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2020.04.10(fri) [19-01] 欽明天皇1 ▼▲ |
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1目次 【即位前(一)】 天國排開廣庭天皇、男大迹天皇嫡子也。……〔続き〕 2目次 【即位前(二)】 《夢有人云天皇寵愛秦大津父者》
曰・云・言・謂〔古事記では白・詔も〕の目的語には一応「」をつけて、直接話法として読み取る。 しかし"有人云「天皇…」"においては、天皇が即位する前に見た夢であるから、登場人物が天国排開広庭皇子に向かって「天皇」と呼ぶのは、直接話法としては理屈に合わない。 実際には間接話法が紛れ込んでいるわけである。 天皇が一人称において「朕~し給ふ」という、いわゆる「自敬表現」についても、 直接話法と間接話法が峻別されないことによる現象だと位置づけると理解しやすい。 引用符「」は現代人が便宜的につけた符号に過ぎず、古文においては境界は曖昧なのである。 《汝是貴神而楽麤行》 是貴神には動詞がないように見えるが、「是」は魏晋南北朝時代以後に繋辞〔=is〕としても使われるようになる。 「神」には形容詞(奇(くす)し)もあるが、「貴神」には当てはまらない。 「楽」には「楽しむ、好む」以外の意味はない。「麤行」は「粗雑な行い」である。 それでは麤行を楽しんでいる「神」とは誰のことだろうか。 その問いには①狼、②大津父、③天つ神の三通りの答えが考えられる。 書紀では「而」を逆接に使う事が多いことも、念頭に置いて検討する。 ①だとすると、「狼」の語源が「大神」であるのは確かだが、流血の格闘は遊びの域を超えている。 だが、『仮名日本紀』と岩波文庫版はこれを採用し、「汝是貴神~」は神に「祈請」して答えて戴いた御託宣ではなく、大津父が神である狼に向かって言った言葉そのものが「祈請」 だと読む。しかし、「汝」は目下への二人称代名詞である。 「お前たちは、貴い神であるのに荒っぽいことをしている」と、叱りつける言葉を「祈請」と表現することは理解しがたい。 ②だとすると、 大津父に向かって「汝は貴い神であるのに、麤行を楽しんでいるとはどういうことだ。すぐ猟師に捕まってしまうぞ」と警告している。 所詮は御託宣だから、「汝は貴い神である」という夢想から始まるのもありかも知れない。 ③だとすると、「貴き神が狼を闘わせるという荒っぽい遊びをして楽しんでいる」を客観事象として述べる。 そして、このままでは二匹ともすぐ猟師に仕留められてしまうが、 それを見ているお前はどうするんだと行動を問う。貴神が「楽二麤行一」とは、大津父がどうするのか、その反応まで含めて楽しんでいるとも読める。 試された大津父は、その慈愛に満ちた行動が神に認められて、結果的に大蔵省の錄の座を得る(元年八月)。 したがって、狼の格闘を見た大津父が、これは何でございましょうかと神にお伺いをたて、神は御託宣において謎かけをしたとするのが、一番納得がいく読み方である。 神が御託宣する方法としては、大津父本人に憑依すればよいだろう。 《秦氏と大蔵省》 即位したら秦大津父を大蔵省の要職につけるという約束は、元年八月になって実現する。 秦氏が大蔵省を任されるに至る経緯についての伝説は、他に雄略朝に見える。 それは、雄略天皇十五年や、姓氏録(第152回)、 古語拾遺(資料[25])においてである。 《大意》 天皇(すめらみこと)が幼い時、夢にある人が出てきて申し上げました。 「御子が秦大津父(はたのおおつち)を寵愛なされば、 壮年に及び、必ず天下を知ろしめられます。」 天皇は目覚めて驚き、 使者を遣わして遍(あまね)く探求させますと、 山背国の紀郡深草里から見つけ出され、 姓名は、果たして夢で見た通りでした。 そこで、天皇は忻喜(きんき)が全身に溢れ、未曽有の夢に感嘆され、 このことを告げ、 「お前に、何事があったのか。」とお尋ねになりました。 お答え申し上げるに、 「これと言ってございません。 ただ、私めが伊勢に向かい商売に来て帰るとき、山で二匹の狼が相闘い血で汚れているところに逢いました。 そこで下馬して口と手を洗い漱(すす)ぎ、 祈請していただいたお告げは 『お前、これは貴い神が粗行して〔お前がどう反応するかを見て〕楽しんでいるのだ。もし猟師に逢えば、瞬く間に捕らえられよう。』でした。 私めはすぐに相闘うことを抑止し、血のついた毛を拭い清め、 遂に二匹を離させて、共に命を全うさせたということがございました。」と申し上げました。 天皇の仰るに、 「必ずこれに報いよう。 すなわち、近侍せしめて優寵を日ごとに新たにして、大いなる饒富をいたそう。 践祚に至れば、大蔵の省(つかさ)に就かせよう。」と仰りました。 3目次 【即位前(三)】 《武小廣國押盾天皇崩》
詎は、ここでは副詞の位置にある。 〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉「詎:1副詞。①表示反問。②表示否定、相当於「無」「非」「不」。 ③相当於「曽経」〔=かつて。(古訓)むかし〕。 2介詞〔=前置詞〕。至;到。3連詞〔=接続詞〕。①表示仮設。②表示選択、相当「…還是…」。」 この文脈で「山海」は唐突である。特別な意味があるかも知れないので調べてみる。 〈汉典〉「山海:山与海。喩二-指荒遠偏僻之処一。」 指二山珍海味一。比喩二高深、繁多或重大一。 各種の辞書の説明を合わせると、詎は拒むの手偏を言偏にしたもので、「言葉を用いて拒む」から原義が生じたと理解してよいと思われる。 「拒む」から無・非・不のような否定語になり、 「たとえ拒まれても~」からは反問になり、「たとえ拒まれてもこれだけは~」からは譲歩〔少なくとも~〕、 あるいは強調〔絶対に~〕になる。 以上により、「妾蒙恩寵山海詎同」は、「私が蒙った恩寵はいやしくも山と同じくらい高く、海と同じくらい深い」という意味であったことが定まる。 《山田皇后》 春日山田皇后は、仁賢天皇の皇女で母は和邇日爪臣の女の糠君娘であった (第226回)。 安閑天皇の皇后として、御名代として春日部を各地の屯倉に置いた。 そして、この欽明即位前紀においては欽明天皇の信頼は厚く、摂政のような立場で「就而決」を要請されたが、辞退する。 そのまま読み進めると、山田皇后が皇太后に進号したと読める (即天皇位)。 ところが、安閑崩のところでは、「皇后春日山田皇女」のままで安閑天皇陵に合葬されたと記されている。 これらには相反する春日山田皇后像が描かれているように見える問題について、即天皇位のところで論じた。 春日皇后は無子だったから、欽明天皇を我が子のように可愛がっていたと読むことはもちろん可能である。 しかし、欽明天皇は生まれながらに真正の皇太子であり、その母手白香皇后には特別の地位が与えられていた。 結果的に欽明天皇は長年にわたって安定的に皇位を保持したことを見ると、手白香皇后は欽明帝の即位に向けて、政治的な手腕を発揮したと思われる。 欽明天皇は自らの即位にあたり、引き続き母の助力を望んだことは十分に考えられる。 だから、この段は実際には手白香皇后の話を、山田皇后に仮託して書かれているように思えてならないのである。 