上代語で読む日本書紀〔欽明天皇(3)〕 サイト内検索
《トップ》 古事記をそのまま読む 《関連ページ》 古事記―欽明天皇段

2020.05.30(sat) [19-09] 欽明天皇9 

15目次 【五年十二月】
《越國言於佐渡嶋有肅愼人》
十二月。
越國言
「於佐渡嶋北御名部之碕岸
有肅愼人、
乘一船舶而淹留、
春夏捕魚充食。
彼嶋之人言非人也、
亦言鬼魅不敢近之。
御名部之碕岸…〈北野本〉御-名ミナ-部之碕-岸サキニ
淹留…一か所に長くとどまる。
捕魚…〈北野本〉捕魚スナトリシテ
…[名] (古訓) け。くひもの。
…[名] 食物。〈時代別上代〉「接頭語ミを冠したものばかりである」。
けこと…[名] 食事すること。
くらひもの…[名] 食物。
魅鬼…〈北野本〉魅鬼オニナリト/シマヌ
おに…[名] 〈時代別上代〉「仮名書きの確例はなく、オニの上代語としての存在が疑われている。」 「音読された可能性も」、「同じような二種類の植物の、大きく荒っぽい方をさすことがある」。 〈倭名類聚抄〉「貫衆:【和名於邇和良非】〔おにわらび〕」。
…(古訓) おに。
十二月(しはす)。
越国(こしのくにのひと)言(まを)さく
「[於]佐渡島(さどのしま)の北の御名部(みなべ)之(の)碕岸(さき)に
肅慎(みしむせ、みしはせ)の人有りて、
一船(ひとふな)の舶(ふね)に乗りて[而]淹留(ひさしくとどま)りて、
春夏(はるになつに)捕魚(すなどり)して食(くらひもの)に充つ。
彼の島之(の)人、人に非ずと言(い)へり[也]。
亦(また)鬼魅(おに)と言ひて[不]敢へて之(こ)に近づかず。
嶋東禹武邑人、採拾椎子、
爲欲熟喫着灰裏炮。
其皮甲化成二人飛騰火上一尺餘許、
經時相鬪。
邑人深以爲異取置於庭、
亦如前飛相鬪不已。
有人占云是邑人必爲魅鬼所迷惑。
不久如言被其抄掠。
於是、肅愼人移就瀬波河浦。
浦神嚴忌、人不敢近。
渇飲其水死者且半。
骨積於巖岫、俗呼肅愼隈也。」
禹武邑人…〈北野本〉嶋東シマノヒムカシ禹武邑人ウムノサトヒト
椎子…〈倭名類聚抄〉椎子【和名之比】〔しひ〕
しひ…[名] ブナ科の常緑高木。実は食用となる。
…[名] 実、種、動物のたまご。
ひりふ…[他]ハ四 ひろう。〈時代別上代〉万葉の東歌にはヒロフの例もあるが、あとはすべてヒリフである。名義抄には〔中略〕ヒロフの訓があるが、ヒリフの形は見出せない。
…[動] しんに通るまで柔らかくにる。(古訓) にる。いる。こまやかに。
にる…[他]ナ上二 煮る。
熟喫…「熟食」は、煮たり焼いたりした食物。
為欲熟喫…〈北野本〉-欲スルニ熟-喫〔?〕〔?〕ニハマムト
着灰裏炮…〈北野本〉オイテ灰-裏ハヒノウチニイリフソノ-皮-甲カハヲ
…[動] (古訓) おく。
…[名] (古訓) うら。
…[動] (古訓) あふる。つつみやき。
あぶる…[他]ラ四 焼き、あるいは乾かす。
ばかり…[助] 程度や漠然とした範囲を表す。 
抄掠…「抄略」、「抄奪」は「かすめとる」。
…[動] (古訓) かすむ。とる。むはう。
かすむ…[他]ム四・下二 奪う。盗む。
…[形] (古訓) いつくし。ととのふ。
いつくし…[形] 威厳がある。
…[動] いむ。(古訓) いむ。にくむ。うらむ。
…[助動] まさに~せんとす。
…[動] のどが渇く。(古訓) みつにうふ。水なし。
いはほ…[名] 突き立った岩の穂先、または全体。
…[名] 山中の岩穴。(古訓) くき。ほら。
肅慎隈…〈北野本〉肅愼クマ
嶋の東(ひむがし)の禹武邑(うむむら)の人、椎子(しひ)を採拾(とりひり)ひて、
欲熟喫(いりくらはむ)が為(ため)に灰(はひ)の裏(うち)に着(お)きて炮(あぶ)りき。
其の皮甲(かは)二人(ふたりのひと)と化成(な)りて火(ほ)の上(へ)に飛び騰(あが)りて一尺(ひとさか)余(あまり)許(ばかり)なりて、
時を経て相(あひ)闘へり。
邑の人異(け)なりと深く以為(おも)ひて[於]庭(には)に取り置けば、
亦(また)前(さき)の如く飛びて相闘ふこと不已(やまず)。
有る人の占(うら)ひて云はく、「是(これ)邑の人必ず[為]魅鬼(おに)に所迷惑(まどはさゆ)なり」といひて、
不久(ひさしからず)言(こと)の如く其(その)抄掠(かすめること)を被(かがふ)りき。
於是(ここに)、肅慎人を瀬波河(せなみかは)の浦(うら)に移し就(つ)けり。
浦の神、厳(いつく)しく忌(い)みて、人(ひと)不敢近(あへてちかづかず)。
渇(みづにう)ゑて其の水を飲みて死(しに)せる者(ひと)且(まさに)半(なかば)ならむとす。
骨(ほね)[於]巖(いはほ)の岫(くき)に積みて、俗(さとびと)肅慎の隈(くま)と呼(よ)ぶ[也]。」とまをす。
《佐渡嶋》
 「越国言於佐渡嶋」とあるのを見ると「佐渡国」はまだ成立しておらず、 「越国」も越前・越中・越後に分割する前だから、律令国以前の地理区分によっている。 想像であるが「甲子年」の古記録を、該当する欽明五年にそのまま書いたことも考えられる。
《御名部》
 〈姓氏家系大辞典〉は「此の氏は御名代部の伴造たりし氏なるが、何天皇の御名代部か詳らかならず。」、「また佐渡に御名部碕あり」と述べる。
 ミナベに近い現代地名は「新穂皆川」があり、幕末時点では雑太(さわた)郡の「皆川村」だが、 皆川村に接する国府川の旧名が皆川だったと仮定した場合、注ぐのは南西の真野湾側で「島東」とは言い難い。
 『事典 日本古代の道と駅』は、国府を真野町の旧四日市地区と推定している。 国府は佐渡国分寺跡の近くであろう。近くには式内大目神社がある。欽明朝は、国府が置かれる前の時代である。 国府川の旧名が「ミナカハ」であった可能性はある。
 妙見山はしばしば「屯倉」の存在を反映するので、その伴造「御名部」がその周辺に分布した可能性はある。
 新穂皆川はおそらく氾濫原で、地名はその川名が転じたか。 そして、たとえば屯倉は妙見山麓の地持院川沿い台地で、御名部はそこから「島東」に居住地を広げ、 梅津(次項)に達していたことも考えられる。
《禹武邑》
 〈倭名類聚抄〉には御名部禹武瀬波河に類似する地名は見えない。
 『大日本地名辞書』は、次のように推定する。
――「羽茂は古訓ウモにて、禹武ヨリ出てしと為し」、 「禹武は島東と云へば、決して西南なる羽茂に混乱すべからず、 羽茂は古来ハモチにて、禹武と自ずから別地とす。
 「梅津:今賀茂村へ併す、羽黒に隣り、直に夷町の北とす」、 「按に梅津は欽明紀禹武ウム邑とある地にて」、 「此に禹武邑を島東と曰へるにて、地形の大略を弁ずべく、 且島北の碕岸とは鷲崎の方を指すや明白なれば、瀬河浦并に阿都久志彦社と相参考して、 梅津は禹武津なりと知らる
 〔羽茂は古訓ウモとされ、禹武に由来すると言われてきたが、 禹武は「島東」だというから、西南の羽茂(本来ハモチである)ではない。 梅津が禹武で、「島北の碕岸」は鷲崎方面、瀬河浦井神は阿都久志彦社ではないかと考えられる。〕
 ウから始まる語はムと書かれることもあり、もともと鼻濁音[m]が閉口のまま一音節になるパターンで、 「」、「」、「抱く(むだく、うだく)」などに見える。 ウマは、ユーラシア大陸の遊牧民の言葉[ma]が世界的に広がったもので、 日本ではもともと[m-ma]がムマ・ウマになったと考えられている。
 この点において、「禹武」と「梅」には共通性がある。
 ただ、その表記の時代変化には逆転現象があり、〈時代別上代〉によれば「平安時代初期(およそ新撰字鏡ごろ) までは、その第一音節がウと表記され〔「宇麻」など〕、それ以後はムと表記されることが多くなった。 和名抄にも「馬无万ムマ」と見える」という。
 一方、式内阿都久志彦神社(熱串彦神社)については、瀬河浦神が阿都久志彦の別名であるかどうかは分からない。 梅津村は、少なくとも幕末には存在したが比較的狭域なので、禹武とはどの程度の繋がりがあったと言えるだろうか。
 ミシハセのクマ伝説は佐渡島南西部の羽茂郡に伝承されるが、これは八百比丘尼伝説に付随するものである(別項)。 島東からはるばる羽茂郡の南岸まで「移した」ことも理屈では考えられるが、伝説はすべて「島東」の範囲に収まると考えるのが妥当であるように思われる。
 結局「梅津」に繋がる細い糸を除けば、地名の大部分は後世のものである。 奈良時代以後に流刑地、後に金の産出地として人口が増加した時代がこの島の本格的な歴史か。
《椎子》
スダジイの実
 〈倭名類聚抄〉の「菓類」で果物の和名を見ると、梨子【奈之】栗子【久利】杏子【加良毛々】桃子【毛々】李子【須毛々】などが見え、漢語につく「」は果実を意味する。
 シイはブナ科クリ亜科シイ属の総称で約100種類あるが、日本に自生するのはツブラジイ、スダジイの二種類、佐渡はスダジイだという。
 そして「唯一食べられるどんぐりとして市民権を得ているのが椎の実」で、 「生でも食べられ」るが「炒った方が香ばし」く 「味はピーナツとカシューナッツの中間」という (はなまるフルーツ)。
《飛騰火上一尺余許》
 「一尺」は二人の身長が直感されるが、字の並びだけ見るとジャンプした高さである。 ただ「」には「正確には言えないが」の語感があるが、ジャンプする高さの正確さは取り立てて問題にすることでもないので、 やはり「長〔たけ〕一尺」と読むのが自然であろう。『天書』(後述)でも「〔身長の意〕としている。
 なお「椎の種皮が小人に化成する」の現実的な理解は不可能で、伝説における夢想と言える。
《被其抄掠》
 船に乗ってやってきて「抄掠」したところは、 後漢書の「挹婁人憙船寇抄、北沃沮畏之。」 を下敷きにしたように思われる。
《瀬波河浦》
 瀬波河浦は、『大日本地名辞書』の引用では「瀬川浦」とする。 「」については岩波文庫版では天理図書館本に「傍書-イ无〔「異本には無し」の添え書き〕とある。
 「浦」は江を意味するので〔現在の霞ヶ浦が当てはまる〕、現在の加茂湖の海への開口部がもう少し広く、「江」であったことも考えられる。 この加茂湖にそそぐ川のどれかが「瀬波川」か。
 その「瀬波川の神」は、果たしてどこかの神社に祀られてるのであろうか。佐渡の式内社には、次の九社がある。
 〈延喜式-神名帳〉:{ 佐渡国九座【並小】 羽茂郡二座【並小】/度津神社大目神社。 雑太郡五座【並小】/引田部神社物部神社御食神社飯持神社越敷神社。 賀茂郡二座【並小】/大幡神社阿都久志比古神社
 「瀬波河浦」が加茂湖だとすれば、阿都久志比古神社(熱串彦神社)が近いのは確かである。
《肅慎人移就瀬波河浦》
 「移就」の動作主は邑人と考えられるから、「肅慎人」は受事主語〔動作の対象を主語に置く〕であろう。
 その前の「浦神厳忌」も同様で、邑人が浦の神を厳に忌避した。 受事主語は返り点なしで訓めるので、倭文と馴染みがよい。 出雲風土記でも、目的語-動詞の語順が多く見られた(第63回「三津郷」)。
 「一尺余許」のところのやや不器用な書法も合わせ、もともとは土地の人が書いた文章ではないかと思われる所以である。
《大意》
 十二月、 越の国は言上しました。
――「佐渡島の北の御名部碕(みなべのさき)に 肅慎(みしはせ)の人がいて、 一隻の船に乗ってきて淹留〔=しばらく留まる〕し、 春夏(はるになつに)魚を獲り食物にあてました。
 その島の人は人に非ずと言い、 また鬼と言って敢えてに近づきませんでした。
 島の東の禹武邑(うむむら)の人が、椎の実を採り拾いして、 柔らかくして食べるために灰の中に入れて炒りました。 その皮は二人の人に変わり、火の上に飛び上がり、〔身長は〕一尺余りほどで、 しばらく相闘いました。 邑の人は心の底から奇妙なことだと思い、庭に取り置くと、 また前のように飛び、相闘うことを止めませんでした。
 ある人が占って言うには、「これは、邑の人が必ず鬼に悩まされるということだ」と言い、 日を置くことなくその言葉の通り、掠め取られる被害に遭いました。
 そこで、肅慎の人を瀬波(せなみ)川の浦に移して住まわせました。 浦の神のことは厳しく忌み、邑の人は敢て近づかないようにしていました。 渇いてその水を飲んで死んだ者は、大半に及びました。
 その骨は巖(いわお)の岫(くき)〔=岩穴〕に積まれ、里人は肅慎の隈(くま)と呼びます。」


