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2021.03.28(sun) [22-01] 推古天皇1 ▼▲ |
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1目次 【即位前~即位】 豐御食炊屋姬天皇、天國排開廣庭天皇中女也。……〔続き〕 2目次 【元年九月~是歳】 秋九月。改葬橘豐日天皇於河內磯長陵。……〔続き〕 3目次 【二年~七年】 《詔皇太子及大臣令興隆三寶》
『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』の「香壹拾陸種」〔一十六種〕の項に、浅香、薫陸香、青木香、丁子香、安息香、甘松香、楓香、蘇合香と並べて、 「沈水香十両」、「沈水香八十六両」が見える。 図書寮本・北野本の訓チムは直感的には「沈-水」全体に付したように見える。〈釈紀〉も「沈」にチ、「水」にムを振っている。 しかし、ヨレリが「漂着」の中央から下についているから、チムは「沈」のみに付されたかも知れない。 ただ、チムスイとよむのならスイも付したのではないかとも思われ、判断は難しい。 それでも、仮に平安時代の沈水香の一般的な呼称がヂムだったしても、もともとのヂムスイの略なのは明らかである。 《将軍等至レ自二筑紫一》 〈崇峻四年〉〔591〕十一月には、紀男麻呂宿祢などを差配して筑紫に二万余の軍勢を集結させた。 しかし、この推古三年〔595〕七月に配備を解いて都に帰還したと読める。 結局渡海することはなかったと思われる。 すると二万余の軍勢が3年8か月滞在していたことになり、その間の食料をどうしていたかが気になるところである。 その手配を担ったとすれば、那津之口官家の仕事であろう(〈宣化元年五月〉【那津之口官家】)。 一方、〈崇峻五年〉《筑紫将軍》の項で、 「倭は軍勢の準備と同時に、吉士(きし)木蓮子(いたび)を遣わして「問ヒキ二任那事一」というから、 交渉を有利に運ぶために、返事によっては軍を送る構えを見せたのであろう。 このときに一定の言質を得て軍勢を解いた」可能性を考察した。 だとすれば、兵は既にこのときに解散し、将軍だけが残っていたと考えた方が自然かも知れない。 《為二君親之恩一》 内閣文庫本は、「君親之恩」に送り仮名ヲをつけるから、「為」はスまたはナスと訓むようである。 「君親」は、古訓ではキミオヤと見られるが、「君親」は「君主がしたしく」「君主みづから」の意でも使うようである。 文脈から見てこの文が意味するところは、諸臣連が推古帝または厩戸皇子「三宝を興隆すべし」との詔を受け、その恩に応えようとして競って仏舎を建てたということである。よって、「為」は「~のために」である。 三宝とは「仏法僧」のことだが、「君への忠、親への孝」は儒教思想であるから、「親」をオヤと訓むと方向がずれる。だからここの「君親」は「君主 and 父母」ではなく、 「君(きみ)の親(ちか)しき」と訓むべきであろう。 《棟梁》 棟(むね)梁(うつはり)は直訳である。たとえこの倭語に耳慣れなくとも、リーダーを屋台骨に喩えたのだなと理解できるであろう。 ただし、恐らく書紀以外には使わない訓みであろう。 〈続紀〉を見ると棟梁は三か所にあり、そのひとつは〈養老五年六月戊戌〉「百済沙門道蔵。寔惟法門袖領。釈道棟梁。」 〔百済の沙門〔=僧〕道蔵、寔(まこと)惟(これ)法門の袖領。釈道の棟梁なり。〕である。 袖領もまたリーダーを意味し、直訳すれば「そでくび」だが、これが一般的に使われていたとはとても思えない。 袖領は音読みで、よって棟梁も音読みされたであろう。 《五年冬十一月癸酉朔甲子》
古写本は、岩崎本、北野本、図書寮本、内閣文庫本(卜部本系統;16~17世紀)とも「甲子」であることを疑う余地はない(右図)。 それとは別に、図書寮本は「十一月朔」となっていて「癸酉」を欠き、北野本は「十一月朔」に「癸酉」を傍書している。 北野本の訓点は図書寮本とほぼ同じだが、(図)オ→(北)ヲの変化が見られるから、北野本の訓点は図書寮本に従って付けたと考えられる (推古1《図書寮本と北野本》)。 従って、北野本は図書寮本に欠けていた「癸酉」を傍書したと見られる。 書紀の暦をエミュレートした〈元嘉暦モデル〉によると、推古五年の各月の朔は右表の通りである。 北野本は、当時の暦本または岩崎本によって図書寮本に欠けていた干支を調べて補った可能性がある。 以後それが引き継がれ、内閣文庫本でも正字で「十一月癸酉朔甲子」と書かれている。 となれば、図書寮本以前の本は「冬十一■■■朔甲子」の形で伝わり、「十一」も本当は「十二」であって、その下の線が擦れたものと仮定すると、 「冬十二月癸卯朔甲子」〔二十二日〕となり、これが一番自然ではないかと思われる。
