| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2020.01.29(wed) [18-04] 安閑天皇4 ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
6目次 【二年五月】 《置筑紫穗波屯倉等》
屯倉の名の訓のいくつかは、検討が必要である。 ・大抜…伝統訓はオホヌクだが、『尊経閣善本影印集成―日本書紀』の解説によると安閑紀については平安時代以前の古写本がなく、 訓ヌクの起原は不明。〈氏姓家系大辞典〉には氏姓オホヌキがあり、現代地名はヌキである。 ・後城…「後城=シリ+ツ(属格の助詞)+キ」だが、〈倭名類聚抄〉では、音声から「後月=シリ+ツキ」が当てられた。 シリツはシツに転ずる。鞍の部品のひとつを後輪(しづわ)という。〈倭名類聚抄〉の平安時代はもうシツキだったが、〈甲本〉は復古的発音を採用したと見られる。 ・河音…カハオトは一般的な母音融合によってカハト、カフトになり得る。 なお、「音」はオトであってヲトではない。〈釈紀〉を見るとオとヲの混同は鎌倉時代には一般的になるので、〈甲本〉の「ヲト」は筆写によるものか。 カハトも上代から一般的だったはずだが〈甲本〉は古い形がカハ-オトだと主観的に判断したのかも知れない。 《各屯倉の比定地と性格》 各屯倉の所在地については、別項を建てて様々な角度から検討した。 《大意》 五月九日。 筑紫(つくし)の穂波(ほなみ)の屯倉(みやけ)・ 鎌(かま)の屯倉。 豊国(とよのくに)の ![]() 火国(ひのくに)の春日部(かすかべ)の屯倉。 播磨国の越部(こしべ)の屯倉・ 牛鹿(うじか)の屯倉、 備後国の後城(しりつき)の屯倉・ 多禰(たね)の屯倉・ 来履(くくつ)の屯倉・ 葉稚(はわか)の屯倉・ 河音(かわと)の屯倉。 婀娜国(あなのくに)の胆殖(いえ)の屯倉・ 胆年部(いとしべ)の屯倉。 阿波国の春日部(かすかべ)の屯倉。 紀伊国の経湍(ふせ)の屯倉・ 河辺(かわなべ)の屯倉。 丹波国の蘇斯岐(そしき)の屯倉。 近江国の葦浦(あしうら)の屯倉。 尾張国の間敷(ましき)の屯倉・ 入鹿(いるか)の屯倉。 上毛野国(かみつけののくに)の緑野(みどの)の屯倉。 駿河国の稚贄(わかにえ)の屯倉を置きました。 【Ⅰ筑紫国】▼ 安閑二年五月条で、二十六屯倉が設置される。 それぞれの比定地、規模、性格等について考察する。 なお屯倉の一般的な大きさとして、元年閏十二月の安威村の竹村屯倉の「四十町」(一辺689mの正方形に相当)を基準としてみたところ、なかなか有効であった。 まず、筑前国と豊前国の屯倉については、 『古代史シンポジューム『6世紀の九州島 ミヤケと渡来人』資料集』 〔2014年;嘉麻市教育委員会〕によると、穂波・鎌・我鹿・桑原の屯倉はほぼ比定され、 ![]() 1 《筑紫国穂波屯倉》
穂波・嘉麻地域には大型前方後円墳が多数あるが、桑原・赤村地域には、狐塚1号墳(大任町)が見られる程度だという。 〈松浦論文〉はこれらから、「ミヤケの運営にあたって大和王権 が在地首長の権力をある程度利用しながら進めていく場合〔穂波・鎌〕 とより直営的な方法をとる場合〔我鹿・桑原〕とがあったことを示しているようにもみえる」と述べる。 つまり、穂波屯倉・鎌屯倉は首長勢力の存在を認めて委任したのではないかという。 首長墓については、穂波郡で代表的なもののひとつが天神山古墳(福岡県嘉穂郡桂川町豆田(大字)458、前方後円墳、墳丘長68m、6世紀頃)である。 さらにその北西680mに王塚古墳(同桂川町寿命(大字)316、6世紀頃)がある。 首長領が仮に穂波郡の半分(10km四方ぐらい)程度で屯倉が40町とすれば、首長はその領土のごく一部を屯倉として献上したに過ぎない。 首長による所領経営は、この程度では揺るがないであろう。 ただ、形式的には首長自身が朝廷に服属し、県主・稲置・直などの地方行政官として、また部曲の長として伴造などの職名を賜っていたと考えられる。 それは、これらが姓(かばね)として残っているからである。 そもそも前方後円墳という墳形そのものが、朝廷-地域的首長の宗教的な秩序 さて、条里からは穂波屯倉・鎌屯倉の比定地はなかなか判別できないが、 穂波・嘉麻の両郡に駅(うまや)が一つずつあるところが注目される。 〈延喜式-諸国駅伝馬〉に、「筑前国駅馬:〔中略〕伏見・綱別各五疋」とある。 『事典 日本古代の道と駅』(木下良、吉川弘文館2009。以下〈古代の道〉)によると、 「伏見駅は大宰府から米ノ山峠(三四一メートル)を越えて入った所に比定されるが格別の遺称地はなく」、飯塚市の山口または馬敷に比定されているという。 また「綱別駅は〔倭名類聚抄〕嘉麻郡綱別(都奈和支)郷と同所で飯塚市庄内町綱分を遺称地とする」という。 両駅を通る街道は、現在の県道65号筑紫野筑穂線から国道201号にあたる。 朝廷が屯倉を置いたのが諸族の監視のためであったとすれば駅路を通って使者がやって来るから(後述)、それぞれの駅の近くに穂波屯倉と鎌屯倉があったと考えるのが妥当であろう。 だとすれば、前述の「在地首長の権力をある程度利用しながら」というよりは、朝廷が主体的に設置したように思われる。 2 《筑紫国鎌屯倉》 嘉麻郡の首長墓には、寺山古墳(福岡県飯塚市川島297。前方後円墳、全長66.8m、後期、横穴式石室)がある。 その北北東600mには、川島古墳(同市川島407)があり、飯塚市唯一の装飾古墳とされる。 6世紀になっても大型古墳を造り得る強力な首長勢力があったと見られる。 【Ⅱ豊国】▼▲ 3 《豊国 ![]()
