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2020.04.27(mon) [19-05] 欽明天皇5 ▼▲ |
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11目次 【四年】 《百濟紀臣奈率彌麻沙等罷之》
百済王と諸臣との会話の訓読に、尊敬語は用いないものも見る。 書紀に置いて倭の朝廷が上で、百済は下というのが絶対的な価値観だから、百済の君臣は横一線であるという感覚だと思われる。 しかし、百済王と臣との上下関係は事実として存在するわけだから、 百済の君臣のみ登場する場面では、「のたまふ」「まをす」を用いた方が明らかに読みやすくなる。 《郡令城主》 郡令・城主の訓読は悩ましい。 郡令は郡の長と見られるから、〈倭名類聚抄〉の「郡領」を用いれば「こほりのかみ」となる。 万葉集4136などの題詞の「郡司」には、「こほりのつかさ」という伝統訓がある。 「司」は、四等官(カミ、スケ、ジョウ、サカン)の総称であろう。 〈時代別上代〉によれば、雄略紀・天武紀には「「郡司」にコホリノミヤツコの古訓もある」という。 岩波文庫版、『仮名日本紀』はともに「こほりのつかさ」とする。 いずれも百済の役職名に和風の訓みをあてたものだから、学術的というよりは文学的である。 古代百済語の用語は不明であるから、このような場合は漢字のまま音読みするのが順当ということになる。 「城」につていは、「帯山城」は「〈釈紀〉帯山城【シトロモノサシ】」(顕宗三年是年)のように、城=サシである。 「主」については、新羅国王は「しらきのこきし」とも呼ばれる(第141回)。 コキシとは「国主」「国王」であるが、「主」だけでコキシであったかどうかはわからない。 上代語を機械的に当てはめれば「きのぬし」「きのかみ」となる。だが、中国の「城(じゃう)」は城郭都市を形成するから人の組織の意味になり得るが、上代語の城(キ)は稲城など、陣地の防壁という設備にすぎない。 よって上代語のキには、人の組織の長を意味するヌシ・カミ・ツカサはつかないだろう。 しかし、岩波文庫版は「きのつかさ」とルビを振る。 「さしのつかさ」(『仮名日本紀』)に至っては不確かな百済語と和語の混合で、自己満足でしかない。 これも呉音を用いて、「じやうす」とするのが妥当であろう。 《下韓》 〈前田本〉の「下哆唎(あるしたり)」(継体二十三年)は、確かに一定の根拠があると考えられる。 〈釈紀〉の「下韓カラクニ」の「アルシ」はそれによるものだろう。 「韓=カラ」は、上代語において加羅を拡張した語で、さらに唐(カラ)→中国→外国一般に意味が広がっていく。 このように一方は百済語〔とされる語〕、他方は倭語化した後の派生語という、 根拠のレベルの異なる語の合成であるから、受け入れられない。 上代語に揃えて「しもつから」などとすべきであろう。 さて、下韓がピンポイントの地名として存在したとは考えにくく、一定範囲の地域を指すのだろう。 倭が百済の国内の郡・城を要求することは考えられないから、少なくとも百済の領土の外である。 では、下韓は「任那」とはどう違うのだろうか。仮に「任那郡令城主」と書いてしまうと任那の全域を百済が掌握していたことになり、これは書紀の筆者には耐え難いことだから、 「任那地域のうち、百済が押さえている郡・城」と読み取るのが順当であろう。 ピンポイントでなければ、この地域にある郡令・城主をまとめて提供せよと言ったことになる。だとすれば無謀な要求であろう。 なお、倭国の地名につく「上・下」については、都に近い方が常に「上」であるが、韓地域では上下の定義は不明である。 「下哆唎(アルシタリ)」と「南加羅(アリシヒノカラ)」の下(アルシ)と南(アリシヒ)が類似するところを見ると、上下は南北なのかも知れない。 《宜附日本府》 「在二任那之下韓一百済郡令城主。宜レ附二日本府一。」 とは、現在百済国の支配下にある下韓地域を日本府に移せと要求する意味であるのは間違いない。 それを受けて百済王は、群臣とともに協議しを重ね、「在二下韓一之我郡令城主。不レ可レ出レ之」、つまり日本府には渡さないと意思統一した。 その上で「召二任那執事国々旱岐等一倶謀同計」とは、とりわけ「任那執事与日本府執事」を召してこの結論を納得させようということである。 百済が倭の要求を受け入れるのなら、直ちに倭の朝廷に使者を送って返事を伝えるであろう。 その前に任那執事・日本府執事が呼ばれたということは、それだけで要求が拒否されたことがわかるから、 なかなか行こうとしないのである。 《自当止退豈足云乎》 「自当止退豈足云乎」は一見しただけでは意味が取りにくいので、一字ずつ分析する。 「自」は副詞「おのづから」、「当」は助動詞「~べし」である。 「止退」が、V並列の「止而退」か、V-Oの関係「止レ退」〔=退くことを止める〕のどちらかは、ひとまず保留する。 後半の「豈足レ云乎」〔あにいふにたるや〕は反語表現で、意味は「言うまでもない」と同じだと思われる。 以上からこの部分の核心は、「止退」である。 「止退」とは何かというと、「新羅に通じて計ることをしない」である。 実は河内直らの行動は百済には嫌われたが、倭にとってはむしろ望ましいことであった。 任那国の建国を百済一国に頼りきっていては、仮に建国が成功しても任那国は百済の属国となってしまうだろう。 これは、決して倭が目指す任那国の姿ではない。周辺国の意向を排除した形で直轄国を建てるためには、百済・新羅を両天秤にかけて駆け引きするのが正解である。 それでも百済が「早建任那」〔すみやかに任那を建て〕、 さらにそれを倭にプレゼントしてくれるというなら話は別である。 もしそうしてくれるのなら、河内直の新羅への通計を止めて引き下げさせようというのである。 だから、「止退」は「止レ退」ではなく、「止而退」の方である。 《日本と倭》 国号「日本」の創始は天武朝の頃である。書紀は「日本」をヤマトの表記として、時代を遡って用いている。 本サイトは、書紀の文章自体の検討には「日本」、書紀を手掛かりにして歴史の実相を探る文脈では「倭」を用いている。 《大意》 四年夏四月、 百済の紀臣奈率弥麻沙(きのおみなそつみまさ)らは、帰国しました。 秋九月、 百済の聖明王(せいめいおう)は、 前部奈率真牟貴文(ぜんほうなそつしむむきもん)、 護徳己州己婁(ごとくこしゅころ)、 そして物部施徳麻奇牟(もののべのせとくまかむ)らを遣わし、 扶南(ふなん)の財物(たからもの)と奴婢二人を、来朝して献上しました。 冬十一月八日、 津守連を遣わし、百済に詔して 「任那の下韓(あるしから)に在する百済の郡令と城主は、 日本府(やまとのつかさ)に付せよ。」とつげ、 併せて持参した詔書により、宣しました。 ――「あなたが縷々抗表され、任那を建てるべきだといって、十余年になる。 表書でこのように奏上しても、未だになお達成しない。 また、任那は、あなたの国の棟梁をなし、 もし棟梁が折れれば、どうやって屋宇(立派な家)ができるか。 朕の思いはここにあり、あなたが速やかに〔任那国を〕建てることは必須である。 お前がもし速やかに任那を建てるというのなら、 河内直(かふちのあたい)たちは【河内直は、既に上文で見た。】 自ずから〔策動を〕止めて退くべきなのは、言うまでもない。」 この日、 聖明王、宣勅を聞き終え、 三人の佐平内頭(さへいないとう)と諸臣に対して一人ずつ順番に、 「詔勅はこのようであるが、どうやって返事すべきだろうか。」と問いました。 三人の佐平らは、 「下韓(あるしから)に在る我が郡令と城主は、出すべきではありません。 ただ〔任那〕国を建てる事は、速やかに聖勅をお聴きすべきでありましょう。」と答えました。 十二月、 百済の聖明王は、再び先日の詔を、遍く〔=すべての〕群臣に示して 「天皇の詔勅はこのようであるが、どのように返事したらよいものか。」と尋ねられ、 上佐平(そくさへい)沙宅己婁(さたくころ)、 中佐平(しそさへい)木刕麻那(もくきょうまな)、 下佐平(おとさへい)木尹貴(もくいんき)、 徳率(とくそつ)鼻利(びり)莫古(まくこ)、 徳率東城(とうじやう)道天(どうてん)、 徳率木刕(もくきょう)昧淳(べいじゅん)、 徳率国雖多(こくすいた)、 奈率燕比(えんひ)、 善那(ぜんな)らは、 〔十一月八日と〕一同論議を経て申し上げました。 ――「臣どもは、為人(ひととなり)愚暗にして、まったく智略はございませんが、 任那を建てよとの詔には、速やかに必ず勅を奉りましょう〔=天皇の言うことをききましょう〕。 今、任那の執事、国々の旱岐らを召し、 ともに同じように相談して、抗表として志を述べるべきです。 