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2020.09.13(sun) [21-01] 用明天皇1 

目次 【即位前~即位】
橘豐日天皇、天國排開廣庭天皇第四子也。……〔続き〕


目次 【元年正月】
元年春正月壬子朔、立穴穗部間人皇女爲皇后。……〔続き〕


目次 【元年五月】
《穴穗部皇子自强入於殯宮》
〔元年〕夏五月。
穴穗部皇子、欲姧炊屋姬皇后而
自强入於殯宮。
寵臣三輪君逆、乃喚兵衞、
重璅宮門、拒而勿入。
穴穗部皇子問曰「何人在此」。
兵衞答曰「三輪君逆在焉」。
七呼開門、遂不聽入。
欲姦…〈内閣文庫本〔以後〈閣庫〉〕トシテヲカサム
をかす…[他]サ四〈時代別上代-抜粋〉①禁を破る。②侵略する。①は一般的に道に外れた行いをする。特に姦淫する意になることが多い。
…[動] (古訓) たはく。をかす。
寵臣…〈閣庫〉メクムタマウ。 〈仮名日本紀〉寵臣めくみますまちきみ
…[動] (古訓) あはれふ。うつくしふ。
三輪君逆…〈敏達紀〉十四年八月参照。
兵衛…護衛兵。 〈内閣文庫本〉兵衛ツハモノトネリヲ
…[名] ①玉に似た石。②「瑣」〔"鎖"に通用〕の異体字。
 (古訓) くさり。たまのおひたま。つらぬく。ほそし。
くさり…[名] くさり。
…[動] (古訓) きく。ゆるす。うけたまはる。
夏五月(さつき)。
穴穂部皇子(あなほべのみこ)、[欲]炊屋姫(かしきやひめ)の皇后(おほきさき)を姦(たは)けむとして[而]
自(みづから)強(しひて)[於]殯宮(もがりのみや)に入(い)る。
寵臣(うつくしびたまふまへつきみ)三輪君(みわのきみ)の逆(さかへ、さかふ)、乃(すなはち)兵衛(まもりのつはもの)を喚(よ)びて、
宮(みや)の門(かなと)に璅(くさり)を重ねて、拒(ふせ)きて[而]勿入(いれることなし)。
穴穂部皇子(あなほべのみこ)問ひて曰はく「何人(たれ)そ此(ここ)に在るか」といひて、
兵衛答へて曰ひしく「三輪君(みわのきみ)の逆(さかへ、さかふ)在り[焉]」といひき。
七(ななたび)門(と)を開(ひらけ)と呼べど、遂に入(いること)を不聴(ゆるさず)。
於是、穴穗部皇子謂大臣與大連曰
「逆、頻無禮矣。
於殯庭誄曰、
『不荒朝庭、淨如鏡面、
臣治平奉仕。』
卽是無禮。
方今天皇子弟多在、兩大臣侍、
詎得恣情專言奉仕。
又余觀殯內、拒不聽入、
自呼開門七廻、不應。
願欲斬之。」
兩大臣曰「隨命」。
…〈北野本〉サカヘ人名
無礼…〈閣庫〉ナシヰヤウヤナシ
殯庭誄…〈閣庫〉ミヤニ シノヒコトタテマツリテ
…〈閣庫〉キヨメマツルコト
臣治平奉仕…〈閣庫〉ヤツカレヲサメムケ奉-仕ツカマツラムトイフ
子弟多在…〈閣庫〉子弟ミヤカラサハニフタリノ大臣ハムヘリ…[助] ①なんぞ。反問。②いやしくも。(古訓) なんそ。もし。みたりかはし。
詎得…〈閣庫〉ホシキマゝタクメニイフコト奉仕ツカマツラムト 〔誰(た)が恣(ほしきままに)情(こころ)の専(たくめ)に仕へまつらむと言ふことを得(う)か〕。 〈北野本〉詎得恣情
たくめに…[副] ひたすらに。〈時代別上代〉「日本書紀の古訓に特有の語」。
余観…〈閣庫〉アレミントオモヘトモ
不聴入…〈閣庫〉ユルシ-イレ〔ゆるしいれず〕
…〈閣庫〉ヨハヘトモ
七廻…〈北野本〉七-廻ナゝ タヒ
於是(ここに)、穴穂部皇子(あなほべのみこ)大臣(おほまへつきみ)与(と)大連(おほむらじ)とに謂(のたま)ひて曰(のたまひしく)
「逆、頻(しばしば)無礼(ゐやなし)[矣]。
[於]殯(もがり)の庭(には)に誄(しのひこと)たてまつりて曰はく、
『朝庭(みかど)を不荒(あらさざ)りて、鏡(かがみ)の面(おもて)の如く浄(きよ)めて、
臣(やつかれ)治平(をさめやはして)奉仕(つかへたてまつる)。』といふは、
即(すなはち)是(これ)無礼(ゐやなし)。
方(まさに)今天皇(すめらみこと)の子弟(みうがら)多(さはに)在りて、両(ふたりの)大臣(おほまへつきみ)の侍(はべ)るに、
詎(なにそ)、恣(ほしきまにまに)情(こころ)より専(もはら)奉仕(つかへまつらむ)とや言ふことを得(う)。
又(また)余(われ)殯(もがりのみや)の内(うち)を観(み)むとすれど、拒(ふせ)きて入(いること)を不聴(ゆるさざ)りて、
自(みづから)門(と)を開(あ)けよと呼ばふこと七廻(ななたび)、不応(こたへず)。
願(ねがはく)は之(こ)を斬らむと欲(おも)ふ。」とのたまひき。
両(ふたりの)大臣曰(まをししく)「命(おほせごと)の隨(まにまに)」とまをしき。
於是、穴穗部皇子陰謀王天下之事而
口詐在於殺逆君、
遂與物部守屋大連率兵、
圍繞磐余池邊。
逆君、知之、隱於三諸之岳。
是日夜半、潛自山出隱於後宮。
【謂炊屋姬皇后之別業。
是名海石榴市宮也。】
陰謀…〈閣庫〉ヒソカニキミタラム
かげ…[名] 〈時代別上代-要約〉①光。②姿。③投影。④背後に伸びる影。⑤ものかげ。この意に用いる例がもっとも多い。
口詐在於殺逆君…〈閣庫〉イツハリテ在於ムト云コトヲ〔逆の君を〔ころさ〕むと云ふことを〕
…[動] めぐる。
夜半…〈北野本〉夜-半ヨナカニ
後宮…〈閣庫〉キサキノ〔きさきのみやに〕
別業…〈閣庫〉別業ナリトコロ
於是(ここに)、穴穂部皇子、王(きみ)となりて天下(あめのした)之(の)事をつかさどらむと陰(かげ)に謀(はか)りて[而]
口(くち)の詐(いつはれること)[於]逆君を殺すところに在りて、
遂(つひ)に物部守屋大連(もののべのむろやのおほむらじ)と与(ともに)兵(つはもの)を率(ゐ)て、
磐余池(いはれいけ)の辺(へ)を囲(かく)み繞(めぐ)らしき。
