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2020.10.30(fri) [20-04] 敏達天皇4 ▼▲ |
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8目次 【十二年(一)】 《詔曰屬我先考天皇之世新羅滅內官家之國》
〈倭名類聚抄〉に{肥後国・葦北郡・葦北郷}。 〈国造本紀〉には、葦分〔北〕国造:「纏向日代朝御代〔景行〕。吉備津彦命児三井根子命。定賜国造」 火国については、「瑞籬朝〔崇神〕。大分国造同祖志貴多奈彦命児遅男江命。定賜国造」 「国造」は後の律令郡に繋がる行政区分で、大雑把に言って畿内・筑紫の「県主」に対応し、県主より時代が下る(資料[26])。 《阿利斯登》 ここでは、葦北の国造の阿利斯登は、刑部(おさかべ)、靫部(ゆきべ)の任も負い、 宣下朝のときに大伴金村によって南韓に派遣されたと読み取れる。 〈宣下二年〉には、大伴金村が子の狭手彦を派遣し、「往鎮任那加救百済」 〔任那に往き鎮め、加へて百済を救ひき〕とある。よって、筑紫島の氏族の葦北氏が狭手彦の配下として渡海したという見方も可能となる。 阿利斯登の子が日羅で、やがて出世して位階「達率」を得る。 これとは別に、ほぼ同名の「阿利斯等」が、〈継体紀〉二十三年 にいる。そこでは加羅が新羅に誼を通ずることを妨害した。 同四月条に添えられた原注では、阿利斯等は任那王己能末多干岐と同一人物とする。 「干岐」という称号から見れば「任那国」は、加羅の域内国の一つである。〔「任那国王」は虚構で、単に加羅の干岐の一人かも知れない〕 たまたま同名だったと理解するのが妥当であろうが、全く無関係ではないかもしれない。 つまり、宣化朝にも葦北氏の首長が渡海したのかも知れない。 そして、葦北氏に朧げに伝わっていた祖先の名前が、宣化朝及び敏達朝に渡海した首長の、両方に当てられたことが考えられる。 《以汝之根入我根内》
「私」は分解すれば「ワ+ム」であるがこれでは意味をなさないので、「日本紀私記によれば」の意味と思われる。 イは二人称代名詞で「いやしめていうときに用いる」(〈時代別上代〉)とされる。 女性は「韓語」を用いたとするが、この文自体は倭語に翻訳したものである。だから「が根」も倭語であるはずだが、意味がとりにくい。 接尾語としてのネは、諸辞書の解説では「磐根」「垣根」のように地面にくっついているものにつくとされる。 ここでは「~の居る処」と解釈すれば意味は成り立つが、ぎこちない言い方に感じられる。 つまりは、「外国語の雰囲気を出すために、カタコトの倭語で表した」ということであろうか。 《児嶋屯倉》 児嶋屯倉については、〈欽明十七年七月〉に「遣二蘇我大臣稲目宿祢等於備前児嶋郡一、置二屯倉一」とある。 〈岡山県史〉(「備後国」の屯倉)には、 「児嶋屯倉は、その役所(御宅)があったのは、今の岡山市郡の地だとされる。 ただし、その倉庫群の所在などはまだ確かめられていない。」、 「すぐ西方の穴済には「悪神」がいて、航路をゆく人びとを」苦しめ、 「現地の海人(水軍あるいは海賊)の存在した難所であったろう」、 「がんらいキビ王国の港であった児島津がヤマト朝廷におさえられたのは大打撃であった」、 その「管理・運営は吉備の国造に委ねることをせず、ヤマト王国の朝廷はいわば直接管理のもとにおいた。」 などと述べ、吉備の独立勢力を中央政権の支配下に置く拠点としたとの見方を示している。 《被甲乗馬》 日羅は「庁」〔難波館の管理棟か〕に入らず、「被レ甲乗レ馬」の体で外で待っていた。 このことの意味は判然としないが、 反百済王派の日羅としては、しばしば国王の使者が滞在する難波館に入ることを拒む意思表示ともとれる。 実際、日羅に添えて派遣された徳爾らは、日羅の言動を監視して遂には殺害した。国王派が群がる難波館では、常に警戒していなければならない。 よって、日羅の意を汲んで「阿斗桑市」に営館して滞在させたと読める。 《難波舘》 継体天皇六年、百済使が難波館に滞在した記事のところで、 難波館の位置を考察した(継体六年【難波館】)。 そこでは、難波館と「新館」はともに、難波宮周辺の官庁街にあったのだろうと考えた。 《阿斗桑市》 阿斗は、〈用明二年四月〉に出てくる物部守屋が別業(なりどころ)「阿都」(河内国渋川郡跡部)であろう。 この別業は守屋の滅亡によって没収されて四天王寺の寺領となった(〈崇峻紀-用明二年七月〉)。 つまり、日羅は物部守屋の庇護下に置かれたと解釈することができる。 《大意》 十二年七月一日、 詔して 「我が先の亡き父の天皇(すめらみこと)の御世に属して、 新羅の内官家(うちつみやけ)の国を滅ぼした 【天国排開広庭天皇(あまくにおしはらきひろにわのすめらみこと)〔欽明〕の二十三年、 任那は、新羅のために滅ぼされたことによって、 「新羅は、我が内官家を滅した」と言ったのである。】 先の亡き父の天皇は再び任那を建てようとお謀りになったが、果たせず崩じ、 その志は成らなかった。 これをもって、朕は助けの神の謀を受け賜わり、任那を再び興したい。 今、百済にいる 火(ひ)の葦北(あしきた)の国造(くにのみやつこ)、阿利斯登(ありしと)の子、達率(たつそつ)日羅(にちら)は、 賢明で勇壮である。 そこで、朕はその人と相計ろうと思う。」と仰りました。 そこで、紀の国造(くにのみやつこ)押勝(おしかつ)と、 吉備(きび)の海部直(あまのあたい)羽嶋(はしま)を遣わして、 百済に召喚に応じるよう求めました。 紀の国造、押勝らは百済から帰還し、 朝廷に復命し 「百済の国主は日羅を惜しみ、 お聴き申しませんでした。」と申し上げました。 この年、 再度吉備の海部直(あまべのあたい)羽嶋(はしま)を派遣して、百済に日羅を召すことを求めました。 羽嶋は百済に到着したところで、事前に私的に日羅に会っておこうと思い、 独り自ら家の門のところに赴きました。 俄かに家の裏から出てきた韓(から)の女性が、韓語を用いて 「イガネをアガネのうちに入(い)れよ。」と言って、 そのまま家に入っていきました。 羽嶋はうまくその意を悟り、後に従って入りました。 すると、日羅が出迎え、手を取って敷物に座らせて、 密かに告げるに、 「私が密かに聞いたところでは、百済の国主が疑うに、 天朝は私を派遣した後も、そのまま留めて返さないと疑っております。 だからそれを惜しみ、奉進に同意しないのです。 そこで、宣勅を賜る時に、厳しく猛る顔をして、速やかに召すことを催促なされませ。」と申しました。 羽嶋は、その策に依って日羅を召しました。 そのとき、百済の国主は、天朝を畏怖して敢て勅に逆らわず、 日羅、 恩率(おんそつ)徳爾(とくに)、 余怒(よぬ)、 奇〔哥〕奴知(かぬち)、 参官(さんかん)、 柁師(かじとり)、 徳率(とくそつ)次干徳(しかんとく)、 水手(かこ)ら若干人を、派遣しました。 日羅たちは、吉備の児嶋(こじま)の屯倉(みやけ)に到着して、 朝庭は、大伴(おおとも)の糠手子(ぬかてこ)の連(むらじ)を遣わして、慰労させました。 また、大夫たちを遣して、難波の館(むろつみ)に日羅を訪(たず)ねさせました。 この時、日羅は鎧をつけて乗馬し、門のところに到り、 庁の前に進んで行ったり来たりしていました。 〔大夫たちの姿を見て〕跪き拝礼し、嘆き恨んで 「檜隈宮(ひのくまのみや)に天下(あめのした)を知ろし召す天皇(すめらみこと)〔宣下天皇〕の御世、 吾が君(あがきみ)大伴の金村の大連(おおむらじ)が、国家の為に海表(うみおもて)〔百済、任那〕に遣わした、 火(ひ)の葦北(あしきた)の国造(くにのみやつこ)・刑部(おさかべ)・靫部(ゆけひ)の阿利斯登(ありしと)の子であるところの、 私(わたくし)達率(たつそつ)日羅(にちら)は、天皇(すめらみこと)がお召しになったと聞き、恐れ畏(かしこ)み来朝いたしました。」と言上し、 その鎧を解き、天皇に奉上しました。 こうして館(むろつみ)を阿斗(あと)の桑市(くわのいち)に造営し、日羅を住まわせて、 何でも望むままに供給されました。 【十二年(二)】 《問國政於日羅》
