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2020.10.09(fri) [21-03] 崇峻天皇1 ▼▲ |
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1目次 【即位前~即位】 泊瀬部天皇、天國排開廣庭天皇第十二子也。……〔続き〕 2目次 【用明ニ年四月~六月】 《橘豐日天皇崩》
穴穂部皇子の宮は楼閣まで備えた大規模なものであった。それでは、この宮はどこにあったのだろうか。 皇子の名前につく「穴穂部」は安康天皇(穴穂皇子)の御名代で、〈雄略天皇〉十九年に「詔置二穴穂部一」とされる。 安康天皇の「穴穂皇子」という名は、石上の穴穂に宮を構えたことに由来し、即位後もその地を都としたと考えられる。 ならば、穴穂部の本貫も石上だと考えるのが自然であろう。 そして穴穂部が住んだ土地が地名化して「穴穂部」となり、その地に宮殿に営んだから「泥部穴穂部皇子」(記は三枝部穴太部王)と呼ばれたのであろう(第239回)。 穴穂部皇子の姉「泥部穴穂部皇女」(記は間人穴太部王、〈用明天皇〉皇后)も同じく穴穂部の宮殿に住んだと思われ、 穴穂部皇子が殺されたことからこの地を逃れ、その避難先が丹後国間人(たいざ)であったとする伝説がある (第239回)。 一方、物部氏は天孫本紀によれば、守屋大連(第十四世)は「奉二-斎神宮一」とされるから、 守屋の代に至っても石上神宮は物部氏の氏神で、石上は相変わらず物部氏の中心地であった。 同じ土地に住んでいた穴穂部は、物部氏の支配下にあったと考えられる。 穴穂部はまた穴穂部皇子を密接に支えてきたと見られるから、 物部氏が穴穂部皇子を皇位につけようと考えるようになったのは、自然の成り行きであろう。 《詔》 天皇不在でも、「詔」が発せられた形になっている。 「奉二炊屋姫尊一」とあるから、馬子は即位前の推古天皇が称制として詔を発する形をとったのであろう。 炊屋姫の尊称に尊を用いたことが、それを物語っている。 ただし、実際には推古天皇の前に崇峻天皇が即位した。 《宅部皇子》 宣化天皇の皇子たちのリスト(〈宣化〉元年三月)には、宅部皇子の名前はない。 上殖葉皇子、または火焔皇子の別名かも知れないが、今のところ不明である。 《室》 古訓は「ヤ」だが、追手が燭で照らながら入ったことと、逃げ込むなら普通の小屋より頑丈な壁で囲まれた部屋であろうから、ムロであろう。 偏(かたわ)らにあったいうから、蔵のようなところか。 《善信尼》 〈敏達天皇〉十三年、蘇我馬子宿祢は修行を希望する者を求めて、 善信尼、禅蔵尼、恵善の三尼を得た。 十四年三月に物部守屋大連による仏教への弾圧があり、三尼は「奪二尼等三衣一、禁錮、楚撻〔=鞭打、杖打〕海石榴市亭」という目に遭う。 同年六月、馬子個人限定で仏法が許され、三尼は馬子の許に戻された。 善信尼たちの渡海の申し出は用明二年の時点では一旦保留された。 保留された理由は、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』においてより詳細に書かれている(精読はここ)。 その後、崇峻元年になって善信尼たちの希望は実現し、戒法を学んだ後崇峻三年に帰国した。 これら三つの年、用明二年〔丁未年;587〕、 崇峻元年〔戊申年;588〕、同三年〔庚戍年;590〕は、 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』と一致している。 《大意》 二年四月、 橘豐日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)〔用明〕が崩じました。 五月、 物部大連の軍衆は三度(みたび)気勢を上げて、人々を驚かせました。 大連(おおむらじ)〔物部守屋〕は、以前から他の皇子たちを避け、 穴穂部皇子(あなほべのみこ)を天皇(すめらみこと)に立てようとしていました。 今に及び、猟に遊ぶことを名目にして策謀の場に変えようと考え、 密かに穴穂部皇子に使者を送り、 「願わくば皇子と共に淡路を馳せて猟をいたしたく存じます。」と申し上げました。 そして策謀は洩れました。 六月七日、 蘇我馬子宿祢らは、炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)〔後の推古天皇〕を戴いて、 佐伯連(さへきのむらじ)の丹経手(にへて)、 土師連(はにしのむらじ)の磐村(いわむら)、 的臣(いくはのおみ)の真噛(まくい)に命を発し、 「あなたたちは、兵を厳しく整えて速やかに行き、 穴穂部皇子と宅部(やかべ)の皇子(やかべのみこ)とを誅殺せよ。」と命じました。 是の日の夜半、 佐伯連丹経手らは、穴穂部皇子(あなほべのみこ)の宮を包囲しました。 このとき、衛士は先に楼閣の上に登り、穴穂部皇子の肩を撃ちました。 皇子は楼閣から落下し、傍らの室(むろ)に走り込み、衛士らは灯を挙げて探索して殺しました。 八日、 宅部皇子(やかべのみこ)を殺しました。 【宅部皇子は、檜隈天皇(ひのくまのすめらみこと)〔宣化天皇〕の子で、 上女王(かみつひめのおおきみ)の父であるが、未詳。】 穴穂部皇子に誼を通じていたが故に殺されました。 二十一日、 善信(ぜんしん)尼は、大臣〔馬子〕に 「出家の途(みち)は、授戒が元となります。 願わくば、百済に出向いて戒法を学び受けたいと存じます。」と申し上げました。 是の月、 百済の調使が来朝しました。 大臣は使者に 「この尼たちを率て、あなたの国に渡らせて戒法を学ばせていただきたい。 あなたが使者の任務を終えた時に、出発させたい。」と言いました。 使者はそれに答えて、 「私たちは蕃国に帰り、先ず国主にその旨を言います。 その後に出発させても、決して遅くはないと存じます。」と申し上げました。 まとめ 物部守屋大連は、穴穂部皇子を擁立して天皇に即位させ、実質的に自らの独裁を画策した。 その動きを察知した蘇我馬子宿祢は先手を打って、宮殿を襲撃して穴穂部皇子を殺した。 まだ大連軍は皇子の宮殿の防御を固めるに至ってなかったようである。既に情報が漏れていたことに、気付いていなかったか。 蘇我馬子の動きは電光石火であった。 |
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2020.10.21(wed) [21-04] 崇峻天皇2 ▼▲ |
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3目次 【用明ニ年七月(一)】 《蘇我馬子宿禰謀滅物部守屋大連》
