上代語で読む日本書紀〔欽明天皇(4)〕 |
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2020.07.19(sun) [19-13] 欽明天皇13 ▼▲
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20目次
【十三年十月~是歳】
《百濟王獻釋迦佛金銅像一軀幡蓋若干經論若干卷》
冬十月。
百濟聖明王【更名聖王】、
遣西部姬氏
達率怒唎斯致契等、
獻釋迦佛金銅像一軀
幡蓋若干
經論若干卷。
別表、
讚流通禮拜功德云
「是法、
於諸法中最爲殊勝、
難解難入。
周公孔子尚不能知。
此法、
能生無量無邊福德果報、
乃至成辨無上菩提。
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西部姫氏…〈釈紀-秘訓〉西部姫氏・達率怒唎斯致契。
釈迦仏…〈釈紀-秘訓〉釋迦佛金銅像一軀。
經論若干巻。
仏…〈北野本〉「釈迦仏金銅」。
〈時代別上代〉「「仏称二中子一」(延喜式神祇)のようにナカコと言ったのは、堂の中央に仏像が安置されているためとも、人心は仏性で体内にあるためともいう。」
そこら…[副] 〈時代別上代〉「そこらくに:数量や程度の強さを示すソコラおよびソコラクが存在し、そこに副詞語尾のニが接したもの。」
幡蓋 萬福寺天王殿の布袋像
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幡蓋…〈汉典〉器物或車頂上覆蓋的飾物、如二宝幢華蓋之属一。
〈北野本〉幡蓋。
周公孔子…〈釈紀-秘訓〉周公・孔子。
周公…周代の畿内諸侯の称号。初代は周公旦(武王の弟)。
わきたむ…[他]マ下二 弁別する。
菩提…梵語bodhiの音写。煩悩を断ち切って悟りを得ること。
〈釈紀-秘訓〉菩提。
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〔十三年〕冬十月(かむなづき)。
百済(くたら)聖明王(しやうみやうわう)【更名(またのな)は聖王(しやうわう)】、
[遣]西部姫氏(せいほうきし)
達率(たつそ)怒唎斯致契(ぬりしちけい)等(ら)をまだして、
釈迦仏(しやかほとけ)の金銅(くがねあかがね)の像(みかた)一躯(ひとはしら)、
幡蓋(はたきぬがさ)若干(そこばく)、
経論(けやうろむ)若干(そこばく)巻(まき)を献らしむ。
別(ことに)表(ふみ)にあらはして、
流通礼拝功徳(りうつうらいはいくどく、ひろむることゐやまひさきはひ)を讃(ほ)めて云(まを)さく
「是の法(のり)、
[於]諸(もろもろの)法(のり)の中(うち)最(もとも)殊(ことに)勝(まされる)を為(な)して、解(と)くに難(かた)く入(いる)に難し。
周公(しうこう)孔子(こうし)尚(なほ)知ること不能(あたはず)。
此の法、
能(よ)く量(はかり)無き辺(かぎり)無き福徳(ふくとく、さきはひ)果報(かほう、むくい)を生みて、
乃至(すなはち)無上(むじやうの、このうへなき)菩提(ぼだい)を成弁(わきたむ)。
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譬如人懷隨意寶逐所須用盡依情、
此妙法寶亦復然。
祈願依情無所乏。
且夫遠自天竺爰洎三韓、
依教奉持無不尊敬。
由是、百濟王臣明、
謹遣陪臣怒唎斯致契、
奉傳帝國流通畿內。
果佛所記我法東流。」
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須用…〈汉典〉必須。
妙法…[仏] 人智をこえて優れた仏の道。
妙…[形] (古訓) たへなり。うるはし。
乏…[形] (古訓) ともし。はし。
ともし…[形]シク とぼしい。
天竺…〈釈紀-秘訓〉天竺。
洎…[動] 〈汉典〉至、及。
陪臣…臣に仕える家来。
〈北野本〉遣二陪臣怒唎斯致契一。
〈内閣文庫本〉由テ是二百済ノ王臣明謹テ遣テ陪臣
〔是に由て百済の昆きし臣明謹んで陪臣〔を〕遣て〕。
流通…〈時代別上代〉「「是以政令流行、天下泰平」(仁徳紀六七年)」なる古訓がある。
東流…〈北野本〉東-流。
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譬(たとへば)人の意(こころ)の隨(まにま)に宝(たから)を懐(ふつくろ)にするが如く、須(かならず)用(もちゐる)所(ところ)を逐(お)へるは、尽(ことごとく)情(こころ)に依りて、
此(この)妙法(めうほふ、たへなるのり)の宝(たから)亦復(また)然(しかり)。
祈り願ひて情(こころ)に依(よ)らば所乏(ともしきこと)無し。
且(また)夫(それ)遠(とほく)天竺(てむぢく)自(よ)り爰(ここ)三韓(みつのからくに)に洎(いた)りて、
教(をしへ)に依(よ)り奉持(もちまつ)りて無不尊敬(たふとびゐやまはざることなし)。
是の由(ゆゑ)に、百済王(くたらわう)、臣(しむ、やつこ)明(めい)、
謹みて陪臣(べじん、おみにはべるおみ)怒唎斯致契(ぬりしちけい)を遣(まだ)して、
帝国(みかどのみくに)に奉伝(つたへまつ)りて、畿内(うちつくに)に流通(し)かしめて、
果(はたして)仏(ほとけ)の所記(しるせる)我が法(のり)東(ひむがし)に流(し)かしめまつらむ。」
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是日。
天皇聞已、歡喜踊躍、
詔使者云
「朕從昔來、
未曾得聞如是微妙之法。
然朕不自決。」
乃歷問群臣曰
「西蕃獻佛、相貌端嚴。
全未曾有、可禮以不。」
蘇我大臣稻目宿禰奏曰
「西蕃諸國一皆禮之、
豐秋日本豈獨背也。」
物部大連尾輿
中臣連鎌子同奏曰
「我國家之王天下者、
恆以天地社稷百八十神、
春夏秋冬祭拜爲事。
方今改拜蕃神、
恐致國神之怒。」
天皇曰
「宜付情願人稻目宿禰
試令禮拜。」
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聞已…〈北野本〉聞-已〔〔きこ〕して。又〔きこ〕しをへて。ハ:ヘの誤写か〕。
踊躍…おどりあがってはねる。
歓喜踊躍…〈釈紀-秘訓〉歓喜踊躍。
ほとはしる…[自]ラ四 驚いたり喜んだりして躍り上がる。
しめたまふ…平安時代以後の言い回しで、助動詞「しむ」は尊敬となる。
朕従昔来…〈北野本〉朕レ従昔來未曾得-聞也。
西播…〈北野本〉西-播。
端厳…〈北野本〉端-麗嚴イ。
きらきらし…[形]シク 姿や顔が整って美しい。
可礼以不…〈北野本〉可レカ礼以-不。
〈時代別上代〉句末に「以不・以否」をとる、漢籍の俗語体に近い漢文体にイナヤという古訓が多い。
稲目宿祢奏曰…〈北野本〉稲-目宿祢奏-曰ク〔イナヌ:イナメの誤写か〕。
一皆…〈汉典〉一律;全部。
中臣連鎌子…〈北野本〉鎌子。
社稷…①土地の神(社)と五穀の神(稷)。②国の守り神として祭る。その祠。(古訓) すめらおほもとを。
〈北野本〉我國-家之王天ノ下者恒以二天-地社-稷百-八-十神一
春夏秋冬祭拝為レ事。
国神…ここでは、豊秋津州〔とよあきつしま=日本国〕の「天神(あまつかみ)・地祇(くにつかみ)」の総称だから、地祇とは区別して「くにのかみ」と訓読すべきであろう。
付情願人稲目宿祢…〈釈紀-秘訓〉付二情願人稲目宿祢一。
付…[動] (古訓) つく。さづく。
情願…真心からの願い。
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是の日。
天皇(すめらみこと)聞こし已(を)へて、歓喜(よろこび)踊躍(ほとはし)りたまひて、
使者(つかひ)に詔(みことのり)云(のりたまはく)
「朕(われ)従昔(むかしより)来(このかた)、
未(いまだ)曽(かつて)如是(かく)微妙之(たへにある)法(のり)を得(え)聞かず。
然(しかれども)朕(われ)不自決(みづからきめたまはず)。」とのりたまふ。
乃(すなわち)群臣(まへつきみたち)に歴(めぐ)り問ひて曰(のたまへらく)
「西蕃(にしのくに)の献(たてまつりし)仏(ほとけ)、相貌(かほかたち)端厳(きらきら)しくありて、
全(またく)未(いまだ)曽(かつて)有らず。礼(ゐやま)ふ可(べ)きや以(もちゐること)不(あらじ)や。」とのたまへり。
蘇我大臣稲目宿祢(そがのおほむらじいなめのすくね)奏(まを)して曰(まをせらく)
「西蕃(にし)の諸(もろもろの)国一皆(ことごとく)之(こ)を礼(ゐや)びて、
豊秋日本(とよあきつやまと)豈(あに)独(ひとり)背(そむ)く也(や)。」とまをせり。
物部大連尾輿(もののべのおほむらじをこし)
中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)同(ともに)奏(まを)して曰(まをせらく)
「我が国家(くにいへ)之(の)王(おほきみのをさめたまふ)天下(あめのした)者(は)、
恒(つね)に天地(あめつち)の社稷(やしろ)の百八十(ももあまりやそ)の神を以ちて、
春夏秋冬(はるなつあきふゆ)祭(まつ)り拝(をろが)むを事と為(せ)り。
方(まさに)今(いま)改めて蕃神(えみしのかみ)を拝(をろが)まば、
国の神之(の)怒(いかり)に致(いた)らむことを恐(おそ)りまつる。」とまをせり。
天皇曰(のたまはひしく)
「宜(よろしく)情(こころより)願(ねが)へる人稲目宿祢(いなめのすくね)に付(さづ)けて、
礼(ゐやまひ)拝(をろが)ま令(し)むることを試(こころみ)るべし。」とのたまひき。
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小墾田…〈北野本〉安二-置小-墾-田家一。
懃修出世業爲因…〈釈紀-秘訓〉懃修二出レ世業一為レ因
〔懇ろに世を出(いづ)る業(わざ)を修めて因(よ)すとす〕。
向原家…向原家の跡地に豊浦寺が建ち、現在の「向原寺」〔明日香村字豊浦630〕に至ったという
(第235回《向原》)。
因…[名] 起こったことのより所。(古訓) よる。ちなみ。たね。
浄捨…「浄財」はけがれのない金。「喜捨」はすすんで財物を寺に寄付したり、人に施す。
愈…[副] (古訓) いよいよ。ますます。
民致夭残…〈釈紀-秘訓〉民致二夭残一。
夭…[動] わかじにする。(古訓) そこなふ。わさはひ。
| 残…[名] 〈汉典〉害。毀壊[destroy]。
昔日…むかし。さきごろ。「昔在」「昔時」「昔者」のいずれの古訓にも「ムカシ」がある。
さきつひ…[名] 過ぎし日。
須…[動] つかふ。もとむ。(古訓) もちいる。
斯…[指] この。(古訓) かかる。かくのことく。
懃…[副] ねんごろに。(古訓) ねむころに。
有司…〈北野本〉有司。
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縦…[動] はなつ。〈北野本〉以二佛-像一流二-捨
難-波堀-江一
復縦二火
於伽-藍一焼-燼更無レ余。
難波堀江…仁徳天皇段「掘二難波之堀江一而通レ海」(第163回)。
もえくひ(燼)…[名] 燃え残りの木。
忽炎大殿…〈釈紀-秘訓〉忽炎二大殿一。
【御読不可読之】忽炎【御読如此可読之〔みよみ、かく読むべし〕。大殿ヲ不可読也〔"大殿"を読むべからず〕】。
〔「天皇に講ずるときは"大殿"の部分を読むな」の意〕
炎…[動] 盛んに燃え上がる。やく。
との…[名] 貴人の住む御殿。
あらか…[名] 〈時代別上代〉用例はすべて神・天皇など貴人の居所についていう。
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大臣跪受而忻悅。
安置小墾田家、
懃修出世業爲因。
淨捨向原家、爲寺。
於後、國行疫氣、
民致夭殘、
久而愈多、
不能治療。
物部大連尾輿
中臣連鎌子同奏曰
「昔日不須臣計、致斯病死。
今不遠而復、必當有慶。
宜早投棄、懃求後福。」
天皇曰
「依奏。」
有司乃以佛像、流棄難波堀江。
復縱火於伽藍、燒燼更無餘。
於是、天無風雲、忽炎大殿。
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大臣(おほまへつきみ)跪(ひざまづ)き受けまつりて[而]忻悦(よろこ)びき。
小墾田(をはりた)の家(いへ)に安置(お)きて、
懃(ねもころに)世(よ)に出(い)づる業(わざ)を修(をさ)めて因(たね)と為(し)て、
向原(むかはら)の家を浄捨(ほどこ)して、寺(てら)と為(す)。
於後(のちに)、国疫気(えやみ)に行(し)きて、
民(たみ)夭残(いのちそこなへる)に致(いた)りて、
久(ひさしくあ)りて[而]愈(いよよ)多(さは)になりて、
治療(をさむること)不能(あたはず)。
物部大連尾輿(もののべのおほむらじをこし)
中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)同(ともに)奏(まをして)曰(まをせらく)
「昔日(むかし)臣(やつこ)の計(はかりこと)を不須(もちゐざ)れば、斯(かくのごとく)病(や)み死ぬることを致(いた)しき。
今、不遠(とほくあらず)して[而]復(かへ)さば、必ず慶(よろこび)有る当(べ)し。
宜(よろしく)早(すみやかに)投げ棄(う)てて、懃(ねもころに)後(のち)の福(さきはひ)を求めたまふべし。」とまをせり。
天皇曰(のたまひしく)
「奏(まをししこと)に依(よ)れ。」とのたまひき。
有司(つかさ)乃(すなはち)仏像(ほとけのみかた)を以ちて、難波(なには)の堀江(ほりえ)に流し棄(う)てぬ。
復(かさねて)火(ひ)を[於]伽藍(てら)に縦(はな)ちて、焼燼(もえくひ)更(さら)に余(あまり)無し。
於是(ここに)、天(あめ)に風(かぜ)雲(くも)無かりて、忽(ことごとく)大殿(おほとの)を炎(や)けり。
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是歲。
百濟、棄漢城與平壤。
新羅、因此入居漢城。
今新羅之牛頭方尼彌方也
【地名未詳】。
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牛頭方尼彌方…〈釈紀-秘訓〉牛頭方尼彌方。
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是の歳。
百済、漢城(かむじやう)与(と)平壌(へいじやう)とを棄(う)つ。
新羅、此(こ)に因りて漢城に入りて居(を)り。
今、新羅之(の)牛頭方(こつはう)尼彌方(にみはう)也(なり)
【地(ところ)の名未(いまだ)詳(つまひらか)にあらず】。
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《讃流通礼拝功徳云》
この部分には仏教用語が大量に使われ、〈北野本〉でも訓点が多く付されるので、参考のためにこの部分全体を〈北野本〉のままに示す。
