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2020.10.30(fri) [20-04] 敏達天皇4 


目次 【十二年(一)】
《詔曰屬我先考天皇之世新羅滅內官家之國》
十二年秋七月丁酉朔。
詔曰
「屬我先考天皇之世、
新羅滅內官家之國。
【天國排開廣庭天皇廿三年、
任那爲新羅所滅、
故云「新羅滅我內官家」也。】
先考天皇謀復任那、不果而崩、
不成其志。
是以、朕當奉助神謀復興任那。
今在百濟、
火葦北國造阿利斯登子達率日羅、
賢而有勇。
故、朕欲與其人相計。」
乃遣紀國造押勝與
吉備海部直羽嶋、
喚於百濟。
…[動] 〈内閣文庫本〔以下〈閣庫〉〕アタテ。 (古訓) あたる。つく。とも。をよふ。
…[名] 〈時代別上代〉「アガとワガと、それぞれ接する語に差があり」、「ヌシキミ皇神スメカミ…には常にアガがつ」く。
…[名] 亡くなった父。
先考天皇…〈北野本〉アタテアカ先-考カソノ天皇之世
官家…〈閣庫〉官-家ミヤケノ
奉助神謀…〈閣庫〉アヤシ
達率…百済の位階。全十六品中二品(安閑元年五月)。
日羅…〈閣庫〉日羅ニチ ラ――音読。 〈釈紀-秘訓〔以下釈〕〉ヒノ葦北アシキタノ國造クニツコ阿利斯アリシトカ達率タツソツ日羅ニツ ラ
押勝…〈閣庫〉押勝オシカツ
十二年(ととせあまりふたとせ)秋七月(ふみづき)丁酉(ひのととり)の朔(つきたち)。
詔(みことのり)に曰(のたま)はく
「我(あが)先考(さきのちちの)天皇(すめらみこと)之(の)世(みよ)に属(つ)きて、
新羅(しらき)内官家(うちつみやけ)之(の)国を滅せり。
【天国排開広庭天皇(あまくにおしはらきひろにはのすめらみこと)〔欽明〕の廿三年(はたとせあまりみとせ)、
任那(みまな)、新羅(しらき)の為(ため)に所滅(ほろぼさえ)て、
故(かれ)「新羅、我が内官家を滅せり」と云ふ[也]。】
先考天皇復(また)任那をたつることを謀(はか)りたまへど、不果(はたさず)ありて[而]崩(ほうじて、かむあがりしたまひて)、
其(そ)の志(こころざし)を不成(なさざ)りき。
是(こ)を以ちて、朕(われ)助(たすけ)の神の謀(はかりこと)を奉(うけたまは)りて、任那を復(また)興(おこ)す当(べ)し。
今百済に在る
火(ひ)の葦北(あしきた)の国造(くにのみやつこ)、阿利斯登(ありしと)の子、達率(たつそつ)日羅(にちら)、
賢(さかしく)[而]勇(いさみ)有り。
故(かれ)、朕(われ)其の人与(と)相計(あひはからむ)と欲(おもほ)す。」とのたまひて、
乃(すなはち)[遣]紀国造(きのくにのみやつこ)押勝(おしかつ)与(と)
吉備海部直(きびのあまのあたひ)羽嶋(はしま)とをつかはして、
[於]百済に喚(め)さしむ。
冬十月、
紀國造押勝等還自百濟、
復命於朝曰
「百濟國主、奉惜日羅、
不肯聽上。」
国主…〈北野本〉ニリム。 〈釈;継体二十三年〉クニノニリン/アロシ
あろじ…[名] 主人。〈時代別上代〉「安路自あろじ」(万4498)。「日本書紀や遊仙窟の古訓にはたいていアルジ」、「伊勢物語・土佐日記以下もアルジが普通」。
不肯聴上…〈北野本〉肯聴上。 〈閣庫〉ユルシ進-上〔"ゆるしたてまつることをきかず"?〕
うべなふ…[他] 承服する。
紀国造押勝等(ら)百済自(よ)り還(かへ)りて、
[於]朝(みかど)に復命(かへりこと)曰(まを)ししく
「百済の国の主(ぬし、にりむ)、日羅を奉惜(をしみまつ)りて、
聴(ゆる)し上(たてまつる)ことを不肯(うべな)はず。」とまをしき。
是歲。
復遣吉備海部直羽嶋、召日羅於百濟。
羽嶋既之百濟、欲先私見日羅、
獨自向家門底。
俄而有家裏來韓婦、用韓語言
「以汝之根入我根內。」
卽入家去。
羽嶋便覺其意、隨後而入。
於是、日羅迎來、把手使坐於座、
密告之曰
「僕竊聞之、百濟國主奉疑、
天朝奉遣臣後留而弗還。
所以、奉惜、不肯奉進。
宜宣勅時、現嚴猛色、催急召焉。」
羽嶋、乃依其計而召日羅。
…[動] (古訓) みる。まみゆ。
…[動] (古訓) おもむく。
門底…〈閣庫〉門-底カトミトニ。 (用明元年五月)「カトモト」。
韓婦…〈閣庫〉韓婦カラメノコ
…〈北野本〉ヤツカレ
韓語…〈閣庫〉カラ サヘツリヲ
さひづる…[他] さえずる。意味の分からない言葉を放す。〈時代別上代〉「平安以後はサヘヅルの語形」。
以汝之根…〈閣庫〉イカ之根入我イレヨトア云テ根内イカ根ヲアカ根ニツルニ私
…[二人称代] 〈時代別上代〉いやしめていうときに用いる。
入家…〈閣庫〉入-家返入ス/カヘリヌ
…[動] (古訓) つかむ。とる。にきる。〈閣庫〉トリテ
…[名]〈閣庫〉シチヰニ〔シキヰ〕
しきゐ…[名] ござ、むしろの類。
宣勅…〈閣庫〉ノリコトヲ
…〈閣庫〉ミセ/アラハ
厳猛…〈閣庫〉イツクシ-タケ
もよほす…[他]サ四 催促する。
是の年。
復(ふたたび)吉備海部直(きびのあまべのあたひ)羽嶋(はしま)を遣(つか)はして、日羅を[於]百済(くたら)に召さしむ。
羽嶋(はしま)既(すでに)百済に之(ゆ)きて、[欲]先(まづ)私(わたくし)に日羅を見(まみえ)むとして、
独(ひとり)自(みづから)家(いへ)の門底(かどのもと)に向(おもぶ)けり。
俄(にはか)にありて[而]家(いへ)の裏に有りて来たる韓婦(からのめのこ)、韓(から)の語(さひづり)を用ゐて言はく
「[以]汝之根(いがねを)我根(あがね)の内(うち)に入れよ。」といひて、
即(すなはち)入家去(いへにいりぬ)。
羽嶋、便(すなはち)其の意(こころ)を覚(さと)りて、後(しりへ)に隨(したが)ひて[而]入りき。
於是(ここに)、日羅迎来(むかへき)て、手を把(と)りて[於]座(しきゐ)に坐(ま)さ使(し)めて、
密(ひそかに)[之を]告げて曰(まを)しく
「僕(やつかれ)盗(ひそかに)[之を]聞くに、百済の国の主(あるじ、にりむ)奉疑(うたがひまつらく)、
天朝(あまつみかど)臣(やつかれ)を奉遣(まだしまつ)りし後(のち)にも留(とど)めて[而]弗還(かへしたまはず)とうたがひまつる。
所以(ゆゑ)に、奉惜(をし)みて、奉進(たてまつること)不肯(うべなひまつらず)。
宜(よろしく)宣勅(みことのり)をたまわらむ時に、厳(いつくしき)猛(たけき)色(いろ)を現(あらは)して、急(すみやかに)召(めさむ)ことを催(もよほ)したまへ[焉]。」とまをしき。
羽嶋、乃(すなは)ち其の計(はかりこと)に依りて[而]日羅を召しき。
於是、百濟國主、怖畏天朝不敢違勅、
奉遣以日羅
恩率德爾
余怒
奇奴知
參官
柁師
德率次干德
水手等若干人。
日羅等、行到吉備兒嶋屯倉。
朝庭遣大伴糠手子連而慰勞焉、
復遣大夫等於難波舘使訪日羅。
是時、日羅被甲乘馬到門底下、
乃進廳前進退。
跪拜歎恨而曰
「於檜隈宮御㝢天皇之世、
我君大伴金村大連、奉爲國家使於海表。
火葦北國造刑部靫部阿利斯登之子
臣達率日羅、聞天皇召、恐畏來朝。」
乃解其甲、奉於天皇。
乃營舘於阿斗桑市、使住日羅、
供給隨欲。
たてまだす…[他]サ四 「まだす」(遣わす)からさらに尊敬の意を増す語。
恩率…百済の位階。全十六品三品(安閑元年五月)。
〈釈〉恩率ヲムソツ德爾トクニ余怒ヨヌ奇奴知カヌチ参官サムクワム柁師カチトリ德率トクソツ次干德シカムトク水手カコ若干ソコハクノ/ソコラノヒトヲ
〈前田本〉日羅恩率德爾余怒奇奴知參官柁-師カチトリ德率次干德水手カコ等若干
徳率…百済の位階。全十六品中四品。
大伴糠手子…〈前田本〉ヌカ。〈釈〉大-トモノ アラ/ヌカコノムラ■。 〈閣庫〉ヌカ
慰労…〈釈〉慰-労ヤ  ワ 
…〈釈〉トフ日羅
…[動] (古訓) きる。つく。かうふる。〈時代別上代〉「かがふる:「被甲何何布留かがふる、下可夫度カブト」(華厳音義私記)」。
かぶと…[名] 〈時代別上代〉カブトに「甲」をあてる〔中略〕本来ヨロヒを意味する字であって誤用とすべきである。
…〈釈〉マツリコトノ
しじまふ…[自]ハ四 行きつ戻りつしてさまよう。〈丙本-垂仁〉進退志ゝ末比氐〔しじまひて〕 (垂仁五年)。
跪拝…〈閣庫〉跪-拝ヲカミ
檜隈宮御㝢天皇…〈釈〉檜-隈-宮御-㝢天-皇-之-世ヒノクマノミヤニアメノシタシラシスメラミコトノミヨニ
〈閣庫〉〈北野本〉御-㝢アメノシタシラス
国家…〈釈〉國-家ミカトノ使ツカハシ海表ハタノホカニ
刑部靫部…「刑部」は第116回《刑部》、「靫部」は景行13など参照。 〈釈〉火葦北國-造ヒノアシキタノクニツユ刑-部ヲサカヘノ靫-部ユケヒ阿利斯登アリシト
阿斗桑市…〈釈〉阿-斗アト-桑市クハノイチ
…〈釈〉ヤツコ達率日羅キゝタラヘテ
営館…〈閣庫〉イホリムロツミヲ阿斗アドクハノ使ハムヘラ日羅
…[動] 「営造」は建物をたてる。(古訓) いとなむ。つくりいとなむ。つくる。をさむ。
供給…(古訓) たてまつりもの。
〈閣庫〉供-給ヲサメタマテマゝネカヒコゝロノマゝニヲサメシム 私〔=私見〕
於是(ここに)、百済の国の主(ぬし、にりむ)、天朝(あまつみかど)を怖畏(おそ)りて[不]敢(あへて)勅(おほせこと)を違(たが)へざりて、
[奉遣以]日羅、
恩率(おむそつ)徳爾(とくに)
余怒(よぬ)、
奇〔哥〕奴知(かぬち)、