鹿はごくありふれた動物だから、特別の鹿だったからこそ献上されたはずである。「白鹿」はおそらくアルビノであろう。 訓みは「しらしか」または「しろしか」がありそうに思えるのだが、この語の使用例はないようで各種古語辞典にも載らない。 しら-たか(白鷹)、しろ-うま(白馬)などに見られる連結は、一般的に存在する品種の場合に生ずるようだ。 突然変異の場合は、連体形を使い、「しろきしか」らしい。 「白雉」の場合も、「しろきぎし」「しらきぎし」という言い方はなく、古訓は「シロキキゝス」となっている。 鹿の古訓カセギは、書紀古訓の語で、〈時代別上代〉は、上代にも見出していない。 わざと一般的でない語を使って書紀を権威付け、大衆から遠ざけたのであろう。鹿をシカまたはカと訓むことには何の問題もない。 《大意》 二年二月一日、 皇太子(ひつぎのみこ)と大臣(おほまへつきみ)に及びて詔(みことのり)され、三宝を興隆させました。 この時、諸々の臣(おみ)連(むらじ)らは、それぞれ君親の恩の為に競って仏舎を造りました。 すなわちこれを寺といいます。 三年四月、 沈水(じんすい)が淡路嶋に漂着し、その大きさは一抱えありました。 嶋の人は沈水を知らず、薪に混ぜて竃(かまど)で燃やすと、 その煙は遠く薫り、よって不思議なことなのでこれを献上しました。 五月十日、 高麗僧の慧慈(えじ)が帰化し、皇太子(ひつぎのみこ)〔=聖徳〕が師事しました。 この年、 百済僧の慧聡(えそう)が帰化しました。 この両僧は、仏教を弘演し、並べて三宝の棟梁(とうりょう)とされました。 七月、 将軍らが筑紫から帰還しました。 四年十一月、 法興寺を造り終え、 大臣(おほまへつきみ)の子、善徳臣(ぜんとくおみ)は寺司(てらつかさ)を拝しました。 この日、 慧慈・慧総二僧は法興寺(ほうこうじ)に住み始めました。 五年四月一日、 百済王は王子阿佐を派遣し、朝貢しました。 十一月の甲子の日 〔十二月二十二日〕、 吉士(きし)の磐金(いわかね)を新羅に遣わしました。 六年四月、 難波の吉士磐金(いわかね)は、新羅から帰国し、鵲(かささぎ)二羽を献上しました。 そこで難波の杜(もり)で養育させ、これにより枝に巣を作り、卵を産みました。 八月一日、 新羅は孔雀一羽を貢ぎました。 十月十日、 越国(こしのくに)は白い鹿一頭を献上しました。 七年四月二十七日、 地震があり、家屋は悉く破損しました。 そこで、四方に発令して地震の神を祭らせました。 九月一日、 百済は駱駝一頭、 驢馬一匹、 羊二匹、 白い雉一羽を貢ぎました。 4目次 【八年】 《新羅與任那相攻天皇欲救任那》
任那地域は、欽明二十三年に完全に新羅に制圧されたはずなのに、いつの間にか「任那国」が蘇っている。 しかし、この時期の任那が新羅国と対等に戦えるような存在ではなかったのは、あまりにも明白である。 この問題については別項を立てて考察する。 《境部臣》 境部摩理勢臣の名が、〈舒明天皇即位前紀〉にある。摩理勢は山背大兄王を担ぎ、馬子によって殺された。 〈姓氏家系大辞典〉に「境部 サカヒベ: 「境部臣:蘇我氏の族にて、史上に有名なる境部臣麻里勢は、公卿補任に拠るに、蘇我稲目の子とあり。然らば馬子の弟なるべし。」 推古紀の境部臣は「麻里勢と如何なる関係にてあるか。」とあるように、 この闕名の人物の実態は不明である。 《穂積臣》 孝元天皇段に「此天皇娶二穂積臣等之祖。内色許男命妹。内色許売命一」。 また、穂積臣押山は〈継体六年〉に哆唎国守として登場した。 このときは、任那の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県を百済に与えることに一役を買っている。 〈天武十三年十一月〉「穂積臣…賜レ姓二曰朝臣一」。 朝臣姓を賜るにあたって、氏文を提出したと考えられる。 〈推古八年〉はそこにあった話を元にしたのかも知れない。後述するように、その内容は前後の流れから浮いているからである。 《直指新羅以泛海往之》 新羅に行ったことを、ここでは「直指新羅。以泛海往之。」と書く。 「泛」には、「広く覆う」、また「浮かべる」という意味があり、「泛海」からは広大な海を進みゆく船がイメージされる。 また「直指新羅」には、新羅をひたすら指して進み、陸地が眼前に迫る様が見える。 これはある伝説中に書かれた、新羅への行程の描写と見られる。その伝説とは、まさに前項の穂積臣の氏文ではないだろうか。 書紀で新羅に出かけることは、これまでに無数にあったから、最初から書紀の文章なら「赴新羅」などと簡潔に書くだろう。 ここでは、伝説を元の形のままで組み込んだものと見られる。 《多々羅など六城》