北野本原文 | 読み下し文(推定) |
別-表讃二流-通礼-拝功-徳一云ク
是ノ-法於二諸-法-中ニ一
最為-殊-勝難レ解難入
周-公孔-子モ尚不レ能レ知
此-法能生無レ量無レ邊
福-徳果報乃-至成二-弁無-上ノ菩-提一
譬如三人ノ懷ニ隨レ意寶ヲ一
迹所ノ須二用-盡一依レ情
此妙-法ノ寶亦-復然祈-願依レ情無レ所レ乏
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別に表しまつりて、流通・礼拝・功徳を讃めて云く、
是の法、諸の法の中に於いて、
最為殊勝。解り難く入り難く、
周公・孔子も尚知ること能はず。
此の法能く生まれ量無く辺無し。
福徳・果報乃至、無上の菩提を成弁ふ。
譬へば、人の意の随に宝を懐に〔いるるが〕如し。
亦須く用ひ尽くすべき所、情に依り、
此の妙法の宝、亦復然り。祈願情に依りて、乏しき所無し。
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欽明天皇の第十九巻については〈北野本〉が最古とされるが、1352年頃〔室町初期〕に資継王が加点したと見られ比較的新しい。ただ、平安からの訓点を引き継いでいる部分も含まれるであろう。
(【五年十二月】)。
「わきまふ」は今昔物語(平安末)に見られるが、〈時代別上代〉の見出し語にはない。「なを(尚)」は、本来「なほ」であるが、
類聚名義抄(1100年頃)でもナヲと表記されている。
《百済王臣明》
『三国史記』(百済本紀)に 「〔523〕聖王:諱明襛。武寧王之子也。」、
『梁書』(列伝-諸夷)に「〔普通〕五年〔524〕。隆死。詔復以二其子明一為二持節督百済諸軍事綏東将軍百済王一。」とある。
聖王の別名は明襛、梁書の呼称は「明」である。
「明」の音は、呉音ミヤウ(みょう)、漢音メイ。唐代にはミンとなる。書紀の時期にはメイであろう。
北野本は「百済ノ王昆イ无臣明」〔「昆」異本に無し〕。
「昆」は兄の意。「昆臣」は中国古典にも見つからない語なので、「昆」は除いた方がよいだろう。
《陪臣》
江戸時代の仮名日本紀が陪臣にあてた「はべるやつこ」は、北野本にみえるヤツコ、内閣文庫本に見えるハベ〔ル〕などを総合したものであろう。
「百済のこきし臣やつこ」にも合わせたようである。
「臣」は一人称の遜称として使われるのは確かだが〔魏志倭人伝に註釈を加えた裴松之の自称など〕、
「陪臣」の「臣」はそれとは意味が異なる。
陪臣が直接仕えるのは臣だが、「臣を支えるという形で君主に仕える」とも言えるから、まだ「臣」本来の意味が潜んでいる。
だが上代語の「やつこ」は、君主に仕える「臣」よりは相当意味が広く、奴婢までも含んでいる。
この意味のずれを許容するよりは、音読の方が望ましいのかも知れない。
《奉伝帝国流通畿内果仏所記我法東流》
「奉」は動詞の前に置いて相手への敬意を表す副詞である。
〈北野本〉は「東流」の「東」をアヅマニと訓む。アヅマとは、倭建命が東国の制定に向かったときの足柄山・碓氷峠以東を指す。
つまり、まず畿内から、そして東国へ広げよと読んだわけである。
しかし「果仏所記我法東流」の「果」は総括の語だから、
「東」は倭国全体であろう。
つまり、西方の天竺から三韓に伝わった仏教を、東方の倭に伝えようという文だから、
「東」はアヅマではなくヒムガシである。
《可礼以不》
「以不」は直感的には"or not"と読める。古訓「イナヤ」もその解釈である。
しかし「中国哲学書電子化計画」で検索をかけてみると、実際には「以不」の次は、ほぼ100%動詞が置かれている。
動詞を省略して「以不。」を文末に置く例は、まだ一例も見つからない。
〈時代別上代〉は「漢籍の俗語体」と述べるが、全くの和習〔本来の漢文とは異なる日本独自の語法。和臭とも〕である。
《我国家之王天下》
「我国家之王天下者恒以天地社稷百八十神」は、要するに「我が国は、もともと天地の百八十神を祀る国である」と主張する。
「社稷」が一般にクニイヘと訓読されるのは、守り神を祀る中心施設が国そのものの意に転じたものである。
しかしこの文には「国家」もあるので、〈北野本〉は「国家」に不明瞭だが「ヤマト」を宛てたと思われる。
しかし、社稷はもともとは「社:土地の神」と「稷:五穀の神」で、この文中では「天地の百八十神」を祀るところだから「やしろ」で充分かと思われる。
〈北野本〉は、王を「キミスル」と訓んだと思われるが、「キミ」のサ変動詞による動詞化が上代にあったようには思えない。少なくとも万葉集には見えない。
「我…王」の形だから、
万葉の言い回し「(万)4254 吾皇乃 天下 治賜者 わがおほきみの あめのした をさめたまへば」に倣って
「わがくにいへのおほきみのをさめたまふあめのしたは」と訓めば、長くはなるが上代語として成り立つと思われる。
《蕃神》
「蕃神」を、
『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(以下〈元興寺縁起〉)
では「他国神」と表現している。
「第141回《西播》」
で論じたように、「西播」は基本的に朝鮮半島の国々を指すが、
語源的は古代の中華思想に基づく「西方の未開の国」である。
書紀ではさらに、神功皇后紀で規定した「属国」の性格を内包する。
ここでは感情的になった中臣連鎌子の口から出た言葉なので「蕃」の古い意味が蘇っているわけである。
すると、古訓による「となりの神」はここでは生温い。
だからと言って「えみしの神」ではが言い過ぎかも知れない。〈元興寺縁起〉の「他国神:あたしくにのかみ」を用いることも考えられる。
《縱火於伽藍》
書紀だけを見ると、伽藍を焼き尽くし釈迦仏像を難波堀江に流したのは伝来して間もなくのように読めるが、
『上宮聖徳法王定説』(後述)では、570年〔欽明紀では三十一年〕、〈元興寺縁起〉も「伝来より三十年余」(やはり570年頃)となっている。
書紀も、「伽藍」が焼き尽くされと書く。立派な伽藍ができるまでにはそれなりの年数がかかるから、
やはり欽明三十一年頃のことを、ここにまとめて書いたのであろう。
《牛頭方尼彌方》
〈釈紀-述義〉は、『天書』〔奈良時代末〕を引用する。
――「天書曰新羅與二高麗一共爵二百濟一取二漢城平壌一以二漢城一爲二牛頭一以二平壌一爲二彌方一。」
〔天書曰。新羅と高麗とともに百済に爵し、漢城平壌を取る。漢城を以て牛頭とし、平壌を以て弥方とす。〕。
「爵す」は、「爵位を授与する」=「諸侯国にする」意であろう。
しかし、この文は欽明紀十二年三月の「百済聖明王親率衆及二国兵往伐高麗。獲漢城之地。又進軍討平壌。」を解釈したに過ぎないと思われる。
実際には勝利者は新羅なので、よく「百済が爵す」などと言えたものである。
《大意》
〔十三年〕十月、
百済の聖明王(せいめいおう)【別名は聖王(せいおう)】は、
西部姫氏(せいほうきし)達率(たつそ)怒唎斯致契(ぬりしちけい)等を遣わして、
釈迦仏の金銅像一体、幡蓋(ばんがい)〔頭上の飾り〕若干、経論(きょうろん)若干巻を献上し、
別に流通、礼拝、功徳を賛美して上表しました。
――「この法は諸法の中で最も殊勝をなし、理解して受け入れることは困難です。
周公(しゅうこう)、孔子でも知ることはできませんでした。
この法は、よく無量無辺(むへん)の福徳果報を生み、
そして無上の菩提(ぼだい)を弁別します。
譬えれば、人が心のままに宝を懐に入れるように、必要なものを追うことはことごとく心に依り、
この妙法の宝もまた同じです。祈り願う心に依れば、乏しいことは何もありません。
また、この法は遠く天竺(てんじく)より、ここ三韓に至り、教えに帰依して齎(もたら)され、尊敬しないことなどありません。
この故に、百済王である臣、明は、謹んで陪臣の怒唎斯致契(ぬりしちけい)を遣わして、
帝(みかど)の国にお伝えし、畿内に流通させ、
仏を記した我が法の東方への流通を果たそうと存じます。」
この日、
天皇(すめらみこと)は聞き終えて歓喜踊躍し、使者に
「朕は昔よりこの方、未だかつてこのような微妙な法を聴くことができなかった。
しかしながら、朕が自分で決めることはしない。」と詔されました。
そして群臣に順番に、
「西蕃の献上した仏像は、相貌端厳〔=容姿端麗〕で、
まったく未だかつてないものである。拝礼すべきか、用いざるべきか。」と問われました。
蘇我大臣稲目宿祢(そがのおおむらじいなめのすくね)は
「西蕃の諸国は挙ってこれに拝礼し、豊秋日本(とよあきつやまと)が独り背くことなどありましょうか。」と申し、
物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)と
中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)はともに
「我が国家の王する天下は、恒に天地の社稷の百八十神を以って、
春夏秋冬に祭り拝むを事としてきました。
まさに今、改めて蕃神に拝礼すれば、国の神の怒をかうに至ることを恐れます。」申しました。
天皇は
「宜しく情願する人稲目宿祢に付して、礼拝させることを試みるべし。」と仰いました。
大臣(おおまえつきみ)は跪(ひざまず)いてお受けし、大いに喜びました。
小墾田(おはりた)の家に安置し、懇ろに出世の業(わざ)を修めて出発点として、
向原(むかはら)の家を浄捨して、寺としました。
後に、国に疫病が広まり、人民は夭残(ようざん)〔夭折して損なう〕に至り、久しくあっていよいよ多くなり、治療できませんでした。
物部大連尾輿と
中臣連鎌子は、ともに奏上しました。
――「昔日(しゃくじつ)は臣の策を用いられませんでした。そして、このように〔人民が〕病み死ぬこととなりました。
今、遠からず復すことにすれば、必ず慶事がありましょう。
宜しく、速やかに投げ棄てて、懇ろに後の福を求められますように。」
天皇は、
「奏上に依れ。」と仰りました。
官吏はそこで仏像を、難波の堀江に流し棄てました。
また、伽藍に火を縦(はな)ち、焼燼(しょうじん)〔焼け残り〕に残すものはありませんでした。
このとき、空に〔雨を降らすような〕風や雲も無く、ことごとく大殿を焼きました。
この歳、
百済は、漢城(かんじょう)と平壌(へいじょう)を放棄し、
新羅はこれによって漢城に入り、居すわりました。
今、新羅の牛頭方(こつほう)と尼彌方(にみほう)です
【この地名は未詳】。
【仏教公伝】
山の辺の道南端の大和川の北岸に「仏教伝来之碑」(右写真)が建っている。
この場所は欽明天皇磯城嶋宮の想定地(第238回)に近く、百済使が仏像・経典をもって船で難波から大和川を上り、この辺りから上陸したと想像されている
(武烈即位前《海柘榴市》)。
なお、仏教公伝は戊午年〔538〕とも言われる(後述)。
《献釈迦仏金銅像一躯幡蓋若干経論若干巻》
欽明紀十三年〔壬申;552〕によれば、救兵の要請から五か月が過ぎた十月に、仏像・幡・経論がもたらされた。
倭が救兵要請になかなか応じないのは、依然として任那再建を見据えて百済・新羅を両天秤にかけていたからであろう。
百済はその倭の態度の根源に何があるのかを探り、大陸とは異質な宗教の存在に行き着いたと見られる。
倭の宗教は天照大御神の子孫が国を治めるとするもので、朝鮮半島南部に関しては、百済・新羅を横並びでその下に置くものであった。
そこで、倭を百済が独占し、百済-倭ブロックを完成させるには、この独自の宗教の克服が必須となった。
このとき百済には、高度の哲学と完成度の高い美した術品を内包する仏教が発展しつつあった。
それを用いて、倭を精神面から同一圏に巻き込もうというわけである。
これは、15~17世紀にスペイン・ポルトガルの世界への勢力圏の拡大において、キリスト教布教を先行させたことに準えることができる。
《蘇我氏vs物部氏&中臣氏》
外来の仏教の美術品も教義も魅力的であったと思われ、急速に国内に広まる可能性がある。
しかし、そこに反作用が生ずるのもまた当然である。すなわち、民族固有の宗教・文化を守り抜こうとする勢力も力を得る。
幕末の日本において、西欧化に列強の日本進出を見て攘夷派が抵抗したのと同じ図式である。
外来の仏教受容派が蘇我氏、排斥派が物部氏・中臣氏であった。
中臣氏は祝詞を担当するなど、天照大御神の宗教的伝統を後々まで保持する中核である。
また物部氏は、独自の饒速日命の降臨神話をもち、本来は外様であったが
(資料[35])、
神武天皇の頃からがっちりと天孫勢力と結びついて支えてきた。
中臣物部両氏は、後に推古朝で仏法を受け入れざるを得なくなっても「左肩三宝〔仏法〕坐。右肩我神〔神祇〕坐。」
(元興寺伽藍縁起并流記資財帳)と申し、すなわち仏:神=50:50に留まり思い切りが悪い。
高皇産霊神を祖とする神学の大系からは脱することができないのである。
奈良時代以後の神仏習合の種は、ここにあったかと思わせる。
すると明治維新における仏教の排除は、1200年ほどの伝統を断ち切る過激な所為であったということである。
この神祇教原理主義者ともいうべき物部氏・中臣氏に対して、
蘇我氏はもともとまとめて葛城氏と称されるものの一族と見られる
(第162回【葛城部】)。
一応祖を竹内宿祢とするが(第108回)、属する諸族ごとに祖神を祀るのは自由であったのかも知れない。
天孫勢力の傍系にいたからずっと身軽で、仏教への抵抗感もなかったと思われる。
【仏教公伝538年説】
百済王から釈迦像・経典が贈られた時期について、書紀は壬申年〔552〕とする。
しかし、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』と『上宮聖徳法王帝説』では、戊午年〔538〕としていて、
現在一般的には、こちらが採用されている。
前者については、別ページで精読しつつある。
ここでは、後者の関係個所を読み、この二説の対立をどう捉えるべきかを考察する。
《上宮聖徳法王定説》
『上宮聖徳(じょうぐうしょうとく)法王帝説』(以下〈聖徳帝説〉)は、平安時代にまとめられた書で、いくつかの点で記紀の相違があるという。
その印影本〔古典保存会;1928〕を、
国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができる。
同本に付された「解説」によれば、平安期に法隆寺の住侶「僧相慶」が所蔵していたもので、
「書風字体等より観れば平安期中期〔9世紀後半~11世紀末〕を下らざるものなるが如し」という。そして、
「最古の聖徳太子伝にして、記事質実にして信ずべく、他に所伝なき異聞旧記を存して正史〔書紀など〕の闕を補ふ」書であると評価している。
この書をざっと見たところでは、聖徳太子にかかわる古文献から抜き書きしてまとめたものである。
そのうち、仏教公伝に関する部分は次の通りである。
志关嶋天皇御世 代午年十月十二日
百済國主明王 始奉度佛像經敎并僧等
勅授蘇我稲目宿禰大臣 令興隆也
庚寅年 焼滅佛殿 佛像流却於難波堀江
