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2020.09.13(sun) [21-01] 用明天皇1 ▼▲ |
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1目次 【即位前~即位】 橘豐日天皇、天國排開廣庭天皇第四子也。……〔続き〕 2目次 【元年正月】 元年春正月壬子朔、立穴穗部間人皇女爲皇后。……〔続き〕 3目次 【元年五月】 《穴穗部皇子自强入於殯宮》
用明天皇は磐余に宮を置き、池辺双槻宮と呼ばれた。池辺双槻宮に隣接して、諸臣の邸宅が並んでいるという配置が想定し得る。 その中に三輪逆邸もあったのであろう。 《三諸之岳》
三輪氏については、先祖の大田田根子について第111回、 居住地の三輪川について第201回で論じた。 《詎得恣情専言奉仕》 「言二奉仕一」は誄の言葉「不レ荒二朝庭一浄レ如二鏡面一臣治平奉レ仕」を要約して、 「言」の目的語としたものである。 情は基本的に名詞で動詞化することはないが、副詞用法はある。古訓〈類聚名義抄-観智院〉にある「マコト」は副詞で、「心から」の意味である。 恣は基本的に動詞〔=ほしいままにする〕だが、容易に副詞化する。 すなわち、ここでは恣〔ほしいままに〕、情〔心底から〕、専〔もっぱら〕が三重の副詞として「言二奉仕一」を連体修飾する。 そしてその文字列「恣情専言奉仕」全体が名詞化して「得」の目的語になる。 「詎」は、〈内閣文庫本〉では「誰」であるが、詎得〔どうして~できるのか〕も誰得〔だれが~できるか〕もニュアンスは殆ど変わらない。 《海石榴市》 海柘榴市(つばきち)は〈武烈紀〉では歌垣の舞台であった。この地は万葉集にも訓まれる (〈武烈〉即位前、 資料[34])。 原注が炊屋媛皇后の後宮を海柘榴市宮と言うのは、その存在を示す資料があったと考えられる。 一方、『元興寺縁起并流記資材帳』では、炊屋媛皇后の後宮は桜井にあったとされる。桜井宮は、後に豊浦寺を建立したところである。 《馬子宿祢》 〈用明紀〉の始めのところで、蘇我馬子宿祢は「大臣」であると述べる。 元年五月条の前半では「大臣」、また大連と合わせて「両大臣」と表すが、 終わりの方では、単に「馬子宿祢」になってる。 大連(物部弓削守屋大連)に「汝小臣之所不識也。」と言われるが、 その意味は「そんなことは微臣〔小者〕が言うことだ」ではなく、「お前はまだ若いから」の意味かも知れない。 だとすれば、肩書こそ「大臣」だが、単に「馬子宿祢」と書かれるのは、まだ少年のイメージが強かったためではないだろうか。 原注は馬子宿祢に穴穂部皇子への恨みが湧いたと言い、それなら何故最初に三輪逆を成敗することに同意したのかが疑問であったが、 若年たる故に反対できなかったと見れば、理解できないこともない。 《大意》 〔元年〕五月、 穴穂部皇子(あなほべのみこ)は、炊屋姫(かしきやひめ)皇后(おおきさき)と姦淫しようとして、 自ら強引に殯宮(もがりのみや)に入りました。 寵臣、三輪君(みわのきみ)逆(さかう)は直ちに衛兵を喚び、 宮門に鎖を重ねて入れないように防ぎました。 穴穂部皇子(あなほべのみこ)「誰がここにいるのか」と尋ね、 衛兵は「三輪君の逆がおります。」と応えました。 七度門を開けと呼びましたが、遂に入ることを許しませんでした。 そこで、穴穂部皇子は大臣(おおまえつきみ)〔蘇我馬子〕と大連(おおむらじ)〔物部弓削守屋〕に 「逆には、数々の無礼がある。 殯(もがり)の庭で誄(しのびごと)して、 『朝庭を荒らさず、鏡面の如く浄めて、臣は平治して奉仕いたします。』