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2020.10.12(mon) [19-16] 欽明天皇16 ▼▲ |
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25目次 【十五年十二月】 《百濟遣下部杆率汶斯干奴上表》
新羅無道は、五年十一月に出てきた。 これは、百済方の基底に流れてきた感情である。 上表中で「奏」したと述べる中身『以斯羅無道~征伐斯羅』は、 直接的には、十四年八月の上表を指す。 《函山城》 函山城は、後段の「余昌謀伐新羅~」の考察中に出てくる「管山城」と、 同一視されている。古訓では、「函」はカム〔=かん〕と音読みされている。 後半で出てくる久陀牟羅が本来クダムレだったとすれば「管山」となり、管は音読みでカンである。 ただ、クダは和語だから※、 百済語でも管を意味する語がクダだったかどうかは分からない。 ※…〈時代別上代〉は、角笛としてこの語を見出しているが、本来は筒を意味する「管」だと見ている。 それでも、「熊津」はクマナリに由来するから、熊は百済語でもクマだったようだ。クダも同じことかも知れない。 久陀牟羅=管山=函山として、前後段を同一の戦争の二つの局面とすれば、話の流れがよくなるのは確かである。 《在安羅諸倭臣》 この「在安羅諸倭臣」こそが、書紀が「任那日本府」に直す前の形だと考えられる。「安羅日本府」という形もあった。 この上表における「斯羅」が新羅、「弥移居」が官家であることは明らかで、古記録の表現に見える。 これは、内臣が救軍を率いて現地で活動したことが、決してフィクションでない証拠を示すためか。 もちろん、巧妙に古記録を装った可能性も皆無ではないが、概ねこの形のものがあったと見るべきであろう。 書紀は「倭」を「日本」に悉く直すので、ここで「倭」が残されたのは例外的である。原文執筆者の意図があるかも知れない。 「任那諸国旱岐」が古文献からそうなっていたかどうかは微妙である。元は「加羅旱岐等」かも知れないが、 一方で、倭国向けの文書においては倭に歩み寄って「任那」を使っていた可能性もある (〈欽明〉四年まとめ)。 《酉時》 「酉時」は十二支による時刻の名称で、ここでは百済の文献を引用した中にある。 それでは書紀の当時の日本国内では、使われていたのであろうか。まず時刻を定める装置「漏剋」を見る。 〈斉明紀-六年〔660〕五月〉「辛丑朔戊申」、「皇太子初造二漏剋一。使二民知一レ。」 〔八日。皇太子初めて漏剋を造る。民をして時を知らさしむ〕。 〈天智紀-十年〔671〕四月〉「丁卯朔辛卯。置二漏剋於新台一始打候時動二鍾鼓一。始用二漏剋一。此漏剋者天皇為二皇太子一時始親所二製造一也」 〔二十五日。漏剋を新たな台(うてな)に置き、始めて候(うかがひし)時を打ち鍾(かね)鼓(つつみ)を動かす。始めて漏剋を用ゐる。此の漏剋は天皇の皇太子に為(な)りし時に始めて親(みづか)ら)製造(つく)りしものなり〕 天智天皇は、六年に「遷二-都于近江一」とあるので、天智六年に漏剋を設置した場所は、近江の大津京となる。 明日香村で発見された漏剋は斉明六年の記述に対応すると見られる。天智六年のものは更に精緻で、鍾鼓を自動的に鳴らす仕組みがあったらしい。 十二支による時制は子=午前0時を起点として一日を十二等分して、丑=午前2時、午=正午などと表す。 基本的に太陽の方位と時刻の呼び名は一致するものとなっている。 〔ただし、室町~江戸には日の出=卯、日没=酉が基準となり、春分・秋分を以外の日にはずれが生じた〕 中国においては、『史記』〔前109~前91;司馬遷〕-「歴書」に、 「正北:冬至加子時。正西:加酉時。正南:加午時。正東:加卯時。」が見られる 〔「真北は、冬至かつ子の時、真西は〔冬至〕かつ酉の時、…〔に太陽がある位置〕」の意か〕。 日付の表現には十干十二支が「春秋左伝」〔戦国〕に見られるから、 時刻の十二支表現も、戦国時代まで遡るか。 中国の文献や暦法が欽明朝に百済経由で伝わっていたのは確実だから、書紀の頃には「酉時」の正確な意味が、学者や陰陽寮には理解されていたと思われる。 ただ、古訓で「ゆふべ」とするのは、平安時代に「とりのとき」は一般には馴染みのない言い方だったからか。 あるいは、情緒的な表現を好んだが故に、敢てぼかしたとも考えられる。 《単使》 古訓「ひとへつかひ」は"単使"を分解した直訳であろう。 〈時代別上代〉を見ると、「ひとへ」はもともと「ひとつに重ねる」意で、布や山並みなどに用いられる。 使者は正使・副使の複数を派遣するのが通例であるが、ここでは急使として一人を派遣したという意味である。 つまり「単使」は何も重ねず単純に人数だから、「ひとりのつかひ」が適切であろう。 《毾㲪》
《民》
「民」のここでの意味は、「所将来民」は筑紫から連れてきた人民、 また「所獲城民」は百済が捕えた生口である。 オホミタカラは、朝廷と人民との関係性に拠る語であるから、これらの"民"とは状況が異なる。 ましてや、ここは百済が作成した文書だから、他所の国の人民を「大御宝」などと言うのは差し出がましいのである。 (万)0050「散和久御民毛 さわ〔騒〕くみたみも」のように、タミはれっきとした上代語だから、こちらを用いるべきであろう。 《別遣軍士万人助任那》 「別遣軍士万人助任那」の前に書かれていたことは、 内臣の派遣による戦果の報告と感謝、予想される高句麗の参戦に備えての増派の要請である。 後に書かれたことは、取り敢えずお礼として送る品のリストである。 この文脈において、「別遣軍士万人助任那」 〔私どもは軍士一万人を派遣して任那を助けましたことも申し添えます〕は不自然である。これを取り除けば文はよく通る。 この記述には具体性もない。 前段はこれとは対照的に、「函山城」という場所や、人物名「物部莫奇委沙奇」、戦術「能射二火箭一」が書かれ、具体的である。 だから「別遣軍士万人助任那」の一節は、書紀が挿入したものであろう。 そもそも任那に自力で一万人を送る力があるのなら、倭に援軍を求める必要はない。 結局、書紀は百済が倭に遜り貢献する姿を入れかっただけである。 同様に、「又助二任那一」も挿入であろう。 となると、「任那諸国旱岐等」の「任那」もやはり怪しい。 《十二月九日》 上表で、有至臣(内臣)が「六月に」到着したとするところは、十五年の「五月…〔三日〕内臣、率二舟師一詣二于百済一」と噛み合っている。 そして、百済の「東方領物部莫奇武連」が函山城への攻撃を開始し、 そこに有至臣の軍が加わり、配下の「筑斯物部莫奇委沙奇」らの火矢攻撃によって「焚城抜之」させたと読み取れる。 