【肅慎】
《後漢書曰》
 肅慎については、〈釈紀-述義〉に太平御覧鬼谷子天書からの引用が載る。
後漢書曰。挹婁古肅慎国也。在夫餘東北千餘里。【太平御覧四夷部】
鬼谷子注云。周成王時肅慎氏献白雉還恐惑周公作指南車以送之
天書曰。五年十二月有佐渡嶋肅慎人泊。其形如鬼。是月同島禹武邑人焼椎子喫。化-為二人相闘長一人【尺歟】
後漢書に曰ふ。挹婁古(いにしへ)は肅慎の国也(なり)。扶余の東北(うしとら)千余里(ちさとあまり)に在り。【太平御覧四夷部】
鬼谷子注に云ふ。周成王の時、肅慎氏白雉を献り、還りに惑(まど)ふを恐る。周公指南車を作り以て之を送る。
天書に曰ふ。五年十二月。佐渡の嶋に肅慎の人有りて、泊(は)てて其の形鬼の如し。是の月。同じき島の禹武邑の人椎子(しひ)を焼き欲喫(くらはむとして)二人と化為(な)りて相(あひ)闘ふ。長(たけ)一人【一尺(ひとさか)か】。
 太平御覧の「挹婁」については『太平御覧』と、引用元の『後漢書』を対比しながら資料[40]において精読した。
 『天書』は奈良時代末期の書。
 「鬼谷子」は戦国時代の人。文中の指南車とは、常に南を指す人形を乗せた車。車が向きを変えた時に歯車のはたらきによって人形を逆方向に動かす。 太平御覧にこれとほぼ同一の文章が収められているが、多少の相違がある。
 曰く、「鬼谷子曰。肅慎氏獻白雉於文王。還恐路問周公指南車以送之。 又曰。鄭人之取玉也。必載酥訟之車其不惑也。」
 〔鬼谷子に曰ふ。肅慎氏白雉を文王に献(たてまつ)る。還りに路に迷ふを恐れ周公に問ひ、指南車を作り以て之を送る。又曰ふ。鄭人の取る玉、必ず酥訟の車に載するは、其の惑はざる為(ため)とす。〕
 なお、『太平御覧』-「論衡」〔王充(一世紀)〕酥訟之勺、投之於地、其柄指南。〔地面に投ずるとその柄は南を指す〕酥訟」の正体は全く不明。赤鉄鉱Feと理解するしかない。 赤鉄鉱の宝石はヘマタイトhematiteと言い、鉄黒色で金属光沢をもつという。 すると、「酥訟之勺」とは勺〔ひしゃく〕型に仕上げ、柄の部分がN極になるように磁化させたものか。
 成王は周の第二代の王で、武王の子。文王は武王の父。周公とは一般的に周代の諸侯のことだが、特に武王の弟の周公旦をいう。 肅慎が周武王のときに来貢した記事は漢書にもあり(資料[40])、周が建ったころは「肅慎氏の国」である。
 後漢には「挹婁」。以後、勿吉(もつきつ)→靺鞨(まっかつ)となる。
 『通典』〔編纂;766~801〕の「辺防一」に「古之肅慎、宜即魏時挹婁」、「後魏以後曰勿吉国。今則曰靺鞨焉。」とある。 「後魏」は「北魏」あるいは「元魏」とも呼ばれる〔386~534〕。 よって、概ね4~6世紀ごろが「勿吉」、7~9世紀頃が「靺鞨」である。
《肅慎の古訓》
 粛慎の訓み、ミシハセまたはアシハセは何に由来するのだろうか。
 肅慎は、欽明紀(巻十九)、斉明紀(巻二十六)、天武紀下(巻二十九)、持統紀(巻三十)に見られる。
 粛慎に〈釈紀〉が訓を振るのは、持統天皇紀のみである。
――「持統天皇紀十年三月肅愼アシハセノ良守叡ラスエサウ〔人名〕
 では、この古訓は、いつまで遡るのだろうか。 八木書店コラム(日本書紀の写本一覧と複製出版・Web公開をまとめてみた) によると、巻十九は北野本(北野天満宮所蔵)が最古である。「肅慎」がある他の巻二十六、二十九、三十も北野本が最古である。
 写真製版による『国宝北野本』(貴重図書複製会;昭和十六年〔1941〕)から、訓が付された「肅慎」をすべて拾った(右図)。 同書の巻末の解説によれば、巻十九の奥書には「吉野時代かと思はるゝ」、 「巻尾に資継王の筆にかゝつて、 延文元八朔明弼縁 此巻一巻住吉神主可點御本懇望之仍大概點之者也 と判読さるゝ旧の奥書を抹消してある。」とある。
 この中の「延文元年〔1356〕は南北朝時代(室町)、北朝の後光厳天皇の年号。
 巻二十七・巻二十三にも資継王の筆で「延文元十二四明弼…此巻大概加點了」とあるという。
 同解説はさらに、巻三十の奥書によれば「知命有四之齢… といへば五十四歳のことであるから、資継王が本巻に加点したのは正平七年(文和元年)〔1352〕のことであつたと推知せらるゝ。」と述べる。
 また同解説に拠れば、二十八巻~三十巻は、二十七巻とは別系統である。 これらを見ると、資継王はこれら筆写本に、1352~1356年の時期にまとめて訓点を付したと見られる。
 各巻に出てくる「肅慎」の最初のものに〔巻十九は二か所〕、訓が付される。 「大辞林特別ページ」によれば〔以下も〕が混同されることはない。 巻二十九・三十で「ア」に見える字も、巻十九を見れば「」だと考えられる。なお、〈釈紀〉(前田本)のもこの字体である。
 巻二十九の四文字目は、『史記延久点』〔1073年、大江家国による『史記』への訓点本〕 に使われた字体で、これもである。
 すなわち、巻十九は「ミシムセ」、巻二十六は「??ムセ」、巻二十九・三十は「ミシハセ」である。
 巻三十では、配置から訓が付された時期は本文と同時に見える。 巻二十六も筆先の細さから同時かも知れない。 だとすれば、資継王がつけたものではない。 一方、巻十九は後世に付したように見える。C14法を用いれば、正確に分かるはずであるが、書紀を対象とするこの種の研究は今のところ見当たらない。
 ところで、初めに述べたように〈釈紀〉で訓が付されているのは持統巻のみであった。 ということは、〈釈紀〉〔1275年頃〕の時点ではルビのある写本もない写本も存在し、 〈釈紀〉が参照した写本のうち、巻三十〔持統〕には訓があり、他の巻には訓がなかった可能性がある。 兼方は巻三十の「粛慎」のみ人名の一部になったと解釈して「アシハセ」を用いたが、他の巻にはこの訓みを遡及させずに音読みしたのかも知れない。 13世紀後半には写本の一部にミシハセの訓があり、その後100年ほどの間に他の写本にも広まったと想像される。
《ミシハセ》
 粛慎の人の乗った船が稀に日本海岸に漂着したことは考えられ、古くからミシハセと呼ばれたこともあり得る。 しかし、純粋な和語だとすると四音節もあるのは不自然である。
 地名や氏族名などを見ると、紀伊国のキ、毛国のケ、火国のヒは一音節である。これらはごく古い時代に自然発生したと思われる。 高志国のコシ、阿波国・安房国のアハ、添上・添下のソフ、磯城のシキなどは二音節である。 三文字は、民族の呼称として、エミシがある。アヅミも固有か。ハヤトはハヤ-ヒトか。 四文字は、氏族名の大伴は美称オホ+トモ、物部は"モノ"の"ベ"、藤原はフヂのハラ。ムナカタの「胸形」は後付けかも知れないが、それでも「ムナ-方」か。 四文字になると、ほぼ基本語の合成か思われる。
 ミシハセは、基本語の組み合わせでは説明がつかないから、外来の発音を写し取ったのだろう。 巻十九・巻二十六の「ミシムセ」が本来の形だったとすれば、シムがあるからシユクシムが訛ってミシムセとなり、そのムがハに誤写されたとも想像される。 書紀の頃は既に「靺鞨国」だが、相変わらず「粛慎」が使われているのを見ると、漢書の影響はかなり強力である。 その「粛慎」のまま長い年月を経て、期間が長ければ音読で生まれた言葉の変形も激しいわけである。
 いずれにしても、「粛慎」の字だけを見てこの倭語を発明することはあり得ないから、日本海を渡ってきた異民族を呼ぶ倭語が存在し、それが古訓になったこと自体は間違いないだろう。
《伝承地》
八百比丘尼の生家 ミシハセのクマ伝承地 蝦夷塚
 羽茂郡の「八百比丘尼」の伝説中に、ミシハセのクマが出てくる。八百比丘尼は全国を旅したというが、多く伝わるのは北陸地域とされる。
 その生家の伝承地の案内板には、次のように書かれる。
 八百はっぴゃく比丘尼びくにの生家(大石の田屋さん)
 昔、竜宮からもらった肉を食べたこの家の娘が、それきり年をとらなくなりました。
 娘はあまりの長生きに無常を感じ、比丘尼(尼)になって諸国を巡っていましたが、 福井県小浜で残りの二百歳の寿命を国王〔国主か〕に譲って入定しました。 八百歳だったので八百比丘尼と呼ばれたといわれます。
 八百比丘尼は諸国巡礼の途中、一度大石に帰ってきたことがありました。 そのとき教えたのが「粛慎の隈」だといわれ、ここから西四〇〇mほどの所にあります。
 その位置は、羽茂郡大石の県道45号線、新潟交通佐渡のバス停「大石山田入り口」近くにあたる。
 空印寺(福井県小浜市小浜男山2)には、八百比丘尼入定洞、八百比丘尼の絵巻、木像があるという。
 八百比丘尼の発祥がいつ頃のことか分かれば、この地のミシハセのクマ伝説がいつ頃から存在したかを探る手掛かりになる。
 調べてみると、『康富記』〔室町、権大外記中原康富の日記〕文安六年〔1449〕五月に、「白比丘尼」上洛の記事があることが分かった。 原文に曰く。
 「廿六日乙巳 晴、或云、此廿日比、自若狹國、シロ比丘尼トテ、 二百餘歳ノ比丘尼令上洛、諸人成奇異思、仍守護召上歟、於二條東洞院北頰大地藏堂、 結鼠戸、人別取料足被一見云々
 〔或るに云ふ。この二十日ころ、若狭国より白比丘尼とて、 二百余歳の比丘尼上洛せしめ、諸(もろもろの)人奇異の思ひを成し、仍(すなは)ち守護の召し上ぐ歟(や)、 二条東洞院北頬大地蔵堂に於いて、鼠戸を結びて、人別に料足を取り〔=一人ずつ木戸銭を取り〕一見を被(かふぶ)り云々(しかじか)〕
 これを見ると、「白比丘尼」は各国を行脚し、見世物として資金稼ぎをしていたようである。 このときは二百歳だったが、年齢は次第に誇張されていったのであろう。 「""上洛」とあるから、 比丘尼自身の営業ではなく、教団が派遣したのであろう。名前に「白」がつくから、きっと若くて美しい色白の比丘尼が選ばれたと想像される。
 この記述から、少なくとも室町時代には八百比丘尼伝説が存在していたことが分かる。 佐渡においては、その伝説の中に「ミシハセのクマの場所を教えた」話が組み込まれたわけである。 それ以前に現地で、ミシハセ伝説がどの程度伝えられていたかは判断し難い。
 その八百比丘尼が教えたというミシハセのクマの伝承地は、45号線を西に約600m行ったところにあり、 ここにも案内板があって次のように書かれている。
 「欽明天皇の五年(五四四)に、佐渡へ粛慎みしはせ(ツングース)人がきていた。 やがて、禹部邑うむむらの地がかすめ取られたが、 土地の神様がいかったので、大方おおかたどく水にあたって死んだ。 その地を粛慎のくまという」 とあるものです。
 しかし、長い間にその場所も分からなくなっていましたが、田屋の八百はっぴゃく比丘尼びくにが教えてくれたのが、 ここだということです。
 この奥100m
 八百比丘尼の東、出崎の辺りには「蝦夷塚」の伝承地もあり、標柱が立つ。バス停の名にもなっている。 蝦夷はミシハセとは当然異なるが、佐渡がかつてヤマトと蝦夷が相対する地域であったことは確かである。 この地域で粛慎と蝦夷が混同されたことは、十分に考えられる。
 羽茂郡大石は「島東」とは言えないが、伝説そのものは島内の各地に広がっていたのかも知れない。 浦嶋伝説が典型的であるが、伝説が伝播すればそれぞれの土地ごとに縁の場所ができるのは普通のことである。

まとめ
 十二月条の前後は、百済との外交関係で埋め尽くされている。 その中でこの物語は孤立しているので、甲子年の古記録を該当する欽明五年に置いたのではないかと思われる。 受事主語をしばしば用いる文体から、現地産の文書である印象を受けた。
 佐渡国風土記は殆ど何も残っていないが、もしかしたらこの話も書かれ、そこにミシハセなる音仮名表記があったのかも知れない。



