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2020.07.26(sun) [19-22] 欽明天皇22 


34目次 【三十一年】
《幸泊瀬柴籬宮》
卅一年春三月甲申朔。
蘇我大臣稻目宿禰薨。
三十一年(みそとせあまりひととせ)春三月(やよひ)甲申(きのえさる)の朔(つきたち)。
蘇我大臣(そがのおほまへつきみ)稲目宿祢(いなめのすくね)薨(こうず、みまかる)。
夏四月甲申朔乙酉。
幸泊瀬柴籬宮。
越人江渟臣裾代、詣京奏曰
「高麗使人、辛苦風浪、迷失浦津、
任水漂流、忽到着岸。
郡司隱匿、故臣顯奏。」
江渟臣裾代…〈釈紀〉江-渟-臣エヌノヲム裾代モシロ
浦津…〈釈紀〉浦津■マリ
…[副] (古訓) まま。
夏四月甲申(きのとさる)を朔(つきたち)として乙酉(きのえとり)〔二日〕。
泊瀬(はつせ)の柴籬宮(しばかきみや)に幸(いで)ます。
越(こし)の人、江渟臣(えぬまのおみ)裾代(もしろ)、京(みやこ)に詣(まゐ)でて奏(まをして)曰(まをししく)
「高麗(こま)の使人(つかひ)、風浪(かぜなみ)を辛苦(くるし)みて、浦津(うらのつ、とまり)を迷失(まとひう)して、
水(みづ)の任(まにま)に漂流(ただよ)ひて、忽(たちまちに)岸に着けるに到りき。
郡(こほり)の司(つかさ)隠匿(かく)しし故(ゆゑ)に、臣(やつかれ)顕(あらはに)奏(まを)す。」とまをしき。
詔曰
「朕承帝業、若干年。
高麗迷路。
始到越岸。
雖苦漂溺。
尚全性命。
豈非徽猷廣被。
至德魏々。
仁化傍通。
洪恩蕩々者哉。
有司、
宜於山背國相樂郡、
起舘淨治、厚相資養。」
漂溺…〈汉典〉①冲没〔沖に沈む〕、淹没〔水に覆われて沈む〕。②指漂没溺死
おぼほる…[自]ラ下二 おぼれる。
性命…〈汉典〉生物的生命
徽猷…〈汉典〉美善之道。猷〔はかりごと〕、道。指修養、本事等
魏魏…〈汉典〉高大貌。
仁化…〈汉典〉仁慈的教化。
洪恩…〈汉典〉大恩。
…[形][動]はるかに広がってるさま。〈汉典〉洗浄。動;揺動;振動。
資養…〈汉典〉猶供養。
詔(みことのり)曰(のりたまひしく)
「朕(われ)帝業(すめらがみわざ、あめのした)を承(うけたま)はりて、若干(そこばく)年(とせ)、
高麗(こま)路(みち)を迷(まど)ひて、
始めて越(こし)の岸(きし)に到りき。
[雖]苦しみ漂溺(ただよひおぼほ)るれど、
尚(なほ)性命(いのち)を全(また)くありき。
豈(あに)徽猷(くゐいう、よきはかりごと)広く被(かがふる)に非(あら)ずや。
至徳(のり)魏々(ぐゐぐゐ、いとたかきところ)に至りて、
仁化(めぐみのをしへ)傍(かたはら)に通(とほ)りて、
洪恩(おほきめぐみ)蕩々(たうたう、いとひろき)なりや[者哉]。
有司(つかさ)、
宜(よろし)く[於]山背国(やましろのくに)相楽郡(さがらかのこほり)に、
舘(たち)を起(た)てて浄(きよ)め治(をさ)めまつりて、厚(あつ)く相(あひ)資養(たす)くべし。」とのりたまひき。
是月。
乘輿至自泊瀬柴籬宮、
遣東漢氏直糠兒
葛城直難波、
迎召高麗使人。
乗輿…〈北野本〉乗-輿キミ
東漢氏直糠児…〈釈紀〉東漢氏直糠児ヤマトアヤノウチノアタイアラコ
東漢氏直…〈天武紀下-十四年〉に「倭漢連…賜姓曰忌寸」とあり、 また〈続紀-延暦四〉の「文忌寸」ではないかと思われる(資料[25]《文宿祢》)。
…[名] (古訓) ぬか。あら。 〈時代別上代〉日本書紀に、「糠子・糠手子・糠虫」などヌカをもつ固有名詞がかなり見える。
東漢氏直・葛城直…〈天武紀下-十四年〉に「葛城連…倭漢連…并十一氏賜姓曰忌寸」。 東漢忌寸はまた、〈続紀-延暦四〉の「文忌寸」に通ずると思われる(資料[25]《文宿祢》)。
是の月。
輿(こし)に乗りたまひて泊瀬の柴籬宮自(ゆ)至(いでま)して、
[遣]東漢氏(やまとあやのうぢ)の直(あたひ)糠児(ぬかこ、あらこ)、
葛城直(かつらきのあたひ)難波(なには)をつかはして、
高麗(こま)の使人(つかひ)を迎(むか)へ召(よ)ばしめたまふ。
五月。
遣膳臣傾子於越、饗高麗使。
【傾子、此云舸陀部古】
大使審知膳臣是皇華使、
乃謂道君曰
「汝非天皇、果如我疑。
汝既伏拜膳臣、倍復足知百姓。
而前詐余、取調入己。
宜速還之、莫煩餝語。」
膳臣聞之、使人探索其調、
具爲與之、還京復命。
…[動] (古訓) あふ。あへす〔連用形+サ変動詞〕
大使…訓は、オホツカヒ、オミ(欽明十一年)。
華使…〈汉典〉顕貴的官吏。
道君…〈釈紀-秘訓〉道君ミチノウシ
…[副] (古訓) ますます。
ますます…[副] いっそう。「ますますに」とも。
百姓…民。原意は雑多な氏族。ここでは、地方の下級役人を表す。〈敏達紀-元年〉では「微者」と表現。
入己…〈釈紀-秘訓〉イレタリオノカミニ 〔己が身入れたり〕
たり…[助動] 〈時代別上代〉「この助動詞〔タリ〕は記紀にはまだ用例がなく、万葉にも〔中略〕なおテアルの形の用例が見える。
莫煩飾語…〈釈紀-秘訓〉莫-煩餝語イタツカハシクナカサリイヒソ
いたつかはし…[形]シク わずらわしい。上代にはまだない。
わづらはす…[他]サ四 「わづらふ」の他動詞。形容詞「わづらはし」の存在は上代には不確実。 
具為与之…〈釈紀-秘訓〉具為-与-之ツフサニカヘシアタフ。 〈釈紀-述義〉私記曰。案。假名本作令返與之 〔私記に曰ふ。案ずるに、仮名本に「返さ令め与ふ」に作る〕
…[動] (古訓) なす。をさむ。
五月(さつき)。
