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2020.10.09(fri) [21-03] 崇峻天皇1 

目次 【即位前~即位】
泊瀬部天皇、天國排開廣庭天皇第十二子也。……〔続き〕


目次 【用明ニ年四月~六月】
《橘豐日天皇崩》
二年夏四月。
橘豐日天皇崩。
二年(ふたとせ)夏四月(うづき)。
橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)〔用明〕崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
五月。
物部大連軍衆、三度驚駭。
大連、元欲去餘皇子等而
立穴穗部皇子爲天皇。
及至於今、望因遊獵而謀替立。
密使人於穴穗部皇子曰
「願與皇子將馳獵於淡路。」
謀泄。
驚駭…ぎくりとおどろく。〈汉典〉「[frightened;panic-stricken] 恐慌恐懼。」 〈内閣文庫本〔以下〈閣庫〉〕ヨリ驚-駭トヨム
より…[助数詞] 回数を表す。
…[動] おどろく。おどろかす。
…[動] (古訓) さけ。
及至於今…〈北野本〉於今〔今に至るに及びて〕
望因遊猟而謀替立…〈閣庫〉ヲモテ遊-猟カリスルハカラムト替立カヘ タツルコト おもひてよりて遊猟かりするにはからむと替立かへたつることを
…[動] (古訓) もる。もらす。
〈閣庫〉サリヌ〔サは誤写〕
〈同敏達紀元年〉モリヌ
もる…[自]ラ四 漏る。隙間から洩れる。
五月(さつき)。
物部大連(もののべのおほむらじ)の軍衆(いくさ)、三度(みたび)驚駭(おどろかしむ)。
大連(おほむらじ)、元(もとより)[欲]余(あたし)皇子等(みこたち)を去(さ)けて[而]
穴穂部皇子(あなほべのみこ)を立たして天皇(すめらみこと)と為(な)さむとおもへり。
[於]今に及び至りて、猟(かり)に遊ぶことに因(よ)りて[而]謀(はかりこと)に替(か)へ立(た)つらむと望みて、
密(ひそかに)[於]穴穂部皇子に使人(つかひをつかはして)曰(まを)さく
「願(ねがはくは)皇子(みこ)と与(とも)に[将][於]淡路(あはぢ)馳(は)せ猟(かり)せむとしまつる。」とまをして、
謀(はかりこと)泄(も)りき。
六月甲辰朔庚戌。
蘇我馬子宿禰等、奉炊屋姬尊、
詔佐伯連丹經手
土師連磐村
的臣眞嚙曰
「汝等、嚴兵速往、
誅殺穴穗部皇子與宅部皇子。」
是日夜半。
佐伯連丹經手等、圍穴穗部皇子宮。
於是、衞士先登樓上、擊穴穗部皇子肩。
皇子落於樓下走入偏室、
衞士等舉燭而誅。
佐伯連丹経手…〈閣庫〉 ノ丹経手ニフテ磐村イハムラ イクハ真噛マクヒ
…[動] (古訓) ととのふ。〈閣庫〉ヨク テ〔兵をよくをさめて〕
宅部皇子…〈閣庫〉宅部ヤカヘノ皇子
夜半…〈閣庫〉夜_半ヨナカニ
衛士…〈閣庫〉衛士イクサヒト楼上タカトノ ウヘニニケ-入カタハラナル ヤニ
…[名] (古訓) かたはら。
むろ…[名] 地下室。あるいは壁を塗り固めた部屋。
挙燭…〈閣庫〉挙燭ヒトモシテ。〈北野本〉
…〈北野本〉〈閣庫〉ミカタヲ
六月(みなつき)甲辰(きのえたつ)を朔(つきたち)として庚戌(かのえいぬ)〔七日〕
蘇我馬子宿祢等(ら)、炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)を奉(たてまつ)りて、
[詔]佐伯連(さへきのむらじ)の丹経手(にへて)、
土師連(はにしのむらじ)の磐村(いはむら)、
的臣(いくはのおみ)の真噛(まくひ)におほせことして曰(い)ひしく
「汝(いまし)等(たち)、兵(つはもの)を厳(ととの)へて速(すみやかに)往(ゆ)きて、
穴穂部皇子与(と)宅部皇子(やかべのみこ)とを誅殺(ころ)せ。」といひき。
是の日の夜半(よは)。
佐伯連丹経手等(ら)、穴穂部皇子(あなほべのみこ)の宮を囲(かく)む。
於是(ここに)、衛士(いくさびと)先(さき)に楼(たかどの)の上(うへ)に登りて、穴穂部皇子の肩(かた)を撃ちき。
皇子[於]楼の下(した)に落ちて偏(かたはら)の室(むろ)に走り入りて、
衛士等(ら)燭(ともしび)を挙げて[而]誅(ころ)しき。
辛亥。
誅宅部皇子
【宅部皇子、檜隈天皇之子、
上女王之父也、未詳。】
善穴穗部皇子、故誅。
上女王…〈閣庫〉カムツヒメヲホキミ
…〈閣庫〉ウルハシ
辛亥(かのとゐ)〔八日〕
宅部皇子(やかべのみこ)を誅(ころ)す。
【宅部皇子、檜隈天皇(ひぐまのすめらみこと)〔宣化〕之(の)子(みこ)、
上女王(かみつひめのおほきみ)之(の)父(ちち)也(なり)。未(いまだ)詳(つまひらか)にあらず】、
穴穂部皇子に善(よしび)して、故(かれ)誅(ころ)しき。
甲子。
善信阿尼等、謂大臣曰
「出家之途、以戒爲本。
願、向百濟學受戒法。」
善信阿尼…〈敏達紀-十三年〉善信尼。 〈閣庫〉センシンアマタチ
…[接頭] 身近な人に親しみをこめて呼ぶ。阿父、阿兄。
出家…〈閣庫〉出-家イエテノ
…〈北野本〉-家イエテミチハイムコトヲモトゝス。 〈閣庫〉イムコトヲ
甲子(きのえね)〔二十一日〕
善信(ぜむしむ)阿尼(あま)等(ら)、大臣に謂(まを)して曰はく
「出家(いへで)之(の)途(みち)、戒(いむこと)を以ちて本(もと)と為(す)。
願(ねがはくは)、百済(くたら)に向ひて戒(いむこと)の法(のり)を学び受(う)けむ。」とまをす。
是月。
百濟調使來朝。
大臣謂使人曰
「率此尼等、將渡汝國、令學戒法。
了時、發遣。」
使人答曰
「臣等歸蕃、先噵國主。
而後發遣、亦不遲也。」
調使来朝…〈北野本〉調使ミツキノツカヒ来朝マウケリ
国主…〈閣庫〉キミニ主イ
…[助動] まさに~せんとす。「~なされよ」と相手に勧めるときに用いることもある。
はなつ…[他]タ四 はなつ。つかわす。
発遣…〈閣庫〉発遣トモ
是の月。
百済の調(みつき)の使(つかひ)来(まゐき)て朝(みかどををろがみまつる)。
大臣(おほまへつきみ)使人(つかひ)に謂(い)ひて曰ひしく
「此の尼(あま)等(たち)を率(ゐ)て、将(まさに)汝(いまし)が国に渡して戒(いむこと)の法(のり)を学ば令(し)めむとす。
了(をは)りたる時に、発遣(はな)たむ。」といひき。
使人(つかひ)答へて曰(まをししく)
「臣(やつかれ)等(ら)蕃(くに)に帰りて、先(まづ)国の主(ぬし)に噵(い)はむ。
而後(しかるのち)に発遣(はな)てど、亦(また)不遅(おそからじ)[也]。」とまをしき。
《穴穂部皇子の宮》
 穴穂部皇子の宮は楼閣まで備えた大規模なものであった。それでは、この宮はどこにあったのだろうか。
 皇子の名前につく「穴穂部」は安康天皇(穴穂皇子)の御名代で、〈雄略天皇〉十九年に「詔置穴穂部」とされる。
 安康天皇の「穴穂皇子」という名は、石上の穴穂に宮を構えたことに由来し、即位後もその地を都としたと考えられる。 ならば、穴穂部の本貫も石上だと考えるのが自然であろう。
 そして穴穂部が住んだ土地が地名化して「穴穂部」となり、その地に宮殿に営んだから「泥部穴穂部皇子」(記は三枝部穴太部王)と呼ばれたのであろう(第239回)。 穴穂部皇子の姉「泥部穴穂部皇女」(記は間人穴太部王、〈用明天皇〉皇后)も同じく穴穂部の宮殿に住んだと思われ、 穴穂部皇子が殺されたことからこの地を逃れ、その避難先が丹後国間人(たいざ)であったとする伝説がある (第239回)。
 一方、物部氏天孫本紀によれば、守屋大連(第十四世)は「-斎神宮」とされるから、 守屋の代に至っても石上神宮は物部氏の氏神で、石上は相変わらず物部氏の中心地であった。 同じ土地に住んでいた穴穂部は、物部氏の支配下にあったと考えられる。 穴穂部はまた穴穂部皇子を密接に支えてきたと見られるから、 物部氏が穴穂部皇子を皇位につけようと考えるようになったのは、自然の成り行きであろう。
《詔》
 天皇不在でも、「」が発せられた形になっている。 「炊屋姫尊」とあるから、馬子は即位前の推古天皇が称制として詔を発する形をとったのであろう。 炊屋姫の尊称にを用いたことが、それを物語っている。 ただし、実際には推古天皇の前に崇峻天皇が即位した。
《宅部皇子》
 宣化天皇の皇子たちのリスト(〈宣化〉元年三月)には、宅部皇子の名前はない。 上殖葉皇子、または火焔皇子の別名かも知れないが、今のところ不明である。
《室》
 古訓は「」だが、追手が燭で照らながら入ったことと、逃げ込むなら普通の小屋より頑丈な壁で囲まれた部屋であろうから、ムロであろう。 偏(かたわ)らにあったいうから、蔵のようなところか。
《善信尼》
 〈敏達天皇〉十三年、蘇我馬子宿祢は修行を希望する者を求めて、 善信尼禅蔵尼恵善の三尼を得た。
 十四年三月に物部守屋大連による仏教への弾圧があり、三尼は「尼等三衣、禁錮、楚撻〔=鞭打、杖打〕海石榴市亭」という目に遭う。
 同年六月、馬子個人限定で仏法が許され、三尼は馬子の許に戻された。
 善信尼たちの渡海の申し出は用明二年の時点では一旦保留された。 保留された理由は、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』においてより詳細に書かれている(精読はここ)
 その後、崇峻元年になって善信尼たちの希望は実現し、戒法を学んだ後崇峻三年に帰国した。 これら三つの年、用明二年〔丁未年;587〕、 崇峻元年〔戊申年;588〕、同三年〔庚戍年;590〕は、 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』と一致している。
《大意》
 二年四月、 橘豐日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)〔用明〕が崩じました。
 五月、 物部大連の軍衆は三度(みたび)気勢を上げて、人々を驚かせました。
 大連(おおむらじ)〔物部守屋〕は、以前から他の皇子たちを避け、 穴穂部皇子(あなほべのみこ)を天皇(すめらみこと)に立てようとしていました。
 今に及び、猟に遊ぶことを名目にして策謀の場に変えようと考え、 密かに穴穂部皇子に使者を送り、 「願わくば皇子と共に淡路を馳せて猟をいたしたく存じます。」と申し上げました。 そして策謀は洩れました。
 六月七日、 蘇我馬子宿祢らは、炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)〔後の推古天皇〕を戴いて、 佐伯連(さへきのむらじ)の丹経手(にへて)、 土師連(はにしのむらじ)の磐村(いわむら)、 的臣(いくはのおみ)の真噛(まくい)に命を発し、 「あなたたちは、兵を厳しく整えて速やかに行き、 穴穂部皇子と宅部(やかべ)の皇子(やかべのみこ)とを誅殺せよ。」と命じました。
 是の日の夜半、 佐伯連丹経手らは、穴穂部皇子(あなほべのみこ)の宮を包囲しました。 このとき、衛士は先に楼閣の上に登り、穴穂部皇子の肩を撃ちました。 皇子は楼閣から落下し、傍らの室(むろ)に走り込み、衛士らは灯を挙げて探索して殺しました。
 八日、 宅部皇子(やかべのみこ)を殺しました。 【宅部皇子は、檜隈天皇(ひのくまのすめらみこと)〔宣化天皇〕の子で、 上女王(かみつひめのおおきみ)の父であるが、未詳。】 穴穂部皇子に誼を通じていたが故に殺されました。
 二十一日、 善信(ぜんしん)尼は、大臣〔馬子〕に 「出家の途(みち)は、授戒が元となります。 願わくば、百済に出向いて戒法を学び受けたいと存じます。」と申し上げました。
 是の月、 百済の調使が来朝しました。
 大臣は使者に 「この尼たちを率て、あなたの国に渡らせて戒法を学ばせていただきたい。 あなたが使者の任務を終えた時に、出発させたい。」と言いました。
 使者はそれに答えて、 「私たちは蕃国に帰り、先ず国主にその旨を言います。 その後に出発させても、決して遅くはないと存じます。」と申し上げました。


まとめ
 物部守屋大連は、穴穂部皇子を擁立して天皇に即位させ、実質的に自らの独裁を画策した。 その動きを察知した蘇我馬子宿祢は先手を打って、宮殿を襲撃して穴穂部皇子を殺した。
 まだ大連軍は皇子の宮殿の防御を固めるに至ってなかったようである。既に情報が漏れていたことに、気付いていなかったか。 蘇我馬子の動きは電光石火であった。



