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2021.03.28(sun) [22-01] 推古天皇1 

目次 【即位前~即位】
豐御食炊屋姬天皇、天國排開廣庭天皇中女也。……〔続き〕


目次 【元年九月~是歳】
秋九月。改葬橘豐日天皇於河內磯長陵。……〔続き〕


目次 【二年~七年】
《詔皇太子及大臣令興隆三寶》
二年春二月丙寅朔、
詔皇太子及大臣令興隆三寶。
是時、諸臣連等各爲君親之恩競造佛舍、
卽是謂寺焉。
…[動] (古訓) さかゆ。
仏舎…〈図書寮本〔以下図〕・北野本〔以下北〕〉佛-舍ホトケノオホトノ。 〈釈紀-秘訓〔以下釈〕〉佛舍テラ。 〈内閣文庫本〔以下閣〕〉佛舎ホトケノヲホトノヲ/テラ
君親…〈汉典〉「君王与父母。亦可特指君主」〔君臣と父母。また、特に君主を指すこともある〕。
君親之恩…〈図〉為君-オヤメクミ。 〈閣〉君-ヲヤノ親之メクミヲ
二年(ふたとせ)春二月(きさらき)丙寅(ひのえとら)の朔(つきたち)。
皇太子及大臣に詔(みことのり)のりたまひて三宝(さむぼう)を興(おこ)し隆(さか)え令(し)めます。
是(この)時、諸(もろもろ)の臣(おみ)連(むらじ)等(ら)、各(おのもおのも)君(きみ)の親之(したしき)恩(めぐみ)が為に競(きほ)ひて仏(ほとけ)の舎(みあらか)を造りまつり、
即(すなはち)是(こ)をば寺(てら)と謂ふ[焉]。
三年夏四月。
沈水漂着於淡路嶋、其大一圍。
嶋人不知沈水、以交薪燒於竈。
其烟氣遠薫、則異以獻之。
五月戊午朔丁卯。
高麗僧慧慈歸化、則皇太子師之。
沈水…〈釈〉沈水チム。 〈図・北〉沈-水チム漂-着ヨレリ
…漢音チム。呉音ヂム。
一囲一-圍ヒトイタキ
いだき…[助数詞] 周囲一尋程度の面積。
むだく…[他]ク四 ウダク、イダクとも。〈時代別上代〉上代に確かな仮名書き例はいずれもムダクである。
交薪焼…〈図〉カテタク〔薪にく〕
かつ…[他]タ下二 あわせる。 
烟気…〈釈〉烟氣ケフリ
…〈釈〉カマト 【私記曰。師説。迦麻斗者〔かまとは〕梵語〔なり〕。漢謂竈。 凡比間之語〔おほよそこのころの〕〔に〕梵語相交者乎〔あひまざらばや〕。】
薫則異…〈図・北〉カヲルケナリトシ。 〈閣〉カヲルケナリトシテ
…[動] (古訓) かほる。たたす。にほふ。
かをる…[自]ラ四 香気を放つ。
帰化…〈図〉歸-化マウオモ
高麗僧慧慈…〈釈〉高麗コマノホウシ慧慈ヱジ
師之…〈釈〉師之ノリノコトシタマフ
三年(みとせ)夏四月(うづき)。
沈水(ぢむすい、ぢむ)[於]淡路嶋(あはぢしま)に漂(ただよ)ひ着(つ)けり、其の大(おほきなること)一囲(ひとむだき)。
嶋の人、沈水を不知(しらず)、以ちて薪(たきぎ)に交(まじ)へ[於]竃(かまど)に焼(た)きき。
其の烟気(けぶり)遠(とほ)く薫(かを)り、則(すなはち)異(け)なりて以ちて之(こ)を献(たてまつ)る。
五月(さつき)戊午(つちのえうま)を朔(つきたち)として丁卯(ひのとう)〔十日〕
高麗(こま)の僧(ほうし)慧慈(ゑじ)帰化(まゐき)たりて、則(すなはち)皇太子(ひつぎのみこ)〔=聖徳〕之(こ)に師(みのりならひたまふ)。
是歲、
百濟僧慧聰來之。
此兩僧、弘演佛教並爲三寶之棟梁。
秋七月。
將軍等至自筑紫。
慧聡…〈釈〉百濟僧クタラノホウシ慧聰ヱソウ
…〈図〉マウケリ
仏教…〈図〉ミノリ
棟梁…〈釈〉三寶之サムボウノ 棟梁ムネウツハリ
是歳(このとし)。
百済(くだら)の僧(ほうし)慧聡(ゑそう)来之(まゐく)。
此の両(ふたりの)僧、仏教(ほとけのみのり)を弘演(ひろめをし)へて、並(な)べて三宝(さむぼう)之(の)棟梁(とうりやう、むねうつはり)と為(な)したまふ。
秋七月(ふみづき)。
将軍等(ら)筑紫(つくし)自(ゆ)至る。
四年冬十一月。
法興寺造竟、
則以大臣男善德臣拜寺司。
是日。
慧慈慧聰二僧始住於法興寺。
大臣男善徳臣…〈釈〉大臣男■■キミノコ善德臣セトコノヲム
…〈図〉メス
始住…〈図〉ハヘリ
四年(よとせ)冬十一月(しもつき)。
法興寺造竟、
則(すなはち)大臣(おほまへつきみ)の男(こ)善徳臣(ぜむとくのおみ)を以ちて寺司(てらのつかさ)を拝(おほ)す。
是の日。
慧慈慧総二僧(ふたりのほうし)始めて[於]法興寺(ほうこうじ)に住(すま)ふ。
五年夏四月丁丑朔。
百濟王遣王子阿佐、朝貢。
冬十一月〔癸酉〕朔甲子
〔冬十二月癸卯朔甲子〕
遣吉士磐金於新羅。
王子阿佐…〈釈〉王子セシム阿佐アサ。 〈図〉王子セシム
癸酉朔甲子…〈北〉十一月癸酉甲子。 〈図〉十一月朔甲子
吉士磐金…〈釈〉吉士キシノ磐金イハカネ。 〈閣〉十一月癸酉朔甲子
五年(いつとせ)夏四月(うづき)丁丑(ひのとうし)の朔(つきたち)。
百済王(くだらわう)王子(わうし、せしむ)阿佐(あさ)を遣(まだ)し、朝(みかどををろがみて)貢(みつぎものたてまつ)らしむ。
冬十一月(しもつき)〔癸酉(みづのととり)を〕朔(つきたち)として甲子(きのえね)
〔冬十二月(しはす)癸卯(みづのとう)を朔として甲子〕〔二十二日〕
吉士(きし)の磐金(きしいはかね)を[於]新羅(しらき)に遣はす。
六年夏四月、
難波吉士磐金、至自新羅而獻鵲二隻、
乃俾養於難波社、因以巣枝而産之。
秋八月己亥朔。
新羅貢孔雀一隻。
冬十月戊戌朔丁未。
越國獻白鹿一頭。
…〈図〉カサゝキ
かささぎ…[名] かささぎ。
難波社…〈図〉難波モリ。 〈閣〉難波モリ
巣枝…〈図〉スクヒ枝而コウム
すくふ…[自]ハ四 巣を作って棲む。(古訓)巣:すくふ。
孔雀…〈釈〉孔雀一隻クシヤクヒトツ白鹿一頭シロキカセキヒトツ。 〈閣〉鹿カセキ一-頭
かせぎ…[名] 鹿。〈時代別上代〉「(景行紀四〇年)にはカセギの訓があり、角がカセギに似ているのでつけられたといわれる鹿の異名であるが、上代にこの名称が用いられた確証はない。
六年(むとせ)夏四月(うづき)、
難波の吉士の磐金(いはかね)、新羅自(ゆ)至(いた)りて[而]鵲(かささぎ)二隻(ふたつ)を献(たてまつ)り、
乃(すなは)ち[於]難波杜(なりはのもり)に養(やしな)は俾(し)めて、因以(よ)りて枝(え)に巣(すく)ひて[而]産之(こうみき)。
秋八月(はつき)己亥(つちのとゐ)の朔(つきたち)。
新羅(しらき)孔雀(くじやく)一隻(ひとつ)を貢(たてまつ)る。
冬十月(かむなづき)戊戌(つちのえいぬ)を朔として丁未(ひのとひつじ)〔十日〕
越国(こしのくに)白鹿(しろきか)一頭(ひとつ)を献る。
七年夏四月乙未朔辛酉。
地動、舍屋悉破。
則令四方俾祭地震神。
秋九月癸亥朔。
百濟貢駱駝一匹
驢一匹
羊二頭
白雉一隻。
駱駝…〈釈〉駱駝一匹ラクダヒトツ白雉一隻シロキキゝスヒトツ
…〈閣〉ウサキムマ
うさぎうま…[名] ろば。
地動…〈図〉地動 ナヰフリナカス〔コ〕ホレヌ
やかす…[名] 住居。〈時代別上代〉ヤカはヤケの交代形、スは栖の意かと思われる。
こほる…[自]ラ下二 コホツに対する自動詞。 
地震神…〈図〉地-震ナヰノ
七年(ななとせ)夏四月(うづき)乙未(きのとひつじ)を朔(つきたち)として辛酉(かのととり)〔二十七日〕
地動(なゐふ)りて、舎屋(いへ)悉(ことごとく)破(こほ)りつ。
則(すなはち)四方(よも)に令(おほせこと)して地震神(なゐのかみ)を祭ら俾(し)む。
秋九月(ながつき)癸亥(みづのとゐ)の朔(つきたち)。
百済[貢]駱駝(らくだ)一匹(ひとつ)、
驢(うさぎうま)一匹(ひとつ)、
羊(ひつじ)二頭(ふたつ)、
白き雉(きぎし)一隻(ひとつ)をたてまつる。
《沈水》
北野本図書寮本
沈水香 飛鳥~奈良時代
「明治11年4月9日切取」の墨書
東京国立博物館研究情報アーカイブズ
 東京国立博物館には、 栴檀香・白檀香・沈水香が収蔵されている。同サイトのページ「沈水香じんすいこう」によると、 「香木は熱帯アジアに産するものが多く、したがって舶載品として珍重され、いまなお薫香・組香の料として貴重視される。」 「仏教の隆盛に伴い、大陸からわが国へ各種の香木が輸入され、今日正倉院宝物中に多くの香木が納められている」という。
 『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』の「香壹拾陸種〔一十六種〕の項に、浅香薫陸香青木香丁子香安息香甘松香楓香蘇合香と並べて、 「沈水香十両」、「沈水香八十六両」が見える。
 図書寮本・北野本の訓チムは直感的には「沈-水」全体に付したように見える。〈釈紀〉も「」に、「」にを振っている。 しかし、ヨレリが「漂着」の中央から下についているから、チムは「」のみに付されたかも知れない。 ただ、チムスイとよむのならスイも付したのではないかとも思われ、判断は難しい。
 それでも、仮に平安時代の沈水香の一般的な呼称がヂムだったしても、もともとのヂムスイの略なのは明らかである。
《将軍等至筑紫
 〈崇峻四年〔591〕十一月には、紀男麻呂宿祢などを差配して筑紫に二万余の軍勢を集結させた。 しかし、この推古三年〔595〕七月に配備を解いて都に帰還したと読める。 結局渡海することはなかったと思われる。 すると二万余の軍勢が3年8か月滞在していたことになり、その間の食料をどうしていたかが気になるところである。 その手配を担ったとすれば、那津之口官家の仕事であろう(〈宣化元年五月〉【那津之口官家】)。
 一方、〈崇峻八年〉の項で、 「倭は軍勢の準備と同時に、吉士(きし)木蓮子(いたび)を遣わして「ヒキ任那事」というから、 交渉を有利に運ぶために、返事によっては軍を送る構えを見せたのであろう。 このときに一定の言質を得て軍勢を解いた」可能性を考察した。
 だとすれば、兵は既にこのときに解散し、将軍だけが残っていたと考えた方が自然かも知れない。
《為君親之恩
 内閣文庫本は、「君親之恩」に送り仮名をつけるから、「」はまたはナスと訓むようである。 「君親」は、古訓ではキミオヤと見られるが、「君親」は「君主がしたしく」「君主みづから」の意でも使うようである。 文脈から見てこの文が意味するところは、臣連おみ むらじが推古帝または厩戸皇子「三宝を興隆すべし」との詔を受け、その恩に応えようとして競って仏舎を建てたということである。よって、「」は「~のために」である。 三宝とは「仏法僧」のことだが、「君への忠、親への孝」は儒教思想であるから、「親」をオヤと訓むと方向がずれる。だからここの「君親」は「君主 and 父母」ではなく、 「君(きみ)の親(ちか)しき」と訓むべきであろう。
《棟梁》
 棟(むね)梁(うつはり)は直訳である。たとえこの倭語に耳慣れなくとも、リーダーを屋台骨に喩えたのだなと理解できるであろう。 ただし、恐らく書紀以外には使わない訓みであろう。
 〈続紀〉を見ると棟梁は三か所にあり、そのひとつは〈養老五年六月戊戌〉「百済沙門道蔵。寔惟法門袖領。釈道棟梁。〔百済の沙門〔=僧〕道蔵、寔(まこと)惟(これ)法門の袖領。釈道の棟梁なり。〕である。
 袖領もまたリーダーを意味し、直訳すれば「そでくび」だが、これが一般的に使われていたとはとても思えない。 袖領は音読みで、よって棟梁も音読みされたであろう。
《五年冬十一月癸酉朔甲子》
内閣文庫本北野本図書寮本岩崎本推定
推古五年
朔日
一月己酉
二月戊寅
三月戊申
四月丁丑
五月丁未
閏五月丙子
六月丙午
七月乙亥
八月乙巳
九月甲戌
十月甲辰
十一月癸酉
十二月癸卯
冬十一月癸酉朔甲子 五十二日
冬十一月癸酉朔甲午 二十二日
冬十月甲辰朔甲子 二十一日
冬十二月癸卯朔甲子 二十二日
 「癸酉朔甲子」は、十一月五十二日〔!〕である。 そこで『日本古典文学全集』〔岩波書店;1967〕は、「甲午」に直している。 岩波文庫版も「甲午」で、校異で「午(集解)―子」とする〔※…「一般的な解釈の集約」の意と見られる〕
 古写本は、岩崎本、北野本、図書寮本、内閣文庫本(卜部本系統;16~17世紀)とも「甲子」であることを疑う余地はない(右図)。 それとは別に、図書寮本は「十一月朔」となっていて「癸酉」を欠き、北野本は「十一月朔」に「癸酉」を傍書している。
 北野本の訓点は図書寮本とほぼ同じだが、(図)→(北)の変化が見られるから、北野本の訓点は図書寮本に従って付けたと考えられる (推古1《図書寮本と北野本》)。 従って、北野本は図書寮本に欠けていた「癸酉」を傍書したと見られる。 書紀の暦をエミュレートした〈元嘉暦モデル〉によると、推古五年の各月の朔は右表の通りである。 北野本は、当時の暦本または岩崎本によって図書寮本に欠けていた干支を調べて補った可能性がある。
 以後それが引き継がれ、内閣文庫本でも正字で「十一月癸酉朔甲子」と書かれている。
 となれば、図書寮本以前の本は「冬十一■■■朔甲子」の形で伝わり、「十一」も本当は「十二」であって、その下の線が擦れたものと仮定すると、 「冬十二月癸卯朔甲子〔二十二日〕となり、これが一番自然ではないかと思われる。
鹿―アルビノ
《白鹿》
 鹿はごくありふれた動物だから、特別の鹿だったからこそ献上されたはずである。「白鹿」はおそらくアルビノであろう。 訓みは「しらしか」または「しろしか」がありそうに思えるのだが、この語の使用例はないようで各種古語辞典にも載らない。
 しら-たか(白鷹)、しろ-うま(白馬)などに見られる連結は、一般的に存在する品種の場合に生ずるようだ。 突然変異の場合は、連体形を使い、「しろきしか」らしい。
 「白雉」の場合も、「しろきぎし」「しらきぎし」という言い方はなく、古訓は「シロキキゝス」となっている。
 鹿の古訓カセギは、書紀古訓の語で、〈時代別上代〉は、上代にも見出していない。 わざと一般的でない語を使って書紀を権威付け、大衆から遠ざけたのであろう。鹿をシカまたはカと訓むことには何の問題もない。
《大意》
 二年二月一日、 皇太子(ひつぎのみこ)と大臣(おほまへつきみ)に及びて詔(みことのり)され、三宝を興隆させました。
 この時、諸々の臣(おみ)連(むらじ)らは、それぞれ君親の恩の為に競って仏舎を造りました。 すなわちこれを寺といいます。
 三年四月、 沈水(じんすい)が淡路嶋に漂着し、その大きさは一抱えありました。
 嶋の人は沈水を知らず、薪に混ぜて竃(かまど)で燃やすと、 その煙は遠く薫り、よって不思議なことなのでこれを献上しました。
 五月十日、 高麗僧の慧慈(えじ)が帰化し、皇太子(ひつぎのみこ)〔=聖徳〕が師事しました。
 この年、 百済僧の慧聡(えそう)が帰化しました。 この両僧は、仏教を弘演し、並べて三宝の棟梁(とうりょう)とされました。
 七月、 将軍らが筑紫から帰還しました。
 四年十一月、 法興寺を造り終え、 大臣(おほまへつきみ)の子、善徳臣(ぜんとくおみ)は寺司(てらつかさ)を拝しました。
 この日、 慧慈・慧総二僧は法興寺(ほうこうじ)に住み始めました。
 五年四月一日、 百済王は王子阿佐を派遣し、朝貢しました。
 十一月の甲子の日 〔十二月二十二日〕、 吉士(きし)の磐金(いわかね)を新羅に遣わしました。
 六年四月、 難波の吉士磐金(いわかね)は、新羅から帰国し、鵲(かささぎ)二羽を献上しました。 そこで難波の杜(もり)で養育させ、これにより枝に巣を作り、卵を産みました。
 八月一日、 新羅は孔雀一羽を貢ぎました。
 十月十日、 越国(こしのくに)は白い鹿一頭を献上しました。
 七年四月二十七日、 地震があり、家屋は悉く破損しました。 そこで、四方に発令して地震の神を祭らせました。
 九月一日、 百済は駱駝一頭、 驢馬一匹、 羊二匹、 白い雉一羽を貢ぎました。