膳臣(かしはでのおみ)傾子(かたべこ)[於]越(こし)に遣(つか)はして、高麗の使(つかひ)を饗(あへ)せしめたまふ。
【傾子、此云舸陀部古(かたべこ)と云ふ】
大使(おほつかひ)審(つまひらかに)膳臣(かしはでのおみ)、是(これ)皇華使(すめらがみつかひ)なりと知りて、
乃(すなはち)道君(みちのきみ)に謂ひて曰はく
「汝(いまし)天皇(すめらみこと)に非(あらざ)ること、果たして我が疑ひし如し。
汝(いまし)既に膳臣(かしはでのおみ)に伏し拝(をが)みて、倍(ますます)復(また)百姓(ちひさきもの)と知るに足る。
而(しかくして)前(さき)に余(われ)を詐(あざむ)きて、調(みつき)を取りて己(おのれ)に入れき。
速(すみやかに)之(こ)を還(かへ)す宜(べ)し。莫煩飾語(わづらはしてなかざりかたりそ)。」
膳臣之を聞きて、使人(つかひ)をして其の調(みつき)を探索(さぐ)らしめて、
具(つぶさに)為(をさ)めて之を与(あた)へて、京(みやこ)に還(かへ)りて復命(かへりごとまを)しき。
秋七月壬子朔。
高麗使到于近江。
秋七月(ふみづき)壬子(みづのえね)の朔(つきたち)。
高麗の使(つかひ)[于]近江(ちかつあふみ)に到る。
是月。
遣許勢臣猿與吉士赤鳩、
發自難波津。
控引船於狹々波山而裝餝船、
乃往迎於近江北山。
遂引入山背高楲舘。
則遣東漢坂上直子麻呂
錦部首大石、
以爲守護、更饗高麗使者於相樂舘。
許勢臣猿…〈北野本〉サル。 〈釈紀-秘訓〉許勢臣猿コセノヲムサル
吉士赤鳩…〈釈紀-秘訓〉吉士赤-鳩キシノアカハト
控引船…〈北野本〉引舩-ナミノ而裝-舩
高楲館…〈釈紀-秘訓〉高楲館/コマヒノタチコマヒノムロツミ
…[名] 〈汉典〉①「~窬」(盛大小便的器具、即便桶)。②連通蓄水池塘与灌漑溝渠的閘柵。
東漢坂上直子麻呂…〈釈紀-秘訓〉東漢坂上直ヤマトノアヤノサカノウヘノアタヒ子-麻-呂コマロ
錦部首大石…〈釈紀-秘訓〉錦部首ニシキヘノヲフト大-石オホイシ。 〈北野本〉錦-部首ニシキヘノヲム
守護…〈釈紀-秘訓〉守-護マモリヒト
…書紀古訓に「むろつみ」。(敏達紀元年《舘》参照)。
是の月。
許勢臣(こせのおみ)の猿(さる)与(と)吉士(きし)の赤鳩(あかはと)とを遣(つかは)して、
難波津(なにはつ)自(ゆ)発(た)たしむ。
引船(ひきふね)を[於]狭々波山(ささなみやま)に控(ひか)へて[而]飾り船に装(よそ)ひて、
乃(すなはち)[於]近江(ちかつあふみ)の北山に往(ゆ)き迎へり。
遂(ついに)山背(やましろ)の高楲(こまひ)の舘(たち、むろつみ)に引き入れつ。
則(すなは)ち[遣]東漢(やまとのあやの)坂上(さかのうへ)の直(あたひ)子麻呂(こまろ)、
錦部首(にしきべのおびと)大石(おほいし)をつかはして、
以ちて守護(まもり)と為(し)て、更(さらに)高麗の使者(つかひ)を[於]相楽(さがらか)の舘(たち、むろつみ)に饗(あへ)しき。
卅二年春三月戊申朔壬子。
遣坂田耳子郎君、使於新羅、
問任那滅由。
是月。
高麗、獻物幷表、未得呈奏。
經歷數旬、占待良日。
坂田耳子郎君…〈釈紀-秘訓〉坂-田耳-子-郎君サカタノミゝコイラツキミ
占待良日…〈釈紀-秘訓〉-待シメマツ良-日ヨキヒヲ
三十二年春三月(やよひ)戊申(つちのえさる)を朔(つきたち)として壬子(みづのえね)〔五日〕。
坂田(さかた)の耳子郎君(みみこのいらつきみ)を遣はして、[於]新羅に使(つかひ)せしめて、
任那の滅(ほろぼ)しし由(よし)を問はしむ。
是の月。
高麗(こま)、献(たてまつり)物(もの)并(ならびに)表(ふみ)、未(いまだ)呈奏(たてまつりまをす)を得ず。
数旬(いくとをか)を経(へ)歴(めぐ)りて、良き日を占(うら)へ待ちき。
《三十一年》
 三十一年〔庚寅〕は、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』において、諸臣が堂舎を焼き、仏像・経教を難波江に流した年である (「元興寺縁起…」)。
――「已丑年。稲目大臣薨已後、余臣等共計。 庚寅年。焼-切堂舍、仏像経教流於難波江也。
 書紀では、十三年十月の中に記述されている。
《泊瀬柴籬宮》
 泊瀬柴籬宮の所在地は、現在のところ明らかでない。脇本遺跡を当てる説もあるが、 それでは磯城嶋金刺宮をどこに置くのかという問題が生じる (第227回第238回【師木嶋大宮】)。
 ただ、越の人が「詣京」して欽明天皇に奏したと述べるから金刺宮とはそんなに離れていないはずである。 広大な金刺宮の域内の一つの宮殿か。
 しかし、金刺宮に戻る時に「輿」と表現するには、近すぎる。 ここで注目されるのは、許勢臣猿と吉士赤鳩を難波津から出発させたことで、 欽明天皇は、この時期難波の副都にいた可能性がある。ならば、「輿至泊瀬柴籬宮」 は自然である。
《江渟臣》
 〈倭名類聚抄〉に{加賀国・江沼郡}。{越前国・足羽郡・江沼郷}がある。
 〈姓氏家系大辞典〉は「〔江沼郡は〕古代江沼国の遺跡なり、〔江沼郷は〕江沼氏分住して起せし地名なるが如し。」 「江沼臣:江沼国造家の氏姓にて、竹内宿祢の後ある事は、古事記、姓氏録、国造本紀の説・ 尽〔ことごと〕く一致す。猶ほ上宮記には「意富々等王云々、余奴臣安那爾比弥を娶りて、…」とありて余奴臣と記し」と述べる (資料[20]参照)。
《皇華使》
 〈釈紀-述義〉に「私記曰。作皇都」とあり、 「皇都使」を誤ったのではないかと見る。
