧寺と尼寺を常に対で設置する定めに繋がったと思われる。 《法起寺》
一般的には、平群郡の法起寺が岡本宮の跡とされる。 その根拠とされるのが、鎌倉時代の法隆寺僧顕真の書〈聖徳太子伝私記〉に記された「法起寺塔露盤銘」である。 露盤銘〔の現物は残っていない〕の文は、「山本宮」〔岡本宮の誤写であるのは確実〕の殿宇の場所を法起寺にしたと読める。 1968~1969年の調査では法起寺遺跡のさらに下に建物の遺構が発見され、〈奈文研70〉はこれが露盤銘のいうところの岡本宮であろうと述べている。 しかし、いくつかの論文の導きによって古文献に当たると、次の事実が確認できる。 ①岡本寺は、天平勝宝二年〔750〕には実在していたことが古文書によって確認できる。 ②天平十九年〔747〕の『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』が述べる、聖徳太子建立七寺に「池後尼寺」がある。 他にも「法起寺(別名池後寺)」がいくつかの文献に見られるが、いずれも〈七代記〉(宝亀二年〔771〕以前。逸文のみ)などに基づくと見られる。 ③法起寺・池子寺・岡本寺の同一視は、鎌倉時代の顕真〈聖徳太子伝私記〉が恐らく最初であろう。 これに、次の仮定を加える。 〈仮定〉太子の聖地である斑鳩に、経典の写しを大量に所蔵し必要に応じて貸し出すセンターとして岡本寺が設置された。 ①②③と〈仮定〉から、岡本寺は現在の法起寺であるが、法起寺の名前で呼ばれるようになったのは鎌倉時代からで、それまでは「法起寺」は伝説のみに出て来る名前であった。 これが本サイトの判断である(詳しくは資料[53])。 《岡本宮》 太子が法華経を講じた岡本宮の跡地に建った寺だからその名を岡本寺といい、斑鳩の法起寺の別名であるというのが、一般的な考え方である。 しかし、〈舒明天皇紀〉と〈斉明天皇紀〉にも「岡本宮」が出てくる。 これらついては、神護景雲元年〔767〕の太政官符に「岡本田」の名があり、大官大寺の西にあたると考えられ(〈伊藤寿和11〉)、ここが岡本宮であるとする説が唱えられたことがあった(〈歴史地名大系〉)。 一方、〈飛鳥宮解説〉によると、それまでは「伝飛鳥板蓋宮跡」と呼ばれていた遺跡が3時期の複合遺跡であることが判明した結果、 2016年に「飛鳥宮跡」に改称された。その第Ⅰ期を舒明天皇の岡本宮、第Ⅱ期を皇極天皇の板蓋宮、第Ⅲ期を斉明天皇以後の後飛鳥岡本宮と対応づけることができる。 〈斉明紀〉二年で石垣を積んだと述べる「宮東山」は「宮〔=後飛鳥岡本宮〕の東の山」の意味で、その地名「岡」の遺称が「明日香村大字岡」だと考えられる。 岡本田については、これが出て来るのは太政官符に限られ宮跡の検出もないようなので可能性は薄れた(詳しくは資料[54])。 さて、太子が講じた岡本宮は法起寺に限定せず、飛鳥岡本宮周辺も俎板 今、候補地である①法起寺、②岡本田、③飛鳥岡本宮についていくつかの可能性を考える。
イの可能性はあるが、ウによって否定されたと見るのが順当であろう。 やはりキを推したい。「岡本宮」に郡名を添えないのは、「舒明天皇の岡本宮と同じ場所」が共通理解だったから改めてつける必要がなかったと解釈することもできる。 しかし、奈良時代も半ばを過ぎて、いつしか岡本宮は斑鳩にあったと考えられるようになったのではないか。その筋書きはこうである。
《施》 「施」には僧や寺に寄進する意味も、既にあったと思われる。 それは、聖徳太子に施された田を、斑鳩寺の所管に移したと読めるからである。 この部分の書き方を見ると、太子と寺は独立的にそれぞれの田荘 ここから浮かび上がってくるのは、太子と推古帝にはそれぞれ独立性があったということである。 朝廷には、国家機関として人民に課税して、天皇・皇后・皇子(女)の生活を公的に維持するイメージがあるが、 これは後世になって実現したものではないだろうか。 中央政権への税収としては、 白猪屯倉 よって、推古帝の頃には公的な徴税の仕組みは未成熟で、大王クラスであっても出身氏族から、あるいは私的に別業から糧を得るウェイトが高かったのではないか。 また豊浦寺や斑鳩寺、法隆寺などは成立の始めから、教団として寺領をもつ独立的な存在であり、そのまま奈良時代以後の寺領、さらには平安時代の荘園に繋がるようである。 〈元興寺縁起〉縁起(j)で、推古帝が、私有財産から元興寺に寄進するという書き方がなされるのも、そのような社会形態を反映したものであろう。 この時点ではまだ、天皇、皇后、太子が基本的にそれぞれの別業を私有する独立的存在で、それらが集合して国家権力を形成しているのである。 