上代語で読む日本書紀〔敏達天皇(1)〕 サイト内検索
《トップ》 古事記をそのまま読む 《関連ページ》 古事記―敏達天皇段

2020.08.02(sun) [20-01] 敏達天皇1 

目次 【即位前~元年四月】
渟中倉太珠敷天皇、天國排開廣庭天皇第二子也。……〔続き〕


目次 【元年五月~七月(一)】
《高麗使人在於相樂館》
五月壬寅朔。
天皇問皇子與大臣曰、
「高麗使人、今何在。」
大臣奉對曰、
「在於相樂舘。」
天皇聞之、傷惻極甚、
愀然而歎曰
「悲哉、此使人等名、既奏聞於先考天皇矣。」
乃遣群臣於相樂館、檢錄所獻調物令送京師。
奉対…〈前田本〉奉-對コタヘ申/ミコタヘ
在天…〈前田本〉〔ア〕リ/ハヘリ
相楽…〈倭名類聚抄〉{山城国・相楽【佐加良加】郡・相楽【佐加良加】郷〔さからか〕}。
…前田本・北野本ともに「」。岩波文庫は(の旧字体)で、校異もつけていない。 〈北野本〉相-楽サカラノタチヤ/ムロ
傷惻…〈汉典〉悲傷同情。哀傷不忍。 〈前田本〉傷-惻イタミ/イタミタマフ
愀然…心配そうなさま。〈汉典〉-容神色変得厳粛或不愉快 (古訓) かはる。さはかし。 〈前田本〉愀然御心ノナキ/ミコゝロミヨキタマヒ。 〈仮名日本紀〉こゝろ愀然ゆきて 〔前田本のミヨキを「御ゆき」と解釈か〕
奏聞…〈汉典〉臣下将〔もって〕情事帝王報告。 〈前田本〉奏聞聞申/キコエタリ。 〈仮名日本紀〉「きこしめさせり」。
…[名] 亡くなった父。
京師…〈前田本〉京-師ミヤコ
五月(さつき)壬寅(みづのえとら)の朔(つきたち)。
天皇(すめらみこと)、皇子(みこ)与(と)大臣(おほまへつきみ)とに問ひたまひて曰(のたまはく)、
「高麗(こま)の使人(つかひ)、今何(いづくに)在るか。」とのたまひて、
大臣奉対(こたへて)曰(まをししく)、
「[於]相楽(さがらか)の舘(たち、むろつみ)に在り。」とまをしき。
天皇之(こ)を聞こして、傷惻(いたむること)甚(はなはだしき)を極(きは)めて、
愀然(かほかはりて)[而]歎(なげ)きて曰(のたまへらく)
「悲(かな)し哉(や)、此の使人(つかひ)等(たち)の名(な)は、既に[於]先の考(ちち)の天皇(すめらみこと)に奏聞(きこえしめまつ)りてあり[矣]。」とのたまへり。
乃(すなはち)群臣(まへつきみたち)を[於]相楽の館に遣はして、所献(たてまつりし)調物(みつきのもの)を検録(かむが)へて京師(みやこ)に送ら令(し)めき。
丙辰。
天皇、執高麗表䟽、
授於大臣、召聚諸史令讀解之。
是時、諸史、於三日內皆不能讀。
爰有船史祖王辰爾、能奉讀釋。
由是、天皇與大臣倶爲讚美曰
「勤乎辰爾、懿哉辰爾。
汝、若不愛於學、誰能讀解。
宜從今始近侍殿中。」
表疏…〈汉典〉泛指奏章〔あまねく奉る文章を指す〕
王辰爾…〈前田本(欽明・敏達)〉、〈北野本〉、〈釈紀〉に訓なし。
…[動] (古訓) とく。ゆるす。
為賛美曰勤乎…〈前田本〉為-賛-美ホメタマヒテ 勤乎イソシキ/イサヲシキカナ
いそし…[形]シク よく勤める。
…[動] (古訓) ならふ。まなふ。ものならふ。
不愛於学…〈前田本〉不愛コノマサリマシカハこのりましかば〕 オマナフルコ■ヲ〔お学ぶることを;「お」は恐らく誤り〕
まし…[助] 反実仮想の助詞。上代は未然形マセ、終止形マシ、連体形マシが認められる。構文は「~ませば、~ましものを」など。
丙辰(ひのえたつ)〔十五日〕
天皇、高麗(こま)の表䟽(ふみ)を執(と)りたまひて、
[於]大臣(おほまへつきみ)に授(さづ)けて、諸(もろもろの)史(ふみひと)を召(め)し聚(あつ)めて之(こ)を読み解か令(し)めたまふ。
是の時、諸の史、[於]三日(みか)の内に皆読むこと不能(あたはず)。
爰(ここに)船史(ふなのふみひと)の祖(おや)王辰爾(わうしんに)有りて、能(よく)奉読釈(よみときまつ)れり。
是の由(ゆゑ)に、天皇与(と)大臣と倶(ともに)為讃美(ほめめで)たまひて曰(のたまへらく)
「勤乎(いそしきや)辰爾(しんに)、懿哉(うれしや)辰爾。
汝(いまし)、若(も)し[於]学(ものならふこと)を不愛(このまざ)らませば、誰(た)そ能(よ)く読み解かましや。
宜(よろしく)今従(よ)り殿中(とののうち)に近侍(もとこにはべること)を始むべし。」とのたまへり。
既而、詔東西諸史曰
「汝等、所習之業、何故不就。
汝等雖衆、不及辰爾。」
又高麗上表䟽、書于烏羽。
字、隨羽黑、既無識者。
辰爾、乃蒸羽於飯氣、以帛印羽、悉寫其字。
朝庭悉異之。
帛印羽…〈前田本〉ネリキヌ オシテ
朝庭悉異之…〈前田本〉朝-庭ミ門 ウチ異之アヤシカリ
ことごとに…〈時代別上代〉「触事コト\/ニ」(名義抄)。
…〈北野本〉「アヤシ玉フ〔あやし〔み〕たまふ〕
東西…〈前田本〉ヤマト西カウチノ資料[25]《文宿祢》参照。
上表䟽…〈前田本〉〔タテマツ〕レル表-䟽フミ
烏羽字…〈前田本〉カケリカラス
※…朱書は〈前田本〉の赤色のヲコト点による。
…[名] 〈時代別上代〉「平安時代に漢字・仮名をマナ・カンナというが、これは文字が名称と同一視されたことを示している。上代の確例とはいい難いが、「…新字ニヒナ一部卅四巻」(天武紀十一年)という例もある。
随羽黒ナシヨノ 〔「羽(よ)の黒をなし」〕
…「(万)1456 此花乃 一与能内尓 このはなの ひとよのうちに」の「ひとよ」は「一片の花びらの意か」(〈時代別上代〉)と見られている。 鳥の羽根もヨと言ったか。
蒸羽…〈前田本〉ムス羽於飯
既(すで)にして[而]、東西の諸(もろもろの)史(ふみひと)に詔(みことのり)曰(のたまひしく)
「汝(いまし)等(ら)、所習之(ならひし)業(わざ)に、何故(なにゆゑ)に不就(つかざ)りしか。
汝等衆(おほ)くあれ雖(ど)、辰爾(しんに)に不及(およばず)。」とのたまひき。
又高麗(こま)の上(たてまつりし)表䟽(ふみ)、[于]烏(からす)の羽(は)に字(じ、な)を書けり。
羽の黒(くろきいろ)の隨(まにま)に、既に識(し)る者(ひと)無し。
辰爾、乃(すなはち)羽を[於]飯気(いひのけ)に蒸(む)して、帛(ねりきぬ)を以(もちゐ)て羽(は)に印(お)して、悉(みな)其の字を写しき。
朝庭(みかど)悉(ことごとく)之(こ)を異(あやし)びき。
《相楽舘》
 は、〈継体紀-六年〉十二月で見た通り、書紀の古訓ではムロツミと訓まれる。
 〈前田本〉〔訓点は平安院政期とされる〕は、継体紀では明瞭に「ムロツミ」、敏達紀元年四月では虫食いで読み取り不能、同六月では明瞭に「ムロツヒ」である。
コントラスト強調
〈北野本〉巻二十;敏達元年四月 巻十九;欽明三十一年
 一方〈北野本〉〈継体紀〉及び〈敏達紀-元年〉六月には、訓が無い。〈敏達紀-元年〉四月は、右図の通り。
 これを見ると、はじめに薄い墨で「サワラノタチ」と書いてあったところに、 「サワラノ」は生かし、タチの別訓として「ムロ」に繋いだように見える。 また「タチ」は水筆で消したようにも見え「」だけを残したようにも見える。 これが助詞の「〔ニ〕」だとすればごく自然に読めるが、どう見てもである。しかし、尓がヤと誤写された可能性は否定できない。 〈欽明紀-三十二年〉の「相-楽サハラノタチ尓」を見ると、その感を強くする。 訓点は院政期と見られるが、既に現代の「"於"は"に"に相当するが、"於"は置き字として助詞ニを振る」習慣にしたがっている。
 原本の相楽舘・サワラノ・タチ・ムロ・ヤからひとかけらずつを採取してC14法で絶対年代を調べれば、書き加えられた順番についてかなりのことが分かるはずである。
 なお、〈北野本〉巻十九では、相楽は「サハラ」と訓まれたようである。 巻二十では「サワラ」だから、サハラの発音も[sawara]だと見られる。
 「」は、タチムロ(室)、(屋)、ムロヤ(室屋)の何れとも訓み得る語であるから、 このように書き加えられていることは理解できる。 しかし、ここに「ムロツミ」だけがないのは興味深い。 ムロツミは、平安時代に訓点を研究した学者グループのうち、一派閥だけが愛好した訓みなのかも知れない。
《奏聞》
 〈汉典〉によれば、漢語「奏聞」は、臣が天子や王に報告することである。 つまり「奏してお聞きいただく」。 この場合、「聞く」の行為者は上位者だから、使者の名を報告したのは敏達で、報告を受けたのが欽明天皇ということになる。
 よって、「此使人等名既奏-聞於先考天皇」の意味は、「その使者の名は、かつて私が生前の父にご報告申し上げたものである」となる。
