| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2020.08.02(sun) [20-01] 敏達天皇1 ▼▲ |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1目次 【即位前~元年四月】 渟中倉太珠敷天皇、天國排開廣庭天皇第二子也。……〔続き〕 2目次 【元年五月~七月(一)】 《高麗使人在於相樂館》
舘は、〈継体紀-六年〉十二月で見た通り、書紀の古訓ではムロツミと訓まれる。 〈前田本〉〔訓点は平安院政期とされる〕は、継体紀では明瞭に「ムロツミ」、敏達紀元年四月では虫食いで読み取り不能、同六月では明瞭に「ムロツヒ」である。
これを見ると、はじめに薄い墨で「サワラノタチ」と書いてあったところに、 「サワラノ」は生かし、タチの別訓として「ムロ」に繋いだように見える。 また「タチ」は水筆で消したようにも見え「ヤ」だけを残したようにも見える。 これが助詞の「尓〔ニ〕」だとすればごく自然に読めるが、どう見てもヤである。しかし、尓がヤと誤写された可能性は否定できない。 〈欽明紀-三十二年〉の「於相-楽舘一」を見ると、その感を強くする。 訓点は院政期と見られるが、既に現代の「"於"は"に"に相当するが、"於"は置き字として助詞ニを振る」習慣にしたがっている。 原本の相楽舘・サワラノ・タチ・ムロ・ヤからひとかけらずつを採取してC14法で絶対年代を調べれば、書き加えられた順番についてかなりのことが分かるはずである。 なお、〈北野本〉巻十九では、相楽は「サハラ」と訓まれたようである。 巻二十では「サワラ」だから、サハラの発音も[sawara]だと見られる。 「舘」は、タチ、ムロ(室)、ヤ(屋)、ムロヤ(室屋)の何れとも訓み得る語であるから、 このように書き加えられていることは理解できる。 しかし、ここに「ムロツミ」だけがないのは興味深い。 ムロツミは、平安時代に訓点を研究した学者グループのうち、一派閥だけが愛好した訓みなのかも知れない。 《奏聞》 〈汉典〉によれば、漢語「奏聞」は、臣が天子や王に報告することである。 つまり「奏してお聞きいただく」。 この場合、「聞く」の行為者は上位者だから、使者の名を報告したのは敏達で、報告を受けたのが欽明天皇ということになる。 よって、「此使人等名既奏二-聞於先考天皇一矣」の意味は、「その使者の名は、かつて私が生前の父にご報告申し上げたものである」となる。 これではあたかも放置したことを責めるが如きであるが、実際は欽明天皇がその崩によって面会に至らなかったことを、悼んだものであろう。 《王辰爾》 欽明紀十四年六月には 「蘇我大臣稲目宿祢、奉レ勅遣二王辰爾一、数録二船賦一。即以二王辰爾一為二船長一、因賜レ姓為二船史一。今船連之先也。」とある。 この文と、今回の「船史〔の〕祖」との間に矛盾はない。船史とは、海運と史人の両道をこなしたが故の呼び名であろう。 中国や朝鮮との交易にあたっては、漢文の品名リストを読みこなしたり書いたりしなければ仕事にならない。 「数録船賦」〔数(しばしば)船の賦(みつぎもの)を〔文書に〕録す〕とは、まさにその意味であろう。 船賦のマネージメントにあたる船長に、漢文に通じた人物を招き、 その王辰爾は、また史(ふみひと)の職に任じられたわけである。「史」は、のちに姓になった。 《船史》 〈姓氏家系大辞典〉は、「船史:百済族中の大族にして、且つ名族たり。」として、
この系図は、〈続紀〉(延暦九年)の津連真道等の上表の内容に、〈推古紀〉にある那沛故首、王後首を加えたものである。 《津連真道等の上表》 その〈続紀〉延暦九年〔790〕七月辛巳〔十七〕の「百済王〔氏族名;百済から亡命〕元信…津連真道等の上表」 には、貴須王が応神朝のときに孫の辰孫王を献上したと書かれる。
なお、始皇帝の後裔を名乗る弓月王〔秦氏の祖〕の一族が帰化し、王仁を招いたのも、応神天皇のときである (第152回)。 この時期に、半島から大量の渡来民があり、史人として取り立てられたという史実もしくは伝説があり、 氏族毎にそれぞれの始祖伝説を持つと考えられる。その始祖たちのうち大物が王仁、阿知使主、やや小粒なのが秦酒公、辰孫王などだったということではないだろうか。 《蒸羽於飯気》 「王辰爾」「烏羽」で検索したところ、テレビドラマの一場面が出て来た。 ――ドラマ「善徳女王」〔韓国MBC;2009〕第58話より
