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2020.02.14(fri) [18-05] 安閑天皇5 


目次 【二年八月~九月】
《詔置國々犬養部》
秋八月乙亥朔。
詔置國々犬養部。
秋八月(はつき)乙亥(きのとゐ)の朔(つきたち)。
詔(みことのり)して国々に犬養部(いぬかひ、いぬかひべ)を置くべしとのたまふ。
九月甲辰朔丙午。
詔櫻井田部連縣犬養連難波吉士等、
主掌屯倉之税。
主掌…〈汉典〉管理、掌持。〈百度百科〉意思是対某件事全権負責。掌-握-着権力
たちから…[名] 田地に課する租税。後世は年貢米に変質していく。
九月(ながつき)甲辰(きのえたつ)を朔として丙午(ひのえうま)〔三日〕
桜井田部連(さくらゐたべのむらじ)県犬養連(あがたのいぬかひのむらじ)難波吉士(なにはのきし)等(ら)に詔(みことのり)して、
屯倉(みやけ)之(の)税(たちから)を主掌(つかさど)らしむべしとのたまふ。
丙辰。
別勅大連云
「宜放牛於難破大隅嶋與媛嶋松原。
冀垂名於後。」
丙辰(ひのえたつ)〔十三日〕
別(ことに)大連(おほむらじ)に勅(おほせごと)して云(のたま)ひしく
「[宜]牛を[於]難破(なには)の大隅嶋(おほすみしま)与(と)媛嶋(ひめじま)の松原(まつばら)に放つべし。
冀(こひねがはくは)名(みな)を[於]後(あと)に垂(た)ることをねがひたまふ。」とのたまふ。
《犬養部》
 〈氏姓家系大辞典〉は「犬養 イヌカヒ:犬養は文字通り 犬飼ひにて狩猟に関する品部の名より起る」と述べる。
 猟犬は、『世界大百科』によれば「狩猟に使役するイヌ。人類がイヌを使役し始めたのは、少なくとも9500年以上の昔と推定され」、 「指示犬、狩出犬、回収犬、緩追犬、速追犬、格闘犬などがある」という。
 〈氏姓家系大辞典〉はまた、「犬養部 イヌカヒベ:犬を飼養して狩猟等に従事する品部なるべし」、 「縣犬養、海犬養、安曇犬養、辛犬養、若犬養、阿多御手犬養等、 種類多く、且つ相当の地位に上れる人を出し、その伴造とものみやつこ早くより 〔むらじ〕姓なる等を思へば、勢力盛なりしや想像するに難からず」と述べ、 大和・山城・河内・摂津・和泉・美濃・信濃・三河・下総・上野・下野・備前・備中・美作・若狭・越中・豊後・筑前・ 大隅・薩摩・因幡の各国に、犬養部(または犬甘いぬかひ)を見出している。
 県犬養部については、「縣犬養 アガタ:縣犬養部を率ゐし氏にして河内を本居とし、京にも移り住めり。 神魂命八世孫阿居太都命の後〔新撰姓氏録;〖県犬養宿祢〗の記述〕にして〔すこぶ〕る勢力あり」とする。
《屯倉之税》
 二年四月条の「屯倉」には、地方の首長勢力への統制を強めるための出先機関という性格を見た。
 しかし、ここでは屯倉のもともとの意味に立ち戻って使われたと見られる。 魏志倭人伝(55)にも「収租賦有邸閣」とあり、 「邸閣」は徴収した米の貯蔵庫+役所と解釈することができ、これがミヤケ(御宅)の由来であろう。 もちろん、安閑紀でいう屯倉においても大小に関わらず朝廷の直轄領だから、従える部民が税を納める。
 国造の領地においては、国造が一度収めたものから規定通りに中央に送るとは考えられない。それでも朝廷への納税はあったと考えられ、その具体的な方法については想像するしかない。
 まず、領地の一部を屯倉として提供する。 形態を考える。
 これはまさに供出型の屯倉であるが、26屯倉の標準の数十町程度では国造の領土のごく一部である。 これだけでは朝廷の財政規模は小さく、国造の統制などおぼつかない。 これまで度々見てきたように、前方後円墳という墓制の統一、即ち精神の統合が維持されたのだからもう少し強い権力が存在したであろう。
 そこで、古くから 税の徴収日に、部民が持ってきた米を予め決めた割合によって分けて国造と朝廷官吏が受け取る。 方式があったことが考えられる。
