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2020.05.30(sat) [19-09] 欽明天皇9 ▼▲ |
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15目次 【五年十二月】 《越國言於佐渡嶋有肅愼人》
「越国言於佐渡嶋」とあるのを見ると「佐渡国」はまだ成立しておらず、 「越国」も越前・越中・越後に分割する前だから、律令国以前の地理区分によっている。 想像であるが「甲子年」の古記録を、該当する欽明五年にそのまま書いたことも考えられる。 《御名部》 ミナベに近い現代地名は「新穂皆川」があり、幕末時点では雑太(さわた)郡の「皆川村」だが、 皆川村に接する国府川の旧名が皆川だったと仮定した場合、注ぐのは南西の真野湾側で「島東」とは言い難い。 『事典 日本古代の道と駅』は、国府を真野町の旧四日市地区と推定している。 国府は佐渡国分寺跡の近くであろう。近くには式内大目神社がある。欽明朝は、国府が置かれる前の時代である。 国府川の旧名が「ミナカハ」であった可能性はある。 妙見山はしばしば「屯倉」の存在を反映するので、その伴造「御名部」がその周辺に分布した可能性はある。 新穂皆川はおそらく氾濫原で、地名はその川名が転じたか。 そして、たとえば屯倉は妙見山麓の地持院川沿い台地で、御名部はそこから「島東」に居住地を広げ、 梅津(次項)に達していたことも考えられる。 《禹武邑》 〈倭名類聚抄〉には御名部・禹武・瀬波河に類似する地名は見えない。 『大日本地名辞書』は、次のように推定する。 ――「羽茂は古訓ウモにて、禹武ヨリ出てしと為し」、 「禹武は島東と云へば、決して西南なる羽茂に混乱すべからず、 羽茂は古来ハモチにて、禹武と自ずから別地とす。」 「梅津:今賀茂村へ併す、羽黒に隣り、直に夷町の北とす」、 「按に梅津は欽明紀禹武邑とある地にて」、 「此に禹武邑を島東と曰へるにて、地形の大略を弁ずべく、 且島北の碕岸とは鷲崎の方を指すや明白なれば、瀬河浦并に阿都久志彦社と相参考して、 梅津は禹武津なりと知らる」 〔羽茂は古訓ウモとされ、禹武に由来すると言われてきたが、 禹武は「島東」だというから、西南の羽茂(本来ハモチである)ではない。 梅津が禹武で、「島北の碕岸」は鷲崎方面、瀬河浦井神は阿都久志彦社ではないかと考えられる。〕 ウから始まる語はムと書かれることもあり、もともと鼻濁音[m]が閉口のまま一音節になるパターンで、 「梅」、「馬」、「抱く(むだく、うだく)」などに見える。 ウマは、ユーラシア大陸の遊牧民の言葉[ma]が世界的に広がったもので、 日本ではもともと[m-ma]がムマ・ウマになったと考えられている。 この点において、「禹武」と「梅」には共通性がある。
ミシハセのクマ伝説は佐渡島南西部の羽茂郡に伝承されるが、これは八百比丘尼伝説に付随するものである(別項)。 島東からはるばる羽茂郡の南岸まで「移した」ことも理屈では考えられるが、伝説はすべて「島東」の範囲に収まると考えるのが妥当であるように思われる。 結局「梅津」に繋がる細い糸を除けば、地名の大部分は後世のものである。 奈良時代以後に流刑地、後に金の産出地として人口が増加した時代がこの島の本格的な歴史か。 《椎子》 シイはブナ科クリ亜科シイ属の総称で約100種類あるが、日本に自生するのはツブラジイ、スダジイの二種類、佐渡はスダジイだという。 そして「唯一食べられるどんぐりとして市民権を得ているのが椎の実」で、 「生でも食べられ」るが「炒った方が香ばし」く 「味はピーナツとカシューナッツの中間」という (はなまるフルーツ)。 《飛騰火上一尺余許》 「一尺」は二人の身長が直感されるが、字の並びだけ見るとジャンプした高さである。 ただ「許」には「正確には言えないが」の語感があるが、ジャンプする高さの正確さは取り立てて問題にすることでもないので、 やはり「長〔たけ〕一尺」と読むのが自然であろう。『天書』(後述)でも「長」〔身長の意〕としている。 なお「椎の種皮が小人に化成する」の現実的な理解は不可能で、伝説における夢想と言える。 《被其抄掠》 船に乗ってやってきて「抄掠」したところは、 後漢書の「挹婁人憙二乗レ船寇抄一、北沃沮畏レ之。」 を下敷きにしたように思われる。 《瀬波河浦》 瀬波河浦は、『大日本地名辞書』の引用では「瀬川浦」とする。 「波」については岩波文庫版では天理図書館本に「傍書-イ无」〔「異本には無し」の添え書き〕とある。 「浦」は江を意味するので〔現在の霞ヶ浦が当てはまる〕、現在の加茂湖の海への開口部がもう少し広く、「江」であったことも考えられる。 この加茂湖にそそぐ川のどれかが「瀬波川」か。 その「瀬波川の神」は、果たしてどこかの神社に祀られてるのであろうか。佐渡の式内社には、次の九社がある。 〈延喜式-神名帳〉:{ 佐渡国九座【並小】 羽茂郡二座【並小】/度津神社。大目神社。 雑太郡五座【並小】/引田部神社。物部神社。御食神社。飯持神社。越敷神社。 賀茂郡二座【並小】/大幡神社。阿都久志比古神社。} 「瀬波河浦」が加茂湖だとすれば、阿都久志比古神社(熱串彦神社)が近いのは確かである。 《肅慎人移就瀬波河浦》 「移就」の動作主は邑人と考えられるから、「肅慎人」は受事主語〔動作の対象を主語に置く〕であろう。 その前の「浦神厳忌」も同様で、邑人が浦の神を厳に忌避した。 受事主語は返り点なしで訓めるので、倭文と馴染みがよい。 出雲風土記でも、目的語-動詞の語順が多く見られた(第63回「三津郷」)。 「一尺余許」のところのやや不器用な書法も合わせ、もともとは土地の人が書いた文章ではないかと思われる所以である。 《大意》 十二月、 越の国は言上しました。 ――「佐渡島の北の御名部碕(みなべのさき)に 肅慎(みしはせ)の人がいて、 一隻の船に乗ってきて淹留〔=しばらく留まる〕し、 春夏(はるになつに)魚を獲り食物にあてました。 その島の人は人に非ずと言い、 また鬼と言って敢えてに近づきませんでした。 島の東の禹武邑(うむむら)の人が、椎の実を採り拾いして、 柔らかくして食べるために灰の中に入れて炒りました。 その皮は二人の人に変わり、火の上に飛び上がり、〔身長は〕一尺余りほどで、 しばらく相闘いました。 邑の人は心の底から奇妙なことだと思い、庭に取り置くと、 また前のように飛び、相闘うことを止めませんでした。 ある人が占って言うには、「これは、邑の人が必ず鬼に悩まされるということだ」と言い、 日を置くことなくその言葉の通り、掠め取られる被害に遭いました。 そこで、肅慎の人を瀬波(せなみ)川の浦に移して住まわせました。 浦の神のことは厳しく忌み、邑の人は敢て近づかないようにしていました。 渇いてその水を飲んで死んだ者は、大半に及びました。 その骨は巖(いわお)の岫(くき)〔=岩穴〕に積まれ、里人は肅慎の隈(くま)と呼びます。」 【肅慎】 《後漢書曰》 肅慎については、〈釈紀-述義〉に太平御覧・鬼谷子・天書からの引用が載る。