大伴にトモと訓がつくことは、ひとつの問題をはらんでいる。大伴は明らかにオホトモであるから、わざわざ訓を付すということはオホが略されたのではなく、 「オホトモではなくトモと訓め」という意味であるのは明らかである。 そこで〈姓氏家系大辞典〉でトモ氏を見ると、 「類聚国史二十八、天皇避諱条に「淳和天皇、弘仁十四年四月壬子、大伴宿祢を改めて、伴宿祢と為す。諱に触るれば也、」と。」とある。 また「大伴連」については、「伴連 大伴連の後也」とある。 確認すると、『日本紀略』に納められた逸文に、「〈後紀〉弘仁十四年〔八二三〕四月:○壬子。改二大伴宿禰一宿禰爲二伴宿禰一。触レ諱也。」 〔大伴宿祢を改め、宿祢を伴宿祢とす。諱に触(ふ)るなり。〕とある。 なお、「諱」は諡〔おくりな〕の意味にも使うが、ここでは本来の「本名」を意味する。 淳和天皇〔在位:823~833〕の諱が大伴なので、その偏諱によって大量に存在した大伴氏は押並べて伴氏に改めたわけである。 古写本ではこの避諱を時代を遡って書紀に適用し、 〈釈紀〉はそれを踏襲したと見られる。このことから逆に、書紀古訓が付された主な時期は823年以後であったことが分かる。
大伴が最初に出てくるのは〈神代紀下〉の「大伴連遠祖」で、〈釈紀-秘訓〉は「トモノムラシノトヲツヲヤ」とし、 「為レ避二淳和御諱一可レ読二トモ一。下皆効レ之」 〔淳和の御諱を避けトモと読むべし。下皆これにならへ〕と書き添えている。 〈内閣文庫本〉でこの箇所を見ると、右側に「オホ トモ」、左側に「トモノ」の訓が振られ、 頭注に「大伴:為レ避二淳和御諱一可レ読レ伴也」 〔淳和の御諱を避くるために、伴(トモ)と読むべし〕が付されている(右図)。 この三か所は、それぞれ筆跡が異なるから、次のように推定される。 ①最初は「トモノ」が振られていた。 ②第二の人物が「ヲホ」を補った。 ③第三の人物がおそらく釈紀を参照して頭注を書き加えた。 これらのことから、淳和天皇以後に確立した伝統に順うなら、すべてトモと訓むべきである。 しかし、淳和天皇が即位するまでは、すべてオホトモと訓まれていたのは明らかである。 《衣揩朴枝間》 〈釈紀-秘訓〉には、次のように書き添えられている。
〈五畿内志〉「澀川郡:【村里】衣摺」 〈崇峻紀〉では「於衣揩」ではなく、「衣揩朴」〔衣揩の朴〕という書き方がされるから、 「衣揩の朴」と呼ばれる特定の木が、既に伝説を伴って知られていたと思われる。 『四天王寺寺領帳』を見ると、渋川郡の多くの地域を大伴守屋の別業が占めていたと見られ、衣摺はそのど真ん中だから、 この役は守屋を本拠地に追い込み、包囲して滅ぼした戦闘だと見られる。 《必当奉為護世四王起立寺塔》 副詞奉が「為二護世四王一起二-立寺塔一」全体にかかると見ると理解しやすいが、 尊敬の意を加えるときの奉は接頭語的に使われるので「奉-為」の結合が強く、奉の効果は「起」までは及ばない。 「為護世四王奉起立寺塔」とした方が、意味が通ると思われる。 《護世四王》 護世四王(四天王)は、仏法の宇宙観において須弥山の中腹に住み、四方を守護する。 東方が提頭頼吒(持国天)、南方が毘楼勒叉(増長天)、 西方が毘楼博叉(広目天)、北方が毘沙門(多聞天)である。 須弥山は世界の中心に聳える山で、周囲の大海とともに金輪という円柱に乗る。さらに金輪の下に水輪、水輪の下に空輪があり、全体を包含する空間を虚空という。 須弥山は七重の山脈で囲まれ、その周囲の四面のうち、 南面の贍部洲がわれわれの世界である。 この宇宙像は、恐らくチベット山脈の南に位置するインド亜大陸の地理を反映している。 《広瀬勾原》 地名勾については、〈倭名類聚抄〉に{大和国・廣瀬郡・下句郷}がある。 口をムとする異体字には、舩(船)、貟(員)などの例がある。句は"L型の図形"の意味に限り、勾の異体字である。 〈大日本地名辞書〉は「下勾郷: 今百済村是也、高市郡に曲川村ある相接す。古は當麻勾と云ふ、 当麻に通する路辺なればならん。」と述べる。 曲川村から当麻に通ずる道は横大路である(下図)。 仮に勾が広瀬郡の一部を含み、飛鳥または藤原宮に近い側が上(かみ)だとすると、 曲川村が上勾、広瀬郡の南東隅が下勾となり、理屈は合う。 飛鳥時代の郡界が明治時代とそんなに変わらなければ、「広瀬勾原」は曲川の北2km程度の場所となる。 《合軍》 「合軍」の合の古訓はコゾリテとされるが、 この語順では「軍が挙って」という読み取りは不可能である。 「合軍」の本来の意味は、「(誰かが)軍を集めて」または「集まった軍は」のどちらかとなる。 しかし、これでは何のことだか意味が分からない。「其軍」の誤写と考えた方がまだましであろう。 そして今、筋書きを根底から見直してみる。 一般的には、大伴噛、阿部人、平群神手、坂本糠手、春日某もまた、 蘇我馬子の配下として物部室屋への征討軍に加わったと読まれている。 しかし、その前の葛城烏那羅までのグループについては「進討」と書くのに対して、大伴噛以下のグループは「到二渋河家一」である。 到は攻・討・囲などとは異なり単なる移動だから、室屋に合力して馳せ参じたと読むことができる。 また大伴噛らが室屋側だとすれば、噛らが「従二志紀一」〔志紀経由で〕と書くのに、葛城烏那羅らには「従二○○一」がないから、文章が不揃いである。 そこで、ここでは敢えて定説に逆らい、大伴噛らは室屋に就いていたと考えてみよう。 すると、「合軍」は、「大連軍に合力した諸軍」と読むことができる。 その前の文で「大連之軍忽然自敗」と室屋軍自身のことを書いたから、次に加勢した軍のことを書くわけである。 これまでは大連軍が単独で立ち向かったとしていたから、「合軍」が意味不明だったのである。 大伴・阿部・平群・春日の各氏は大和国内が本拠である。坂本氏だけは和泉国(第192回【坂本臣】)だが、 糠手は大和国の分流だったと考えるべきだろう。 「広瀬勾原」で狩をしているように装ったのは、それぞれが本拠地に逃げ帰る途中のことであろう。 五氏の軍はひとまず集団で勾原まで逃げ、そこで解散する絵が見えてくる。弓矢を手放すわけにはいかないから、狩猟を装ったのである。 渋川から広瀬郡に至る道としては、難波から渋川郡・志紀郡・安宿郡・下葛郡を経て高市郡に至る古街道が想定され、 『事典 日本古代の道と駅』(吉川弘文館2009;木下良)は、この道のことを「飛鳥難波街道」〔ただし奈良時代〕と呼んでいる。 「合軍」が「皁衣」(黒衣)を羽織ったのは正体を隠すためだから、 大胆な模様のある鎧や衣を着用して馳せ参じたと想像される。 それにしても黒衣を持参していたとは、用意がよい。援軍に向かうとき、既に敗北を予想していたのだろうか。 もし、大連軍単独の戦いだったとすれば、惨敗したのにまとまって遠く離れた広瀬郡まで移動して狩の真似事をし、一部はまた渋川郡の葦原に戻って隠れたことになる。この動きはまことに不自然である。 結局、大連陣営に大伴噛などが「合軍」として加わっていたと読むことによって、 初めて納得できる筋書きになるのである。 《逃匿葦原》 四天王寺の寺領(室屋から没収)の中に、「葦原」の地名がある(『四天王寺寺領帳』)。 《馬子軍の苦戦》 馬子軍は、最初は苦戦する。そこから逆転するきっかけになったのは、少年厩戸皇子の機転によると述べる。 よって、敢て苦戦として描いたのが、厩戸皇子〔=聖徳太子〕の威徳を示すためだったのは確かだろう。 ただ、実際に物部室屋は強敵であったと見るべきであろう。広大な別業を所持し、何よりも直前まで大連として権勢を誇っていた。 戦闘においても、大量の軍勢が住居地域と郊外を埋め尽くしたと描かれる。 これだけ強力な室屋が、突然他の氏族の一つも動員できなくなっていたとすれば、逆に不自然である。 やはりいくつかの氏族は、味方に就いたと見るべきであろう。それが大伴噛などの五氏なのである。 《乱》 この戦闘は丁未の乱などと呼ばれる。古訓は「乱」をミダレと訓読みし、これは動詞「みだる」の名詞形である。 しかし、名詞形「みだれ」は、〈時代別上代〉は見出し語に挙げていない。 安全のためにミダレを避けるなら、「乱」は「みだれしこと」や、「みだれかはしきこと」と訓読できるが、乱の簡潔な語感からは遠くなる。 エタチなら完全にOKであるが、役と乱には微妙なニュアンスの差がある。 果たして、この名詞形は上代から使われていたと考えてよいのだろうか。試しに万葉集を検索してみる。