 この方式は、神社の封戸の納税から類推したものである。 封戸とは、税の一定の割合を神社に納めるように定められた集落のことで、その納入日には必ず国司が同席したという。 恐らくは、貢ぎ米を運び込んだ現場で、現物を神社と朝廷が分配したものと考えられる(第206回)。
《難破大隅嶋》
 「難破」とは縁起が悪いが、「難波」の誤記であることは明白である。
 大隅島の位置については、別に項を立てて考察する。
《媛嶋松原》
 「媛嶋」は、現在の大阪市西淀川区姫島か。
 地名「姫嶋松原」は、(万)0228 題詞に「和銅四年〔711〕歳次辛亥。河辺宮人姫嶋松原見嬢子屍悲嘆作歌二首〔河辺の宮人、姫嶋松原に嬢子(をとめご)の屍(かばね)を見て悲しみ嘆きて作(よ)める歌二首(ふたうた)〕、 及び(万)0434〔同じく〕哀慟作歌四首」とある。
 「」については、〈続紀〉霊亀二年〔716〕二月己酉〔二日〕に 「摂津国大隅媛嶋二牧。聴佰姓佃食一レ之。〔摂津の国をして大隅、媛嶋二つの牧を罷(や)めしめ、佰姓(はくせい)の佃(たつく)りて之を食(く)ふことを聴(ゆる)したまふ。〕とあるから、 「放牛」が牧の設置を意味するのは確実である。 また、「聴佰姓佃」は、このとき二つの牧は完全に廃止されて農民による開墾が許されたと読める。 そう読み得るのは、 天平元年〔729〕十一月癸巳にも「依常聴佃。自餘〔=その他の〕開墾者…〔常によりて佃を聴(ゆる)し、ほかに開墾せし者は…〕という表現があるからである。
 『万葉集註釈』〔仙覚抄とも;1269年〕所引『摂津国風土記』逸文に、「比売嶋松原」がある。
摂津国風土記云。
比賣嶋松原。
右。軽嶋豊阿伎羅宮御宇天皇世。
新羅國有女神。遁去其夫来。
暫住筑紫国伊波比乃比売嶋【地名】
乃曰。此嶋者猶不是遠
若居此嶋男神尋来
乃更遷来。遂停此嶋
故取本處住之地名。以爲嶋號
摂津国風土記の云ふ。
比売嶋松原ひめしまのまつばら
右。軽嶋豊阿伎羅宮御宇天皇かるしまあきらのみやにしろしめすすめらみこと〔応神〕みよ
新羅国しらきのくに女神めかみ有りて、ねて其のつま来たり。
しまらく筑紫の国の伊波比いはひ比売ひめ嶋【地名ところのな】にみき。
すなはち曰はく「此の嶋は猶是なほこれ遠からじ。
若し此の嶋にすまはば、男神をかみ尋ね来たらむ。」といひて、
乃ち更にうつり来たりて、つひに此の嶋にとどまりき。
かれもとりしすみか地名ところのなを取りて、以て嶋号しまのな
 すなわち、この文は、 応神天皇段の「阿加流比売」伝説(第156回)の類話である。
 この「阿迦留姫命」が姫島神社(大阪市西淀川区姫島4-14-2)の主祭神になっている。 さらに垂仁天皇元年是歳にも類話がある。 阿加流比売伝説に関わる神社には比売許曽ひめごそ神社(東生郡)、 赤留比売命神社(住吉郡)もある。新羅から渡来した一族の居住地の広がりを反映したものか。
 垂仁天皇紀は、「豊国々前郡」(豊後国国東郡)にも比売許曽社(大分県の姫島に比定)があると述べるが、風土記では「筑紫国伊波比」 の「比売嶋」が出てくる。 豊後国にせよ筑前国にせよ、新羅から難波に至る中継地にあたる。
 筑前国志摩郡の西に玄界灘に姫島が浮かび「姫島神社」があるが、その名前が「姫島神社」になったのは宝永年間でごく新しい。 また註釈に「地名」とあるから、島ではなく内陸であろう 〔「伊波比いはひ」ははふり〔=神職〕と同じ意味だから、その居住地を意味するか〕。 大牟田市の地名に姫島町があるが『福岡県神社誌』を見る限りでは、大牟田市にはそれらしい神社はない。 書紀に書かれた神社については古くから実在の神社と結びつけ努力が重ねられてきたが、風土記逸文となるとそれほどではないようである。
《冀》