『天書』は奈良時代末期の書。 「鬼谷子」は戦国時代の人。文中の指南車とは、常に南を指す人形を乗せた車。車が向きを変えた時に歯車のはたらきによって人形を逆方向に動かす。 太平御覧にこれとほぼ同一の文章が収められているが、多少の相違がある。 曰く、「鬼谷子曰。肅慎氏獻二白雉於文王一。還恐レ迷レ路問二周公一作二指南車一以送レ之。 又曰。鄭人之取玉也。必載二酥訟之車一為レ其不レ惑也。」 〔鬼谷子に曰ふ。肅慎氏白雉を文王に献(たてまつ)る。還りに路に迷ふを恐れ周公に問ひ、指南車を作り以て之を送る。又曰ふ。鄭人の取る玉、必ず酥訟の車に載するは、其の惑はざる為(ため)とす。〕 なお、『太平御覧』-「論衡」〔王充(一世紀)〕「酥訟之勺、投二之於地一、其柄指レ南。」〔地面に投ずるとその柄は南を指す〕 「酥訟」の正体は全く不明。赤鉄鉱Fe2O3と理解するしかない。 赤鉄鉱の宝石はヘマタイトhematiteと言い、鉄黒色で金属光沢をもつという。 すると、「酥訟之勺」とは勺〔ひしゃく〕型に仕上げ、柄の部分がN極になるように磁化させたものか。 成王は周の第二代の王で、武王の子。文王は武王の父。周公とは一般的に周代の諸侯のことだが、特に武王の弟の周公旦をいう。 肅慎が周武王のときに来貢した記事は漢書にもあり(資料[40])、周が建ったころは「肅慎氏の国」である。 後漢には「挹婁」。以後、勿吉(もつきつ)→靺鞨(まっかつ)となる。 『通典』〔編纂;766~801〕の「辺防一」に「古之肅慎、宜即魏時挹婁」、「後魏以後曰二勿吉国一。今則曰二靺鞨一焉。」とある。 「後魏」は「北魏」あるいは「元魏」とも呼ばれる〔386~534〕。 よって、概ね4~6世紀ごろが「勿吉」、7~9世紀頃が「靺鞨」である。 《肅慎の古訓》 肅慎は、欽明紀(巻十九)、斉明紀(巻二十六)、天武紀下(巻二十九)、持統紀(巻三十)に見られる。 粛慎に〈釈紀〉が訓を振るのは、持統天皇紀のみである。 ――「持統天皇紀十年三月:肅愼志良守叡草。〔人名〕」 では、この古訓は、いつまで遡るのだろうか。 八木書店コラム(日本書紀の写本一覧と複製出版・Web公開をまとめてみた) によると、巻十九は北野本(北野天満宮所蔵)が最古である。「肅慎」がある他の巻二十六、二十九、三十も北野本が最古である。 写真製版による『国宝北野本』(貴重図書複製会;昭和十六年〔1941〕)から、訓が付された「肅慎」をすべて拾った(右図)。 同書の巻末の解説によれば、巻十九の奥書には「吉野時代かと思はるゝ」、 「巻尾に資継王の筆にかゝつて、 延文元八朔明弼縁 住吉神主可點御本懇望之仍大概點之者也 と判読さるゝ旧の奥書を抹消してある。」とある。 この中の「延文元年」〔1356〕は南北朝時代(室町)、北朝の後光厳天皇の年号。 巻二十七・巻二十三にも資継王の筆で「延文元十二四明弼…此巻大概加點了」とあるという。 同解説はさらに、巻三十の奥書によれば「知命有四之齢… といへば五十四歳のことであるから、資継王が本巻に加点したのは正平七年(文和元年)〔1352〕のことであつたと推知せらるゝ。」と述べる。 また同解説に拠れば、二十八巻~三十巻は、二十七巻とは別系統である。 これらを見ると、資継王はこれら筆写本に、1352~1356年の時期にまとめて訓点を付したと見られる。 各巻に出てくる「肅慎」の最初のものに〔巻十九は二か所〕、訓が付される。 「大辞林特別ページ」によれば〔以下も〕、 ハとムが混同されることはない。 巻二十九・三十で「ア」に見える字も、巻十九を見れば「ミ」だと考えられる。なお、〈釈紀〉(前田本)のミもこの字体である。 巻二十九の四文字目は、『史記延久点』〔1073年、大江家国による『史記』への訓点本〕 に使われた字体で、これもセである。 すなわち、巻十九は「ミシムセ」、巻二十六は「??ムセ」、巻二十九・三十は「ミシハセ」である。 巻三十では、配置から訓が付された時期は本文と同時に見える。 巻二十六も筆先の細さから同時かも知れない。 だとすれば、資継王がつけたものではない。 一方、巻十九は後世に付したように見える。C14法を用いれば、正確に分かるはずであるが、書紀を対象とするこの種の研究は今のところ見当たらない。 ところで、初めに述べたように〈釈紀〉で訓が付されているのは持統巻のみであった。 ということは、〈釈紀〉〔1275年頃〕の時点ではルビのある写本もない写本も存在し、 〈釈紀〉が参照した写本のうち、巻三十〔持統〕には訓があり、他の巻には訓がなかった可能性がある。 兼方は巻三十の「粛慎」のみ人名の一部になったと解釈して「アシハセ」を用いたが、他の巻にはこの訓みを遡及させずに音読みしたのかも知れない。 13世紀後半には写本の一部にミシハセの訓があり、その後100年ほどの間に他の写本にも広まったと想像される。 《ミシハセ》 粛慎の人の乗った船が稀に日本海岸に漂着したことは考えられ、古くからミシハセと呼ばれたこともあり得る。 しかし、純粋な和語だとすると四音節もあるのは不自然である。 地名や氏族名などを見ると、紀伊国のキ、毛国のケ、火国のヒは一音節である。これらはごく古い時代に自然発生したと思われる。 高志国のコシ、阿波国・安房国のアハ、添上・添下のソフ、磯城のシキなどは二音節である。 三文字は、民族の呼称として、エミシがある。アヅミも固有か。ハヤトはハヤ-ヒトか。 四文字は、氏族名の大伴は美称オホ+トモ、物部は"モノ"の"ベ"、藤原はフヂのハラ。ムナカタの「胸形」は後付けかも知れないが、それでも「ムナ-方」か。 四文字になると、ほぼ基本語の合成か思われる。 ミシハセは、基本語の組み合わせでは説明がつかないから、外来の発音を写し取ったのだろう。 巻十九・巻二十六の「ミシムセ」が本来の形だったとすれば、シムがあるからシユクシムが訛ってミシムセとなり、そのムがハに誤写されたとも想像される。 書紀の頃は既に「靺鞨国」だが、相変わらず「粛慎」が使われているのを見ると、漢書の影響はかなり強力である。 その「粛慎」のまま長い年月を経て、期間が長ければ音読で生まれた言葉の変形も激しいわけである。 いずれにしても、「粛慎」の字だけを見てこの倭語を発明することはあり得ないから、日本海を渡ってきた異民族を呼ぶ倭語が存在し、それが古訓になったこと自体は間違いないだろう。 《伝承地》
その生家の伝承地の案内板には、次のように書かれる。
空印寺(福井県小浜市小浜男山2)には、八百比丘尼入定洞、八百比丘尼の絵巻、木像があるという。 八百比丘尼の発祥がいつ頃のことか分かれば、この地のミシハセのクマ伝説がいつ頃から存在したかを探る手掛かりになる。 調べてみると、『康富記』〔室町、権大外記中原康富の日記〕文安六年〔1449〕五月に、「白比丘尼」上洛の記事があることが分かった。 原文に曰く。 「廿六日乙巳 晴、或云、此廿日比、自若狹國、白比丘尼トテ、 二百餘歳ノ比丘尼令上洛、諸人成奇異思、仍守護召上歟、於二條東洞院北頰大地藏堂、 結鼠戸、人別取料足被一見云々」 〔或るに云ふ。この二十日ころ、若狭国より白比丘尼とて、 二百余歳の比丘尼上洛せしめ、諸(もろもろの)人奇異の思ひを成し、仍(すなは)ち守護の召し上ぐ歟(や)、 二条東洞院北頬大地蔵堂に於いて、鼠戸を結びて、人別に料足を取り〔=一人ずつ木戸銭を取り〕一見を被(かふぶ)り云々(しかじか)〕。 これを見ると、「白比丘尼」は各国を行脚し、見世物として資金稼ぎをしていたようである。 このときは二百歳だったが、年齢は次第に誇張されていったのであろう。 「"令"上洛」とあるから、 比丘尼自身の営業ではなく、教団が派遣したのであろう。名前に「白」がつくから、きっと若くて美しい色白の比丘尼が選ばれたと想像される。 この記述から、少なくとも室町時代には八百比丘尼伝説が存在していたことが分かる。 佐渡においては、その伝説の中に「ミシハセのクマの場所を教えた」話が組み込まれたわけである。 それ以前に現地で、ミシハセ伝説がどの程度伝えられていたかは判断し難い。 その八百比丘尼が教えたというミシハセのクマの伝承地は、45号線を西に約600m行ったところにあり、 ここにも案内板があって次のように書かれている。