これらのうちで、多々羅だけは現在の釜山広域市の多大に比定されるが、他は半島の南東の海岸沿いであろうと想像するに留まる。 書紀でここまでに出てきた地名と比べてみる。 ●〈継体二十三年〉の四県… 金官・背伐・安多・委陀。〔一本〕多多羅・須那羅・和多・費智 ●〈神宮皇后四十九年〉… 比自㶱・南加羅・㖨国・安羅・多羅・卓淳・加羅 ●〈欽明二十三年〉の総言「任那」諸国… 加羅・安羅・斯二岐・多羅・卒麻・古嗟・子他・散半下・乞飡・稔礼 このように、多々羅、委陀、南加羅、素奈羅(須那羅)については、これまでに同一地名が出てきた。阿羅々は阿羅と同じかも知れない。 《難波吉師神》 難波吉師神の「神」は人名であるが、図書寮本、北野本は訓を付さない。これらの本の訓点は平安後期とされている。 鎌倉時代の〈釈紀〉は「かみ」。そして江戸時代の内閣文庫本、仮名日本紀は「みわ」と訓む。 「みわ」という訓みについては、①平安時代に一部で古訓として用いられていて、それが江戸時代に継承された。 ②鎌倉よりも後の時代に、初めてこの訓みが始まった。のどちらかである。 「神」がミワと訓まれるのは大神神社がそれで、三輪山の神への信仰が深まるうちに、ミワがカミを意味するようになったと考えられている。 だが、記紀や万葉で「神」をミワと訓むことはない。やはり、ミワは三輪山の神限定であろう。 難波の吉師の本貫は多分摂津国だから、三輪山〔式上郡〕の神を意識して名付けられとは考えにくい。 〈釈紀〉を見る限り、少なくとも鎌倉時代には、一般的に難波吉師「神」をミワと訓むことはなかったと思われる。 誰がいつミワと訓み始めたのだろうか。 《船舵》 船舵については、 ●(万)0936 船梶毛欲得 ふなかぢもがも。 ● (万)1221 吾舟乃 梶者莫引 わがふねの かぢはなひきそ。 のように、「ふなかぢ」、「ふねのかぢ」のどちらの言い方もある。「ふねかぢ」は三例あるが、表記はすべて「船」なので、「ふねかぢ」かも知れない。 4025歌には、「ふな」も「ふね」もある([wikisource]校異)。 《召還》 メス+カヘスの形は、上代語にはなかなか見えないが、「よびかへす(呼び返す)」はある。「召す」は「呼ぶ」の敬体だから、 「めしかへす」もあり得るだろう。『現代語古語類語辞典』〔三省堂2015〕は、召喚の上代語に「召し返す」を挙げている。 《大意》 八年二月、 新羅(しらぎ)と任那(みまな)は互いに攻め合いました。 天皇(すめらみこと)は任那を救おうと思われ、 この年、 境部臣(さかべのおみ)に命じて大将軍とされ、 穂積臣(ほづみのおみ)を副将軍とされ【二人とも名はわかりません】、 一万余の軍勢を率いて任那のために新羅を撃ちました。 そのために、新羅をまっすぐ目指し、船で海を渡り、 こうして新羅に到り、五城を攻め墜しました。 すると、 新羅王は、畏まって白旗を挙げ、 将軍の麾下(きか)に到り立って、 多々羅(たたら)、 素奈羅(すなら)、 弗知鬼(ほつちき)、 委陀(ゐだ)、 南(ありしひの)加羅(から)、 阿羅々(あらら)の六城を割き、 これを以て服従することを請いました。 時に、将軍は共に議して 「新羅は罪を知って服した。強て撃つべきではないだろう。」と言い、 奏上しました。 そこで、天皇は更に難波吉師(なにわのきし)神(みわ)を新羅に遣わし、 また難波の吉士木蓮子(いたび)を任那に遣わし、 それぞれ事の状況を調べさせました。 すると、新羅と任那二国は使者を遣わして、貢調しました。 そして奏表して申し上げました。 ――「天上に神あり、地に天皇(すめらみこと)有り。 是の二神を置いて、何に畏こまることがありましょうか。 今から以後、相攻めることはありません。 かつ、船の舵(かじ)を乾かすことなく、毎年必ず拝朝いたします。」 その結果、使者を遣わして、将軍を召還されました。 将軍等は新羅から帰国し、 すると新羅はまた任那に侵攻しました。 【境部臣穂積臣による新羅攻撃】 前述したように、八年の記述はその頃の半島情勢には噛み合わない。 まず、この年の前後のことが、三国史記にはどのように書かれているかを見る。 《推古八年》 〈推古八年〉庚申〔600〕は、 新羅:真平王二十二年、高句麗:嬰陽王十一年、百済:法王二年かつ武王元年に当たる。
翌々年の十年になると、新羅と百済との間に顕著な戦争がある。〈推古紀十年〉では、 来目皇子が二万五千の軍勢を率いて筑紫に至り、四月には先発隊が食料を運び込んだようだが、 来目皇子は病気になり、渡海を中止した。十一年四月には代わりに当麻皇子を将軍とするが、同行していた妻を亡くしてやはり征新羅を中止している。 しかし、大伴連囓と坂本臣糖手輜重隊を率いて渡海したと読めるので、百済軍に加わって作戦に参加した可能性はある。 ただ、〈推古紀〉では囓と糖手の帰国は十年六月で、『三国史記』が戦闘があったと記す同年八月より前である。 詳しくは〈十年〉で考察する。 《「推古八年」の件りは氏文からとったものか》 〈推古八年〉に戻ると、そもそも原因となった紛争の枠組み「新羅与任那相攻」からして信憑性を欠く。 〈欽明紀〉においては、欽明天皇はかつてしきりに任那の「再興」への協力を依頼していた。つまりは「任那国」は存在していない。 さらに〈二十三年〉の原注は、任那は「総言」、すなわち小国群の地域名だと述べている。 推古八年には、すでに任那地域〔=加羅〕は完全に新羅の支配下にあったから、紛争があったとしても小地域の反乱程度のものであろう。 「新羅王が将軍の麾下までやってきて云々」に至っては、明らかに全くの創作である。 