 これではあたかも放置したことを責めるが如きであるが、実際は欽明天皇がその崩によって面会に至らなかったことを、悼んだものであろう。
《王辰爾》
 欽明紀十四年六月には 「蘇我大臣稲目宿祢、奉勅遣王辰爾、数録船賦。即以王辰爾船長、因賜姓為船史。今船連之先也。」とある。
 この文と、今回の「船史〔の〕」との間に矛盾はない。船史とは、海運と史人の両道をこなしたが故の呼び名であろう。 中国や朝鮮との交易にあたっては、漢文の品名リストを読みこなしたり書いたりしなければ仕事にならない。 「数録船賦〔数(しばしば)船の賦(みつぎもの)を〔文書に〕録す〕とは、まさにその意味であろう。 船賦のマネージメントにあたる船長に、漢文に通じた人物を招き、 その王辰爾は、また史(ふみひと)の職に任じられたわけである。「史」は、のちにかばねになった。
《船史》
 〈姓氏家系大辞典〉は、「船史:百済族中の大族にして、且つ名族たり。」として、
「貴須王(近仇首王)―辰斯王―辰孫王(知宗王、応神朝来朝)―太阿郎王(仁徳帝近侍)―亥陽君―午定君(鹽〔=塩〕君) ┬味沙味散君―膽津
├辰爾智仁君―那沛故首―王後首下寧
└麻呂(午また番侶君)
白猪史
舟 史
津 史」
 なる系図を示す。
 この系図は、〈続紀〉(延暦九年)の津連真道等の上表の内容に、〈推古紀〉にある那沛故首王後首を加えたものである。
《津連真道等の上表》
 その〈続紀〉延暦九年〔790〕七月辛巳〔十七〕の「百済王〔氏族名;百済から亡命〕元信…津連真道等の上表」 には、貴須王が応神朝のときに孫の辰孫王を献上したと書かれる。
軽嶋豊明朝御宇応神天皇。命上毛野氏遠祖荒田別使於百済捜-聘有識者。 国主恭奉使旨-採宗族。 遣其孫辰孫王一名智宗王使入朝。天皇嘉焉。特加寵命
応神天皇、上毛野氏遠祖荒田別に命(おほ)せて百済に有識者を捜(もと)め聘(むか)へ使(し)めき。 国主〔=貴須王〕恭(つつし)みて使(つかひ)の旨(むね)を奉(たてま)つりて宗族を択(え)り採りて、 〔貴須王の〕孫辰孫王、ある名は智宗王を遣はして、使に随へて入朝せしむ。天皇嘉(よろこ)びたまひ、特に寵命〔有難い命令〕を加へたまひき。
 貴須王は、近肖古王の別名である。 『三国史記』-「年表巻」によって、近肖古王および近仇首王の在位期間が得られる。即ち、
近肖古王(貴須王){丙午〔346〕~乙亥〔375〕} ―近仇首王{在位乙亥年〔375〕~甲申年〔384〕} ―辰孫王
 記によれば、仲哀天皇崩は壬戌年〔リアルには362年〕応神天皇崩甲午年〔同394年〕で、 応神天皇と貴須王とは重なる期間〔363年~375年〕がちゃんと存在し、「津連真道等の上表」の内容は現実的である。
 ここで「リアルには」と書いたのは、記紀の神功皇后神話の挿入に伴う恣意的な時期の移動を戻したという意味である。 それは、まず記において仲哀天皇を干支2回り〔120年〕遡らせ、空いたところ神功皇后伝説を挿入するとともに応神天皇の即位を前倒しした。 さらに書紀において、仲哀天皇即位から允恭天皇即位までを数十年遡らせた (第160回《記紀の太歳表記》)。
 津連真道等の「上表」は、系図にある麻呂の末裔「津連真道」が、連姓を改めて朝臣姓を賜ることを願い出たものである。 そのために津連などに伝わる始祖からの系図を示したものだが、応神天皇と貴須王の時期が重なっている点は、 比較的信憑性があると思われる。
 なお、始皇帝の後裔を名乗る弓月王〔秦氏の祖〕の一族が帰化し、王仁を招いたのも、応神天皇のときである (第152回)。 この時期に、半島から大量の渡来民があり、史人として取り立てられたという史実もしくは伝説があり、 氏族毎にそれぞれの始祖伝説を持つと考えられる。その始祖たちのうち大物が王仁阿知使主、やや小粒なのが秦酒公辰孫王などだったということではないだろうか。
《蒸羽於飯気》
 「王辰爾」「烏羽」で検索したところ、テレビドラマの一場面が出て来た。
――ドラマ「善徳女王」〔韓国MBC;2009〕第58話より
ユシン:密書の伝達ですと?
チュンチュ:私も聞いただけで確証はありませんが、
倭国へ行った高句麗の使臣がカラスの羽根に何かを記したと。
ユシン:それで?
チュンチュ:百済出身の王辰爾(ワンジニ)が解読したと隋の商人に聞きました。
ユシン:これがその解読法か。
チュンチュ:はい。(蒸気をあてて布に押し当てる。字が浮かび上がる)
 この話の素材に、書紀を用いたのは明らかである。 なお、この場面では布に写った文字は正しい向きなので、羽根に書く段階で鏡文字が用いられた理屈になる。
《東西諸史》
 〈前田本〉では「東西」が「ヤマトカウチ」と訓まれるのは、 「河内漢=西漢」、「〔大和〕漢=東漢」と称されることに対応していると見られる。 「」の呼称は、応神天皇の頃に朝鮮半島からの渡来した諸族がルーツを漢と称することによる (152回【漢直】)。 そのうち大和を居住地とする一族が「東漢」、河内を居住地とする一族が「西漢」である。
 ただ、「西漢氏」「東漢氏」は具体的には存在せず、漠然としたグループ名である。 現実に東西に分かれて存在した氏は「文宿祢西文〔王仁の末裔〕」と「文忌寸東文〔阿知使主の末裔〕」である (資料[25]《文宿祢》)。 はアヤで、もアヤと訓まれるところから、何となく西漢東漢という表し方に及んだと思われる。
 〈続紀〉延暦四年〔785〕六月癸酉〔十日〕条には、東漢として坂上、大蔵、文、文部など十一族が明記されている。 これらには、という(かばね)が見られず、彼らが史人を担った直接的根拠はなかなか見つからない。
 しかし、前述したように王辰爾の先祖は倭国に「有識者」として招かれ、辰爾は史人を担った。 また、和邇吉師〔=王仁〕論語十巻千字文一巻をもって渡来したと記に書かれる(152回)。 さらに、氏族名「」「文部」は「史部」に通ずる。 よって、西漢東漢から多くの史人が登用されていたことは当然考えられる。
 この認識が一般的だったからこそ、〈前田本〉では「東西」にヤマトカウチの訓が振られたのだろう。  
《所習之業不及辰爾》
 始めに「王辰爾能奉読釈」とあり、 集められた史人全員に向かって「習之業、不辰爾」と言う。 すなわち、王辰爾と諸史人について、文章読解力の差を問題にしていたはずである。
 ところが最後に添えられた烏羽伝説は読解力とは無関係で、密書を送る手法を知っていたかどうかという問題である。 そこで注目しなければならないのは、「」である。この「」は、「因みにこのような伝説もある」と言って別伝を紹介したことを意味する。
《大意》
 五月一日、 天皇(すめらみこと)、皇子と大臣(おおまえつきみ)とに、 「高麗(こま)の使者は、今どこにいるか。」と問われ、 大臣は、 「相楽(さがらか)の館(むろつみ)におります。」とお答えしました。
 天皇はこれをお聞きになり、深く心を痛められ、 顔色を変えて嘆かれ、 「悲しいことよ、この使者たちの名は既に先の亡き父の天皇(すめらみこと)にお聞きしていた。」と仰りました。
 すぐに群臣を相楽の館に遣わし、献上された貢物を検録の上、都に送らせました。
 十五日、 天皇は、高麗(こま)の表䟽(ひょうそ)〔上表文〕を手に取られ、 大臣(おおまえつきみ)に授けて、諸(もろもろ)の史人(ふみひと)を召し集めてこれを読解させました。
 この時、諸の史人は、三日の内に皆読むことができませんでした。
 そこに船史(ふなのふみひと)の先祖、王辰爾(おうしんに)がいて、読釈することができました。 そのために、天皇と大臣はともに讃美して、 「勤勉な辰爾(しんに)、喜ばしい辰爾よ、 お前がもし学びを好まずにいたとしたら、誰が読み解くことができただろうか。 今から殿中での近侍を始めるべし。」と仰りました。
 既にことがなり〔=解読に成功した今〕、東西の諸史に詔(みことのり)されました。
――「お前たちは、習っていたはずの業(わざ)が、何故に身についていないのか。 お前たちの数は多いが、辰爾に及ばないではないか。」
 又〔別伝には〕、高麗(こま)の上表した表䟽は、烏の羽に字を書いてありました。 羽の黒のままでしただから、〔字が書かれたことを〕既に知る人はいません。 辰爾はすなわち、飯を蒸して羽をその蒸気にあて、練り絹を用いて羽に押し付け、悉くその字を写し取りました。
 これには、朝庭全体が不思議がりました。


