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2020.07.19(sun) [19-13] 欽明天皇13 


20目次 【十三年十月~是歳】
《百濟王獻釋迦佛金銅像一軀幡蓋若干經論若干卷》
冬十月。
百濟聖明王【更名聖王】、
遣西部姬氏
達率怒唎斯致契等、
獻釋迦佛金銅像一軀
幡蓋若干
經論若干卷。
別表、
讚流通禮拜功德云
「是法、
於諸法中最爲殊勝、
難解難入。
周公孔子尚不能知。
此法、
能生無量無邊福德果報、
乃至成辨無上菩提。
西部姫氏…〈釈紀-秘訓〉西部セイホウ姫氏キシ達率タツソツ怒唎斯致トリシチケイ
釈迦仏…〈釈紀-秘訓〉釋迦シヤカホトケノ金銅カネノミカタ一軀ヒトハシラヲ經論キヤウロム若干ソコラマキ
…〈北野本〉「釈迦ノナカコノ金銅」。 〈時代別上代〉「「仏称中子ナカコ」(延喜式神祇)のようにナカコと言ったのは、堂の中央に仏像が安置されているためとも、人心は仏性で体内にあるためともいう。
そこら…[副] 〈時代別上代〉「そこらくに:数量や程度の強さを示すソコラおよびソコラクが存在し、そこに副詞語尾のニが接したもの。
幡蓋 萬福寺天王殿の布袋像
幡蓋…〈汉典〉器物或車頂上覆蓋的飾物、如宝幢華蓋之属 〈北野本〉幡蓋ハタキヌカサ
周公孔子…〈釈紀-秘訓〉周公シウコウ孔子コウシモ
周公…周代の畿内諸侯の称号。初代は周公旦(武王の弟)。
わきたむ…[他]マ下二 弁別する。
菩提…梵語bodhiの音写。煩悩を断ち切って悟りを得ること。 〈釈紀-秘訓〉菩提ホタイヲ
〔十三年〕冬十月(かむなづき)。
百済(くたら)聖明王(せいめいわう)【更名(またのな)聖王(せいわう)】、
[遣]西部姫氏(せいほうきし)
達率(たつそ)怒唎斯致契(ぬりしちけい)等(ら)をまだして、
釈迦仏(しやかほとけ)の金銅(くがねあかがね)の像(みかた)一躯(ひとはしら)、
幡蓋(はたきぬがさ)若干(そこばく)、
経論(けやうろむ)若干(そこばく)巻(まき)を献らしむ。
別(ことに)表(ふみ)にあらはして、
流通礼拝功徳(りうつうらいはいくどく、ひろむることゐやまひさきはひ)を讃(ほ)めて云(まを)さく
「是の法(のり)、
[於]諸(もろもろの)法(のり)の中(うち)最(もとも)殊(ことに)勝(まされる)を為(な)して、解(と)くに難(かた)く入(いる)に難し。
周公(しうこう)孔子(こうし)尚(なほ)知ること不能(あたはず)。
此の法、
能(よ)く量(はかり)無き辺(かぎり)無き福徳(ふくとく、さきはひ)果報(かほう、むくい)を生みて、
乃至(すなはち)無上(むじやうの、このうへなき)菩提(ぼだい)を成弁(わきたむ)。
譬如人懷隨意寶逐所須用盡依情、
此妙法寶亦復然。
祈願依情無所乏。
且夫遠自天竺爰洎三韓、
依教奉持無不尊敬。
由是、百濟王臣明、
謹遣陪臣怒唎斯致契、
奉傳帝國流通畿內。
果佛所記我法東流。」
須用…〈汉典〉必須。
妙法…[仏] 人智をこえて優れた仏の道。
…[形] (古訓) たへなり。うるはし。
…[形] (古訓) ともし。はし。
ともし…[形]シク とぼしい。
天竺…〈釈紀-秘訓〉天竺テンチク
…[動] 〈汉典〉至、及。
陪臣…臣に仕える家来。 〈北野本〉マタシ信イヤツコ怒唎斯致契 〈内閣文庫本〉百済昆キシカレメイハヘマチキミ 〔是に〔よっ〕て百済のこんきし〔やつ〕かれめい謹んではべ〔る/れる〕まちきみ〔を〕〔まだし〕て〕
流通…〈時代別上代〉「「是以政令流行しきナガシ、天下泰平」(仁徳紀六七年)」なる古訓がある。
東流…〈北野本〉東-流アツマニツタエム
譬(たとへば)人の意(こころ)の隨(まにま)に宝(たから)を懐(ふつくろ)にするが如く、須(かならず)用(もちゐる)所(ところ)を逐(お)へるは、尽(ことごとく)情(こころ)に依りて、
此(この)妙法(めうほふ、たへなるのり)の宝(たから)亦復(また)然(しかり)。
祈り願ひて情(こころ)に依(よ)らば所乏(ともしきこと)無し。
且(また)夫(それ)遠(とほく)天竺(てむぢく)自(よ)り爰(ここ)三韓(みつのからくに)に洎(いた)りて、
教(をしへ)に依(よ)り奉持(もちまつ)りて無不尊敬(たふとびゐやまはざることなし)。
是の由(ゆゑ)に、百済王(くたらわう)、臣(しむ、やつかれ)明(めい)、
謹みて陪臣(ばいしむ、はべれるおみ)怒唎斯致契(ぬりしちけい)を遣(まだ)して、
