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2021.03.04(thu) [19-21] 欽明天皇21 ▼▲ |
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32目次 【二十三年八月~十一月(一)】 《天皇遣大將軍大伴連狹手彥領兵數萬伐于高麗》
「天皇遣大将軍…」は、大将軍大伴狭手彦率いる数万の軍勢が渡海したが如くに読ませる文になっている。 〈崇峻四年〉にも二万の軍の派遣が載るが、こちらは軍の構成、集結地、事前交渉の様子が具体的に書かれている。 それに比べると、ここの「天皇遣大将軍」は漠然としている。これは、七月の紀男麻呂宿祢将兵の件にも言えるが、史実との乖離を感じさせる。 この問題については、別項で詳しく論ずる。 《七織》 『大鏡』〔平安-白川院政期(1100年前後)〕には、式部卿の宮の段の「二重織物」を始めとして何か所かに「織物」が見える。 〈倭名類聚抄〉には「綺:一云於利毛能。又一訓加無波太。」に、オリモノが見える。 オリ〔オルの名詞形〕+モノという言い方は、上代から存在したように思われる。 《美女媛》 このとき二女子を納めた吾大伴稲目は、八年後の〈欽明三十一年〉に薨じた。 未亡人となった二人の呼称が、〈崇峻三年〉の大伴狛夫人だと思われる。 崇峻三年〔590〕では、大伴狛夫人の新羅媛と百済媛が出家する。 それは欽明二十三年〔562〕から28年後のことである。仮に納められたとき15歳だったとすると、23歳で未亡人となり、出家は43歳である。それほど不自然ではない。 《従女》 「従女」は、姪〔兄弟姉妹の子〕の意であるが、古訓は「まかたち」として貴人の女性に仕える女性と解されている。 〈私記乙本〉にも「侍者【末加太知】」〔神代紀下-山幸彦海幸彦段一書1〕がある。「従者」である女性と解することが自然なのは確かだが、 純正漢文体に於いて有り得るだろうか。年齢の近い姪であったとしても話は成り立つのである。 そこで、「従女」が「仕える女」の意味で使われている例がないか中国古典に探した。 すると、「従女」の意味が何とか読み取れる文として、『太平広記』の「太陰夫人」の一節が見つかった。 その部分は次の通り。 なお、文中の「杞」は人名(盧杞)。「麻婆」も人名で、杞を何かと助ける。二人は幻想的な世界の水晶宮に来た。そのとき、 「遂見二宮闕楼台一。皆以二水晶一為二墻垣一。被レ甲伏レ戈者数百人。麻婆引レ杞入見。紫殿従女百人。命二杞坐一。具二酒饌一。」 〔遂に宮闕楼台を見る。墻垣は皆水晶でできていて、鎧をつけ戈を伏せた者が数百人。 麻婆は杞を引き入れ、見ると紫殿に従女が百人。杞を席に付かせて酒饌を用意する。〕 とある。 ここでは「従女」は宮殿で客を接待する女性たち、つまり「仕える女」である。 よって、従女=マガタチもあり得ることになる。 《尽得珍宝貨賂》 百済が戦闘で得た高麗奴や狛虜〔両者の意味は同じ〕を倭に送った記事がある。 これは、軍事物資による支援が派兵と同等の価値をもっていたからである(十一年)。 だから、百済が手に入れた宮殿の宝物を倭に送ること自体は、特に不自然なことではない。 しかし狭手彦がどさくさに紛れて宮殿から盗み出したと描く部分は、後世の言い伝えという印象を受ける。 《軽曲殿》
一方、軽については、下ツ道と阿部山田道が交差する現在の丈六交差点辺りが〈推古紀二十年〉の「軽術〔衢(ちまた)であろう〕」ではないかと考えられている。 その付近には、次の場所が見られる。 ●大軽町の軽寺跡 (第148回)。 ●軽曲峽宮(懿徳天皇)の伝承地(第104回)。 ●築坂邑伝称地(〈神武紀二年〉に大伴氏の始祖の道臣が邸宅を賜った;宣化天皇【桃花鳥坂】)。 勾金橋宮は「軽」と考えられる地域からやや離れている。一方「曲峽」は、江戸時代には軽町の南西五町ほどに「まはりをさ」という地名があったという。 『大和名勝志』は、それを「まがりを」の片言〔=訛り〕とする。ここは、大伴氏の始祖伝説の築坂邑に近い。 このように、軽曲殿は軽曲峽宮の伝承地に近いと考えることには、一定の現実味がある。 実証はできそうにないが、いつかもし掘立柱の跡と高句麗土器がセットで発掘されることがあれば、そこかも知れない。 《長安寺の鉄屋》 『日本歴史地名大系』の見出し語には、現存する「長安寺」は12件、「長安寺跡」は3件、地名「長安寺町・村」は2件で、東北から九州の全国に及ぶ。 畿内には「奈良県郡山市長安寺村」が見える。 原注「不レ知レ在二何国一」の「国」は律令国であろう。 書紀が書かれた時点で、既に現物は行方不明だったわけである。「鉄屋」は、本文だけ読むと織物の名前かと思わせるが、 原注では「在二高麗西高楼上一」と書かれ、楼台の上層部の鉄製の構造物で、 それが「長安寺」の堂宇の一部に使われていたと読める。ただ、この時代に鉄骨建設はあり得ず、鉄板はすぐに腐食するから屋根葺きには使われない。 あるいは、黒っぽい外観を意味するか。「鉄屋」なるものの実際の姿は不明というほかはない。 《高麗王陽香》 欽明十一年〔550〕は、〈三国史記〉では高句麗陽原王六年にあたる。陽原王は「或云陽崗上好王。諱平成」とされ、 陽原・陽崗はともに書紀原注の「陽香」と似るから、原注者の手許にも三国史記に近い内容の資料があったと思われる。おそらく「百済文書」であろう。 本サイトが〈欽明紀〉でしばしば言及する「百済文書」は、百済崩壊時に亡命王族が持ち込んだと想定される文書群(十五年十二月《百済文書》)。 《比津留都》 「比津留都」の比定地を求めた研究は、今のところ見つからない。 ところで、比津留都は、古訓以来江戸時代までヒツルツと訓まれてきた。 だが、現在ではヒシルツが一般的である。「津」は基本的にツだが、これは訓仮名〔和語の語彙から発音を借りた仮名〕であって音仮名〔漢字のもともとの発音を用いた仮名〕ではない。 ところが高句麗の地名に日本語の語彙による訓仮名を当てるのは理屈に合わないので、音よみ「シン」から音仮名シにあてたと思われる。 ところが、万葉や記紀歌謡では津をシとして用いた例はない。 「天津神」など、上代の「津」は100%が「ツ」である。 このように、歴史上存在したことのない「シ」なるよみを用いる意味が、果たしてあるのだろうか。上代語として訓むなら、上代の人にとって自然なツでよいと思われる。 《大意》 八月、 天皇(すめらみこと)は大将軍大伴連(おおとものむらじ)の狭手彦(さてひこ)を遣わし、 領兵数万を擁して、高麗(こま)を伐たせました。 