 しかし、「華使」は〈汉典〉に「顕貴的官吏」とあるように中国語として存在し、意味は中華〔中央の先進地域〕の上級官吏である。 ここでは、それに倭語「皇(すめら)」を冠したものである。「皇軍(すめらみくさ〔み-いくさ〕)」のように、 「皇(すめら)-」は一般的に天皇を誉める接頭語として使われる。
《道君》
 〈釈紀-述義〉「私記曰案假名本越郡司道君。又曰道君越國郡司之名也。〔私記に曰ふ。案ずるに仮名本に越の郡司「道君」。また曰ふ。道君は越国の郡司の名なり。〕
 少なくとも、「道臣」が天皇のふりをして調をだまし取ったという不祥事を、郡司は秘密にしていた。 だから、道臣が越国〔上越・中越などに分割する前の国〕の一つの郡の郡司〔実際には、県主であろう〕の個人名だったという考えは成り立つ。 あるいは、越国で街道の管理にあたるローカルな役職として「道君」があったことも考えられる。
 なお、「仮名本」は書紀を音仮名に直した本と想像され、 そこに加えられた註釈を言っているように読めるが、私記はまだ書紀のことをあれこれ探求した時期で〔平安時代〕、その頃に全部仮名に翻訳したような体系だった本があったとは信じ難い。
《狭々波山》
 ササナミは、琵琶湖南部の唐崎神社付近の地名、もしくは枕詞として万葉集にも多数詠まれる (第144回)。 また、ササナミを通り敦賀方面と結ぶ道を楽浪道(ささなみぢ)という (第150回)。
《近江北山》
 高麗使を迎えるために、船で琵琶湖の北岸まで行ったのは明らかである。 「北山」と呼ばれる特定の山があったかどうかは分からないが、 「近江北山」は琵琶湖の北方の山地を指すと考えられる。
《高楲舘》
『事典 日本古代の道と駅』(木下良;2009)より「山城国」(部分)に、 木津川他を記入。
 〈釈紀-述義〉に「私記曰。案。假名日本紀作高麗斐乃多知」とある。 これが「高楲館」を「コマヒノタチ(あるいはコマヒノムロツミ)」と訓む根拠らしい。 「楲」の意味は、「楲窬」はおまる。灌漑用の貯水池と導水路の間の閘門。
 に対応する上代語は「」だから、 「高麗楲」から「」が省略されたとすれば、「高麗斐」には妥当性がある。
 山背国〔山城国〕高楲舘に〔舟を〕引入」とあるから、瀬田川が通る宇治郡、紀伊郡、綴喜郡、久世郡のいずれかにあったのではないかと思われる。
 一方、『五畿内志』は、山城国相楽郡【古跡】に「高楲舘コマノムロスミ【在上狛村」とある。 この判断の根拠は、「コマ」という地名だろうか。
 なお、コマという地名は一般的には668年に高句麗が滅亡した後、倭に渡来した人たちの居住地の呼称である。 だから「高楲」がコマヒだとすれば、時代が下った後の舘の名称を遡って使ったのかも知れない。 ただ、高句麗使が越-琵琶湖-瀬田川コースで訪れる経路も古くからあり、その接受のためにコマの名を被せた舘が用意されていたという考えも成り立つ。
《相楽舘》
 相楽舘を検索したところでは、一般にあまり確定的なことは言われていない。 『五畿内志』や『大日本地名辞書』にもでてこない。
 考えるに、相楽郡は、〈倭名類聚抄〉の{相楽郷}が後に郡名になったもので、 相楽館は相楽郷にあったのかも知れない。 この郷に、 〈延喜式-神名帳〉の{山城国/相楽郡/相楽神社}にあったことも考えられる。 相楽神社は、木津川市公式ページによると江戸時代は「八幡神社」で、 明治10年〔1877〕に式内「相楽神社」に定められた(京都府木津川氏相楽清水1)。
 またこの付近は恭仁くに京の地だが、その遷都は740年だから相楽舘のあったのはそれよりずっと昔である。 しかし、奈良時代以前の山陽道はここを通り、 恐らく木津川の湊もあり、古くから交通の要所であったと思われる。 だから、相楽神社のあたりが相楽郡で、郡家も相楽舘もこの辺りではなかったかと想像される。
 しかし、高楲舘が上狛村にあったとすると相楽舘に近すぎるのが、やや疑問である。
《大意》
 三十一年三月一日、 蘇我大臣(そがのおおまえつきみ)稲目宿祢(いなめのすくね)は薨じました。
 四月二日、 泊瀬(はつせ)柴籬宮(しばかきみや)に行幸されました。
 越(こし)の人、江渟臣(えぬまのおみ)裾代(もしろ)は、都に上り奏上しました。
――「高麗(こま)の使者が、風浪に辛苦し迷って湊を見失い、 漂流し、たまたま着岸するに到りました。 郡司が隠匿しておりますので、私めが事実を奏上いたします。」
 天皇は詔(みことのり)されました。 「朕が帝業を承り若干年、 高麗は路を迷い、 始めて越の岸に到った。
 苦しみ漂溺しながら、 なお生命を全うした。 これが徽猷(きゆう)〔神のよき計らい〕を広く蒙ったと言わずにおれようか。
 至徳は魏々(ぎぎ)〔高み〕に至り、 仁化〔仁の教化〕は傍らまで通い、 洪恩は蕩々(とうとう)とあふれている。
 司たちよ、 宜しく山背国の相楽郡(さがらかのこおり)に、 舘を建て、浄め治め、厚くお相手して資養せよ。」
 同じ月、 泊瀬柴籬宮から戻られ、 東漢氏(やまとあやのうじ)の直(あたい)糠児(ぬかこ)、 葛城直(かつらきのあたい)難波(なにわ)を派遣して、 高麗の使者を召すために迎えに行かせました。
 五月、 膳臣(かしわでのおみ)傾子(かたべこ)を越に遣わして、高麗使を饗しました。 大使は詳らかに〔その姿から間違いなく〕、膳臣が天皇が遣わした華使であることを知り、 道君(みちのきみ)に言いました。 ――「お前が天皇(すめらみこと)でないことは、果たして私が疑った通りであった。 お前が既に膳臣に平伏するのを見れば、ますますまた下っ端の者だと知るのに十分である。 こうして、先日は余を欺き、献朝のものを奪っておのれの懐に入れた。 速やかにこれを返せ。煩わしく言葉を飾るでない。」
