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2020.03.12(thu) [18-06] 宣化天皇1 ▼▲ |
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1目次 【即位前】 武小廣國押盾天皇、男大迹天皇第二子也。……〔続き〕 2目次 【元年正月~二月】 元年春正月。遷都于檜隈廬入野、因爲宮號也。……〔詳細〕 3目次 【元年三月】 三月壬寅朔。有司請立皇后。……〔続き〕 4目次 【元年五月~七月】 《詔曰食者天下之本也》
「遐邇之所朝届」〔=「遠近之所朝見」〕は、次の「去来之所関門」とともに理解しがたい構文である。 漢籍で「之所」を用いた文を見ると、多くが 「富与貴是人之所欲也。貧与賤是人之所悪也」(論語:里仁) 〔富と貴、是れ人の欲するところなり。貧と賤、是れ人の悪(にく)むところなり。〕 のような形で、とても解りやすい。「所~」には動詞句を名詞化する機能がある。 「遐邇之所朝届」「去来之所関門」は「夫筑紫国者」、すなわち筑紫国の地理的な条件の説明であるから、 「遠来の三韓の使者が朝貢のために訪れ、行き来する関門の地である」の意味であるのは間違いない。 ところがこれらを直接的に訓読すると、「遐邇〔=遠近〕の所は朝(みかど)に届(いた)り、去来〔=行き来〕の所は関の門(と)なり」となり、何ともぎくしゃくしている。 「朝届」と「関門」がそれぞれ二連動詞でそれを「所」によって名詞化したと見るなら「自遐邇所朝届。為去来所関門。」ぐらいのが適切か。 結局「之」が邪魔である。 この詔がα群執筆者による創作だとすれば、もう少しまともな構文にしたようにも思われる。 すると、ここは歴史的文献として遺っていた詔そのままを載せたのかも知れない。 《関門》 関門海峡は、一般には下関・門司の地名による命名とされる。 しかし、「門」にはそもそも海の関の意味があった。
国司・郡司・関守((万)0545 木乃關守伊 きのせきもりい)という語を参考にすれば、海路の関守が「門司」であろう。 地名化した「門司」は「文字」とも書かれるから、「モンジ」と発音し、平安時代の習慣による仮名書きでは「モジ」であったと思われる。 宣化紀元年の「関門」は、関(セキ)と、通行する船のセキを意味する「門」の、同意語熟語と思われる。 よって訓読は、「関門」をひとつにして簡潔にセキか、あるいはそのまま音読して「セキノト」でも差支えないと思われる。 《遙設凶年厚饗良客》 「遙設凶年厚饗二良客一」は、凶作年でも朝貢のために訪れる使者への手厚い接待を維持する意である。 これが、那津官家を修造して食糧を備蓄することの目的だとする。 これでは、国家の対外的な面子のために過ぎない。 しかし、以下の項で述べるが、 「備非常永為民命」すなわち、凶作のときに備蓄した食糧を放出して民衆の生命を守るための施設であるとも述べている。 つまり、この詔には使者に常に充分な接待をするための備えと、民衆の生存のための備えという二通りの意義が混在している。 《加運河内国茨田郡屯倉之穀》 「加」とは、何に何を加えるのであろか。 おそらくは、暗黙のうちに「筑紫と周辺の国で、必要な穀を手配することは通常のことだが」と言い、 「それに加えて」異例のことだが天皇・大臣・大連が自ら、畿内周辺からの穀の運び込みを手配するということであろう。 これは、那津之口官家がそれだけ大規模だったこと、あるいは中央直属の施設として修造したことを物語っている。 《新屋連》 〈姓氏家系大辞典〉は「新家首:物部氏の族にして、此の新家は新に設けたる屯倉の意也。 蓋し此の氏は其の長となりにして、宣化紀元年条に見ゆる新家屯倉の首なるが如し。」 そして「新家連:新家首の宗家なるべし。」と述べる。 〈倭名類聚抄〉に{河内国・志紀郡・新家郷}とあるから、 よって、前後の「尾張国」「伊賀国」に倣って国名をつけるなら、「河内国新屋屯倉」であろう。 