狭手彦は、百済の計略を用いて、高麗を打ち破りました。 その王は垣を飛び越えて逃げました。 狭手彦は遂に勝ちに乗じて宮殿に入り、 洗いざらい珍宝、貨賂〔=宝物〕、七織(ななえおり)の帳(とばり)、鉄(くろがね)の屋(や)を得て、 帰還し、 【旧書に言う。 鉄の屋は高麗(こま)の西の楼台の上にあり、 織(おり)の帳(とばり)は高麗王の内寝に張られていた。】 七織の帳を、天皇(すめらみこと)に献上しました。 鎧(よろい)二揃え、 金飾の刀(たち)二口、 銅鏤(どうる)の〔銅を散りばめた〕鍾(しょう)三口、 五色の幡(はた)二竿(さお)、 美女の媛(ひめ) 【媛は名】 と併せてその仕え女(め)吾田子(あたこ)は、 [於]蘇我稲目宿祢大臣(そがのいなめのすくねのおおまへつきみ)に送りました。 そして、大臣は遂に二人の女を納め、 妻として軽の曲(まがり)の宮殿に住まわせました。 【鉄屋(くろがねのや)は長安寺に在るというが、 この寺がどこの国に在るかも知られない。 ある出典による。 十一年、 大伴狭手彦(おおとものさてひこ)は百済国と共に連合して、 高麗王陽香(ようきょう)を比津留都(ひつるつ)に追い退けた。】 【三国史記】 この時期の高句麗側の情勢を、『三国史記』に見る。 《二十三年前後》 欽明二十三年〔壬午;562〕は、高句麗平原王四年、百済威徳王九年にあたる。 それぞれの前後の出来事を「高句麗本紀」、「百済本紀」から抜き書きする。
北斉からは「使持節領東夷校尉遼東郡公高句麗王」号、南朝陳からは「王寧東将軍」号を賜り、二重に冊封された。 内政では、三年に大洪水、五年に大旱魃があり、膳を通常より減らして山河の神に祈祷したとある。
このように、欽明二十三年前後に、百済による高句麗の城攻めは皆無である。 聖王在位期間に〈欽明紀〉と〈三国史記〉の内容は概ね噛み合っているのと比べ、〈二十三年八月〉では大きく様相が異なる。 《原注は十一年説》 原注は「一本云」として、別の資料に書かれた〈欽明〉十一年〔550〕の記録を添える。 〈三国史記〉には、百済聖王二十八年〔550〕に、 「二十八年:春正月。王遣二将軍達己一、領二兵一万一。攻二-取高句麗道薩城一。」 とある※。 ※…この年前後の全体的な記述の比較は、欽明九年参照。 〈三国史記〉で、百済が高句麗の"城"を攻めた記事は、聖王十八年「攻二高句麗牛山城一、不レ克。」〔牛山城を攻めたが勝てず〕と 同二十八年「攻二-取高句麗道薩城一」がある。攻め取ったのは後者のみである。 原注が12年も前のことを書き添えたのは、逆に言えば二十三年に近い時期には、百済が高句麗への城攻めの記録が全く見いだせなかったためであろう。 そこから考えると、原注者が参照した資料は、三国史記の内容と概ね一致するのではないかと思われる。 また〈欽明二十三年八月〉の「数万」には及ばないが、〈三国史記〉550年には「兵一万」とある。
《書紀本文における欽明十一年の記述》 実は、本文においても断片的な記述の中に、〈欽明十一年〉の百済による高句麗攻めが示唆されている。 そのひとつは、〈九年〉の詔で対高句麗を意識しつつ援助の約束をしたことである。 さらに具体的な援助として、同年の得爾辛(とくじしん)の築城の人的援助、 〈十一年〉の矢三十具(そなえ)の授与が書かれる〔援助の一部分であろう〕。
以上から、原注者の判断は「〈十一年〉の百済による道薩城攻めの記録を素材として、〈二十三年八月〉の大将軍狭手彦派遣の話が作られた」というものであったと推定される。 《「大将軍」狭手彦》 本文が「大将軍狭手彦」と述べるのに対して、原注は「大伴狭手彦連共百済国」〔大伴狭手彦は百済国と共に連なり〕とする。 つまり、狭手彦の役割は、原注の方が限定的である。 ただし、本文も「狭手彦乃用二百済計一」〔百済の戦略を用い〕と書き加えるところに、少しの後ろめたさが表れていると見るのは穿ちすぎであろうか。 また「領兵数万」は「実は百済の兵を領して」と言い訳することが可能となっている。 本文はさらに、狭手彦が「還帰」〔倭に帰還〕して財宝と美女二人を持ち帰って稲目に送ったとする。 狭手彦は〈宣化二年〉〔537〕に半島に渡った。 それから長く滞在するうちに、客将として百済軍に同化していったとしても自然であろうと思われる。 百済の文献資料に、「狭手彦」の名前があったとしても不思議ではあい。 さて、王宮の調度品を含む戦利品は実際に獲得したもので、大伴稲目に送られた記録があったと考えられる。 このとき手に入れた二人の美女は後に崇峻紀に出てくる(次項)から、事実であったと思われる。 狭手彦は事実上百済軍の将軍の一人だから、現地から戦利品を倭国の大伴稲目の元に「送った」と考えられる。 思うに、狭手彦の「還帰」は後から書き加えられたもので、 「送於蘇我稻目宿祢大臣」は、「送」が「贈」に直されることなく、 原形が残ったものではないだろうか。 《天皇遣大将軍》 以上のように、 〈欽明紀〉本文は〈十一年〉の百済による高句麗攻撃を素材として、その時期を動かし冒頭に「天皇遣大将軍」を付け加えて、倭の攻撃が成功した話に仕立て上げたと見られる。 本来なら新羅に反撃したいところだから、ここに高句麗を攻める話を用いるのは筋が違うが、 任那が新羅に滅ぼされたことによる莫大なショックを、少しでも和らげたかったものと思われる。 このショック緩和のために、これ以外にも3本もの話を束ねている。 それは〈七月〉の新羅遣使が倭の怒りを知り帰国せず河内国に土着した話、同月の紀男麻呂宿祢の派遣の話、 そして〈十一月〉に、再び新羅遣使が帰国せず河内国に土着した話である。何れも都合よく歪曲した部分を含んでいる。 【二十三年八月~十一月(二)】 《新羅遣使不歸本土》
「献」は「貢」はともに献上を意味する。 両方を並べて用いた文例を探すと、 『金楼子』〔南朝梁〕-「説蕃」に「肅慎又来入貢、献二白雉一。」 〔肅慎国(資料[40])もまた来て、入貢〔貢ぎに入国〕し、白雉〔白色の雉〕を献上した〕。 とある。意味は明瞭で、「入貢」は通例の貢物の納入で、「献」は今回限りの特別のプレゼントと読める。 また、〈崇峻元年〉の「進調并献仏舎利…」も「通常の貢+特例の献」の形で分かりやすい。 これらと比べると「献并貢」のぎこちなさは否めない。 類似する〈七月(一)〉段の「献調賦」も若干疑問だが、「献并貢調賦」よりはましである。 それでも古訓は、律儀に「献」を「ものたてまつる」、「貢調賦」を「みつきをたてまつる」と訓んでいる。 《攝津国三嶋郡埴廬》