 膳臣はこれを聞き、使人(つかひ)をしてその調を探索させ、 具(つぶさ)に回収して高麗使に与え、都に帰って復命しました。
 七月一日、 高麗使は近江(ちかつあふみ)に到着しました。
 同じ月、 許勢臣(こせのおみ)の猿(さる)と吉士(きし)の赤鳩(あかはと)とを遣わして、 難波津から出発しました。
 曳き船を狭々波(ささなみ)の山に停泊して装飾船に仕立て、 出来上がったところで近江(ちかつあふみ)の北山に迎えに行き、 遂に山背〔山城〕の高楲(こまひ)の館(たち)の湊に引き入れました。
 そして東漢坂上直(やまとのあやのさかのうえのあたい)子麻呂(こまろ)と、 錦部首(にしきべのおびと)大石を派遣して 守護させ、更に高麗の使者を相楽(さがらか)の舘(むろつみ)で饗しました。
 三十二年三月五日、 坂田(さかた)の耳子郎君(みみこのいらつきみ)を新羅に派遣し、 任那の滅びた事情を問わせました。
 同じ月、 高麗は、献上の物と上表を、未だに呈奏できませんでした。 数旬〔数十日〕が巡り、吉日を占って待ちました。


まとめ
 道君は素直に調を返還したためか、死罪を免れて説諭で済んだように読み取れる。 倭はもともと氏族の連合体であったが、北陸道は依然として独立性が強く、強く出れなかったことが伺われる。
 高句麗使のコースとしては、 百済の黄海側海岸、あるいは新羅東岸を南下して対馬壱岐ルートを用いれば、安全に来れるはずである。 しかし、高句麗使一行が今回用いたのは、日本海中部コースである。 渤海国のところ(第145回)で見たように、日本海中部コースでは筑紫から蝦夷までのどこに到着するか分からない。 高志に着岸したのは、まだ幸運だったといえる。しかし、この地にはまだ野蛮な勢力が巣食っていて、 高句麗使を名乗ったところ小役人が天皇の振りをして現れ、一杯食わされたわけである。
 欽明朝の頃は高句麗と百済・新羅とは軍事的緊張状態にあり、 その結果このようなコースを採らざるを得なかったと考えられる。 高句麗もまた倭を味方につけようとしたことが分かり、興味深い。
 越に到着した使者の接受のためには、これまでも高楲舘があるにはあったが、 粗末だったのだろう。しかし三韓の対立が深まり高句麗使が日本海コースをとるようになったことを見て、 改めて豪華な相楽舘を建てたと読み取るのが妥当と思われる。



2020.08.01(sat) [19-23] 欽明天皇23 


35目次 【三十二年四月~九月】
《天皇寢疾不豫》
夏四月戊寅朔壬辰。
天皇寢疾不豫。
皇太子向外不在、驛馬召到。
引入臥內、執其手詔曰
「朕疾甚、以後事屬汝。
汝須打新羅封建任那、
更造夫婦惟如舊日、死無恨之。」
寝疾不予…〈北野本〉寝-疾ミヤミシテ不-予モヤ\/モアラス/エス
不予…〈汉典〉①不猶予。②不高興。③不先預備。④身体不舒服。引申為有病 〔②さかんにならない。③事前の用意を欠く。④体調不良。拡張して「病」。〕
もやもや…[名] 頼りないこと。〈時代別上代〉「おそらくこの否定〔もやもやもあらず〕はモヤモヤのもつ不分明・心許ない・不安などの否定的な意をさらに強めるためのもので、 モヤモヤを否定したものではあるまい。
臥内…寝室の内。
以後…(古訓) のち。
…[動] (古訓) つく。をよふ〔及ぶ〕
封建…[動] 〈北野本〉封-建ヨサシ
よさし…[名] 任務。命令。「よさす」の名詞形。
よさす…[他]サ四 「よす」は近寄せる。〈時代別上代〉ヨサスにおいて神またはおおやけからの命令としてのものにかたよっている。
造夫婦…〈仮名日本紀〉の「造夫婦みやつこをとめ」は意味をなさない。
…[副] ただ〔=唯〕。(古訓) これ。ここに。
夏四月戊寅(つちのえとら)を朔(つきたち)として壬辰(みずのえたつ)〔十五日〕。
天皇(すめらみこと)寝(い)ねて疾(やまひ)を不予(や)みたまふ。
皇太子(ひつぎのみこ)外(よそ)に向(むか)ひて不在(ましまさず)、駅馬〔使〕(はゆまつかひ)をもちて召(め)して到りき。
臥内(ねどののうち)に引き入れたまひて、其の手を執(と)りて詔(みことのり)曰(のりたまひしく)
「朕(わが)疾(やまひ)甚(はなはだ)しくありて、以後事(のちのこと)汝(いまし)に属(つ)けたまふ。
汝(いまし)須(かならず)新羅(しらき)を打〔=伐〕ちて任那(みまな)を封建(よさし、をさめ)て、
更に夫婦(おひとめ)に造りて、惟(ただ)旧(ふる)き日の如くあらば、死(しに)せど[之]恨(うらみ)無し。」とのりたまひき。
是月。
天皇遂崩于內寢、時年若干。
五月。
殯于河內古市。
内寝…〈北野本-巻二十四皇極二年〉内寝ヨトノ (〈安閑紀元年〉四月)。 〈北野本〉内殿オホトノニ
是の月。
天皇、遂に[于]内寝(ないしむ、ねどの)に崩(ほうず、かむあがりしたまふ)、時に年(よはひ)若干(そこばく)。
五月(さつき)。
[于]河内(かふち)の古市(ふるいち)に殯(もがり)しまつる。
秋八月丙子朔。
新羅遣弔使未叱號失消等、奉哀於殯。
是月。
未叱號失消等罷。
九月。葬于檜隈坂合陵
弔使…〈北野本〉市イ使〔異本「市」〕
〈仮名日本紀〉吊使おほんとぶらひの〔大御弔ひの〕
未叱子失消…〈北野本〉未叱號失消
〈仮名日本紀〉未叱號失消みしこしせう
秋八月(はつき)丙子(ひのえね)の朔(つきたち)。
新羅弔(とぶらひ)の使(つかひ)未叱号失消(みしこしせう)等(ら)を遣(まだ)して、[於]殯(もがり)に奉哀(かなしびまつらしむ)。
是の月。
未叱子失消等(ら)罷(まか)る。
九月(ながつき)。