2020.06.06(sat) [19-10] 欽明天皇10 

16目次 【六年】
《百濟造丈六佛像製願文》
六年春三月。
遣膳臣巴提便、使于百濟。
夏五月。
百濟遣
奈率其㥄
奈率用奇多
施德次酒等
上表。
秋九月。
百濟
遣中部護德菩提等、使于任那、
贈吳財於日本府臣及諸旱岐、各有差。
膳臣巴提便…〈釈紀-秘訓〉膳臣カシハテノオム巴提便ハスヒ
奈率其㥄…〈釈紀-秘訓〉奈率其㥄コレウ。奈率ヨウ奇多カタトクシユ
中部護徳菩提…〈釈紀-秘訓〉中部チウホウトクタイ護徳」は周書の「位階」の一覧には見えないが、将徳・施徳・奈徳・対徳に加えて、あるいは名称を改めてできた位階かと思われる(安閑元年)。
六年(むとせ)春三月(やよひ)。
[遣]膳臣(かしはでのおみ)巴提便(はすび、はてべ)をして、[于]百済に使(つかひ)せしめたまふ。
夏五月(さつき)。
百済(くたら)、[遣]
奈率(なそつ)其㥄(ごれう)、
奈率(なそつ)用奇多(ようきた)、
施徳(せとく)次酒(すしゆ)等(ら)をまだして、
表(ふみ)を上(たてまつ)らしむ。
秋九月(ながつき)。
百済、
[遣]中部(ちうほう)護徳(ごとく)菩提(ぼたい)等(たち)をして、[于]任那(みまな)に使(つかひ)せしめて、
呉(くれ)の財(たから)を[於]日本府臣及(と)諸(もろもろ)の旱岐(かんき)とに贈(おく)りて、各(おのもおのも)差(しな)有り。
是月。
百濟造丈六佛像、製願文曰
「蓋聞、造丈六佛功德甚大。
今敬造、以此功德、
願天皇獲勝善之德、
天皇所用彌移居國倶蒙福祐。
又願、
普天之下一切衆生皆蒙解脱。
故造之矣。」
丈六仏像…〈釈紀-秘訓〉丈六チヤウロクノホトケノミカタヲ
願文…〈釈紀-秘訓〉ツクリテ願文コトネカヒノフミヲイヘラク
弥移居…〈釈紀-述義〉「弥移居国:私記日本作三宅之国〔私記に日本やまとの作れる三宅〔屯倉〕の国〕
是の月。
百済、丈六(ぢやうろく)の仏像(ほとけ)を造りて、願文(ねがひのふみ)を製(つく)りて曰(い)へらく、
「蓋(けだし)聞く。丈六の佛(ほとけ)を造りて功徳(くどく、めぐみののり)甚(いと)大(おほき)なり。
今敬(ゐやまひ)造りて、此の功徳を以ちて、
願はくは、天皇(すめらみこと)勝善之徳(しようぜんのとく、まされるのり)を獲(え)て、
天皇の所用(もちゐたまふ)弥移居(みやけ)の国、倶(ともに)福祐(ふくいう、さきはひ)を蒙(かがふ)らむ。
又願はくは、
普(あまねく)天之下(あめのした)の一切衆生(いつさいしゆじやう、いけるもの)皆(みな)解脱(げだつ、わづらひよりのがるること)を蒙(かがふ)らむ。
故(かれ)之(こ)を造(つくりまつる)[矣]。」
冬十一月。
膳臣巴提便、還自百濟言
「臣被遣使、妻子相逐去行。
至百濟濱
【濱、海濱也】、
日晩停宿。
小兒忽亡、不知所之。
其夜大雪、天曉始求、
有虎連跡。
臣乃帶刀擐甲、尋至巖岫、
めこ…[名] 妻子。
…[動] あとをつける。(古訓) おう。したかふ。
さる…[動] ゆく。やってくる。
はま…[名] 浜。
…[動] =暮。(古訓) くれ。くれぬ。
たちまちに…[副] 〈時代別上代〉ある状態や動作が突然予期しない形で起こる場合にもいう。
…[名] 〈倭名類聚抄〉:陽則散為雨。水寒則凝為雪…【和名由木】〔ゆき〕
…[名] 〈汉典〉天明。(古訓) あけぬ。あした。あかつき。
あかとき…[名] 夜明けがた。また、その前。
あく…[他]カ下二 あかす(四段)の自動詞。
…[動] つらぬく。(古訓) きる。つらぬく。「擐甲」は、よろいの銅を身に着けて頭を外に突き出すこと。
…[名] 〈時代別上代〉「甲」にカブトを当てることが現在まで広く行われているが、これは誤用である。
冬十一月(しもつき)。
膳臣巴提便、百済自(よ)り還(かへ)りて言(まを)さく
「臣(やつかれ)使(つかひ)に被遣(つかはさえ)て、妻子(めこ)相逐(あひしたがへ)て去り行きき。
百済の浜(はま)に至りて
【浜は、海(うみ)の浜也(なり)】、
日(ひ)晩(く)れて停(とど)まり宿(やど)りつ。
小児(をさなきこ)忽(たちまちに)亡(う)せて、所之(ゆくへ)を不知(しらず)。
其の夜(よ)大雪(ゆきはなはだし)、天暁(あ)け始めてより求(ま)げば、
虎(とら)跡(あと)を連(つらね)て有り。
臣(やつかれ)乃(すなはち)刀(たち)を帯(は)け甲(よろひ)を擐(き)て、巌(いはほ)の岫(くき)を尋(たづ)ね至(いた)りて、
拔刀曰
『敬受絲綸
劬勞陸海
櫛風沐雨
藉草班荊者。
爲愛其子令紹父業也。
惟汝威神、愛子一也。
今夜兒亡、追蹤覓至、
不畏亡命、欲報故來。』
既而、其虎進前開口欲噬。
巴提便、忽申左手執其虎舌、
右手刺殺。
剥取皮還。」
絲綸…〈百度百科〉①皇帝制詔、及三省同奉聖旨発省札之類的泛称 〔皇帝の制詔、及び三省(式部省・民部省・兵部省)が聖旨を受けて発した省令の類の総称〕②釣糸。③即絲。粗于絲者為綸〔粗い糸を綸という〕。 ここでは
劬労…『説文解字』「:勞也。
櫛風沐雨…「風に櫛けづり雨に沐(ゆあみ)す」。風雨を衝いて事をなそうとして苦労する。
…[動] (草やむしろを)敷く。かりる。
…[名] 一般にとげのある低木。いばら。
うばら…[名] とげのある小低木の総称。いばら。「うまら」とも。
…[動] つぐ。糸でしばりつける。うけつぐ。(古訓) つく。
…[名] あしあと。
…[動] かむ。(古訓) くらふ。かむ。はむ。ふふむ。
…[動] のびる。のばす。
のぶ…[他]バ下二。のぶ(四段)の他動詞。
した…[名] 舌。
刀(たち)を抜きて曰(まを)さく、
『絲綸(おほせこと)を敬(ゐやま)ひ受けて、
陸(くぬか)と海(わた)とを劬労(わづらひ)ゆきて、
風(かぜ)に櫛(くしけづ)りて雨に沐(ゆかはあ)みて
草(くさ)を藉(ふ)み荊(むばら)を班(あか)て者(ば)、
其の子を愛(うつくしみ)せむ為に父の業(わざ)に紹(つ)か令(し)めき[也]。
惟(ここに)汝(いまし)威(いか)しき神(かみ)や、愛(うつくしき)子(こ)一(ひとり)也(なり)。
今夜(こよひ)児(こ)を亡(うし)なひて、蹤(ふみしあと)を追ひて覓(ま)ぎ至りて、
命亡(いのちうすこと)を不畏(おそりず)、欲報(むくいむとせ)しが故(ゆゑ)に来たり。』とまをせば、
既(すで)にして[而]、其の虎前(まへ)に進み口を開きて欲噬(くはむとす)。
巴提便(はすび、はてべ)、忽(たちまちに)左の手を申(の)べて其の虎の舌を執(と)りて、
右の手にて刺し殺しき。
皮を剥ぎ取りて還(かへ)りまつる。」とまをす。
《巴提便》
 音仮名としては、便である。提の音はダイ(呉)、テイ(漢)のほかにシがあるが、鳥が飛ぶ様のオノマトペとして「提提(シシ)」を用いるのみである。 よって伝統訓ハスビは、特殊な訓みといえる。本来ハテベだったのが、長い年月の間に訛ったようにも思える。 この変化は、それだけこの伝説が長い間広い範囲で語り継がれてきたということであろうか。
《遣膳臣巴提便使于百済》
 「使~」と、「つかはす」が重複している。 意味は、「膳臣巴提便を百済につかはす(まだす)」である。この訓みでも全く差し支えないと思われるが、 文法的には使役文で、忠実に訓むなら「膳臣巴提便をして百済に使(つかひ)せしむ」となる。
 ここで、ツカヒ=使者、=サ変動詞の未然形、シム=使役の助動詞である。
《丈六》
丈六交差点から北向きに撮影
飛鳥大仏
 一丈六尺は、正倉院尺でおよそ4.8m。 「如来の身長は一丈六尺〔正倉院尺でおよそ4.8m〕あるとされたことから、 仏像はこの大きさで造立することが一つの理想とされた。」 「ただし丈六仏の多くは坐像であるため、実際は半分の大きさで頭頂部から像底までを八尺とした作例が多い。」 という(浄土宗大辞典)。
 丈六仏は、欽明天皇紀以後、用明紀、推古紀、皇極紀、孝徳紀に出てくる。
 地名丈六は、奈良県橿原市久米町。橿原神宮前駅の東300mほど。 現在の丈六交差点は、古代の下ツ道と山田道が交わる地点で、軽と呼ばれる地域の中心と思われる。 この辺りに軽市が立ったと見た(第104回【軽】)。
 丈六北・南遺跡からは掘立柱建物が検出され、『辞典 日本古代の道と駅』は、国府跡〔〈倭名類聚抄〉{大和国【国府在高市郡})と見ている。 歴史的に重要な場所である。
 丈六という地名が、この辺りにあった丈六仏に因むのは間違いないだろう。 丈六交差点から東南東2.2kmの飛鳥寺には、飛鳥大仏〔高さ約9尺、606年〕がある。 飛鳥寺は法興寺の跡で、法興寺は平城遷都とともに移転した。 また、丈六交差点の南南東350mほどの法輪寺に残る伽藍跡が、軽寺であったと考えられている (第148回)。 その丈六仏が地名の由来となったことも想像されるが、軽寺に丈六仏があったことは今のところ確認できない。 他の可能性としては、仏像製作工房の存在や、廃寺になって仏像が野ざらしになっていたとか、様々な由来が想像し得る。
《願文》
〈釈紀-秘訓〉による訓読は次の通りである。
ツクリテ願-文コトネカヒノフミヲイヘラク蓋聞ケタシキク ツクリタテマツル丈六佛チヤウロクノホトケヲ功-德ノリノワサ甚大オホイナリ今敬イマウヤマテツクリタテマツリヌモテハ此功德コノノリノワサヲネカハクハ天_皇スメラミコトエタマヒ勝-善スクレタルミイキホヒヲ天-皇スメラミコト所-用シロシメス彌移居ミヤケノクニトモニ カウフラム福-祐サヒハヒヲマタネカハクハ普-天_之_下アメノシタノ一-切衆-生シカシナカライケルモノミナカウフラム解-脱ヤスラカナルコトヲ/マヌカルゝコトヲコノユヘニ/カレ造之ツクリタテマツル矣.
 「」は訓アマネクが、筆写の過程で脱落したように思われる。
 「一切」を「しかしながら」と訓むのは意訳である。
 「解脱」を「安らかなること」または「免がるること」と訳しているが、 これだと、本来の仏教用語とはニュアンスがずれてくる。 ゲダツは呉音なので、仏教流入当時から音読が主流だったのではないかと思われる。 同様に「一切衆生」も音読であろう。 功徳の功も漢音コウ、呉音クなので、古くからクドクとして流入していたことが考えられる。
 さて、弥移居(みやけ)だけが音仮名であることが目を惹く。このミヤケは、貴いものとして受け止められている。 古くは、神功皇后伝段の百済国者定渡屯家まで遡る。
 古事記ではすでに「屯倉」の字を用いているから、願文の原型は、記紀以前からあったことが考えられる。
 ただ、「天皇」は、天武朝からの呼称だから、原文にあったはずがない。 百済から献上されたとされる「七支刀」の銘文では、「倭王」が使われていた(神功皇后【献七枝刀】)。 よって、この願文が百済で作られたものなら「天皇」のところには「倭王」と書かれていたと推定される。
《丈六仏像》
 ここにはこの丈六仏像が倭にもたらされたとは書いていないのだが、 十三年十月に、百済聖王が「釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻」を献上した記事がある。 この釈迦仏金銅像が、今回の丈六仏像であると読むのが自然であるように思われる。その根拠の一つは釈迦像を丈六仏ということであるが、 もう一つは願文(ぐわんもん)の内容にある。
 願文は、「天皇の勝善之徳」を、天皇が「弥移居(みやけ)」として用いる国〔=百済国〕が獲て「福祐を蒙る」こと、及び「一切衆生」の「解脱を蒙る」ことを願っている。 要するに、天皇の威光にあやかって百済国も幸福を得ること、百済・倭の別なく万民の煩悩からの解放を願う。 はともかくとして、は、百済が国内向けの文章として書いたとは考えにくい 〔=百済国内の寺にこの願文の入った仏像を安置して百済の人が拝したとは思われない〕。 五年条で見たように、百済王は倭に対して一貫して上から目線であった。自国の文化・政治の優越性を、十分に意識していたと思われる。 それでも倭の朝廷に対しては敬意をもって接していたから、儀礼的に倭王の威を受け入れる表現を用いたのが だと考えられる。 このように、願文は倭に向けて作られている。
 よって、この願文を胎内に収めた丈六仏こそが倭に献上した釈迦仏金銅像ではないかと考えるのである。
《浜海浜也》
 原注の「浜海浜也」は、「"百済浜"という固有名詞(地名)ではなく普通名詞としての"浜"」の意であろう。
《敬受絲綸》
 「敬受絲綸…」以下の韻文が丸ごと手本にしたと思われる文章は、今のところ漢籍には見いだせない。 恐らく書紀〔または、元になった倭の伝承〕独自のものでであろう。
《為愛其子令紹父業》
 「為愛其子」以下は、「其の子を愛(うつく)しむ」「為(ため)に」 「父業〔=父が命じられた使者の仕事〕に「紹(つ)か令(し)めた」と読める。
 要するに愛しい我が子を常に手元から離さないために、連れて行ったということであろう。
《汝威神》
 目前の猛獣の猛々しさは、神性を感じさせる。 そもそも神は、人智の及ばぬ自然が人の心に生じさせるもので、本質的に「畏れ敬う」ものであった。
 宗教の教義が確立するにつれて、知性で理解される神と直感的に心に生ずる神が分離していく。 天照大神は前者で、目前に迫る虎は後者である。
《剥取皮還》
 巴提便は復命したとき、虎の皮を献上したと見られる。
 この伝説は、後世の加藤清正の虎退治を彷彿させる 〔実際には黒田長政とその配下の家臣が行なったという説も見る〕。 この種の古い言い伝えが底流にあって、清正の虎退治伝説も生まれたのだろう。 清正にせよ長政にせよ、 実際には現地で家臣が購入した(あるいは奪った)ものを献上して、秀吉の歓心を買おうとしたのではないだろうか。
《大意》
 六年三月、 膳臣(かしわでのおみ)巴提便(はすび)を使者として、百済に遣わしました。
 五月、 百済は 奈率(なそつ)其㥄(ごりょう)、 奈率(なそつ)用奇多(ようきた)、 施徳(せとく)次酒(すしゅ)等を遣わして、 上表しました。
 九月、 百済は 中部護徳(ちゅうほうごとく)菩提(ぼたい)等を使者として、任那(みまな)に遣わし、 呉(くれ)の財物を日本府臣と諸旱岐(かんき)の、それぞれに応じて贈りました。
 この月、 百済は丈六(じょうろく)の仏像を造り、願文を製して、 「蓋(けだ)し聞く。丈六仏を造れば功徳甚大と。 今、敬い造り、その功徳を以ち、 願はくば、天皇(すめらみこと)の勝善の徳を獲、 天皇がみやけとして用いられる国が、共に福祐を蒙ることを。 また願はくば、 普(あまね)く天(あめ)の下の一切衆生は、皆解脱を蒙ることを。 故にこれをお造りした。」と記しました。
 冬十一月、 膳臣巴提便は百済自より帰り、申し上げました。
――「私めは使者として遣わされ、妻子を従えて行きました。 百済の浜に至り、 日暮れて停まり宿りました。 すると幼子が突然姿を消し、行方が分からなくなりました。
 その夜は大雪で、空が明けてから捜すと、 虎の足跡が連なっていました。
 私めはそこで、太刀を帯け鎧を纏い、尋ねて巌の洞窟に至り、 太刀を抜いて申しました。
 『絲綸(しりん)〔皇命〕を敬い受けて、 陸海を劬労し〔苦労し〕、 風に櫛(くしけず)り雨に沐(ゆかみ)して〔風雨を衝いて〕 草を踏み茨を分けてきたが、 子を愛しむために父の仕事に連れ添わせた。
 ここにお前、威(いか)しき神よ、愛する子はただ一人である。 今夜、その子を見失い、足跡を追って求めここに至った。 命を失うことを恐れず、報せんがために来た。』
 そう申したところ、 既にその虎は前に進み、口を開いて食おうとしてきたので、 巴提便(はすび)は、瞬時に左手を伸ばしてその虎の舌を取り、 右手で刺し殺しました。 皮を剥ぎ取って帰還いたしました。」