2020.10.21(wed) [21-04] 崇峻天皇2 

目次 【用明ニ年七月(一)】
《蘇我馬子宿禰謀滅物部守屋大連》
秋七月。
蘇我馬子宿禰大臣、
勸諸皇子與群臣、
謀滅物部守屋大連。
泊瀬部皇子
竹田皇子
廐戸皇子
難波皇子
春日皇子
蘇我馬子宿禰大臣
紀男麻呂宿禰
巨勢臣比良夫
膳臣賀拕夫
葛城臣烏那羅、
倶率軍旅、進討大連。
蘇我馬子宿祢大臣…〈北野本〉蘇-我馬-子宿-祢大-臣
紀男麻呂宿祢…〈釈紀-秘訓〔以下釈〕紀臣キノヲム男麻呂宿祢ヲマロノスクネ巨勢臣コセノヲン比良夫ヒラフ膳臣カシハテノヲン賀拕夫カタフ葛城臣カツラキノヲミノ烏那羅倶ヲナラク
賀拕夫…〈内閣文庫本〔以下閣庫〕〉賀拕夫カタフ
倶率…大伴軍側の「倶率」を見れば、ここも「俱=ともに」となろう。
軍旅…〈閣庫〉軍旅。 〈北野本〉-進
軍旅…軍隊。「旅」は部隊(一説に500人)。
進討…〈北野本〉進討大連〔一〕。 〈閣庫〉討大連
秋七月(ふみづき)。
蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)の大臣(おほまへつきみ)、
諸(もろもろの)皇子(みこ)与(と)群臣(まへつきみたち)とに勧(すす)めて、
物部守屋大連を滅(ほろぼすこと)を謀(はか)りて、
泊瀬部皇子(はつせべのみこ)と
竹田皇子(たけだのみこ)と
廐戸皇子(うまやどのみこ)と
難波皇子(なにはのみこ)と
春日皇子(かすかのみこ)と
蘇我馬子宿祢大臣と
〔臣〕(きのおみ)の男麻呂宿祢(をまろのすくね)と
巨勢臣(こせのおみ)の比良夫(ひらふ)と
膳臣(かしはでのおみ)の賀拕夫(かだふ)と
葛城臣(かつらきのおみ)の烏那羅(うなら)と
倶(とも)に軍旅(いくさ)を率(ゐ)て、進みて大連(おほむらじ)を討つ。
大伴連嚙
阿倍臣人
平群臣神手
坂本臣糠手
春日臣【闕名字】
倶率軍兵、從志紀郡到澁河家。
大連、親率子弟與奴軍、
築稻城而戰。
於是、大連昇衣揩朴枝間、
臨射如雨、
其軍强盛、塡家溢野。
皇子等軍與群臣衆、怯弱恐怖、
三𢌞却還。
大伴噛…〈閣庫〉大伴クラフ。 〈釈〉大伴トモノ 連嚙ムラシクラフ
阿倍臣人… 〈釈〉阿倍臣アヘノヲンヒト平群臣ヘクリノヲン神手カミテ坂本臣サカモトノヲン糠手アラテ春日臣カスカノヲンモラセリ名字ナヲ
子弟…〈閣庫〉子弟ヤカラ
稲城…〈北野本〉稲城イナキヲ
衣揩朴枝間…〈閣庫〉衣揩エノキノ朴-枝マタ。 〈釈〉衣揩エノキノ枝間マタ
…[動] ぬぐう。(古訓) する。なつす。
…[名] エノキ。
…〈閣庫〉強盛〔ハク〕〔カリ〕ミチアフレタリ
たり…[助動] 〈時代別上代〉この助動詞は記紀にはまだ用例がなく、万葉にも〔中略〕なおテアルの形の用例が見える。
大伴(おほとも、とも)の連(むらじ)嚙(くらふ)と
阿倍臣(あべのおみ)の人(ひと)〔人名〕と、
平群臣(へぐりのおみ)の神手(かみて)と、
坂本臣(さかもとのおみ)の糠手(あらて)と、
春日臣【名の字(じ)を闕(か)けり】と、
倶(ともに)軍兵(いくさ)を率(ゐ)て、志紀郡(しきのこほり)従(ゆ)渋河(しぶかは)の家(いへ)に到れり。
大連(おほむらじ)、親(みづから)子弟(うがら)与(と)奴(やつこ)との軍(いくさ)を率(ゐ)て、
稲城(いなき)を築(つ)きて[而]戦(たたか)へり。
於是(ここに)、大連、衣揩(きぬすり)の朴(えのき)の枝間(えのま)に昇りて、
臨(のぞ)みて射(い)ること雨の如し。
其の軍(いくさ)強盛(こはくさか)りて、家(いへ)に填(み)ち野に溢(あふ)る。
皇子(みこ)等(たち)の軍(いくさ)与(と)群臣(まへつきみたち)の衆(つはもの)と、怯弱(おび)え恐怖(おそ)りて、
三廻(みたび)却還(しりぞ)きつ。
是時、廐戸皇子、束髮於額
【古俗、
年少兒年十五六間束髮於額。
十七八間分爲角子、今亦爲之】
而隨軍後、自忖度曰
「將無見敗、非願難成。」
乃斮取白膠木、疾作四天王像、
置於頂髮而發誓言
【白膠木、此云農利泥】
「今若使我勝敵、
必當奉爲護世四王起立寺塔。」
蘇我馬子大臣、又發誓言
「凡諸天王大神王等、
助衞於我使獲利益。
願當奉爲諸天與大神王、
起立寺塔流通三寶。」
誓已嚴種々兵而進討伐。
古俗…〈北野本〉フルキ-ヒト
束髮…〈閣庫〉束-髮ヒサコハナス-於-額。 〈釈〉古俗イニシヘノヒト年少兒ワラハノ年十五トシトヲアマリイ六間〔ツツムツ〕カラハ束髮於額ヒサコハナシトヲア七八〔マリ…〕間分。爲角子アケマキス今亦爲イママタシカリ之。
ひさこはな…[名] 〈時代別上代〉額の上にひさごの花の形に髪をたばねるところからの名であろう。
ひたひ…[名] (万)3838 額尓生流 ひたひにおふる
角子…〈閣庫〉角-子アケマキ
総角(そうかく)…こどもの神を頭の両側に束ねて結んだ髪の結い方。(古訓) あけまき。
総角 学研新漢和
隨軍後…〈北野本〉ウシロニ
忖度…〈閣庫〉忖-度ハカリテ
斮取…〈閣庫〉斮-取キリトリテ
…[動] (古訓) きる。
頂髪…〈閣庫〉頂-髮タキフサニ
たきふさ…[名] 揚げて束ねた髪。「たぶさ」。
今若使我勝敵…〈釈〉今若イマモシ 使シテ我勝ワレヲ カチテ敵安アタニ ヤスクセ〔〈釈紀〉だけ「安」がある〕
ぬりで…[名] ヌルデ:ウルシ科の落葉小高木。高さ約5メートルに達し、奇数羽状複葉。夏、枝先に小形の白色花(雄花と雌花)を開く。 日本全国、朝鮮半島、中国、東南アジアに広く分布する。
ヌルデ
誓言…〈北野本〉誓-言ウケヒヲ
護世四王…〈閣庫〉護世四コセシワウ
諸天王大神王…〈閣庫〉諸天王大神王シヨテンワウタイシムワウ
利益…〈閣庫〉利-益カツコト ヲ
…[動] (古訓) ととのふ。
ととのふ…[他]ハ下二 多数の者を指揮して整然と行動させる。 
流通三宝…〈閣庫〉流-通ツタヘム三寶ヲ/ニ
是(この)時、廐戸皇子(うまやどのみこ)、[於]額(ひたひ)に束髮(ひさこはな)して
【古俗(いにしへのひと)、
年少児(わらは)の年(よはひ)十五六(とちあまりいつつむつ)の間(ま)[於]額(ひたひ)に束髮(ひさこはな)す。
十七八(とちあまりななつやつ)の間分(わか)ちて角子(あげまき)と為(す)、今亦(また)之(こ)を為(す)】
[而]軍(いくさ)の後(しりへ)に隨(したが)ひて、自(みづから)忖度(おもひはか)りて曰(のたま)ひしく
「将(まさに)見敗(やぶらゆること)無(な)かりて、願(ねがひ)成り難(がた)きこと非(あら)ざるべし。」とのたまひき。
乃(すなはち)白膠木(ぬりで)を斮(き)り取りて、疾(とく)四天王(してむわう)の像(みかた)を作りて、
[於]頂髮(たきふさ)に置きて[而]誓(うけひ)を発(おこ)して言(まを)ししく
【白膠木、此(これ)農利泥(ぬりで)と云ふ】
「今若(もし)我(われ)をして敵(あた)に勝た使(し)めたまはば、
必(かならず)や当(まさに)護世四王(ごせしわう)の奉為(ためとしまつ)りて寺(てら)塔(たう)を起立(た)つべし。」とまをしき。
蘇我の馬子の大臣(おほまへつきみ)、又誓(うけひ)を発(おこ)して言(まを)ししく
「凡(おほよそ)諸(もろもろの)天王(てんわう)大神王(だいしむわう)等(たち)、
[於]我を助け衛(まも)りて利益(みしるし)を獲(え)さ使(し)めたまへ。
願(ねがはくは)当(まさに)諸(もろもろの)天〔王〕(てんわう)与(と)大神王との奉為(ためとしまつりて)、
寺塔を起立(た)てて三宝(さむほう)を流通(し)くべし。」とまをしき。
誓(うけ)ひ已(を)へて種々(くさぐさの)兵(つはもの)を厳(ととの)へて[而]、進め討伐(う)ちき。
爰有迹見首赤檮、
射墮大連於枝下而
誅大連幷其子等。
由是、大連之軍忽然自敗。
合軍悉被皁衣、
馳獵廣瀬勾原而散之。
是役、大連兒息與眷屬、
或有逃匿葦原改姓換名者。
或有逃亡不知所向者。
迹見首赤檮…初出は用明天皇二年四月。 〈釈〉迹見トミノヲフト赤檮イチヒ
枝下…〈閣庫〉枝下エノモトニ〔「枝のもと」では枝の付け根と受け止められてしまうから、「下」はシタと訓んだ方がよい。〕
合軍…〈閣庫〉コフリテ。 〈時代別上代〉「こぞりて」。
…[動] あつまる。あつめる。(古訓) あつまる。
皁衣…〈閣庫〉皁-衣クロキヌヲ
馳猟…〈閣庫〉馳-獦カリスルマネシテ
広瀬勾原…〈釈〉廣瀬ヒロセノ勾原マカラノハラヲ。 〈閣庫〉廣瀬マカリ。 〈北野本〉広-瀬マカリ-原
…〈閣庫〉アカレツ
眷属…〈閣庫〉眷-属ヤカラ
爰(ここに)迹見首(とみのおびと)の赤檮(いちひ)有りて、
大連(おほむらじ)を[於]枝(え)の下(した)に射墮(いおと)して[而]
大連(おほむらじ)と其の子等(ら)を并(あは)せて誅(ころ)しき。
是(こ)に由(よ)りて、大連(おほむらじ)之(の)軍(いくさ)忽然(たちまちに)自(みづから)敗(やぶ)れつ。
合(あつま)りし軍(いくさ)は、悉(ことごとく)皁衣(くろきぬ)をもて被(おほ)ひて、
広瀬(ひろせ)の勾原(まがりのはら)を馳(は)せ猟(かり)して[而][之]散(あか)れき。
是(こ)の役(えたち)に、大連(おほむらじ)の児息(こたち)与(と)眷属(やから)とは、
或(あるは)葦原(あしはら)に逃(のが)れ匿(かく)れて姓(かばね)を改め名を換(か)ふる者(もの)有りて、
或(あるは)逃げ亡(う)せて向(むか)ふ所(ことろ)を不知(しらえざる)者(もの)有り。
時人相謂曰
「蘇我大臣之妻、
是物部守屋大連之妹也。
大臣妄用妻計而殺大連矣。」
平亂之後、於攝津國造四天王寺。
分大連奴半與宅、爲大寺奴田庄。
以田一萬頃、賜迹見首赤檮。
蘇我大臣、亦依本願、
於飛鳥地起法興寺。
…〈北野本〉之-ツマハコレ物-部守-屋大連妹也イロトナリ
四天王寺…〈釈〉四天王寺シテンワウジ
田庄…〈閣庫〉田庄タトコロト
一万頃一万頃=233,000m=23.3ha (換算法は後述【四天王寺寺領帳】)。 〈釈〉田一ヨロツシメ/シロ
法興寺…〈釈〉飛鳥地アスカノトコロニ法興寺ホウコウジ
時の人相謂(かたら)ひて曰(い)ひしく
「蘇我の大臣(おほまへつきみ)之(の)妻(つま)は、
是(これ)物部の守屋の大連之(の)妹(いろど)也(なり)。
大臣妄(みだりかは)しく妻の計(はかりごと)を用(もちゐ)て[而]大連を殺せり[矣]。」とかたらひき。
乱(みだれ)を平之(たひらげし)後(のち)、[於]摂津(つ、せふつ)の国に四天王寺(してんわうじ)を造れり。
大連の奴(やつこ)半(なかば)与(と)宅(いへ)とを分(あ)かちて、大寺(おほてら)の奴(やつこ)田庄(たどころ)と為(す)。
田(た)一万頃(よろづしろ)を以ちて、迹見首(とみのおびと)の赤檮(いちひ)に賜る。
蘇我の大臣、亦(また)本願(ほむぐわむ、もとつねがひ)に依りて、
[於]飛鳥(あすか)の地(ところ)に法興寺(ほふこうじ)を起(おこ)せり。
《大伴連》
 大伴にトモと訓がつくことは、ひとつの問題をはらんでいる。大伴は明らかにオホトモであるから、わざわざ訓を付すということはオホが略されたのではなく、 「オホトモではなくトモと訓め」という意味であるのは明らかである。
 そこで〈姓氏家系大辞典〉でトモ氏を見ると、 「類聚国史二十八、天皇避諱条に「淳和天皇、弘仁十四年四月壬子、大伴宿祢を改めて、伴宿祢と為す。諱に触るれば也、」と。」とある。 また「大伴連」については、「伴連 大伴連の後也」とある。 確認すると、『日本紀略』に納められた逸文に、「〈後紀〉弘仁十四年〔八二三〕四月:○壬子。改大伴宿禰宿禰爲伴宿禰。触諱也。〔大伴宿祢を改め、宿祢を伴宿祢とす。諱に触(ふ)るなり。〕とある。 なお、「いみな」は諡〔おくりな〕の意味にも使うが、ここでは本来の「本名」を意味する。
 淳和天皇〔在位:823~833〕の諱が大伴なので、その偏諱によって大量に存在した大伴氏は押並べて伴氏に改めたわけである。
 古写本ではこの避諱を時代を遡って書紀に適用し、 〈釈紀〉はそれを踏襲したと見られる。このことから逆に、書紀古訓が付された主な時期は823年以後であったことが分かる。
内閣文庫本-神代下
 すると、他の個所の「大伴」の古訓もすべてトモであったはずである。遡って見てみよう。
 大伴が最初に出てくるのは〈神代紀下〉の「大伴連遠祖」で、〈釈紀-秘訓〉は「トモノムラシノトヲツヲヤ」とし、 「淳和御諱トモ。下皆効〔淳和の御諱を避けトモと読むべし。下皆これにならへ〕と書き添えている。
 〈内閣文庫本〉でこの箇所を見ると、右側に「オホ トモ」、左側に「トモノ」の訓が振られ、 頭注に「大伴トモ:為淳和御諱伴也〔淳和の御諱を避くるために、伴(トモ)と読むべし〕が付されている(右図)。 この三か所は、それぞれ筆跡が異なるから、次のように推定される。
 最初は「トモノ」が振られていた。
 第二の人物が「ヲホ」を補った。
 第三の人物がおそらく釈紀を参照して頭注を書き加えた。
 これらのことから、淳和天皇以後に確立した伝統に順うなら、すべてトモと訓むべきである。 しかし、淳和天皇が即位するまでは、すべてオホトモと訓まれていたのは明らかである。
《衣揩朴枝間》
 〈釈紀-秘訓〉には、次のように書き添えられている。
私記曰。衣乃支乃万太エノキノマタ
 或〔あるは〕私記曰。支奴須利乃衣乃支乃万太キヌスリノエノキノマタ
 案師説。衣揩朴讀衣乃支。 又或讀衣揩字。 未何是。抑可求。
 師説を案ずるに、「衣揩朴」衣乃支と読む。又或に「衣揩」を読むこと字の如し。 未だ何是(なにこれ)を知らず。抑(そもそも)求むべし。
〔「衣揩朴」はエノキと訓むか。あるいは「衣揩」を字の通りに読むこともできる。未だ分からず、元々から探るべきか〕
 このように、古訓から卜部兼方の時代〔平安~鎌倉〕には「衣揩」が理解されなかったようだが、 『四天王寺寺領帳』には守屋から没収した寺領に「衣摺」が見える(後述)。 現在、大阪府東大阪市の地名に「衣摺」があり、江戸時代の渋川郡衣摺村に由来する。