目次 【八年】
《新羅與任那相攻天皇欲救任那》
八年春二月。
新羅與任那相攻。
天皇欲救任那。
是歲。
命境部臣爲大將軍、
以穗積臣爲副將軍【並闕名】、
則將萬餘衆爲任那擊新羅。
境部臣…〈釈〉境部臣サカヘノヲム【大將軍オホイクサノキミ。 〈図〉 サカ
穂積臣…〈釈〉穗積臣ホツミノヲム【副將軍ソヒノイクサノキミ
万余衆…〈図〉萬餘イクサ
八年(やとせ)春二月(きさらき)。
新羅(しらき)与(と)任那(みまな)と相(あひ)攻む。
天皇(すめらみこと)任那を救はむと欲(おもほ)す。
是歳(このとし)。
境部臣(さかべのおみ)に命(おほ)して大将軍(おほきいくさのかみ)と為(し)たまひ、
穂積臣(ほづみのおみ)を以ちて副将軍(いくさのすけ)と為たまひ【並(な)べて名を闕(か)く】、
則(すなはち)万余(よろづあまり)の衆(いくさびと)を将(ひきゐ)て任那(みまな)の為(ため)に新羅を撃てり。
於是、直指新羅、以泛海往之、
乃到于新羅、攻五城而拔。
於是、
新羅王、惶之舉白旗、
到于將軍之麾下而立。
割多々羅
素奈羅
弗知鬼
委陀
南加羅
阿羅々六城
以請服。
泛海…〈釈〉泛海往之フネカラユク。 〈図〉泛-海フネカラ。 〈汉典〉乗船過海、渡海。
…〈図〉攻五サシエツ
えつ…「う」(得)の連用形+「つ」(完了)。
惶之…〈図〉カシコ
麾下…〈図〉麾下シルシノハタノモト。 〈汉典〉本指旗下、借指将帥的部属
…〈汉典〉本義:古代供指揮用的旌旗。
多々羅…〈釈〉多々羅タゝラ素奈羅スナラ弗知鬼ホツチキ委陀ユタアリヒシノ加羅カラ。阿羅々。【六城ムツノサシ。 〈図〉奈羅
…漢音、呉音ともにヰ。
請服…〈図〉マツロハムト
於是(ここに)、新羅を直(ひた)指(さ)し、以ちて泛海(ふねにのりうみをわたり)往之(ゆ)きて、
乃(すなはち)[于]新羅に到りて、五(いつつの)城(き、さし)を攻めて[而]抜く。
於是(ここに)、
新羅王(しらきわう)、之(こ)を惶(かしこ)みて白旗(しらはた)を挙げ、
[于]将軍(いくさのかみ)之(の)麾(はた)の下(もと)に到りて[而]立ちて、
[割]多々羅(たたら)
素奈羅(すなら)
弗知鬼(ほつちき)
委陀(ゐだ)
南(みなみの、ありしひの)加羅(から)
阿羅々(あらら)の六(むつ)の城(き、さし)をさきて、
以ちて服(まつろは)むと請(ねが)ひまつりき。
時、將軍共議曰、
「新羅知罪服之、强擊不可。」
則奏上。
爰、天皇更遣難波吉師神於新羅、
復遣難波吉士木蓮子於任那、
並檢校事狀。
…〈図〉ハカリ
強撃不可…〈図〉アハ■ミ不可  ヨ■モアラス。 〈内閣文庫本〔以下閣〕〉強撃不可ヨクモアラス。 〈北〉アリ■シ。 〈仮名日本紀〉あながち(強)
あながちに…[副] しいて。
難波吉士神…〈釈〉難波吉士神ナニハノキシカミ。 〈閣〉𠮷師ミワ。 〈仮名日本紀(刊本)〉吉師きしみね。〈同(陰影)〉吉師きしみわ
木蓮子…〈図〉木蓮子イタヒ
時に、将軍(いくさのかみ)共に議(はか)りて曰はく、
「新羅(しらき)罪を知りて服之(まつろ)ふ、強(しひ)て撃(う)つこと不可(よくもあらず)。」といひて、
則(すなは)ち奏上(まをしあ)げき。
爰(ここに)、天皇更(さら)に難波吉師(なにはのきし)の神(かみ、みわ)を[於]新羅に遣(つかは)し、
復(また)難波の吉士の木蓮子(いたび)を[於]任那に遣し、
並(な)べて事(こと)の状(ありさま)を検校(かむが)へしめたまふ。
爰、新羅任那二國遣使、貢調。
仍奏表之曰
「天上有神、地有天皇。
除是二神、何亦有畏乎。
自今以後、不有相攻。
且不乾船柁、毎歲必朝。」
奏表…〈図〉奏表タテマツリ  マ■■ノミ。 〈閣〉タテマツリマウシフミヲ
…〈図〉天上アメ有神 ツチ有天皇オイ ハシラ。 〈閣〉天上アメニツチニオイテハ
…〈図〉カシテ。〈閣〉カシコキコト
不乾船柁…〈図〉カハカ船柁 カチ 。 〈閣〉カハカ船柁カチテ
必朝…〈図〉マウコ
爰(ここに)、新羅と任那との二国(ふたつのくに)使(つかひ)を遣(まだ)して、貢調(みつきたてまつ)らしめき。
仍(すなはち)奏表(ふみをたてまつ)りて[之]曰(まを)さく
「天上(あめ)に神有り、地(つち)に天皇(すめらみこと)有り。
是の二神(ふたところのかみ)を除(お)きて、何(なに)をや亦(また)畏(かしこ)むもの有る乎(か)。
今自(よ)り以後(のち)、相(あひ)攻むること不有(あらじ)。
且(また)船柁(ふねのかぢ)を不乾(かわかしめず)、毎歳(としごと)に必ず朝(みかどををろがみまつ)る。」とまをす。
則遣使、以召還將軍。
將軍等至自新羅。
卽新羅亦侵任那。
則(すなはち)使(つかひ)を遣(つか)はして、以ちて将軍(いくさのかみ)を召還(めしかへ)したまふ。
将軍(いくさのかみ)等(ら)新羅自(ゆ)至(いた)りて、
即(すなはち)新羅亦(また)任那を侵(をか)しき。
《新羅与任那相攻》
 任那地域は、欽明二十三年に完全に新羅に制圧されたはずなのに、いつの間にか「任那国」が蘇っている。 しかし、この時期の任那が新羅国と対等に戦えるような存在ではなかったのは、あまりにも明白である。
 この問題については別項を立てて考察する。
《境部臣》
 境部摩理勢臣の名が、〈舒明天皇即位前紀〉にある。摩理勢は山背大兄王を担ぎ、馬子によって殺された。
 〈姓氏家系大辞典〉に「境部 サカヒベ: 「境部臣:蘇我氏の族にて、史上に有名なる境部臣麻里勢は、公卿補任に拠るに、蘇我稲目の子とあり。然らば馬子の弟なるべし。」 推古紀の境部臣は「麻里勢と如何なる関係にてあるか。」とあるように、 この闕名の人物の実態は不明である。
《穂積臣》
 孝元天皇段に「此天皇娶穂積臣等之祖。内色許男命妹。内色許売命」。
 また、穂積臣押山は〈継体六年〉に哆唎国守として登場した。 このときは、任那の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県を百済に与えることに一役を買っている。 〈天武十三年十一月〉「穂積臣…賜曰朝臣」。 朝臣姓を賜るにあたって、氏文うじのふみを提出したと考えられる。 〈推古八年〉はそこにあった話を元にしたのかも知れない。後述するように、その内容は前後の流れから浮いているからである。
《直指新羅以泛海往之》
 新羅に行ったことを、ここでは「直指新羅。以泛海往之。」と書く。 「」には、「広く覆う」、また「浮かべる」という意味があり、「泛海」からは広大な海を進みゆく船がイメージされる。 また「直指新羅」には、新羅をひたすら指して進み、陸地が眼前に迫る様が見える。
 これはある伝説中に書かれた、新羅への行程の描写と見られる。その伝説とは、まさに前項の穂積臣の氏文ではないだろうか。 書紀で新羅に出かけることは、これまでに無数にあったから、最初から書紀の文章なら「赴新羅」などと簡潔に書くだろう。 ここでは、伝説を元の形のままで組み込んだものと見られる。
《多々羅など六城》
加羅から倭系古墳の分布域が「任那」地域かと思われる
 「多々羅 素奈羅 弗知鬼 委陀 南加羅 阿羅々」の六城が割譲されたと書かれている。
 これらのうちで、多々羅だけは現在の釜山広域市の多大に比定されるが、他は半島の南東の海岸沿いであろうと想像するに留まる。 書紀でここまでに出てきた地名と比べてみる。
●〈継体二十三年〉の四県… 金官背伐安多委陀〔一本〕多多羅須那羅和多費智
●〈神宮皇后四十九年〉… 比自㶱南加羅㖨国安羅多羅卓淳加羅
●〈欽明二十三年〉の総言「任那」諸国… 加羅安羅斯二岐多羅卒麻古嗟子他散半下乞飡稔礼
 このように、多々羅委陀南加羅素奈羅(須那羅)については、これまでに同一地名が出てきた。阿羅々は阿羅と同じかも知れない。
《難波吉師神》
 難波吉師神の「神」は人名であるが、図書寮本、北野本は訓を付さない。これらの本の訓点は平安後期とされている。 鎌倉時代の〈釈紀〉は「かみ」。そして江戸時代の内閣文庫本、仮名日本紀は「みわ」と訓む。
 「みわ」という訓みについては、平安時代に一部で古訓として用いられていて、それが江戸時代に継承された。 鎌倉よりも後の時代に、初めてこの訓みが始まった。のどちらかである。
 「神」がミワと訓まれるのは大神神社がそれで、三輪山の神への信仰が深まるうちに、ミワカミを意味するようになったと考えられている。 だが、記紀や万葉で「神」をミワと訓むことはない。やはり、ミワは三輪山の神限定であろう。 難波の吉師の本貫は多分摂津国だから、三輪山〔式上郡〕の神を意識して名付けられとは考えにくい。
 〈釈紀〉を見る限り、少なくとも鎌倉時代には、一般的に難波吉師「神」をミワと訓むことはなかったと思われる。 誰がいつミワと訓み始めたのだろうか。
《船舵》
 船舵については、
●(万)0936 船梶毛欲得 ふなかぢもがも
● (万)1221 吾舟乃 梶者莫引 わがふねの かぢはなひきそ
 のように、「ふなかぢ」、「ふねのかぢ」のどちらの言い方もある。「ふねかぢ」は三例あるが、表記はすべて「船」なので、「ふねかぢ」かも知れない。 4025歌には、「ふな」も「ふね」もある([wikisource]校異)。
《召還》
 メス+カヘスの形は、上代語にはなかなか見えないが、「よびかへす(呼び返す)」はある。「召す」は「呼ぶ」の敬体だから、 「めしかへす」もあり得るだろう。『現代語古語類語辞典』〔三省堂2015〕は、召喚の上代語に「召し返す」を挙げている。
《大意》
 八年二月、 新羅(しらぎ)と任那(みまな)は互いに攻め合いました。 天皇(すめらみこと)は任那を救おうと思われ、 この年、 境部臣(さかべのおみ)に命じて大将軍とされ、 穂積臣(ほづみのおみ)を副将軍とされ【二人とも名はわかりません】、 一万余の軍勢を率いて任那のために新羅を撃ちました。
 そのために、新羅をまっすぐ目指し、船で海を渡り、 こうして新羅に到り、五城を攻め墜しました。
 すると、 新羅王は、畏まって白旗を挙げ、 将軍の麾下(きか)に到り立って、 多々羅(たたら)、 素奈羅(すなら)、 弗知鬼(ほつちき)、 委陀(ゐだ)、 南(ありしひの)加羅(から)、 阿羅々(あらら)の六城を割き、 これを以て服従することを請いました。
 時に、将軍は共に議して 「新羅は罪を知って服した。強て撃つべきではないだろう。」と言い、 奏上しました。
 そこで、天皇は更に難波吉師(なにわのきし)神(みわ)を新羅に遣わし、 また難波の吉士木蓮子(いたび)を任那に遣わし、 それぞれ事の状況を調べさせました。
 すると、新羅と任那二国は使者を遣わして、貢調しました。 そして奏表して申し上げました。 ――「天上に神あり、地に天皇(すめらみこと)有り。 是の二神を置いて、何に畏こまることがありましょうか。 今から以後、相攻めることはありません。 かつ、船の舵(かじ)を乾かすことなく、毎年必ず拝朝いたします。」
 その結果、使者を遣わして、将軍を召還されました。 将軍等は新羅から帰国し、 すると新羅はまた任那に侵攻しました。