六月に到着していたのに、その攻撃日が十二月九日では遅すぎる印象を受ける。 〈三国史記〉では、聖王が七月に殺されたことを考えると、 実際の時系列は「六月に内臣到着→函城攻撃(緒戦の勝利)→七月に聖王殺害」とするのが自然のように思われる。 よって、「十二月九日」は、後から紛れ込んだものかも知れない。 《別奏》 上表の本文は成果を報告し、感謝の意を伝える儀礼的なものである。 真意は、むしろ「別奏」の方にあると見られる。 その内容は要するに「相手が新羅だけなら持ちこたえられるが、高句麗が参戦すれば戦力が不足するから」と理由付けしながら、 倭兵の増派を求めるわけである。倭が医博士易博士暦博士等の提供を求めたとき(十四年六月)もそうであったが、 本当の要求は「別奏・別勅」として添える。想像であるが、王や天皇と対面したときは本文のみを読み上げ、 別奏は臣下を通して伝える形を取ったのではないだろうか。 《大意》 〔十五年〕十二月、 百済は、下部杆率(かほうかんそつ)汶斯干奴(もんしかんぬ)を派遣して、 上表しました。曰く。 「百済王、臣たる明(めい)は、 安羅にいる倭の諸臣ら、 任那の諸国の旱岐(かんき)らとともに 『斯羅〔=新羅〕は無道で、天皇(すめらみこと)に畏(かしこ)まらず、 狛(こま)と同心に、海北の弥移居(みやけ)を残滅しようとしています。 臣らは、遣わされた有至臣(うちのおみ)らと共に議り、 軍士を願い望み、斯羅を征伐したいと存じます。』と奏上しました。 すると、天皇は有至臣を遣わし、軍を率いて六月に到着されました。 私どもは、深く歓喜を覚えました。 十二月九日を以って、斯羅を攻める軍を送りました。 臣は、東方の領である物部莫奇武連(もののべのまきむれん)先ず派遣し、 その方面の軍士を率いて、函山城(かんざんじょう)を攻めました。 有至臣(うちのおみ)が率いてきた民、筑斯〔筑紫〕の物部莫奇委沙奇(もののべのまくきさき)を中心に、 よく火矢を射ました。 天皇(すめらみこと)の威霊(みたまのふゆ)を蒙り、十ニ月九日の酉の時〔午後6時ごろ〕を以って、城(さし)を焼いて撃ちぬきました。 よって、単使を早船で遣わして奏聞いたします。」 別に奏上しました。 「もし、ただ斯羅だけなら、 有至臣(うちのおみ)に率いられた軍士で、また足りるでしょう。 今は、狛(こま)と斯羅が同心戮力〔=心をともに力を合わす〕しているので、成功は困難でありましょう。 伏して願はくば、速やかに竹斯嶋〔=筑紫島〕に使者を遣わして、諸国の軍士を提供させ、 来て臣の国を助けていただければ、また任那を助けていただければ、事は成るでしょう。」 また、奏上しました。 「臣は、別に軍士一万人を派遣して任那を助けましたことを、併せて報告いたします。 今、ことを取り急ぎ、単船を派遣して奏上します。 限られたものですが、よい錦(にしき)二疋(ひつ)、毾㲪(おりかも)〔毛氈〕一領(りょう)〔=一揃え〕、斧三百口(くち)と、 捕獲した城民、男二人女五人を献上いたします。 これは取るに足らぬものにございますので、追って追加分をお持ちします。悚懼(しょうろく)〔=恐れながら;上表の結語〕。」 【十五年十二月(二)】 《餘昌謀伐新羅》
「余昌謀伐新羅」以下の後段は、前段とは一応別の話である。通常は「是年」などを挟んで区切りとするが、 ここでは区切りがない。 《函山》の項で考察したように、前後段を同一の戦争におけるそれぞれの局面だとすれば、そのために段落を区切らなかったのかも知れない。 《三国史記》 『三国史記』には、百済本紀-聖王三十二年〔甲戌=欽明十五年;554〕に次のように述べる。
一例として、「百度百科」には、 「聖王在位時、曽一度与二新羅一交好。但553年新羅攻二-占百済的東北地区一、設二-立新州一以統二-轄之一。従レ此以後,百済与新羅的関係開二-始悪化一。聖王二於次年一親自征二-討新羅一、在二狗川(今忠清北道沃川郡)中一新羅兵的埋伏、被レ乱兵殺死。」 〔聖王在位の時、かつて一度新羅と交友す。但し553年に新羅が百済の東北地区を攻撃占有して新州を設立す。これより以後、百済と新羅の関係は悪化を開始す。聖王は次の年にみずから新羅を征討し、狗川(今の忠清北道沃川郡)の中にて、新羅兵が埋伏して、乱兵を被むり殺されき。〕とある。 その内容は三国史記の要約で、本サイトでも「欽明紀18」《当時の百済-新羅関係の推移》の項で見た。
聖王死節地を含む古戦場は、また「管山城」(관산성)とも呼ばれている。 《管山城の戦い》 「聖王死節地」には「百済国二十六代聖王遺跡碑」が建てられている。 裏側を撮った写真を見ると、碑文の日付に2010年とあり、比較的最近になってから建てられたものらしい。 「wikipedia韓国版-관산성_전투〔管山城の戦い〕」には、 「管山城の戦いは、554年に新羅と百済管山城(現忠北沃川)で戦い、新羅軍は百済軍を全滅させ、百済聖王を滅ぼした戦いである。」 (관산성 전투는 554년 신라와 백제가 관산성(管山城,지금의 충북 옥천)에서 싸워 신라군이 백제군을 전멸시키고 백제 성왕을 없앤 전투이다.) とあるから、聖王死節地の一帯が管山城であったというのは、韓国における共通認識になっているようである。 管山城の戦いを論じたウェブサイトのひとつに、 「Tayler's Story」の 「7.管山城の戦いの再編」がある。 その論考は歴史学的というよりは文学的であるが、やはり沃川郡の「聖王遺跡碑」を含む地域が、管山城の戦地であることを前提として論じられている。 興味深いのは、その著者が「日本書紀は…百済王の死を私たちの歴史より詳細に扱っている」(意訳;以下も)と述べているところである。 これに関して著者は、「日本の本の内容を『全く信用できない』とか『根拠のないこと』というのは難しい。」 その理由として、書紀の記述には倭に亡命した百済人が関わったことを示唆する。 曰く。「日本の書が編集されたときには、百済はすでに滅び、 百済の支配層は日本の新しいエリートを形成し、日本の歴史書を編纂する過程で百済の歴史を共に記録した」 よって、「日本の書は新羅に対する百済の感情を完全に統合し、したがって新羅についての記述は常に否定的である。」と述べ、 書紀の「餘昌謀伐新羅~名此庁曰都堂」の部分を全部紹介している。 この書紀の記述は「wikipedia韓国版-성왕(백제)〔聖王〕」〔前出〕も取り上げていて、 三国史記と比較して論考している。 意訳すると、"三国史記の「親帥二歩騎五十一」は認め難く、 管山城の戦いの後、聖王は戦後の事後処理のために親書を以って管山城に向かう途中で新羅に待ち伏せされて死亡したもので、 むしろ書紀の記録の方が事実に近い部分がある"と述べる。 