《大意》 四年十月、 武小広国押盾天皇(たけおひろくにおしたてのすめらみこと)が崩じました。 皇子(みこ)、天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)は、群臣に命じて仰りました。 ――「余は、幼年浅識で、未だ政(まつりごと)に馴れない。 山田皇后(やまだおおきさき)は、百揆明閑で〔=数多くの政務に手馴れて〕いらっしゃる。 願わくば、政務に就いて決していただきたい。」 山田皇后は恐れ入り謝して申し上げました。 ――「妾(わらわ)が恩寵を蒙ることは、 いやしくも山の高み、海の深みに等しうございますが、 万機〔=よろずの政〕の難しさは、 婦女が容易く預かり得ることでありましょうか。 今の皇子(みこ)は、 老を敬い、幼きを慈しみて、 賢者に礼下され、 昼間の食には侍従を用いられません。 加えて幼くして才は秀で、 早くから嘉声〔かせい、=よい評判〕を擅(ほしいまま)にして、 性格は寛和〔かんわ、=寛大温和〕にして、 務めに矜宥〔ぎんゆう、=憐憫寛容〕であられました。 願わくば、諸臣たちは、 皇子に速やかに位に登り、天下に光臨していただきませ。」 【姓字】 《姓》 上代から平安において、姓は氏族の格や種別を示す符号であった。 姓には古くはオミ(臣)、ムラジ(連)などがあり、 また古墳時代に起源をもつアガタヌシ(県主)、イナキ(稲置)などの地方官職名が姓に変化した。天武朝において、それまでの姓が「八色の姓」に再編された。 姓の仮名書きについては、神護景雲三年〔769〕五月丙申の宣命に「根可婆禰」があり、「根-姓」と考えられている。 一方、中国語における姓(セイ)は、『学研新漢和』によれば 「多くは女系の祖の名に由来し、またはその祖先の住んだ地名にもちなむ。」 「氏シは職業・身分の名や、地名などにちなんでつける。漢以後は姓と氏とは混同し、 合わせて姓といい、女性には氏ということが多い。」という。 したがって、藤原、大伴、中臣、春日、秦などのウジ(氏)は、中国語では「姓」といい得るが、これをカバネとは訓むことはできない。 景行二十八年に、陸奥国で日本武尊が「欲レ知二姓名一」と尋ねられる場面があるが、 この「姓名」は「ウジナ」の意味である。 本段の「秦大津父」の「秦」もウヂである。 本段の「姓字」は『仮名日本紀』の「姓字」〔かばねな〕のように、伝統的にカバネと訓まれてきただが、 これまで見たように、「中国語の姓は和語の姓に非ず」だから、この訓みは誤りである。 実際、岩波文庫版は「姓字」とルビを振る。 しかし、実際の古訓では常にカバネが用いられたと思われる。 古写本で姓にルビを振った例としては、〈前田本〉雄略九年の「談連従人同姓津麻呂」がある。 九年三月に「大伴談連」の名があるので、「同姓津麻呂」とは「大伴津麻呂連」のことだから、 この「同姓」は厳密には「同氏同姓」の意味である。 〈前田本〉の他の個所の「姓」には、雄略即位前(安康三年)「大舎人【闕姓字也】」、雄略六年「賜姓為少子部連」、 敏達三年「賜姓為津史」があるが、これらはルビを欠く。 「大舎人」の「姓字」は「氏名」の意である。 「少子部連」・「津史」については「姓」は「氏+姓」の意である。 古訓の頃の人はこのようなルビのない「姓」でも、反射的にカバネと訓んだと推定される。 たとえ、それが「氏」の意味であろうが「氏+姓」の意味であろうがである。 これはもっともなことで、語源に遡ると、カバネの同音異義語の「屍」は、ホネの意味だといわれる。 そして祖先の骨=カバネを、氏姓の意味に広げたと思われる。 目に見える先祖の姿は、骨だからである。 同じ発想は、新羅の「骨品制」に見える。 よって、カバネのもともとの意味はウヂと同じで、 中国語で同じ意味の「姓」の字をカバネにあてた。 ところが、カバネの意味は古墳時代末か飛鳥時代頃に氏族の格付け・性質を表す符号に変わり、 それでも姓と表記され続けたと考えるのが合理的である。 公式にはこのように語義が変わったが、古い意味はイメージとなって相変わらず意識の底に残っていただろう。 その上に、中国文献が大量に入る時代になると、氏名の意で使われた「姓名」という字のシャワーを浴び続けるのだから、 「カバネ」という発声に再びウヂの意味が漂ってきたのは当然である。 平安時代の古訓は、このような情勢のもとにある。 そして遂には現代の各種漢和辞典において、ウヂの意味の「姓」に訓カバネを付すに至ったのである。 しかし、書紀が書かれた時点ではカバネとウヂの区別は明白だから、後世の混用をさかのぼらせてカバネと訓読するのは学究的ではない。かと言って、上代に姓名をウヂナと訓んだとは考えにくい。 『現代語古語類語辞典』は、音読み「セイ」を上代語にも認定している。それが確かなら、ウヂの意味の「姓」を発声するにはそれが一番良いわけである。 《字》 字の訓みは、ナであろう。「姓字」は「姓名之字」の略と考えられないこともないが、 『類聚名義抄』にも「字アザナ」があり、(万)の題詞では一般的にアザナに「字」をあてている。 アザナがナの一種であることは言うまでもないから、「字」には「名」の意味がある。 ただ、だからといって「文字」を意味する本来の「字」という字に対しては、ナをあてることはできないというのが本サイトの判断である。 まとめ 秦大津父の伝説は、古事記を彷彿させる。 伝説発掘担当のスタッフが蒐集した資料は書紀の執筆に用いられたが、 原資料を独自の書としてまとめたのが古事記ではないかと思われる。 それも顕宗天皇のところまでで実質的に終了したが、 以後も書紀編纂の委員会に所属して書紀の伝説部分に関わったと考えられる。 その成果のひとつが、秦大津父伝説の部分ではないだろうか。 |
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2020.04.16(thu) [19-02] 欽明天皇2 ▼▲ |
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4目次 【即位】 冬十二月庚辰朔甲申。天國排開廣庭皇子卽天皇位……〔続き〕 5目次 【元年正月】 元年春正月庚戌朔甲子。有司請立皇后……〔続き〕 6目次 【元年二月~七月】 二月。 百濟人己知部投化……〔続き〕 7目次 【元年八月~九月】 《高麗百濟新羅任那並遣使獻並脩貢職》
〈釈紀〉に『天書』〔奈良時代末〕からの引用がある。