羽茂郡大石は「島東」とは言えないが、伝説そのものは島内の各地に広がっていたのかも知れない。 浦嶋伝説が典型的であるが、伝説が伝播すればそれぞれの土地ごとに縁の場所ができるのは普通のことである。 まとめ 十二月条の前後は、百済との外交関係で埋め尽くされている。 その中でこの物語は孤立しているので、甲子年の古記録を該当する欽明五年に置いたのではないかと思われる。 受事主語をしばしば用いる文体から、現地産の文書である印象を受けた。 佐渡国風土記は殆ど何も残っていないが、もしかしたらこの話も書かれ、そこにミシハセなる音仮名表記があったのかも知れない。 |
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2020.06.06(sat) [19-10] 欽明天皇10 ▼▲ |
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16目次 【六年】 《百濟造丈六佛像製願文》
音仮名としては、提=テ、便=ベである。提の音はダイ(呉)、テイ(漢)のほかにシがあるが、鳥が飛ぶ様のオノマトペとして「提提(シシ)」を用いるのみである。 よって伝統訓ハスビは、特殊な訓みといえる。本来ハテベだったのが、長い年月の間に訛ったようにも思える。 この変化は、それだけこの伝説が長い間広い範囲で語り継がれてきたということであろうか。 《遣膳臣巴提便使于百済》 「遣~使~」と、「つかはす」が重複している。 意味は、「膳臣巴提便を百済につかはす(まだす)」である。この訓みでも全く差し支えないと思われるが、 文法的には使役文で、忠実に訓むなら「膳臣巴提便をして百済に使(つかひ)せしむ」となる。 ここで、ツカヒ=使者、セ=サ変動詞の未然形、シム=使役の助動詞である。 《丈六》
丈六仏は、欽明天皇紀以後、用明紀、推古紀、皇極紀、孝徳紀に出てくる。 地名丈六は、奈良県橿原市久米町。橿原神宮前駅の東300mほど。 現在の丈六交差点は、古代の下ツ道と山田道が交わる地点で、軽と呼ばれる地域の中心と思われる。 この辺りに軽市が立ったと見た(第104回【軽】)。 丈六北・南遺跡からは掘立柱建物が検出され、『辞典 日本古代の道と駅』は、国府跡〔〈倭名類聚抄〉{大和国【国府在二高市郡一】})と見ている。 歴史的に重要な場所である。 丈六という地名が、この辺りにあった丈六仏に因むのは間違いないだろう。 丈六交差点から東南東2.2kmの飛鳥寺には、飛鳥大仏〔高さ約9尺、606年〕がある。 飛鳥寺は法興寺の跡で、法興寺は平城遷都とともに移転した。 また、丈六交差点の南南東350mほどの法輪寺に残る伽藍跡が、軽寺であったと考えられている (第148回)。 その丈六仏が地名の由来となったことも想像されるが、軽寺に丈六仏があったことは今のところ確認できない。 他の可能性としては、仏像製作工房の存在や、廃寺になって仏像が野ざらしになっていたとか、様々な由来が想像し得る。 《願文》 〈釈紀-秘訓〉による訓読は次の通りである。
「一切」を「しかしながら」と訓むのは意訳である。 「解脱」を「安らかなること」または「免がるること」と訳しているが、 これだと、本来の仏教用語とはニュアンスがずれてくる。 ゲダツは呉音なので、仏教流入当時から音読が主流だったのではないかと思われる。 同様に「一切衆生」も音読であろう。 功徳の功も漢音コウ、呉音クなので、古くからクドクとして流入していたことが考えられる。 さて、弥移居(みやけ)だけが音仮名であることが目を惹く。このミヤケは、貴いものとして受け止められている。 古くは、神功皇后伝段の「百済国者定渡屯家」まで遡る。 古事記ではすでに「屯倉」の字を用いているから、願文の原型は、記紀以前からあったことが考えられる。 ただ、「天皇」は、天武朝からの呼称だから、原文にあったはずがない。 百済から献上されたとされる「七支刀」の銘文では、「倭王」が使われていた(神功皇后【献七枝刀】)。 よって、この願文が百済で作られたものなら「天皇」のところには「倭王」と書かれていたと推定される。 《丈六仏像》 ここにはこの丈六仏像が倭にもたらされたとは書いていないのだが、 十三年十月に、百済聖王が「釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻」を献上した記事がある。 この釈迦仏金銅像が、今回の丈六仏像であると読むのが自然であるように思われる。その根拠の一つは釈迦像を丈六仏ということであるが、 もう一つは願文(ぐわんもん)の内容にある。 願文は、「天皇の勝善之徳」を、天皇が「弥移居(みやけ)」として用いる国〔=百済国〕が獲て「福祐を蒙る」こと、及び「一切衆生」の「解脱を蒙る」ことを願っている。 要するに、①天皇の威光にあやかって百済国も幸福を得ること、②百済・倭の別なく万民の煩悩からの解放を願う。 ②はともかくとして、①は、百済が国内向けの文章として書いたとは考えにくい 〔=百済国内の寺にこの願文の入った仏像を安置して百済の人が拝したとは思われない〕。 五年条で見たように、百済王は倭に対して一貫して上から目線であった。自国の文化・政治の優越性を、十分に意識していたと思われる。 それでも倭の朝廷に対しては敬意をもって接していたから、儀礼的に倭王の威を受け入れる表現を用いたのが ①だと考えられる。 このように、願文は倭に向けて作られている。 よって、この願文を胎内に収めた丈六仏こそが倭に献上した釈迦仏金銅像ではないかと考えるのである。 《浜海浜也》 原注の「浜海浜也」は、「"百済浜"という固有名詞(地名)ではなく普通名詞としての"浜"」の意であろう。 《敬受絲綸》 「敬受絲綸…」以下の韻文が丸ごと手本にしたと思われる文章は、今のところ漢籍には見いだせない。 恐らく書紀〔または、元になった倭の伝承〕独自のものでであろう。 《為愛其子令紹父業》 「為愛其子」以下は、「其の子を愛(うつく)しむ」「為(ため)に」 「父業」〔=父が命じられた使者の仕事〕に「紹(つ)か令(し)めた」と読める。 要するに愛しい我が子を常に手元から離さないために、連れて行ったということであろう。 《汝威神》 目前の猛獣の猛々しさは、神性を感じさせる。 そもそも神は、人智の及ばぬ自然が人の心に生じさせるもので、本質的に「畏れ敬う」ものであった。 宗教の教義が確立するにつれて、知性で理解される神と直感的に心に生ずる神が分離していく。 天照大神は前者で、目前に迫る虎は後者である。 《剥取皮還》 巴提便は復命したとき、虎の皮を献上したと見られる。 この伝説は、後世の加藤清正の虎退治を彷彿させる 〔実際には黒田長政とその配下の家臣が行なったという説も見る〕。 この種の古い言い伝えが底流にあって、清正の虎退治伝説も生まれたのだろう。 清正にせよ長政にせよ、 実際には現地で家臣が購入した(あるいは奪った)ものを献上して、秀吉の歓心を買おうとしたのではないだろうか。 《大意》 六年三月、 膳臣(かしわでのおみ)巴提便(はすび)を使者として、百済に遣わしました。 