また河内直(かふちのあたい)、 移那斯(やなし)、 麻都(まつ)どもは、 なお安羅(あら)に住んでいるままでは、 任那を建てることは困難だと恐れます。 よって、また表書と併せて、それぞれ本拠地に移るよう求めましょう。」 聖明王は、 「群臣の議の結果は、まったく寡人〔=私〕の心に適うものである。」と言われました。 この月、 よって施徳高分(せとくこうぶん)を遣わして、任那の執事と日本府(やまとのつかさ)の執事を召させました。 ともに答は、 「正月元旦を過ぎたら出かけて、拝聴いたします。」でした。 まとめ 例によって任那を早期に建国せよとする日本の要求を、百済が畏まって受けるに仕立て上げられてはいる。 しかし、肝となる部分は倭が「下韓」地域の郡令・城主の譲渡を要求し、百済王はそれを拒否する意志を固めたことである。 さらには任那の早期建国の要求を逆手に取って、交換条件として河内直らの排除を要求するしたたかさを見せている。 さて、四年条では、百済の諸臣の名前が具体的に列記されているところが目を惹く。 これらの名前が創作されたことはまずあり得ないから、文書記録が残っていたということである。 だから、少なくともさきほど「肝」として挙げた部分は歴史的事実と見做してよいであろう。また、倭が百済に向けた文書に「任那」の語句が使われていたことも実際にあったと考えられる。 なお、交渉の過程を描く部分にかなり大量の字数があるのは、それだけ多くの文書が残っているからであろう。 このこと自体が、欽明朝において倭-百済間の緊密な交流があった証しと言える。 |
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2020.04.29(wed) [19-06] 欽明天皇6 ▼▲ |
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12目次 【五年正月~二月(一)】 《百濟國遣使召任那執事與日本府執事》
「奴」は呉音ヌ。漢音ド。音仮名ヌ・ノ甲・ド甲。欽明紀における百済・任那の人名の表記は、『百済本記』などの古文書によったものと推定される。 書紀の注記を見れば、すでに書紀の段階では古代百済における真の発音はほとんど不明だったのだろう。 〈釈紀〉の「秘訓」は当時の漢字の音読を用いたと想像される。ただ「上佐平」「南加羅」などの上・中・下・南の発音は、渡来人の子孫から得たのであろう。 だから、基本的に推定するしかないが、こと「斯那奴」はシナノ(信濃、科野)ではないかと思われる。 《紀臣奈率弥麻沙》 「紀臣」が「奈率」より前に出ていて、「物部」なども同様である。 百済の位階をもつから、倭からの移民は既に百済人に同化しているはずだが、相変わらず祖先の氏を冠し続けていることが興味深い。 《日本府任那執事》 「執事」は、は日本府の「卿」の下に仕え、また任那の「旱岐」の下に仕える役職を称すると見られる。 なお、「日本府卿」のほかに一か所だけ「日本大臣【謂在任那日本府之大臣也】」(五年十一月)が出てくる。 百済が目の敵にしている河内直も、日本府卿の一人と見られる。詳しくは五年三月条以後で検討する。 《大意》 五年春正月、 百済国(くだらのくに)は使者を遣わし、任那の執事と日本府(やまとのつかさ)の執事を召喚しました。 ともに答えは、 「神を祭る時がきたので、祭りが終わったら参ります。」でした。 同じ月、 百済は再び使者を遣わし、任那の執事と日本府の執事を召喚しました。 日本府と任那はともに執事を遣わさず、微者〔=下っ端の者〕を遣わしました。 これにより、百済は彼らとともに任那建国の策を議論することができませんでした。 二月、 百済は、 施徳(せとく)馬武(まむ)、 施徳高分屋(こうぶんおく)、 施徳斯那奴次酒(しなどししゅ)らを、 任那に遣わして、 日本府と任那旱岐(みまなのかんき)等(ら)とに言いました。 ――「私は、 紀臣奈率弥麻沙(きのおみなそつみまさ)、 奈率己連(なそつこれん)、 物部連奈率用奇多(もののべのむらじなそつようかた)を遣わして、 天皇(すめらみこと)に朝謁しました。 弥麻沙らは日本(やまと)から還り、持ち帰った詔書には、 『あなたたちは、かの日本府(やまとのつかさ)と共にある。 速やかに良き計略を建てて、朕の望に実現を助けなさい。 あなたは心して、他〔=河内直ら〕に欺かれないようにしなさい。』とありました。 また、津守連(つもりのむらじ)が日本(やまと)から到来し、 【百済本記には、津守連己麻奴跪(こまぬく)と云ふ。 しかし、言葉が訛って正しくないだろう。未詳。】 詔勅を宣して任那の政(まつりごと)を問われました。 よって、まさに日本府と任那の執事と共に、 任那の政を議定して天皇に奉奏しようと、 使者を遣わして召喚すること三度、 なお到来しませんでした。 これによって、 ともに策を議論し、任那の政を策定して天皇に奉奏することができませんでした。 今、津守連に留まることを要請し、別に急使を立てて、 つぶさに情状を天皇に奏上したいと思います。 まさに三月十日を以って、使者を日本に出発させます。 そしてこの使者が到れば、天皇は必ずあなたたちに問うでしょう。 あなたたち、日本府の卿(まえつきみ)、任那の旱岐(かんき)たちは、 おのおの使者を立てて、私からの使者とともに行って、 天皇の宣じた詔を拝聴しなさい。」 【五年正月~二月(二)】 《別謂河內直自昔迄今唯聞汝惡》
「遂使海西諸国官家不得長奉天皇之闕」は、 「之闕」さえなければ、 「遂使二海西諸国官家一不レ得三長奉二天皇一」 〔遂に海西諸国〔=南韓〕の官家をして、長く天皇を奉ることを得ざらしむ〕となって、完結する。 しかしまだ「之闕」が残っている。これが「不得長奉天皇」を受けるとすると、動詞が消滅して構文が破綻する。 なお、「闕」は「欠」と同意だが、ここでは「過ち」の意である。 唯一の解決策は「遂」を副詞〔=遂に〕ではなく、動詞〔=遂ぐ〕とすることである。 すると構文は「『使海西諸国官家不得長奉天皇』之闕を遂ぐ」となって文法的には完結する。 ただ、倭語の「遂(と)ぐ」には好ましい結果を導く語感があるので、訓読には工夫を要する。 《将士之粮我当須運》 施徳馬武らは日本府に向かって、「就二天皇一請二将士一」して、「将士之粮我当須運」〔将士の食糧は当然私が運ぶ〕と述べる。 五年十一月になると聖明王の言葉において、 「謹二請天皇三千兵士一」と具体的な数を挙げて援軍を要請し、 「所レ請二兵士一、吾給二衣粮一。」、即ち衣類食料は百済側が提供すると述べる。 これが、今回施徳馬武らが日本府に述べたことの具体化である。 恐らくは、の聖明王の言葉が文書記録として残っており、 施徳馬武の発言はそこから逆算して話を組み立てたものであろう。 《会聞印奇臣使於新羅》 「会聞印奇臣使於新羅」の部分だけを取り出すと理解が難しいので、前後の文脈から考える。 この文の前は、日本府が天皇に使者を送ったところ、津守連を百済に、印奇臣を新羅にそれぞれ送ったという返事を得た。 そこで、印奇臣に詳しい話を聴こうとして、その次の文で新羅に滞在している印奇臣のところに使者を送った。 したがって、この部分の意味は、"To meet Ika-omi and ask him it,we sent a messenger to Silla."である。 この意味を表すより完全な形としては、「遣欲」を頭につけて、 「遣ハス下欲スル三会ヒ二-而-聞カセント印奇臣ニ一使ヲ於新羅ニ上」などが考えられる。 しかし、主述構造(ここでは主語を欠く)「会聞印奇臣」をそのまま副詞節として用いても許容される。〔「~するために」の意となる〕 また名詞「使」をそのまま動詞化して用いる〔「遣使」の意味となる〕ことも許容される 〔漢辞海は「品詞の活用」と呼ぶ〕。 《津守連遂来過此》 「過レ此」は、「こをあやまちて」と訓むことができる。 百済は「在二下韓一之我郡令城主不レ可レ出レ之」〔下韓の軍令城主は出さない〕と言っているのに、 津守連は「将レ出下在二下韓一之百済郡令城主上」〔軍令城主を出すだろう〕と正反対のことを言っている。 勘違いか、もしくは意図的な嘘である。 もし嘘をついているのなら、日本府の怒りが自分に向くことを恐れたのであろう。 しかし、日本府は既に真実を知っている。なぜなら、自分たちが呼び出されたこと自体によって、倭側の要求が拒絶されたと判断できるからである。 だから日本府は自らの判断を示す言葉として「過レ此」を加えたのである。 ただ、日本府が津守連の言うままを信じたと読むことも、そんなに難しくはない。そのためには、「過此」を「ここにすぐす〔日本府に滞在して過ごす〕」と訓めばよい。 