参官(さむくわむ)、
柁師(かぢとり)、
徳率(とくそつ)次干徳(しかむとく)、
水手(かこ)等(ら)若干(そこばく)の人をもちて、たてまだせり。
日羅等、吉備(きび)の児嶋(こじま)の屯倉(みやけ)に行(ゆ)き到(いた)りて、
朝庭(みかど)、大伴(おほとも、とも)の糠手子(ぬかてこ)の連(むらじ)を遣(つか)はして[而]慰労(ねぎら)はしめき[焉]。
復(また)大夫(まへつきみ)等(ら)を遣(つかは)して[於]難波(なには)の館(たち、むろつみ)に日羅を訪(とぶら)は使(し)めき。
是(こ)の時、日羅被甲(よろひをつけ、かぶとをかがふり)馬に乗りて門底(かど)の下(もと)に到りて、
乃(すなはち)庁(まつりことのとの)の前(みまへ)に進みて進退(しじま)ひき。
跪(ひざまづき)拝(をろがみ)て、歎(なげき)恨みて[而]曰(まをさく)
「[於]檜隈宮(ひのくまのみや)に御㝢(あめのしたしらす)天皇(すめらみこと)〔宣下〕之(の)世(みよ)、
我君(あがきみ)大伴(おほともの、とも)の金村(かなむら)の大連(おほむらじ)、[奉]国家(くにいへ)の為としたまひて[於]海(わた)の表(おもて)に使はしめし、
火(ひ)の葦北(あしきた)の国造(くにのみやつこ)刑部(おさかべ)靫部(ゆけひ)阿利斯登(ありしと)之(の)子、
臣(やつかれ)達率(たつそつ)日羅(にちら)、天皇(すめらみこと)の召したまへりと聞きて、恐り畏(かしこ)みて来(まゐき)て朝(みかどををろが)みまつる。」とまをして、
乃(すなはち)其の甲(よろひ)を解きて、[於]天皇に奉(たてまつ)りき。
乃(すなはち)館(たち、むろつみ)を[於]阿斗(あと)の桑市(くはのいち)に営(つく)りて、日羅を住(す)まは使(し)めて、
供給(たてまつりもの)隨欲(ねがへるまにまに)たまはりき。
《火葦北国造》
 「火国」は律令国においては分割されて、肥前国・肥後国になる。  葦北は、景行天皇の西国親征の際、立ち寄った地名として出てくる(〈景行紀〉十八年)。 そこには「火国」が、八代海の不知火に由来するという地名譚がある。
 〈倭名類聚抄〉に{肥後国・葦北郡・葦北郷}。
 〈国造本紀〉には、葦分〔北〕国造:「纏向日代朝御代〔景行〕。吉備津彦命児三井根子命。定賜国造
 火国については、「瑞籬朝〔崇神〕。大分国造同祖志貴多奈彦命児遅男江命。定賜国造」 「国造」は後の律令郡に繋がる行政区分で、大雑把に言って畿内・筑紫の「県主」に対応し、県主より時代が下る(資料[26])。 《阿利斯登》
 ここでは、葦北の国造の阿利斯登ありしとは、刑部(おさかべ)、靫部(ゆきべ)の任も負い、 宣下朝のときに大伴金村によって南韓に派遣されたと読み取れる。
 〈宣下二年〉には、大伴金村が子の狭手彦を派遣し、「往鎮任那加救百済〔任那に往き鎮め、加へて百済を救ひき〕とある。よって、筑紫島の氏族の葦北氏が狭手彦の配下として渡海したという見方も可能となる。
 阿利斯登の子が日羅で、やがて出世して位階「達率」を得る。
 これとは別に、ほぼ同名の「阿利斯等」が、〈継体紀〉二十三年 にいる。そこでは加羅が新羅に誼を通ずることを妨害した。 同四月条に添えられた原注では、阿利斯等は任那王己能末多このまた干岐と同一人物とする。 「干岐」という称号から見れば「任那国」は、加羅の域内国の一つである。〔「任那国王」は虚構で、単に加羅の干岐の一人かも知れない〕 たまたま同名だったと理解するのが妥当であろうが、全く無関係ではないかもしれない。 つまり、宣化朝にも葦北氏の首長が渡海したのかも知れない。
 そして、葦北氏に朧げに伝わっていた祖先の名前が、宣化朝及び敏達朝に渡海した首長の、両方に当てられたことが考えられる。
《以汝之根入我根内》
 古訓「イカ根ヲアカ根ニツルニ私」の「ツルニ」は「ウチニ」の誤写か。 「イレヨトア云テ」の「」は「」に密着していた文字が、筆写の際に「イレヨト云テ」に混ざったらしい。 「ト云テ」は、「"以汝之根入我根内"といひて」。 結局「言はく"汝(い)が根を我(あ)が根に内に入れよ"と云ひて」と訓めという意味と見られる。
 「」は分解すれば「ワ+ム」であるがこれでは意味をなさないので、「私見」の意味で書き添えたものと思われる。
 は二人称代名詞で「いやしめていうときに用いる」(〈時代別上代〉)とされる。
 女性は「韓語」を用いたとするが、この文自体は倭語に翻訳したものである。だから「が根」も倭語であるはずだが、意味がとりにくい。
 接尾語としてのは、諸辞書の解説では「磐根」「垣根」のように地面にくっついているものにつくとされる。 ここでは「~の居る処」と解釈すれば意味は成り立つが、ぎこちない言い方に感じられる。
 つまりは、「外国語の雰囲気を出すために、カタコトの倭語で表した」ということであろうか。
《児嶋屯倉》
 児嶋屯倉については、〈欽明十七年七月〉に「蘇我大臣稲目宿祢等於備前児嶋郡、置屯倉」とある。
 〈岡山県史〉(「備後国」の屯倉)には、 「児嶋屯倉は、その役所(御宅)があったのは、今の岡山市こおりの地だとされる。 ただし、その倉庫群の所在などはまだ確かめられていない。」、 「すぐ西方の穴済あなのわたりには「悪神」がいて、航路をゆく人びとを」苦しめ、 「現地の海人(水軍あるいは海賊)の存在した難所であったろう」、 「がんらいキビ王国の港であった児島津がヤマト朝廷におさえられたのは大打撃であった」、 その「管理・運営は吉備の国造に委ねることをせず、ヤマト王国の朝廷はいわば直接管理のもとにおいた。」 などと述べ、吉備の独立勢力を中央政権の支配下に置く拠点としたとの見方を示している。
《被甲乗馬》
 日羅は「〔難波館の管理棟か〕に入らず、「甲乗」のていで外で待っていた。 このことの意味は判然としないが、 反百済王派の日羅としては、しばしば国王の使者が滞在する難波館に入ることを拒む意思表示ともとれる。 実際、日羅に添えて派遣された徳爾らは、日羅の言動を監視して遂には殺害した。国王派が群がる難波館では、常に警戒していなければならない。
 よって、日羅の意を汲んで「阿斗桑市」に営館して滞在させたと読める。
《難波舘》
 継体天皇六年、百済使が難波館に滞在した記事のところで、 難波館の位置を考察した(継体六年【難波館】)。
 そこでは、難波館と「新館」はともに、難波宮周辺の官庁街にあったのだろうと考えた。
《阿斗桑市》
 阿斗は、〈用明二年四月〉に出てくる物部守屋が別業(なりどころ)「阿都」(河内国渋川郡跡部)であろう。 この別業は守屋の滅亡によって没収されて四天王寺の寺領となった(〈崇峻紀-用明二年七月〉)。
 つまり、日羅は物部守屋の庇護下に置かれたと解釈することができる。
《大意》
 十二年七月一日、 詔して 「我が先の亡き父の天皇(すめらみこと)の御世に属して、 新羅の内官家(うちつみやけ)の国を滅ぼした 【天国排開広庭天皇(あまくにおしはらきひろにわのすめらみこと)〔欽明〕の二十三年、 任那は、新羅のために滅ぼされたことによって、 「新羅は、我が内官家を滅した」と言ったのである。】
 先の亡き父の天皇は再び任那を建てようとお謀りになったが、果たせず崩じ、 その志は成らなかった。
 これをもって、朕は助けの神の謀を受け賜わり、任那を再び興したい。 今、百済にいる 火(ひ)の葦北(あしきた)の国造(くにのみやつこ)、阿利斯登(ありしと)の子、達率(たつそつ)日羅(にちら)は、 賢明で勇壮である。 そこで、朕はその人と相計ろうと思う。」と仰りました。
 そこで、紀の国造(くにのみやつこ)押勝(おしかつ)と、 吉備(きび)の海部直(あまのあたい)羽嶋(はしま)を遣わして、 百済に召喚に応じるよう求めました。
 紀の国造、押勝らは百済から帰還し、 朝廷に復命し 「百済の国主は日羅を惜しみ、 お聴き申しませんでした。」と申し上げました。
 この年、 再度吉備の海部直(あまべのあたい)羽嶋(はしま)を派遣して、百済に日羅を召すことを求めました。 羽嶋は百済に到着したところで、事前に私的に日羅に会っておこうと思い、 独り自ら家の門のところに赴きました。
 俄かに家の裏から出てきた韓(から)の女性が、韓語を用いて 「イガネをアガネのうちに入(い)れよ。」と言って、 そのまま家に入っていきました。
 羽嶋はうまくその意を悟り、後に従って入りました。 すると、日羅が出迎え、手を取って敷物に座らせて、 密かに告げるに、 「私が密かに聞いたところでは、百済の国主が疑うに、 天朝は私を派遣した後も、そのまま留めて返さないと疑っております。 だからそれを惜しみ、奉進に同意しないのです。
 そこで、宣勅を賜る時に、厳しく猛る顔をして、速やかに召すことを催促なされませ。」と申しました。
 羽嶋は、その策に依って日羅を召しました。
 そのとき、百済の国主は、天朝を畏怖して敢て勅に逆らわず、 日羅、 恩率(おんそつ)徳爾(とくに)、 余怒(よぬ)、 奇〔哥〕奴知(かぬち)、 参官(さんかん)、 柁師(かじとり)、 徳率(とくそつ)次干徳(しかんとく)、 水手(かこ)ら若干人を、派遣しました。