【六年(二)】
《高麗大亂》
是歲。
高麗大亂、被誅殺者衆。
【百濟本記云。
十二月甲午。
高麗國細群與麤群、
戰于宮門、伐鼓戰鬪。
細群敗不解兵三日、盡捕誅細群子孫。
戊戌。
狛國香岡上王薨也。】
…[名] (古訓) ともから。
是の歳。
高麗(こま)大乱(はなはだしくみだれ)て、被誅殺(ころさえし)者(もの)衆(おほ)し。
【百済本記(くたらほんき)に云ふ。
十二月(しはす)甲午(きのえうま)〔二十日〕。
高麗国(こまのくに)の細群(ほそきともがら)与(と)麁群(あらきともがら)、
[于]宮門(みかど)にて戦(たたか)ひて、鼓(つづみ)伐(う)ちて戦闘(たたか)へり。
細群敗(やぶ)れて、兵(つはもの)不解(とかざること)三日(みか)、細群の子孫(ひとのこ)尽(ことごとく)捕へ誅(ころ)さえき。
戊戌(つちのえいぬ)〔二十四日〕。
狛国(こまのくに)の香岡上王(かうかうじやうわう)薨(こうず)[也]。】
《釈紀秘訓》
 〈釈紀-秘訓〉による訓読は次の通りである。
高-麗コマ/コウクリ細群サイクム麁群ソクムタゝカフ宮_門ミカトニウチツツミヲ戦-闘タゝカフ. 細群ヤフレテサルコトトカツハモノ三日ミカコト/\クニトラヘ-コロシツ細群子_孫ウミニコヲ戊戌ツチノヘイヌノヒ狛-國コマクニノイ无/コリ/香岡ヌタ 上-王スヲリコケ/コリタノ上-王スヲりコケ/薨也ミウセヌ
高麗(こま/こうくり)細郡(さいぐむ)与(と)麁群(そぐむ)、 宮門(みかど)に戦(たたか)ふ。 鼓(つづみ)を伐(う)ち、戦闘(たたか)ふ。 細郡敗(やぶ)れて兵(つはもの)を不解(とかざ)ること三日(みか)。 盡(ことごとく)に細郡の子孫(うみのこ)を捕(とら)へ誅(ころ)しつ。 戊戌(つちのへいぬ)、狛国イ无〔異本に無し〕(こまのくに)の/狛(こり)/香岡(ぬた)上(すをり)王(こけ)薨(みうせぬ)也。 /狛(こり)香岡上(ぬたのすをり)王(こけ)
《北野本》
 北野本は、「アル本記云〔百済本記(あるふみ)に云(いは)く〕コマ香_岡_上コキシミウセス」。 とする。
《日付》
 「是の年」(欽明六年)は、乙丑〔545〕である。
 元嘉暦モデルによると、欽明六年〔乙丑〕十二月は乙亥朔である。
 したがって、甲午:十二月二十日、戊戌:十二月二十四日となる。
 『三国史記』(後述)によれば王が薨じたのは乙丑年「春三月」で、薨じた年は一致するが月は一致しない。
《香岡上王》
 ウィキペディア韓国語版<ko.wikipedia.org>には、
 「안원왕(安原王,~545년,재위:531년~545년)은 고구려의 제23대 군주이다. 곡향강상왕(鵠香岡上王),향강상왕(香岡上王),안강상왕(安岡上王),안악상왕(安岳上王)이라고도 하며, 〔an-won-wang(安原王、~545年、在位:531~545年)は第23代高句麗王。 goghyang-gangsang-wang(鵠香岡上王)、hyang-gangsang-wang(香岡上王)、angangsang-wang(安岡上王)、an-agsang-wang(安岳上王)としても知られる。〕 とある。
 このうち「香岡上王」は書紀に依ったものかも知れないが、類似する「安岡上王」「鵠香岡上王」があるので、 香岡上王は三国史記の安原王と同一人物であると見て差支えないだろう。
 さて、『三国史記』巻十九:高句麗本紀第七には次のように書かれる。
――「安原王。諱寶延。安臧王之弟也。
――「十五年:春三月。王薨。號爲安原王。是梁大同十一年。東魏武定三年也。梁書云『安原以大淸二年卒。以其子爲寧東將軍高句麗王楽浪公。』誤也〔十五年三月:王薨ず。号〔諡号〕安原王。これ梁の大同十一年〔545〕、東魏の武定三年なり〔545〕。梁書の『安原大清二年を以て卒す。その子を以て寧東将軍高句麗王楽浪公とす。』と云ふは誤りなり〕
 「武定」は東魏〔南北朝時代;534~550〕の年号。
――「陽原王。或云陽崗上好王。諱平成。安原王長子。〔中略〕以安原在位三年立爲太子。至十五年王薨。太子即位。冬十二月。遣使入東魏朝貢。〔陽原王、或るに陽崗上好王と云ふ。諱(いみな)平成。安原王の長子。安原在位三年に立たせて太子とす。十五年に至り王薨じ太子即位す。冬十二月、使を遣はし東魏に入りて朝貢す〕
 『三国史記』が『梁書』の誤りだと書いた部分の原文は、 巻五十四(列伝第四十八)の「南梁武帝-太清二年〔548〕:延卒。詔以其子襲延爵位。〔延卒す。詔してその子を以て延の爵位を襲(つ)がせむ〕 である。三国史記の引用は、意味を取ってやや書き直したことが分かる。梁が与えたのは「爵位」だからその死は「」となり、諸侯の「」より一段下である。 よって、高麗国も冊封国ではなく「公が預かった領地」という位置づけになる。
 「」は安原王のことであるが、梁書は「延の子」の名前〔陽原王〕は載せていない。
 『三国史記』を見ると、高句麗は梁・東魏双方への朝貢国である。 二重の従属と言えば、明清代の琉球国が連想される。 そもそも朝貢とは、中国の皇帝が国内を分割して一定の土地を諸侯に委ねることだから、同時に二つの国の諸侯国になることは理論上はあり得ない。 しかし実際には、その多くが中国と周辺国との間の外交関係の名目的な表現である。
 なお、国王年の切り替えに関して三国史記は、「安原王十五年」=「陽原王元年」としている。
《香岡上王の和訓》
 さて、〈釈紀〉は、香岡上王を「香岡ぬたすをりこけ」と訓む。 「」は百済ではコキシであったが、高句麗ではコケらしい。ただし、北野本ではここでもコキシである。 「」は、加羅の冠位ではヲコだが、高句麗の王名ではスヲリである。
 香岡をヌタと訓むのも高句麗語か。 〈釈紀〉より後の時代と思われる北野本にもこれらの読みは見られないので、 兼方が高麗系の渡来民の子孫から収集したものと想像される。
 しかし、今や兼方の読みの妥当性を判断するすべはない。倭語になったことが明らかな場合以外は、音読を用いるのが適切であろう。
《細群与麁群》
 細群麁群は、恐らくは氏族の俗称であろう。むしろこちらの方が、倭語に意訳してもよいのではないかと思われる。
《七年是歳》
 高麗大乱の続きは七年是歳条に載る。後継の王を巡って細群と麁群とが争う。
《大意》
 この歳、 高麗に大乱があり、殺された者は多数です。
【百済本記にいう。 十二月甲午(きのえうま)〔二十日〕、 高麗国(こまのくに)の細群(さいぐん)と麁群(そぐん)が、 宮廷の門のところで、鼓を打ち鳴らして戦闘した。
 細群は敗れ、その武装を解かぬこと三日に及び、細群の子孫は悉く捕えられ殺された。 戊戌(つちのえいぬ)〔二十四日〕、 狛国(こまのくに)の香岡上王(こうこうじょうおう)は薨じた。】


まとめ
 欽明天皇紀において、個々の部分の真偽は別として、百済との関係にかなりの字数を割いていること自体が注目される。 そこには原文資料もかなり残っていたことが伺われ、この時期の百済との関係はそれだけ濃密であったわけである。
 仏像などの美術作品、塔などの建築技術、経典などの学問が百済からもたらされ、当時の倭人の目には斬新なものだっただろう。 そのあり様は、明治維新における欧米の文明や、戦後の米国の文化の流入に匹敵するかも知れない。
 これらの文化の提供は無償のサービスではなく、倭国との同盟関係を独占的に深め、あわよくば倭そのものを百済化しようとする政治的狙いと一体であろう。 その狙いが新羅に対抗する南部戦線の強化にあるのは、五年条を見た中で明瞭になった。 このように、この時期は百済からの政治・文化のパワーがシャワーのように倭に降り注いでいる。
 それを外からの圧力と感じて反発し、倭の政治・宗教・文化の主体性を守ろうとする勢力も当然生まれる。 仏教受容派の蘇我氏と、拒絶派の物部氏・中臣氏の対立もその流れの中で捉えるべきであろう。



