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2021.01.24(sun) [19-19] 欽明天皇19 ▼▲ |
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30目次 【二十三年正月~六月(一)】 《新羅打滅任那官家》
卓淳・㖨己呑・比自㶱の三国も任那諸国だったが、既に新羅領となったからここでは除外されたと見られる(〈二年四月〉)。 任那諸国は、形式的に百済・新羅双方の属国になっていたと思われる 〔江戸時代の琉球王国の例が参考になる〕。下述するように、新羅は加羅を「食邑」〔租税負担地〕と位置づけている。 一方、この十か国内における倭人の振舞に対して百済は具体的に干渉しているから、この時点まではどちらかというと百済のへの従属度の方が上回っていたと思われる。 これまで見てきたように、倭の移民は現在の慶州南道付近の各地にコロニーを形成し、書紀はそれを官家と称している。 特に安羅の官家はある種の政治勢力となっていたようだが〔日本府と称された〕、主なメンバーは欽明五年頃に聖明王によって元の村に戻れと言われ、事実上解散させられている (〈五年十一月〉)。 《鉅牙鉤爪》 この詔にも、元にした中国古典があることが想定される。 そこで特徴的な語句を探すと、次の例が見つかった。 ●鉅牙鉤爪…『神異教』〔魏晋南北朝〕:「其獣似レ牛。而色貍。尾長曳レ地。其声似レ狗。狗頭人形。鉤爪鋸牙」。辺境の獣について述べたもの。 ●長戟強弩…『顔氏家訓』〔南北朝〕-「勉学」:「吾見二彊弩長戟一。誅レ罪安レ民。」。 ●刳肝斮趾不厭其快…『後漢書』〔南北朝〕-「董卓列傳」: 「夫以二刳肝斮趾之性一、則群生不レ足以厭二其快一」。 このように、諸文献の語句を断片的に用いている。
さらに、雛形として利用したと見られる文が、梁書にあることが分かった。 それは、『梁書』巻第四十五列伝第三十九「王僧弁」中である。 王僧弁伝には最初の部分に、「王僧弁(辯)。字君才。右衛将軍神念之子也。」とある。 梁では太清二年〔548〕に侯景の乱が起こり、王僧弁はその鎮圧に尽力した。 その過程で、霸先と同盟した。右は、そのとき霸先が壇上から僧弁に同盟を呼びかけた宣誓文である。 この後、「升壇歃血。共讀盟文。皆淚下霑襟」〔王僧弁は登壇して歃血し〔共に生贄の血をすすり〕、共に盟文に読み、一同涙を落して襟を濡らした〕とある。 右は、王僧弁伝と欽明紀を対照したものである。 文中の「侯景」・「景」は、打倒するターゲットである。 文の終わりの方では、「臣僧弁」と「臣覇先」とが、「協和将帥」「同心共事」などの表現で盟約を誓う。 欽明の詔では侯景を新羅に、高祖を気長足姫尊〔神功皇后〕に、 (隋)朝廷を任那に置き換えている。 王僧弁と霸先の同盟は552年頃、欽明二十三年は562年である。 その十年間に盟約文が倭の朝廷の手に入ることなど、到底あり得ないだろう。 書紀編者が梁書〔629年成立〕から雛形になりそうな文を探し出し、それを下敷きにして作り上げたのは確実である。 《豈有率土之賓…》 「豈有率土之賓謂爲王臣乍食人之禾飲人之水孰忍聞此而不悼心」は、正確に理解しようとするとなかなか難しい。 まず、締めくくりの「不悼心」は、明らかに反語である〔心悼まないか。いや悼む〕。 これは冒頭の「豈」〔反語の助詞〕に呼応するから、「豈……不悼心」で一文となる。 次に、「食人之禾飲人之水」は、侵略者が他人の〔=我々の〕食糧と水を掠め取ると読むことがでくる。 「率土之賓」については、賓は「他の国から来た人」だから、土:即ち我らの国土を、率:即ち統治する意であろう。 よって「率土之賓」は「我らの国土を支配する外国から来た人」となり、次第に意味が通ってくる。 「孰忍聞此」の孰は通常は疑問詞だが、それでは意味をなさない。孰は「熟」〔煮る。じっくり~する〕に通用し、ここでも熟の意である。 「謂為」は熟語で、謂う・見做す・以為〔=思う〕を意味する。 以上を組み立てると――「率土之賓」〔=土地を支配する外国から来た人〕がいて、「王臣乍食人之禾飲人之水」〔=その王や臣が作物や水を奪うこと〕をして、 「孰忍聞此」〔=深く忍んでこれを聞く〕を「謂爲」する〔=思う〕とき、「豈……而不悼心」〔どうして、悼心とならないことがあろうか〕となる。 これで、意味の通る文として読み取ることができる。 返り点を入れると、「豈有二率土之賓一、謂下-爲「王臣乍食二人之禾一、飲二人之水一、孰忍聞上レ此」、而不レ悼レ心」となる。 