つまり、新羅に遠征するにあたって戦勝祈願をするために設けたと見られる。 その際、住民を集めて杯と絹布を記念品として配る場面が目に浮かぶ。 すると、難波宮跡の近くに「住吉神社」として残ってそうなものだが、実際には存在しないから遺跡となって地下に眠っているのであろう。 《怨曠》 〈汉典〉には「怨曠:①長期別離。②指女無夫、男無妻。③専指二女子無一レ夫〔専ら独身の女子を指す〕。」とある。 しかしこれは現代語としての意味であって、 「夷狄叛逆。賦役重数。内外怨曠。」(後漢書孝順孝沖帝紀)、 「済南之獄。徒者万数。又遠屯絶域。吏民怨曠。」(後漢書楊李翟應列伝)などの古代文献を見ると、怨嗟と同じ意味で使われている。 《新羅怨曠積年》 任那の四県は、百済・新羅の緩衝地帯として機能していたが、百済が手に入れたことにより、新羅の国境の間近に迫ったと読める。 新羅には、易々と百済の要請を受け入れて明け渡したときの倭国への恨みが今でも残っていた。 だから、大本営の作戦会議において、新羅攻撃の軍勢を送ろうものなら全力で反撃してくるだろうという見通しが語られた。 『天書』を見ると、ことによると親征まで計画されてやる気満々だったようだが、直前で中止になったと思われる。 「那津之口官家」修造による対三韓外交の直轄化の背景には、このような半島進出の意図があったわけである。 《居住吉宅》 「居二住吉宅一」からは、飛鳥のほかに難波を副都とした二都体制が欽明朝にもあったことが伺われる。 大臣・大連などの臣たちは副都にも邸宅をもち、 天皇が副都に行幸するときには、中枢機能が丸ごとが移動するわけである。 《青海夫人勾子》 「夫人」には妃の意味もあるが、二年三月条の妃のリストには入っていない。 書紀において一般的に妃のリストに「夫人」は並ばないので、それよりは下位である。 ただし、大伴大連に見舞いに行かせるほどだから天皇の信頼は厚く、 「夫人」は上級の女性への尊称であろう。 《以鞍馬贈使厚相資敬》 「以A贈B」の構文は、"give BA"(Bは与格「~に」、Aは対格「~を」)を示し、 以鞍馬贈使においては、「使(つかひ)」が与格、「鞍馬」が対格である。 しかし鞍馬には「馬に乗る人」の意味もあり、「鞍馬の贈物の使者を用いて」とも読める。 厚相については熟語として目立った意味は見られない。 資敬の原意は「父を敬うのと同じように君主を敬う」である。 「鞍馬の使者を用いて」と読めば、青海夫人とは無関係に「駅使に贈り物を持たせて天皇に送り、厚く宰相〔=大連〕の資敬の意を伝えた」という読み取りも可能である。 しかし、この部分のみを微視的に分解しても確実なことは言えないので、前後の文脈から考えてみる。 すると、この文の前には大連が青海夫人に告白し、この後で青海夫人が復命する。 この繋がりのもとにキーワードとして「贈」と「敬」に注目すると、 大連が夫人に対して贈り物をして敬ったと読める。 その甲斐あって青海夫人は上手に取り成してくれ、大連の地位を守ることができたのだから、恐らくこの読み方が正解であろう。 大伴金村大連の贈収賄体質を示すエピソードは、これまでにもいくつか見える( 継体六年、 安閑元年閏十二月、いずれも収賄)。今回は贈賄側である。 以上のように読み定めれば使〔=使者〕は青海夫人、鞍・馬は贈り物である。 なお、「鞍馬」の伝統訓「かざりうま」は、鞍その他で装飾した馬に見たてた意訳である(雄略九年五月《鞍几後橋》)。 「厚相資敬」の厚・相は副詞でそれぞれ「あつく」・「たがいに」、資敬は単に「敬う」となる。 金村が青海夫人と互いに尊敬をもって語らう様子が浮かびあがる。 ただ、「資敬」の原意「父の如く君主を敬う」、贈り物の「鞍馬」をクローズアップすると、 贈り物は青海布陣の頭越しに欽明天皇に直接贈ったとする読み取り方も完全には否定しきれない。 しかし、仮にそうだとすれば「使贈」、「遣使贈」、「送贈使」などが正確な表し方で、「贈使」はややずれている。 また、「相」については金村は青海夫人に本音をさらけ出して親しく語り合っているから、金村と夫人との信頼関係を示す語であろう。 だから贈り物を贈った相手はやはり大海夫人で、 「資敬」の「父の如く君主を」の部分は薄めて使われているのであろう。 《大意》 八月(はつき)、 高麗(こま)、百済(くだら)、新羅(しらぎ)、任那(みまな)は揃って使者を遣わして献じ、 挙って貢職〔みつぎもの〕を納めました。 秦人(はたひと)、漢人(あやひと)等、諸蕃(しょばん)の帰化者を召し集め、 国、郡に置き戸籍を整備しました。 秦人は、戸数総てで七千五十三戸あり、 大蔵省の録(さかん)を、秦人の伴造(とものみやつこ)としました。 九月五日、 難波の祝津宮(ほうりつのみや)に行幸し、 大伴大連(おおとものおおむらじ)金村(かなむら)、許勢臣(こせのおみ)稲持(いなもち)、物部大連(もののべのおおむらじ)尾輿(おこし)等が同行しました。 天皇(すめらみこと)は諸臣に、 「どのくらいの軍卒がいれば、新羅を征伐できるか。」と問われました。 物部大連尾輿等らの奏上するに、 「少しばかりの軍卒で、容易(たやす)く征伐することはできません。 先に、男大迹天皇(おおどのすめらみこと)〔継体〕の六年、 百済が遣使して、 上表文で任那の上哆唎(おこしたり)、下哆唎(あるしたり)、娑陀(さた)、牟婁(むろ)の四つの県(こおり)を要請し、 大伴大連金村は簡単に上表の要請に依り、求められるまま許しました。 この故に、新羅の怨嗟は年を重ね、 これを軽んじて征伐すべきではありません。」と奏上しました。 すると、大伴大連金村は 住吉の邸宅に居して、病と称して朝廷に参内しませんでした。 天皇は青海夫人(あおみのおおとじ)勾子(まがりこ)を遣わし、 懇ろに慰問させました。 大連(おおむらじ)は、恐れ入り謝して 「臣の病状は、余るほどではございません。 今、諸臣たちは臣が任那を滅ぼしたと言います 故に、恐怖で参内しないのみでございます。」と申し上げ、 鞍馬(くらうま)を使わされた夫人に贈り、厚く互いに敬いました。 青海夫人は、誠をつくして明快に申し上げたところ、 天皇は 「久しく忠誠を尽くせ。皆の口にすることを憂えるな。」と仰り、 遂に罪とはせず、恩寵をますます深められました。 是の年は、太歳(たいさい)庚申(こうしん)でした。 【滅任那】 〈継体紀〉の四県編入のところには、「滅任那」とは書かれていない。 《継体紀六年》 継体紀六年の文章は、 百済が「請二任那国上哆唎下哆唎娑陀牟婁四県一」し、 その要請に対して大伴大連金村が「具得二是言一同謨而奏」 〔具(つぶさ)にこの言を得て同じき謨(はかりごと)をして奏(まを)す〕したというものである。 つまり、百済が要求する四県の編入に同意したというのだから、「四県」以外の本体部分は任那国に残っていると読める。 だが、欽明元年で任那が消滅したというなら、任那国は「四県」がすべてだったことになる。 〈欽明紀〉には三十二年条にも「問二任那滅由一」〔任那の滅びし由(よし)を問ふ〕とあり、 「滅びた」は金村が夫人に語った中の単なる言葉のあやではなく、当時の朝廷内の共通認識となっている。 さらには「任那国」は、複数の国の「総言」すなわち地域名とする原注を載せる。 それは、「任那国の旱岐」の語がないからである (資料[32])。 以上の部分には、それなりの一貫性がある。 《任那遣使》