2020.06.21(sun) [19-11] 欽明天皇11 

17目次 【七年】
《百濟仍賜以良馬七十匹船一十隻》
七年春正月甲辰朔丙午。
百濟使人中部奈率己連等罷歸、
仍賜以良馬七十匹船一十隻。
夏六月壬申朔癸未。
百濟遣中部奈率掠葉禮等、獻調。
中部奈率己連二年七月(一説に三年七月)に訪れ、ずっと滞在していた。
中部奈率掠葉礼…〈釈紀-秘訓〉中部チウホウ奈率ナソツ掠葉礼ケイセフレイ
…「葉」の音は通常は「エフ(よう)」だが、特別な音に「セフ(しょう)」がある。〈汉典〉shè:①古邑名。春秋時楚地。故城在今河南省叶県南。②姓。
七年(ななとせ)春正月(むつき)甲辰(きのえたつ)を朔(つきたち)として丙午(ひのえうま)〔三日〕。
百済(くたら)の使人(つかひ)中部奈率己連(ちうほうなそつこれむ)等(ら)罷(まか)り帰りて、
仍(すなはち)良き馬(うま)七十匹(ななそち)船(ふね)一十隻(とをふな)を以ちて賜(たまは)る。
夏六月(みなづき)壬申(みづのえひつじ)を朔として癸未(みづのとさる)〔十二日〕。
百済、中部奈率掠葉礼(ちうほうなそつけいせふれい)等を遣(まだ)して、調(みつき)を献(たてまつ)らしむ。
秋七月。
倭國今來郡言
「於五年春。
川原民直宮【々名】登樓騁望、
乃見良駒
【紀伊國漁者
負贄草馬之子也】。
睨影高鳴、
輕超母脊、
就而買取。
襲養兼年、
及壯、鴻驚龍翥、
別輩越群、
服御隨心、
馳驟合度、
超渡大內丘之壑十八丈焉。」
川原民直宮、檜隈邑人也。
川原民直宮…〈釈紀-秘訓〉川原カハラノタミノ直宮アタヒミヤ
…[動] はせる。まっすぐに走らせる。
騁望…〈汉典〉眼向遠処眺望。
こま…[名] うま。〈時代別上代〉もとは子馬のことを言ったが、転じて馬一般に用いる。
いをとり…[名] 魚をとること。魚をとる人。
あま…[名] 漁業に従事しているひと。
草馬…〈汉典〉母馬;也〔=亦〕調馭的馬 〈百度百科〉草馬、指母馬。見章炳麟〔学者・思想家1869~1936〕《新方言・釈動物》:”今北方通称牝馬曰草馬、牝驢曰草驢。” 〈釈紀-秘訓〉草-馬メウマノ子也コナリ
騲馬…〈倭名類聚抄〉牝馬一名騲馬【上音草。和名米萬】〔めま〕
…[動] にらむ。横目、伏し目でにらむ。
…[名] 光の当たらない側にできるかげ。かげをつくる光。水面などに移るかげ。すがた。
かげ…[名] 漢語「影」のそれぞれの意味と類似している。
…[名] (古訓) せなか。
…[動] (古訓) つく。むかふ。
…[動] (古訓) おそふ。かさね。
鴻驚…〈汉典〉鴻受惊而疾飛。形-容疾奔
…[動] 高く飛び上がる。
竜翥…〈汉典〉①竜疾飛。②指如竜疾飛。
服御…〈汉典〉①衣服車馬之類。②使用。③乗、駕。
…[動] はしる。
合度…〈汉典〉適宜、合乎法度、尺度。
ふさふ…[自]ハ四 相応する。
…[名] 谷。
秋七月。
倭国(やまとのくに)の今来郡(いまきのこほり)言(まを)さく。
「[於]五年(いつとせ)の春(はる)。
川原民(かはらのみたみ)の直(あたひ)宮(みや)【「宮」は名なり】楼(たかどの)に登りて騁望(のぞみみ)れば、
乃(すなはち)良き駒(こま)を見ゆ
【紀伊国の漁者(あま)の
贄(にへ)を負(お)へる草馬(めま)之(の)子也(なり)】。
影(かげ)を睨(にら)めば高く鳴きて、
軽(かる)く母の脊(せなか)を超へり。
就(むか)ひて[而]買ひ取りまつりて、
襲(かさね)養(やしな)ひて年を兼(かさ)ねて、
壮(をざかり)に及びて、鴻驚竜翥(こうけやうりゆうしよに、おほとりおどろきたつのぼるがごとく)、
輩(ともがら)に別(わか)れて群(ともがら)を越えり。
服御(の)れば心の隨(まにま)に、
馳驟(はし)れば合度(おもひはかるにかな)ひて、
大内丘(おほうちのをか)之(の)壑(たに)を超え渡ること十八丈(とあまりやつゑ)なり[焉]。」とまをす。
川原民の直宮は、檜隈(ひのくま)邑(むら)の人也(なり)。
是歲。
高麗大亂、凡鬪死者二千餘。
【百濟本記云。
高麗、以正月丙午立中夫人子爲王、
年八歲。
狛王有三夫人、正夫人無子、
中夫人生世子其舅氏麤群也、
小夫人生子其舅氏細群也。
及狛王疾篤、
細群、麤群各欲立其夫人之子。
故、細群死者二千餘人也。】
狛王…〈釈紀-秘訓〉狛王コクオリコケ
夫人…〈釈紀-秘訓〉マカリ夫人ヲリククノ夫人ヲリクシム夫人。
…〈釈紀-秘訓〉ヨモ
…〈釈紀-秘訓〉狛王コクオリコケ
世子…〈釈紀-秘訓〉世子マカリヨモ
…〈倭名類聚抄〉:和名之宇止〔しうと〕
…[名] 妻の父。妻の兄弟。夫の父。(古訓) しうと。ははかたのをち。
舅氏…①母の兄弟。②妻の父。〈釈紀-秘訓〉ソノ舅-氏シウトハ麁群ソクムナリ
しひと…[名] 配偶者の父親。
是の歳。
高麗(こま)大乱(はなはだみだれ)て、凡(おほよそ)闘ひて死にせる者(もの)二千(ふたちたり)余りあり
【百済本記(くたらほんき)に云ふ。
高麗、正月(しやうぐわつ)丙午(へいご)〔三日〕を以ちて中夫人(ちうふじむ、くのをりく)の子(こ)を立てて王(きみ)と為(す)、
年(よはひ)八歳(やつ)。
狛王(こまわう、こまおりこけ)三(みたりの)夫人(ふじむ、をりく)有りて、正夫人(しやうぶにん、まかりをりく)子無(な)かりて、
中夫人(ちうぶにん、くのをりく)世子(せいし、まかりよも)を生みて其の舅氏(うじ)麁群(あらきともがら)也(なり)、
小夫人(せうぶにん、しむをりく)子(こ、よも)を生みて其の舅氏(うじ)細群(ほそきともがら)也(なり)。
狛王の疾(やまひ)篤(あつき)に及びて、
細群、麁群各(おのもおもの)[欲]其の夫人之(の)子を立てむとす。
故(かれ)、細群の死にせる者(もの)二千余人(ふたちたりあまり)也(なり)。】。
《倭国》
 書紀はヤマトを「日本」と表記するが、後の大和国は「」と表す。 ヤマトは、ヤマト神社の辺りの地域名→分国名→葦原中国(あしはらのなかつくに)全体の名称に拡張した。 「(wa)」はのレベルの中国語における呼称で、わが国はヤマトに倭の字をあてた。それが、②①に波及する。
 古事記は、まで「」を拡張する。さらには、の神名に由来する初期の天皇名の中にあるヤマト(①’)にも倭を用いる (第106回)。
 書紀は、天武朝ころ定められた国号「日本」をに適用した。また、①’にも「日本」をあてる。 しかし、については「」のままということである。
《今来郡》
 今木は「新漢」(いまきのあや)に由来すると考えられ、比較的飛鳥寺に近い所ではないかと考えた (雄略3《新漢》~《真神原》)。 かい摘んでいうと、雄略紀七年に新漢の一部を真神原などに安置し、その場所が法興寺(現在の飛鳥寺)付近だという。
 また、渡来した漢人あやの祖「阿知使主あちおみ」を祀った「於美阿志おみあし神社」のところに、檜前寺がある (第237回【檜隈廬入野宮】)。 このように、イマキ檜前のところの可能性がある。
 また、言上に出てきた「大内丘」については、大内陵〔野口大墓古墳に治定〕があるので、伝説の舞台が檜前である可能性は高まる。
 さらには、飛鳥寺の近くに川原寺跡がある。一説には、川原寺は斉明天皇が営んだ川原宮の跡地であるとされる。 この地名の元は檜前の"川原"屯倉で、その部民が「川原民」であったとする想像も可能である。 これらを状況証拠として積み重ねれば、伝説の舞台は檜前である可能性が高まる。
 「」であるから、「今木郡」は高市郡の旧名かも知れない。 ただ、高市郡は律令郡成立前の「六県」の時代から既に「高市県」である (第195回《五村屯宅》)。 途中で分割・統合があり、それに伴って一時期使われた使われた名前ということも考えられる。 あるいは高市県の古い名前が「今木県」で、書紀は「郡」を遡って用いたことも考えられる。
《川原民》
 〈姓氏家系大辞典〉は、「川原民 カハラノミタミ:倭漢氏の族にして、大和国高市郡川原邑なる朝廷領御民の長たりし氏なり。」と推定する。 同書は明記こそしていないが、「川原邑」を檜前地域と想定していたと読める。
 〈釈紀-述義〉には、 「天書曰。七年秋七月。倭国今来郡民直氏宮得虵龍献。」とある。
 は蛇の異体字。「蛇竜」はヘビと竜。また俗にワニ。
《宮名》
 「宮登楼」だけを抜き出すと、天皇や皇子が宮殿の楼台に登ったように読めてしまうが、書紀は「宮檜前邑」として「」は人名であるとする。 したがって、分注の「宮名」の意味は、「是宮之名也」だと誤りで、「宮此人之名也」と解釈しなければならない。 しかし、注釈者が読み間違えて、前者のつもりで書いたこともないとは言えない。
 「」を人名とすれば矛盾なく完結するが、「川原民直蒙招宮〔川原のおほみたから、宮にまねかれて〕という別伝があったようにも思える。
《睨影高鳴…》
 今木郡の言上は韻文体である。そのうち難解な語について、意味を考察する。
睨影…「」の意味は横目、あるいは上目遣いでにらむことだが、ここでは目を凝らして遠くの駒の影〔=姿〕を見る意かと思われる。
…「かるし」は「語幹が地名や人名中に用いられている以外、用例はまれである」(〈時代別上代〉)とはいうが、ここではカルク以外に適切な訓みがない。
鴻驚龍翥…非常に速く走る様を表現したとも読めるが、「竜が高く飛ぶ」すなわち"出世"と受け止めれば「別輩越群」を形容する語になる。
服御隨心…「隨心」は「馬がほしいままに走る」ともとれるが、「」は「御者」〔=馭者〕のように、馬をコントロールする意だから「乗る者によく随って」であろう。
合度…「」は度量衡のひとつの「度(長さ)」で、「」は「ほどよい」さまを意味すると見られる。
壑十八丈…壑〔=谷〕を「超え渡る」とは飛び越える意味であろうが、十八丈〔=54m〕を飛び越えるのは現実には不可能である。 「十八丈」は、大きな長さを漠然と述べたか。
 以上から、これは「他に秀でた子馬を発見して買い取って養ったところ、名馬に育った」話である。 普通に考えれば名馬を献上するときの言葉であるが、献上したとは書かれていない。巴提便の虎の皮のときと似ている。
《大内丘》
 天武天皇陵は、持統紀に「始築大内陵」とある。後に、持統天皇も合葬された。考古学名「野口王墓古墳」(奈良県高市郡明日香村野口(大字))に治定されている。 墳形は八角墳である。
《大意》
 七年正月三日、 百済の使者、中部奈率己連(ちゅうほうなそつこれん)等が帰国し、 良馬七十匹、船十隻を賜りました。
 六月十二日、 百済は、中部奈率掠葉礼(ちゅうほうなそつけいしょうれい)等を遣わして、献調しました。
 七月、 倭国〔=大和国〕の今来郡(いまきのこおり)が言上しました。 ――「五年の春、 川原民(かはらのみたみ)の直(あたい)宮(みや)【名前】が楼台に登って遠望すると、 そこに良駒が見えました【紀伊国の漁師が献上する食物を背負わせた牝馬の子】。 その姿を目を凝らしてみると、高く鳴き、 軽く母の背中を超えました。 そこまで行って買ひ取り、 かさねて養い年を経て、 壮年に及び、鴻驚竜翥(こうきょうりゅうしょ)〔目覚ましく秀でるさま〕に、 仲間とは異なり群を越えていました。 御せば心のままで、 走らせれば思いに適い、 大内の丘の十八丈の谷を越えます。」
 川原民の直(あたい)宮は、檜隈邑(ひのくまむら)の人です。
 この年、 高麗(こま)の大乱で、凡そ闘った死者は二千余でした 【百済本記にいう。 高麗、正月丙午(へいご)〔三日〕をもって中夫人の子を立てて王とした。年は八歳。 狛王(こまおう)には三夫人があり、正夫人には子がなく、 中夫人の世子(せいし)を生み、その舅氏(きゅうし)は麁群(そぐん)、 小夫人も子を生み、その舅氏は細群(さいぐん)である。 狛王の病は篤く、細群、麁群各がその夫人の子を立てようとした。 よって、細群の死者は二千人余であった。】。


18目次
【八年~九年】

《百濟乞救軍》
八年夏四月。
百濟遣前部德率眞慕宣文
奈率奇麻等、
乞救軍。
仍貢下部東城子言、代德率汶休麻那。
真慕宣文…〈釈紀-秘訓〉前部德率眞慕宣文シムムセンモン奈率ナソツ奇麻カマ下部カホウ東城トウシヤウ子言ココム德率トクソツ汶休モンキウ麻那マナ
八年(やとせ)夏四月(うづき)。
百済[遣]前部(ぜんほう)徳率(とくそつ)真慕宣文(しむむせんもん)、
奈率(なそつ)奇麻(かま)等(ら)をまだして、
救(すくひ)の軍(いくさ)を乞(こ)ひまつる。
仍(すなは)ち下部(かほう)東城子言(とうじやうここむ)を貢(たてまつ)りて、徳率(とくそつ)汶休麻那(もんきうまな)に代(か)ふ。
九年春正月癸巳朔乙未。
百濟使人前部德率眞慕宣文等、請罷。
因詔曰「所乞救軍、必當遣救。宜速報王。」
九年春正月(むつき)癸巳(みづのとみ)を朔(つきたち)として乙未(きのとひつじ)〔三日〕。
百済の使人(つかひ)前部徳率真慕宣文等(ら)、罷(まかること)を請(ねが)ふ。
因りて詔(みことのり)に曰(のたまひしく)「所乞(こひまつれる)救(すくひ)の軍(いくさ)、必ずや救(すくひ)を遣(つか)はす当(べ)し。[宜]速(すみやかに)王(きみ)に報(むく)ゆべし。」とのたまひき。
夏四月壬戌朔甲子。
百濟遣中部杆率掠葉禮等、奏曰
「德率宣文等、奉勅至臣蕃曰
『所乞救兵應時遣送』。
祗承恩詔、喜慶無限。
然馬津城之役
【正月辛丑、高麗率衆圍馬津城】
虜謂之曰
『由安羅國與日本府招來勸罰』、
以事准況、寔當相似。
然三𢌞欲審其言遣召而並不來、故深勞念。
伏願可畏天皇
【西蕃皆稱日本天皇爲可畏天皇】、
先爲勘當、暫停所乞救兵、待臣遣報。」
中部杆率掠葉礼…〈釈紀-秘訓〉中部杆率カムソツ掠葉礼ケイセフレイ・德率宣文センモン
祗承…〈汉典〉敬奉。〔うやまいうけたまわる〕
馬津城…〈釈紀-秘訓〉馬津城マシムサシノ
えたち…[名] ①公の役にでかけること。②戦役。
招来…〈汉典〉見"招徕"。
招徕…まねいて来てもらう。もたらす。
勧罰…善行を勧め、悪行を罰する。
准況…〈汉典〉〔=拠〕此推断。〔なぞらえて推定する〕
なそふ…[他]ハ下二 なぞらえる。
ふかむ…[他]下二 ふかめる。
いたはし…[形] 苦痛である。
可畏天皇…〈内閣文庫本〉可-畏カシコト。 〈北野本〉畏天皇
勘当…〈汉典〉①審問察。②審議定。:きびしく調べる〕
遣報…類語「遣還」については、〈汉典〉「遣返。謂-回原来的地方〔"遣返"の猶(ごと)し。原来的〔最初の〕地方に送回せしむを謂ふ〕
夏四月(うづき)壬戌(みづのえいぬ)を朔として甲子(きのえね)〔三日〕。
百済(くたら)中部(ちふほう)杆率掠葉礼(かむそつけいせふれい)等(ら)を遣(まだ)して、奏(まを)さしめて曰(まをさく)
「徳率宣文等、勅(みことのり)を奉(たてまつ)りて臣(やつかれ)の蕃(くに)に至りて曰(まを)ししく、
『所乞(こひまつりし)救(すくひ)の兵(いくさ)時に応(こた)へて送ら遣(し)めたまはむ』とまをしき。
恩(めぐみ)の詔(みことのり)を祗承(ゐやまひうけたまは)りて、喜慶(よろこび)無限(かぎりなし)。
然(しかれども)馬津城(ましむさし)之(の)役(えたち)に、
【正月(むつき)辛丑(かのとうし)〔九日〕、高麗(こま)、衆(いくさびと)を率(ゐ)て馬津城(ましむさし)を囲めり】
虜(とりこ)之を謂(まを)して曰(まを)ししく
『安羅国(あらのくに)与(と)日本府(やまとのつかさ)と、勧め罪なふことを招き来(こ)し由(ゆゑ)なり』とまをして、
以ちて事(こと)准況(こになそへおしはか)れば、寔(まこと)相(あひ)似(に)てある当(べ)し。
然(しかるがゆゑに)三廻(みたび)其の言(こと)を審(つまひらか)にして召し遣はしたまふことを欲(ほり)せど[而]並(な)べて不来(きたらず)、故(かれ)労(いたはし)き念(こころ)を深めり。
伏して願はくは、可畏(かしこむべき)天皇(すめらみこと)
【西の蕃(くに)皆日本(やまと)の天皇を称(よ)びて可畏天皇と為(す)】、
先(さき)に勘当(かむがふる)為(ため)に、暫(しまらく)所乞(こひまつりし)救ひの兵を停(とど)めて、臣(やつかれ)に報(かへりごと)せ遣(し)めむときを待ちたまへ。」とまをす。
詔曰
「式聞呈奏、爰覿所憂、
日本府與安羅不救隣難、亦朕所疾也。
又復密使于高麗者、不可信也。
朕命卽自遣之、不命何容可得。
願王、開襟緩帶
恬然自安
勿深疑懼。
宜共任那、依前勅戮力倶防北敵、各守所封。
朕當遣送若干人、充實安羅逃亡空地。」
…[副] =「以」(継体二十三年)。
覿…[動] あう。人と面会する。(古訓) みる。
…[名] (古訓) かたし。うれふ。くるしふ。たしなむ。なやむ。
…[副] さらに。
…[動] (古訓) いる。うく。ゆるす。
容可…〈百度百科〉「釈義有三:謂態度随和、不固執己見;猶豈可、怎能;猶尚可。〔①和し随う態度。②自分の見解に固執しない。③how can.〕
くび…[名] 着物のえり。
ゆるふ…[他]ハ下二 ゆるくする。
…[形] (古訓) しつかなり。やすし。
恬然(てんぜん)…〈汉典〉安然自得的様子。
詔(みことのり)曰(のりたま)へらく
「式(も)ちて呈奏(まを)ししことを聞くに、爰(ここに)所憂(うれへ)を覿(み)ゆ。
日本府(やまとのつかさ)与(と)安羅(あら)隣(となり)の難(たしなみ)を不救(すくはざること)、亦(また)朕(わが)所疾(わづらへるところ)也(なり)。
又(また)復(さらに)[于]高麗(こま)に密(ひそか)に使(つか)はしし者(もの)、不可信(うくべくにあらず)[也]。
朕(われ)命(おほ)せて即(すなはち)自(みづから)之(こ)を遣(つかは)しき。不命(おほせざること)何(いかにや)容可得(なほうべくか)。
願(ねがはくは)王(きみ)、襟(くび)を開(ひら)き帯(おび)を緩(ゆる)へて、
恬然(しづかに)自(みづから)安(やす)めたまへ。
疑ひ懼(おそ)るること勿(な)深めそ。
宜(よろしく)任那(みまな)と共に、前(さき)の勅(みことのり)に依(よ)りて戮力(ちからをあはせ)て倶(ともに)北の敵(あた)を防(ふせ)きて、各(おのもおのも)所封(うけたまはりしくに)を守(も)るべし。
朕(われ)当(まさに)若干(そこばく)人(たり)を送ら遣(し)めて、安羅(あら)の逃げ亡(う)せし空(むなし)き地(ところ)を充実(み)つべし。」とのりたまへり。
六月辛酉朔壬戌。
遣使詔于百濟曰
「德率宣文取歸以後、當復何如、消憩何如。
朕聞、汝國爲狛賊所害。
宜共任那、策勵同謀、如前防距。」
當復…〈汉典〉副詞。能;将。
消息…〈汉典〉①比喩栄枯盛衰。②音信、訊息。(古訓) ありさま。
策励…〈百度百科〉督促勉励
六月(みなづき)辛酉(かのととり)を朔として壬戌(みづのえいぬ)〔二日〕。
使(つかひ)を遣(つか)はして[于]百済に詔(みことのり)せしめまして曰(のたまは)く
「徳率宣文(とくそつせんもん)取り帰(かへ)りて以後(のち)、何如(いかに)当復(あるべき)や、消息(ありさま)は何如(いかに)。
朕(われ)聞くに、汝(いまし)が国(くに)[為]狛(こま)の賊(あた)に所害(そこなはゆ)。
宜(よろしく)任那(みまな)と共に、策(はか)り励(はげ)みて同(ともに)謀(はかりこと)して、前(さき)の如く防距(ふせ)くべし。」とのたまふ。
閏七月庚申朔辛未。
百濟使人掠葉禮等罷歸。
冬十月。
遣三百七十人於百濟、助築城於得爾辛。
得爾辛…〈釈紀-秘訓〉得爾辛トクシシニ 所名
閏七月(うるふふみづき)庚申(かのえさる)を朔として辛未(かのとひつじ)〔十二日〕。
百済の使人(つかひ)掠葉礼(けいせふれい)等(ら)罷(まか)りて帰(かへ)りまつる。
冬十月(かむなづき)。
三百七十人(みほあまりななそたり)を[於]百済に遣(つか)はして、[於]得爾辛(とくじしむ)に城(き)を築(つ)くことを助(たす)けしめたまふ。
《不来故深労念》
 「三廻欲其言レ上召而並不〔再三、(救いの兵を送るとおっしゃった)言葉を形にして欲しいといったがいつも来ない〕、 「故深労〔ゆえに、深く思い悩む〕という。 だから今回も早く兵を送れというのかと思いきや、 要請は「暫停所乞救兵〔しばらく要請した救兵を停めよ〕という意外なものであった。
《由安羅国与日本府招来勧罰》
 「安羅国与日本府招来勧罰」は、一般的には安羅国と日本府が高句麗に百済への攻撃そそのかした意と解されている。
 「招来(招徕)」は、招かれて足を運ぶ意。ただここでは物理的な移動というより、「このような事態を誘発した」意味であろう。 「勧罰」とは「善、罰」の短縮である。 「」はよいことを勧める意味なのだが、侵略者は奸悪を取り除く名目を掲げて攻めるのが常だから、「勧善」は既に侵略の表現である。 だから、「招来勧罰」は「相手を罰することを招いた」ようにも読めるが、本来は「勧罰=侵略」を「招来=もたらした」意味である。
《待臣遣報》
 「待臣遣報」は天皇に「臣遣報」を待つようにお願いする意味である。
 「遣報」は辞書の見出し語にはなかなか見つからないが、「遣還」という語から類推して、王が派遣した使者が帰国して報告することを意味すると見られる。 主述構造「臣遣報」が体言化して「」の目的語になっている。 「〔一人称の謙称〕は受事主語で、述語「報(むく)いせ遣(し)む」の行為主は百済王で、 つまり「〔百済王が〕やつかれ(臣)にかへりごとまを申さしむ(復命)まで、待ちたまへ」の意である。
 よって、「先為勘当、暫停所乞救兵、待臣遣一レ報。」は、 「わが方が以前に要請した援軍は、一旦中止して待て。その間に事態の詳細を吟味し、その結果を本国に報告する。」である。
 しかし、救兵の派遣が遅いと言いつつ、救兵を停めよというのはにわかには理解しがたい。 その深い意味については、別項を立てて検討する。
《三百七十人》
 九年四月の詔に「依前勅戮力倶防北敵」の語がある。 「三百七十人」が 五年の百済王の要請にある「策一」に応えたものなら、 その文中のの「北敵強大」は、新羅を指したから、今回の詔の中の「倶防北敵」も新羅を意味する。
 五年に要請されたのは「三千兵士」だったので、三百七十人は、ひとまず城一個分ということかも知れない。
《詔》
 掠葉礼の奏上に返した詔は、強い不信感を隠そうともしない百済王を宥めている。 その上で実質的な内容の要点は、
 朕は救兵の要請に応じよと間違いなく命じた。安羅と日本府が高句麗を唆した如きことは信じるな。
 安羅が逃亡した空白地に兵を送る。
 である。 つまり、被せられた疑惑に対して言い訳をしつつ、「暫停所乞救兵」という要請には応じていない。
 掠葉礼がこの回答を持ち帰るのは閏七月だが、予め六月に百済に使者を送り、高句麗の攻撃を受けたことを見舞っている。 また掠葉礼帰国後の十月に、得爾辛築城のために三百七十人を送っている。
 救兵の停止を受け入れたのは、翌十年の六月になってからである。
《充実安羅逃亡空地》
 「安羅が逃亡」した経緯について、この前後からは読み取れない。 掠葉礼の奏上にあった「招来」は「事態を招く」と読むべきだと判断したが、 実は安羅の王一族が祖国を棄てて高句麗に亡命したという意味だろうか。
 しかし、十三年になっても依然として詔に「安羅王」「日本府臣」の語があるから、 今のところ確かなことは言い難い。
《大意》
 八年四月、 百済は前部徳率(ぜんほうとくそつ)真慕宣文(しんむせんもん)、 奈率(なそつ)奇麻(かま)等を遣わして、 救軍を求めました。
 そして下部(かほう)東城子言(とうじょうこごん)を献上し、徳率(とくそつ)汶休麻那(もんきゅうまな)を交代させました。
 九年正月三日、 百済の使者、前部徳率真慕宣文らは、帰国を願い出ました。 帰国にあたって「求められた救軍については、必ずや助けさせよう。速やかに王に復命しなさい。」と詔しました。
 四月三日、 百済は中部杆率(ちゅうほうかんそつ)掠葉礼(けいしょうれい)らを遣わして、奏上しました。
――「徳率宣文らは、勅をいただき、臣蕃〔=私の国〕に帰って申すには、 『お求めした救兵は、時に応じて送らせよう』とのことでした。 恩詔を敬い拝領し、慶びは無限でした。
 ところが、馬津城(ましんさし)の役のとき、 【正月辛丑(しんちゅう)〔九日〕、高麗(こま)は、軍勢を率いて馬津城を囲んだ】 捕虜にした者が申すには、 『安羅国と日本府(やまとのつかさ)が、罰することを勧めたことが招いたことである』と申し、 この事から推しはかり、まことに似たことだと思い当たりました。
 だから、三度にわたって、その言葉を形にして派遣していただくようにお願いしても、いつも来ていただかなかったのだと、痛ましい気持ちを深めております。
 伏して願わくば、可畏(かしこむべき)天皇(すめらみこと) 【西蕃〔=三韓〕は皆、日本(やまと)の天皇を可畏天皇と称した】、 先ず勘考するために、暫くはお求めした救兵を停め、臣が復命するまでお待ちください。」
 天皇は詔しました。
――「呈奏を聞いて、憂えるさまを拝見した。 日本府(やまとのつかさ)と安羅が隣の難を救わなかったことは、また朕も心を痛めるものである。 また、更に〔日本府と安羅が〕高麗に送った密使のことなど、信じるに及ばない。 朕の命により、即ち自ら兵を遣わした。命じなかったなどと言われることを、どうして受け入れられよう。 願わくば、王は襟を開き、帯を緩め、 落ち着いて自らを安めたまえ。 疑いや畏れを深めてはならない。
 よろしく任那(みまな)と共に、先の勅に依って戮力し〔力を合わせ〕、共に北の敵を防ぎ、各々封じられた国を守るべし。 朕は、まさに若干人を送らせ、安羅(あら)が逃亡した空地を充実させよう。」
 閏七月十二日、 百済の使者、掠葉礼(けいしょうれい)らは辞して帰国しました。
 十月、 三百七十人を百済に遣わし、得爾辛(とくじしん)の築城を助けました。