五月、 百済は 奈率(なそつ)其㥄(ごりょう)、 奈率(なそつ)用奇多(ようきた)、 施徳(せとく)次酒(すしゅ)等を遣わして、 上表しました。 九月、 百済は 中部護徳(ちゅうほうごとく)菩提(ぼたい)等を使者として、任那(みまな)に遣わし、 呉(くれ)の財物を日本府臣と諸旱岐(かんき)の、それぞれに応じて贈りました。 この月、 百済は丈六(じょうろく)の仏像を造り、願文を製して、 「蓋(けだ)し聞く。丈六仏を造れば功徳甚大と。 今、敬い造り、その功徳を以ち、 願はくば、天皇(すめらみこと)の勝善の徳を獲、 天皇がみやけとして用いられる国が、共に福祐を蒙ることを。 また願はくば、 普(あまね)く天(あめ)の下の一切衆生は、皆解脱を蒙ることを。 故にこれをお造りした。」と記しました。 冬十一月、 膳臣巴提便は百済自より帰り、申し上げました。 ――「私めは使者として遣わされ、妻子を従えて行きました。 百済の浜に至り、 日暮れて停まり宿りました。 すると幼子が突然姿を消し、行方が分からなくなりました。 その夜は大雪で、空が明けてから捜すと、 虎の足跡が連なっていました。 私めはそこで、太刀を帯け鎧を纏い、尋ねて巌の洞窟に至り、 太刀を抜いて申しました。 『絲綸(しりん)〔皇命〕を敬い受けて、 陸海を劬労し〔苦労し〕、 風に櫛(くしけず)り雨に沐(ゆかみ)して〔風雨を衝いて〕 草を踏み茨を分けてきたが、 子を愛しむために父の仕事に連れ添わせた。 ここにお前、威(いか)しき神よ、愛する子はただ一人である。 今夜、その子を見失い、足跡を追って求めここに至った。 命を失うことを恐れず、報せんがために来た。』 そう申したところ、 既にその虎は前に進み、口を開いて食おうとしてきたので、 巴提便(はすび)は、瞬時に左手を伸ばしてその虎の舌を取り、 右手で刺し殺しました。 皮を剥ぎ取って帰還いたしました。」 【六年(二)】 《高麗大亂》
〈釈紀-秘訓〉による訓読は次の通りである。
北野本は、「百済本記云ク」〔百済本記(あるふみ)に云(いは)く〕 「狛ノ香_岡_上ノ王薨ミウセス」。 とする。 《日付》 「是の年」(欽明六年)は、乙丑〔545〕である。 元嘉暦モデルによると、欽明六年〔乙丑〕十二月は乙亥朔である。 したがって、甲午:十二月二十日、戊戌:十二月二十四日となる。 『三国史記』(後述)によれば王が薨じたのは乙丑年「春三月」で、薨じた年は一致するが月は一致しない。 《香岡上王》 ウィキペディア韓国語版<ko.wikipedia.org>には、 「안원왕(安原王,~545년,재위:531년~545년)은 고구려의 제23대 군주이다. 곡향강상왕(鵠香岡上王),향강상왕(香岡上王),안강상왕(安岡上王),안악상왕(安岳上王)이라고도 하며,」 〔an-won-wang(安原王、~545年、在位:531~545年)は第23代高句麗王。 goghyang-gangsang-wang(鵠香岡上王)、hyang-gangsang-wang(香岡上王)、angangsang-wang(安岡上王)、an-agsang-wang(安岳上王)としても知られる。〕 とある。 このうち「香岡上王」は書紀に依ったものかも知れないが、類似する「安岡上王」「鵠香岡上王」があるので、 香岡上王は三国史記の安原王と同一人物であると見て差支えないだろう。 さて、『三国史記』巻十九:高句麗本紀第七には次のように書かれる。 ――「安原王。諱寶延。安臧王之弟也。」 ――「十五年:春三月。王薨。號爲二安原王一。是梁大同十一年。東魏武定三年也。梁書云二『安原以大淸二年卒。以其子爲寧東將軍高句麗王楽浪公。』一誤也」 〔十五年三月:王薨ず。号〔諡号〕安原王。これ梁の大同十一年〔545〕、東魏の武定三年なり〔545〕。梁書の『安原大清二年を以て卒す。その子を以て寧東将軍高句麗王楽浪公とす。』と云ふは誤りなり〕。 「武定」は東魏〔南北朝時代;534~550〕の年号。 ――「陽原王。或云二陽崗上好王一。諱平成。安原王長子。〔中略〕以安原在位三年立爲二太子一。至二十五年一王薨。太子即位。冬十二月。遣レ使入二東魏一朝貢。」 〔陽原王、或るに陽崗上好王と云ふ。諱(いみな)平成。安原王の長子。安原在位三年に立たせて太子とす。十五年に至り王薨じ太子即位す。冬十二月、使を遣はし東魏に入りて朝貢す〕。 『三国史記』が『梁書』の誤りだと書いた部分の原文は、 巻五十四(列伝第四十八)の「南梁武帝-太清二年〔548〕:延卒。詔以其子襲延爵位。」 〔延卒す。詔してその子を以て延の爵位を襲(つ)がせむ〕 である。三国史記の引用は、意味を取ってやや書き直したことが分かる。梁が与えたのは「爵位」だからその死は「卒」となり、諸侯の「薨」より一段下である。 よって、高麗国も冊封国ではなく「公が預かった領地」という位置づけになる。 「延」は安原王のことであるが、梁書は「延の子」の名前〔陽原王〕は載せていない。 『三国史記』を見ると、高句麗は梁・東魏双方への朝貢国である。 二重の従属と言えば、明清代の琉球国が連想される。 そもそも朝貢とは、中国の皇帝が国内を分割して一定の土地を諸侯に委ねることだから、同時に二つの国の諸侯国になることは理論上はあり得ない。 しかし実際には、その多くが中国と周辺国との間の外交関係の名目的な表現である。 なお、国王年の切り替えに関して三国史記は、「安原王十五年」=「陽原王元年」としている。 《香岡上王の和訓》 さて、〈釈紀〉は、香岡上王を「香岡上王」と訓む。 「王」は百済ではコキシであったが、高句麗ではコケらしい。ただし、北野本ではここでもコキシである。 「上」は、加羅の冠位ではヲコだが、高句麗の王名ではスヲリである。 香岡をヌタと訓むのも高句麗語か。 〈釈紀〉より後の時代と思われる北野本にもこれらの読みは見られないので、 兼方が高麗系の渡来民の子孫から収集したものと想像される。 しかし、今や兼方の読みの妥当性を判断するすべはない。倭語になったことが明らかな場合以外は、音読を用いるのが適切であろう。 《細群与麁群》 細群・麁群は、恐らくは氏族の俗称であろう。むしろこちらの方が、倭語に意訳してもよいのではないかと思われる。 《七年是歳》 高麗大乱の続きは七年是歳条に載る。後継の王を巡って細群と麁群とが争う。 《大意》 この歳、 高麗に大乱があり、殺された者は多数です。 【百済本記にいう。 十二月甲午(きのえうま)〔二十日〕、 高麗国(こまのくに)の細群(さいぐん)と麁群(そぐん)が、 宮廷の門のところで、鼓を打ち鳴らして戦闘した。 細群は敗れ、その武装を解かぬこと三日に及び、細群の子孫は悉く捕えられ殺された。 戊戌(つちのえいぬ)〔二十四日〕、 狛国(こまのくに)の香岡上王(こうこうじょうおう)は薨じた。】 まとめ 欽明天皇紀において、個々の部分の真偽は別として、百済との関係にかなりの字数を割いていること自体が注目される。 そこには原文資料もかなり残っていたことが伺われ、この時期の百済との関係はそれだけ濃密であったわけである。 仏像などの美術作品、塔などの建築技術、経典などの学問が百済からもたらされ、当時の倭人の目には斬新なものだっただろう。 そのあり様は、明治維新における欧米の文明や、戦後の米国の文化の流入に匹敵するかも知れない。 これらの文化の提供は無償のサービスではなく、倭国との同盟関係を独占的に深め、あわよくば倭そのものを百済化しようとする政治的狙いと一体であろう。 その狙いが新羅に対抗する南部戦線の強化にあるのは、五年条を見た中で明瞭になった。 このように、この時期は百済からの政治・文化のパワーがシャワーのように倭に降り注いでいる。 それを外からの圧力と感じて反発し、倭の政治・宗教・文化の主体性を守ろうとする勢力も当然生まれる。 仏教受容派の蘇我氏と、拒絶派の物部氏・中臣氏の対立もその流れの中で捉えるべきであろう。 |