――「阿武野: 服部の西を阿武野と云ふ、奈佐原荘とも曰ふ、北山に霊仙寺と云ふ古刹あり。 〇皇典講演に欽明紀なる埴廬邑は今の土室かと曰へり、土室は今阿武野の大字なり。奈佐原荘は若王寺文書養和元年のものに見ゆ。」 現代地名としては、大阪府高槻市に「土室町」「上土室」がある。 上土室にある「史跡新池埴輪製作遺跡」は、継体天皇陵のところで埴輪製作所として登場した(第233回)。 その同じ場所が、今回は埴廬の比定地として登場する。 『新池埴輪製作遺蘇発掘調査報告書(高槻市文化財調査報告書17)』〔高槻市教育委員会;1993〕 (全国遺跡報告総覧から参照可能) によると、「ⅠB区」=「古墳時代の集落」の 「遺跡群には通常みることのない埴輪片がかなり出土したことから、埴輪生産にかかわる集落と判断される」。 一方「ⅠB区からⅠC区にかけて」=「律令時代の集落」については「住居・倉・井戸・墓をセットで検出するとともに、 一片の新羅土器が得られ、この集落が『欽明紀』に記された「三島郡埴廬」に相当する蓋然性が極めて高くなってきた」 と述べる(p.20、調査区は、右図参照)。 さらに、同じ場所から出土した「長頚壷」について、 「最近では新羅土器の検討を通して、出土遺跡の性格との関連がとらえられていて、長頚壷の多くが官衡的な様相をもつ集落から出土しているという。 新池遺跡では、まさに長頚壷が出土し、あわせて渡来系の人達が官衛的な施設を伴って居住していたことを予見させる」(p.281) と述べる。つまり、埴廬は渡来系の人が居住し、かつ三嶋郡の郡衙だったのではないかと推定している。 郡衙の成立は基本的に大宝令〔701〕後であるが、 書紀の「埴廬新羅人」は、書紀編纂期〔~720〕の時点における現実を書いている。だから、郡衙に存在する新羅人の集落を見て書いたものかも知れない。 新羅土器は僅か一点ではあるが、その文様と新羅土器データを照合すれば渡来民の出身地の推定も可能ではないかと思われ興味深いが、 さらなる検討は別の機会に譲る。 さて、『大日本地名辞書』が書かれた当時は、新羅土器は当然未発見である。恐らくハムロの「ハ」がハニ(埴)に通ずると考えられていたのであろう。 埴を焼く窯がハニ-ムロで、埴の工人が廬る〔廬=仮住まいの小屋〕のがハニ-イホであろう。 《大意》 十一月、 新羅は遣使し、献上物に併せて調賦を貢ぎました。 使者は、 悉く国家が新羅が任那を滅ぼしたことを憤っていると知り、 敢て帰国を要請しませんでした。 刑戮(けいりく)〔刑、時には死刑〕に及ぶことを恐れ、本国に帰らず、 日本の百姓に同化し、 今は、攝津国三嶋郡の埴廬(はにいほ)の新羅人の先祖です。 33目次 【二十六年~三十年】 《高麗人頭霧唎耶陛等投化於筑紫》
ところが、上奈良村・下奈良村は、久世郡ではなく綴喜郡にある。 『五畿内志』山城国綴喜郡【村里】には「上奈良 下奈良」が見え、 現在は京都府八幡市の大字として残る。 属する郡について『大日本地名辞書』には 「宇治河以南を久世綴喜の二郡と為す、大略其〔の〕北を久世と為し 南を綴喜と為せど、地域相交錯す。分郡の始め八幡付近の 二郷(竹淵奈良)は久世に隷したり、 後世綴喜に移さる。」、また 「和名抄、久世郡十二郷に分ち、其竹淵那羅二郷は後世綴喜郡に入る。」と述べる。 さらに、「那羅郷:今綴喜郡に編入するを以て都々城村と称し」とある。 「都々城村」は、町村制〔1889〕で成立した村で、 それまでは上奈良村、下奈良村、岩田村であった。 「八幡市/『美濃山廃寺の範囲確認調査報告書』〔八幡市教育委員会;2006〕」によると、 「上奈良遺跡とその南隣接地である内里八丁遺跡では、 大型の掘立柱建物群や墨書土器・石帯・和同開珎等の官衙関連とみられる遺物が出土しており、『延喜式』内膳司に記述のある官立の菜園「奈良薗」との関係が考えられている」(p.10) という。郡衙であったとすれば、それは久世郡の郡衙である。だが、木津川を挟んで南側に郡衙があったことは考えにくいので、当時の木津川の本流は遺跡の南側の防賀川辺りだったと思われる。 渡来人の居住地が郡衙であった可能性がある点は、埴廬と共通していて興味深い。 郡衙に接して渡来集団の居住区があり、何らかの先進技術を担っていた。あるいはエリート層として地方政治を支えていたなどの役割が考えられる。 《郡國大水飢或人相食》 〈釈紀-述義〉に、「天書曰 廿八年郡國大水 京師河難破溢 人馬相食 詔莫レ獻二今年田租調庸一」 〔天書(あまつふみ)に曰ふ。二十八年(はたとせあまりりやとせ)、郡(こほり)国(くに)に大水(おほみづ)あり。京師(みやこ)の河(かは)難(かた)く破れ溢(あふ)る。人馬(ひとうま)相(あひ)食(は)む。詔(みことのり)たまはく今年の田租(たちから)調(みつき)庸(えたち)を献(たてまつること)莫(なか)れ。〕が載る。 広い範囲で大水があり、都でも河川の氾濫があったと記録する。 《白猪田部》 白猪屯倉は、〈欽明十六年〉七月四日に設置された。 その位置は、美作国〔ほぼ現在の岡山県津山市〕久米郡の宮下川沿いにあり、周辺で産出した鉄の集約地であろうと推定した (十六年七月~八月)。 現在三十年八月だから「年甫十余」は「屯倉設置以来十四年」、「脱籍免課者衆」は「戸籍を脱し課税を免れる者多し」の意味と見られる。 したがって、屯倉は一定の耕作地を伴い田部を置くのが通常の形態であったことが、改めてわかる。 「科」への古訓として、マツリコトやエタチ〔公への労働力の供出〕が当てられている。供出されるのは21~60歳の男子で、丁(よほろ)という。 屯倉の広さは様々だが、四十町〔正方形なら一辺684m〕を一つの基準として考えた(安閑元年閏十二月)。 《王辰爾之甥》 原注に「胆津者王辰爾之甥なり」とされる。 王辰爾(わうしむに)は、〈欽明十四年〉に船賦をマネージメントする船長に任じられ、船史の姓を賜り、 欽明崩の後〈敏達元年〉には、高句麗の表䟽〔=書状〕を解読して激賞された。 《田戸》 田戸については、〈釈紀-述義〉に「私記曰 案 假名本作二田部之戸一也」 〔私記に曰ふ。案ずるに仮名本、田部之戸〔たべのへ〕に作る〕とある。 田戸が田部を構成する農家を意味することは明らかである。 訓みについては、類語の「陵戸」の場合は音読み「リヨウコ」が自然だが、古訓では〈内閣文庫本-持統五年十月〉「陵ノ戸者」のように「みささきのへ」と訓まれている。 「田戸」も「たのへ」と訓まれている。 