逆君之(こ)を知りて、[於]三諸之岳(みもろのやま)に隠る。
是の日の夜半(よは)、潜(ひそかに)山自(より)出(い)でて[於]後宮(きさきのみや)に隠れり。
【謂(いはく)炊屋媛皇后(かしきやひめのおほきさき)之(の)別業(なりところ)をいふ。
是(これ)海石榴市宮(つばきちのみや)と名(なづ)く[也]。】
逆之同姓、白堤與横山、言逆君在處。
穴穗部皇子卽遣守屋大連
【或本云、
穴穗部皇子與泊瀬部皇子、
相計而遣守屋大連】
曰「汝、應往討逆君幷其二子。」
大連遂率兵去。
同姓〈閣庫〉同-姓ウカラ。 カバネは氏族の格を表す称号を意味するから、〈内閣文庫本〉はウガラと訓んだと見られる。 しかし、中国語の姓〔氏族名〕の訳語してカバネを用い、「おなじきかばね」と訓むことも可能と思われる。
在処…〈閣庫〉白-堤シラツゝミ横-山ヨコヤマツケマウス逆君在處アリトコロヲ
逆之(の)同姓(うがら)、白堤(しらつつみ)与(と)横山(よこやま)と、逆君の在処(あるところ)を言ひき。
穴穂部皇子即(すなはち)守屋(もりや)の大連(おほむらじ)を遣はして
【或る本(もとつふみ)に云ふ、
穴穂部皇子与(と)泊瀬部(はつせべ)の皇子と、
相計りて[而]守屋大連を遣はしき。】
曰(いはく)「汝(いまし)、往きて逆君并(ならびに)其の二子(ふたりのこ)を討つ応(べ)し。」といひて、
大連(おほむらじ)遂(つひ)に兵(つはもの)を率(ゐ)て去(い)ぬ。
蘇我馬子宿禰、外聞斯計、
詣皇子所、卽逢門底
【謂皇子家門也。】
將之大連所、時諫曰
「王者、不近刑人。不可自往。」
皇子不聽而行。
馬子宿禰卽便隨去、到於磐余
【行至於池邊】而切諫之。
皇子乃從諫止、仍於此處踞坐胡床、
待大連焉。
〈閣庫〉まうてしかは皇子ミモトニ
門底…〈閣庫〉門底カトモトニ。漢語、和語ともに一般的な語ではないが、〈敏達紀〉十二年でも「門」の意味で出てくる。
…[名] (古訓) そこ。もと。
…〈閣庫〉アサメテ
あさむ…[他]マ下二 〈時代別上代〉いさめる。イサムに同じ。
…[動] (古訓) ちかし。ちかつく。つく。
刑人…刑罰を受けた人。
切諫…〈閣庫〉切諫タシカニイサム
…[副] (古訓) たしかに。
ひたすら…[副] ひたすら。
従諫止…〈閣庫〉イサメコトニヤミヌ
踞坐胡床…〈閣庫〉踞-坐シリカタケニ〔シリウタケテ〕胡-床アタラヒ〔アグラニ〕
しりうたく…[自]カ下二 踵に尻をのせてすわる。
蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)、外(ほか)にありて斯(その)計(はかりこと)を聞きて、
皇子(みこ)の所(みもと)に詣(まゐで)て、即(すなはち)門(かど)の底(もと)に逢ひて
【皇子の家(いへ)の門(と)を謂ふ[也]。】、
将(まさに)大連(おほむらじ)の所(ところ)に之(ゆ)かむとせし時、諫(いさ)めまつりて曰(まをさく)
「王(きみ)者(は)、刑人(つみひと)に不近(ちかづかず)。自(みづから)往不可(ゆきたまはじ)。」とまをせど、
皇子不聴(きかずあ)りて[而]行(ゆ)けり。
馬子宿祢即便(すなはち)隨(したが)ひ去(ゆ)きて、[於]磐余(いはれ)に到り
【て行きて[於]池の辺(へ)に至り】て[而]、切(ひたすら)之を諫(いさ)めまつりき。
皇子乃(すなはち)諫(いさめ)に従(よ)りて止(とど)まりて、仍(すなはち)[於]此処(ここに)胡床(あぐら)に踞坐(しりうた)けて、
大連(おほむらじ)を待てり[焉]。
大連、良久而至、率衆報命曰、
「斬逆等訖。」
【或本云、
穴穗部皇子、自行射殺。】
於是、馬子宿禰惻然頽歎曰、
「天下之亂不久矣。」
大連聞而答曰、
「汝小臣之所不識也。」
【此三輪君逆者、
譯語田天皇之所寵愛、
悉委內外之事焉。
由是炊屋姬皇后與馬子宿禰、
倶發恨於穴穗部皇子。】
是年也、太歲丙午。
良久…〈汉典〉①[quite a while] ②很久、
 甚久 [for a long time;for some time]。

 〈閣庫〉良久やゝヒサシクシテ
ややひさに…[副] かなりの長時間のあいだ。
率衆報命…〈閣庫〉イクサヲ 報-命カヘリコトマウシテ
惻然頽歎…〈閣庫〉惻-然イタミ頽-歎ナケヒテ
…[動] (古訓) いたむ。たしなむ。
頽歎…〈汉典〉悲愁歎息。
丙午…〈北野本〉丙-ムマ
大連(おほむらじ)、良久(ややひさにありて)[而]至りて、衆(いくさ)を率(ゐ)て報命(かへりことまをし)て曰(まをししく)、
「逆等を斬りて訖(を)へまつりき。」とまをしき。
【或る本(もとつふみ)に云ふ。
穴穂部皇子、自(みづから)行きて射(い)殺しき。】
於是(ここに)、馬子宿祢惻然(いたみ)頽歎(なげき)て曰はく、
「天下(あめのした)之(の)乱れ不久(ひさしくあらじ)[矣]。」といひて、
大連聞[而]答へ曰(いひしく)、
「汝(いまし)小臣(ちひさきおみ)之(が)不識(しらざる)所(ところ)也(なり)。」といひき。
【此の三輪君逆者(は)、譯語田天皇(をさたのすめらみこと)之(の)所寵愛(うつくしみをたまはりて)、
内外(うちとほかと)之(の)事を悉(ことごとく)委(ゆだ)ねたまひき[焉]。
是の由(ゆゑ)に炊屋媛皇后(かしきやひめのおほきさき)与(と)馬子宿祢(うまこのすくね)と、
倶(とも)に[於]穴穂部皇子(あなほべのみこ)に恨(うらみ)発(おこ)りき。】
是の年は[也]、太歳(たいさい、おほとし)丙午(ひのえうま)なり。
《囲繞磐余池辺》
 用明天皇は磐余に宮を置き、池辺双槻宮と呼ばれた。池辺双槻宮に隣接して、諸臣の邸宅が並んでいるという配置が想定し得る。 その中に三輪逆邸もあったのであろう。