【暫停所乞救兵】
 これまでに述べたように、百済は倭が救兵を送らないことに不満を示しながら、結論として救兵を停めよという理解しがたい申し入れを行った。 その理由として、日本府・安羅の振舞によって倭の底意が疑われることを挙げる。その調査をするから暫し待てという。 しかしこれは言い掛かりのようなもので、俄かには受け入れがたい。
 その実際の背景としては、新羅との関係が敵対から友好に転じたことが考えられる。 そこでまず、その転機となったと思われる独山城への高句麗の攻撃を見る。
《高句麗の独山城攻撃》
 欽明九年〔548;戊辰〕は、高句麗の陽原王四年・百済の聖王二十六年・新羅の真興王九年にあたる。 『三国史記』には、新羅本紀、高句麗本紀、百済本紀のいずれにも、高句麗が百済独山城を攻めた記事があり、内容はかなり似通っている。
高句麗
本紀
〔陽原王〕四年:春正月。以兵六千百濟獨山城。新羅將軍朱珍來援。故不克而退 兵六千を以て百済独山城を攻む。新羅将軍朱珍来援す。故(ゆゑに)克(か)てずして退く。
百済
本記
〔聖王〕二十六年:春正月。高句麗王平成與濊謀攻漢北獨山城。 王遣使請救於新羅。羅王命將軍朱珍甲卒三千之。 朱珍日夜兼程至獨山城下。與麗兵一戰。大-破之 高句麗王平成与(と) 濊(わい)と謀り漢北独山城を攻む。 王遣使し救ひを新羅に請(ねが)はしむ。〔新〕羅王、将軍朱珍に命じて甲卒三千を領(をさ)めしめ、こを発(た)たしめき。 朱珍日夜兼程〔二日の行程を一日で行くこと〕し独山城下に至り、〔高句〕麗兵与(と)一戦し、こを大破す。
新羅
本紀
〔真興王〕九年:春二月。高句麗與穢人攻百濟獨山城。百濟請救。王遣將軍朱玲珍勁卒三千之。殺獲甚衆。 高句麗与(と)穢人、百済独山城を攻む。百済救ひを請ふ。王、将軍朱玲を遣はし勁卒〔強兵〕三千を領(をさ)めしてこを撃たしむ。殺し獲(え)るもの甚(はなはだし)く衆(おほ)し。
 この「独山城」が書紀の「馬津城」に対応している。〔同じ城の別名かも知れないし、別々の話が混同されたのかも知れない。〕
 このように『三国史記』によれば、548年に高句麗と濊(わい)が連合して百済の独山城を包囲したが、新羅が救援のために将軍朱珍を送り、高句麗軍を打ち破った。 「」は朝鮮半島の東岸、高句麗の南、新羅の北にあった国(資料[40])。
 百済本紀は独山城が「漢北」あったとするが、これは「漢城の北」の意かと思われる。 「漢城」は、雄略天皇紀二十一年にあるように高句麗にとられて久しい(雄略十九年)。 だから、独山城がその「漢城」の北にあるというのは理屈に合わない。少し寄り道して調べてみる。
 『三国遺事』巻第二には「後至聖王。移都於泗泚。今扶餘郡(彌雛忽。仁州。慰禮。今稷山)」とあり、 稷山も「慰礼城」と呼ばれた時期があったとも読み取れる。
 「稷山」は、現在の韓国忠清南道天安市西北区内にあたり、慶長の役の「稷山の戦い」があった。 ここに「천안 성거산 위례성(天安聖居山慰礼城)」という城址があり、<wikipedia>韓国版に 「이 성은 《삼국유사》의 기록에 의해 백제의 도읍지였던 위례성으로 보기도 하나 도읍성이라기 보다는 국방을 위한 산성으로 보이며, 쌓은 시기도 삼국시대 후기로 추정된다.〔この城は『三国遺事』の記録によって百済の都であった慰礼城と見られることもあったが、 都というよりは国防のための山城と見られ、三国時代後期と推定される〕とある。
 「漢北」とは、稷山に地名「漢城=慰礼城」を持ってきたものかも知れない。
《乞救軍》
五年十一月百済聖明王曰-繕六城。謹請天皇三千兵士
八年四月百済遣使徳率宣文等奏「救軍」。
九年正月:高句麗軍が「馬津城」を包囲。
九年正月:徳率宣文罷帰。倭は「所乞救兵」に応えることを約束する。
九年四月:百済使杆率掠葉礼「暫停所乞救兵〔暫くの派兵の中止〕を要請。
九年六月:百済王に「為狛賊害」〔高句麗による攻撃〕を見舞う詔。
九年閏七月:掠葉礼罷帰。
九年十月:倭国は兵370人を送り、得爾辛築城
十年六月:倭国の詔「所乞軍者、依願停之。
徳率扞率安閑天皇1《百済の位階》に「徳率四品。 扞率五品。」とある。
 ここで、百済の要請とそれを受けた倭の対応を時系列で整理する。
 八年四月の「乞救軍」とは、
 五年に百済王が提起した「策一」の実行を重ねて求めた。
 新たに援助を依頼した。
 のどちらだろうか。
 五年の「策一」における表現は「謹請天皇三千兵士」で、「乞救軍」とは異なっている。 しかし、「策一」が未だに実行されておらず、「築城」が「策一」の「修繕六城」に合致するのも確かである。
 「得爾辛城」は「策一」に対応するものかも知れないが、 もし百済の北部ならば、「策一」とは無関係で高句麗の攻撃が近いと判断して、それに備えた築城となり、が確定する。
 よって、得爾辛の比定地を探る研究はないかと考えて、検索した。
 「1930年代半ばに、「得爾辛城」を、古蹟保存会のメンバーが扶餘近郊に「発見」し」たが、 「小地名の類似という不十分な根拠に基づくに過ぎなかった」 と述べる論文があった(『日本統治期の朝鮮半島における史蹟景観の歴史地理的研究』米家泰作;2011)
 この「発見」なるものは、日本が朝鮮を併合していた時期、その根源が古代の日朝関係にあるとして支配を正当化する思想の内にあり、 まともな検討対象にはならない。
 <ko.wikipedia>(ウィキペディア韓国語版)を始めとして韓国サイトにも「得爾辛城」という語句は今のところ見えない。
 結果はの通りで、その比定地を求めた資料は今のところ得られていない。
 ひとまず、得爾辛は「策一」に応えたものであって、「新羅安羅両国之境」にあるとしておく。
 「救軍」が「策一」とは別個だったと仮定すれば、得爾辛の築城は九年十月であるが「策一」への対応であって、「暫停乞救兵」への違反にはならない。
 それでも、「策一」と「救軍」は百済への倭の支援としてひとまとめと考えるのが自然であろう。 停止要請に対して「乞軍者依願停〔仰る通り、救兵を停めます〕と返事するのは、やっと十年六月のことであるから、 得爾辛の築城は、停止要請を受け入れる前である。
 その意図は、停止要請を無視してでも「救軍要請には誠実に応えようとしていた」ことを形にして見せようとしたと考えることができる。
《当時の百済-新羅関係の推移》
 百済-新羅の友好関係は長続きせず、次第に敵対関係に転ずる。 『三国史記』から該当部分を抜き出す。
西暦欽明百済(聖王)新羅(新興王)高句麗(陽原王)
〔550〕十一年 二十八年:-取高句麗道薩城 十一年:百済抜高句麗道薩城。三月。高句麗陥百済金峴城 六年:春正月。百済来侵陥道薩城。三月。攻百済金城。新羅人乗間取二城
〈列伝〉異斯夫(真興王十一年):百済抜高句麗道薩城。高句麗陥百済金峴城。王乗両国兵疲異斯夫兵撃之。
〔551〕十二年 七年:新羅来攻-取十城
〈欽明紀〉十二年:百濟聖明王。親率衆及二國兵-伐高麗獲漢城之地。又進軍討平壤。凡六郡之地遂復故地
〔552〕十三年 〈欽明紀〉十三年:百濟棄漢城與平壤。新羅因此入居漢城。今新羅之牛頭方尼彌方也。
〔553〕十四年 三十一年:秋七月。新羅取東北鄙新州。冬十月。王女帰于新羅 十四年:秋七月。取百済東北鄙新州。冬十月。娶百済王女小妃
〔554〕十五年 三十二年:秋七月。王欲新羅親帥歩騎五十。夜至狗川新羅伏兵発与戦。為乱兵害薨。 十五年:新州軍主金武力以州兵之及交戦。裨将三年山郡高干都刀※)急撃-殺百済王 十年:冬。攻百済熊川城。不克。
※) 裨将三年山郡高干都刀…裨将〔=副将〕+三年山郡〔地名〕+高干〔冠名〕+都刀〔個人名〕。
 553年十月には、新羅が百済から王女を迎えている。しかし表向きの友誼の裏で新羅は刻々と百済領を蚕食しつつあった。
 既に550年には、百済が高句麗の道薩城を奪い、高句麗が百済の金峴城を奪ったが、新羅の異斯夫はそれぞれ兵の疲労を衝いて襲い掛かり、 両方の城を手中に収めた。 書紀によれば、551年に百済が奪還した漢城などの地を、552年には新羅に明け渡している。 553年七月には、新羅は百済の北東隅を奪い取って「新州」を置いた。 554年七月には、新羅と戦うために親征した聖王の戦死という手痛い敗北を喫する。
 元はと言えば、馬津城が高句麗に攻められたときに、新羅の救援に頼ったのが失敗であろう。 そのときに百済軍の実力や防禦の実情をさらけ出してしまったのである。
 こうして見ると、百済が単独で新羅や高句麗に対抗するには軍事力が不足し、倭の救軍は喉から手が出るほど欲しかったと思われる。
《九年四月の言上の意味》
 九年〔548〕四月に訪れた百済使の掠葉礼の言上を要約すると、次のようになる。
――「高句麗が馬津城を攻撃したのは、安羅と日本府が唆したからだと捕虜は言っていた。 これに準えれば、要請を重ねたのに救援軍の派遣を渋っていたことに合点がいく。 〔倭は、本当は百済を助ける意思はないのではないか。〕 この疑いについて調査するから、その結果が判明するまでは要請していた援軍は、一旦止めよ。
 日本府に関して、そもそも百済が問題にしたのは「新羅への内通」であった。 ところが、日本府と安羅に対して今度は「高句麗をそそのかしたこと」を責めるから、ご都合主義もはなはだしい。 ただ、新羅との関係に触れなくなったところに、方針転換が見える。
 九年〔548〕始めの馬津城(または独山城)への高句麗の攻撃は、百済にとって本当に深刻な事態であった。 ところが、新羅から強力な援軍によって打ち破ることができ、百済は新羅との友好関係に舵をきった。
 だが八年〔547〕四月の時点では、倭への「救軍」要請は、依然として新羅に備えたものであった。 これまでしきりに倭の救援を求めたとき、常に新羅の脅威を理由にしてきたのである。
 しかし今となっては、倭軍がやって来ると実にやっかいなことになる。 もし倭軍が新羅に出会えば、必ず攻撃するであろう。 このように自分から救軍を求めたのに、突然それを停めさせなければならない事態に陥った。
 かと言って事情を正直に話せば、これまで上から目線で新羅の悪辣さを説いてきた百済は面目を失うだろう。 よって、かくも無理やりな理屈をもって責任を倭に押し付けて乗り切ったのである。