![]() ![]() 一方の「腠」を辞書で調べると、音はソウ、膚のきめや筋、また皮膚の意である。 書紀を電子化したものでは滕も腠も代替字として使われるが、どちらかというと「滕」が多い。 〈甲本〉ではこの字をミと訓み、それ以来御崎・三崎と理解されてきたようである。 「滕」は「騰」の異体字ということだから、「みわく(水沸く)」から「み」と訓んだのだろうか。 豊前国にミサキという地名はなかなか見つからないが、全国的には下記の地名がある。 ●〈倭名類聚抄〉…{相模国・御浦郡・御埼郷}、{下総国・海上郡・三前郷}、{紀伊国・牟婁郡・三前郷}。 ●「古代地名検索システム」(奈良文化財研究所)…「能登国・鳳至郡・美埼郷」、「因幡国・気多郡・水前」。 多くは、自然地形の岬に起源をもつと思われる。おそらく、豊前国にもミサキがあったのだろう。 後述するように、難波津-南韓航路の中継地が京都郡に置かれたとすれば、企救半島の先端の「御岬」に灯台が設置されたことも想像し得る。 すると ![]() そこで資料にあたると、果たして『北九州市史 総論先史原史』(1985、北九州市史編さん委員会)に 「 ![]() さらに『大日本地名辞書』には、「腠碕: 又社埼に作る、御崎と訓むべし、 今の文字関村是也、其〔の〕腠碕に作るは湊津に当ればならん、社埼に作るは速鞆神此碕頭〔=この崎の先端〕に鎮座せば歟。」 〔中略〕通証〔=日本書紀通証、1762〕には腠当作湊〔=腠は湊に作るべし〕とあり、 今門司に妙見山あるは、屯倉山の訛りなるへ〔=べ〕し」とある。 この文中の「社埼」とは、〈延喜式-諸国駅伝馬〉の「豊前国駅馬。社埼」のことで、 〈古代の道と駅〉によれば「〔倭名類聚抄に〕対応郷名も遺称地名もない」という。 同書は「社埼」とルビを振っている。社をモニと訓む理由は今のところ分からないが〔モリ(杜)とする文献も見る〕、サイはサキの音便である。 「文字ケ関村」は町村制〔1889〕で成立し、明治二十七年〔1894〕に門司町、その後門司市を経て現在の北九州市門司区に至る。 「速鞆神」は和布刈(めかり)神社(福岡県北九州市門司区門司3492)のことで、別名「早鞆明神」。新関門トンネルがごく近くを通る。 この地域に目だった首長墓は見られない。 わずかに、小森江駅の辺りに円墳があったが大正五年〔1916〕に掘り崩されという(門司区公式/門司の歴史)。 だとすれば、山陽道と西海道の接続点として、交通・通信上の要請により設置されたものであろう。 屯倉の立地としては北九州港に面する平地が考えられる。狭いが、約74万平方メートル=60町あり標準の四十町を越える。 4 《豊国桑原屯倉》
この地の狐塚1号墳は中期の前方後円墳で、全長27mである。 また、建徳寺2号墳(大任町今任原)は円墳、直径20m、6世紀後半。 〈松浦論文〉は、桑原屯倉には郡レベルの地名にはならないからそれほど大きな首長勢力は存在せず、 朝廷が直轄的に設置したものではないかと見る。 古墳の規模を見ても、この地の首長勢力は大きくなかった。屯倉の位置を推定する材料はなく、6世紀の今任原の古墳が屯倉の管理者のものかどうかも分からない。 〈延喜式〉によれば令の駅路も通らないから、言い伝えもしくは記録だけを残して廃れたことも考えられる。 5 《豊国肝等屯倉》 Web博物館/町史ダイジェスト の「第二章 古代郷土の夜明け」(以下〈Web博物館〉)は、 「肝等屯倉(福岡県苅田町等 旧京都郡)」 として苅田町を比定地とするが、「等」がつくから異説があるようである。 「苅田」については〈延喜式-諸国駅伝馬〉には「豊前国駅馬。刈田」、 〈倭名類聚抄〉に{豊前国・京都郡・苅田郷}がある。 「苅田村」は江戸時代にも存在し、町村制〔1889〕で周辺九村と併せて改めて「苅田村」が発足、 大正十三年〔1924〕に町制施行、昭和三十年〔1955〕に 苅田町・小波瀬村・白川村が合併し、改めて苅田町が発足した。 現在は、福岡県京都郡苅田町。 苅田町に屯倉が置かれたとすれば、右図(下)のAまたは、 Bである。Bには沖積平野で条里があり、農地が広がっている。 Aは海岸段丘で、当時の海岸線に接していたと推定される。 苅田町には五基の古墳が知られ、いずれもAの地域にある。北から順に雨窪古墳(円墳、後期。図の範囲外)、石塚山古墳(竪穴式石室の前方後円墳、前期、墳丘長130m、三角縁神獣鏡出土)、 番塚古墳(横穴式石室の前方後円墳、中期以降)、御所山古墳(周濠・造り出しを有する前方後円墳、中期、墳丘長120m)、 恩塚古墳(横穴式石室の円墳、6世紀後半、直径25m)である。