 〈五畿内志〉「川郡:【村里】衣摺キズリ
 〈崇峻紀〉では「於衣揩」ではなく、「衣揩朴〔衣揩の朴〕という書き方がされるから、 「衣揩の朴」と呼ばれる特定の木が、既に伝説を伴って知られていたと思われる。
 『四天王寺寺領帳』を見ると、渋川郡の多くの地域を大伴守屋の別業なりところが占めていたと見られ、衣摺はそのど真ん中だから、 この役は守屋を本拠地に追い込み、包囲して滅ぼした戦闘だと見られる。
《必当奉為護世四王起立寺塔》
 副詞が「護世四王-立寺塔」全体にかかると見ると理解しやすいが、 尊敬の意を加えるときのは接頭語的に使われるので「奉-為」の結合が強く、の効果は「起」までは及ばない。 「為護世四王奉起立寺塔」とした方が、意味が通ると思われる。
《護世四王》
 護世四王(四天王)は、仏法の宇宙観において須弥山の中腹に住み、四方を守護する。 東方が提頭頼吒だいずらた(持国天)、南方が毘楼勒叉びるろくしゃ(増長天)、 西方が毘楼博叉びるらくしゃ(広目天)、北方が毘沙門(多聞天)である。
 須弥山は世界の中心に聳える山で、周囲の大海とともに金輪こんりんという円柱に乗る。さらに金輪の下に水輪すいりん、水輪の下に空輪くうりんがあり、全体を包含する空間を虚空こくうという。 須弥山は七重の山脈で囲まれ、その周囲の四面のうち、 南面の贍部洲せんぶしゅうがわれわれの世界である。
 この宇宙像は、恐らくチベット山脈の南に位置するインド亜大陸の地理を反映している。
《広瀬勾原》
 地名については、〈倭名類聚抄〉に{大和国・廣瀬郡・下句郷}がある。 口をムとする異体字には、舩(船)、貟(員)などの例がある。は"L型の図形"の意味に限り、の異体字である。
 〈大日本地名辞書〉は「下勾シモツマカリ: 今百済村是也、高市郡に曲川マカリカハ村ある相接す。〔いにしへ〕當麻勾タイマノマガリと云ふ、 当麻に通する路辺なればならん。」と述べる。
 曲川村から当麻に通ずる道は横大路である(下図)。 仮にが広瀬郡の一部を含み、飛鳥または藤原宮に近い側が上(かみ)だとすると、 曲川村が上勾、広瀬郡の南東隅が下勾となり、理屈は合う。 飛鳥時代の郡界が明治時代とそんなに変わらなければ、「広瀬勾原」は曲川の北2km程度の場所となる。
《合軍》
 「合軍」のの古訓はコゾリテとされるが、 この語順では「軍が挙って」という読み取りは不可能である。 「合軍」の本来の意味は、「(誰かが)軍を集めて」または「集まった軍は」のどちらかとなる。 しかし、これでは何のことだか意味が分からない。「其軍」の誤写と考えた方がまだましであろう。
 そして今、筋書きを根底から見直してみる。
 一般的には、大伴噛阿部人平群神手坂本糠手春日某もまた、 蘇我馬子の配下として物部室屋への征討軍に加わったと読まれている。
 しかし、その前の葛城烏那羅までのグループについては「進討」と書くのに対して、大伴噛以下のグループは「渋河家」である。 などとは異なり単なる移動だから、室屋に合力して馳せ参じたと読むことができる。 また大伴噛らが室屋側だとすれば、噛らが「志紀〔志紀経由で〕と書くのに、葛城烏那羅らには「○○」がないから、文章が不揃いである。
 そこで、ここでは敢えて定説に逆らい、大伴噛らは室屋に就いていたと考えてみよう。
 すると、「合軍」は、「大連軍に合力した諸軍」と読むことができる。 その前の文で「大連之軍忽然自敗」と室屋軍自身のことを書いたから、次に加勢した軍のことを書くわけである。 これまでは大連軍が単独で立ち向かったとしていたから、「合軍」が意味不明だったのである。
 大伴阿部平群春日の各氏は大和国内が本拠である。坂本氏だけは和泉国(第192回【坂本臣】)だが、 糠手は大和国の分流だったと考えるべきだろう。 「広瀬勾原」で狩をしているように装ったのは、それぞれが本拠地に逃げ帰る途中のことであろう。 五氏の軍はひとまず集団で勾原まで逃げ、そこで解散する絵が見えてくる。弓矢を手放すわけにはいかないから、狩猟を装ったのである。
 渋川から広瀬郡に至る道としては、難波から渋川郡・志紀郡・安宿郡・下葛郡を経て高市郡に至る古街道が想定され、 『事典 日本古代の道と駅』(吉川弘文館2009;木下良)は、この道のことを「飛鳥難波街道〔ただし奈良時代〕と呼んでいる。
 「合軍」が「皁衣」(黒衣)を羽織ったのは正体を隠すためだから、 大胆な模様のある鎧や衣を着用して馳せ参じたと想像される。 それにしても黒衣を持参していたとは、用意がよい。援軍に向かうとき、既に敗北を予想していたのだろうか。
 もし、大連軍単独の戦いだったとすれば、惨敗したのにまとまって遠く離れた広瀬郡まで移動して狩の真似事をし、一部はまた渋川郡の葦原に戻って隠れたことになる。この動きはまことに不自然である。
 結局、大連陣営に大伴噛などが「合軍」として加わっていたと読むことによって、 初めて納得できる筋書きになるのである。
《逃匿葦原》
 四天王寺の寺領(室屋から没収)の中に、「葦原」の地名がある(『四天王寺寺領帳』)。
《馬子軍の苦戦》
 馬子軍は、最初は苦戦する。そこから逆転するきっかけになったのは、少年厩戸皇子の機転によると述べる。 よって、敢て苦戦として描いたのが、厩戸皇子〔=聖徳太子〕の威徳を示すためだったのは確かだろう。
 ただ、実際に物部室屋は強敵であったと見るべきであろう。広大な別業を所持し、何よりも直前まで大連として権勢を誇っていた。 戦闘においても、大量の軍勢が住居地域と郊外を埋め尽くしたと描かれる。
 これだけ強力な室屋が、突然他の氏族の一つも動員できなくなっていたとすれば、逆に不自然である。 やはりいくつかの氏族は、味方に就いたと見るべきであろう。それが大伴噛などの五氏なのである。
《乱》
 この戦闘は丁未の乱などと呼ばれる。古訓は「らん」をミダレと訓読みし、これは動詞「みだる」の名詞形である。 しかし、名詞形「みだれ」は、〈時代別上代〉は見出し語に挙げていない。
 安全のためにミダレを避けるなら、「」は「みだれしこと」や、「みだれかはしきこと」と訓読できるが、ランの簡潔な語感からは遠くなる。 エタチなら完全にOKであるが、には微妙なニュアンスの差がある。 果たして、この名詞形は上代から使われていたと考えてよいのだろうか。試しに万葉集を検索してみる。
 万葉集のみだれは全部で48例あり、 内訳は、未然形4、連用形41、その他3で、ほとんどが「みだる(下二)」の連用形である。 しかし、ひょっとしたら名詞かと思わせる例もある。
 「(万)2927 浦觸而 可例西袖叨 又巻者 過西戀以 乱今可聞 うらぶれて かれにしそでを またまかば すぎにしこひい みだれこむかも〔心(うら)ぶれて 枯れにし袖を 復巻かば 過ぎ去(に)し恋 乱れ来むかも〕※…強調の副助詞。
 この「みだれ」は連用形で、「来る」を修飾する。これに忠実に訳せば、「恋が乱れつつ来るかも」となるが、 意味からは「恋の乱れが来るかも」とも訳すことができ、もしかしたら名詞かと感じさせるものがある。
 さらに、本当に名詞化した例がある。
 「(万)2791 片絲用 貫有玉之 緒乎弱 乱哉為南 人之可知 かたいともち ぬきたるたまの ををよわみ みだれやしなむ ひとのしるべく」 〔片糸持ち貫きたる玉の緒を弱み乱れやしなむ人の知るべく〕
 この「乱れやしなむ」のは間投助詞、ナムは推量の助動詞(連用形接続)。よってはサ変動詞の連用形である。 間投助詞と助動詞を取り除いて終止形にすれば「乱れ-す」で、この「乱れ」は正真正銘の名詞である。
 この第2791歌が「その他」として分類した三例のうちの一つで、残りの二例は「乱尾 みだれを」と「乱麻 みだれを」である。 これも名詞ミダレと、〔鳥の尾、麻糸〕の合成語と見ることができる。
 このように、名詞形ミダレは万葉集中に僅かに存在する。
《物部室屋大連宅》
 〈用明二年四月〉のところで、物部室屋の別業は、〈倭名類聚抄〉の{河内国・渋川郡・跡部【阿止倍】}だと見た。 その地には、跡部神社もあった。
 この段でも、「渋河」に軍を集結したと述べている。 そして没収した室屋の旧別業の半ばを、四天王寺の寺領にしたと述べる。
 『四天王寺寺領帳』で「奴273人」が寺領にしたときの人数だとすれば、崇峻紀のいう「半ば」に当たる。 残りの半分は、要するに逃げたのであろう。
 『四天王寺寺領帳』で「河内国」とされる寺領は、12万8640代=2997312m=3.00kmである。 そこで河内国の寺領として挙げられた弓削鞍作祖父間衣摺蛇草足代御立葦原のうちいくつかは、 遺称が渋川郡と志紀郡に残る。恐らく、残りもその近くであろう。
 遺称の地図上の配置を見れば、渋川郡と志紀郡の中の一定部分が「阿都の別業」 (用明二年四月)であったと見てよいだろう。
 図の渋川郡に格子を重ねて面積を求めたところ、およそ19kmであった。 河内国内の寺領3.00kmは、単純計算で渋川郡の16%。弓削は渋川郡の外だから、値はさらに小さくなるが、 耕作地に限ればなかなか大きな部分を占めると言える。
《分大連奴半与宅》
 「大連奴半与宅」をその通りに読めば、 「大連の奴の半分+宅」から分けて接収したこととなる。 「奴半」とは逃げて行方不明になった者を除くという意味か。その残った者を奴婢として、宅(田地)と合わせて、そこから一部を接収したのである。 つまり、一部は残されたわけである。 恐らくは子のうち戦いに参加しなかった者に名目的に室屋系の物部氏を継がせ、彼らのために奴婢と田地の一部が残されたのであろう。
 実際、『先代旧辞本紀』の「天孫本紀」の系図を見ると、「十四世孫:物部守屋大連公」から物部雄君連公」に繋がっている (資料[39])。 雄君は天武天皇から内大紫という冠位(後の正三位に相当)を賜っている。ところが、天武天皇の在位は673年~686年で、天武五年〔676〕に雄君は卒〔=死〕した。 雄君が守屋の子だとすれば、遅くとも用明二年〔587〕には生まれてなければならないから、 内大紫位を賜ったのは最も若くて86歳となり、「物部雄君は物部守屋の子」だった可能性は低い。 雄君は冠位を賜ると同時に物部の氏上(うじのかみ)となったから、そのときに系図を整えた可能性がある。 ただ、全く無関係な祖先から繋ぐのはさすがに憚られたとすれば、守屋の曽孫ぐらいだった可能性はあるのではないか。
《大意》
 七月、 蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)の大臣(おおまえつきみ)は、 諸々の皇子(みこ)と群臣に勧めて、 物部守屋大連を滅そうと謀(はか)り、 泊瀬部皇子(はつせべのみこ)、 竹田皇子(たけだのみこ)、 廐戸皇子(うまやどのみこ)〔聖徳〕、 難波皇子(なにわのみこ)、 春日皇子(かすかがのみこ)、 蘇我馬子宿祢大臣、 紀臣(きのおみ)の男麻呂宿祢(おまろのすくね)、 巨勢臣(こせのおみ)の比良夫(ひらふ)、 膳臣(かしわでのおみ)の賀拕夫(かだふ)、 そして葛城臣(かつらきのおみ)の烏那羅(うなら)らは ともに、軍旅を率いて、進んで〔物部守屋〕大連(おおむらじ)を討ちにかかりました。
 大伴の連(むらじ)嚙(くらう)、 阿倍臣(あべのおみ)の人(ひと)〔人名〕、 平群臣(へぐりのおみ)の神手(かみて)、 坂本臣(さかもとのおみ)の糠手(あらて)、 そして春日臣【名前の字を欠く】は、 共に軍兵を率いて、志紀郡(しきのこおり)から渋河(しぶかわ)の家に到着しました。
 大連は、自らの一族と手下からなる軍を率いて、 稲城(いなき)を築いて戦いました。
 このとき、大連は衣揩(きぬすり)の榎の木の枝の間に昇り、 見渡して雨の如くに弓を射ました。 その軍は強盛で、家々に満ち野原に溢れました。 皇子等と群臣の軍衆は、怯弱し恐怖で、 三度退却しました。
 この時、廐戸皇子は額にひさこなはして、 【古い風俗では、 年少児は十五六歳までの間は額に髮を束ね、ひさこはなする。 十七八歳の間は髪を分けて総角とする。今もまた、このようにする】 軍の後に従って、自ら忖度して 「まさに敗北させられることはなく、願いの成就に困難はありません。」と言いました。
 そして、ぬるでの木を切り取り、素早く四天王像を作り、 髮の上に掲げて誓いを立て 「今、もし我を敵に勝たせていただければ、 必ずや護世四王(ごせしおう)の御為(おんため)に塔を起こし立てましょう。」と申し上げました。
 蘇我の馬子大臣は、誓いを立てて 「凡(おおよ)そ諸々の天王、大神王の皆様、 我を助けお護りいただき、ご利益を得させてください。 願わくば、諸々の天王と大神王との御為に、 寺塔を起こし立て、三宝を流通させましょう。」と申し上げました。 誓い終えて、種々の〔各皇子、氏族の〕兵を厳しく整え、進み討伐しました。
 ここに、迹見首(とみのおびと)の赤檮(いちひ)という人がおり、 大連を枝の下に射落とし、 大連とその子たちも併せて誅殺しました。 これにより、大連の軍は忽(たちま)ち自滅しました。
 集まっていた軍勢は悉く身体を黒衣で覆い、 広瀬の勾原(まがりはら)に駆けつけて猟〔をする振り〕をして散り散りに逃げました。
 この役(えき)で、大連の子息と眷属(けんぞく)は、 或いは葦原の地に逃げ隠れ、姓(かばね)を改め名を変える者があり、 或いは逃げ失せて、行方不明となった者がありました。
 当時の人は、 「蘇我の大臣の妻は、 物部の守屋の大連之の妹である。 大臣は妄(みだ)りに妻を利用した計略によって大連を殺した。」と口々に語らいました。
 乱を平定した後、摂津国に四天王寺を造営しました。 大連の奴婢の半ばと宅地から、大寺の奴婢と庄園としました。
 田地一万代を、迹見首(とみのおびと)の赤檮(いちい)に賜りました。
 蘇我の〔馬子〕大臣は、また本願に依って、 飛鳥の地に法興寺(ほうこうじ)を興しました。