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2020.06.21(sun) [19-11] 欽明天皇11 ▼▲ |
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17目次 【七年】 《百濟仍賜以良馬七十匹船一十隻》
書紀はヤマトを「日本」と表記するが、後の大和国は「倭」と表す。 ヤマトは、①ヤマト神社の辺りの地域名→②分国名→③葦原中国(あしはらのなかつくに)全体の名称に拡張した。 「倭(wa)」は③のレベルの中国語における呼称で、わが国はヤマトに倭の字をあてた。それが、②①に波及する。 古事記は、②,①まで「倭」を拡張する。さらには、①の神名に由来する初期の天皇名の中にあるヤマト(①’)にも倭を用いる (第106回)。 書紀は、天武朝ころ定められた国号「日本」を③に適用した。また、①’にも「日本」をあてる。 しかし、②については「倭」のままということである。 《今来郡》 また、渡来した漢人の祖「阿知使主」を祀った「於美阿志神社」のところに、檜前寺がある (第237回【檜隈廬入野宮】)。 このように、イマキは檜前のところの可能性がある。 また、言上に出てきた「大内丘」については、大内陵〔野口大墓古墳に治定〕があるので、伝説の舞台が檜前である可能性は高まる。 さらには、飛鳥寺の近くに川原寺跡がある。一説には、川原寺は斉明天皇が営んだ川原宮の跡地であるとされる。 この地名の元は檜前の"川原"屯倉で、その部民が「川原民」であったとする想像も可能である。 これらを状況証拠として積み重ねれば、伝説の舞台は檜前である可能性が高まる。 「郡」であるから、「今木郡」は高市郡の旧名かも知れない。 ただ、高市郡は律令郡成立前の「六県」の時代から既に「高市県」である (第195回《五村屯宅》)。 途中で分割・統合があり、それに伴って一時期使われた使われた名前ということも考えられる。 あるいは高市県の古い名前が「今木県」で、書紀は「郡」を遡って用いたことも考えられる。 《川原民》 〈姓氏家系大辞典〉は、「川原民 カハラノミタミ:倭漢氏の族にして、大和国高市郡川原邑なる朝廷領御民の長たりし氏なり。」と推定する。 同書は明記こそしていないが、「川原邑」を檜前地域と想定していたと読める。 〈釈紀-述義〉には、 「天書曰。七年秋七月。倭国今来郡民直氏宮得二虵龍一献。」とある。 虵は蛇の異体字。「蛇竜」はヘビと竜。また俗にワニ。 《宮名》 「宮登楼」だけを抜き出すと、天皇や皇子が宮殿の楼台に登ったように読めてしまうが、書紀は「宮檜前邑人也」として「宮」は人名であるとする。 したがって、分注の「宮名」の意味は、「是宮之名也」だと誤りで、「宮此人之名也」と解釈しなければならない。 しかし、注釈者が読み間違えて、前者のつもりで書いたこともないとは言えない。 「宮」を人名とすれば矛盾なく完結するが、「川原民直蒙招宮」〔川原のおほみたから、宮にまねかれて〕という別伝があったようにも思える。 《睨影高鳴…》 今木郡の言上は韻文体である。そのうち難解な語について、意味を考察する。
《大内丘》 天武天皇陵は、持統紀に「始築二大内陵一」とある。後に、持統天皇も合葬された。考古学名「野口王墓古墳」(奈良県高市郡明日香村野口(大字))に治定されている。 墳形は八角墳である。 《大意》 七年正月三日、 百済の使者、中部奈率己連(ちゅうほうなそつこれん)等が帰国し、 良馬七十匹、船十隻を賜りました。 六月十二日、 百済は、中部奈率掠葉礼(ちゅうほうなそつけいしょうれい)等を遣わして、献調しました。 七月、 倭国〔=大和国〕の今来郡(いまきのこおり)が言上しました。 ――「五年の春、 川原民(かはらのみたみ)の直(あたい)宮(みや)【名前】が楼台に登って遠望すると、 そこに良駒が見えました【紀伊国の漁師が献上する食物を背負わせた牝馬の子】。 その姿を目を凝らしてみると、高く鳴き、 軽く母の背中を超えました。 そこまで行って買ひ取り、 かさねて養い年を経て、 壮年に及び、鴻驚竜翥(こうきょうりゅうしょ)〔目覚ましく秀でるさま〕に、 仲間とは異なり群を越えていました。 御せば心のままで、 走らせれば思いに適い、 大内の丘の十八丈の谷を越えます。」 川原民の直(あたい)宮は、檜隈邑(ひのくまむら)の人です。 この年、 高麗(こま)の大乱で、凡そ闘った死者は二千余でした 【百済本記にいう。 高麗、正月丙午(へいご)〔三日〕をもって中夫人の子を立てて王とした。年は八歳。 狛王(こまおう)には三夫人があり、正夫人には子がなく、 中夫人の世子(せいし)を生み、その舅氏(きゅうし)は麁群(そぐん)、 小夫人も子を生み、その舅氏は細群(さいぐん)である。 狛王の病は篤く、細群、麁群各がその夫人の子を立てようとした。 よって、細群の死者は二千人余であった。】。 18目次 【八年~九年】 《百濟乞救軍》
「三廻欲下審二其言一遣レ上召而並不レ来」 〔再三、(救いの兵を送るとおっしゃった)言葉を形にして欲しいといったがいつも来ない〕、 「故深労レ念」〔ゆえに、深く思い悩む〕という。 だから今回も早く兵を送れというのかと思いきや、 要請は「暫停二所乞救兵一」〔しばらく要請した救兵を停めよ〕という意外なものであった。 《由安羅国与日本府招来勧罰》 「安羅国与日本府招来勧罰」は、一般的には安羅国と日本府が高句麗に百済への攻撃唆した意と解されている。 「招来(招徕)」は、招かれて足を運ぶ意。ただここでは物理的な移動というより、「このような事態を誘発した」意味であろう。 「勧罰」とは「勧レ善、罰レ悪」の短縮である。 「勧」はよいことを勧める意味なのだが、侵略者は奸悪を取り除く名目を掲げて攻めるのが常だから、「勧善」は既に侵略の表現である。 だから、「招来勧罰」は「相手を罰することを招いた」ようにも読めるが、本来は「勧罰=侵略」を「招来=もたらした」意味である。 《待臣遣報》 「待臣遣報」は天皇に「臣遣報」を待つようにお願いする意味である。 「遣報」は辞書の見出し語にはなかなか見つからないが、「遣還」という語から類推して、王が派遣した使者が帰国して報告することを意味すると見られる。 主述構造「臣遣報」が体言化して「待」の目的語になっている。 「臣」〔一人称の謙称〕は受事主語で、述語「報(むく)いせ遣(し)む」の行為主は百済王で、 つまり「〔百済王が〕やつかれ(臣)にかへりごとまを申さしむ(復命)まで、待ちたまへ」の意である。 よって、「先為二勘当一、暫停二所乞救兵一、待二臣遣一レ報。」は、 「わが方が以前に要請した援軍は、一旦中止して待て。その間に事態の詳細を吟味し、その結果を本国に報告する。」である。 しかし、救兵の派遣が遅いと言いつつ、救兵を停めよというのはにわかには理解しがたい。 その深い意味については、別項を立てて検討する。 《三百七十人》 九年四月の詔に「依前勅戮力倶防北敵」の語がある。 