《三諸之岳》
物部弓削守屋大連の攻撃と三輪逆の逃避の関係地名。
 三輪氏(また、大三輪氏)は大神神社を氏神として、三輪山〔三諸之岳〕から流れ出る三輪川の周辺で生活していたと考えられる。 逆の本家もそこにあり、勝手知ったる三輪山の山中に身を潜めたと読み取ることができる。
 三輪氏については、先祖の大田田根子について第111回、 居住地の三輪川について第201回で論じた。
《詎得恣情専言奉仕》
 「奉仕」は誄の言葉「朝庭鏡面臣治平奉」を要約して、 「」の目的語としたものである。
 は基本的に名詞で動詞化することはないが、副詞用法はある。古訓〈類聚名義抄-観智院〉にある「マコト」は副詞で、「心から」の意味である。 は基本的に動詞〔=ほしいままにする〕だが、容易に副詞化する。
 すなわち、ここでは〔ほしいままに〕〔心底から〕〔もっぱら〕が三重の副詞として「奉仕」を連体修飾する。 そしてその文字列「恣情専言奉仕」全体が名詞化して「」の目的語になる。
 「」は、〈内閣文庫本〉では「」であるが、詎得〔どうして~できるのか〕誰得〔だれが~できるか〕もニュアンスは殆ど変わらない。
《海石榴市》
 海柘榴市(つばきち)は〈武烈紀〉では歌垣の舞台であった。この地は万葉集にも訓まれる (〈武烈〉即位前資料[34])。
 原注が炊屋媛皇后の後宮を海柘榴市宮と言うのは、その存在を示す資料があったと考えられる。
 一方、『元興寺縁起并流記資材帳』では、炊屋媛皇后の後宮は桜井にあったとされる。桜井宮は、後に豊浦寺を建立したところである。
《馬子宿祢》
 〈用明紀〉の始めのところで、蘇我馬子宿祢は「大臣」であると述べる。 元年五月条の前半では「大臣」、また大連と合わせて「両大臣」と表すが、 終わりの方では、単に「馬子宿祢」になってる。
 大連(物部弓削守屋大連)に「汝小臣之所不識也。」と言われるが、 その意味は「そんなことは微臣〔小者〕が言うことだ」ではなく、「お前はまだ若いから」の意味かも知れない。 だとすれば、肩書こそ「大臣」だが、単に「馬子宿祢」と書かれるのは、まだ少年のイメージが強かったためではないだろうか。
 原注は馬子宿祢に穴穂部皇子への恨みが湧いたと言い、それなら何故最初に三輪逆を成敗することに同意したのかが疑問であったが、 若年たる故に反対できなかったと見れば、理解できないこともない。
《大意》
 〔元年〕五月、 穴穂部皇子(あなほべのみこ)は、炊屋姫(かしきやひめ)皇后(おおきさき)と姦淫しようとして、 自ら強引に殯宮(もがりのみや)に入りました。
 寵臣、三輪君(みわのきみ)逆(さかう)は直ちに衛兵を喚び、 宮門に鎖を重ねて入れないように防ぎました。
 穴穂部皇子(あなほべのみこ)「誰がここにいるのか」と尋ね、 衛兵は「三輪君の逆がおります。」と応えました。 七度門を開けと呼びましたが、遂に入ることを許しませんでした。
 そこで、穴穂部皇子は大臣(おおまえつきみ)〔蘇我馬子〕と大連(おおむらじ)〔物部弓削守屋〕に 「逆には、数々の無礼がある。 殯(もがり)の庭で誄(しのびごと)して、 『朝庭を荒らさず、鏡面の如く浄めて、臣は平治して奉仕いたします。』と言ったこと、 これこそ無礼である。 まさに今、天皇(すめらみこと)の子弟は多数あり、両大臣(おおまえつきみ)が侍(はべ)るのに、 どうして恣(ほしいまま)に、思い通りに専らお仕えしますなどと言うことができようか。 また、余が殯宮の中を見ようとしたが、防いで入るのを許さず、 自ら門を開けよと呼ぶこと七度、それでも応えなかった。 願わくば、こやつを斬ろうと思う。」と言われ、 両大臣〔物部守屋大連と蘇我馬子大臣〕は「命(めい)に従います」と申し上げました。
 このとき穴穂部皇子は、天下(あめのした)の事をつかさどる王になろうと陰謀をめぐらし、 口にした詐(いつわり)の意図は逆君を殺すことにありました。
 そして遂に物部守屋大連と共に兵を率いて、 磐余池(いわれいけ)の周辺を包囲しました。
 逆君はこれを知り、三諸岳(みもろだけ)〔三輪山〕に隠れました。 この日の夜半、身を潜めて山から出て、後宮(こうきゅう)に隠れました。
【炊屋媛皇后(かしきやひめのおおきさき)の別邸を言う。 その名を、海石榴市宮(つばきちのみや)という。】
 逆君と同族の白堤(しらつつみ)と横山(よこやま)は、逆君の居所を言いました。 穴穂部皇子は、そこで守屋(もりや)の大連(おほむらじ)を遣わして 【或る資料では、 穴穂部皇子と泊瀬部(はつせべ)の皇子が、 相計って守屋大連を遣わしたという。】 「お前が行って逆君とその二子を討つべし。」と言い、 大連(おおむらじ)〔物部守屋〕は遂に兵を率いて行きました。
 蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)は、外でその謀を聞き、 穴穂部皇子の所に向かったところ、門のところで逢い 、 まさに大連の所に行こうとするところを諫めて 「王たる者は、罪人には近づかないものです。ご自分で行ってはなりません。」と申し上げましたが、 皇子は聴かずに行ってしまいました。 馬子宿祢は追いすがって行き、磐余(いわれ)に到ったところで 【池の畔までいたり】、切にお諫めしました。
 皇子はそこで諫を聞きいれて足を止め、その場所で胡床(あぐら)に据わって、 大連の帰りを待ちました。
 長い時が過ぎ、大連は軍勢を率いて戻り、 「逆等を斬り、ことを終えました。」と復命しました。 【ある資料には、 穴穂部皇子が自ら行って射殺したとある。】