《窮刀極爼既屠且膾》 「窮レ刀極レ爼既レ屠且レ膾」は、太刀を最大限に使って獲物を捕らえ、まな板を最大限に使って膾に調理したとしか読めない。 占領者としてやって来た貴族や大臣のために、最大限の労力を割いて料理を設え、提供したと読むのが妥当か。 他の読み方としては、支配下に置かれた住民が虐待される様の譬えが考えられる。 《臣子之道不成》 「共誅二姦逆一。雪二天地之痛酷一。報二君父之仇讎一。」だけを読めば、復讐の炎が燃え盛っている。 ところが、締めくくりの「臣子之道不レ成」によって、この反撃の炎は完全に鎮火させられる。 古訓が「報中君父之仇讎上」と訓点を付し、ここまでを「不レ能下」の目的語に含めたのは、両者を論理的に整合させ文章として成立させるためであろう。 確かにそう読むしかないのだが、直後に否定するにしては大風呂敷を広げ過ぎていて、率直に言って文章は腑に落ちない。 思うにこの部分は、一度は「而不能」が「雖不能」、「臣子之道不成」が「臣子之道必成」とされていたのではないだろうか。 そして、「不能」の目的語は「瀝胆抽腸」のみで、「共」〔ともに〕は呼びかけの言葉、「死有恨」は「たとえ死んでも恨みを忘れない」覚悟を持てという意味だったと思えるのである。 つまり、もともとは反撃への烽火を上げる詔であった。 だが、それでは余りにこれ以後の事実経過を無視しているという見解が優勢になり、修正されて現在の形になったと思われるのである。 《詔の構成》 詔は、概ね次の六段で構成される。 ●新羅西羌小醜~誅残我郡県 新羅は任那を無残にも滅ぼした。「西羌小醜」は新羅への悪口。一読して理解できる部分である。 ●我気長足媛尊霊聖聡明~於新羅何怨 気長足媛尊(神功皇后)は、群庶万民を労い養ってきた。 新羅にはその困難を助け王・将の命を救い、要害の地を与え最大限に繁栄させた。 その神功皇后が薄情だったというのか。我が人民が新羅を恨んでいたというのかという。 三韓は倭に仕える国という位置づけは、神功皇后伝説をに基づくもの(第141回)。 この神話的な国家観は書紀の基調であるが、一方的な観念に過ぎず現実の国家関係においては無力であった。 ●而新羅長戟強弩~不謂其酷 ところが、強大な武器で任那を攻撃し、魂のある人民を残虐に傷つけ殺し、骨を晒し屍を焼いた。 接続詞「而」はここでは逆接。「不謂其酷」は「このような惨状は、言語を絶する」意。 ●任那族姓百姓以還~而不悼心 任那にやってきた支配者は我が物顔に料理を作らせ、他人の作物を食べ他人の水を飲む話を聞くにつけ、 悼心に堪えない。前述したように、「既屠且膾」には別の解釈も有り得る。 ●況乎太子大臣處趺蕚之親~身當後代之位 況や太子、大臣、先祖は蕃屏の〔辺境の国を警護する、また諸侯の〕任を負い、 頭のてっぺんから足の先まで代々の朝廷の恩を受け、後には地位を与えられた。 ●而不能瀝膽抽腸~臣子之道不成 しかし、反逆者を討ち、天地の痛みを雪ぎ、 君父の仇に酬うことはもうできない。死の恨みにあって、もはや臣子の道は失われた。 《三国史記-新羅本紀》 『三国史記』-「新羅本紀」の真興王二十三年〔壬午;562〕に、対応する記事が載る。 この〈欽明〉二十三年〔壬午;562〕と同じ年である。
新羅から見れば伽耶は「食邑」即ち属国だから、新羅に歯向かえばそれは「叛」である。 小国群は実際には新羅との関係を保ちながら百済に緩やかに属していたが、遂に新羅が完全に占領したということであろう。 倭にとっては、長文の詔自体がその衝撃の大きさを物語っている。つまりは任那がこのとき完璧に奪われたと、書紀も見ていたのである。 事実そのものに関しては「新羅打二-滅任那官家一」の僅か8文字であるところに、その口惜しさが見て取れる。 斯多含活躍の話も当然伝わっていたと考えられるが、とても書く気になれなかったのだろう。 《百済侵掠辺戸》 九月の伽耶への侵攻に先だって、同年七月に「百済侵二-掠辺戸一」の記事がある。 〈欽明二十三年七月是月〉の紀男麻呂宿祢の出兵は、これに対応すると見てよいであろう。 新羅本紀は「百済」が侵掠したが、援軍として男麻呂が加わっていたと見られる。 ところが、書紀では男麻呂宿祢が新羅を攻める前、一月に任那が滅亡していて新羅本紀とは時間が逆転している。 どちらが正しいかは知る由もないが、新羅本紀の順番の場合は、男麻呂宿祢側の攻撃が任那滅亡の呼び水となる。 これでは倭の戦略ミスの印象を与えてしまい、書紀はこれを嫌がったのかも知れない。 