Bには古墳が見出されていないから未開の地で、 屯倉が置かれていたとすればAであろう。墳形と時期から見て、恩塚古墳が屯倉主の墓と見ると矛盾がない。他の四陵は首長墓であろう。 恩塚古墳の東の平地は数百m四方程度=数十町程度あるから、屯倉の設置は可能である。「新津」という地名がその頃からのものなら、朝廷の船はここに停泊したことになる。 同時に陸路も使われ、古い山陽道(大宝令以前)を馬使がやってきて馬家が置かれ、後の刈田駅になったのだろう。 〈Web博物館〉は「豊国の五屯倉の設置は異常ともいえる数であるが、筑紫君磐井の反乱の際には豊国の豪族も盟主であったとされる 磐井に加担したとされており、これら豪族の勢力に対する抑圧と交通路の分断、 更には折からの朝鮮半島情勢の緊迫化に対処するための軍事的基地の確保も考慮してのことであろう。」と述べ、 磐井後継勢力への警戒感を前面に置いた見方をしている。 確かに、筑前・豊前の七屯倉の配置からは筑紫勢力を封じ込めようとする意図が明瞭である。 ただ、磐井の敗北後、筑紫国造を継いだ葛子は朝廷に服属しており(第232回)、 ピンク岩石棺の提供から友好関係を復旧しようとする姿勢が見える。 それでも朝廷は、筑前・豊前の諸族が二度と筑紫国造に附庸しないように、中小の氏族との間に個別に関係を深めたと思われる。 各屯倉には直(あたひ)などが派遣され、監視の任をも担わせたのであろう。 もう一つ考えられるのは、元年閏十二月の「京都郡胆狭山部屯倉」の設置について、胆狭山部に港湾型の屯倉を管理させ、難波から半島への中継基地と見たこととの関連である。 肝等が苅田だったとしたら、ここが港湾型の屯倉であろう。だとすれば、これまでに港湾を管理したのではないかと考えた胆狭山部については海岸までは達せず、奥でバックアップすることとなる。それでも、胆狭山部が上位にあって肝等を管理していたのかも知れない。 また、穂波・鎌・桑原・我鹿・大抜の屯倉は、港湾型屯倉の肝等への食糧供給を担ったことも考えられる。 難波津と同様に肝等屯倉も重要な湊で、郡の呼び名を「京都郡」というのもその故かも知れない。 6 《豊国大抜屯倉》
前掲『6世紀の九州島 ミヤケと渡来人』掲載の「ミヤケと北部九州の遺跡」(桃﨑祐輔)は、 「北九州市小倉南区の貫川流域、 大貫・長野・曽根付近が、〔中略〕大抜屯倉の比定地である。 標高712mの貫山から派生する水晶山麓には須恵器窯址群が集中する。 」と述べる。 「貫」に、古地名「抜」との繋がりを見出したものと思われる。 伝統訓はオホヌクであるが、実際に残るのは地名ヌキと、氏族名オホヌキである。平安の訓読者がオホヌクを宛てたか。 安閑天皇紀については、平安時代の古写本が遺っていないこと※に留意する必要がある。 ※…八木書店「尊経閣善本影印集成26 日本書紀」の「解説」による。 貫川の沖積平野に五基の古墳、上ん山古墳(前方後円墳、全長50m、6世紀前半)、 茶毘志山古墳(前方後円墳、全長54m、横穴式石室か)、 荒神森古墳(前方後円墳、全長68m、6世紀中ごろ)、 両岡様古墳群(1号墳:前方後円墳、推定全長27m、後期か。2号墳:円墳、直径12m)が報告されている。 この沖積平野の広さがあれば、0.5平方キロメートル=40町程度の屯倉は確保できそうである。 7 《豊国我鹿屯倉》 田川郡には江戸時代から上赤村・下赤村が存在し、明治二十年〔1887〕に上赤村・下赤村・山浦村が統合して赤村、 町村制〔明治二十二年、1889〕で赤村・内田村が統合して改めて赤村となり、現在の「福岡県田川郡赤村」に至る。 書紀の「我鹿【阿柯】」が、そのまま「赤」に引き継がれたと見られる。
「我鹿屯倉」の件は後世の書き加えだろうが、起原は赤岳神への自然信仰の祭祀場であろう。 八幡神への習合は、奈良時代の宇佐八幡社からの波及と見られる(第142回)。 なお、「蔵屋敷」は一般には江戸時代の年貢米集積所のことである。 「我鹿神社前遺跡」からは、弥生土器のほかに土師器、青磁も出土している。 また通善寺古墳は、横穴墓とみられる(以上「筑豊地区埋蔵文化財発掘調査の記録」より)。 《後の豊前道》 大宝令の時代になると、刈田から田川郡・穂波郡・嘉麻郡を経て大宰府に達する道(豊前道)があった。 そこで、ひとまず豊前道について調べる。 〈延喜式-諸国駅伝馬〉に 「豊前国駅馬:社埼・到津各十五疋。田河・多米・刈田・築城・下毛・宇佐・安覆各五疋。」とある。 このうち「刈田―田河―綱別―伏見」が備前路である。 『事典 日本古代の道と駅』(木下良、吉川弘文館2009、以下〈古代の道〉)は、穂波郡の綱別駅(現代地名綱分)である。 また少なくとも伏見は、米ノ山峠を通る県道65号線沿いにあると見ている。 田河駅は田川郡の郡家の下伊田遺跡から、鏡山に遷ったと述べる。 このラインを刈田まで伸ばし大体現在の国道201号線に沿い、 多米駅(〈倭名類聚抄-高山寺本〉では「久米」)については現代地名はない。 〈古代の道〉は、国府をみやこ町惣社(仲津郡)から京都郡に移したときに、新国府経由で刈田駅に向かう道ができ、その分岐点(みやこ町勝山大久保)に多米駅を置いたと見る。 〈延喜式-主計〔寮〕上〉には、豊前国への行程は大宰府を起点として「豊前国:行程上二日下一日。」とある。上・下は単純に日数の幅を示す。 途中に障子ヶ岳と大阪山(飯岳山)を含む山脈があり、仲哀峠のところを新仲哀トンネル(国道201号)が通っている。 旧「仲哀隧道」は1890年の開通で、その命名は仲哀天皇の豊浦宮・訶志比宮に因むと見られる(第138回)。