 そのとき、馬子宿祢は惻然として〔=心を痛めて〕嘆き、 「天下の乱れが、久しからず起こるだろう。」と言いました。
 大連はそれを聞いて、 「お前のような小臣には、識(わ)からないことだ。」と言いました。 【この三輪君逆は、譯語田天皇(おさだのすめらみこと)〔敏達天皇〕の寵愛を受け、 内外の事を悉く委ねられていた。 それ故、炊屋媛(かしきやひめ)皇后〔後の推古天皇〕と馬子宿祢は、 共に穴穂部皇子に恨みを抱いた。】
 この年は、太歳丙午(ひのえうま)〔586〕でした。


まとめ
 敏達天皇の未亡人である炊屋媛と性的な関係を持とうとして殯宮への侵入を試みたとの記述は、衝撃的である。 これが当時の噂なのか、書紀による潤色なのかは分からないが、穴穂部皇子を殊更に貶めるための一文であろう。 動機が何であれ、敏達天皇の寵臣であった三輪逆に殯宮を守る義務感は強く、理由のない来訪についてはたとえ穴穂部皇子であっても門前払いするのである。
 穴穂部皇子は、三輪逆が天下の王を狙っていることを以って成敗の理由とするが、これは穴穂部皇子自身の野望を相手に投影したものであろう。 物部守屋大連は用明天皇に仕える身でありながら、その勅に拠らず穴穂部皇子の私兵として行動しているのは、叛逆への加担の始めであろう。
 馬子宿祢は、三輪逆の誅殺は天下の乱の始まりであると直感した。 実際に〈用明〉二年五月になると、物部守屋は穴穂部皇子を皇位につけるために決起する。
 守屋は馬子宿祢に対して、「お前のような小臣には識からないことだ」と言ったのは、 まさにその天下の乱を起こそうとしているのは自分だが、それがどうしたと言って開き直っているのである。



2020.09.27(sun) [21-02] 用明天皇2 

目次 【二年四月二日】
《天皇得病還入於宮》
二年夏四月乙巳朔丙午。
御新嘗於磐余河上。
是日、天皇得病還入於宮、
群臣侍焉。
天皇詔群臣曰
「朕思欲歸三寶、卿等議之。」
群臣入朝而議。
御新嘗…〈内閣文庫本〔以下〈閣庫〉〕御-新ミハナヒキマシマス。 〈北野本〉新嘗ニイヘノ
得病…〈閣庫〉得病ヲホムミコゝチソコナヒタマヒテ/オホムコゝチナヤム〔御心地損ひ賜ひて/御心地悩む〕
還入…〈閣庫〉還-入カヘリヲハシマス
ここち…[名] (平安以後の語)心地。
…[動] (古訓) かへる。つく。
欲帰…〈閣庫〉ムトヨラ
卿等…〈閣庫〉卿_等イマシタチ。 〈北野本〉思-欲ヨリマツラムト三-寶サムホウニ卿-等イマシタチ
入朝…〈北野本〉マイリテミカトニ。 〈閣庫〉入-マイヰテ
二年夏四月(うづき)乙巳(きのとみ)を朔(つきたち)として丙午(ひのえうま)〔二日〕
[於]磐余河(いはれがは)の上(へ)に新嘗(にひなへ)を御(をさ)めたまふ。
是日(このひ)、天皇(すめらみこと)病(みやまひ)を得たまひて、[於]宮に還入(かへりましまし)て、
群臣(まへつきみたち)侍(はべ)りき[焉]。
天皇群臣(まへつきみたち)に詔(みことのり)曰(のりたまはく)
「朕(われ)三宝(さむはう)に帰(よ)らむと思欲(おもほす)。卿(きみ)等(たち)之(こ)を議(はか)れ。」とのりたまひて、
群臣入朝(みかどにまゐ)りて[而]議(はか)りまつる。
物部守屋大連與中臣勝海連、
違詔議曰
「何背國神、敬他神也。
由來不識若斯事矣。」
蘇我馬子宿禰大臣曰
「可隨詔而奉助、詎生異計。」
於是、皇弟皇子
【皇弟皇子者、穴穗部皇子、
卽天皇庶弟】
引豐國法師【闕名也】入於內裏。
物部守屋大連、耶睨大怒。
物部守屋大連(もののべのもりやのおほむらじ)与(と)中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)との、
詔(みことのり)を違(たが)へて議(はか)りて曰(まをさく)
「何(なにそ)国神(くにのかみ)に背(そむ)きて、他神(あたしかみ)を敬(ゐやまふ)や[也]。
由来(もとより)若斯(かくのごとき)事を不識(しらず)[矣]。」とまをして、
蘇我馬子宿祢大臣(そがのうまこすくねのおほまへつきみ)曰(まをししく)
「詔(おほせこと)が隨(まにま)にして[而]奉助(たすけまつ)る可(べ)くありて、詎(なにそ)異(けなる)計(はかりこと)をや生(な)すか。」とまをしき。
於是(ここに)、皇弟皇子(すめおとみこ)
【皇弟皇子者(は)、穴穂部皇子、
即(すなはち)天皇(すめらみこと)の庶弟(ままおと)なり。】、
豊国法師(とよくにのほふし)【名を闕(か)く[也]】を[於]内裏に引き入れて、
物部守屋大連、耶〔邪〕(よこさまに)睨(にらみて)大(おほきに)怒(いか)れり。
中臣勝海連…〈北野本〉中臣勝海カツミノ
国神…〈閣庫〉クニツ-神。 クニツカミ(地祇)はアマツカミ(天神)と対の語。ここでは倭の神祇の総称だからクニノカミもしくはヤマトノカミと訓むべきであろう。
…〈閣庫〉ヰヤサムヰヤマハムヤ
由来…〈閣庫〉・〈北野本〉由来モトヨリ
大臣…〈北野本〉宿祢大-臣オホマウチキミ
奉助…〈閣庫〉マツ ヰタスケ。 〈北野本〉奉-助タスケマツラム
…[動] (古訓) うむ。なす。
生異…〈閣庫〉生-異ケナル。 〈北野本〉異計ケナルコトヲ
皇弟…〈閣庫〉_弟ムメイロトノ〔スメイロトか〕
…[連体詞] 庶子は正妻以外の子。
まま-…[接頭] 実の親子や兄弟関係でないこと。腹違いの場合など。用明天皇の母は堅塩姫、穴穂部皇子の母は小姉君 (〈欽明〉二年三月)。
庶弟…〈閣庫〉天皇庶_弟ハラカラナリ。ハラカラ(同胞)は同腹の子。
皇弟皇子者…〈閣庫〉皇弟皇子ト云ハ
豊国法師…〈閣庫〉豊国法師トヨクニノホウシ