「贄子大連」というが、その前のところでは「物部贄子連」である。 元年のところでは、物部弓削守屋が大連で、物部贄子"大連"の名はない。 大連は突出した立場と見られ、守屋大連のみであったと見るのが自然であろう。 《百済人謀言》 「百済人謀言」には「欲レ請二筑紫一」とあるが、何を「請」したか具体的には書かれていない。 その中身がわかるキーワードは、「欲レ新二-造国一」である。 そして「先づ」女(ヲミナ)・童(ワラハ)を送るという。 ということは、筑紫に小規模な居住地を借りることを認めさせた上で、 まずは女・童を送って油断させ、あとから成人男子=戦闘員を送り込んで百済が支配する「国」を造ってしまおうという企てと見られる。 「有二船三百一」は、その準備をしているということである。 日羅はその対抗策として、はじめは騙された振りをして、女・童を載せた船が来たところで壱岐対馬に置いた伏兵が襲撃して相手の意図を挫けと提案する。 つまり「国家」は倭国を意味する。古訓が「三門〔朝廷(ミカド)〕」とするのは、文章を正しく読み取っていることを示している。 《以恩率為一人以参官為一人》 なぜ「以二恩率一為二一人一以二参官一為二一人一」なる注があるかというと、 「恩率」は位階で「参官」は位階ではないからである。 先の「恩率徳爾余怒奇奴知参官柁師」において、「恩率」が徳爾・余怒・奇奴知・参官・柁師の全員に掛るのは明らかである。 だから、「恩率参官」は一人の名前である。 ところが、「旧書では恩率と参官が分割されて、別人物として扱われている」と報告するのが原注の趣旨である。 最後の「海畔者」の言い伝えにおいては「恩率」と「参官」が、それぞれが別の船に乗ったことになっている。 この箇所は「旧書」に拠ると見られる。 恩率徳爾以下の使者のリストは、百済滅亡の際に倭に逃れた王族が持ち込んだ文書に拠る可能性がある(欽明16《百済文書》)。 「旧書」とは、それとは別の古記録のことであろう。 《途於血鹿》 恩率参官たちが畿内に滞在していたことは間違いないから、帰路は難波津⇒筑紫⇒壱岐⇒対馬⇒百済である。血鹿〔値嘉島;五島列島〕経由の航路は、考えられない。 百済に向かうのが、もし葦北発なら、五島列島を経由するだろう。 仮に、恩率参官たちが葦北に滞在していたという別伝〔例えば、上記《以恩率為一人以参官為一人》で述べた「旧書」〕があったとすれば、その内容が部分的に本伝に紛れ込んだ可能性がある。 《日羅身光有如火焔》 書紀における日羅像は、基本的に政治家としての姿であるが、ここに「身光有レ如二火焔一」との表現がある。 当時既に高僧日羅を神がかった姿として描く伝説が存在し、それを取り入れたものであろう。 平安時代の書と言われる『聖徳太子伝略』には、太子が十二歳のときに宮を抜け出して、日羅に面会しに行った場面がある。 そして二人が対面したとき、「日羅大放二身光一如二火熾炎一。太子亦眉間放レ光如二日輝之枝一。」 〔日羅、大(はなはだ)身より光を放ちたること、火の熾(さかり)なる炎(ほむら)の如し。太子亦(また)眉間より光を放ちたること、日の輝(かかや)ける技(わざ)の如し。〕 という面白い表現がある。 これは日羅と聖徳太子の双方を仏教の聖人として超人的な姿に描くわけだが、もともとは書紀の「身光有如火焔」から敷衍したものであろう。 《小郡西畔丘前》 〈孝徳紀〉三年に「壊二小郡一而営レ宮」とあることから、小郡は建物名であるとする説もあるが、 その部分をもう少し後ろまで読むと「壊二小郡一而営レ宮。天皇処二小郡宮一而定二礼法一」 〔小郡を壊(こぼ)ちて宮を営(つく)る。天皇、小郡の宮に処(いま)して礼法を定む〕とある。 すなわち、「小郡」という土地に建てた宮だから「小郡宮」と称したのである。 従って「壊二小郡一」とは、「小郡にそれまで建っていた建物を壊して」という意味である。 同じ〈孝徳紀〉二年に郡を広さで分類して、 「凡郡以二四十里一為二大郡一。三十里以下四里以上為二中郡一。三里為二小郡一」と述べるが、 この中の「小郡」ともまた、郡の範疇である。〔一里(さと)=三百歩(あし)=約540m。〕 摂津国の小郡が大阪湾に陸地を広げたのが西成郡になったと見られることは、 継体紀六年【難波館】の項で考察した通りである。
『五畿内志』摂津国-西成郡には、【陵墓】の項に「僧日羅墓【在二大阪大〔天〕満同心町一〔中略〕収二-葬日羅於小郡西畔丘前一即此】」とある。 その「天満同心町」については、【村里】の項に「町名都四百有四〔中略〕其五十五謂二之天満一」 〔町名:都(すべ)て404町〔中略〕その50町を天満という〕とあり、天満と称される範囲に同心町が含まれた。 この「同心町」については、『日本歴史地名大系』-大阪府〔平凡社;1986〕は、「大坂町奉行同心・与力屋敷跡」の項で 「同心屋敷地は江戸時代から同心町とよばれている例があり、与力屋敷地も同様に与力町と通称されていたと考えられる。」、そして 「明治六年〔1873〕当地域は西成郡川崎村に編入された。」と述べる。 現在の同心一・二丁目と与力町の区域は江戸時代の同心町・与力町の範囲を引き継ぐもので、 概ね旧川崎村の南部に重なっていることが確認できる(右図右上)。 その川崎村については、『五畿内志』摂津国-西成郡の【村里】の項に「川崎【村民雑二-居天満一】」と述べる。 日羅公の碑がもともとあったとされる「西200m」の地点は、現在の同心二丁目の中にあたり、 よって『五畿内志』が述べる「僧日羅墓」の伝承地が現代まで引き継がれていることが確認できる。 しかし、この伝承地は書紀の「小郡西畔丘前」という表現にはあまり合致しない。 伝承地が西成郡との郡界にかなり近い点は、西成郡がまだ狭かったとすれば理解できるが、 高低図(右図左下)を見ると、堂島川より北は、標高が最も高い箇所でも7.5m未満である。 「丘」と言い得る地形は、やはり上町台地ではないだろうか。 すると、「小郡の西の畔」かつ「丘の先」は、上町台地の北西、高低図のAの辺りとなる。 これなら「丘=上町台地の前(さき)」〔前方〕と言い得る。残念だが、その範囲には日羅の墓の伝承地は含まれていない。 ただ、伝承地の南西は、高低差数mでも広々としていて「丘」と呼ばれたのかも知れない。 