[于]檜隈(ひのくま)の坂合(さかひ)の陵(みささき)に葬(はぶ)りまつる。
《不予》
 〈汉典〉で見たように、「不予」はもともとは「」を含む「猶予」「予備」「予定」などの熟語の否定である。 どの意味で使われるかは、文脈による。 「天子の病」を意味するのは、「病」の語を直接使うことを憚り「予期せぬこと」と遠慮がちに表現したものと思われる。
 ここでも「天皇の病」の意味で、「」に同意語を重ねたと見るのが妥当であろう。 古訓のモヤモヤモアラズは、「病」に別の言葉をつけ足したと見て「容態の不安定」の意味を「不予」に与えたと思われるが、不要であろう。
《以後事属汝》
 「以後事属汝」の以後事については、「以て後の事は」、「後の事を以て」、「以後の事は」の訓みが考えられる。 文の流れにおいてはどれも可能であるが、文法的に適切なものはどれなのか検討してみる。
 試しに句読点を入れる場所を変えてグーグル自動翻訳を使って英訳してみたところ、興味深い結果〔2020年7月29日現在〕が得られた。
以、後事属汝;So the funeral is yours.
以後事、属汝;Future affairs, belong to you.
以後事属汝;The future is yours.
 で、②③では、「」は単独には訳出されない。 無視または、熟語「以後」の一部である。この「以」の役割について検討してみよう。
…中国文法では「人物目的語」。日本語は助詞「~に」。ラテン語は「与格」(-oなど)。英語では前に置いた方。
…中国文法では「事物目的語」。日本語は助詞「~を」。ラテン語は「対格」(-umなど)。英語では後ろに置いた方。
 は、二重目的語の構文"SVO"を、前置詞を用いて変形した形である。 などのいわゆる「授与動詞」は、与える相手と、与える物という二つの目的語をとる。
 "以後事属汝"の二重目的語の形は、"属汝後事"となる。
 書紀における二重目的語構文の典型例としては、継体元年(ア)大伴金村大連…上天子鏡剣璽符〔大伴金村大連は…天子に鏡剣璽符を上(たてま)つりき〕 がある。
 一方、同じ意味を前置詞を用いて表す形もあり、その構文:"V于"の典型は、応神十九年(イ)醴酒于天皇〔醴酒を天皇に献る〕がある。 (ア)(イ)の形に変えれば、「鏡剣璽符于天子」となる。
 (イ)は、実際には「」を取り除いても差し支えない。「鏡剣璽符」が、受事主語(継体八年)になるだけのことである。 つまり、特ににおける「」は影が薄い。 自動翻訳②③において「以」が訳出されないのも、当然であろう。
 このように「以」の影は薄いから、以・後が連続していれば「以」は「以後」の一部であることが優先されるだろう。
 すると、"以後事属汝"においては、が適切で、 は「後事」が受事主語になるが可能、は理論上はあり得るが、実際にはないということになる。
《須打新羅封建任那》
 「須打〔伐〕新羅-建任那」は、 欽明天皇が生涯かけてついに成し遂げられなかった事業を、次代に託した言葉である。
 しかし、実際の政治情勢としては、既に絶望的である。 恐らくは、物語「欽明帝の生涯」として完結した感じが出せるように、潤色したものであろう。
《造夫婦》
 ここで「夫婦」は唐突である。 「朕が遂にできなかった任那の再建を、お前の代でこそ成し遂げよ」という文脈中の言葉だから、 倭と再建された暁の任那との関係を「夫婦」に譬えたと見るのが妥当であろう。
 ここには、書紀の男性優位思想があからさまである。 なぜなら「夫が主、婦は従」なることをもって、倭と任那の主従関係を表現するからである。
《河内古市》
 殯宮は、河内国古市郡に設営された。古市は言うまでもなく古市古墳群があり、死を弔う土地である。 前回(《泊瀬柴籬宮》の項)、三十一年には副都の難波にいたのではないかと推定した。 ここでも実は難波の宮殿で崩じ、檜前に丹比道を遺体を運ぶ途中で、古市に殯宮を建てたように思えるのである。
《大意》
 〔三十二年〕四月十五日、 天皇は病を患って寝込みました。
 皇太子(ひつぎのみこ)は外出して不在で、早馬の使によって呼び寄せ、到着すると 寝殿の中に引き入れられ、その手を取って詔(みことのり)されました。
――「朕は病甚しく、以後の事はお前に属させる。 お前は新羅を伐ち、任那を封建せよ。 更に夫婦の関係を築き、ただ旧日の如くなれば、死することに恨みはない。」
 この月、 天皇は遂内寝殿に崩じ、齢は若干でした。
 五月、 河内(かふち)の古市(ふるいち)で殯(もがり)しました。
 八月一日、 新羅は弔使、未叱号失消〔=未叱子失消(みししししょう)〕などを派遣し、殯(もがり)に奉哀〔=謹んで哀悼〕しました。
 この月、 未叱号失消たちは帰国しました。
 九月、 檜隈坂合(ひのくまのさかい)の陵(みささぎ)に埋葬しました。

〈北野本〉
貴重図書複製会(1941)
『釈日本紀』(尊経閣善本影印集成28;八木書店)

【未叱子失消】
 〈釈紀-秘訓〉は、未叱子失消に注記を加えている。 これを、影印本(右図)から字起こしして考察する。
 この中の「ム+大」は非常に珍しい字で、 「矢」の異体字のようにも思えるが、少なくとも〈釈紀〉では別字として扱っている。 ユニコードにも存在しない字で、ここでは便宜上"𡗖"で表した。
未叱シ/子々予シ/𡗖セウ 【傳讀叱予失皆爲慈音疑若子字誤乎唯大作予】
天書曰新羅遣予使未叱子𡗖消云々 
 未叱(子、予)(𡗖)セウ【伝ふるに、"叱予失"を読みて皆慈〔シ〕音と為(す)。