帝国(みかどのみくに)に奉伝(つたへまつ)らしめて、畿内(うちつくに)に流通(しきなが)さしめて、
果(はたして)仏(ほとけ)の所記(しるせる)我が法(のり)東(ひむがし)に流(しきなが)せしめまつらむ。」
是日。
天皇聞已、歡喜踊躍、
詔使者云
「朕從昔來、
未曾得聞如是微妙之法。
然朕不自決。」
乃歷問群臣曰
「西蕃獻佛、相貌端嚴。
全未曾有、可禮以不。」
蘇我大臣稻目宿禰奏曰
「西蕃諸國一皆禮之、
豐秋日本豈獨背也。」
物部大連尾輿
中臣連鎌子同奏曰
「我國家之王天下者、
恆以天地社稷百八十神、
春夏秋冬祭拜爲事。
方今改拜蕃神、
恐致國神之怒。」
天皇曰
「宜付情願人稻目宿禰
試令禮拜。」
聞已…〈北野本〉聞-已 シテ又シヲハテ〔〔きこ〕して。又〔きこ〕しをへて。ハ:ヘの誤写か
踊躍…おどりあがってはねる。
歓喜踊躍…〈釈紀-秘訓〉歓喜ヨロコヒ踊躍ホトハシラシメタマフテ
ほとはしる…[自]ラ四 驚いたり喜んだりして躍り上がる。
しめたまふ…平安時代以後の言い回しで、助動詞「しむ」は尊敬となる。
朕従昔来…〈北野本〉従昔コノカタ未曾イマタカツテ得-聞也
西播…〈北野本〉西-播ニシノトナリ
端厳…〈北野本〉端-麗キラ〱シ嚴イ
きらきらし…[形]シク 姿や顔が整って美しい。
可礼以不…〈北野本〉礼以-イナヤ。 〈時代別上代〉句末に「以不・以否」をとる、漢籍の俗語体に近い漢文体にイナヤという古訓が多い。
稲目宿祢奏曰…〈北野本〉稲-目イナヌノ宿祢マウシテ-曰〔イナヌ:イナメの誤写か〕
一皆…〈汉典〉一律;全部。
中臣連鎌子…〈北野本〉鎌子カマ■
社稷…①土地の神(社)と五穀の神(稷)。②国の守り神として祭る。その祠。(古訓) すめらおほもとを。 〈北野本〉ワカ國-家■■トキ■■ル ハ ツネニ モテ天-地アメツチ社-稷クニイエノ 百-八-十神モゝアマリヤソカミ 春夏秋冬イハヒヲカムヲコトト
国神…ここでは、豊秋津州〔とよあきつしま=日本国〕の「天神(あまつかみ)・地祇(くにつかみ)」の総称だから、地祇とは区別して「くにのかみ」と訓読すべきであろう。
付情願人稲目宿祢…〈釈紀-秘訓〉サツケテ情願人稲目宿祢ネカフヒトイナメノスクネニ
…[動] (古訓) つく。さづく。
情願…真心からの願い。
是の日。
天皇(すめらみこと)聞こし已(を)へて、歓喜(よろこび)踊躍(ほとはし)りたまひて、
使者(つかひ)に詔(みことのり)云(のりたまはく)
「朕(われ)従昔(むかしより)来(このかた)、
未(いまだ)曽(かつて)如是(かく)微妙之(たへにある)法(のり)を得(え)聞かず。
然(しかれども)朕(われ)不自決(みづからきめたまはず)。」とのりたまふ。
乃(すなわち)群臣(まへつきみたち)に歴(めぐ)り問ひて曰(のたまへらく)
「西蕃(にしのくに)の献(たてまつりし)仏(ほとけ)、相貌(かほかたち)端厳(きらきら)しくありて、
全(またく)未(いまだ)曽(かつて)有らず。礼(ゐやま)ふ可(べ)きや以(もちゐること)不(あらじ)や。」とのたまへり。
蘇我大臣稲目宿祢(そがのおほむらじいなめのすくね)奏(まを)して曰(まをせらく)
「西蕃(にし)の諸(もろもろの)国一皆(ことごとく)之(こ)を礼(ゐや)びて、
豊秋日本(とよあきつやまと)豈(あに)独(ひとり)背(そむ)く也(や)。」とまをせり。
物部大連尾輿(もののべのおほむらじをこし)
中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)同(ともに)奏(まを)して曰(まをせらく)
「我が国家(くにいへ)之(の)王(おほきみのをさめたまふ)天下(あめのした)者(は)、
恒(つね)に天地(あめつち)の社稷(やしろ)の百八十(ももあまりやそ)の神を以ちて、
春夏秋冬(はるなつあきふゆ)祭(まつ)り拝(をろが)むを事と為(せ)り。
方(まさに)今(いま)改めて蕃神(えみしのかみ)を拝(をろが)まば、
国の神之(の)怒(いかり)に致(いた)らむことを恐(おそ)りまつる。」とまをせり。
天皇曰(のたまはひしく)
「宜(よろしく)情(こころより)願(ねが)へる人稲目宿祢(いなめのすくね)に付(さづ)けて、
礼(ゐやまひ)拝(をろが)ま令(し)むることを試(こころみ)るべし。」とのたまひき。
小墾田…〈北野本〉-置小-墾-田ヲハリタノ
懃修出世業爲因…〈釈紀-秘訓〉ネムコロニヲサメテイツルヨヲワサヲヨスト 〔懇ろに世を出(いづ)る業(わざ)を修めて因(よ)すとす〕