「西畔」が丘一字のみにかかるとすれば、 「"小郡の西にある丘"の〔北東方向の〕先」と読め伝承地が復活する。 それでも「丘」というには低すぎ、また文を細かく区切りすぎる印象がある。 仮に、伝承地が実際の埋葬地と異なっていた場合、それはむしろそれだけ伝説の広がりがあったことを示すものであろう。 《石川大伴村》 〈五畿内志〉-「河内国石川郡」を見ると、村名と氏族名にオホトモが見える。 ○【村里】:「北大友 南大友」。 ○【氏族】:「大伴連【天彦命之後】。」 『旧高旧領取調帳』(明治初期)の河内国石川郡に「北大伴村:代官 石原清一郎」「南大伴村:代官 小堀勝太郎」がある (旧高旧領取調帳データベース)。 幕末の時点では、大伴と表記されたようである。 『大日本地名辞書』には、「富田林の東石河の南を大伴村とす、大字山中田に大伴塚ありしが今開墾す。」 「姓氏録云、河内国未定雑姓、大伴連、天彦命後也、 又大友史、百済国人白猪奈世之後也。」とある。 『新撰姓氏録』は他に、〖諸蕃/大伴造/出自任那国龍主正孫佐利王也〗がある。
〖未定雑姓/大伴連〗は祖を「天彦命」とするので、別氏族がたまたま同じ名を名乗ってたことも考えられる。 『大伴姓諸流系図』と言われるものには、天忍日命と道臣命の間に「天津彦日中咋命」が見え、これが「天彦命」だとすれば、 「大伴連」は早期に本流から分かれたのかも知れない。 『大日本地名辞書』が、河内国大伴村が未定雑姓/大伴連に関係すると判断した根拠は不明であるが、 仮に、大伴造と大友史もこの地にいたのだとすれば、百済系が住んでいたことになる。 そこに、水主らもまた住むことになったのかも知れない。 この「水主」が白猪奈世であったという見方もできるが、確かなことはわからない。 《下百済河田村》 下百済河田村について、〈大日本地名辞書〉は、「阿田は蓋河田の誤なり、廿山村大字甲田あり、河田の訛に似たり、 又本〔の〕郷新居は即下百済にあたる、百済郷は彼方長野にあたる可し。」と述べる。 ここ「新居」を挙げたのは、〈倭名類聚抄〉高山本で{河内国・石川郡・雑居郷}が「新居郷」となっていることによると見られる。 「新居郷」とは、百済の渡来民が「"新"たに"居"した郷」ではないかというのである。 また「長野」は、現在は富田林市に南接する河内長野市にあたる。 『日本歴史地名大系』は、「阿田」が「畑」〔太子町〕に転訛した説を否定して、 「畑も山間部にあり、国家体制の整ってきた六世紀後半の宮居にはふさわしくない。河内の百済の地に求めるならば、石川に近い旧石川・錦部両郡の平野部、すなわち現富田林市域とするのが穏当であろう。」 つまり、徳爾を推問した官庁は、山間部の畑は相応しくなく、平地にあるべきだとする。 《石川百済村》 大伴村の地名が現在まで残るのに対して、地名「百済」は全く失われている。 大友史は百済から渡来したから、大伴村を含む地域が百済人の居住地となっていて、百済村と呼ばれた地域もあったのかも知れない。 『日本歴史地名大系』は「大阪府/錦部郡/百済郷」の項で、「百済郷」の存在を想定して、 「甲田・廿山から錦部・彼方・伏山・板持・伏見堂などの諸村、 現富田林市の中部を百済郷の境域と推定したい。」と述べる。列挙された地名は、甲田から石川沿いに南kmの範囲にあたる。 同書は、この想定範囲も「畑=阿田の転訛」説を否定する理由の一つとする。 《葦北君》 地方氏族「葦北氏」が存在し、その首長が葦北君ということになる。 〈姓氏家系大辞典〉は「葦北国造家の氏姓を葦北君と云ふ」と述べるが、〈国造本紀〉や〈書紀〉に載ることしか書いていないので、 他の資料には見出していないようである。 その葦北君が示した日羅殺害者への激しい憎しみは、日羅が百済にいたにも拘わらず、同族意識が強固だったことが伺える。 これは《火葦北国造阿利斯登》の項で述べたように、任那地域に葦北氏の一部が移ったことを裏付けている。 また、百済王は日羅は任那地域に住んだが故に、その来倭を渋ったと考えることができる。 任那地域そのものは既に新羅に組み込まれていたが、日羅はかつての百済による任那地域への干渉に対しては反感を抱いていたと思われる。 百済は再三の要請によって来倭を許したが、徳爾たちには日羅に対する監視という密命を含ませて同行させたと見られる。 百済王にとって、日羅は獅子身中の虫であった。 《弥売嶋》 弥売嶋(みめしま)のことを、原注は姫嶋だと解釈している。姫島は熊本県の現在地名にはなく、今のところ諸文献にも見つからない。 他の地域の姫島としては、〈安閑天皇二年〉に摂津国の「媛嶋」に牧を置いた記事があり、 現在地名の大阪市西淀川区姫島に繋がると考えられている。 また、豊後国の国東半島沖にも姫嶋がある(第173回)。 この二つの姫島は、難波から葦北への航路にあるから、そのどちらかに死体を棄てて行ったことが考えられる。 なお、宣長は玄界灘の「姫嶋」も挙げており(同回)、これも葦北への航路の途中だが、この島と見られる島は今のところ他に見えない。 摂津の媛島はまだ難波に近い処だから、勝手に死体を棄てるの許されないのではないように思われる。だとすれば豊後国の姫島ということになる。 《移葬於葦北》
「八代市公式」によると、 「本尊延命地蔵菩薩(木造座像、金箔)は、第30代敏達天皇元年〔572〕日羅が、百済国より父の芦北国造阿利斯登に贈ったものと伝えられ」、 「宝亀元年〔770〕八代郡司檜前中納言政丸により、日羅の後裔加津羅家に伝えられていた仏像(現本尊)を日羅の墓印として、地蔵堂を建立した」という。 百済来地蔵堂は、平成9年〔1997〕に八代市文化財に指定され、その対象には本堂と仏像三体のほか「古位牌」、「日羅公墓」も含まれている。 本尊「延命地蔵菩薩」は、写真を見る限りでは、とても飛鳥時代のものとは思われない。 なお、葦北郡には「日羅将軍神社」(熊本県葦北郡津奈木町福浜186、七浦オレンジロード沿い)がある。 くまもと緑・景観協働機構のページにによれば、日羅の遺体を載せた 「船が着いたといわれる海岸が「だげく塚」と呼ばれる、現在の津奈木町福浜の赤崎あたり」で、「山の上にある将軍神社までは歩いて15分ほど」、 「日羅像には、弘化2年〔1845〕仏師宮地勘十郎孝之の銘」があるという。 同書は「将軍神社の創建などは不明」という。年代は分からないが、後世の人が日羅の業績に思いを馳せて創建したのは間違いないだろう。 また、「僧日羅」として坊津一乗院(鹿児島県南さつま市坊津町坊)、谷山慈眼寺(同鹿児島市下福元町)の開祖と伝わる。 《大意》 再び阿倍目臣(あべのめのおみ)、 物部贄子連(もののべのにえこのむらじ)、 大伴糠手子連(おおとものぬかてこのむらじ)を遣わして、 国の政(まつりごと)のことを日羅に質問させました。 日羅は、それに答えて申しました。 ――「天皇(すめらみこと)は、天下(あめのした)の政(まつりごと)を治められる以上は、黎民(れいみん)を護り養うことが必須です。 どうして、兵を興して却って滅ぼすことが許されましょうか。 