さらに六県の割譲については、倭軍はすぐに引き上げてしまった。 そして、倭軍が引き上げると「即、新羅亦侵二任那一」とされるから、戦果は無に帰したであろう。 ここで注目されるのは大将軍境部臣と副将軍穂積臣が「闕名」とされることである。 これを、〈崇峻四年十一月〉において 「紀男麻呂宿祢」以下、将軍名と部隊の構成が詳細に記されたことと比べると、大変な落差がある。 さらには上述のように、海上を新羅に向かう場面の書き方は、氏族の伝承のように思われる。 思うに、〈崇峻四年〉は朝廷の公式記録に基づくのに対し、〈推古八年〉は境部臣あるいは穂積臣の伝承を収めたのではないだろうか。 「直指新羅。以泛海往之」という詩的な表現からは伝承をあまりいじらずに収めた気配が感じ取れる。 書紀の筆者も実はこの段の信憑性のなさを自覚していて、事実上なかったことにするために「即新羅亦侵任那」を加えたのだろう。 《「任那使」なるもの》 〈推古紀八年〉においては、任那が新羅と関わって登場していることこそ、注目すべきであろう。 〈欽明二十三年〉の「新羅打滅任那官家」までは、任那は専ら百済との関係において登場した。 しかし、以後は新羅との関係の文脈に出てくる。 〈推古三十一年〉には、倭の使者磐金を迎えるために、新羅が飾り船を出した記事がある。そのとき任那を名乗る船も加えることを要請した (神功皇后紀4《形式としての任那使の同席》)。 だから、倭に貢献の使者を出すときに、名目上の「任那国使者」を同行させたのであろう。 前項に於いて出典は氏文と見たが、もし後半の「天皇更遣難波吉師神於新羅」以下が実記録によったとすれば、 新羅使に名目上の「任那使」を伴わせたことが、「新羅任那二国遣使」の実態だと思われる。 吉師神と吉師木蓮子は、この形を装うように頼みに行ったのかも知れない。 なお、〈孝徳-大化元年七月〉に、百済の調の一部を任那の調として貢献し直せと百済使に要求している。 既に任那地域は新羅に吸収されていたから、これを百済に要求したというのは不審である。 現時点では、新羅に依頼して断られたことを、百済に回したと考えておく。 〈大化二年〉二月には「高麗百済任那新羅、並遣使。貢献調賦」とあり、何とか望む形が実現できたようだが、九月の「遂罷二任那之調一」は、「任那による貢献」を装うことすら不可能になったと読める。 まとめ 〈推古〉二年から七年までは事実が簡潔に列挙され、恐らく実記録によると思われる。 ところが、八年になると突然荒唐無稽となり、その解釈には頭を抱える。 前後の新羅攻撃については、なんとか三国史記の事象に結び付けることができた。 しかし、この件に関しては結び付きそうにない。 検討の結果、ここに朝廷の記録とは別にあった氏族の伝承を挿入したのだろうという結論に達した。 その鍵になったのは、「直指新羅以泛海往之」である。新羅への渡海をこのように詩的に表現することは、 神功皇后や襲津彦にもなく、書紀本来の書き方ではないと思われる。 この伝承の中に「推古八年」=庚申年などの文字があったのかも知れない。 しかし中身を見ると、地名には〈継体二十三年〉の「四県」と一定重なっていて、この時期の多多羅地域を巡る新羅と毛野臣との紛争との関連が伺われる。 当時、倭と三韓との交流が盛んだったのは確かで、渡海しての小競り合いも恐らくは起こっていた。 伝承の内容は、当時の出来事が元になっているのではないかと思われる。 思えば欽明二十三年に任那〔加羅〕が滅ぼされた直後には、何とか一矢を報いようとしたと描く伝承が寄せ集められた。 〈推古八年〉もその系列に属するもので、 任那のために新羅と戦ったという伝承を、玉石混交で集めてきた一つではないかと思われるのである。 |
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2021.04.21(wed) [22-02] 推古天皇2 ▼▲ |
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5目次 【九年~十年六月】 《皇太子初興宮室于斑鳩》
法隆寺夢殿の北に、掘立柱建築物の柱穴が検出された。 出土遺物の年代、そして火災痕が〈皇極紀〉の記述に合致することから、これが斑鳩宮跡であろうと考えられている (〈用明紀二年〉【斑鳩宮】)。 《いはむ》 「満二于宮庭一」の「満」に、古訓「いはむ」が振られている。 〈時代別上代〉が挙げるイハムの用例は七つあるが、すべて書紀古訓である。 万葉集では、「(万)0485 國尓波満而 くににはみちて」など、「満」は「みつ」である。 「屯」は、「(万)1720 馬屯而 うまなめて」「(万)3320 行之屯尓 ゆきのつどひに」 に「並べる」意味で使われているが、イハムとは訓まない。