群卿百寮についても、中央の官署に出勤して職務に当たっていたのは間違いないだろうが、基本的な生活の支えはそれぞれの出身氏族が所有する別業で、公から十分な禄を賜るのは後世のことではないだろうか。 群卿百寮は各氏族からの出向のようなもので、冠位十二階も名目に留まったかも知れない。 すると、前回に見た十七条憲法は、やはり大化の改新の時期ではないかという考えが強まるのである。 《斑鳩寺》 斑鳩寺は、ここが初出である。次は〈天智紀〉八年十二月に「災斑鳩寺」があり、この二か所ですべてである。 一般には斑鳩寺は法隆寺の別名で、 創建法隆寺〔若草伽藍(資料[51])といわれる〕を指すと考えられている。 法隆寺五重塔の建材の年代測定の結果は、〈天智〉八年〔669〕の「災二法隆寺一」の記事に見合うが、心柱だけが例外で594年〔推古二年〕と飛びぬけて古いので、焼失した創建法隆寺の心柱を転用した可能性がある。 ところが〈天智紀〉の八年に「災斑鳩寺」、九年に「災法隆寺 一屋無余」とあり、これが確かな記録であれば斑鳩寺と法隆寺は別寺である。 だとすれば若草伽藍こそが本来の斑鳩寺で、真の創建法隆寺は再建法隆寺と同じ場所にあったのではないだろうか。 もともと「法隆寺」が「一屋無余」〔一屋も残すことなく〕燃えたのに、塔の心柱を再利用したとすることには無理があり、 若草伽藍の五重塔はしばらく残っていて、法隆寺再建のときに解体して心柱のみを転用したと考えた方が自然であろう(資料[49])。 なお、若草伽藍の塔心礎の彫り込みは、再建五重塔の心柱とぴったり合う(資料[51]/若草伽藍)。 《大意》 〔十四年〕七月、 天皇(すめらみこと)は、皇太子(ひつぎのみこ)に請い、勝鬘経(しょうまんきょう)を講じていただき、 三日かけて講を終えました。 この年、 皇太子(ひつぎのみこ)は、また法華経(ほけきょう)を岡本宮で講じました。 天皇(すめらみこと)は大いに喜び、 播磨国(はりまのくに)の水田百町を皇太子に寄進し、 太子はそのまま斑鳩寺に納入し〔寺領とし〕ました。 《祭祠神祗豈有怠乎》
壬生部は、皇子の養育を担う職業部として設置され、役割を終えた後も私的な氏族として「○○壬生部」の名前で存続することがあったようである (第162回)。 ここだけを読むと、その壬生の制度が〈推古〉のときに創始されたが如く読めてしまうが、 記では、既に仁徳天皇段において邪本和気命〔履中天皇〕のために壬生部が設けられている。だから、ここでは「誰のための」壬生であるかが省略されたのであろう。 この「定壬生部」では文脈から孤立していているが、このような場合はむしろ古記録がそのまま取り入れたものと考えられるので、逆に信憑性がある。 但し、誰のための壬生部かは全く分からない。しかし、山背大兄王 太子からの系図は記紀では省かれ『上宮聖徳王定説』だけにあり、そこでは山代大兄王〔山背大兄王の別表記〕は太子の子である(第209回)。 そして、〈舒明天皇紀〉の内容を見れば、山背大兄王が本来は皇太子であったことを明らかである。 そもそも記紀で天皇系列を定式化するまでは太子はオホキミであり、天皇にしてもよかっただろうのが、記紀では推古天皇の摂政に位置付けた。 〈元興寺縁起〉においては、記紀以前は太子が「大王」だったからこそ、推古天皇を「大大王」と呼んだのだろうと推定した。 だから、もともとは太子は実質的に天皇で、山背大兄王がその皇太子として壬生部が定められることを当然とする感覚があったのだろう。 だが、書紀は最終的に太子を仏教界の聖人に封じ込め、政治の世界の天皇を思わせる子孫の系図を削除し、山背大兄王が皇太子であった事実も抹消した。 それに伴って、「為山背大兄王定壬生部」から「為山背大兄王」を削除したと見ることができる。 《陰陽》 古訓は、陰陽を冬夏と訓読する。すると「開和造化」は、花開き和し自然が創造されたという意味になる。 すなわち、国土の豊かな自然を愛でる文章と解釈したものである。 しかし、陰陽と造化を神代巻の言葉として読めば、陰陽が伊邪那岐命と伊邪那美命を指すのは明らかである。「開和」は両神が結ばれることで、「造化」は国生み・神生みを表している。 ただ、「是以」の前に歴代の天皇が神祇を祀り崇拝してきたことを述べているので、「開和造化」は伊邪那岐伊弉冉以来の長い期間全体を指すことになる。 また、「是以」が直接的にかかるのは「今当」以後で、「陰陽開和造化共調」は挿入されてものとして読むこともできる。 古訓は緑あふれる国土を詩情豊かに描き確かに魅力的であるが、この段の本質は高天原神学の要約だと見るべきであろう。 