【四天王寺寺領帳】
『四天王寺々領帳』(『大日本仏教全書118』大正二年;仏書刊行会編纂)
用明帝二年。守屋子孫従類田園居宅皆納
 子孫従類二百七拾三人 男百六十人女百十二人 皆爲奴婢 居-宅三箇所 
 田園拾捌萬陸仟肆佰玖拾代按田代法十代七十ニ歩也。舊三尺六寸爲一歩。
  内 河内國
 弓削 鞍作 祖父間ヲジウマ 衣摺キズリ 草 足代 御立 葦原
   右捌箇所 拾貮萬捌仟陸佰肆拾代
  摂津國
 於瀬 カタ江 鵄田 熊凝
   右散地 伍萬捌仟二佰伍拾代
用明帝二年。守屋の子孫従類(したがえるうがら)田園居宅をば、皆寺に納む。
 子孫従類、二百七十三人【男:百六十人。女:百十二人。】皆奴婢として、三か所に居宅す。
 田園 十八万六千八百九十代。按(あん)ずるに田代の法(のり)、十代は七十ニ歩なり。旧三尺六寸を一歩とす。
  内、河内国:
 弓削・鞍作・祖父間ヲジウマ衣摺キズリ草・足代・御立・葦原
   右八箇所、十二万八千六百四十代。
  摂津國:
 於瀬・カタ江・鵄田・熊凝
   右散地〔散在して〕、五万八千二百五十代。
 『四天王寺寺領帳』の「用明帝」の項に、「守屋の子孫従類の田園居宅、皆(ことごとく)寺に納む」とあり、 滅ぼされた守屋から接収したことを明確に述べている。
 この寺領帳の最後の日付は寛文四年〔1664〕で、「天王寺村検地打出高…」などとある。
 日付のある最初の記事は「天正六年織田信長公賜地子高六拾貮石」で、 それ以前の部分については、その最後に 「以上往昔之寺領所史書舊錄 此外雖見不其不一レ正矣〔以上往きし昔の寺領、史書旧録に見ゆる所。此の外(ほか)に見ゆる所有れども、其の正しからざるものは載せず。〕 と述べる。
 即ち、「用明帝二年」の項も「史書旧録」(古文書類)からの引用である。具体的な出典は不明だが、奈良時代以後に四天王寺が僧綱への諜として作成したものではないかと想像される。
 「守屋子孫従類」から没収したのは18万6890代である。
1しろ(代、頃)=7.2歩、1歩〔ブ、上代語はアシ〕は6尺平方の面積。
 正倉院尺の平均は1尺=0.300mだから、1代=約23.3mとなる (仁徳十四年《感玖大溝の比定地》)。
 よって、18万6890代=4.35km(正方形なら一辺2.09km)となる。
 「河内国」とされる8か所のうち、衣摺足代はそのまま町名に残る。鞍作加美鞍作となっている。蛇草長瀬町に改称されているが、「北蛇草公園」に旧称が残る。 これらは渋川郡内である。弓削は志紀郡だが、渋川郡に近い。御立葦原祖父間は見つからなかったが、 これらも渋川郡かその周辺とするのが自然であろう。
 …茨木市の新和町に「葦原」があるが、茨木市は摂津郡だからここでいう「葦原」とは別のところであろう。

まとめ
 『四天王寺寺領帳』の記述はとても具体的で、原文は平安時代のものかも知れないが、 四天王寺にはその由来が詳しく伝わっていたと想像される。 これによって、室屋の「阿都の別業」の姿がリアルに浮かび上がってくる。
 さて、今豊臣家の例を考えてみると、豊臣秀頼を孤立化させて大阪の陣に至るまでに、関ヶ原から14年の年月を要している。 それを参考にすれば、物部守屋勢力が開戦前に既に孤立しいてたとは考えにくい。 守屋側もまた多数派工作に勤しんでいたはずだから、馬子-守屋戦は諸族を二分する大戦争であっただろう。
 従って、ここでは、蘇我馬子側の勢力を列挙して「-討大連」とし、 大伴噛以下物部守屋側の勢力を列挙して「渋谷家」として書き分けたと読むべきだろう。
 《合軍》の項で縷々述べたように、この対決図式を前提にして読めばこ筋書きがとても分かりやすくなり、具体性のある映像を伴って見えてくるのである。