以後も、しばしば任那国からの献使進調を匂わせるような記述があるが、 実際には任那国の再建は、書紀の最後まで実現していない (資料[32]【最後の「任那」】)。 既に任那国は存在しないという事実をありのまま書いておきながら、虚構の任那国を時々登場させるのである。 それでは、滅びる前に存在していたとされる「任那国」についてはどうだろうか。 いくつかの文献に見える歴史上の「任那国」は、5世紀に弁辰地域に存在したいくつかの小国の一つである (神功皇后三十九年【三韓地域の国々】)。 その時点で、倭国の属国であったか否かを探る材料としては、 宋書に 「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の称号を与えられた記事がある (倭の五王)。 この「六国」には新羅も含まれているから、この倭王の勢力圏は「倭」以外は名目上のものであろう。 〔信長が秀吉や光秀に「切り取り次第」=まだ敵地であるにもかかわらず、所領として与えたことを連想させる。〕 〔しかし「百済」については"名目"さえも認めず、倭・北宋の間の交渉の焦点となっている。〕 加羅諸国地域については、実際は倭国による政治的な支配下というよりは、いくつかの倭の氏族が分散的に入植地を持ったというのが実態であったと見られる。 基本的にこの状態が欽明朝以後も続き、その範囲は慶尚南道の倭系古墳の分布域とみてよいだろう (継体二十三年)。 《倭系古墳》 論文『5,6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景』 (国立歴史民俗博物館研究報告第211集/2018年)によると、 ①西・南海岸地域における主な倭系古墳は、5世紀前半頃で、 副葬品の垂飾付耳飾などや古墳の立地の共通性から、 「百済や栄山江流域から倭への使節や、日本列島への定着を もくろんだ渡来人集団もまた、瀬戸内の地域集団との交流を重ね」、 「当時の交渉が双方向的であった」と見られるという。 また、②栄山江の前方後円墳は 「5世紀後後葉から6世紀前半頃」で、「横穴系の埋葬施設などの新たな墓制を受容」し、 地域の伝統の中で「変容を遂げていく」という。 ①の時期は、好太王碑文に記された倭人の侵攻と合致する。 ②は、顕宗朝から欽明朝に当たるが、書紀にはこの地域の記事は見えない。 加羅諸国や新羅から離れているので、百済国内で平穏に共存していたのであろう。 書紀に記述がないのは、特記すべきトラブルがなかったからだと解釈することができる。 対照的に、慶尚南道地域では百済・新羅二国間には激しい領土の奪い合いがあり、 倭人の入植地〔官家と表現される〕が巻き込まれた記録がもとになって、〈欽明紀〉の細かな記述が生まれたのであろう。 だから、書紀が「任那」と表現する地域は、慶尚南道の辺りと考えられる。 《書紀における操作》 6世紀以後の「任那国」とは、既に亡びた小国の名前を借りて倭国の架空の属国としたものだと断じてよいだろう。 何よりも、歴史資料を広く探って仕立て上げた〈神功皇后紀〉に「任那」が皆無であることがそれを裏付ける (雄略八年【任那日本府】)。 したがって、書紀の中身を正確に読めば「任那国」なるものは存在しないことは自明なのだが、 所々に「任那使」「任那王」「任那国司」などのキーワードを散りばめることによって、 あたかも存在したが如き印象を与える。これは意図的になされたことであろう。 このいわば「任那国が実在するが如く装う」ことは、飛鳥時代から奈良時代にかけての国家政策の基本であった。 資料[32]において、 「虚構の任那国を描くことは、書紀から始まったことではない。 既に聖徳太子の時代から「任那国」が存在するが如く演出することが、百済や新羅との外交儀式の一部になっていたのである」 と述べた通りである。 まとめ 日本書紀については、当時の学者が誠実に記録を拾ってまとめ上げた歴史書の面と、政治的な狙いをもったプロパガンダ〔情報宣伝の武器〕の面との複合体と位置づける視点が大切であろう。 とくに任那国において、この特徴が際立って見える。 書いてあることすべてが前者だと思って信用してしまうと、意図的な歪曲に対して無防備になる。 逆に全部が後者だとして色眼鏡で見てしまうと、 歴史の真実として意味のある部分までも葬り去るという勿体ないことになる。 大雑把に言えば、戦前の政治・学問においては前者であったのは明らかであるが、 戦後の歴史学においてはその反動で反射的に後者の見方が優勢になった印象を受ける。 基本的な態度として望ましいのは、一度原書の漢文体に戻り中国・朝鮮の古文献、さらには考古学など学際的な成果を幅広く参照しながら、 正確に一語ずつを吟味して積み上げる。そしてその蓄積された資料自身に、意図的な歪曲の動機を語らせることであろう 〔前項資料[32]の例など〕。 われわれに遺された、せっかくの歴史遺産であるのだから大切にしたい。 |
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2020.04.19(sun) [19-03] 欽明天皇3 ▼▲ |
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8目次 【二年三月】 納五妃。元妃、皇后弟曰稚綾姬皇女……〔続き〕 9目次 【二年四月】 《與任那日本府吉備臣往赴百濟倶聽詔書》
・卒麻国と散半下(奚)国は、加羅国の域内国か。同様に斯二岐国と子他国は多羅国の域内国か。 ・よくわからないのは比自㶱国だけである。 さらに、原注の「等謂二㖨己呑加羅一」においては、南加羅から「南」が脱落しているのは明らかである。 比自㶱・古嗟・乞飡・稔礼は、二年四月には使者を送っていない。 神功皇后紀4【三韓地域の国々】の項でまとめたところでは、 6世紀前半の梁職貢図に多羅・卓〔卓淳?〕があるから、この二国は比較的大きかったかのかも知れない。 その他はごく小規模な国が消長を繰り返していたように思われる。 南斉書〔南朝斉:479~502〕によれば、加羅・任那は「昔滅びた国」とされる。 ただ、加羅については〈欽明紀〉でしっかり存在感を示しているから、新しい国が伝統的な国名を復活させたように思われる。 任那国については、〈神功皇后紀〉では明らかに消滅している。ただ、その四十九年条の加羅諸国のリスト〔任那を含まない〕は、6世紀以後のものかも知れない。 4世紀始めの好太王碑文に「任那」があり、また宋書の478年の倭国王の称号「六国諸軍事安東大将軍」の「六国」に「任那」が含まれるからである。 《聖明王》 『三国史記』百済本紀に「諱明襛。武寧王之子也。智識英邁能断事。武寧薨継位。国人称為聖王」 欽明二年〔聖王十九年〕の時点では、新羅との関係は良好である。高句麗からはしばしば攻撃を受ける。 三十一年に新羅と敵対関係に転じ、三十二年に狗川の戦いで戦死してしまう。 《任那日本府》 〈釈紀-秘訓三〉任那日本府 資料[32]【日本府の実像】で述べたように、 本来はヤマトノツカサと訓むべきである。古訓のヤマトノミコトモチ〔倭宰〕には、日本府を大宰府並みに高めて読もうとする発想がある。 《倶聴詔書》 勅書の中身は詳細を省いて「日本天皇所詔者全以復建任那。 今用何策起建任那。」 と要約を書くのみで、そっけない。 もともとはこの部分に百済王自らが発した長文の書で、それをばっさり削って「日本天皇所詔…」に置き換えた印象を受ける。 詳しくは後述するが、「任那」に関する部分はすべて書紀による文章化の段階で追加された可能性がある。 《再三廻与新羅議》 「再三廻与新羅議」は、「諸国が新羅のことについて議を重ねてきた」ようにも取れるが、 これは明確に誤りである。 『抱朴子』(晋〔300~343〕)「内篇」に 「吾未レ見二其焚之自息一也。今与二知欲売策一者論、此是与二跖一議二捕盜一。」 〔吾未だその焚の自ら息(や)むを見ず。今策を売るを欲すると知れる者と論ずるは、これ跖〔伝説の盗賊の頭の名〕と捕盗を議るなり〕という文がある。 この例によって「与A論」、「与A議」は、「Aと議論する」意味であることがわかる。 よって、「再三廻与新羅議」が「再三にわたって、新羅と議論を重ねてきた」意味であることが確定する。 《答報》 「答報」と同義語を重ねるのは、次の文の「尚無所報」と文字数を揃えるためである。 中国語には格変化がないので、文の区切りを示すために文字数は重要な要素となる。 《在大王之意》 もし「有大王之意」なら、「大王之意あり」という文である。 「在大王之意」の場合は、「建任那」が主語で、「建任那〔という旱岐の意志〕は大王の意の中にある」という意味になる。 《聖明王曰昔我先祖速古王貴首王之世》