《物部室屋大連宅》 この段でも、「渋河の家」に軍を集結したと述べている。 そして没収した室屋の旧別業の半ばを、四天王寺の寺領にしたと述べる。 『四天王寺寺領帳』で「奴273人」が寺領にしたときの人数だとすれば、崇峻紀のいう「半ば」に当たる。 残りの半分は、要するに逃げたのであろう。 『四天王寺寺領帳』で「河内国」とされる寺領は、12万8640代=2997312m2=3.00km2である。 そこで河内国の寺領として挙げられた弓削、鞍作、祖父間、衣摺、蛇草、足代、御立、葦原のうちいくつかは、 遺称が渋川郡と志紀郡に残る。恐らく、残りもその近くであろう。 遺称の地図上の配置を見れば、渋川郡と志紀郡の中の一定部分が「阿都の別業」 (用明二年四月)であったと見てよいだろう。 図の渋川郡に格子を重ねて面積を求めたところ、およそ19km2であった。 河内国内の寺領3.00km2は、単純計算で渋川郡の16%。弓削は渋川郡の外だから、値はさらに小さくなるが、 耕作地に限ればなかなか大きな部分を占めると言える。 《分大連奴半与宅》 「分二大連奴半与宅一」をその通りに読めば、 「大連の奴の半分+宅」から分けて接収したこととなる。 「奴半」とは逃げて行方不明になった者を除くという意味か。その残った者を奴婢として、宅(田地)と合わせて、そこから一部を接収したのである。 つまり、一部は残されたわけである。 恐らくは子のうち戦いに参加しなかった者に名目的に室屋系の物部氏を継がせ、彼らのために奴婢と田地の一部が残されたのであろう。 実際、『先代旧辞本紀』の「天孫本紀」の系図を見ると、「十四世孫:物部守屋大連公」から子「物部雄君連公」に繋がっている (資料[39])。 雄君は天武天皇から内大紫という冠位(後の正三位に相当)を賜っている。ところが、天武天皇の在位は673年~686年で、天武五年〔676〕に雄君は卒〔=死〕した。 雄君が守屋の子だとすれば、遅くとも用明二年〔587〕には生まれてなければならないから、 内大紫位を賜ったのは最も若くて86歳となり、「物部雄君は物部守屋の子」だった可能性は低い。 雄君は冠位を賜ると同時に物部の氏上(うじのかみ)となったから、そのときに系図を整えた可能性がある。 ただ、全く無関係な祖先から繋ぐのはさすがに憚られたとすれば、守屋の曽孫ぐらいだった可能性はあるのではないか。 《大意》 七月、 蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)の大臣(おおまえつきみ)は、 諸々の皇子(みこ)と群臣に勧めて、 物部守屋大連を滅そうと謀(はか)り、 泊瀬部皇子(はつせべのみこ)、 竹田皇子(たけだのみこ)、 廐戸皇子(うまやどのみこ)〔聖徳〕、 難波皇子(なにわのみこ)、 春日皇子(かすかがのみこ)、 蘇我馬子宿祢大臣、 紀臣(きのおみ)の男麻呂宿祢(おまろのすくね)、 巨勢臣(こせのおみ)の比良夫(ひらふ)、 膳臣(かしわでのおみ)の賀拕夫(かだふ)、 そして葛城臣(かつらきのおみ)の烏那羅(うなら)らは ともに、軍旅を率いて、進んで〔物部守屋〕大連(おおむらじ)を討ちにかかりました。 大伴の連(むらじ)嚙(くらう)、 阿倍臣(あべのおみ)の人(ひと)〔人名〕、 平群臣(へぐりのおみ)の神手(かみて)、 坂本臣(さかもとのおみ)の糠手(あらて)、 そして春日臣【名前の字を欠く】は、 共に軍兵を率いて、志紀郡(しきのこおり)から渋河(しぶかわ)の家に到着しました。 大連は、自らの一族と手下からなる軍を率いて、 稲城(いなき)を築いて戦いました。 このとき、大連は衣揩(きぬすり)の榎の木の枝の間に昇り、 見渡して雨の如くに弓を射ました。 その軍は強盛で、家々に満ち野原に溢れました。 皇子等と群臣の軍衆は、怯弱し恐怖で、 三度退却しました。 この時、廐戸皇子は額にひさこなはして、 【古い風俗では、 年少児は十五六歳までの間は額に髮を束ね、ひさこはなする。 十七八歳の間は髪を分けて総角とする。今もまた、このようにする】 軍の後に従って、自ら忖度して 「まさに敗北させられることはなく、願いの成就に困難はありません。」と言いました。 そして、ぬるでの木を切り取り、素早く四天王像を作り、 髮の上に掲げて誓いを立て 「今、もし我を敵に勝たせていただければ、 必ずや護世四王(ごせしおう)の御為(おんため)に塔を起こし立てましょう。」と申し上げました。 蘇我の馬子大臣は、誓いを立てて 「凡(おおよ)そ諸々の天王、大神王の皆様、 我を助けお護りいただき、ご利益を得させてください。 願わくば、諸々の天王と大神王との御為に、 寺塔を起こし立て、三宝を流通させましょう。」と申し上げました。 誓い終えて、種々の〔各皇子、氏族の〕兵を厳しく整え、進み討伐しました。 ここに、迹見首(とみのおびと)の赤檮(いちひ)という人がおり、 大連を枝の下に射落とし、 大連とその子たちも併せて誅殺しました。 これにより、大連の軍は忽(たちま)ち自滅しました。 集まっていた軍勢は悉く身体を黒衣で覆い、 広瀬の勾原(まがりはら)に駆けつけて猟〔をする振り〕をして散り散りに逃げました。 この役(えき)で、大連の子息と眷属(けんぞく)は、 或いは葦原の地に逃げ隠れ、姓(かばね)を改め名を変える者があり、 或いは逃げ失せて、行方不明となった者がありました。 当時の人は、 「蘇我の大臣の妻は、 物部の守屋の大連之の妹である。 大臣は妄(みだ)りに妻を利用した計略によって大連を殺した。」と口々に語らいました。 乱を平定した後、摂津国に四天王寺を造営しました。 大連の奴婢の半ばと宅地から、大寺の奴婢と庄園としました。 田地一万代を、迹見首(とみのおびと)の赤檮(いちい)に賜りました。 蘇我の〔馬子〕大臣は、また本願に依って、 飛鳥の地に法興寺(ほうこうじ)を興しました。 【四天王寺寺領帳】