【元年五月~七月(二)】
《高麗大使謂副使等》
六月。
高麗大使、謂副使等曰
「磯城嶋天皇時、汝等違吾所議、被欺於他。
妄分國調、輙與微者。
豈非汝等過歟。
其若我國王聞、必誅汝等。」
副使等自相謂之曰
「若吾等至國時、大使顯噵吾過、是不祥事也。
思欲偸殺而斷其口。」
大使…〈前田本〉大使 オム 。 〈北野本〉高-麗大-使コマノヲホツカヒ
副使…〈北野本〉ソヘ-使等。 〈類聚名義抄観智院本〉スクナイオモ
…[接] (古訓) すなはち。たやすく。ほしいまま。
…「微臣」、「微躬」は遜って自分を小さく表す語。
…[形動] (古訓) あらはに。
…[副] (古訓) ひそかに。〈前田本〉ヒソカ
…[動] 〈前田本〉〔いふ〕
顕噵吾過…〈北野本〉アラハニ-イハゝ〔いはば〕〔いつつ?〕-過
不祥…〈前田本〉サカナキ
さがなし…[形]ク よくない。さが〔本性〕にそむくこと。
…[動] 〈前田本〉ヤメム。 〈北野本〉タエムトソノ-口。 タユ(下二)は自動詞であるが、北野本は他動詞として扱っている。
六月(みなづき)。
高麗(こま)の大使(おほつかひ)、副使(そへつかひ)等(たち)に謂ひて曰はく
「磯城嶋天皇(しきしまのすめらみこと)〔欽明〕の時、汝等(いましたち)吾(わが)所議(はかりしところ)を違(たが)へて、[於]他(あたしひと)に被欺(あざむかえ)き。
妄(みだりかはしく)分国の調(みつき)、輙(ほしきまにまに)微者(ちひさきもの)に与(あたへしこと)者(は)、
豈(あに)汝等の過(あやまち)に非(あらず)歟(や)。
其(それ)若し我が国の王(わう、こきし)聞かば、必ず汝等を誅(ころ)さむ。」といふ。
副使等自(みづから)[之を]相謂(かたらひて)曰ひしく
「若し吾等(われら)の国に至りし時は、大使(おほつかひ)顕(あらはに)吾(わ)が過(つみ)を噵(い)はむ。是(これ)不祥(さがなき)事也(なり)。
ねがはくは偸(ひそかに)殺して[而]其の口を断(た)たむと思欲(ねがふ)。」といひき。
是夕、謀泄。
大使知之、裝束衣帶獨自潛行、
立舘中庭、不知所計。
時有賊一人、以杖出來、打大使頭而退。
次有賊一人、直向大使、打頭與手而退。
大使、尚嘿然立地而拭面血。
更有賊一人、執刀急來、刺大使腹而退。
是時、大使恐伏地拜。
後有賊一人、既殺而去。
…〈前田本〉モリヌ
もる…[自]ラ四 漏る。
装束衣帯…〈前田本〉装-束-衣-帯ヨソヒシテ。 〈北野本〉-束ヨソヒ衣-帯
…[動] (古訓) かくして。ひそかに。
潜行…〈前田本〉潜行かくしゆく
…と同じ。
舘中庭…「舘」・「館」については、五月条「舘」参照。 〈前田本〉ムロツヒ中庭ニハナカムロツビか。はしばしばに転化する。 〈前田本-継体〉ムロツミ
所計…〈前田本〉所-計セムスヘ。 〈北野本〉
退…[動] (古訓) しりそく。かへる。〈前田本〉退出サリヌ。 〈北野本〉退〔「しりぞく」か〕
直向…〈前田本〉タゝ
ただむかふ…[他]ハ四 面と向かう。
是の夕(ゆふへ)、謀(はかりこと)泄(も)れき。
大使(おみ)之(こ)を知りて、衣帯(きぬおび、いたい)を装束(よそ)ひて独自(ひとり)潜行(かくれゆ)きて、
舘(むろつみ)の中の庭(には)に立ちて、所計(はからむところ)を不知(しらず)。
時に賊(あた)一人有りて、杖(つゑ)を以(も)ちて出(いで)来(き)、大使の頭(かしら)を打ちて[而]退(かへ)りぬ。
次に賊一人有りて、大使に直向(ただむか)ひ、頭(かしら)与(と)手とを打ちて[而]退(かへ)りぬ。
大使、尚(なほ)嘿然(もだして)地(つち)に立ちて[而]面(かほ)の血を拭(のご)ふ。
更(さらに)賊一人有りて、刀(たち)を執(と)りて急(たちまち)来(き)、大使の腹を刺して[而]退りぬ。
是の時、大使恐(おそ)りて地(つち)に伏して拝(をろが)みき。
後(のちに)賊一人有りて、既(すで)に殺して[而]去(い)ぬ。
立地…〈前田本〉立地〔地に立ちて〕
…[動] だまる。(古訓) もた。
…〈前田本〉ノコフ
のごふ…[他]ハ四 ぬぐう。
…[副] (古訓) すみやかに。たちまち。
恐伏地拝…〈北野本〉ヲカム〔「恐らくは」か〕
…[動] 〈北野本〉イヌ
明旦、領客東漢坂上直子麻呂等、推問其由。
副使等乃作矯詐曰
「天皇賜妻於大々使々違勅不受、無禮茲甚。
是以、臣等爲天皇殺焉。」
有司、以禮收葬。
明旦…〈北野本〉明-旦クルツアシタ
くるつ…[連体詞] 「翌-」の意を添える。
あくるあした…[名] 翌朝。
領客…〈前田本〉領-客マラトノ司東漢ヤマトノア■坂上
推問…〈前田本〉椎-問カムカヘト。 〈北野本〉カムカヘ-トフソノ
矯詐…〈汉典〉「虚偽詭詐。」〈前田本〉矯-詐イツハリコト
有司…〈前田本〉有-ツカサ。〈北野本〉有-司ツカサ\/
以礼収葬…〈北野本〉ヰヤ収-ハウフル
明旦(あくるあした)、領客(まらひとのつかさ)東漢(やまとのあや)の坂上直(さかのうへのあたひ)の子麻呂(こまろ)等(ら)、其の由(よし)を推問(かむがヘと)ひき。
副使等(ら)乃(すなはち)矯詐(いつはりこと)を作(な)して曰(まを)ししく
「天皇(すめらみこと)、妻を[於]大使に賜(たまは)りて、大使勅(みことのり)を違(たが)へて不受(うけまつらず)、無礼(あやなきこと)茲(ここに)甚(はなはだ)し。
是を以ちて、臣(やつかれ)等(ら)天皇の為(ため)に殺しまつりき[焉]。」とまをしき。
有司(つかさ)、礼(ゐや)を以ちて収(をさ)め葬(はぶ)りき。
秋七月。
高麗使人罷歸。
是年也、太歲壬辰。
秋七月(ふみづき)。
高麗(こま)の使人(つかひ)罷(まか)り帰(かへ)る。
是の年は[也]、太歳(たいさい)壬辰(みづのえたつ)。
《北野本》
 本サイトで用いている〈北野本〉は、『国宝北野本』(貴重圖書複製會 昭和十六年〔1941〕發行)を、 「国立国会図書館デジタルコレクション」(外部リンク)で閲覧している。
 〈北野本〉において動詞の傍訓はすべて終止形で書かれているので、活用・助詞・助動詞を加える前の、基本的な訓みを示しているようである。
《副使》
 大使の古訓については、オム〔オミ〕、オホイオモ〔オホキオミ〕、ヲホツカヒ〔オホツカヒ〕などを見た (〈欽明紀〉十一年)。また音読みの「タイシ」も想定した。
 副使も、中国古典に多くある。たとえば、 『通典』〔唐〕巻32(職官14)の分注に「自後改為節度大使。置副使〔のちに改めて節度大使とし、副使を置く〕などを見れば、 「大使」の補佐であることは間違いない。
 書紀は本来漢文だから大使・副使も中国語で、本来は音読すべきものと思われる。 しかしタイシはともかく、フクシは上代人には通じないと思われる。
 和訓には、〈類聚名義抄〉にスクナイオムがある。音便を戻すと「すくなきおみ」となるが、上代語にあったとは思えない。 一方で〈北野本〉は、「そへ-つかひ」と訓む。 "使"の部分にはルビがないが、大使=ヲホツカヒから推定できる。
 ソヘは「そふ」(他動詞;下二)の連用形で、連語としては「そへ-あざむく」(遠回しな言葉でに諫める)、 「そへ-うた」(遠回しに表現するうた)がある。ソヘツカヒの連結が上代にあり得たかどうかは疑問だが、 平安時代の校訂者は連結可能と判断した。 この訓点が仮に西暦900年頃のものだとして、700年頃の言語感覚はどの程度残っていたのであろうか。
《妄分国調輙与微者》
 「分国」は、中国古典では諸侯国に使われ、「是以国建諸侯〔『墨子』巻三;春秋戦国〕などが見られる。 ここでは、百済を朝廷に調〔特産物の献上〕を納める諸侯国と表現する。
 「微者」は、〈欽明紀〉五年では、地位が低くて使者には相応しくない役人を指した。 ここでは、〈欽明紀〉三十一年五月の「百姓」のことである。 そのときは、越の国の「道君」が私が天皇であると言って現れ、調を詐取した。 その正体を知って、お前はただの「百姓〔雑多な氏族の者〕ではないかと言って責めた。
 大使は、あのとき騙されたのはお前たちのせいだと言って、副使たちの責任を追及する。
《不知所計》
 〈前田本〉の訓読「不知セムスヘ〔為(せ)む術(すべ)を知らず〕」は、太子の狼狽の様子と読むものである。 一方、〈北野本〉の「」は「」(はかる)の名詞化と読む。
《大意》
 六月、 高麗(こま)の大使は、副使たちに言いました。
――「磯城嶋天皇(しきしまのすめらみこと)〔欽明〕の時、お前たちは我が国が議ったことを違え、他の者に騙された。 みだりに分国の調〔高句麗から倭への貢物〕を、ほしいままに小役人に与えたのは、 お前たちの過ちではないか。 もし我が国の王が聞けば、必ずお前たちを殺すであろう。」
 副使らは自分たちで話し合い、 「このままもし我らの国に帰れば、大使は我の罪を露わに言うだろうが、それはまずい。 ひそかに殺してその口をきけなくしたいものだ。」と言いました。
 その夕べ、策謀が漏れました。
 大使はこれを知り、装束衣帯して独り潜行し、 舘(むろつみ)の中庭に立ち、なすすべを知りませんでした。
 その時、賊が一人現れ、杖を持って出て来て、大使の頭を打って去りました。
 次に賊が一人現れ、大使に面と向かって、頭と手を打って去りました。 大使は、なお黙して地面に立ち、顔の血を拭いました。
 更に賊が一人現れ、太刀を取って急に来て、大使の腹を刺して去りました。 この時、大使恐れて地面に伏して拝みました。
 後(のち)に賊が一人現れ、とうとう殺して去りました。
 明朝、領客(まらひとのつかさ)東漢(やまとのあや)の坂上直(さかのうえのあたい)の子麻呂(こまろ)らは、その事由を推問しました。 副使らは、虚偽の筋書きを作り、 「天皇(すめらみこと)が妻を大使に賜ったのに、大使は詔勅に逆らってお受けせず、甚だしく無礼でした。 これによって、私どもは天皇に代わって殺したのでございます。」と申し上げました。
 官員は、礼をもって遺体を収容し、葬りました。
 七月、 高麗の使者は辞して帰りました。
 この年は、太歳壬辰(みずのえたつ)〔五七二年〕です。