 日羅たちは、吉備の児嶋(こじま)の屯倉(みやけ)に到着して、 朝庭は、大伴(おおとも)の糠手子(ぬかてこ)の連(むらじ)を遣わして、慰労させました。
 また、大夫たちを遣して、難波の館(むろつみ)に日羅を訪(たず)ねさせました。 この時、日羅は鎧をつけて乗馬し、門のところに到り、 庁の前に進んで行ったり来たりしていました。
 〔大夫たちの姿を見て〕跪き拝礼し、嘆き恨んで 「檜隈宮(ひのくまのみや)に天下(あめのした)を知ろし召す天皇(すめらみこと)〔宣下天皇〕の御世、 吾が君(あがきみ)大伴の金村の大連(おおむらじ)が、国家の為に海表(うみおもて)〔百済、任那〕に遣わした、 火(ひ)の葦北(あしきた)の国造(くにのみやつこ)・刑部(おさかべ)・靫部(ゆけひ)の阿利斯登(ありしと)の子であるところの、 私(わたくし)達率(たつそつ)日羅(にちら)は、天皇(すめらみこと)がお召しになったと聞き、恐れ畏(かしこ)み来朝いたしました。」と言上し、 その鎧を解き、天皇に奉上しました。
 こうして館(むろつみ)を阿斗(あと)の桑市(くわのいち)に造営し、日羅を住まわせて、 何でも望むままに供給されました。


【十二年(二)】
《問國政於日羅》
復遣阿倍目臣
物部贄子連
大伴糠手子連而
問國政於日羅、
々々對言
「天皇所以治天下政、要須護養黎民、
何遽興兵翻將失滅。
故、今合議者、仕奉朝列臣連二造
【二造者國造伴造也】
下及百姓、悉皆饒富令無所乏。
如此三年、足食足兵、
以悅、使民不憚水火同恤國難。
然後、多造船舶、毎津列置、
使觀客人令生恐懼。
爾乃、以能使々於百濟召其國王。
若不來者、召其太佐平王子等來。
卽自然心生欽伏。
後、應問罪。」
目臣…〈釈〉阿倍アヘノ目臣メノヲム
贄子…〈釈〉物部モノゝヘノ贄子ニヘコノムラシ
要須…〈汉典〉「①必須;需要。②必定;総会。」 〈閣庫〉必シマ タマヘ 黎民オホムタカラヲ。 〈北野本〉下イ-政要須-養黎民〔要(かならず)須(すべからく)黎民を護り養ふべし〕
何遽…〈汉典〉[how] 表-示反問、可訳為“怎麼”〔=how,what〕
翻将失滅…〈北野本〉翻村将イ失-滅。〈閣庫〉カヘリテ
饒富…〈北野本〉饒富ニヘサワシテ〔ニギハワシテ?〕
にぎはふ…[自]ハ四 豊かに繁栄する。
如此…〈閣庫〉如此カクスルコト
…[動] (古訓) あはれふ。うれふ。 〈閣庫〉ウレヘム
生恐懼…〈閣庫〉ナシテ恐-懼カシコ コトヲ
爾乃…〈汉典〉①這才;於是。 ②更端発語詞、無義。
使…〈釈〉使ツカハシテ於百-濟
其国王…〈閣庫〉ニリムラ〔ヲ〕
太佐平王子…〈釈〉大佐平タイサヘイ王子セシム。 〈閣庫〉王子マウコサシメム
太佐平…「佐平」は百済の位階の最上位で、定員五名である。「太佐平」は恐らく、その主席を指す。
欽伏…〈釈〉欽伏ツゝシミシタカウコトヲ
…[動] (古訓) うやまふ。つつしむ。
復(また)[遣]阿倍目臣(あべのめのおみ)、
物部贄子連(もののべのにへこのむらじ)、
大伴糠手子連(おほとものぬかてこのむらじ)をつかはして[而]
国(くに)の政(まつりごと)を[於]日羅に問はしめき。
日羅対(こた)へて言(まを)さく
「天皇(すめらみこと)、天下(あめのした)の政(まつりごと)を治(をさ)めたまふ所以(ゆゑ)に、要(かならず)や須(すべからく)黎民(おほみたから)を護(まも)り養(やしな)ひたまふべし。
何遽(なにそ)兵(いくさ)を興(おこ)し翻(ひるがへ)りて将(まさに)失滅(ほろ)ぼさむとするや。
故(かれ)、今(いま)議(はかりこと)を合(あ)はさ者(ば)、朝(みかど)に仕(つか)へ奉(たてま)つる、列(な)めて臣(おみ)連(むらじ)二造(ふたつのみやつこ)
【二造者(は)、国造(くにのみやつこ)伴造(とものみやつこ)也(なり)】、
下(しもつかた)は百姓(ももつかばね)に及びて、悉皆(ことごとくみな)饒富(にぎは)ひて、所乏(ともしきところ)を無(な)から令(し)めたまへ。
如此(かくのごとく)三年(みとせ)、食(くらひもの)足り兵(つはもの)足りて、
悦(よろこび)を以ちて、[使]民(おほみたから)をして水火(みづひ)を不憚(はばからざら)しめて国の難(かたき)を同(ともに)恤(うれへ)せしめむ。
然後(しかるのち)に、多(さはに)船舶(ふね)を造りて、津(つ)毎(ごとに)列(なら)べ置かば、
客人(まらひと)をして観(み)使(し)めて恐懼(おそるるこころ)を生(な)さ令(し)めむ。
爾乃(ここに)、能(よ)き使(つかひ)を以ちて[於]百済に其の国の王(わう、にりむ)を召さ使(し)めたまへ。
若(もし)不来(まゐきたらざ)ら者(ば)、其の太佐平(たいさへい)王子(わうのこ、せしむ)等(ら)を召して来(まゐきた)らしむべし。
即(すなはち)自然(おのづから)心(うら)に欽(つつし)みて伏(ふ)すこころを生(な)さむ。
後(のち)に、罪(あやまち)を問ふ応(べ)し。」
又奏言
「百濟人謀言、有船三百、
欲請筑紫。
若其實請、宜陽賜予。
然則百濟、
欲新造國必先以女人小子載船而至。
國家望於此時、壹伎對馬多置伏兵、
候至而殺。
莫翻被詐。毎於要害之所堅築壘塞矣。」
欲請筑紫欲新造國
宜陽賜予…〈閣庫〉宜-陽-賜-予ユルシタマフマネシタマヘイツハテ
女人小子…〈閣庫〉女-人メノコ小子ハラハヲ
伏兵…〈閣庫〉カクシ-兵
候至…〈閣庫〉マウイタラ而殺タマヘ
莫翻被詐…〈閣庫〉莫-翻カヘリテナ 被-詐アサムカレタマヒソ
要害…〈閣庫〉ヌミ
塁塞…〈閣庫〉ソコヲ
又奏(まを)して言(まを)さく
「百済人(くたらのひと)謀(はか)りて言(まを)さく、船(ふね)三百(みほふな)を有(たも)ちて、
[欲]筑紫(つくし)を請(こ)はむとすとまをす。
若し其(それ)実(まこと)に請(こ)はば、[宜]陽(あざむ)きて予(あづくこと)賜(たまは)るべし。
然(しからば)則(すなはち)百済(くたら)、
[欲]新たに国を造らむとして、必(かならず)先(まづ)女人(をみな)小子(わらは)を以ちて船に載せて[而]至(いた)らむ。
国家(くにいへ)は[於]此の時を望みて、壹伎(いき)対馬(つしま)に多(さはに)伏(ふせる)兵(つはもの)を置きて、
至りしことを候(うかが)ひて[而]殺したまへ。
莫翻被詐(ひるがへしてなあざむかえそ)。毎(つねに)[於]要害(ぬみ)之(の)所(ところ)に堅く塁塞(そこ)を築(つ)きたまへ[矣]。」
於是、恩率參官臨罷國時
【舊本、
以恩率爲一人以參官爲一人也】
竊語德爾等言
「計吾過筑紫許、汝等偸殺日羅者、
吾具白王當賜高爵身及妻子垂榮於後。」
德爾余奴、皆聽許焉。
參官等遂發途於血鹿。
於是、日羅、自桑市村遷難波舘。
德爾等、晝夜相計將欲殺。
時、日羅身光、有如火焰。
由是德爾等恐而不殺。
臨罷国時…〈閣庫〉マカル。 〈北野本〉臨罷國時
計吾過筑紫許…〈閣庫〉カソヘアリテスキユクトキ筑紫ハカリヲ 〔吾、筑紫を過ぎ往く時、計(はか)りを計(かぞ)へありて〕。 〈北野本〉吾過筑紫 〔吾を計り筑紫を過ぎゆく許(ばかり)〕
…[助] おおよその程度。(古訓) はかり。 
高爵…〈閣庫〉高爵カウフリヲ〔冠;冠位か〕
かがふり…[名] かんむり。〈時代別上代〉冠位制が位階制に消化された後も、カガフリの名称だけが残り、位階を示すことがあったらしい。
妻子垂栄…〈閣庫〉妻子サカエムヲ。 〈北野本〉及-妻-子垂於後
聴許…〈閣庫〉ユルシツ-計
発途…〈閣庫〉發-途ミチタチヌ
血鹿…値賀島〔ちかのしま;五島列島〕か。〈天武-四年四月〉「麻績王有罪…一子流血鹿嶋。」〈同六年五月〉「新羅人…漂-着於血鹿嶋
桑市村…〈閣庫〉桑市クハイチノ
難波舘…〈閣庫〉難波ムロツミニ
身光有如火焔…〈北野本〉ミノ-ヒカリホノホノ
於是(ここに)、恩率(おむそつ)参官(さむくわむ)国を罷(まか)る時に臨(のぞ)みて
【旧本(ふるきふみ)にいはく、
恩率を以ちて一人(ひとり)と為(し)て、参官を以ちて一人と為(す)[也]】、
窃(ひそかに)徳爾等(ら)に語(かた)りて言はく、
「吾(わ)が筑紫を過(す)ぎむ許(ばかり)を計(はか)りて、汝(いまし)等(ら)偸(ひそかに)日羅を殺さ者(ば)、
吾(われ)具(つぶさに)王(きみ)に白(まを)して、当(まさに)高き爵(かがふり)の身(み)を賜(たまは)りて妻子(めこ)に及びて、栄(さかえむこと)を[於]後(のち)に垂(た)るべし。」といひて、
徳爾(とくに)余奴〔怒〕(よぬ)、皆(みな)聴許(ゆる)しき[焉]。
参官等(ら)遂(つひに)[於]血鹿(ちか)に発途(みちたちぬ)。
於是(ここに)、日羅、桑市村自(ゆ)難波(なには)の舘(たち、むろつみ)に遷(うつ)りき。
徳爾等(ら)、昼夜(よるひる)相(あひ)計(はか)りて将(まさに)欲殺(ころさむとす)。
時に、日羅の身(み)光りて、火焔(ほむら)が如く有り。
是(こ)の由(ゆゑ)に、徳爾等(ら)恐りて[而]不殺(ころさず)。
遂於十二月晦、候失光、殺。
日羅、更蘇生曰
「此是、我駈使奴等所爲、非新羅也。」
言畢而死。
【屬是時、有新羅使。故、云爾也。】
…〈北野本〉ツコモリ
つきこもり…[名] 月の末日。月籠り。「つごもり」とも。
候失光…〈北野本〉ウカゝテ
蘇生…〈北野本〉蘇生曰ヨミカヘリテイハクコレ我駈-使奴等ワカツカヒノヤツコラカ所-為スルトコロナリアラス新羅