向原家…向原家の跡地に豊浦寺が建ち、現在の「向原寺」〔明日香村字豊浦630〕に至ったという (第235回《向原》)。
…[名] 起こったことのより所。(古訓) よる。ちなみ。たね。
浄捨…「浄財」はけがれのない金。「喜捨」はすすんで財物を寺に寄付したり、人に施す。
…[副] (古訓) いよいよ。ますます。
民致夭残…〈釈紀-秘訓〉ヲホムタカラ イタス 夭残アカラサマニシヌルコトヲ
…[動] わかじにする。(古訓) そこなふ。わさはひ。
…[名] 〈汉典〉害。毀壊[destroy]。
昔日…むかし。さきごろ。「昔在」「昔時」「昔者」のいずれの古訓にも「ムカシ」がある。
さきつひ…[名] 過ぎし日。
…[動] つかふ。もとむ。(古訓) もちいる。
…[指] この。(古訓) かかる。かくのことく。
…[副] ねんごろに。(古訓) ねむころに。
有司…〈北野本〉有司ツカサ\/
…[動] はなつ。〈北野本〉佛-像ナカ■-ウツ 難-波堀-江ホリヘニツクヒヲ伽-藍テラニ焼-燼ヤキツキ更無アマリ
難波堀江…仁徳天皇段「難波之堀江而通」(第163回)。
もえくひ(燼)…[名] 燃え残りの木。
忽炎大殿…〈釈紀-秘訓〉ヒツケリ 大殿ミアラカニ。 【御読不可読之】忽炎タチマチニヒノワサワヒアリ【御読如此可読之〔みよみ、かく読むべし〕。大殿ヲ不可読也〔"大殿"を読むべからず〕】。 〔「天皇に講ずるときは"大殿"の部分を読むな」の意〕
…[動] 盛んに燃え上がる。やく。
との…[名] 貴人の住む御殿。
あらか…[名] 〈時代別上代〉用例はすべて神・天皇など貴人の居所についていう。
大臣跪受而忻悅。
安置小墾田家、
懃修出世業爲因。
淨捨向原家、爲寺。
於後、國行疫氣、
民致夭殘、
久而愈多、
不能治療。
物部大連尾輿
中臣連鎌子同奏曰
「昔日不須臣計、致斯病死。
今不遠而復、必當有慶。
宜早投棄、懃求後福。」
天皇曰
「依奏。」
有司乃以佛像、流棄難波堀江。
復縱火於伽藍、燒燼更無餘。
於是、天無風雲、忽炎大殿。
大臣(おほまへつきみ)跪(ひざまづ)き受けまつりて[而]忻悦(よろこ)びき。
小墾田(をはりた)の家(いへ)に安置(お)きて、
懃(ねもころに)世(よ)に出(い)づる業(わざ)を修(をさ)めて因(たね)と為(し)て、
向原(むかはら)の家を浄捨(ほどこ)して、寺(てら)と為(す)。
於後(のちに)、国疫気(えやみ)に行(ゆ)きて、
民(おほみたから)夭残(いのちそこなへる)に致(いた)りて、
久(ひさしくあ)りて[而]愈(いよよ)多(さは)になりて、
治療(をさむること)不能(あたはず)。
物部大連尾輿(もののべのおほむらじをこし)
中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)同(ともに)奏(まをして)曰(まをせらく)
「昔日(むかし)臣(やつかれ)の計(はかりこと)を不須(もちゐざ)れば、斯(かくのごとく)病(や)み死ぬることを致(いた)しき。
今、不遠(とほくあらず)して[而]復(かへ)さば、必ず慶(よろこび)有る当(べ)し。
宜(よろしく)早(すみやかに)投げ棄(う)ちて、懃(ねもころに)後(のち)の福(さきはひ)を求めたまふべし。」とまをせり。
天皇曰(のたまひしく)
「奏(まをししこと)に依(よ)れ。」とのたまひき。
有司(つかさ)乃(すなはち)仏像(ほとけのみかた)を以ちて、難波(なには)の堀江(ほりえ)に流し棄(う)ちき。
復(かさねて)火(ひ)を[於]伽藍(てら)に縦(はな)ちて、焼燼(もえくひ)更(さら)に余(あまり)無し。
於是(ここに)、天(あめ)に風(かぜ)雲(くも)無かりて、忽(ことごとく)大殿(おほとの)を炎(や)けり。
是歲。
百濟、棄漢城與平壤。
新羅、因此入居漢城。
今新羅之牛頭方尼彌方也
【地名未詳】。
牛頭方尼彌方…〈釈紀-秘訓〉牛頭コツハウ尼彌ニミハウ
是の歳。
百済、漢城(かむじやう)与(と)平壌(へいじやう)とを棄(う)つ。
新羅、此(こ)に因りて漢城に入りて居(を)り。
今、新羅之(の)牛頭方(こつはう)尼彌方(にみはう)也(なり)
【地(ところ)の名未(いまだ)詳(つまひらか)にあらず】。
《讃流通礼拝功徳云》
 この部分には仏教用語が大量に使われ、〈北野本〉でも訓点が多く付されるので、参考のためにこの部分全体を〈北野本〉のままに示す。

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北野本原文読み下し文(推定)