《瑞子》 原注に「瑞子見レ上」とあるのは、〈欽明十七年〉の七月六日、 備前国児島郡に屯倉を置き山田直瑞子を田令としたことを指す。 今回、胆津をその瑞子の副につけて白猪屯倉を管理させたわけだから、 組織形態としては、白猪屯倉は児島郡の屯倉の支所であろう。 これまでは児島屯倉の管理者である瑞子が白猪屯倉も併せて管理していたが、遠隔地なので目が届かず戸籍逃れの隙が生まれたという状況が見える。 《副》 ここでは「副」の古訓を「スケ」とし、職員令に合致している。 〈倭名類聚抄〉「次官:神祇曰レ副【有二大小一】…〔中略〕…領家曰レ扶【已上皆須介】〔すけ〕」〔次官はすべてスケと訓む〕。 《大意》 二十六年五月、 高麗(こま)の人、頭霧唎耶陛(つぶりやへ)らが筑紫に帰化し、 山背国〔山城国〕に居住させました。 今の畝原(うねはら)の奈羅山村(ならやまむら)の高麗の先祖です。 二十八年、 郡、国に大水があり飢餓となり、人が相食べることもありました。 隣合う郡から穀物を転移して、助け合いました。 三十年正月一日、 詔を発しました。 ――「田部を計画的に設置し、以来久しい。 最初から十年あまりたち、戸籍を脱し課役を免れる者は多い。 そこで胆津(いつ)を遣わして 【胆津は、王辰爾(おうしんに)の甥です】 白猪田部(しらいたべ)の役丁の戸籍を精査させるべし。」 四月、 胆津は、白猪田部の役丁を精査し、詔によって籍を定め、 田戸(たべ)のリストを完成しました。 天皇(すめらみこと)は、胆津が戸籍を定めた功を喜び、姓(かばね)を賜り白猪史(しらいのふひと)として、 そのまま田令を拝し、瑞子の副とされました 【瑞子は上文を見よ】。 まとめ 欽明紀で特筆されることは、百済側の文書資料の充実ぶりである。書紀の記述もそれと十分噛み合い、地に足のついた記述となっている。 ところが、それも十五年の聖明王の薨までである。威徳王の代になるとあまり百済からの文書が見られない。 そして、欽明紀は現実から離れていく。 二十三年七月の大将軍紀男麻呂宿祢の出撃は、百済による新羅攻撃の話に男麻呂宿祢を付け加えた作られたと見られる。 ただそれでも、新羅攻撃自体は存在していた。八月の大将軍狭手彦の話に至っては、素材自体が十二年前の話の再利用である。 話は随分空想的になってきた。原文筆者は任那滅亡を書く段階に至り、取り乱しているのではないだろうか。 何しろ、事実を記述した部分は「新羅打二-滅任那官家一」の僅か八文字のみである。 あとは恨み言満載の長文の詔、さらには記録を細工して反転攻勢を仕掛けたが如く仕立て上げた物語が続く。 また、ここで新羅からの渡来民を取り上げ、始祖のお詫びの気持ちからスタートしたが如くに描く。 総じて、決してやられっぱなしではないとの印象を構築するのである。 それでも読者は、辛うじて原注者の冷静な目によって、真相に迫ることができる。 原注は、欽明紀において特に貴重である。 |
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2020.07.26(sun) [19-22] 欽明天皇22 ▼▲ |
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34目次 【三十一年】 《幸泊瀬柴籬宮》
三十一年〔庚寅〕は、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』において、諸臣が堂舎を焼き、仏像・経教を難波江に流した年である (「元興寺縁起…」)。 ――「已丑年。稲目大臣薨已後、余臣等共計。 庚寅年。焼二-切堂舍一、仏像経教流二於難波江一也。」 書紀では、十三年十月の中に記述されている。 《泊瀬柴籬宮》 泊瀬柴籬宮の所在地は、現在のところ明らかでない。脇本遺跡を当てる説もあるが、 それでは磯城嶋金刺宮をどこに置くのかという問題が生じる (第227回、 第238回【師木嶋大宮】)。 ただ、越の人が「詣レ京」して欽明天皇に奏したと述べるから金刺宮とはそんなに離れていないはずである。 広大な金刺宮の域内の一つの宮殿か。 しかし、金刺宮に戻る時に「乗レ輿」と表現するには、近すぎる。 ここで注目されるのは、許勢臣猿と吉士赤鳩を難波津から出発させたことで、 欽明天皇は、この時期難波の副都にいた可能性がある。ならば、「乗レ輿至レ自二泊瀬柴籬宮一」 は自然である。 《江渟臣》 〈倭名類聚抄〉に{加賀国・江沼郡}。{越前国・足羽郡・江沼郷}がある。 〈姓氏家系大辞典〉は「〔江沼郡は〕古代江沼国の遺跡なり、〔江沼郷は〕江沼氏分住して起せし地名なるが如し。」 「江沼臣:江沼国造家の氏姓にて、竹内宿祢の後ある事は、古事記、姓氏録、国造本紀の説・ 尽〔ことごと〕く一致す。猶ほ上宮記には「意富々等王云々、余奴臣安那爾比弥を娶りて、…」とありて余奴臣と記し」と述べる (資料[20]参照)。 《皇華使》 〈釈紀-述義〉に「私記曰。作二皇都一。」とあり、 「皇都使」を誤ったのではないかと見る。 しかし、「華使」は〈汉典〉に「顕貴的官吏」とあるように中国語として存在し、意味は中華〔中央の先進地域〕の上級官吏である。 ここでは、それに倭語「皇(すめら)」を冠したものである。「皇軍(すめらみくさ〔み-いくさ〕)」のように、 「皇(すめら)-」は一般的に天皇を誉める接頭語として使われる。 《道君》 〈釈紀-述義〉「私記曰案假名本越郡司道君。又曰道君越國郡司之名也。」 〔私記に曰ふ。案ずるに仮名本に越の郡司「道君」。また曰ふ。道君は越国の郡司の名なり。〕 少なくとも、「道臣」が天皇のふりをして調をだまし取ったという不祥事を、郡司は秘密にしていた。 だから、道臣が越国〔上越・中越などに分割する前の国〕の一つの郡の郡司〔実際には、県主であろう〕の個人名だったという考えは成り立つ。 あるいは、越国で街道の管理にあたるローカルな役職として「道君」があったことも考えられる。 なお、「仮名本」は書紀を音仮名に直した本と想像され、 そこに加えられた註釈を言っているように読めるが、私記はまだ書紀のことをあれこれ探求した時期で〔平安時代〕、その頃に全部仮名に翻訳したような体系だった本があったとは信じ難い。 《狭々波山》 ササナミは、琵琶湖南部の唐崎神社付近の地名、もしくは枕詞として万葉集にも多数詠まれる (第144回)。 また、ササナミを通り敦賀方面と結ぶ道を楽浪道(ささなみぢ)という (第150回)。 《近江北山》 高麗使を迎えるために、船で琵琶湖の北岸まで行ったのは明らかである。 「北山」と呼ばれる特定の山があったかどうかは分からないが、 「近江北山」は琵琶湖の北方の山地を指すと考えられる。 《高楲舘》