書紀の順番にすれば、新羅の横暴に対してせめてもの一矢を報いたことになり、詔の末尾に示された反撃の意志に呼応する行動として位置づけることができる。 《大意》 二十三年正月、 新羅は任那(みまな)の官家(みやけ)を打ち滅ぼしました 【ある出典によれば、 二十一年に 任那は滅びた。 任那は総言で、 別けて言えば、 加羅(から)の国、 安羅(あら)の国、 斯二岐(しにき)の国、 多羅(たら)の国、 卒麻(そつま)の国、 古嗟(こさ)の国、 子他(こた)の国、 散半下(さんはんげ)の国、 乞飡(こつさん)の国、 稔礼(にんれ)の国、 合わせて十国である。】。 六月、 詔を発しました。 ――「新羅(しらぎ)は、 西羌(せいきょう、にしのえびす)の小さく醜いやつらで、 天に逆らい無状(むじょう)〔=恥知らず〕である。 我が恩義を違(たが)え、 我が官家(みやけ)を破り、 我が黎民(れいみん)〔=庶民〕を毒害し、 我が郡県(こおりあがた)を誅殄(ちゅうてん)〔=絶滅〕した。 我が気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)は、 霊聖(れいせい)〔=貴い魂〕聡明で、 天下を周行〔=巡行〕なされ、 群庶を劬労(くろう)〔=慰労〕なされ、 万民を饗育(きょういく)〔=饗食と養育〕なされた。 新羅が窮して帰順されれば憐みをたれ、 新羅の王将が殺されようとしたときは首を繋ぎ留められ、 新羅に要害の地を授けられ、 新羅に他にひけをとらぬ繁栄をもたらし崇(あが)められた。 我が気長足姫尊が、 新羅をいかに軽んじたというか。 我が百姓が、 新羅をいかに怨んだというか。 ところが新羅は、 長い戟(ほこ)、強い弩(いしゆみ)をもって、 任那を凌蹙(りょうしょく)〔=陵暴圧迫〕し、 大きな牙と曲がった爪をもって、 含霊(がんりょう)〔魂をもつ人〕を残虐に、 肝を刳(えぐ)り足を切り、 その快さを厭わず〔=快楽とすることを憚らず〕、 骨を曝し屍を焼き、 その酷さは言いようもない。 任那の族姓(ぞくせい) 百姓(はくせい)はそれ以来、 刀を窮(きわ)めて爼(まないた)を極(きわ)めて、 屠殺し、膾(なます)に重ねた。 豈(あ)に、賓(まろうど)〔=外国から訪れた人〕がきて土(くに)を支配し、 その王臣は 忽(たちま)ち人の粟を食らい、 人の水を飲み、 孰(つらつら)忍び、これを聞いて思うに、 悼む心を覚えないことがあろうか。 況(いわん)や太子、大臣は、 趺蕚(こはな)〔=子孫〕の先祖の処にあり、 血の涙して怨みを銜〔=含〕(ふく)み、寄り添う。 蕃屏(ばんぺい)〔=諸侯〕の任に当て、 頂〔=頭〕を撫で踵〔=足先〕まで及ぶ恩(めぐ)みをたまわり、 世には歴代の朝廷の徳を受け、 身には後代の地位を当てた。 けれども、胆(きも)を瀝〔=滴〕(したた)らせ、腸(はらわた)を抽〔=抜〕き、 また姦逆〔=逆族〕を誅(ころ)して 天地の痛酷を雪(すす)ぎ、 君父(くんぷ)の仇敵に報うことができない。 即ち、死んで恨みがあるまま、 臣子〔=臣と家来〕の道は成らない。」 【二十三年正月~六月(二)】 《或有譖馬飼首歌依》
「或」は「或るに」と訓み、「或る謂ひ伝へに」の意味であろう。 「諧」は「戯言」の意で、「有諧」の意味は「戯言が流布されていた」であろう。 他の読み方としては、その後に「讃岐」が出てくるから、「有二讃岐馬飼一」の誤写かも知れない。 実際〈北野本〉は、「讃イ」〔イ=異本〕を傍書している。 「馬飼」には地名がつくべきかも知れない。そこで、書紀全体での使われ方を見てみよう。 ●「馬飼」の前に地名がつく⇒「大津馬飼」、「河内馬飼首」、「倭馬飼部造連」。 ●「大伴連馬飼」、「大伴連馬養」、「伊余部馬飼」のウマカヒは個人名である。 ●「大伴長徳字馬飼連」の場合は、「馬飼」は「大伴長徳」の字(あざな)〔別名〕である。ここで「連」は「大伴連」の「連」を末尾につけたもの。 ●氏族名「馬飼」が裸で使われる⇒ここ以外にない。 古事記には用例がない。万葉集には一例のみで、「文忌寸馬飼」(1580題詞)があるが、これは個人名。 これらを見れば、「諧馬飼首」は「讃岐馬飼首」の誤写の可能性が高いと思われる。 文章として見た場合、「有諧」でも意味が通らないことはないがあまりにも簡潔で、 「有レ諧、歌依曰」〔世間に戯言あり、歌依曰く〕は妙にもって回った言い方である。 本当にこのような言い方をしたのだろうか。普通は「歌依諧曰」と書くのではないかと思える。 《鞫問極切》 「鞫問」は訊問と同じ、「極切」はその過酷な様を示している。最後は苦しんで死んだというから、拷問もあったのであろう。 