2020.11.04(wed) [21-05] 崇峻天皇3 

目次 【用明ニ年七月(ニ)】
《鳥部萬聞大連滅騎馬夜逃》
物部守屋大連資人、捕鳥部萬
【萬、名也】
將一百人守難波宅。
而聞大連滅、騎馬夜逃、
向茅渟縣有眞香邑、
仍過婦宅而遂匿山。
朝庭議曰
「萬、懷逆心、故隱此山中。
早須滅族、可不怠歟。」
萬、衣裳幣垢、形色憔悴、
持弓帶劒、獨自出來。
資人…〈内閣文庫本〔以後閣庫〕〉資-人ツカヒトトゝノリ取-部ヨロツ
つかひひと…[名] 従者。
捕鳥部…〈姓氏家系大事典〉「鳥取部 トトリべ:職業部の一にして、鳥を捕ふるを職とせし品部也。
騎馬…〈閣庫〉〔うまにのりて〕
有眞香邑…〈閣庫〉アリカノムラニ
かくる…[自]ラ四 〈時代別上代〉すでに下二段活用の例も多く、次の時代につながる。
…[動] (古訓) ふつころ。いたく。おもふ。こころ。
滅族可不怠歟…〈閣庫〉ヤカラヲ 可不怠ナヲコタリソ
衣裳幣垢…〈閣庫〉衣-裳キモノ幣-垢ナシ アカツキ形-カホ憔-悴カシケ。 〈書陵部本〉衣-裳キモヤレアカツキ形-色カホ憔-悴カシケ〔キモノヤフレ…〕
あか…[名] 垢。
あかつく…[自]カ四 垢がつく。
…[名] ぬさ。
かしく(憔悴)…[自]カ下ニ やせおとろえる。かじかむ。 
物部守屋(もののべのもりや)大連(おほむらじ)が資人(つかひひと)、捕鳥部(ととりべ)の万(よろづ)
【万は名(な)也(なり)】
一百人(ももたり)を将(ひきゐ)て難波(なには)の宅(いへ)を守(も)れり。
而(しかれども)大連滅ぶと聞きて、馬に騎(の)りて夜(よる)に逃げて、
茅渟県(ちぬあがた)の有真香邑(ありまかむら)に向(おもぶ)きて、
仍(すなはち)婦(をむなめ)の宅(いへ)を過(す)ぎて[而]遂(つひに)山に匿(かく)りき。
朝庭(みかど)議(はか)りて曰(のたま)ひしく
「万(よろづ)、逆心(さかふるこころ)を懐(ふつくろにす)、故(かれ)此の山の中に隠(かく)りき。
早(すみやかに)須(すべからく)族(やから)を滅(ほろぼ)すべし、可不怠(なおこたりそ)[歟]。」とのたまひき。
万(よろづ)、衣裳(ころも)は幣(ぬさのごとやぶ)れ垢(あか)つきて、形色(かほいろ)は憔悴(かし)けて、
弓を持ち剣(つるぎ)を帯(は)きて、独(ひとり)自(みづから)出来(いでく)。
有司、遣數百衞士圍萬。
々、卽驚匿篁藂、
以繩繋竹引動、令他惑己所入。
衞士等、被詐、
指搖竹馳言「萬在此。」
萬、卽發箭、一無不中。
衞士等、恐不敢近。
萬、便弛弓挾腋、向山走去。
衞士等、卽夾河追射、
皆不能中。
有司…〈閣庫〉有-司ツカサ/\
数百…〈閣庫〉数-百モゝアマリノ
篁藂…〈閣庫〉篁藂タカウラニ
たかむら…[名] 竹の密集地。竹群。
被詐…〈閣庫〉アサムカレ
搖竹…〈閣庫〉アユク-竹
あよく…[自] (万)4390 以母加去〃里波 阿用久奈米加母 いもがこころは あよくなめかも。 
弛弓…〈閣庫〉。 〈北野本〉ハツス
…[動] ゆるむ。ゆるめる。(古訓) ゆみはつす。ゆるふ。
挾腋…〈閣庫〉カイハサムテ〔カキハサミテ?〕
走去…〈閣庫〉走-去ニケユク。 〈書陵部本〉走去ニケユク
有司(つかさ)、数百(いくももたり)の衛士(いくさびと)を遣はして万(よろづ)を囲(かく)めり。
万(よろづ)、即(すなはち)驚(おどろ)きて篁藂(たかむら)に匿(かく)れて、
縄(なは)を以て竹に繋(つな)ぎ引き動(ゆす)りて、他(ひと)をして己(おのが)入(い)りし所を惑(まと)は令(し)めき。
衛士(いくさびと)等(たち)、被詐(あざむかえ)て、
搖(あよ)く竹を指して馳(はし)りて「万(よろづ)此(ここ)に在り」と言ひき。
万(よろづ)、即(すなはち)箭(や)を発(はな)てば、一(ひとつ)も不中(あたらざるもの)無し。
衛士(いくさびと)等(たち)、恐りて不敢近(あへてちかづかず)。
万(よろづ)、便(すなはち)弓を弛(ゆる)へて腋(わき)に挟(かきはさ)みて、山に向(むか)ひて走(はし)り去(い)にき。
衛士等、即(すなはち)河(かは)を来(きた)りて追ひて射(い)れど、
皆(ことごとく)中(あつること)不能(あたはず)。
於是、有一衞士、疾馳先萬而、
伏河側、擬射、中膝。
萬、卽拔箭、張弓發箭、
伏地而號曰
「萬、爲天皇之楯、將效其勇、
而不推問。
翻致逼迫於此窮矣。
可共語者來、願聞殺虜之際。」
…〈閣庫〉サキタチヌ
…〈閣庫〉サシマカナヒ
…〈閣庫〉ヨハヒテ。 〈北野本〉タケムテ
よばふ…[他]ハ四 呼ぶことを強調したことば。
将効…〈閣庫〉将効スレトモ アラハサント
…[動] (古訓) あらはす。いたす。
不推問…〈閣庫〉推-問トヒタマヘハ カヘリテ イタシツ逼-迫コトヲ
翻致逼迫…〈閣庫〉カヘリテイタシツ逼-迫コトヲ於此〔却りて逼迫(せむる)ことをこの窮(きはみ)に致(いた)しつ〕
虜之際…〈閣庫〉トラフル コトノ ワキタメヲ際イ。 〈北野本〉衛士等
わきため…[名] 分別。「わきたむ」の名詞形。
於是(ここに)、一(ひとりの)衛士(いくさびと)有りて、万(よろづ)の先(さき)に疾(と)く馳(はし)りて[而]、
河(かは)の側(かたはら)に伏して、擬(さしまかなひ)射(い)て、膝(ひざ)に中(あ)てき。
万(よろづ)、即(すなはち)箭(や)を抜きて、弓を張り箭を発(はな)ちて、
地(つち)に伏して[而]号(さけ)びて曰(まを)ししく
「万(よろづ)、天皇(すめらみこと)之(が)楯(みたて)と為(な)りて、将(まさに)其の勇(いさみ)を効(あらは)さむとすれど、
而(しかれども)不推問(かむがへたまはず)、
翻(かへりて)逼迫(せむること)を致したまひて、[於]此(ここ)に窮(きはま)りつ[矣]。
共に語(かたらふ)者(ひと)来たる可(べ)し。願はくは殺さむ虜(とりこ)之(の)際(きは、わきため)を聞こしたまへ。」とまをしき。
衞士等、競馳射萬。
萬、便拂捍飛矢、殺三十餘人、
仍以持劒三截其弓、還屈其劒、
投河水裏。
別以刀子刺頸死焉。
払捍…〈閣庫〉拂-捍ハラヒ フセキテ飛-矢
…[動] ふせぐ。
三截…〈閣庫〉モタル-釖三截ミタキニ ウチキル〔三段(きた)にうち切る〕
還屈…〈閣庫〉ヲシマケテ其釖〔押し曲げて〕
河水裏…〈閣庫〉ナケイル 河-水-裏カハナカニ。 〈北野本〉水-裏
うら…[名] 内側。
衛士(いくさびと)等(たち)、競(きほ)ひて馳(はし)り万(よろづ)を射(い)て、
万(よろづ)、便(すなはち)飛ぶ矢を払(はら)ひ捍(ふせ)きて、三十余人(みそたりあまり)を殺しき。
仍(すなはち)持てる剣(つるぎ)を以ちて其の弓を三截(みきだ)にたちて、還(かへ)して其の剣(つるぎ)を屈(ま)げて、
河(かは)の水(みづ)の裏(うら)に投げて、別(ことに)刀子(かたな)を以ちて頸(くび)を刺して死にせり[焉]。
河內國司、以萬死狀牒上朝々庭々
下苻稱
「斬之八段、散梟八國。」
河內國司、卽依苻旨、
臨斬梟時、雷鳴大雨。
河内国司…茅渟県(和泉国)は、書紀の対象年代には河内国に所属した(允恭十年【河内茅渟】)。 〈北野本〉河-内-ミコトモチ
…[名] (古訓) つかさ。つかさとる。
…[名] 官員による上司への報告文書(元興寺…[4])。
牒上…〈閣庫〉スル牒-上マウシアク朝庭 ミカトニ 〔万(よろづ)が死にする状(ありさま)を以て朝廷(みかど)に申し上ぐ〕。 〈北野本〉万死-カタチ-上朝-々庭々下。 〈書陵部本〉シヌル牒上マウシアク
下苻…〈閣庫〉タマヒ シモツフミヲ。 〈書陵部本〉タマヒ オシテフミ
…上から下に指令する文書(元興寺~[6]《符》)。
おして…[名] 印鑑。
…[動] 首を高くさらす刑罰。「梟首」。〈閣庫〉-キタニ チラシ クヒサシ八國。 〈釈紀-秘訓〉散梟チラシクシサセ
大雨…〈閣庫〉大-雨ヒサメフル。 〈倭名類聚抄〉「〔中略〕霈大雨也。〔中略〕日本私記云火天【和名比左女〔ひさめ〕】雨氷【同上】」。
河内(かふち)の国(くに)の司(みこともち)、万(よろづ)の死(し)ぬる状(ありさま)を以ちて朝庭(みかど)に牒上(てふをたてまつる、まをしあぐ)。
朝廷(みかど)下苻(ふをたまひて、しもつふみをたまひて)称(となへのたまひしく)
「之(こ)を八段(やきだ)に斬(き)りて、八つの国に散(あ)かち梟(くしさ)せ。」とのたまひき。
河内の国の司、即(すなはち)苻(ふ、しもつふみ)の旨(むね)に依りて、
斬梟(きりくしささむと)臨みし時、雷(いかづち)鳴りて大雨(ひさめ)ふりき。
爰有萬養白犬、俯仰廻吠於其屍側、
遂嚙舉頭收置古冢、
横臥枕側、飢死於前。
河內國司、尤異其犬、牒上朝々庭々
哀不忍聽、下苻稱曰
「此犬、世所希聞、可觀於後。
須使萬族作墓而葬。」
由是、萬族、
雙起墓於有眞香邑葬萬與犬焉。
爰有…〈北野本〉爰-有コゝニフル白-犬シロキイヌ
…〈閣庫〉カヘル
くふ…[他]ハ四 かむ。くわえる。
…[名] 土を大きく盛った墓。(古訓) つか。
尤異…〈閣庫〉尤-異トカメ アヤシヒテ
…[名] とが。禍。[動] とがめる。[副] もっとも。(古訓) あやまち。とかむ。もとも。はなはた。
とがむ…[他]マ下二 相手の過失を責める。
…[動] ことにする。あやしむ。(古訓) あやしむ。めつらし。
哀不忍聴…〈閣庫〉哀-不-忍-聴イトヲシカリタマフテ。 〈北野本〉哀不
…〈閣庫〉ナリメツラシキ
双起…〈閣庫〉雙-起ナラヘ ツクリテ。 〈北野本〉フタタヒ スフカヲ/ハ於有真香邑
…[動] (古訓) おこす。つくる。 
爰(ここに)万(よろづ)が養(か)へる白き犬(いぬ)有りて、[於]其の屍(かばね)の側(かたはら)に俯(ふし)仰(あふぎ)廻(めぐ)りて吠(ほ)ゆ。
遂(つひに)頭(かしら)を噛(く)ひ挙(あ)げて、古き冢(つか)に収(をさ)め置きて、
枕(まくら)の側(かたはら)に横(よこさま)に臥(ふ)して、[於]前(まへ)に飢(う)ゑて死にき。
河内の国の司(みこともち)、其の犬を尤(はなはだ)異(あやし)びて、朝庭(みかど)に牒上(てふをたてまつる、まをしあぐ)。
朝廷(みかど)哀(かなし)みて聴(きこすこと)を不忍(しのびざ)りて、下苻(ふをくだして、しもつふみをたまひて)称(となへ)曰(のたまひしく)
「此の犬、世に聞くに希(まれ)なる所(ところ)なりて、[於]後(のちのよ)に観(み)す可(べ)し。
須(すべからく)万(よろづ)の族(やから)をして墓(はか)を作らしめて[而]葬(はぶ)ら使(し)むべし。」とのたまひき。
是(これ)に由(よ)りて、万(よろづ)の族(やから)、
墓を[於]有真香邑(ありまかむら)に双(なら)べ起(つく)りて、万(よろづ)与(と)犬とを葬(はぶ)りき[焉]。
河內國司言
「於餌香川原有被斬人、計將數百。
頭身既爛、姓字難知、
但以衣色收取其身者。
爰有櫻井田部連膽渟所養之犬、
嚙續身頭伏側固守、
使收己主乃起行之。」
餌香川…餌香は、河内国志紀郡のうち大きな部分を占める(雄略天皇紀十三年【餌香市辺】)。
数百…〈閣庫〉カ  二マサニ アマタナリ〔かぞふるにまさにあまたなり〕
頭身…〈閣庫〉頭身 ムクロ 
…[動] (古訓) たたる。くさる。〈閣庫・北野本〉タゝレ
ただる…[自]ラ下二 〈時代別上代〉「目:〔熟語〕ただれめ」。
姓字…〈閣庫・北野本〉姓-字カハネ ナ
所養之犬…〈閣庫〉膽渟イヌカ 所-養カヘル之犬〈北野本〉所養之ウヌ
…[動] (古訓) つく。
使収己主…〈閣庫〉使コト収已〔収め使むことすでに至りて〕。 〈北野本〉使ヲハテ主-乃起-行之〔収め使めおは〔っ〕て主乃ち起〔こし〕行〔く〕〕
河内の国の司(みこともち)言(まをさく)
「[於]餌香(ゑが)の川原(かはら)に被斬(きらえし)人有りて、計(かぞ)ふるに将(まさに)数百(しやひやくたり、そこばくのももたり)とならむとす。
頭(かしら)身(むくろ)既(すでに)爛(くさり、ただれ)て、姓(かばね)字(な)知り難(がた)くありて、
但(ただ)衣(ころも)の色を以ちて其の身(むくろ)の者(もの)を収(をさ)め取りつ。
爰(ここに)桜井(さくらゐ)の田部(たべ)の連(むらじ)の胆渟(いぬ)が[所]養[之](かへる)犬有りて、
身(むくろ)頭(かしら)を噛(く)ひ続(つ)ぎて側(かたはら)に伏して固く守(も)る。
己(おのが)主(ぬし)を収(をさ)め使(し)むれば乃(すなはち)起(お)きて[之]行(ゆ)けり。」とまをす。
《難波宅》
 〈欽明元年九月〉《居住吉宅》の項で、 大伴金村大連が「住吉宅」とあることから、 大連などの高官は、副都の難波にも邸宅を置いたのだろうと考えた。
 同様に、物部守屋も難波に別宅を置いていたと考えられる。
《匿山》
 山に隠れていた捕鳥部万は、一度姿を現し、またに向かって走り去る。 その後衛士たちは河を追跡し、追い詰められた万は弓を3つに切断し、太刀を折り曲げて「河水裏」に投げ入れた。 岸和田市の大山大塚古墳(後述)が縁の地だとすれば、その川は津田川ということになる。
 「」については、津田川は両岸とも緩やかな丘陵にになっており、どの辺りの山かを特定するのは難しい。
《願聞殺虜之際》
 「願聞殺虜之際」の「」にはワキタメという古訓が付されている。 古訓の「わきため」は「わきたむ」(四段)の名詞形で、分別などの意味である。 「」は万自身のことであろう。今や殺されようとしている虜の私の言うことを聞いて欲しいと訴える。
 ならば、「」の訓はキハでもよいわけである。 つまり、殺される間際の私の話を聞いて欲しいと願う。ワキタメと言ったのだとすれば、その内容は既に発言した。 即ち、私は天皇の御楯となって武勇を発揮したのに、却って逼迫されて窮地に陥ったのは理解できないというのである。 これが、万にとっての道理ワキタメであった。
 『類聚名義抄』では「」の古訓にワキタメはなく、〈時代別上代〉でも「わきため」の文例〔際の字を当てた例〕はこの崇峻前紀のみで、 そもそも「際」に分別の意味はないから、これは文学的な訓みであろう。他の字に当てた文例として〈景行四十年〉「わきため」、〈応神九年〉「わきためテ」が挙げられているが、 書紀古訓に限られているから、ワキタムワキタメが本当に上代語であったかどうかは実は確かめようがない。
《牒》
 〈孝徳天皇紀〉大化元年八月庚子是日条に「収納匱。以其罪々之」〔牒を収め匱(ひつ)に納む、其の罪を以て之を罪せむ〕とあり、 「」が文書を意味することは明白である。その前の八月庚子条にも「」の文字があり、〈内閣文庫本〉には便タヤスクマウスコトミカトニ」と訓が振られる。 「マウスコト」は、上代には「マヲシコト〔奏言〕であろう。
 一方〈北野本〉の訓点は、 便タヤスクイタスミカト」、  フミ■■」 となっている。
 ②はフミだが、の方は「フミイタス」とは言わないから「マウスコトイタス」だと見られる。 つまり「」は文脈によって「奏言致す」とも「文」とも訓まれるわけだから、「」に対応する特定の上代語は存在しなかったと考えられる。
《符》
 への「オシテフミ」という和訓は、板に割り印し、一方を使者の証として持たせたことに由来する。 オシテ〔押し手〕は「押印」と解釈されているから、オシテフミなる訓は起原によるものである。
 文書としての「符」は、既に上意下達の書類を意味しており、古訓「シモツフミ」はこれによる。 何れも上代に実際に使われていたとは限らず、古訓者の個人的な解釈と見るのが妥当であろう。
 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』を見ると、は冒頭に「」、「」を記す形式を用いる。 これらはそもそも文書の性格を示す符号だから、書紀の執筆グループ自身からして倭読は意識しなかったと思われる。 敢て音声化するとすれば、音読で充分であろう。 平安の古訓学者には何としても倭語で表さねばという観念があり、この箇所も文章として流したが、それによって本来の書式の符号としての性格が見えなくなっている。
 なお、書紀において「」「」を用いた文が〈崇峻紀〉以外には見られないところを見ると、 捕鳥部万の件は実際に文書が残っていたように思われる〔ただ、その内容には脚色を含むと見るのが自然であろう〕
《梟》
 「梟首」は刑罰の一種で、さらし首を高く掲げる。「さらす」という上代語自体は存在したが、 〈釈紀〉が「クシサス」を用いたこことから見ると、刑罰の方法の表現に「さらす」を使うのは後世〔江戸時代か〕になってからである。 〈内閣文庫本〉では「クヒサス」とあり、実はこれが本物の古訓で「頸刺す」の意味かも知れない。
 しかし、「之八段〔八段(きだ)に斬る〕とすると、一か所にしか首を晒すことができないので、 〈釈紀〉は「クシサス(串刺す)」の誤写と判断したように思える。 〈時代別上代〉を見ると、この古訓以外に用例が示されないから、他には見つからなかったと思われる。 類似する「クシザシ」は他人の田に勝手に串を刺して占有する行為を意味し、刑罰ではない。
 クシもサスも上代語ではあるが、 刑罰の一つとしての「クシサス」は、実際には平安、ことによると〈釈紀〉(鎌倉時代)の段階で初めて考案された語であろう。
《白犬》
 白犬は、神聖視されたようである。
 雄略天皇段には、身分不相応に立派な家を建てたことを咎められた志幾大県主が、立派な白犬を献上して罪を免れた話がある (199回)。
《噛挙頭》
 「噛挙頭」は切断された頭部を運んだととも読めるが、 「-臥枕側」の文からは、全身が繋がった状態で、その枕元に横たわる画像が思い浮かぶ。 頭部だけが置かれたところに、「」の語はそぐわないのではないか。 だから、遺体の頭の部分を咥えて引き摺っていったと読みたい。
《姓字》
 「姓字」が「姓名」を意味することは明らかである。 よって、書紀の時代から「」がと訓まれたことがわかる。
 古事記の訓注の「四字以音」の類の訓読は悩ましいが、これを見るとも可能かも知れない。 ここで改めてこの問題を考える。
 〈時代別上代〉を見ると、「平安時代に漢字・仮名をマナ・カンナというが、これは文字が名称と同一視されたことを示している。」 とする一方「上代の確例とはいい難いが、「〔中略〕新字一部卌四巻」(天武紀十一年)という例もある」と述べ、 「字」をと訓むことを、上代まで遡らせることには慎重である。
 そもそも文字とは、抽象的な図形を組み合わせを、特定の実在物に結びつけたものである。 それでは、発音される言葉の場合はどうであろうか。それは、様々な種類の音素(結局空気振動)を組み合わせて、特定の実在物に結びつけるもので、つまりこれも物理現象を記号として用いたものである。
 つまりは文字、音声はともに、記号を対象に紐づけるものであるが、実はこの操作は「ものに名前を付ける」営みと同じことなのである。それを無意識に感じ取ったからこそ、「」をと訓むようになったのだと考えられる。
 それは上代に始まったと思われるが、ただ万葉集では「字」をの訓仮名に用いた例はない。万葉集は「名()」を借訓を含めて大量に使っているから、に「字」を当てることを意図的に避けたと推定される。 つまり、「字」をと訓むことは一部始まっているが、それをまだ認めない学派もあったわけである。
 さて『現代語古語類語辞典』〔芹生公男;三省堂2015〕は、「もじ上代 字[じ]。字[な]。」とする。 既に仏教の大量の経典によって漢字の音は十分伝わっていたから、字をと発音することも普通だったと考えるのが自然であろう。 以上から、上代における「字」のよみは、基本は、一部であったと思われる。
 ここの「姓字」はカバネナと訓むが、記の訓注の「」はとよむことにする。
《餌香川》
 餌香は、河内国の志紀郡と丹比郡にまたがる地域である(雄略天皇紀十三年【餌香市辺】)。 「餌香川」については、餌香市の二か所の候補地がいずれも街道と石川の交点に想定されるから、石川であろう。
 餌香は守屋の別業なりどころのある渋川郡と隣接しているので、丁未の乱の主戦場に含まれていたと考えられる。
 さて、「河内国司言」の中身は、捕鳥部万とは別話である。しかし、丁未の乱に伴う忠犬伝説の変種として並べ置かれたと見られる。 現代でも忠犬ハチ公が伝説化しているが、忠犬の物語ははなはだ人の興味を引くものと言えよう。 万の白犬伝説も、既に書紀以前から広い地域に伝播していたと思われる。
《計将数百》
 「」は助動詞であるから、「将数百」から動詞を見つけようとすると、「」(かぞふ)しかない。 すると、「計将数百」は「計(はか)りて将(まさ)に百(ももたり)を数へむとす〔数えれば、百人に及ぶだろう〕となる。しかし「数百」を「」と読むのはどう見ても不自然だから、 動詞が消える。ただ、このような場合は名詞が動詞に活用するのが漢文だから、文法違反とは言えない。
 もし語順を並べ替えて「将計数百」とすれば問題は完全に消滅するから、実はこの箇所は和風漢文体かも知れない。
 なお、古訓では「数百」を「ももあまり」や「あまた」と訓むが、もともとの意味とは乖離がある。 実は、上代でも平安でも「すうひやくたり」と読む方が普通だったと思える。
《ただる》
 〈時代別上代〉は、見出し語に「ただる」を立てないが、「」の項に「ただれ-め」を載せる(但し、解説なし)。
 時代が下って、『竹取物語』〔平安初期〕には「髪も白く腰も屈り目もたゞれにけり」がある。 もし「ただれめ」が上代語なら、「ただる」(下二段)も存在したはずである。
《大意》
 物部守屋(もののべのもりや)大連(おおむらじ)の配下、捕鳥部(ととりべ)の万(よろず) 【「万」は名である】は、 百人を率いて難波の〔守屋の〕邸宅を守っていました。
 ところが、大連が滅びたと聞き、馬に乗って夜に逃げ、 茅渟県(ちぬあがた)の有真香邑(ありまかむら)に向かい、 妻の家を過ぎて山に隠れました。
 朝庭は議によって 「万は、逆心を抱く。よってこの山の中に隠れた。 速やかに、必ず一族を滅すべし、怠たることのないように。」と言いました。 万は、衣服は幣束のように裂け、顔色は憔悴し、 弓を持ち剣を帯びて、独り自ら出てきました。
 官署は、数百人の衛士を派遣して万を囲みました。 万は驚いて竹藪に隠れ、 縄で竹を繋いで引っぱって動かし、他に自分が入った場所を誤らせました。 衛士たちは騙されて、 搖れる竹を目指して走り寄り、万はここにいると言いました。
 万はそこに矢を放ち、一矢も外しませんでした。 衛士たちは恐れ、敢えて近づかず、 万は、そして弓を弛(ゆる)めて腋(わき)に挟み、山に向って走り去りました。 衛士たちは、河を来て追って射ましたが、 悉く当てることができません。
 ここに一人の衛士がいて、万に先回りして疾走し、 河の傍らに伏せて、待ち構えて射て、膝に当てました。 万はそこで矢を抜き、弓を張って矢を放ち、 地面に伏せて叫び、 「万は天皇(すめらみこと)の御楯となって、まさに勇を発揮いたそうとしましたが、 推問されず〔耳を傾けようとされず〕、 却って逼迫なされまして、ここに進退極まりました。 共に語らう人を寄越していただきたいです。願はくば、虜が殺されようとする間際の声をお聞きください。」と訴えました。
 衛士たちは競って走り寄り、万を射、 万は、飛んでくる矢を払い防ぎ、三十人余を殺し、 そして持っていた剣(つるぎ)を使って弓を三つに裁断し、今度はその剣を折り曲げ、 河の水中に投げこみ、別の小刀によって頸を刺して死にました。
 河内国司は、万の死の様子を牒に記して朝廷に上げました。 朝廷は符を下して 「これを八段に斬り、八つの国に分散して梟(きゅう)せよ。」と命じました。 河内国司は、下された符の旨(むね)によって、 斬り梟しようと臨んだ時、雷が鳴り大雨となりました。
 このとき、万が飼っていた白い犬があり、その屍の傍らに伏し、また仰いで巡り吠えていました。 そして遂に頭を咥えて持ち上げ、古い塚のところに収め置き、 枕元に横たわり、主人の前で飢えて死にました。
 河内国司は、その犬を最も不思議に思い、朝庭に牒を上げました。 朝廷は哀しみに聴くことも忍びず、符を下して 「この犬は、世に聞くのも希なことで、後世に残して見せるべきである。 必ず万の一族に墓を作り葬るようにさせよ。」と命じました。
 万の一族は、これによって、 墓を有真香邑(ありまかむら)に並べて造り、万と犬を葬りました。
 河内国司は、申しました。 ――「餌香(えが)の河原に斬られた人があり、数えれば、まさに数百人になるでしょう。 頭も身体も既に腐敗し、姓名も知り難く、 ただ着衣の色によって該当する者を判別して回収しました。
 そこに、桜井田部連(むらじ)の胆渟(いぬ)が飼っていた犬がおり、 体と頭を咥えて繋ぎ、傍らで伏せて固く守り、〔自分が側にいることで、遺体が飼い主であることを知らせ〕 自らの主人の屍を回収させたところで、起き上がって去りました。」