と言ったこと、 これこそ無礼である。 まさに今、天皇(すめらみこと)の子弟は多数あり、両大臣(おおまえつきみ)が侍(はべ)るのに、 どうして恣(ほしいまま)に、思い通りに専らお仕えしますなどと言うことができようか。 また、余が殯宮の中を見ようとしたが、防いで入るのを許さず、 自ら門を開けよと呼ぶこと七度、それでも応えなかった。 願わくば、こやつを斬ろうと思う。」と言われ、 両大臣〔物部守屋大連と蘇我馬子大臣〕は「命(めい)に従います」と申し上げました。 このとき穴穂部皇子は、天下(あめのした)の事をつかさどる王になろうと陰謀をめぐらし、 口にした詐(いつわり)の意図は逆君を殺すことにありました。 そして遂に物部守屋大連と共に兵を率いて、 磐余池(いわれいけ)の周辺を包囲しました。 逆君はこれを知り、三諸岳(みもろだけ)〔三輪山〕に隠れました。 この日の夜半、身を潜めて山から出て、後宮(こうきゅう)に隠れました。 【炊屋媛皇后(かしきやひめのおおきさき)の別邸を言う。 その名を、海石榴市宮(つばきちのみや)という。】 逆君と同族の白堤(しらつつみ)と横山(よこやま)は、逆君の居所を言いました。 穴穂部皇子は、そこで守屋(もりや)の大連(おほむらじ)を遣わして 【或る資料では、 穴穂部皇子と泊瀬部(はつせべ)の皇子が、 相計って守屋大連を遣わしたという。】 「お前が行って逆君とその二子を討つべし。」と言い、 大連(おおむらじ)〔物部守屋〕は遂に兵を率いて行きました。 蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)は、外でその謀を聞き、 穴穂部皇子の所に向かったところ、門のところで逢い 、 まさに大連の所に行こうとするところを諫めて 「王たる者は、罪人には近づかないものです。ご自分で行ってはなりません。」と申し上げましたが、 皇子は聴かずに行ってしまいました。 馬子宿祢は追いすがって行き、磐余(いわれ)に到ったところで 【池の畔までいたり】、切にお諫めしました。 皇子はそこで諫を聞きいれて足を止め、その場所で胡床(あぐら)に据わって、 大連の帰りを待ちました。 長い時が過ぎ、大連は軍勢を率いて戻り、 「逆等を斬り、ことを終えました。」と復命しました。 【ある資料には、 穴穂部皇子が自ら行って射殺したとある。】 そのとき、馬子宿祢は惻然として〔=心を痛めて〕嘆き、 「天下の乱れが、久しからず起こるだろう。」と言いました。 大連はそれを聞いて、 「お前のような小臣には、識(わ)からないことだ。」と言いました。 【この三輪君逆は、譯語田天皇(おさだのすめらみこと)〔敏達天皇〕の寵愛を受け、 内外の事を悉く委ねられていた。 それ故、炊屋媛(かしきやひめ)皇后〔後の推古天皇〕と馬子宿祢は、 共に穴穂部皇子に恨みを抱いた。】 この年は、太歳丙午(ひのえうま)〔586〕でした。 まとめ 敏達天皇の未亡人である炊屋媛と性的な関係を持とうとして殯宮への侵入を試みたとの記述は、衝撃的である。 これが当時の噂なのか、書紀による潤色なのかは分からないが、穴穂部皇子を殊更に貶めるための一文であろう。 動機が何であれ、敏達天皇の寵臣であった三輪逆に殯宮を守る義務感は強く、理由のない来訪についてはたとえ穴穂部皇子であっても門前払いするのである。 穴穂部皇子は、三輪逆が天下の王を狙っていることを以って成敗の理由とするが、これは穴穂部皇子自身の野望を相手に投影したものであろう。 物部守屋大連は用明天皇に仕える身でありながら、その勅に拠らず穴穂部皇子の私兵として行動しているのは、叛逆への加担の始めであろう。 馬子宿祢は、三輪逆の誅殺は天下の乱の始まりであると直感した。 実際に〈用明〉二年五月になると、物部守屋は穴穂部皇子を皇位につけるために決起する。 守屋は馬子宿祢に対して、「お前のような小臣には識からないことだ」と言ったのは、 まさにその天下の乱を起こそうとしているのは自分だが、それがどうしたと言って開き直っているのである。 |