同辞典はまた、〈姓氏録〉の〖河内国/未定雑姓/新家首/汗麻斯鬼足尼命之後也〗を引用し、 「汗麻斯鬼足尼とは、宇摩志麻手命を云ふなるべし」とする。 また、〈天孫本紀〉の「十一世孫:物部竺志連公【新家連等祖】」を引用する。 《物部麁鹿火大連薨》 物部麁鹿火大連の薨に関する物語は一切書かれていない。 書紀のために蒐集した何らかの文書記録に丙辰年のこととして書いてあったことを、そのまま収めたのではないだろうか。 顕宗天皇の曲水宴のところでも同じ印象をもった。 《難以備率》 以・備・率はすべて動詞になり得るので、文法的な組み立てが難しい。 その前に「儻如須要」〔=若如必要〕がある。 つまり、貯蔵庫が山間の屯倉に散在していては緊急事態に間に合わないから、那津に集約させよという文脈である。 その緊急事態とは軍事であろうから、「率」は「率兵」の略ということになる。 「以」は副詞または接続詞として「筑紫肥豊三国屯倉散在懸隔運輸遙阻」なる現状を受けるものであろう。 よって、「難以備率」は「以って率兵が求められる事態に備えることは難しい」意であろう。 《宜課諸郡分移聚建那津之口》 「分移聚建那津之口」の聚は筑前・豊前に作られたいくつかの屯倉(安閑二年五月)に住む人の集落と読むのがよいだろう。 すなわち「宜下課二諸郡一分二上-移聚建那津之口一」は 「筑前・豊前の各郡に命じて、それぞれの屯倉から一定の人数を割いて「那津之口」に移させよ」の意であろう。 《以備非常永為民命》 「永為二民命一」とは、長く民衆に命令を自覚させておけという意味にも読める。 しかし、続けて「早下郡県令知朕心」〔急いでこの詔を末端まで下して、民に朕の御心を知らしめよ〕 とあるから、民衆への憐憫の情の表現であろう。したがって、 「以レ備二非常一永為二民命一」は、素直に「非常に備えて、民の生命を守るためである」と読めばよいであろう。 冒頭の「食者天下之本也。黃金萬貫不可療飢。白玉千箱何能救冷。」までの部分は、ここに繋がるのである。 しかし、その下の「夫筑紫国者遐邇之所朝届」から「安国之方更無過此」までは、 一転して使者の接待に関わる。 《大意》 五月一日、 詔を発しました。 ――「食は天下の大本である。 黄金万貫は、飢を癒すべくもない。 白玉千箱が、どうやって寒さを救えるのか。 さて筑紫の国は、遠近の所から朝見に訪れ、 関門に去来し、 これによって、海の向こうの国は、 海の水を窺って賓来し、 空の雲を望み見て貢献する。 胎中帝〔=応神天皇〕より朕自身に至り、 穀稼(こくか)〔=収穫した穀物〕を収蔵し、儲粮(ちょりょう)〔=貯糧〕として蓄積し、 遙かなるときに、たとえ凶年であっても、良客に厚く饗食してきた。 安寧の国に向かうためには、更にこれに過ぎることは無い。 よって、朕は阿蘇仍君(あそのきみ)【人物未詳】を遣わし、 〔地元産の穀物に〕加えて河内国の茨田郡(まむたのこおり)の屯倉(みやけ)の穀物を運ばせる。 蘇我大臣(そがのおおまえつきみ)稲目宿祢(いなめのすくね)は、 尾張の連(むらじ)を遣わして 尾張の国の屯倉の穀物を運ばせるべし。 物部大連(もののべのおおむらじ)麁鹿火(あらかひ)は、 新家連(にいやのむらじ)を遣わして新家の屯倉の穀物を運ばせるべし。 阿倍の臣は、 伊賀の臣を遣わして 伊賀の国の屯倉之穀を運ばせ、 こうして官家(みやけ)を那の津の口に修造させるべし。 また、筑紫(つくし)・肥(ひ)・豊(とよ)の三国の屯倉(みやけ)は 散在し、かけ隔てて、運輸は遥かな険しい道である。 もし必要なとき、これでは兵率に備えることは困難である。 また、諸郡に課して村の人員を分割して移し、那津之口の官家を建たせるべし。 以って非常に備え、永く民の命の為とする。 速やかに郡県に下し、朕の心を知らしめよ。」 七月、 物部麁鹿火大連(もののべのあらかひおおむらじ)は薨じました。 この年は、太歳丙辰〔536〕です。