まとめ
 欽明天皇三十一年、高句麗使は日本海の荒波に揉まれながら越に漂着した。 相楽館で手厚い接待を受けるが、謁見を待つ間に欽明帝は崩じた。 敏達元年五月~七月は、その続きである。 漂着したときに調を地方役人に騙し取られたことがあったが、大使はその責任を副詞に押し付け、 逆に大使が殺されてしまう。そして副使だけで帰国するという、散々な結末であった。
 さて、外国からの使者が宿泊する「舘」は、ムロツミと訓まれる。これは書紀の古訓だけにある語で、 しかも、古訓学者の特定の派閥だけで用いられたふしがある。 書紀以外には現れず全く意味不明の語だから、むしろ無視すべきものかも知れない。



2020.08.24(mon) [20-02] 敏達天皇2 

目次 【二年~三年(一)】
《高麗使人泊于越海之岸破船溺死者衆》
二年夏五月丙寅朔戊辰。
高麗使人、泊于越海之岸。
破船溺死者衆。
朝庭、猜頻迷路、不饗放還。
仍勅吉備海部直難波、送高麗使。
※…朱書は〈前田本〉の赤色のヲコト点による。
…〈前田本〉ホトリ
猜頻迷路…〈前田本〉朝庭ミカトウタカヒタマ〔ひ〕ことを 〔朝廷(みかど)、頻(しば)に路に迷ふことを猜(うたが)ひたまひて〕
…[副] (古訓) しはしは。
…[動] (古訓) うたかふ。
まとふ…[自]ハ四 道などに迷う。
不饗放還…〈前田本〉アヘタマハ-カヘシツカハス
二年五月丙寅(ひのえとら)を朔(つきたち)として戊辰(つちのえたつ)〔三日〕
高麗(こま)の使人(つかひ)、[于]越(こし)の海之(の)岸(きし)に泊(は)つ。
船を破りて溺(おぼほ)り死ぬる者(ひと)衆(あまた)。
朝庭(みかど)、頻(しばしば)路(みち)を迷(まと)へることを猜(うたが)ひて、不饗(あへず)ありて放(はな)ち還(かへ)しき。
仍(すなはち)吉備(きび)の海部直(あまべのあたひ)難波(なには)に勅(みことのり)のりたまひて、高麗の使(つかひ)を送らしめたまひき。
秋七月乙丑朔。
於越海岸、難波與高麗使等相議、
以送使難波船人
大嶋首磐日
狹丘首間狹
令乘高麗使船
以高麗二人
令乘送使船、
如此互乘以備姧志。
倶時發船至數里許、送使難波、
乃恐畏波浪、執高麗二人擲入於海。
送使…「帰国する使者を送り届ける役割を負う使者」を意味するのは明らかである。そのまま「おくりつかひ」と訓読されたと思われる。
ふなびと…[名] 舟の乗組員。(万)3349 許具布祢能 布奈妣等佐和久 奈美多都良思母 こぐふねの ふなびとさわく なみたつらしも
難波船人…〈前田本〉船人。属格の助詞「ガ」か。
磐日…〈前田本〉大嶋磐日イハヒ狭丘サヲカオヒト間狭マサ
ばかり…[助] 漠然とした範囲を表す。
…[動] なげうつ。「投擲」。(古訓) なく。
秋七月(ふみづき)乙丑(きのとうし)の朔(つきたち)。
[於]越の海の岸に、難波(なには)与(と)高麗(こま)の使(つかひ)等(たち)と相(あひ)議(はか)りて、
[以]送使(おくりつかひ)難波(なには)の船人(ふなびと)の、
大嶋首(おほしまのおびと)磐日(いはひ)、
狭丘首(さをかのおびと)間狭(まさ)をもちて、
高麗の使船に乗ら令(し)めて、
高麗の二人(ふたり)を以ちて
送使(おくりつかひ)の船に乗ら令めて、
如此(かく)互(たがひ)に乗り以ちて姦(みだりかは)しき志(こころざし)に備へき。
時を倶(とも)に船を発(た)てて至ること数里(いくばくさと)許(ばかり)、送使(おくりつかひ)難波、
乃(すなはち)波浪(なみ)を恐畏(おそ)りて、高麗の二人を執(と)り[於]海に擲入(なげい)れき。
八月甲午朔丁未。
送使難波、還來復命曰
「海裏鯨魚大有、遮囓船與檝櫂。
難波等、恐魚呑船、不得入海。」
天皇聞之、識其謾語、
駈使於官、不放還國。
…[動] あざむく。
謾語…(古訓) いつはりこと。
八月(はつき)甲午(きのえうま)を朔として丁未(ひのとひつじ)〔十四日〕
送使(おくりつかひ)の難波(なには)、還(かへ)り来て復命(かへりごとまを)して曰(まをさく)
「海(わた)の裏(うら)に鯨魚(いさな)大有(おほきにあり)て、船与(と)檝櫂(かぢ)とを遮(さ)へ齧(か)みき。
難波等(ら)、魚の船を呑(の)まむことを恐りて、海に入ることを不得(えず)。」とまをす。
天皇(すめらみこと)之(こ)を聞こして、其(そ)を謾語(いつはりこと)と識(し)りて、
[於]官(つかさ)に駈使(はゆまつかひ)して、国に不放還(はなちかへしたまはず)。
《吉備海部直難波》
 〈姓氏家系大辞典〉で「海部 アマベ」を見る。
・「海部直 海部の長に海部直と云ふもの多し。これ其の国の国造家か、 或は多数の海部を率ゐ〔ひきい〕、宛然〔=あたかも〕一国の形成をなせしによるべし。
・「吉備海部直 記紀に多く見ゆ。古事記仁徳段に「吉備海部直の女・名は黒日売」 また雄略紀に「吉備海部直赤尾」また敏達紀に「吉備海部直難波、同羽島」等見ゆ。上古の大族なり、一部紀伊に分居せしが如し。
 古事記の記事については、第165回で考察した。 そこでは、〈国造本紀〉に載る吉備の国造のいくつかは、吉備の海部直が国造を自称するようになった可能性があると見た。
 〈雄略紀〉では、七年是歳において、 「吉備海部直赤尾」が新羅への攻撃を命じられている。
 「海部部」という氏族名を見ても瀬戸内海を股に掛けた海洋氏族であり、紀伊国の支族との間を往来していたと見ることができる。 その航海術が買われて、しばしば半島に遣わされたと見てよいであろう。
《大意》
 二年五月三日、 高麗(こま)の使者が、越(こし)の海岸に停泊しました。 船は破壊され、溺れ死ぬる者多数でした。
 朝庭は、しばしば海路を迷うことを不審に思い、饗食でもてなすことをせず解放して帰しました。
 そこで、吉備(きび)の海部直(あまべのあたい)難波(なにわ)に勅を発し、高麗の使者を送らせました。
 七月一日、 越の海岸で、難波と高麗の使者たちと協議し、 送還使の難波の船員、 大嶋首(おおしまのおびと)磐日(いわひ)と 狭丘首(さおかのおびと)間狭(まさ)を、 高麗の使者の船に乗せ、 高麗に随行した二人を 送還使の船に乗せました。
 このように互いに乗り込ませることによって、おかしな心を起こさないように備えたのです。
 同時に船を発たせて数里ほど至ったところで、送還使の難波は、 波浪が恐ろしくなり、高麗の二人をつかんで海に投げ入れました。
 八月十四日、 送還使の難波は、帰ってきて、 「海の奥深くに大きな鯨がいて、船と楫(かじ)を遮って噛みました。 難波どもは、鯨が船を呑むことを恐れて、海の奥に進むことができませんでした。」と復命しました。
 天皇はこれをお聞きになり、それが偽りであることを察し、 官吏に駅使を送り、帰国しないように足止めさせました。