(駈)…[動] (古訓) はす。
しわざ…[名] 行為。
遂(つひに)[於]十二月(しはす)の晦(つきこもり)に、光を失(うしな)へるを候(うかか)ひて、殺しき。
日羅、更に蘇生(よみがへ)りて曰(まを)さく
「此(ここに)是(これ)、我(わが)駆(はせる)使(つかひ)の奴(やつこ)等(ら)の所為(しわざ)にありて、新羅(しらき)に非ず[也]。」と
言(まを)し畢(を)へて[而]死にせり。
【是の時に属(あた)り、新羅の使(つかひ)有り。故(かれ)、云爾(しかといへり)[也]。】
天皇、
詔贄子大連
糠手子連
令收葬於小郡西畔丘前、
以其妻子水手等居于石川。
於是、大伴糠手子連議曰
「聚居一處、恐生其變。」
乃以妻子居于石川百濟村、
水手等居于石川大伴村。
收縛德爾等、置於下百濟河田村。
遣數大夫推問其事、德爾等伏罪言
「信是、恩率參官教使爲也。
僕等、爲人之下不敢違矣。」
贄子大連…〈閣庫〉ニヘノ子大連
小郡…摂津国西成郡に相当(継体六年《東成郡説》)。
畔丘…〈閣庫〉畔丘ホトリオカノ
聚居一處…〈閣庫〉聚-居おかは一處〔一処(ひとところ)に置かば〕
其変…〈釈〉ソノ-ハカリコトヲ
河田村…〈前田本〉シモツ百済河田。〈北野本〉河-田。〈閣庫〉シモツ百済阿田
大伴村…〈北野本〉大-伴 トモノ
数大夫…〈閣庫〉カスノ大-夫
推問…〈閣庫〉推-問カムカヘ
信是…〈閣庫〉マコトナリ。 〈北野本〉 レ
為人之下…〈北野本〉シモ
天皇(すめらみこと)、
[詔]贄子(にへこ)の大連(おほむらじ)、
糠手子(ぬかてこ)の連(むらじ)におほせことして、
[於]小郡(をこほり)の西の畔(ほとり)の丘前(をかさき)に収(をさ)め葬(はぶ)ら令(し)めて、
其の妻子(めこ)、水手等を以ちて[于]石川(いしかは)に居(お)けり。
於是(ここに)、大伴(おほとも、とも)の糠手子(ぬかてこ)の連(むらじ)議(はか)りて曰(まを)さく
「一処(ひとつのところ)に聚(あつ)めて居(お)かば、恐(おそるらく)は其の変(あやしかること、はかりこと)を生(な)さむ。」とまをして、
乃(すなはち)妻子を以ちて[于]石川(いしかは)の百済村(くたらむら)に居(お)きて、
水手(かこ)等(ら)を[于]石川の大伴村(おほともむら)に居(お)けり。
徳爾等(ら)は収(をさ)め縛(しば)りて、[於]下百済(しもつくたら)の河田村(かはたむら)に置く。
数(そこばくたりの)大夫(まへつきみ)を遣(つかは)して其の事を推問(かむが)はしめて、徳爾等罪(つみ)に伏して言(まを)ししく
「信(まこと)是(これ)、恩率(おむそつ)参官(さむくわむ)の教(をし)へ為(な)さ使(し)めしこと也(なり)。
僕(やつかれ)等(ら)、人之下(ひとのしも)を為(な)して不敢違(あへてたがはざりき)[矣]。」とまをしき。
由是、下獄、復命於朝庭。
乃遣使於葦北、悉召日羅眷屬、
賜德爾等任情決罪。
是時、葦北君等、受而皆殺、投彌賣嶋。
【彌賣嶋、蓋姬嶋也。】
以日羅、移葬於葦北。
於後、海畔者言
「恩率之船、被風沒海。
參官之船、漂泊津嶋、乃始得歸。」
下獄…〈北野本〉 シテヒトヤニ〔獄にくだして〕
弥売嶋…〈釈〉弥賣ミメシマ 姫嶋ヒメシマナリ
津嶋…〈釈〉津-嶋トマリニ
海畔…〈閣庫〉ヘタノヒト〔はたのひと〕
是に由(よ)りて、獄(ひとや)に下(くだ)して、[於]朝庭(みかど)に復命(かへりことまを)す。
乃(すなはち)使(つかひ)を[於]葦北(あしきた)に遣(つかは)して、悉(ことごとく)日羅(にちら)の眷属(やから)を召して、
徳爾等(ら)を賜(たまは)りて情(こころ)の任(まにま)に罪(つみ)を決(さだ)めしめたまひき。
是の時、葦北の君(きみ)等(ら)、受けて[而]皆(ことごとく)殺して、弥売嶋(みめしま)に投(す)つ
【弥売嶋は、蓋(けだし)姫嶋(ひめしま)也(ならむ)。】。
日羅を以ちて、[於]葦北に移し葬(はぶ)る。
於後(のちに)、海(わた)の畔(ほとり)の者(ひと)言(い)ひしく
「恩率之(が)船、風を被(かがふ)りて海に没(しづ)む。
参官之(が)船、津嶋(つしま)に漂(ただよ)ひ泊(は)てて、乃(すなはち)始めて得(え)帰(かへ)りき。」といひき。
《贄子大連》
 「贄子大連」というが、その前のところでは「物部贄子」である。
 元年のところでは、物部弓削守屋が大連で、物部贄子"大連"の名はない。 大連は突出した立場と見られ、守屋大連のみであったと見るのが自然であろう。
《百済人謀言》
 「百済人謀言」には「筑紫」とあるが、何を「」したか具体的には書かれていない。
 その中身がわかるキーワードは、「-造国」である。 そして「先づ(ヲミナ)・(ワラハ)を送るという。
 ということは、筑紫に小規模な居住地を借りることを認めさせた上で、 まずは女・童を送って油断させ、あとから成人男子=戦闘員を送り込んで百済が支配する「国」を造ってしまおうという企てと見られる。 「船三百」は、その準備をしているということである。
 日羅はその対抗策として、はじめは騙された振りをして、女・童を載せた船が来たところで壱岐対馬に置いた伏兵が襲撃して相手の意図を挫けと提案する。
 つまり「国家」は倭国を意味する。古訓が「三門〔朝廷(ミカド)〕」とするのは、文章を正しく読み取っていることを示している。
《以恩率為一人以参官為一人》
 なぜ「恩率一人参官一人」なる注があるかというと、 「恩率」は位階で「参官」は位階ではないからである。
 先の「恩率徳爾余怒奇奴知参官柁師」において、「恩率」が徳爾・余怒・奇奴知・参官・柁師の全員に掛るのは明らかである。 だから、「恩率参官」は一人の名前である。
 ところが、「旧書では恩率と参官が分割されて、別人物として扱われている」と報告するのが原注の趣旨である。 最後の「海畔者うみのほとりのひと」の言い伝えにおいては「恩率」と「参官」が、それぞれが別の船に乗ったことになっている。 この箇所は「旧書」に拠ると見られる。
 恩率徳爾以下の使者のリストは、百済滅亡の際に倭に逃れた王族が持ち込んだ文書に拠る可能性がある(欽明16《百済文書》)。 「旧書」とは、それとは別の古記録のことであろう。
《途於血鹿》
 恩率参官たちが畿内に滞在していたことは間違いないから、帰路は難波津⇒筑紫⇒壱岐⇒対馬⇒百済である。血鹿〔値嘉島;五島列島〕経由の航路は、考えられない。
 百済に向かうのが、もし葦北発なら、五島列島を経由するだろう。 仮に、恩率参官たちが葦北に滞在していたという別伝〔例えば、上記《以恩率為一人以参官為一人》で述べた「旧書」〕があったとすれば、その内容が部分的に本伝に紛れ込んだ可能性がある。
《日羅身光有如火焔》
 書紀における日羅像は、基本的に政治家としての姿であるが、ここに「身光有火焔」との表現がある。 当時既に高僧日羅を神がかった姿として描く伝説が存在し、それを取り入れたものであろう。
 平安時代の書と言われる『聖徳太子伝略』には、太子が十二歳のときに宮を抜け出して、日羅に面会しに行った場面がある。 そして二人が対面したとき、「日羅大放身光火熾炎。太子亦眉間放光如日輝之枝〔日羅、大(はなはだ)身より光を放ちたること、火の熾(さかり)なる炎(ほむら)の如し。太子亦(また)眉間より光を放ちたること、日の輝(かかや)ける技(わざ)の如し。〕 という面白い表現がある。
 これは日羅と聖徳太子の双方を仏教の聖人として超人的な姿に描くわけだが、もともとは書紀の「身光有如火焔」から敷衍したものであろう。
《小郡西畔丘前》
 〈孝徳紀〉三年に「小郡而営」とあることから、小郡は建物名であるとする説もあるが、 その部分をもう少し後ろまで読むと「小郡而営宮。天皇処小郡宮而定礼法〔小郡を壊(こぼ)ちて宮を営(つく)る。天皇、小郡の宮に処(いま)して礼法を定む〕とある。
 すなわち、「小郡」という土地に建てた宮だから「小郡宮」と称したのである。 従って「小郡」とは、「小郡にそれまで建っていた建物を壊して」という意味である。
 同じ〈孝徳紀〉二年に郡を広さで分類して、 「凡郡以四十里大郡。三十里以下四里以上為中郡。三里為小郡」と述べるが、 この中の「小郡」ともまた、郡の範疇である。〔一里(さと)=三百歩(あし)=約540m。〕
 摂津国の小郡が大阪湾に陸地を広げたのが西成郡になったと見られることは、 継体紀六年【難波館】の項で考察した通りである。
日羅公之碑
川崎村の範囲は1889年当時。ja.wikipedia.org「西成郡」による
<2.5m;≧20m 航空写真
地理院地図-自分で作る色別標高図
 さて、大阪市北区には日羅の墓の伝承地がある。 「大阪市公式ページ歴史の散歩道/伝日羅(にちら)墳跡」によれば、 日羅公之碑が「北区天満橋二丁目」の「源八渡し跡」碑南側」に建ち、 「この付近は日羅初葬の地と伝えられるところで、碑はここより西約200mの民家前にあった」とある。
 『五畿内志』摂津国-西成郡には、【陵墓】の項に「僧日羅墓【在大阪大〔天〕満同心町〔中略〕-葬日羅於小郡西畔丘前即此】」とある。 その「天満同心町」については、【村里】の項に「町名都四百有四〔中略〕其五十五謂之天満〔町名:都(すべ)て404町〔中略〕その50町を天満という〕とあり、天満と称される範囲に同心町が含まれた。