【有真香邑】
《大日本地名辞書》
 〈大日本地名辞書〉和泉-泉南郡に「有真香」、「犬墓」の項がある。
 「有真香アマカ:水名〔川の名〕に因り村名起る、阿里麻川と曰ふ、 東葛城村大字塔原より発源し西北流貝塚町の北に到り海に入る。(津田川とも曰ふ) 長〔さ〕〔そ〕四里。 ○有真香は日本書紀崇峻天皇元年の条〔ママ〕に見ゆ」。
 「犬墓:書紀通証云、万墓在泉南郡八田村。狗墓在其北。(明治二十二年八田の双墓に建碑す)」。
 明治22年〔1889〕の町村制で、南郡須屋村八田村土生滝村阿間河滝村真上新田が合併して、南郡有真香村が成立した。 つまり、「有真香村」は復古地名である。 そして、昭和15年〔1940〕に岸和田市に編入された。 現在、岸和田市に八田町土生滝町真上町の地名が残る。 八田町の西隣の天神山町2丁目に、「捕鳥部万の墓」がある。
《捕鳥部万の墓》
 大阪府公式-「府内の史跡公園等の紹介」のページに、 「●市指定史跡大山大塚古墳(附 捕鳥部萬の墓)」が紹介されている。
捕鳥部萬墓萬家犬塚捕鳥部萬碑
岸和田市立図書館「捕鳥部萬と忠犬シロ」より
 それによると、大山大塚古墳は岸和田市の調査の結果「直径30m程度の円墳」で、 「その墳丘上には日本書紀に見える「捕鳥部萬」の墓と伝えられる墓がある。 また付近には萬の飼い犬だった犬の墓が営まれたとされる「義犬塚古墳」も存在し、 両墓とも、地元ではよく知られており、現在でもお供え物が絶えない。」という。
 ここでは、墓石の部分を墳丘本体と区別した書き方になっているが、 一般的な捉え方では古墳そのものが捕鳥部萬の伝説上の墓とされ、例えば貝塚市のページ「捕鳥部万の道標」では 「捕鳥部万とその愛犬の墳墓と伝えられる大山大塚古墳と義犬塚古墳」と記述している。
 義犬塚古墳については、岸和田市公式ページによると、 「径約20m、高さ約3mの円墳」で「墳頂部(ふんちょうぶ)は削平されて」いるという。
 岸和田市立図書館 の「捕鳥部萬と忠犬シロ」(ミニ岸和田再発見第25弾)に、 捕鳥部萬の伝説についての考察がある。 それによると、「捕鳥部萬墓」のすぐ傍らに「捕鳥部萬碑文(明治24年)」がある(写真)。 これが、〈大日本地名辞書〉のいう「明治二十二年八田の双墓に建碑す」に該当する碑と思われるが、 なぜか建立年が一致しない。
 同ページによると、この碑の寸法は「縦230cm×横145cm×厚さ27cm」で、 萬の人柄を「その性 清く正しく その心忠実に雄々しく 特に武士の道に優れたる人なり」などと讃えているという。
 地元の「萬家の子孫である塚元家(現当主は萬の63代目)」は、墓所の管理維持とともに 「萬の命日である旧9月26日には萬祭を催し」ているという。 これについては、2010年の「捕鳥部万を偲ぶ集い」を記したブログなどが見られる。
 江戸時代268年間の将軍15代と比べても、「63代」は相当長い。系図の始めの部分は当然創作であろうが、伝統がかなり古くまで遡ることが感じられる。

まとめ
 茅渟県の忠犬伝説に加えて餌香の類話を示すから、 このタイプの伝説は変形を伴いながら、広く伝播していた。 そして餌香は室屋が拠点とした渋川郡の隣だから、こちらの忠犬伝説も馬子対守屋の戦乱に付随すると見られる。 ならば、戦乱そのものが河内国全域に及ぶ大規模なものであろう。 氏族たちを二分する総力戦なら、室屋側にも多くの氏族がついていたことが考えられ、よってやはり大伴連嚙らを室屋側とする前回の読み方を維持したい。
 さて、書紀古訓の信憑性については、書紀以外の資料によって上代語であることが確認できるもの以外は、なかなか評価が難しい。 この段でも、本来音読みだったものを倭語に置き換えたために原意をすくい上げきれなかった例や、 造語さえ疑われる例が見られた。
 これまでも実際には平安時代に使われ始めた語だったり、上代語が変形したりしていた。 これらのどのケースにあたるか、これからもできるだけ見極めたい。 これは単純な訓みの問題ではなく、書紀が本来何を語ったかという本質に関わることだからである。