石鍋越(図のア)はなかなかの坂道だが、それでも乗馬して(困難ならば引き連れて)通過したのであろう。 この経路は、刈田駅と大宰府を最短距離で結ぶものと見られる。一般に駅道は場所によっては切り通しして直線状に引いたが、 こと豊前道に関しては白村江の戦い以後唐の侵攻を警戒し、駅使による連絡を速やかにする必要性がより切実であったと見られる。 同時期に烽火による情報伝達ラインも確保し、筑紫・壱岐・対馬に防人を配置している。 街道としてはやや遠回りだが、大阪山(飯岳山)南の大阪越え〔福岡県道204号に相当〕の方が傾斜は少ない。 駅使は石鍋峠越えしただろうが、納税米を牛馬に背負わせて運ぶときなどは相変わらず大阪越えであっただろうと想像される。 峠越えをさらに南方に求めると、赤村油須村の西方から大任町柿原に通ずる立石峠越え(図ウ)がある。 この区間は現在の福岡県道34号線にあたり、切り通しになっている。切り通しがない場合の標高差は、約15mである。 油須原には古墳が見出されているから首長勢力の集落があり、ここから東に通ずる街道が立石峠を越え、北に向きを変えて彦山川に沿って桑原の集落に達したと考えることができる。 油須原の近辺に我鹿屯倉が置かれたとすれば、刈田屯倉-我鹿屯倉-桑原屯倉-鎌屯倉(綱別駅付近)-穂波屯倉(伏見駅付近)の道が浮かび上がる。 これが二十六屯倉の頃の街道であったと考えて差し支えないだろう。 伏見駅の先は大宰府に達する。ただし、大宰府の正式な設置は大宝令である。遡ってその原形が二十六屯倉の時期になかったとは言い切れないが、今のところ何とも言えない。 取り敢えずは屯倉相互の連絡を確保し、筑紫国造磐井の後継勢力の動向を確実に把握したと見ておくのが妥当であろう。 【Ⅲ火国】▼▲ 火国については〈国造本紀〉に「火国造」があり、 令の時期には既に分割されて肥前国・肥後国となっている。 8 《火国春日部屯倉》 〈姓氏家系大辞典〉に「肥後の春日部:託麻郡三宅郷の地なるべし。隣郡飽田郡に春日邑ありて春日明神座す。」
「春日邑」については明治初年〔1868〕に、肥後国春日村が存在。明治七年〔1874〕に周辺地域から一部併合し、 町村制施行〔明治二十二、1889〕で春日村。明治三十九年〔1906〕に春日町。大正十年〔1921〕に熊本市に編入し、 現在は「熊本市西区春日」。「春日明神」については、「春日神社」(熊本市西区春日3丁目8-20)がある。 なお、肥後国の国府は二度に渡って移転され、〈古代の道〉はこの国府の移転について、 ①託麻郡(奈良時代)〔国府村〕→②益城郡〔倭名類聚抄〕→③飽田郡(平安時代後期)〔熊本市西区春日〕と整理している。 さて、『大日本地名辞書』〔以後〈地名辞書〉〕は、 ――「三宅郷: ○今詳〔らか〕ならず、大江村、出水村などにや、 〔中略〕託麻に一時国府の置かれし事もあるは宮倉の地やがて府邑ともなりしならん、 出水村は即〔ち〕其〔の〕詫磨※府〔=託麻の国府〕の址とす。 又此〔の〕辺〔り〕の諸村に、妙見菩薩をまつる祠堂多く、屯倉を妙見に訛りて仏菩薩に仮託せるものとす、又国府移転の時、春日の名称も飽田郡に移し、 後世其〔の〕名彼〔の〕地に存続するは此〔の〕故ならん。」 〔大江村、出水村には一時国府が置かれ、ここは宮倉〔=屯倉〕から府邑〔=国府〕になったのであろう。 この地に多く祀る妙見菩薩は、ミヤケが訛って菩薩の名に託されたものである。ここがもともとの春日だったが、国府を飽田郡に遷したときに春日野の地名も移ったのであろう。〕 と述べる。 ※…託麻郡出身の一族の表記。 また〈地名辞書〉は見出し語「託麻府址」を建て、 「今出水村大字国府を其〔の〕旧地と伝えり」とし、 〈倭名類聚抄〉の{益城〔郡〕【国府】}については、「誤謬たること必せり。」と断ずる。 そして ――「飽田は新府にて、詫麻は旧府ならん、其〔の〕遷徙〔=移った〕年代は詳〔らか〕にし難きと雖、 藤崎八幡宮勧請の比には、已に飽田郡市田郷に移りし歟、 今市田郷に春日の村名あるも、移府の時春日屯倉の遺構をば、彼〔の〕地へ伝へしに因るごとし」 〔大江村・出水村付近の大字名「国府(こくぶ)」は、もともとの屯倉が国府になったもので、その辺りの諸村の妙見菩薩はミヤケを託した名である。 その後、国府が移ったとき「春日」の地名も一緒に旧地の出水から移ってきた〕 と推定する。 町村制〔1889〕で、九品寺村・本村・大江村・渡鹿村を町域として「大江村」が定められた。このうち九品寺(くほんじ)、大江、渡鹿(とろく)が現在の熊本市中央区の町名にある。 また、町村制で今村、長溝村、国府村が出水村となった。やはり熊本市中央区に国府(こくぶ)と国府本町、同東区に出水(いずみ)がある。 8世紀後半になると、国府が春日にあったのは確実視されている。 