 この「同心町」については、『日本歴史地名大系』-大阪府〔平凡社;1986〕は、「大坂町奉行同心・与力屋敷跡」の項で 「同心屋敷地は江戸時代から同心町とよばれている例があり、与力屋敷地も同様に与力町と通称されていたと考えられる。」、そして 「明治六年〔1873〕当地域は西成にしなり川崎かわさき村に編入された。」と述べる。 現在の同心一・二丁目と与力町の区域は江戸時代の同心町・与力町の範囲を引き継ぐもので、 概ね旧川崎村の南部に重なっていることが確認できる(右図右上)。
 その川崎村については、『五畿内志』摂津国-西成郡の【村里】の項に「川崎【村民雑-居天満」と述べる。
 日羅公の碑がもともとあったとされる「西200m」の地点は、現在の同心二丁目の中にあたり、 よって『五畿内志』が述べる「僧日羅墓」の伝承地が現代まで引き継がれていることが確認できる。 しかし、この伝承地は書紀の「小郡西畔丘前」という表現にはあまり合致しない。
 伝承地が西成郡との郡界にかなり近い点は、西成郡がまだ狭かったとすれば理解できるが、 高低図(右図左下)を見ると、堂島川より北は、標高が最も高い箇所でも7.5m未満である。 「」と言い得る地形は、やはり上町台地ではないだろうか。 すると、「小郡の西の畔」かつ「丘の先」は、上町台地の北西、高低図のの辺りとなる。 これなら「丘=上町台地の前(さき)〔前方〕と言い得る。残念だが、その範囲には日羅の墓の伝承地は含まれていない。
 ただ、伝承地の南西は、高低差数mでも広々としていて「」と呼ばれたのかも知れない。 「西畔」が一字のみにかかるとすれば、 「"小郡の西にある丘"の〔北東方向の〕」と読め伝承地が復活する。 それでも「丘」というには低すぎ、また文を細かく区切りすぎる印象がある。
 仮に、伝承地が実際の埋葬地と異なっていた場合、それはむしろそれだけ伝説の広がりがあったことを示すものであろう。
《石川大伴村》
 〈五畿内志〉-「河内国石川郡」を見ると、村名と氏族名にオホトモが見える。
○【村里】:「北大友 南大友」。
○【氏族】:「大伴連【天彦命之後】。
 『旧高旧領取調帳』(明治初期)の河内国石川郡に「北大伴村:代官 石原清一郎」「南大伴村:代官 小堀勝太郎」がある (旧高旧領取調帳データベース)。 幕末の時点では、大伴と表記されたようである。
 『大日本地名辞書』には、「富田林の東石河の南を大伴村とす、大字山中田に大伴塚ありしが今開墾す。」 「姓氏録云、河内国未定雑姓、大伴連、天彦命後也、 又大友史、百済国人白猪奈世之後也」とある。 『新撰姓氏録』は他に、〖諸蕃/大伴造/出自任那国龍主正孫佐利王也〗がある。
 なお大伴の本流は、「神別」の「大伴宿祢」でその祖は、〖初天孫彦火瓊々杵尊神駕之降也。天押日命。〗とされる。 神武天皇に随伴して活躍した「道臣命」も大伴氏の祖とされ、両者の系図の上の接続は、平安初期ではないかと推察した (第98回【大伴連・久米直】)。
 〖未定雑姓/大伴連〗は祖を「天彦命」とするので、別氏族がたまたま同じ名を名乗ってたことも考えられる。 『大伴姓諸流系図』と言われるものには、天忍日命と道臣命の間に「天津彦日中咋命」が見え、これが「天彦命」だとすれば、 「大伴連」は早期に本流から分かれたのかも知れない。
 『大日本地名辞書』が、河内国大伴村が未定雑姓/大伴連に関係すると判断した根拠は不明であるが、 仮に、大伴造と大友ふひともこの地にいたのだとすれば、百済系が住んでいたことになる。 そこに、水主らもまた住むことになったのかも知れない。 この「水主」が白猪奈世であったという見方もできるが、確かなことはわからない。
《下百済河田村》
 下百済河田村について、〈大日本地名辞書〉は、「阿田は蓋河田カウタの誤なり、廿山村大字甲田カフタあり、河田の訛に似たり、 又本〔の〕新居ニヰは即下百済にあたる、百済郷は彼方長野にあたる可し。」と述べる。 ここ「新居」を挙げたのは、〈倭名類聚抄〉高山本で{河内国・石川郡・雑居郷}が「新居郷」となっていることによると見られる。 「新居郷」とは、百済の渡来民が「""たに""した郷」ではないかというのである。
 また「長野」は、現在は富田林市に南接する河内長野市にあたる。
 『日本歴史地名大系』は、「阿田」が「〔太子町〕に転訛した説を否定して、 「畑も山間部にあり、国家体制の整ってきた六世紀後半の宮居にはふさわしくない。河内の百済の地に求めるならば、石川に近い旧石川・錦部両郡の平野部、すなわち現富田林市域とするのが穏当であろう。」 つまり、徳爾を推問した官庁は、山間部のは相応しくなく、平地にあるべきだとする。
《石川百済村》
 大伴村の地名が現在まで残るのに対して、地名「百済」は全く失われている。 大友史は百済から渡来したから、大伴村を含む地域が百済人の居住地となっていて、百済村と呼ばれた地域もあったのかも知れない。
 『日本歴史地名大系』は「大阪府/錦部郡/百済郷」の項で、「百済郷」の存在を想定して、 「甲田・廿山から錦部にしごり彼方おちかた伏山ふしやま板持いたもち伏見堂ふしみどうなどの諸村、 現富田林市の中部を百済郷の境域と推定したい。」と述べる。列挙された地名は、甲田から石川沿いに南kmの範囲にあたる。 同書は、この想定範囲も「畑=阿田の転訛」説を否定する理由の一つとする。
《葦北君》
 地方氏族「葦北氏」が存在し、その首長が葦北君ということになる。 〈姓氏家系大辞典〉は「葦北国造家の氏姓を葦北君と云ふ」と述べるが、〈国造本紀〉や〈書紀〉に載ることしか書いていないので、 他の資料には見出していないようである。
 その葦北君が示した日羅殺害者への激しい憎しみは、日羅が百済にいたにも拘わらず、同族意識が強固だったことが伺える。
 これは《火葦北国造阿利斯登》の項で述べたように、任那地域に葦北氏の一部が移ったことを裏付けている。
 また、百済王は日羅は任那地域に住んだが故に、その来倭を渋ったと考えることができる。 任那地域そおものは既に新羅に組み込まれていたが、日羅はかつての百済による任那地域への干渉に対しては反感を抱いていたと思われる。
 百済は再三の要請によって来倭を許したが、徳爾たちには日羅に対する監視という密命を含ませて同行させたと見られる。 百済王にとって、日羅は獅子身中の虫であった。
《弥売嶋》
 弥売嶋(みめしま)のことを、原注は姫嶋だと解釈している。姫島は熊本県の現在地名にはなく、今のところ諸文献にも見つからない。
 他の地域の姫島としては、〈安閑天皇二年〉に摂津国の「媛嶋」に牧を置いた記事があり、 現在地名の大阪市西淀川区姫島に繋がると考えられている。 また、豊後国の国東半島沖にも姫嶋がある(第173回)。 この二つの姫島は、難波から葦北への航路にあるから、そのどちらかに死体を棄てて行ったことが考えられる。 なお、宣長は玄界灘の「姫嶋」も挙げており(同回)、これも葦北への航路の途中だが、この島と見られる島は今のところ他に見えない。
 摂津の媛島はまだ難波に近い処だから、勝手に死体を棄てるの許されないのではないように思われる。だとすれば豊後国の姫島ということになる。
《移葬於葦北》
日羅公墓 刻字
 日羅の墓碑が、百済来地蔵堂(熊本県八代市坂本町百済来下)に置かれている。
 「八代市公式」によると、 「本尊延命地蔵菩薩(木造座像、金箔)は、第30代敏達天皇元年〔572〕日羅が、百済国より父の芦北国造阿利斯登に贈ったものと伝えられ」、 「宝亀元年〔770〕八代郡司檜前中納言政丸により、日羅の後裔加津羅家に伝えられていた仏像(現本尊)を日羅の墓印として、地蔵堂を建立した」という。 百済来地蔵堂は、平成9年〔1997〕に八代市文化財に指定され、その対象には本堂と仏像三体のほか「古位牌」、「日羅公墓」も含まれている。 本尊「延命地蔵菩薩」は、写真を見る限りでは、とても飛鳥時代のものとは思われない。
 なお、葦北郡には「日羅将軍神社」(熊本県葦北郡津奈木町福浜186、七浦オレンジロード沿い)がある。 くまもと緑・景観協働機構のページにによれば、日羅の遺体を載せた 「船が着いたといわれる海岸が「だげく塚」と呼ばれる、現在の津奈木町福浜の赤崎あたり」で、「山の上にある将軍神社までは歩いて15分ほど」、 「日羅像には、弘化2年〔1845〕仏師宮地勘十郎孝之の銘」があるという。 同書は「将軍神社の創建などは不明」という。年代は分からないが、後世の人が日羅の業績に思いを馳せて創建したのは間違いないだろう。
 また、「僧日羅」として坊津一乗院(鹿児島県南さつま市坊津町坊)、谷山慈眼寺(同鹿児島市下福元町)の開祖と伝わる。
《大意》
 再び阿倍目臣(あべのめのおみ)、 物部贄子連(もののべのにえこのむらじ)、 大伴糠手子連(おおとものぬかてこのむらじ)を遣わして、 国の政(まつりごと)のことを日羅に質問させました。
 日羅は、それに答えて申しました。
――「天皇(すめらみこと)は、天下(あめのした)の政(まつりごと)を治められる以上は、黎民(れいみん)を護り養うことが必須です。 どうして、兵を興して却って滅ぼすことが許されましょうか。