【伊賀国屯倉】 《伊賀国庁跡》 伊賀国屯倉の比定地を求める研究は現在探索中であるが、今のところ見つけられずにいる。 一般的に全国の地方誌には、屯倉が後の国府に繋がると考えられている例がしばしば見られる。 そこで伊賀国についても、ひとまず国府について見ておく。 『伊賀国条里制の諸問題』(谷岡 武雄、福永 正三 人文地理16巻(1964)6号) によれば、『三国地誌』〔1677年頃;伊勢・志摩・伊賀の地誌〕に「屯倉・官家皆国府ノ地ニアルヘシ其遺址今詳ナラス」とあるように、 「三国地誌の刊行当時でも明確ではなかった」が、「現在の上野市西条(旧 府中村の大字)に、 「「国府湊」の旧称が残っていたことがしるされている」という。 同論文は、「百町北方の旧河道を一応国府湊のあと〔図のQ〕に比定」している。 ところが、平成元年から六年〔1989~1994〕に伊賀市坂の下で発掘された建物跡が伊賀国庁であることが確実になった。 遺跡は佐那具駅の西南西520mにあたる。 現地の案内板(伊賀市教育委員会生涯学習課文化財係設置)によると、 「奈良時代末から平安時代半ばの掘立柱建物、柱列、溝が検出され」 「〔大字〕坂の下〔小字〕国町地区には、中心建物である正殿を中心に「品」字状に大型の建物が配され、正殿前方には広場が設けられ」 「40m強四方を測る政庁域は、掘立柱塀と溝で区画されていた」 当初は掘立柱建物だったが、「10世紀前半から後半にかけて礎石立建物に建て替えられ」た。 出土した墨書土器の中には「「國厨」と書かれたものも見られ、遺跡の所在地に「こくっちょ(国町)」と称する地名が残ることも、 検出された建物群が伊賀国庁跡の遺構であるとする決め手と」なったという。 《新家駅》 また、〈釈紀〉和銅四年〔711〕正月丁未〔二日〕に「始置都亭駅。〔中略〕伊賀国阿閉郡新家駅。」とある。 『事典 日本古代の道と駅』〔吉川良、2009〕は「島ヶ原大道付近が適当であろう」という。 『姓氏家系大辞典』は「新家連」の項(後述)で、新家は新たな屯倉の意だと述べるので、ここにも適用できるかも知れない。 その訓みについて、同辞典は「『三重県の地名』(一九八三年)は書陵部蔵(谷森建男旧蔵)本に「ニイノミ」と朱注される」という。 〈姓氏家系大辞典〉は、「新家」の訓のひとつに「ニヒノミ」を挙げている。 島ヶ原の字大道付近は山地で条里はなかなか見えないが、少し南の字中川付近の大谷川沿いの狭い範囲に条理が見える。
【尾張国・伊賀国】 安閑帝・宣化帝の閨閥として、尾張連が政権に影響力をもった可能性を第234回【勾之金箸宮】で見た。 宣化元年の詔では、尾張連は蘇我稲目の指示の元で動く形ではあるが、大伴氏(飛鳥地域)・物部氏(石上地域)・蘇我氏(葛城地域)と連合して安閑・宣化政権を支えたと見てよいだろう。 また、尾張国の入鹿屯倉・間敷屯倉から飛鳥期の東海道(伊勢湾~初瀬街道)・横大路・丹比道・難波大道(但し原道)〔または住吉津〕を経て難波津に至る街道が重要な物流路として機能していたことが判る。 初瀬街道は伊賀国を通るから、「伊賀国屯倉」も那津之口官家修造のための食糧供給源のひとつになったわけである。 なお、伊賀国屯倉の比定地を求めた研究は、なかなか見つからない。 したがって、政治的には大伴大連・物部大連・蘇我大臣・尾張連の連合、物流路としては東海道・初瀬街道・丹比道・難波津が詔の「穀」の「運輸」の部分から浮かび上がる。 【那津之口官家】 《官家の政治的意味》 河内・伊賀・尾張はとても離れた国なので、毎年毎年、筑紫に穀物を運んで官家の庫を満たすのは現実的ではない。 年ごとの収穫米を集めるなら、筑紫国に近い範囲内であろう。 従って詔でいう運搬は一時的な用途のためで、実際には「官家」の「修造」のための人員を生産力の大きい国から動員し、そのために食料も一緒に運んだという意味であろう。 つまり、「故朕遣阿蘇仍君~運伊賀國屯倉之穀」の部分は、その動員された人員のための食糧の運搬を言っているのである。 また、筑前・豊前には安閑朝で設置し屯倉が散在するが、今回の詔によって早くも規模を縮小させる。 