小治田天皇御世 乙丑年五月
聖與德王嶋大臣 共謀建立佛法
更興三寶 即准五行
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志关〔癸〕嶋(しきしま)の天皇(すめらみこと)〔欽明〕の御世、代〔戊〕午(つちのえうま)の年〔538〕十月(かむなづき)十二日(とかあまりふつか)。
百済(くたら)の国主(こきし)明王(めいわう)始めて仏像(ほとけのみかた)経教(きやうけう)并(ならびに)僧(そう)等(ら)を奉度(わたらしめまつりき)。
勅(みことのり)して蘇我稲目宿祢大臣(そがのいなめのすくねのおほまへつきみ)に授(さづ)けて 令興隆(たかめしめ)たまひき。
庚寅(かのえとら)のの年〔570〕、仏殿(ぶつでむ)を焼き滅ぼして、仏像を難波(なには)の堀江(ほりえ)に流却(なが)しき。
小治田(をはりた)の天皇〔推古〕の御世、乙丑(きのとうし)の年〔605〕五月(さつき)、
聖徳(しやうとく)の王(みこ)与(と)嶋大臣(しまのおほまへつきみ)〔蘇我馬子〕と、共に謀りて仏法(ほとけののり)を建立(こむりふ)して、
更に三宝(さむほう)を興して、即ち五行(ごぎやう)に准(なら)ひたまひき。
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庚寅…書紀では欽明三十一年。
三宝…仏法僧。五行…布施・特戒・忍辱・精進・止観。
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蘇我稲目による「焼二-滅仏殿一。佛像流二-却於難波堀江一」については、
〈聖徳帝説〉では具体的な年「庚寅年」〔570〕が示される。
書紀には年は示されない。
『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では「(538年から)三十余年を経て」となっている。
《志帰嶋天皇四十一年》
〈聖徳帝説〉の末尾には、
志帰島天皇・他田天皇・池辺天皇・倉橋天皇・少治田天皇それぞれの、在位年数・崩年月・陵のリストがある。
欽明帝については「志歸嶋天皇治天皇卌一年 辛卯年四月崩 陵檜前坂合岡也」とある。
影印本(右図)を見ると「卌一」を一文字ずつ斜線で消し、「正代云卅二年文」と傍らに書き添えている。
言うまでもなく、書紀に順えば「三十二年」である。筆跡から見て、筆写者による訂正か。
『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(以後〈元興寺縁起〉)には、
「治二天下一七年歳次戊午」とある。
それにしたがえば、欽明元年は壬子〔532〕となる。
〈聖徳帝説〉の在位年数「四十一年」によれば、欽明元年は辛亥〔531〕となり、〈元興寺縁起〉とは一年ずれる。
書紀では一般的には即位年の翌年が「元年」だから、四十一年を「即位した年を含めて41年」
と解釈すれば〈元興寺縁起〉と〈聖徳帝説〉を一致させることができる。
天皇名 | 元年(書紀) | 上宮聖徳法王帝説
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志帰島天皇〔欽明〕 | 庚申〔540〕 | 四十一年 辛卯年〔571〕崩
| 他田天皇〔敏達〕 | 壬辰〔572〕 | 十四年 乙巳年〔585〕崩
| 池辺天皇〔用明〕 | 丙午〔586〕 | 三年 丁未年〔587〕崩
| 倉橋天皇〔崇峻〕 | 戊申〔588〕 | 四年 壬子年〔592〕崩
| 少治田天皇〔推古〕 | 癸丑〔593〕 | 三十六年 戊子年〔628〕崩
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もう少し厳密に判断するために、〈聖徳帝説〉での在位年数の数え方を見る(右表)。
これを見ると、敏達・崇峻・推古は「元年~崩年」で数え、用明のみ「即位年~崩年」である。
常識的には元年から数えるものだと思われるから、用明天皇の例は、誤り若しくは書紀とは別伝によったものだろう。
つまり、欽明天皇の即位は〈元興寺縁起〉と〈聖徳帝説〉の間の一年の差は動かせないが、
それでも531年頃に欽明朝が始まったとする説もあったのだろう。
それでは、これと書紀の「安閑元年:甲寅〔534〕」、「宣化元年:丙辰〔536〕~四年:己未〔539〕」とは、どう折り合いをつけたらよいのだろうか。
〈聖徳帝説〉の全体を見ると、「伊波禮池邊双槻宮治天下橘豊日天皇」〔用明〕から始まり、
その皇子たちの名も載る。
御子や臣などの関連人物名が載ること自体が、その文書の歴史記録としての真実性を増すと考えてよいだろう。
同様に崇峻朝から推古朝の人物にも具体性がある。
ところが、遡って「戊午年〔538〕…始奉度仏像経教并僧等」と、
「庚寅年〔570〕」の「焼滅仏殿」の間を見ると、人名どころか事柄が皆無である。
〈元興寺縁起〉でもこの期間は空白である。
つまり、「戊午年」の信憑性は、570年以後よりも明らかに劣る。
書紀が著されたのは〈聖徳帝説〉の該当部分より後のことかも知れないが、
安閑紀と宣化紀に妃や御子の名が具体的に載るのを見れば、少なくとも534~549の時期は書紀の方が詳しい。
安閑・宣下の年代の資料は、書紀の調査によって初めて得られた可能性※があり、この記録が知られるまでは「531年頃から欽明朝」と信じられていたのだろう。
〈元興寺縁起〉や〈聖徳帝説〉の「戊午年」〔538〕は書紀以前のものかも知れないが、書かれた時期が古いからと言って自動的に信頼度が高まるわけではない。
多数決で2:1という考えについても、〈元興寺縁起〉と〈聖徳帝説〉が同一の資料から派生したものだとしたら成り立たない。
このように考えると、538年説に特に優位性があるとは思えない。
※…書紀が新しく得た資料により、古事記の記述を修正したと見られる個所が実際にある(応神天皇二十二年【御友別一族】)。
その背景には、朝廷が諸族に提出させた氏文(うじふみ)の存在が考えられる
(高橋氏文、
資料37【布留宿祢】)。
《欽明天皇の即位年》
〈元興寺縁起〉で538年が「治二天下一七年」というところはあまり現実的ではないが、
538年まで動かすだけのことならそんなに困難ではない。
というのは、宣化天皇紀三~四年には実質的に事績がないからである。
実際には宣化天皇三年=戊午年〔538〕に欽明天皇が称制していたことにすれば、小さな書き換えで済む。
《書紀による操作》
別の考えとしては、書紀は実は「戊午年」とする伝承は既に承知していたが、
それでも敢て壬戌年まで時期を下らせたと考えることも可能である。
というのは〈欽明紀〉六年に「百濟造丈六佛像。製願文」とあるからである。
書紀スタッフは、百済から贈られた釈迦像に線刻された願文に、「丙申年」〔欽明六年〕の日付があったことを知った。
それによって願文製作の記事を六年に載せるとともに、仏教公伝を壬戌年〔十三年〕に動かしたというストーリーが考えられる。
ただ、それなら欽明六年より後ならいつでもよいはずだが、それがなぜ「十三年」なのかという問題が新たに生じる。
壬戌年〔552〕とする言い伝えもまた、古くからあったのかも知れない。
まとめ
推古天皇紀では、高麗僧・百済僧が幾度か登場するが、「新羅僧」はない。
「新羅僧」は持統紀に一例あり、また木造九層塔を備えた皇竜寺があるように、新羅も仏教国である。
しかし、倭への仏教の流入が主に百済からであったのは疑いないところである。
倭の仏教化は、精神面でも百済と倭の一体化を深め、同盟して新羅と戦おうという百済の戦略の一環であると考えられる。
タイミングを見ると、新羅との関係が再び悪化した百済は南部戦線への倭の救援を求め、色よい返事が得られなかった直後である。
この国際情勢から見れば、仏像・経典などの献上と仏法流布の勧めが552年の十月とすれば時宜に適っている。
なお、穿った見方をすれば、書紀筆者がこのような見解をもっていたから、ここに置いたのかも知れない。
ただ、仏教公伝が仮に538年だったとしても、百済がその頃からこの戦略をもっていたと考えて差支えないだろう。
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2020.09.03(thu) [19-14] 欽明天皇14 ▼▲
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21目次
【十四年正月~七月】
《百濟遣上部德率科野次酒杆率禮塞敦等乞軍兵》
十四年春正月甲子朔乙亥。
百濟遣
上部德率科野次酒
杆率禮塞敦等、
乞軍兵。
戊寅。
百濟使人中部杆率木刕今敦
河內部阿斯比多等、罷歸。
|
上部徳率科野次酒…〈釈紀〉上-部德率科野。次酒。
杆-率礼塞敦。
上部…〈上部都德己州己婁(安閑元年)。
徳率…〈釈紀〉徳率(欽明四年)。
中部杆率木刕今敦…〈釈紀〉中-部。木刕。今敦
(欽明十三年五月)。
河内部阿斯比多…河内部阿斯比多(欽明十三年五月)。
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十四年春正月(むつき)甲子(きのえね)を朔(つきたち)として乙亥(きのとゐ)〔十二日〕。
百済(くたら)[遣]
上部(しやうほう)徳率(とくそつ)科野(しなの、くわや)次酒(ししゆ)、
杆率(かんそつ)礼塞敦(らいそくとむ)等(ら)をつかはして、
軍兵(つはもの)を乞(こ)ひまつる。
戊寅(つちのえとら)〔十五日〕。
百済の使人(つかひ)中部杆率(ちふほうかむそつ)木刕今敦(もくけふこむとむ)、
河内部阿斯比多(かふちべのあしひた)等(ら)、罷(まか)りて帰る。
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夏五月戊辰朔。
河內國言
「泉郡茅渟海中有梵音、震響若雷聲、
光彩晃曜如日色。」
天皇心異之、遣溝邊直
【此但曰直、不書名字。蓋是傳寫誤失矣】
入海求訪。
是時、溝邊直入海、果見樟木浮海玲瓏。
遂取而獻天皇。
命畫工造佛像二軀。今吉野寺放光樟像也。
|
夏五月(さつき)戊辰(つちのえたつ)の朔(つきたち)。
河内国(かふちのくに)言(まをさく)、
「泉郡(いづみのこほり)の茅渟海(ちぬのうみ)の中(わたなか)に梵音(ぼむおむ)有りて、震(ふる)へる響(ひびき)雷(いかづち)の声(こゑ)の若(ごと)し、
光彩晃曜(ひかりかかや)きて、日の色の如し。」とまをす。
天皇(すめらみこと)心(みこころ)に之(こ)を異(あやし)びて、溝辺直(みぞのへのあたひ)を遣(つか)はして
【此(こ)は但(ただ)直(あたひ)と曰ひて、名(な)の字(じ)を不書(かかず)。蓋(けだし)是(これ)伝(つ)て写(うつ)すに誤(あやま)ちて失(う)せり[矣]】、
海(わた)に入りて求(ま)ぎ訪(たづ)ねき。
是の時、溝辺海(わた)に直(ひた)入れば、果たして樟木(くすのき)海に浮かびて玲瓏(かがや)けるを見ゆ。
遂に取りて[而]天皇に献りき。
画工(ゑたくみ)に命(おほ)せて仏像(ほとけのみかた)二躯(ふたはしら)を造らしめて、今吉野の寺の光を放てる樟像(くすのみかた)也(なり)。
泉郡…和泉国は、霊亀二年〔716〕以前は河内国に属していた(允恭八年)。
くす…[名] くすのき科の常緑高木。〈時代別上代〉材は木目が美しく、舟や器具を作り、また樟脳を製するのに用いる。
梵音…〈汉典〉①梵唄。 ②仏教謂二大梵天王所出的音声一。亦指二仏、菩薩的音声一。 ③猶梵語。亦泛指二印度的語言一。
〔①偈頌などを歌う。②大梵天王〔バラモン教の宇宙創造の神〕の出す音声をいう。また仏、菩薩の声。③梵語(サンスクリット)、またその発音。
〈釈紀-秘訓〉有-梵-音〔法の音す〕。
晃曜…ひかり輝くさま。〈汉典〉同"晃耀"。
| 溝辺直…〈姓氏家系大辞典〉「溝辺 ミゾベ:①溝辺直 欽明紀十四年条に見ゆ。
②丹波の溝辺氏 氷上郡の名族にして… ③大隅の溝辺氏 姶良郡の溝辺邑より起る。…」。
〈釈紀-秘訓〉溝邊直。
名字…〈釈紀-秘訓〉不 レ書二名-字一〔名字を書かざることは〕。
茅渟海…「(万)0999 従千沼廻 ちぬみより」。「(万)1145 陳奴乃海尓 ちぬのうみに」。
玲瓏…(古訓) かかやいて。てる。 (第86回【一書6】)。
画工…大同三年〔808;平安時代初期〕、画工司が内匠寮に吸収された記録がある。
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内臣…〈汉典〉①国内之臣、亦指二属レ下諸侯一。②官禁親近之臣。③宦官、太監。
同船…〈釈紀〉同船
もろきふね…木材を組んで作った船。「諸木船」。
王…〈内閣文庫本〉随王所ノ須〔こきしのもちいむところのままに〕。
医…〈北野本〉醫。〈内閣本〉醫。
くすりし…[名] 医師。
| 易…〈北野本〉易-博-士。〈内閣本〉易博士。
易…[名] 周易(六十四卦を解説する書)。(呉音) やく。(漢音) えき。
番…〈内閣文庫本〉番上下。
つがふ…[動]〈時代別上代〉未詳。順序に従うなどの意か。
たがひに…[副] かわるがわるに。
上下…〈釈紀-秘訓〉上下。
〈内閣文庫本〉上下。
| 今上件…〈北野本〉今上-件。〈岩波文庫〉「今上件」。〈内閣文庫本〉令今イ上件。
くだんの…[連体詞] 平安:前述の。
くだり…[名]上代:「下る」の名詞形。平安以後:文章の一行。
色…[名] 一種類。(古訓) くさ。しな。
暦本…〈北野本〉暦本。〈内閣文庫本〉暦ノ本。
ためし…[名] 〈時代別上代〉手本。〈古語林〉前例。手本。「楊貴妃の例〔ためし〕も引き出で…」
薬物…〈北野本〉薬-物。
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|
六月。
遣內臣【闕名】使於百濟、
仍賜良馬二匹同船二隻弓五十張箭五十具。
勅云
「所請軍者、隨王所須。」
別勅
「醫博士易博士曆博士等、宜依番上下。
今上件色人、正當相代年月、宜付還使相代。
又卜書曆本種々藥物、可付送。」
|
六月(みなつき)。
内臣(うちつおみ)【名を闕(か)く】を遣はして[於]百済(くたら)に使(つかひ)せしめて、
仍(すなはち)良馬(よきま)二匹(ふたつ)同船(もろきふね)二隻(ふたつ)弓五十張(いそはり)箭(や)五十具(いそそなへ)を賜りて、
勅(みことのり)云(のりたまはく)
「所請(ねがひたまふ、ねがはむ)軍(いくさ)者(は)、王(きみ)の所須(もとめたまはむ、もとめむ)隨(まにまに)。」とのりたまひて、
別(わ)けて勅(みことのり)のりたまひしく
「医(くすりし)の博士(はかせ)、易(やく)の博士、暦(こよみ)の博士等(ら)、宜(よろしく)番(たがひに)上下(かみしも)なすに依(よ)るべし。
今、上(かみつ)件(くだり)の色(しな)の人、正当(まさに)相代(あひか)ふるべき年月(としつき)に、宜(よろしく)還使(かへりつかひ)に付けて相代(あひか)ふべし。