 よって、今もし議を合わせるなら、朝廷にお仕えする、列臣、連(むらじ)、二つの造(みやつこ) 【二つの造とは、国造(くにのみやつこ)と伴造(とものみやつこ)を指す】、 下は百姓(ひゃくせい)〔=諸族〕に及び、皆がことごとく繁栄し、欠乏することのないようになさりませ。 そのようにして三年、食は足り兵も足れば、 悦びをもって、庶民は水や火を憚ることなく、国難を共に憂えるようになりましょう。
 そのようになった後に、多くの船舶を造り、湊毎に並べて置き、 外国の客人に見せれば、恐れを抱かせるでしょう。
 その上で、有能な使者をもって百済に、国王を招請させなさいませ。 もし、来ないというなら、その太佐平、王子ら呼びましょう。 こうして、自然に心に謹んで伏す気持ちを生むのです。 その後で、罪を問うべきです。」
 また、奏上しました。
――「百済の人は策謀して、船三百隻を有して、 筑紫に〔土地を預かる事を〕要請しようと申しております。
 もし実際に要請してくれば欺いて預けるべきです。 すると、百済は、 新しく国を造ろうとして、必ず最初に女性と子どもを船に載せて来るでしょう。 国家〔=倭〕は、この時を待ち受けて、壹伎(いき)対馬(つしま)に大量に伏兵を置き、 来たところを伺って殺しなさいませ。 決して相手が掌を返して欺かれることのないように。要害の所毎に堅く要塞を築きなさいませ。」
 このとき、恩率(おんそつ)参官(さんかん)が国を退出する時に臨み、 【旧本には、 恩率を一人として、参官を一人とする】、 密かに徳爾らに語るに、 「私が筑紫を過ぎる頃を見計らって、お前たちが密かに日羅を殺せば、 私は具(つぶさ)に王に申し上げ、高爵の身を賜わり妻子に及び、栄誉を子孫に垂れるであろう。」と言い、 徳爾(とくに)、余奴〔=怒〕(よぬ)は、皆了承しました。
 参官たちは、遂に血鹿(ちか)〔=値嘉の島;五島列島〕に道を発ちました。
 このとき、日羅は、桑市村から難波の館(むろつみ)に移りました。 徳爾は、昼夜相計って殺そうとしました。 その時、日羅の身は光り、炎のようでした。 その故に、徳爾ら恐れて殺せませんでした。
 遂に十二月の晦、光を失ったことをを覗って、殺しました。 日羅、更に蘇生して申し上げるに、 「これは、、我が国が派遣した使者の奴らの仕業であって、新羅ではない。」と 申し終えて死にました 【ちょうどこの時、新羅の使者が来ていたので、このように言った】。
 天皇(すめらみこと)は、 贄子(にえこ)の大連(おおむらじ)、 糠手子(ぬかてこ)の連(むらじ)に詔して、 小郡(おごおり)の西の畔(ほとり)の岡の先に収め葬(はぶ)らせて、 その妻子と水手らを石川に住まわせました。
 そのとき、大伴の糠手子連が意見して 「一か所に集めて住まわせて恐れるのは、変事を生じることです。」と申し上げ、 よって妻子を石川の百済村に住まわせて、 水手(かこ)らを石川の大伴村(おおともむら)に住まわせました。
 徳爾らは収縛して、下百済(しもつくだら)の河田村(かはだむら)に置きました。 数人の大夫を派遣してこの事件について推問させ、徳爾らは罪に伏して申し上げるに、 「まことにこれは、恩率(おんそつ)参官(さんかん)が教えて行わせたことです。 わたくしどもは、仕え人ですので敢て違えることをしませんでした。」と申し上げました。
 この故に、下獄して朝庭に復命しました。 すると使者を葦北に派遣して、悉く日羅の眷属〔=一族〕を呼び集め、 徳爾らの身柄を与えて、思い通りに罪を決めよと言い渡しました。 この時、葦北の君らは、身柄を受け取り皆殺して、弥売嶋(みめしま)に投げ捨てました 【弥売嶋は、おそらく姫嶋(ひめしま)であろう】。
 日羅を、葦北に移葬しました。
 後世、海の畔の人の間では、 「恩率の船は、風を被(こうむ)り海に没んだ。 参官の船は、津嶋〔対馬〕に漂着し、初めて帰ることができた。」と言われます。


まとめ
 日羅は、朝廷に百済への警戒を促し、付け入る隙を与えないようにまずは国力の充実に努め、 またその策略に嵌るなと言う。
 かくなる献策は友好ムードに水を差すもので、言わば倭済同盟に楔を打ち込むものである。 日羅はもともと、百済王派に対する野党であったと見られる。 既に新羅に吸収されたが、かつての任那(加羅地域)の出身者として、百済への不信感は拭えないものがあったと想像される。
 一方、倭国内にあっては物部室屋大連は反仏教派であるが、同時に反百済勢力でもあったと考えられる。 百済が倭における仏教の展開を後押ししたのは、倭に文化的に浸透することによって同盟を強め、新羅に対抗しようとする意図があったと見られる。 だから、室屋が反仏教であったのは、百済の風下につくことを嫌う国粋主義の人であったからである。
 日羅はその室屋の意向に適う得難い人物であったから、百済王派の根城となっていた難波館入りを渋る日羅を助け、 阿都(阿斗)の別業なりどころに館を提供して庇護したと解釈することができる。
 日羅は参官が去った後に難波館に移ったというから、おそらくそれまでは参官は難波館に滞在し、日羅は専らこの人物を警戒していたのであろう。 ところが、難波館に移ってみると、これまで味方だと思っていた徳爾が実は参官派に寝返っていて、まんまと暗殺されたというストーリーが読み取れる。
 さて、日羅は難波と葦北郡に数々の伝承地があり、なかなかの有名人である。 日羅という名前には高僧のイメージがあり、火焔(ほむら)のように光を発したという場面もそのイメージによる伝説であろう。 『五畿内志』でも「僧日羅」と表記される。 さらに鹿児島県の坊津一乗院、谷山慈眼寺の開祖と伝わる。
 このように、僧として、また将軍とも称されて崇拝されるところに、伝承の広がりが現れている。



2020.11.29(sun) [20-05] 敏達天皇5 


目次 【十三年】
《遣難波吉士木蓮子使於新羅遂之任那》
十三年春二月癸巳朔庚子。
遣難波吉士木蓮子使於新羅、
遂之任那。
秋九月。
從百濟來鹿深臣【闕名字】、
有彌勒石像一軀、
佐伯連【闕名字】、
有佛像一軀。
イタビカズラ
木蓮子…[名] 〈倭名類聚抄〉「木蓮子【和名以太比】」。
いたび…[名] イタビカズラ。双子葉類クワ科イチジク属。匍匐性ツル植物。
…[動] ゆく。
鹿深臣…〈釈紀-秘訓〔以下釈〕鹿深臣カフカノヲム。 〈前田本〉マウケル鹿深カ フカ
闕名字…〈北野本〉モラセリ
弥勒石像…〈釈〉モタリ弥勒石像一軀ミロクノイシノミカタヒトハシラヲ。 〈内閣文庫本〔以下閣庫〕モテリタモテリ私モタリ〔私=私説〕
十三年(ととせあまりみとせ)春二月(きさらき)癸巳(みづのとみ)を朔(つきたち)として庚子(かのえね)〔八日〕
難波吉士(なにはのきし)木蓮子(いたび)を遣(つか)はして[於]新羅に使(つかひ)せしめして、
遂(つひ)に任那(みまな)に之(ゆ)く。
秋九月(ながつき)。
百済(くたら)従(ゆ)鹿深臣(かふかのおみ)【名の字(じ)を闕(か)く】来(まゐきた)りて、
弥勒石像(みろくのいしのみかた)一躯(ひとはしら)を有(たも)てり。
佐伯連(さへきのむらじ)【名の字を闕く】、
仏像(ほとけのみかた)一躯を有(たも)てり。
是歲、蘇我馬子宿禰、請其佛像二軀。
乃遣鞍部村主司馬達等
池邊直氷田、
使於四方訪覓修行者。
於是、唯於播磨國得僧還俗者、
名高麗惠便。
大臣、乃以爲師、
令度司馬達等女嶋〔女〕
〔名〕曰善信尼年【十一歲】、
又度善信尼弟子二人。
其一、漢人夜菩之女豐女名曰禪藏尼、
其二、錦織壼之女石女名曰惠善尼。
【壼、此云都苻。】
…[動] 〈閣庫〉マセテ〔コヒテ〕
鞍部村主…〈釈〉鞍部クラツクリノ村主スクリ司馬達等シハタツト。 〈北野本〉鞍部村-主クラヘノスクリ司-馬-シハ達等タツラ
池辺直氷田…〈釈〉池邊直イケヘノアタヒ氷田ヒタ
修行者…〈閣庫〉四-モニ ト -覔修-行ヲコナ ヒトヲ。 〈前田本〉四脩-行-者 オコナヒト 
…[動] (万)1166 覓乍 もとめつつ
還俗…〈釈〉ホウシ法師也-還-俗-者カヘルヲ。 〈前田本〉僧-還-俗法師カヘリノ。 〈北野本〉僧-還-俗者ホウシカヘリノモノヲ
令度…〈前田本〉家出セシム
…〈釈〉惠便ヱベム。〈閣庫〉惠便ヱビム
以為師…〈釈〉シテノリノシト
女嶋…〈釈〉女嶋ヒメシマ〔誤読〕
善信尼…〈釈〉セム-シム/シムノ アマ
弟子…〈閣庫〉弟子テシ〔〈元興寺-縁起〉Ⅰ(g)参照〕
夜菩…〈釈〉夜菩ヤホカムスメ豊-女トヨメナヲイフ禪-藏尼セムサウノアマト
錦織…〈釈〉錦-織ニシコリ。 〈前田本〉錦織ニシコリ ツフ壺此云都苻ツフネ
恵善尼…〈釈〉惠-善尼ヱセムノアマ
つほ…[名] 壺。「つふ」とも。
是(この)年、蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)、其の仏像(ほとけのみかた)二躯(ふたはしら)を請(こ)ひて、
乃(すなはち)[遣]鞍部村主(くらつくりのすぐり)司馬達等(しばたつと)、
池辺直(いけべのあたひ)氷田(ひた)をつかはして、
[於]四方(よもに)修行者(おこなひひと)を訪覓(もと)め使(し)む。