【二年~三年(二)】
《高麗使人泊于越海之岸。入京奏》
三年夏五月庚申朔甲子。
高麗使人、泊于越海之岸。
三年(みとせ)夏五月(さつき)庚申(かのえさる)を朔(つきたち)として甲子(きのえね)〔五日〕
高麗(こま)の使人(つかひ)、[于]越(こし)の海(うみ)之(の)岸に泊(は)つ。
秋七月己未朔戊寅、
高麗使人、入京奏曰
「臣等去年、相逐送使罷歸於國。
臣等先至臣蕃、臣蕃卽准使人之禮、
々饗大嶋首磐日等。
高麗國王、別以厚禮々之。
既而、送使之船至今未到。
故、更謹遣使人幷磐日等、
請問臣使不來之意。」
…[動] (古訓) なすらふ。よる。
礼饗…〈前田本〉ヰヤマヒ-アヘクフ/アフ
高麗国王…〈北野本〉高麗国コキシ
…[名] こころ。わけ。
秋七月(ふみづき)己未(つちのとひつじ)を朔(つきたち)として戊寅(つちのえとら)〔二十日〕
高麗の使人(つかひ)、京(みやこ)に入りて奏(まを)して曰(まをさく)
「臣等(やつかれども)去年(こぞ)、送使(おくりづかひ)を相(あひ)逐(お)ひて[於]国に罷(まか)り帰りまつりき。
臣等先に臣蕃(やつかれのくに)に至りて、臣蕃即(すなはち)使人(つかひ)之(の)礼(ゐや)に准(なずら)ひて、
大嶋首(おほしまのおびと)磐日(いはひ)等(ら)に礼(ゐや)の饗(あへ)をしまつる。
高麗(こま)の国王(くにのわう、こにきし)、別(わ)けて厚き礼(ゐや)を以ちて之(こ)を礼(ゐやま)ひき。
既にして[而]、送使之(の)船今に至りて未(いまだ)到らず。
故(かれ)、更に謹(ゐやまひて)使人(つかひ)を磐日(いはひ)等(ら)に并(あは)せて遣(つか)はして、
請(ねがはくは)臣(やつかれ)の使(つかひ)の不来之(きたらざりし)意(こころ)を問ひたまへ。」とまをす。
天皇聞、卽數難波罪曰
「欺誑朝庭、一也。
溺殺隣使、二也。
以茲大罪、不合放還。」
以斷其罪。
かぞふ…[他]ハ下二 かぞえる。
…[動] (古訓) かなふ。
断罪…裁判をして罪を決める。
…[動] (古訓) さたむ。
天皇聞こして、即(すなはち)難波の罪(つみ)を数(かぞ)へて曰(のたまひしく)
「朝庭(みかど)を欺誑(あざむ)けること、一(ひとつ)也(なり)。
隣使(となりのくにのつかひ)を溺(おぼほ)し殺ししこと、二(ふたつ)也(なり)。
茲(この)大(おほ)きなる罪を以ちて、放(はな)ち還(かへ)すに不合(かなはず)。」とのたまひき。
以ちて其の罪を断(さだ)めたまひき。
冬十月戊子朔丙申。
遣蘇我馬子大臣於吉備國、
増益白猪屯倉與田部。
卽以田部名籍、授于白猪史膽津。
増益…〈前田本〉増-益マサシ
屯倉…〈前田本〉屯倉ミヤケ
冬十月(かむなづき)戊子(つちのえね)を朔として丙申(ひのえさる)〔九日〕
蘇我馬子(そがのうまこ)の大臣(おほまへつきみ)を[於]吉備(きび)の国に遣(つか)はして、
白猪(しらゐ)の屯倉(みやけ)与(と)田部とを増益(ま)さしめたまふ。
即(すなはち)田部(たべ)の名籍(なのふみた)を以ちて、[于]白猪史(しらゐのふみひと)胆津(いつ)に授(さづ)けき。
戊戌。
詔船史王辰爾弟牛、賜姓爲津史。
十一月。
新羅遣使進調。
戊戌〔十一日〕。
船史(ふなのふみひと)王辰爾(わうしんに)の弟(おと)牛(うし)に詔のりたまひて、姓(かばね)を賜(たまは)り津史(つのふみひと)と為(し)たまふ。
十一月(しもつき)。
新羅使(つかひ)を遣(まだ)して調(みつき)を進(たてまつ)る。
《白猪屯倉》
 〈欽明紀〉十六年によれば、七月に白猪屯倉を「吉備五郡」に置いた。 『岡山県史』(p.139)は、木簡に「備前国児嶋郡三家郷(『平城宮木簡(一)』奈文研1979)、「三家白猪部少国」(『平城宮木簡概報』16)がみえ、 「白猪(史)膽津は、児島屯倉の役所(御宅)に隣接または近辺に居」たことを意味すると述べる。 詳しくは欽明紀十六年で述べる。
《白猪史胆津》
 〈欽明紀〉三十年によれば、胆津王辰爾の甥。 十年前に田部を設置した後、籍を抜いて課税を逃れる者が多くなったので、 胆津を派遣して白猪の田部の丁(よほろ)を点検して田戸の籍を確定させた。
 天皇はその功績により胆津に白猪史姓を賜り、田令を拝した。
 敏達三年十月には、その白猪屯倉と田部を増やし、名籍「田部」を賜った。
《大意》
 三年五月五日、 高麗の使者が、越の海岸に停泊しました。
 七月二十日、 高麗の使者は、都に入って奏上し、 「私どもは、去年、送使の船を互いに追って帰りました。 私どもが先に国に着き、私めは使者の礼に准じて、 大嶋首(おおしまのおびと)磐日(いはひ)等に礼の饗をいたしました。 高麗国王は、特別な厚礼を以って礼しました。
 既にそれを終えても、送使の船は今に至りまだ到着しません。 そこで、更に謹んで使者を磐日等とともに遣わし、 願わくば、私めの使者が帰って来ないことの意味をお調べください」と申し上げました。
 天皇はこれをお聞きになり、難波の罪を数えて 「朝庭を欺いたこと、これが第一。 隣の国の使者を溺れ死なせたこと、これが第二である。 この大罪により、解放して帰すことは適わない。」と仰りました。 そして、断罪なされました。
 十月九日、 蘇我馬子(そがうまこ)大臣(おおまえつきみ)を吉備の国に遣わし、 白猪屯倉(しらいみやけ)と田部を増やしました。 そして、田部(たべ)という名籍を、白猪史(しらいのふみと)胆津(いつ)に授けました。
 十一日、 詔船史(ふなのふみと)王辰爾(おうしんに)の弟の牛(うし)に、姓(かばね)を賜り津史(つのふみと)とされました。
 十一月(しもつき)、 新羅が使者を遣わして進調しました。