《揚言誓》 歌依は、「私が言ったのは嘘である。もし嘘でなければ災〔=火災〕があるだろう」という。これはまさに「うけひ」であるから、「誓」はウケヒと訓むことになる。 ところが、現実に宮殿が燃えてしまった。すると命題「鞍は皇后の所有物である」が真となるのだが、それは最早問題ではない。 むしろ「災」を口にしたことが問題なのである。 本人はもういないから、子が身代わりになって罰せられた。 つまり、ことはまさに言霊思想〔口に出したことは現実化するという考え〕に沿って進んでいる。 「揚言」という漢語の選択には、まさに上代語の「ことあげ」の意が込められている。 《非吾手投》 「火に投ずるのは私個人の手ではなく、神職の手である」という。すなわち個人の行為ではなく、神に仕える身に課せられた行為であることを神に知らせる。 これによって、個人としての罪を免れるのである。 《神奴》 「神奴」の記録としては、『元興寺伽藍縁起并并流記資財帳』に「合二賤口一一千七百十三人:〔中略〕奴二百九十一人。婢三百七十人」が見える (Ⅴ:流記資財帳資材帳)。 その人数を見ると、寺の雑用に限らず所有田の耕作に隷従させたと思われる。 「五色の賤」(資料[35])の分類に、「私奴婢」「公奴婢」がある。 「神奴」は神社が所有する奴婢だから、私奴婢の一種か。 ただ、「神祇官」は職員令で定義されるから神社は国家組織の一部とも言え(資料[24])、そう考えれば公奴婢となる。 《大意》 この月、 或るに言うに〔戯言が流布し〕、〔讃岐の〕馬飼(うまかい)の首(おびと)歌依(うたより)は 「歌依の妻は私に逢い、 讃岐の鞍韉(あんせん)〔鞍と、したくら〕は怪しげだと言う。 つらつら見るに、 皇后(おおきさき)の御鞍(みくら)であった。」と言いました。 そこで歌依は逮捕され、廷尉に引き渡されました。 鞫問は極切〔=苛烈〕で、 馬飼の首歌依は言い募り誓(うけひ)して 「虚偽です。真実ではありません。 もしこれが真実ならば、必ず天の災いを被るでしょう。」と申し上げました。 遂に苦しい訊問によって、地に伏せて死にました。 未だ時を経ぬうちに、突然宮殿に火災がありました。 廷尉は、その子守石(もりし)と名瀬氷(なぜひ)とを逮捕して縛り 、 まさに火中に投じようとして 【火に投じて刑とするのは、おそらく古代の制度である】、 呪文を唱え 「わが手で投げるに非ず、祝(ほうり)の手で投げる。」 と唱え終えて火に投じようとしました。 守石の母は祈り請(ねが)って 「子どもを火中に投じたりすれば、果ては天の災いに至りましょう。 願わくば祝部(ほうり)に付けて神奴(かみやっこ)にさせて下さいませ。」と申し上げました。 母の請いによって赦され、神奴に落とされました。 まとめ 〈欽明〉二十三年六月の詔は、直訳しても釈然としない。 その原因を求めて突き詰めてみると、結局原文作者は奪われた任那を取り戻しに行こうと呼びかける堂々たる詔が書きたいのに、実際にはそれを断念して嘆きの詔にせざるを得なかったのである。 その狭間にあって文章が屈折したことが、釈然としない原因であろう。 そもそも、書紀の執筆者自身が神功皇后伝説による「三韓官家」的国家観と、 白村江の戦いで倭が半島から排除された現実との間で板挟みになっていた。 それが詔の執筆にも反映して右往左往し、その痕跡が刻み込まれたわけである。 この点に関して校訂者は冷静で、「任那」は十か国の「総言」だという。 すなわち国家としては存在しなかったと明言し、 任那「国」が実在したが如き錯覚を生み出そうとして一生懸命な原文筆者に、冷や水を浴びせている。 |
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2021.02.24(wed) [19-20] 欽明天皇20 ▼▲ |
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31目次 【二十三年七月(一)】 《新羅遣使獻調賦》