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2020.09.27(sun) [21-02] 用明天皇2 ▼▲ |
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4目次 【二年四月二日】 《天皇得病還入於宮》
二年四月に、「磐余河上」で新嘗を催したとある。 この磐余川とは、どの川であろうか。 論文「磐余の諸宮とその時代」〔古都飛鳥保存財団『飛鳥風』第123号;和田萃〕の中で、氏は「天武七年の春にも斎宮を倉梯の河上に建て」たことを挙げ、 「磐余川と倉梯川は同じであり、現在の寺川を指す」、「磐余の諸宮の時代から天武朝に至るまで、寺川の上流域で新嘗などの祭祀が継続して実修されていた可能性が」あると述べる。 寺川の源流は多武峯で、倉橋の伝崇峻天皇陵の畔から上之宮遺跡、耳成山、唐子・鍵遺跡西を通り川西町で大和川に合流する。 用明天皇の石寸掖上陵の位置が、阿部だったとすれば(第246回)、 上之宮遺跡近くの寺川まで磐余地域と言ってもよいであろう。 《豊国法師》
しかし、部守屋大連は穴穂部皇子を天皇に擁立することを目指していた(〈崇峻紀-即位前〉)。 それなのに、仏教導入派の意向に沿って豊国法師を引き入れたとすれば、物部守屋を裏切る行動である。 ときに蘇我馬子の意向に沿った動きをするということは、 必ずしも最初から大伴守屋べったりではなかったことになる。 そもそも用明天皇の弟は9人いるのに、原注はそこからなぜ穴穂部皇子に絞ったのだろうか。 ひとつの考え方としては、「皇-」〔すめら-〕がつくのは、有力な皇子に限られるということなのかも知れない。 ここで〈崇峻-即位前紀〉において、反大伴室屋勢力の皇子の名前を見ると、泊瀬部皇子、竹田皇子・難波皇子・春日皇子(敏達天皇の皇子)、そして廐戸皇子(すなわち聖徳太子、用明天皇の皇子)がいる。 とりあえず、次期天皇候補者としてこの五名プラス穴穂部皇子に絞ってみよう。 この六名のうち、用明天皇の弟は泊瀬部皇子(崇峻天皇)と穴穂部皇子だけだから、「皇弟」はなんとかこの二人まで絞り込めよう。 それでは、この二人からどうやって穴穂部皇子に決めたのだろうか。 一つ考えられるのは、穴穂部皇子が豊国法師を引き入れたと述べた古文書があったということである。 ただ、それがなくとも泊瀬部皇子は天皇になったから、結果的に皇太子だと言えないことはない。すると、皇太子の肩書をもたない「皇弟」は、穴穂部皇子一人となる。 《阿都》 河内国に、アトという地名がある。 〈姓氏家系大辞典〉は「阿刀部 アト:或は安斗、阿斗、迹、阿杼等に作る。物部の一派阿刀部、並に其の伴造の後裔なり。」、 「阿刀造:阿刀部の伴造にして本貫河内ならんと考へらる。」と述べる。 各地に進出した阿刀部については、「摂津の阿刀部 阿刀氏の部曲〔かきべ〕也。」の他、美濃、伊勢、武蔵、信濃、豊後に見出している。 また〈倭名類聚抄〉の郷名に{河内国・渋川郡・跡部【阿止倍】}があり、 〈延喜式-神名帳〉に{河内郡/渋川郡/路部神社〔跡部神社〕}がある。比定社は跡部神社(大阪府八尾市亀井町二丁目4-5)。 原注の「大連の別業は阿都にあった」が説明たり得るのは、阿都が既に広く知られた地名だったからだろう。 また跡部という地名が定着していたからこそ、平安の古訓者も阿都=跡部郡と判断して、〔アツではなく〕アトと訓んだと想像される。 〔平安時代には甲乙の区別は消滅しているが、跡はアト甲。都もト甲〕