於是(ここに)、唯(ただ)[於]播磨(はりま)の国に僧還俗(ほふしかへり)の者(ひと)を得てあり、
名は高麗(こま)の恵便(ゑべむ)。
大臣(おほまへつきみ)、乃(すなはち)師(のりのし)と以為(な)して、司馬達等(しばたつと)が女(むすめ)嶋(しま)〔女(め)〕を度(わたら、いへでせ)令(し)めて、
〔名(なづ)けて〕善信尼(ぜむしむのあま)と曰ふ、年(とし)は【十一歳(とをちあまりひとつ)】。
又(また)善信尼の弟子(ならふひと、ていし)二人(ふたり)度(わたり、いへでし)て、
其の一(ひとり)は、漢人(あや)の夜菩(やぼく)之(が)女(むすめ)豊女(とよめ)、名(なづ)けて禅蔵尼(ぜむざうのあま)と曰ひて、
其の二(ふたり)は、錦織(にしこり)の壼(つふ)之(が)女(むすめ)石女(いしめ)、名(なづ)けて恵善尼(ゑぜむのあま)と曰へり。
【壼、此(こ)を都苻(つふ)と云ふ。】
馬子獨依佛法、崇敬三尼。
乃以三尼付氷田直與達等、
令供衣食經營佛殿於宅東方、
安置彌勒石像、屈請三尼大會設齋。
此時、達等得佛舍利於齋食上、
卽以舍利獻於馬々子々宿々禰々。
崇敬…〈前田本〉法崇敬ミノリ カタチ ヰトフ。 〈閣庫〉法崇敬ミノリ カタチ ヰヤフ
付氷田直…〈前田本〉サツケ ヒ田直
供衣食…〈前田本〉供衣食マツラ キモノ クヒモノ経-營 ツクリ
大会設斎…〈釈〉大-會設-齋タイヱノヲカミス
安置…〈前田本〉安-置マセマツル
屈請…〈前田本〉屈-請イマセ。 〈閣庫〉屈-請イラセ。 〈汉典〉「屈請:延請」。「延請:[send for;employ] 招請」。
仏舎利…〈釈〉佛舍利ホトケノシヤリ
斎食…〈釈〉・〈前田本〉齋-食イモヒ
馬子(うまこ)独(ひとり)仏法(ほとけのみのり)に依りて、三尼(みたりのあま)を崇敬(をろがみゐやま)ひき。
乃(すなはち)三(みたりの)尼を以ちて、氷田直(ひたのあたひ)与(と)達等(たつと)とに付(つ)けて、
衣(ころも)食(くらひもの)を供(たま)は令(し)めて、仏殿(ほとけのみあらか)を[於]宅(いへ)の東方(ひむがしのかた)に経営(いとな)みて、
彌勒(みろく)の石像(いしのみかた)を安(やすらか)に置(お)きて、三(みたりの)尼を屈請(ねがひよ)びて大(おほ)きなる会(ゑ)を斎(いみ)に設(まう)けり。
此の時、達等(たつと)仏(ほとけ)の舎利(しやり)を得て、[於]斎食(いみのいひ)に上(のぼ)りて、
即(すなはち)舎利を以ちて[於]馬子宿祢(うまこのすくね)に献(たてまつ)りき。
試以舍利置鐵質中振鐵鎚打、
其質與鎚悉被摧壞、而舍利不可摧毀。
又投舍利於水、舍利隨心所願浮沈於水。
由是、馬子宿禰
池邊氷田
司馬達等、深信佛法、
修行不懈。
馬子宿禰、亦於石川宅修治佛殿。
佛法之初、自茲而作。
鉄質…〈前田本〉ミテ
…[名] かわりになるもの。もとになるもの。「しろ」と同義。
鉄鎚…〈新撰字鏡〉「:鍛具。加奈豆知
被摧壊…〈前田本〉レヌ摧-壊
摧毁…〈汉典〉強力破壊;毀壊[近]破壊、粉碎、毀壊、摧残。
…[副] 〈前田本〉ナヲ
…[動] 〈前田本〉シツム
深信…〈前田本〉深-信タモチ ウケ
修行…〈前田本〉脩行オコナヒスル。 〈閣庫〉脩行オコナイスルコト
修治…〈前田本〉脩治ツクリ/ル。 〈閣庫〉修治ツクリ
而作…〈前田本〉・〈閣庫〉オコレリ。 〈北野本〉オコル
馬子宿祢(うまこのすくね)、試(こころみ)て舎利(しやり)を以ちて鉄(くろかね)の質(しろ)の中に置きて、鉄鎚(かなつち)を振(ふ)り打てば、
其の質与(と)鎚(かなつち)とは悉(ことごとく)被摧壊(こほたえ)て、而(しかれども)舎利(しやり)を摧毀(こほ)すこと不可(べからず)。
又、舎利を[於]水(みづ)に投(な)げいるれば、舎利、心所願(こころのねがへる)隨(まにま)に[於]水に浮沈(うきしづ)みつ。
是(これ)に由(よ)りて、馬子宿祢、
池辺氷田(いけべのひた)、
司馬達等(しばのたつと)、仏法(ほとけのみのり)を深く信(う)けて、
修行(おこなひすること)を不懈(おこたらず)。
馬子宿祢、亦(また)[於]石川(いしかは)の宅(いへ)に仏殿(ほとけのみあらか)を修治(つくりをさ)む。
仏法(ほとけのみのり)之(の)初(はじめ)、茲(これ)自(よ)り[而]作(おこ)れり。
《遂之任那》
 〈欽明紀-二十三年〉「新羅打-滅任那官家」により新羅の統治下となり、 任那(加羅、阿羅などの地域)の官家(倭人入植地)との連絡は途絶えていたと考えられる。 新羅との粘り強い交渉の末に、「遂に」本国との往来を取り戻したことを意味すると思われる。
《『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』との比較》
敏達紀十三年 〈元興寺縁起〉
弥勒石像持来
仏像持来
鹿深かふか
佐伯連
甲賀かふか
 
還俗僧 僧還俗者 高麗惠便
 
・バわあ脱衣高麗老比丘 惠便
老比丘尼 法明
父・女名・法名 鞍部村主くらつくりのすぐり司馬達等善信尼 年十一歳
漢人あや夜菩豊女禪藏尼
錦織にしこり(都苻つふ)・石女惠善尼
くらつくりおびと達等斯末賣しまめ善信 年十七
阿野あや師保斯等已賣とよめ禪藏
錦師都瓶善伊志賣いしめ惠善
その他 池邊直氷田
 弥勒石像の到来と三尼の出家については、敏達紀十三年と 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』〔以下〈元興寺縁起〉〕の記述は、かなり一致するが、 次の相違点がある。
●弥勒像と共にもたらされたもう一体の仏像については、〈元興寺縁起〉には触れられていない。
●〈元興寺縁起〉では、還俗した僧恵便のほかに、法明尼が加わっている。
●三尼のはほぼ一致するが、用字が異なっている。
●三尼の父の姓は類似する。
●尼の父のうち、〈元興寺縁起〉達等の氏「司馬」を欠く。
●尼の父のうち、達等を除く二人は名前が大きく異なる。
 一方、三尼の法名は両者で一致する。ただ、〈元興寺縁起〉では三尼の法名が具体的に書かれるのは一か所のみで、 しかも分注だから、後世に書紀を参照して書き加えた可能性がある。
 それ以外の部分は、敏達紀と〈元興寺縁起〉はそれぞれ独立に書かれたと思われる。 ただし、それらを執筆する手許にはかなり類似した、若しくは同一の資料があったと想像される。
《独依仏法》
 「馬子独依仏法」とは、この時点では仏法に帰依する者はまだ少数で、特に臣の中では馬子一人であったという意味であろう。
《仏舎利》
 馬子宿祢が仏舎利の神秘を見て、仏教への信心を深めた伝説が書かれる。 書紀は基本資料以外に、仏教の一分派で語られていたことまで、手広く収めたのであろう。
 興味深いのは、〔以下〈元興寺縁起〉〕にはこの件がないことである。 この話の直前の、斎食の席で仏舎利を披露するところまでは〈元興寺縁起〉(Ⅰ(d))にも載っている。 むしろ、この部分は書紀を見て書き加えたように感じられるのだが、なぜか仏舎利を試す件は省かれている。
 逆に〈元興寺縁起〉は、馬子が仏教に帰依する決断を促した出来事として、書紀にはない話を載せる。 すなわち、国中の占い師に占わせた結果、父の信仰が神の心に適うとの御託宣を得たという。
《仏殿》
 馬子は彌勒石仏と三尼を置くために、馬子の「石川宅東方」に仏殿を経営したと書き、 次に仏舎利の神秘を体験して仏法を信じ、自らの修行のために「石川宅」に仏殿を修治したと書く。 これらの形だけを読めば、仏殿は二か所に設けられたことになる。
 しかし、仏舎利の件は「仏殿の設置に関しては、別にこういう伝説がある」と付け加えたもので、仏殿は一か所だと思われる。
 ところが、「宅東方〔宅の東の方〕の""は家から離れていることを意味する。よって、これだけを見れば豊浦寺(向原寺)の創始を意味するとも読める。 実際、〈元興寺縁起〉によれば、このとき「櫻井道場令〔桜井道場に住まはしむ〕とあり、 三尼を置いたのは後の豊浦寺の場所であった。豊浦寺(向原寺)は、本明寺の1.1km東に位置するから、これはこれで話は成り立つのである。 それに対して、単に「石川宅」というなら、同じ敷地内であろう。
 もし〈元興寺縁起〉と両立させようとすれば、仏殿は「石川宅東方の仏殿=豊浦寺」、「石川宅の仏殿=馬子の私邸内」の二か所となる。
 だが、両話とも言葉は仏殿だから、〈元興寺縁起〉を考慮しなければ同一の場所として読まれるだろう。 実際〈五畿内志〉も『和漢三才図会』も、「石川宅東方」と「石川宅」を別の場所とは見ていない(いずれも後述)。
 ただ、第二話〔仏舎利の神秘〕には「」が入っている。 これは「自宅にもまた仏殿を作った」、すなわち仏殿は二つだと読むことができる。 しかし、「仏舎利の神秘伝説でもまた、仏殿を修治したと述べる」と読めば仏殿はひとつである。
 また、第一話〔弥勒像の安置と三尼の居住〕は仏殿を「経営」し、第二話は仏殿を「修治」という表現の差がある。 これも仏殿の数への決定打にはならない。
 つまりは、書紀は第一話とともにソースが異なる第二話を収めたが、両者の内容のずれは調整せず並べ置いただけである。
 結局、解釈は読み手次第で、読み手がもし〈元興寺縁起〉を重んずれば仏殿は二つ、さもなければ仏殿は一つとなろう。