この寺領帳の最後の日付は寛文四年〔1664〕で、「天王寺村検地打出高…」などとある。 日付のある最初の記事は「天正六年織田信長公賜二地子高六拾貮石一」で、 それ以前の部分については、その最後に 「以上往昔之寺領所レ見二史書舊錄一 此外雖レ有レ所レ見不レ載二其不一レ正矣」 〔以上往きし昔の寺領、史書旧録に見ゆる所。此の外(ほか)に見ゆる所有れども、其の正しからざるものは載せず。〕 と述べる。 即ち、「用明帝二年」の項も「史書旧録」(古文書類)からの引用である。具体的な出典は不明だが、奈良時代以後に四天王寺が僧綱への諜として作成したものではないかと想像される。 「守屋子孫従類」から没収したのは18万6890代である。
よって、18万6890代=4.35km2(正方形なら一辺2.09km)となる。 「河内国」とされる8か所のうち、衣摺、足代はそのまま町名に残る。鞍作は加美鞍作となっている。蛇草は長瀬町に改称されているが、「北蛇草公園」に旧称が残る。 これらは渋川郡内である。弓削は志紀郡だが、渋川郡に近い。御立、葦原※、祖父間は見つからなかったが、 これらも渋川郡かその周辺とするのが自然であろう。 ※…茨木市の新和町に「葦原」があるが、茨木市は摂津郡だからここでいう「葦原」とは別のところであろう。 まとめ 『四天王寺寺領帳』の記述はとても具体的で、原文は平安時代のものかも知れないが、 四天王寺にはその由来が詳しく伝わっていたと想像される。 これによって、室屋の「阿都の別業」の姿がリアルに浮かび上がってくる。 さて、今豊臣家の例を考えてみると、豊臣秀頼を孤立化させて大阪の陣に至るまでに、関ヶ原から14年の年月を要している。 それを参考にすれば、物部守屋勢力が開戦前に既に孤立しいてたとは考えにくい。 守屋側もまた多数派工作に勤しんでいたはずだから、馬子-守屋戦は諸族を二分する大戦争であっただろう。 従って、ここでは、蘇我馬子側の勢力を列挙して「進二-討大連一」とし、 大伴噛以下物部守屋側の勢力を列挙して「到二渋谷家一」として書き分けたと読むべきだろう。 《合軍》の項で縷々述べたように、この対決図式を前提にして読めばこ筋書きがとても分かりやすくなり、具体性のある映像を伴って見えてくるのである。 |
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2020.11.04(wed) [21-05] 崇峻天皇3 ▼▲ |
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4目次 【用明ニ年七月(ニ)】 《鳥部萬聞大連滅騎馬夜逃》
〈欽明元年九月〉《居住吉宅》の項で、 大伴金村大連が「居二住吉宅一」とあることから、 大連などの高官は、副都の難波にも邸宅を置いたのだろうと考えた。 同様に、物部守屋も難波に別宅を置いていたと考えられる。 《匿山》 山に隠れていた捕鳥部万は、一度姿を現し、また山に向かって走り去る。 その後衛士たちは河を追跡し、追い詰められた万は弓を3つに切断し、太刀を折り曲げて「河水裏」に投げ入れた。 岸和田市の大山大塚古墳(後述)が縁の地だとすれば、その川は津田川ということになる。 「山」については、津田川は両岸とも緩やかな丘陵にになっており、どの辺りの山かを特定するのは難しい。 《願聞殺虜之際》 「願聞殺虜之際」の「際」にはワキタメという古訓が付されている。 古訓の「わきため」は「わきたむ」(四段)の名詞形で、分別などの意味である。 「虜」は万自身のことであろう。今や殺されようとしている虜の私の言うことを聞いて欲しいと訴える。 ならば、「際」の訓はキハでもよいわけである。 つまり、殺される間際の私の話を聞いて欲しいと願う。ワキタメと言ったのだとすれば、その内容は既に発言した。 即ち、私は天皇の御楯となって武勇を発揮したのに、却って逼迫されて窮地に陥ったのは理解できないというのである。 これが、万にとっての道理=ワキタメであった。 『類聚名義抄』では「際」の古訓にワキタメはなく、〈時代別上代〉でも「際」の文例〔際の字を当てた例〕はこの崇峻前紀のみで、 そもそも「際」に分別の意味はないから、これは文学的な訓みであろう。他の字に当てた文例として〈景行四十年〉「別」、〈応神九年〉「弁」が挙げられているが、 書紀古訓に限られているから、ワキタム/ワキタメが本当に上代語であったかどうかは実は確かめようがない。 《牒》 〈孝徳天皇紀〉大化元年八月庚子是日条に②「収牒納匱。以其罪々之」〔牒を収め匱(ひつ)に納む、其の罪を以て之を罪せむ〕とあり、 「牒」が文書を意味することは明白である。その前の八月庚子条にも「牒」の文字があり、〈内閣文庫本〉には①「便牒於朝」と訓が振られる。 「マウスコト」は、上代には「マヲシコト」〔奏言〕であろう。 一方〈北野本〉の訓点は、 ①「便牒イタス於朝」、 ②「収牒納匱」 となっている。 ②はフミだが、①の方は「フミイタス」とは言わないから「マウスコトイタス」だと見られる。 つまり「牒」は文脈によって「奏言致す」とも「文」とも訓まれるわけだから、「牒」に対応する特定の上代語は存在しなかったと考えられる。 《符》 符への「オシテフミ」という和訓は、板に割り印し、一方を使者の証として持たせたことに由来する。 オシテ〔押し手〕は「押印」と解釈されているから、オシテフミなる訓は起原によるものである。 文書としての「符」は、既に上意下達の書類を意味しており、古訓「シモツフミ」はこれによる。 何れも上代に実際に使われていたとは限らず、古訓者の個人的な解釈と見るのが妥当であろう。 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』を見ると、牒・符は冒頭に「牒」、「符」を記す形式を用いる。 これらはそもそも文書の性格を示す符号だから、書紀の執筆グループ自身からして倭読は意識しなかったと思われる。 敢て音声化するとすれば、音読で充分であろう。 平安の古訓学者には何としても倭語で表さねばという観念があり、この箇所も文章として流したが、それによって本来の書式の符号としての性格が見えなくなっている。 なお、書紀において「牒」「符」を用いた文が〈崇峻紀〉以外には見られないところを見ると、 捕鳥部万の件は実際に文書が残っていたように思われる〔ただ、その内容には脚色を含むと見るのが自然であろう〕。 《梟》 「梟首」は刑罰の一種で、さらし首を高く掲げる。「さらす」という上代語自体は存在したが、 〈釈紀〉が「クシサス」を用いたこことから見ると、刑罰の方法の表現に「さらす」を使うのは後世〔江戸時代か〕になってからである。 〈内閣文庫本〉では「クヒサス」とあり、実はこれが本物の古訓で「頸刺す」の意味かも知れない。 しかし、「斬二之八段一」〔八段(きだ)に斬る〕とすると、一か所にしか首を晒すことができないので、 〈釈紀〉は「クシサス(串刺す)」の誤写と判断したように思える。 〈時代別上代〉を見ると、この古訓以外に用例が示されないから、他には見つからなかったと思われる。 類似する「クシザシ」は他人の田に勝手に串を刺して占有する行為を意味し、刑罰ではない。 