《太子彦人皇子》 彦人皇子は敏達天皇の皇子で、舒明天皇の父である。 記における「日子人太子」は、系図の載せ方において天皇レベルである(第242回)。 実際、敏達天皇在位中に皇太子に指名されていたがらこそ、ここで「太子」と書かれたのであろう。 しかし、太子を差し置いて用明天皇が即位した経緯については、何も書かれていない。 また、竹田王(竹田皇子)は、用明天皇と御食炊屋姫の間に生まれた。 この二人の像を作って呪詛したということは、この二人が次期天皇の候補者で、大伴守屋派にとっては排除の対象だったわけである。 〈崇峻-即位前〉に、大伴守屋は「元欲下去二余皇子等一而立二穴穂部皇子一為二上天皇一」 〔もとより余(あたし)皇子等を去(しりぞ)け穴穂部皇子を立てて、天皇に為(な)さむとす〕とある。 この「余皇子等」に、彦人皇子と竹田皇子も入るのであろう。 《水派宮》 「水派邑」が、〈武烈二年〉のところで出てきた。 通説では、その候補地として広瀬郡の南端の広陵町大塚(大字)と、同川合(大字)が挙げられている。 この水派邑に、水派宮もあったのであろう。 押坂彦人大兄皇子の「成相墓」だと言われるのが、真美古墳群の牧野(ばくや)古墳で、 直径60mの大型円墳である。その規模は、用明天皇陵(方墳、東西65m、南北60m)とされる春日向山古墳に匹敵するから、 彦人皇子が「太子」とされることに合致する。〈延喜式-諸陵寮〉に示された広大な兆域(東西十五町〔1.6km〕×南北廿町〔2.2km〕)は、墓の周囲にあった直轄田全体が神聖化されたもののようにも思われる。 この墓と兆域の規模には、実は大王ではなかったかと思わせるものがある。第242回では、 記紀に向けての研究段階において、一時は天皇に認定されたのではないかと述べた。そのように考え得る材料を、さらにひとつ加えるものであろう。 《迹見赤檮》 赤檮は、中臣勝海連が彦人皇子の家から出てくるタイミングを覗って斬った。これだけを見ると、赤檮は大伴守屋に味方して、中臣勝海連の裏切りを罰したようにも読める。 しかし〈崇峻即位前〉には、用明二年七月「迹見首赤檮。射二-墮大連於枝下一而誅二大連并其子等一」 〔迹見首赤檮は物部守屋大連に射て枝下に落とし、子供ともども殺した〕とあり、 赤檮はこのときの功績により、田地一万代を賜った。これを見れば、赤檮が蘇我馬子に与したことは明白である。 したがって、赤檮が勝海を斬ったのは、大伴守屋への裏切りを罰するためではない。 赤檮の見方では、中臣勝海連が彦人皇子に擦り寄ったのは日和見に過ぎず、 またいつ大伴守屋の許に戻るか分からない。要するに信用ならない人物と見たのだろう。 《奉為》 中国語の「奉-」は動詞への接頭語として、相手への尊敬の意を添える。 「為(ために)」は前置詞であるが、そもそも前置詞は元来は動詞なので、動詞("ためとす")に戻して、「奉-」をつけることが可能である。 書紀古訓では「奉」をあたかも助動詞のように扱い、補助動詞「~まつる」と訓読することが多い 〔「奉レ待」(待ちまつる)、「奉レ養」(やしなひまつる)など。 和風漢文では逆転させた「仕奉」、「始奉」などが見られる〕。 「奉為天皇」にこの訓読法を適用すると「すめらみことのためとしまつりて」となるが、普通はこんなややこしい言い回しはしない。 〈内閣文庫本〉の「オホ-タメ」は、実際には「オホム-タメ」であろうが、「奉-」の尊敬の意を添えるという機能に沿ったものと言える。 ただ、「オホミ-」はオホムタカラ〔ムはン〔ミの音便〕か〕やオホミコトなど、 普通名詞には問題なくつくが、形式名詞タメのために果たして使い得るかという問題がある。 それでも平安時代の訓読者の感覚では、オホムタメに違和感はなかったわけである。 《皮楯》