《大王》 「大王」は、任那旱岐が百済王を讃えて呼んだ言葉である。 万葉集で明らかなように、オホキミは、天皇の呼称でもある。 〈釈紀〉が大王を「キミ」と訓むのは百済王を天皇と同格に持ち上げてはならないからである。 しかし本稿は、この部分が加羅地域の人民の自然な感情を記した古代百済文書を引き継いだものと考えてオホキミを選んだ。 《覩茲忻喜難可具申》 ここに至って、任那旱岐らと日本府の温度差が露わになる。任那旱岐ら〔実際は加羅地域の小国の旱岐たち〕は、 百済がここに国を建てることは、 この地域の振興のために強力な援助を得られることだから、素直に喜んでいる。 一方日本側は軍令城主の提供を拒まれただけの結果となり、面子は丸つぶれである。 だが悔しがっているのは実は本国の朝廷だけであって、日本府はむしろ新羅寄りという独自のスタンスをとっているからあまり関係ない。 日本府は、百済と倭朝廷の双方から疎まれ、遠からず解体される運命にある。 《大意》 別に河内直(かふちのあたい) 【百済本記には、河内直移那斯(かふちのあたいやなし)麻都(まつ)と言う。 しかし、言葉が訛り未だそれが正しいか、詳かではない。】に言いました。 ――「昔より今まで、ただただお前は悪い聞く。お前の先祖たちは 【百済本記に言う。汝先〔お前の先祖〕那干陀甲背(なかんだこうはい)加猟直岐甲背(かりょうじききこうはい)。 また言う。那奇陀甲背(なかだこうはい)鷹奇岐弥(ようかきみ)。言葉の訛りは未詳。】、 ともに心姦(みだら)にして偽りの誘いを説き、為哥可君(しかかのきみ) 【百済本記に言う。為哥岐彌(しかのきみ)、名は有非岐(うひき)。】は 専らその言葉を真に受けて、国難を憂(うれ)えなかった。 私の心に背いて縦(ほしいまま)に暴虐し、そのために追放されるのが、お前を処置する理由である。 お前たちは任那に来て住むようになって、常に善くない事ばかりを行った。任那は日に日に損なわたことが、お前を処置する理由である。 お前は微者〔=取るに足らない存在〕だが、それでもなお小さな火が山野を焼き、村邑に連ねて延焼するが如きになろう。 お前が悪を行った故に、任那は敗れるだろう。 遂には、海の西の諸国〔南韓〕の官家(みやけ)に天皇を長く奉ることを得ずという過ちに至るだろう。 今天皇に遣はして、お前たちを移してその本拠に還すよう乞う旨を奏上させる。 お前もまた、行って聞け。」 また、日本府の卿(まえつきみ)、任那の旱岐(かんき)らにいいました。 ――「任那の国を建てるに、天皇の威を借りずして誰が建て得るだろうか。 そこで、私は天皇のところに行き、将士を要請して任那の国を助けようと願う。 将士の食粮は、私が必ず運ぶだろう。将士の数は若干だが、まだ決まっていない。 食糧をどこへ運ぶかは、自分では決め難い。 願いはひとつ、ともに可否を論じ、その最善を選択して従い、まさに天皇に奏上する。 よってしばしば使者に招集させたが、お前はなお参らず、議が開けない。」 日本府はこのように答えました。 ――「任那の執事を招集して赴かないのは、私〔日本府〕が遣わさないから行くことができないのです。 私は、使者を立てて天皇に奏上し、返った使者が受けた宣旨は、 『朕、まさに印奇臣(いかのおみ)【言葉は訛り、未詳】を以って新羅に遣わし、 津守連を以ちて百済に遣わすだろう。 お前は、勅をぎりぎりまで待ち、自分が労をとって新羅、百済に行くな。』、 勅の宣旨はこのようなものでした。 印奇臣に会って聞いてこさせるために新羅に使者を送り、 追いかけて天皇の宣旨を尋ねると、詔は 『日本の臣と任那の執事は、新羅に行って天皇の勅をお聴きするべし。』というものでした。 よって、百済に行って勅命を聴けとは言っておりません。 その後、津守連がやって来て、誤って 『今、余は百済に遣わされ、 まさに下韓(あるしから)にある百済の郡令城主を出そうとしている。』と申しましたが、 これだけの説明を聞いただけで、 任那と日本府とが百済に会して天皇の勅を聴けとは聞いておりません。 だから行かなかったのです。ただ、任那の気持ちはまた別です。」 一方、任那の旱岐らはこう言いました。 ――「使者がおいでになり召されたからには、参ろうと思います。 〔これまでは〕日本府の卿が派遣に同意しなかったので、〔私どもも〕行きませんでした。 大王(おおきみ)〔百済王〕が任那を建てられることは心に触れ、これを明らかに示されました。 ここに忻喜(きんき)を見るのは、つぶさに申し上げるのが難しいほどでございます。」 まとめ 五年条を中心として百済の立場を押し出す書きっぷりになっているのは、書紀が百済の古文書を下敷きにしたからだろう。 しばしば原注が百済本記を引用するのもその表れであろう。 「日本府」が百済の古資料でどう表記されていたかは興味深い。「旱岐・卿」がセットで使われているのを見ると「倭卿」ぐらいか。 さて、百済からの援軍要請に倭は応じたのだろうか。五年から以後しばらくは百済が倭に「乞救軍」したことばかりが目立ち、それに応えた行動が見えない。 はるか後の二十三年七月になって、やっと「大将軍紀男麻呂宿祢」が新羅に出撃して大勝利を得た記事がある。 詳しくはそこで検討するが、『新羅本紀』真興王の「二十三年秋七月。百済侵掠辺戸。王出師拒之殺獲一千余人。」が対応するようである。 また、同年「九月。加耶叛。王命異斯夫討之。」は、欽明天皇二十三年「一本云。廿一年任那滅焉」と繋がると思われる。 その「大将軍紀男麻呂宿祢」が率いた軍事力があれば、そもそも任那が滅亡する前に手が打てたはずで、 仮にそこでもし奪われたとしても、新羅に大勝利した後にすぐ任那を取り返して再興できたはずである。しかし、実際には倭は何もしていない。 結局、二十三年七月条が壮大なフィクションなのは確実である。書紀のこのようなあり様は、 四年~五年の時期の記述に真実が含まれていると信じて緻密に追っている本サイト主をひどく落胆させる。 しかしこれも、荒唐無稽な政治宣伝書と真摯な歴史研究書の複合という書紀の性格の現れとして捉え、気を取り直して読み進めることにする。 |
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2020.05.08(fri) [19-07] 欽明天皇7 ▼▲ |
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13目次 【五年三月(第一段)】 《百濟上表曰任那若滅臣國孤危》
五年三月に、百済は奈率阿乇得文らを倭国の朝廷に派遣し、上表文を提出した。 五年三月条の以下すべての部分は、その上表文の現物とされるものの内容である。 ここでは、便宜的に次の四段に区切る。 ・第一段では、四年十一月の天皇の詔書を受け取った百済が、日本府と任那の執事を呼び出すがなかなか応じない。 ・第二段は、その背景に新羅に通ずる移那斯・麻都の策動があり、その排除を三月に天皇に要請したが、色よい返事が得られなかったところまで。 ・第三段では、移那斯・麻都の虚妄の説明を信じる天皇に対して、彼らの悪辣さを訴える。 ・第四段は、新羅に通ずることをこのまま放置していては、任那地域全体が新羅に奪い取られるだろうと警告し、改めて移那斯・麻都の日本府からの追放を促す。 《至臣蕃奉詔書》 「奈率弥麻沙奈率己連等至臣蕃奉詔書」については、 二年の秋七月(2)に、 「百済遣二紀臣奈率弥麻沙中部奈率己連一」とあり、奈率弥麻沙・奈率己連が来朝した。 このとき天皇から受領して本国に持ち帰った勅書が「至臣蕃奉詔書」である。 したがって、訓読は「至二臣蕃一奉詔書」〔臣蕃〔の使者〕が〔朝廷に〕至りて承りし勅書〕となる。 そのすぐ下に、同じ字の並びの「至臣蕃奉勅書」がある。 これは、倭使「津守連等」が百済に遣わされたときに天皇から預かって持ってきたもので、四年十一月に「遣津守連詔百済曰」とあるのがそれである。 こちらは「至二臣蕃一奉勅書」〔〔朝使が〕臣蕃に至りて承りし勅書〕と訓読する。 なお「詔書」「勅書」が全く同じ語であるのは、明らかである。 漢文は簡潔だが、訓読の際にはそれぞれの異なる助詞を付けないと正しく意味が表せない。 これらの字の並びの簡潔さを見ると、漢文で書かれた百済の古文書が残っていた可能性が強く感じられる。 《承来勅》 「承二来勅一」は、「使者が持ってきた勅書を承る」意だとおもわれる。 ここでは「来」を「もたらされた」に意訳する。 《任那》 「任那1)」は、建国を目指す「任那国」のことである。以下、該当箇所を緑色で表示した。 「任那2)」については、安羅に読み替えた方意味が通る。以下、該当箇所を灰色で表示した。 