【高句麗平原王】
 敏達二年〔癸巳;573〕は、高句麗平原王十五年に該当する。
 『三国史記』によれば、その前後の十三年・十六年に「遣使入朝貢」、十五年に「遣使入北斉朝貢」とあり、 北斉に朝貢する。 は三十一年〔589〕まで存続したが、 北斉北周に侵攻され、十九年〔577〕に滅亡した。
 同じ十九年に「遣使入朝貢…為"開府儀同三司大将軍遼東郡開国公高句麗王"」とあり、 北周に朝貢し、称号を与えられた〔形式としての冊封〕。 ところが、北周は二十三年〔581〕に滅び、禅譲された文帝がを建てる。
 その二十三年十二月には、早速「遣使入朝貢。高祖授王"大将軍遼東郡公"」とあり、 北周との外交関係をとの間で継続する。
 このように、この期間は中国王朝の変動があったが、高句麗は時々の王朝との関係を深めようとしていたことが分かる。 『三国史記』には、この期間に特に半島内の戦闘の記録はないが、新羅との緊張状態は継続していたと考えられ、 高句麗が中国との外交関係の確保に努めたのも、バックアップを得るためであろう。
《倭との関係》
 このような情勢下においてはとも関係を築き、新羅を挟み撃ちにしようとする戦略を用いたのも、また当然であろう。 その倭への朝貢使が、安全性が確立した対馬壱岐ルートではなく、危険な日本海の直航航路を用いざるを得なかったのは、新羅沿岸ルートは最早使用できなかったことを示している。
 あるいは、当時の筑紫における外交機関は、那津之口官家(宣化元年五月)で、 〈宣下紀〉二年の時点では大伴磐が詰めていた。 筑紫の大伴氏は専ら百済・新羅を外交の相手としていて、高句麗が入り込む隙がなかったから、 新たに〔北陸道〕の地方氏族との間で関係を構築しようとした可能性もある。
 いずれにしても、この時期に高句麗から繰り返し使者を送ってきたのは、 朝鮮半島の情勢の故であろう。
《新羅》
 敏達二年は、『三国史記』年表巻によれば新羅では真興王三十四年にあたる。 三十二年〔571〕には「遣使於、貢方物。」、三十三年〔572〕には「遣使北斉朝貢」とあり、中国との関係を深めるのは高句麗と競うが如くである。 こちらにも、とくに戦争の記事はない。
 目を惹くのは、三十五年の「鋳成皇龍寺丈六像。銅重三萬五千七斤、鍍金重一萬一百九十八分。」である。 皇龍寺(慶尚北道慶州市)は、九重塔(一辺32m)の建つ大寺院であった(第152回)。
 また、三十六年の「皇龍寺丈六像、出涙至踵。 〔涙を出し踵(かかと)に至る〕が興味深い。 百済に対抗して新羅も仏教国であると誇示した見ることもできる。
 仏教に関しては、真興王二十六年〔565〕に「陳遣-使劉思与僧明観。来聘。送釈氏経論千七百余巻〔陳は劉思と僧明観を遣使、来聘〔贈り物をもってやって来る〕して釈氏経論千七百余巻を贈る〕 とあるように、新羅は仏法を専ら隋から得ていた。
 中国との関係では、とはその滅亡する年まで交流の記事(真平王十一年〔589〕」)があるが、 との交流を示す記事は全く書かれていない。この点は高句麗・百済とは対照的である。 新羅が初めてに朝貢したのは真平王四十三年〔621〕で、そこから急速に関係が深まり、四十六年には「柱国楽浪郡公新羅王」に封じられた。
《百済》
 敏達二年は、『三国史記』年表巻によれば威徳王二十年にあたる。
 二十四年〔577〕には、「秋七月。遣使入陳朝貢。冬十月。侵新羅西辺州郡。新羅伊飡世宗帥兵撃-破之」とあり、 への朝貢と新羅との局地戦が書かれる。
 二十五年〔578〕遣使入宇文朝貢」、 二十八年〔581〕王遣使入朝貢。隋高祖詔拝王為"上開府儀同三司帯方郡公"」 とあり、隋の建国年と合致する。
 百済仏教については、論文『百済仏教の始原と展開』(金寶賢)〔『鷹陵史学』鷹陵史学会;2015〕後書きによれば、漢城時代の「4世紀後半」 には「百済に仏教が知られていたことは認められ」、熊津時代〔475~538〕初期にはまだ一般的にまで普及することができなかったが」、「仏教が跡絶えることはなかったと見られ」、 「熊津時代創建とされる寺址は、文献のみ確認できる興輪寺を除いて6か所」あるという。

まとめ
 日本海航路の困難さは、一度出航しながら勝手に引き返した吉備海部難波の行動にも現れている。 我々の船もちゃんと付いていくからと安心させるために、高句麗の船員を二人乗せた。 それにも拘わらず途中でその二人を海に突き落とし、さらに鯨に襲われたと見え透いた嘘をついたことは、 いかにその海域の波浪を怖がったかを物語っている。
 また、その前に高句麗使の船が破損して着岸したと書くところにも、航海の困難さが伺われる。
 この航路の選択をせざるを得なかったのは、高句麗と新羅との対立がそれだけ抜き差しならなくなっていたからと捉えるべきであろう。 百済も高句麗も、北周及び後継の随との関係を深めているのに対して、新羅にはそれが全くなく孤立的である。 また、皇龍寺の丈六像の記事が伝説付きで新羅本紀に書かれたのは、それだけ重要事項だったからであろう。 ここに、先行して仏教を発展させていた百済・高句麗に対する当時の対抗意識を示しているのではないだろうか。