《東西諸史》 〈前田本〉では「東西」が「ヤマトカウチ」と訓まれるのは、 「河内漢=西漢」、「倭〔大和〕漢=東漢」と称されることに対応していると見られる。 「漢」の呼称は、応神天皇の頃に朝鮮半島からの渡来した諸族がルーツを漢と称することによる (152回【漢直】)。 そのうち大和を居住地とする一族が「東漢」、河内を居住地とする一族が「西漢」である。 ただ、「西漢氏」「東漢氏」は具体的には存在せず、漠然としたグループ名である。 現実に東西に分かれて存在した氏は「文宿祢=西文〔王仁の末裔〕」と「文忌寸=東文〔阿知使主の末裔〕」である (資料[25]《文宿祢》)。 文はアヤで、漢もアヤと訓まれるところから、何となく西漢東漢という表し方に及んだと思われる。 〈続紀〉延暦四年〔785〕六月癸酉〔十日〕条には、東漢として坂上、大蔵、文、文部など十一族が明記されている。 これらには、史という姓(かばね)が見られず、彼らが史人を担った直接的根拠はなかなか見つからない。 しかし、前述したように王辰爾の先祖は倭国に「有識者」として招かれ、辰爾は史人を担った。 また、和邇吉師〔=王仁〕は論語十巻千字文一巻をもって渡来したと記に書かれる(152回)。 さらに、氏族名「文」「文部」は「史部」に通ずる。 よって、西漢東漢から多くの史人が登用されていたことは当然考えられる。 この認識が一般的だったからこそ、〈前田本〉では「東西」にヤマトカウチの訓が振られたのだろう。 《所習之業不及辰爾》 始めに「王辰爾能奉読釈」とあり、 集められた史人全員に向かって「所レ習之業、不レ及二辰爾一」と言う。 すなわち、王辰爾と諸史人について、文章読解力の差を問題にしていたはずである。 ところが最後に添えられた烏羽伝説は読解力とは無関係で、密書を送る手法を知っていたかどうかという問題である。 そこで注目しなければならないのは、「又」である。この「又」は、「因みにこのような伝説もある」と言って別伝を紹介したことを意味する。 《大意》 五月一日、 天皇(すめらみこと)、皇子と大臣(おおまえつきみ)とに、 「高麗(こま)の使者は、今どこにいるか。」と問われ、 大臣は、 「相楽(さがらか)の館(むろつみ)におります。」とお答えしました。 天皇はこれをお聞きになり、深く心を痛められ、 顔色を変えて嘆かれ、 「悲しいことよ、この使者たちの名は既に先の亡き父の天皇(すめらみこと)にお聞きしていた。」と仰りました。 すぐに群臣を相楽の館に遣わし、献上された貢物を検録の上、都に送らせました。 十五日、 天皇は、高麗(こま)の表䟽(ひょうそ)〔上表文〕を手に取られ、 大臣(おおまえつきみ)に授けて、諸(もろもろ)の史人(ふみひと)を召し集めてこれを読解させました。 この時、諸の史人は、三日の内に皆読むことができませんでした。 そこに船史(ふなのふみひと)の先祖、王辰爾(おうしんに)がいて、読釈することができました。 そのために、天皇と大臣はともに讃美して、 「勤勉な辰爾(しんに)、喜ばしい辰爾よ、 お前がもし学びを好まずにいたとしたら、誰が読み解くことができただろうか。 今から殿中での近侍を始めるべし。」と仰りました。 既にことがなり〔=解読に成功した今〕、東西の諸史に詔(みことのり)されました。 ――「お前たちは、習っていたはずの業(わざ)が、何故に身についていないのか。 お前たちの数は多いが、辰爾に及ばないではないか。」 又〔別伝には〕、高麗(こま)の上表した表䟽は、烏の羽に字を書いてありました。 羽の黒のままでしただから、〔字が書かれたことを〕既に知る人はいません。 辰爾はすなわち、飯を蒸して羽をその蒸気にあて、練り絹を用いて羽に押し付け、悉くその字を写し取りました。 これには、朝庭全体が不思議がりました。 【元年五月~七月(二)】 《高麗大使謂副使等》