 「乞ひ願ふ」は、大伴金村大連に向かって「お前の名を遺すように願え」と勧める文だと一度は考えた。 しかし〈続紀〉を見ると、勅において天皇自らが「ふ」のが明らかな表現が大量にあるので、 ここでも「天皇が神にこいねがふ」意味と見られる。したがって「」の訓読は「みな(御名)」となる。
《大意》
 八月一日、 詔(みことのり)して国々に犬養部(いぬかいべ)を置きました。
 九月三日、 桜井田部連(さくらいたべのむらじ)、県犬養連(あがたいぬかいのむらじ)、難波吉士(なにわのきし)らに詔(みことのり)して、 屯倉(みやけ)の税を掌らせました。
 十三日、 特に〔大伴金村〕大連(おおむらじ)に勅して 「牛を難波の大隅(おおすみ)島と媛島の松原に放つべし。 冀(こいねが)わくば、我が御名を後世に垂れることをねがう。」と仰りました。


【大隅嶋放牛】
 大隅島の放牧地、そして大隅宮は現在の大阪市東淀川区にあったと言われるが、 この位置から難波津から出る船を見送る〔応神紀〕ことはできないだろう。 ここで、この問題について検討する。
《大隅神社》
 まず、改めて大隅神社を見よう。
 現在の大隅神社(大阪府大阪市東淀川区大桐五丁目14-81)は、淀川の西岸にあたる。 以下、同社パンフレットの「御由緒」から主な箇所を抜き出す。
●「後鳥羽天皇御悩の時、この地から黄牛の乳を薬料として献進したので、御平癒の後、乳牛牧の地名をたまわった」。
●「当社はこの地の生土神うぶすなのかみとして尊崇せられて来た」。
●「淀川がはんらんした際、賀茂明神の御神体が漂着」、「これを生土神祠に合祀したものと思われ」、「社名を賀茂神祠かものみやしろと改め」た。
●「天文十八年(一五四九年)の江口合戦、さらに元亀・天正の騒乱を経て、慶長・元和の大坂陣に至るまで、幾多の戦乱を経過する間に、当社も兵火に焼かれて頽廃」した。
●「宝永四年(一七〇七年)」再興。
●「明治四年〔1871〕、「応神天皇を主祭神とし、社名も大隅神社と改められた」。
 なお<wikipedia>によれば、「大隅神社」の社名は明治6年〔1873〕からとされる。
 このように『大隅神社』の名は、基本的には書紀書紀再評価運動の中で、明治になってから定められた社名と見られる。 ただし後述するように西大同村の別名「大隅」は、〈五畿内志〉(享保十九年〔1734〕成立)の時点で存在し、 『摂津国図会』〔1798〕には「大隅宮趾」が載る。
 大隅神社は西成郡の北東端にあり、『五畿内志』によれば「西大道村」にある。
 また大隅神社の近くには「乳牛牧跡」碑が建ち、味原牧(あじふのまき)とも呼ばれる。
大道村は町村制(1889)により成立。
《西大同村》
 次に、『五畿内志』摂津国-西成郡から関連事項を抜き出す。
【村里】
北大道。南大道【属邑五】。西大道【旧名大隅。又名大内。又三宝寺属邑一】。大道新家【一名小松○以上四村乳牛牧荘】。
江口。
【神廟】
賀茂神祠【在西大道村南大道北大道祭祀】。
大祖皇祠【在西大道村相伝祀応神天皇】。
【古蹟】
大隅宮【在西大道村。応神天皇二十二年春三月。帝幸難波大隅宮。 安閑天皇二年秋九月。勅宜於難波大隅島与姫島松原…】。
 このように、江戸時代には「賀茂神祠」が北大道村・南大道村にもあったようである。
 また、「大祖皇祠」があり、応神天皇が祀られていた。
 この北大道村南大道村西大道村が、現代地名の「大桐(だいどう)」および「大道南」になったと見られる。
 ところがこれらの西は、奇妙なことに実際の配置とは逆転している。 試しに村名の由来になったと思われる、古代の「大道」の痕跡を調べる。 地理院地図の「陰影起伏図」のコントラストを強調してみると、 市街地であるから、見える道は近現代に整備されたものが殆どであるが、その格子に斜交する東西の直線路は明瞭で、 これが大宝令の時期に整備された「大道」で、 北大道村と西大同村の境になっていたと思われる。
『事典 日本古代の道と駅』より