【境部臣穂積臣による新羅攻撃】
 前述したように、八年の記述はその頃の半島情勢には噛み合わない。 まず、この年の前後のことが、三国史記にはどのように書かれているかを見る。 
《推古八年》
 〈推古八年〉庚申〔600〕は、 新羅真平王二十二年高句麗嬰陽王十一年百済法王二年かつ武王元年に当たる。
新 羅百 済
丁巳〔597〕推古五年 〔真平王〕
 十九年。
 三郞寺成。
庚申〔600〕推古八年 二十二年。 高僧円光隨朝聘使奈麻諸文。大舎橫川還。 〔法王〕
 二年。
〔武王〕
 元年。
 春正月。創王興寺〔得度〕僧三十人。大旱。王〔行幸〕漆岳寺雨。
 夏五月。薨。 武王〔即位〕
壬戌〔602〕推古十年 二十四年。 遣-使大奈麻上軍。入隋進方物
 秋八月。百済来-攻阿莫城。王使将士逆戦大敗之。貴山、箒項死之。
 九月。高僧智明隨入朝使上軍還。王尊-敬明公戒行。為大徳
 三年。 秋八月。王出兵囲新羅阿莫山城【一名母山城】。羅王真平遣精騎数千拒戦之。我兵失利而還。新羅築小陀、畏石、泉山、甕岑四城-逼我疆境。 王怒令佐平解讎、帥歩騎四万、進-攻其四城。 新羅将軍乾品、武殷帥衆拒戦。解讎不利。引軍退於泉山西大澤中伏兵以待之。武殷乗勝、領甲卒一千、追至大澤、伏兵発撃急之。武殷墜馬、士卒驚駭、不所為。武殷子貴山大言曰「吾嘗受於師。 曰『士当軍無退』豈敢奔退、以墜師教乎」以馬授父。 即与小将箒項、揮戈力闘以死。余兵見此益奮。我軍敗績。解讎僅免。単馬以帰。
 大奈麻〔官位〕上軍〔人名〕を遣使し、隋に入り方物を進ず。
 秋八月。百済、阿莫城を来攻す。王、将士を使はし逆戦大敗し、貴山・箒項死す。
 九月。高僧智明〔法名〕入朝使上軍にしたがひ還る。王、明公〔=智明〕の戒行を尊敬し、大徳〔官位〕り。
 秋八月。王、兵をで、新羅阿莫山城【一名母山城】を囲む。〔新羅〕王真平、精騎数千を遣し拒戦す。我が兵利を失ひて還る。新羅、小陀・畏石・泉山・甕岑四城を築き、我が疆境〔国境〕を侵逼す。 王、怒りて佐平〔官位〕解讎〔人名〕をして、歩騎四万をひきゐて、其の四城を進攻せむ。新羅将軍乾品〔官位〕武殷〔人名〕衆を帥ゐて拒戦す。 解讎不利となり軍を引き泉山西の大澤の中に退き伏兵し以て待つ。武殷勝ちに乗じて、領甲し一千をひきゐ、大澤に追ひ至り、伏兵発撃急なり。武殷馬より墜ち、士卒驚駭し、所為なすすべを知らず。武殷の子の貴山、大言して曰く「吾かつて師に教へを受けて曰く『士は軍を退くこと無かるし』、あにあへて奔退し、 師の教へを以て墜つ。」 以て馬を父に授けき。即ち小将箒項とともに、ほこふるひ力闘し以て死にき。余兵此を見てますますふるふ。我が軍敗績し、解讎僅かに免れ、単馬にて以て帰りき。
癸亥〔603〕推古十一年 二十五年。 秋八月。高句麗侵北漢山城。王みづから兵一万以拒之。
乙丑〔605〕推古十三年  六年。 春二月。築角山城。秋八月。新羅侵東鄙
 このように、『三国史記』の〈推古八年〉前後には、新羅南部での戦闘は記されない。
 翌々年の十年になると、新羅と百済との間に顕著な戦争がある。〈推古紀十年〉では、 来目皇子が二万五千の軍勢を率いて筑紫に至り、四月には先発隊が食料を運び込んだようだが、 来目皇子は病気になり、渡海を中止した。十一年四月には代わりに当麻皇子を将軍とするが、同行していた妻を亡くしてやはり征新羅を中止している。
 しかし、大伴連囓と坂本臣糖手輜重隊を率いて渡海したと読めるので、百済軍に加わって作戦に参加した可能性はある。 ただ、〈推古紀〉では囓と糖手の帰国は十年六月で、『三国史記』が戦闘があったと記す同年八月より前である。 詳しくは〈十年〉で考察する。
《「推古八年」の件りは氏文からとったものか》
 〈推古八年〉に戻ると、そもそも原因となった紛争の枠組み「新羅与任那相攻」からして信憑性を欠く。 〈欽明紀〉においては、欽明天皇はかつてしきりに任那の「再興」への協力を依頼していた。つまりは「任那国」は存在していない。 さらに〈二十三年〉の原注は、任那は「総言」、すなわち小国群の地域名だと述べている。
 推古八年には、すでに任那地域〔=加羅〕は完全に新羅の支配下にあったから、紛争があったとしても小地域の反乱程度のものであろう。 「新羅王が将軍の麾下までやってきて云々」に至っては、明らかに全くの創作である。
 さらに六県の割譲については、倭軍はすぐに引き上げてしまった。 そして、倭軍が引き上げると「即、新羅亦侵任那」とされるから、戦果は無に帰したであろう。
 ここで注目されるのは大将軍境部臣と副将軍穂積臣が「闕名」とされることである。 これを、〈崇峻四年十一月〉において 「紀男麻呂宿祢」以下、将軍名と部隊の構成が詳細に記されたことと比べると、大変な落差がある。 さらには上述のように、海上を新羅に向かう場面の書き方は、氏族の伝承のように思われる。
 思うに、〈崇峻四年〉は朝廷の公式記録に基づくのに対し、〈推古八年〉は境部臣あるいは穂積臣の伝承を収めたのではないだろうか。 「直指新羅。以泛海往之」という詩的な表現からは伝承をあまりいじらずに収めた気配が感じ取れる。
 書紀の筆者も実はこの段の信憑性のなさを自覚していて、事実上なかったことにするために「即新羅亦侵任那」を加えたのだろう。
《「任那使」なるもの》
 〈推古紀八年〉においては、任那が新羅と関わって登場していることこそ、注目すべきであろう。 〈欽明二十三年〉の「新羅打滅任那官家」までは、任那は専ら百済との関係において登場した。 しかし、以後は新羅との関係の文脈に出てくる。
 〈推古三十一年〉には、倭の使者磐金を迎えるために、新羅が飾り船を出した記事がある。そのとき任那を名乗る船も加えることを要請した (神功皇后紀4《形式としての任那使の同席》)。 だから、倭に貢献の使者を出すときに、名目上の「任那国使者」を同行させたのであろう。
 前項に於いて出典は氏文と見たが、もし後半の「天皇更遣難波吉師神於新羅」以下が実記録によったとすれば、 新羅使に名目上の「任那使」を伴わせたことが、「新羅任那二国遣使」の実態だと思われる。 吉師神と吉師木蓮子は、この形を装うように頼みに行ったのかも知れない。
 なお、〈孝徳-大化元年七月〉に、百済の調の一部を任那の調として貢献し直せと百済使に要求している。 既に任那地域は新羅に吸収されていたから、これを百済に要求したというのは不審である。 現時点では、新羅に依頼して断られたことを、百済に回したと考えておく。
 〈大化二年〉二月には「高麗百済任那新羅、並遣使。貢献調賦」とあり、何とか望む形が実現できたようだが、九月の「遂罷任那之調」は、「任那による貢献」を装うことすら不可能になったと読める。