本サイトで用いている〈北野本〉は、『国宝北野本』(貴重圖書複製會 昭和十六年〔1941〕發行)を、 「国立国会図書館デジタルコレクション」(外部リンク)で閲覧している。 〈北野本〉において動詞の傍訓はすべて終止形で書かれているので、活用・助詞・助動詞を加える前の、基本的な訓みを示しているようである。 《副使》 大使の古訓については、オム〔オミ〕、オホイオモ〔オホキオミ〕、ヲホツカヒ〔オホツカヒ〕などを見た (〈欽明紀〉十一年)。また音読みの「タイシ」も想定した。 副使も、中国古典に多くある。たとえば、 『通典』〔唐〕巻32(職官14)の分注に「自後改為二節度大使一。置二副使一」〔のちに改めて節度大使とし、副使を置く〕などを見れば、 「大使」の補佐であることは間違いない。 書紀は本来漢文だから大使・副使も中国語で、本来は音読すべきものと思われる。 しかしタイシはともかく、フクシは上代人には通じないと思われる。 和訓には、〈類聚名義抄〉にスクナイオムがある。音便を戻すと「すくなきおみ」となるが、上代語にあったとは思えない。 一方で〈北野本〉は、「そへ-つかひ」と訓む。 "使"の部分にはルビがないが、大使=ヲホツカヒから推定できる。 ソヘは「そふ」(他動詞;下二)の連用形で、連語としては「そへ-あざむく」(遠回しな言葉でに諫める)、 「そへ-うた」(遠回しに表現するうた)がある。ソヘとツカヒの連結が上代にあり得たかどうかは疑問だが、 平安時代の校訂者は連結可能と判断した。 この訓点が仮に西暦900年頃のものだとして、700年頃の言語感覚はどの程度残っていたのであろうか。 《妄分国調輙与微者》 「分国」は、中国古典では諸侯国に使われ、「是以レ分レ国建二諸侯一」〔『墨子』巻三;春秋戦国〕などが見られる。 ここでは、百済を朝廷に調〔特産物の献上〕を納める諸侯国と表現する。 「微者」は、〈欽明紀〉五年では、地位が低くて使者には相応しくない役人を指した。 ここでは、〈欽明紀〉三十一年五月の「百姓」のことである。 そのときは、越の国の「道君」が私が天皇であると言って現れ、調を詐取した。 その正体を知って、お前はただの「百姓」〔雑多な氏族の者〕ではないかと言って責めた。 大使は、あのとき騙されたのはお前たちのせいだと言って、副使たちの責任を追及する。 《不知所計》 〈前田本〉の訓読「不知セムスヘ〔為(せ)む術(すべ)を知らず〕」は、太子の狼狽の様子と読むものである。 一方、〈北野本〉の「所レ計」は「計」(はかる)の名詞化と読む。 《大意》 六月、 高麗(こま)の大使は、副使たちに言いました。 ――「磯城嶋天皇(しきしまのすめらみこと)〔欽明〕の時、お前たちは我が国が議ったことを違え、他の者に騙された。 みだりに分国の調〔高句麗から倭への貢物〕を、ほしいままに小役人に与えたのは、 お前たちの過ちではないか。 もし我が国の王が聞けば、必ずお前たちを殺すであろう。」 副使らは自分たちで話し合い、 「このままもし我らの国に帰れば、大使は我の罪を露わに言うだろうが、それはまずい。 ひそかに殺してその口をきけなくしたいものだ。」と言いました。 その夕べ、策謀が漏れました。 大使はこれを知り、装束衣帯して独り潜行し、 舘(むろつみ)の中庭に立ち、なすすべを知りませんでした。 その時、賊が一人現れ、杖を持って出て来て、大使の頭を打って去りました。 次に賊が一人現れ、大使に面と向かって、頭と手を打って去りました。 大使は、なお黙して地面に立ち、顔の血を拭いました。 更に賊が一人現れ、太刀を取って急に来て、大使の腹を刺して去りました。 この時、大使恐れて地面に伏して拝みました。 後(のち)に賊が一人現れ、とうとう殺して去りました。 明朝、領客(まらひとのつかさ)東漢(やまとのあや)の坂上直(さかのうえのあたい)の子麻呂(こまろ)らは、その事由を推問しました。 副使らは、虚偽の筋書きを作り、 「天皇(すめらみこと)が妻を大使に賜ったのに、大使は詔勅に逆らってお受けせず、甚だしく無礼でした。 これによって、私どもは天皇に代わって殺したのでございます。」と申し上げました。 官員は、礼をもって遺体を収容し、葬りました。 七月、 高麗の使者は辞して帰りました。 この年は、太歳壬辰(みずのえたつ)〔五七二年〕です。 