2020.11.14(sat) [21-06] 崇峻天皇4 

目次 【用明ニ年八月~元年三月】
炊屋姬尊與群臣、勸進天皇卽天皇之位。……〔続き〕


目次 【元年是歳~三年】
《百濟國遣使幷僧》
是歲。
百濟國遣使
幷僧惠總
令斤
惠寔等
獻佛舍利。
僧恵総…〈釈紀-秘訓〔以下釈〕僧惠捴ホウシヱソウ令斤リヤウコム惠寔ヱシヨク 〈内閣文庫本〔以下閣庫〕ホウシ惠捴
仏舎利…〈釈・敏達〉佛舍利ホトケノシヤリ。 〈閣庫〉-舎利
〔元年〕是歳(このとし)。
百済国(くたらのくに)[遣]使(つかひ)と
并(あは)せて僧(ほふし)恵総(ゑそう)、
令斤(りやうこむ)、
恵寔(ゑしよく)等(ら)をまだして、
仏(ほとけ)の舎利(しやり)を献(たてま)つる。
百濟國遣恩率首信
德率蓋文
那率福富味身等、
進調、
幷獻佛舍利
僧聆照
律師令威
惠衆
惠宿
道嚴
令開等
寺工太良未太
文賈古子
鑪盤博士將德白昧淳
瓦博士麻奈文奴
陽貴文
㥄貴文
昔麻帝彌
畫工白加。
…〈閣庫〉マタシテ
恩率首信…〈釈〉恩率首信オムソツシユシム德率トクソツモム那率ナソツ福富味身フクフミシム
僧聆照…〈釈〉ホフシレイ/リヤウセウ律師リツシ令威リヤウヰ惠衆ヱシユ惠宿ヱシユク道嚴ダウゴム令開リヤウケ。 ○寺工テラタクミ 太良未タイリヤウミ太文賈古子タイモンケコシ二人名歟。鑪盤博士ロバムノハカセ將德シヤウトク白昧淳ハクマイシユム。 ○凡瓦歟博士ハカセ麻奈文マナモンヌ/ト陽貴文ヤウクヰモム㥄貴文レウクヰモム。 昔麻帝弥マタイミ■■
寺工…〈閣庫〉寺工テラタクミ
鑪盤…〈閣庫〉バムノ
画工…〈閣庫〉畫工エカキ。 〈北野本〉畫-工エタクミ
百済国(くたらのくに)[遣]恩率(おむそつ)首信(しゆしむ)、
徳率(とくそつ)蓋文(がいもん)、
那率(なそつ)福富味身(ふくふみしむ)等(ら)をつかはして、
調(みつきもの)を献(たてまつ)りて、
并(あはせて)[献]仏(ほとけ)の舎利(しやり)、
僧(ほふし)聆照(れいせう)、
律師(りつし)令威(りやうゐ)、
恵衆(ゑしゆ)、
恵宿(ゑしゆく)、
道厳(だうごむ)、
令開(りやうけ)等、
寺工(てらたくみ)太良未(たいりやうみ)、
太文賈古子(たいもんけこし)、
鑪盤博士(ろばむのはかせ)将徳(しやうとく)白昧淳(はくまいしゆむ)、
瓦博士(かはらのはかせ)麻奈文奴(まなもんぬ)、
陽貴文(やうくゐもん)、
㥄貴文(れうくゐもん)、
昔麻帝弥(しやくまたいみ)、
画工(えたくみ)白加(はくか)をたてまつる。
蘇我馬子宿禰、請百濟僧等、
問受戒之法、
以善信尼等付百濟國使恩率首信等、
發遣學問。
壞飛鳥衣縫造祖樹葉之家、
始作法興寺、
此地名飛鳥眞神原、
亦名飛鳥苫田。
是年也、太歲戊申。
…〈閣庫〉サツケテ
発遣…〈閣庫〉發遣ミチタツ
学問…〈閣庫〉學問モノナラヒニ
樹葉…〈閣庫〉樹葉コノハカ之家。 〈釈〉 ノ衣縫造祖樹葉キヌヌヒノミヤツコカヲヤコノハ
真神原…〈釈〉飛鳥眞神原アスカノマカミノハラ亦名マタノナハ鳥苫田 ノトマタ
蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)、百済(くたら)の僧(ほふし)等(ら)を請(こ)ひて、
受戒之(いむことをさづく、じゆかいの)法(のり)を問ひて、
善信尼(ぜむしむあま)等(ら)を以ちて、百済国(くたらのくに)の使(つかひ)恩率(おむそつ)首信(しゆしむ)等(ら)に付けて、
学問(ものならひ)に発(はな)ち遣(つか)はしき。
飛鳥(あすか)の衣縫造(きぬぬひのみやつこ)が祖(おや)樹葉(このは)之(の)家(いへ)を壊(こぼ)ちて、
始めて法興寺(ほふこうじ)を作る。
此の地(ところ)の名は飛鳥(あすか)の真神原(まかみのはら)、
亦(また)の名は飛鳥の苫田(とまた)といへり。
是年(このとし)は[也]、太歳(たいさい、おほとし)戊申(つちのえさる)。
二年秋七月壬辰朔。
遣近江臣滿於東山道
使觀蝦夷國境。
遣宍人臣鴈於東海道
使觀東方濱海諸國境。
遣阿倍臣於北陸道
使觀越等諸國境。
近江臣満…〈閣庫〉近江 淡海イ滿ミツヲ。 〈釈〉近江臣滿アフミノヲンミツ東山道使ヤマノミチノツカヒ。 ○宍人臣鴈シゝヒトノヲンカリ東海道使ウメツミチノツカヒ。 ○東方アツマノカタノ。 ○ソヘルウミニ諸國境クニ\/ノサカヒ。 ○阿倍臣アヘノヲン北陸道使クヌカノミチノツカヒ
東山道…〈閣庫〉ヤマチノ
宍人臣…〈閣庫〉完人。 〈北野本〉完人臣鴈於東海道
…[名] 〈時代別上代〉「完」は「宍」の誤りであるが、ほとんど通用とみられるほど例が多い。
東海道…〈閣庫〉ウミツ海道
東方…〈北野本〉東-方アツマノ
…[動] (古訓) そふ。ほとりせり。
北陸道…〈閣庫〉北陸クルカ/クヌカノ
二年(ふたとせ)秋七月(ふみづき)壬辰(みづのえたつ)の朔(つきたち)。
近江臣(ちかつあふみのおみ)満(みつ)を[於]東山道(やまのみち)に遣はして、
蝦夷(えみし)の国の境(さかひ)を観(み)使(し)む。
宍人臣(ししひとのおみ)鴈(かり)を[於]東海道(うみつみち)に遣はして、
東方(あづま)の海に浜(そ)へる諸(もろもろの)国の境を観使む。
阿倍臣を[於]北陸道(くぬかのみち)に遣はして、
越(こし)等(ら)の諸(もろもろ)の国の境を観使む。
三年春三月。
學問尼善信等、自百濟還、
住櫻井寺。
冬十月。
入山取寺材。
三月…〈北野本〉三-年 ル三-月ヤヨヒニ
桜井寺…〈釈〉櫻井寺サクラヰテラ
寺材…〈閣庫〉キヲ
三年(みとせ)春三月(やよひ)。
学問(ものならふ)尼(あま)善信(ぜむしむ)等(ら)、百済(くたら)自(ゆ)還(かへ)りて、
桜井寺(さくらゐのてら)に住む。
冬十月(かむなづき)。
山に入りて寺材(てらのき)を取る。
是歲。
度尼
大伴狹手彥連女善德
大伴狛夫人新羅媛善妙
百濟媛妙光
又漢人善聰
善通
妙德
法定照
善智聰
善智惠
善光等。
鞍部司馬達等子多須奈、
同時出家。
名曰德齊法師。
度尼…〈閣庫〉度尼イヘテセルアマ。 〈北野本〉。 〈宮内省図書寮蔵本〉度尼イヘテセル
…[動] 仏の教えによって彼岸にわたす。「得度」(仏門に入る)。
大伴狭手彦連女
 〈北野本〉 大-伴狹手-彦-連女ムラシノ人善-德大-伴コマノ夫-人
 〈宮内省図書寮蔵本〉 コマノ夫-人 イロエ 
 〈閣庫〉善德コマノ夫人イロエヒト/ヲリクゝ〔大伴を欠く〕
 〈仮名日本紀〉善德ぜんとく狛夫人こまのいはえひと〔大伴を欠く〕
 〈釈〉度尼大伴イヘテアマトモノ狹手彦連女善德ムスメゼムトク。 ○コマノ夫人イロエ/タリク 新羅媛善妙シラキヒメゼムメウ。 ○百濟媛妙光クタラノヒメメイクワウ。 ○漢人善聡アヤヒトゼムソウ善通ゼムツウ妙德メウトク法定照ホウテイセウ善智聡ゼムチソウ善智惠ゼムチヱ善光ゼムクワウ。 ○同時モロトモニ。○德齊法師トクサイホウシ
鞍部司馬達等子多須奈…〈用明二年四月〉で用明天皇を見舞い、出家と坂田寺の建立を誓った。
出家…〈閣庫〉出-家イエテム
是歳(このとし)。
度(いへでせる)尼(あま)、大伴狭手彦連(おほとものさてひこのむらじ)が女(むすめ)善徳(ぜんとく)、
大伴の狛(こま)の夫人(ぶにん、つま)新羅媛(しらきひめ)善妙(ぜむめう)、
百済媛(くたらひめ)妙光(めうくわう)、
又(また)漢人(あやひと)善総(ぜむそう)、
善通(ぜむつう)、
妙徳(めうとく)、
法定照(ほうていせう)、
善智総(ぜむちそう)、
善智恵(ぜむちゑ)、
善光(ぜむくわう)等(ら)と、
鞍部司馬達等(くらべのしばたつと)が子多須奈(たすな)、
同時(おなじきときに、もろともに)出家(いへで)して、
名(なづ)けて徳斉法師(とくさいほふし)と曰ふ。
《百済国遣》
 「是歳」には、「百済国遣使…」と「百済国遣恩率首信…」の二つの文がある。 これらは個人名が詳しく載るところから、百済が絶滅したときに倭に逃れた王族が持ち込んだ文書かも知れない(欽明十五年十二月《百済文書》)。 あるいは、元興寺が秘蔵していたことも考えられる。
 この二つの文は内容が似通っているので、派遣が二回あったというよりは、ひとつの派遣に関する二種類の古文献を並列したように感じられる。
 第一文の「使」は第二文の「恩率首信、徳率蓋文」に対応すると見ることができる。 惠寔惠宿の別表記か。 令斤は、令開または、そこに道嚴が混合したものか。 ただ、惠總は『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』〔以下〈元興寺縁起〉〕にも惠忩があり有力者である。 この名前が「遣恩率首信…」のリスト中にはないことの、解釈は難しい。
《僧恵総ら》
 元年是歳で遣わされた僧のリストは、〈元興寺縁起〉-戊申年【Ⅰ縁起(g)】の《六口僧》に対応する。
安居院(飛鳥寺)と向原寺(豊浦寺) 飛鳥寺跡
飛鳥寺西門地区の調査 現地説明会資料(1996/10/5 奈良国立文化財研究所)より
 また、寺工たちのリストは、〈元興寺縁起〉【Ⅱ:塔露盤銘】「戊申年」の部分と対応する。 「鑪盤博士」は、露盤製作の専門技術者と見られる。 画工(えたくみ)は、欽明十四年参照。
《法興寺》
 〈元興寺縁起〉には、法興寺の名称はない。 【縁起(3)】の項においては、創建段階の名称は「法師寺」で、別名を建通寺とし、 高麗百済の法師が度々来て仏法を広める拠点であったことを示す名という()。
 また別の文に、元興寺の「本名」を建興寺とし、 こちらは「此相-応於此国機〔国の政の相談に乗る〕役割による名だとする()。 は別の寺のようにも読めるが、創建までの経緯が特に書き分けられているわけでもないので、 同一の寺につく複数の名称について、それぞれの由来を説明したと理解するのが順当であろう。
 とはいえ、僧の修行の施設であると、 勅使を迎えて儀式や講演をするとは別棟であろうから、それぞれに別の名前があったこともありそうに思える。
 なお、法師寺建興寺をミックスすると法興寺になる。
《飛鳥真神原》
 真神原は、〈雄略天皇紀〉七年是歳条において、新漢(いまきのあや)〔応神天皇の頃に渡来した東漢やまとのあや西漢かふちのあやに対して新しく渡来した漢の意〕の居住地とされた (雄略紀3《真神原》)。
 ここにあった衣縫造きぬぬひ〔い〕のみやつこ樹葉このはの宅を壊して法興寺を創建したと述べる。 三年十月になってもまだ「山取寺材」という状態だから、「始作」は「初めて作る」ではなく、「法興寺」であろう。
飛鳥大仏(頭部)飛鳥大仏(全身)
 現在の安居院〔奈良県高市郡明日香村飛鳥(大字)〕に堂塔跡が検出され、元興寺(飛鳥寺)跡と考えられている。 この場所は、豊浦寺(向原寺)から直線距離で800m余りで、〈元興寺縁起〉(Ⅰ(f))にいう「鍾声互聞。其間無難事半月々々日中之前。往還処作也〔互いに鐘の音が聞こえ、半月に一度の白羯磨のために、日の高いうちに難なく行き来できる距離にある〕には十分である。
 〈推古紀〉十三~十四年に鞍作鳥に造らせた「丈六銅像」が、安居院の「飛鳥大仏」とされている。 「早稲田大学公式」-ニュースによると、 飛鳥大仏は、「飛鳥時代に造立されたものの、火事で損傷したために大部分が鎌倉時代や江戸時代に補修されたものとされている」が、 早稲田大学の大橋一章教授の行った「X線分析調査」によると、補修箇所の 「金属組成には際立った差異がみられず、仏身のほとんどが飛鳥時代当初のままである可能性が高いことが判明」したという。
 飛鳥時代の仏像の顔つきの特徴として「/杏仁形。/高く狭い。小鼻のふくらみがない。鼻の穴は印程度。 耳たぶ/長方形。口元/アルカイックスマイル。顔の形/面長で角ばる。仏像世界が挙げられている。 この特徴にぴったり合うが、逆に飛鳥大仏を典型例として述べたものかも知れないから注意が必要である。
《宍人臣》
 〈姓氏家系大辞典〉は、「安倍氏の族にして、宍人部の総領的伴造〔とものみやつこ〕」、 「膳部〔かしはでべ〕臣と同族なれば、恐らく〔中略〕雄略紀の膳臣長野の末裔なるべし」と述べる。
《東海道・東山道・北陸道》
 〈安閑二年〉の二十六屯倉の配置図から、東海道、東山道が当時から街道として機能していたことが分かる (【二十六屯倉設置の意味】)。〈安閑紀〉の屯倉に越の国のものはないが、この方面にも街道が通じていたことは明らかである。
 遡ると、〈崇神十年〉に北陸・東海・西道・丹波の制圧に向かわせた(第113回)。 また〈崇神十一年〉に「四道将軍」に戎夷の制圧に向かわせた(第114回)。
 二年条には、古い伝説の時代に戻ったような懐かしい趣がある。
 なお、ここでいう「東山道」の「蝦夷国境」は、〈安閑紀〉「緑野屯倉」の辺りが想定される。 必ずしも「蝦夷=アイヌ」というわけではなく、東国に存在した倭人の独立勢力もまた、蝦夷と表現されている。 「」地域には古くから独立勢力があり、〈安閑紀〉にもその流れを汲む「上毛野君小熊」の専横が描かれる (【上毛国】【元年閏十二月】)
《問受戒之法》
 三人の尼、善信禅蔵恵善は、かねてから渡海して授戒を受けることを切望していた。 蘇我馬子は、改めて「問受戒之法」、すなわち授戒のシステムを問い合わせて、渡海させることになり、 三尼を恩率首信に託して百済国に送ったと読める。
 これについて〈元興寺縁起〉では、 来倭した六僧に問い合わせたところ、先に百済から訪れた客人と同じ答え〔=急ぐことはない〕だったが、 それでも三尼が強く希望したことから渡海を許可したと描かれる。 (精読はここ)
《桜井寺》
 この「桜井寺」は、ほぼ豊浦寺に重なる。
 その場所については、第235回)において、 等由良とゆら御食炊屋媛みけかしきやひめ(後の推古天皇)の住居で、 そこが豊浦寺に提供され、その傍らに桜井があったことから桜井と呼ばれたことを見た。
 〈元興寺縁起〉には、崇峻帝のとき「三尼者櫻井道場置可供養〔桜井道場に三尼を置いて供養させるべし〕とある。
 豊浦寺跡は、現在の向原こうげん〔奈良県高市郡明日香村字豊浦630〕と考えられ、境内に礎石が残っているという。 この名前は〈欽明天皇紀〉十三年の「向原むかはら」に重なる。 書紀では、蘇我稲目が向原の家を提供したとする。この点は、御食炊屋媛が「牟久原むくはら」の家を提供したと述べる〈元興寺縁起〉とは、不一致がある。
 このような相違はあるが、向原の家牟久原後宮等由良宮桜井道場桜井寺豊浦寺は概ね同じ場所だと考えてよいだろう。 もともとの邸宅の敷地内に必要に応じて新築や改築が行われ、その度に新たな名称で呼ばれたものと思われる。
《大伴狭手彦》
 大伴狭手彦は大伴金村の子で、 〈宣化二年〉に百済に渡り、 「任那加救百済〔任那を鎮め、加へて百済を救ふ〕とある。
 さらに、〈欽明二十三年〉に、「大将軍大伴連狭手彦。領兵数万。伐于高麗。」とあり、 この次の文「大伴狛夫人」の「大伴」も狭手彦を指すと思われる(別項)。
《大意》
 〔元年〕この年、 百済国は使者とともに、 僧、恵総(えそう)、 令斤(りょうこん)、 恵寔(えしょく)らを遣わして、 仏舎利(ぶっしゃり)を献上しました。
 百済国は、恩率(おんそつ)首信(しゅしん)、 徳率(とくそつ)蓋文(がいもん)、 那率(なそつ)福富味身(ふくふみしむ)らを遣わして 貢物を献上し、 併せて、仏舎利、 僧聆照(れいしょう)、 律師令威(りょうい)、 恵衆(えしゅ)、 恵宿(えしゅく)、 道厳(どうごん)、 令開(りょうけ)ら、 寺工師太良未(たいりょうみ)、 太文賈古子(たいもんけこし)、 鑪盤博士(ろばんはかせ)将徳(しょうとく)白昧淳(はくまいしゅん)、 瓦博士(かわらはかせ)麻奈文奴(まなもんぬ)、 陽貴文(ようきもん)、 㥄貴文(りょうきもん)、 昔麻帝弥(じゃくまたい)、 絵匠(えたくみ)白加(はくか)を献上しました。
 蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)は、百済の僧らに要請して、 授戒の法を問い、 善信尼(ぜんしんに)らを、百済国の使者の恩率(おんそつ)首信(しゅしん)らに託して、 学問のために出発させました。
 飛鳥の衣縫造(きぬぬいのみやつこ)が祖先樹葉(このは)の家を壊して、 法興寺(ほうこうじ)を作り始めました。 その地名は飛鳥の真神原、 別名飛鳥の苫田(とまた)といいます。
 この年は、太歳戊申でした。
 二年七月一日、 近江臣(ちかつおうみのおみ)満(みつ)を東山道に遣わして、 蝦夷(えみし)との国境を監察させました。
 宍人臣(ししひとのおみ)鴈(かり)を東海道に遣わして、 東(あずま)方面の海浜の諸国の国境を監察させました。
 阿倍の臣を北陸道に遣わして、 越などの諸国の国境を監察させました。
 三年三月、 学問尼善信らは、百済から帰国し、 桜井寺(さくらいでら)に入りました。
 冬十月、 山に入り、寺の木材を採取しました。
 この年、 得度した尼、大伴狭手彦連(おおとものさてひこのむらじ)の娘の善徳(ぜんとく)、 大伴〔狭手彦連〕の狛(こま)〔に滞在したとき〕の夫人(ふじん)の新羅媛(しらぎひめ)善妙(ぜんみょう)、 百済媛(くだらひめ)妙光(みょうこう)、 また漢人(あやひと)の善総(ぜんそう)、 善通(ぜんつう)、 妙徳(みょうとく)、 法定照(ほうていしょう)、 善智総(ぜんちそう)、 善智恵(ぜんちえ)、 善光(ぜんこう)らとともに、 鞍部司馬達等(くらべのしばたつと)の子多須奈(たすな)は、 同じ時に出家して、 名を徳斉(とくさい)法師といいます。