《大意》
 十三年二月八日、 難波吉士(なにわのきし)木蓮子(いたび)を新羅に遣使し、 ついに任那に行くことができました。
 九月、 百済から鹿深臣(かふかのおみ)【名前は記録になし】が到来し、 弥勒の石像一体を持参しました。 佐伯連(さへきのむらじ)【名前は記録になし】は、 仏像一体を持参しました。
 その年、蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)は、その仏像二体を貰い受けました。 そして、鞍部村主(くらつくりのすぐり)司馬達等(しばたつと)、 池辺直(いけべのあたい)氷田(ひた)を遣わして、 四方に修行者を探させました。
 すると、ただ一人、播磨の国に僧から還俗した人が見つかり、 その名前は高麗(こま)の恵便(えべん)といいます。 蘇我の大臣(おおまえつきみ)は、直ちに恵便を師として、司馬達等(しばたつと)の娘、嶋〔女〕(しまめ)を得度させ、 善信尼(ぜんしんあま)となりました。年齢は十一歳でした。
 また、善信尼の弟子二人が得度し、 一人目は、漢人(あや)の夜菩(やぼく)の娘豊女(とよめ)で、名を禅蔵尼(ぜんぞうあま)といい、 二人目は、錦織(にしこり)の壼(つふ)の娘石女(いしめ)で、名を恵善尼(えぜんあま)といいます。
 馬子は独り仏法に帰依し、三人の尼を崇敬しました。 そして、三人の尼を氷田直(ひたのあたい)と達等(たつと)に預け、 衣食を提供させ、仏殿を家の東方に作り営み、 彌勒の石像を安置し、三人の尼を招請して大きな会(え)を設けて斎戒しました。
 この時、達等は手に入れた仏舎利を持参して、斎食に臨みました。 そして、舎利を馬子宿祢に献上しました。
 馬子宿祢は、試しに舎利を鉄材の中に置き、金槌(かなづち)を振るって打つと、 その鉄材と金槌は悉く破壊されましたが、舎利を破壊することはできませんでした。 また、舎利を水に投げいれてみると、舎利は、心に念じた通りに水に浮いたり沈んだりしました。
 これにより、馬子宿祢、 池辺氷田(いけべのひた)、 司馬達等(しばのたつと)は、仏法を深く信じて、 修行を怠りませんでした。
 馬子宿祢はまた、石川の家に仏殿を作り治めました。 仏法の初めは、ここから興りました。


【石川宅仏殿】
 蘇我馬子の宅の仏殿が由来とされるのが「石川精舎」で、現在浄土宗本明寺〔奈良県橿原市石川町565〕のところと言われる。 橿原市観光境界サイトによると、 「石川精舎の跡に建てたと伝える由緒を持ち、境内に土垣が残り巨大な五輪塔(南北朝時代)があり」、「蘇我馬子の塔と伝えられ、高さ2.3m。」、 「本尊は釈迦如来、文珠、普賢の両脇侍」であるという。
 『日本歴史地名大系-奈良県』〔平凡社;1981〕は、「大和志」が本明寺を石川精舎の跡とすることについて 「同寺付近には古瓦の出土もないことから、他に求めるべきともいわれ」 「石川町字ウラン坊とする説や、河内国石川〔郡〕の地に求める説もある」と述べる。
 また同書によれば、五輪塔は 「「越智家譜伝」に載る大永三年〔1523〕二月一九日の久米寺石川の合戦で討死した三二人の追善供養のために越智家栄が建てた塔か。もとは橿原市久米町芋洗地蔵境内にあったという」と述べる。
 なお「古瓦の出土もない」と述べる点については、「古瓦」が本明寺の近くから2016年に発掘されている(後述)。
《石川精舎》
 「精舎」の名称は、十四年六月に馬子一人のみに仏法が許されたとき、「新営精舎-入〔三尼〕供養〔新たに精舎を建て、三尼を迎えて供養した〕ところに見える。 それによって、いつの頃からか馬子宅の仏殿に由来すると信じられた寺が「石川精舎」と呼ばれるようになったと見られる。
 〈五畿内志大和国-高市郡〉は、
【古跡】石川廃精舎【石川村古址今有本明寺及石浮屠〔仏塔〕高丈許。敏達天皇十三年秋九月 百済貢弥勒石像蘇我馬子宿祢於石川宅-建精舎仏法之興此為也】
 と記し、本明寺は石川精舎が廃された跡だと述べる。 なお、この中でも「石川宅東方仏殿」と「石川宅仏殿」は同一視されている。 「石浮屠」の高さは「〔1.8m〕余というから、2.3mの五輪塔のことであろう。
石川廃寺と関係遺跡の位置 藤原京条坊との位置関係 (※)
今次調査区 (※) 出土丸瓦片 (※) 現在の本明寺 本明寺五輪塔
※…『藤原京右京十二条三坊・石川廃寺―平成28年度発掘調査報告書―』〔元興寺文化財研究所〕
 また、『和漢三才図会』〔正徳二年〔1712〕成立〕巻七十三に
石川精舎   在豊浦之西
 敏-達天皇十-三-年百-濟-國遣-使所〔二〕持-来彌勒石佛又佛-像一軀賜 蘇我馬-子三-尼一-僧佛-殿於石-川 馬子及池-邊氷-田ヒタ司-馬シハ-達タツトウ皆崇佛道
 敏達天皇十三年、百済国の遣使の持て来たる所の彌勒の石仏、又仏像一躯を蘇我の馬子に賜り、 三尼一僧を置きて之(これ)に供す。 仏殿を石川の家に作り、 馬子及び池辺氷田(ひた)、司馬達(しばたつ)等(とう)、皆佛道を崇(あが)む。
 とあり、馬子の石川宅の東方の仏殿を石川精舎と称するのは、江戸時代には常識となっている。 それ以前のことは、まだ調べ切れていない。
 なお、精舎とは、〈汉典〉によれば「①学舎、書斎。②清静雅潔的房舎。③寺院。因是精勤修行者所居、故称為「精舍」 〔精勤修行者が居すにより、「精舎」という〕」。 要するに、もともとは学び舎を意味したが、そこから寺の意味に転じたという。
《石川廃寺》
 本明寺付近の発掘調査の報告が、 『藤原京右京十二条三坊・石川廃寺―平成28年度発掘調査報告書―』 〔元興寺文化財研究所;2018〕にある(全国遺跡報告総覧で閲覧可能)
 それによると、藤原京期の層において、 「藤原京造営に伴うものと考えられる整地が行われる。この整地は周辺の調査でも確認されており、 大規模に行われていたことがうかがえる。整地土には白鳳時代の瓦が大量に含まれることから、 整地以前に近傍に寺院が存在していたことが分かる」という。
 また、報告のまとめで「ここは石川廃寺と呼ばれる白鳳時代に建立された寺院跡と考えられていますが、 当時はどのような名前の寺院で、どれほどの規模を持つものであったかは解明されていません。」、 序文には「この石川廃寺に関しては、蘇我氏が建立した石川精舎とする考えや、平城京興福寺の前身である厩坂寺とする考えなど」があると述べる。
 藤原京の造営は676年頃から始まったと言われる。
 すなわち、「石川廃寺」は、その条里の構築に伴って粉砕されたと考えられる。 この調査の時点では、伽藍の配置は解明されなかったようであるが、出土物に「瓦が大量に含まれる」というからには、 堂塔が存在していたことに間違いはない。
 「白鳳時代」は文化史における時代区分で、673~710年と規定されている。 したがって、瓦そのものは馬子の時代のものではないが、馬子の時代に創建され寺が存続し、 その後堂塔が建て直されたことは十分に考えられる。
 『日本歴史地名大系』執筆の頃には「発見されていない」とする瓦がここで見つかったわけだから、 少なくとも状況は変化している。
《石川》
 前述したように「石川宅東方」が豊浦寺を指す可能性を内包することを考えれば、河内国石川郡はないと見てよいだろう。
 江戸時代の石川村については、〈五畿内志〉高市郡の【古蹟】では「石川村」だが、【村里】では「石河」となっている。 また、高市郡【村里】「曽我【旧名蘇我大路堂】」、【古蹟】「廃曽我大寺【曽我村】」とあり、かつて蘇我氏の寺院があったことが分かる。 ここが蘇我氏の本貫とされ、 その氏神が{大和国/高市郡/宗我坐宗我都比古神社二座【並大。月次新甞】〔比定社:奈良県橿原市曽我町1196〕とされる。
 石川村は曽我村にほど近く、 記〈孝元天皇段〉において、「蘇賀石河宿祢」と表記されていることも見逃せない。 すると、馬子の「石川宅」はここにあったと考えるのが妥当か。 寺ではなく「仏殿」とするのは、住居内の礼拝室のような印象を受ける。 それが連続的に伽藍に発展したのか、あるいは別個に寺が建ったのかは、判断のしようがない。 しかし、前身が跡形もなくなった場所でも、その伝承を偲んで再建したのなら精神的には連続性があると言え、 それが「石川精舎」という名称に込められているのかも知れない。

まとめ
 出家希望者を国中に探したが、一人もいなかった。ただ、還俗僧が一人〔〈元興寺縁起〉では二人〕見つかった。
 そこで、試しに司馬達等の娘を還俗僧に会わせてみると、娘の嶋女はその教えに強い興味を示し、友達二人を誘って本格的に仏の道を進む情景が想像される。 また少女たちに仏法を教えるのは、〈元興寺縁起〉の比丘尼の方が確かに雰囲気に合う。
 司馬達等は、娘を還俗僧に会わせてもよいというくらいだから、馬子には協力的である。 そして自らも馬子、池辺氷田とともに修行に参加するようになった。
 さて仏舎利の神秘体験のくだりは、後世に別個に生まれた伝説を付け加えた印象を受ける。 この部分が、この段全体の実録的な基調から浮いているのは確かである。
 これを除けば、〈元興寺縁起〉と比較的よく噛み合っている。 恐らくは、確実な資料が元興寺などに残っていたのであろう。