《為欲共謀》 「為欲」は、各種辞書を見ても熟語としては取り上げられていないから、為+欲として別々に考えなければならない。 この「為」は「なす」(つくる、おもう)と「ために」が考えられるが、そのどちらだろうか。 〈中国哲学書電子化計画〉から検索すると、判りやすい例が『傷寒論』(後漢)にあった。 そこには「問曰:傷寒三日。脈浮数而微。病人身涼和者。何也。荅曰:此為欲解也。」とある。 この文は「大けがや病気では寒気がしたり、脈の変動がある。なぜか」と聞かれて、「此為欲解也」〔これは、治ろう〔=解〕とするためである〕と答えるものである。 この「為」は「~のため」である。 『白虎通徳論』(後漢、班固)には、「朋友相為レ隠者、人本接レ朋結レ友、為レ欲二立身揚名一也。」〔朋友が互いの罪を隠すのは、人はもともと朋友と触れ結び、身を立てて名を揚げるためである〕。 とある。前後の文脈から見て、この文は「友は互いの失敗を隠蔽し合うことが、双方の立身出世の益になる」意。この場合も「為」は「~のため」である。 さて、「為欲共謀」に戻ると、続けて日本府と任那が再三の招集に応じないとある。 つまり、「不敢停時=時を置かずに」招集したいと思っているのになかなか来ないのである。 招集の理由は「為欲共謀;ともに〔=共〕任那の建国を図る相談〔=謀〕をしたい〔=欲〕がため〔=為〕」だから、この場合も「為に」である。 なお、この構文は、動目構造「不二敢停一時」が主語〔敢て時を停めざること〕、「為」が動詞、動目構造「欲二共謀一」が目的語である。 《召日本府与任那》 「召二任那執事与日本府執事一」とあるように、 四年十二月から五年正月の間に、 計三回使者呼び出したが、二回目までは延期を求め、三回目は微使〔身分の低い者〕を遣わした。 《大意》 〔五年〕三月、 百済は、 奈率阿乇得文(なそつあとくとくもん)、 許勢奈率奇麻(こせのなそつかま)、 物部奈率歌非等(もののべのなそつかび)らを遣わして、 上表して申し上げました。 ――「奈率弥麻沙(なそつみまさ)、 奈率己連(なそつこれん)ら、 臣蕃(しんばん)〔=我らの国〕の使者が至り承った詔書に曰く、 『あなたたちは、 あの日本府(やまとのつかさ)と共にあって、共同で善き計略を図り、速やかに任那(みまな)を建てるべきである。 あなたはその際心を戒め、他に欺かれないようにせよ。』と言われました。 また、津守連(つもりのむらじ)らは 臣蕃に到着し、臣〔=私〕は勅書を承り、その中で任那を建てることを問われました。 謹んでもたらされた勅を承り、敢て時を停めなかったのは〔=急いだのは〕、共に策を建てたいがためでした。 そこで使者を遣わして 日本府(やまとのつかさ) 【百済本記は「烏胡跛臣(うこはおみ)を遣わせて召させる」という。 おそらくこれは、的臣(いくはのおみ)であろう。】 と任那(みまな)を召させたところ、 両者とも 『既に新年になるので、過ぎてから往くことを願います。』と言って、 しばらくしても来ませんでした。 重ねて使者を遣わして召させると、 ともに、 『既に祭の時になるので、過ぎてから往くことを願います。』と言って、 しばらくしても来ませんでした。 重ねて使者を遣わして召させました。 しかし、微者〔下っ端の者〕を派遣したので、一同で策を建てることができませんでした。 ただ、任那が赴かなかったのは、任那の意志ではありませんでした。 【五年三月(第二段)】 《是阿賢移那斯佐魯麻都》
「姦佞の所作とは、」と言って「夫任那者…」以下の内容を引き出す。 そしてこのように言う。「安羅は任那の兄、安羅は日本府を天とする」とは、 是阿賢移那斯・佐魯麻都が主導権を握った日本府の下に安羅があり、 さらにその下に任那はあるということであると。 このように、二人が任那の私物化を高言していることを、 「姦佞の所作」と言って非難するのである。 《日本府為天》 漢語の「天」は神のいる世界で、神に遣わされた地上の統治者を「天子」という。 だから、「日本府為天」の天は一般的な宗教的権威といってもよいのだが、 やはり本国の皇(すめら)の威光が「日本府」を通して及ぶ意を込めたと見るべきであろう。 その見方に従えば、ここの「天」の訓みはアメを用いてもよい。 原注者は、書紀原文の執筆者が『百済本記』の「日本府為本」を倭国朝廷の直接支配を強める方向に引っ張ったことに批判的であったとも考えられる。 《任那3)》 原注の対象は、「兄」「天」のみかも知れないし、文章全体かも知れない。 もし後者だとすると、『百済本記』は 「是阿賢移那斯・佐魯麻都姧佞之所作也、以安羅為父、以日本府為本。」 〔是阿賢移那斯・佐魯麻都の姧佞の所作は、安羅を以て父とし、日本府を以て本とす。〕 となって、「任那3)」は消滅する。 《的臣吉備臣河内直等咸従移那斯麻都》 本当は、「河内直移那斯」で一人の名前だったのかも知れない。 というのは、五年二月に、「河内直」だけが特別に津守連によって叱責されているからである。 ところが、三月条では「移那斯」が首謀者として扱われている。 両者の名前があるところは、他の場所では必ず「河内直移那斯」と続けて出てくる。 よって原形は「的臣・吉備臣等、咸従二移那斯麻都一」で、ここに河内直・移那斯を別人として見ている書紀が「河内直」の名がないのを見て、 誤って従属的な立場の方に挿入したように思われる。補うなら、「的臣・吉備臣等、咸従二河内直移那斯・麻都一」であろう。 四年から五年の全体を見れば、河内直は決して従属的な立場ではないからである。 原注者が二月条でいう「百済本記云。河内直移那斯麻都。而語訛未詳其正也。」の「語訛」とは、 名前は厳密には分離できないという意味であるように思われる。 だとすれば、日本府内では「卿」が上位、「執事」が下位であるが、その内訳は「卿:河内直移那斯・麻都。執事:的臣・吉備臣」だったと考えることができる。 第一段に「召日本府【百済本記云。遣レ召二烏胡跛臣一。蓋是的臣也。】」とあり、召された人物が四年十二月に「執事」と表現されていることもそれを裏付ける。 《勿遣》 「勿遣」は、「任那執事と日本府執事を、決して派遣しなかった」意。 《留己麻奴跪【蓋是津守連也】》 己麻奴跪(津守連)を足止めさせた経緯は、五年二月に詳しい。 それによれば施徳馬武・施徳高分屋・施徳斯那奴次酒を任那に派遣し、 日本府・任那旱岐らが招集に応じないことを問いただした。 その中で、津守連を足止めさせて、三月十日に疾使を送ってこのことを天皇の耳に入れる予定で、 そうなれば朝廷から必ず叱責の使者が送られるだろうと告げた。 疾使に「奉レ奏二天皇一」させた内容は、すなわちこれである。 次の「仮使…」以下は、その後に遣わされた「臣遣奈率弥彌麻沙奈率己連等」が持参した「上表」の内容である。 《迅如飛烏》 「飛ぶ鳥の如く」とは、疾使のスピードを喩えたものである。 だが、全体に簡潔な文体を用いている中で、ここだけ文学的な比喩があることには、違和感を覚える。 上表の原文、あるいは『百済本記』の段階で都を「飛鳥」と表現していことが、 このような形で残ったのかも知れない。元の形としては、たとえば「迅赴飛烏」などが想定し得る。 《海西諸国必不獲事》 「海西諸国必不獲事」の「海西諸国」は倭国から見た表現である。 だから「百済と加羅諸国も倭国に協力して任那が建つことを願ってはいるが、必ず失敗に終わるだろう」と読むのが順当であろう。 しかし、もう少し深堀りすると、〈汉典〉は名詞「事」にはさまざまなコトを表す使い方があることを示し、そのひとつに「又如:事宦(仕宦。事通二“仕”一)」を挙げる。 よって、ここでも「事=仕えること」と読むことが可能である。 その場合は、百済と加羅諸国は今のところは倭に仕えているが、 移那斯・麻都の振る舞いを放置するなら、考え直さなければならないと読める。 こんな読み方もあり得ることをちらつかせて、暗に脅しているのかも知れない。 《喜懼兼懐》 疾使のことは、五年二月にあった。そこいは三月十日に疾使を送る予定だとある。疾使は河内直を日本府から追放するように、天皇に上奏したが、答えは「若已建任那、移那斯麻都自然却退」 〔任那の建国が成れば、自然に退却する〕というもので、 四年十一月に津守連に言ったことから、変わっていない。 それどころか、「的臣等往来新羅方得耕種」〔的臣たちが新羅と交流したからこそ、(安羅の住民)の耕作が保証された〕と、 むしろ肯定的に捉えている。 百済使はこれを聞き「喜びと懼れが半ばする」と、疾使に回答を下さったことを喜び、恐れ多いことであると書く。 しかしこれは外交上の儀礼で、 むしろ「懼」という語のもともとの意味〔=恐れ〕を滲ませることによって、不満を表明したものと言える。 