別-表ホ■■流-通礼-拝功-徳
-法於モロ\/-ノリ-中
モトモ為-殊-勝スクレテイマスサトリイリ
周-公孔-子ナヲシルコト
此-法能生無量無
福-徳果報乃-至スナハチ-弁ワキマフ無-上菩-提
タトヘハフトコロニ意寶
用-盡
コノ妙-法寶亦-復然祈-願モトメネカフコト情無
ことふみしまつりて、流通・礼拝・功徳をめていはく、
是ののりもろもろの法の中にいて、
もとも為殊勝すぐれていますさとり難くり難く、
周公・孔子もなを知ることあたはず。
此の法く生まれはかり無くさかひ無し。
福徳・果報乃至すなはち、無上の菩提を成弁わきまふ。
たとへば、人のこころままに宝をふところに〔いるるが〕如し。
またすべからもちひ尽くすべき所、こころに依り、
此の妙法の宝、亦復また然り。祈願もとめねがふこと こころに依りて、乏しき所無し。
 欽明天皇の第十九巻については〈北野本〉が最古とされるが、1352年頃〔室町初期〕に資継王が加点したと見られ比較的新しい。ただ、平安からの訓点を引き継いでいる部分も含まれるであろう。 (【五年十二月】)。 「わきまふ」は今昔物語(平安末)に見られるが、〈時代別上代〉の見出し語にはない。「なを(尚)」は、本来「なほ」であるが、 類聚名義抄(1100年頃)でもナヲと表記されている。
《百済王臣明》
 『三国史記』(百済本紀)に 「〔523〕聖王:諱明襛。武寧王之子也。」、 『梁書』(列伝-諸夷)に「〔普通〕五年〔524〕。隆死。詔復以其子明持節督百済諸軍事綏東将軍百済王」とある。
 聖王の別名は明襛、梁書の呼称は「」である。
 「」の音は、呉音ミヤウ(みょう)、漢音メイ。唐代にはミンとなる。書紀の時期にはメイであろう。
 北野本は「百済コキシイ无臣明〔「昆」異本に無し〕。 「」は兄の意。「昆臣」は中国古典にも見つからない語なので、「昆」は除いた方がよいだろう。
《陪臣》
 江戸時代の仮名日本紀が陪臣にあてた「はべるやつこ」は、北野本にみえるヤツコ、内閣文庫本に見えるハベ〔ル〕などを総合したものであろう。 「百済のこきしやつこ」にも合わせたようである。 「」は一人称の遜称として使われるのは確かだが〔魏志倭人伝に註釈を加えた裴松之の自称など〕、 「陪臣」の「」はそれとは意味が異なる。 陪臣が直接仕えるのは臣だが、「臣を支えるという形で君主に仕える」とも言えるから、まだ「臣」本来の意味が潜んでいる。 だが上代語の「やつこ」は、君主に仕える「臣」よりは相当意味が広く、奴婢までも含んでいる。 この意味のずれを許容するよりは、音読の方が望ましいのかも知れない。
《奉伝帝国流通畿内果仏所記我法東流》
 「」は動詞の前に置いて相手への敬意を表す副詞である。
 〈北野本〉は「東流」の「」をアヅマニと訓む。アヅマとは、倭建命が東国の制定に向かったときの足柄山・碓氷峠以東を指す。 つまり、まず畿内から、そして東国へ広げよと読んだわけである。 しかし「果仏所記我法東流」の「」は総括の語だから、 「東」は倭国全体であろう。 つまり、西方の天竺から三韓に伝わった仏教を、東方の倭に伝えようという文だから、 「」はアヅマではなくヒムガシである。
《可礼以不》
 「以不」は直感的には"or not"と読める。古訓「イナヤ」もその解釈である。
 しかし「中国哲学書電子化計画」で検索をかけてみると、実際には「以不」の次は、ほぼ100%動詞が置かれている。 動詞を省略して「以不。」を文末に置く例は、まだ一例も見つからない。 〈時代別上代〉は「漢籍の俗語体」と述べるが、全くの和習〔本来の漢文とは異なる日本独自の語法。和臭とも〕である。
《我国家之王天下》
 「我国家之王天下者恒以天地社稷百八十神」は、要するに「我が国は、もともと天地の百八十神を祀る国である」と主張する。 「社稷」が一般にクニイヘと訓読されるのは、守り神を祀る中心施設が国そのものの意に転じたものである。 しかしこの文には「国家」もあるので、〈北野本〉は「国家」に不明瞭だが「ヤマト」を宛てたと思われる。
 しかし、社稷はもともとは「:土地の神」と「:五穀の神」で、この文中では「天地の百八十神」を祀るところだから「やしろ」で充分かと思われる。 〈北野本〉は、王を「キミスル」と訓んだと思われるが、「キミ」のサ変動詞による動詞化が上代にあったようには思えない。少なくとも万葉集には見えない。
 「我…王」の形だから、 万葉の言い回し「(万)4254 吾皇乃 天下 治賜者 わがおほきみの あめのした をさめたまへば」に倣って 「わがくにいへ国家おほきみのをさめたまふあめのした天下」と訓めば、長くはなるが上代語として成り立つと思われる。