又、卜書(うらのふみ)、暦本(こよみのふみ)、種々薬物(くさぐさのくすりもの)、付(そ)へ送る可(べ)し。」とのりたまひき。
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秋七月辛酉朔甲子。
幸樟勾宮。
蘇我大臣稻目宿禰、奉勅遣王辰爾、
數錄船賦。
卽以王辰爾爲船長、因賜姓爲船史。
今船連之先也。
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樟勾宮…〈内閣文庫本〉樟ノ勾宮二。
王辰爾…応神朝に「有識者」として招かれた辰孫王の子孫(〈敏達紀〉元年五月)。
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秋七月(ふみづき)辛酉(かのととり)を朔(つきたち)として甲子(きのえね)〔四日〕。
樟勾宮(くすのまがりのみや)に幸(いでま)す。
蘇我大臣(そがのおほまへつきみ)稲目(いなめ)の宿祢(すくね)、勅(みことのり)を奉(たてまつ)りて王辰爾(わうしむに)を遣(つかは)して、
船(ふね)の賦(みつき)を数(あまた)録(しる)さしむ。
即(すなはち)王辰爾を以ちて船長(ふなをさ)と為(し)て、因りて姓(かばね)を賜りて船史(ふなのふみひと)と為(し)たまひき。
今の船連(ふなのむらじ)之(の)先(さきつおや)也(なり)。
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《画工》
画工は、大同三年〔808〕に内務省内匠寮に併合された。
――『令義解』官位令:「畫工大同三年併内匠寮」
――『後紀』逸文集:(『類聚國史』一〇七内匠寮)「其画工漆部二司、併内匠寮。」
その「内匠寮」は令外官で、728年8月に設置された。
――〈続紀〉神亀五年〔728〕「○八月甲午※。勅始置内匠寮。頭一人。助一人。大允一人。少允二人。大属一人。少属二人。史生八人。使部已下雑色匠手各有数。」
※…八月は甲子朔。「甲午」は31日というあり得ない日付になるので、「甲子」の誤りと見られる。
《宜依番上下》
「正当相代年月、宜付還使相代」は、その前の「依番上下」を詳しく説明したもの。
つまり「上下二人の当番制として、交代の時期になったら送使を付けて送る」という意味である。
この「上下」を古訓は「まゐきてまかる〔参来而罷〕」と解釈しているが、交代制における「上番・下番」の意味であるのは明らかである。
《暦本》
古訓「コヨミノタメシ」のタメシは"先例"を意味し、方丈記〔鎌倉時代〕「かゝるためしはありけると聞けど、その世のありさまは知らず。」などを見ると、ほぼ現代のタメシと同じと見られる。
確かに二十四節季にある「啓蟄」や「霜降」などの語感は文学的で、「暦本」を歳時記の類と受け止めた場合は、「ためし」という表現もありそうである。
しかし、「暦本」とは天文学及び数学の範疇に属する理論と数値の一覧表であるのは明らかである。
本サイトでも数値モデルによる元嘉暦の再現を試みているが、暦本とはその類の膨大な理論と計算結果であろう。
「コヨミノタメシ」という訳語には、二十四節季と宮中行儀の一覧のようなイメージがある。
しかし、このときに得た「暦本」は、実際にはそれを基礎として陰陽寮において科学としての暦法を学び、天体観測を行ったと考えられる。
暦の制定は、国家の基本機能のひとつである。暦本とは天体の運行に基盤を置く数式と数値の塊であり、決して情緒的な書ではない。
《吉野寺放光樟像》
〈五畿内志-吉野郡〉は【仏刹】の項で、比蘇寺の起源が〈欽明紀〉のいう「吉野寺」であると述べる。
――「比蘇寺【池田荘比曽村一名現光寺又名吉野寺
日本紀曰 欽明天皇十四年夏五月 天皇命二良工一造二佛像一軀一今吉野寺放光樟像也
元慶四年十一月遣二使於現光寺一燒燈嚫綿以修二功德一即此】」
〔池田荘比曽村。一名(あるな)現光寺。又の名吉野寺。
日本紀に曰ふ「〔略〕」。元慶四年〔880〕十一月。使(つかひ)を現光寺に遣はし、
焼灯嚫綿(せうとうしんめん)〔灯を焚き綿を寄進する〕、以て功徳を修むは即ち此れなり〕。
比蘇寺は、現在の「世尊寺」(せそんじ;奈良県吉野郡大淀町比曽762)にあたるとされる。
そして一般には、世尊寺の起源が書紀の「吉野寺」にあると見做されている。
別項で、『西国三十三所名所図会』や、『現光寺縁起絵巻』などをみる。
《樟勾宮》
樟勾宮は、樟葉宮と名前が似る。
継体帝の樟葉宮(第230回)は、
近江国の氏族を糾合する拠点と考えた。
一方、磐井の乱(第232回)では、筑紫~難波ルートを中央権力の直轄的な支配下に置こうとする動機を見た。
三韓から貢を満載してやって来た船は、難波津に着く。
そして大和川を通って飛鳥、泊瀬の都に届いたと思われるが、その大和川と木津川の分岐点が、樟葉宮の想定位置であった。
貢が中抜きされないように、また通航船の積荷の税を確実に徴収するように、関所が置かれたのも樟葉宮の辺りではないかと考えられる。
〈安閑天皇紀〉では、紀国の経湍屯倉・河辺屯倉などに関所の機能を想定した。
樟葉宮も関所の機能をもつ屯倉の中にあり、欽明朝のときの宮は樟勾宮と呼ばれたという想像も可能である。
そして、そのマネージメントを王辰爾に掌らせたことが考えられる。
《大意》
十四年正月十二日、
百済は
上部(じょうほう)徳率(とくそつ)科野(しなの)と次酒(ししゅ)、
杆率(かんそつ)礼塞敦(らいそくとん)等を遣わして、
軍兵(つはもの)を乞いました。
十五日、
百済の使者、中部杆率(ちゅうほうかんそつ)木刕(もくきょう)と今敦(こんとん)、
河内部(かわちべ)の阿斯比多(あしひた)等は、退出して国に帰りました。
五月一日。
河内の国が報告しました
――「泉郡の茅渟(ちぬ)の海中に梵音(ぼんおん)があり、響き震えるさまは雷鳴の如くで、
光輝き、太陽の光の如くです。」
天皇(すめらみこと)は心から怪しみ、溝辺直(みぞのへのあたい)を遣わして
【ここではただ"直"言い、名の字が書かれない。
恐らくは写し伝わるうちに誤って失なわれたものであろう】、
海に入って探り求めました。
この時、溝辺が海に真っ直ぐに入っていくと、果たして樟(くすのき)が海に浮かび玲瓏たるさまを見ました。
遂に取って天皇に献上しました。
画工(えたくみ)に命じて仏像二体を造らせ、今、吉野の寺で光を放つ樟像です。
六月、
内臣【名を欠く】を百済に使者として遣し、
良馬二匹、両木船(ふたきぶね)二隻、弓五十張り、矢五十具(そろ)えを賜り、
勅しました。
――「軍を要請されるとなれば、王が必要とするままに送りましょう。」とおっしゃりました。
別に勅しました。
――「医博士、易博士、暦博士たちを、番を上下して派遣してください。
今挙げた各種の人は、ちょうど交代する時期になったら、還しの使者つけて交代させましょう。
また、卜書、暦本、種々の薬物を、いっしょに送ってください。」
七月四日、
樟勾宮(くすまがのみや)にお出かけになりました。
蘇我大臣(そがのおおまえつきみ)稲目(いなめ)の宿祢(すくね)は、勅をお受けして王辰爾(おうしんに)を遣わし、
船の賦〔租税〕を数多く記録させました。
そして王辰爾を船長(ふなおさ)とし、姓(かばね)を賜って船史(ふなのふみと)とされました。
今の船連(ふなのむらじ)の)祖先です。
22目次
【十四年八月】
《百濟遺上部奈率科野新羅下部固德汶休帶山等上表》
八月辛卯朔丁酉
百濟遺上部奈率科野新羅
下部固德汶休帶山等、
上表曰
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新羅…〈釈紀-秘訓〉上-部奈-率科野。・新羅ノ下-部固德汶休帶山。
〈北野本〉新-羅。
〈内閣文庫文〉信野・新羅ノ下部。
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八月(はつき)辛卯(かのとう)を朔として丁酉(ひのととり)〔七日〕。
百済[遺]上部(しやうほう)奈率(なそつ)科野(しなの、くわの)、新羅(しら)〔人名〕、
下部(かほう)固徳(ことく)汶休(もむきう)、帯山(たいせむ)等(ら)をまだして、
表(ふみ)を上(たてまつ)りて曰(まをさく)。
|
「去年臣等同議、遣內臣德率次酒
任那大夫等、奏海表諸彌移居之事。
伏待恩詔、如春草之仰甘雨也。
今年忽聞、新羅與狛國通謀云
『百濟與任那頻詣日本、
意謂是乞軍兵伐我國歟。
事若實者、國之敗亡可企踵而待。
庶先日本軍兵未發之間、
伐取安羅、絶日本路。』
其謀若是。
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海表…南韓の国(清寧三年九月)。
あふぐ…[自]ガ四 待望する。
企踵…〈汉典〉「提二-起脚跟〔=heel〕一。形二-容急切盼望的様子一。」
〈内閣文庫本〉企-踵。
庶…〈古訓〉[形・名]もろもろ。[副]こひねかはくは。〈内閣文庫本〉庶ハ先。
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「去年(こぞ)、臣(やつこ)等(ども)同(ともに)議(はか)りて、内臣(うちつおみ)徳率(とくそつ)次酒(ししゆ)を遣(まだ)して、
任那(みまな)の大夫(おみ)等(ども)、海表(わたのほか)の諸(もろもろの)弥移居(みやけ)之(の)事を奏(まを)す。
伏して恩(めぐみ)の詔(みことのり)を待ちまつること、春草(はるくさ)之(の)甘雨(うましあめ)を仰(あふ)ぐが如し[也]。
今年(ことし)忽(たちまちに)聞くに、新羅(しらき)与(と)狛(こま)の国、謀(はかりごと)を通(とほ)して云(まを)ししく
『百済(くたら)与(と)任那(みまな)、頻(しば)日本(やまと)に詣(まゐで)て、
意(こころ)是(これ)軍兵(いくさ)を乞(こ)ひまつりて我(わ)が国を伐つところにありと謂(い)ふ[歟]。
事(こと)若(も)し実(まこと)なら者(ば)、国之(の)敗亡(やぶれほろぶこと)企踵(くひひすをあげて)[而]待つ可(べ)し。
庶(こひねがはくは)先に日本(やまと)の軍兵(いくさ)の未発之(いまだたたざる)間(ま)に、
安羅を伐ち取りて、日本(やまと)の路(みち)を絶(た)たむ。』と、
其の謀(はかりごと)是(かく)の若(ごと)くまをしき。
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臣等聞茲、深懷危懼、
卽遣疾使輕舟馳表以聞。
伏願、天慈速遣前軍後軍相續來救。
逮于秋節、以固海表彌移居也。
若遲晩者、噬臍無及矣。
所遣軍衆來到臣國、衣粮之費、
臣當充給。
來到任那、亦復如是。
若不堪給、臣必助充、令無乏少。
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軽船…船足の早い船。
噬…[動] かむ。(古訓) かむ。くらふ。はむ。ふふむ。
噬臍…〈汉典〉「比二-喩後悔不一レ及」。
〈内閣文庫本〉噬臍〔ほぞをくふ〕。
ほそ…[名] へそ。〈時代別上代〉「ソは名義抄にも濁点なく、清音とみられる。」
「ホソクラフは、悔いても及ばぬの意であり、へそを噛もうと思っても届かないところに基づく。
左伝(荘公六年)などの漢籍によることば。」
|
臣(やつこ)等(ども)茲(こ)を聞きて、深く懐(こころ)に危(あやぶ)み懼(おそ)りて、
即ち疾使(ときつかひ)を遣(つかは)して軽舟(はやふね)に馳(は)せて表(ふみ)をたてまつりて以ちて聞きまつらしむ。
伏して願はくは、天慈(あまつめぐみ)をたれたまひて速(すみやかに)前軍(まへのいくさ)後軍(しりへのいくさ)を遣して相(あひ)続(つつ)けて来(き)救ひたまへ。
[于]秋節に逮(いた)りて、以ちて海表(わたのほか)の弥移居(みやけ)を固めむ[也]。
若(も)し遅晩(おくるること)あら者(ば)、臍(ほそ)を噬(か)むに及ぶこと無し[矣]。
所遣(つかはさえし)軍衆(いくさびと)臣(やつこ)の国に来到(きたら)ば、衣(きぬ)粮(かて)之(の)費(あたひ)は、
臣(やつこ)当(まさに)充(あ)て給(たま)ひまつるべし。
任那に来到(きた)らば、亦復(また)是(かくの)如し。
若し不堪給、臣必ず充(あつること)を助けて、乏(とぼしく)少(すこ)しきこと無(な)から令(し)めまつらむ。
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別的臣、敬受天勅、來撫臣蕃、
夙夜乾々、勤修庶務。
由是、海表諸蕃、皆稱其善、
謂當萬歲肅淸海表。
不幸云亡、深用追痛。
今任那之事、誰可修治。
伏願、天慈速遣其代以鎭任那。
又復海表諸國甚乏弓馬、
自古迄今受之天皇以禦强敵。
伏願、天慈多貺弓馬。」
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夙夜…朝はやくから夜おそくまで。
乾乾…怠らずに努力するさま。
〈内閣文庫本〉夙夜乾々。
庶…[形] (古訓) もろもろ。
不幸云亡…〈内閣文庫本〉不幸云二巳シカ\/ イフ。
〈北野本〉不レヤ幸云-云。
深用追痛…〈内閣文庫本〉深用テ追テ痛ム〔ふかくもておひていたむ〕。
〈北野本〉深用二追-痛一〔深く追ひ痛むことを用ふ〕。
追…[動]〈汉典〉②回二-溯過去一、補レ做二過去的事一〔過去に倣って補う〕:~溯。~悼。~加。~認。
痛…[動] ①(生体反応として)痛む。②悲しみなげく。
之…[前] 前置詞として、「於」と同様に用いることがある。
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別(わ)けて的臣(いくはのおみ)、天(あまつ)勅(みことのり)を敬(つつしみ)受けて、臣(やつこ)の蕃(くに)に来たり撫(な)でて、
夙夜乾々(しゆくやげんげん、よるひるにつとめて)、庶(もろもろ)の務(つとめ)を勤(つつしみ)て修(をさ)めてあり。
由是(このゆゑに)、海表(わたのほか)の諸蕃(もろもろのくに)、皆其の善きを称(ほ)めまつりて、
当(まさに)万歳(よろづとせ)海表(わたのほか)を肅清(しづめきよ)むべしと謂(まを)しき。
不幸(さきはひならざりて)云亡〔云々〕(しかしか)、追ひて痛(いた)むゐやを深く用(もちゐ)き。
今、任那(みまな)之(の)事、誰(た)そ修治(をさむること)可(かな)ふや。
伏して願はくは、天慈(あまつめぐみ)をたれたまひて、速(すみやかに)其の代(しろ)を遣はしたまひて、以ちて任那を鎮(しづ)めたまへ。
又復(また)海表(わたのほか)の諸国(もろもろのくに)、弓馬(ゆみうま)甚(いと)乏(とも)し。
古(いにしへ)自(より)今迄(まで)[之]天皇(すめらみこと)に受けたまはりて、以ちて強敵(こはきあた)を禦(ふせ)げり。
伏して願はくは、天慈(あまつめぐみ)をたれたまひて、弓馬を多(さはに)貺(たまは)らしめたまへ。」とたてまつりてまをす。