《百済文書》 「管山城の戦いの再編」は、渡来した百済支配層の考えが書記に反映されたと見る。 実際、百済が亡びた時に王族は倭に亡命して「百済王氏」を形成した (第141回)。 王族が倭に逃れたときに百済の古文献が大量に持ち込まれたと考えられ、〈欽明天皇紀〉で数多く引用された百済側の文書も、それかと思われる。 百済を倭の宮家の国と表現したり、天皇の恩頼に感謝する部分は、 日本書紀の編者による潤色だと見てきた。 しかしそのスタッフには百済出身者が含まれるわけで、彼らの方から朝廷に阿て加筆したことも考えられる。 いわば、進んで同化することにより、倭国内の自身の地位を高めようとするわけである。 《大意》 余昌(よしょう)は、新羅を伐とうと謀りました。 長老たちは諫めて 「天は未だ与(あずか)らず〔=未だ機は熟さず〕、禍の及ぶことを恐れます。」と言いましたが、 余昌は 「長老たち、何を怯えるか。 私は大国に事(つか)えているからには、何を恐れることがあろう。」と言い、 遂に新羅国に入り、久陀牟羅(くたむら)に要塞を築きました。 父である明王(めいおう)は、 余昌が長く行軍に苦しみ、久しく睡眠や食事ができずにいることを憂慮しました。 父は愛しむことを多く欠き、子は孝を果たすことが希にしかできなかったことを思い、 自ら行って迎え入れて慰労しようとしました。 新羅は、明王が親(みづか)ら来たと聞き、 悉く国中の兵を興して、道を遮断して撃ち破りました。 この時、新羅は、佐知村(さちすき)の馬飼の賤民、苦都(こつ)に 【別名谷智(こくち)】 「苦都は賤民で、明王は名主である。 今、賤民に名主を殺させよう。 冀(こいねが)わくば後世に伝え、人々の口に忘れられることがないように。」と言いました。 ほどなくして、 苦都は、明王を獲え、再拝の礼をもって 「願わくば、王の御首をお斬りしたいと存じます。」と申し上げました。 明王は答えて 「王の首に、賤民の手を受けることは不合理である。」と仰りました。 苦都は、 「我が国の法によれば、盟約に違背すれば、 国王といえども、賤民の手を受けるべきです。」と申し上げました。 【ある出典によれば、明王は胡坐(あぐら)に腰を下ろし、 自ら佩刀を解いて谷知に授けて、斬らせたという。】 明王は天を仰ぎ、大きなためいきをついて泣き、許諾して仰るに 「寡人〔=私〕は、日頃から常に骨髄に刃が入ることは痛いと思っていた。 願はくば、計っていやしくも生かすことのないように〔=斬り損なって生きたままにしないように正確に刃を当てよ〕」と仰りました。 こうして首を伸ばして斬られました。 苦都は、首を斬り殺して、穴を掘って埋めました 【ある出典によれば、 新羅は、明王の頭の骨をそこに埋めてしばらく留め、 礼をもって残りの骨を百済に送った。 今は、新羅王が明王の骨を北の政庁の階段の下に埋め、 この政庁の名を都堂(つどう)という。】。 余昌は、遂に包囲されて、出ようにも出られなくなりました。 士卒はひどく恐れ、なす術を知りませんでした。 そこに有能な弓の射手筑紫の国造(くにのみやつこ)がいて、進み出て弓を引き、 場所を定めて待ち構え、新羅の騎卒のうち最も勇壮な者を射落としました。 その放てる矢の鋭さは、 乗る鞍の前後の鞍橋(くらぢ、=くらほね)から身に付けた鎧の首元まで及び、まとめて貫通させました。 また続けて矢を放つこと雨の如し、ますます励み怠らず、包囲軍を射て却(しりぞ)かせました。 その故に、余昌と諸将たちは間道を通って逃げ帰ることができました。 餘昌は、国造が包囲軍を射て退却させたことを称讃し、尊んで鞍橋君の名を給わりました 【鞍橋はクラヂと訓みます】。 そのとき、新羅の将等(ら)は具(つぶさ)に百済の疲れ果てたことを知り、遂に余すところなく滅ぼそうと謀りました。 しかし、将の一人が言うには、 「それはよくない。日本(やまと)の天皇(すめらみこと)は、任那の事によりしばしば我が国を責めた。 況(いわん)やまた百済の官家(みやけ)を滅ぼそうと謀れば、必ずや後に憂いを招くだろう。」と言い、 故に追撃を中止しました。 まとめ 十二月の上表は、古文書の表現のまま書き換えずに載せた体裁になっている。 欽明紀が、これを含めて百済側の古文書を大量に用いたことは明らかである。 その文書群は、百済が亡びた時に倭に逃れてきた王族によって持ち込まれた可能性がある。 百済の王族が持ってきた文書は、 その原初の形としては、百済を上に見て進んだ文化を惜しげもなく与え、引き換えに倭から兵を得て戦力を増強して新羅と対抗しようとする政策が見える。 しかし、書紀の材料として用いる段階では、あたかも倭が上位に立つが如き形に描き直すのである。 実は、帰化した百済の史人自身が積極的にその修正作業にあたったようである。 既に、倭の中枢近くの一氏族たらんとする自覚がたっぷりである。 これまでは、百済王氏が書紀に果たした役割をあまり意識することはなかったが、 それを意識させるきっかけになったのは、上で引用した韓国のサイトが示した日本書紀への見方であった。 これらの文書は、これまでもしばしば見てきたように、文脈を注意深く追っていけば、後から修正・付加した部分を容易に判別することができる。 そこに、先祖を百済出身とする人の感覚を想像して加えれば、修正したときの心理をよりリアルに捉えることができよう。 |
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2020.12.20(sun) [19-17] 欽明天皇17 ▼▲ |
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26目次 【十六年二月】 《百濟王子餘昌遣王子惠奏》