《蕃神》
 「蕃神」を、 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(以下〈元興寺縁起〉) では「他国神」と表現している。 「第141回《西播》」 で論じたように、「西播」は基本的に朝鮮半島の国々を指すが、 語源的は古代の中華思想に基づく「西方の未開の国」である。 書紀ではさらに、神功皇后紀で規定した「属国」の性格を内包する。
 ここでは蘇我稲目が感情的になって出た言葉なので「」の古い意味が蘇っているわけである。 すると、古訓による「となりの神」はここでは生温い。 だからと言って「えみしの神」ではが言い過ぎかも知れない。〈元興寺縁起〉の「他国神あたしくにのかみ」を用いることも考えられる。
《縱火於伽藍》
 書紀だけを見ると、伽藍を焼き尽くし釈迦仏像を難波堀江に流したのは伝来して間もなくのように読めるが、 『上宮聖徳法王定説』(後述)では、570年〔欽明紀では三十一年〕、〈元興寺縁起〉も「伝来より三十年余」(やはり570年頃)となっている。
 書紀も、「伽藍」が焼き尽くされと書く。立派な伽藍ができるまでにはそれなりの年数がかかるから、 やはり欽明三十一年頃のことを、ここにまとめて書いたのであろう。
《牛頭方尼彌方》
 〈釈紀-述義〉は、『天書』〔奈良時代末〕を引用する。
――「天書曰新羅與高麗共爵百濟漢城平壌漢城牛頭平壌彌方〔天書曰。新羅と高麗とともに百済に爵し、漢城平壌を取る。漢城を以て牛頭とし、平壌を以て弥方とす。〕
 「爵す」は、「爵位を授与する」=「諸侯国にする」意であろう。
 しかし、この文は欽明紀十二年三月の「百済聖明王親率衆及二国兵往伐高麗。獲漢城之地。又進軍討平壌。」を解釈したに過ぎないと思われる。 実際には勝利者は新羅なので、よく「百済が爵す」などと言えたものである。
《大意》
 〔十三年〕十月、 百済の聖明王(せいめいおう)【別名は聖王(せいおう)】は、 西部姫氏(せいほうきし)達率(たつそ)怒唎斯致契(ぬりしちけい)等を遣わして、 釈迦仏の金銅像一体、幡蓋(ばんがい)〔頭上の飾り〕若干、経論(きょうろん)若干巻を献上し、 別に流通、礼拝、功徳を賛美して上表しました。
――「この法は諸法の中で最も殊勝をなし、理解して受け入れることは困難です。 周公(しゅうこう)、孔子でも知ることはできませんでした。 この法は、よく無量無辺(むへん)の福徳果報を生み、 そして無上の菩提(ぼだい)を弁別します。
 譬えれば、人が心のままに宝を懐に入れるように、必要なものを追うことはことごとく心に依り、 この妙法の宝もまた同じです。祈り願う心に依れば、乏しいことは何もありません。
 また、この法は遠く天竺(てんじく)より、ここ三韓に至り、教えに帰依して齎(もたら)され、尊敬しないことなどありません。 この故に、百済王である臣、明は、謹んで陪臣の怒唎斯致契(ぬりしちけい)を遣わして、 帝(みかど)の国にお伝えし、畿内に流通させ、 仏を記した我が法の東方への流通を果たそうと存じます。」
 この日、 天皇(すめらみこと)は聞き終えて歓喜踊躍し、使者に 「朕は昔よりこの方、未だかつてこのような微妙な法を聴くことができなかった。 しかしながら、朕が自分で決めることはしない。」と詔されました。
 そして群臣に順番に、 「西蕃の献上した仏像は、相貌端厳〔=容姿端麗〕で、 まったく未だかつてないものである。拝礼すべきか、用いざるべきか。」と問われました。 蘇我大臣稲目宿祢(そがのおおむらじいなめのすくね)は 「西蕃の諸国は挙ってこれに拝礼し、豊秋日本(とよあきつやまと)が独り背くことなどありましょうか。」と申し、 物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)と 中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)はともに 「我が国家の王する天下は、恒に天地の社稷の百八十神を以って、 春夏秋冬に祭り拝むを事としてきました。 まさに今、改めて蕃神に拝礼すれば、国の神の怒をかうに至ることを恐れます。」申しました。
 天皇は 「宜しく情願する人稲目宿祢に付して、礼拝させることを試みるべし。」と仰いました。