内裏…〈閣庫〉内-裏オホウチニ。 〈北野本〉…内-裏モゝシキニ
耶睨…〈閣庫〉耶-睨ニラムテ。 〈北野本〉ニラムテ-怒
…[副]〈文末〉疑問の語気詞。[名] 父。
邪睨…〈汉典〉斜視。
是時、押坂部史毛屎、
急來、密語大連曰
「今、群臣圖卿、復將斷路。」
大連聞之卽退於阿都
【阿都大連之別業所在地名也】
集聚人焉。
中臣勝海連、於家集衆隨助大連。
遂作太子彥人皇子像與竹田皇子像、厭之。
俄而知事難濟、
歸附彥人皇子於水派宮。
【水派、此云美麻多。】
舍人迹見赤檮、伺勝海連自彥人皇子所退、
拔刀而殺。
【迹見姓也。赤檮名也。
赤檮、此云伊知毗。】
是時、押坂部史(おしさかべのふみひと)毛屎(けくそ)、
急(いすす)き来たりて、密(ひそかに)大連(おほむらじ)に語りて曰(まを)ししく
「今、群臣(まへつきみたち)、卿(きみ)〔=あなた〕を図(はか)りて、復(かへ)るに将(まさに)路(みち)を断(た)たむとす。」とまをしき。
大連之(こ)を聞きて即(すなはち)[於]阿都(あと)に退(しりぞ)きて
【阿都、大連之(の)別業所(なりところ)の在りし地名(ところのな)也(なり)】
聚(おほき)人(ひと)を集(あつ)めり[焉]。
中臣勝海連、[於]家(いへ)にありて衆(つはもの)を集めて大連に隨(したが)ひ助く。
遂(つひに)太子(ひつぎのみこ)彦人皇子(ひこひとのみこ)の像(かた)与(と)竹田皇子(たけたのみこ)の像(かた)とを作りて、之(こ)を厭(いと)へり。
俄(にはか)にありて[而]事(こと)済(さだまること)難(かたき)と知りて、
彦人皇子に水派宮(みまたのみや)に於(お)きて帰(かへ)り附(つ)けり。
【水派、此(こ)を美麻多(みまた)と云ふ。】
舎人(とねり)迹見(とみ)の赤檮(いちひ)、勝海連の彦人皇子の所(みもと)自(よ)り退(しりぞける)を伺(うかが)ひて、
刀(たち)を抜きて[而]殺しつ。
【迹見は姓(かばね)也(なり)。赤檮は名(な)也(なり)。
赤檮、此を伊知毗と云ふ。】
いすすく…[自]カ四 驚きあわてる。「うすく」とも。
押坂部史…〈北野本〉押坂ヘノフムヒト
毛屎…〈甲本〉毛屎ケクソ
急来…〈閣庫〉ケクソ毛屎アハテ
…〈閣庫〉圖卿ハカル ウシヲ復将タテキム
うし…[名] 主。また二人称代名詞に用いる。
阿都…〈閣庫〉阿都アト。 〈釈紀-秘訓〉阿都アトハ大連之ヲホムラシノ別業所在地ナリトコロノ五字引合ナリトコロ名也ナゝリ
別業所在地…〈北野本〉別-業ナリトコロハヘル-名也
集聚人…〈閣庫〉アツム聚人
於家集衆…〈閣庫〉ヲノカイエニイクサ
隨助…〈閣庫〉_助大連
…〈北野本〉カタチ。 〈閣庫〉ミカタ
…[動] いとう。(古訓) うみたり。いとふ。きらふ。 〈北野本〉トコツテ。 〈閣庫〉マシナフトコツテ
とこふ…[他]ハ四 呪詛する。
まじなふ…[他]ハ四 呪詛する。厄除けする。
…[動] (古訓) わたす。すくふ。さたまる。
…〈北野本〉迹-見カハネ
…〈閣庫〉附彦人皇子〔かへりて彦人皇子に附く〕
迹見赤檮…〈閣庫〉迹見トミノ赤-檮イチヒ赤檮セキタウ此云伊知毗。 〈北野本〉赤檮イチイ
いちひ…[名] いちいがし。ブナ科の常緑高木。
…〈閣庫〉ミモト
みもと…[名] 御前。
大連、從阿都家、
使物部八坂、
大市造小坂、
漆部造兄、
謂馬子大臣曰
「吾聞群臣謀我。々故退焉。」
馬子大臣、
乃使土師八嶋連於大伴毗羅夫連所、
具述大連之語。
由是、毗羅夫連、手執弓箭皮楯、
就槻曲家、
不離晝夜守護大臣。
【槻曲家者、大臣家也。】
漆部…〈閣庫〉漆部ヌリヘノ/ウルシヘアニヲ。 〈時代別上代〉「漆部はまたヌリベともい」う。 〈釈紀-秘訓〉物部八坂モノゝベノヤサカ大市ヲホイチノ/オホチノ ミヤツコ小坂ヲサカ漆部ヌリヘノミヤツコアニ
退…〈北野本〉故_退シリソク
土師八嶋連…〈釈紀-秘訓〉土師八嶋連ハシノヤシマノムラシ
…[名] (古訓) かは。〈北野本〉皮-楯
皮楯…〈閣庫〉皮楯カハタテヲ
槻曲…〈閣庫〉槻曲家ツキクマノイヘニ
昼夜…〈時代別上代〉「不昼夜」(用明紀二年)などの「昼夜」もヨルヒルと訓むべきか。
大連(おほむらじ)、阿都(あと)の家(いへ)従(よ)り、
[使]物部八坂(もののべのやさか)、
大市造小坂(おほいちのみやつこのをさか)、
漆部(うるしべ、ぬりべ)の造(みやつこ)兄(あに)をして、
馬子大臣に謂(まをさ)しめて曰(い)はく
「吾(われ)、群臣(まへつきみたち)我(われ)に謀(はかりこと)ありと聞く。我その故(ゆゑ)に退(しりぞ)きき[焉]。」とまをさしむ。
馬子大臣(うまこのおほまへつきみ)、
乃(すなはち)土師八嶋連(はにしのやしまのむらじ)を[於]大伴毗羅夫連(おほとものひらふのむらじ)の所(ところ)に使(つか)はして、
具(つぶさに)大連(おほむらじ)之(の)語(こと)を述べしめき。
是(こ)に由(よ)りて、毗羅夫連、手に弓箭(ゆみや)皮楯(かはたて)を執(と)りて、
槻曲(つきくま)の家(いへ)に就(つ)きて、 昼夜(よるひる)不離(はなれざ)りて大臣を守護(まも)りぬ。
【槻曲の家者(は)、大臣の家也(なり)。】
天皇之瘡轉盛、將欲終
時鞍部多須奈【司馬達等子也】
進而奏曰
「臣、奉爲天皇、出家修道。
又奉造丈六佛像及寺。」
天皇爲之悲慟。
今南淵坂田寺木丈六佛像挾侍菩薩、
是也。
天皇(すめらみこと)之(の)瘡(みかさ)転(うたた)盛(さか)りて、将(まさに)[欲]終(を)へむとす。
時に鞍部(くらつくりべ)多須奈(たすな)【司馬達等(しばたつと)の子也(なり)】、
進(たてまつ)りて[而]奏(まを)して曰ひしく
「臣(やつかれ)、天皇の奉為(おほみため)に、出家(いへで)修道(しうだう)しまつる。