【伝ふるに、"叱予失"を読みて皆慈〔シ〕音と為(す)。 疑へるに、若(も)しや「子」の字を誤る乎(か)。唯し大(おほきに)〔「多くの写本は」の 意か〕「予」に作る。】 〔「叱予失」はシシシと読むと伝えられるから、「予」は「子」の誤りか。〕
天書(あまつふみ)に曰ふ。「新羅遣〔弔〕使未叱子𡗖消云々〔しかじか〕
 この「ム+大」は、〈北野本〉では明瞭にと書かれ、それに疑問の余地はない。 〈釈紀〉が参照した写本〔失われたか〕では、「」の第二画の右端が上に跳ね上がっているのを見て、別字と判断したのではないかと思われる。 〈釈紀〉は〈北野本〉とは別系統の写本を用いたのだろう。
 一方で、〔正字体は"號"〕は両者に共通だから、〈北野本〉と〈釈紀〉参照本に分岐する前から既に「号」だったことになる。 万葉仮名の諸資料〔〈時代別上代〉、〈学研新漢和〉、諸サイト〕を見た限りでは、「號」が音仮名に使われた例はない。 ただし、新羅の人名においては万葉仮名の対象範囲とは無関係である。
 〈釈紀〉で「」を併記したのは、『天書』によると思われる。 書紀でも最初は「」で、早い時期の筆写で「号」に変わったと推定される。 「」が廃れなかったのは、ミシシシショよりもミシコシショの方が名前として自然に感じられるからであろう。
 〈内閣文庫本〉(16~17世紀)では、「子」失」セウ傳讀叱予史皆爲慈音。」 この傍書が〈釈紀〉に基づくのは、明らかである。
 〈仮名日本紀〉でも「」だから、近代までは「」が標準だったと思われる。
 それに対して、岩波『古典文学大系』は「」。岩波文庫版も「」で、 その「校異」において「子(釈紀)―號〔底本(卜部兼右本)は"號"だが〈釈紀〉の"子"を採用した〕と述べる。 現在一般的に「未叱子失消」とされるのは、岩波本から波及したように思われる。

【檜隈坂合陵】
『文久山陵図』檜隈坂合陵 荒蕪〔修陵前〕 同左 (中央部拡大)
同上  成功〔修陵後〕 平田梅山古墳(地理院地図の航空写真;コントラスト強調)
 檜隈坂合陵は、〈延喜式-諸陵寮〉に、 {檜隈坂合陵 磯城嶋金刺宮御宇欽明天皇。【在大和国高市郡。兆域東西四町南北四町。陵戸五烟。】}とある。
 〈五畿内志-高市郡〉には、 「【陵墓】檜隈坂合陵【欽明天皇○在平田村俗呼梅山 推古天皇二十八年十月以砂礫陸上即傍有翁仲二躯」として、 檜隈坂合陵に、梅山古墳をあてている。それが明治政府に引き継がれ、 そのまま現在の宮内庁治定「檜隈坂合陵」(奈良県明日香村平田(大字)43-1)に至る。
 その名称について『奈良県史』第三巻「考古」(奈良県史編纂委員会;1989。以後〈奈良県史3〉)によれば、 「所在の小字、ムメヤマから梅山とも、墳丘を覆っていた葺石の存在から石山とも、また小字池田から掘り出された猿石に因んで猿山とも俗称」されたという。 現在の考古学名は、「平田梅山古墳」である。
 後述するように、明治十三年〔1880〕に、天武・持統が合葬された「檜隈大内陵」の治定陵がそれまで丸山古墳から野口大墓古墳に遷され、 丸山古墳の被葬者が不明となった。
 近年、その丸山古墳を欽明天皇の真陵とする説が優勢になっている。
 一つの判断材料としては、〈延喜式〉の「兆域東西四町〔432m〕南北四町」には、 平田梅山古墳(墳丘長140m)より丸山古墳(同318m)の方が合う。 一方、丸山古墳の所在地は「檜前」の範囲から外れるという指摘もある。
《平田梅山古墳》
 平田梅山古墳は『天皇陵古墳』(大巧社、森浩一編;1996)によると、 「墳長140m、前方部幅105m、後円部直径72m、前方部高12m、後円部15m、葺石、周濠をもつ西向きの前方後円墳」で、 「後背する北側丘陵を整形して三方を山囲み、北は狭く南に広い周濠さらに 外を沼とする地形配置は終末期古墳の選地に共通した点と言える」、 「後期末葉に所属するものと思われる。大和で築成された最後の前方後円墳の最有力候補地である。」と述べる。
飛鳥猿石(吉備姫王墓)
 『文久山陵図』(鶴沢探真画;新人物往来社)の 「荒蕪図」と「成功図」を比べると、修陵によって新たに掘られるなど相当の改造が加えられている。 荒蕪図には四体の「石人」が描かれている。『天皇陵古墳』によると、1702年発見、明和・安永年間(1764~1781)に発掘、
 「寛永年間(1789~1801)ごろには前方部南側のくびれ部寄りに四体ならんでいた」という。 明治初年に吉備姫王墓に遷されたという。現在は「飛鳥猿石」と呼ばれている。

【丸山古墳】
 丸山古墳は、奈良県橿原市見瀬町、同五条野町にまたがる前方後円墳である。 〈五畿内志-高市郡〉には「隈大内陵【合-葬 天武天皇 持統天皇 ○在五條野村西俗呼圓山〔円山〕又名東明寺冢…】」 とあり、檜隈大内陵〔天武持統合葬陵〕となっている。 宮内庁は「畝傍陵墓参考地」と呼ぶ。別名は「五条野丸山古墳」、「見瀬丸山古墳」(〈奈良県史3〉、『天皇陵古墳』などはこの名称)がある。
 この丸山古墳について、 『天皇陵古墳』は次のようにのべる(抜粋)。
――「墳長318m〔2.9町〕、前方部幅192m、後円部直径150m、前方部高14m、後円部高24m」 「幕末の山陵考定では「天武・持統陵」となるが、1880年(明治十三)の『阿不幾山陵記あおきのさんりょうき』 の発見により当時の宮内省は、翌年、〔天武・持統陵を〕野口王墓のぐちおうのはか古墳へと治定変更したため、 以後は陵墓参考地となった。