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《奈率科野》
〈釈紀〉は「科野」をクヮノ〔かの〕と訓むが、五年二月の「施徳〔八品〕斯那奴次酒」を見ると、「斯那奴=科野=シナノ」ではないかと思われる。
科野は正月には「上部徳率〔四品〕科野次酒」と書かれたが、
八月になると奈率〔六品〕に落ちしている。
位階の格下げは、通常では考えられない。
さらに、五年二月の「施徳〔八品〕斯那奴」が「科野」だとすれば、位階の変動は更に極端である。
これらのうち「徳率」が「将徳」〔七品〕の誤りとだとすると比較的自然になる。
位階は個人の属性で、日本国の冠位と同様にエスカレーター式に上がっていくと見られる。
一例として天皇の漢風諡号を定めた淡海三船を〈釈紀〉で見ると「(762年)従五位下⇒(766年)正五位上⇒(780年)従四位下」のように上がっている。
《上部奈率科野新羅》
新羅が国名だとすると、「百済遺…」は「百済遺○○、新羅[遣]○○」となり、二国の使者が肩を並べて派遣されたことになる。
しかし、上表の内容は「新羅高句麗が通謀しての攻撃を防禦するために、倭国に援兵を求める」ものだから、新羅使が同行するわけがない。
よって、ここの「新羅」は個人名と見るべきであろう。
〈釈紀〉を見ると、「新羅の下部固徳汶休帯山」と訓んでいる。
〈北野本〉と〈内閣文庫本〉は「の」を足して「新羅ノ」とするので、〈釈紀〉の訓は古訓に準じたものである。
しかし、新羅の使者が「下部固徳」なる肩書を負っていることも、またあり得ない。
そもそも「下部固徳」は、百済固有の制度の五部五方と位階である
(安閑元年五月《百済の位階》)。
この箇所について『国史大系8』〔吉川弘文館;初版1932、新装版1999〕は、鼈頭〔=頭注〕で、
「新羅、恐當連于信野下○盛、恐當作威」
〔新羅、恐らく信野の下に"○盛"を連ぬるべし。恐らく〔"○"は〕"威"に作るべし〕と述べる。
この頭注は意味が取りにくいが、原文を「百濟遺上部奈率科野○盛新羅下部固徳汶休帯山」、さらには「百濟遺上部奈率科野威盛新羅下部固徳汶休帯山」に作れという意味か。
だとすれば、頭注者は「百済は、威により新羅の新羅下部固徳汶休帯山を盛って〔=連れて〕」と読んだのであろうか。
頭注者は、どうやら百済が新羅の使者を伴ってきたことの不自然さを少しでも緩和しようとして「威によって連れて行った」と理解しようとしたように思われる。
しかし、この上表では、新羅高句麗連合の猛攻を受けて、とにかく倭から援軍が欲しいと悲鳴を上げている。
この時期の百済のどこに、新羅から使者を連れ出すだけの威〔=強制力〕があるというのだろうか。
ここは、どう考えても百済使二名のうち二人目の名前が「新羅」だったと段じざるを得ない。
より穏当な考え方は、書紀の原文または早期の筆写において「上部奈率科野○○」の名前○○が、「新羅」と誤記されたとすることである。
《任那大夫》
百済の使者には名前があるから、任那の使者にも名前が書かれるべきである。
その名は、「安羅旱岐○○」「加羅上首位○○」の類いのはずである。資料[32]で見たように、「任那旱岐」は存在しない。
「大夫」は、ぼんやりとした職名で、いかにも苦し紛れである。
つまり「任那大夫」は概念的な表現で、恐らくは後から付け足したものである。
さらに、「来到任那、亦復如是。」の一文も見るからに付け足しである。
ここでもまた、「任那国」に実在感を持たせるための潤色が行われた。
《的臣敬受天勅》
的臣は〈欽明紀〉五年三月では、日本府の一員として新羅に内通した人物として、百済による非難の対象であった。
ただその五年の「上表」の中では、的臣はどちらかと言えば従属的な立場で、本当に悪い連中は当時日本府を主導していた移那斯と麻都であると述べ、若干非難を緩和してはいる。
しかしその一方で五年の上表は、「的臣をこのまま安羅に置いていては〔新羅の手先になるだけで〕任那は建国できないから、追放してください」と述べる。
即ち的臣を含む日本府そのものが、安羅に巣食う癌だから解散させよというのが百済の主張であった。
ところが十四年八月の百済の「上表」では、的臣は任那地域の統治に力を尽くし住民の信望も厚かったと述べる。
この評価の大逆転は、一体何だろうか。
これを理解するためには、「別的臣敬受天勅来撫臣蕃伏願…天慈速遣其代以鎮任那。」の部分について、
A:最初から上表に入っていた。B:書紀による挿入。という二通りのアプローチが考えられる。
Aだとすれば百済はあまりにも極端な掌返しをした。それほど、倭の援軍が喉から手が出るほど欲しいから面子を棄てたとしか考えられない。
もし百済が的臣を非難したことを根に持って援軍を渋っているのなら、それは違います。
本当は的臣による統治を住民は高く評価していたのだから、どうぞまたいらしてくださいというわけである。
一方Bだとすれば、ここでも「任那」の実在感を醸しだす、あるいは倭による統治の正当性を印象付けようとしているわけである。
そして、倭が任那を直接統治することを南韓は皆願っているが如く描く。
しかし、そもそも今回の上表は、百済が新羅に対抗するために、倭に派兵を求めるものである。
そもそも上表は、まず新羅と高句麗が共謀して倭の出兵前に安羅の占領を狙うという情勢を述べ、
対抗するために倭に共同作戦への参加を求めるものである。
「任那地域の住民は的臣の統治を懐かしみ、再び倭に治めていただくことを熱望しています」という文は別の話で、上表の文脈から外れている。
仮にA説であっても、倭の宿願をくすぐってやる気を出させるために敢て入れたと見れないことはないが、文の流れがややこし過ぎる。
やはりB説が有利か。
《的臣》
なお、A/Bに関わらず、的臣そのものについては、ある時期に安羅地域を統治した伝承があったのではないかと思われる。
Bの場合は書紀が別に持っていた素材を、ここに組み込んだと見られる。
的の訓イクハは、〈景行天皇紀〉十七年の的邑(いくはむら)の地名譚のところで示される。
本貫が日向国生葉郡であった可能性もある。
〈仁徳天皇紀〉十二年には、的臣が鉄盾を射抜いたことによって「的戸田宿祢」を賜ったという逸話が載る。
的戸田宿祢は、〈応仁天皇〉十六年八月に加羅に派遣されている。
〈仁賢天皇〉四年には、的臣蚊嶋が獄死したとある。
的臣の登場はそれ以来で、どのような経緯でいつ安羅の辺りを治めるようになったかは、どこにも書かれていない。
それでも、倭人を先祖とする名前をもつ、何人もの百済人が登場している。
〈欽明〉十四年の的臣の伝承を見れば、倭の氏族が渡海してあちこちに植民地を設けて統治した事実はあったと見てよいだろう。
そして、その一つの氏族が的臣であったわけである。
《不幸云亡》
〈北野本〉は、「不幸云々」とする写本の一つと見られる。
「亡」の文字を使うのなら、「云レ亡」よりも「聞レ亡」の方が文章として自然であるから、「云々」〔"以下略"の意〕と見た方が適切であろう。
《深用追痛》
「追」には、「過去を振り返る」意味もあるから、「追痛」=「追悼」であろう。
「用」に「もちいる」以外の意味はほとんどないので、「追痛」は「追痛之礼」を省略したものかもしれない。
《大意》
八月七日、
百済は上部(じょうほう)奈率(なそつ)科野(しなの)、新羅(しら)〔人名〕、
下部(かほう)固徳(ことく)汶休(もんきゅう)、帯山(たいせん)等を遣わし、
上表に曰く。
――「去年、臣どもは一同で議して、内臣の徳率(とくそつ)次酒(ししゅ)を遣わし、
任那(みまな)の大夫どもや、海の表の諸々の官家(みやけ)の事を奏上しました。
伏して恩詔を待ち、それは春草が甘雨を仰ぎ待つようでした。
今年突然聞いたところでは、新羅と高句麗が通じて謀って云うに
――『百済と任那は、頻繁に日本(やまと)に参上し、
その意は軍兵を乞い我が国を伐つところにあるという。
事がもし真実なら、国の敗亡を踵を上げて待つようなものだ。
願わくば先に日本の軍兵の未だ発たざる間に、
安羅を伐ち取り、日本の進軍路を絶とう。』
と、このようにその謀(はかりごと)では申しておりました。
臣(しん)どもはこれを聞き、懐中深く危ぶみ畏れて、
よって疾使(しっし)をを遣わし、軽舟(けいしゅう)を馳せ上表してお聞きいたします。
伏して願はくば、天慈(あまつめぐみ)をたれ速やかに前軍後軍を遣わし、続けて来てお救いください。
秋の頃に至り、海表(うみおもて)の官家を固めましょう。
ただ若し遅れることがあっても、臍(ほぞ)を噛む〔後悔する〕に及びません。
派遣された軍衆が臣の国に到来すれば、衣服食糧の費用は、臣が充当して供給いたします。
任那に到来しても、また同じことです。
もし供給が堪えねば〔=不足すれば〕、臣が必ず補充し、乏しくさせません。
特に的臣(いくはのおみ)は、天勅を謹んで受け、臣蕃〔=私どもの国〕に来て撫して、
夙夜乾々(しゅくやけんけん)〔朝早くから夜遅くまで励み〕、庶務を謹んで修められました。
この故に、海表の諸蕃〔=三韓〕は、皆そのよさを誉め、
永遠に海表を鎮め清めてほしいと申しました。
不幸にして云々、追悼〔の礼〕を深く用いました。
今、任那の事は、誰が治めるに適うのでしょうか。
伏して願わくば、天の慈悲をたれ、速やかに代わりの人を遣わし、任那をお鎮めください。
また海表の諸国は、弓馬が大変乏しくなっております。
古(いにしえ)より今まで御受けした天皇(すめら)の恩頼(みたまのふゆ)によって、強敵を禦(ふせ)いで参りました。
伏して願わくば、天の慈悲をたれ、弓馬を数多く賜りますことをお願い申し上げます。」
【比蘇寺】
《西国三十三所名所図会》
『西国三十三所図会』世尊寺 説明文 |
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此地は原比蘓寺の旧趾なるゆへ
境内の林中に古礎石
許夛存せり尤今尚當寺の
本尊に安置するものは比蘓
寺の㚑佛にして日本木佛の
はじめとなん聞や此㚑佛
折々光りを放ちかふゆへに
比蘓寺を現光寺とも号せしとなり
三代實錄曰
遣二使者ヲ於現光寺二一
燒燈嚫綿以修ス二功德ヲ一云々
|
蘓…蘇。
夛…多。
㚑…霊。
|
『西国三十三所図会』~世尊寺~
|
「三代実録曰」の引用元は、次の箇所である。
●『日本三大実禄 巻卅八』〈陽成天皇〉元慶四年十一月二十九日:
「分二-遣使者於新薬師四天王香山長谷壷坂崇福梵釈現光神野三松子嶋龍門十二箇寺一。並焼燈嚫綿、以修二功德一。」
〔使者を新薬師・四天王・…現光…十二箇寺に分かち遣はして、並べて焼燈嚫綿し、以て功徳を修めき。〕
これによって、元慶四年〔880〕に「現光寺」が存在したことが実証される。
この中の「焼燈嚫綿」は、〈五畿内志-吉野郡〉にも引用されている(前出)。
『西国三十三所図会』世尊寺「比蘇寺之古礎」 |
比蘓寺之古礎
|
中門の傍林中に許多なり往古大伽藍たりし事
思ひやらる時々地中より古瓦を掘出すに
近來予得て蔵之图のごとし
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| 予…[人称代] 私。图…「図」の異体字。
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|
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「比蘇寺之古礎」の項では、中門の傍らの林の中に古礎(遺跡)が多数あり、大伽藍があったことが偲ばれるという。
そして、『西国三十三所名所図会』の著者自らその瓦片の一つを入手したと述べ、スケッチを添える。
瓦の文字が「現光寺」で『日本三大実録』が「現光」だから、奈良時代から平安時代はむしろ「現光寺」が主な呼び名であったと思われる。
比曽寺の沿革略史 『平成19~22年 大淀町文化財調査報告』より〈抜粋〉
欽明十四 | 553 | はじめて仏像二躯をつくる。今の吉野寺放光樟像なり(紀)
| 敏達 | 6c後 | 菩薩三体を作る。吉野ヒソ寺に安置(日本霊異記)
| 用明2 | 587 | 聖徳太子創建(現光寺縁起絵巻)
| 推古3 | 595 | 沈水香により観音菩薩を作り、吉野比蘇寺に安置(聖徳太子伝暦)
| 天智 | 7c後 | 役小角修行(寺伝)
| 和銅~養老 | 8c初 | 神叡、止住(延暦僧禄・扶桑略記所引)
| 元慶4 | 880 | 「現光」(日本三代実禄)
| 昌泰元 | 898 | 宇多上皇、現光寺参詣(扶桑略記)
| 弘安2 | 1279 | 金峯山寺・春豪による再興(現光寺縁起絵巻)
| 延元2 | 1391 | 後醍醐天皇行幸(現光寺縁起絵巻)
| 明応5 | 1496 | 「塔二基、中央有楼門、件額云栗天八一」「本尊観音」(実隆公記)
| 文禄3 | 1594 | 秀吉、三重塔を伏見へ寄進
| 寛永10 | 1633 | 現光寺塔一基あり
| 享保7 | 1722 | 太子堂建立(享保七年銘瓦)
| 寛延4 | 1751 | 雲門即道、曹洞宗霊鷲世尊寺として開山
| 本表の作成にあたっては、大淀町教育委員会編「比曽学事始」2006年を参照した。
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《現光寺縁起絵巻》
世尊寺所蔵の『現光寺縁起絵巻』の調査が、奈良県吉野郡大淀町によって2008年に行われた。
その成果をまとめた『平成19~22年 大淀町文化財調査報告奈良県大淀町文化財調査報告書 第6集』
〔大淀町教育委員会;2011。以下〈調査報告〉〕によると、
「現光寺縁起絵巻については、現時点では江戸時代前半期の延宝から享保年間の制作と考えられ」、
「延宝8年〔1680〕に京都・仏光寺において行われた「吉野世尊寺」の出開帳に合わせて制作された可能性」があるという。
比曽寺の沿革については「比曽寺の創建は不明ですが、『現光寺縁起絵巻』では聖徳太子建立46ヶ寺院のうち「冠首三ヶ寺」(四天王寺、法隆寺、比蘇寺)」
の一とします。」、奈良時代に「神叡(しんえい)(-737)が庵を結び」、
「『日本書紀』の欽明紀14年条に登場する「吉野寺」の放光樟像伝承の記載には、この神叡が関与しているとみられています」と述べる。
〈調査報告〉はまた、現光寺縁起絵巻の上巻には「欽明紀14年条に端を発する伝承と仏像2躯が当寺に安置されるまでの由緒」、
下巻には「推古3年条に端を発する伝承を中心に、十一面観音を聖徳太子像の胎中に納めたこと、比蘇寺や現光寺の寺号」、
「伽藍の様子」などが説かれていると述べる。
右の表は、〈調査報告〉に掲載されている年表を抜粋したものである。
下に、上巻から代表的な場面の絵を載せる。
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放光する樟 | 放光仏の造像 |
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上巻絵第二段 |
『現光寺縁起絵巻』上巻