又(また)丈六(ぢやうろく)の仏像(ほこけのみかた)及(と)寺とを奉造(つくりまつる)。」とまをしき。
天皇、之(かく)為(な)さしめたことに、悲慟(いとかなしび)たまひき。
今の南淵坂田寺(みなふちのさかたてら)の木(き)の丈六(ぢやうろく)の仏像(ほとけのみかた)挟侍(けふじの、はさみはべる)菩薩(ぼさつ)、
是(これ)也(なり)。
…[名] できもの。(古訓) かさ。きす。
かさ…[名] できもの。
瘡転盛…〈北野本〉ミヤマヒウタゝ_盛。 〈閣庫〉ミヤマヒ轉盛イヨ/\サカナリ。 天皇の病状を具体的にいうことを憚って「御病みやまひ」と表現したと思われる。
うたた…[副] ますます。
…〈閣庫〉ウセタマヒナント〔まさに失せ賜ひなんとす〕
鞍部…〈閣庫〉鞍部クラツクリヘノ多須奈。 〈北野本〉鞍-部クラヘ
司馬達等… 〈北野本〉司馬達ホカ。 〈閣庫〉司馬達トカ〔司馬達等(しばたつと)が〕。 〈閣庫-敏達紀十三年〉「鞍_部クラツクリノ村_主スクリタツ 池邊直氷田
奉為…〈北野本〉-為天皇。 〈閣庫〉奉為ヲホタメ天皇〔天皇のオホ〔ム〕タメ〕
出家…〈閣庫〉出-家イヘテシヲコナハム-道〔みちをおこなはむ〕
いへで…[名] 仏教における出家。また出家した人。
為之…〈閣庫〉タメニ。 〈北野本〉セヨ悲慟カナシイマノ南-淵ナムフチ坂-田サカタノ
悲慟…〈汉典〉非常悲哀。「慟」はひどく悲しむ。 〈閣庫〉_マトヒタマフ。 〈北野本〉悲慟カナシ
南淵…〈閣庫〉南淵ミナフチノ。 〈釈紀-秘訓〉南淵坂田寺木丈六佛像ミナフチノサカタテラノキノヂヤウロクノホトケミカタ挾侍サシ菩薩也ボサツナリ
挟侍…仏像の左右のわきだち。名詞「わきだち」が上代に及ぶかどうかは微妙。
《磐余川》
 二年四月に、「磐余河上」で新嘗を催したとある。 この磐余川とは、どの川であろうか。
 論文「磐余の諸宮とその時代」古都飛鳥保存財団『飛鳥風』第123号;和田萃〕の中で、氏は「天武七年の春にも斎宮を倉梯の河上に建て」たことを挙げ、 「磐余川と倉梯川は同じであり、現在の寺川を指す」、「磐余の諸宮の時代から天武朝に至るまで、寺川の上流域で新嘗などの祭祀が継続して実修されていた可能性が」あると述べる。
 寺川の源流は多武峯で、倉橋の伝崇峻天皇陵の畔から上之宮遺跡、耳成山、唐子・鍵遺跡西を通り川西町で大和川に合流する。 用明天皇の石寸いはれ掖上陵の位置が、阿部だったとすれば(第246回)、 上之宮遺跡近くの寺川まで磐余地域と言ってもよいであろう。
《豊国法師》
欽明天皇と敏達天皇のすべての皇子(クリックで拡大)
 豊国法師を内裏に引き入れた「皇弟皇子」を、原注は穴穂部皇子だと判断している。
 しかし、部守屋大連は穴穂部皇子を天皇に擁立することを目指していた(〈崇峻紀-即位前〉)。 それなのに、仏教導入派の意向に沿って豊国法師を引き入れたとすれば、物部守屋を裏切る行動である。
 ときに蘇我馬子の意向に沿った動きをするということは、 必ずしも最初から大伴守屋べったりではなかったことになる。
 そもそも用明天皇の弟は9人いるのに、原注はそこからなぜ穴穂部皇子に絞ったのだろうか。 ひとつの考え方としては、「皇-〔すめら-〕がつくのは、有力な皇子に限られるということなのかも知れない。
 ここで〈崇峻-即位前紀〉において、反大伴室屋勢力の皇子の名前を見ると、泊瀬部皇子竹田皇子難波皇子春日皇子(敏達天皇の皇子)、そして廐戸皇子(すなわち聖徳太子、用明天皇の皇子)がいる。 とりあえず、次期天皇候補者としてこの五名プラス穴穂部皇子に絞ってみよう。 この六名のうち、用明天皇の弟は泊瀬部皇子(崇峻天皇)と穴穂部皇子だけだから、「皇弟」はなんとかこの二人まで絞り込めよう。 それでは、この二人からどうやって穴穂部皇子に決めたのだろうか。
 一つ考えられるのは、穴穂部皇子が豊国法師を引き入れたと述べた古文書があったということである。 ただ、それがなくとも泊瀬部皇子は天皇になったから、結果的に皇太子だと言えないことはない。すると、皇太子の肩書をもたない「皇弟」は、穴穂部皇子一人となる。
《阿都》
 河内国に、アトという地名がある。 〈姓氏家系大辞典〉は「阿刀部 アト:或は安斗、阿斗、迹、阿杼等に作る。物部の一派阿刀部、並に其の伴造の後裔なり。」、 「阿刀造:阿刀部の伴造にして本貫河内ならんと考へらる。」と述べる。 各地に進出した阿刀部については、「摂津の阿刀部 阿刀氏の部曲〔かきべ〕也。」の他、美濃伊勢武蔵信濃豊後に見出している。
 また〈倭名類聚抄〉の郷名に{河内国・渋川郡・跡部【阿止倍】}があり、 〈延喜式-神名帳〉に{河内郡/渋川郡/路部神社〔跡部神社〕}がある。比定社は跡部神社(大阪府八尾市亀井町二丁目4-5)。
 原注の「大連の別業は阿都にあった」が説明たり得るのは、阿都が既に広く知られた地名だったからだろう。 また跡部という地名が定着していたからこそ、平安の古訓者も阿都=跡部郡と判断して、〔アではなく〕と訓んだと想像される。 〔平安時代には甲乙の区別は消滅しているが、跡はアト。都もト
 阿都の河内説に繋がる間接的な材料としては、〈崇峻-即位前〉の「大連奴半与宅大寺奴田庄」がある。 これは、蘇我馬子が物部守屋に勝利した後、守屋が所有していた奴婢の半分と田所=別業を戦利品として接収し、四天王寺の奴婢と田庄に当てたと読める。 その「田所」が跡部郷にあったとすれば、四天王寺(摂津国)から比較的近いから都合がよさそうである。 〔ただ、奈良時代には寺領が遠く離れた国にある例は珍しくないから、決定的ではない〕
《太子彦人皇子》
 彦人皇子は敏達天皇の皇子で、舒明天皇の父である。