クシもサスも上代語ではあるが、 刑罰の一つとしての「クシサス」は、実際には平安、ことによると〈釈紀〉(鎌倉時代)の段階で初めて考案された語であろう。 《白犬》 白犬は、神聖視されたようである。 雄略天皇段には、身分不相応に立派な家を建てたことを咎められた志幾大県主が、立派な白犬を献上して罪を免れた話がある (199回)。 《噛挙頭》 「噛挙頭」は切断された頭部を運んだととも読めるが、 「横二-臥枕側一」の文からは、全身が繋がった状態で、その枕元に横たわる画像が思い浮かぶ。 頭部だけが置かれたところに、「枕」の語はそぐわないのではないか。 だから、遺体の頭の部分を咥えて引き摺っていったと読みたい。 《姓字》 「姓字」が「姓名」を意味することは明らかである。 よって、書紀の時代から「字」がナと訓まれたことがわかる。 古事記の訓注の「四字以音」の類の訓読は悩ましいが、これを見るとナも可能かも知れない。 ここで改めてこの問題を考える。 〈時代別上代〉を見ると、「平安時代に漢字・仮名をマナ・カンナというが、これは文字が名称と同一視されたことを示している。」 とする一方「上代の確例とはいい難いが、「〔中略〕造二新字一部卌四巻一」(天武紀十一年)という例もある」と述べ、 「字」をナと訓むことを、上代まで遡らせることには慎重である。 そもそも文字とは、抽象的な図形を組み合わせを、特定の実在物に結びつけたものである。 それでは、発音される言葉の場合はどうであろうか。それは、様々な種類の音素(結局空気振動)を組み合わせて、特定の実在物に結びつけるもので、つまりこれも物理現象を記号として用いたものである。 つまりは文字、音声はともに、記号を対象に紐づけるものであるが、実はこの操作は「ものに名前を付ける」営みと同じことなのである。それを無意識に感じ取ったからこそ、「字」をナと訓むようになったのだと考えられる。 それは上代に始まったと思われるが、ただ万葉集では「字」をナの訓仮名に用いた例はない。万葉集は「名(ナ)」を借訓を含めて大量に使っているから、ナに「字」を当てることを意図的に避けたと推定される。 つまり、「字」をナと訓むことは一部始まっているが、それをまだ認めない学派もあったわけである。 さて『現代語古語類語辞典』〔芹生公男;三省堂2015〕は、「もじ:上代 字[じ]。字[な]。」とする。 既に仏教の大量の経典によって漢字の音は十分伝わっていたから、字をジと発音することも普通だったと考えるのが自然であろう。 以上から、上代における「字」のよみは、基本はジ、一部ナであったと思われる。 ここの「姓字」はカバネナと訓むが、記の訓注の「字」はジとよむことにする。 《餌香川》 餌香は守屋の別業のある渋川郡と隣接しているので、丁未の乱の主戦場に含まれていたと考えられる。 さて、「河内国司言」の中身は、捕鳥部万とは別話である。しかし、丁未の乱に伴う忠犬伝説の変種として並べ置かれたと見られる。 現代でも忠犬ハチ公が伝説化しているが、忠犬の物語ははなはだ人の興味を引くものと言えよう。 万の白犬伝説も、既に書紀以前から広い地域に伝播していたと思われる。 《計将数百》 「将」は助動詞であるから、「将数百」から動詞を見つけようとすると、「数」(かぞふ)しかない。 すると、「計将数百」は「計(はか)りて将(まさ)に百(ももたり)を数へむとす」 〔数えれば、百人に及ぶだろう〕となる。しかし「数百」を「数レ百」と読むのはどう見ても不自然だから、 動詞が消える。ただ、このような場合は名詞が動詞に活用するのが漢文だから、文法違反とは言えない。 もし語順を並べ替えて「将計数百」とすれば問題は完全に消滅するから、実はこの箇所は和風漢文体かも知れない。 なお、古訓では「数百」を「ももあまり」や「あまた」と訓むが、もともとの意味とは乖離がある。 実は、上代でも平安でも「すうひやくたり」と読む方が普通だったと思える。 《ただる》 〈時代別上代〉は、見出し語に「ただる」を立てないが、「目」の項に「ただれ-め」を載せる(但し、解説なし)。 時代が下って、『竹取物語』〔平安初期〕には「髪も白く腰も屈り目もたゞれにけり」がある。 もし「ただれめ」が上代語なら、「ただる」(下二段)も存在したはずである。 《大意》 物部守屋(もののべのもりや)大連(おおむらじ)の配下、捕鳥部(ととりべ)の万(よろず) 【「万」は名である】は、 百人を率いて難波の〔守屋の〕邸宅を守っていました。 ところが、大連が滅びたと聞き、馬に乗って夜に逃げ、 茅渟県(ちぬあがた)の有真香邑(ありまかむら)に向かい、 妻の家を過ぎて山に隠れました。 朝庭は議によって 「万は、逆心を抱く。よってこの山の中に隠れた。 速やかに、必ず一族を滅すべし、怠たることのないように。」と言いました。 万は、衣服は幣束のように裂け、顔色は憔悴し、 弓を持ち剣を帯びて、独り自ら出てきました。 官署は、数百人の衛士を派遣して万を囲みました。 万は驚いて竹藪に隠れ、 縄で竹を繋いで引っぱって動かし、他に自分が入った場所を誤らせました。 衛士たちは騙されて、 搖れる竹を目指して走り寄り、万はここにいると言いました。 万はそこに矢を放ち、一矢も外しませんでした。 衛士たちは恐れ、敢えて近づかず、 万は、そして弓を弛(ゆる)めて腋(わき)に挟み、山に向って走り去りました。 衛士たちは、河を来て追って射ましたが、 悉く当てることができません。 ここに一人の衛士がいて、万に先回りして疾走し、 河の傍らに伏せて、待ち構えて射て、膝に当てました。 万はそこで矢を抜き、弓を張って矢を放ち、 地面に伏せて叫び、 「万は天皇(すめらみこと)の御楯となって、まさに勇を発揮いたそうとしましたが、 推問されず〔耳を傾けようとされず〕、 却って逼迫なされまして、ここに進退極まりました。 共に語らう人を寄越していただきたいです。願はくば、虜が殺されようとする間際の声をお聞きください。」と訴えました。 衛士たちは競って走り寄り、万を射、 万は、飛んでくる矢を払い防ぎ、三十人余を殺し、 そして持っていた剣(つるぎ)を使って弓を三つに裁断し、今度はその剣を折り曲げ、 河の水中に投げこみ、別の小刀によって頸を刺して死にました。 河内国司は、万の死の様子を牒に記して朝廷に上げました。 朝廷は符を下して 「これを八段に斬り、八つの国に分散して梟(きゅう)せよ。」と命じました。 河内国司は、下された符の旨(むね)によって、 斬り梟しようと臨んだ時、雷が鳴り大雨となりました。 このとき、万が飼っていた白い犬があり、その屍の傍らに伏し、また仰いで巡り吠えていました。 そして遂に頭を咥えて持ち上げ、古い塚のところに収め置き、 枕元に横たわり、主人の前で飢えて死にました。 河内国司は、その犬を最も不思議に思い、朝庭に牒を上げました。 朝廷は哀しみに聴くことも忍びず、符を下して 「この犬は、世に聞くのも希なことで、後世に残して見せるべきである。 必ず万の一族に墓を作り葬るようにさせよ。」と命じました。 万の一族は、これによって、 墓を有真香邑(ありまかむら)に並べて造り、万と犬を葬りました。 河内国司は、申しました。 ――「餌香(えが)の河原に斬られた人があり、数えれば、まさに数百人になるでしょう。 頭も身体も既に腐敗し、姓名も知り難く、 ただ着衣の色によって該当する者を判別して回収しました。 そこに、桜井田部連(むらじ)の胆渟(いぬ)が飼っていた犬がおり、 体と頭を咥えて繋ぎ、傍らで伏せて固く守り、〔自分が側にいることで、遺体が飼い主であることを知らせ〕 自らの主人の屍を回収させたところで、起き上がって去りました。」 【有真香邑】 〈大日本地名辞書〉和泉-泉南郡に「有真香」、「犬墓」の項がある。 「有真香:水名〔川の名〕に因り村名起る、阿里麻川と曰ふ、 東葛城村大字塔原より発源し西北流貝塚町の北に到り海に入る。(津田川とも曰ふ) 長〔さ〕凡〔そ〕四里。 ○有真香は日本書紀崇峻天皇元年の条〔ママ〕に見ゆ」。 「犬墓:書紀通証云、万墓在二泉南郡八田村一。狗墓在二其北一。(明治二十二年八田の双墓に建碑す)」。 明治22年〔1889〕の町村制で、南郡須屋村、八田村、土生滝村、阿間河滝村、真上新田が合併して、南郡有真香村が成立した。 つまり、「有真香村」は復古地名である。 そして、昭和15年〔1940〕に岸和田市に編入された。 現在、岸和田市に八田町・土生滝町・真上町の地名が残る。 八田町の西隣の天神山町2丁目に、「捕鳥部万の墓」がある。 《捕鳥部万の墓》 大阪府公式-「府内の史跡公園等の紹介」のページに、 「●市指定史跡大山大塚古墳(附 捕鳥部萬の墓)」が紹介されている。
ここでは、墓石の部分を墳丘本体と区別した書き方になっているが、 一般的な捉え方では古墳そのものが捕鳥部萬の伝説上の墓とされ、例えば貝塚市のページ「捕鳥部万の道標」では 「捕鳥部万とその愛犬の墳墓と伝えられる大山大塚古墳と義犬塚古墳」と記述している。 義犬塚古墳については、岸和田市公式ページによると、 「径約20m、高さ約3mの円墳」で「墳頂部(ふんちょうぶ)は削平されて」いるという。 岸和田市立図書館 の「捕鳥部萬と忠犬シロ」(ミニ岸和田再発見第25弾)に、 捕鳥部萬の伝説についての考察がある。 それによると、「捕鳥部萬墓」のすぐ傍らに「捕鳥部萬碑文(明治24年)」がある(写真)。 これが、〈大日本地名辞書〉のいう「明治二十二年八田の双墓に建碑す」に該当する碑と思われるが、 なぜか建立年が一致しない。 同ページによると、この碑の寸法は「縦230cm×横145cm×厚さ27cm」で、 萬の人柄を「その性 清く正しく その心忠実に雄々しく 特に武士の道に優れたる人なり」などと讃えているという。 地元の「萬家の子孫である塚元家(現当主は萬の63代目)」は、墓所の管理維持とともに 「萬の命日である旧9月26日には萬祭を催し」ているという。 これについては、2010年の「捕鳥部万を偲ぶ集い」を記したブログなどが見られる。 江戸時代268年間の将軍15代と比べても、「63代」は相当長い。系図の始めの部分は当然創作であろうが、伝統がかなり古くまで遡ることが感じられる。 まとめ 茅渟県の忠犬伝説に加えて餌香の類話を示すから、 このタイプの伝説は変形を伴いながら、広く伝播していた。 そして餌香は室屋が拠点とした渋川郡の隣だから、こちらの忠犬伝説も馬子対守屋の戦乱に付随すると見られる。 ならば、戦乱そのものが河内国全域に及ぶ大規模なものであろう。 氏族たちを二分する総力戦なら、室屋側にも多くの氏族がついていたことが考えられ、よってやはり大伴連嚙らを室屋側とする前回の読み方を維持したい。 さて、書紀古訓の信憑性については、書紀以外の資料によって上代語であることが確認できるもの以外は、なかなか評価が難しい。 この段でも、本来音読みだったものを倭語に置き換えたために原意を掬い上げきれなかった例や、 造語さえ疑われる例が見られた。 これまでも実際には平安時代に使われ始めた語だったり、上代語が変形したりしていた。 これらのどのケースにあたるか、これからもできるだけ見極めたい。 これは単純な訓みの問題ではなく、書紀が本来何を語ったかという本質に関わることだからである。 |
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2020.11.14(sat) [21-06] 崇峻天皇4 ▼▲ |
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5目次 【用明ニ年八月~元年三月】 炊屋姬尊與群臣、勸進天皇卽天皇之位。……〔続き〕 6目次 【元年是歳~三年】 《百濟國遣使幷僧》
「是歳」には、「百済国遣使…」と「百済国遣恩率首信…」の二つの文がある。 これらは個人名が詳しく載るところから、百済が絶滅したときに倭に逃れた王族が持ち込んだ文書かも知れない(欽明十五年十二月《百済文書》)。 あるいは、元興寺が秘蔵していたことも考えられる。 この二つの文は内容が似通っているので、派遣が二回あったというよりは、ひとつの派遣に関する二種類の古文献を並列したように感じられる。 第一文の「使」は第二文の「恩率首信、徳率蓋文」に対応すると見ることができる。 惠寔は惠宿の別表記か。 令斤は、令開または、そこに道嚴が混合したものか。 ただ、惠總は『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』〔以下〈元興寺縁起〉〕にも惠忩があり有力者である。 この名前が「遣恩率首信…」のリスト中にはないことの、解釈は難しい。 《僧恵総ら》 元年是歳で遣わされた僧のリストは、〈元興寺縁起〉-戊申年【Ⅰ縁起(g)】の《六口僧》に対応する。
《法興寺》 〈元興寺縁起〉には、法興寺の名称はない。 【縁起(3)】の項においては、創建段階の名称は「法師寺」で、別名を建通寺とし、 高麗百済の法師が度々来て仏法を広める拠点であったことを示す名という(ア)。 また別の文に、元興寺の「本名」を建興寺とし、 こちらは「此相二-応於此国機一」〔国の政の相談に乗る〕役割による名だとする(イ)。 アとイは別の寺のようにも読めるが、創建までの経緯が特に書き分けられているわけでもないので、 同一の寺につく複数の名称について、それぞれの由来を説明したと理解するのが順当であろう。 とはいえ、僧の修行の施設であるアと、 勅使を迎えて儀式や講演をするイとは別棟であろうから、それぞれに別の名前があったこともありそうに思える。 なお、法師寺と建興寺をミックスすると法興寺になる。 《飛鳥真神原》 真神原は、〈雄略天皇紀〉七年是歳条において、新漢(いまきのあや)〔応神天皇の頃に渡来した東漢・西漢に対して新しく渡来した漢の意〕の居住地とされた (雄略紀3《真神原》)。 ここにあった衣縫造樹葉の宅を壊して法興寺を創建したと述べる。 三年十月になってもまだ「入レ山取二寺材一」という状態だから、「始作」は「初めて作る」ではなく、「始レ作二法興寺一」であろう。