まとめ 欽明天皇三十一年、高句麗使は日本海の荒波に揉まれながら越に漂着した。 相楽館で手厚い接待を受けるが、謁見を待つ間に欽明帝は崩じた。 敏達元年五月~七月は、その続きである。 漂着したときに調を地方役人に騙し取られたことがあったが、大使はその責任を副詞に押し付け、 逆に大使が殺されてしまう。そして副使だけで帰国するという、散々な結末であった。 さて、外国からの使者が宿泊する「舘」は、ムロツミと訓まれる。これは書紀の古訓だけにある語で、 しかも、古訓学者の特定の派閥だけで用いられたふしがある。 書紀以外には現れず全く意味不明の語だから、むしろ無視すべきものかも知れない。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2020.08.24(mon) [20-02] 敏達天皇2 ▼▲ |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3目次 【二年~三年(一)】 《高麗使人泊于越海之岸破船溺死者衆》
〈姓氏家系大辞典〉で「海部 アマベ」を見る。 ・「海部直 海部の長に海部直と云ふもの多し。これ其の国の国造家か、 或は多数の海部を率ゐ、宛然〔=あたかも〕一国の形成をなせしによるべし。」 ・「吉備海部直 記紀に多く見ゆ。古事記仁徳段に「吉備海部直の女・名は黒日売」 また雄略紀に「吉備海部直赤尾」また敏達紀に「吉備海部直難波、同羽島」等見ゆ。上古の大族なり、一部紀伊に分居せしが如し。」 古事記の記事については、第165回で考察した。 そこでは、〈国造本紀〉に載る吉備の国造のいくつかは、吉備の海部直が国造を自称するようになった可能性があると見た。 〈雄略紀〉では、七年是歳において、 「吉備海部直赤尾」が新羅への攻撃を命じられている。 「海部部」という氏族名を見ても瀬戸内海を股に掛けた海洋氏族であり、紀伊国の支族との間を往来していたと見ることができる。 その航海術が買われて、しばしば半島に遣わされたと見てよいであろう。 《大意》 二年五月三日、 高麗(こま)の使者が、越(こし)の海岸に停泊しました。 船は破壊され、溺れ死ぬる者多数でした。 朝庭は、しばしば海路を迷うことを不審に思い、饗食でもてなすことをせず解放して帰しました。 そこで、吉備(きび)の海部直(あまべのあたい)難波(なにわ)に勅を発し、高麗の使者を送らせました。 七月一日、 越の海岸で、難波と高麗の使者たちと協議し、 送還使の難波の船員、 大嶋首(おおしまのおびと)磐日(いわひ)と 狭丘首(さおかのおびと)間狭(まさ)を、 高麗の使者の船に乗せ、 高麗に随行した二人を 送還使の船に乗せました。 このように互いに乗り込ませることによって、おかしな心を起こさないように備えたのです。 同時に船を発たせて数里ほど至ったところで、送還使の難波は、 波浪が恐ろしくなり、高麗の二人をつかんで海に投げ入れました。 八月十四日、 送還使の難波は、帰ってきて、 「海の奥深くに大きな鯨がいて、船と楫(かじ)を遮って噛みました。 難波どもは、鯨が船を呑むことを恐れて、海の奥に進むことができませんでした。」と復命しました。 天皇はこれをお聞きになり、それが偽りであることを察し、 官吏に駅使を送り、帰国しないように足止めさせました。 【二年~三年(二)】 《高麗使人泊于越海之岸。入京奏》
〈欽明紀〉十六年によれば、七月に白猪屯倉を「吉備五郡」に置いた。 『岡山県史』(p.139)は、木簡に「備前国児嶋郡三家郷」(『平城宮木簡(一)』奈文研1979)、「三家白猪部少国」(『平城宮木簡概報』16)がみえ、 「白猪(史)膽津は、児島屯倉の役所(御宅)に隣接または近辺に居」たことを意味すると述べる。 詳しくは欽明紀十六年で述べる。 《白猪史胆津》 〈欽明紀〉三十年によれば、胆津は王辰爾の甥。 十年前に田部を設置した後、籍を抜いて課税を逃れる者が多くなったので、 胆津を派遣して白猪の田部の丁(よほろ)を点検して田戸の籍を確定させた。 天皇はその功績により胆津に白猪史姓を賜り、田令を拝した。 敏達三年十月には、その白猪屯倉と田部を増やし、名籍「田部」を賜った。 