まとめ
 〈推古〉二年から七年までは事実が簡潔に列挙され、恐らく実記録によると思われる。 ところが、八年になると突然荒唐無稽となり、その解釈には頭を抱える。 前後の新羅攻撃については、なんとか三国史記の事象に結び付けることができた。 しかし、この件に関しては結び付きそうにない。
 検討の結果、ここに朝廷の記録とは別にあった氏族の伝承を挿入したのだろうという結論に達した。 その鍵になったのは、「直指新羅以泛海往之」である。新羅への渡海をこのように詩的に表現することは、 神功皇后や襲津彦にもなく、書紀本来の書き方ではないと思われる。
 この伝承の中に「推古八年」=庚申年などの文字があったのかも知れない。 しかし中身を見ると、地名には〈継体二十三年〉の「四県」と一定重なっていて、この時期の多多羅地域を巡る新羅と毛野臣との紛争との関連が伺われる。 当時、倭と三韓との交流が盛んだったのは確かで、渡海しての小競り合いも恐らくは起こっていた。 伝承の内容は、当時の出来事が元になっているのではないかと思われる。
 思えば欽明二十三年に任那〔加羅〕が滅ぼされた直後には、何とか一矢を報いようとしたと描く伝承が寄せ集められた。 〈推古八年〉もその系列に属するもので、 任那のために新羅と戦ったという伝承を、玉石混交で集めてきた一つではないかと思われるのである。