百済側の言い分によれば朝廷の言っていることは順番が逆で、先に河内直一派を追放しなければ、任那の建国は成し遂げられないのである。 その認識の甘さを知らしめるために、次に河内直一派の悪行を重ねて書き連ねる。 百済が河内直たちの追放を要求するのは、これで三回目である。 《大意》 阿賢移那斯(あけんやなし)・ 佐魯麻都(さろまつ)の 【二人の名は、すでに上文で見た。】 姦佞(かんねい)の所作〔見苦しく媚びへつらう行い〕は、 任那は安羅を兄として、ただその意に従い、 安羅の人は日本府を天として、ただその意に従うと称していることです。 【百済本記は、 「安羅を父とする」、「日本府を本とする」と言う。】 今、的臣(いくはのおみ)、 吉備臣(きびのおみ)、 河内直(かふちのあたい)らは、 皆移那斯・麻都に従っていましたが、 差し招かれたのみでした。 移那斯、麻都は 小家の微者(びしゃ)〔無名の氏族の小者〕といえども、 専ら日本府の政を欲しいままにしました。 また、任那を制して障害となり、使者を遣すこともしません。 その故に、集まって策を練り、天皇(すめらみこと)に回答を奏上することができません。 そこで、己麻奴跪(こまぬく)に帰国をお待ちいただき 【けだし、これは津守連(つもりのむらじ)のことであろう】、 別に急使を遣わし、飛ぶ烏の如く速く、天皇に〔以上の事情を〕上奏しました。 仮に二人が 【二人は、移那と麻都也を指す】 安羅にいて姦佞の振舞の多いままでは、 任那は建ち難く、海西の諸国は必ずしも事を得られません。 伏して願うは、この二人をそのもといた場所に帰し、 勅によって、日本府と任那を諭して任那を建てる策を図らせることです。 よって、私どもは奈率弥麻沙(なそつみまさ)、 奈率己連(なそつこれん)らを、〔帰朝される〕己麻奴跪に添えて遣わし、 上表して〔このように〕お尋ねしました。 その〔お答えいただいた〕詔(みことのり)にのたまわく。 ――『的臣(いくはのおみ)らが 【「ら」は、吉備弟君臣(きびのおときみのおみ)、河内直らをいう。】 新羅に往き来しているは、朕の意志ではない。 さきには、印支弥(いきみ)【未詳】 と阿鹵旱岐(あろかんき)の時代は、 新羅によって逼迫(ひっぱく)され、、耕作ができなかった。 百済からの道は遠く、危急への救援は不可能であった。 的臣らが新羅に往来しているが故に、まさに耕作できたと、朕はかつて聞いたことがある。 もし、任那が建ってしまえば、移那斯と麻都は自ずから退却するであろう。 これがわざわざ言うほどのことであろうか。』 このように仰り、 伏してこの詔を承り、喜びと畏れが心に重なりました。 【五年三月(第三段)】 《新羅誑朝知匪天勅》
移那斯・麻都は安羅の日本府の人だから、約束を破って新羅側の土地に侵入して、六月に追い払われた。 移那斯・麻都は自分たちのおかげで耕作地への新羅の侵入を防いでいるというが、 実際にはそんな立派な役割はおろか、勝手に境界を犯してトラブルを起こしただけである。 その後、うまいこと新羅に取り入ったようだが、それに至る経緯についてはここには書かれていない。 そもそも新羅による侵入逼迫など存在しないというのが、百済側の主張である。 新羅は、かつては安羅と荷山を襲おうとしたことがあったが、百済が臨機応変に鋭兵を送って救援し、 それ以来侵逼はなくなったという。 《百済路迥不能救急》 「百済路迥不能救急由的臣等往来新羅方得耕種」は「詔曰」の中にあった。 ここではその言葉を引用し、〔河内直などが〕天皇に「奏〔まを〕」しているらしいが、それは天皇を欺いているのだと指摘する文中にある。 《奈麻礼冠》 新羅の冠位については、『三国史記』新羅本紀巻一「儒理尼師今」九年に、
《栄班貴盛之例》 「入栄班貴盛之例」とは、故事成語「栄班貴盛」の例の一つに入る意味かと思われたが、 そこには辿り着けなかった。熟語「栄班」は、各種の辞書にも見えない。 「中国哲学書電子化計画」によって用例を調べると、「栄班」は全唐詩に三例(作者;銭起、張籍、元稹)あるが、いずれも8世紀後半の人で、書紀のときにはまだこれらの詩は存在しない。 これらの全唐詩の解釈は難しかったが、大まかに言って「班」は、人のグループの意と見られる。 「例」には同類のメンバーの意味があることから見て、ここでは、国を構成する氏族のひとつで、 貴族の一人として肩を並べる意味と見られる。 《具録聞訖》 「録」は「しるす」〔銅板に刻みつけることから転じて文字を書き記す〕と見られる。 なお「訖」は副詞で、完了の意を表す接尾辞である。 詔に反論するには軽々しいことは言えず、文書記録という確かな証拠が必要なのである。 《大意》 しかし、新羅は朝廷を欺き、天勅〔勅の美称〕に反することを知っております。 新羅は春に㖨淳〔=㖨国と卓淳国〕を奪い、 我が久礼山(くれむれ)の防衛を退け、遂にこれを手中に納めました。 安羅(あら)に近いところは安羅が耕作し、 久礼山に近いところは、斯羅が耕作し、 各自がこれを耕して、互いに侵し奪うことをしないとしました。 しかし移那斯・麻都は、 他との境界を越えて耕し、六月に逃げ去りました。 印支弥(いきみ)の後に来た許勢臣(こせのおみ)の時、 【百済本記には「我留印支弥(かるいきみ)の後、 既洒臣(こせのおみ)の時に至る。」とあるが、どちらも未詳。】 新羅は再び他との境界を侵逼することはなく、 安羅も新羅の侵逼のために耕作できないとは言いません。 臣がかって聞いたところでは、新羅は毎春秋に、 多数の兵甲を集めて、安羅と荷山(のむれ)とを襲おうとしました。 或いは、加羅を襲ったに違いないとも聞きます。当時、そのような書信を得ました。 〔百済は〕将士を派遣して任那を擁守させ、怠たらず息もつきませんでした。 頻繁に鋭兵を発たせ、時に応じて行って救援しました。 これによって、任那は順序に従って耕作し〔=季節毎の農作業を行い〕、新羅が敢て侵逼することはありません。 しかしながら、 「百済からの道は遠く、危急への救援は不可能であった。 的臣らが新羅に往来しているが故に、まさに耕作できた。」と申すのは、 この上に立って天朝を欺き、みだらな諂(へつらい)による転成〔=話の作り替え〕です。 このように尚天朝を欺いていることはあきらかです。 その他にも、必ず多くの虚妄がありましょう。 的臣たちがこのまま安羅に住んでいれば、 任那の国の建立は難しいことを恐れます。 宜しく、速やかに退去させていただくべしと申し上げます。 臣が深く恐れるのは、 佐魯麻都(さろまつ)は、 韓国(からくに)の人の腹(はら)から生まれましたが、位は大連に登り、 日本(やまと)の執事の間に混じり、栄える氏の貴盛の例に加わりました。 しかし、今は背いて新羅の奈麻(まな)の礼冠を着け、 身も心も他国〔=新羅〕に帰属していることは、容易に照らし出されます。 その所作を熟(つらつら)見るに、少しの怖畏もありません。 以上のように奏上する悪行は、聞こえたことを具(つぶさ)に記録されています。 今なお他国に服し付き、日に日に新羅の国内に赴き、 公私に往還(ゆきかえり)して、少しも憚ることはありません。 【五年三月(第四段)】 《㖨國之滅匪由他也》
典型的な反実仮想(第94回《如有不辱我者》)なので、「~ましか(ませ)ば~まし」の構文を用いてみる。〔「ませ」は「まし」の上代の未然形〕 ●「若使函跛旱岐不為内応」は、「使」(使役動詞)の構文なので、動詞「内応す」→否定「内応せず」→使役「内応せざらしむ」→未然形「内応せざらしめ」→助動詞と接続助詞をつけて「内応せざらしめませば」。 ●「未必亡」は、未然形「未だ必ずしも亡びざら」→助動詞をつけて「未だ必ずしも亡びざらまし」。 すなわち、若し[使]函跛旱岐をして内応せざらしめませば、㖨国少(すこし)きなれども、未だ必ずしも亡びざらまし[也]。 《由茲永滅》 㖨国と卓淳国の例を受けた言うことだから、 「任那由茲永滅」は、任那国も内部分裂していれば自滅してしまうぞという文のはずである。 しかし、実態としての任那"国"は、そもそも存在しないから、全く理屈の合わない文である。 しかし、もし上表文の原文が「安羅由茲近滅」となっていたものとすれば、きれいに意味が通る。 ここで事実上問題とされているのは、「安羅日本府」に所属する移那斯・麻都の新羅への内通だからである。 書紀〔もしくは既に『百済本記』の段階で〕は、その「安羅」を「任那」に直し、「永遠に滅びたままである」気持ちを込めて「近」を「永」に置き換えるという作為を加えたわけである。 訓読においては、「任那は永遠に滅びたままとなろう」という意を汲んで、未来完了がよいであろう。 そこで「ほろぶ」に完了+推量をつけて「ほろびてむ」などとするのがよいかと思われる。 