「訊」の代表的な使い方は、法廷における「訊問」である。 〈汉典〉で「訊」をみると、[詳細解釈]に「詰問」、「訊定(審問判決)」などとあり、厳しく問いただす意味が中心である。 ここでは、前半は一応弔意の言葉となっているが、結局は禍を咎めて国を鎮めるためにいかなる術(すべ)を用いるかと、非難する口調で問い詰めている。 やはり訊問である。 《危甚累卵》 雄略八年に描かれた「累卵の危機」は、 新羅が高麗軍に攻撃されて窮地に陥ったときのものである。 そもそも、このときは新羅を助けたのであって、百済ではない。 かと言って、〈雄略紀〉に「累卵」の話はここが唯一である。 これは書紀の草稿執筆者の錯誤で、新羅と百済を取り違えたのではないだろうか。 さて、〈雄略紀〉では、新羅王が任那に救援を求め、膳臣斑鳩などが駆けつけて高麗軍を撃退した。 この話自体、『魏書』武帝紀の記述を利用し、実体不明の「任那王」が登場するなど、潤色が著しい。 《蘇我臣》 「蘇我臣」は、蘇我稲目大臣以外には考えられない。 そして、聖明王が殺害されたことの報告に訪れた恵王子に対して、 「それは、倭の神を棄てたからだ」という趣旨のことを述べる。 これまで仏教化をしきりに勧めてきた百済に対して、それ見たことかと言っているようにも見える。 ところが、そもそも蘇我稲目は唯一人の仏教受容派として踏ん張っていた。 だが多勢に無勢を悟って、遂に宗旨替えしたのであろうか。 だが、馬子は父の遺志を継いで苦労の末に仏法を建てたとするのが、書紀の基本的な筋書きである。 ある卿が百済王子に弔いの言葉を贈った記録自体は存在したが、 その卿に稲目大連を当てはめたのは、書紀であろう。前項で取り上げた「累卵」の部分もやはり書紀による創作に近いと思われる。 《眇然昇遐》 『芸文類聚』〔唐624〕巻十三/帝王部三/晋元帝「晋郭璞元皇帝哀策文」に類似語句がある。 利用されたと考えられる箇所は次の通り。
〈中国哲学書電子化計画〉で検索した範囲では、この哀策文は『芸文類聚』以外には見えない。 出典が『芸文類聚』だったとすれば、〈欽明十六年〉は555年だから、十六年二月条の多くの部分が書紀による潤色であろう。 結局、潤色を取り除けば、残るのは「乙亥年二月に王子恵が来倭し、出迎えた卿が哀悼の言葉を述べた」のみであろう。 《聖王妙達天道地理》 「聖王妙達天道地理」から「誰不傷悼」までは、故人への哀悼文であるが、 「当復何咎致茲禍也」から一転して訊問口調になり、構成は不自然である。 思うに、二月条は、書紀の歴史分野担当以外の執筆者によって加えられたのではないだろうか。 その人物は神道の復興には熱心あるが、歴史分野担当者が執筆した箇所の読み方は杜撰である。 そもそも「大臣」を「臣」、「卿」と書いてしまうことからしていい加減である。 七月条では、「蘇我大臣稲目宿祢」と、正規の呼称にきちんと戻っている。 《天地割判》 〈神代記上〉冒頭に、「古。天地未レ剖。陰陽不レ分。渾沌如二鶏子一」。 《草木言語》 〈神代紀下〉に「有二草木一咸能言」。 高皇産霊神が瓊瓊杵尊を葦原中国の主にしようとしたが、地上がまだ騒がしかった様子を表す。 《造立国家之神》 〈釈紀-述義〉は「造二-立国家一之神:兼方案之大己貴神也」とする。 大己貴神(大国主神)は、『出雲国風土記』では確かに「所造国神大穴持命」〔国を作った神、大穴持命〕であるが、 大己貴神は天孫を下そうとする天つ神に抵抗する国つ神であった。 ここでは「造立国家之神」が皇室の祖神を意味することは明らかだから、大己貴神とするのは誤りである。 《大意》 十六年二月、 百済の王子余昌(よしょう)は、王子恵(けい)を派遣して 【王子恵は、威徳王(いとくおう)の弟である】、 奏上して 「聖明王(せいめいおう)は、賊のために殺されました。」と申し上げました 【十五年、新羅のために殺され、 よって、今これを奏上した。】。 天皇(すめらみこと)はお聞きになって傷心し、使者を遣わして津〔難波津であろう〕に迎えて慰問させました。 そのとき、許勢臣(こせのおみ)王子が、恵に 「しばらくここに留まるか、はたまた本国に向かうか。」と聞くと、 恵は、 「天皇の徳に頼り基づき、願わくば考王〔聖王〕の仇を報いたく存じます。 もし憐憫をたれ兵革(つはもの)を多く賜るなら、恥を濯ぎ、仇に報いることが、私の願いなのです。 私が行くも留まるも、敢て命に従わないことがありましょうか。」と申し上げました。 暫しの時が過ぎ、蘇我臣(まえつきみ)は訊問しました。 「聖王は、天の道も地の理(ことわり)も妙に悟り、 御名は四方八方(よもやも)に及んだ。 心に思う。 久しく安寧を保ち、 海の西の蕃国の統領として、 千年万歳、 天皇(すめらみこと)にお仕えしたこと、 あに一朝一夕の計らいであろうか。 眇然と〔=はるか〕昇遐(しょうか)〔=昇天〕し、 水と共に、帰ることはなく、 即ち玄室にお休みになられた。 どれほど痛みは酷いか。 どれほど悲しみは哀れか。 およそ心を含んである者なら、 誰が悼まないことがあろうか。 正にまた、この禍を、いかに咎めを至らせるか。 今にまた、国の鎮(しずめ)に、いかなる術(すべ)を用いるか。」 恵は答えました。 「臣(しん)は、禀性(りんせい)愚蒙(ぐもう)〔性質暗愚〕にて、大計を知りません。 況(いわん)や、禍いも幸せも運命づける国家の存亡をや。」 蘇我(そが)卿(きょう)は言いました。 「昔、天皇(すめらみこと)が大泊瀬(おほはつせ)にいらっしゃった御世〔雄略〕、 おまえの国は、高麗によって攻められ、甚だしい記紀にあり累卵の如くであった。 そのとき、天皇は神祇省の伯(かみ)に命じ、策を神祇より謹んで承った。 神官は、神の御託宣によって答えるに、 『謹んで申し上げます。建国の神が行って救い、将に敵を亡ぼそうとしておられます。 主は必ず国家を静謐させるでしょう。人や物もまた安泰でしょう。』と申した。 これによって、神に行って救ってくださることを請(ねが)い、よって社稷(しゃしょく)〔=国家〕は安寧を得ました。 元より国を建てられた神は、 天地が割れた世、 草木が言葉を語っていた時、 天から降りておいでになり、国家を造り建てた神である。 この頃聞くに、お前の国はその神を祀ることをやめた。 まさに今、先日の過ちを悛悔(しゅんかい)し〔悔い改め〕、神宮を脩理して神霊を斎(いわい)祀(まつ)れば、 国は昌盛しよう。お前は、まさに忘れてはならぬ。」 27目次 【十六年七月~八月】 《于吉備五郡置白猪屯倉》
「教」は、好太王碑に見られる(倭の五王【好太王碑】)。 例えば、「教二-遣歩騎五万一…倭賊退」は、 「詔して歩騎五万を遣わした」との意味に読める。同碑文に「教」は全部で7つあるが、何れも同様の使い方と見られる。 好太王碑文だけでは判断材料として不足だが、詔勅を「教」と表現するのは朝鮮半島の習慣である可能性はある。 そこで三国史記を見ると、以外のもわずか一例だけが見える。 〈三国史記-新羅本紀〉には、新徳王四年「下教。以真骨在位者、執牙笏。」〔真骨〔新羅の階位〕に在位する者は、牙笏を用いよ〕。 〈三国史記〉の場合、「詔」があるにはあるが、いずれも中国皇帝を主語としているのを見ると、諸侯王の立場で詔勅を発したと表現することは遠慮したようである。 「云々」はまだ続きがあるということだからこの段は引用であり、本サイトでいう「百済文書」〔百済王氏が持ち込んだ文書群〕をそのまま用いていて、 そこでは「教」即ち「詔」であったのではないかと考えられる。 