2021.04.21(wed) [22-02] 推古天皇2 

目次 【九年~十年六月】
《皇太子初興宮室于斑鳩》
九年春二月。
皇太子初興宮室于斑鳩。
三月甲申朔戊子。
遣大伴連囓于高麗、
遺坂本臣糠手于百濟、
以詔之曰、急救任那。
興宮室…〈岩崎本〔以下岩〕ツクリタマフタテタマフ宮-室ミヤ于斑-鳩。 〈図書寮本〔以下図〕興宮ツクリタマフ-ミヤ斑-鳩イカルカ。 〈北野本〔以下北〕興宮ツクリタマフミヤ斑-鳩イカルカ
…〈岩〉クヒ。 〈図・北〉クラフクヒ。 〈内閣文庫本〔以下閣〕クヒヲ/ヲラヲ。 大伴連齧(囓)…初出は〈崇峻天皇即位前〉「大伴連クラフ」と見られる。
坂本臣糠手…初出は〈崇峻天皇即位前〉「坂本臣糠手あらて」。
九年(ここのとせ)春二月(きさらき)。
皇太子(ひつぎのみこ)初めて[于]斑鳩(いかるが)に宮室(みや)を興(た)てたまふ。
三月(やよひ)甲申(きのえさる)を朔(つきたち)として戊子(つちのね)〔五日〕
大伴連(おほとものむらじ)の囓(くらふ)を[于]高麗(こま)に遣(つか)はして、
坂本臣(さかもとのおみ)の糠手(あらて)を[于]百済(くたら)に遺はして、
以ちて詔(みことのり)[之]曰(のりたまはく)「急(すみやかに)任那(みまな)を救へ。」とのりたまふ。
夏五月。
天皇居于耳梨行宮。
是時大雨、
河水漂蕩、
滿于宮庭。
…〈岩〉
耳梨行宮…〈岩〉耳・梨に朱筆の声点〔(呉音)ニリ〕。 〈図・北〉耳梨行ミゝナシカリ。 〈閣〉耳梨行ミゝ ナシノ カリ-宮
耳梨宮…〈元興寺伽藍縁起并流記資財帳-敏達天皇〉に「耳无宮」がある。 耳成山の近辺にあったのだろう。
大雨…〈図〉大-雨  ヒチサメフル。 〈北〉大雨ヒサ■■ル。 〈閣〉大雨ヒチサメフル/ヒサメフル
漂蕩…〈図・北〉漂-蕩タゝヨフ 満于 イハメリ宮庭 オホミヤ
いはむ…[自]マ四 みちる。
夏五月(さつき)
天皇(すめらみこと)[于]耳梨行宮(みみなしのかりみや)に居(ましま)す。
是の時大雨(ひさめふり)て、
河水(かはのみづ)漂蕩(ただよ)ひて、
[于]宮(おほみや)の庭(には)に満(み)てり。
秋九月辛巳朔戊子。
新羅之間諜者迦摩多到對馬、
則捕以貢之、流上野。
冬十一月庚辰朔甲申。
議攻新羅。
間諜者…〈釈紀-秘訓〔以下釈〕〉新羅シラキ間諜者ウカミヒト 迦摩多カ■タ。 〈岩〉間-諜ウカミ。 〈図〉間諜者ウカミ ヒト迦摩多 レリ。 〈北〉間-諜-者ウカミヒト迦摩多カマタ レリ
うかみ…[名] 斥候。スパイ。
対馬…〈倭名類聚抄〉對馬島【都之萬】〔つしま〕
上野…〈岩〉クニ。 〈図〉上野クニ
攻新羅…〈図〉コトヲ新羅
秋九月(ながつき)辛巳(かのとみ)を朔(つきたち)として戊子(つちのえね)〔八日〕
新羅(しらき)之(の)間諜者(うかみ)迦摩多(かまた)対馬(つしま)に到りて、
則(すなはち)捕へ以ちて之(こ)を貢(たてまつ)りて、上野(かみつけのくに)に流す。
冬十一月(しもつき)庚辰(かのえたつ)を朔として甲申(きのえさる)〔五日〕
新羅(しらき)を攻むることを議(はか)る。
十年春二月己酉朔。
來目皇子、爲擊新羅將軍、
授諸神部及國造伴造等
幷軍衆二萬五千人。
撃新羅将軍…〈岩〉新羅将軍。 〈閣〉撃新羅将軍
神部…〈図〉神-部カムトモノ。 〈閣〉神-部カムトモノヲ
軍衆…〈図・北〉軍-衆イクサ二万五-千イツチ-人
十年(ととせ)春二月(きさらき)己酉(つちのととり)の朔(つきたち)。
来目皇子(くめのみこ)を、撃新羅(しらきをうつ)将軍(いくさのかみ)と為(し)たまひ、
[授]諸(もろもろの)神部(かみのとものを)と国造(くにのみやつこ)伴造(とものみやつこ)等(たち)に及び
并(あは)せて軍衆(いくさひと)二万五千人(ふたよろづたりあまりいつちたり)をさづけたまふ。
夏四月戊申朔。
將軍來目皇子到于筑紫、
乃進屯嶋郡而聚船舶運軍粮。
六月丁未朔己酉。
大伴連囓坂本臣糖手共至自百濟。
是時、來目皇子臥病以不果征討。
屯嶋…〈釈〉屯嶋郡イハシマノコヲリ。 〈図〉イハ嶋郡。 〈仮名日本紀〉
すなはち屯嶋いはしまこほり。 〈倭名類聚抄〉{筑前国・志摩郡}。
…[動] (古訓) あつまる。たむろ。むらかる。
運軍粮ツムカテ
大伴…〈岩〉大-伴 トモ 崇峻2参照〕
…〈図〉。〈北・閣〉
臥病…〈図〉師病臥-ヤマヒ
征討…〈図〉征討ウツ
夏四月(うづき)戊申(つちのえさる)の朔(つきたち)。
将軍(いくさのかみ)来目皇子(くめのみこ)[于]筑紫(つくし)に到りたまひて、
乃(すなはち)嶋郡(しまのこほり)に進み屯(あつまり、いはみ)て[而]船舶(ふね)を聚(あつ)めて軍粮(いくさのかて)を運ぶ。
六月(みなづき)丁未(ひのとひつじ)を朔(つきたち)として己酉(つちのととり)〔三日〕
大伴連囓(おほとものむらじのくらふ)坂本臣糖手(さかもとのおみのあらて)共に百済(くたら)自(ゆ)至れり。
是の時、来目皇子病(みやまひ)に臥(ふ)したまひて、以ちて征討(ゆきてうつこと)を不果(はたさず)。
《斑鳩宮》
 法隆寺夢殿の北に、掘立柱建築物の柱穴が検出された。 出土遺物の年代、そして火災痕が〈皇極紀〉の記述に合致することから、これが斑鳩宮跡であろうと考えられている (〈用明紀二年〉【斑鳩宮】)。
《いはむ》
 「于宮庭」の「」に、古訓「いはむ」が振られている。 〈時代別上代〉が挙げるイハムの用例は七つあるが、すべて書紀古訓である。
 万葉集では、「(万)0485 國尓波満而 くににはみちて」など、「満」は「みつ」である。 「」は、「(万)1720 馬屯而 うまなめて」「(万)3320 行之屯尓 ゆきのつどひに」 に「並べる」意味で使われているが、イハムとは訓まない。
〈釈紀〉で使われた「屯」の例
●天平九年〔737〕四月戊午〔十四日〕四月四日。軍屯賊地比羅保許山
●天応元年〔781〕六月戊子朔「但彼夷俘之為性也。蜂屯蟻聚。
●延暦八年〔789〕六月庚辰〔九日〕久屯賊地
 「」については、「あつむ」が「(万)3858 記集 しるしあつめ」 「むる」(群る)が、「(万)1720 打集越来 うちむれこえき」 「つどふ」が、「(万)2012 五百都集乎 いほつつどひを」など6例。
 『類聚名義抄』〔「仏下末」巻の「乚卅四」部〕では、「」の訓は 「タムロ ツラル アツマル カゝマル ムラカル」である。
 これらを見ると、「いはむ」には本当に書紀限定の感がある。平安の訓点学者がこれを選んだとしても、 書紀古訓以外にはほとんど使用されなかったのではないだろうか。
 〈続紀〉には右の例が見える。これらの「」も古訓に倣えば「いはむ」となるが、これも実際にはタムロス、ムルなどと訓まれたのではないかと思われる。
 直感的には、古訓よりも万葉集に順う方が、上代の一般的な言語感覚に近いように思える。
仮名日本紀 図書寮本 岩崎本
《来目皇子》
 来目皇子の父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女。聖徳太子の同腹の弟である。
《屯嶋郡》
 〈図書寮本〉などは、明らかに「屯嶋郡イハシマノコホリ」を地名として読んでいる。 それは、イハの下にムやミをつけないからである。〈仮名日本紀〉を見ると、鎌倉以後にもこの読み方が踏襲されていたことがわかる。
 しかし、〈倭名類聚抄〉を見ても筑前国・筑後国に「屯嶋郡」はない。
 最古の写本と言われる〈岩崎本〉には3通りの訓点が付され、それぞれ異なる時代に加えられたと見られる。 一回目と見られるのが朱筆で、「イハム」である。 その朱筆を打ち消す筆致で「イハミ」と墨書するのが二回目であろう。 左側に付された訓点が三回目だと考えられ、「イハ嶋郡」だと見られる。 しかし、一回目と二回目については、それぞれ「イハ嶋郡」、「イハ嶋郡」であろう。
 この文の次に「船舶〔ふねを集める〕と述べるから、 軍勢を集結した「」は海に面した嶋郡、すなわち〈倭名類聚抄〉の{筑前国・志摩}だと考えられる。
 つまり、岩崎本の訓点の二回目までは「嶋郡〔嶋郡にイハム〕だったが、岩崎本第三回はそれを郡名「イハシマノコホリ」と誤解し、それが他の本にも踏襲されたのである。 現代は一般的に「嶋郡しまのこほりいは」と訓まれ、岩崎本の2回目以前に戻っている。
 なお、前述したように、イハムは書紀古訓固有の語である。
《岩崎本》
 影印本『京都国立博物館編 国宝岩崎本 日本書紀』〔勉誠出版;2013〕の解説によると、訓点は平安中期末〔11世紀前半〕(朱点)、院政期〔12世紀〕(墨点と一部朱点)、報徳三年〔1451〕と文明六年〔1474〕(墨点)の訓点が加えられ、 「時代によって、訓読や解釈、またニュアンスが変わることを示している」という。
 室町地代の報徳三年と文明六年の訓点は、一条兼良の手になるという。時期から見て〈釈紀〉の卜部兼方の影響はあるだろう。
 同書の解説は、兼方の訓点についても触れており、「古語を志向してそれまでの点本に無い語彙語法を用いる擬古的訓法を生み」、 「一方で当時一般的な漢文訓読法が相当交るという特徴を有」し、「均質性に問題がある」とする。 つまり、〈釈紀〉は、上代語に戻した部分と鎌倉時代の訓読法が混在するものとして読まねばならない。
《志摩郡》
 志摩郡は福岡湾を挟んで糟屋郡と向かい合っていて、その糟屋郡は歴史的な地名である。
 「糟屋屯倉」は〈継体段-磐井の乱〉(第232回)の結果、朝廷に献上された。 これは、三韓と難波津を行き来する船から通行税を取り立てる権利を放棄したと見た。 香椎宮は、〈神功皇后紀〉の訶志比宮〔書紀は橿日宮〕に因む宮であるが、 神功皇后紀巻自体、倭と三韓の交流の神話的根源を示すものと位置づけられている。 志賀島しかのしまは「漢委奴国王印」の発見地である。
 このように、福岡湾は三韓に渡る拠点であるから、 軍勢が嶋郡〔=志摩郡〕に屯(いはみ)したと書かれたとすることは、理にかなっている。
《大意》
 九年二月、 皇太子(ひつぎのみこ)〔聖徳〕は、初めて斑鳩(いかるが)に宮室を興しました。
 三月五日、 大伴連(おおとものむらじ)囓(くらう)を高句麗に遣わし、 坂本臣(さかもとのおみ)糠手(あらて)を百済に遺わし、 こうして「速やかに任那を救え。」と詔されました。
 五月、天皇(すめらみこと)は耳梨(みみなし)の行宮(あんぐう)に滞在しました。 この時、大雨が降り、河の水が溢れ、宮の庭を満たしました。
 九月八日、 新羅の間諜、迦摩多(かまた)が対馬に来て、 すぐに捕えて献上し、上野国に流しました。
 十一月五日、 新羅への攻撃について議を開きました。
 十年二月一日、 来目皇子(くめのみこ)を、征新羅将軍とし、 諸々の神部、国造(くにのみやつこ)、伴造(とものみやつこ)等、 併せて二万五千人の軍勢を授けました。
 四月一日、 将軍来目皇子は筑紫に到着し、 嶋郡(しまのこおり)に進み駐屯して、船舶を集めて軍糧を運びました。
 六月三日、 大伴の連囓、坂本の臣糖手(あらて)が共に百済より帰りました。 この時、来目皇子は病に伏し、よって征討を果たせませんでした。