摂津国・山城国・大和国の図を合成
点から東を見る 国土地理院/古地図コレクション より、伊能図「大阪 尼崎」。
地理院タイル―陰影起伏図を加工(コントラストを強調) 大宝令期に想定される「大道」
 つまり、「北大道村」とは「大道村の北の部分」ではなく、「北側に大道がある村」なのである。 西大道南大道もそれぞれ西側、南側に「大道が通る村」であろうから、 「大道」は西大東村の西で北に屈折すると思われる。 確かに明瞭に屈折しているが、ただ屈折後は現在の国道479号にあたる。この479号が「大道」を上書きしたものか、 あるいは「大道」は479号に平行な道と考えられる。
 『事典 日本古代の道と駅』(吉川弘文館)を参照すると、確かに該当する位置に点線(駅路と見られるが、〈延喜式〉に見えないもの)が通っている。 この道は直線で東に向かい、河内湖(草香江)の北を通り、四条畷市から清滝峠を越えて平城京の北に達する。 よって、この「大道」が、平城京時代の山陽道であったのではないだろうか。
 同事典は「槻本駅」の項で、この道について「恭仁京当時の山陽道になった可能性のある清滝越」と述べる。 恭仁京〔740~744年〕は奈良時代に一時遷都されたが、すぐに廃された。
 このように、「北大道」などの地名の起源は大宝令による駅路の設置の頃に遡ると思われる。
《大隅宮跡》
 『摂津名所図会』〔1796~1798〕巻之三にも、大隅宮の説明がある。
 曰く「大隅宮おほすみのみや: 旧趾西大道村なり 日本紀云 応仁〔ママ〕天皇廿二年春三月 帝難波に〔いで〕まし\/〔まし〕て大隅宮に居したまふに  安閑天皇二年秋九月 みことのりして牛を難波大隅島姫島ひめしま松原等に放つと云云〔しかしか〕」。
 その「大隅宮」の図絵はないが「旧趾西大道村なり」というから、 「賀茂神祠」と同じ場所、若しくはその近くを大隅宮としたと想像される。
 〈五畿内志〉及び『名所図会』により「大隅宮所在地=西大同村」説は、江戸時代には定着していたと見られる。
《味原牧》
 大隅神社「御由緒」のいう「乳牛牧」(味原牧)が、『遊女記』(大江匡房、平安末期)に出てくる。 『群書類従』に収録された『遊女記』を読む。
山城国与渡津 西行一日謂之河陽。 往-返於山陽南海西海三道之者。 莫此路。 江河南北邑々処々 分流向河内国之江口。蓋典薬寮味原樹掃部寮大庭庄也。
山城国の与渡津(よどつ)〔淀津〕より西に往くこと一日(ひとひ)、之(こ)を河陽(かや)と謂ふ。 山陽(せむやう)・南海(なむかい)・西海(さいかい)の三道(みつのみち)を往返(ゆきかへ)りたる者(ひと)は、 この路に遵(したが)はざること莫(な)し。 江河(かは)の南北(みなみきた)の邑々(むらむら)処々(ところどころ)に、 流れを分かちて河内(かふち)の国に向ひて、 之を江口と謂ふ。蓋(けだ)し典薬寮(くすりのつかさ)の味原樹、掃部寮(かもりのつかさ)の大庭庄(おほばのしやう)なり。
 「山陽南海西海」は七道の一部で〔残りは東海道、東山道、北陸道、山陰道〕南海道は紀伊国から淡路国と四国、西海道は九州及び壱岐と対馬である。 『遊女記』は平安末の書だから、山陽道、南海道、西海道は既に音読みではないかと思われる。
 「河陽〔河の北岸の意味〕については、河陽宮(嵯峨天皇〔在位809~823〕の離宮)の「河陽宮故址」碑が離宮八幡宮に立っている。 しかし、淀城から河陽宮までは僅か3kmで一日の行程ではないから、「河陽」は摂津国の江口村までの区間までを含むと見られる。
 大庭庄は淀川の南側の茨田(まった)郡にあったとされ、大庭一番村~大庭八番村〔現在の守口市大日町、佐太中町など〕に地名を遺す。 従って、江口は後の江口村に加えて茨田郡の大庭地域まで含むことになる。
 味原樹の「」は意味不明だが、『日本歴史地名大系』は「味原厨」としている。 神社の所有する荘園を御厨(みくりや)という〔くりや(調理場)から、神饌を収穫する土地の意に転じたもの〕