《思欲朝之豈復得耶》 このまま百済が孤立すれば、滅ぼされて朝拝しようにもできないと訴える。 または、外交政策的に新羅と結ばざるを得なくなって朝貢国ではなくなるかも知れないと脅しているとも読める。 《大意》 さて、㖨の国(とくのくに)が滅た理由は、他でもありません。 㖨の国の函跛旱岐(かへかんき)は、 加羅の国に二心(ふたごころ)があり、新羅に内応し、 加羅は外から合戦に及び、この故に滅びました。 もし函跛旱岐に内応させなかったら、 㖨の国は小国ではありますが、未だ必ずしも亡びなかったでしょう。 卓淳(たくじゅん)に至っては、これもまた同然です。 仮に国主が新羅に内応して冦〔=外からの攻撃〕を招かなければ、 滅ぶに至ったでしょうか。 諸国の敗亡の禍(わざわい)を巡り観れば、皆二心をもち、内応した人がいた故です。 今、麻都どもは、腹の中では新羅に心を寄せ、 遂に服従し、往還は朝夕となり、陰にみだらな心を構えています。 すなわち、恐れるのは、任那もこのような様である故に、永遠に滅びてしまうことです。 任那がもし滅びてしまえば、臣の国〔=百済〕は孤立が危ぶまれます。 朝拝しようと願っても、あに再び朝拝できましょうか。 伏して天皇(すめらみこと)に、 玄鑑遠察(げんかんえんさつ)〔=聖なる鑑で遠くを察し〕、速やかに本の処に移し、任那を安泰されることを願います。」と上表をもって申し上げました。 【日本府】 日本府の主なメンバーは、上級の「卿」が河内直阿賢移那斯・佐魯麻都、 下級の「執事」が的臣・吉備弟君臣であろうと思われる。 実態としては安羅国内の官家(みやけ)、あるいは域内国で、 安羅国の本体に対しても一定の影響力があったと考えられる。 日本府は新羅と強い友好関係を保ち、加羅地域における新羅の拠点であった。 《国際政治の現実性》 安羅・加羅などの地域を自国の勢力圏に吸収したい百済としては、日本府は目の上のたんこぶである。 日本府は安羅の域内国に過ぎないが倭からの移民が中心で、本国との繋がりが深いので、百済がもし武力行使に踏みきれば倭との友好関係を損なうだろう。 さらには新羅が侵攻する口実まで与えてしまうから、得策ではない。 そこで、かねてから任那建国の願望をもつ倭に、 その協力を約すのと引き換えに日本府への圧力をかけてもらい、百済に付くように仕向けようと政治工作をするわけである。 倭は百済の協力姿勢を信じて、建国を現実化する第一歩として「郡令・城主」の譲渡をいざ求めてみると、それは拒否される。 ならば河内直をもう少し泳がせようかということになる。これが国際政治というものだろう。 この動きには現実的な説得力があり、 よって四年~五年で引用された勅書や上表文は、本当に存在したと見てよいのではないだろうか。 《任那の定義》 その交渉の中で、倭が「任那国」の名称を実際に使っていたことは確実であろう。 過去にこの名称に非常に拘っていたからこそ、それが書紀に反映したと思われるからである。 百済側も、倭大王への返書では「任那国」を用いたと思われる。 ただ、書紀においては、現在の地域名までもやたらに任那に置き換えたようだ。 その結果「任那と任那を建てる相談をする」という類いの、訳の分からない文章になったわけである。 これまで見てきたように任那は、①建国を目指していが未だ存在しない「任那国」、 ②安羅・加羅・多羅などの「総言」(資料32)〔地域名〕としての「任那」という二通りの意味で使われている。 ①は、倭大王・百済王の間で交換された書状において実際に使われていたと見る。 それに対して、②は原資料にあった安羅、加羅などの国名の部分を、 書紀が「任那」に置き換えたと思われる。これは加羅諸国全体が虚構の「任那国」として倭に仕えていたかの如く描く操作であろう。 しかし、その操作によって事象の起こった本来の場所の伝承を途絶えさせるという、残念な結果をもたらしたのである。 欽明四年~五年の勅書・上表については、「任那」を①②に選り分けて読むと、 非常に見通しがよくなる。 《日本府の原名称》 「日本府」の表記については、国号「日本」が天武朝以後なのは明らかだから、あったとしても「倭」の文字を用いたものである。 『百済本記』が「日本府」を使わなかった気配はない。 もし別の名称なら、多分原注に書かれただろう。 『百済記』の方は「百済から帰化した学識僧に報告書の形で書かせたもの」と推定した(応神天皇紀3)。 『百済本記』も同様で、天武朝のころ朝廷に阿(おもね)る書き方で書かれたものが献上されたと考えられる。 つまり、原資料(勅書・上表)→『百済本記』→書紀という、二段階の潤色があるわけである。 「日本府」、「総言としての任那」となったのは、既に『百済本記』からではないかと推定する〔後者は五年十一月のところで考察する〕。 欽明朝の時代の表記としては、前回考えた「倭卿」のほか、倭屯倉、倭邑なども考えられる。 あるいは本当に倭司、倭府と呼ばれていたのかも知れない。 まとめ この外交文書は長文で、さらに書紀による歪曲があちこちに見られる。 そして、前回までの内容と重複する箇所との対応も確かめなければならず、解読にはかなり骨が折れる。 それでも儀礼的表現や歪曲を洗い流して本質的な部分を残して見ると、当時の倭・百済の間の外交的な駆け引きがリアルに見えてきて、なかなか面白い。 結局書かれているのは、安羅国の一部を根城とする河内直らが新羅と結んだ動きを、百済はかなり鬱陶しく思っていることである。 その排除の為に倭の協力を得ようとして、交換条件として任那建国への協力を提示している。 だが、肝心の郡令・城主の提供には応じないから、その協力はリップサービスに留まる。 外交文書においては、表現として相手に対する最大限の敬意を払うのは一般的である※。 書紀は、外交上の形式表現に過ぎないものを、百済が倭国に従属しているが如く印象付けるために利用したものと言える。 ※…不用意なことを書くと、ささいな言葉尻を捕えられて戦争に発展する危険が常にあるからである。 |
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2020.05.14(thu) [19-08] 欽明天皇8 ▼▲ |
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14目次 【五年十月~十一月(一)】 《百濟使人奈率得文奈率奇麻等罷歸》
河内直らを遣わして、日本府から排除せよと強く求めたことに同意を得られなかった。 それが焦点だったから、『百済本記』がこれを記したことは当然である。 この肝心な部分が、書紀の本文からは省かれている。 《大意》 冬十月、 百済の使者、 奈率得文(なそつとくもん)、 奈率奇麻(なそつかま)らは、 帰国しました。 【百済本記にいう。 冬十月、 奈率得文、奈率奇麻らは日本(やまと)より帰り、 曰く。 「河内直(かふちのあたい)移那斯(やなし)、麻都(まつ)らを奏上したことへの返事は、勅にありませんでした」。】 【五年十月~十一月(二)】 《召日本府臣任那執事》
岩波文庫は、「曰はく」、 『仮名日本書紀』は、「みせていへらく」と訓み、いずれも尊敬表現を用ない。 書紀の立場では、百済王に敬語を用いないという判断はあり得る。 しかし、百済王は、加羅の旱岐たちと吉備臣を横に並ばせて勅を言い渡しているのだから、この場面における上下関係は明白である。 そして使者が百済王を「大王」と呼ぶのを見れば、使者たちと百済王との関係において尊敬表現を用いるのが、 日本語として自然であろう。 《遺朝天皇》 「遺朝天皇奈率得文許勢奈率奇麻物部奈率奇非等」は、使役動詞の構文とするなら語順が不適切である。 「奈率得文」以下の名前は、「遣」と「朝天皇」の間に置かねばならない。 そこで、「遺朝天皇」が形容詞節となって、「奈率得文…」への連体修飾語と位置づけてみる 〔天皇に朝拝せしめむために遣はされたところの奈率得文・許勢奈率奇麻・物部奈率奇非等は、〕。 そしてこの全体を「還自日本」の主語とすれば、文法的な問題はひとまず解決される。 《安羅下旱岐大不孫》