目次 【十年十月~十一年四月】
《百濟僧貢曆本及天文地理書》
冬十月。
百濟僧觀勒來之、
仍貢曆本及天文地理書幷遁甲方術之書也。
是時、選書生三四人以俾學習於觀勒矣。
陽胡史祖玉陳、習曆法。
大友村主高聰、學天文遁甲。
山背臣日並立、學方術。
皆學以成業。
観勒…〈岩〉ロク。 〈釈〉觀勒クワムロク
陽胡…〈閣〉陽胡ヤコ。 〈釈〉陽胡ヤコノフムヒトノヲヤ玉陳タマフル
暦本…〈釈〉コヨミノタメシ天文テムモム地理書チリノフミ遁甲トムカフ方術之書ホウジユツノフミ 〈岩〉コヨミ- タメシ。 〈図〉タメシ。 〈北〉曆本コヨミノタメシ天文テムモン地理書チリノフミ遁甲トムカフ方術之書ホウジユツノフミ
書生…〈図・北〉書-生フムヒト/フミナラフ
学習…〈岩〉マナヒ-ナラハ於觀勒。 〈図〉學-習マナ
暦法…〈図・北・釈〉暦-法コヨミ
村主…〈図・北〉村-主スクリ。 〈釈〉大友トモノ村主スクリ高聡カウソウ山背臣ヤマシロノヲン日並ヒニタテ
山背臣日並立…〈岩〉タテ。 〈図〉日並ヒニ タテ。 〈北〉山背臣ヤマシロノヲム日-並ヒニ-立タテ
成業…〈岩〉ミチ。 〈図・北〉ミチ
…[名] なりはひ。のり。みち。
冬十月(かむなづき)。
百済(くたら)の僧(ほふし)観勒(くわむろく)来之(まゐく)、
仍(すなはち)暦本(こよみのふみ)と天文(てむもむ)地理(ちり)の書(ふみ)に及びて遁甲(とむかふ)方術(ほうじゆつ)之(の)書(ふみ)を并(あは)せて貢(たてまつ)る[也]。
是(この)時、書生(ふみならふひと)三四人(みたりよたり)を選(えら)ひ以ちて[於]観勒に学習(まね)ば俾(し)む[矣]。
陽胡(やこ)の史(ふひと)の祖(おや)玉陳(たまふる)、暦法(れきほふ、こよみののり)を習ふ。
大友(おほとも)の村主(すぐり)高聡(かうそう)、天文(てむもむ)遁甲(トムカフ)を学(まね)ぶ。
山背臣(やましろのおみ)日並立(ひなたて)、方術(ほうじゆつ)を学ぶ。
皆(みな)学び以ちて業(みち)を成せり。
閏十月乙亥朔己丑。
高麗僧々隆
雲聰共來歸。
僧隆…〈釈〉僧隆ソウリウ雲聡ウムソウ
来帰…〈岩〉来歸マウオモフケリ。 〈北〉来歸マウオモムケリ
閏(うるふ)十月(かむなづき)乙亥(きのとゐ)を朔として己丑(つちのとうし)〔十五日〕
高麗(こま)の僧(ほうし)僧隆(そうりう)
雲総(うむそう)共に来帰(まゐく)。
十一年春二月癸酉朔丙子。
來目皇子薨於筑紫。
仍驛使以奏上、
爰天皇聞之大驚、
則召皇太子・蘇我大臣、
謂之曰
「征新羅大將軍來目皇子薨之。
其臨大事而不遂矣、甚悲乎。」
…〈岩〉ウセマシヌ/セリ。 〈北〉ウセマシヌ
駅使…〈図・北〉驛-使ハイマシ/ハマシ。 〈閣〉驛-使ハヒマシテ
奏上…〈岩〉マウシマウシ-アク。 〈図・北〉奏上マウシアク
謂之…〈岩〉皇太子蘇我大臣
大将軍…〈図・北〉太将軍
大事…〈岩〉ナル
不遂…〈岩〉/スナリヌ トケトクルコトエスナス
〈図・北〉不遂 〔ず〕ナリヌ トケ
甚悲乎…〈岩〉 シキカナ
十一年春二月(きさらき)癸酉(みづのととり)を朔として丙子(ひのえね)〔四日〕
来目皇子[於]筑紫に薨(こうず、みまかる)。
仍(すなはち)駅使(はゆまつかひ)以ちて奏上(まをしあげ)、
爰(ここに)天皇(すめらみこと)之(こ)を聞こして大(はなはだ)驚きたまひて、
則(すなはち)皇太子(ひつぎのみこ)蘇我大臣(そがのおほまへつきみ)を召して、
[之]謂(のたま)ひて曰(のたまひしく)
「征新羅(しらきをうつ)大将軍(おほきいくさのかみ)来目皇子(くめのみこ)[之]薨(こうず、みまかる)。
其(それ)大(おほきなる)事に臨みて[而]不遂(とげざること)[矣]、甚(いと)悲(かな)し乎(や)。」とのたまひき。
仍殯于周芳娑婆。
乃遣土師連猪手令掌殯事、
故猪手連之孫曰娑婆連、其是之緣也。
後葬於河內埴生山岡上。
周芳娑婆…〈仲哀八年〉「周芳沙麼之浦」。
〈倭名類聚抄〉
周防【須波宇】国佐波【波音馬】郡
〔すはうのくに・さまのこほり〕
〈岩〉周-芳 スハウ  クニ 娑-婆サハ今佐婆郡
土師連猪手…〈釈〉土師ハシノムラシ猪手ヰテ
…〈岩〉ウミノコ
…〈岩〉緣也ヨシナリ。 〈図・北〉ヨシ
埴生…〈岩〉ハニ
仍(すなはち)[于]周芳(すはう)の娑婆(さま)に殯(もがり)す。
乃(すなはち)土師連(はにしのむらじ)の猪手(ゐて)を遣(や)りて殯事(あらきのこと)を掌(つかさど)ら令(し)めて、
故(かれ)、猪手連(ゐてのむらじ)之(の)孫(ひこ)を娑婆連(さまのむらじ)と曰ふは、其(それ)是之(この)縁(よし)也(なり)。
後(のち)に[於]河内(かふち)の埴生山(はにふやま)の岡上(をかのへ)に葬(はぶ)りまつる。
夏四月壬申朔。
更以來目皇子之兄當麻皇子、
爲征新羅將軍。
秋七月辛丑朔癸卯。
當麻皇子、自難波發船。
夏四月(うづき)壬申(みづのえさる)の朔(つきたち)。
更(また)来目皇子(くめのみこ)之(の)兄(あに)当麻皇子(たぎまのみこ)を以ちて、
新羅(しらぎ)を征(う)つ将軍(いくさのかみ)と為(し)たまふ。
秋七月(ふみづき)辛丑(かのとうし)を朔(つきたち)として癸卯(みづのとう)〔三日〕
当麻皇子、難波(なには)自(ゆ)発船(ふなた)ちたまふ。
丙午。
當麻皇子到播磨。
時、從妻舍人姬王薨於赤石、
仍葬于赤石檜笠岡上。
乃當麻皇子返之、遂不征討。
丙午(ひのえうま)〔六日〕
当麻皇子、播磨(はりま)に到る。
時に、従(したが)へる妻(つま)舎人姫王(とねりひめのおほきみ)[於]赤石(あかし)に薨(こうじて、みまかり)、
仍(すなはち)[于]赤石(あかし)の檜笠(ひかさ)の岡(をか)の上(へ)に葬(はぶ)る。
乃(すなはち)当麻皇子[之]返(かへ)りて、遂に不征討(うちたまはざりき)。
《遁甲方術》
 『国史大辞典』〔吉川弘文館;1979~1997〕によると、遁甲は占いの一種である。
 同書の「式占」及び「遁甲」の項には、「式盤(天地盤ともいう。一種のルーレット)を回転し、その静止せるところの相を『太一』『雷公』『六壬』『遁甲』などの式書(占書)に照らして吉凶をいう一種の占法。」 「円盤を廻転せしめ、その静止せるところの相を、式書に照らして吉凶を判断する」、 「遁甲式書は天下の治乱、軍の勝敗に言及するところ多きにより、禁書となっていたが、またその故に兵家のこれを見る者多く、遁甲兵法なるものを生じた。 遁甲式占は陰陽師の職務であったので、奥羽諸国に諸国陰陽師が置かれ、蝦夷との戦闘に活躍した」という。
 さらに「神祇官では亀卜がなされ、一方陰陽寮で行われた式占は主として遁甲式占であったようである」とある。
 そして「方術」は、さまざまなことへの方法一般を意味する。そのうち、不老不死の術、医術、易占などは「法術」とも表す。
  ここでは、暦本・天文・地理に遁甲方術が並んでいるところが注目される。 暦などは自然科学であり、占いとは根本的に相容れない。 天体の運行は自然現象だが、 「ある惑星がこの星座に入るのは、~の兆しである」のような迷信的解釈によって占いに転ずるのである。 陰陽寮(資料[24]【省】)の業務にも、必然的に天文学と占術が同居していたわけである。
《娑婆連》
 〈姓氏家系大辞典〉には「娑婆 サバ サハ サマ」 「娑婆連:周防古代の名族、佐波郡佐波郷より起る。土師氏の族にして、推古記十一年条に「来目皇子・薨ず…」」、 「この御墓は、宮市と三田尻の間なる桑山の頂なりと云ふ。その頂上より石棺を発見し鏡剣等の埋蔵を知れりと」、 「東鑑〔あづまかがみ〕に「周防国在庁土師宿祢安利」等の見ゆるは此の氏の裔かと」、 「皇極紀に「土師娑婆連猪手」なる者出づ。」とある。
 「桑山の頂」の古墳とは、桑山塔ノ尾古墳(山口県防府市桑山1丁目)のことである。 殯のために埋蔵物を含む古墳を築くのは、不自然である。この問題については別項で考察する。
《河内埴生山》
 地名「埴生」は、履中天皇段や〈仁徳天皇紀〉にある(第177回【羽生坂】)。 「埴生村」はその遺称と思われ、村内の「塚穴古墳」が宮内庁によって来目皇子墓に治定されている。 塚穴古墳は、墳形・規模・年代から見て来目皇子と同時代の皇族墓とすることと矛盾しない。別項を立てて詳細を見る。
《当麻皇子》
吉田王塚古墳
 記では「当麻王」は用明天皇の皇子で、その母は、当麻之倉首の比呂の女、飯女子となっている。 (第245回)。
 書記では、葛城直磐村の女である広子が生んだ子、「麻呂子皇子。こは当麻公先也。」とあるから、 麻呂子皇子は当麻皇子の別名と見られる。ここでは、記に出てきた名前が用いられているわけである。
 来目皇子の母は穴穂部間人皇女だから、当麻皇子は来目皇子の異母兄弟である。「」と書くから年上なのであろう。 だから「兄」は、理屈の上では庶兄で、訓はママアニとなる。ただ〈時代別上代〉にはママイモ(庶妹)・ママハラカラはあるが、ママアニはない。
 記〈大国主命段〉の「汝庶兄弟」(第61回)は、『古典文学大系』〔岩波;1958〕は「庶兄弟ままあにおと」と訓むが、 宣長は『古事記伝』で「汝庶兄弟者イマシガアニオトドモヲバ」とルビを振るから、「」を「もろもろの」の意味に解釈している。
《赤石檜笠岡》
 吉田王塚古墳〔兵庫県神戸市西区王塚台三丁目〕が、宮内庁によって「玉津陵墓参考地:被葬候補者=用明天皇皇子当麻皇子妃舎人姫王」に治定されているが、 墳形は前方後円墳、5世紀はじめと推定されていて、時期は全く合わない。墳丘長は69m。
《大意》
 十月、 百済の僧が帰化し、 暦本、及び天文地理書、併せて遁甲方術の書を献上しました。 この時、書生三四人を選び、観勒(かんろく)に学ばせました。
 陽胡(やこ)の史(ふひと)の先祖の玉陳(たまふる)は、暦法を習い、 大友の村主(すぐり)高聡(こうそう)は、天文遁甲を学びました、 山背臣(やましろのおみ)日並立(ひなたて)は、方術(ほうじゅつ)を学び、 皆学び、もって業(わざ)を成しました。
 閏十月十五日、 高句麗の僧、僧隆(そうりゅう)、 雲総(うんそう)が共に帰化しました。
 十一年二月四日、 来目皇子は筑紫で薨じました。 駅使がこれを奏上し、 天皇(すめらみこと)はそれをお聞きになって大変驚かれ、 すぐに皇太子と蘇我大臣を召して、 告げられました。
――「征新羅大将軍(せいしらぎたいしょうぐん)来目皇子は、薨じました。 その大事に臨んで遂げることができず、大変悲しいことです。」
 そして、周防国の娑婆郡に殯(もがり)しました。 そして、土師連(はにしのむらじ)の猪手(いて)を遣して殯の行事を掌らせました。 よって、猪手の連の子孫を娑婆連(さまのむらじ)というのは、この縁りです。
 その後、河内の埴生山(はにゅうやま)の岡の上に埋葬しました。
 四月一日、 更に来目皇子の)兄(ままあに、このかみ)当麻皇子(たぎまのみこ)を、 征新羅将軍としました。
 七月三日、 当麻皇子は、難波から船を出しました。
 六日、 当麻皇子は、播磨に到着しました。 その時、同行した妻、舎人姫王(とねりひめのおおきみ)が赤石(あかし)で薨じ、 赤石の檜笠(ひかさ)の岡の上に埋葬しました。
 そして当麻皇子は引き返し、遂に征討しませんでした。