《大意》 三年五月五日、 高麗の使者が、越の海岸に停泊しました。 七月二十日、 高麗の使者は、都に入って奏上し、 「私どもは、去年、送使の船を互いに追って帰りました。 私どもが先に国に着き、私めは使者の礼に准じて、 大嶋首(おおしまのおびと)磐日(いはひ)等に礼の饗をいたしました。 高麗国王は、特別な厚礼を以って礼しました。 既にそれを終えても、送使の船は今に至りまだ到着しません。 そこで、更に謹んで使者を磐日等とともに遣わし、 願わくば、私めの使者が帰って来ないことの意味をお調べください」と申し上げました。 天皇はこれをお聞きになり、難波の罪を数えて 「朝庭を欺いたこと、これが第一。 隣の国の使者を溺れ死なせたこと、これが第二である。 この大罪により、解放して帰すことは適わない。」と仰りました。 そして、断罪なされました。 十月九日、 蘇我馬子(そがうまこ)大臣(おおまえつきみ)を吉備の国に遣わし、 白猪屯倉(しらいみやけ)と田部を増やしました。 そして、田部(たべ)という名籍を、白猪史(しらいのふみと)胆津(いつ)に授けました。 十一日、 詔船史(ふなのふみと)王辰爾(おうしんに)の弟の牛(うし)に、姓(かばね)を賜り津史(つのふみと)とされました。 十一月(しもつき)、 新羅が使者を遣わして進調しました。 【高句麗平原王】 敏達二年〔癸巳;573〕は、高句麗平原王十五年に該当する。 『三国史記』によれば、その前後の十三年・十六年に「遣使入陳朝貢」、十五年に「遣使入北斉朝貢」とあり、 陳・北斉に朝貢する。 陳は三十一年〔589〕まで存続したが、 北斉は北周に侵攻され、十九年〔577〕に滅亡した。 同じ十九年に「遣使入周朝貢…為二"開府儀同三司大将軍遼東郡開国公高句麗王"一」とあり、 北周に朝貢し、称号を与えられた〔形式としての冊封〕。 ところが、北周は二十三年〔581〕に滅び、禅譲された文帝が隋を建てる。 その二十三年十二月には、早速「遣使入隋朝貢。高祖授二王"大将軍遼東郡公"一。」とあり、 北周との外交関係を随との間で継続する。 このように、この期間は中国王朝の変動があったが、高句麗は時々の王朝との関係を深めようとしていたことが分かる。 『三国史記』には、この期間に特に半島内の戦闘の記録はないが、新羅との緊張状態は継続していたと考えられ、 高句麗が中国との外交関係の確保に努めたのも、バックアップを得るためであろう。 《倭との関係》 このような情勢下においては倭とも関係を築き、新羅を挟み撃ちにしようとする戦略を用いたのも、また当然であろう。 その倭への朝貢使が、安全性が確立した対馬壱岐ルートではなく、危険な日本海の直航航路を用いざるを得なかったのは、新羅沿岸ルートは最早使用できなかったことを示している。 あるいは、当時の筑紫における外交機関は、那津之口官家(宣化元年五月)で、 〈宣下紀〉二年の時点では大伴磐が詰めていた。 筑紫の大伴氏は専ら百済・新羅を外交の相手としていて、高句麗が入り込む隙がなかったから、 新たに越〔北陸道〕の地方氏族との間で関係を構築しようとした可能性もある。 いずれにしても、この時期に高句麗から繰り返し使者を送ってきたのは、 朝鮮半島の情勢の故であろう。 《新羅》 敏達二年は、『三国史記』年表巻によれば新羅では真興王三十四年にあたる。 三十二年〔571〕には「遣使於陳、貢方物。」、三十三年〔572〕には「遣使北斉朝貢」とあり、中国との関係を深めるのは高句麗と競うが如くである。 こちらにも、とくに戦争の記事はない。 目を惹くのは、三十五年の「鋳成皇龍寺丈六像。銅重三萬五千七斤、鍍金重一萬一百九十八分。」である。 皇龍寺(慶尚北道慶州市)は、九重塔(一辺32m)の建つ大寺院であった(第152回)。 また、三十六年の「皇龍寺丈六像、出レ涙至レ踵。」 〔涙を出し踵(かかと)に至る〕が興味深い。 百済に対抗して新羅も仏教国であると誇示した見ることもできる。 仏教に関しては、真興王二十六年〔565〕に「陳遣二-使劉思与僧明観一。来聘。送二釈氏経論千七百余巻一。」 〔陳は劉思と僧明観を遣使、来聘〔贈り物をもってやって来る〕して釈氏経論千七百余巻を贈る〕 とあるように、新羅は仏法を専ら隋から得ていた。 