〈延喜式〉に「令二兵庫寮一依レ様造備。楯:丹波国楯縫氏造レ之。戟:紀伊国忌部氏造レ之。」 〔兵庫寮をして、様〔様式〕に依りて造り備へしむ。楯は丹波国楯縫氏造が之を造り、戟〔=矛〕は紀伊国忌部が之を造る〕 とあり、これは大甞宮の門を装飾するために、楯と矛をセットで用いたものである。 この中の「楯縫氏」は盾縫が氏族名となったもの。〈延喜式-神名帳〉には出雲国、但馬国、丹波国、常陸国に{楯縫神社}が見えるから、古墳時代には各地の「盾縫部」が革楯を作っていたと思われる。 《槻曲家》 ツキと言えば、大伴氏の本貫の築坂邑があった(第237回)。 その全く同じ場所に蘇我馬子の家があったとは考えにくいから、「ツキ」地域だったとしても、築坂邑からいくらかは離れていただろう。 クマは道の曲がり角、あるいは入り組んで見えにくい所という意味だから、山に分け入った辺りか。檜前(ヒノクマ)にも、そんな地域の雰囲気が感じられる。 すると、槻曲は築坂邑から南東方向のどこかであろうか。 なお、「島庄」の「島」は馬子の邸宅の池に浮かぶ島に由来すると見られる。 〈推古三十四年〉〔642〕には、 「家於二飛鳥河之傍一、乃庭中開二小池一、仍興二小嶋於池中一、故時人曰嶋大臣一。」 〔家は飛鳥川の畔にあり、庭に小池を掘り小島を池の中に作ったので、当時の人は嶋大臣と呼んだ〕 とある。これは馬子が薨したときの記事だから、池を掘ったのは推古三十四年よりも以前である。 「槻曲」は池を掘る前の地名だった可能性がある。 その場合はツキは築坂村とは無関係で、槻の木が立っていたのかも知れない。 《南淵坂田寺》
『明日香村文化財調査研究紀要 第8号』〔明日香村教育委員会文化財課;2009〕によると、 「飛鳥時代の伽藍は未確認であるが、7世紀初頭から藤原宮期の瓦が出土する」、 「奈良時代前半に、大規模な造営が行われ、伽藍が整備されていった。」、 「出土遺物は7世紀から平安時代までの土器・瓦が中心である」という。 また地名「南渕」については、「南淵請安」という人物名が〈推古紀〉に出てくる。 〈推古紀-十六年九月〉に、「遣二於唐国学生…南淵漢人請安…并八人一也」 〔唐国(もろこしのくに)に学生…南淵漢人請安(みなぶちのあやひとしやうあむ)…并八人を遣はす〕とある。 同報告によると、その墓が「稲渕龍福寺の上流100mの、〔飛鳥〕川に面した尾根上」にあるという。 《法隆寺金堂薬師如来像光背銘》 鞍部多須奈の話と同様に、用明天皇の快癒を願って薬師如来像を造った話が、「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」に見える (元興寺伽藍縁起并流記資財帳をそのまま読む[3])。 同光背銘には、病気になったのが丙午年〔586、用明元年〕に造像を発願したが生前には完成せず、 改めて丁卯年〔607、推古十五年〕に造像したとある。 これを見ると複数の仏像に関わって、用明天皇の恢復を祈って造像された伝承が存在するようである。 「南淵坂田寺木丈六仏像」もその一つか。 《大意》 二年四月二日、 磐余川の川上で新嘗に御座されました。 この日、天皇は病を得て宮に帰還され、 群臣がお侍りしました。 天皇は群臣に、 「朕は三宝に帰依しようと思う。