まとめ
 九年以後については『三国史記』と照らし合わせると、百済がどのタイミングでどのような援助を倭に求めたのが見えてくる。 八年までは南部戦線で新羅に対抗するための救軍だったが、これから暫くは戦う相手は高句麗に変わる。
 ただ、詳しくは十一年条で見るが、北部戦線には援兵を送らず武器・食料の援助に留まるようである。
 九年十月の得爾辛の築城については、百済が「策一」を提起した当時とは情勢が異なるから、ここで要請に応えてもという今更感がある。 ただ、その後の新羅による攻勢を見るにつけ、百済は油断して新羅に気を許していたようだから、倭による築城の援助は長い目で見れば正解だったことになる。



2020.06.30(tue) [19-12] 欽明天皇12 

19目次 【十年~十三年五月(一)】
《將德久貴固德馬次文等請罷歸》
十年夏六月乙酉朔辛卯。
將德久貴固德馬次文等、請罷歸。
因詔曰
「延那斯麻都、陰私遣使高麗者、
朕當遣問虛實。
所乞軍者、依願停之。」
将徳久貴…〈釈紀-秘訓〉シヤウ德久貴トクコムクヰトク馬次マシモム・等
延那斯麻都…〈釈紀-秘訓〉エム那斯麻都ナシマト。 「移那斯麻都」(四年)と同一であろう。
十年(ととせ)夏六月(みなづき)乙酉(きのととり)を朔(つきたち)として辛卯(かのとう)〔七日〕。
将徳久貴(しやうとくきうくゐ)固徳馬次文(ことくましもん)等、罷(まか)り帰ることを請(ねが)ひまつる。
因(よ)りて詔(みことのり)曰(のたまひしく)
「延那斯(えむなし、やなし)麻都(まつ)、陰に私(わたくし)に使(つかひ)を高麗(こまに)遣(まだ)せしこと者(は)、
朕(われ)[当]虚実(いつはりまこと)を問は遣(し)めて、
所乞(こはえし)軍(いくさ)者(は)、願(ねがひ)に依りて之(こ)を停(とど)むべし。」とのたまひき。
十一年春二月辛巳朔庚寅。
遣使詔于百濟
【百濟本記云。
三月十二日辛酉。
日本使人阿比多、
率三舟來至都下。】
日本使人阿比多…〈釈紀-秘訓〉日本ヤマトノ使人ミツカヒ阿比多アヒタ
三月十二日…三月は庚戌朔なので、辛酉=十二日は書紀本文と一致する。
十一年(とをとせあまりひととせ)春二月(きさらき)辛巳(かのとみ)を朔(つきたち)として庚寅(かのえとら)〔十日〕。
使(つかひ)を遣(つか)はして[于]百済(くたら)に詔(みことのり)
【百済本記(くたらほんき)に云ふ。
三月(みつき)十二日(とをかあまりふつか)辛酉(しむゆう)。
日本(やまと)の使人(つかひ)阿比多(あひた)、
三(みふなの)舟を率(ゐ)て都下(みやこ)に来(き)至る。】