「三百七十人」が 五年の百済王の要請にある「策一」に応えたものなら、 その文中のの「北敵強大」は、新羅を指したから、今回の詔の中の「倶防北敵」も新羅を意味する。 五年に要請されたのは「三千兵士」だったので、三百七十人は、ひとまず城一個分ということかも知れない。 《詔》 掠葉礼の奏上に返した詔は、強い不信感を隠そうともしない百済王を宥めている。 その上で実質的な内容の要点は、 ①朕は救兵の要請に応じよと間違いなく命じた。安羅と日本府が高句麗を唆した如きことは信じるな。 ②安羅が逃亡した空白地に兵を送る。 である。 つまり、被せられた疑惑に対して言い訳をしつつ、「暫停二所乞救兵一」という要請には応じていない。 掠葉礼がこの回答を持ち帰るのは閏七月だが、予め六月に百済に使者を送り、高句麗の攻撃を受けたことを見舞っている。 また掠葉礼帰国後の十月に、得爾辛築城のために三百七十人を送っている。 救兵の停止を受け入れたのは、翌十年の六月になってからである。 《充実安羅逃亡空地》 「安羅が逃亡」した経緯について、この前後からは読み取れない。 掠葉礼の奏上にあった「招来」は「事態を招く」と読むべきだと判断したが、 実は安羅の王一族が祖国を棄てて高句麗に亡命したという意味だろうか。 しかし、十三年になっても依然として詔に「安羅王」「日本府臣」の語があるから、 今のところ確かなことは言い難い。 《大意》 八年四月、 百済は前部徳率(ぜんほうとくそつ)真慕宣文(しんむせんもん)、 奈率(なそつ)奇麻(かま)等を遣わして、 救軍を求めました。 そして下部(かほう)東城子言(とうじょうこごん)を献上し、徳率(とくそつ)汶休麻那(もんきゅうまな)を交代させました。 九年正月三日、 百済の使者、前部徳率真慕宣文らは、帰国を願い出ました。 帰国にあたって「求められた救軍については、必ずや助けさせよう。速やかに王に復命しなさい。」と詔しました。 四月三日、 百済は中部杆率(ちゅうほうかんそつ)掠葉礼(けいしょうれい)らを遣わして、奏上しました。 ――「徳率宣文らは、勅をいただき、臣蕃〔=私の国〕に帰って申すには、 『お求めした救兵は、時に応じて送らせよう』とのことでした。 恩詔を敬い拝領し、慶びは無限でした。 ところが、馬津城(ましんさし)の役のとき、 【正月辛丑(しんちゅう)〔九日〕、高麗(こま)は、軍勢を率いて馬津城を囲んだ】 捕虜にした者が申すには、 『安羅国と日本府(やまとのつかさ)が、罰することを勧めたことが招いたことである』と申し、 この事から推しはかり、まことに似たことだと思い当たりました。 だから、三度にわたって、その言葉を形にして派遣していただくようにお願いしても、いつも来ていただかなかったのだと、痛ましい気持ちを深めております。 伏して願わくば、可畏(かしこむべき)天皇(すめらみこと) 【西蕃〔=三韓〕は皆、日本(やまと)の天皇を可畏天皇と称した】、 先ず勘考するために、暫くはお求めした救兵を停め、臣が復命するまでお待ちください。」 天皇は詔しました。 ――「呈奏を聞いて、憂えるさまを拝見した。 日本府(やまとのつかさ)と安羅が隣の難を救わなかったことは、また朕も心を痛めるものである。 また、更に〔日本府と安羅が〕高麗に送った密使のことなど、信じるに及ばない。 朕の命により、即ち自ら兵を遣わした。命じなかったなどと言われることを、どうして受け入れられよう。 願わくば、王は襟を開き、帯を緩め、 落ち着いて自らを安めたまえ。 疑いや畏れを深めてはならない。 よろしく任那(みまな)と共に、先の勅に依って戮力し〔力を合わせ〕、共に北の敵を防ぎ、各々封じられた国を守るべし。 朕は、まさに若干人を送らせ、安羅(あら)が逃亡した空地を充実させよう。」 閏七月十二日、 百済の使者、掠葉礼(けいしょうれい)らは辞して帰国しました。 十月、 三百七十人を百済に遣わし、得爾辛(とくじしん)の築城を助けました。 【暫停所乞救兵】 これまでに述べたように、百済は倭が救兵を送らないことに不満を示しながら、結論として救兵を停めよという理解しがたい申し入れを行った。 その理由として、日本府・安羅の振舞によって倭の底意が疑われることを挙げる。その調査をするから暫し待てという。 しかしこれは言い掛かりのようなもので、俄かには受け入れがたい。 その実際の背景としては、新羅との関係が敵対から友好に転じたことが考えられる。 そこでまず、その転機となったと思われる独山城への高句麗の攻撃を見る。 《高句麗の独山城攻撃》 欽明九年〔548;戊辰〕は、高句麗の陽原王四年・百済の聖王二十六年・新羅の真興王九年にあたる。 『三国史記』には、新羅本紀、高句麗本紀、百済本紀のいずれにも、高句麗が百済独山城を攻めた記事があり、内容はかなり似通っている。
このように『三国史記』によれば、548年に高句麗と濊(わい)が連合して百済の独山城を包囲したが、新羅が救援のために将軍朱珍を送り、高句麗軍を打ち破った。 「濊」は朝鮮半島の東岸、高句麗の南、新羅の北にあった国(資料[40])。 百済本紀は独山城が「漢北」あったとするが、これは「漢城の北」の意かと思われる。 「漢城」は、雄略天皇紀二十一年にあるように高句麗にとられて久しい(雄略十九年)。 だから、独山城がその「漢城」の北にあるというのは理屈に合わない。少し寄り道して調べてみる。 『三国遺事』巻第二には「後至聖王。移都於泗泚。今扶餘郡(彌雛忽。仁州。慰禮。今稷山)」とあり、 稷山も「慰礼城」と呼ばれた時期があったとも読み取れる。
《乞救軍》
八年四月の「乞救軍」とは、 ①五年に百済王が提起した「策一」の実行を重ねて求めた。 ②新たに援助を依頼した。 のどちらだろうか。 五年の「策一」における表現は「謹請天皇三千兵士」で、「乞救軍」とは異なっている。 しかし、「策一」が未だに実行されておらず、「築城」が「策一」の「修繕六城」に合致するのも確かである。 「得爾辛城」は「策一」に対応するものかも知れないが、 もし百済の北部ならば、「策一」とは無関係で高句麗の攻撃が近いと判断して、それに備えた築城となり、②が確定する。 よって、得爾辛の比定地を探る研究はないかと考えて、検索した。
ひとまず、得爾辛は「策一」に応えたものであって、「新羅安羅両国之境」にあるとしておく。 「救軍」が「策一」とは別個だったと仮定すれば、得爾辛の築城は九年十月であるが「策一」への対応であって、「暫停二所レ乞救兵一」への違反にはならない。 それでも、「策一」と「救軍」は百済への倭の支援としてひとまとめと考えるのが自然であろう。 停止要請に対して「所レ乞軍者依レ願停レ之」〔仰る通り、救兵を停めます〕と返事するのは、やっと十年六月のことであるから、 得爾辛の築城は、停止要請を受け入れる前である。 その意図は、停止要請を無視してでも「救軍要請には誠実に応えようとしていた」ことを形にして見せようとしたと考えることができる。 《当時の百済-新羅関係の推移》 百済-新羅の友好関係は長続きせず、次第に敵対関係に転ずる。 『三国史記』から該当部分を抜き出す。