〈地名辞書〉〔吉田東伍『大日本地名辞書』〕に、 ●「北河内郡:明治廿九年讃良茨田交野の三郡を合同して北河内郡と為す」。 ●「讃良郡:本茨田の分郡にして姓氏録 「茨田宿祢、彦八井耳命之後、男野現占宿祢仁徳天皇御世、造茨田堤」と見ゆ。現占即讃良にて〔中略〕延喜式、讃良郡、 和名抄、訓佐良ゝ、五郷に分つ。日本書紀、霊異記并に更荒郡に作る、後世訛りて佐々良と曰ふ」という。 〈姓氏録〉の該当部分は、〖皇別/茨田宿祢/多朝臣同祖/彦八井耳命之後也/男野現宿祢。仁徳天皇御代。造茨田堤/日本紀合〗。 「男野現宿祢」を〈地名辞書〉の引用のように「男野現占宿祢」とする本はなかなか見えない。 彦八井耳命は神武天皇の皇子(第101回)。 茨田連衫子による茨田堤の決壊箇所を封鎖した伝説が、〈仁徳天皇十一年〉にある。 〈姓氏録〉の一刊本〔江戸時代?:国立国会図書館デジタルコレクションID2553144〕 には「男野現宿祢」に「莒呂母能古イ」〔イ=異本〕が書き添えられている。 〈地名辞書〉が讃良郡がもと茨田郡から分郡されたとする点については、今のところ出典が見つけられない。 《鸕鷀野邑》
菟野馬飼氏・裟羅々馬飼氏については、〈天武紀十二年十月〉「并十四氏賜レ姓曰レ連」として挙げられた十四氏に「娑羅々馬飼造 菟野馬飼造」が含まれる。
●『蔀屋〔しとみや〕北遺跡発掘調査概要Ⅰ』〔大阪府教育委員会2004〕によると、「蔀屋北遺跡A調査区…から馬の全身骨格を検出した」 ●『奈良井遺跡発掘調査概要報告書』〔四條畷市教育委員会2012〕によると、奈良井遺跡から「7頭分の馬骨・馬歯…中でも一頭は完全な形」やミニチュア土器が検出。 ●『中野遺跡発掘調査概要Ⅴ』〔四條畷市教育委員会1988〕には、馬歯の検出が載る。 これらの地域に、職業部である馬飼部がいたと想像される。 この地域を包含する地域のサイズは、東西方向に里三個分程度だが、その範囲内に「馬甘里」があったと考えられる。 さらに、「菟野馬飼氏」の名称から見ればこの付近に「菟野」があったということになる。 奈良井遺跡出土のミニチュア土器については、〈神功皇后三年〉 葛城襲津彦が新羅から虜として連れ帰った住民が、忍海郡・葛上郡の四村(現在の御所市付近)に居住した話がある。
奈良井遺跡のミニチュア土器も、その辺りが「新羅人の居住地域=鸕鷀野邑」だった可能性を示す。 ところで、鸕鷀野"邑"ならば、郡内の小地域だが、同じ名前が広域名を兼ねたことも考えられる。 例えば地名ヤマトには、大和神社の地域「倭」と、律令国「大和」の二重性がある。 かく考えるのは、持統天皇の名前が「鸕野讃良姫(うの(の)ささらひめ)」であるからである。 飛ぶ鳥の飛鳥(明日香)、はるひの春日、かむかぜ(神風)の伊勢など、有名な地名には、枕詞がセットになっている。 すると、讃良郡に枕詞「鵜野」〔鵜が翔ぶ野か〕がついていたとも想像される。 ただし、万葉集には讃良の地をこのように詠んだ歌はないから、依然として想像に留まる。 《大意》 七月一日、 新羅(しらぎ)は、調賦使を派遣して貢献しました。 その使者は、新羅が任那(みまな)を滅したことを知り、 それを恥じ、国の恩に背いて敢て帰国を請いませんでした。 遂に日本(やまと)に留まり本国に帰らず、 国の人民と倣いを同じくしました。 今の河内の国の更荒(さらら)郡〔讃良郡〕、鸕鷀野邑(うのむら)の新羅人の先祖です。 【二十三年七月(二)】 《将兵出任那哆唎》
副将は、「裨将」とも表現される (崇峻四年)。 古訓は、ともに「ソヒノイクサのキミ」と訓む。将軍「いくさのきみ」につく「副」の直訳:「副(そ)ふ」と見られる。 一方、本サイトでは将軍の訓として「いくさのかみ」を用いている。これは、四等官制の呼称による(第113回《将軍の訓》)。 四等官制において骨格的な役職名の和訓は共通で、〈倭名類聚抄〉には「長官:已上皆加美〔かみ〕、次官:已上皆須介〔すけ〕、判官:皆萬豆利古止比止〔まつりことひと〕、祐官:皆佐官〔さくわん〕」と呼ばれる。 将軍については、長官のひとつとして「鎮守府曰将軍」とあるから、鎮守府のトップの将軍の和訓は「かみ」である。 用字は、鎮守府の軍事的な性格を示すものであろう。「大将軍」の場合は、〈倭名類聚抄〉風に表せば「於保伊以久佐乃加美」となる〔オホイはオホキの音便〕。 書紀編纂の時期は飛鳥時代末である。この頃、国の基盤の整備がすすみ、精神面では書紀、制度面では大宝律令が柱である。四官制は令における基本構造だから、 その和訓は書紀にも及ぶべきものである。平安時代に古訓を編み出した学者は、研究範囲が『令義解』までは及んでいなかったと見るべきであろう。 さて、四等官制の次官以下については、「判官」に「鎮守府曰軍監」があるが、次官と祐官には記載がない。 しかし、副将は将軍に次ぐ地位であるから、「いくさのすけ」と訓むのが原則に適うと思われる。 《薦集部》 〈姓氏家系大辞典〉: ●「薦集部 コモツメベ:職業部の一にして、坐臥の用に供する薦席を作る部民を云ふなり。」 ●「薦集部首:これも〔薦集造とともに〕薦集部の伴造なり。」。 とある。蓆集造は天武朝に連姓を賜っている。