〈姓氏録〉に、〖大丘造/出自百済国速(肖イ)古王十二世孫恩率高難延子也〗 がある〔イは異本の略〕。他に〖春野連〗、 〖面氏〗、〖己汶氏〗、〖汶斯氏〗が速古王の子孫とある。 ここに「異本に肖古王」とあるように、速古王は肖古王の別名とされている。 『三国史記』-「百済本紀」によれば、近肖古王は「肖古王 一云素古」。在位は丙午(346)年~乙亥(375)年。 そして、〈神功皇后紀〉五十五年〔乙亥255/375〕に、 「百済肖古王薨」。 〈百済本記:近肖古王〉三十年「冬十一月 王薨 仇首王 或云貴須」。 貴首王の在位は、375~384年。 《下部中佐平麻鹵城方甲背昧奴》 〈釈紀-秘訓〉下部中佐平 「昧奴」は「麻那」と同じ人物と見て、「マナ」とよむ本もある(岩波文庫版)一方、 『仮名二本紀』では、〈釈紀〉の「めいと」を用いている。 本サイトでは、「(万)0807 用流能伊昧仁越 よるのいめにを」〔歌意から「夜の夢にを」は確実〕から、メを用いておく。 「奴」は、記紀と万葉で多くを占める「ヌ」を用いる。 麻鹵(マロ)は、倭から百済に帰化した人物の名前〔=麻呂〕と見られる。 前回《倭系古墳》の項で、墓制の混合により「当時の交渉が双方向的であった」 ことと関連を考えると、興味深い。 「下部中佐平」は、「五部」制の所属部+位階である (安閑元年四月《百済の位階》)。 「佐平」などの位階につく「上=ヲ、中=シソ、下=アルシ」は古代百済語かと想像される。 これらのよみは、〈釈紀〉の編者(卜部兼方)が百済出身者の末裔から得たことが考えられる。 同じ上中下でも、上部・中部・下部は「シヤウホウ・チウホウ・カホウ」で音読みである。 なお、「部=ホウ」は「部」を「丘」の意味で使うときの発音で、音読みである。 兼方の努力は大変貴重なものであるが、その性格としては平安期以後の解釈のひとつといえる。 上代の文書として読む場合は、すべての漢字について例外なく、上代語による訓みが可能な場合はそれを用い、 その他は呉音に限った方が一貫性があるだろう。 《蕞》 〈汉典〉「蕞:古代演習朝会礼儀時捆紮茅草立放著用三-来標二-誌位次一、引申為二叢聚的様子一。」 〔古代の演習朝会礼儀の時、捆紮〔縛って束にした〕茅草を立放って著わし、位次を標誌するのに用来する〔もちいる〕。引申〔拡張〕して叢聚的様子と為す。〕 「英語:litle,small,tiny,petty」 つまり、儀式などの行事のとき地位に従って整列させるための目印として、茅草を縛った束を立てたものが原義で、拡張して草叢 《新羅安獨滅任那乎》 一方で既に滅びた任那を再建せよと言いながら、他方で「新羅安独滅任那乎」〔新羅が任那を滅ぼすことができようか。できない〕という。 合理的に解釈しようとすると、前者は一つの国名で「任那国」は滅びてもうない、後者は地域名で、任那地域の国々がみな滅ぼされそうだと、読み分けなければならない。 実際には元の文章のあちこちに、後から「任那」を散りばめ、 そのとき整合性をあまり意識しなかった結果ではないか。 《大意》 〔二年〕四月、 安羅(あら)の次旱岐(しかんき)夷呑奚(いとんけい)・ 大不孫(たいふそん)・ 久取柔利(くしゅとり)、 加羅(から)の上首位(をこしい)古殿奚(こてんけい)、 卒麻(そつま)の旱岐、 散半奚(さんはんけい)の旱岐の子、 多羅(たら)の下(あるし)旱岐の夷他(いた)、 斯二岐(しにき)の旱岐の子、 子他(こた)の旱岐らは、 任那(みまな)の日本府(やまとのつかさ)の吉備臣(きびのおみ)【名の字を欠く】とともに、 百済(くだら)に赴き、共に天皇の詔書を聴きました。 百済の聖明王(せいめいおう)は、任那(みまな)の旱岐らに言うには、 「日本(やまと)の天皇(すめらみこと)の詔されるところは、全く再び任那(みまな)を建てよということである。 今、どのような策を用いて任那を建て起こすか、 どうして誰も忠を尽くして聖なる御心を、広げようとしないのか。」と言いました。 任那の旱岐等がお答えするに、 「以前、再三繰り返して新羅と協議しましたが、答はありませんでした。 その協議の趣旨を更に新羅に告げましたが、猶も答は有りませんでした。 今、共に使者を遣わして天皇のところに行き、申し上げるべきです。 それは、私達が任那を建てることは、大王(おおきみ)の御心の中にあります。 教旨を祗承(ししょう)〔=尊敬〕しており、誰が敢て間言〔=そしる言葉〕を申しましょう。 とは言っても、任那は境界を新羅に接して、卓淳(たくじゅん)らの禍(わざわい)に至ることを恐れております。」と申し上げました。 【「ら」とは㖨己呑(とくことん)と〔南〕加羅(〔ありひしの〕から)とをいう。 卓淳国などが、敗亡した禍が有ったと言う。】 聖明王は申しました。 「昔、我が先祖、速古王(そくこおう)貴首王(きしゅおう)の御世、 安羅・加羅・卓淳の旱岐らは、〔新羅に〕初めて使者を遣わして相通じた。 厚く親好を結び、 子弟として、冀(こいねがわ)くば、恒久に栄えるべしと思った。 だが今は新羅に誑(たぶら)かされて、 天皇を忿怒させ、任那を憤恨させたことは、寡人〔=私〕の過失である。 私は深く懲悔(ちょうかい)して、 下部中佐平(かほうしそさへい)麻鹵(まろ)、城方甲背(じょうほうこうはい)昧奴(めぬ)らを遣わして、 加羅に赴き任那に会わせて、日本府(やまとのつかさ)と同盟した。 以後、思いを繋ぎ相続けて、任那を建てることを図り、朝な夕なに忘れることはない。 今、天皇の詔に『速やかに任那を建てよ。』と称(とな)えられる。 この故に、お前の仲間と共に計画をもち任那の国を樹立させてほしい。善くこれを図れ。 また、任那の境界に新羅を徴召(ちょうしょう)して聴くか否かを問い、 そして共に使者を遣わして天皇に奏聞させ、恭んで示された教えを承わらせよ。 もし使者が未還の如き際(きわ)には、新羅が隙を窺って任那に侵逼しているのだから、 私はまさに行って救おう。憂えるには及ばない。 とはいえ、よく守り備えて、ゆめゆめ警戒を忘れてはならない。 特に、お前の所謂(いわゆる)、卓淳(たくじゅん)らの禍に至ることを恐れていることについては、 新羅自らが強い故に為し得たことではない。 その㖨己呑(とくことん)は、 加羅と新羅との境界の際に位置して、連年の攻撃を蒙って敗れ、 任那を救援することができず、 この故に亡ぼされた。 その南加羅(ありひしのから)は、 草叢(くさむら)のように狭小で、兵力の備えもできず、託すべきところを知らず、 この故に亡ぼされた。 その卓淳(たくじゅん)は、 上下携弐(けいじ)〔=仲たがい〕して国主自らが付いて新羅に内応して、 この故に亡ぼされた。 