 「選地や墳丘規模の巨大さ、周濠の形態からして梅山古墳に先行する要素が見られる」 「玄室内の石棺については二基あり、北側の奥棺が棺蓋全長2.64m、幅1.44m、 南側の前棺が2.89m、幅1.41mを測る。ともに六ヵ所の縄掛突起なわかけとつきをもつ、 竜山石たつやまいし製の家形石棺である。」 「十二点の須恵器は田辺編年TK四三形式〔6世紀後半〕になる。」 「七世紀前後に編年される石室構造」で、「奥棺と前棺の間に時間差を示すとみられる形式差」が見出されるという。
丸山古墳玄室 (朝日新聞2017年10月27日*1) 檜前周辺の古跡配置

丸山古墳羨道 (*1)

丸山古墳航空写真
(地理院地図)(コントラスト強調)
聖跡図志(嘉永四年)
「大和国高市郡檜隈及身狭越智畝傍山四辺諸陵図」〔部分〕 (『奈良県史』3*2〉第七章)
丸山古墳航空写真(*2(巻頭写真))
前棺と奥棺 (季刊考古学別冊2「見瀬円山古墳と天皇陵」;1992*3) 前棺の蓋 (*3) 丸山古墳の墳丘 (*3)
丸山古墳石室復元図 (*3) 同左(玄室部分拡大)
《1991年の撮影》
 1991年に石室の崩壊個所から一般人が入り、そのとき撮影した写真がテレビで報道されることがあった。
 『見瀬丸山古墳と天皇陵』(季刊考古学・別冊2、猪熊兼勝編;雄山閣出版1992)(以下〈考古学別冊〉)の 論文(坪井清足・坂田俊文・猪熊兼勝)によると、 「1991年5月30日、奈良県在住の一民間人から報道関係者に連絡があった。 それによると見瀬丸山古墳の陵墓参考地の柵外において横穴式石室羨道入口が開口しており、 石室内部を撮影した写真32枚の提供を受けた」という。
 〈考古学別冊〉は、その写真すべてとともに、その画像から石室の寸法の諸元を計算している。 宮内庁が天皇陵の学術調査を原則認めていない現在、天皇陵の可能性の高い玄室内部の撮影画像が得られたのは、稀有なことである。
《1992年以後の調査》
 『朝日新聞』(2017年10月27日)によれば、 上記の事態を受けた宮内庁は1992年に入り口を封鎖し、 その際内部調査を行い、玄室長8.3m、羨道長20.1mの値を得た。 『天皇陵古墳』にある石棺のサイズは、この調査のときの値である。
 また『朝日新聞』(2013年9月13日)には、 航空レーザー測量の結果、全長331mに達することが明らかになったという記事がある。 それによると「上空からヘリコプターでレーザーを照射し、高精度な3次元データを取得し」、 「墳丘の構造は、前方部3段、後円部は」「4段とみられ、全長はこれまでの約318mから331mに伸びることが判明し」、 「前方部の幅が後円部の幅の約1.5倍」で「後円部の直径に対して、 前方部の幅が増大していく後期の前方後円墳の特徴をそなえている」という。
《聖跡図志》
 『朝日新聞』が「宮内庁提供」とする玄室内の写真には、正面に「奥棺」、手前右に「前棺」が写っている。 その配置は『聖蹟図志』(嘉永四年〔1851〕)の「大和国高市郡檜隈及身狹越智畝傍山四邊諸陵圖〔=図〕」 (〈奈良県史3〉)。 に示されたものと同じである。
 その「丸山塚穴之圖」には、玄室に「三間半〔6.4m〕×四間半〔8.2m〕天井石三枚」、 羨道に「十四間半〔26.4m〕天井石六枚。段々奥底タメ水溜レリ」と記入されている。
 さらに説明文が添えられ、「山陵志云有石棺二焉一 南面一東西面因以爲其南面天武也其西面持統也〔山陵志に云ふ。石棺二つ有り。一つは北に在りて南面す。一つは東に在りて西面す。因以(も)って為し、その南面は天武なり。西面は持統なり〕
 前述したように、『聖蹟図志』の当時、丸山古墳は「檜隈大内陵」(天武・持統を合葬)だと考えられていた。
《被葬者》
 前出『朝日』(2017)は、「森浩一氏は6世紀代に築かれた最大の前方後円墳であるため、 欽明大王(天皇)がふさわしいと考えました。 斉藤忠氏は蘇我氏の本拠地に近いことから、蘇我稲目か蝦夷の墓と主張します。 和田萃氏は場所が、古代の地名「身狭」の範囲にあることから、宣化天皇とする説を出します。 一方、網干善教氏は南に位置する明日香村の梅山古墳が欽明天皇陵にふさわしいと考えました」と述べる。
 「身狭桃花鳥坂上陵」は、宣下四年のところで見た。
 出土須恵器の年式(6世紀後半)を基準にすれば、蘇我蝦夷〔645年薨〕、宣下天皇〔539年崩〕は除外される。 蘇我稲目は時期が合い、朝廷の屋台骨を支えてきたが、かと言って天皇陵を凌駕する大陵があり得るだろうか。
 被葬者欽明天皇説を否定する材料としては、丸山古墳の位置が「檜前」に含まれるだろうかという疑問がある。
 推古紀二十年二月に「改-葬皇太夫人堅塩媛於檜隈大陵。是日誄於軽術。」 堅塩媛(岐多斯比売命、蘇我稲目の女)は欽明天皇の妃で用明天皇・推古天皇の母である (第239回)。 つまり欽明帝の「皇太夫人〔皇后は「大皇」、先帝の皇后は「太皇」。〈時代別上代〉「その用字に区別があるようである。」〕を改葬し、誄(しのびごと)を献った。
 このとき、安倍鳥、諸皇子、中臣烏摩侶が誄し、「明器明衣之類〔副葬品〕万五千種」を納めたたと描かれ、盛大な儀式であったと読める。 仏教の再興により故蘇我稲目が復権し、それにしては堅塩媛の陵が余りにも粗末だったことから、 ここで葬儀からやり直そうとしたのは明らかである。
 ここでは「檜隈坂合陵」を「檜隈大陵」と表したもので、「大陵」だから「軽術〔街?〕」から目の前に見えたことは間違いない。 これだけで、「檜隈坂合陵丸山古墳」は決定的だと思えるのだが。
 ふたつの地名、檜前の関係については、 檜前が広い地域名であるのに対し、は市が開催され軽寺が建造された賑やかな市街地で、比較的狭い範囲を指したとすれば、 無理なく理解することができる。