〈推古紀〉十三~十四年に鞍作鳥に造らせた「丈六銅像」が、安居院の「飛鳥大仏」とされている。 「早稲田大学公式」-ニュースによると、 飛鳥大仏は、「飛鳥時代に造立されたものの、火事で損傷したために大部分が鎌倉時代や江戸時代に補修されたものとされている」が、 早稲田大学の大橋一章教授の行った「X線分析調査」によると、補修箇所の 「金属組成には際立った差異がみられず、仏身のほとんどが飛鳥時代当初のままである可能性が高いことが判明」したという。 飛鳥時代の仏像の顔つきの特徴として「目/杏仁形。鼻/高く狭い。小鼻のふくらみがない。鼻の穴は印程度。 耳たぶ/長方形。口元/アルカイックスマイル。顔の形/面長で角ばる。」 〔仏像世界〕が挙げられている。 この特徴にぴったり合うが、逆に飛鳥大仏を典型例として述べたものかも知れないから注意が必要である。 《宍人臣》 〈姓氏家系大辞典〉は、「安倍氏の族にして、宍人部の総領的伴造〔とものみやつこ〕」、 「膳部〔かしはでべ〕臣と同族なれば、恐らく〔中略〕雄略紀の膳臣長野の末裔なるべし」と述べる。 《東海道・東山道・北陸道》 〈安閑二年〉の二十六屯倉の配置図から、東海道、東山道が当時から街道として機能していたことが分かる (【二十六屯倉設置の意味】)。〈安閑紀〉の屯倉に越の国のものはないが、この方面にも街道が通じていたことは明らかである。 遡ると、〈崇神十年〉に北陸・東海・西道・丹波の制圧に向かわせた(第113回)。 また〈崇神十一年〉に「四道将軍」に戎夷の制圧に向かわせた(第114回)。 二年条には、古い伝説の時代に戻ったような懐かしい趣がある。 《問受戒之法》 三人の尼、善信、禅蔵、恵善は、かねてから渡海して授戒を受けることを切望していた。 蘇我馬子は、改めて「問二受戒之法一」、すなわち授戒のシステムを問い合わせて、渡海させることになり、 三尼を恩率首信に託して百済国に送ったと読める。 これについて〈元興寺縁起〉では、 来倭した六僧に問い合わせたところ、先に百済から訪れた客人と同じ答え〔=急ぐことはない〕だったが、 それでも三尼が強く希望したことから渡海を許可したと描かれる。 (精読はここ) 《桜井寺》 この「桜井寺」は、ほぼ豊浦寺に重なる。 その場所については、第235回)において、 等由良宮が御食炊屋媛(後の推古天皇)の住居で、 そこが豊浦寺に提供され、その傍らに桜井があったことから桜井と呼ばれたことを見た。 〈元興寺縁起〉には、崇峻帝のとき「三尼者櫻井道場置可レ宜二供養一」 〔桜井道場に三尼を置いて供養させるべし〕とある。 豊浦寺跡は、現在の向原寺〔奈良県高市郡明日香村字豊浦630〕と考えられ、境内に礎石が残っているという。 この名前は〈欽明天皇紀〉十三年の「向原」に重なる。 書紀では、蘇我稲目が向原の家を提供したとする。この点は、御食炊屋媛が「牟久原」の家を提供したと述べる〈元興寺縁起〉とは、不一致がある。 このような相違はあるが、向原の家・牟久原後宮・等由良宮・桜井道場・桜井寺・豊浦寺は概ね同じ場所だと考えてよいだろう。 もともとの邸宅の敷地内に必要に応じて新築や改築が行われ、その度に新たな名称で呼ばれたものと思われる。 《大伴狭手彦》 大伴狭手彦は大伴金村の子で、 〈宣化二年〉に百済に渡り、 「鎮二任那一加救二百済一」〔任那を鎮め、加へて百済を救ふ〕とある。 さらに、〈欽明二十三年〉に、「大将軍大伴連狭手彦。領兵数万。伐于高麗。」とあり、 この次の文「大伴狛夫人」の「大伴」も狭手彦を指すと思われる(別項)。 《大意》 〔元年〕この年、 百済国は使者とともに、 僧、恵総(えそう)、 令斤(りょうこん)、 恵寔(えしょく)らを遣わして、 仏舎利(ぶっしゃり)を献上しました。 百済国は、恩率(おんそつ)首信(しゅしん)、 徳率(とくそつ)蓋文(がいもん)、 那率(なそつ)福富味身(ふくふみしむ)らを遣わして 貢物を献上し、 併せて、仏舎利、 僧聆照(れいしょう)、 律師令威(りょうい)、 恵衆(えしゅ)、 恵宿(えしゅく)、 道厳(どうごん)、 令開(りょうけ)ら、 寺工師太良未(たいりょうみ)、 太文賈古子(たいもんけこし)、 鑪盤博士(ろばんはかせ)将徳(しょうとく)白昧淳(はくまいしゅん)、 瓦博士(かわらはかせ)麻奈文奴(まなもんぬ)、 陽貴文(ようきもん)、 㥄貴文(りょうきもん)、 昔麻帝弥(じゃくまたい)、 絵匠(えたくみ)白加(はくか)を献上しました。 蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)は、百済の僧らに要請して、 授戒の法を問い、 善信尼(ぜんしんに)らを、百済国の使者の恩率(おんそつ)首信(しゅしん)らに託して、 学問のために出発させました。 飛鳥の衣縫造(きぬぬいのみやつこ)が祖先樹葉(このは)の家を壊して、 法興寺(ほうこうじ)を作り始めました。 その地名は飛鳥の真神原、 別名飛鳥の苫田(とまた)といいます。 この年は、太歳戊申でした。 二年七月一日、 近江臣(ちかつおうみのおみ)満(みつ)を東山道に遣わして、 蝦夷(えみし)との国境を監察させました。 宍人臣(ししひとのおみ)鴈(かり)を東海道に遣わして、 東(あずま)方面の海浜の諸国の国境を監察させました。 阿倍の臣を北陸道に遣わして、 越などの諸国の国境を監察させました。 三年三月、 学問尼善信らは、百済から帰国し、 桜井寺(さくらいでら)に入りました。 冬十月、 山に入り、寺の木材を採取しました。 この年、 得度した尼、大伴狭手彦連(おおとものさてひこのむらじ)の娘の善徳(ぜんとく)、 大伴〔狭手彦連〕の狛(こま)〔に滞在したとき〕の夫人(ふじん)の新羅媛(しらぎひめ)善妙(ぜんみょう)、 百済媛(くだらひめ)妙光(みょうこう)、 また漢人(あやひと)の善総(ぜんそう)、 善通(ぜんつう)、 妙徳(みょうとく)、 法定照(ほうていしょう)、 善智総(ぜんちそう)、 善智恵(ぜんちえ)、 善光(ぜんこう)らとともに、 鞍部司馬達等(くらべのしばたつと)の子多須奈(たすな)は、 同じ時に出家して、 名を徳斉(とくさい)法師といいます。 【大伴狛夫人】 《大伴狛》 大伴狛連は、〈孝徳紀〉の大化五年〔649〕三月に「蘇我倉山田麻呂大臣」を尋問するために遣わされた。 大臣は逃げたので、大伴狛も翌日大臣を追ったが、捕える前に自死した。 なお、倉山田麻呂大臣への嫌疑は、大臣が異母兄麻呂が皇太子を害しようとしていると讒言したことである。 崇峻三年〔590〕からは59年も後の話だから、同一人物とは考えにくい。 仮に両者が同一だというなら、全くの伝説を挿入したことになる。 ここではひとまず狛を人名とはせず、「大伴」を「大伴狭手彦」、「狛夫人」を「高麗国で娶った妻」の意味としてみると、 「大伴狛夫人」は「狭手彦が高麗国にいた時に、現地で娶った夫人」となり、意味は通る。 「大伴狛夫人」は個人名ではなく「百済媛・新羅媛」にかかる。もし個人名なら「夫人」の直後に戒名があるはずなのに、ないからである。 つまり、狛夫人は二人いて、それぞれの名が百済媛・新羅媛の名であった。 〈以下2021.2.27加筆〉ところが、〈欽明二十三年〉にはこんな出来事があった。