2020.09.10(thu) [20-03] 敏達天皇3 

目次 【四年正月~六月】
四年春正月丙辰朔甲子。立息長眞手王女廣姬爲皇后。……〔続き〕


目次 【四年是年】
是歲。命卜者占海部王家地與絲井王家地……〔続き〕


目次 【四年是年】
五年春三月己卯朔戊子。有司請立皇后。詔立豐御食炊屋姬尊爲皇后。……〔続き〕


目次 【六年~十一年】
《百濟國王付還使大別王等獻經論若干卷》
六年春二月甲辰朔。
詔置日祀部私部。
日祀部…〈釈紀-秘訓〔以後〈釈紀〉〕日祀部ヒノマツリヘ
私部…〈内閣文庫本〔以後〈閣庫〉〕私-部チサイチヲ。 〈釈紀-秘訓〉私部キサイチヘ
六年(むとせ)春二月(きさらき)甲辰(きのえたつ)の朔(つきたち)。
詔(みことのり)のりたまひて、日祀部(ひのまつりべ)、私部(きさきつべ)を置く。
夏五月癸酉朔丁丑、
遣大別王與小黑吉士、宰於百濟國。
【王人奉命爲使三韓、自稱爲宰。
言宰於韓、蓋古之典乎。
如今言使也。餘皆傚此。
大別王、未詳所出也。】
大別王…〈釈紀〉大別王オホワケノオホキミハ
小黒吉士…〈釈紀〉小黒吉士ヲクロノキシ
王人…〈釈紀〉王人ミツカヒ
…[動] 「為」は受身に用いる場合がある。ここでは「王使三韓〔王によって三韓に使わされる〕における主導者「王」を省略した形。
…[動] (古訓) ならふ。まなふ。
…[名] (古訓) あまる。ほか。みな。
夏五月(さつき)癸酉(みづのととり)を朔(つきたち)として丁丑(ひのとうし)〔五日〕、
大別王(おほわけのみこ)与(と)小黒吉士(をくろのきし)を遣はして、[於]百済(くたら)の国に宰(みこともち)せしめたまふ。
【王人(きみのつかひひと)命(おほせこと)を奉(うけたまは)りて[為]三韓(みつのからくに)に使(つか)はさえて、自(みづから)称(なの)りて宰(みこともち)と為(な)りき。
[於]韓(からくに)に宰(みこともち)すると言ふは、蓋(けだし)古(いにしへ)之(の)典(のり)乎(か)。
今は使(つかひ)と言ふが如し[也]。余(ほか)皆(みな)此れに傚(なら)ふ。
大別王、未だ出でし所(ところ)詳(つまひらか)ならず[也]。】
冬十一月庚午朔、
百濟國王、付還使大別王等、
獻經論若干卷、幷
律師禪師比丘尼呪禁師造佛工造寺工
六人。
遂安置於難波大別王寺。
律師禅師…〈釈紀〉律師リツシ 禅師センジ比丘尼ヒクニ 呪禁師シユコムノハカセ造仏工ホトケツクリ 造寺工テラツクリ/テラタクミ六人ムユ。 〈閣庫〉呪禁シユコム造仏ホトケツクル造寺テラタクミムユ
安置…〈閣庫〉安-置ハヘラシム
大別王寺…〈閣庫〉大別王等寺
冬十一月(しもつき)庚午(かのえうま)の朔(つきたち)、
百済(くたら)の国の王(わう)、還(かへりし)使(つかひ)大別王等に付けて、
[献]経論(きやうろむ)若干巻(まきそこばく)、并(ならびに)
律師(りつし)、禅師(ぜむし)、比丘尼(びくに)、呪禁師(じゆこむし)、造仏工(ほとけつくるたくみ)・造寺工(てらつくりのたくみ)
の六人(むたり)をたてまつりて、
遂(つひ)に[於]難波大別王(なにはのおほわけのおほきみ)の寺(てら)に安(やすらけ)く置(お)く。
七年春三月戊辰朔壬申、
以菟道皇女侍伊勢祠。
卽姧池邊皇子、事顯而解。
ほこら…[名] 平安以後の語。
…(古訓) いのる。まつる。
菟道皇女…父は敏達天皇。母は豊御食炊屋姫(推古天皇)(〈敏達〉四年)。
池辺皇子…『
元興寺伽藍縁起并流記資財帳』 や『上宮聖徳法王帝説』を参照すれば、用明天皇(推古天皇の同腹の兄)を指すことは明白である。
七年春三月(やよひ)戊辰(つちのえたつ)を朔(つきたち)として壬申(みづのえさる)〔五日〕、
菟道皇女を以ちて伊勢(いせ)の祠(まつり)に侍(はべ)らしむ。
即(すなはち)池辺皇子(いけべのみこ)と姦(たは)けて、事(こと)顕(あらは)れて[而]解(と)く。
八年冬十月、
新羅遣枳叱政奈末、
進調、幷送佛像。
枳叱政奈末…〈釈紀〉枳叱キシサ々差奈未ナミ奈未ハ冠名也
奈麻(なま)…新羅の骨品制による等級。全17等級中11位。
八年(やとせ)冬十月(かむなづき)、
新羅、枳叱政奈末(きししやうなま)を遣はして、
進調(みつきをたてまつり)、并(あは)せて仏像(ほとけのみかた)を送りまつる。
九年夏六月。
新羅遣安刀奈末
失消奈末、
進調、不納以還之。
安刀奈末…〈釈紀〉安刀奈未アトナミ
失消奈末…〈釈紀〉/矢歟 セウ奈未ナミ
九年(ここのとせ)夏六月(みなづき)。
新羅[遣]安刀奈末(あとなま)、
失消奈末(しせうなま)をつかはして、
進調(みつきたてまつ)りて、不納(をさめたまわず)以(もちて)之(こ)を還(かへ)したまふ。
十年春潤二月。
蝦夷數千冦於邊境。
由是、召其魁帥綾糟等
【魁帥者、大毛人也】
詔曰
「惟、儞蝦夷者、
大足彥天皇之世合殺者斬應原者赦。
今朕遵彼前例、欲誅元惡。」
十年(ととせ)春潤二月(うるふきさらき)。
蝦夷(えみし)数千(いくちたり)[於]辺境(ほとり)を寇(あた)なふ。
是に由(よ)りて、其の魁帥(たける)綾糟(あやかす)等(ら)を召したまひて
【魁帥者、大(おほき)毛人(えみし)也(なり)】
詔(みことのり)曰(のりたまひしく)
「惟(これ)、儞(いまし)蝦夷(えみし)者(は)、
大足彦(おほたらしひこ)の天皇(すめらみこと)之(の)世(みよ)、殺(ころ)す(べ)き者(ひと)は斬り、原(ゆる)す応(べ)き者(ひと)は赦(ゆる)したまひき。
今朕(われ)彼(かの)前(さき)の例(ならひ)に遵(したが)ひて、[欲]元(もとより)悪(あ)しきひとを誅(ころ)さむとしたまふ。」とのりたまひき。
蝦夷…〈北野本〉蝦夷エミシ
… (古訓)[名] あた。えひす。ぬす人。[動] あらし。〈閣庫〉蝦夷数千冦エミシ チアマリ アタナフ
あたなふ…[動] あたをする。「なふ」は動詞化の接尾語(下二、四段)。
魁帥綾糟…〈閣庫〉魁-帥ヒト二ノカメ綾糟アヤカス
ひとごのかみ…[名] 〈時代別上代〉一群の人の長。人子ヒトゴ=ノ=カミの意か。
たける…[名] 蝦夷などの勇猛な族長。
大毛人…『宋書』巻九十七「列伝第五十七夷蛮」には升明二年〔478〕の倭の上表の中に 「東征毛人五十五国〔東に、毛人五十五国を征(う)つ〕とある(倭の五王)。 〈北野本〉大-毛。〈閣庫〉毛人エヒス
大足彦天皇…景行天皇。
…[動] (古訓) かなふ。へし。
…[動] ゆるす。(古訓) まぬかる。ゆるす。
かの…[連体詞] 〈時代別上代〉あの。用例ははなはだ少ない。
もとより…[副] 初めから。
元悪…〈閣庫〉モハラアシキミオ/アシキモノ
於是、綾糟等、懼然恐懼、
乃下泊瀬中流、面三諸岳、
歃水而盟曰
「臣等蝦夷、自今以後子々孫々
【古語云、生兒八十綿】
連用淸明心、事奉天闕。
臣等若違盟者、
天地諸神及天皇靈、絶滅臣種矣。」
於是(ここに)、綾糟等(ら)、懼然恐懼(をののきおそりかしこみ)て、
乃(すなはち)泊瀬(はつせ)の中流(かはなか)に下りて、三諸岳(みもろのやま)に面(むか)ひて、
水を歃(すす)りて[而]盟(ちか)ひて曰(まを)さく
「臣等(やつかれども)蝦夷(えみし)、今自(よ)り以後(のち)子々孫々(うみのこのやそつつき)
【古語(ふること)に云ふ、生児(うみのこの)八十綿連(やそつつき)】に
清明(すみてある)心を用(もち)ゐて、天闕(みかど)に事奉(つかへまつる)。
臣等(やつかれども)若(もし)盟(ちかひ)に違(たが)は者(ば)、
天地(あめつち)の諸(もろもろ)の神より天皇(すめらみこと)に及びて霊(みたま)、臣(やつかれ)の種(うがら)を絶滅(た)やしたまふべし[矣]。」とまをしき。
懼然恐懼…〈閣庫〉オチカシコマリシテ然恐カシコ-懼〔怖ぢ畏まりて畏みて〕
中流…〈閣庫〉中流カハナカニ
かはなか…[名] 川の中。
やそつつき…[名] 長く続くこと。〈閣庫〉「八十連イ无〔異本は"々"なし〕
歃水…〈閣庫〉スゝテ/クチスゝイ歃イ
…[動] ①すする。②盟約の時に生贄の血を大皿からすする。「歃血(そうけつ)」。
すする…[他]ラ四 〈時代別上代〉は「すすろふ」のみを載せる。ススロフ(ススラフの変)はススルからの派生語〔未然形+継続・反復の意を添える四段の動詞語尾フ〕だから、 ススルがたまたま上代に確認できなかったことによると思われる。
ふること…[名] 昔から伝わった言葉。
清明心…〈閣庫〉「用清明イサキヨキヲ事奉ツカマツラム 天-闕 三門ニ 」。 〔潔き心を用ゐて御門〔朝廷〕に事(つか)〔へ〕まつらむ〕
天闕…〈汉典〉①天上的宮闕。②天子的宮闕。
…[名] ①宮門の両側に建つ楼台。②広く帝王の住む場所。
…[名]〈閣庫〉ミタマ/ミカケ〔御魂/御影〕
…[名]〈閣庫〉ツキヲ/ヤカラ〔次を/族〕
十一年冬十月、
新羅遣安刀奈末
失消奈末、
進調、不納以還之。
十一年冬十月、
新羅[遣]安刀奈末(あとなま)
失消奈末(しせうなま)をまだして、
進調(みつきをたてまつ)れど、不納(をさめたまはず)以ちて之を還したまふ。
《日祀部》
 日祀部は、〈姓氏家系大辞典〉に「職業部の一」、「天照大神を祀り奉る為に設けたる品部也」、 「支那〔原文ママ〕にては後漢書粛宗紀に「日祀の法を除き、 遂終の礼を省く」と見ゆ。或いは天皇の為の日祀にて、御名代部と同義か」とある。
 また「他田日奉部〔をさだひまつりべ〕:敏達帝の他田宮に仕へし日奉部にて、其の宮名を負ひたる也。…或は敏達帝を斎き奉る為の部民か。」とする。