『類聚名義抄』〔「仏下末」巻の「乚卅四」部〕では、「屯」の訓は 「タムロ ツラナル アツマル カゝマル ムラカル」である。 これらを見ると、「いはむ」には本当に書紀限定の感がある。平安の訓点学者がこれを選んだとしても、 書紀古訓以外にはほとんど使用されなかったのではないだろうか。 〈続紀〉には右の例が見える。これらの「屯」も古訓に倣えば「いはむ」となるが、これも実際にはタムロス、ムルなどと訓まれたのではないかと思われる。 直感的には、古訓よりも万葉集に順う方が、上代の一般的な言語感覚に近いように思える。
来目皇子の父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女。聖徳太子の同腹の弟である。 《屯嶋郡》 〈図書寮本〉などは、明らかに「屯嶋郡」を地名として読んでいる。 それは、イハの下にムやミをつけないからである。〈仮名日本紀〉を見ると、鎌倉以後にもこの読み方が踏襲されていたことがわかる。 しかし、〈倭名類聚抄〉を見ても筑前国・筑後国に「屯嶋郡」はない。 最古の写本と言われる〈岩崎本〉には3通りの訓点が付され、それぞれ異なる時代に加えられたと見られる。 一回目と見られるのが朱筆で、「イハム」である。 その朱筆を打ち消す筆致で「イハミ」と墨書するのが二回目であろう。 左側に付された訓点が三回目だと考えられ、「進二屯嶋郡一」だと見られる。 しかし、一回目と二回目については、それぞれ「屯ム二嶋郡一」、「屯ミ二嶋郡一」であろう。 この文の次に「聚二船舶一」〔ふねを集める〕と述べるから、 軍勢を集結した「郡」は海に面した嶋郡、すなわち〈倭名類聚抄〉の{筑前国・志摩郡}だと考えられる。 つまり、岩崎本の訓点の二回目までは「屯二嶋郡一」〔嶋郡に屯ム〕だったが、岩崎本第三回はそれを郡名「イハシマノコホリ」と誤解し、それが他の本にも踏襲されたのである。 現代は一般的に「嶋郡に屯む」と訓まれ、岩崎本の2回目以前に戻っている。 なお、前述したように、イハムは書紀古訓固有の語である。 《岩崎本》 影印本『京都国立博物館編 国宝岩崎本 日本書紀』〔勉誠出版;2013〕の解説によると、訓点は平安中期末〔11世紀前半〕(朱点)、院政期〔12世紀〕(墨点と一部朱点)、報徳三年〔1451〕と文明六年〔1474〕(墨点)の訓点が加えられ、 「時代によって、訓読や解釈、またニュアンスが変わることを示している」という。 室町地代の報徳三年と文明六年の訓点は、一条兼良の手になるという。時期から見て〈釈紀〉の卜部兼方の影響はあるだろう。 同書の解説は、兼方の訓点についても触れており、「古語を志向してそれまでの点本に無い語彙語法を用いる擬古的訓法を生み」、 「一方で当時一般的な漢文訓読法が相当交るという特徴を有」し、「均質性に問題がある」とする。 つまり、〈釈紀〉は、上代語に戻した部分と鎌倉時代の訓読法が混在するものとして読まねばならない。 《志摩郡》
「糟屋屯倉」は〈継体段-磐井の乱〉(第232回)の結果、朝廷に献上された。 これは、三韓と難波津を行き来する船から通行税を取り立てる権利を放棄したと見た。 香椎宮は、〈神功皇后紀〉の訶志比宮〔書紀は橿日宮〕に因む宮であるが、 神功皇后紀巻自体、倭と三韓の交流の神話的根源を示すものと位置づけられている。 志賀島は「漢委奴国王印」の発見地である。 このように、福岡湾は三韓に渡る拠点であるから、 軍勢が嶋郡〔=志摩郡〕に屯(いはみ)したと書かれたとすることは、理にかなっている。 《大意》 九年二月、 皇太子(ひつぎのみこ)〔聖徳〕は、初めて斑鳩(いかるが)に宮室を興しました。 三月五日、 大伴連(おおとものむらじ)囓(くらう)を高句麗に遣わし、 坂本臣(さかもとのおみ)糠手(あらて)を百済に遺わし、 こうして「速やかに任那を救え。」と詔されました。 五月、天皇(すめらみこと)は耳梨(みみなし)の行宮(あんぐう)に滞在しました。 この時、大雨が降り、河の水が溢れ、宮の庭を満たしました。 九月八日、 新羅の間諜、迦摩多(かまた)が対馬に来て、 すぐに捕えて献上し、上野国に流しました。 十一月五日、 新羅への攻撃について議を開きました。 十年二月一日、 来目皇子(くめのみこ)を、征新羅将軍とし、 諸々の神部、国造(くにのみやつこ)、伴造(とものみやつこ)等、 併せて二万五千人の軍勢を授けました。 四月一日、 将軍来目皇子は筑紫に到着し、 嶋郡(しまのこおり)に進み駐屯して、船舶を集めて軍糧を運びました。 六月三日、 大伴の連囓、坂本の臣糖手(あらて)が共に百済より帰りました。 この時、来目皇子は病に伏し、よって征討を果たせませんでした。 6目次 【十年十月~十一年四月】 《百濟僧貢曆本及天文地理書》