このことによって見れば、三国の敗れたことにはもっともな理由がある。 昔新羅は高麗に援助を請い、任那と百済とを攻撃しても、 なお勝てなかった。 新羅独力で、どうやって任那を滅すことができようか。 今私は、お前と共に戮力并心して〔=力を合わせ、心を合わせ〕天皇の恩頼(みたまのふゆ)を翳(かか)げれば、 任那は必ず起つだろう。」。 因って各々に応じて賜り物を贈られました。皆喜んで帰還しました。 まとめ 二年四月条は、百済王が任那地域の小国群の旱岐を呼び集め、天皇の勅書を読み上げるところから始まる。 だが、勅書がいつ届いたかも、その文章自体も示されていない。 だから四月条全部の信憑性が疑われるわけだが、一方で国名や旱岐の名、さらには三国の滅亡の経過が具体的に示されるから、恐らくは一定の資料はあったように思われる。 ならば百済王が小国にこのような詔を発した事実があるのか、あるいは歴史書の客観記述を合成したものなのか、そこまでは分からない。 ただ「昔新羅請援於高麗而攻撃任那与百済」には、後から「任那与」が挿入されたように感じられる。 また、一人称代名詞は基本的に「我」であるが、天皇に遜るところだけが「寡人」となっていて不自然である。 これらの個所を含め全体的に、もともとあった百済王の言葉に「任那」「日本府」「天皇」を加えた印象を受ける。 見本とする文に若干手を加えて換骨奪胎して書紀に組み込む手法は、〈顕宗即位前〉の例がある。 試しに「任那」に関連する部分(原文中にグレーで表示した部分)を取り除いてみると、 百済が加羅などの小国群に向かって、新羅の攻撃に立ち向かうために我々と同盟して領土を守れと呼びかける内容となって、論旨は矛盾なく完結する。 ただ「百済聖明王、謂任那旱岐等言」の後には物足らなさがあるので、その原型は「百済聖明王、 勅旱岐等言『A』」で、Aに百済王の言葉~加羅などを叱る~があったのかも知れない。 書紀は、そのAを「日本天皇所詔者全以復建任那」に置き換えたわけである。 すると、その直後に旱岐たちの言い訳は天皇の言葉への反応ではなく、本来は百済王による叱責に対して反論するものであった。 書紀は原形を加工して、任那をいつになったら復興するのかと天皇に叱られたから頑張れと呼びかける内容に変えた。 しかし、小国の立場でもしそんな風に言われたら、百済とは仲良くしているが、だからといって倭国の言うことまで聞く義理はない。 そんなにやりたいなら、好太王のときのように軍を渡海させて自力でやれと言い出しそうである。 |
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2020.04.24(fri) [19-04] 欽明天皇4 ▼▲ |
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10目次 【二年七月(1)】 《召到新羅任那執事謨建任那》
「還属本貫。遷実任那。永作父兄。恒朝日本。」のうち、 「遷実任那」「恒朝日本」は、後からの付け加えのように見える。 つまり、任那地域は「百済の支配に服すべし」という百済の主張に乗っかって、 その上で「倭につかえる形に移せ」を付け加える構成になっている。 しかし、こうやって付け加えただけでは倭の狙いは果たせない。 そもそも「還属本貫」「永作父兄」 とは、百済が小国群を統率するという支配関係を示すものである。 「"永"作父兄」だから、 任那地域の支配権は決して倭には移らない。 すると、この文書では百済が小国群を丸ごと抱え込んだ状態で倭国を拝朝することになり、 任那地域は永遠に倭の直轄地にはならないのである。これが「日本」が望む「任那国」の形といえようか。 《甘言希誑》 普通に読めば「甘言(うまこと)をいひて希(まれ)に誑(あざむ)く」となるが、 新羅を悪し様にいうのに「まれにたぶらかすことがある」では全く煮え切らない。 仮名日本紀は「うまくいひてめづらしくあざむく」〔甘言によってこれは珍しいことだと興味をもたせて欺く〕とする。 岩波文庫版は「甘言 結局、合理的な理解は不可能である。 実は「稀に」の意味のままでも、「甘言希誑」だけであれば成り立つ。 これ自体は「いつも美味しいことを言うが、稀に欺くことがあるから気を付けよ」という自然な警句である。 ところが、そこに「天下之所知也」をくっつけるからおかしくなるのである。 「稀に欺く」は「概ねは信用できる。但し…」である。それに対して「天下の知る所」には頭から信用成らないニュアンスがある。これらは両立しない。 これは推敲の過程で、意味を強めようとして「天下之所知也」を付け足した結果だと思われる。 本サイトでは、主述構造「S(甘言)-V(希)」が体言化して大主語となり、述語「誑」を伴うものとした。〔これでもなかなか苦しい。〕 すなわち、「『甘言の内容が稀で目を引くこと』が『相手を欺き得る』機能をもつ」という構文として組み立てる。 《弛柝》 「弛柝」の「弛」は、『説文』に「弓解也」とあるように弓を緩めることだが、そこから一般的に「ゆるめる」意味となる。「弛緩」。 名詞としての「柝」は、〈汉典〉に「古代打更用的梆子。[watchman's rattle]」。「梆子」とは、〈汉典〉に「響器」〔鐘、太鼓、拍子木〕。「用来召集群衆、報警或巡夜打更」〔群衆を招集したり、夜警する〕ときに使うとある。 したがって、「弛柝」は「夜警で響器を打ち鳴らすような体制を緩める」意であろう。 意訳して、「警戒を緩める;いましむることをゆるふ」などとするのが適当か。 《陥罹誣欺網穽》 「陥罹誣欺網穽」の真ん中にある「誣欺」は詐欺・欺詐と同じ。両端の「陥-穽」、「罹-網」には親和性がある。 従って、「陥・罹」を動詞、「網・穽」を目的語として、「誣欺」は「網穽」を連体修飾すると位置づけるとよいだろう。 《聴天皇勅可立任那》 4)の「聴天皇勅可立任那」の「任那」は、地域名ではなく再興を期す「任那国」の意である。 しかし、この箇所を含めて、二年四月条に引き続いて原形〔百済王の言葉〕に、「任那」 「日本府」「天皇」が付け加えられたように感じられる。 そのうちグレーで示した部分は、取り除いた方が論旨が明快になる。 さらに、次の諸点を指摘し得る。 1)の「安羅日本府」が「任那日本府」でないことは目を曳くが、「安羅」の次に「日本府」が挿入されたと思われる。 他の個所と統一を図るためには、ここも「任那日本府」に直されるべきなのだが、 「安羅」までも消すことは、躊躇されたのではないかと思われる。 折角つくろうとしている『日本書紀』という史書から、「安羅」が跡形もなく消えてしまうことには、歴史家として耐えられないという感覚があったように思われる。 そこで、「任那日本府」という機関の置かれた土地の地名が「安羅」であるという体裁にして折り合いをつけたことが想像される。 そして「任那」のいくつは、もともと「安羅」であった可能性がある。該当するものをピンク色で示した。 2)、4)の「任那」は「安羅」にすると辻褄が合わない。安羅国はまだ滅びてないからである。 3)に「新羅所折之國南加羅㖨己呑等」とあるので、これらの「任那」は「南加羅㖨己呑等」に置き換えると辻褄が合う。 