熊本市公式ページによると、二本木遺跡群は、「JR熊本駅を取り囲むように広がる遺跡」で 「発掘調査では官衙関連とみられる大型の建物跡や希少性の高い輸入陶磁器、文字を墨書した土器、文字を書くための硯、銅製の印、祭祀に使われる道具など、 一般の集落ではほとんど出土することのない8世紀後半から9世紀にかけての物がたくさん出土」し、 「中世に至ってもこの状況は変わらず、依然として二本木遺跡群には人や物が集まっていたことが、発掘調査からわかり」「二本木遺跡群に国府があった可能性は非常に高くなって」いるという。 一方『新撰事蹟通考』(天保十二年〔1841〕;八木田桃水著。以下〈通考〉)は神倉荘=三宅説を唱える。 曰く ――「神倉【領村十一○三宅屯倉俱訓二美也計一。 神倉亦本美也計之訓後依レ字。便誤二加美久良一乎。】」 〔三宅・屯倉とも美也計と訓み、 神倉また本は美也計の訓みの後、字に依りて便ち加美久良と誤りたるか。〕 として、神倉荘が三宅だと判断する。 そして、 ――「今村。南部村。下南部村【属二南部一】。長嶺村。戸島村。小山村 【阿蘇文書文亀三年〔1503〕十一月菊地家状中。有二小山砥島長峰上島一。 詫磨文書健保承久以来。書二六箇荘内小山郷六箇荘内小山村一。 有二数牒一益城郡六个村〔=六ケ村〕之註可二合見一〔…の註にあひみゆべし〕。】。 鹿帰瀬村【属二小山一以上七村神倉荘領邑】。」 として、今村など七か村を神倉荘の領邑とする。 これらの村名のうち現在の地名に対応するのは、熊本市東区に新南部(しんなべ)、下南部(しもなべ) 上南部(かみなべ)、長峰西、長峰東、長峰南、戸島、戸島町、戸島西、戸島本町、小山(おやま)、 小山町、鹿帰瀬(かきば)町で、 唯一今村だけが見つからない。 以上のように、「三宅郷〔春日部屯倉〕」の候補地として、〈地名辞書〉は託麻郡東部の出水村、〈通考〉は託麻郡西半分の神倉荘を見出している。 それぞれの裏付けは、前者は「妙見菩薩」仮託説、後者は「神倉(かみくら)=三宅の誤読」説である。 しかし、〈通考〉説では「春日」と「三宅」とを完全に分離している。 〈地名辞書〉説において出水村には「春日」は明記こそされないが、文脈からは出水村などが春日であったことは読み取れる。 春日神社〔飽田郡、熊本市西区〕の勧請については、一部のサイトに春日神社は延久五年〔1073〕、菊池氏初代藤原則隆が奈良の春日神社を勧請し創建したとする説を見るが、今のところ出典は未確認である。 ただ、春日大社は「神護景雲ニ年〔768〕」に「称徳天皇の勅命」によって創建されたものである(同社公式ページ)。 全国各地への春日神社の展開はそこから始まったのであるから、 安閑朝の頃の春日部の移住とは基本的に別個の事柄である。 よってこの地には仮に春日氏族がいなかったとしてさえも、話は成り立つのだが、書紀を尊重すればかつて春日部が置かれていたとするのが穏当であろう。 仮説として一つの筋書きを提案すれば、
「神倉荘領邑」の範囲内で平坦な部分の面積を求めると、およそ620万平方メートル=520町ある。 屯倉のときの農地は、図の上南部から長嶺南の微高地に限られるかも知れないが、それでもかなり広い。 これだけの面積を耕作するには相当数の部民が必要である。託麻春日氏に仕えていた部民は「春日部」だから、屯倉の名は必然的に「春日部屯倉」となろう。 これだけの広さがあればこの屯倉は「生産型」(後述)であり、またその位置から見て政治的には熊襲への西海岸側の押さえと言えよう。 【Ⅳ播磨国】▼▲ 9 《播磨国越部屯倉》 〈倭名類聚抄〉に{播磨国・揖保郡・越部【古之倍】郷}がある。 『播磨国風土記』-「揖保郡」に次のような「越部里」の地名由来譚が載る。
『播磨国風土記』の地名成立譚では、「コシロ→コシロベ→(「ろ」が脱落して)コシベ」である。さらに別説として、「但馬国の三宅から越してきたから越部」説を添える。 皇子代は、屯倉の名目の一つに用いられる。その性格については、皇子の養育の為に用意された「壬生」一族に、結果的に皇子がない場合にも同格の栄誉を与えるためだと考えた(第235回)。 しかし『播磨国風土記』では「皇子代」を、臣下に御子と同等の領地を与える意味に理解されていて、 これは『高橋氏文』の「磐鹿六獦命は朕が王子等にあれ」に通ずるものがある。 その比定地について〈地名辞書〉は、「今越部村并〔ならび〕に新宮村なるへ〔べ〕し、 龍野の北、林田の西にして、揖保川の西岸に部落散在す」と述べる。 「越部村」は復古地名で、町村制〔1889〕において、段之上村、市野保村、仙正村、馬立村、中庄村、下野田村、船渡村、北村、觜崎村、佐野村を村域として発足した。 その越部村は、昭和二十六年〔1951〕に新宮町に吸収され、2005年にさらに合併して兵庫県たつの市。 「段之上村」以下の江戸時代の村名は、すべてたつの市内の大字「新宮町○○」となって残る。 〈延喜式-諸国駅伝馬〉山陽道には「播磨国伝馬:…越部。中川各五疋」がある。 〈古代の道〉は「越部神社や『風土記』の越部里上に見える狭野村の遺称地たつの市新宮町佐野の存在から同地の馬立などに比定される」とする。 『日本歴史地名大系』(平凡社、1979~2004)は「現新宮町の南部、市野保・井野原から觜崎・佐野付近に所在したと考えられ」、 「七一町を数えるこの地の条里遺構の地割の方向から、大化前代〔=大化の改新以前〕にさかのぼる古い地割で屯倉の特殊性を示すとする説」もあるが、異論もあるという。 この件について調べると、論文 「条里地割の分布からみた古代播磨の地方行政領域」 (『律令国家の歴史地理学的研究-古代の空間構成』(大阪市立大学文学部1973)掲載;服部昌之。以下〈服部論文〉)が見つかった。