そしてその「聚」〔村人〕の一部を那津の口に集中させる。 ミヤケに屯倉ではなく官家の字を当て、大社や大寺院の如く「修造」なる表現を用い、生産力のある国に動員をかけたことは、 実は国家事業としての大規模な副都の建設であったことを示している。 このことは、那津之口官家は大宰府の前身の如く思われる。 実際には那津之口は大宰府のところではないようだが、その機能を受け継ぎながら移転して大規模化したのが大宰府ではないだろうか。 従来、筑紫周辺の副都は豊前国京都郡であったが、 磐井の乱によって手に入れた糟屋屯倉に接する地に大きな副都を新たに作り、 その官家は筑紫・豊・肥地域を管轄し、半島からの使者の接待を直接朝廷が行うことにしたわけである。 すなわち、磐井の乱〔関門海峡を通過する使者から私的に利益を得ることの禁止〕⇒糟屋屯倉の設置⇒筑前・豊前の多くの屯倉の設置⇒那津之口官家への集約は、ひとつの流れと言える。 それは中央集権化であり、特に外国の使者の接受に地方氏族が関与することを禁止した。 副都なる官家の修造には、筑紫周辺の人民には税に使役に大きな負担を強いたことであろう。 だから、民の命を守るために食糧の備蓄庫を作るというのは、人心を宥めるための名目に過ぎない。 彼らの不満が大きかったからこそ「早下二郡県一令レ知二朕心一」、すなわちこの「朕の御心」を伝えさせることを急いだのである。 那津之口官家は後の鴻臚館や大宰府の出発点に位置づけられる。次にその流れを見ておこう。 《鴻臚館》
難波館の初出は、継体紀六年である。 また筑紫館の初出は、持統天皇紀二年〔688〕、天武天皇が崩じたとき新羅から弔使として訪れた金霜林のために宴席を設けて接待した。 曰く「二月/己亥〔十日〕。饗二霜林等於筑紫館一」とある。 また、(万)3652 題詞に「至二筑紫舘一遥二-望本郷一悽愴作歌」 〔筑紫館に到着し、故郷を思って悲しい気持ちで詠んだ歌〕とある。 「鴻臚館」なる名称は、 『紀略』所引『後紀』に「大同五年〔810〕夏四月庚午朔。饗二渤海使高南容等、於鴻臚館一。」がある。 ただし、渤海国使を接待した「鴻臚館」は平安京に建てられた施設である。 筑紫国の鴻臚館については、〈延喜式-兵部省〉「諸国馬牛牧」の項に 「凡太宰府定額兵馬廿疋之中十疋。牧馬十疋。並分二-置鴻臚館一。備二急速之儲一。」 〔定額〔=規定の頭数〕20疋を、大宰府と鴻臚館に10疋ずつおいて、急な儲〔まうけ=そなえ〕に備える〕 が見える。よって延喜式〔927;平安中期〕成立の頃には、筑紫館が鴻臚館と呼ばれていたことが分かる。 その遺構が、昭和62年〔1987〕に当時の平和台球場の外野席改修工事中に発見された (福岡市の文化財-鴻臚館跡展示館。福岡市中央区城内1)。 《比恵遺跡群》
そして同じ地点で第72次調査が平成12年〔2000〕5月9日~同年9月19日に実施された。 第8次調査については、「総柱建物」が「いずれも3間×3間で7棟確認」され、 「造営年代を6世紀後半の早い段階とし」「7世紀後半には廃絶されていたと考えられる」と述べる。 なお、第72次調査によって「3間×3間の総柱建物」は計10棟になった。 同報告はまた、有田遺跡群(福岡県福岡市早良区小田部1~3丁目、有田1~3丁目)の調査報告も併せて載せる。 同報告はその結論部分において、 比恵遺跡群と有田遺跡群は 「おおよそ6世紀の後半代に上限を求められ、廃絶を7世紀の後半までにまとめることができ よう。」 「造営の時期についてはいまだ判然としないが、従来考えられているような大宰府への施設移転を考える場合廃絶の時期はおおよそ一致していると言える。 また3本一組によって構成される柵状遺構の特殊性、遺構群 の大規模な企画性、調査地点周辺に残る「宮田」・「三宅田」・「犬飼」などの地名および出土遣物から想定される時期的近接性などがこれらの遺構群を「那津官家」関連遺構と考える根拠となっている。」 「有田・比恵の3本柱柵建物群は那津官家に比定されることが多いが、日本書紀の宣化元年(536)とは依然として数十年の開きがある。