『国史大辞典』〔吉川弘文館;1979~1997〕によると、遁甲は占いの一種である。 同書の「式占」及び「遁甲」の項には、「式盤(天地盤ともいう。一種のルーレット)を回転し、その静止せるところの相を『太一』『雷公』『六壬』『遁甲』などの式書(占書)に照らして吉凶をいう一種の占法。」 「円盤を廻転せしめ、その静止せるところの相を、式書に照らして吉凶を判断する」、 「遁甲式書は天下の治乱、軍の勝敗に言及するところ多きにより、禁書となっていたが、またその故に兵家のこれを見る者多く、遁甲兵法なるものを生じた。 遁甲式占は陰陽師の職務であったので、奥羽諸国に諸国陰陽師が置かれ、蝦夷との戦闘に活躍した」という。 さらに「神祇官では亀卜がなされ、一方陰陽寮で行われた式占は主として遁甲式占であったようである」とある。 そして「方術」は、さまざまなことへの方法一般を意味する。そのうち、不老不死の術、医術、易占などは「法術」とも表す。 ここでは、暦本・天文・地理に遁甲方術が並んでいるところが注目される。 暦などは自然科学であり、占いとは根本的に相容れない。 天体の運行は自然現象だが、 「ある惑星がこの星座に入るのは、~の兆しである」のような迷信的解釈によって占いに転ずるのである。 陰陽寮(資料[24]【省】)の業務にも、必然的に天文学と占術が同居していたわけである。 《娑婆連》 〈姓氏家系大辞典〉には「娑婆 サバ サハ サマ:」 「娑婆連:周防古代の名族、佐波郡佐波郷より起る。土師氏の族にして、推古記十一年条に「来目皇子・薨ず…」」、 「この御墓は、宮市と三田尻の間なる桑山の頂なりと云ふ。その頂上より石棺を発見し鏡剣等の埋蔵を知れりと」、 「東鑑〔あづまかがみ〕に「周防国在庁土師宿祢安利」等の見ゆるは此の氏の裔かと」、 「皇極紀に「土師娑婆連猪手」なる者出づ。」とある。 「桑山の頂」の古墳とは、桑山塔ノ尾古墳(山口県防府市桑山1丁目)のことである。 殯のために埋蔵物を含む古墳を築くのは、不自然である。この問題については別項で考察する。 《河内埴生山》 地名「埴生」は、履中天皇段や〈仁徳天皇紀〉にある(第177回【羽生坂】)。 「埴生村」はその遺称と思われ、村内の「塚穴古墳」が宮内庁によって来目皇子墓に治定されている。 塚穴古墳は、墳形・規模・年代から見て来目皇子と同時代の皇族墓とすることと矛盾しない。別項を立てて詳細を見る。 《当麻皇子》
書記では、葛城直磐村の女である広子が生んだ子、「麻呂子皇子。此当麻公之先也。」とあるから、 麻呂子皇子は当麻皇子の別名と見られる。ここでは、記に出てきた名前が用いられているわけである。 来目皇子の母は穴穂部間人皇女だから、当麻皇子は来目皇子の異母兄弟である。「兄」と書くから年上なのであろう。 だから「兄」は、理屈の上では庶兄で、訓はママアニとなる。ただ〈時代別上代〉にはママイモ(庶妹)・ママハラカラはあるが、ママアニはない。 記〈大国主命段〉の「汝庶兄弟」(第61回)は、『古典文学大系』〔岩波;1958〕は「庶兄弟」と訓むが、 宣長は『古事記伝』で「汝庶兄弟者」とルビを振るから、「庶」を「もろもろの」の意味に解釈している。 《赤石檜笠岡》 吉田王塚古墳〔兵庫県神戸市西区王塚台三丁目〕が、宮内庁によって「玉津陵墓参考地:被葬候補者=用明天皇皇子当麻皇子妃舎人姫王」に治定されているが、 墳形は前方後円墳、5世紀はじめと推定されていて、時期は全く合わない。墳丘長は69m。 《大意》 十月、 百済の僧が帰化し、 暦本、及び天文地理書、併せて遁甲方術の書を献上しました。 この時、書生三四人を選び、観勒(かんろく)に学ばせました。 陽胡(やこ)の史(ふひと)の先祖の玉陳(たまふる)は、暦法を習い、 大友の村主(すぐり)高聡(こうそう)は、天文遁甲を学びました、 山背臣(やましろのおみ)日並立(ひなたて)は、方術(ほうじゅつ)を学び、 皆学び、もって業(わざ)を成しました。 閏十月十五日、 高句麗の僧、僧隆(そうりゅう)、 雲総(うんそう)が共に帰化しました。 十一年二月四日、 来目皇子は筑紫で薨じました。 駅使がこれを奏上し、 天皇(すめらみこと)はそれをお聞きになって大変驚かれ、 すぐに皇太子と蘇我大臣を召して、 告げられました。 ――「征新羅大将軍(せいしらぎたいしょうぐん)来目皇子は、薨じました。 その大事に臨んで遂げることができず、大変悲しいことです。」 そして、周防国の娑婆郡に殯(もがり)しました。 そして、土師連(はにしのむらじ)の猪手(いて)を遣して殯の行事を掌らせました。 よって、猪手の連の子孫を娑婆連(さまのむらじ)というのは、この縁りです。 その後、河内の埴生山(はにゅうやま)の岡の上に埋葬しました。 四月一日、 更に来目皇子の)兄(ままあに、このかみ)当麻皇子(たぎまのみこ)を、 征新羅将軍としました。 七月三日、 当麻皇子は、難波から船を出しました。 六日、 当麻皇子は、播磨に到着しました。 その時、同行した妻、舎人姫王(とねりひめのおおきみ)が赤石(あかし)で薨じ、 赤石の檜笠(ひかさ)の岡の上に埋葬しました。 そして当麻皇子は引き返し、遂に征討しませんでした。 【桑山塔ノ尾古墳】