「朕、依施德久首
固德進文等
所上表意、
一々教示如視掌中、
思欲具情、冀將盡抱。
大市頭歸後如常無異。
今但欲審報辭、故遣使之。
施德久首…〈釈紀-秘訓〉施-德セトク久首コムシユ固-德コトク進文シムモム。 〈岩波文庫〉内閣本・北野イ〔=北野本の添え書き。「異本曰く」の意〕では「施德久貴固德馬進文」。
…[名] こころのうごき。ほんとうのこと。(古訓) こころ。まこと。
大市頭…〈釈紀-秘訓〉大市頭タイシトウ
無異…〈汉典〉①相同。没有差別。②無怪。不以為奇。
…いつもと異なっていること。〈時代別上代〉形容詞ケシの語幹となり、ニを伴って副詞に用いられる。
曰(のたまはく)
「朕(われ)、[依]施徳久首(せとくきうしゆ)
固徳進文(ことくしんもん)等(ら)の
所上表(ふみにたてまつりし)意(こころ)によりて、
一々(ひとつひとつ)教示(をしへしめすこと)掌中(てのうち)を視(み)るが如(ごと)くありて、
[欲]具(つぶさに)情(まこと)にせむと思(おもほ)して、冀(こひねがはくは)[将]尽抱(むだきつく)さむとしたまふ。
大市頭(たいしとう)帰りて後(のち)常の如く無異(けにあることなし)。
今、但(ただ)[欲]審(つまひらかに)辞(ことば)を報(むく)はむとして、故(かれ)之(こ)に使(つかひ)を遣はす。
又復朕聞、
奈率馬武是王之股肱臣也、
納上傳下、甚協王心而爲王佐。
若欲國家無事
長作官家永奉天皇、
宜以馬武爲大使遣朝而已。」
重詔曰
「朕聞、北敵强暴。
故賜矢卅具。庶防一處。」
奈率馬武…〈釈紀-秘訓〉奈-率ナソツ馬武マム
大使…(古訓)〈類聚名義抄観智院本〉おほいをも。 〈前田本-敏達元年〉大-使オム。〈北野本-敏達元年〉大-使ヲホツカヒ
而已…〈漢辞海〉而已など:「已」はほかの助詞と重ねて用いることもある。いずれも「のみ」と訓読する。
…[動] (古訓) かさぬ。
そろひ…[助数詞] ~組。
そなへ…[助数詞] ~組。
…[副] こいねがわくば。(古訓) こひねかはくは。ねかふ。
又(また)復(さらに)朕(わが)聞こしてあるに、
奈率馬武(なそつまむ)是(これ)王之股肱(きみにあつくつかへる)臣(おみ)也(にあ)りて、
上(うへ)に納(をさ)め下(した)に伝へて、甚(いと)王心(きみのこころ)に協(かな)ひて[而]王(きみ)の佐(すけ)を為(す)。
若(も)し[欲]国家(くにいへ)に無事(ことな)かりて、
長く官家(みやけ)と作(な)りて永く天皇(すめらみこと)を奉(たてまつ)らむとねがはば、
宜(よろしく)馬武を以ちて大使(おほつかひ、たいし)と為(な)して遣朝(みかどにをろがましむ)べき而已(のみ)。」とのたまふ。
重(かさねて)詔(みことのり)曰(のたまへらく)
「朕(われ)聞くに、北の敵(あた)強暴(こはくあらし)。
故(かれ)矢三十具(みそそなへ)を賜(たまは)る。庶(こひねがはくは)一処(ひとつのところ)を防くべし。」とのたまへり。
夏四月庚辰朔。
在百濟日本王人、方欲還之。
【百濟本記云。
四月一日庚辰。
日本阿比多還也。】
百濟王聖明、謂王人曰
任那之事、奉勅堅守。※)
延那斯麻都之事、
問與不問、唯從勅之。」
因獻高麗奴六口、
別贈王人奴一口。
【皆、攻爾林所禽奴也。】
日本王人…〈釈紀-秘訓〉日-本ヤマトノ王-人ミツカヒ
王人…〈汉典〉天子的使臣。〈百度百科〉王人出歴史書籍、有多種含義
延那斯麻都之事…〈釈紀-秘訓〉延那斯麻都之事エムナシマトカコトハ問与トヒタマハムトモトヒタマハシトモたたマゝナラン勅之ミコトノリノ 〔延那斯(えむなし)麻都(まと)が事は、問ひ給むとも問ひ給はじとも、ただ勅(みことのり)のままならん〕
爾林…〈釈紀-秘訓〉ミナセメテ爾林ニリンヲトコロノトリシ奴也ヤツコナリ 〔皆、爾林(にりん)を攻めて禽(と)りし所の奴(やっこ)なり〕
夏四月(うづき)庚辰(かのえたつ)の朔(つきたち)。
百済に在りし日本(やまと)の王人(きみのみつかひ、わうにむ)、方(まさに)欲還[之](かへらむとす)。
【百済本記に云ふ。
四月(よつき)一日(つきたち)庚辰(こうしん)。
日本(やまと)の阿比多(あひた)還(かへ)る[也]。】
百済王(くたらわう)聖明(せいめい)、王人(きみのつかひ、わうにん)に謂(まを)して曰へらく
「任那(みまな)之(の)事(こと)、勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて堅く守らむ。
延那斯(えむなし、やなし)麻都(まつ)之(の)事、
問ひたまふこと与(と)不問(とひたまはざること)と、唯(ただ)之(こ)を勅(みことのり)の従(まにま)にしたまへ。」といへり。
因(よ)りて高麗(こま)の奴(やつこ)六口(むたり)を献(たてま)つりて、
別(こと)に王人に奴(やつこ)一口(ひとり)を贈りき
【皆(みな)、爾林(にりん)を攻めて所禽(とら)へてある奴(やつこ)也(なり)】。
乙未。
百濟遣中部奈率皮久斤
下部施德灼干那等
獻狛虜十口。
中部奈率皮久斤…〈釈紀-秘訓〉中部奈率皮久斤チウホウナソツヒコムコム下部施德灼干那カホウセトク■クナムナ
乙未(ひのとひつじ)〔十六日〕
百済[遣]中部奈率皮久斤(ちうほうなそつひきうきむ)
下部施徳灼干那(かほうせとくしやくかむな)等(ら)をつかはして、
狛(こま)の虜(とりこ)十口(とをたり)を献(たてまつ)る。
十二年春三月。
以麥種一千斛賜百濟王。
是歲。
百濟聖明王、親率衆及二國兵
【二國、謂新羅任那也】
往伐高麗、獲漢城之地。
又、進軍討平壤、
凡六郡之地遂復故地。
麦種…〈釈紀-秘訓〉麥-種ムキタネ一-千-斛チ サカ
いなだね…[名] 稲の種。
…容積の単位。一斛=約20L。資料[36](新莽嘉量)参照。
…[動] (古訓) およふ。ともにす。
漢城…〈釈紀-秘訓〉漢城之地カムシヤウノトコロ平壤ヘイシヤウノスヘテ六郡之ムツノコウリノトコロツヒニカヘシツ故地モトノトコロヲ 〈北野本-十三年是年〉アヤノ〔あやのき〕
…[動] (古訓) かへす。かふる。
十二年(ととせあまりふたとせ)春三月(やよひ)。
麦種(むぎだね)一千斛(ちさか)を以ちて百済王(くだらわう)に賜はる。
是の歳。
百済聖明王(せいめいわう)、親(みづから)衆(いくさ)を二国(ふたつのくに)の兵(つはもの)と及(ともに)率(ゐ)て
【二国は、新羅(しらき)任那(みまな)を謂ふ[也]】、
高麗(こま)に往(ゆ)き伐(う)ちて、漢城(かむじやう)之(の)地(ところ)を獲(う)。
又、軍(いくさ)を進めて平壌(へいじやう)を討(う)ちて、
凡(おほよそ)六(むつの)郡(こほり)之(の)地(ところ)遂に故(ふる)き地(ところ)に復(かへ)りき。
《大使》
 『戦国策』〔戦国~前漢〕に「大使安陵」という文があり、 国家が派遣する使者の意味の「大使」が漢以前から使われていたことが確認できる。恐らく「使」より大物であろう。
 書紀もこの漢語を用いたと思われる。古訓には「オム」と「オホツカヒ」があり一定しない。 〈類聚名義抄〉のオホイヲモは、「おほきおみ」の音便と思われる。〈前田本〉のオム〔オミの変〕を見ると、使者がオミと呼ばれることがあったのかも知れない。 なお、渡来人のかばねとしてのオミに「使主」が当てられるのは、海外への使者に立てられることが多かったためという説を見る(『古語林』大修館)。 氏族の長で朝廷に登った人がオミだが、海外への使者もオミなのだろう。
 今日まで続く音読み「タイシ」は漢音だから〔呉音ならダイシ〕「大使」という語の流入は比較的新しく、 はじめは音読みの語だった可能性がある。
 一般に書紀古訓には、本来は音読みでも、平安時代に作為的に上代語を当てはめた場合があると見られる。 「大使」もその一例ではないだろうか。
《王人》
 百済本紀で「阿比多」とされる人物は、「○○のあたひ」のかばねの部分だけの訛りかも知れない。 本来の倭名を示す資料がなかったので、「日本王人」という珍しい表現を用いたと思われる。 あるいは、この人物に限って使われた俗称とも考えられる。その場合は、音読みの方がよいかも知れない。
《将徳久貴固徳馬次文》
 「将徳久貴」「固徳馬次文」はここが初出である。会話中で高句麗への密使が出てくるから、杆率掠葉礼(九年)の奏上で「安羅国与日本府招来勧罰」が問題にされたことへの返答である。
 安閑元年《百済の位階》によれば、 杆率:五品将徳:七品固徳:九品である。 この位階の上下から見れば掠葉礼が九年に訪れたときに、副使として将徳久貴固徳馬次文が同行し、 十年六月に掠葉礼が帰国した後も副使たちは帰国せずにとどまっていたと読み取れる。
 掠葉礼が訪れたときに、「日本府」の 「移那斯麻都」の振る舞いが問題にされていたから(五年三月)、「延那斯麻都」は「移那斯麻都」の異表記であろう。
 そのときは、詔において「高句麗〔に移那斯麻都が私的に送った〕密使」のことは信じるべきでないと即答し、乞軍の停止も受け入れなかった。 しかし、今回の詔はそのときとは内容が異なり、求められたことを実質受け入れている。
《任那之事》
 十一年四月の王人への言葉は高句麗に関する文脈中にあるから、 「任那之事奉勅堅守※)」は書紀による挿入であろう。
《問与不問》
 前項のように、十年六月の詔において誠実に百済による不信を払拭しようとしたが、 それに対する百済の反応は「延那斯麻都之事。問与不問唯従之。」であった (十一年四月に王人が持ち帰った上表)。
 既に百済は高句麗とシビアな戦闘状態に入っており、 今は倭国の支援という実利が何よりも求められる。 今更日本府の高句麗への内通を責めても、実りはないのである。
 そもそも延那斯麻都のことを問題にしたのは、対新羅の援軍はもう要らないと言うための理由付けに過ぎなかった。 いわば単なる方便で、今となってはどうでもよいことである。
《若欲國家無事長作官家永奉天皇》
 「長作官家永奉天皇」は神功皇后伝説に基づくもので、いわば序詞のようなものである(第141回)。 神功皇后段では「百済国者定渡屯家〔百済国は渡しの屯倉に定む〕、 また神功皇后紀では「内官家屯倉。是所謂之三韓也〔内つ宮家なる屯倉に定む。是れ、いはゆる三韓なり〕と述べる。
 つまり、「官家」は百済が倭の属国であるという伝説的国家観による言葉で、 「」は「国内のある場所に官家を設置する」のではなく、「百済が丸ごと官家の役割を果たす」意味である。
 この文脈では「国家無事」の「国家」は、三韓を包含する広域の「倭」を指す。 もしこの「国家」が百済を指すのなら「汝蕃国無事」などと書いたであろう。
 結局「若欲国家無事長作官家永奉天皇」は、倭の内向きの文章が場違いに紛れ込んだものである。 百済は今、新羅・高句麗連合の攻撃に直面して切羽詰まった状況にある。 そこにこのような勅書が来ても、寝言にしか聞こえないだろう。 そもそもこの部分は書紀による創作であろうが、それにしてもこの語句をここに置くセンスを疑う。 どうも、百済王の上表〔本来「勅」であろうが〕を大量に引用しながら、それが示す情勢の流れを十分理解しないままに書いていると感じられる。 だから、正史掠葉礼に同行した副使「将徳久貴・固徳馬次文」の名が脱落したり、「延那斯麻都」と「移那斯麻都」の表記違いを放置したりするのである。
《攻爾林所禽奴》
 これまでに書紀に「爾林」が出てきたのは、応神紀十六年(乙巳、機械的には285年)と、 顕宗紀三年是年(丁卯、機械的には487年)である。 それらによれば、
 応神天皇十六年では、爾林は百済阿花王が賜った「東韓之地」に含まれるとされる。
 顕宗天皇三年では、任那の紀生磐宿祢が、高麗の爾林の地で百済の適莫爾解(ちゃくまくにげ)を殺した。
 は伝説の時代で、理知的な検討の対象外である。は、ここの「百済が高句麗と戦った」筋書きには合わず、年代も欽明十一年(庚午、550年)から63年も前のことである。 したがって、原注がが指すのなら全くの誤りである。欽明九年〔548〕以後の捕虜を指すとしても、 地名「爾林」は書紀にも三国史記にも見えず、やはり不審である。
《献狛虜》
 「狛虜」は、欽明九年以後の高句麗との戦闘で捕虜であることは明らかである。 これは、倭から贈られた物資「矢三十具」などへの返礼と見られる(援助物資は他にもあっただろう)。
 このことから、物資の提供は兵を送るのと同等の意味があったことがわかる。 遠隔地に軍勢を送るのは、移動中に軍自身が食料を消費するから効率が悪い。 そんなことならすべて食糧・武器の形で送るとする判断は、合理的である。 この時点で、百済の戦いは対高句麗戦線に以降していたことを倭は完全に認識していたことがわかる。
 詔における「北敵強暴」の北敵が、高句麗を意味することは明らかである。
《大意》
 十年六月七日、 将徳久貴(しょうとくこんき)固徳馬次文(ことくましもん)等は、帰国を願い出ました。
 このとき詔されました。
――「延那斯(えんなし)〔移那斯(やなし)か〕と麻都(まつ)は、陰に私的に使者を高麗(こま)に遣わしたことについて、 朕は虚実を調べさせ、 要請されていた救援軍は願いにより停止する。」
 十一年二月十日、 使者を遣わして百済(くたら)に詔されました 【百済本記(くだらほんき)にいう。 三月十二日辛酉(しんゆう)、 日本(やまと)の使者阿比多(あいた)は、 三隻の舟を率いて都下に至った。】 。
――「朕は、施徳久首(せとくこんしゅ) 固徳進文(ことくしんもん)等の 上表の意をうけ、 一々の教示、掌中を見るが如く、 つぶさにもっともなことだと思い、願わくばことごとく自分のものにしたい。 大市頭(だいしとう)が帰って後は、いつも通りで変わったことはない。
 また、朕が聞くところでは、 奈率馬武(なそつまむ)は王の股肱の臣で、 上に納め〔=上に仕えてことを整え〕下に伝え、まことに王の心に適い王の補佐をするという。 もし国家の無事を願い、 長く官家〔の国〕として末永く天皇に奉ろうとされるなら、 馬武を大使として遣朝すべきであろう。」
 重ねて詔されました。
――「朕が聞くに、北の敵は強暴であるという。 そこで矢三十備えを賜る。願わくば、一か所の防御にでも役立ててほしい。」
 四月一日。 百済に滞在した日本(日本)の王人(おうじん)は、帰るところでした。 【百済本記にいう。 四月一日庚辰、 日本(やまと)の阿比多(あひた)帰る。】
 百済王聖明(せいめい)は、王人に申し上げました。
――「任那(みまな)の事、勅を承り堅く守ります。 延那斯〔移那斯〕と麻都の事は、 問われようが、問われなかろうが、勅にお任せします。」
 そして高麗(こま)の奴婢六人を献り、 別に王人に奴婢一人を贈りました 【皆、爾林(にりん)を攻めたときに捕えた奴婢です】。
 十六日、 百済は中部奈率皮久斤(ちゅうほうなそつひきゅうきん)、 下部施徳灼干那(かほうせとくしゃくかんな)らを遣わして、 狛(こま)の虜(とりこ)十人を献上しました。
 十二年三月、 麦種一千斛(とう)を百済王に賜わりました。
 この歳、 百済の聖明王は、親(みづか)らの軍勢と、二国の兵を率いて 【「二国」とは、新羅と任那のことをいう】、 高麗(こま)に征伐し、漢城(かんじょう)の地を獲ました。 また、軍を進めて平壌(へいじょう)を討ち、 全部で六郡の地を遂に故地に復しました。


【十年~十三年五月(二)】
《百濟加羅安羅遣中部德率木刕今敦河內部阿斯比多》
十三年夏四月。
箭田珠勝大兄皇子薨。
五月戊辰朔乙亥。
百濟加羅安羅、
遣中部德率木刕今敦
河內部阿斯比多等奏曰
「高麗與新羅、
通和幷勢謀滅臣國與任那※)
故、謹求請救兵、先攻不意。
軍之多少、隨天皇勅。」
中部徳率木刕今敦…〈釈紀-秘訓〉中部德率木刕モクケフ今敷コムトム〔「敷」はトムであろう〕
河内部阿斯比多…〈釈紀-秘訓〉河内部カウチヘノ阿斯比多アシヒタ
十三年(ととせあまりみとせ)夏四月(うづき)。
箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおほえのみこ)薨(こうず、みまかる)。
五月(さつき)戊辰(つちのえたつ)を朔(つきたち)として乙亥(きのとゐ)〔八日〕。
百済(くたら)加羅(から)安羅(あら)、
[遣]中部徳率木刕(ちうほうとくそつもくけふ)今敦(こむとむ)
河内部阿斯比多(かふちべのあしひた)等(ら)をまだして奏(まを)して曰(まを)さく
「高麗(こま)与(と)新羅(しらき)と、
通(かよ)ひ和(あ)へて勢(いくさびと)を并(あは)せて臣(やつかれ)の国与(と)任那(みまな)とを滅(ほろぼ)さむと謀(はか)れり。
故(かれ)、謹(つつしみて)救(すくひ)の兵(つはもの)を求(もと)め請(ねが)ひて、先に不意(こころあらざる)うちに攻めむとす。
軍(いくさ)之(の)多少(おほきすこしき)は、天皇(すめらみこと)の勅(おほせこと)の隨(まにま)にめしたまへ。」とまをす。
詔曰
「今、百濟王安羅王加羅王與日本府臣等、
倶遣使奏狀、聞訖。
亦宜共任那幷心一力。
猶尚若茲、必蒙上天擁護之福、
亦頼可畏天皇之靈也。」
みたまのふゆ…[名] 神や天皇の加護。
詔(みことのり)曰(のたまへらく)
「今、百済王(くたらわう)安羅王(あらわう)加羅王(からわう)与(と)日本府(やまとのつかさ)の臣(おみ)等(たち)、
倶(ともに)使(つかひ)を遣(つかは)して状(ありさま)を奏(まを)せしこと、聞き訖(を)へり。
亦(また)宜(よろしく)任那(みまな)と共に心より一力(ひとつのちから)に并(あは)するべし。
猶尚(なほ)若(も)し茲(かく)あらば、必ず上天(かみつあま)の擁護之(まもりたまへる)福(さきはひ)を蒙(かがふ)りて、
亦(また)可畏(かしこむべき)天皇(すめらみこと)之(の)霊(みたまのふゆ)に頼(よ)るべし[也]。」とのたまへり。
《与任那》
 「臣国」は百済加羅安羅を指し、 書紀が「与任那※)」を付加したと見られる。 「任那」は加羅・安羅を包含する地域名だから、「臣国与任那」という言い方は論理的に成り立たない。
 その前の「百済加羅安羅」は使者を派遣した国名だから、 こちらには「任那」の文字を入れられなかったと思われる。
 詔の中の「与日本府臣」も不自然であるから、これも書紀による挿入であろう。 なお、「日本府」の語句が出てくるのは、書紀全体の中でここが最後である。
《謹求請救兵》
 「救兵」の要請は、九年四月に一旦停止していたが、十三年五月に再び要請に踏み切った。 この背景には、百済と新羅との蜜月が短期間で終わったことがある。 「任那」というから南部戦線で、「先攻不意」、すなわち先制攻撃をかけることを決意した。
 南部戦線であるから、倭に物資に留まらず人員を求めた。「軍之多少隨天皇勅」は言葉の彩で、実質的にはできるだけ多くを求めている。
 ところが、回答は「任那心一力」 すなわちひとまず任那と力を合わせて自力で戦い、それでもらちが明かなければ 「可畏天皇之霊〔天皇の恩頼(みたまのふゆ)に頼るべし〕 というものであった。
 「天皇のみたまのふゆを頼れ」という言葉が、将来の人員派遣を匂わせたと考えられなくもないが、 少なくとも当面の人員の派遣についてはゼロ回答である。 百済の落胆ぶりが目に浮かぶ。
《大意》
 十三年四月、 箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ)が薨じました。
 五月八日、 百済(くだら)、加羅(から)、安羅(あら)は、 中部徳率木刕(ちゅうほうとくそつもくきょう)、今敦(こんとん)、 河内部阿斯比多(かうちべのあしひた)等を遣わして奏上しました。
――「高麗と新羅は、 相通じ和し軍勢を合わせて臣の国と任那を滅そうと謀っています。 そこで謹んで救兵を要請し、先に不意うちしようと存じます。 軍の多少は、天皇(すめらみこと)の勅のままに。」
 それ対して、このように詔されました。
――「今、百済王、安羅王、加羅王と日本府(やまとのつかさ)の臣等、 そろって使者を遣わしての状況の奏上を、聞き終えた。 また、宜しく任那と共に力をひとつに合わせるべし。 もしもそれでもなお、かくあれば、必ず天の擁護する福を蒙り、 また可畏(かしこむべき)天皇(すめらみこと)の恩頼(みたまのふゆ)を頼るべし。」


まとめ
 百済が高句麗と戦う場合は比較的気軽に支援するようだが、新羅との対立が深まると、倭による支援は再び消極的になる。 やはり、百済と新羅が対立する間隙を縫って、加羅地域に倭が単独支配する「任那」を建国するのが倭の基本戦略であろう。
 百済は任那の再建に協力するとは言っているが、そうやって「任那」が作られたとしても百済の属国に過ぎないという認識があったと見られる。 これは、これまでも論じてきた通りである。
 十三年五月の時点でも、倭は依然として従来の基本方針を維持しているのである。



[19-13]  欽明天皇4