②に対応する上代語は「ひ」だから、 「高麗楲」から「麗」が省略されたとすれば、「高麗斐」には妥当性がある。 山背国〔山城国〕高楲舘に〔舟を〕「引入」とあるから、瀬田川が通る宇治郡、紀伊郡、綴喜郡、久世郡のいずれかにあったのではないかと思われる。 一方、『五畿内志』は、山城国相楽郡【古跡】に「高楲舘【在二上狛村一】」とある。 この判断の根拠は、「上狛村」という地名だろうか。 なお、コマという地名は一般的には668年に高句麗が滅亡した後、倭に渡来した人たちの居住地の呼称である。 だから「高楲」がコマヒだとすれば、時代が下った後の舘の名称を遡って使ったのかも知れない。 ただ、高句麗使が越-琵琶湖-瀬田川コースで訪れる経路も古くからあり、その接受のためにコマの名を被せた舘が用意されていたという考えも成り立つ。 《相楽舘》 相楽舘を検索したところでは、一般にあまり確定的なことは言われていない。 『五畿内志』や『大日本地名辞書』にもでてこない。 考えるに、相楽郡は、〈倭名類聚抄〉の{相楽郷}が後に郡名になったもので、 相楽館は相楽郷にあったのかも知れない。 この郷に、 〈延喜式-神名帳〉の{山城国/相楽郡/相楽神社}にあったことも考えられる。 相楽神社は、木津川市公式ページによると江戸時代は「八幡神社」で、 明治10年〔1877〕に式内「相楽神社」に定められた(京都府木津川氏相楽清水1)。 またこの付近は恭仁京の地だが、その遷都は740年だから相楽舘のあったのはそれよりずっと昔である。 しかし、奈良時代以前の山陽道はここを通り、 恐らく木津川の湊もあり、古くから交通の要所であったと思われる。 だから、相楽神社のあたりが相楽郡で、郡家も相楽舘もこの辺りではなかったかと想像される。 しかし、高楲舘が上狛村にあったとすると相楽舘に近すぎるのが、やや疑問である。 《大意》 三十一年三月一日、 蘇我大臣(そがのおおまえつきみ)稲目宿祢(いなめのすくね)は薨じました。 四月二日、 泊瀬(はつせ)柴籬宮(しばかきみや)に行幸されました。 越(こし)の人、江渟臣(えぬまのおみ)裾代(もしろ)は、都に上り奏上しました。 ――「高麗(こま)の使者が、風浪に辛苦し迷って湊を見失い、 漂流し、たまたま着岸するに到りました。 郡司が隠匿しておりますので、私めが事実を奏上いたします。」 天皇は詔(みことのり)されました。 「朕が帝業を承り若干年、 高麗は路を迷い、 始めて越の岸に到った。 苦しみ漂溺しながら、 なお生命を全うした。 これが徽猷(きゆう)〔神のよき計らい〕を広く蒙ったと言わずにおれようか。 至徳は魏々(ぎぎ)〔高み〕に至り、 仁化〔仁の教化〕は傍らまで通い、 洪恩は蕩々(とうとう)とあふれている。 司たちよ、 宜しく山背国の相楽郡(さがらかのこおり)に、 舘を建て、浄め治め、厚くお相手して資養せよ。」 同じ月、 泊瀬柴籬宮から戻られ、 東漢氏(やまとあやのうじ)の直(あたい)糠児(ぬかこ)、 葛城直(かつらきのあたい)難波(なにわ)を派遣して、 高麗の使者を召すために迎えに行かせました。 五月、 膳臣(かしわでのおみ)傾子(かたべこ)を越に遣わして、高麗使を饗しました。 大使は詳らかに〔その姿から間違いなく〕、膳臣が天皇が遣わした華使であることを知り、 道君(みちのきみ)に言いました。 ――「お前が天皇(すめらみこと)でないことは、果たして私が疑った通りであった。 お前が既に膳臣に平伏するのを見れば、ますますまた下っ端の者だと知るのに十分である。 こうして、先日は余を欺き、献朝のものを奪っておのれの懐に入れた。 速やかにこれを返せ。煩わしく言葉を飾るでない。」 膳臣はこれを聞き、使人(つかひ)をしてその調を探索させ、 具(つぶさ)に回収して高麗使に与え、都に帰って復命しました。 七月一日、 高麗使は近江(ちかつあふみ)に到着しました。 同じ月、 許勢臣(こせのおみ)の猿(さる)と吉士(きし)の赤鳩(あかはと)とを遣わして、 難波津から出発しました。 曳き船を狭々波(ささなみ)の山に停泊して装飾船に仕立て、 出来上がったところで近江(ちかつあふみ)の北山に迎えに行き、 遂に山背〔山城〕の高楲(こまひ)の館(たち)の湊に引き入れました。 そして東漢坂上直(やまとのあやのさかのうえのあたい)子麻呂(こまろ)と、 錦部首(にしきべのおびと)大石を派遣して 守護させ、更に高麗の使者を相楽(さがらか)の舘(むろつみ)で饗しました。 三十二年三月五日、 坂田(さかた)の耳子郎君(みみこのいらつきみ)を新羅に派遣し、 任那の滅びた事情を問わせました。 同じ月、 高麗は、献上の物と上表を、未だに呈奏できませんでした。 数旬〔数十日〕が巡り、吉日を占って待ちました。 まとめ 道君は素直に調を返還したためか、死罪を免れて説諭で済んだように読み取れる。 倭はもともと氏族の連合体であったが、北陸道は依然として独立性が強く、強く出れなかったことが伺われる。 高句麗使のコースとしては、 百済の黄海側海岸、あるいは新羅東岸を南下して対馬壱岐ルートを用いれば、安全に来れるはずである。 しかし、高句麗使一行が今回用いたのは、日本海中部コースである。 渤海国のところ(第145回)で見たように、日本海中部コースでは筑紫から蝦夷までのどこに到着するか分からない。 高志に着岸したのは、まだ幸運だったといえる。しかし、この地にはまだ野蛮な勢力が巣食っていて、 高句麗使を名乗ったところ小役人が天皇の振りをして現れ、一杯食わされたわけである。 欽明朝の頃は高句麗と百済・新羅とは軍事的緊張状態にあり、 その結果このようなコースを採らざるを得なかったと考えられる。 高句麗もまた倭を味方につけようとしたことが分かり、興味深い。 越に到着した使者の接受のためには、これまでも高楲舘があるにはあったが、 粗末だったのだろう。しかし三韓の対立が深まり高句麗使が日本海コースをとるようになったことを見て、 改めて豪華な相楽舘を建てたと読み取るのが妥当と思われる。 |
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2020.08.01(sat) [19-23] 欽明天皇23 ▼▲ |
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35目次 【三十二年四月~九月】 《天皇寢疾不豫》