《埋蔵遺物》 『日本歴史地名大系』〔平凡社;1980〕によると、桑山塔ノ尾古墳は 「花崗岩丘の桑山中腹の小丘の頂にあった隠滅古墳である。天明五年〔1785〕毛利重就が納涼台をつくるための工事中に人夫が発見し、…石匣を作って出土品を納め、山頂に埋納して古墳を撤去」し、 「副葬品に須恵器があること…横穴式石室とみてよい。」、「現地の地貌と後年円筒埴輪の破片を採集したことから推して、前方後円墳の可能性を考えることができる」という。 これが、桑山塔ノ尾古墳と呼ばれている。 『山口県史(資料編考古Ⅰ)』〔山口県編;2000〕は、「古墳時代後期(6世紀前半)」とし、 斎藤貞宜が埋蔵遺物を考証して『桑山古墳私考』 (文政五年〔1822〕を著したと述べる。 そして「『防長風土注進案』〔1842年〕の絵図や記録に残る遺物には、 銅鏡2・石製模造品1・鉄刀3・鉄矛5・鉄鏃若干・甲冑・蛇行状鉄器1・金銅製飾履・ 銀魚等付属装飾器物・鍍金鈴・玉類(管玉13・小玉60以上)・馬具(〔略〕)・土師器(高坏)・須恵器(〔略〕)・ 埴輪片(円筒埴輪・形象埴輪)など」があるとする。 また明治時代に「山頂の1区画が陵墓参考地」と定められ、「1902(明治35)年には、宮内省から来目皇子の殯葬地として指定され、その後の調査は行われていない」という。 文中の『防長風土注進案』の刊本※1を見る限り、 「三田尻宰判※2」巻の「三田尻村」に「天明五年四月桑山塔之尾脇に重就公御納涼之亭地を開くとて石櫃を堀出候、名間鏡鈴太刀鉾之類百餘品ありしを山頂に埋め」云々と簡単に述べるのみで、 「絵図」なるものはなかった。
『桑山古墳私考』はAを「刀」、BCを「鉾尖」だが「腐りて其形見わけがたし」、Dを「玉大小共」「皆練玉にて美麗なる物なり」、Gは「鐙」〔あぶみ〕と述べている。 EFの「四つの瓦器は轆轤目※4歟と見ゆるなり」、「多加須伎〔中略〕とあるたぐひならん」として、Eを「比良弖」〔葉盤〕と「久菩弖」、 Fを高坏とする。 しかし、Fは見るからに円筒埴輪である。 そこに書き添えられた「高一尺五寸」〔約45cm〕、「高一尺六寸」〔約48cm〕も、円筒埴輪として程よい大きさである。 川西宏幸による編年※5では、スカシ穴が多い点ではⅠ期(三世紀後半~4世紀)だが、突帯が飛び出さない点ではⅤ期(5世紀後葉~6世紀)となり、 いずれにしてもこの図のみでは確かなことは解らない。実物は桑山山頂の「陵墓参考地」に収まっているはずだが、当分の間は調査は叶わないだろう。
来目皇子の時期には既に前方後円墳は終了していたが、桑山塔ノ尾古墳は6世紀前半と推定されるというから、来目皇子の「殯葬地」ではないであろう。 また、改葬したのなら大量の副葬品を置き去りにしたのは何故だろうか。 そもそも殯については、〈神代紀〉「造二喪屋一而殯レ之」、 〈用明紀〉「欲レ姦二炊屋姫皇后一而自強入二於殯宮一」、〈同〉「於殯庭誄」、 〈欽明紀〉五月には「殯二于河内古市一」した後の九月に「葬二于檜隈坂合陵一」などとある。 これらをトータルすると、 天皇の崩や皇子の薨の後は殯宮を建てて遺体をしばらく安置し、その前の庭で誄を読み上げるなどの儀式を執り行い、その後に陵に埋葬するのが通常の流れだと読める。 「殯」にはしばしば宮"が伴い、「葬」の目的語が"陵"であることを見ると、殯と葬とにははっきりした区別がある。万葉集の題詞にも「殯宮」が四歌にあり、宮の中に安置したことをうかがわせる。 よって殯として、本格的な陵墓に納める「殯葬」はなかなか考えにくい。 塔之尾古墳=「来目皇子殯所之物」説が生まれたのは、『防長風土注進案』によれば、天明五年〔1785〕に遺物が発見された後である。 この説の提唱者は、書紀そのものを正当に読み取る能力が不十分だったと考えざるを得ない。 【塚穴古墳】 塚穴古墳(大阪府羽曳野市はびきの3丁目)は古市古墳群に属する終末期古墳で、54m四方の方墳である。 《河内埴生山》
「羽曳野市公式-塚穴古墳」によると、 「7世紀前半に築造された1辺54メートルの大型の方墳」で、周濠の「外側に築かれた大規模な土手が、墳丘を取り囲」み、 「北と東西を背景の丘のように高く幅の広い土手が、また、正面にあたる南では、直線的で人工的な外観の土手が整備され」、全域は「130メートル四方におよぶ」という。 《羽曳野丘陵一帯の古墳》 また、羽曳野丘陵には塚穴古墳の他に、ヒチンジョ池西古墳(羽曳野市はびきの3丁目)、徳楽山古墳(羽曳野市羽曳ヶ丘6・8丁目)がある。 ヒチンジョ池西古墳は、凝灰岩製の横口式石槨が残り、内部に黒漆を塗った木簡が安置されていたと考えられるという。 石槨は昭和二十三年〔1948〕頃発見され、発見直後に野中寺境内に移された。 「羽曳野丘陵一帯はかつて寺山と呼ばれ、同じような終末期古墳や奈良時代の火葬墓(かそうぼ)がたくさんみつかってい」るという(羽曳野市公式/ヒチンジョ池西古墳)。 「横口式」というのは小口側に長方形の口が開いていることを表し、木棺を差し入れたようである。