 記における「日子人太子」は、系図の載せ方において天皇レベルである(第242回)。 実際、敏達天皇在位中に皇太子に指名されていたがらこそ、ここで「太子」と書かれたのであろう。
 しかし、太子を差し置いて用明天皇が即位した経緯については、何も書かれていない。
 また、竹田王(竹田皇子)は、用明天皇と御食炊屋姫の間に生まれた。
 この二人の像を作って呪詛したということは、この二人が次期天皇の候補者で、大伴守屋派にとっては排除の対象だったわけである。
 〈崇峻-即位前〉に、大伴守屋は「元欲余皇子等而立穴穂部皇子二上天皇〔もとより余(あたし)皇子等を去(しりぞ)け穴穂部皇子を立てて、天皇に為(な)さむとす〕とある。 この「余皇子等」に、彦人皇子と竹田皇子も入るのであろう。
《水派宮》
 「水派邑」が、〈武烈二年〉のところで出てきた。 通説では、その候補地として広瀬郡の南端の広陵町大塚(大字)と、同川合(大字)が挙げられている。 この水派邑に、水派宮もあったのであろう。
 押坂彦人大兄皇子の「成相墓」だと言われるのが、真美古墳群の牧野(ばくや)古墳で、 直径60mの大型円墳である。その規模は、用明天皇陵(方墳、東西65m、南北60m)とされる春日向山古墳に匹敵するから、 彦人皇子が「太子」とされることに合致する。〈延喜式-諸陵寮〉に示された広大な兆域(東西十五町〔1.6km〕×南北廿町〔2.2km〕)は、墓の周囲にあった直轄田全体が神聖化されたもののようにも思われる。 この墓と兆域の規模には、実は大王ではなかったかと思わせるものがある。第242回では、 記紀に向けての研究段階において、一時は天皇に認定されたのではないかと述べた。そのように考え得る材料を、さらにひとつ加えるものであろう。
《迹見赤檮》
 赤檮は、中臣勝海連が彦人皇子の家から出てくるタイミングを覗って斬った。これだけを見ると、赤檮は大伴守屋に味方して、中臣勝海連の裏切りを罰したようにも読める。
 しかし〈崇峻即位前〉には、用明二年七月「迹見首赤檮。射-墮大連於枝下而誅大連并其子等〔迹見首赤檮は物部守屋大連に射て枝下に落とし、子供ともども殺した〕とあり、 赤檮はこのときの功績により、田地一万しろを賜った。これを見れば、赤檮が蘇我馬子にくみしたことは明白である。 したがって、赤檮が勝海を斬ったのは、大伴守屋への裏切りを罰するためではない。 赤檮の見方では、中臣勝海連が彦人皇子に擦り寄ったのは日和見に過ぎず、 またいつ大伴守屋の許に戻るか分からない。要するに信用ならない人物と見たのだろう。
《奉為》
 中国語の「奉-」は動詞への接頭語として、相手への尊敬の意を添える。 「(ために)」は前置詞であるが、そもそも前置詞は元来は動詞なので、動詞("ためとす")に戻して、「奉-」をつけることが可能である。
 書紀古訓では「」をあたかも助動詞のように扱い、補助動詞「~まつる」と訓読することが多い 〔「奉待」(待ちまつる)、「奉養」(やしなひまつる)など。 和風漢文では逆転させた「仕奉」、「始奉」などが見られる〕
 「奉為天皇」にこの訓読法を適用すると「すめらみことのためとしまつりて」となるが、普通はこんなややこしい言い回しはしない。 〈内閣文庫本〉の「オホ-タメ」は、実際には「オホム-タメ」であろうが、「奉-」の尊敬の意を添えるという機能に沿ったものと言える。 ただ、「オホミ-」はオホムタカラ〔ムはン〔ミの音便〕か〕やオホミコトなど、 普通名詞には問題なくつくが、形式名詞タメのために果たして使い得るかという問題がある。
 それでも平安時代の訓読者の感覚では、オホムタメに違和感はなかったわけである。
《皮楯》
島庄遺跡:蘇我馬子邸宅推定地。東池尻池之内遺跡:磐余池堤推定地。
春日社古墳出土革盾 富沢遺跡保存館(仙台市青葉区国分町三丁目7-1) 仙台市公式ページ
 「皮楯」については、春日社古墳(円墳。宮城県仙台市太白区大野田字宮。5世紀後半~6世紀初頭)の副葬品に、革盾が見つかっている。 「仙台市公式ページ-春日社古墳出土副葬品」によると、 「革盾は、木枠に革を張り、刺し縫いで文様を表現した盾」で、出土した革盾は 「当時のヤマト政権より各地の首長層に政治的同盟関係の証として配布されたものと考えられ」、 「本体の革や木枠等の構造は失われているものの、塗布された漆と顔料が盾の原形を良好に留めている」という。
 〈延喜式〉に「兵庫寮様造備。楯:丹波国楯縫氏造之。戟:紀伊国忌部氏造之。〔兵庫寮をして、様〔様式〕に依りて造り備へしむ。楯は丹波国楯縫氏造が之を造り、戟〔=矛〕は紀伊国忌部が之を造る〕 とあり、これは大甞宮の門を装飾するために、楯と矛をセットで用いたものである。 この中の「楯縫氏」は盾縫が氏族名となったもの。〈延喜式-神名帳〉には出雲国、但馬国、丹波国、常陸国に{楯縫神社}が見えるから、古墳時代には各地の「盾縫部」が革楯を作っていたと思われる。
《槻曲家》
 ツキと言えば、大伴氏の本貫の築坂邑があった(第237回)。 その全く同じ場所に蘇我馬子の家があったとは考えにくいから、「ツキ」地域だったとしても、築坂邑からいくらかは離れていただろう。
 クマは道の曲がり角、あるいは入り組んで見えにくい所という意味だから、山に分け入った辺りか。檜前(ヒノクマ)にも、そんな地域の雰囲気が感じられる。 すると、槻曲は築坂邑から南東方向のどこかであろうか。