既に550年には、百済が高句麗の道薩城を奪い、高句麗が百済の金峴城を奪ったが、新羅の異斯夫はそれぞれ兵の疲労を衝いて襲い掛かり、 両方の城を手中に収めた。 書紀によれば、551年に百済が奪還した漢城などの地を、552年には新羅に明け渡している。 553年七月には、新羅は百済の北東隅を奪い取って「新州」を置いた。 554年七月には、新羅と戦うために親征した聖王の戦死という手痛い敗北を喫する。 元はと言えば、馬津城が高句麗に攻められたときに、新羅の救援に頼ったのが失敗であろう。 そのときに百済軍の実力や防禦の実情をさらけ出してしまったのである。 こうして見ると、百済が単独で新羅や高句麗に対抗するには軍事力が不足し、倭の救軍は喉から手が出るほど欲しかったと思われる。 《九年四月の言上の意味》 九年〔548〕四月に訪れた百済使の掠葉礼の言上を要約すると、次のようになる。 ――「高句麗が馬津城を攻撃したのは、安羅と日本府が唆したからだと捕虜は言っていた。 これに準えれば、要請を重ねたのに救援軍の派遣を渋っていたことに合点がいく。 〔倭は、本当は百済を助ける意思はないのではないか。〕 この疑いについて調査するから、その結果が判明するまでは要請していた援軍は、一旦止めよ。」 日本府に関して、そもそも百済が問題にしたのは「新羅への内通」であった。 ところが、日本府と安羅に対して今度は「高句麗を唆したこと」を責めるから、ご都合主義もはなはだしい。 ただ、新羅との関係に触れなくなったところに、方針転換が見える。 九年〔548〕始めの馬津城(または独山城)への高句麗の攻撃は、百済にとって本当に深刻な事態であった。 ところが、新羅から強力な援軍によって打ち破ることができ、百済は新羅との友好関係に舵をきった。 だが八年〔547〕四月の時点では、倭への「救軍」要請は、依然として新羅に備えたものであった。 これまでしきりに倭の救援を求めたとき、常に新羅の脅威を理由にしてきたのである。 しかし今となっては、倭軍がやって来ると実にやっかいなことになる。 もし倭軍が新羅に出会えば、必ず攻撃するであろう。 このように自分から救軍を求めたのに、突然それを停めさせなければならない事態に陥った。 かと言って事情を正直に話せば、これまで上から目線で新羅の悪辣さを説いてきた百済は面目を失うだろう。 よって、かくも無理やりな理屈をもって責任を倭に押し付けて乗り切ったのである。 まとめ 九年以後については『三国史記』と照らし合わせると、百済がどのタイミングでどのような援助を倭に求めたのが見えてくる。 八年までは南部戦線で新羅に対抗するための救軍だったが、これから暫くは戦う相手は高句麗に変わる。 ただ、詳しくは十一年条で見るが、北部戦線には援兵を送らず武器・食料の援助に留まるようである。 九年十月の得爾辛の築城については、百済が「策一」を提起した当時とは情勢が異なるから、ここで要請に応えてもという今更感がある。 ただ、その後の新羅による攻勢を見るにつけ、百済は油断して新羅に気を許していたようだから、倭による築城の援助は長い目で見れば正解だったことになる。 |
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2020.06.30(tue) [19-12] 欽明天皇12 ▼▲ |
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19目次 【十年~十三年五月(一)】 《將德久貴固德馬次文等請罷歸》
『戦国策』〔戦国~前漢〕に「遣二大使一之二安陵一曰」という文があり、 国家が派遣する使者の意味の「大使」が漢以前から使われていたことが確認できる。恐らく「使」より大物であろう。 書紀もこの漢語を用いたと思われる。古訓には「オム」と「オホツカヒ」があり一定しない。 〈類聚名義抄〉のオホイヲモは、「おほきおみ」の音便と思われる。〈前田本〉のオム〔オミの変〕を見ると、使者がオミと呼ばれることがあったのかも知れない。 なお、渡来人の姓としてのオミに「使主」が当てられるのは、海外への使者に立てられることが多かったためという説を見る(『古語林』大修館)。 氏族の長で朝廷に登った人がオミだが、海外への使者もオミなのだろう。 今日まで続く音読み「タイシ」は漢音だから〔呉音ならダイシ〕「大使」という語の流入は比較的新しく、 はじめは音読みの語だった可能性がある。 一般に書紀古訓には、本来は音読みでも、平安時代に作為的に上代語を当てはめた場合があると見られる。 「大使」もその一例ではないだろうか。 《王人》 百済本紀で「阿比多」とされる人物は、「○○直」の姓の部分だけの訛りかも知れない。 本来の倭名を示す資料がなかったので、「日本王人」という珍しい表現を用いたと思われる。 あるいは、この人物に限って使われた俗称とも考えられる。その場合は、音読みの方がよいかも知れない。 《将徳久貴固徳馬次文》 「将徳久貴」「固徳馬次文」はここが初出である。会話中で高句麗への密使が出てくるから、杆率掠葉礼(九年)の奏上で「安羅国与日本府招来勧罰」が問題にされたことへの返答である。 安閑元年《百済の位階》によれば、 杆率:五品、将徳:七品、固徳:九品である。 この位階の上下から見れば掠葉礼が九年に訪れたときに、副使として将徳久貴・固徳馬次文が同行し、 十年六月に掠葉礼が帰国した後も副使たちは帰国せずにとどまっていたと読み取れる。 掠葉礼が訪れたときに、「日本府」の 「移那斯麻都」の振る舞いが問題にされていたから(五年三月)、「延那斯麻都」は「移那斯麻都」の異表記であろう。 そのときは、詔において「高句麗〔に移那斯麻都が私的に送った〕密使」のことは信じるべきでないと即答し、乞軍の停止も受け入れなかった。 しかし、今回の詔はそのときとは内容が異なり、求められたことを実質受け入れている。 《任那之事》 十一年四月の王人への言葉は高句麗に関する文脈中にあるから、 「任那之事奉勅堅守※)」は書紀による挿入であろう。 《問与不問》 前項のように、十年六月の詔において誠実に百済による不信を払拭しようとしたが、 それに対する百済の反応は「延那斯麻都之事。問与不レ問唯従レ勅レ之。」であった (十一年四月に王人が持ち帰った上表)。 既に百済は高句麗とシビアな戦闘状態に入っており、 今は倭国の支援という実利が何よりも求められる。 今更日本府の高句麗への内通を責めても、実りはないのである。 そもそも延那斯麻都のことを問題にしたのは、対新羅の援軍はもう要らないと言うための理由付けに過ぎなかった。 いわば単なる方便で、今となってはどうでもよいことである。 《若欲國家無事長作官家永奉天皇》 「長作二官家一永奉二天皇一」は神功皇后伝説に基づくもので、いわば序詞のようなものである(第141回)。 神功皇后段では「百済国者定二渡屯家一」〔百済国は渡しの屯倉に定む〕、 また神功皇后紀では「定二内官家屯倉一。是所謂之三韓也」〔内つ宮家なる屯倉に定む。是れ、いはゆる三韓なり〕と述べる。 つまり、「作二官家一」は百済が倭の属国であるという伝説的国家観による言葉で、 「作」は「国内のある場所に官家を設置する」のではなく、「百済が丸ごと官家の役割を果たす」意味である。 この文脈では「国家無事」の「国家」は、三韓を包含する広域の「倭」を指す。 もしこの「国家」が百済を指すのなら「汝蕃国無事」などと書いたであろう。 結局「若欲二国家無事一長作二官家一永奉二天皇一」は、倭の内向きの文章が場違いに紛れ込んだものである。 百済は今、新羅・高句麗連合の攻撃に直面して切羽詰まった状況にある。 そこにこのような勅書が来ても、寝言にしか聞こえないだろう。 そもそもこの部分は書紀による創作であろうが、それにしてもこの語句をここに置くセンスを疑う。 どうも、百済王の上表〔本来「勅」であろうが〕を大量に引用しながら、それが示す情勢の流れを十分理解しないままに書いていると感じられる。 