ただし有田遺跡の1本柱柵は前述のように、唯一宣化元年に近い可能性がある。」 「「那津官家」には政治的・軍事的機能が付与され、対外的な窓口としての性格ももち合わせていたことが想定され、 ここには「筑紫大事」と呼ばれる中央からの派遣宮人が常駐していた可能性が高い。このように ミヤケとは優れて政治的な施設であり、中央政権の力が色濃く反映された「官衙」であると考えられる。」 と述べる。 ここで、本サイトの見解を述べる。まず「3間×3間」の建物群については、穀物倉庫の印象を受ける。 しかし前述したように、河内・伊賀・尾張の穀物を毎年運び込んだと見るのは現実的ではなく、 やはり「筑紫豊肥」の生産物であろう。 これだけの倉庫群を抱えるのだから、当然大型の政庁があったと思われるが、未発見なのであろう。 「有田遺跡群」は比恵遺跡群とは離れ過ぎていて、那津官家の一部と見るのは難しい。関連を持ちつつ存在した、衛星的な施設と見るべきであろう。 報告書は有田・比恵の年代が宣化元年の数十年後を中心としていることを問題視しているが、 施設が増改築を繰り返して維持・発展するのはごく当たり前のことである。 一部でも6世紀前半のものが含まれていれば、まさにその最初の設置が宣化元年頃だと考えればよいのである。 《大宰府》 大宰府については、推古紀十七年〔609〕「夏四月丁酉朔庚子〔四日〕。筑紫大宰奏上言」が初出である。 この時期の大宰府の機能は、まだ「那津之口官家」にあったと思われる。 前項の『比恵29』によれば、那津之口官家は7世紀後半には廃絶され、大宰府に移転した。 持統天皇が688年に新羅使を接待した「筑紫館」については鴻臚館なのか、 それとも那津之口官家の付属施設かは、微妙である。
さて大宰府は那津之口官家から内陸側に遷され、条坊を備えた副都としての陣容が整えら、 専用の官道によって鴻臚館と結ばれた。 その移転の理由を考えるに、7世紀末には唐による日本への直接攻撃さえ危惧され、 都への緊急連絡のための烽火台が急速に整備された。 万が一の時に大本営となる大宰府は、海岸に近い那津のままでは攻撃を受ける危険であると考えられたのだろう。 そのときは鴻臚館が前線となるので、軍事的な役割をも負わせたことが、〈延喜式-兵部省〉の「牧馬十疋。並分二-置鴻臚館一。備二急速之儲一。」に現れている。 大宰府へは穂波屯倉からの官道が通じており、 筑前・豊前の屯倉が穀物の重要な供給地であったことが伺われる。 これは、那津之口官家からずっと続いたことだろう (屯倉:【豊国】)。 《那津之口官家の比定地》 卑弥呼の女王国のときは、大宰の機能は伊都国に置かれた。 魏志倭人伝(57)に 「自女王國以北特置二一大率一検二-察諸国一」とある。 比定地は筑前国怡土郡(現在福岡県糸島市)の平原遺跡で、比較的有田遺跡群に近い。 伊都国はまた、「〔帯方〕郡使往来常所レ駐」でもあった。 このように、博多湾近辺と南韓との交流の歴史は古い。 時代が下って比恵遺跡群は、大宰府と鴻臚館を結ぶ線上にあり、もともと那津之口官家がここにあったとすれば、自然である。 さらに筑前・豊前の屯倉から穂波郡の官道経由で穀物が運ばれたことも考え得る。 当然粕屋屯倉の穀物にも支えられた。 磐井の乱の敗北後、筑紫君葛子によって行われた糟屋屯倉の献上は、ここで重要な意味をもつことになる (継体天皇二十二年十二月) また、現代地名「那の津」の地域は、魏志倭人伝の奴国に比定されており、 那珂川も古代地名ナに由来すると言われる。また、沖には「漢委奴國王印」が出土した志賀島がある (魏志倭人伝(21))。 このようにナはこの地域に弥生時代から定着している。 それから見れば比恵遺跡群こそが、宣化朝そして書紀の頃も那津であって、有田遺跡群まで含めるのは無理がある。 ただ、有田遺跡群のところにも使者の宿泊所があり、新羅国使を比恵、百済国使を有田に振り分けていたとする想像は可能である。 なお、「那津」に「之口」がついているのは何故か。