よって、今もし議を合わせるなら、朝廷にお仕えする、列臣、連(むらじ)、二つの造(みやつこ) 【二つの造とは、国造(くにのみやつこ)と伴造(とものみやつこ)を指す】、 下は百姓(ひゃくせい)〔=諸族〕に及び、皆がことごとく繁栄し、欠乏することのないようになさりませ。 そのようにして三年、食は足り兵も足れば、 悦びをもって、庶民は水や火を憚ることなく、国難を共に憂えるようになりましょう。 そのようになった後に、多くの船舶を造り、湊毎に並べて置き、 外国の客人に見せれば、恐れを抱かせるでしょう。 その上で、有能な使者をもって百済に、国王を招請させなさいませ。 もし、来ないというなら、その太佐平、王子ら呼びましょう。 こうして、自然に心に謹んで伏す気持ちを生むのです。 その後で、罪を問うべきです。」 また、奏上しました。 ――「百済の人は策謀して、船三百隻を有して、 筑紫に〔土地を預かる事を〕要請しようと申しております。 もし実際に要請してくれば欺いて預けるべきです。 すると、百済は、 新しく国を造ろうとして、必ず最初に女性と子どもを船に載せて来るでしょう。 国家〔=倭〕は、この時を待ち受けて、壹伎(いき)対馬(つしま)に大量に伏兵を置き、 来たところを伺って殺しなさいませ。 決して相手が掌を返して欺かれることのないように。要害の所毎に堅く要塞を築きなさいませ。」 このとき、恩率(おんそつ)参官(さんかん)が国を退出する時に臨み、 【旧本には、 恩率を一人として、参官を一人とする】、 密かに徳爾らに語るに、 「私が筑紫を過ぎる頃を見計らって、お前たちが密かに日羅を殺せば、 私は具(つぶさ)に王に申し上げ、高爵の身を賜わり妻子に及び、栄誉を子孫に垂れるであろう。」と言い、 徳爾(とくに)、余奴〔=怒〕(よぬ)は、皆了承しました。 参官たちは、遂に血鹿(ちか)〔=値嘉の島;五島列島〕に道を発ちました。 このとき、日羅は、桑市村から難波の館(むろつみ)に移りました。 徳爾は、昼夜相計って殺そうとしました。 その時、日羅の身は光り、炎のようでした。 その故に、徳爾ら恐れて殺せませんでした。 遂に十二月の晦、光を失ったことをを覗って、殺しました。 日羅、更に蘇生して申し上げるに、 「これは、、我が国が派遣した使者の奴らの仕業であって、新羅ではない。」と 申し終えて死にました 【ちょうどこの時、新羅の使者が来ていたので、このように言った】。 天皇(すめらみこと)は、 贄子(にえこ)の大連(おおむらじ)、 糠手子(ぬかてこ)の連(むらじ)に詔して、 小郡(おごおり)の西の畔(ほとり)の岡の先に収め葬(はぶ)らせて、 その妻子と水手らを石川に住まわせました。 そのとき、大伴の糠手子連が意見して 「一か所に集めて住まわせて恐れるのは、変事を生じることです。」と申し上げ、 よって妻子を石川の百済村に住まわせて、 水手(かこ)らを石川の大伴村(おおともむら)に住まわせました。 徳爾らは収縛して、下百済(しもつくだら)の河田村(かはだむら)に置きました。 数人の大夫を派遣してこの事件について推問させ、徳爾らは罪に伏して申し上げるに、 「まことにこれは、恩率(おんそつ)参官(さんかん)が教えて行わせたことです。 わたくしどもは、仕え人ですので敢て違えることをしませんでした。」と申し上げました。 この故に、下獄して朝庭に復命しました。 すると使者を葦北に派遣して、悉く日羅の眷属〔=一族〕を呼び集め、 徳爾らの身柄を与えて、思い通りに罪を決めよと言い渡しました。 この時、葦北の君らは、身柄を受け取り皆殺して、弥売嶋(みめしま)に投げ捨てました 【弥売嶋は、おそらく姫嶋(ひめしま)であろう】。 日羅を、葦北に移葬しました。 後世、海の畔の人の間では、 「恩率の船は、風を被(こうむ)り海に没んだ。 参官の船は、津嶋〔対馬〕に漂着し、初めて帰ることができた。」と言われます。 まとめ 日羅は、朝廷に百済への警戒を促し、付け入る隙を与えないようにまずは国力の充実に努め、 またその策略に嵌るなと言う。 かくなる献策は友好ムードに水を差すもので、言わば倭済同盟に楔を打ち込むものである。 日羅はもともと、百済王派に対する野党であったと見られる。 既に新羅に吸収されたが、かつての任那(加羅地域)の出身者として、百済への不信感は拭えないものがあったと想像される。 一方、倭国内にあっては物部室屋大連は反仏教派であるが、同時に反百済勢力でもあったと考えられる。 百済が倭における仏教の展開を後押ししたのは、倭に文化的に浸透することによって同盟を強め、新羅に対抗しようとする意図があったと見られる。 だから、室屋が反仏教であったのは、百済の風下につくことを嫌う国粋主義の人であったからである。 日羅はその室屋の意向に適う得難い人物であったから、百済王派の根城となっていた難波館入りを渋る日羅を助け、 阿都(阿斗)の別業に館を提供して庇護したと解釈することができる。 日羅は参官が去った後に難波館に移ったというから、おそらくそれまでは参官は難波館に滞在し、日羅は専らこの人物を警戒していたのであろう。 ところが、難波館に移ってみると、これまで味方だと思っていた徳爾が実は参官派に寝返っていて、まんまと暗殺されたというストーリーが読み取れる。 さて、日羅は難波と葦北郡に数々の伝承地があり、なかなかの有名人である。 日羅という名前には高僧のイメージがあり、火焔(ほむら)のように光を発したという場面もそのイメージによる伝説であろう。 『五畿内志』でも「僧日羅」と表記される。 さらに鹿児島県の坊津一乗院、谷山慈眼寺の開祖と伝わる。 このように、僧として、また将軍とも称されて崇拝されるところに、伝承の広がりが現れている。 |
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2020.11.29(sun) [20-05] 敏達天皇5 ▼▲ |
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9目次 【十三年】 《遣難波吉士木蓮子使於新羅遂之任那》
〈欽明紀-二十三年〉「新羅打二-滅任那官家一」により新羅の統治下となり、 任那(加羅、阿羅などの地域)の官家(倭人入植地)との連絡は途絶えていたと考えられる。 新羅との粘り強い交渉の末に、「遂に」本国との往来を取り戻したことを意味すると思われる。 《『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』との比較》