斯二岐国は、二年では多羅国の下(*)だったが、五年では加羅国の下(**)に移っている。 加羅の域内国〔自治州のようなもの〕と見られる国は「旱岐」が「君」に変わっていて、 斯二岐国も「君」である。すると「斯二岐国」が多羅に属するとした二年が、誤りかも知れない。 加羅の域内国の冠名は、旱岐から君に変わっている。 「旱岐」と「君」の違いについては、旱岐には本国の閣僚と肩を並べて政治参加するイメージ、 君には域内国を統治する王のイメージが感じられる。 安羅国の「次旱岐」と「下旱岐」との違いは不明である。 多羅国では人物が変わっており、冠名の「下旱岐」と「二首位」の違いも不明である。 「久嵯国」は二十三年条の「古嗟国」(【二年四月】)と発音が似る。 《欲冀》 熟語「欲冀」は辞書になく、その用例を「中国哲学書電子化計画」で探すと『太平広記』の二例のみであった。 ・石旻(出典『宣室志』〈唐〉)「欲冀瘳其久苦」〔長く病気で苦しみたい;文脈から見て本当にこの意味である〕 ・劉導(出典『窮怪録』)「欲冀少留、願垂顧眄」〔少し留まって周りを見てほしい〕 これらを見れば「欲冀」は、「欲す」+「冀(ねが)ふ」の類義熟語と見ればよいだろう。 冀~を欲の目的語とすると、「欲レ冀」=「~をねがはむとす」、「~とねがふことをほりす」という奇妙な言い回しになり、 「欲冀=ねがふ」と訓んだ方がよいのは明らかである。 《大意》 十一月、 百済は使者を遣わして、日本府(やまとのつかさ)の臣、任那の執事を召させて、 「天皇(すめらみこと)朝拝するために遣わした、 奈率得文(なそつともん)、 許勢奈率奇麻(こせのなそつかま)、 物部奈率奇非(もののべのなそつかび)らは、 日本(やまと)より還った。 今、日本府の臣及び任那国の執事は、 勅(みことのり)を来聴し、任那のことを一同で議るべし。」と伝え、 日本の吉備臣(きびのおみ)、 安羅(あら)の下旱岐(あるしかんき)大不孫(だいふそん)、 久取柔利(くじゅとり)、 加羅(から)の上首位(おこししゅい)古殿奚(こでんけい)、 卒麻君(そつまのきし)、 斯二岐君(しにきのきし)、 散半奚君(さんはんけいのきし)の子、 多羅(たら)の二首位(にしゅい)訖乾智(こつけんち)、 子他(こた)の旱岐(かんき)、 久嵯(くさ)の旱岐が、 よって百済に赴きました。 そこで、百済王の聖明は、詔書の大略を示して仰りました。 ――「私は、奈率弥麻佐(なそつみまさ)、 奈率己連(なそつこれん)、 奈率用奇多(なそつようかた)らを遣わし、 日本に朝拝させたところ、 詔に『速やかに任那を建てよ』とおっしゃった。 また、津守連(つもりのむらじ)が遣わされ、奉った勅で『任那を成そうとするかを聞く』と言われた。 よって、召喚した。 再びどうやって任那を建て得るか、 各々策を開陳していただくことを願う。」 吉備臣、任那の旱岐らは、 「任那の国を建てることは、ただ大王にあります。 王に従い共に進めて、勅を聴こう〔=受け入れよう〕と望みます。」と申し上げました。 【五年十月~十一月(三)】 《聖明王謂》
属国〔と百済が見做している国〕の上級官吏を一堂に集めて本国の王がいう言葉だから、これも「詔」・「勅」と言い得るだろう。 しかし書紀は、百済を日本(やまと)の属国とする立場だから、詔勅を発するのは天皇のみである。 よって百済王の言葉には「詔」ではなく「謂」を用いている。高句麗を中国の冊封国とする立場で書かれた『三国史記』では、詔を発するのは中国皇帝のみである。 これは歴史的な用語法として定着していると見るべきだから、本サイトもこれに従うことにする。 《任那之国》 五年十一月の百済王の言葉にも、原資料に手を加えて「任那」に置き換えたと考え得る箇所がある。 ●「任那之国1)」については、かつて存在した任那国〔五世紀ごろ、神功皇后紀4【三韓地域の国々】〕と位置付けることができる。 これだけは、倭との関係がどの程度であったかは別にして、現実的な根拠をもっている。 ●「任那2)」は、百済に近い側ではないかと考えられる。 安羅は新羅に近い側であるから、この「任那」は加羅、多羅、あるいは神功皇后記の「比自㶱」か。「比自㶱」は欽明紀では消えているから、百済がここを併合して軍令・城主を置いた可能性も考えられる。 ●「任那3)」は、日本府があったところだから、安羅であろう。 ●「日本臣任那旱岐4)」は、原資料においては次の段にある「吉備臣旱岐」だったかも知れない。 《印岐弥》 印岐弥の振舞は、謎めいている。 その実相に迫るために、まずこの名前が出てくるすべての個所を拾う。 ① 五年三月:「印支弥与阿鹵旱岐在時、為新羅所逼而不得耕種。」 ② 五年三月:「移那斯麻都過耕他界、六月逃去。於印支弥後来許勢臣時、新羅無復侵逼他境。」 ③ 五年十一月:「日本府印岐弥既討新羅、更将伐我、又楽聴新羅虚誕謾語也。」 ④ 五年十一月:「遣印支弥於任那者、本非侵害其国」 ③の「印岐弥」は「印支弥」と同一人物と見てよいであろう。 ②は、印支弥が日本府のリーダーだったときに、移那斯・麻都が新羅との境界を犯すことがあり、 許勢臣の代になると新羅と国境争いはなくなったと読める。 すると、③の「印岐弥既討新羅」は、移那斯・麻都の侵犯は印支弥の主導で行われたとの解釈が成り立つ。 つまりかつては新羅に侵略されていた(①)が、②で反撃に転じたということであろう。 その後印支弥は一転して、移那斯・麻都を伴い新羅につき、遂に「楽二-聴新羅虚誕謾語一」するに至った。 ④の意味不明さには頭を抱える。誰が遣わすのだろうか。印支弥は現在どこに居るのか。「其国」とはどの国か。 「任那」に「遣」すという以上は、現在は任那地域に住んでいない。「虚誕謾語」を楽(この)み聴くというから、恐らくは新羅にいるのであろう。 すると「遣」の主語は新羅である。 四年条以後で考察した通り、地域名「任那」は、本来は加羅・安羅・多羅などの国名であった。ここも同様で、 「其国」がその国であろう。 しかし「其国」として「安羅」だけは考えられない。「吉備臣河内直移那斯麻都」を安羅から本邑に戻せと言いながら、新たに印支弥という爆弾を投下して「本非侵害其国」ということはあり得ないからである。 ならば、加羅あるいは多羅などということになる〔仮にⅩ羅とする〕。 すると「本非三侵二-害其国一」は、Ⅹ羅なら新羅への耐性があり、印支弥によってかき乱される心配はないと読むことができる。 即ち、「印支弥はかつて日本府を率いて新羅と戦ったこともあるが、そのは後新羅に与している。 仮にⅩ羅に派遣されたとしても、Ⅹ羅なら新羅に攪乱されることもないから心配しなくてよい。」と読んでみると、 筋書きは一応成り立つ。 《其国【未詳】》 上記の④は原資料では「遣印支弥於Ⅹ羅者、本非侵害其国」だったのだろう。 この「Ⅹ羅」が任那に置き換えられたから、「其国【未詳】」となってしまったと思われる。 《大江水》 普通名詞としては、例えば2000年前後の水管理対策の文脈の中で、漢江・洛東江・錦江・栄山江を「4大江」と称する例が見られる〔第8回環境総合研究センター公開研究会(2006年11月8日)資料;李秀澈〕。 さらに<zh.wikipedia.org>〔ウィキペディア中国語版〕には「栄山江与洛東江、漢江和錦江是韓国“四大江治理工程”的“四大江”之一」とある。 継体天皇二十三年((四)《四村之所掠》)で、慶尚南道で倭系古墳が散在する地域を任那(加羅諸国)地域と見た。すると、新羅との境の「大江水」は、洛東江であるように思われる。 「北敵強大」とあるところを見ると、洛東川の南岸のどこかに安羅国があっただろうということになる。 《剋済多難殲撲強敵》 「剋済多難殲撲強敵」の「剋済」は熟語と見られるが辞書にはなく、「中国哲学書電子化計画」に一例だけ見つかった。 ――『後漢書』列伝「朱雋」(しゅしゅん)に、「以三-為自非二明哲雄霸之士一。曷能剋二-済禍乱一」 〔以為(おもへらく)、自ら明哲雄霸の士に非ず。曷(いかに)能(よく)禍乱を剋済するか〕。 この例からみて、剋済の意味は「剋:克服」+「済:救済」と見てよいだろう。 また「殲撲」は、「殲滅」+「打撲」と見られる。 「剋済多難殲撲強敵」の意味が「強敵を殲撲して剋済することは多難である」であることは確実だが、文法的な組み立てが難しい。 ひとまず、「剋済」を切り離して前の「唯庶」にくっつけ、「唯(ただ)、庶(もろもろのこと)の剋済において、強敵を殲撲することは多難である」と整理しておく。 《此四人各遣還其本邑》 「此四人」は、「吉備臣河内直移那斯麻都」を指すから、書紀は河内直・移那斯を二人に分けている。 「各」がつくから、基本的に出身地は異なる。その中には「韓腹」の麻都も含まれている(五年三月)。 おそらく、氏族もばらばらで野心をもつ連中が安羅に集まって成立したのが「日本府」で、 百済はその存在を新羅と結んで蠢動する獅子身中の虫と見ている。 よって、安羅・新羅の国境に防御ラインを設ければ、その連絡経路は断ち切られる。 六城の修復に必要な戦力を倭に提供させるのは、軍事力の不足を補い、同時に河内直らに自分たちの排除は倭本国の意志であることを思い知らせようという、 一石二鳥を狙ってのことである。 《同奏天皇乞聴恩詔》 「同奏二天皇一」とは、「同」:日本府と任那からの使者が雁首を揃えて、「奏」:百済王の提示した三策を天皇に伝えよということである。 