要するに、周囲の条里とは走行を異とする一画があり、それが大化の改新以前に開発された農地の痕跡を示すという考え方である。 これと同じ発想は、仁徳天皇紀十四年《感玖大溝の比定地》で見られた。 ところが、〈服部論文〉は竹内説を検証して「そこでここでも条型地割の追跡調査を行ったが、結果的に谷岡の述べているように、屯倉比定地付近における地制方位の特異性は認めるができなかった」、 つまり右図により「屯倉故地の318条里」の地割は、「地形的環境に応じた地割方位をとったと理解しうる」というのである。 図を見ると、条里の方向は320、324、325条里に比べて、318条里は10.8度程度の走向の傾きがあるのは確かである。 もし同じ耕地内で走向が異なる部分A、Bが直接接していれば、A、Bそれぞれの開拓された年代に隔たりがあったことが実証できよう。 しかし、それぞれ区域が離れて独立している場合は走向の違いは地理的条件によるかも知れず、別段時代の乖離を示す根拠にはならない。 〈服部論文〉は、そのために「少なくとも播磨の場合では、屯倉における先駆的な方格地割の施行を想定するのは困難である」と一般化している。 それでは、屯倉があったとして、そこに存在したはずの古い条里はどうなったのだろうか。 ひとつの考え方としては、318条里は先駆的に農地開発が行われた区画ではなく、周囲の地域と同調的に開発は進んでいて、 そのうちのある区画が屯倉として指定されたか。 あるいは、318条里は確かに屯倉として先駆的に整備されたが、そこから時期を置かずに連続的に周囲に農地が拡大されていったことも考えられる。 なお方眼をカウントすると、318条里の面積は約68町=79万平方メートルである。 10 《播磨国牛鹿屯倉》 〈姓氏家系大辞典〉は、 「宇自加 ウジカ:播磨国餝磨郡宇自加(牛鹿)より起こりし氏」で、 「播磨風土記の宇知賀久牟豊命あり、此の牛鹿氏の人ならんかとの説あり」と述べる。
〈新撰姓氏録〉は〖皇別/宇自可臣/孝霊天皇皇子彦狭島命之後也〗により、「牛鹿」を「宇自可」としている。 ただし古くはウシジカだったものが、訛ったものかも知れない。 播磨国風土記の該当部分は、神前郡・冑岡の項にあり「云二冑岡一者伊与都比古神与宇知賀久牟豊冨命相闘之時冑堕二此岡一故曰二冑岡一」 〔冑岡と云ふは伊与都比古神と宇知賀久牟豊富命相闘ひし時、冑此の岡に堕ちき。故冑岡と曰ふ〕。 ただ、上代の発音は「自」の[zi]と、「知」[ti]が連濁した[di]は異なる。 『播磨国内鎮守大小明神社記※』には「餝東郡 牛壁明神」がある。「牛壁(うしかべ)=牛鹿部」と見られている。 同書には、それ以上詳しいことは記されていない。 ※ 養和元年〔1181〕における播磨国の神名リスト。『神社覈録』(明治三年〔1870〕)に収録。 『兵庫県史 第一巻』(1974;兵庫県)は、「市川下流の牛鹿屯倉」は 「貢献型の可能性が大きい。なぜなら」、二十六屯倉の「多くは貢献型屯倉と考えられる」からだと述べる。 〔屯倉の貢献型・開発型については、第235回まとめ参照〕 「大小明神社記」から、牛鹿屯倉は餝東郡内にあったことになる。もう少し絞りこむとすれば、 市川沿いの沖積平野ではないか。古墳時代の海岸線は現在より内陸だろうから、山陽本線よりは北だったのではないかと想像される。 なお、「姫路市四郷町本郷字ミアケ」説も見る(『新編日本古典文学全集』頭注所引『姫路市史』)。 もし「四郷町本郷ミアケ」がミヤケの訛りだとするなら、長い年月の間に地名が拡散したためではないだろうか。 【Ⅴ「備後国」の屯倉】▼▲ 《随想『老牛余喘』》 『岡山県史3巻』古代2(1990、岡山県史編纂委員会、以下〈岡山県史〉)は、来履屯倉を「備中国後月郡出部村九履とする説」を挙げる。 その出典は、『老牛余喘』(小寺清之、江戸後期)という随筆にあるようである。ここにその関係部分を読む。
『老牛余喘』もいうように、「備後国」とされた屯倉はみな備中国に属している。 著者は「備中」を「備後」に誤読したことに由来すると述べるが、この問題については後で検討する。 この文は随想の比定は全面的に信ずるべきものではないが、それでも古い地名を色濃く残す江戸時代に、 まさに備中国に住んでいた著者の文なので、一定の重みをもって受け止めるべきであろう。 11 《備後国後城屯倉》 後城は〈倭名類聚抄〉の{備中国・後月【七豆木】郡}〔しつきのこほり〕であろうと見られている。 安閑紀ではなぜ備中国ではなく「備後国」なのだろうか。 〈地名辞書〉は、「安閑紀に「備後国、後城屯倉とあるを見れば、 吉備の後の安那国の属域なりき」とする。〔一般に畿内に近い方をクチ、反対側をシリという。