『天皇陵古墳』はこれらの終末期古墳の存在などから、塚穴古墳は「七世紀代中葉前後の終末期古墳とみなすのが妥当であろう」と述べる。 《来目皇子墓》 『羽曳野市史』〔羽曳野市史編集委員会;1997〕は、「この付近には数多くの飛鳥時代の古墳が存在する地域であるが、 構築の時期が七世紀初めまで遡るものは今のところ知られていない〔=他の古墳はもっと新しい〕ので、塚穴古墳を〔来目皇子墓の〕第一の候補とするのはひとまず妥当」と述べる。 ただ、「このころ皇族の陵墓の多くが大和の飛鳥周辺や河内の磯長谷に営まれているのにもか関わらず、 ひとり来目皇子のみが羽曳野丘陵に葬られた」事情を考えておかねばならないとする(p.356~358)。 同書はその「事情」として「来目皇子の側にあった舟氏らがその本貫地で〔墓の築造に〕携わった」ことが関係すると推定する。 船氏は、王辰爾を祖として、百済との海上交通に重要な任務を担った氏族であった (欽明十四年)。 その氏寺である野中寺は、「伽藍配置や忍冬紋の軒丸瓦など、法隆寺との関係も具体的にうかがえ」るように聖徳太子と深い関係があり、 「太子の弟皇子の墓がその近くにあることも」あり得るだろうと推定する。 また、三方を土手で囲むデザインについては、 「背後の丘と左右の土手に抱かれるように守られ、南に開けた谷を見下ろすという、風水思想にかなった」理念があり、 「外来的な新風をただよわせる第一級の墳墓」と述べる。 《船氏》 野中寺の案内板「史跡 野中寺旧伽藍跡」〔平成三年一月 文化庁・大阪府教育委員会〕(右図)は 「正倉院文書によれば当郷は百済系渡来系氏族船史のちの船連の本貫であったことから、その氏寺であったことが察せられる。」というので、該当しそうな文書を探したところ、 天平十四年〔742〕の「解」〔下級官から上級官への報告文書〕が見つかった。
江戸時代になると、〈五畿内誌〉―「河内国丹南郡」の【村落】に「野野上」「野中」があり、【仏刹】に「野中寺【在二野上村一】」とあり、 現在地名「羽曳野市野々上」、「藤井寺市野中」に対応すると見られる。 野中寺の「境内の内外に残る礎石は移動を経ており、発掘により」西に塔、東に金堂の配置が判明し、 「平瓦の刻銘「庚戌」〔650〕は瓦を焼き終った年で、創建年代の史料とされ」、 「寺伝は聖徳太子建立四十六院の一つ」と述べるという〔『国史大辞典』吉川弘文館;1979~1997〕。 「案内板」(前出)には「境域には良く旧伽藍跡の土壇および礎石配列を止める」というからこれまでに移転したことはなく、 〈倭名類聚抄〉の「野中郷」には野中寺まで含んでいたのであろう。 正倉院文書からは、野中郷に住んでいた船連は冠位を賜っており、一族から出家して野中寺に侍る者がいたと読み取れる。 また、当時寺の人事は「治部省」が管轄し、そこにも船連から出仕していたことがわかる。 このように寺や治部省担当者と船連との間には深い繋がりが伺われるから、野中寺はこの地に住む「船連」の氏寺であったと考えてよいだろう。 また、羽曳野丘陵には奈良時代の大量の火葬墓が遺るという。渡来人が火葬の習慣を持ち込んだとすれば、船氏の本貫であったことの傍証になるかも知れない。 7目次 【十一年十月~十ニ年正月】 冬十月己巳朔壬申、遷于小墾田宮。……〔続き〕 まとめ 桑山塔ノ尾古墳については現在は学術調査は不可能であるが、江戸時代の記録だけを見ても「来目皇子殯葬」説が全く問題にならないのは明らかである。 さて、征新羅大将軍になった来目皇子は病死し、後を継いだ当麻皇子も同行した妻の急死により征討を中止している。 当麻皇子自身は健在だから続行できたはずだが、自身も身の危険を感じたのかも知れない。 ならば、真相は暗殺が疑われる。それを匂わせたとも読めるのが、新羅の間諜逮捕の記事である。 倭軍の新羅攻撃準備への妨害工作を、それまでに紛れ込んでいた間諜が繰り広げていたことは十分考えられる。 書紀には新羅からの移民が集落を形成したと見られる記事も載る 〔鸕鷀野邑新羅人、埴廬新羅人〕 から、その中には間諜もいたことだろう。 一方、船連に対して、書紀は始祖の王辰爾の伝説を載せるなどして、好意的に扱っている。 船連は、百済との交流の太いルートを握っていたと考えられる。 太子は僧を百済と高句麗から、造寺工などを百済から招いた。百済との交易も盛んで、 船連は難波津-百済の海運の担い手として自ら船を運行するとともに、海上交通全般を取り仕切っていたと見られる。 当然、軍の渡海も差配したであろう。この太子と船連との深い関係が、書紀の書きっぷりにも反映したと思われる。 このように、太子と百済との関係をバックアップする船連の本貫地に敢えて来目皇子の優美な墓を築くのは、 皇子の成就されずに終わった偉業への称賛である。すなわち、新羅への対決姿勢が揺るぎないことを宣言する意味をもつ。 そして国内の親新羅勢力に対しては、その暗躍にブレーキをかけるデモンストレーションとなる。 これが来目皇子墓をここに置いた理由であろう。 これまで見てきたように、6世紀以後の時期に新羅攻撃を実行したが如く描くのはフィクションに過ぎないのだが、 それを書かせた背景として、渡海して直接攻撃ができていたらという強い願望があったのは確かであろう。 ただ崇峻四年と推古十~十一年については、実際に渡海の寸前までは行ったと見てよいと思われる。 |
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⇒ [22-3] 推古天皇2 |