〈汉典〉で見たように、「不予」はもともとは「予」を含む「猶予」「予備」「予定」などの熟語の否定である。 どの意味で使われるかは、文脈による。 「天子の病」を意味するのは、「病」の語を直接使うことを憚り「予期せぬこと」と遠慮がちに表現したものと思われる。 ここでも「天皇の病」の意味で、「疾」に同意語を重ねたと見るのが妥当であろう。 古訓のモヤモヤモアラズは、「病」に別の言葉をつけ足したと見て「容態の不安定」の意味を「不予」に与えたと思われるが、不要であろう。 《以後事属汝》 「以後事属汝」の以後事については、A「以て後の事は」、B「後の事を以て」、C「以後の事は」の訓みが考えられる。 文の流れにおいてはどれも可能であるが、文法的に適切なものはどれなのか検討してみる。 試しに句読点を入れる場所を変えてグーグル自動翻訳を使って英訳してみたところ、興味深い結果〔2020年7月29日現在〕が得られた。 ①「以、後事属汝;So the funeral is yours.」 ②「以後事、属汝;Future affairs, belong to you.」 ③「以後事属汝;The future is yours.」 ①はAで、②③では、「以」は単独には訳出されない。 無視または、熟語「以後」の一部である。この「以」の役割について検討してみよう。
B"以後事属汝"の二重目的語の形は、"属汝後事"となる。 書紀における二重目的語構文の典型例としては、継体元年に (ア)「大伴金村大連…上二天子鏡剣璽符一」〔大伴金村大連は…天子に鏡剣璽符を上(たてま)つりき〕 がある。 一方、同じ意味を前置詞を用いて表す形もあり、その構文:"以OtV于Op"の典型は、応神十九年の (イ)「以二醴酒一献二于天皇一」〔醴酒を天皇に献る〕がある。 (ア)を(イ)の形に変えれば、「以二鏡剣璽符一上二于天子一」となる。 (イ)は、実際には「以」を取り除いても差し支えない。「鏡剣璽符」が、受事主語(継体八年)になるだけのことである。 つまり、特にBにおける「以」は影が薄い。 自動翻訳②③において「以」が訳出されないのも、当然であろう。 このように「以」の影は薄いから、以・後が連続していれば「以」は「以後」の一部であることが優先されるだろう。 すると、"以後事属汝"においては、Cが適切で、 Aは「後事」が受事主語になるが可能、Bは理論上はあり得るが、実際にはないということになる。 《須打新羅封建任那》 「須打〔伐〕二新羅一封二-建任那一」は、 欽明天皇が生涯かけてついに成し遂げられなかった事業を、次代に託した言葉である。 しかし、実際の政治情勢としては、既に絶望的である。 恐らくは、物語「欽明帝の生涯」として完結した感じが出せるように、潤色したものであろう。 《造夫婦》 ここで「造二夫婦一」は唐突である。 「朕が遂にできなかった任那の再建を、お前の代でこそ成し遂げよ」という文脈中の言葉だから、 倭と再建された暁の任那との関係を「夫婦」に譬えたと見るのが妥当であろう。 ここには、書紀の男性優位思想があからさまである。 なぜなら「夫が主、婦は従」なることをもって、倭と任那の主従関係を表現するからである。 《河内古市》 殯宮は、河内国古市郡に設営された。古市は言うまでもなく古市古墳群があり、死を弔う土地である。 前回(《泊瀬柴籬宮》の項)、三十一年には副都の難波にいたのではないかと推定した。 ここでも実は難波の宮殿で崩じ、檜前に丹比道を遺体を運ぶ途中で、古市に殯宮を建てたように思えるのである。 《大意》 〔三十二年〕四月十五日、 天皇は病を患って寝込みました。 皇太子(ひつぎのみこ)は外出して不在で、早馬の使によって呼び寄せ、到着すると 寝殿の中に引き入れられ、その手を取って詔(みことのり)されました。 ――「朕は病甚しく、以後の事はお前に属させる。 お前は新羅を伐ち、任那を封建せよ。 更に夫婦の関係を築き、ただ旧日の如くなれば、死することに恨みはない。」 この月、 天皇は遂内寝殿に崩じ、齢は若干でした。 五月、 河内(かふち)の古市(ふるいち)で殯(もがり)しました。 八月一日、 新羅は弔使、未叱号失消〔=未叱子失消(みししししょう)〕などを派遣し、殯(もがり)に奉哀〔=謹んで哀悼〕しました。 この月、 未叱号失消たちは帰国しました。 九月、 檜隈坂合(ひのくまのさかい)の陵(みささぎ)に埋葬しました。
【未叱子失消】 〈釈紀-秘訓〉は、未叱子失消に注記を加えている。 これを、影印本(右図)から字起こしして考察する。 この中の「ム+大」は非常に珍しい字で、 「矢」の異体字のようにも思えるが、少なくとも〈釈紀〉では別字として扱っている。 ユニコードにも存在しない字で、ここでは便宜上"𡗖"で表した。
一方で、号〔正字体は"號"〕は両者に共通だから、〈北野本〉と〈釈紀〉参照本に分岐する前から既に「号」だったことになる。 万葉仮名の諸資料〔〈時代別上代〉、〈学研新漢和〉、諸サイト〕を見た限りでは、「號」が音仮名に使われた例はない。 ただし、新羅の人名においては万葉仮名の対象範囲とは無関係である。 〈釈紀〉で「子」を併記したのは、『天書』によると思われる。 書紀でも最初は「子」で、早い時期の筆写で「号」に変わったと推定される。 「号」が廃れなかったのは、ミシシシショよりもミシコシショの方が名前として自然に感じられるからであろう。 〈内閣文庫本〉(16~17世紀)では、「未ミ叱シ号子」失失」消セウ。」 この傍書が〈釈紀〉に基づくのは、明らかである。 〈仮名日本紀〉でも「號」だから、近代までは「號」が標準だったと思われる。 それに対して、岩波『古典文学大系』は「子」。岩波文庫版も「子」で、 その「校異」において「子(釈紀)―號」〔底本(卜部兼右本)は"號"だが〈釈紀〉の"子"を採用した〕と述べる。 現在一般的に「未叱子失消」とされるのは、岩波本から波及したように思われる。 【檜隈坂合陵】