一般には簡潔に「那津官家」と言い習わされている。 そもそも「津之口」では「津=海からの入り口」にさらに「口」がついていて意味不明であるが、 入港する立場で考えれば、さまざまな入港場所に「~の口」をつけて呼んだことは考えられる。 あるいは、「那津」とは当時既に広い地域を指す地名で、その海に開いた入り江または湊のところを指すのかもしれない。 まとめ 那津之口官家の修造は、筑紫・豊・肥地域における中央集権化と同時に、外交の朝廷一本化がねらいであった。こうして九州の諸族が個別に外交関係を結ぶことを断然排除したと見られる。 継体二十一年条で、 「新羅知レ是、密行二貨賂于磐井所一而勧レ防二-遏毛野臣軍一」 〔新羅は是れ〔=磐井の叛意〕を知り、密かに磐井に賂を送り、毛野臣軍による新羅への攻撃を邪魔させた〕 の部分は、間違いなく潤色だと思って一笑に付した。しかし、磐井がそれまで新羅と独自に外交関係を持っていたこと自体はあり得たわけだから、 それが書紀が磐井の陰に新羅の陰謀ありと描くことへの一定の材料となったと言うことはできる。 磐井の〔朝廷から見た〕罪は、関門海峡を通る三韓の使者や商人の船から勝手に通行料を取ったことだと見た。 もちろんそれもあろうが、さらには小さな朝貢関係をも独自に結んでいたことは十分に考えられる。 百済・新羅側も倭国朝廷に報告する義理はなく、黙って受け入れていたであろう。 『岡山県史』〔1990年〕は、さらに吉備・出雲までもが日本海ルートによる独自の関係を新羅との間で 結んでいたという見方を示している(「吉備国の屯倉」) さて。那津之口官家の修造によって諸族による勝手な朝貢関係を一掃し、朝廷による外交の独占を成し遂げた。次はこれを土台にして、欽明紀においてはいよいよ百済・新羅に挟まれた小国乱立地域への直接支配国〔=任那傀儡政権〕の樹立に向かう。 だが、この試みは基本的に失敗に終わるのである(資料[32]「任那日本府」考)。 |
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2020.03.16(mon) [18-07] 宣化天皇2 ▼▲ |
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5目次 【二年】 《以新羅冦於任那以助任那》
宣化二年(丁巳)は、三国史記では新羅:法興王原宗二十四年、百済:聖王明襛十五年にあたる。 新羅の法興王二十四年に記事はなく、その前後にも武力侵攻を伺わせる記事はない。 百済の聖王十二年には「熒惑犯南斗」とあるが、これは熒惑(火星)が南斗(いて座の一部分)に入る天文現象を書いたものである。 火星がいて座を通ること自体は、平均して公転周期の687日(約1.9年)に一回あるから特に珍しい現象ではないが、「熒惑犯南斗」とはたまたま南斗で逆行(25.7か月に一回)が起こるという意味であろうか。 次の記事は聖王十六年の「春。移都於泗沘。一名所夫里」〔熊津から泗沘への遷都〕である(継体二十三年《扶余》)。 この期間、武力紛争の記事は別段ない。 何らかの紛争があったとしても、取るに足らない程度のものだったのだろう。 むしろ二年条の主眼は、大伴金村大連が息子たちを派遣して筑紫国を直轄し、併せて那津之口官家が対三韓外交の拠点になったことを示す所にあろう。 なお、これまでに考察してきたように任那は倭人の入植地域を漠然と指す (神功皇后三十九年など)。 狭手彦については〈欽明紀〉二十三年に、「領二兵数万一伐二于高麗一」として高句麗に遠征した話が載る。 また(万)0871の題詞には、松浦佐用姫が狭手彦との別れを惜しむ伝説が紹介されている(資料[15])。 《留筑紫執其国政》 「其国」とは筑紫のことであるから、中央政権による直轄体制を敷いたことを意味する。 できたばかりの那津之口官家に腰を据えて執務したのであろう。 任那に派遣された狭手彦と連携しているから、 半島での作戦を立案・指示する拠点となっていたと見られる。 秀吉の文禄・慶長の役における名護屋城のようなものである。 《大意》 二年十月一日、 天皇(すめらみこと)は、新羅が任那(みまな)を攻撃したことにより、 大伴(おおとも)の金村大連(かなむらおおむらじ)に詔を発し、 その子、磐(いわ)と狭手彦(さてひこ)とを派遣させ任那を助けさせました。 この時、磐は筑紫に留まり、筑紫国の政を執ることにより、三韓に備えました。 狭手彦は現地に行き、任那を鎮圧し、加えて百済を救いました。 6目次 【四年】 《天皇崩》