〕 このように〈地名辞書〉は「備後」とは分割前の吉備国の端で、かつ安那国の域内だというのだが、 〈続紀〉景雲元年〔704〕四月に 「備中。備後。安芸。阿波四国苗損。並加賑恤。」 〔(冷害で)苗が損じ、援助した。賑恤=人の難儀に金品をめぐむ〕という記事があり、 書紀(720年)のずっと前から備中国・備後国が独立した国として存在している。 後月郡は備後国との境界に接するから、一時期は備後国に属していたと考えるのが順当であろう。 しかし、〈続紀〉には郡が所属する国を変更したときはいちいち具体的に記録されているから「後月郡」の所属国を変更した記事はない以上、 〈続紀〉の期間の最初(701年)から、後月郡は備後郡に属していた。 一方、〈続紀〉で「安那」の初出は719年で、そこには「安那国」ではなく「安那郡」となっている。 安閑紀は「安那国」だから、おそらく安閑五月条は、古い時代の地理区分に依って書かれたのであろう。 したがって、少なくとも701年より古いある時点までは、後月郡が備後国に属していたのは決定的である。
また多祢屯倉についても「多祢は明治〔村〕の種村なるべし、然れども鴫と云ひ種と云ひ、并に 山中の僻地とす、往時宮家を定めらるべき沃土通色にあらず、疑惑なき能わず、来履、葉稚、河音の三地も不詳。」と述べる。 鴫村については、江戸時代の上鴫村・下鴫村が町村制〔1889〕に引き継がれている。現在は井原市の芳井町上鴫、同下鴫。 ただ、その狭い谷間の耕地も標高500mほどの台地上の上鴫集落も屯倉には似つかわしくない。 一方『備中誌』(1904年、岡山県)には、「後月駅: 此〔の〕名は絶〔え〕てけれ共〔=雖〕猶高屋村の内に後月谷と呼〔ばる〕る 所有〔り〕自ら古〔き〕名の残れる也。」とあり、 『老牛餘喘』は、その後月谷を後城屯倉の場所と見ている。「字後月谷」については 井原市のページの付属資料に「井原市高屋町字後月谷1744」の表記が見られ、その位置は高屋橋付近である。 その近くに「後月橋」と名付けられた橋もある。ここの沖積平野も狭い。 〈延喜式〉には{後月郡一座/小:足次山神社}とあるように、 足次山神社は後月郡唯一の式内社で、比定社は足次山神社(岡山県井原市庵原町)。 〈倭名類聚抄〉に{備中郡・後月郡・足次【安須波〔あすは〕郷】}とあるためか、「あすはやま」神社と呼ばれる。 その井原町の市街地は小田川の沖積平野で、およそ96万平方メートル=80町で、屯倉として妥当と思える。 因みに後月谷付近は16万平方メートル=14町、上鴫村の高原は19万平方メートル=16町程度である。 いずれも地形図から大まかに読みとったもの(以下同じ)。 足次山神社はこの地の住民の氏神であったはずだから、この一帯は伝統のある土地である。 そして広い沖積平野であるから、そこがもともと屯倉であったとする仮説は十分成り立つように思われる。 12 《備後国多禰屯倉》
ところが、〈倭名類聚抄〉によれば{備後国・葦田郡・都祢}だから、「種=多祢郷」説は「都」を誤記と見たらしい。 しかし〈地名辞書〉に「都祢郷:続紀「養老三年、停備後国葦田郡常城」とあるはこの地とす」」とあるので確認すると、 〈続紀〉養老三年十二月に「戊戌〔十五日〕。停〔=停止する〕二備後国安那郡茨城。葦田郡常城一。」とある。 現在も小字「常」があり、「常」はすなわち「都祢」だから、「多祢の誤記」は俗説であろう。 しかし、新市町常の北の上谷川の沖積平野には一定の広さがあり、明瞭な条里が見える。広さは29万平方メートル=24町ほど。 この条理は屯倉以来のものかも知れない。 だとしても、配置が"備後国"の都祢と"備後国"の後月の間に"安那国"を挟むこととなるから、なかなか理解しにくい。 〈地名辞書〉もいうように、種村(現在の井原町芳井町種)は確かに狭隘な山間地で、 それでも一定面積の農地(ざっと見て12万平方メートル=10町程度)はあり、 また近くに「妙見山」がある。「妙見がミヤケの訛りである」という考え方は各地の屯倉比定地の傍証に見る。 「多祢屯倉」はやはり種村であって、仮に新市町常が屯倉であったとしても安閑二年「多祢屯倉」には含まれないと思われる。 13 《備後国来履屯倉》
『老牛餘喘』の「備後→備中」誤記説については、前田本で厳格な楷書が用いられるのを見ると、恐らく原本直後から楷書によって厳格な写本が作られ、「中」が「後」に誤読され得るような草書を用いたとは思えない。 それでも、「備後国」とされる五屯倉は概ね令国としての備中国の域内にあったのは確実である。 ただ胆年部については、はじめに「備中国後月郡出部村」にあるとしながら、後で「婀娜国=備後国」にあったと言うのは辻褄が合わない。 さて、高屋町(旧高屋村)の北部は狭隘な山地で、屯倉を置き得るかどうかは疑問である。 下出水町・上出水町の北部は、高屋町側の山地との間の広い沖積平野となっていて、屯倉にはこの場所が相応しい。 国土情報ウェブマッピングシステムでこの谷を流れる細い川の名前を調べてみると、 いずえ駅北方から高屋川との合流点までの区間が「九沓(くぐつ)川」となっていた(それより東は「名称不明」)。 「沓」と「履」は同じ意味だから、この近辺に九履屯倉があったと考えてよいだろう。 14 《葉稚屯倉》