《大意》 秋七月、 百済(くだら)は、安羅(あら)の日本府(やまとのつかさ)が新羅(しらぎ)に通じて計略を廻らしていると聞き、 前部奈率鼻利(ぜんほうなそつびり)、 莫古(まくこ)、 奈率宣文(なそつせんぶ)、 中部奈率木刕(ちゅうほうなそつもくきょう)、 眯淳(べいじゅん)、 紀臣奈率弥麻沙(きのおみなそつみまさ)等を遣わし、 【紀臣奈率は、おそらく紀臣(きのおみ)が韓(から)の女を娶って生まれた子で、 それから百済に留まり、奈率となった人であろう。 その父は不詳。他の場合も皆これに倣う。】 安羅に、新羅に行っている任那〔日本府〕の執事〔=官員〕を戻させて、任那の再興について計画し、 それとは別に、安羅の日本府(やまとのつかさ)の河内直(かふちのあたい)が新羅に通じて計略したことを、深く責め罵りました。 【百済本記に 加不至(かふち)の費直(あたい)阿賢移那斯(あけんやなし)、佐魯麻都(さろまつ)等の名があるが、未詳。】 すなわち、任那にこう言いました〔百済王の言葉を伝えました〕。 ――「昔、我が先祖、速古王(そくこおう)、貴首王(きしゅおう)は、 昔の〔任那地域の〕旱岐(かんき)等とともに、始めて和親を約し、兄弟となった。 ここに、我は汝を子弟とし、汝は我を父兄とし、 ともに天皇(すめらみこと)に事(つか)え、ともに強敵を防ぎ、国を安らぎ家を全うして今日に至る。 言うべきことは、先祖と旧旱岐との和親の言葉を思い、清らかな日のまま有れということである。 これより以後、隣好を勤修し、最後まで厚く国に関与し、恩恵を代々の血縁を越えておよばせている。 善き始まりを終わりまで保つことは、寡人〔=王が自らを遜っていうことば〕が恒久に願うところである。 未だに不審なのは、いかなる故か、軽薄で浮いた言葉を使っていることだ。 数年の間に、志を失ったことには慨然とする。 古人の言った『追悔(ついくい)は及ばず』とは、この謂(いわ)れであろう。 上は雲の際に達し下は泉の中に及び、今のことは神に誓い昔のことは咎(とが)を改め、 隠匿一つすること無く所為(しょい)〔=行ったこと〕を〔正直に〕発露し、誠を祈願し御魂に通じて自身を深め責務にうち克つ 態度をとりなさい。 ちなみに聞くところでは、成人した後は、 よく先軌〔=先人が拓いた道筋〕を荷として背負い、堂構〔=親の業績〕を克昌〔=継いで繁栄〕して、殊勲の業を成すことを貴ぶ。 よって、今先の世に和親した誼(よしみ)を崇敬して、 天皇の詔勅の言葉に敬順し、 新羅に折り取られた国、南加羅(あるしのから)、㖨己呑(とくことん)等を抜き取って、 本貫に還し、もともとの任那に属する形に移し、 永久に百済を父兄とし、恒久に日本(やまと)に朝拝すべきである。 ところが、寡人は食しようとして不味く、寝床では不安で、 往時を悔い今に戒め、苦労を想うところである。 新羅がこれは稀なことだと欺き甘言するのは、天下に知られたことである。 汝等がそれを妄らに信じたなら、既に新羅の策謀に墮ちている。 まさに今、任那(みまな)は境界を新羅に接しており、常に備えを設けておくべきである。どうして警戒を緩めることができようか。 ここで恐れるのは、誣欺〔=欺瞞〕の網に罹(かか)り、穽〔落とし穴〕に陥(お)ち、国家を喪亡させ、新羅の人によって虜に繋がれることである。 寡人の心の中は、苦労の想いが起こり自然には安まらない。 密かに聞くに、任那と新羅とが策を廻らしている席のすぐ側に蜂と蛇が現れるという怪があり、これはまた皆が知るべきである。 また妖祥(ようしょう)〔妖しい兆し〕は行を戒める故であり、災異は人に悟らせる故である。 まさにこれが、明らかに天の告げた戒めで、先の御霊(みたま)の徴表〔=しるし〕であろう。 咎(とが)が追悔(ついくい)〔=後悔〕することに至り滅びた後に思い起こすことと、〔始めから正しい行いをしておくことの〕何れを言い及ぶか。 今、汝が余〔=私〕に遵(したが)って、天皇の勅を聴けば、任那を立てることは叶うであろう。どうして成らないことを心配するのか〔。決して心配しなくてよい〕。 もし末永く本の土地にあって旧民を治めることを欲するなら、その策はここにある。行いを慎まなくてよいものか。」 【二年七月(2)】 《聖明王更謂》
任那が亡びれば「汝則無資」、任那が建てば「汝則有援」という。これはA「日本が百済をたすける」、B「百済が日本をたすける」のどちらだろうか。 Aなら「百済に任那を再興するつもりがなければ、もう日本は援助はしないぞ」と意地悪をいう。 Bなら「任那の再興のために、百済の援助は不可欠である」として、責任を負わせる。 〔これらは存在文なので、「資」「援」が主語である。〕 文意を明確にするためには、Aなら「汝無我資」「汝有我援」、Bなら「汝不資我」「汝是援我」と書くべきである。 天皇の詔勅は続けて百済の力で任那を再興せよと命じているから、Bが順当であろう。 つまり、任那の再興の責任を百済に押し付けるのである。 こんな言い方をされれば、普通は怒るであろう。 その怒りは「任那日本府」に向けられ、「お前らの天皇はこんなことを言ってきたぞ。お前らこそ新羅に阿っていないで旗幟を鮮明にしろ」 と叱りつけるのである。 《不敢動者近羞百濟遠恐天皇》 「不二敢動一者近羞二百済一遠恐二天皇一」は、 の主語は新羅で、すなわち「百済と倭が強力だから、まだ百済や任那地域の侵略には動いていない」と述べる。 つまり、任那日本府には新羅を攻めよというが、新羅はまだ百済・任那を実際に攻めているわけではない。 百済が警戒心を解くことはないが、表立っては友好関係は維持されている。これは、前回見た三国史記に合致している。 百済自身も当面新羅を攻めるつもりはないが、 加羅の小国群については新羅の潜在的な脅威を吹聴して、 百済に繋ぎとめようとするという、したたかな戦略をとっている。 新羅からも味方につけという働きかけがあるのは当然で、それを百済は「甘言」という。 これはかつての米ソ関係を彷彿させ、時代を問わない国際政治の法則であろう。 《誘事朝庭》 「誘事朝庭」は、「相手に、朝廷に事(つか)えることを誘う」意味である。 しかし、当然文脈には合わない。ここでは「誘事朝庭;偽和任那」という対句をなすから、「誘」は「偽」と同じ意味でなければならない。 すると「誘」に欺く意味もあるかも知れないから、念のために調べてみる。 まず〈汉典〉を見ると、「誘:①教導。勧導。②用二言語一、行二-動-来-打-動別人一、使二人上当一 〔言葉で心をつかみ、だます〕。 如:「引誘」、「誘惑」、「誘騙」」。 つまりは誘の意味は、いわゆる「誘導」のみである。 〈仮名日本紀〉の訓読は「事をみかどにをこづりて」、 岩波文庫版は「朝廷 『類聚名義抄』の古訓〈学研新漢和〉によるには、「あさむく。おこつる。」もある。 「をこつる」は、〈時代別上代〉によれば「現在も高知・大分・壱岐などの方言ではオコツルをだますの意にもちいている」という語である。 もちろん、誘は相手を悪い方に誘導する場合にも使われのだが、 少なくとも「誘事朝庭」を「あざむいて、朝廷に事(つか)えているように見せる」と読むことは到底できない。 〈中国哲学書電子化計画〉による用法、 「誘民」「誘之」「善誘善導」「誘人」「進退誘敵〔進み退きして敵を誘ふ〕」などを見ても、 「誘」を単独で「あざむく」意味に用いることがないのは明らかである。 だから、「誘」の位置には本来、欺・詐・誑などがあるべきであろう。 