《且奉教也》 「且」には、「まさに~せんとす」の意味もある〔「将」と同じ〕。 ここではその後で「要須道理分明応教」〔必ず道理分明に教〔=詔〕すべきである〕と言っている。 つまり、「ご自分が出家すると詔されるようですが、 ご自分でなく、国民に出家せよという詔に改めてください。」 というのだから、「且」はまさに「まさに~せんとす」である。 《豈至於此》 「あに」は〈時代別上代〉によれば①反語、②否定の強調だが、ここではどちらにも当てはまらない。 〈漢辞海〉によれば漢字の「豈」には反語のほか、推量・願望もある。 ここでは「よもや」の意で、「長老の言うことを聞いていれば、よもやこうなることはなかった」という。 漢字の影響により、和語にそれまではなかった新しい言い回しができることはしばしば見られるから、アニの拡張として可能かも知れない。 《国民》 古訓では、「民」に対しては、常に反射的にオホムタカラをあてる。 しかし、天皇が人民を愛しむ特別の関係性を表す語である「おほみたから」を、 百済における王とその人民との関係に用いるのは、本来の成り立ちを考えた用法ではない。 《為度百人多造幡蓋》 即位した威徳王は、百人を得度させ、幡蓋を多数作り種々の功徳を云々と述べる。 このとき、百済国は更なる仏教化に舵を切ったわけである。 百済における仏教は単なる宗教に留まらず、その周辺に寺院建築から医学を始めとする思想や科学、美術、音楽などの総合力を伴っていたとも思われる。 それは、倭が百済に僧・寺工などとともに、諸分野の博士の派遣を求めたことに現れている。 だから、仏教の振興は、国を挙げてお経を唱えてひたすら祈ろうという狭いものでは決してなく、科学・芸術を含めて国力全体を高めることと一体であろう。 さて、二月条では稲目が王子恵に百済の神道化を促した。この話が本当だったとすれば、百済は倭の朝廷の希望期待を真っ向から裏切ったのである。 しかし、そもそも欽明天皇は百済の先進技術や学問を積極的に取り入れようとしており、百済に神道を教化してやることは倭の基本姿勢ではなかっただろう。 本当の歴史は、やはり恵の来訪を受け難波津で接待した程度のことではないだろうか。 《大意》 七月四日、 蘇我大臣(そがのおほまへつきみ)稲目宿祢(いなめのすくね)は、 穂積(ほづみ)の磐弓(いわゆみ)の臣(まえつきみ)らを遣わして、 吉備(きび)の五郡に、 白猪(しらい)の屯倉(みやけ)を置きました。 八月、 百済の余昌は、諸臣らに 「小生が今願うことは、 考王〔亡き父王〕に奉仕するための、出家修道である。」と言いました。 諸臣諸族は、 「今、君王は、出家して修道を得ようとされ、今まさに、勅を承ろうとしております。 ああ、前には考慮が定まらず〔上手な策を立てられず〕、後に大患〔無念なこと〕となったのは、誰の過ちでしょうか。 もともと百済国は、高麗(こま)新羅が争って滅ぼそうとしていた所、 はじめに開国してからこの年に到り、 今、この国の宗廟を将(まさ)にどこかの国に授けようと〔=属国になろうと〕しております。 必ず、道理を明快にして、勅なさるべきです。 もし長老の言葉をよく用いていれば、豈(あに)ここに至ったでしょうか。 先の過ちを悔い改めようと願われるのであれば、出家しようなどと悩んではなりません。 もし願いを果たそうとされるなら、必ず〔あなた自身ではなく〕国民に得度させるべきです。」といへり。 余昌は 「承諾する。」と答え、 王の位につき、臣下に諮りました。 臣下は、遂に合議を催して、百人を得度させ、 多くの幡蓋作り、種々の功徳を、云々。 【白猪屯倉】 《岡山県史》
〈岡山県史〉は、その「大庭」を地名として負う「大庭・真嶋二郡を中心に英多・久米・勝田郡の地は製鉄地域であったから、 これらが「吉備五郡」と意識されたのではないか」という。 同書はさらに、「つまり、白猪屯倉は、稲穀に加えて鉄の収納も目的とした屯倉で、軍事・交通上の拠点であった」と見做している。 同書はまた、白猪屯倉を「副田令として総括することになった白猪(史)膽津」(欽明三十年)は、 木簡に「備前国児島郡三家郷」、「三家郷白猪部少国」が存在することから、 「児嶋屯倉の役所(御宅)に隣接または近辺に居り、従者や部民を差配しながら仕事に当たっていた〔中略〕一端を示すもの」であろうと述べる。 すなわち、児嶋屯倉にいた白猪胆津が、美作国の屯倉もまとめて仕切っていたのだろうという見方を示す。 《美作国》 美作国は、奈良時代の始めに備前国を分割して成立した。 ●〈続紀-和銅六年〉〔713〕四月:乙未〔三日〕 「割二備前国一英多。勝田。苫田。久米。大庭。真嶋六郡。始置二美作国一。」とある。 その後、〈倭名類聚抄〉では苫田郡が分割され、{苫東郡・苫西郡}となっている。 〈岡山県史〉は、美作国からこの苫田郡を除いた五郡を「吉備五郡」としているが、書紀の時点では六郡のうち二郡がまだ分割前で、「五郡=後の美作国全体」だったようにも思える。 「使二于吉備五郡一置二白猪屯倉一」のみを見ると、五郡全部が屯倉だったように見えるのだが、 〈安閑二年〉の二十六屯倉を見ると、屯倉の規模はは一郡に満たない。 二十六屯倉については、その規模は数十町程度が標準で多くは基幹的な街道沿いにあり、 「二十六の屯倉には宰 これらのうち、特に火国(肥後)と阿波国の「春日部屯倉」については面積も広く、辺境で隼人などに睨みを効かせる役割があったと考えられる。 これら二十六屯倉と比較して、白猪屯倉にはどのような特徴があったのだろうか。 まず、街道の接続を見よう。『事典 日本古代の道と駅』〔吉川良;吉川弘文館〕によると、 山陽道が播磨国餝磨郡で分岐した「美作支路」が、美作国府〔苫田郡〕まで繋がっている。 その役割として、〈岡山県史〉のいう「鉄の収納」は大いに考えられる(次項)。 同書はまた、白猪・児島の屯倉を「吉備の国造に委ねることをせず、ヤマト王国の朝廷はいわば直轄管理のもとにおいた」と見る。 美作国の久米郡、およびその中の〈倭名類聚抄〉{久米郷・弓削郷・錦織郷}の地名は、 中央政権と直結する部民の配置を示すとする論も見る。 《美作国からの鉄の産出》 美作国の地域が鉄の産出地であったことが、続紀に見える。 ●〈続紀-神亀五年〉〔728〕四月: 「○辛已〔十五〕。太政官奏曰。 「美作国言。『部内大庭真嶋二郡。一年之内所レ輸庸米八百六十余斛。山川峻遠運輸大難。人馬並疲損費極多。望請。輸米之重換二綿鉄之軽一。〔中略〕』奏」可之。」 〔大庭、真嶋二郡は、一年間の庸米八百六十余斛。山川は峻遠、運輸は大難で、人馬ともに疲れ損費は極めて多い。そこで願う。重い輸米を軽い綿、鉄に換えていただきたい。〕 なお、ここでいう「綿」は、絹である〔綿花の意味の木綿の鎌倉時代以後(木綿庵)〕。 鉄が米よりも軽いというのは、少量で大量の米と同じ価値があるという意味である。 古墳時代の製鉄については、「大蔵 以下、現地案内板から抜粋する。