●弥勒像と共にもたらされたもう一体の仏像については、〈元興寺縁起〉には触れられていない。 ●〈元興寺縁起〉では、還俗した僧恵便のほかに、法明尼が加わっている。 ●三尼の諱はほぼ一致するが、用字が異なっている。 ●三尼の父の姓は類似する。 ●尼の父のうち、〈元興寺縁起〉達等の氏「司馬」を欠く。 ●尼の父のうち、達等を除く二人は名前が大きく異なる。 一方、三尼の法名は両者で一致する。ただ、〈元興寺縁起〉では三尼の法名が具体的に書かれるのは一か所のみで、 しかも分注だから、後世に書紀を参照して書き加えた可能性がある。 それ以外の部分は、敏達紀と〈元興寺縁起〉はそれぞれ独立に書かれたと思われる。 ただし、それらを執筆する手許にはかなり類似した、若しくは同一の資料があったと想像される。 《独依仏法》 「馬子独依二仏法一」とは、この時点では仏法に帰依する者はまだ少数で、特に臣の中では馬子一人であったという意味であろう。 《仏舎利》 馬子宿祢が仏舎利の神秘を見て、仏教への信心を深めた伝説が書かれる。 書紀は基本資料以外に、仏教の一分派で語られていたことまで、手広く収めたのであろう。 興味深いのは、〔以下〈元興寺縁起〉〕にはこの件がないことである。 この話の直前の、斎食の席で仏舎利を披露するところまでは〈元興寺縁起〉(Ⅰ(d))にも載っている。 むしろ、この部分は書紀を見て書き加えたように感じられるのだが、なぜか仏舎利を試す件は省かれている。 逆に〈元興寺縁起〉は、馬子が仏教に帰依する決断を促した出来事として、書紀にはない話を載せる。 すなわち、国中の占い師に占わせた結果、父の信仰が神の心に適うとの御託宣を得たという。 《仏殿》 馬子は彌勒石仏と三尼を置くために、馬子の「石川宅東方」に仏殿を経営したと書き、 次に仏舎利の神秘を体験して仏法を信じ、自らの修行のために「石川宅」に仏殿を修治したと書く。 これらの形だけを読めば、仏殿は二か所に設けられたことになる。 しかし、仏舎利の件は「仏殿の設置に関しては、別にこういう伝説がある」と付け加えたもので、仏殿は一か所だと思われる。 ところが、「宅東方」〔宅の東の方〕の"方"は家から離れていることを意味する。よって、これだけを見れば豊浦寺(向原寺)の創始を意味するとも読める。 実際、〈元興寺縁起〉によれば、このとき「櫻井道場令レ住」〔桜井道場に住まはしむ〕とあり、 三尼を置いたのは後の豊浦寺の場所であった。豊浦寺(向原寺)は、本明寺の1.1km東に位置するから、これはこれで話は成り立つのである。 それに対して、単に「石川宅」というなら、同じ敷地内であろう。 もし〈元興寺縁起〉と両立させようとすれば、仏殿は「石川宅東方の仏殿=豊浦寺」、「石川宅の仏殿=馬子の私邸内」の二か所となる。 だが、両話とも言葉は仏殿だから、〈元興寺縁起〉を考慮しなければ同一の場所として読まれるだろう。 実際〈五畿内志〉も『和漢三才図会』も、「石川宅東方」と「石川宅」を別の場所とは見ていない(いずれも後述)。 ただ、第二話〔仏舎利の神秘〕には「亦」が入っている。 これは「自宅にもまた仏殿を作った」、すなわち仏殿は二つだと読むことができる。 しかし、「仏舎利の神秘伝説でもまた、仏殿を修治したと述べる」と読めば仏殿はひとつである。 また、第一話〔弥勒像の安置と三尼の居住〕は仏殿を「経営」し、第二話は仏殿を「修治」という表現の差があるが、 これだけでは仏殿の数を2個とする決定打とは言い切れない。 つまりは、書紀は第一話とともにソースが異なる第二話を収めたが、両者の内容のずれは調整せず並べ置いたのであろう。 結局、解釈は読み手次第で、読み手がもし〈元興寺縁起〉を重んずれば仏殿は二つ、さもなければ仏殿は一つとなろう。 《大意》 十三年二月八日、 難波吉士(なにわのきし)木蓮子(いたび)を新羅に遣使し、 ついに任那に行くことができました。 九月、 百済から鹿深臣(かふかのおみ)【名前は記録になし】が到来し、 弥勒の石像一体を持参しました。 佐伯連(さへきのむらじ)【名前は記録になし】は、 仏像一体を持参しました。 その年、蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)は、その仏像二体を貰い受けました。 そして、鞍部村主(くらつくりのすぐり)司馬達等(しばたつと)、 池辺直(いけべのあたい)氷田(ひた)を遣わして、 四方に修行者を探させました。 すると、ただ一人、播磨の国に僧から還俗した人が見つかり、 その名前は高麗(こま)の恵便(えべん)といいます。 蘇我の大臣(おおまえつきみ)は、直ちに恵便を師として、司馬達等(しばたつと)の娘、嶋〔女〕(しまめ)を得度させ、 善信尼(ぜんしんあま)となりました。年齢は十一歳でした。 また、善信尼の弟子二人が得度し、 一人目は、漢人(あや)の夜菩(やぼく)の娘豊女(とよめ)で、名を禅蔵尼(ぜんぞうあま)といい、 二人目は、錦織(にしこり)の壼(つふ)の娘石女(いしめ)で、名を恵善尼(えぜんあま)といいます。 馬子は独り仏法に帰依し、三人の尼を崇敬しました。 そして、三人の尼を氷田直(ひたのあたい)と達等(たつと)に預け、 衣食を提供させ、仏殿を家の東方に作り営み、 彌勒の石像を安置し、三人の尼を招請して大きな会(え)を設けて斎戒しました。 この時、達等は手に入れた仏舎利を持参して、斎食に臨みました。 そして、舎利を馬子宿祢に献上しました。 馬子宿祢は、試しに舎利を鉄材の中に置き、金槌(かなづち)を振るって打つと、 その鉄材と金槌は悉く破壊されましたが、舎利を破壊することはできませんでした。 また、舎利を水に投げいれてみると、舎利は、心に念じた通りに水に浮いたり沈んだりしました。 これにより、馬子宿祢、 池辺氷田(いけべのひた)、 司馬達等(しばのたつと)は、仏法を深く信じて、 修行を怠りませんでした。 馬子宿祢はまた、石川の家に仏殿を作り治めました。 仏法の初めは、ここから興りました。 【石川宅仏殿】 蘇我馬子の宅の仏殿が由来とされるのが「石川精舎」で、現在浄土宗本明寺〔奈良県橿原市石川町565〕のところと言われる。 橿原市観光境界サイトによると、 「石川精舎の跡に建てたと伝える由緒を持ち、境内に土垣が残り巨大な五輪塔(南北朝時代)があり」、「蘇我馬子の塔と伝えられ、高さ2.3m。」、 「本尊は釈迦如来、文珠、普賢の両脇侍」であるという。 『日本歴史地名大系-奈良県』〔平凡社;1981〕は、「大和志」が本明寺を石川精舎の跡とすることについて 「同寺付近には古瓦の出土もないことから、他に求めるべきともいわれ」 「石川町字ウラン坊とする説や、河内国石川〔郡〕の地に求める説もある」と述べる。 また同書によれば、五輪塔は 「「越智家譜伝」に載る大永三年〔1523〕二月一九日の久米寺石川の合戦で討死した三二人の追善供養のために越智家栄が建てた塔か。もとは橿原市久米町芋洗地蔵境内にあったという」と述べる。 なお「古瓦の出土もない」と述べる点については、「古瓦」が本明寺の近くから2016年に発掘されている(後述)。 《石川精舎》 「精舎」の名称は、十四年六月に馬子一人のみに仏法が許されたとき、「新営二精舎一迎二-入〔三尼〕一供養」〔新たに精舎を建て、三尼を迎えて供養した〕ところに見える。 それによって、いつの頃からか馬子宅の仏殿に由来すると信じられた寺が「石川精舎」と呼ばれるようになったと見られる。 〈五畿内志大和国-高市郡〉は、