『類聚名義抄』のアザムク・ヲクツルは、逆に書紀への古訓がもとになって定着したと見るべきである。 書紀に「誘」とある字はもともと誤用、誤字、誤写などだったと考えるのが妥当だと思われる。 因みに漢和辞典をみると、「アザムク」を訓とする字には「迋 訑 款 欺 詐 詒 詑 虞 詿 遁 誆 謬 誑 遯 謾」が並ぶ。 「あざむく」を表すためにはこれらの中からどの字を選んだとしても、「誘」よりはましである。 間違ったとすれば謾か。 《詁》 「詁」は「古い言葉」の意味で、ここには合わない。岩波文庫は諸本は「詁」だと述べた上で、独自に「估」に置き換える。 估は〈汉典〉は「通レ"売"」。「估量[evaluate]」〔値踏み、評価〕などを示す。岩波文庫の訓は「估 《恐卿等輙信甘言軽被謾語》 百済王は最後に日本府の卿に向かって 「恐卿等輙信二甘言一軽被二謾語一。滅二任那国一奉二-辱天皇一。卿其戒レ之勿二為レ他欺一。」 〔新羅の甘言を信じて騙されてしまうと、任那を滅ぼし、天皇を辱めることとなる。心せよ〕と警告する。 既にはじめの方で「如レ斯感二-激任那日本府一者、以未 しかし物言いは次第に直接的になり、最後は「恐卿等輙信甘言…」となる。 事実上「お前たちはもう新羅に附いているだろう。この野郎」と非難しているわけである。 〔言葉遣いがまだ幾分丁寧なのは、外交儀礼に過ぎない。〕 この百済王の「日本府」への態度は、とても宗主国の総督に対するものには見えない。 第一の言葉と同じく、安羅国に拠点を置く小グループを見下すものである。 書紀は、このグループに「任那日本府」なる呼び名を宛てているわけである。 これら二つの百済王の言葉の中身をしっかり読めば、日本府への古訓「やまとのみこともち」が、まったく的外れなものであることが分かる。 《百済王の第二の言葉》 この第二の言葉の方には、「任那日本府」の語があまりにも多くでてくるから、書紀による創作のように見える。 しかし、倭にとってはかなり不名誉な内容で、中身も結構具体的だから、原型として百済王の言葉が残っていた可能性もある。 その「任那日本府」のところは「倭○○卿」だったかも知れない。 この第二の言葉の内容をまとめた上表を、二つ目の「秋七月」条で紀臣奈率彌麻沙・中部奈率己連が持参して報告したことも考えられる。 《百済王の二つの言葉の性格》 第一の言葉は「任那」向けとされ、百済への服従を求めている。 内容から見て、加羅地域の諸国に対する呼びかけと見てもよいと思われ、本来「任那」の語はなかったと判断し得る。 第二の言葉は「日本府」向けとされ、日本府は新羅側に付いているように見えるが、新羅とは縁を切って百済の言うことを聞けと釘を刺している。 「偽示伏従之状」などは具体的な作戦へ言及と見られ、特定のグループ向けの内容と受け止めることができる。 こちらは、倭王(天皇)が百済王に送った勅書に「任那」の字があったことも考え得る。 《大意》 聖明王は更に任那日本府に言いました。 ――「天皇(すめらみこと)の詔(みことのり)には、 『任那がもし滅びれば、お前の援助はなく、 任那がもし興れば、お前の援助があったということである。 今、任那を興建し、昔のように使者を遣わし、 任那はお前の助けを得て、黎民〔=人民〕を撫養せよ。』と唱えられた。 謹んで詔勅を承り、悚懼〔=おそれ〕が胸に満ちた。 丹誠〔=清らかな誠〕を身に着けると誓い、任那の隆盛を冀(こいねが)い、 末永く天皇に事(つか)えることは、今なお往きし日の如きである。 まず始めに未だそうなっていない〔=任那の再興が成っていない〕ことを慮り、然る後に康楽するものである。 今日本府は、またよく詔に依り任那を救っている。 これは、天皇に必ず褒讃され、あなたたち自身が賞禄を賜るに値するであろう。 また、日本(やまと)の卿たちは久しく任那の国に住み、 新羅の境界に近接し、新羅の情状もまた、よく分かっているだろう。 新羅は任那を毒害し、日本を策謀によって防ぎ、そのまま来て久しく、単に近年だけのことではない。 だが、敢えて〔任那・百済への攻撃に〕動かないのは、近くは百済に恥じらい、遠くは天皇の日本を恐れてのことである。 朝庭に事(つか)えているように装い、任那と和すふりをしている。 このような中にあって、任那日本府について感心するのは、 新羅は未だに任那を虜とせず、それは日本府が偽って服従する姿を示しているからだということである。 願わくば、今こそ新羅の間隙を伺い、その不備を窺って、一挙に挙兵してこれを取ってほしい。 天皇が詔勅によって、南加羅、㖨己呑を立てることを勧められ、ただの数十年ではない。 だが新羅ひとりが皇命を聴かないことは、あなたも知るところである。 また天皇を信じ敬い、任那を立てようとするときに、このあり様である。 恐れていることは、あなたたちが甘言を信じ、安易に謾語〔偽りの言葉〕を受けて、 任那の国を滅ぼし、天皇を辱めることである。 あなたは自らを戒め、他人に欺かれることなど決してないように心されよ。」 秋七月、 百済は紀臣奈率弥麻沙(きのおみのなそつみまさ)、中部奈率己連(ちゅうほうなそつこれん)を遣わし、 下韓(あるしから)と任那の政(まつりごと)を来朝して奏上し、あわせて上表しました。 まとめ 安羅と百済の双方の側に、倭出身者と見られる名前があることが注目される。 すると、倭国からの植民ともともとの住民との間には、かなりの程度で融合が進んでいただろうと考えられる。 また、当時の国の構造の実体としては、加羅国や安羅国などの、 さらに一つ下のレベルの「国」(ここでは便宜的に「邑国 今回の七月条のうち、百済王の第一の言葉については、安羅国内のひとつの邑国が新羅に付いたことを問題にして、 安羅国に彼らをしっかり百済の側に繋ぎ留めておけと命じたわけである。 併せて、国内をしっかり束ねて南加羅・㖨己呑を百済の手に取り戻すことに協力せよと発破をかけている。 たまたまこの新羅に通じた邑国には倭国出身者が主要な地位を占めていたから、 書紀はその言葉を下敷きにして、この邑国を「安羅日本府」なるものに仕立て上げたと考えることができる。 ただ、百済王の第二の言葉の方には「任那」の語句が文章にかなり溶け込んで使われ、 一概に書紀による創作とは決めつけられない具体性もあるので、 書紀が参照した歴史資料に「任那」の語句が皆無だったとも言い切れない。 宋書には実際に「任那」の語句が使われており(倭の五王)、倭王武〔雄略帝といわれる〕の時代に倭でも使われた「任那」という国名が、 伝統的に欽明帝以後に引き継がれたとも考えられるからである。 ただ、第一の言葉の方は、やはり意図的に「任那」を幾つかの個所に付け加えて、印象を強化したと考えるべきであろう。 ここで、邑国のうち倭人が支配的な地位を占めていたものを、書紀は「官家(みやけ)」と称したと整理しておく。 これまでは、官家とは、倭国からの植民したコロニーと定義してきたが、 それよりももう少し現地との融合が進んでいたと考えられる。 さらに、「官家(みやけ)」のうち、とくに倭と百済の間で政治的に振る舞ったものを、書紀は「日本府」と称したと考えておく。 |
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⇒ [19-02] 欽明天皇5 |