また雄略天皇二年に人名「身狭村主〔むさのすぐり〕青」がある。 雄略天皇の信頼が厚く、しばしば呉〔北宋〕に派遣される。 〈延喜式-諸陵寮〉には 「身狭桃花鳥坂上陵【檜隈廬入野宮御宇宣化天皇。在大和国高市郡。兆域東西二町〔216m〕。南北二町。守戸五烟。】」とある。 宮内庁治定の「宣化天皇身狭桃花鳥坂上陵陵」は、考古学名鳥屋ミサンザイ古墳(墳丘長130m、前方後円墳。奈良県橿原市鳥屋町)である。 『天皇陵古墳』(森浩一;大巧社1996)は、鳥屋ミサンザイ古墳について 「出土埴輪の示す編年観や不明瞭な造り出しを退化傾向とみて、古墳時代後期前葉から中葉にかかるものと推測しておきたい」 〔埴輪の年代から、時代が下って造り出しが不明瞭となったと判断し、5世紀終盤~6世紀中盤とする〕と述べる。 《孺子》 「合葬皇后及孺子」と書かれた記録が当時存在していて、記紀の執筆者はその「孺子」を男子王と解釈したものと考えられる。 そして記は「倉之若江王」を男子としてこの孺子に当てはめ、 書紀は男子王「殖葉皇子」を橘仲皇女に移したのではないだろうか。 しかし、書紀の校訂者はこれらの何れをも否定して孺子とはまだ名前もない幼子だと考え、原注でその旨を主張したと見られる。 何れにしても、この「孺子」が男子だとする暗黙の共通理解があったのだろう。 クーデターだとすれば天皇とともにその後継者たる男王も殺されて当然だと、皆が思っていたのである。 継体天皇紀のところではあるが、「日本天皇及太子皇子倶崩薨」の語句をわざわざ載せたところに、 当時の常識が見える。この常識は時代を問わず、本能寺の変においては信長とともに信忠も襲撃されて自刃した。 《大意》 四年二月十日、 天皇(すめらみこと)は檜隈(ひのくま)の廬入野宮(いほりののみや)に崩じました。時に七十三歳でした。 冬十一月十七日、 天皇を大倭国、身狭(むさ)の桃花鳥坂上陵(つきさかのえのみささき)に葬りました。 皇后(おおきさき)橘皇女(たちばなのひめみこ)及びその孺子を、是の陵に合葬しました。 【皇后の崩年は、伝記に不載です。 孺子(じゅし)とは、おそらく未成人を葬ったものか。】
【桃花鳥坂】
「築坂邑」については、神武二年二月に「天皇定功行賞。 賜道臣命宅地。居于築坂邑。」とあり、 大伴氏の祖である道臣命が神武天皇による論功行賞として築坂邑に邸宅を賜った伝説がある。 奈良県橿原市鳥屋町13に、「築坂邑伝称地」碑がある。 碑の近くにあるのが「鳥坂神社」(奈良県橿原市鳥屋町17-1)で、〈延喜式-神名帳〉{高市郡/鳥坂神社【二座。鍬靫】}の比定社である。 『和州五郡神名帳大略註解』〔1446年〕による祭神は「左高皇産霊命。右天押日命」である。 天忍日命は、神代紀一書4に「大伴連遠祖天忍日命」が瓊瓊杵尊に随伴して降りたという記述がある (第84回)から、鳥坂神社は大伴氏の氏神に由来するであろう (武烈即位前4《大伴金村》)。 従って、一般に言われるように「桃花鳥坂神社」の表記が「鳥坂神社」に変わり、やがて誤って「トリサカ」と呼ばれるようになったと見られる。 また、場所の近くには益田池〔平安時代初期〕があった (第134回《益田池碑銘》)。 益田池付近にはまた、懿徳天皇の軽曲峡宮伝承地がある(第104回)。 「軽曲峡宮」は、孝元天皇の軽境原宮とともに、「軽」の地域にあると考えられている。 「軽」については、軽寺跡と推定される遺跡が見出されている(第148回)。 このように、軽と身狭とは牟佐坐神社の辺りで接していたか、あるいは重なっていたことが考えられるが、牟佐坐神社が現在位置まで移転してきたかも知れないから、 何とも言い難い。