中国との関係では、陳とはその滅亡する年まで交流の記事(真平王十一年〔589〕「入レ陳求レ法」)があるが、 隋との交流を示す記事は全く書かれていない。この点は高句麗・百済とは対照的である。 新羅が初めて唐に朝貢したのは真平王四十三年〔621〕で、そこから急速に関係が深まり、四十六年には「柱国楽浪郡公新羅王」に封じられた。 《百済》 敏達二年は、『三国史記』年表巻によれば威徳王二十年にあたる。 二十四年〔577〕には、「秋七月。遣使入陳朝貢。冬十月。侵二新羅西辺州郡一。新羅伊飡世宗帥兵撃二-破之一。」とあり、 陳への朝貢と新羅との局地戦が書かれる。 二十五年〔578〕「遣使入二宇文周一朝貢」、 二十八年〔581〕「王遣使入レ隋朝貢。隋高祖詔拝レ王為二"上開府儀同三司帯方郡公"一。」 とあり、隋の建国年と合致する。 百済仏教については、論文『百済仏教の始原と展開』(金寶賢)〔『鷹陵史学』鷹陵史学会;2015〕後書きによれば、漢城時代の「4世紀後半」 には「百済に仏教が知られていたことは認められ」、熊津時代〔475~538〕 「初期にはまだ一般的にまで普及することができなかったが」、「仏教が跡絶えることはなかったと見られ」、 「熊津時代創建とされる寺址は、文献のみ確認できる興輪寺を除いて6か所」あるという。 まとめ 日本海航路の困難さは、一度出航しながら勝手に引き返した吉備海部難波の行動にも現れている。 我々の船もちゃんと付いていくからと安心させるために、高句麗の船員を二人乗せた。 それにも拘わらず途中でその二人を海に突き落とし、さらに鯨に襲われたと見え透いた嘘をついたことは、 いかにその海域の波浪を怖がったかを物語っている。 また、その前に高句麗使の船が破損して着岸したと書くところにも、航海の困難さが伺われる。 この航路の選択をせざるを得なかったのは、高句麗と新羅との対立がそれだけ抜き差しならなくなっていたからと捉えるべきであろう。 百済も高句麗も、北周及び後継の随との関係を深めているのに対して、新羅にはそれが全くなく孤立的である。 また、皇龍寺の丈六像の記事が伝説付きで新羅本紀に書かれたのは、それだけ重要事項だったからであろう。 ここに、先行して仏教を発展させていた百済・高句麗に対する当時の対抗意識を示しているのではないだろうか。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2020.09.10(thu) [20-03] 敏達天皇3 ▼▲ |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
4目次 【四年正月~六月】 四年春正月丙辰朔甲子。立息長眞手王女廣姬爲皇后。……〔続き〕 5目次 【四年是年】 是歲。命卜者占海部王家地與絲井王家地……〔続き〕 6目次 【四年是年】 五年春三月己卯朔戊子。有司請立皇后。詔立豐御食炊屋姬尊爲皇后。……〔続き〕 7目次 【六年~十一年】 《百濟國王付還使大別王等獻經論若干卷》
日祀部は、〈姓氏家系大辞典〉に「職業部の一」、「天照大神を祀り奉る為に設けたる品部也」、 「支那〔原文ママ〕にては後漢書粛宗紀に「日祀の法を除き、 遂終の礼を省く」と見ゆ。或いは天皇の為の日祀にて、御名代部と同義か」とある。 また「他田日奉部〔をさだひまつりべ〕:敏達帝の他田宮に仕へし日奉部にて、其の宮名を負ひたる也。…或は敏達帝を斎き奉る為の部民か。」とする。 『後漢書』肅宗孝章帝紀の原文は、 「深執二謙謙一。自称二不徳一。無レ起二寝廟一。掃レ地而祭。除二日祀之法一。省二送終之礼一」 〔深く謙謙〔へりくだって控えめな態度〕を執り、自ら不徳を称し、寝廟〔王の住む正面の御殿〕を起こすこと無く、地を掃きて祭り、日祀の法を除き、送終の礼を省く」〕 儀式の簡素化として、太陽に祈る儀式〔あるいは毎日の定例の祭祀〕を止めたようである。 書紀の執筆者が中国文化における皇帝の「日祀」と、天照大神への祭祀のどちらを意識していたかは不明である。 しかし、書紀において「日神」は天照大神を指すので、後者として受け止めるのが順当であろう。 