【桑山塔ノ尾古墳】
桑山は「標高約107mの独立丘陵である。古墳は山頂から北東に派生する塔ノ尾根の標高45m付近の丘にあった。」
   (『山口県史 資料編考古Ⅰ』)
 防府市の桑山くわのやま(桑山1丁目4。全体が桑山公園)の北東丘にかつて存在した古墳が、来目皇子の殯葬墓と伝えられている。
《埋蔵遺物》
 『日本歴史地名大系』〔平凡社;1980〕によると、桑山塔ノ尾古墳は 「花崗岩丘の桑山くわのやま中腹の小丘の頂にあった隠滅古墳である。天明五年〔1785〕毛利重就が納涼台をつくるための工事中に人夫が発見し、…石匣を作って出土品を納め、山頂に埋納して古墳を撤去」し、 「副葬品に須恵器があること…横穴式石室とみてよい。」、「現地の地貌と後年円筒埴輪の破片を採集したことから推して、前方後円墳の可能性を考えることができる」という。 これが、桑山塔ノ尾古墳と呼ばれている。
 『山口県史(資料編考古Ⅰ)』〔山口県編;2000〕は、「古墳時代後期(6世紀前半)」とし、 斎藤貞宜さいとうさだよしが埋蔵遺物を考証して『桑山古墳私考』 (文政五年〔1822〕を著したと述べる。 そして「『防長風土注進案』〔1842年〕の絵図や記録に残る遺物には、 銅鏡2・石製模造品1・鉄刀3・鉄矛てつほこ5・鉄鏃若干・甲冑・蛇行状鉄器1・金銅製飾履かざりくつ・ 銀魚等付属装飾器物・鍍金ときん鈴・玉類(管玉13・小玉60以上)・馬具(〔略〕)・土師器(高坏たかつき)・須恵器(〔略〕)・ 埴輪片(円筒埴輪・形象埴輪)など」があるとする。 また明治時代に「山頂の1区画が陵墓参考地」と定められ、「1902(明治35)年には、宮内省から来目皇子の殯葬地として指定され、その後の調査は行われていない」という。
 文中の『防長風土注進案』の刊本※1を見る限り、 「三田尻宰判※2」巻の「三田尻村」に「天明五年四月桑山塔之尾脇に重就公御納涼之亭地を開くとて石櫃を堀出候、名間鏡鈴太刀鉾之類百餘品ありしを山頂に埋め」云々と簡単に述べるのみで、 「絵図」なるものはなかった。
『桑山古墳私考』付図――『防府史料 第2輯』
 そこで『桑山古墳私考※3を調べると、そこに埋蔵遺物のスケッチ(右図)が添えられていた。
 『桑山古墳私考』はを「」、BCを「鉾尖」だが「腐りて其形見わけがたし」、を「玉大小共」「皆練玉にて美麗なる物なり」、は「〔あぶみ〕と述べている。 EFの「四つの瓦器は轆轤目※4歟と見ゆるなり」、「多加須伎タカスキ〔中略〕とあるたぐひならん」として、を「比良弖ヒラテ〔葉盤〕と「久菩弖クボテ」、 高坏たかつきとする。
 しかし、は見るからに円筒埴輪である。 そこに書き添えられた「高一尺五寸〔約45cm〕、「高一尺六寸〔約48cm〕も、円筒埴輪として程よい大きさである。 川西宏幸による編年※5では、スカシ穴が多い点ではⅠ期(三世紀後半~4世紀)だが、突帯が飛び出さない点ではⅤ期(5世紀後葉~6世紀)となり、 いずれにしてもこの図のみでは確かなことは解らない。実物は桑山山頂の「陵墓参考地」に収まっているはずだが、当分の間は調査は叶わないだろう。
※1…刊本:『防長風土注進案』〔山口県文書館;1967〕
※2…宰判は長州藩の行政管轄区画で、それぞれ数村が束ねられている。
※3…刊本:『防府史料 第2輯』〔防府郷土史料保存会;1941〕による。
※4轆轤ろくろの回転を利用してつけた模様。
※5…円筒埴輪の様式のいくつかの要素の変遷をもって、古墳の築造年代の尺度としたもの。
《殯葬地》
 来目皇子の時期には既に前方後円墳は終了していたが、桑山塔ノ尾古墳は6世紀前半と推定されるというから、来目皇子の「殯葬地」ではないであろう。 また、改葬したのなら大量の副葬品を置き去りにしたのは何故だろうか。
 そもそももがりについては、〈神代紀〉「喪屋而殯」、 〈用明紀〉「炊屋姫皇后而自強入於殯宮」、〈同〉「於殯庭誄」、 〈欽明紀〉五月には「于河内古市」した後の九月に「于檜隈坂合陵」などとある。 これらをトータルすると、 天皇の崩や皇子の薨の後は殯宮を建てて遺体をしばらく安置し、その前の庭でしのびごとを読み上げるなどの儀式を執り行い、その後に陵に埋葬するのが通常の流れだと読める。 「」にはしばしば"が伴い、「」の目的語が""であることを見ると、殯と葬とにははっきりした区別がある。万葉集の題詞にも「殯宮」が四歌にあり、宮の中に安置したことをうかがわせる。
 よってとして、本格的な陵墓に納める「殯葬」はなかなか考えにくい。 塔之尾古墳=「来目皇子殯所之物」説が生まれたのは、『防長風土注進案』によれば、天明五年〔1785〕に遺物が発見された後である。 この説の提唱者は、書紀そのものを正当に読み取る能力が不十分だったと考えざるを得ない。