 なお、「島庄」の「」は馬子の邸宅の池に浮かぶ島に由来すると見られる。 〈推古三十四年〉〔642〕には、 「家於飛鳥河之傍、乃庭中開小池、仍興小嶋於池中、故時人曰嶋大臣。」 〔家は飛鳥川の畔にあり、庭に小池を掘り小島を池の中に作ったので、当時の人は嶋大臣と呼んだ〕 とある。これは馬子が薨したときの記事だから、池を掘ったのは推古三十四年よりも以前である。 「槻曲」は池を掘る前の地名だった可能性がある。 その場合はツキは築坂村とは無関係で、槻の木が立っていたのかも知れない。
《南淵坂田寺》
 坂田寺跡
『明日香村 文化財調査研究紀要 第8号』
 明日香村に、坂田寺跡が残る。
 『明日香村文化財調査研究紀要 第8号』〔明日香村教育委員会文化財課;2009〕によると、 「飛鳥時代の伽藍は未確認であるが、7世紀初頭から藤原宮期の瓦が出土する」、 「奈良時代前半に、大規模な造営が行われ、伽藍が整備されていった。」、 「出土遺物は7世紀から平安時代までの土器・瓦が中心である」という。
 また地名「南渕」については、「南淵請安」という人物名が〈推古紀〉に出てくる。 〈推古紀-十六年九月〉に、「於唐国学生…南淵漢人請安…并八人〔唐国(もろこしのくに)に学生…南淵漢人請安(みなぶちのあやひとしやうあむショウアン)…并八人を遣はす〕とある。 同報告によると、その墓が「稲渕龍福寺の上流100mの、〔飛鳥〕川に面した尾根上」にあるという。
《法隆寺金堂薬師如来像光背銘》
 鞍部多須奈の話と同様に、用明天皇の快癒を願って薬師如来像を造った話が、「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」に見える (元興寺伽藍縁起并流記資財帳をそのまま読む[3])。 同光背銘には、病気になったのが丙午年〔586、用明元年〕に造像を発願したが生前には完成せず、 改めて丁卯年〔607、推古十五年〕に造像したとある。
 これを見ると複数の仏像に関わって、用明天皇の恢復を祈って造像された伝承が存在するようである。 「南淵坂田寺木丈六仏像」もその一つか。
《大意》
 二年四月二日、 磐余川の川上で新嘗に御座されました。
 この日、天皇は病を得て宮に帰還され、 群臣がお侍りしました。
 天皇は群臣に、 「朕は三宝に帰依しようと思う。卿(きょう)たち、これを議れ。」と詔され、 群臣は入朝して議りました。
 物部守屋(もののべのもり)の大連(おおむらじ)と中臣勝海(なかとものかつみ)の連(むらじ) は、 「どうして国の神に背いて、他の神を敬うのか。 古来、このようなことは知らない。」と詔と違う意見を申しました。
 蘇我馬子宿祢(そがのうまこすくね)の大臣(おおまえつきみ)は、 「詔の通りお助けするべきなのに、どうして異なる考えが生まれるのか。」と申しました。
 その時、天皇の弟皇子 【天皇の弟皇子は、穴穂部皇子。 すなわち、天皇の異母弟である。】は、 豊国(とよくに)の法師【名は不明】を内裏に引き入れ、 物部守屋大連は横目に睨んで大いに怒りました。
 この時、押坂部史(おしさかべのふひと)毛屎(けくそ)が、 急ぎ来て、密かに大連〔物部守屋〕に 「今、群臣は卿(きょう)〔あなた〕を謀り、帰りの路を断とうとしています。」 大連はこれを聞いて、即座に阿都(あと)に退き、 【阿都は、大連の別邸があったところの地名】 多くの人を集めました。
 中臣勝海連は、自宅で衆を集めて大連に従い助け、 遂には太子(ひつぎのみこ)彦人皇子(ひこひとのみこ)の像と竹田皇子(たけだのみこ)の像を作り、呪いました。 しかし、俄かに事が思うように定まることは困難だと知り、 水派宮(みまたのみや)に於いて彦人皇子に帰順しました。 舎人、迹見(とみ)の赤檮(いちい)は、勝海連が彦人皇子の所から退出するタイミングを見計らって、 太刀を抜いて殺しました。 【迹見は姓で、赤檮は名である。】
 大連は、阿都の家から、 物部八坂(やさか)、 大市造(おおいちのみやつこ)小坂(をさか)、 漆部(うるしべ、ぬりべ)の造(みやつこ)兄(あに)を遣わし、 馬子大臣に 「私は、群臣が私に対して謀略があると聞いた。私はその故に退いた。」と伝えさせました。
 馬子大臣(おおまえつきみ)は、 そのまま土師八嶋(はにしのやしま)連(むらじ)を大伴毗羅夫(ひらふ)連の所に遣わして、 具(つぶさ)に大連の言葉を述べさせました。
 これにより、毗羅夫連は手に弓矢と革楯を取り、 槻曲(つきくま)の家に行き、 昼夜離れず大臣を護りました 【槻曲の家とは、大臣の家のこと】。
 天皇(すめらみこと)の疱瘡(ほうそう)はますます悪化し、これを終わらせたいと思われました。 その時、鞍部(くらつくりべ)多須奈(たすな)【司馬達等(しばたつと)の子】が、 参上して申し上げるに、 「私めは、天皇の御(おん)ために、出家して修道いたします。 また、丈六仏像及び寺をお造りします。」と申し上げました。 天皇は自分のためにこのようにさせたことを、とても悲しまれました。
 現在の南淵(みなふち)坂田寺の、木像の丈六仏と挟侍(わきだち)菩薩がこれです。


目次 【二年四月九日~七月】
癸丑。天皇崩于大殿。……〔続き〕


まとめ
 病に倒れた用明天皇そっちのけで、物部守屋大連と蘇我馬子大臣の対立は先鋭化していく。 仏教導入派と反仏教派による争いであるから、宗教紛争であると同時に、政治的な権力闘争である。
 欽明朝においては、百済が新羅と対抗するために倭を仏教国化して、強固な同盟関係を形成しようとする工作を見た。 この国際的な枠組みは、敏達朝以後も基本的に維持されてきたと考えられる。 ならば、百済新羅対立の情勢下で蘇我氏は百済との関係を深めようとし、物部氏は中立的だったと想像されるが、 実際にどうであったかはもう少し検討を深めてみる必要がある。



 [21-03] 崇峻天皇紀