 また「檜隈坂合」という名前は直感的に「檜隈坂にある合葬陵」と受け止めていたが、「坂合」が一般にサカヒと訓まれることから、 もともと「檜隈の境」;すなわち檜隈の北の端の意味で、後から漢字を当てはめたのかも知れない。
《石棺》
 〈考古学別冊〉の掲載の座談会において和田晴吾は、石棺の時期は 「石棺の蓋の幅と頭部の平坦面との割合というのが一つの指標」となり、前棺は「六世紀の第三四半期ごろ〔551~575〕という。 それに対して奥棺には変わった特徴があり、同じ特徴をもつ水泥古墳の石棺の例から見て、「七世紀の第1四半期ごろ〔601~625〕と見られるという。
 この前棺の時期は、欽明天皇の崩御571年を含む。また、奥棺の時期は堅塩媛の改葬〔推古二十年=612〕にあたって新調されたと見れば合う。 ただ、ここに配置の問題が生じる。 『天皇陵古墳』は、「前棺を追葬時に所用の棺とする通常の判断を適用できない〔=普通に考えれば、後から合葬した棺を前に置くだろうから不思議だ〕 と述べる。
 〈考古学別冊〉による写真や復元図を見ると、前棺は蓋が正方向から斜めになっている。 奥棺も少しずれているようである。 これは、盗掘者が一度蓋を開けて内部を漁ってから蓋を戻したためだろう。そのときに取り違えられた可能性も、なくはない。 ただ、これは蓋と身の材質を調べるだけで、すぐに決着がつく。
 仮に取り違えがないとした場合、一つの仮説としては蘇我氏が権勢を誇った時期だから、欽明帝の棺をどけて堅塩媛を主座に置いたことが考えられる。 ただ、それでは肝心の蘇我馬子が誄のメンバーに入っていないのはなぜかという、新たな問題が生まれる。
《終末期最大の前方後円墳》
 丸山古墳の規模は、前方後円墳としては、大仙陵古墳(伝仁徳)、誉田御廟山古墳(伝応神)、 上石津ミサンザイ古墳(伝履中)、 造山古墳(第160回) 河内大塚山古墳(第210回)に次ぐ、 第六位である。終末期の前方後円墳としては例外的な大きさで、まさに孤高の存在である。
 継体天皇の藍野陵を振り返ると、その真陵は今城塚古墳の可能性が高いと言われる。第223回)まとめにおいて、 そうであれば、「朝廷の再生を誇るための復古的な大前方後円墳」として築かれたのだろうと論じた。
 そして、手白髪皇后は「行く行くは自分が生んだ皇子を大王位につけて継承を正統に戻す望みを心に秘めつつ、 当面は継体帝の政治的実力に委ねて大王親政体制を復興させた。そのために、継体帝の御代の宗教的枠組みは、古来の伝統を維持しなければならない」と考えたと推察した。 その手白髪皇后の願いは、まさに欽明朝において結実したのである。
 欽明帝の治世は、大伴氏・物部氏・蘇我氏・中臣氏などによる合議制ではあるが、 在位三十二年の長きは伊達ではなく、大王としての実質を伴って君臨していたと考えてよいだろう。 欽明天皇は四月に崩じて九月には葬られたのを見れば、既にその存在に相応しい巨大な寿陵を築いてあったわけである。
 復古的な大前方後円墳の意義については欽明天皇も母から教えられ、それに順ったのであろう。

まとめ
 欽明天皇をもって高皇産霊神から正統な血筋に復し、大前方後円墳を陵とする古代からの伝統が蘇ったかに見えた。 ところが、皮肉なことに国は仏教化に舵をきっていく。
 さて、欽明紀の基調は百済との外交に尽きる。 百済王は、最強の敵として立ちはだかりつつある新羅に対抗するために、倭との同盟関係の強化に迫られていた。 その精神的な土台として、倭の仏教化を図ったと考えられる。 倭国では蘇我氏が積極的に受け入れて寺院を建造した。ところが蘇我稲目の薨をきっかけとして、国教派ともいうべき中臣氏・物部氏の猛反撃が始まった。
 結局、仏教国としての倭の本格的なスタートは推古帝まで下る。 百済が目的とした倭との同盟は、肝心の軍事面ではそれほどの進展を得られず、その点では百済王の目論見は外れた。
 さて、欽明天皇は、仏教をどのように位置づけていたのであろうか。 欽明帝自身は、寿陵として巨大な前方後円墳を築いていた点を見れば、その心の中は倭の古来の神祇が占めていたことは明らかである。
 その欽明帝が仏教を受け入れたのは、思想というよりはそこに内包された高度の学問や芸術の故であろう。 学問僧たちは古代インドの哲学の知識があり、中国語の文献に通じていた。 彼らの中から史人(ふみひと)を登用して、字を知り書物の読み書きをこなし知性のある分厚い官僚機構を形成すれば、統治機関としての朝廷の実力を飛躍的に高度化することができる。 つまり、文字は生産技術の伝播を素早く確実にして、産業の振興を導く。戸籍が整備されれば、税収が増える。 こうして国の生産力が高まり人民が豊かになり、朝廷の支配力も高まるのである。
 ところがこれは、宗教界にとっては一大事であった。 寺院が建ち新興の宗教勢力が育つということは、社稷に奉じてわが世の春を謳歌していた既存の宗教勢力にとってはテリトリーが蚕食されることである。 そして激化する宗教紛争を横に見ながら、欽明天皇は崩じたのであった。 だから、天皇が遺言したとすれば、任那国の再興などではなく今後の仏教政策の方向性だったはずである。
 その後、国は紆余曲折を経ながらも本格的に仏教を受け入れる道を歩む。 前方後円墳が間もなく終焉を迎え、八角墳に移行するのも、それと無関係ではないだろう。 前方後円墳は一つの墳形に過ぎないのだが、その墳形そのものに天照大神の精神を宿していたのである。



[20-01]  敏達天皇1