なお、精舎とは、〈汉典〉によれば「①学舎、書斎。②清静雅潔的房舎。③寺院。因二是精勤修行者所居一、故レ称為二「精舍」一。 〔精勤修行者が居すにより、「精舎」という〕」。 要するに、もともとは学び舎を意味したが、そこから寺の意味に転じたという。 《石川廃寺》 本明寺付近の発掘調査の報告が、 『藤原京右京十二条三坊・石川廃寺―平成28年度発掘調査報告書―』 〔元興寺文化財研究所;2018〕にある(全国遺跡報告総覧で閲覧可能)。 それによると、藤原京期の層において、 「藤原京造営に伴うものと考えられる整地が行われる。この整地は周辺の調査でも確認されており、 大規模に行われていたことがうかがえる。整地土には白鳳時代の瓦が大量に含まれることから、 整地以前に近傍に寺院が存在していたことが分かる」という。 また、報告のまとめで「ここは石川廃寺と呼ばれる白鳳時代に建立された寺院跡と考えられていますが、 当時はどのような名前の寺院で、どれほどの規模を持つものであったかは解明されていません。」、 序文には「この石川廃寺に関しては、蘇我氏が建立した石川精舎とする考えや、平城京興福寺の前身である厩坂寺とする考えなど」があると述べる。 藤原京の造営は676年頃から始まったと言われる。 すなわち、「石川廃寺」は、その条里の構築に伴って粉砕されたと考えられる。 この調査の時点では、伽藍の配置は解明されなかったようであるが、出土物に「瓦が大量に含まれる」というからには、 堂塔が存在していたことに間違いはない。 「白鳳時代」は文化史における時代区分で、673~710年と規定されている。 したがって、瓦そのものは馬子の時代のものではないが、馬子の時代に創建され寺が存続し、 その後堂塔が建て直されたことは十分に考えられる。 『日本歴史地名大系』執筆の頃には「発見されていない」とする瓦がここで見つかったわけだから、 少なくとも状況は変化している。 《石川》 前述したように「石川宅東方」が豊浦寺を指す可能性を内包することを考えれば、河内国石川郡はないと見てよいだろう。 江戸時代の石川村については、〈五畿内志〉高市郡の【古蹟】では「石川村」だが、【村里】では「石河」となっている。 また、高市郡【村里】「曽我【旧名蘇我大路堂】」、【古蹟】「廃曽我大寺【曽我村】」とあり、かつて蘇我氏の寺院があったことが分かる。 ここが蘇我氏の本貫とされ、 その氏神が{大和国/高市郡/宗我坐宗我都比古神社二座【並大。月次新甞】}〔比定社:奈良県橿原市曽我町1196〕とされる。 石川村は曽我村にほど近く、 記〈孝元天皇段〉において、「蘇賀石河宿祢」と表記されていることも見逃せない。 すると、馬子の「石川宅」はここにあったと考えるのが妥当か。 寺ではなく「仏殿」とするのは、住居内の礼拝室のような印象を受ける。 それが連続的に伽藍に発展したのか、あるいは別個に寺が建ったのかは、判断のしようがない。 しかし、前身が跡形もなくなった場所でも、その伝承を偲んで再建したのなら精神的には連続性があると言え、 それが「石川精舎」という名称に込められているのかも知れない。 まとめ 出家希望者を国中に探したが、一人もいなかった。ただ、還俗僧が一人〔〈元興寺縁起〉では二人〕見つかった。 そこで、試しに司馬達等の娘を還俗僧に会わせてみると、娘の嶋女はその教えに強い興味を示し、友達二人を誘って本格的に仏の道を進む情景が想像される。 また少女たちに仏法を教えるのは、〈元興寺縁起〉の比丘尼の方が確かに雰囲気に合う。 司馬達等は、娘を還俗僧に会わせてもよいというくらいだから、馬子には協力的である。 そして自らも馬子、池辺氷田とともに修行に参加するようになった。 さて仏舎利の神秘体験の件は、後世に別個に生まれた伝説を付け加えた印象を受ける。 この部分が、この段全体の実録的な基調から浮いているのは確かである。 これを除けば、〈元興寺縁起〉と比較的よく噛み合っている。 恐らくは、確実な資料が元興寺などに残っていたのであろう。 |
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2020.12.06(sun) [20-06] 敏達天皇6 ▼▲ |
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10目次 【十四年二月~六月】 《蘇我大臣馬子宿禰起塔於大野丘北大會設齋》
〈欽明十三年十月〉の 「於後国行疫気」以下の部分にも伽藍が焼かれ、仏像を難波の堀江に棄てる記事がある。敏達十四年の話と酷似するが、 欽明天皇紀の事件は、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(以下〈縁起〉;Ⅰ:縁起)の庚寅年〔570〕の記事に対応すると見られる。 このときは蘇我稲目が仏教受容派、中臣連鎌子が攻撃の主導者であった。 書紀では同じ伝説を異なる箇所に重複して用いる例はいくつか見られる。しかし、〈敏達紀〉に至り実在した古文献類もかなり用いられたと思われるので、 反仏教勢力による攻撃は、この570年と敏達十四年〔585年〕の二回とも実際にあったと考えた方がよいだろう。 そして「寺を焼くとともに仏像を難波堀江に捨てた」は、話を豊かにするために伝説を付け加えたもので、いわばアンコであろう。 この同じアンコが、570年と585年の双方に用いられたのだろうと思われる。 原注の「或本云」は、アンコを加える前の形を添えたようにも見える。 このアンコは〈縁起〉でも両方で使われているが、ただ585年では仏像仏殿を焼く部分のみで「仏像を難波堀江に流す」部分はない (Ⅰ(c)、Ⅰ(e))。 また、欽明朝の攻撃について〈縁起〉が「庚寅年」なる年を明示するのに対して、〈欽明紀〉は年を明示しない。 〈縁起〉と書紀は共通のソースを用いたと見られるが、使い方には相違がある。 ただ、ソースの段階で既に「アンコの二重使用」がなされていた可能性がある。 《大野丘北》
『飛鳥・藤原宮発掘調査概報5』〔奈良国立文化財研究所;1975〕は、次のように述べる。 ――「橿原市和田町北方の水田中には、礎石2個を残す「大野塚」と呼ばれる土壇 があり、その周辺からは飛鳥時代から奈良時代にかけての瓦が出土することが、古くから知られている。 また、付近には、「 トンダ 」、「トウノモト」等の寺に関係する字名」が見られることなどから、 飛鳥時代創建の寺院が存在すると考えられていた」、 「和田廃寺に関しては、「大野丘北塔」とする説、「葛木寺跡」とする説などがあるが、いずれも確かな根拠に乏し」い。 また「豊浦寺、奥山久米寺出土のものと同型式の単弁8弁蓮華文瓦」 16点など「飛鳥時代に属する多様な様式の軒丸瓦が出土し」、 「鴟尾・瓦等のあり方からみて、調査地は飛鳥時代から奈良時代にかけて存在した寺廃の一部にあたる可能性は強い。」 なお、発掘地点付近は「推定藤原京朱雀大路にあたっている」という。 「橿原市公式」の「橿原探訪ナビ/和田廃寺」によると、 ――「奈良国立文化財研究所による調査」によって、和田廃寺は「7世紀後半から8世紀後半まで」存続し、 「現在の土壇は、塔の基壇の西半分であること、本来の塔基壇の大きさは、一辺12.2mに復原できる」ことが分かったという。 さらに「奈良県立橿原考古学研究所による和田廃寺の北側の発掘調査では、ガラス玉の鋳型や三尊仏が出土した」という。 その場所は藤原京の朱雀大路にあたるから、藤原京建都以前ということになる。 その時期を7世紀後半以後とするのは瓦の様式によるようで、 『奈良新聞』〔2017.12.09〕によれば、「平城京左京五条五坊十三坪跡で平成5年に見つかった7世紀後半の軒平瓦の破片が、橿原市和田町の和田廃寺跡(7~8世紀)から出土した瓦と同じ型で作られたことが、 奈良市教育委員会埋蔵文化財調査センターの調査で分かった」という。 以上から、和田廃寺が「大野丘北」の大斎会の時にはまだ存在しなかったのは明らかである。 かつ大野塚に立っていた塔は確実に和田廃寺のものだから、「馬子宿祢。起二塔於大野丘北一」と書かれたところの「塔」ではない。 しかし、奈良時代頃の人がその塔跡を見て、あそこに「馬子が建て、守屋が倒した塔があった」という伝承が生まれたことは十分想像し得る。 「大野塚」と呼ばれるようになった所以は、その辺りにあるのかも知れない。 この石川から豊浦寺まで一帯は、馬子が拠点として一族が住んだ土地だと思われるから、数々の伝説が生まれたことが考えられる。 また、飛鳥の元興寺や、難波の四天王寺など、各地に大寺を建てる前の段階として石川精舎や桜井道場(豊浦寺の原型)が営まれたのがこの地域だから、 和田廃寺の場所にも、その原型となる古い寺があった可能性はある。 《仏神》