〈天武紀十二年九月〉に「…蓆集造…凡卅八氏賜レ姓曰レ連。」 とあり、「連」は、八色の姓の第七位にあたる。八色の姓の制定はその翌年だが、連については正式な詔に先行して賜ったと思われる。 《尋属敗亡》 「尋」には、接続詞として「次いで」の意味がある。この場面では「尋ねる」=質問すべきことは特にないから、接続詞であろう。 「属」は、動詞としては 〈汉典〉「継続;連接(側重於互相銜接) [join;combine]。」を基本的な意味とする。 物理的な連結以外には、〈汉典〉「属文(連二-綴字句一為二文章一)〔字句をつらねて文章にする〕」、 「属読(連読)〔順番に音読する〕」、「属好(結好)〔よしみを結ぶ〕」などが挙げられている。 事柄の時間的な連続を表す用例は動詞としてはどの辞書にも見えないが、副詞としては「たまたま」「このごろ」がある。 ここでは、尋と属を重ねて、大軍を起こし間髪を入れずに敗北したと述べたものであろう。言外に、作戦として負けを装ったことを匂わせている。 《闘将》 新羅方の将軍であるが、個人名は記されていない。「闘将」の語を用いたのは男麻呂宿祢軍と区別するためであろう。 従って、和訓においても「いくさのきみ」は用いない方がよい。字のまま「たたかひのきみ」と訓めばよいだろう。 なお、《副将》の項で将軍を「いくさのかみ」と訓むと述べたが、それは令における職名を用いたもので、 文脈において集団の統率者への一般的な呼称を用いる場合は、キミでよいだろう。
戟(げき)はホコの一種で、戈〔先端から直角に両刃の刃が出る〕に、矛〔槍の形〕が合体したもの(図左)。 矛の先に相当する刃を刺(し)という。戈先に当たる部分は援と呼ばれる。 「鉤」は一般に湾曲した形を指す。例えば、〈汉典〉の「鉤」の意味の一つに「漢字筆形之一(亅、乛、乚、、、乙等)。」とある。 「鉤戟」については、 『百度百科』に「裴驅集解引如淳曰※:長刃矛也。 又曰:鉤戟似矛、刃下有鉄、橫方上鉤曲也。」とある。 この説明によると、「援」は鉄製で、湾曲している(図右)。 検索語「鉤 戟」を用いて画像検索すると、さまざまな形の類似の戟の類を見ることができる。 ※…「裴驅」は裴駰の誤りか。 『史記集解』は裴駰(裴松之の子)による史記の注釈書で、八十巻からなる。 「引如淳」は「如淳を引用して」の意か。如淳は三国魏の人。 如淳による『史記』への注は『五雑組6』(平凡社/岩城秀夫訳/1998)p.38に見える。 《大意》 この月、 大将軍、紀男麻呂宿祢(きのおまろのすくね)を遣わして、 将兵は、哆唎(たり)に出て、 副将川辺臣(かわべのおみ)瓊缶(にへ)は、 居曽山(こそむれ)に出ました。 そして、新羅が任那(みまな)を攻めた状況を聞こうとして、 遂に任那に到り、 薦集部(こもつめ)の首(おびと)登弭(とみ)を百済に遣わし、 軍の計略を約束させました。 そして登弭は、妻の家に宿泊して、 印書、弓箭(ゆみや)を道に落としました。 新羅は具(つぶさ)に軍の計略を知り、、 にわかに大軍を起こし、 続けて一族は敗北し、降伏を乞い服属しました。 紀男麻呂宿祢は、勝利を得て、 師団を凱旋させ百済の兵営に入れ、 全体に軍令を発しました。 ――「勝って敗れること忘れず、安らぎに必ず危きを慮(おもんばか)ることは、 古(いにしえ)の善き教えである。 今、疆畔(きょうばん)〔境界〕に処して豺狼(さいろう)〔残虐な敵〕に交接し、 よって軽忽(けいこつ)〔軽率で愚か〕に変難を考えないことなどあってよいか。 況(いわん)や、また平安の世に、刀剣を身から離すな。 蓋(けだ)し君子の武備を、以って止むべからず。 宜(よろ)しく警戒を深め、その軍令を努めて崇むべし。」 士卒は皆、心を委ね敬服して事(つか)えました。 河辺臣瓊缶(にへ)は、単独で進み戻って戦い、 向かうところ皆、攻め抜きました。 新羅は再び白旗を挙げ、投兵降首〔武器を捨て降伏〕しました。 河辺臣瓊缶はもともと兵の道に明るくなく、 対抗して白旗を挙げ、空しくこれまで通りに単独で進みました。 新羅の闘将は、 「将軍河辺臣は、今降伏しようとしているぞ。」と言い、 軍を進め逆戦に転じ、尽(ことごと)く鋭敏急速にこれを攻め破り、 前鋒の損害ははなはだ多くの人に及びました。 倭国造(やまとのくにのみやつこ)手彦(てひこ)は、自ら救い難いことを知り、 軍を棄てて遁走しました。 新羅の闘将は手に鉤戟(こうげき)を持ち、 追いかけて城の溝に至り、戟(げき)を振り回して撃ちました。 手彦は、これを避けて駿馬(しゅんめ)に騎乗し、 城の溝を飛び越えて渡り、わずかにこうして身を免(まぬが)れました。 闘将は城の溝に臨み、嘆いて 「クスネジリ」 【この新羅語は未詳】と言いました。 【二十三年七月(三)】 《瓊缶不能恤隨婦》