〈五畿内志-高市郡〉には、 「【陵墓】檜隈坂合陵【欽明天皇○在二平田村一俗呼二梅山一 推古天皇二十八年十月以二砂礫一葺二陸上一即傍有二翁仲二躯一】」として、 檜隈坂合陵に、梅山古墳をあてている。それが明治政府に引き継がれ、 そのまま現在の宮内庁治定「檜隈坂合陵」(奈良県明日香村平田(大字)43-1)に至る。 その名称について『奈良県史』第三巻「考古」(奈良県史編纂委員会;1989。以後〈奈良県史3〉)によれば、 「所在の小字、ムメヤマから梅山とも、墳丘を覆っていた葺石の存在から石山とも、また小字池田から掘り出された猿石に因んで猿山とも俗称」されたという。 現在の考古学名は、「平田梅山古墳」である。 後述するように、明治十三年〔1880〕に、天武・持統が合葬された「檜隈大内陵」の治定陵がそれまで丸山古墳から野口大墓古墳に遷され、 丸山古墳の被葬者が不明となった。 近年、その丸山古墳を欽明天皇の真陵とする説が優勢になっている。 一つの判断材料としては、〈延喜式〉の「兆域東西四町〔432m〕南北四町」には、 平田梅山古墳(墳丘長140m)より丸山古墳(同318m)の方が合う。 一方、丸山古墳の所在地は「檜前」の範囲から外れるという指摘もある。 《平田梅山古墳》 平田梅山古墳は『天皇陵古墳』(大巧社、森浩一編;1996)によると、 「墳長140m、前方部幅105m、後円部直径72m、前方部高12m、後円部15m、葺石、周濠をもつ西向きの前方後円墳」で、 「後背する北側丘陵を整形して三方を山囲み、北は狭く南に広い周濠さらに 外を沼とする地形配置は終末期古墳の選地に共通した点と言える」、 「後期末葉に所属するものと思われる。大和で築成された最後の前方後円墳の最有力候補地である。」と述べる。
「寛永年間(1789~1801)ごろには前方部南側のくびれ部寄りに四体ならんでいた」という。 明治初年に吉備姫王墓に遷されたという。現在は「飛鳥猿石」と呼ばれている。 【丸山古墳】 丸山古墳は、奈良県橿原市見瀬町、同五条野町にまたがる前方後円墳である。 〈五畿内志-高市郡〉には「檜ノ隈大内陵【合二-葬 天武天皇 持統天皇一 ○在二五條野村西一俗呼二圓山〔円山〕一又名東明寺冢…】」 とあり、檜隈大内陵〔天武持統合葬陵〕となっている。 宮内庁は「畝傍陵墓参考地」と呼ぶ。別名は「五条野丸山古墳」、「見瀬丸山古墳」(〈奈良県史3〉、『天皇陵古墳』などはこの名称)がある。 この丸山古墳について、 『天皇陵古墳』は次のようにのべる(抜粋)。 ――「墳長318m〔2.9町〕、前方部幅192m、後円部直径150m、前方部高14m、後円部高24m」 「幕末の山陵考定では「天武・持統陵」となるが、1880年(明治十三)の『阿不幾山陵記』 の発見により当時の宮内省は、翌年、〔天武・持統陵を〕野口王墓古墳へと治定変更したため、 以後は陵墓参考地となった。」 「選地や墳丘規模の巨大さ、周濠の形態からして梅山古墳に先行する要素が見られる」 「玄室内の石棺については二基あり、北側の奥棺が棺蓋全長2.64m、幅1.44m、 南側の前棺が2.89m、幅1.41mを測る。ともに六ヵ所の縄掛突起をもつ、 竜山石製の家形石棺である。」 「十二点の須恵器は田辺編年TK四三形式〔6世紀後半〕になる。」 「七世紀前後に編年される石室構造」で、「奥棺と前棺の間に時間差を示すとみられる形式差」が見出されるという。
1991年に石室の崩壊個所から一般人が入り、そのとき撮影した写真がテレビで報道されることがあった。 『見瀬丸山古墳と天皇陵』(季刊考古学・別冊2、猪熊兼勝編;雄山閣出版1992)(以下〈考古学別冊〉)の 論文(坪井清足・坂田俊文・猪熊兼勝)によると、 「1991年5月30日、奈良県在住の一民間人から報道関係者に連絡があった。 それによると見瀬丸山古墳の陵墓参考地の柵外において横穴式石室羨道入口が開口しており、 石室内部を撮影した写真32枚の提供を受けた」という。 〈考古学別冊〉は、その写真すべてとともに、その画像から石室の寸法の諸元を計算している。 宮内庁が天皇陵の学術調査を原則認めていない現在、天皇陵の可能性の高い玄室内部の撮影画像が得られたのは、稀有なことである。 《1992年以後の調査》 『朝日新聞』(2017年10月27日)によれば、 上記の事態を受けた宮内庁は1992年に入り口を封鎖し、 その際内部調査を行い、玄室長8.3m、羨道長20.1mの値を得た。 『天皇陵古墳』にある石棺のサイズは、この調査のときの値である。 また『朝日新聞』(2013年9月13日)には、 航空レーザー測量の結果、全長331mに達することが明らかになったという記事がある。 それによると「上空からヘリコプターでレーザーを照射し、高精度な3次元データを取得し」、 「墳丘の構造は、前方部3段、後円部は」「4段とみられ、全長はこれまでの約318mから331mに伸びることが判明し」、 「前方部の幅が後円部の幅の約1.5倍」で「後円部の直径に対して、 前方部の幅が増大していく後期の前方後円墳の特徴をそなえている」という。 《聖跡図志》 『朝日新聞』が「宮内庁提供」とする玄室内の写真には、正面に「奥棺」、手前右に「前棺」が写っている。 その配置は『聖蹟図志』(嘉永四年〔1851〕)の「大和国高市郡檜隈及身狹越智並畝傍山四邊諸陵圖〔=図〕」 (〈奈良県史3〉)。 に示されたものと同じである。 その「丸山塚穴之圖」には、玄室に「三間半〔6.4m〕×四間半〔8.2m〕、天井石三枚」、 羨道に「十四間半〔26.4m〕天井石六枚。段々奥底タメ水溜レリ」と記入されている。 さらに説明文が添えられ、「山陵志云有二石棺二一焉一ハ在テレ北二 南面一ハ在レ東西面因以爲シ其南面ハ天武也其西面ハ持統也」 〔山陵志に云ふ。石棺二つ有り。一つは北に在りて南面す。一つは東に在りて西面す。因以(も)って為し、その南面は天武なり。西面は持統なり〕。 前述したように、『聖蹟図志』の当時、丸山古墳は「檜隈大内陵」(天武・持統を合葬)だと考えられていた。 《被葬者》 前出『朝日』(2017)は、「森浩一氏は6世紀代に築かれた最大の前方後円墳であるため、 欽明大王(天皇)がふさわしいと考えました。 斉藤忠氏は蘇我氏の本拠地に近いことから、蘇我稲目か蝦夷の墓と主張します。 和田萃氏は場所が、古代の地名「身狭」の範囲にあることから、宣化天皇とする説を出します。 一方、網干善教氏は南に位置する明日香村の梅山古墳が欽明天皇陵にふさわしいと考えました」と述べる。 「身狭桃花鳥坂上陵」は、宣下四年のところで見た。 出土須恵器の年式(6世紀後半)を基準にすれば、蘇我蝦夷〔645年薨〕、宣下天皇〔539年崩〕は除外される。 蘇我稲目は時期が合い、朝廷の屋台骨を支えてきたが、かと言って天皇陵を凌駕する大陵があり得るだろうか。 被葬者欽明天皇説を否定する材料としては、丸山古墳の位置が「檜前」に含まれるだろうかという疑問がある。 推古紀二十年二月に「改二-葬皇太夫人堅塩媛於檜隈大陵一。是日誄二於軽術一。」 