 大臣(おおまえつきみ)は跪(ひざまず)いてお受けし、大いに喜びました。 小墾田(おはりた)の家に安置し、懇ろに出世の業(わざ)を修めて出発点として、 向原(むかはら)の家を浄捨して、寺としました。
 後に、国に疫病が広まり、人民は夭残(ようざん)〔夭折して損なう〕に至り、久しくあっていよいよ多くなり、治療できませんでした。 物部大連尾輿と 中臣連鎌子は、ともに奏上しました。
――「昔日(しゃくじつ)は臣の策を用いられませんでした。そして、このように〔人民が〕病み死ぬこととなりました。 今、遠からず復すことにすれば、必ず慶事がありましょう。 宜しく、速やかに投げ棄てて、懇ろに後の福を求められますように。」
 天皇は、 「奏上に依れ。」と仰りました。
 官吏はそこで仏像を、難波の堀江に流し棄てました。 また、伽藍に火を縦(はな)ち、焼燼(しょうじん)〔焼け残り〕に残すものはありませんでした。
 このとき、空に〔雨を降らすような〕風や雲も無く、ことごとく大殿を焼きました。
 この歳、 百済は、漢城(かんじょう)と平壌(へいじょう)を放棄し、 新羅はこれによって漢城に入り、居すわりました。 今、新羅の牛頭方(こつほう)と尼彌方(にみほう)です 【この地名は未詳】。


【仏教公伝】
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 山の辺の道南端の大和川の北岸に「仏教伝来之碑」(右写真)が建っている。 この場所は欽明天皇磯城嶋宮の想定地(第238回)に近く、百済使が仏像・経典をもって船で難波から大和川を上り、この辺りから上陸したと想像されている (武烈即位前《海柘榴市》)。
 なお、仏教公伝は戊午年〔538〕とも言われる(後述)。
《献釈迦仏金銅像一躯幡蓋若干経論若干巻》
 欽明紀十三年〔壬申;552〕によれば、救兵の要請から五か月が過ぎた十月に、仏像・幡・経論がもたらされた。
 倭が救兵要請になかなか応じないのは、依然として任那再建を見据えて百済・新羅を両天秤にかけていたからであろう。 百済はその倭の態度の根源に何があるのかを探り、大陸とは異質な宗教の存在に行き着いたと見られる。 倭の宗教は天照大御神の子孫が国を治めるとするもので、朝鮮半島南部に関しては、百済・新羅を横並びでその下に置くものであった。
 そこで、倭を百済が独占し、百済-倭ブロックを完成させるには、この独自の宗教の克服が必須となった。 このとき百済には、高度の哲学と完成度の高い美した術品を内包する仏教が発展しつつあった。 それを用いて、倭を精神面から同一圏に巻き込もうというわけである。
 これは、15~17世紀にスペイン・ポルトガルの世界への勢力圏の拡大において、キリスト教布教を先行させたことに準えることができる。
《蘇我氏vs物部氏&中臣氏》
 外来の仏教の美術品も教義も魅力的であったと思われ、急速に国内に広まる可能性がある。 しかし、そこに反作用が生ずるのもまた当然である。すなわち、民族固有の宗教・文化を守り抜こうとする勢力も力を得る。 幕末の日本において、西欧化に列強の日本進出を見て攘夷派が抵抗したのと同じ図式である。
 外来の仏教受容派が蘇我氏、排斥派が物部氏・中臣氏であった。
 中臣氏は祝詞を担当するなど、天照大御神の宗教的伝統を後々まで保持する中核である。 また物部氏は、独自の饒速日命にぎはやひのみことの降臨神話をもち、本来は外様であったが (資料[35])、 神武天皇の頃からがっちりと天孫勢力と結びついて支えてきた。 中臣物部両氏は、後に推古朝で仏法を受け入れざるを得なくなっても「左肩三宝〔仏法〕坐。右肩我神〔神祇〕坐。(元興寺伽藍縁起并流記資財帳)と申し、すなわち仏:神=50:50に留まり思い切りが悪い。 高皇産霊神を祖とする神学の大系からは脱することができないのである。 奈良時代以後の神仏習合の種は、ここにあったかと思わせる。 すると明治維新における仏教の排除は、1200年ほどの伝統を断ち切る過激な所為であったということである。
 この神祇教原理主義者ともいうべき物部氏・中臣氏に対して、 蘇我氏はもともとまとめて葛城氏と称されるものの一族と見られる (第162回【葛城部】)。 一応祖を竹内宿祢とするが(第108回)、属する諸族ごとに祖神を祀るのは自由であったのかも知れない。 天孫勢力の傍系にいたからずっと身軽で、仏教への抵抗感もなかったと思われる。

【仏教公伝538年説】