卿(きょう)たち、これを議れ。」と詔され、 群臣は入朝して議りました。 物部守屋(もののべのもり)の大連(おおむらじ)と中臣勝海(なかとものかつみ)の連(むらじ) は、 「どうして国の神に背いて、他の神を敬うのか。 古来、このようなことは知らない。」と詔と違う意見を申しました。 蘇我馬子宿祢(そがのうまこすくね)の大臣(おおまえつきみ)は、 「詔の通りお助けするべきなのに、どうして異なる考えが生まれるのか。」と申しました。 その時、天皇の弟皇子 【天皇の弟皇子は、穴穂部皇子。 すなわち、天皇の異母弟である。】は、 豊国(とよくに)の法師【名は不明】を内裏に引き入れ、 物部守屋大連は横目に睨んで大いに怒りました。 この時、押坂部史(おしさかべのふひと)毛屎(けくそ)が、 急ぎ来て、密かに大連〔物部守屋〕に 「今、群臣は卿(きょう)〔あなた〕を謀り、帰りの路を断とうとしています。」 大連はこれを聞いて、即座に阿都(あと)に退き、 【阿都は、大連の別邸があったところの地名】 多くの人を集めました。 中臣勝海連は、自宅で衆を集めて大連に従い助け、 遂には太子(ひつぎのみこ)彦人皇子(ひこひとのみこ)の像と竹田皇子(たけだのみこ)の像を作り、呪いました。 しかし、俄かに事が思うように定まることは困難だと知り、 水派宮(みまたのみや)に於いて彦人皇子に帰順しました。 舎人、迹見(とみ)の赤檮(いちい)は、勝海連が彦人皇子の所から退出するタイミングを見計らって、 太刀を抜いて殺しました。 【迹見は姓で、赤檮は名である。】 大連は、阿都の家から、 物部八坂(やさか)、 大市造(おおいちのみやつこ)小坂(をさか)、 漆部(うるしべ、ぬりべ)の造(みやつこ)兄(あに)を遣わし、 馬子大臣に 「私は、群臣が私に対して謀略があると聞いた。私はその故に退いた。」と伝えさせました。 馬子大臣(おおまえつきみ)は、 そのまま土師八嶋(はにしのやしま)連(むらじ)を大伴毗羅夫(ひらふ)連の所に遣わして、 具(つぶさ)に大連の言葉を述べさせました。 これにより、毗羅夫連は手に弓矢と革楯を取り、 槻曲(つきくま)の家に行き、 昼夜離れず大臣を護りました 【槻曲の家とは、大臣の家のこと】。 天皇(すめらみこと)の疱瘡(ほうそう)はますます悪化し、これを終わらせたいと思われました。 その時、鞍部(くらつくりべ)多須奈(たすな)【司馬達等(しばたつと)の子】が、 参上して申し上げるに、 「私めは、天皇の御(おん)ために、出家して修道いたします。 また、丈六仏像及び寺をお造りします。」と申し上げました。 天皇は自分のためにこのようにさせたことを、とても悲しまれました。 現在の南淵(みなふち)坂田寺の、木像の丈六仏と挟侍(わきだち)菩薩がこれです。 5目次 【二年四月九日~七月】 癸丑。天皇崩于大殿。……〔続き〕 まとめ 病に倒れた用明天皇そっちのけで、物部守屋大連と蘇我馬子大臣の対立は先鋭化していく。 仏教導入派と反仏教派による争いであるから、宗教紛争であると同時に、政治的な権力闘争である。 欽明朝においては、百済が新羅と対抗するために倭を仏教国化して、強固な同盟関係を形成しようとする工作を見た。 この国際的な枠組みは、敏達朝以後も基本的に維持されてきたと考えられる。 ならば、百済新羅対立の情勢下で蘇我氏は百済との関係を深めようとし、物部氏は中立的だったと想像されるが、 実際にどうであったかはもう少し検討を深めてみる必要がある。 |
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⇒ [21-03] 崇峻天皇紀 |