そして「乞二聴恩詔一」は「聴」:天皇が上奏をお聞きいれになり、「恩詔」:色よい返事をいただくことを「乞」:お願いせよと述べる。 つまり、「同奏天皇乞聴恩詔」は、「一同で百済王の三策を奏上し、天皇にそれをお聴き入れいただき、恩詔をいただいて参れ」を僅か八文字で表した文である。 《大意》 聖明王はこのように仰りました。 ――「任那の国と吾が百済は、 古(いにしえ)からずっと、子弟となることを約束してきた。 今、日本府(やまとのつかさ)の印岐弥(いきみ) 【任那にいた日本(やまと)の臣(おみ)の名を言う】、 既に新羅(しらき)を討伐し、更に我が百済を討伐しようとしていて、 また、新羅の虚誕謾語〔=虚言〕を好んで聴く。 その印支弥を任那に遣わしたところで、 もとよりその国【未詳】を侵害するものではない。 古(いにしえ)より今まで新羅は無道で、食言し信を違えて卓淳(たくじゅん)を滅ぼした。 股肱の国は、快さを欲して却って悔いた。 そこで招集して来ていただいたところで、共に恩詔〔=天皇の詔を貴んでいう〕を受け賜わり、 任那を継ぐ国を興して、なお旧日の如く永く兄弟となることを願う。 密かに聞くところでは、 新羅(しらき)、安羅(あら)両国の境に大江水(だいこうすい、おおえのかわ)が有り、 要害の地である。 私はここに拠点として六城を修繕しようと考え、 謹んで天皇(すめらみこと)に兵士三千人をを要請する。 城毎に五百人を充(あ)て、 私の兵士と併せて作田できないようにして、悩ましさが逼迫すれば、 久礼山の五城の諸々は自ずから武器を捨て降伏するだろう。 卓淳(たくじゅん)の国もまた、復興するに違いない。 要請した兵士には、私から衣糧を給する。 これが天皇に上奏しようとする第一の策である。 なお〔依然として我々が〕南韓(あるしから)に郡令・城主を置くが、 豈(あに)天皇に違背し、貢調の道の遮断を意図することがあろうか。 ただ、諸々の克済〔解決〕には、強敵の殲撲(せんぼく)〔打撃を与えて殲滅する〕に多くの困難がある。 凡そ、凶党というものは、誰が策を立てずに従わせることができるものか。 北の敵は強大で、我が国は微弱である。 もし南韓に郡領城主を置いて、修理防護させなければ、 このような強敵の防御はできず、 新羅を制することはできない。 よってなおこれを置いて新羅を攻逼〔=攻撃〕し、任那を撫し維持する。 もしそうしなかったときに恐れるのは、滅亡させられてしまい、朝聘〔日本に招かれて朝拝すること〕も不可能になることである。 これが天皇に上奏しようとする第二の策である。 また、吉備臣(きびのおみ)、 河内直(かわちのあたい)、移那斯(やなし) 麻都(まつ)が なお任那の国にあれば、 天皇が任那の建成を詔しても、得られない。 この四人を移し、各々その本の邑(むら)に帰すことをお願いする。 これが天皇に上奏する第三の策である。 宜しく日本の臣と任那の旱岐らと共に使者を遣わして、 一同天皇に奏上してお聴きいただき、恩詔していただくことを願うようにされよ。」 【五年十月~十一月(四)】 《吉備臣旱岐等曰》
他の箇所に倣えば、この「吉備臣旱岐」も「日本臣任那旱岐」と書くべきところであろう。 原資料にあった吉備臣などの個人名については、おそらく『百済本記』の段階で可能な限り「日本府」に置き換えていったが、 あと少しのところで見落とされた印象を受ける。 《日本大臣》 中央政権の現在の「大臣(おほまへつきみ)」は、蘇我稲目宿祢である(欽明天皇4)。 「おほまへつきみ」は「大-前つ君」で、天皇の御前に仕える官僚の最上位である。 ここでは安羅王・加羅王と並べられているから、日本府の最高位の者であろう。 しかし天皇の御前ではないから、「おほ-おみ」と訓むことになる。 それでは、「日本大臣」は誰か。五年三月(第二段)では上位の「卿」が河内直(・)移那斯・麻都だと見た。 百済王の言葉は、日本府のトップは昔は印支弥、後に許勢臣と読めるので、これが「日本大臣」ということか。 なお、表記が「日本府大臣」でないところが注目される。 原資料は、安羅国の官家に住んでいた貴人のことを「倭大臣」と書いていたのではないかと想像される。 《此誠千載一会之期》 載は「万進」の場合、1044に相当する。 よって「千載一会」は、1047回にしてようやく一度あるほど出会うという意味で、 極めて希なことを大袈裟に表現したものである。 ただ、千年に一回「戴く」という解釈もあり、数値としてはこの方がやや現実的である。 「千載一会」は普通は幸運な出来事に使う言葉だが、ここでは「滅多にないことで驚いている」ことを匂わせている。 百済が提案した三策には、同意できなかっただろう。 このことは、この会合に漕ぎつけるまでに、度重なる呼び出しに応じなかったことからも明らかである。 《可不深思而熟計歟》 「可不深思」の訓読は「深く考へざるべし」だが、この訓読文を現代の感覚で読むと意味が逆になってしまう。 しかし漢字の「可」は基本的に「可能」、あるいは「あり得る」の意味で、ここでは「~かも知れない」であろう。 つまり、「まだ深く考えきれていないかも知れないから」と言ってぼかしているのである。 そもそも古語における「べし」は、推量・意志であるから、この訓読文のままでも推量として読むことができる。 その上で、「熟計」〔本国に持ち帰ってよく相談する〕というのは、百済王の提案は簡単には同意できないことを示している。 《大意》 それに答えて、吉備の臣と旱岐(かんき)らは申し上げました。 ――「大王(おおきみ)の述べられた三策は、また愚情〔=私どもの気持ち〕にたしかに適(かな)いました。 今願はくば、帰って日本大臣(やまとのおおみ) 【任那の日本府ににいた大臣を言う】、 安羅王、 加羅王に敬諮〔=謹んで相談〕して、 共に使者を遣わして一同で天皇に奏上いたします。 願わくば、これは誠に千載一会(せんざいいちかい)のことであり、 十分考えが深まっていないと思われ、よって熟計させてください。」 まとめ 百済王の示した第一策は、安羅と新羅を切り離すために防衛線を築くから、そのために倭も出兵せよという。 これを受け入れるか否かは、倭が日本府に新羅と本気で絶縁させる意思があるかどうかを判断する試金石となろう。 第二策では倭が求める南韓の郡令・城主の提供を拒否し、百済が押さえ続ける。北からの新羅の攻撃に備えるのは百済しかできないと言って譲らない。 郡令・城主を日本府に渡すのは、現状では南韓の地を新羅に譲り渡すに等しいからであろう。 結局のところ、百済は安羅・加羅・多羅などの地域が新羅の手に渡ることに極度に神経質になっており、その防御のために倭を自分の側に引き入れようとしているのである。 その殺し文句が、もし貴国の協力が得られなければ、貴国の望む任那国の再建など覚束ないという言葉である。これは、倭国の願望を逆手に取った脅しである。 ただ、その一方で社交辞令も忘れない。 冒頭で、昔存在した任那国と百済とは子弟の関係であった。今日集まってもらったのは、任那国の再建策を協議するためであると、建前を述べる。 この百済による外交攻勢に対して、日本府側は即答できないまま回答を引き延ばした。 倭としては、百済王の三策をてことして、むしろ要請された以上の軍勢を送り、勢いのままに郡令・城主を助ける名目で南韓まで戦線を広げて実質的に全体を自分の勢力下に置くこともできたようにも思われる。 何故そうしなかったかは興味深い問題だが、その検討は別の機会に譲る。 百済は自国の利を最優先し、倭からの要求は拒絶して上から目線で強気な要求をするばかりで、これほど屈辱的なことをよくも書紀が載せたものだと思う。 まさか社交辞令と脅しの言葉のみをもって、百済が倭に仕えて任那の再建に尽くす印象を与えようとしたとも思えないのだが。 ただ、倭にとっては恥ずかしいことを載せてくれたお陰で、百済王の言葉や上表文が外交文書の実物に近いと判断できるのである。 ただ書紀はまた、これまでも見て来たように加羅・安羅・多羅地域を「任那」と書く作為を加えた〔恐らく『百済本記』段階からの潤色〕。 欽明天皇6のまとめでは、書紀「廿一年任那滅焉」に、『新羅本紀』真興王二十三年「九月。加耶叛。王命異斯夫討之。」が対応することを見た。 このように、加羅諸国地域のことを書紀が「任那」と称するのは、既に全体が任那国で、また倭に従属していたが如き印象を醸成するためであろう。 しかし、その「任那」の存在が真実なら、改めて「任那国」を建国する必要はなくなり、 この潤色は矛盾をはらんでいる。 |
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⇒ [19-02] 欽明天皇9 |