【塚穴古墳】
 塚穴古墳(大阪府羽曳野市はびきの3丁目)は古市古墳群に属する終末期古墳で、54m四方の方墳である。
《河内埴生山》
ヒチンジョ古墳石槨
ja.wikipedia.org
徳楽山古墳石槨
羽曳野市公式/徳楽山古墳
 『天皇陵古墳』〔大匠社1996〕によると、「埴生野塚穴はにうのつかあな古墳」は、 「十八世紀後半の河内国駒ヶ谷金剛輪寺の阿闍梨覚峰あじゃりかくほうの記録による」と、 その「内部は横穴式石室で、羨道長4.5m、玄室長4.5m、幅2.7m」で、覚峰は「『久米皇子墓』を本墳と考証する」という。
 「羽曳野市公式-塚穴古墳」によると、 「7世紀前半に築造された1辺54メートルの大型の方墳」で、周濠の「外側に築かれた大規模な土手が、墳丘を取り囲」み、 「北と東西を背景の丘のように高く幅の広い土手が、また、正面にあたる南では、直線的で人工的な外観の土手が整備され」、全域は「130メートル四方におよぶ」という。
《羽曳野丘陵一帯の古墳》
 また、羽曳野丘陵には塚穴古墳の他に、ヒチンジョ池西古墳(羽曳野市はびきの3丁目)、徳楽山古墳(羽曳野市羽曳ヶ丘6・8丁目)がある。
 ヒチンジョ池西古墳は、凝灰岩製の横口式石槨が残り、内部に黒漆を塗った木簡が安置されていたと考えられるという。 石槨は昭和二十三年〔1948〕頃発見され、発見直後に野中寺境内に移された。 「羽曳野丘陵一帯はかつて寺山と呼ばれ、同じような終末期古墳や奈良時代の火葬墓(かそうぼ)がたくさんみつかってい」るという(羽曳野市公式/ヒチンジョ池西古墳)。 「横口式」というのは小口側に長方形の口が開いていることを表し、木棺を差し入れたようである。
塚穴古墳 『羽曳野市史』p.357
 徳楽山古墳は小規模な円墳であったが、現在は破壊されて、横口式石槨(二上山凝灰岩)のみが残っている。 この石槨は野中寺に置かれた後、現在は四天王寺大学内に移設・保存され、見学できる(羽曳野市公式/徳楽山古墳)。
 『天皇陵古墳』はこれらの終末期古墳の存在などから、塚穴古墳は「七世紀代中葉前後の終末期古墳とみなすのが妥当であろう」と述べる。
《来目皇子墓》
 『羽曳野市史』〔羽曳野市史編集委員会;1997〕は、「この付近には数多くの飛鳥時代の古墳が存在する地域であるが、 構築の時期が七世紀初めまで遡るものは今のところ知られていない〔=他の古墳はもっと新しい〕ので、塚穴古墳を〔来目皇子墓の〕第一の候補とするのはひとまず妥当」と述べる。 ただ、「このころ皇族の陵墓の多くが大和の飛鳥周辺や河内の磯長谷に営まれているのにもか関わらず、 ひとり来目皇子のみが羽曳野丘陵に葬られた」事情を考えておかねばならないとする(p.356~358)。
 同書はその「事情」として「来目皇子の側にあった舟氏らがその本貫地で〔墓の築造に〕携わった」ことが関係すると推定する。 船氏は、王辰爾おうしんにを祖として、百済との海上交通に重要な任務を担った氏族であった (欽明十四年)。 その氏寺である野中やちゅう寺は、「伽藍配置や忍冬紋にんどうもんの軒丸瓦など、法隆寺との関係も具体的にうかがえ」るように聖徳太子と深い関係があり、 「太子の弟皇子の墓がその近くにあることも」あり得るだろうと推定する。
 また、三方を土手で囲むデザインについては、 「背後の丘と左右の土手に抱かれるように守られ、南に開けた谷を見下ろすという、風水思想にかなった」理念があり、 「外来的な新風をただよわせる第一級の墳墓」と述べる。
《船氏》
 野中寺の案内板「史跡 野中寺旧伽藍跡〔平成三年一月 文化庁・大阪府教育委員会〕(右図)は 「正倉院文書によれば当郷は百済系渡来系氏族船史のちの船連の本貫であったことから、その氏寺であったことが察せられる。」というので、該当しそうな文書を探したところ、 天平十四年〔742〕の「解」〔下級官から上級官への報告文書〕が見つかった。
案内板「史跡 野中寺旧伽藍跡」 KAZU1000の 社寺仏閣巡り【野中寺】
『大日本古文書』巻2〔東京大学史料編纂所〕※1p.323
○優婆塞※2貢進解【正倉院文書】
謹解 申貢出家人事
舩連次麻呂【年卅 河内國丹比郡野中郷戸主正六位上舩連吉麻呂戸口】
読経 法花経壹部〔=法華経一部〕【八巻】
 〔中略〕
   天平十四年十二月廿三日 
  貢人治部省少錄従八位上舩連多麻布

 謹(つつし)みて解(まを)す: 出家(いへで)する人を貢(たてまつ)る事を申す
 船連(ふなのむらじ)の次麻呂(つぐまろ)
 【年三十(よはひみそとせ)河内国(かふちのくに)丹比郡(たぢひのこほり)野中郷(のなかのさと)正六位上(おほいむつのつかさのくらゐのかみつしな※3)船連の吉麻呂(よしまろ)の戸口(へのくち)】

  貢る人:治部省(をさむるつかさ※4)少録(すないさかむ※5)従八位上(ひろいやつのくらゐのしもつしな※3)船連の多麻布(たまふ)
※1東京大学史料編纂所データベース→奈良時代古文書フルテキストデータベース
※2…「優婆塞(うばそく)」とは在家で修行する人。
※3…〈倭名類聚抄〉位階:正四位上【於保伊与豆乃久良井乃加美豆之奈】。従八位下【比呂伊夜豆乃久良井乃加美豆之奈】。 
※4…〈倭名類聚抄〉省:治部省【乎佐牟留都加佐】。
※5…祐官(四等官制の第四位)の一。〈倭名類聚抄〉祐官:…省曰録…【皆佐官】。
 〈倭名類聚抄〉にも{丹比【太知比。為丹南。為丹北。】郡・野中【乃奈加】郷}とあり、 丹比郡たぢひのこほり野中郷のなかのさとがあったことが確認できる。 〈倭名類聚抄〉にもあるように、丹比郡は後に丹南郡・丹北郡に分割されるが、この正倉院文書からは「天平十四年」の時点では、分割する前であったことが判る。
 江戸時代になると、〈五畿内誌〉―「河内国丹南郡」の【村落】に「野野カミ」「野中」があり、【仏刹】に「野中寺【在野上〔ママ〕」とあり、 現在地名「羽曳野市野々上」、「藤井寺市野中」に対応すると見られる。
 野中寺の「境内の内外に残る礎石は移動を経ており、発掘により」西に塔、東に金堂の配置が判明し、 「平瓦の刻銘「庚戌」〔650〕は瓦を焼き終った年で、創建年代の史料とされ」、 「寺伝は聖徳太子建立四十六院の一つ」と述べるという〔『国史大辞典』吉川弘文館;1979~1997〕
 「案内板」(前出)には「境域には良く旧伽藍跡の土壇および礎石配列を止める」というからこれまでに移転したことはなく、 〈倭名類聚抄〉の「野中郷」には野中寺まで含んでいたのであろう。
 正倉院文書からは、野中郷に住んでいた船連は冠位を賜っており、一族から出家して野中寺に侍る者がいたと読み取れる。 また、当時寺の人事は「治部省」が管轄し、そこにも船連から出仕していたことがわかる。
 このように寺や治部省担当者と船連との間には深い繋がりが伺われるから、野中寺はこの地に住む「船連」の氏寺であったと考えてよいだろう。
 また、羽曳野丘陵には奈良時代の大量の火葬墓が遺るという。渡来人が火葬の習慣を持ち込んだとすれば、船氏の本貫であったことの傍証になるかも知れない。

目次 【十一年十月~十ニ年正月】
冬十月己巳朔壬申、遷于小墾田宮。……〔続き〕


まとめ
 桑山塔ノ尾古墳については現在は学術調査は不可能であるが、江戸時代の記録だけを見ても「来目皇子殯葬」説が全く問題にならないのは明らかである。
 さて、征新羅大将軍になった来目皇子は病死し、後を継いだ当麻皇子も同行した妻の急死により征討を中止している。 当麻皇子自身は健在だから続行できたはずだが、自身も身の危険を感じたのかも知れない。 ならば、真相は暗殺が疑われる。それを匂わせたとも読めるのが、新羅の間諜逮捕の記事である。
 倭軍の新羅攻撃準備への妨害工作を、それまでに紛れ込んでいた間諜が繰り広げていたことは十分考えられる。 書紀には新羅からの移民が集落を形成したと見られる記事も載る 鸕鷀野邑新羅人埴廬新羅人 から、その中には間諜もいたことだろう。
 一方、船連ふなのむらじに対して、書紀は始祖の王辰爾の伝説を載せるなどして、好意的に扱っている。 船連は、百済との交流の太いルートを握っていたと考えられる。 太子は僧を百済と高句麗から、造寺工などを百済から招いた。百済との交易も盛んで、 船連は難波津-百済の海運の担い手として自ら船を運行するとともに、海上交通全般を取り仕切っていたと見られる。 当然、軍の渡海も差配したであろう。この太子と船連との深い関係が、書紀の書きっぷりにも反映したと思われる。
 このように、太子と百済との関係をバックアップする船連の本貫地に敢えて来目皇子の優美な墓を築くのは、 皇子の成就されずに終わった偉業への称賛である。すなわち、新羅への対決姿勢が揺るぎないことを宣言する意味をもつ。 そして国内の親新羅勢力に対しては、その暗躍にブレーキをかけるデモンストレーションとなる。 これが来目皇子墓をここに置いた理由であろう。
 これまで見てきたように、6世紀以後の時期に新羅攻撃を実行したが如く描くのはフィクションに過ぎないのだが、 それを書かせた背景として、渡海して直接攻撃ができていたらという強い願望があったのは確かであろう。 ただ崇峻四年と推古十~十一年については、実際に渡海の寸前までは行ったと見てよいと思われる。



[22-3]  推古天皇2