 『後漢書』肅宗孝章帝紀の原文は、 「深執謙謙。自称不徳。無寝廟。掃地而祭。除日祀之法。省送終之礼〔深く謙謙〔へりくだって控えめな態度〕を執り、自ら不徳を称し、寝廟〔王の住む正面の御殿〕を起こすこと無く、地を掃きて祭り、日祀の法を除き、送終の礼を省く」〕 儀式の簡素化として、太陽に祈る儀式〔あるいは毎日の定例の祭祀〕を止めたようである。
 書紀の執筆者が中国文化における皇帝の「日祀」と、天照大神への祭祀のどちらを意識していたかは不明である。 しかし、書紀において「日神」は天照大神を指すので、後者として受け止めるのが順当であろう。
 書紀執筆の頃にも存在していたと思われる「他田日奉部」なる氏族名から、 書紀は「他田天皇のときに創始された天照大神を祀る部」であると位置付けたのかも知れない。 
 敏達天皇は「不信仏法」の人だから、神道よりのエピソードとして取り上げたのかも知れない。
《私部》
〈姓氏家系大辞典〉に「職業部の一にして、キサイは后(キサキ)の転、チはツにてノに通ずる助辞なるべし。即ち后妃の封民を云ふ。」、 同辞典はその子孫として、河内刻交野郡に延元〔南朝、1336~1340〕の頃の「私部(キサベ)三郎」のほか、 伊勢、尾張、因幡、出雲などにこの氏の人を見出している。
 キサキベ⇒キサイベキサキツベ⇒キサイチベの音便が生じるくらい、多くの人が口にした言葉であったことが伺われる。
 ということは、キサキもまた古い語であり、妃の訓はキサキにも「ミメ」と同程度の妥当性があろう。
《言宰於韓蓋古之典乎》
 原注は、「言宰於韓韓国からのくにみこともちすると言ふ〕について、「蓋古之典乎けだし〔恐らく〕、いにしへのり〔古い言い方〕か〕と言う。
 みこともちとは、地方に天子の言葉を伝えに赴く使いのことで、神功皇后伝説において三韓を併合して倭の領土としたことによる、空想的な表現である。 それに対して「如今言使〔今は、"使"と言ふが如く〕他皆傚此〔他も皆これに倣へ〕、 即ち原注者は"使"が現在の実態に沿う言葉だから、すべてこれを使うべきだと主張する。
 それぞれ自立した国である百済新羅高句麗に遣わす使者に、""なる語を使うことへの不快感を表明していると見てよいだろう。
 この原注者が、後の世〔平安〕日本府ヤマトノミコトモチなる古訓が付されたことを知ったら、一体何と言っただろうか。
《大別王寺》
 六年〔577〕十一月の律師など六人は、寺の建立に関わるメンバーで明らかである。 『元興寺縁起并流記資材帳』によれば、〈用明〉二年〔587〕に百済に工人を依頼し、〈崇峻〉元年〔588〕に派遣されて金堂などを建てた。 〈崇峻紀〉元年に百済から僧恵総を始めとしてスタッフを得て、法興寺を飛鳥真神原に作り始めた。
 「大別王寺」は、それより10年前の創建となるが、これ以上のことはなかなか見つからない。 唯一『日本歴史地名大系』には、 「「難波の大別王寺」は百済寺の前身であるとする説がある。」とするが、これ以上のことは見つからない。 なお、百済寺については、大阪市生野区の「堂ケ芝廃寺」が百済寺跡と言われる(敏達四年是歳《百済郡》)。
 十四年〔585〕には、物部弓削守屋が仏殿を焼いて仏像を難波堀江に棄てさせているから、 その頃に「大別王寺」も破却され、何も残っていないと考えるのが妥当か。
《大別王》
 寺の名前も「大別王」なる人物の記録もない。百済側の記録にだけあったものかも知れない。
 大別王は、「おほわけのおほきみ」の訓が一般的であるが、「おほきみ」と訓んだ場合は皇室との血縁関係は薄いか、若しくは独立氏族となる。 天皇の皇子にはこの名前は見つからないが、甥ぐらいまではミコの呼称はあり得る。例えば顕宗天皇は皇子ではないが、弘計王は「をけのみこ」と訓まれる。 副使として同行した小黒吉士は民間の氏族だから、大別王は皇子に血縁が近い皇族と見た方が自然であろう。
《新羅からの進調》
 新羅は八年に遣使して、進調するとともに仏像を献上した。百済と倭の親密な関係にくさびを打ち込もうとするものであろう。 続けて九年、十一年にも進調するが倭は拒否に転じ、受け取らずに返却している。
 崇峻朝や推古朝になっても、百済と高句麗からは僧を受け入れているが、新羅からは皆無である。
《泊瀬中流》
 初瀬川(大和川の上流部分の名称)の「仏教伝来之碑」の辺りは景色がよく、北に三輪山(三諸山、御諸岳)を望む。 三諸山には大物主神が坐し、おそらくは弥生時代から信仰の山である(第69回)。
 綾糟たちは「泊瀬中流」で、その「三諸岳」に向かって水を歃(すす)り、朝廷に順うことを盟約した。
《蝦夷》
〈安閑紀〉二十六屯倉(畿内、東海道、東山道)
 蝦夷の制圧は、倭建命が成し遂げたことになっているが、 実際には、『通典』(唐代)や〈斉明天皇紀〉に、秋田から津軽のあたりに存在した「蝦夷国」が描かれている (第128回)。
 奈良時代に入っても、安定した支配下にあったとは言い難い。。 養老六年〔724〕に「鎮所」、天平十一年〔739〕に「陸奥国…鎮守府」が見える (資料[02])。
 倭建命伝説は、古墳時代と飛鳥時代の長いスパンの東国への進出を、独りの英雄に集約したと見ることができる。ヤマトタケルという名前自体が、 現地の人による呼称に由来するのではないかと考えた。すなわち、中央から進出してきた武装勢力を、一般に「ヤマトのタケル(魁帥)」と呼んだわけである。
 安閑天皇の二十六屯倉の分布を見ると(【二十六屯倉設置の意味】)、 この頃の倭国の北限は信濃・上野・下野・常陸あたりかと想像される。
 ただ、その境界より北の住民がすべてアイヌであったとは考えにくい。アイヌの居住域の南限は仙台平野とも言われ、 陸奥国南部の「蝦夷」は、実際には倭人であったと見るのが妥当であろう。
 綾糟らを初瀬川まで連れてきた話が本当だとすれば、反乱が陸奥国の奥地で起こったとは考えにくい。 反乱は上毛国辺りで起こり、首謀者を緑野屯倉から東山道、下ツ道〔それぞれその前身の古道〕を通って連れて来たと考えるのが現実的か。
《大意》
 六年二月一日、 詔され、日祀部(ひのまつりべ)、私部(きさいちべ)を置かれました。
 五月五日、 大別王(おおわけのおほきみ)と小黒吉士(おくろのきし)を遣わして、百済国に宰(みこともち)させました。 【王に仕える人が命を奉って三韓に遣わされ、自ら宰と称したものである。 韓国(からくに)に宰すると言うのは、おそらく古い典拠によるか。 今は使(つかい)と言うべきもの。他の個所も皆これに倣え。 大別王の出どころは不詳。】
 十一月一日、 百済の国王は、帰還する使者、大別王等に託して、 経論(きょうろん)若干巻、 律師(りつし)、禅師(ぜんし)、比丘尼(びくに)、呪禁師(じゅこんし)、造仏工、造寺工の六人を併せて献上し、 結局難波大別王等の寺に置きました。
 七年三月五日、 菟道皇女(うじのひめみこ)を伊勢の奉斎に仕えさせました。 そして池辺皇子(いけべのみこ)と姦通したことが露見して任を解かれました。
 八年十月、 新羅は、枳叱政奈末(きししょうなま)を遣わして、 進調し、併せて仏像を送りました。
 九年六月、 新羅は安刀奈末(あとなま)、 失消奈末(ししょうなま)を遣わして、 進調しましたが、お納めにならずに返却しました。
 十年潤二月、 蝦夷(えみし)数千人が辺境を寇(こう)しました。 これによって、魁帥(たける)〔首謀者〕綾糟(あやかす)等を召され 【「魁帥」は、毛人(えみし)の大物をいう】 詔して、 「ここに、お前たち蝦夷は、 大足彦(おおたらしひこ)の天皇(すめらみこと)〔景行天皇〕の御世、殺すべきは斬り、許すべきは赦されました。 今、朕は彼の前例に遵い、心底悪い者を誅すこととする。」と仰りました。
 そして、綾糟らは、懼然(くぜん)と恐懼(きょうく)し〔おそれおののき〕て、 泊瀬(はつせ)の流れの中に下り、三諸岳(みもろのやま)に面して、 水を歃(すす)り盟約して、 「私ども蝦夷(えみし)、今より以後、子々孫々(うみのこのやそつづき) 【古語に、生みの子の八十綿連(やそつづき)という】 清明な心を用いて、天闕(てんけつ)〔帝〕にお事(つか)えいたします。 私共がもし盟約を違(たが)えれば、 天地(あめつち)の諸(もろもろ)の神、及び天皇(すめらみこと)の御魂は、私共の種を絶滅されることでしょう。」と申し上げました。
 十一年十月、 新羅の安刀奈末(あとなま) 失消奈末(ししょうなま)が、 進調しましたが、お納めにならずに返却しました。


まとめ
 大別王が連れ帰った六人には、造仏師、造寺師まで含まれるから、大寺を建造するためのスタッフの一揃えであろう。 百済側によるお仕着せが全くないとは言い切れないが、天皇の要請に応えたと見るのが自然であろう。
 敏達天皇自身は「仏法」の人ではあるが、蘇我馬子の強い要請に応えたことはあり得る。 ただ、まだ物部弓削守屋らの反仏教勢力が優勢な時代だから、国家事業として寺を建造しようとすれば、強い反発を受けるだろうことも明らかである。
 結局天皇の腰は据わらず、連れ帰った律師たちも宙に浮いてしまい、 仕方なく大別王に私的に寺を作って彼らをそのために使えと命じたのであろう。
 それが、「」の一文字に現れている。 そして記録には寺の名称すら残らず、単に「大別王〔等イ本の寺」と書かれるのである。



[20-04] 敏達天皇(2)