虜ならば生きているから、「生虜」は「虜」と意味は変わらない。これは、〈汉典〉で「俘虜」を当てていることにより明らかである。 訓読においては、特別に「生」を切り離して「生けながら」を加える必然性はないだろう。 《蔑》 古訓によると、平安時代には「蔑」に「ないがしろ」の訓をあてていたことがわかる。 しかし、〈時代別上代〉を見ると、この語は上代には確認できない。 なお、「ないがしろ」は「無きが代(しろ)」が語源とされる。 《如何不過命也》 「如何不過命也」は外形的には反語文に見える。 ところが不過命は、 ここでは「命を過(こ)えない=自分の命の方が大切である」と断定的に表明するから、反語ではない。 文末の語気詞「也」は断定、疑問の両方に使うが、ここでは前者である。 「如何」は確認のための自問と位置付けられる。 《露地》 「地」を「ところ」と訓むと「地面の上」という生々しさが薄れるので、「つち」と訓んだ方がよいだろう。 《婦女と婦人》 ここの「婦人」は「婦女」と同じだが、 河辺臣が馴れ馴れしく話しかける場面が「婦女」、よそよそしく対応する場面が「婦人」であるから、ニュアンスによる使い分けであろう。 訓読は共に「をみな」で、差をつけられない。「をむなめ」は性的な意味合いを伴う「妾」のために取っておかねばならない。 《軽》 〈時代別上代〉によれば、平安の「かろし」は、上代では「かるし」である。上代においては〈同〉「語幹が地名や人名中に用いられている以外、用例はまれである」という。 そして、宝亀二年〔771〕二月戊申宣命:「宇之呂軽久」、天応元年〔781〕二月丙午宣命:「宇志呂毛軽久」〔うしろもかるく〕は、「かるし」と判断されている。 「軽重」は続紀に頻出し、書紀でも「かるがるし」の意味で使われているから、「用例はまれである」というは、「訓が確定した用例は」の意味であろう。 『古典基礎語辞典』〔角川学芸〕は「かるし:カロシの母音交替形」として、上代、平安の差異に触れていない。 『古語林』〔大修館〕は、「かろし:「かるし」と同じで併用されていたが、平安時代には「かろし」が多い」とする。 《大意》 このようにして、河辺臣は、遂に武器を収め撤退し、 慌てて野営しました。 そして、士卒は尽く互いを欺きないがしろにして、尊敬して重んずることはなくなりました。 闘将は自ら軍営の中に足を運び、 悉く河辺臣瓊缶らを生虜として、それは引き連れた女性に及び、 その時は、父子、夫婦が互いに憐れむこともできませんでした。 闘将は河辺臣に問ひました。 ――「お前の命とその女の、どちらにもっとも愛を与えるか。」 河辺臣はそれに答えて、 「どうして、一人の女を惜しんで禍(わざわい)を選ぶことがありましょう。 どうあっても、命を越えることはありません。」と言い、 とうとう妾婦とすることを許しました。 遂に闘将は、露地でその女を姦(おか)しました。 婦人は後に帰還し、 河辺臣は近づいて語り合おうとしましたが、 婦人は恥と恨みを抱くこと甚だしく、従わず 「昔、君は私の身を軽んじて売りました。 今どのような面目をもって私に会おうというのですか。」と言い、 遂に同意しませんでした。 この婦人は、坂本臣(さかもとのおみ)の娘、甘美媛(うましひめ)といいます。 【二十三年七月(四)】 《伊企儺為人勇烈也》
原則的には、ここの「将」も「いくさのかみ」であるが、話し言葉としては「きみ」もまた自然であろう。 ここでは「新羅王」と対になっているから、日本将=ヤマトノキミ、新羅王=シラキノキミであろう。 ここで「日本将=ヤマトノイクサノキミ、新羅王=シラキノコキシ」と訓んでしまっては、せっかくの語呂合わせが生かされずもったいない。 《為諸将帥所痛惜》 伊企儺は心にもないこと言って命乞いするのは潔しとしなかった。この態度は、敵味方の別を越えて諸将に感銘を与えたということであろう。 「為諸将帥所痛惜」は受け身の構文として、英文法と類似性があり「所+動詞」は「be+過去分詞」、「為+行為者」は「by+行為者」に相当する。 訳語に用いられる「ために」は、本来は目的を表す形式名詞で、漢文訓読体において「為」をそのまま「ために」と訓んだことにより、原因に転じたものである。 上代にこの訓読法が始まっていたとしても、一部の学者に限られていただろうと思われる。 一般的な上代語とは言えないだろう。 《歌意》