 百済王から釈迦像・経典が贈られた時期について、書紀は壬申年〔552〕とする。 しかし、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』と『上宮聖徳法王帝説』では、戊午年〔538〕としていて、 現在一般的には、こちらが採用されている。 前者については、別ページで精読しつつある。
 ここでは、後者の関係個所を読み、この二説の対立をどう捉えるべきかを考察する。
《上宮聖徳法王定説》
 『上宮聖徳(じょうぐうしょうとく)法王帝説』(以下〈聖徳帝説〉)は、平安時代にまとめられた書で、いくつかの点で記紀の相違があるという。 その印影本〔古典保存会;1928〕を、 国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができる。
 同本に付された「解説」によれば、平安期に法隆寺の住侶「僧相慶」が所蔵していたもので、 「書風字体等より観れば平安期中期〔9世紀後半~11世紀末〕を下らざるものなるが如し」という。そして、 「最古の聖徳太子伝にして、記事質実にして信ずべく、他に所伝なき異聞旧記を存して正史〔書紀など〕の闕を補ふ」書であると評価している。
 この書をざっと見たところでは、聖徳太子にかかわる古文献から抜き書きしてまとめたものである。
 そのうち、仏教公伝に関する部分は次の通りである。
志关嶋天皇御世 代午年十月十二日
百済國主明王 始奉度佛像經敎并僧等 
勅授蘇我稲目宿禰大臣 令興隆也
庚寅年 焼滅佛殿 佛像流却於難波堀江 
小治田天皇御世 乙丑年五月
聖與德王嶋大臣 共謀建立佛法
更興三寶 即准五行
志关〔癸〕嶋(しきしま)の天皇(すめらみこと)〔欽明〕の御世、代〔戊〕午(つちのえうま)の年〔538〕十月(かむなづき)十二日(とかあまりふつか)。
百済(くたら)の国主(こきし)明王(めいわう)始めて仏像(ほとけのみかた)経教(きやうけう)并(ならびに)僧(そう)等(ら)を奉度(わたらしめまつりき)。
勅(みことのり)して蘇我稲目宿祢大臣(そがのいなめのすくねのおほまへつきみ)に授(さづ)けて 令興隆(たかめしめ)たまひき。
庚寅(かのえとら)のの年〔570〕、仏殿(ぶつでむ)を焼き滅ぼして、仏像を難波(なには)の堀江(ほりえ)に流却(なが)しき。
小治田(をはりた)の天皇〔推古〕の御世、乙丑(きのとうし)の年〔605〕五月(さつき)、
聖徳(しやうとく)の王(みこ)与(と)嶋大臣(しまのおほまへつきみ)〔蘇我馬子〕と、共に謀りて仏法(ほとけののり)を建立(こむりふ)して、
更に三宝(さむほう)を興して、即ち五行(ごぎやう)に准(なら)ひたまひき。
庚寅…書紀では欽明三十一年。 三宝さんぽう…仏法僧。五行…布施・特戒・忍辱にんにく・精進・止観。
 蘇我稲目による「-滅仏殿。佛像流-却於難波堀江」については、 〈聖徳帝説〉では具体的な年「庚寅年〔570〕が示される。 書紀には年は示されない。
 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では「(538年から)三十余年を経て」となっている。
《志帰嶋天皇四十一年》
 〈聖徳帝説〉の末尾には、 志帰島天皇・他田天皇・池辺天皇・倉橋天皇・少治田天皇それぞれの、在位年数・崩年月・陵のリストがある。
 欽明帝については「志歸嶋天皇治天皇卌一年   正代云卅二年文辛卯年四月崩 陵檜前坂合岡也」とある。 影印本(右図)を見ると「卌一」を一文字ずつ斜線で消し、「正代云卅二年文」と傍らに書き添えている。 言うまでもなく、書紀に順えば「三十二年」である。筆跡から見て、筆写者による訂正か。
 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(以後〈元興寺縁起〉)には、 「天下七年歳次戊午」とある。 それにしたがえば、欽明元年は壬子〔532〕となる。
 〈聖徳帝説〉の在位年数「四十一年」によれば、欽明元年は辛亥〔531〕となり、〈元興寺縁起〉とは一年ずれる。
 書紀では一般的には即位年の翌年が「元年」だから、四十一年を「即位した年を含めて41年」 と解釈すれば〈元興寺縁起〉と〈聖徳帝説〉を一致させることができる。
天皇名元年(書紀)上宮聖徳法王帝説
志帰島天皇〔欽明〕庚申〔540〕四十一年 辛卯年〔571〕
他田天皇〔敏達〕壬辰〔572〕十四年 乙巳年〔585〕
池辺天皇〔用明〕丙午〔586〕三年 丁未年〔587〕
倉橋天皇〔崇峻〕戊申〔588〕四年 壬子年〔592〕