だから、正史掠葉礼に同行した副使「将徳久貴・固徳馬次文」の名が脱落したり、「延那斯麻都」と「移那斯麻都」の表記違いを放置したりするのである。 《攻爾林所禽奴》 これまでに書紀に「爾林」が出てきたのは、応神紀十六年(乙巳、機械的には285年)と、 顕宗紀三年是年(丁卯、機械的には487年)である。 それらによれば、 ①応神天皇十六年では、爾林は百済阿花王が賜った「東韓之地」に含まれるとされる。 ②顕宗天皇三年では、任那の紀生磐宿祢が、高麗の爾林の地で百済の適莫爾解(ちゃくまくにげ)を殺した。 ①は伝説の時代で、理知的な検討の対象外である。②は、ここの「百済が高句麗と戦った」筋書きには合わず、年代も欽明十一年(庚午、550年)から63年も前のことである。 したがって、原注が②が指すのなら全くの誤りである。欽明九年〔548〕以後の捕虜を指すとしても、 地名「爾林」は書紀にも三国史記にも見えず、やはり不審である。 《献狛虜》 「狛虜」は、欽明九年以後の高句麗との戦闘で捕虜であることは明らかである。 これは、倭から贈られた物資「矢三十具」などへの返礼と見られる(援助物資は他にもあっただろう)。 このことから、物資の提供は兵を送るのと同等の意味があったことがわかる。 遠隔地に軍勢を送るのは、移動中に軍自身が食料を消費するから効率が悪い。 そんなことならすべて食糧・武器の形で送るとする判断は、合理的である。 この時点で、百済の戦いは対高句麗戦線に以降していたことを倭は完全に認識していたことがわかる。 詔における「北敵強暴」の北敵が、高句麗を意味することは明らかである。 《大意》 十年六月七日、 将徳久貴(しょうとくこんき)固徳馬次文(ことくましもん)等は、帰国を願い出ました。 このとき詔されました。 ――「延那斯(えんなし)〔移那斯(やなし)か〕と麻都(まつ)は、陰に私的に使者を高麗(こま)に遣わしたことについて、 朕は虚実を調べさせ、 要請されていた救援軍は願いにより停止する。」 十一年二月十日、 使者を遣わして百済(くたら)に詔されました 【百済本記(くだらほんき)にいう。 三月十二日辛酉(しんゆう)、 日本(やまと)の使者阿比多(あいた)は、 三隻の舟を率いて都下に至った。】 。 ――「朕は、施徳久首(せとくこんしゅ) 固徳進文(ことくしんもん)等の 上表の意をうけ、 一々の教示、掌中を見るが如く、 つぶさにもっともなことだと思い、願わくばことごとく自分のものにしたい。 大市頭(だいしとう)が帰って後は、いつも通りで変わったことはない。 また、朕が聞くところでは、 奈率馬武(なそつまむ)は王の股肱の臣で、 上に納め〔=上に仕えてことを整え〕下に伝え、まことに王の心に適い王の補佐をするという。 もし国家の無事を願い、 長く官家〔の国〕として末永く天皇に奉ろうとされるなら、 馬武を大使として遣朝すべきであろう。」 重ねて詔されました。 ――「朕が聞くに、北の敵は強暴であるという。 そこで矢三十備えを賜る。願わくば、一か所の防御にでも役立ててほしい。」 四月一日。 百済に滞在した日本(日本)の王人(おうじん)は、帰るところでした。 【百済本記にいう。 四月一日庚辰、 日本(やまと)の阿比多(あひた)帰る。】 百済王聖明(せいめい)は、王人に申し上げました。 ――「任那(みまな)の事、勅を承り堅く守ります。 延那斯〔移那斯〕と麻都の事は、 問われようが、問われなかろうが、勅にお任せします。」 そして高麗(こま)の奴婢六人を献り、 別に王人に奴婢一人を贈りました 【皆、爾林(にりん)を攻めたときに捕えた奴婢です】。 十六日、 百済は中部奈率皮久斤(ちゅうほうなそつひきゅうきん)、 下部施徳灼干那(かほうせとくしゃくかんな)らを遣わして、 狛(こま)の虜(とりこ)十人を献上しました。 十二年三月、 麦種一千斛(とう)を百済王に賜わりました。 この歳、 百済の聖明王は、親(みづか)らの軍勢と、二国の兵を率いて 【「二国」とは、新羅と任那のことをいう】、 高麗(こま)に征伐し、漢城(かんじょう)の地を獲ました。 また、軍を進めて平壌(へいじょう)を討ち、 全部で六郡の地を遂に故地に復しました。 【十年~十三年五月(二)】 《百濟加羅安羅遣中部德率木刕今敦河內部阿斯比多》
「臣国」は百済・加羅・安羅を指し、 書紀が「与任那※)」を付加したと見られる。 「任那」は加羅・安羅を包含する地域名だから、「臣国与任那」という言い方は論理的に成り立たない。 その前の「百済加羅安羅」は使者を派遣した国名だから、 こちらには「任那」の文字を入れられなかったと思われる。 詔の中の「与日本府臣」も不自然であるから、これも書紀による挿入であろう。 なお、「日本府」の語句が出てくるのは、書紀全体の中でここが最後である。 《謹求請救兵》 「救兵」の要請は、九年四月に一旦停止していたが、十三年五月に再び要請に踏み切った。 この背景には、百済と新羅との蜜月が短期間で終わったことがある。 「任那」というから南部戦線で、「先攻不意」、すなわち先制攻撃をかけることを決意した。 南部戦線であるから、倭に物資に留まらず人員を求めた。「軍之多少隨二天皇勅一」は言葉の彩で、実質的にはできるだけ多くを求めている。 ところが、回答は「共二任那一并二心一力一」 すなわちひとまず任那と力を合わせて自力で戦い、それでも埒が明かなければ 「頼二可畏天皇之霊一」〔天皇の恩頼(みたまのふゆ)に頼るべし〕 というものであった。 「天皇のみたまのふゆを頼れ」という言葉が、将来の人員派遣を匂わせたと考えられなくもないが、 少なくとも当面の人員の派遣についてはゼロ回答である。 百済の落胆ぶりが目に浮かぶ。 《大意》 十三年四月、 箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ)が薨じました。 五月八日、 百済(くだら)、加羅(から)、安羅(あら)は、 中部徳率木刕(ちゅうほうとくそつもくきょう)、今敦(こんとん)、 河内部阿斯比多(かうちべのあしひた)等を遣わして奏上しました。 ――「高麗と新羅は、 相通じ和し軍勢を合わせて臣の国と任那を滅そうと謀っています。 そこで謹んで救兵を要請し、先に不意うちしようと存じます。 軍の多少は、天皇(すめらみこと)の勅のままに。」 それ対して、このように詔されました。 ――「今、百済王、安羅王、加羅王と日本府(やまとのつかさ)の臣等、 そろって使者を遣わしての状況の奏上を、聞き終えた。 また、宜しく任那と共に力をひとつに合わせるべし。 もしもそれでもなお、かくあれば、必ず天の擁護する福を蒙り、 また可畏(かしこむべき)天皇(すめらみこと)の恩頼(みたまのふゆ)を頼るべし。」 まとめ 百済が高句麗と戦う場合は比較的気軽に支援するようだが、新羅との対立が深まると、倭による支援は再び消極的になる。 やはり、百済と新羅が対立する間隙を縫って、加羅地域に倭が単独支配する「任那」を建国するのが倭の基本戦略であろう。 百済は任那の再建に協力するとは言っているが、そうやって「任那」が作られたとしても百済の属国に過ぎないという認識があったと見られる。 これは、これまでも論じてきた通りである。 十三年五月の時点でも、倭は依然として従来の基本方針を維持しているのである。 |
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⇒ [19-13] 欽明天皇4 |