第二歌は短歌〔五七五七七〕となっている。 佐用姫が領巾を振る様子を、山上憶良が詠んだ歌がある(資料1[15])。
一方、大国主段では、大国主は須勢理毘売から授けられた蛇領巾(へみひれ)、蜈蚣(むかで)蜂(はち)の領巾を振ることによって難を逃れた (第59回)。 〈時代別上代〉は、領巾が「呪力をもつため」に、「服装の一部にも用いられたと思われ、もとは単なる装飾ではなかったであろう。 薬師寺吉祥天女の画像にもヒレをかけた正装の姿が見られる。」と述べる。 その「薬師寺吉祥天」は国宝となっており、紗のような透き通った布を肩に羽織り、腕に纏って垂らしている様子が見てとれる(図右)。 《大意》 同じ時、俘虜となった調(つき)の吉士(きし)伊企儺(いきな)は、 為人(ひととなり)勇烈で、遂に降服しませんでした。 新羅の闘将は太刀を抜き斬るぞと言って迫り、褌(はかま)を脱がせ 追い込み、尻を日本(やまと)に向けて大声で 「日本(やまと)の将(きみ)、わが尻を食らえ。」と叫ばせました。 そして叫んだ言葉は 「新羅の王(きみ)、わが尻を食らえ。」でした。 苦しい責めを被りながらなおこのように叫び、 そして殺され、 その子や甥も、それぞれの父と抱きあって死にました。 伊企儺の言葉は奪い難く、皆も同様で、 これによって特別に諸(もろもろ)の将帥に甚(はなはだ)しく惜しまれました。 昔、妻の大葉子(おほばこ)は、また並んで俘虜とされ、 愴然として歌を詠みました。 ――韓国(からくに)の 城(き)の上(へ)に立ちて 大葉子は 領巾(ひれ)振らすも 日本(やまと)へ向きて 或いは、和して詠む人がありました。 ――韓国の 城の上に立たし 大葉子は 領巾振らす見ゆ 難波(なには)へ向きて 【「夫勝不忘敗安必慮危…」の出典】 書紀が使った部分は『三国志』呉書にあり、孫権が武昌に城を築いた際の、諸将への訓示である。 孫権は三国の呉〔222~280〕を建国し、初代皇帝〔在位229~252〕。
まとめ 七月「是の月」に、紀男麻呂を大将軍として将兵を派遣して哆唎に上陸して新羅軍の動向を探り、百済と共同作戦の戦略を練ったと書かれる。 そこまでは威勢がよいが、戦略書を落として新羅に作戦がばればれになり、いいようにあしらわれて結局は無残に敗北した。 いくつかのエピソード:手彦が馬で濠を飛び越えて脱出した件、野営地で瓊缶が闘将に妻を売った行為、調吉士伊企儺の男気などは、 「百済文書」〔白村江の戦いの後、亡命王族が倭にもたらした文書群:⇒十五年十二月《管山城の戦い》参照〕にあったものかと思われる。 この役は、基本的に百済新羅間の戦闘であって、倭人名の人物が参加していたとしても現地居住者ではないだろうか。 欽明紀には、百済・任那の官僚のうち何人かは倭風の名前で登場するからである。 紀男麻呂の派遣については、〈崇峻四年〉の派兵については具体的で十分に史実だと思わせるものがあるが、 それに比べて〈欽明二十三年〉では派兵までの経緯は何も書かれない。 また、現地での男麻呂の訓示は、書紀原文作者が魏書を用いて仕立て上げたものである。 さらに、瓊缶が既に新羅による占領下にある任那に行ったとする箇所も不自然である。 こうして見ると、「大将軍」の率いた大軍の派遣が実際にあったかどうかは疑わしくなってくる。 前回、『三国史記』によれば百済による新羅攻撃が先で、その後に伽耶を滅ぼしたことを見た。 史実としては、それが正しいのかも知れない。 『三国史記』〈新羅本紀〉で欽明二十三年にあたる年の秋七月:「百済辺戸を侵掠す。〔新羅〕師を出で之を拒ぎて一千余人を殺し獲。」(前回)は、〈欽明二十三年〉七月是月条に符合する。 その際のエピソードを前述「百済文書」から抜き出し、そこに紀男麻呂率いる倭軍が渡海して主導したことにして、さらに魏書にあった訓示を付け足して、 ストーリーを構成したように思えるのである。 このような操作を行った目的は、二十三年六月の詔が当初「雪二天地之痛酷一。報二君父之仇讎一」ための決起を促す檄と位置付けられていたことによるだろう。 それに応える行動として、紀男麻呂が将兵を引き連れて渡海し、新羅と戦った如く描き上げた。しかし、「檄」だったはずの六月の詔は最終段階で嘆きと諦めの詔に直されたから、この操作はあまり意味をなさなくなった。 それでも、倭は新羅に対して一応の反撃を試みたものとして、この形を残したようである。 |
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⇒ [19-21] 欽明天皇7 |