書紀執筆の頃にも存在していたと思われる「他田日奉部」なる氏族名から、 書紀は「他田天皇のときに創始された天照大神を祀る部」であると位置付けたのかも知れない。 敏達天皇は「不信仏法」の人だから、神道よりのエピソードとして取り上げたのかも知れない。 《私部》 〈姓氏家系大辞典〉に「職業部の一にして、キサイは后(キサキ)の転、チはツにてノに通ずる助辞なるべし。即ち后妃の封民を云ふ。」、 同辞典はその子孫として、河内刻交野郡に延元〔南朝、1336~1340〕の頃の「私部(キサベ)三郎」のほか、 伊勢、尾張、因幡、出雲などにこの氏の人を見出している。 キサキベ⇒キサイベ、キサキツベ⇒キサイチベの音便が生じるくらい、多くの人が口にした言葉であったことが伺われる。 ということは、キサキもまた古い語であり、妃の訓はキサキにも「ミメ」と同程度の妥当性があろう。 《言宰於韓蓋古之典乎》 原注は、「言宰於韓」〔韓国に宰すると言ふ〕について、「蓋古之典乎」〔蓋〔恐らく〕、古の典〔古い言い方〕か〕と言う。 宰とは、地方に天子の言葉を伝えに赴く使いのことで、神功皇后伝説において三韓を併合して倭の領土としたことによる、空想的な表現である。 それに対して「如今言使」〔今は、"使"と言ふが如く〕「他皆傚此」〔他も皆これに倣へ〕、 即ち原注者は"使"が現在の実態に沿う言葉だから、すべてこれを使うべきだと主張する。 それぞれ自立した国である百済・新羅・高句麗に遣わす使者に、"宰"なる語を使うことへの不快感を表明していると見てよいだろう。 この原注者が、後の世〔平安〕に日本府にヤマトノミコトモチなる古訓が付されたことを知ったら、一体何と言っただろうか。 《大別王寺》 六年〔577〕十一月の律師など六人は、寺の建立に関わるメンバーで明らかである。 『元興寺縁起并流記資材帳』によれば、〈用明〉二年〔587〕に百済に工人を依頼し、〈崇峻〉元年〔588〕に派遣されて金堂などを建てた。 〈崇峻紀〉元年に百済から僧恵総を始めとしてスタッフを得て、法興寺を飛鳥真神原に作り始めた。 「大別王寺」は、それより10年前の創建となるが、これ以上のことはなかなか見つからない。 唯一『日本歴史地名大系』には、 「「難波の大別王寺」は百済寺の前身であるとする説がある。」とするが、これ以上のことは見つからない。 なお、百済寺については、大阪市生野区の「堂ケ芝廃寺」が百済寺跡と言われる(敏達四年是歳《百済郡》)。 十四年〔585〕には、物部弓削守屋が仏殿を焼いて仏像を難波堀江に棄てさせているから、 その頃に「大別王寺」も破却され、何も残っていないと考えるのが妥当か。 《大別王》 寺の名前も「大別王」なる人物の記録もない。百済側の記録にだけあったものかも知れない。 大別王は、「おほわけのおほきみ」の訓が一般的であるが、「おほきみ」と訓んだ場合は皇室との血縁関係は薄いか、若しくは独立氏族となる。 天皇の皇子にはこの名前は見つからないが、甥ぐらいまではミコの呼称はあり得る。例えば顕宗天皇は皇子ではないが、弘計王は「をけのみこ」と訓まれる。 副使として同行した小黒吉士は民間の氏族だから、大別王は皇子に血縁が近い皇族と見た方が自然であろう。
新羅は八年に遣使して、進調するとともに仏像を献上した。百済と倭の親密な関係にくさびを打ち込もうとするものであろう。 続けて九年、十一年にも進調するが倭は拒否に転じ、受け取らずに返却している。 崇峻朝や推古朝になっても、百済と高句麗からは僧を受け入れているが、新羅からは皆無である。 《泊瀬中流》 初瀬川(大和川の上流部分の名称)の「仏教伝来之碑」の辺りは景色がよく、北に三輪山(三諸山、御諸岳)を望む。 三諸山には大物主神が坐し、おそらくは弥生時代から信仰の山である(第69回)。 綾糟たちは「泊瀬中流」で、その「三諸岳」に向かって水を歃(すす)り、朝廷に順うことを盟約した。 《蝦夷》