『平成19~22年 大淀町文化財調査報告』付図に彩度強調処理。
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ここで、上巻の内容を〈調査報告〉がまとめたものを、さらに要約して示す。
●欽明天皇十四年、梵音を奏でて光を放つ樟木が茅渟海を漂流しているとの和泉国による報告あり。
●勅使として派遣された屋栖野古連は、沖に漂う樟木を引揚げて都に持ち帰る。
●天皇は占いにより、この霊木で仏像を造らせる。
●樟木から釈迦如来と観音菩薩を造像し、大和国豊浦堂に安置した。これが日本で彫刻された最初の仏像である。
●敏達天皇十四年〔585〕、物部守屋連らは仏教を排斥して豊浦堂に放火した。両尊は稲の中奥深くに隠した。
●用明天皇二年〔587〕、聖徳太子と蘇我馬子は物部守屋を誅して仏法を興隆した。
●隠してあった両尊を探し出して、比蘇寺に安置した。
●比蘇寺とは、吉野寺のことであり、今の現光寺のことである。
《日本霊異記》
「屋栖野古連」は、書紀には出てこない。
この名前は『日本国現報善悪霊異記』(『日本霊異記』と略される)の「信敬三宝得現報縁-第五」に出てきて、
その部分の前半が、放光樟仏及び比蘇寺の由来である。
『日本霊異記』は平安時代初期の説話集で、上中下三巻からなり、全116話からなる。
ここで「信敬三宝得現報縁-第五」の前半部分、放光樟像を稲田から救出するまでの部分の概略を見る。
『日本国現報善悪霊異記』 信敬三宝得現報縁第五 |
――「大花上大部屋栖野古連公者。紀伊國名草郡宇治大伴連等先祖也」
〔大花上〔大化五年(649)時点の冠位。正四位に相当〕大部屋栖野古連公(おほとものやすのこむらじのきみ)は、紀伊国名草郡の宇治大伴連(うぢおほとものむらじ)等の先祖(さきつおや)なり〕
「天年澄情尊二-重三寶一 案二本記一曰」
〔天年澄情。三宝を尊重す。本記(もとつふみ)を案(かむが)へて曰はく:〕
「敏達天皇之代 和泉國海中有二樂器之音聲一如二笛筝琴箜篌一 或如二雷振動一 晝鳴夜耀 指レ東而流」
〔敏達天皇の代(みよ)、和泉国の海中に楽器の音声有り、笛・筝・琴・箜篌(くご)〔ハープ型の撥弦楽器〕の如し。
或(ある)は雷(いかつち)の振動の如く、昼に鳴り夜に耀き、東を指して流る〕。
屋栖野連がこの話を奏上するが天皇は信じず、皇后〔後の推古〕に奏したところお前が行って見て来いと詔された。
すると「有二當霹靂之楠一矣」〔まさに霹靂(へきれき)の楠あり〕、
屋栖野連公は「高脚浜」に引き上げ、仏像を造ることを願い出、皇后はそれを許した。
そして「雕二-造佛菩薩三軀像一 居二于豊浦堂一以諸大仰敬」
〔仏、菩薩三躯の像(みかた)を雕造〔=彫造〕し、豊浦堂に居(す)ゑ、以て大きに仰(あふ)ぎ敬(うやま)ひき〕。
しかし物部弓削守屋大連は、国内のすべての仏像を棄てるよう奏上し、
それを聞いた皇后は屋栖野連に「疾隱二此佛像一」〔疾(と)くこの仏像を隠せ〕と命じ、
屋栖野連は「奉レ詔使二水田直一藏二乎稻中一矣」
〔詔を奉(たてまつ)り、水田の直(あたひ)をして稲中に蔵(をさ)めしめき〕。
弓削大連は道場を焼き、仏像を探し出して難波の堀江に流そうとして、屋栖野連に国の災いのもとは「隣国客神像」〔=隣国からもたらされた仏像〕にあるから棄て流さねばならないと言ったが、
屋栖野連は「固辞不レ出焉」〔固くいなびて出ださず〕を貫いた。
弓削大連は逆心し、「爰天且嫌レ之地復惡レ之」〔爰(ここに)天(あめ)また之を嫌ひ、地(つち)また之を悪(にく)みて〕、
「當二用明天皇一而挫二弓削大連一 則出二佛像一以傳二後世一」
〔用明天皇〔の御世〕に当たりて、弓削大連を挫き、すなわち仏像を出だして後の世に伝ふ〕。
「今世安一-置吉野比蘇寺一而放レ光」
〔今の世に、吉野比蘇寺に安置して光を放てり〕。
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漢風諡号「敏達天皇」が使われているから、『現光寺縁起絵巻』は763年頃以後(資料[38])の書となる。
書紀や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』よりも後の書であるが、それらに載らない独自の内容を含んでいる。
その主な点は「栖野古連」という人物の存在や、放光樟像が始めは「豊浦堂」に安置され、豊浦堂が焼かれる前に「稲中」に隠されと描くところである。
「梵音」を、雅楽の音として描くのも特徴のひとつである。
これらは『現光寺縁起絵巻』に取り入れられたようである。
一方、放光樟像は二躯が標準であるが、霊異記では「菩薩三躯」となっている。
《神叡》
神叡のことは、『扶桑略記』第六の「元正天皇」及び「聖武天皇」に書かれている。
聖武天皇の項には『延暦僧録』からの引用がある。
『扶桑略記』第六 |
○霊亀三年七月庚申日〔廿三〕 爲二律師一
○天平二年十月十七日乙酉…神叡法師爲二小僧都一 唐僧思託作
延暦僧録云
沙門神叡 唐學生也
因レ患制レ亭 便入二芳野一 依二現光寺一 結レ廬立レ志
披二-閲三藏一 秉レ燭披翫 夙夜忘レ疲 逾二十年
妙二-通奥旨一 智海淵冲 義雲山積 法門之龍象也
芳野僧都 得二自然智一
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○〔元正〕霊亀三年〔717〕七月二十三日。神叡律師と為(な)る。
○〔聖武〕天平二年〔730〕十月十七日…神叡法師小僧都と為り、唐僧の思ひを託し作(な)す。
延暦僧録に云ふ:
沙門神叡、唐(もろこし)の学生(がくしやう)なり。
患(わづらひ)に因りて亭(とどむ)を制す。便(すなはち)芳野(よしの)に入りて、現光寺に依り、庵(いほり)を結び志を立てり。
三蔵を披閲(ひえつ)して、燭(ともしび)を秉(と)りて披翫(ひげん)して、夙(つとめて)より夜にいたりて疲れを忘るること、逾(いよいよ)二十年(はたとせ)。
奥旨に妙通して、智海淵冲(ふか)し、義雲山積し、法門之龍象也(なり)。
芳野の僧都、自然智を得たり。
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披閲…開いて読む。三蔵…経・律・論の総称。
披翫…披閲欣賞(欣賞…よろこびほめる)。夙夜…日夜。逾…[副]いよいよ。
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若き日の悩める神叡は吉野を訪れ、現光寺に庵を結んで立志し、日夜仏典を学び二十年の歳月を経て遂に「自然智」を得た。
その間、717年には律師に上る。僧尼を統率して諸寺を監督する役職を僧綱(そうごう)といい、僧正・僧都(そうづ)・律師が置かれた。
僧都はのちに第僧都・権大僧都・少僧都・権少僧都に分かれた。
書紀の成立は720年、律師への就任は717年で、書紀編纂の時期はまだ学問に励む時期と思われるから、
〈調査報告〉が欽明紀の放光樟像伝承に「神叡が関与していた」と述べる点は、やや疑わしい。
しかし、書紀が成立したときに神叡が現光寺にいたのは事実で、また「現光寺」という名前が「放光樟像」に由来するのは確実だから、
書紀がいう「吉野寺」が、当時存在した現光寺であるのは間違いないだろう。
まとめ
十四年六月に医博士と薬、易博士と卜書、暦博士と歴書を求めた。欽明天皇は仏法とともに、最先端の科学の導入に熱心である。
その見返りに軍勢を「隨二王所須一」〔王の求めるまま〕提供しようと気前のよいことを言う。
それなら、ということかどうかは分からないが、百済王は早速八月に援軍を求める。
前軍、後軍に分けて秋ごろまでにはと、かなり具体的な計画を提案している。
情勢分析として、このままでは任那〔=加羅安羅地域〕と倭との通行路も危ういと煽るところは、なかなか抜け目がない。
また、この「上表」にも任那再興のテーマを潜り込ませているが、任那への固執は書紀が常に強調するところである。ただ程度はともかくとして、欽明帝の頃から一定意識されていたと見るべきかも知れない。
この判断によって、上述A/Bの立場が分かれる。
さて、十四年五月の泉州沖の「梵音」は、現実的に理解しようとするなら隕石の落下であろう。
そのとき偶然樟の巨木が海上を漂っていたことも、ありそうなことではある。
ただ、この伝説の主題は、仏教が盛んになる流れの中で、倭国人自身の手でも仏像が作るようになったことを語るところにあろう。
梵音と放光樟の発見が実際にあったことだとしても、この伝説においては話を盛って引きつけるための仕掛けである。
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2020.09.21(mon) [19-15] 欽明天皇15 ▼▲
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23目次
【十四年十月】
《百濟王子餘昌悉發國中兵》
〔十四年〕冬十月庚寅朔己酉。
百濟王子餘昌
【明王子、威德王也】、
悉發國中兵、向高麗國、
築百合野塞、眠食軍士。
是夕觀覽、鉅野墳腴、平原瀰迤、
人跡罕見、犬聲蔑聞。
俄而儵忽之際、聞鼓吹之聲。
餘昌乃大驚、打鼓相應、通夜固守。
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冬十月(かむなづき)庚寅(かのえとら)を朔(つきたち)として己酉(つちのととり)〔二十日〕。
百済(くたら)の王子(わうし、せしむ)余昌(よしやう)
【明王(みやうわう)の子、威徳王(いとくわう)也(なり)】、
悉(ことごとく)国の中(うち)の兵(つはもの)を発(た)たして、高麗(こま)の国に向ひて、
百合野(ひやくがうや、ゆりの)の塞(そこ)を築(きづ)きて、軍士(いくさひと)を眠食(いねくらはしむ、すまはしむ)。
是(この)夕(ゆふへ)に観覧(みわた)せば、鉅野(おほの)墳腴(ゆたか)なりて、平原(ひろの)瀰迤(はるか)なりて、
人の跡(あと)見ること罕(まれら)なりて、犬の声(こゑ)聞くこと蔑(な)し。
俄(にはか)にして[而]儵忽之(たちまちに)際(きは)に、鼓(つづみ)吹(ふえ)之(の)声(こゑ)を聞きて、
余昌乃(すなはち)大(はなはだ)驚きて、鼓(つづみ)を打ちて相(あひ)応(こた)へて、夜通(よもすがらに)固く守りき。
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王子余昌…〈釈紀-秘訓〔以下〈釈紀〉〕〉王子余昌。
百合野塞…〈釈紀〉百-合-野塞。
百合(ひゃくごう)…多くの香りを調合した香料。ユリ科の植物の総称。百済での発音がユリ(和名)であったとは到底考えられない。
そこ…[名] 要塞。〈倭名類聚抄〉「塞:塞二険悪之処所一以隔二内外一也。先代反【和名曽古】」
〔険悪の処所を塞ぐ。以て内外を隔(へだ)つ。音サイ。【和名ソコ】〕。
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眠食軍士…〈釈紀〉眠二-食軍-士一。
〈内閣文庫本〔以下「閣庫」〕〉眠食。
眠食…①眠ることと食べること。②起居生活。
食…[動] (自)くう。(他)くらわす。やしなう。
観覧…〈内閣文庫本〉観覧鉅野。
みわたす…[他]サ四 遠くを望み見る。
鉅野…〈釈紀〉鉅-野。
鉅野(きょや)…[地名] 漢代に置かれた県。現在の山東省巨野。
鉅…[名] はがね。[形] おおきい。
墳腴…〈汉典〉肥沃的土地。〈内閣文庫本〉墳腴。
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平原…〈釈紀〉平-原〔長き原〕。
瀰迤…〈汉典〉地形平坦延綿貌。〈閣庫〉瀰迤〔広く延び〕。
人跡罕見…〈閣庫〉罕見。
罕…[形] (古訓) まれに。まれらなり。
犬声蔑聞…〈閣庫〉犬ノ声薨シ聞コト。
〈北野本〉蔑レ聞。
蔑…[動] ない。
儵忽…あらわれたり消えたりするのが素早いさま。
吹…[名] 吹きならす楽器。(古訓) ふえ。
夜通…〈閣庫〉通-夜。
すがらに…[副] 夜、または昼を徹して。
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凌晨起見曠野之中、覆如靑山、旌旗充滿。
會明有着頸鎧者一騎、
插鐃者【鐃字未詳】二騎、
珥豹尾者二騎、
幷五騎、
連轡到來問曰
「少兒等言、
於吾野中客人有在、何得不迎禮也。
今欲早知、與吾可以禮問答者姓名年位。」
餘昌對曰
「姓是同姓、位是杆率、年廿九矣。」
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凌晨…〈汉典〉清晨、黎明。〈閣庫〉凌-晨。
ほのくらし…[形]ク 早朝まだ明けきらない薄暗さをいう。
覆…〈閣庫〉覆。
青山…〈閣庫〉青山。
会明…〈閣庫〉会明〔曙に〕。
充満…〈閣庫〉充-満。
いはむ…[自]マ四 みちる。〈神武即位前期〉己未年の原注参照。
頸鎧者一騎…〈閣庫〉頸鎧ミカヘノヨロヒ者一騎。
挿鐃者…〈閣庫〉挿鐃者クスヒサセルモノ。
くすみ(くすび)…[名] 兵卒の長が鳴らして指揮を執る鉦や銅鑼の類のもの。
鐃…[名] (楽器) どら。舌(ぜつ)がなく柄がついている。
珥豹尾者…〈閣庫〉珥豹尾者。
なかつかみ…豹。ネコ科のヒョウ。〈時代別上代〉陰陽道において、八将神のうち豹尾神がその中央に位置することから、豹そのものをもナカツカミと呼ぶという。
珥…[動] 耳の間にさしはさむ。
連轡…〈閣庫〉連轡。
くつばみ…[名] くつわ。
何得不迎礼也…〈閣庫〉何ソ得不コト迎礼也。
姓…〈北野本〉姓。
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凌晨(ほのくらき)に起きて曠野(ひろきの)之(の)中(うち)を見れば、覆(おほ)はえること青山(あをやま)の如くありて、旌旗(はた)充満(いは)めり。
会明(あけぼの)に頸(くび)に鎧(よろひ)を着けて有る者(ひと)一騎(ひとうま)、
鐃(くすみ)を挿(さ)せる者(ひと)【「鐃」の字(じ)未だ詳(つまひらか)ならず】二騎(ふたうま)、
豹(なかつかみ)の尾(を)を珥(みみにさしはさめる)者(ひと)二騎(ふたうま)、
并(あはせて)五騎(いつうま)、轡(くつばみ)を連ねて到来(いたりき)て問ひて曰へらく
「少童(わらは)等(ら)言(い)はく、
『[於]吾(あが)野中(ののうち)に客人(まらひと)の在(あること)有りて、何(なにそ)不迎礼(むかへゐやまはざること)を得(う)や[也]。』といひて、
今[欲]早く知らむとす、吾(われ)と与(あづか)りて礼(ゐや)を以ちて問ひ答ふる可(べ)き者(ひと)なれば、姓名年位(かばねなよはひくらひ)を。」といへり。
余昌対(こた)へて曰ひしく、
「姓(かばね)是(これ)同じき姓(かばね)なりて、位(くらひ)是(これ)杆率(かんそつ)〔五品〕なりて、年(よはひ)廿九(はたちあまりここのつ)なり[矣]。」といひき。