吉備地域全体では、「平城京出土の木簡から、奈良時代に、備前国・備中国・美作国は鉄を税として納めたことが明らか」で 「製鉄遺跡は約30遺跡、製鉄炉は100基以上」だが、集中しているのは総社地域だという (岡山県古代吉備文化財センター)。 前出〈続紀〉神亀五年の「大庭真嶋二郡」でも、製鉄が営まれていたのだろう。 《白猪屯倉の成り立ち》 蘇我稲目大臣は、吉備の氏族を牽制するために、中央政権は美作地域に楔を打ち込んだと見てよいであろう。 その楔とは、政権を支える氏族がそれぞれ派遣することで、それによってその居住地の地名が生まれたのであろう。 そして、それらを束ねる機構として、また土地で産出した鉄や米の集約地として白猪屯倉を設置したと考えられる。 その位置は久米郡の国府に直結する道があるところとするのが、合理的であろう。 ここで、白猪屯倉設立のための派遣が、 「遣二蘇我大臣稲目宿祢穂積磐弓臣等一」と 「使二于吉備五郡一」の二段構えになっていることの意味を、改めて考えてみる。すると、 ①遣…中央政権から臣を派遣する。 ②使…①で現地に赴いた蘇我稲目らが、美作地域の各郡に使者をつかわして鉄や米を集約するルートを理解させ、体制を作らせる。 ③置…集約地として屯倉を創設し、白猪をその管理者に任命する。その所在地は、国府の周辺、 あるいは白猪が改姓した「大庭」を負う大庭郡か。 なる筋書きが想定される。すると、白猪屯倉の規模は、やはり〈安閑二年〉二十六屯倉の標準(数町~数十町)であったかと思われる。 《屯倉の候補地》
そこで改めて地図で美作国全体を見ると、津山市西部の北の嶺に「妙見山」(613m)がある。 安閑二年〉で見たように「妙見がミヤケの訛りである」とする考えが、各地の屯倉比定地の傍証に見える。 その山頂付近には檜山神社があり、信仰の山であったことが伺われる。 その妙見山を南から眺める土地が宮部上 「宮部」は、〈姓氏家系大辞典〉によれば「宮部 ミヤベ:もと神社私有の部曲にて、職業部の一と見るべきか。」とはいうが、 屯倉で農作業に従事していた「ミヤケベ」がミヤべに転じたこともありそうに思える。 屯倉の他の手がかりとしては、方向が周辺と異なる条里があるが、宮部川沿いの耕作地に条里は見えずここでは意味をなさない。 想像であるが、古い条里は宮部川の氾濫によって失われたのかも知れない。 地図的条件を見れば、特に宮部下には屯倉を維持するための耕作地が確保され、またその位置も大蔵池南製鉄遺跡や大庭郡、真嶋郡で産出する鉄の集約地として都合がよいように思われる。 ただし、これは地名と地理的条件による候補地のひとつの提案であり、実際に存在した場所はまだまだ分からない。 いつかどこかに掘立柱の跡、鉄の破片を含む出土物が現れることを期待したい。 まとめ 白猪屯倉の件は極めて簡潔に書かれているが、かえって史実がうかがえる。 逆に王子恵に言って聞かせる蘇我卿の言葉は、字数が費やされている割には信憑性を欠く。 書紀には、この両極端の性格をもつ部分が共存している。 書紀における二面性はもう一組あり、それは仏教の振興に好意的な面と、神道の復興を促す面である。 どうも書紀の執筆陣には、それぞれの推進者が混在していたように思われる。 〈十六年〉二月は、明らかに後者の執筆者の手による。 〈欽明十六年〉には、これら二重の二面性が凝集していて興味深い。 |
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2020.12.30(wed) [19-18] 欽明天皇18 ▲ |
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28目次 【十七年】 《百濟王子惠請罷》
〈神武段〉に「神八井耳命者…火君…之祖也」(第101回)。 〈姓氏家系大辞典〉「火君:火国造家の氏姓にて、肥君と云ふに同じ。」 「筑紫火君:承和十五年〔848〕八月紀〔続日本後記〕に…大初位下筑紫火君貞雄等あり。」 《火中君》 原注の「火中君」については、〈姓氏家系大辞典〉の見出し語にヒナカ、ヒノナカ、ホナカ、ホノナカは載らない。 異本の「大中君」については、同辞典の見出し語に「大中」があるが「大中臣」の略とされる。 その大中臣については、「中臣が大字を賜」ったものとし、中臣清麻呂が「両度審神祇官に仕へ、供奉失あし。是を以って姓を大中臣朝臣と賜ふ」〔続紀神護景雲三年六月〕などの例を挙げる。 「大中君」の項はない。 もし"大中君"とするなら、連動して火君は大君となる。"大"(太、於保)は古代の大族であるが、"君"をつけた「大君」の項はない。 筑紫が時に火国や日向国まで含むことを考えれば、やはり"大"ではなく「筑紫火君」であろうが、結局全く見いだせない氏族となる。
「弥弖
韓国語版ウィキペディア(ko.wikipedia.org)によると、州柔城(주류성)〔チュリュソン〕は、周留城(주류성)、支羅城(지라성)〔チラソン〕とも呼ばれる。 周留城の位置は不明とされるが、さまざまな推定によれは泗沘と白村江の間に置くものが多い。 牟弖は百済の海岸沿いの津で、周留城よりは南であっただろうと思われる。
「津路」は海路であるが、島や海岸の津を辿ることによる言い方と見られる。 要害(ぬみ)は、当然壱岐、対馬が考えられる。百済の海岸も含むかも知れない。 それぞれに兵を配置して警備にあたらせたということであろう。 王子恵が訪れたのは倭の支援を取りつけるのが目的だから、当然新羅による襲撃に備える必要がある。 《備前児嶋屯倉》 『岡山県史』〔『岡山県史3巻』古代2〕によれば、 吉備児嶋屯倉は「その役所(御宅)があったのは、今の岡山県郡 〈景行紀〉の穴済の悪神の話は倭建命 ここで改めて〈安康紀〉備後国〔後の備中〕、婀娜国〔後の備後〕の七屯倉の配置を見ると、 これらは吉備への攻め口であろうと思われる。 すなわち、難波津からは七屯倉に海路によって到来し、笠岡湾から上陸した。 当時は、山陽古道の備前国の域内はまだ悪路だったと思われる。胆殖屯倉と胆年部屯倉のどちらかは、上陸点にあたる吉津村付近であっただろう。 この航路で問題になるのは、吉備穴海を通過するときに吉備の反朝廷勢力に挟まれることである。 朝廷にとっては、そこに楔を打ち込むことが至上命題であり、必然的に児嶋に屯倉が設けられたわけである。