すなわちその年、狭手彦は百済と連合して高句麗を打ち破り、 戦利品として得た美女二人を、本国の蘇我稲目に贈っている。連れてこられた欽明二十三年〔562〕に、 女性の年齢が仮に十五歳だったとすると、崇峻三年〔590〕にはまだ四十三歳で、その年に出家したとしても特に不自然ではない。 ということは、この二人を百済媛・新羅媛とするのが順当であろう。 つまり「大伴狛夫人」とは、「狛(高麗)国出身の、 大伴が稲目に贈った夫人」の意味である。8年後の〈欽明三十一年〉に蘇我稲目は薨じたが、その後も「夫人」と呼ばれ続けたわけである。 《夫人》 「夫人」への古訓、イロエ、イロエビトはこの箇所限定で、通常はオホトジと訓まれる。 (万)4479の題詞に「藤原夫人歌一首 浄御原宮御宇天皇之夫人也 字曰氷上大刀自也」とある。 この「藤原夫人」は藤原鎌足の娘で、〈天武二年〉に「夫二-人藤原大臣女氷上娘二。生二但馬皇女一」とあり、天武天皇の夫人になる。 題詞の「氷上大刀自」から、「夫人」をオホトジと訓み得ることが知れる。 なお〈時代別上代〉によると、題詞の夫人は「通常ブニンと訓まれている」という。 トジは主婦を意味し、「(万)1022 父公尓 吾者真名子叙 妣刀自尓 吾者愛兒叙 ちちぎみに われはまなごぞ ははとじに われはまなごぞ」を見ると、 父君とともに母堂としてどっしりと家庭を支える語感がある。「オホ-」は美称である。 ここで、書紀における「夫人」の一般的な使われ方を見る。 《書紀における「夫人」》
天皇の「夫人」は「妃に次ぐ地位」とも言われ、〈天武紀〉では確かに明瞭であるが、それ以外ではあまり違いが見えない。 〈仁賢紀〉では顕宗の皇后を、原注において夫人と呼ぶ。 〈推古紀〉の「皇太夫人堅塩媛」は、生前は皇后よりも一段下の妃であったが、改葬にあたって尊び皇太后レベルに上げたものである。 こうして見ると、〈天武紀〉を除けば夫人を「きさき」、「みめ」と訓読しても特段不都合はない。 今検討している〈崇峻三年〉を除けば、「夫人」はすべて天皇の夫人、または百済の王妃として確定している。 天武天皇紀の「藤原夫人」は「藤原家から娶った夫人」意味である。 それに倣えば、「大伴狭手彦が高麗国にいたときに生み、天皇の夫人となった」結果「大伴狛夫人」と呼ばれたのかも知れない。 しかし、天皇が百済媛・新羅媛を娶ったことを示す記述は、他の個所にはない。 さらに、この考えによれば大伴狛夫人は狭手彦の娘となるわけだが、直前の「大伴狭手彦連女」と大きく異なる表し方を用いるのは不自然である。 よって、大伴狛夫人を藤原夫人と同じように、天皇夫人が出身氏族を呼称としたと考えるのは難しい。 《百済由来の古文献》 そこで〈崇峻紀三年〉の性格を検討すると、古文献をそのまま引き写した部分だと考えられる(上述《百済国遣》)。 その文中に「大伴狛夫人」が含まれている。 ということは、この部分には前項の「天皇夫人のみを夫人と呼ぶ」、「"氏+夫人"は出身氏族を表す」という縛りは影響を及ぼさない。 よって、直感的な理解「大伴狛夫人=大伴狭手彦の妻」は許容されるだろう。 〈釈紀〉が「夫人」に「タリク〔ヲリクであろう〕」を併記したのも、この部分は現地の古記録をそのまま収録したと考えた故かも知れない。 なお、〈内閣文庫本〉〔『日本書紀』の複数種類の写本のうち、慶長年間のもの〕の「イロエヒト/ヲリク」は、〈釈紀〉を反映していると見られる。 結局、倭から来た大伴狭手彦が二人の妻を娶った伝承が現地にあり、その中では「大伴狛夫人」と呼ばれたと理解するのが穏当か。 と一度は考えたが、前述のように、狭手彦が稲目に贈り、未亡人となった二人が「大伴狛夫人」だと考えた方がよさそうである。 《イロエ》 複数の写本が「大伴狛夫人」の古訓を「夫人」あるいは「夫人」とするから、この訓みがかなり根強いのは確かで、そのまま現代の刊行本に至る。 しかしイロエには「同母の兄(同性の年長者)」以外の意味は見出せず、何とも解釈のしようがない。 この問題に関して、〈釈日本紀〉、『日本古典文学体系』、岩波文庫『古事記』、『仮名日本書紀』〔刊本:大同館書店〕〈時代別上代〉、その他の幾つかの古語辞典に註釈を探したが、いずれも沈黙している。 第二十一巻(用明・崇峻)の古写本のうち、最古とされるのが 〈書陵部図書寮本〉で、平安末と言われる〔八木書店/「日本書紀の写本一覧と複製出版・Web公開をまとめてみた」による〕。 イロエはその以前からのもので、諸本はそれを無批判に引き継いだと考えられる。 そもそも書紀古訓は音便を含むことを見ても多くが平安期後半で、原書の成立からはかなりの時間の隔たりがある。これまでに見たところでは、古訓には上代語を真当に引き継ぐものもあるが、明らかに独自説や誤写が定着したものが混ざっている。 前者の例として、オホトジは万葉集題詞に根拠を見つけられる。 しかし、イロエは他には見えず、語の成り立ちも説明がつかないから後者で、早い時期の誤写であろう。 無理やり想像すれば、狭手彦の「夫人新羅媛百済媛」には、それを「夫人兄媛弟媛」と表した異伝があり、そのイロエヒメ・イロドヒメが混合して「夫人新羅媛」と訓が振られ、さらに筆写の際に訓の位置が移動したとするのがひとつの考えである。 7目次 【四年】 四年夏四月壬子朔甲子。葬譯語田天皇於磯長陵……〔続き〕 8目次 【五年】 五年冬十月癸酉朔丙子。有獻山猪。天皇指猪詔……〔続き〕 まとめ 〈元興寺縁起〉における豊浦尼寺の比重は大きく、むしろ元興寺の方が添え物のように見える。 それに対して書紀では、〈崇峻紀三年〉の「三尼が桜井寺に住む」、〈欽明紀〉の向原寺、〈推古紀〉の「桜井道場」などに断片的に見えるが、その程度である。 さらに御食炊屋媛については、〈元興寺縁起〉では重要な役割を果たし、後宮を豊浦寺に提供して以来、天皇に即位するまでそのオーナーであったが、 書紀には即位前の御食炊屋媛が主体となった事跡は殆ど見えない。寺や礼拝所の設置は、もっぱら蘇我の稲目馬子親子が行ったとする。 書紀は、〈元興寺縁起〉的な資料から、敢て御食炊屋媛の姿を消したか、或いは全く別系統の資料を用いたことが考えられる。 ところが、元興寺創建のために百済から渡来した僧と技術者の名前、そして三尼の受戒に関しては明らかに共通資料を用いている。 もしも〈元興寺縁起〉が、書紀の後に書紀の内容に粉飾を加えて偽作されたものだとすれば解りやすい。 ところが、天皇号の付け方や人物名や地名の表記不統一を見ると、書紀以前の時代に度々書き加えて作成されたことが伺われ、 このような形を器用に装って書くことなど出来そうにない。 ひとまずは、書紀は蘇我親子が向原などに仏殿を設置した記録の方を採用し、 御食炊屋媛関与説に対しては、その信憑性を疑ったと整理しておきたい。 あるいは、御食炊屋媛関与を述べた文献そのものを入手していなかったのかも知れない。 |
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⇒ [22-01] 推古天皇紀 |