また、綏靖天皇の「桃花鳥田丘上陵」(記は「衝田岡」)がある(第102回)。 「綏靖天皇陵」との治定は明治十一年〔1878〕で、従来自然地形とも言われているが、 平成三十年〔2018〕の考古学・歴史学の研究者による「立ち入り調査」の「調査後の検討会で、古墳との見解でほぼ一致した」とされる(『毎日新聞』2018年2月24日)。 地理的には鳥坂神社を中心とする地域からは離れており、むしろ「「綏靖陵」は江戸時代の山陵絵図には〔中略〕しばしば神武陵として描かれている」(『天皇陵古墳』)という江戸時代の見方の方が自然である。 記紀が書かれた時点に遡ると、桝山古墳あるいは鳥屋ミサンザイ古墳を、宣化陵・綏靖陵・倭彦墓とする伝説が混在し、 物理的には一つの古墳なのにそれが複数の天皇に割り当てられることもあったと思われる〔合葬という意味ではなく、独立した別個の伝説による衝突である〕。 記における諸陵はそれまでの各地の伝説、あるいは後裔氏族の伝承によったのであろう。 よってたまたま異なる天皇の陵が重なっても、記紀の頃はあまり気にしなかったように思われる。 ところが後に〈延喜式〉となるとこの認識に立てず、現在に至るまで陵と天皇は絶対一対一対応のはずだと信じられた結果、 特に神武天皇陵、安康天皇陵、雄略天皇陵、武烈天皇陵などにおいて首を傾げるを得ない奇妙な治定がなされたわけである。 《筑坂》 「築坂」、「桃花鳥坂」の地名に最も直接的に結びつき、氏寺であったと思われるのが鳥坂神社であるから、 大伴氏の本貫はこの辺りであろう。 鳥屋ミサンザイ古墳は宣化天皇陵とされるが、倭彦命のツキサカ墓や綏靖天皇のツキタノヲカ陵についても、それぞれの独自の伝承において鳥屋ミサンザイ古墳を陵墓としていた可能性がある。 なお、「身狭」については牟佐坐神社の位置から考えて、桃花鳥坂を包含するがやや広い地名だったと思われる。 さて、宣化天皇紀では大伴金村がその子の磐・狭手彦兄弟とともに朝廷を主導している。 ということは天皇はいわば飾り物だから、もともと大伴氏内部の伝承をそのまま宣化天皇紀として用いた可能性が考えられる。 「桃花鳥坂上陵」は、その伝承の中の言葉ではないだろうか。 各地の氏族の伝承においては、話の舞台が本貫地に近くに設定されることも多いであろう 〔浦嶋太郎伝説にその例を見た〕。 このように、単に大伴氏に伝わる話によってツキサカにあった古墳を宣化天皇陵と述べたということも、ありそうなことと思われる。 まとめ 武烈帝を廃した頃から、大伴金村大連の専横が目立つ。 武烈帝に替えて意のままになる天皇を立てようと画策したようだが、候補者に逃げられたりする。 ところが、やっと連れて来た継体天皇は予想外に有能で、大伴金村の目論見は外れてしばらくは天皇親政となった。 継体帝亡き後、安閑帝・宣化帝の在位年数は短い。 安閑紀・宣化紀の内容は大伴家の記録に依った気配があり、両帝の実在性すら検討の余地があるが、傀儡として形式的には在位したと見るのが順当か。 仮に宣化帝の皇后と幼き王子が共に殺されたとすれば、武烈帝のときと同じように皇太子を遺すことを拒否された気配が見える。 宣化帝は、大伴金村に対して自立志向を見せたために処断されたという筋書きも想像し得る。 一方で、欽明天皇を守り抜き帝王学を授けたと考えられる手白香媛も、 一定の権力をもっていたと思われる。その最大のライバルは橘仲皇女であった。 橘仲皇女がもし皇子を産めば、血筋では欽明天皇と同等であるから、 蹴落とすために相当なことをやったとする想像は容易である。 この大伴金村と手白香媛を前にして宣化帝と皇后の立場は不安定であった (元年三月系図参照)。 |
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⇒ [19-01] 欽明天皇1 |