奈良時代に入っても、安定した支配下にあったとは言い難い。。 養老六年〔724〕に「鎮所」、天平十一年〔739〕に「陸奥国…鎮守府」が見える (資料[02])。 倭建命伝説は、古墳時代と飛鳥時代の長いスパンの東国への進出を、独りの英雄に集約したと見ることができる。ヤマトタケルという名前自体が、 現地の人による呼称に由来するのではないかと考えた。すなわち、中央から進出してきた武装勢力を、一般に「ヤマトのタケル(魁帥)」と呼んだわけである。 安閑天皇の二十六屯倉の分布を見ると(【二十六屯倉設置の意味】)、 この頃の倭国の北限は信濃・上野・下野・常陸あたりかと想像される。 ただ、その境界より北の住民がすべてアイヌであったとは考えにくい。アイヌの居住域の南限は仙台平野とも言われ、 陸奥国南部の「蝦夷」は、実際には倭人であったと見るのが妥当であろう。 綾糟らを初瀬川まで連れてきた話が本当だとすれば、反乱が陸奥国の奥地で起こったとは考えにくい。 反乱は上毛国辺りで起こり、首謀者を緑野屯倉から東山道、下ツ道〔それぞれその前身の古道〕を通って連れて来たと考えるのが現実的か。 《大意》 六年二月一日、 詔され、日祀部(ひのまつりべ)、私部(きさいちべ)を置かれました。 五月五日、 大別王(おおわけのおほきみ)と小黒吉士(おくろのきし)を遣わして、百済国に宰(みこともち)させました。 【王に仕える人が命を奉って三韓に遣わされ、自ら宰と称したものである。 韓国(からくに)に宰すると言うのは、おそらく古い典拠によるか。 今は使(つかい)と言うべきもの。他の個所も皆これに倣え。 大別王の出どころは不詳。】 十一月一日、 百済の国王は、帰還する使者、大別王等に託して、 経論(きょうろん)若干巻、 律師(りつし)、禅師(ぜんし)、比丘尼(びくに)、呪禁師(じゅこんし)、造仏工、造寺工の六人を併せて献上し、 結局難波大別王等の寺に置きました。 七年三月五日、 菟道皇女(うじのひめみこ)を伊勢の奉斎に仕えさせました。 そして池辺皇子(いけべのみこ)と姦通したことが露見して任を解かれました。 八年十月、 新羅は、枳叱政奈末(きししょうなま)を遣わして、 進調し、併せて仏像を送りました。 九年六月、 新羅は安刀奈末(あとなま)、 失消奈末(ししょうなま)を遣わして、 進調しましたが、お納めにならずに返却しました。 十年潤二月、 蝦夷(えみし)数千人が辺境を寇(こう)しました。 これによって、魁帥(たける)〔首謀者〕綾糟(あやかす)等を召され 【「魁帥」は、毛人(えみし)の大物をいう】 詔して、 「ここに、お前たち蝦夷は、 大足彦(おおたらしひこ)の天皇(すめらみこと)〔景行天皇〕の御世、殺すべきは斬り、許すべきは赦されました。 今、朕は彼の前例に遵い、心底悪い者を誅すこととする。」と仰りました。 そして、綾糟らは、懼然(くぜん)と恐懼(きょうく)し〔おそれおののき〕て、 泊瀬(はつせ)の流れの中に下り、三諸岳(みもろのやま)に面して、 水を歃(すす)り盟約して、 「私ども蝦夷(えみし)、今より以後、子々孫々(うみのこのやそつづき) 【古語に、生みの子の八十綿連(やそつづき)という】 清明な心を用いて、天闕(てんけつ)〔帝〕にお事(つか)えいたします。 私共がもし盟約を違(たが)えれば、 天地(あめつち)の諸(もろもろ)の神、及び天皇(すめらみこと)の御魂は、私共の種を絶滅されることでしょう。」と申し上げました。 十一年十月、 新羅の安刀奈末(あとなま) 失消奈末(ししょうなま)が、 進調しましたが、お納めにならずに返却しました。 まとめ 大別王が連れ帰った六人には、造仏師、造寺師まで含まれるから、大寺を建造するためのスタッフの一揃えであろう。 百済側によるお仕着せが全くないとは言い切れないが、天皇の要請に応えたと見るのが自然であろう。 敏達天皇自身は「不レ信二仏法一」の人ではあるが、蘇我馬子の強い要請に応えたことはあり得る。 ただ、まだ物部弓削守屋らの反仏教勢力が優勢な時代だから、国家事業として寺を建造しようとすれば、強い反発を受けるだろうことも明らかである。 結局天皇の腰は据わらず、連れ帰った律師たちも宙に浮いてしまい、 仕方なく大別王に私的に寺を作って彼らをそのために使えと命じたのであろう。 それが、「遂」の一文字に現れている。 そして記録には寺の名称すら残らず、単に「大別王〔等イ本〕の寺」と書かれるのである。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
⇒ [20-04] 敏達天皇(2) |