【大伴狛夫人】
《大伴狛》
 大伴狛連は、〈孝徳紀〉の大化五年〔649〕三月に「蘇我倉山田麻呂大臣」を尋問するために遣わされた。 大臣は逃げたので、大伴狛も翌日大臣を追ったが、捕える前に自死した。 なお、倉山田麻呂大臣への嫌疑は、大臣が異母兄麻呂が皇太子を害しようとしていると讒言したことである。
 崇峻三年〔590〕からは59年も後の話だから、同一人物とは考えにくい。 仮に両者が同一だというなら、全くの伝説を挿入したことになる。
 ここではひとまずを人名とはせず、「大伴」を「大伴狭手彦」、「狛夫人」を「高麗国で娶った妻」の意味としてみると、 「大伴狛夫人」は「狭手彦が高麗国にいた時に、現地で娶った夫人」となり、意味は通る。 「大伴狛夫人」は個人名ではなく「百済媛新羅媛」にかかる。もし個人名なら「夫人」の直後に戒名があるはずなのに、ないからである。 つまり、狛夫人は二人いて、それぞれの名が百済媛・新羅媛の名であった。
 〈以下2021.2.27加筆〉ところが、〈欽明二十三年〉にはこんな出来事があった。すなわちその年、狭手彦は百済と連合して高句麗を打ち破り、 戦利品として得た美女二人を、本国の蘇我稲目に贈っている。連れてこられた欽明二十三年〔562〕に、 女性の年齢が仮に十五歳だったとすると、崇峻三年〔590〕にはまだ四十三歳で、その年に出家したとしても特に不自然ではない。 ということは、この二人を百済媛・新羅媛とするのが順当であろう。
 つまり「大伴狛夫人」とは、「狛(高麗)国出身の、 大伴が稲目に贈った夫人」の意味である。8年後の〈欽明三十一年〉に蘇我稲目は薨じたが、その後も「夫人」と呼ばれ続けたわけである。
《夫人》
 「夫人」への古訓、イロエイロエビトはこの箇所限定で、通常はオホトジと訓まれる。
 (万)4479の題詞に「藤原夫人歌一首 浄御原宮御宇天皇之夫人也 あざな氷上ひかみの大刀自おほとじ」とある。 この「藤原夫人」は藤原鎌足の娘で、〈天武二年〉に「-人藤原大臣のむすめ 氷上娘ひかみのいらつめ。生但馬皇女」とあり、天武天皇の夫人になる。 題詞の「氷上大刀自」から、「夫人」をオホトジと訓み得ることが知れる。 なお〈時代別上代〉によると、題詞の夫人は「通常ブニンと訓まれている」という。 トジは主婦を意味し、「(万)1022 父公尓 吾者真名子叙 妣刀自尓 吾者愛兒叙 ちちぎみに われはまなごぞ ははとじに われはまなごぞ」を見ると、 父君とともに母堂としてどっしりと家庭を支える語感がある。「オホ-」は美称である。
 ここで、書紀における「夫人」の一般的な使われ方を見る。
《書紀における「夫人」》
※訓みは〈内閣文庫本〉
〈清寧天皇紀〉即位前:雄略妃「吉備稚媛」は、磐城皇子の「夫人キサキ」。
       元年:雄略妃「葛城韓媛」は、 「皇太夫人オホヒキサキ」。
〈仁賢天皇紀〉二年:顕宗天皇の「難波小野皇后」を、原注において「夫人ミメ」と表記。
〈敏達天皇紀〉四年:敏達天皇は、「夫人ミメキサキ」として「老女子夫人オトシ」、「菟名子夫人」を娶る。
〈推古天皇紀〉二十年:欽明天皇が納めた「堅塩妃」を改葬する際、「皇太夫人スヱキサキ堅塩媛」と尊ぶ。
〈舒明天皇紀〉二年:「蘇我嶋大臣ノムスメ法提郎媛」を「夫人ヲトシヲホトシ」にする。
〈斉明天皇紀〉六年:「君大夫人コシキハシカシノ妖女」は百済の王族。
〈天智天皇紀〉七年:「母夫人」は、高句麗の初代仲牟王の母。
〈天武天皇紀〉:「藤原夫人オトシ/オフトシ」、「石川夫人」、「阿倍夫人」。
 「石川夫人」は、「夫人蘇我赤兄大臣のむすめ大蕤娘」にあたると見られる。蘇我氏は石川氏に改姓したからである(雄略二年)。 藤原夫人や石川夫人に倣えば、「阿倍夫人」は、阿倍氏の娘である。ところが天武天皇紀には「夫人阿部○○女○○郎女」がない。 〈天智天皇〉に遡ると、「阿倍倉梯麻呂大臣のむすめ曰橘娘」を娶ったから、この橘姫が「阿倍夫人」だとする説も見る。
 書紀に出てくる「夫人」を、右表に抜き出した。
 天皇の「夫人」は「妃に次ぐ地位」とも言われ、〈天武紀〉では確かに明瞭であるが、それ以外ではあまり違いが見えない。
 〈仁賢紀〉では顕宗の皇后を、原注において夫人と呼ぶ。
 〈推古紀〉の「皇太夫人堅塩媛」は、生前は皇后よりも一段下の妃であったが、改葬にあたって尊び皇太后レベルに上げたものである。
 こうして見ると、〈天武紀〉を除けば夫人を「きさき」、「みめ」と訓読しても特段不都合はない。
 今検討している〈崇峻三年〉を除けば、「夫人」はすべて天皇の夫人、または百済の王妃として確定している。
 天武天皇紀の「藤原夫人」は「藤原家から娶った夫人」意味である。 それに倣えば、「大伴狭手彦が高麗国にいたときに生み、天皇の夫人となった」結果「大伴狛夫人」と呼ばれたのかも知れない。
 しかし、天皇が百済媛・新羅媛を娶ったことを示す記述は、他の個所にはない。 さらに、この考えによれば大伴狛夫人は狭手彦の娘となるわけだが、直前の「大伴狭手彦連女」と大きく異なる表し方を用いるのは不自然である。 よって、大伴狛夫人藤原夫人と同じように、天皇夫人が出身氏族を呼称としたと考えるのは難しい。
《百済由来の古文献》
 そこで〈崇峻紀三年〉の性格を検討すると、古文献をそのまま引き写した部分だと考えられる(上述《百済国遣》)。 その文中に「大伴狛夫人」が含まれている。
 ということは、この部分には前項の「天皇夫人のみを夫人と呼ぶ」、「"氏+夫人"は出身氏族を表す」という縛りは影響を及ぼさない。 よって、直感的な理解「大伴狛夫人=大伴狭手彦の妻」は許容されるだろう。 〈釈紀〉が「夫人」に「タリクヲリクであろう〕」を併記したのも、この部分は現地の古記録をそのまま収録したと考えた故かも知れない。 なお、〈内閣文庫本〉〔『日本書紀』の複数種類の写本のうち、慶長年間のもの〕の「イロエヒト/ヲリク」は、〈釈紀〉を反映していると見られる。
 結局、倭から来た大伴狭手彦が二人の妻を娶った伝承が現地にあり、その中では「大伴狛夫人」と呼ばれたと理解するのが穏当か。 と一度は考えたが、前述のように、狭手彦が稲目に贈り、未亡人となった二人が「大伴狛夫人」だと考えた方がよさそうである。
《イロエ》
 複数の写本が「大伴狛夫人」の古訓を「夫人イロエ」あるいは「夫人イロエヒト」とするから、この訓みがかなり根強いのは確かで、そのまま現代の刊行本に至る。 しかしイロエには「同母の兄(同性の年長者)」以外の意味は見出せず、何とも解釈のしようがない。 この問題に関して、〈釈日本紀〉、『日本古典文学体系』、岩波文庫『古事記』、『仮名日本書紀』〔刊本:大同館書店〕〈時代別上代〉、その他の幾つかの古語辞典に註釈を探したが、いずれも沈黙している。
 第二十一巻(用明・崇峻)の古写本のうち、最古とされるのが 〈書陵部図書寮本〉で、平安末と言われる〔八木書店/「日本書紀の写本一覧と複製出版・Web公開をまとめてみた」による〕イロエはその以前からのもので、諸本はそれを無批判に引き継いだと考えられる。
 そもそも書紀古訓は音便を含むことを見ても多くが平安期後半で、原書の成立からはかなりの時間の隔たりがある。これまでに見たところでは、古訓には上代語を真当に引き継ぐものもあるが、明らかに独自説や誤写が定着したものが混ざっている。 前者の例として、オホトジは万葉集題詞に根拠を見つけられる。 しかし、イロエは他には見えず、語の成り立ちも説明がつかないから後者で、早い時期の誤写であろう。
 無理やり想像すれば、狭手彦の「夫人新羅媛百済媛」には、それを「夫人兄媛弟媛」と表した異伝があり、そのイロエヒメ・イロドヒメが混合して「夫人新羅イロエ媛」と訓が振られ、さらに筆写の際に訓の位置が移動したとするのがひとつの考えである。

目次 【四年】
四年夏四月壬子朔甲子。葬譯語田天皇於磯長陵……〔続き〕


目次 【五年】
五年冬十月癸酉朔丙子。有獻山猪。天皇指猪詔……〔続き〕


まとめ
 〈元興寺縁起〉における豊浦尼寺の比重は大きく、むしろ元興寺の方が添え物のように見える。 それに対して書紀では、〈崇峻紀三年〉の「三尼が桜井寺に住む」、〈欽明紀〉の向原寺、〈推古紀〉の「桜井道場」などに断片的に見えるが、その程度である。
 さらに御食炊屋媛については、〈元興寺縁起〉では重要な役割を果たし、後宮を豊浦寺に提供して以来、天皇に即位するまでそのオーナーであったが、 書紀には即位前の御食炊屋媛が主体となった事跡は殆ど見えない。寺や礼拝所の設置は、もっぱら蘇我の稲目馬子親子が行ったとする。
 書紀は、〈元興寺縁起〉的な資料から、敢て御食炊屋媛の姿を消したか、或いは全く別系統の資料を用いたことが考えられる。 ところが、元興寺創建のために百済から渡来した僧と技術者の名前、そして三尼の受戒に関しては明らかに共通資料を用いている。
 もしも〈元興寺縁起〉が、書紀の後に書紀の内容に粉飾を加えて偽作されたものだとすれば解りやすい。 ところが、天皇号の付け方や人物名や地名の表記不統一を見ると、書紀以前の時代に度々書き加えて作成されたことが伺われ、 このような形を器用に装って書くことなど出来そうにない。
 ひとまずは、書紀は蘇我親子が向原などに仏殿を設置した記録の方を採用し、 御食炊屋媛関与説に対しては、その信憑性を疑ったと整理しておきたい。 あるいは、御食炊屋媛関与を述べた文献そのものを入手していなかったのかも知れない。



[22-01] 推古天皇紀