しかし、中国古典においては「有二化人一来二此土一。云二是仏神一」〔『太平広記』(異僧-宣律師)〕などのように使われ、 中国語に「仏神」という言葉は古くから存在した。 〈汉典〉は、「仏神:即仏。仏教徒以為仏、菩薩神通広大、故称。」 〔即ち仏。仏教徒は仏や菩薩が神通広大〔=著しい神秘〕と考え、故に称する。〕と説明する。 漢字「神」はこの意味だから、書紀の特にα群〔第193回〕においては、「仏神」なる表現に抵抗はなかったと見られる。 同じくα群とされる十九巻(欽明)でも、〈即位前紀〉では狼に向かって「汝是貴神」、〈十六年〉では虎に向かって「汝威神」と呼び、〈十三年〉では、仏を「蕃神」と表現する。 これらの「神」は猛獣のもつ神性や異宗教に広げた一般的な表現で、神代紀で定義した「神」とは自ずから範疇が異なる。 しかし、古訓では「仏」を「神」と呼ぶことには抵抗があったようで、 〈前田本〉は「神之心」をミコゝロ、即ち"神性を表す御心"と訓み「仏神」が熟語になることを避け、 また〈釈紀〉は、"神"は不読とせよという。 しかし、すぐ後に出てくる「父神」〔父の信じた神〕も仏のことなのだが、 これについては古訓は沈黙していている。 《無雲風雨》 「無雲風雨」は、雲がなければ雨は降らないことを考えれば、「無二雲風雨一」となる。 だが、それなのに雨具をつけてやって来た守屋の行動は謎である。 訓点は、 〈前田本〉:「雲無テ 風キ 雨ル」 〈北野本〉:「無レ雲風-雨」 で、いずれも「無」の目的語は雲までとなっている。 区切り方はこの方が自然で、また守屋が雨具を着けたこととの違和感はない。だが少なくとも本格的に雨が降る場合は、このような天気はあり得ない。 ただ、この文を「是日」から一息に「是日無レ雲風雨」〔この日は雲なく風吹き雨降る〕と読んでみると、 「はじめはは雲一つなかったが、次第に風が吹き遂に雨が降ってきた」意が自然に伝わってくる。 何故か「是日」がつくと、時間経過になる。 日記形式で、このように書いた記録があったことも考えられる。 「無」を逆接「已然形+ども」と訓めば、時間による変化と受け取られ易くなるかも知れない。 《被雨衣》 古訓はアマヨソヒス。名詞+ヨソフの合成語としては、万葉には「ふなよそひ」が見え、これは、動詞「ふなよそふ」(船を装飾する)の連用形である。 当時の雨具として、笠・蓑のあったことが、素戔嗚尊伝説に見える(第51回)。 「よそふ」には、より華麗に、あるいは正装するニュアンスがある※ので、笠蓑には余り当てはまらないように思える。 ※…「くろきみけしを まつぶさに とりよそひ」〔黒き御衣を真具に取り装い〕(第66回)、 (万)「0199 皇子御門乎 神宮尓 装束奉而 みこのみかどを かむみやに よそひまつりて」など。 《所供善信等尼》 「所供善信等尼」の「供」には、イタハルという不思議な訓がついている。 この「所供」の意味を考えてみると、通常は従者として伴する意味だが、この場合の馬子は三尼を敬って生活のお世話を奉る立場である。 その後で、「頂二-礼三尼一新二-営精舎一迎入供養」が出てくるから、 この「供」は、「供養」の略〔脱落かも〕である。 「供養」は、ここでは馬子が修行尼への厚い崇敬を表す行為として、その食移住を支援する意味である。 熟語「供養」への古訓「いたはりやしなふ」については、修行に勤しむ三尼を「労わり養う」のだから訓として妥当である。 この"供養"から「養=やしなふ」を引き算すると確かに「供=いたはる」が残るわけだが、これを訓として用いるのは不適切である。 「養」につけた「供」は、もともと「仏に仕える人へのお供え物」という性格を「養」に付加するものだから、イタハル〔慰労する〕だけでは意を尽くしきれない。 「供」は「供養」の略なのだから、一字であっても「いたはりやしなふ」と訓めばよいのではないだろうか。 《海石榴市亭》
すなわち、「海石榴市亭は「ツバキイチノウマヤ」を漢字で表したものであるが、 駅の文字を用いていないことから見ても律令的な駅とは性格の異なるものと考えている。」、 「海石榴市と迹見駅は初瀬川を隔てて近い位置にあるので、迹見駅は海石榴市亭に替わって設置したものであろうとする」。 《迹見駅》 「迹見」は現在の外山(とび)と言われる。ここで、その根拠を確認しておく。 〈天武紀〉八年八月己未〔十一日〕に 「自二泊瀬一還レ宮之日。看下群卿儲二細馬於迹見駅家道頭一皆令二上馳走一。」 〔泊瀬より宮に還る日、群卿の細馬を迹見駅家の道頭に儲(まう)けて、皆馳走(はし)らしむを看(み)る;「細馬」は、小づくりで良い馬〕。 振り返ると、トミは〈神武〉段・紀において重要な地名となっていた。 〈神武即位前紀-戊午年〉十二月に、「時人仍号二鵄邑一。今云二鳥見一是訛也。」(第99回)とある。 〈神武段〉には「登美能那賀須泥毘古」〔書紀は長髄彦〕の名前がある(第96回)。 さらに〈神武即位前紀〉には「立二霊畤於鳥見山中一」(第101回)とある。 外山(とび)の桜井茶臼山古墳には墳形に独自の特徴があるから独立勢力「鳥見山王朝」のもので、纏向王朝と対立したと想定した(第115回)。 その王が伝説化して「登美能那賀須泥毘古」となり、〈神武段〉・〈神武即位前紀〉で神武軍と戦ったと描かれたのかも知れない。 〈天武紀〉八年では、泊瀬に幸(いでま)まして驚淵上で宴をし、その際乗る馬の外に細馬を連れて来るように指示してあった。 そして帰りに「迹見駅」前の路上で細馬を走らせて見物した。泊瀬から飛鳥浄御原宮〔飛鳥〕への帰路は、 横大路-上ツ道-安倍山田道と考えられる。この経路によっても、迹見駅は横大路が外山村を通る辺りにあったとするのは妥当であろう。 なお、トミが江戸時代の外山村に引き継がれたと見られ、現代地名においては桜井市外山(大字)である。 《亭》 海石榴市は山辺の道と初瀬川が交わる辺り。交通の要地で、市は賑やかだっただろう。そして歌垣も催されていた(資料[34])。 亭は、〈汉典〉に「①有レ頂無レ牆、供二休息一用的建築物、多建築在二路旁或花園裏一〔屋根があり壁のない休憩用の建物、多くは路傍や庭園に建つ〕。 ②建築得二比較一簡単的小房子。」とあるように、駅(うまや)という意味はない。 