《味経之原》
 味原は、万葉歌の「味経之原」と同じ所と見られる。
――(万)0928 忍照 難波乃國者〔中略〕 長柄之宮尓 真木柱 太高敷而 食國乎 治賜者 奥鳥 味経乃原尓 物部乃 八十伴雄者 廬為而 都成有  おしてる なにはのくには 〔中略〕 ながらのみやに まきばしら ふとたかしきて をすくにを をさめたまへば おきつとり あぢふのはらに もののふの やそとものをは いほりして みやこなしたり
 孝徳天皇紀二年に「難波長柄豊碕宮〔前期難波宮〕。「忍照」「奥鳥」は枕詞。 大意は「天皇は難波に長柄豊碕宮を建て、仕える部民は味経の原で仮住まいして都を作った」。 難波宮の一帯は大郡と呼ばれ、周囲の原野は小郡である。部民や下級官僚は、壮麗な官庁の並ぶ大郡に住むことは許されず、原野の小郡を住処としたのであろう。
 この歌に関して『歌枕名寄』(澄月〔編〕、1300年ごろ)には、「一四一六:味経原 今案、風土記味原野同所也。万葉集当国難波宮作歌也。〔今案ずるに、風土記の味原野(あぢふの)と同じき所なり。万葉集に当国〔摂津国〕難波宮を作(よ)める歌なり〕と述べる。
 味原(あぢふ、あぢふのはら)は、風土記の提出にあたって味経原を二文字化したものと思われる。 なお、「摂津国風土記」の原文は失われている。
 『日本歴史地名大系』は「味原牧(あじふのまき)」の項で 「味原牧の住民は、供御人として右のような負担〔牛の飼育と牛乳の製品化〕をつとめるかわりに、一般の所役や雑役を免除される特権が認められていた。」、 「住民たちは、そうした特権をいかしてしだいに田畑を開拓し、それを免田としていった」と考察する。
《大隅の牧》
:乳牛牧跡碑の位置。右上:乳牛牧跡碑。右下:航空写真。
 『遊女記』によって、味原牧の所在地が江口〔西大道村を含むか〕であったことは確定する。
 また、〈五畿内志〉は西大道村の別名が「大隅」で、大隅宮跡が西大道村にあったと述べる。 もし、西大道村の古名が確実に大隅であったなら、味原牧が大隅島放牛を起源とする可能性は出てくる。
 ただ、「大隅牧」は霊亀二年〔716〕に一度廃されたから(前述《媛嶋松原》)、大隅牧味原牧とはそもそも無関係かも知れない。 また、江戸時代に誰かが書紀を読んで「味原牧が大隅島牧に由来する」と言い出したことが広まって、「西大道村の別名を大隅という」が定着したのかも知れないから、油断はできない。
 それでは、江戸時代以前はどうだったであろうか。 〈釈紀〉には安閑紀・応神紀ともに大隅宮・大隅島についての論考はないので、鎌倉時代に「大隅」が江口であったかどうかは〈釈紀〉ではわからない。 今のところ、本サイトが探索し得たのはここまでである。
 地理的に見ると難波は上町台地北部を指すから、大隅神社が「難波」の範囲に含まれるかどうかは微妙であるが、西成郡には入っている。 西方向〔大阪湾側〕への陸化の始めの頃は、西成郡は「難波小郡」と呼ばれた(継体紀六年【難波館】)ことを考えると、 難波の一部か。「難波小郡」の範囲は、上町台地の西岸から江口までの一帯かも知れない。
 視点を変えて〈姓氏家系大辞典〉でオホスミ氏の全国分布を見ると、大隅氏の発祥は大隅国大隅郡で、畿内周辺では 〈倭名類聚抄〉の{山城国・綴喜郡・大住郷}は「大住隼人の移り住みし地なり。中世大住庄と云ふ」と述べ、 また大和平群郡、丹波氷上郡にも「大住氏」を見出している。もし江口・西大道地域にも大住隼人が居住し、 地名オホスミが残っていたとすれば、この地に「大隅宮」ありとする根拠になり得る。
《大日本地名辞書》
 一方、『大日本地名辞書』は「大隅宮址」の項で以下の様に述べる。