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百濟反問、
亦如前法而對答焉。
遂乃立標而合戰。
於是、百濟以鉾刺墮高麗勇士於馬斬首、
仍刺舉頭於鉾末、還入示衆。
高麗軍將、憤怒益甚。
是時、百濟歡呼之聲、可裂天地。
復其偏將、打鼓疾鬪、
追却高麗王於東聖山之上。
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標…〈閣庫〉立テレ標。
勇士於馬…〈閣庫〉勇士於馬ヨリ。
〈北野本〉以レ鉾刺二-墮高-麗勇士於一レ馬。
示衆…〈閣庫〉示衆。
軍将…〈閣庫〉軍ノ将〔いくさのきみ〕。
偏将…〈閣庫〉偏将〔副ひのいくさのきみ〕。
偏師…全軍のうちの一部の軍隊。
却…[動] (自) しりぞく。(他) しりぞける。
しりぞく…[自]四 退く。[他]下二 退ける。
東聖山…〈閣庫〉東聖山。
〈釈紀〉東-聖-山之上。
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百済反(かへ)して問(と)へば、
亦(また)前(さき)の法(のり)の如くして[而]答(こたへ)を対(こた)へき[焉]。
遂に乃(すなはち)標(しるし)を立たして[而]合戦(あひたたか)へり。
於是(ここに)、百済(くたら)鉾(ほこ)を以ちて高麗(こま)の勇士(いくさひと)を[於]馬より刺し墮(おと)して首(かしら)を斬(き)りて、
仍(すなはち)頭(かしら)を[於]鉾(ほこ)の末(すゑ)に刺し挙(あ)げ、還(かへ)り入りて衆(いくさ)に示(み)せり。
高麗(こま)の軍将(いくさとかみと)、憤怒(いかり)益(ますます)甚(はなはだ)し。
是の時の百済の歓呼之(よろこびさけぶ)声(こゑ)、天地(あめつち)を裂く可(べ)し。
復(また)其(その)偏将(あかついくさのかみ)、鼓を打ち疾(と)く闘(たたか)ひて、
高麗王〔軍〕(こまわう〔のいくさ〕)を[於]東聖山(とうじやうさむ)之(の)上(へ)に追ひ却(しりぞ)けき。
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《百合野》
百済国において地名「百合野」が、ユリノと発音されたはずがない。
古訓では、王・王子・夫人をコキシ・セシム・ヲリクと訓んだりするが、
百合野をユリノと訓むなら、キミ・ミコ・オホトジと訓まなければならない。古訓における一貫性はなさは甚だしい。
この、百合野の戦いが〈三国史記-高句麗本紀〉陽原王十年〔欽明十五年〕の「冬。攻二百済熊川城一不レ克。」(下述)
と同じ役を指すかどうかは分からない。仮に同じ役だとすれば、両者の記述の時間的なずれは3~4か月程度に留まる。
また、百合野は熊津の郊外で、東聖山はその北の山岳地帯ということになる。
《姓是同姓》
恐らく王族の姓であると言ったのだろうが、姓そのものは隠されている。
避諱〔中国文化圏で、皇帝などの諱にある字をあからさまに書くことを忌避する習慣〕によるものかも知れない。
《開戦の作法》
戦闘にあたっては、その前に互いに自己紹介して礼を尽くすのが作法だったようである。
ただ、倭国の物語風にアレンジしたのかも知れない。
《高句麗王》
「高麗王」が一回出てくるが、それ以外に具体的な動きは何も書いていない。
〈三国史記〉には、この時期に陽原王が親征したような記述は全く見えない。
《百済vs高句麗》
この時期における、百済と高句麗の国家関係を見る。
欽明十四年〔553癸酉〕は、百済:聖王31年、高句麗:陽原王9年、新羅:法興王14年にあたる。
その前後の半島の情勢を、『三国史記』に見る。
●百済:「聖王三十一年〔553〕。秋七月。新羅取二東北鄙一置二新州一。冬十月。王女帰二于新羅一。」
「王女帰二于新羅一」とは、百済王の娘を新羅王に嫁がせる意味である。
しかしその一方で、新羅は百済の東北の僻地を奪うなど攻勢をかけている(八年~九年)。
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錦江は、別名熊津江。三国史記-新羅本紀-元聖王六年〔791〕に「熊川州」が見え、元は熊津の地という。
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●高句麗:「陽原王十年〔554〕。冬。攻二百済熊川城一不レ克。」
高句麗は百済の熊川城に攻め込むが、敗北した。「熊川城」は熊津(安閑元年)に近いかも知れない。
●新羅:「法興王九年〔548〕。春三月。加耶国王遣レ使請レ婚。王以二伊飡比助夫之妹一送レ之。」
「十一年〔550〕。秋九月。王出二-巡南境拓地一。加耶国王来会。」
「十五年〔554〕。肇行二仏法一。」
欽明九年から十一年にかけて、婚姻や南境における伽耶王との面会があり、伽耶との関係を深めている。実質的には属国化への歩みであろう。
伽耶国が加羅地域の中心で、伽耶は書紀の「任那」にほぼ相当すると考えられる。
〔古文書を書紀に用いるにあたって、相当の箇所の加羅・安羅を任那に書き換えたと見られることは、しばしば指摘してきた通りである。〕
百済はこの地域への影響力を維持するために、しきりに倭の援軍を求めたわけである。
北部戦線における高句麗軍の侵略に対しては、百済は比較的持ちこたえていたように思われる。
十四年十月の記事が熊川城の役のことかどうかは分からないが、少なくともその頃のいくつかの局地戦のひとつをモデルにしたと見てよいだろう。
なお、新羅も倭と同時期に仏教が導入されたのは興味深い。
《大意》
〔十四年〕十月二十日、
百済の王子余昌(よしょう)
【明王(めいおう)の子、威徳王(いとくおう)】は、
国中の兵を悉く発し、高麗(こま)の国に向かい、
百合野(ひゃくごうや)の要塞を築き、軍卒を配置しました。
この日の夕べに見渡すと、鉅野墳腴、平原瀰迤で〔豊かな台地が広がり〕、
人の痕跡も稀で、犬の鳴き声も聞こえません。
俄かに、突然間際に鼓笛の音を聞き、
余昌は甚だ驚き、鼓を打って呼応し、夜通し固く守らせました。
凌晨〔未明〕に起きて広い野の中を見ると、敵兵が緑の山のように覆い、旌旗で充ちていました。
会明〔あけぼの〕になり、襟に鎧を下げた者一騎、
鐃〔陣太鼓〕を挿した者二騎、
豹の尾を耳に挟んだ者二騎、
計五騎が、轡(くつわ)を並べて到来して言うに、
「童子らが、
『我が野中に客人がいるが、迎えて挨拶しなくてよいのか。』と言うので、
今は早く知りたい。私と関わり礼をもって問い答えるべき人だから、姓名年位を。」と言いました。
余昌は
「姓(かばね)は同じ姓で、位は杆率(かんそつ)〔五品〕、歳は二十九である。」と答えました。
百済も問い返し、
また前と同様の作法で答えました。
そして、遂に旗印を立てて合戦しました。
そして、百済は矛によって高句麗の勇士を馬から刺し落として首を斬り、
首級を矛の先に刺して差し上げ、自軍に戻って軍勢に示しました。
高句麗の軍勢と将軍は、憤怒ますます甚だしく、
その時の百済の歓呼の声は、天地も裂けんばかりでした。
また、その別動隊が、鼓を打って素早く襲い掛かり、
高句麗王〔の軍〕を東聖山(とうじょうさん)の上に追いやり退却させました。
24目次
【十五年正月~五月】
《立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子》
十五年春正月戊子朔甲午。
立皇子渟中倉太珠敷尊、爲皇太子。
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十五年(ととせあまりいつとせ)春正月(むつき)戊子朔甲午〔七日〕。
皇子(みこ)渟中倉太珠敷尊(ぬなくらふとたましきのみこと)を立たして、皇太子(ひつぎのみこ)と為(し)たまふ。
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丙申。
百濟遣中部木刕施德文次
前部施徳曰佐分屋等於筑紫、
諮內臣
佐伯連等曰
「德率次酒
杆率塞敦等、
以去年閏月四日到來、
云
『臣等【臣等者謂內臣也】
以來年正月到』。
如此噵而未審來不也又軍數幾何。
願聞若干預治營壁。」
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中部木刕…〈釈紀〉中部木刕。
施德文次。
前部施徳曰佐分屋。
徳率次酒…〈釈紀〉德率次酒。
杆率塞敦。等。
臣…〈閣庫〉「臣等」によれば、
「臣」は中部木刕等の一人称の代名詞で、
原注「臣等者謂二内臣一也」は、註釈者が読み誤ったことになる。
来年…〈北野本〉来年。〔イ=「異本に曰く」〕
〈閣庫〉以今年正月ヲ到ラム〔今年の正月を以て到らむ〕。
未審…〈閣庫〉未審来不〔来らせしむや否や訝し〕。
来不…〈北野本〉来_ヤ不也イ。
営壁…〈閣庫〉願ハ聞テ若_干預メ治勞壁
〔願(ねがはく)ば聞(ききたまう)て若干(そこらく)と預(あらかじ)め営壁(いほりそこ)を治(つくら)しめむ〕。
〈北野本〉治二營壁一。
営塁…陣屋。とりで。
いほりそこ…[名] 〈時代別上代〉兵営。壁は軍塁の意。
壁…(古訓) かへ。かき。そこ。(類聚名義抄観智院本)
聞…[動] (古訓) きく。きこしめす。
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丙申〔九日〕。
百済[遣]中部木刕(ちうほうもくけふ)施徳(せとく)文次(もんし)
前部(ぜんほう)施徳(せとく)曰佐分屋(をさふむをく)等(ら)を
[於]筑紫(つくし)につかはして、
[諮]内臣(うちのおみ)
佐伯連(さへきのむらじ)等(ら)にはかりて曰(まをさく)
「徳率(とくそつ)次酒(ししゆ)、
杆率(かんそつ)塞敦(そくとむ)等(ら)、
去年(こぞ)閏月(うるふづき)四日(よか)に到り来たるを以ちて、
云ひしく
『臣(おみ)等(ら)【臣等者(は)内臣を謂ふ[也]】
来年(くるつとし)正月(むつき)を以ちて到らむ』といひき。
如此(かく)噵(い)へど[而]、未(いまだ)来不(きたらむやいなや)、又軍(いくさ)の数(かず)幾何(いか)にやあらむか、審(つまひらか)にあらず[也]。
願(ねがくひまつらくは)、若干(そこばく)の預(あらかじめ)営壁(いほりのそこ)を治(をさ)むことを聞きまつらむとねがひまつる。」とまをす。
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別諮
「方聞、奉可畏天皇之詔、
來詣筑紫、看送賜軍。
聞之歡喜、無能比者。
此年之役甚危於前、願遣賜軍使逮正月。」
於是、內臣奉勅而答報曰
「卽令遣助軍數一千馬一百匹船卌隻。」
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別諮…〈閣庫〉別二諮方。
来詣筑紫…〈閣庫〉未詣筑紫二看送云コトヲ。
比…[動] (古訓) たとふ。
於…[動] じっとそこにとどまる。(古訓) おく。[前] (場所)~に。
前…[名] (古訓) さき。まへ。はしめ。
遣賜軍使逮正月…〈閣庫〉遣賜軍ヲ使逮正月二
〔賜し軍を遣はして正月に逮(をよ)ば使(し)めたまへ〕。
〈北野本〉遣賜レ軍使レ逮二正月一。
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別けて諮(はか)りまつらく
「方(まさに)、可畏(かしこむべき)天皇(すめらみこと)之(の)詔(みことのり)を奉(うけたまはり)て、
筑紫に来詣(まゐき)て、賜軍(たまはりしみくさ)を看(み)送(おく)れりと聞かば、
之(こ)を聞きまつる歓喜(よろこび)に、無能比者(たとふるにあたふものなし)。
此(この)年之(の)役(えたち)、甚(はなはだ)危(あやぶ)まゆること[於]前(はじめに)ありて、願(ねがはくは)賜軍(たまはりしみくさ)を遣(つか)はして正月(むつき)に逮(およ)ば使(し)めたまへ。」とはかりまつりき。
於是(ここに)、内臣(うちのおみ)勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて[而]報(こたへ)を答へて曰(のたま)ひしく
「即(すなはち)助軍(たすけのいくさ)の数(かず)一千(ちたり)、馬(うま)一百匹(ももち)、船(ふね)四十隻(よそふな)を遣(つか)は令(し)めたまふ。」とのたまひき。
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二月。
百濟遣下部杆率將軍三貴
上部奈率物部烏等
乞救兵。
仍貢德率東城子莫古、代前番奈率東城子言。
五經博士王柳貴、代固德馬丁安。
僧曇慧等九人、代僧道深等七人。
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将軍三貴…〈釈紀-秘訓〉・下部杆-率將-軍三貴。
・上部奈率物-部烏。
・德率東城子莫古。
・奈率東城子言。
・五-経博-士王柳貴。
・固-德馬丁安。
・僧曇慧。
・僧道深。
〈閣庫〉物部烏カク。
東城子カ言〔東城子が言(ごん)を〕
王柳来予反貴。
番…〈閣庫〉番。
代…〈北野本〉代二僧道深等七_人一。
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二月(きさらき)。
百済[遣]下部(かほう)杆率(かんそつ)将軍(しやうぐむ)三貴(さむくゐ)
上部(じやうほう)奈率(なそつ)物部(もののべ)の烏(う)等(ら)をつかはして、
救(すくひ)の兵(つはもの)を乞(こ)ひまつりて、
仍(すなはち)[貢]徳率(とくそつ)東城(とうじやう)子莫古(しまくこ)、前番(さきのつがひ)に代(しろ)をそへるは奈率(なそつ)東城(とうじやう)子言(しごむ)、
五経博士(ごきやうはかせ)王柳貴(わうりうくゐ)、代(しろ)は固徳(ことく)馬丁安(まていあむ)、
僧(ほふし)曇慧(どむゑ)等(ら)九人(ここのたり)、代(しろ)は僧(ほふし)道深(だうしむ)等(ら)七人(ななたり)をみつぐ。
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別奉勅、
貢易博士施德王道良
曆博士固德王保孫
醫博士奈率王有㥄陀
採藥師施德潘量豐
固德丁有陀
樂人施德三斤
季德己麻次
季德進奴
對德進陀。
皆、依請代之。
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易博士…〈釈紀-秘訓〉・易博-士施-德王道良。
・暦博-士固-德王保孫。
・醫-博-士奈率王有㥄陀。
・採-藥-師施-德潘量豊。固-德丁有陀。
・樂-人施-德三斤。
季-德己麻次。
季-德進奴。
對-德進陀。
〈閣庫〉王道道良。
依請代之…〈閣庫〉依テ請ニ代之。
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別(わ)けて勅(みことのり)を奉(うけたまはり)て、