地名身狭(むさ)については、〈延喜式-諸陵寮〉に{身狭桃花鳥坂上陵/宣化天皇}がある。 この名称から見て、「身狭」は、桃花鳥(つき)と重なり合うようである。 桃花鳥については、「築坂邑伝承地碑」が、大伴氏の邸宅の伝承地に立つ〈宣下天皇〉。 〈延喜式-神名帳〉には{大和国/高市郡/牟佐坐神社}がある。現在の「牟佐坐(むさにます)神社」(橿原市見瀬町)に比定されている (第108回)。 〈雄略-十四年〉では、身狭村主の青が呉国に遣わされている。 この身狭地域に二つの屯倉が置かれたというから、これらの屯倉の規模も数町~数十町(数百m~数km四方)程度であろう。 高市郡の小字に「宮毛」がある。『大和・紀伊寺院神社大事典』の「高市御県神社」〔式内社;比定社は橿原市四条町宮坪761〕の項に、同社がもともとあった場所は「明確ではないが、現曾我 《紀国海部屯倉》 『和歌山県史 原始・古代』〔和歌山県史編纂委員会;1994〕は、 「近世後期に編纂された『紀伊続風土記』以来、名草郡大宅 『日本歴史地名大系』和歌山県〔平凡社1983〕によると、 「「紀伊国名草郡大田郷戸主大宅直広麻呂直乙麻呂年十八」とみえ、郷名を冠する大宅直広麻呂が大田おおた郷の戸主であったことからして、大宅郷は大田郷の近辺」と考えられると述べる。 その大田郷は、太田村(現和歌山市太田)に比定されている。 また、同書は「名草郡衙は現和歌山市手平
いわく「和歌山市川辺は〔中略〕河辺屯倉の有力な候補地で」、 「(川辺遺跡の)溝の北側には方向を同じくする奈良時代の掘立柱建物が少なくとも8棟以上存在し」、 「交通の要衝ともいうべきここの地こそ名草郡衙にふさわしく、建物群は名草郡衙に関連するものと考えられる。」 「その名草郡衙の中心となるのは力侍神社が鎮座する一帯であろう」(冨加見泰彦)。 また、那賀郡衙については「紀伊国分寺から東2.5kmの位置にある那賀郡衙の可能性が高い淡島遺跡の南」(同)を南海道が通り、 紀伊国分寺の東方には大字田中馬場や小字「宮毛」があるという。なお、小字宮毛は田中馬場内にあることが確認できた。 川辺遺跡の様子から見て、名草郡の郡衙(郡家)は、海部屯倉ではなく河辺屯倉に置かれたと考えた方がよさそうである。 ここで話を海部屯倉に戻すと、郡家に発展することはなかったとしても、オホヤケがミヤケの別称であった可能性はある。 一般的に屯倉の直接的な証拠(建物跡など)はなかなか見えないのだが、時に条里の不整合がその痕跡ではないかと言われる(〈安閑二年〉《播磨国越部屯倉》など)。 そこで、試しに地形図を画像処理して大宅郷地域の道、農道を見ると(図右下)、杭ノ瀬と手平には条理が及んでいない。 その原因としては、①条里が形成された時期には河床などだったため手が付けられていない。②既に開発されて農地となっていたから改めて手がつけられることはなかった。の二通りが考えられる。 地質調査によって判別可能と思われるが、②だとすれば条里以前に屯倉が存在していたと考えられないこともない。 《名草郡》 名草郡については、『日本歴史体系』和歌山県〔平凡社1983〕によると、 『国造次第』〔紀家所蔵〕に見える「忍勝男」(名草郡を立てた人物)の冠位「大山上」により、名草郡の立郡は大化年間〔645~650〕と見られるという。 従って、海部屯倉を置いた頃は、地名はまだ海部だったのだろう。 紀国造家は、国造に起源をもち後に日前国懸の神官となって存続し、現当主は第82代にあたる。 この地の氏族について、実際には第108回で、 「紀伊国の祖として名草戸部、伊太祁曽三神、天道根命、木臣などが乱立する。」と述べたように、 いくつかの氏族の混合体と見られる。この点は、葛城氏と同様である〔第162回《葛城氏》〕。 しかし名草地域の氏族は、塊となって強固な宗教勢力を形成していたと考えられる。 当時の紀の川の流路から見れば、海部屯倉の推定地は川の東岸である。 その位置は、朝廷〔事実上は蘇我稲目〕が難波津から船団を送り込んで名草地域に進出する橋頭保と言えよう。 朝廷は、東は河辺屯倉・経湍屯倉から、西は海部屯倉から挟み込み、プレッシャーをかけたわけである。 名草地域の族のうち、朝廷の支配下に収まるのをよしとしない人々が、紀の川旧流路の西側に逃れて海部郡を形成したように思われる。 《因為屯倉之号》 原注では「韓人大身狭屯倉」、「高麗人小身狭屯倉」という名前について、 韓人や高麗人を田部にしたことによって名付けられた名と述べる。 これらの屯倉は、韓(ここでは百済)及び高句麗系住民を田部〔耕作に従事させる使用人〕として用いたに過ぎない。 これが百済人、高句麗人自身の領と読まれることを避けたかったと思われる。 これらの屯倉の性格は、移民の居住地を集約したものかも知れない。 畿内のど真ん中である高市郡に置かれた屯倉は、衛星地域の諸族に睨みを効かせるための屯倉とは自ずと性格が異なる。 ただ、渡来人を含む人民に網を被せて管理下に置くことと、 地方氏族の統制の強化はともに中央集権化であり、車の両輪と言えよう。 《大意》 十七年正月、 百済王子恵(けい)は、退出を要請しました。 そこで、兵仗良馬をとても多く賜りました。 また、幾度も随行の衆に賞禄があり、称賛の声が上がりました。 このとき、阿倍臣(あべのおみ)、 佐伯連(さへきのむらじ)、 播磨直(はりまのあたい)を遣わして、 筑紫国(つくしのくに)の水軍を率いて衛送して国に届けました。 別に筑紫の火君(ひのきみ)を遣わして 【百済本記には、 筑紫君の子、火中君(ひのなかのきみ)の弟とある】、 勇士千人を率いて弥弖(みて)に衛(まも)り送らせ 【弥弖は津の名】、 よって海路の要害の地を守らせました。 七月六日、 蘇我大臣稲目宿祢らを備前(きびのみちのくち)の児嶋郡(こじまのこおり)に遣わして、 屯倉(みやけ)を置き、 葛城(かつらき)の山田直(やまだのあたい)の瑞子(みずこ)を、田令(たづかい)にしました。 十月、 蘇我大臣稲目宿祢らを倭国(やまとのくに)の高市郡(たけちのこおり)に遣わして、 韓人(からひと)の大身狭屯倉(おほむさのみやけ) 【韓人と言うのは百済である】、 高麗人(こまひと)の小身狭屯倉(おむさのみやけ)を置きました。 紀国(きのくに)に海部屯倉(あまのみやけ)を置きました。 【ある出典にいう。 それぞれの場所において韓人を大身狭屯倉の田部(たべ)とし、 高麗人(こまひと)を小身狭屯倉の田部とした。 これ即ち、韓人と高麗人を田部としたことにより、 屯倉の名としたものである。】 29目次 【十八年~二十二年】 《新羅遣彌至己知奈末獻調賦》
『三国史記』新羅本紀 儒理尼師今九年〔壬子;292〕に、 諸官に十七等級を設けたことが載る。