《祭拝神祗》 おそらく「祭拝神祗」が歴史的事実であると裏付ける記録はなく、仏法偏重を緩和するために観念的に挿入したものであろう。 何しろ「祭拝神祗」に記述に地名などは伴わず、具体性がないのである。 専ら仏法の導入に勤しむ太子と推古天皇の姿が描かれてきたが、ここに至り神道への揺り戻しを見せる。 これまで見てきたように、書紀スタッフの中には仏法導入派と高天原神学原理主義者が派閥をなしていたと見られる。 後者は、書紀前半の伝承部分のために素材集めを担い、研究成果を古事記に結実させた太安万侶らのグループだと思われる(第251回)。 〈推古紀〉十五年のような文脈を無視した神道尊崇の挿入は、〈欽明紀〉の十六年二月の蘇我稲目の言葉にも見られた。 さて、神仏習合の体系としての本地垂迹説は10世紀ごろとされる。そこでは、天照大神が大日如来の化身であるなどとして構造化する。 それよりは明らかに古い〈元興寺縁起〉では、(縁起(k))に中臣連らの「左肩三宝坐右肩我神坐」〔左肩に仏、右肩に神を置く〕 とあり、ここではまだ神仏共存のレベルに留まっている。〈元興寺縁起〉には複数の時代の文が混合していると見られるが、この部分が書かれたのは記紀と同時期かと思われる。 書紀編纂の出発点は、天武天皇が唐の進出を警戒して唐に対抗しうる国作りを急ぐ中で、その一環としての歴史書作りだと見た。 イデオロギー面では、外来思想である仏教に対して国粋的に高天原神学の再興を期した。一例として、伊勢神宮への皇女を派遣を始めた。 但し、天武天皇によってなされた神道の再興は、仏教の否定を伴うものではない。一般人の間では既に、多神教のようにして共存させる感覚があったのだろう。 確かに〈神代巻〉においては神道再興の面目躍如であるが、〈欽明天皇紀〉の辺りからは歴史書として仏教の隆盛への歩みもまた遠慮なく記述される。 書紀の時代おいては神仏両派は排斥も融合もなく、ただ共存していたのであろう。 ただし、学者レベルで教義を詳しく知れば両者が相容れないのは明らかで、例えば古事記では仏教に関わりそうな記述を欠片 《大意》 十五年二月一日、 壬生部(みぶべ)を定めました。 九日、 詔を発せられました。 ――「朕は聞く。 昔は、我が皇祖天皇らは世を知ろしめし、 天に背を屈め、地に抜き足して、篤く神祗を礼され、 遍く山川を祠(まつ)り、幽遠の乾坤〔=天地〕に通わされた。 これは、陰陽が開和し〔天地開闢のとき伊弉諾神・伊弉冉神が和合し〕、造化共調〔国生み神産みを共同して整える〕によるもので、 まさに今の朕の世に、豈(あに)神祗への祭祠を怠ることがあろうか。 よって、群臣(まえつきみたち)と共に心を尽くし、神祗を拝すべし。」 十五日、 皇太子(ひつぎのみこ)と大臣(おおまえつきみ)〔蘇我馬子〕は、百寮(もものつかさ)を率いて神祗を祭拝しました。 まとめ 十四年「是歳」に太子が水田100町の施しを受けたことや、推古天皇の「別業」の記述から、太子も私領をもっていたことが分かる。 古くから皇女・皇子の名前にしばしば地名がつくのも、都から離れて地方に領地を賜るのが通例だったのであろう。 太子の場合はそれ以上に、若草伽藍と法起寺の地下の宮跡の方位が筋違い道と平行することから、条坊制による都が存在した可能性も浮かび上がる。 もしそうなら、法隆寺から法起寺まで包含するほどの広さがあるから、副都と言い得る規模である。 すると、飛鳥の推古天皇との間で、緊張関係のもとに政権運営されたイメージが浮かび上がってくる。 斑鳩がそんなに立派な都なら、法華経の講は斑鳩に貴族を呼んで開催されたとも考えられるのだが、仏教拠点としては7世紀はまだ飛鳥寺や豊浦寺がある飛鳥地域が中心だったと思われるから、 岡田宮は飛鳥にあったように思える。 何よりも、飛鳥の「岡本宮」は7世紀半ばに確認できるが、斑鳩の「岡本寺」が確認できるのは8世紀半ばだという事実を重んじたい。 太子と勝鬘経・法華経を講じたとある。太子が講じた中身はどのようなものか、また会場とされる岡本宮はどこにあったのか。 それらを突き止めたいと思って調べたところ、文献が芋づる式に出てきて、一応の結論を得るまでに結局2か月を要した。調べた内容は、資料[52]~[54]にまとめた。 また、斑鳩寺について調べる過程で「災斑鳩寺」と「災法隆寺」が別々に書かれていることに気づき、これを尊重すると法隆寺五重塔の心柱再利用説がより自然に組み立てられることがわかった。 新しい発見は尽きない。 |
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⇒ [22-5] 推古天皇3 |