[貢]易博士(やくのはかせ):施徳(せとく)王道良(わうだうりやう)、
暦博士(こよみのはかせ):固徳(ことく)王保孫(わうほうそむ)、
医博士(くすりのはかせ):奈率(なそつ)王有㥄陀(わういうしうだ)、
採薬師(くすりとり):施徳(せとく)潘量豊(ばむりやうほう)、
固徳(ことく)丁有陀(ていいうだ)、
楽人(うたまひのひと):施徳(せとく)三斤(さむこむ)、
季徳(きとく)己麻次(こまし)、
季徳(きとく)進奴(しむぬ)、
対徳(たいとく)進陀(しむだ)をみつぐ。
皆(みな)、請(ねがひ)に依りて之(こ)に代(しろ)をそふ。
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三月丁亥朔。
百濟使人中部木刕
施德文次等、罷歸。
夏五月丙戌朔戊子。
內臣、率舟師詣于百濟。
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三月(やよひ)丁亥(ひのとゐ)の朔(つきたち)。
百済(くたら)の使人(つかひ)中部木刕(ちうほうもくけふ)、
施徳文次(せとくもむじ)等(ら)、罷(まか)りて帰(かへ)る。
夏五月(さつき)丙戌(ひのえいぬ)を朔(つきたち)として戊子(つちのえね)〔三日〕。
内臣(うちのおみ)、舟師(ふないくさ)を率(ゐ)て[于]百済(くたら)に詣(まゐづ)。
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《内臣》
〈姓氏家系大辞典〉「内 うち:太古依頼上古に栄えし大族なり」、
「内臣:大和国宇智郡より起る、延喜式当郡に宇智神社を載せたり」と述べる。
同辞典は始祖を孝元天皇の皇子である彦太忍信命(記は比古布都押之信命)まで遡らせている。
彦太忍信命の孫(記では子)は武内宿祢である(第108回)。
《去年閏月》
書紀のこの頃に載る閏月には、敏達十年の「閏二月」と、欽明九年の「閏七月」がある。
本サイトの元嘉暦モデルⅡでは、
これらの閏月の位置が一か月ずれていたが、定数の若干の修正によって一致させることができた(モデルⅢ)。
モデルⅢによれば、欽明十四年に閏十二月がある。
《云臣等以来年正月到》
木刕らは「徳率次酒杆率塞敦等以去年閏月四日到来云ア臣等イ以来年正月到」と語った。
原注「臣=内臣」を用いれば区切りはアで、〈内閣文庫本〉「臣=おの(己)」によれば区切りはイとなる。
これが意外に重要なポイントである。
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〈内閣文庫本〉"ヲ"と"ラ"の書体
「オノヲ」は「オノラ」の誤写であろう。 |
「臣等」は、普通は一人称の遜称である。
するとこの文は
A |
徳率次酒・杆率塞敦等、去年(こぞ)の閏月四日を以て到り来(きた)て臣等(やつこども)に云へらく、「来年(あくるとし)正月を以て到る」といへり。
| 〔次酒・塞敦等は去年閏月四日に到着して、私ども〔木刕たち〕に「来年正月に〔助軍が〕来る」と言った〕
区切りイに対応
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と読める。
古訓でもこの読み方がなされたことが、「臣等」に「オノヲ」をあてたことから分かる〔ヲは恐らくラの誤写であろう〕(右図)。
この読み下し文からは、あたかも次酒・塞敦が帰国後にその足でやって来て、内臣から聞いた答をそのまま木刕らに伝えた印象を受ける。
ところがこれでは、一月に倭国に遣わされたのに、その報告が閏十二月となり、あまりに遅い。
また、内臣は倭国に遣わされていた次酒・塞敦等に直接返事をしたのではなく、改めて百済に渡って回答したのが実際である。
この二点において、木刕らの言葉は辻褄が合わない。
そこで、試しに原注の"臣=内臣"説を採用してみた。すると、
B |
徳率次酒・杆率塞敦等、去年(こぞ)の閏月四日を以て到り来(きた)て云へらく、「〔内つ〕臣、来年(あくるとし)正月を以て到らむ」といへり。
| 〔次酒・塞敦等は去年閏月四日に到り来て、「内臣は〔助軍を率いて〕来年正月には来る」と言った〕
区切りアに対応
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となった。
これは、次酒・塞敦自身の主観的な観測を述べた文である。
これなら閏十二月四日でもよい。なかなか助軍が来ないので、改めて次酒たちを呼び出して「どうなってるんだ」と問いただした場面が想定できるからである。
実はそれ以上に、Aには決定的な欠陥がある。
漢文においては、会話引用文「"~"と言う」の引用符の機能は、「曰」を挟んで"One says that ~."の構文のthatの役割をさせる。
また動詞が「云」「曰」「言」「謂」など一個のみの場合は、その文字自体が区切りとなる。
だから「云」があれば、その次の文字から言葉が始まる。
もしこの原則を崩せば漢文すべてにおいて区切りが不明瞭となり、大変不安定な言語になってしまう。
Aを表現したい場合は、「到来告臣等曰以来年正月到」、あるいは「到来于臣等云以来年正月到」となろう。
また五月になると、内臣自身が水軍を率いて百済に渡っているのを見れば、助軍の到来を「内臣等以来年正月到」と表すのも妥当である。
以上から、Bの読み、即ち原注の判断通りとするべきであろう。
日付 | 交渉の経過 |
十四年正月十二日 | 百済使〔次酒・塞敦・礼塞敦〕遣わされて軍兵を乞う。 |
不明 | 〔同上〕罷帰。 |
六月 | 倭使〔内臣〕が百済に行き、馬・船・弓矢を賜る。そして「兵の人数は王の求めるままに」と伝える。 |
八月七日 | 百済使〔奈率・科野・新羅・汶休・帯山〕「前軍後軍に分けて秋までに派遣を請う」 |
閏〔十二〕月四日 | ※〔次酒・塞敦〕木刕らに説明:「臣〔=内臣らの軍〕は来年正月に来る」 |
十五年正月九日 | 百済使〔木刕・文次・曰佐分屋〕筑紫に来て、対応した内臣・佐伯連にも助兵を求める。 |
〔木刕ら〕※を述べた上で、「倭兵は来るか否か、来るなら何人来るか連絡がない。早く来て軍営を設けてほしい。正月までに軍を送ってほしい。」と求める。 |
〔内臣〕都に行って勅を得て帰り、「助軍1000人、馬100匹、船40隻」を回答。 |
二月 | 百済使〔三貴・物部烏〕〔助兵がまだ来ないので〕派兵を求める。交換条件として要請されていた易博士・暦博士・医博士に五経博士、僧なども加えて上番グループを献上し、下番グループの名を知らせる。 |
三月一日 | 〔木刕・文次〕帰国。 |
五月三日 | 〔内臣〕水軍を率いて百済に向かう。 |
《云「内臣」等以来年正月到》
サイト主は、当初Aだと考え、上記で述べた通り閏月四日の件が話の筋と齟齬することが気にかかっていた。
その検討のために、まず時系列に沿って事柄を整理しようとしたのが右表である。
前項によってBが確定したが、せっかくまとめた表なのでここに載せる。
この表によって改めて流れを見ると、百済は十四年十二月、倭の助軍がなかなか来ないので、業を煮やして木刕・文次・曰佐分屋を筑紫に派遣して様子を見に行かせたことが見えてくる。
その出発前に次酒・塞敦を呼び出して、改めて倭が何を約束したかを確認した。それが「閏〔十二〕月四日」のことであった。
「到来」は大袈裟な語であるが、ひとまずは呼び出されてやって来たと受け止めておく。
呼び出された次酒・塞敦が話したのは「内臣らは一月には来ることになっています」というものであった。
木刕らは内臣・佐伯連に、「筑紫から助軍が出ていくところをこの目で見て、それを私の国に伝えれば皆大喜びするでしょう」と言った。
それでやっと内臣は勅をもらいに行き、軍兵1000人と馬・船を送るとの回答を得て木刕らに伝えた。
前年六月の勅で交換条件として求められていた易博士・暦博士・医博士などが、二月に送られた。
三月に木刕らが帰国したのは、助軍を送る準備が実際に進みつつあったことを見届けたからであろう。
そして、いよいよ五月に内臣自らが水軍を率いて渡海したのである。
《此年之役甚危於前。願遣賜軍使逮正月》
「此年之役甚危於前。願遣賜軍使逮正月」の意味は、「今年の戦闘は目前に迫っているから、援軍を正月までに送ってほしい」で間違いないだろうが、
文法に沿って理解しようとすると骨が折れる。
●前… 時間軸の上に置かれた「前」の矢印は、必ず過去を向く。
倭語の「さき」「まへ」の矢印も基本的に過去を向くが、「この先」など、未来を向く場合もある。
書紀は純正漢文だから、ここでは「於前」は「間もなく」の意である。あるいは空間における意味「目前」と読むこともできる。
●於…前置詞と見れば、「危」は形容詞〔あやふし〕または動詞〔あやぶまれる〕。
動詞と見れば、「危」は名詞〔あやふきこと〕となるが、どちらでもよい。
●願…副詞〔ねがはくば〕として全体にかかる。若しくは、動詞〔~をねがふ〕として「遣~正月」を目的語とする。
●使…名詞は「使者」だがここで「軍使」は文脈的にあり得ず、使役の助動詞〔~しむ〕。従って〈北野本〉のように「使レ逮二正月一」
〔正月に逮〔=及〕ばしむ=正月までには〕。
●遣賜軍…和風漢文として「遣二-賜軍一」=「みいくさをつかはしたまふ」とするのが一番しっくりする。
しかし、この前後の部分は厳格な漢文体で固められているので、この二文字だけを倭習と見るのは難しい。
実際、内閣文庫本・北野本ともに「つかはしたまふ」は採用していない。
よって、熟語「賜軍」が「遣」の目的語である。
「賜軍」は、動詞が名詞を連体修飾する「所賜軍」〔賜りし軍〕、動目構造の「賜レ軍」〔軍を賜る〕の両方に使うが、
目的語になる場合は前者である。
〈内閣文庫本〉も「遣二賜軍一」〔賜りし軍を遣はす〕で、文法的にはこれで解決できる。
〈北野本〉は「遣賜レ軍」と返し点を入れる。すると「遣」は"賜軍"をジャンプして「使」に繋がるとし考えられない。
つまり「賜レ軍、遣使逮正月」だが、この解釈は無理である。格変化を欠く言語においては語順を守ることは必須である。
結局〈内閣文庫本〉のよみ方が妥当だが、ただ、「遣」のルビ「ツ テ」とは何であろうか。
〈内閣文庫本〉はとても読みやすい書体で書かれているが、時々ルビの位置がずれて隣の字についていたり、誤字があったりするから、
筆写人の訓点に関する知識は不十分である。
ここもその例のひとつであろう。
《代》
十四年六月に行った「依二番上下一」の要請は、
一人の人物を帰化させて一生勤めさせるのではなく、上番・下番の交代制でいくことを提案したもの。
「代二前番一」〔前番に代はりて〕は、つまり「後番は」である。
すなわち「代」は、交代制における後番を指す。
「代」の訓は〈北野本〉の「カハル」〔代わる〕でもよいが、上代語にはこれにぴったりの「しろ」という語がある。
《大意》
十五年正月七日、
皇子(みこ)渟中倉太珠敷尊(ぬなくらふとたましきのみこと)を立て、皇太子とされました。
九日、
百済は中部木刕(ちゅうほうもくきょう)施徳(せとく)〔八品〕文次(もんじ)、
前部(ぜんほう)施徳(せとく)曰佐分屋(おさふんおく)らを
筑紫に遣わして、
内臣(うちのおみ)、
佐伯連(さへきのむらじ)らに諮りました。
「徳率(とくそつ)〔四品〕次酒(じしゅ)、
杆率(かんそつ)〔五品〕塞敦(そくとん)らが、
去年閏月四日に来て、私どもに
『救軍は、来年正月に到着する』と言いました。
そう言われましたが、未だに来るのか来ないのか、また軍の人数はどのくらいかが詳らかではありません。
願わくば、予め若干名を送って軍営を整備させるとのお言葉を、お聞きいたしとう存じます。」
別に諮りました。
「まさに、可畏(かしこむべき)天皇(すめらみこと)の詔(みことのり)を受け賜わり、
筑紫に来て、賜軍(ちょうぐん)の出航をお見送りしたと〔国の人が〕聞けば、
これを聞く喜びは、他に譬えるべくもないでしょう。
この年の役(えき)は、甚だ危ぶまれる事態が目前に迫っており、願わくば賜軍を遣わして正月に間に合わせてください。」
この要請に、内臣(うちのおみ)は勅を戴いて参り、その答えを
「即ち助軍の人数は一千人、馬百匹、船四隻を派遣します。」と伝えました。
二月、
百済は下部(かほう)杆率〔五品〕(かんそつ)将軍(しょうぐん)三貴(さんき)、
上部(じょうほう)奈率〔六品〕(なそつ)物部烏(もののべのう)らを遣わし、
救兵を要請し、
徳率〔四品〕(とくそつ)東城(とうじょう)子莫古(しまくこ)、先番の交代は、奈率〔六品〕(なそつ)東城(とうじょう)子言(しごん)、
五経博士(ごきょうはかせ)王柳貴(おうりゅうき)、、交代は固徳〔九品〕(ことく)馬丁安(まていあん)、
僧曇慧(どんえ)ら九人、交代は僧道深(どうしん)ら七人を献上しました。
別に勅を受け賜わり、
易博士(えきはかせ):施徳〔八品〕(せとく)王道良(おうどうりょう)、
暦博士(れきはかせ):固徳〔九品〕(ことく)王保孫(おうほうそん)、
医博士(いはかせ):奈率〔六品〕(なそつ)王有㥄陀(おうゆうしゅうだ)、
採薬師(さいやくし):施徳〔八品〕(せとく)潘量豊(ばんりょうほう)、
固徳〔九品〕(ことく)丁有陀(ていゆうだ)、
楽人(がくじん):施徳〔八品〕(せとく)三斤(さんこん)、
季徳〔十品〕(きとく)己麻次(こまじ)、
季徳〔十品〕(きとく)進奴(しんぬ)、
対徳〔十一品〕(たいとく)進陀(しんだ)を献上しました。
皆、要請によってそれぞれに交代の人を添えました。
三月一日、
百済の使者、中部木刕(ちゅうほうもくきょう)、
施徳〔八品〕(せとく)文次(もんじ)等は、退出して帰りました。
五月三日、
内臣(うちのおみ)は、水軍を率いて百済に出発しました。
まとめ
548年に百済の馬津城(または独山城)が高句麗に攻撃されときは、新羅の救援によって救われた。
そのためか、百済は倭に救軍の要請するのを、一時手控えていたが、新羅の救援は実は謀略的なもので、
百済を油断させておいてその隙にどんどん領土を蚕食したようである(八年~九年)。
欽明十四~十五年〔553~554〕には流石に危機感を覚え、一日も早く倭の助軍が来ることを望んだようである。
倭による救援は、十五年五月にやっと実行に移された。
倭は交換条件として三博士を求めるなど先進文化の導入には貪欲だが、どうも出すものはケチる印象を受ける。
さて、書紀の原注はその学究的で誠実な姿勢には好感が持てたが、「臣等者謂二内臣一也」を見たときには落胆した。
ところが詳細に見ると、実はよく検討した結果であることが分かり、信頼を取り戻すことができた。一方で平安の古訓は、ここでは原注のレベルに達していないようである。
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⇒ [19-16] 欽明天皇5
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