《調賦使者国家之所貴重》 弥至己知奈末の言葉「調賦使者国家之所貴重~」は、まことに意味が分かりにくい。 最低限分かることは、 ●「王政之弊」は、王の政にある欠陥を主張している。 ●「未必不由此也」は二重否定の構文で、「未だ必ずしも此れに由(よ)らないことをしない」=「依然としてとしてこのやり方をしてしまうことが多い。」の意味である。 したがって、この段は王を批判する文章である。それでは、具体的に何を批判しているのだろうか。 特に、始めの部分の「貴重」、「軽賤」、「懸命」、「卑下」の関係が釈然としないのである。 そこで、肝を据えて文章を徹底的に分解してみる。
そこで、(B)「私議」も同じように王の私的な打算と読んでみよう。 すると、(A)「国家之所貴重」とは、国のためには、調賦使は尊敬される者を選ばねばならないという意味である。 つまり、(B)王は国政の大局ではなく個人の情実を優先するがために、選ばれた使者は蔑むべき人物である。 また、(C)=官僚の使人は人民の幸福のために命がけで働く人が選ばれるべきだが、 (D)=王が選ぶ人はいつも下劣な人物である。 これが「王政之弊」であり、「未必不由此也」〔此の選び方に由 最後の「願~」は通常「願わくば~」と申し出る文であるが、このようなあからさまな批判を、王に面と向かって言うわけがない。 従って、「願」の主語は「王」で、 「不レ可下以二卑賤一為レ上使」〔王は良家の子だけを選びたがるから、卑賤の者には能力があっても選ばれることはないだろう〕という。 これで、一応意味は通る。 なお、この読み方においては、「軽賤」と「卑下」は身分ではなく人柄や能力の劣る様をいう〔軽蔑される、卑下される〕。 次の「卑賤」もそう読みたいところだが、直前に「良家」があるので、これだけは家柄とせざるを得ない。 〈釈紀〉がこの長い部分にすべて訓点をつけるのは異例で、それだけ訓読に苦労があったのだと思わせる。 この訓読すら最初は意味不明であったが、(B)(D)の主語が王だと決めてからは理解ができ、その読み方でも矛盾のない文になっている。 訓読においては暗黙の主語が「王」であることを、敬体「~たまふ」によって示すことができる。 古訓においては、三韓の国の王には敬体を用いないが、登場人物の言葉の中において、関係性を表すための敬体はあってよいと思われる。 さて、この発言を載せた意図は何か。次に使者として送られた弥至己知、奴氐が好待遇を得られなかったと書くから、 「王はよく使者の人選を誤る」という実情を述べたのかも知れない。 「たまたま自分は、交渉術に優れるから倭で好待遇を受けた」ことを自慢する言葉ともとれる。 《舘舎》 舘舎(いわゆるムロツミ)があったという難波大郡は難波宮があったところで、後には草香江方面に陸地が広がり「東生郡」と呼ばれた (〈継体六年〉【難波館】)。 《穴門舘》 〈二十二年〉を見ると、穴門(長門国)にもムロツミがあったことが分かる。 奴氐が到着したときはまだ修造中だったが、自分のためと分かった上で、「誰の為に作っているのか」と聞いた。 「貴方様のためでございます」という答えを聞いて満足したかったからである。 しかし、逆に「西の国から訪れた無礼な使者のためでございます」とからかわれてしまい、 怒りは心頭に達したのであった。 《阿羅波斯山》 「阿羅波斯山」は、一般に安羅(あら)国の波斯山と読まれている。 近現代の感覚では国境を侵すのは絶対的な敵対行為であるが、当時は境界はゆるかったであろう。 百済側からもこの程度の行為は可能だったと思われる。 書紀は、新羅は、使者への礼遇から日本〔倭〕が新羅を攻撃する意図を読み取ったと描いている。 《大意》 十八年三月一日、 百済の王子余昌を継嗣として、 威徳王(いとくおう)としました。 二十一年九月、 新羅は、弥至己知奈末(みちこちなま)を遣わして、調賦〔貢物〕を献上しました。 饗食は通常通り進みましたが、奈末(なま)は喜び退出して申しました。 ――「調賦の使者は、 国家に貴重であれ。 けれども、私的に計って決めた者は軽賤される。 行李〔=司の使人〕は、 民に懸命であれ。 けれども、お選びになり用いられた者は卑下されている。 王の政の弊害は、未だ必ずしもこのやり方に依ることをやめようとしないところにある。 良家の子を指名して使者にしたいと願っておられるのだから、 卑賤の出身者を使者にされることはないであろう。」 二十二年、 新羅は、久礼叱(くれし)及伐干(きゅうばつかん)を遣わして、調賦を貢ごうとしました。 掌客司(まらひとのつかさ)〔=外国使節を接待する部署〕は、賓食や遇礼の数を、通常より減らしました。 及伐干は、怒って退出しました。 この年、 再度復奴氐(ぬて)大舎(だいしゃ)を遣わして、先日の調賦を献上しました。 難波の大郡(おおごおり)に、次々に諸(もろもろ)の蕃国の順序を定め、 掌客司(まらひとのつかさ)の額田部(ぬかたべ)の連(むらじ)、 葛城(かつらき)の直(あたい)らは、 百済の下に並べて誘導しました。 大舎は怒って帰りました。館舎(むろつみ)に入ることなく、 船に乗って戻り穴門(あなと)〔=長門〕に到着しました。 そのとき、穴門の館(むろつみ)は修繕中で、大舎は 「誰の客のために直しているのか。」と問いました。 工匠の河内の馬飼首(うまかいのおびと)押勝(おしかつ)は、わざと 「遣わされて訪れた西方の無礼な使者が滞在するところです。」と答えました。 大舎は国に帰り、このとき言われた言葉を報告しました。 よって、新羅は、城(さし)を阿羅波斯山(あらはしむれ)に築き、 日本(やまと)に備えました。 まとめ 児嶋屯倉及び海部屯倉の設立から浮かび上がってくるのは、海路である。 二十二年条にも、奴氐大舎が難波大郡から「乗レ船帰至リキ二穴門〔長門〕一」とある。 児島屯倉は、備中備後の屯倉への通行の途中にある在地勢力による妨害を根絶するために設置されたものであった。 それはまた、難波津と朝鮮半島方面と結ぶ海路の更なる安全を保障する。 一方海部屯倉の設立は、紀伊国の海側の玄関の確立を意味する。 もちろん、それぞれ山陽古道と南海古道という陸路も存在したが、地形や想定される山陽古道のルートを見ると備前国はまだ狭く険しかったであろう。 南海古道も、泉州から河辺屯倉の区間の雄ノ山峠越は、登山道程度であったと想像される。朝廷からの使者が通行すれば、山賊の恰好の餌食にもなりかねない。 したがって、瀬戸内海や紀伊水道の海路は主要な長距離交通路であったと考えられる。 児嶋屯倉と海部屯倉の設置はそれらの航路の充実をも意味するのである。 |
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⇒ [19-19] 欽明天皇19 |