――「〔あんずる〕に大隅宮は難波大津の上にして津頭発船の状を 望視し得へき地なるに似たり、蓋〔けだし〕〔仁徳天皇紀の〕高津宮タカツミヤ などの地勢と同し〔じ〕かるべき所とす、而〔しかうし〕て之を大道タイタウ〔だいどう〕村とすれば 大津と相隔遠〔かくえん〕するのみならず、海船の発ち出つ〔づ〕るを望み得ん理〔ことわり〕なし、 大隅宮址は必定大道なとの辺にはあらで、大坂の中なるべし。
 〔あんずるに、大隅宮は難波大津の上方で湊の埠頭から発つ船の有様を望み見ることのできるような地で、 おそらくは仁徳天皇の高津宮高殿で鹿の声を聴いた〕と同様の場所あろう。 ところが大道村だとすれば、大津と遠く隔つのみならず、海に船が出航するのを望めるだろうという理屈が成り立たない。 大隅宮址は絶対に大道村周辺ではなく、大坂〔明治時代の大阪市域〕にあるのは決定的である。〕
 このように述べ、西大道村説を真っ向から否定する。『五畿内志』のいうことなど、一蹴するのである。
《大隅宮西大道町説の検証》
 応神紀二十二年四月で見たように、応神天皇は高殿に上って西の海を眺め、 「大津〔難波津〕から出航した兄媛えひめの船を見送った。そのとき天皇が詠んだ歌には淡路島と小豆島が詠みこまれている。 これだけを見れば、当時難波津から西に陸化したところに大隅島があり、そこに離宮を置いたと想像される。 ただ、難波津の西にはオホスミなる地名、宮殿跡、牧跡などは見えないから、この想像は実証不可能である。 そこで今回の執筆では一度は「大隅宮in西大道村」説に引き寄せられ、西大道村と味原牧のことを詳しく調べた。
 ところが〈続紀〉を見ると、霊亀二年〔716〕に、 「大隅媛嶋二牧」(《媛嶋松原》の項)という一文があり、 それに続く「佰姓」の「」が「つくりた=開墾した田」を意味することも確認できた。 〈続紀〉のこの記述は、「味原牧=大隅島放牛を継承」説にとってはかなりの痛手である。 一度牧が廃されて田に変わってしまっているのに、次の時代に「味原牧」として継承されるのは不合理だからである。 また「大隅宮in西大道村」説が、「味原牧=大隅島放牛を継承」説を演繹したものであるのは明らかである。
 この説は江戸時代になってから、研究家が思い付いたのではないかとさえ思えてくる。 『五畿内志』が西大道村を「旧名大隅」としたのも、この説に引きずられた結果かも知れない。
 「大隅宮in西大道村」説を強力に支える資料があるのなら是非知りたいところだが、今のところ見つけられない。
 本サイトは応神紀二十二年条のところで「大隅宮の伝承地とは別に、執筆者の頭の中では上町台地に宮殿があり、 応神天皇はその宮の高殿に登って、難波津から出航する船を見送る光景を思い浮かべて書いたように思われる」 と述べたが、 もし「大隅宮in西大道村」説が完全に根拠を失えば、このようなおもんばかりは不要になる。
 確かに、書紀は大隅宮の所在地を難波津周辺に想定したと読むのが順当である。 ただ西大道村に大隅宮がなくとも、オホスミという地名が西大道村にあった可能性だけは残るから、 今後の課題としておきたい。

目次 【二年十二月】
冬十二月癸酉朔己丑、天皇崩于勾金橋宮……〔続き〕


まとめ
 先に〈続紀〉や『大日本地名辞書』を見ていれば、西大道村や味原牧についてこれほど突き詰めて調べることはなかったかも知れない。 しかしこの調べは決して無駄ではなく、例えば「大道」については二十六屯倉のところで考えた駅道の理解を深めることに役立った。
 また、味原牧は大隅島放牛と無関係なのは確かだが、 万葉歌の「味経之原」を併せて考えると、難波小郡の範囲は江口辺りにまで及んでいたと考えてもよいだろう。これも副次的な成果である。
 さて、西大道村説を否定した場合大隅島はどこかということになるが、姫嶋と難波宮の間のどこかに浮かぶ島と見るのが妥当か。 その辺りにはオホスミという地名が遺っていないのが辛いが、将来何かの工事の折に偶然高層の宮殿の礎石が発見されることを期待したい。