少治田天皇〔推古〕癸丑〔593〕三十六年 戊子年〔628〕
 もう少し厳密に判断するために、〈聖徳帝説〉での在位年数の数え方を見る(右表)。 これを見ると、敏達・崇峻・推古は「元年~崩年」で数え、用明のみ「即位年~崩年」である。
 常識的には元年から数えるものだと思われるから、用明天皇の例は、誤り若しくは書紀とは別伝によったものだろう。
 つまり、欽明天皇の即位は〈元興寺縁起〉と〈聖徳帝説〉の間の一年の差は動かせないが、 それでも531年頃に欽明朝が始まったとする説もあったのだろう。
 それでは、これと書紀の「安閑元年:甲寅〔534〕」、「宣化元年:丙辰〔536〕~四年:己未〔539〕」とは、どう折り合いをつけたらよいのだろうか。
 〈聖徳帝説〉の全体を見ると、「伊波禮池邊双槻宮治天下橘豊日天皇〔用明〕から始まり、 その皇子たちの名も載る。 御子や臣などの関連人物名が載ること自体が、その文書の歴史記録としての真実性を増すと考えてよいだろう。 同様に崇峻朝から推古朝の人物にも具体性がある。
 ところが、遡って「戊午年〔538〕始奉度仏像経教并僧等」と、 「庚寅年〔570〕」の「焼滅仏殿」の間を見ると、人名どころか事柄が皆無である。 〈元興寺縁起〉でもこの期間は空白である。 つまり、「戊午年」の信憑性は、570年以後よりも明らかに劣る。
 書紀が著されたのは〈聖徳帝説〉の該当部分より後のことかも知れないが、 安閑紀と宣化紀に妃や御子の名が具体的に載るのを見れば、少なくとも534~549の時期は書紀の方が詳しい。 安閑・宣下の年代の資料は、書紀の調査によって初めて得られた可能性があり、この記録が知られるまでは「531年頃から欽明朝」と信じられていたのだろう。
 〈元興寺縁起〉や〈聖徳帝説〉の「戊午年〔538〕は書紀以前のものかも知れないが、書かれた時期が古いからと言って自動的に信頼度が高まるわけではない。 多数決で2:1という考えについても、〈元興寺縁起〉と〈聖徳帝説〉が同一の資料から派生したものだとしたら成り立たない。 このように考えると、538年説に特に優位性があるとは思えない。
 ※…書紀が新しく得た資料により、古事記の記述を修正したと見られる個所が実際にある(応神天皇二十二年【御友別一族】)。 その背景には、朝廷が諸族に提出させた氏文(うじふみ)の存在が考えられる (高橋氏文資料37【布留宿祢】)。
《欽明天皇の即位年》
 〈元興寺縁起〉で538年が「天下七年」というところはあまり現実的ではないが、 538年まで動かすだけのことならそんなに困難ではない。
 というのは、宣化天皇紀三~四年には実質的に事績がないからである。 実際には宣化天皇三年=戊午年〔538〕に欽明天皇が称制していたことにすれば、小さな書き換えで済む。
《書紀による操作》
 別の考えとしては、書紀は実は「戊午年」とする伝承は既に承知していたが、 それでも敢て壬戌年まで時期を下らせたと考えることも可能である。
 というのは〈欽明紀〉六年に「百濟造丈六佛像。製願文」とあるからである。 書紀スタッフは、百済から贈られた釈迦像に線刻された願文に、「丙申年〔欽明六年〕の日付があったことを知った。 それによって願文製作の記事を六年に載せるとともに、仏教公伝を壬戌年〔十三年〕に動かしたというストーリーが考えられる。 ただ、それなら欽明六年より後ならいつでもよいはずだが、それがなぜ「十三年」なのかという問題が新たに生じる。 壬戌年〔552〕とする言い伝えもまた、古くからあったのかも知れない。

まとめ
 推古天皇紀では、高麗僧・百済僧が幾度か登場するが、「新羅僧」はない。 「新羅僧」は持統紀に一例あり、また木造九層塔を備えた皇竜寺があるように、新羅も仏教国である。
 しかし、倭への仏教の流入が主に百済からであったのは疑いないところである。 倭の仏教化は、精神面でも百済と倭の一体化を深め、同盟して新羅と戦おうという百済の戦略の一環であると考えられる。
 タイミングを見ると、新羅との関係が再び悪化した百済は南部戦線への倭の救援を求め、色よい返事が得られなかった直後である。 この国際情勢から見れば、仏像・経典などの献上と仏法流布の勧めが552年の十月とすれば時宜に適っている。 なお、穿った見方をすれば、書紀筆者がこのような見解をもっていたから、ここに置いたのかも知れない。
 ただ、仏教公伝が仮に538年だったとしても、百済がその頃からこの戦略をもっていたと考えて差支えないだろう。