堅塩媛(岐多斯比売命、蘇我稲目の女)は欽明天皇の妃で用明天皇・推古天皇の母である (第239回)。 つまり欽明帝の「皇太夫人」〔皇后は「大皇」、先帝の皇后は「太皇」。〈時代別上代〉「その用字に区別があるようである。」〕を改葬し、誄(しのびごと)を献った。 このとき、安倍鳥、諸皇子、中臣烏摩侶が誄し、「明器明衣之類〔副葬品〕万五千種」を納めたたと描かれ、盛大な儀式であったと読める。 仏教の再興により故蘇我稲目が復権し、それにしては堅塩媛の陵が余りにも粗末だったことから、 ここで葬儀からやり直そうとしたのは明らかである。 ここでは「檜隈坂合陵」を「檜隈大陵」と表したもので、「大陵」だから「軽術〔衢〕」から目の前に見えたことは間違いない。 これだけで、「檜隈坂合陵=丸山古墳」は決定的だと思えるのだが。 ふたつの地名、檜前・軽の関係については、 檜前が広い地域名であるのに対し、軽は市が開催され軽寺が建造された賑やかな市街地で、比較的狭い範囲を指したとすれば、 無理なく理解することができる。 また「檜隈坂合」という名前は直感的に「檜隈坂にある合葬陵」と受け止めていたが、「坂合」が一般にサカヒと訓まれることから、 もともと「檜隈の境」;すなわち檜隈の北の端の意味で、後から漢字を当てはめたのかも知れない。 《石棺》 〈考古学別冊〉の掲載の座談会において和田晴吾は、石棺の時期は 「石棺の蓋の幅と頭部の平坦面との割合というのが一つの指標」となり、前棺は「六世紀の第三四半期ごろ」〔551~575〕という。 それに対して奥棺には変わった特徴があり、同じ特徴をもつ水泥古墳の石棺の例から見て、「七世紀の第1四半期ごろ」〔601~625〕と見られるという。 この前棺の時期は、欽明天皇の崩御571年を含む。また、奥棺の時期は堅塩媛の改葬〔推古二十年=612〕にあたって新調されたと見れば合う。 ただ、ここに配置の問題が生じる。 『天皇陵古墳』は、「前棺を追葬時に所用の棺とする通常の判断を適用できない」 〔=普通に考えれば、後から合葬した棺を前に置くだろうから不思議だ〕 と述べる。 〈考古学別冊〉による写真や復元図を見ると、前棺は蓋が正方向から斜めになっている。 奥棺も少しずれているようである。 これは、盗掘者が一度蓋を開けて内部を漁ってから蓋を戻したためだろう。そのときに取り違えられた可能性も、なくはない。 ただ、これは蓋と身の材質を調べるだけで、すぐに決着がつく。 仮に取り違えがないとした場合、一つの仮説としては蘇我氏が権勢を誇った時期だから、欽明帝の棺をどけて堅塩媛を主座に置いたことが考えられる。 《終末期最大の前方後円墳》 丸山古墳の規模は、前方後円墳としては、大仙陵古墳(伝仁徳)、誉田御廟山古墳(伝応神)、 上石津ミサンザイ古墳(伝履中)、 造山古墳(第160回) 河内大塚山古墳(第210回)に次ぐ、 第六位である。終末期の前方後円墳としては例外的な大きさで、まさに孤高の存在である。 継体天皇の藍野陵を振り返ると、その真陵は今城塚古墳の可能性が高いと言われる。第223回)まとめにおいて、 そうであれば、「朝廷の再生を誇るための復古的な大前方後円墳」として築かれたのだろうと論じた。 そして、手白髪皇后は「行く行くは自分が生んだ皇子を大王位につけて継承を正統に戻す望みを心に秘めつつ、 当面は継体帝の政治的実力に委ねて大王親政体制を復興させた。そのために、継体帝の御代の宗教的枠組みは、古来の伝統を維持しなければならない」と考えたと推察した。 その手白髪皇后の願いは、まさに欽明朝において結実したのである。 欽明帝の治世は、大伴氏・物部氏・蘇我氏・中臣氏などによる合議制ではあるが、 在位三十二年の長きは伊達ではなく、大王としての実質を伴って君臨していたと考えてよいだろう。 欽明天皇は四月に崩じて九月には葬られたのを見れば、既にその存在に相応しい巨大な寿陵を築いてあったわけである。 復古的な大前方後円墳の意義については欽明天皇も母から教えられ、それに順ったのであろう。 まとめ 欽明天皇をもって高皇産霊神から正統な血筋に復し、大前方後円墳を陵とする古代からの伝統が蘇ったかに見えた。 ところが、皮肉なことに国は仏教化に舵をきっていく。 さて、欽明紀の基調は百済との外交に尽きる。 百済王は、最強の敵として立ちはだかりつつある新羅に対抗するために、倭との同盟関係の強化に迫られていた。 その精神的な土台として、倭の仏教化を図ったと考えられる。 倭国では蘇我氏が積極的に受け入れて寺院を建造した。ところが蘇我稲目の薨をきっかけとして、国教派ともいうべき中臣氏・物部氏の猛反撃が始まった。 結局、仏教国としての倭の本格的なスタートは推古帝まで下る。 百済が目的とした倭との同盟は、肝心の軍事面ではそれほどの進展を得られず、その点では百済王の目論見は外れた。 さて、欽明天皇は、仏教をどのように位置づけていたのであろうか。 欽明帝自身は、寿陵として巨大な前方後円墳を築いていた点を見れば、その心の中は倭の古来の神祇が占めていたことは明らかである。 その欽明帝が仏教を受け入れたのは、思想というよりはそこに内包された高度の学問や芸術の故であろう。 学問僧たちは古代インドの哲学の知識があり、中国語の文献に通じていた。 彼らの中から史人(ふみひと)を登用して、字を知り書物の読み書きをこなし知性のある分厚い官僚機構を形成すれば、統治機関としての朝廷の実力を飛躍的に高度化することができる。 つまり、文字は生産技術の伝播を素早く確実にして、産業の振興を導く。戸籍が整備されれば、税収が増える。 こうして国の生産力が高まり人民が豊かになり、朝廷の支配力も高まるのである。 ところがこれは、宗教界にとっては一大事であった。 寺院が建ち新興の宗教勢力が育つということは、社稷に奉じてわが世の春を謳歌していた既存の宗教勢力にとってはテリトリーが蚕食されることである。 そして激化する宗教紛争を横に見ながら、欽明天皇は崩じたのであった。 だから、天皇が遺言したとすれば、任那国の再興などではなく今後の仏教政策の方向性だったはずである。 その後、国は紆余曲折を経ながらも本格的に仏教を受け入れる道を歩む。 前方後円墳が間もなく終焉を迎え、八角墳に移行するのも、それと無関係ではないだろう。 前方後円墳は一つの墳形に過ぎないのだが、その墳形そのものに天照大神の精神を宿していたのである。 |
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⇒ [20-01] 敏達天皇(1) |