しかし、ここの「亭」は「駅亭」と解されてきたようである。恐らくは、かつて海石榴市に馬亭があったという記憶が古訓の頃までずっと残っていたのだろう。 この駅の位置は横大路から泊瀬に行くには遠回りであるから、大宝令の頃までに初瀬街道と横大路を直結するとともに、駅を海石榴市から迹見に移したことが考えられる。 《楚撻》 「奪二尼等三衣一」は二重目的語の構文で、恐らくはそのとき着ていた法衣を脱がせた意味であろう。 三尼から三衣(法衣)を奪ったことは、〈縁起〉(Ⅰ(e))と同じであるが、 楚撻(そたつ)、すなわち鞭打って傷めつけたことまでは〈縁起〉には書いていない。古訓が、ムチ、スハエの語を用いていないのは、 あからさまな言い方を緩和したのかも知れない。 書紀における加虐的な表現は、〈武烈紀-八年〉において著しい。 《如被焼被打被摧》 「如二被レ焼被レ打被レ一摧」は、仏殿を焼き、砕き、切ったことが結局民の身を傷めつけたのだという因果応報を示す。 〈縁起〉においても、これに沿った読み方を用いた(Ⅰ(e))。 《大意》 十四年二月十五日、 蘇我の馬子の宿祢の大臣(おおまえつきみ)は、塔を大野丘(おおののおか)の北に建て、 大斎会(たいさいえ)を催しました。 そして、達等が先日手に入れた舎利を、塔の柱頭に納めました。 二十四日、 蘇我大臣(そがのおおまえつきみ)は疾患をわずらいました。 卜部(うらべ)に問うたところ、 「父の時に祭った仏神の御心の祟りです。」と答えました。 大臣は、そこで家族を遣わして、占いの結果を奏上すると、 詔に 「卜部の言葉に順い、父の神を祭祠せよ。」と言われました。 大臣は詔を承り、石像を礼拝し、寿命を永らえることを願いました。 この時、国に疫病が流行し、民に多くの死者が出ました。 三月一日、 物部弓削守屋(もののべのゆげのもりや)の大連(おおむらじ)と 中臣勝海(なかとみのかつみ)の大夫(まえつきみ)は奏上し、 「何故(なにゆえ)に臣の言うことに同意して用いていただけないのですか。 亡き父天皇(すめらみこと)〔欽明〕より陛下〔敏達〕に及んで 疫病が流行し、国民は絶えてしまうでしょう。 あに、専ら蘇我臣の仏法の挙行に頼るなど、あってはならないでしょう。」と申し上げ、 詔され 「もっともである。仏法を断つべし。」と仰りました。 三十日、 物部弓削守屋大連は、自ら寺にやってきて、 胡床(あぐら)に腰を下ろし、その塔を切り倒し、 火を放ってこれを焼き、併せて仏像と仏殿とを燃やしました。 燃え尽きたところで、焼け残った仏像を取り出し、難波の堀江に棄てさせました。 この日は雲ひとつありませんでしたが、 〔次第に〕風が吹き雨が降り、大連(おほむらじ)は雨具をつけて、 馬子宿祢と宿祢に従った修行僧らを叱責し、 謗(そし)られ恥ずかしめを受けた思いが心に生まれました。 そして、佐伯造御室(さへきのみやつこみむろ)【別名は於閭礙(おろけ)】を遣わして、 馬子宿祢の供養する善信(ぜんしん)らの尼を呼び出させました。 よって、馬子宿祢は敢て命(めい)を違えず、 心を痛め泣きながら、尼らを呼び出し、御室に引き渡しました。 官は、尼らの三衣(さむえ)〔=法衣〕を奪い、 禁錮して、海石榴市(つばきち)の厩のある宿で鞭うちました。 天皇(すめらみこと)は、任那を再建しようと思われ、 坂田耳子王(さかたのみみこのきみ)を指名して、使者を任じました。 この時にあたり、天皇と大連(おおむらじ)と俄かに瘡病(そうびょう)をわずらい、 よって派遣は果たされませんました。 橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ)〔用明〕に詔して 「亡き父天皇〔欽明〕の勅に違背してはならぬ。 任那の政(まつりごと)を謹んで治めよ。」仰りました。 また、瘡病を発して死ぬ者が国に充ちました。 その瘡病をわずらった者は、 「我が身は、焼かれ、打たれ、砕かれるようだ。」と言って、 大泣きして死にました。 老いも若きも秘かに、 「これは、仏像を焼いた罪だ。」と口々に語りました。 六月、 馬子宿祢が奏上するに 「臣の疾病は、今になっても未だ癒えません。 三宝の力を蒙らずに、救われ治癒することは難かしいと存じます。」と申し上げました。 そこで、馬子宿祢に詔して 「お前ひとりは仏法を修行するがよい、その他の人は許さない。」と仰りました。 そして、三人の尼を、馬子宿祢に返し授けました。 馬子宿祢は承り、喜びの声を上げる様子は、未だかつてないほどで、 三人の尼に頂礼(ちやうらい)し、精舎(しょうじゃ)を新しく営み、迎え入れて供養しました。 【ある出典によれば、 物部(もののべ)の弓削(ゆげ)の守屋(もりや)の大連(おおむらじ)、 大三輪(おほみわ)の逆(さかえ)の君、 中臣(なかとみ)の磐余(いわれ)の連(むらじ)は 共に仏法を滅ぼそうと謀り、 寺塔を焼き、併せて仏像を棄てようとした。 馬子宿祢は、抗って従わなかった。】 11目次 【十四年八月】 秋八月乙酉朔己亥。天皇病彌留崩于大殿。……〔続き〕 まとめ 仏教派は、反仏教派からの迫害を受け風前の灯であった。 馬子は圧迫に暴発して破滅の道に向かうのを堪え、表向き妥協して仏法の火種を温存した。 そして、敏達天皇にうまく取り入り、遂に自分ひとりという条件付きながら再興の糸口にたどり着いた。 そこから味方を増やしていき、遂に物部守屋を滅亡させるに至る。 それまでの経過は、馬子が不利な状況にも柔軟に対応して、最終的には目標を達成する政治的に有能な人物であったことを示している。 ただ、今や独裁者となった馬子の精神は硬直し、逆らう者は用明天皇さえも滅ぼすに至った。古今の独裁者の辿る、典型的な道筋であろう。 さて、〈用明元年〉には、法興寺〔飛鳥の元興寺〕を創建するために大量の寺院建築の技術者を百済から招いたことが書かれる。 ということは、堂塔を備え回廊を巡らす本格的な伽藍の建築は、そこから始まる。それ以前から寺院はあったのだろうが、 まだ瓦ぶきかどうかも定かでなく、むしろ古来の掘立柱・茅葺の建築物だったかも知れない。 書紀で「寺」の名称が大量に出てくるのは〈崇峻〉以後である。それ以前は、〈用明二年〉に「南淵坂田寺」があるが、実際に建つのは後の事である。 〈敏達六年〉の難波大別王寺には百済から派遣された寺運営スタッフに「造寺工」を含むが、これが先駆的なものかも知れない。 〈欽明十三年〉「浄二-捨向原家一為レ寺」とあるが、これは明らかに私邸の礼拝所のような性格である。 こうして見ると、敏達十四年で修行礼拝施設を「仏殿」「精舎」と表したのは、まだ寺と呼び得るほどのものではないということであろう。 大野北の塔については全くの伝説か、あったとしても法隆寺五重塔クラスとは全く異なる簡素なものであったと考えられる。 大野塚周辺から「飛鳥時代から奈良時代にかけての瓦が出土することが古くから知られている」(『飛鳥・藤原宮発掘調査概報5』)というが、 それをもって「大野北塔」の寺の跡と考えたのだとすれば、素朴すぎるであろう。 |
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⇒ [21-01] 用明天皇紀 |