15 《河音屯倉》
西江原町にも、式内足次山神社の論社の「足次神社」(岡山県井原市西江原町44)がある。 これが式内足次山神社であるかどうかはともかくとして、この足次神社の当たりまで「後月」と呼ばれた可能性もある。 『老牛余喘』の「河音は後月郡江原村」説を重んずれば、 河音屯倉は西江原町南部、小田川の北の沖積平野と見るのが自然であろう。この地の道筋には明瞭な条里がある。 河音屯倉が江原地域なら、令国としての備中国全体が備後国と表現されていることになる。 もはや真相は明らかである。7世紀のある時点までは吉備地域は吉備前国・ 吉備後国・婀娜国に三分されていた。 そして令国制定までのある時に、 備前国・備中国・備後国に再編されたのであろう。 その背景としては、かつての婀娜国にはやんちゃな勢力が幅を利かせていて、その制圧を成し遂げたタイミングで国名を消滅させたと想像される。 そして、旧称を用いた屯倉リストが文書記録として遺っていて、書紀はそのままを書き写したのであろう。 肥後国が火国となっているのも、文書記録によったように思われる。 更には、婀娜国を潰すことが屯倉設置の一つの理由であったとする認識が、無意識のうち旧称を用いさせたのかもしれない。 《備後国における屯倉のネットワーク》 さて屯倉とは、「簡二-択良田一」(元年閏十二月)とあるように、 朝廷の直轄地とその地の部(農作物生産に従事する人民)である。これまで見て来た「備後国の屯倉」の比定地のうち、 十分な広さと水利がある農業生産地は足次山神社を氏神とする微高地一帯、九沓川の流れる下出部町北部、及び西江原町である。 この三地域については、仮に『老牛餘喘』による推定が幾分かの不確定性を含むとしても、 全体として屯倉名と現代地名との間に一定の関連性が伺えるから屯倉が存在したであろう。 ここで問題になるのは、狭隘な山間地の多祢屯倉である。 もし、備後国の各屯倉がこのような土地ばかりなら、その維持は朝廷からの持ち出しで負の存在となる。 だから、いくつかの広い屯倉〔いわば「生産型」〕を生産拠点として確保し、僻地の山間に小規模な屯倉〔「官署型」〕として配置したという構図が考えられる。 すると、後月谷と大江村にも官署型の屯倉が置かれたかも知れず、全体として機能分化が考えられる。
官署型の存在価値は、独立志向を隠さない吉備氏への監視にあろう。 すなわち、生産型の屯倉で食糧を確保してトータルな活動の土台とし、その上に官署型を置いてネットワークを構築して吉備氏を見張った。 〈岡山県史〉は朝廷-吉備の緊張状態に注目し、備後国・婀娜国の安閑紀の「七屯倉の設置記事」は「キビ王国とヤマト王国の抗争の結果に生じた事態の一つとみられる」と述べる。 すなわち欽明朝のとき主導権を強めた蘇我稲目によって「河内から瀬戸内交通の要点の確保に重点を傾け」、 「ヤマト王国の朝廷の視野と政治の内容を、いっそう強く朝鮮から東アジアに結びつけようとした」。 それを妨げたのは「いちおう圧服してはいたが、キビ(吉備)王国はなおも完全には屈服しなかった」という現実で、 それは背後にいた「イツモ(出雲)王国」が日本海ルートで新羅と結んでいたからである。よって、吉備・出雲の「制圧と言う大課題がなおも存在した」との論を展開する。 吉備・出雲連合による新羅との独自の関係を述べている点についてはもう少し検討が必要だが、 本サイトではこれまでに磐井の乱の本質について、難波津-三韓の交易の富を横領した国造磐井に対して朝廷が行った懲罰と見た。 この瀬戸内海ルートを安定的に確保するためにも、吉備を牽制しておくことは必要である。 そのために農業振興が見込める地点に生産型屯倉を確保し、遠隔地の監視ポイントとして官署型屯倉を配置する仕組みは理に適っている。 同様に、筑前国・豊前国の七屯倉も、その配置において磐井後継勢力の封じ込めの意図は露骨である。そして筑紫・吉備地域共に、朝廷と三韓との通信・交易路の確保という重大な要請がある。 【Ⅵ婀娜国】▼▲ 〈釈紀〉は「兼方案レ之。薩摩国也。彼国有二阿多郡一之故也。」 〔〔卜部〕兼方こを案ずるに、薩摩国なり。かの国に阿多郡有りこの故なり。〕 として、アタがアダになったと推定する。確かに音仮名「娜」にはナとダがある。 しかし、婀娜国の屯倉が備後国の直後に置かれることは地域の近さを感じさせ、さらに〈国造本紀〉に「吉備穴国造」、 〈景行天皇紀二十八年〉に「吉備穴済神及難波柏済神。皆有害心」、 〈倭名類聚抄〉に{備後国・安那【夜須奈】郡}〔やすなのこほり〕とあることから、安那郡は婀娜国に由来するとの見解が一般的になっている。 〈地名辞書〉はまた「穴国は、安那深津二郡を指したること明白」とする。 深津郡は、〈続紀〉養老五年〔721〕四月丙申〔二十日〕に 「分二備後国安那郡一。置二深津郡一。」とあり、 安那郡を分割して設置された。少なくとも分割前の範囲が穴国だと思われるが、前項で考察したように備後国全体に及んだかも知れない。 16 《婀娜国胆殖屯倉》
すなわち、 「大家郷:〔倭名類聚抄〕刊本に天家に作る、 今高山寺本に拠りて之を正す、其〔の〕地今詳〔か〕ならずと雖、 御領村などにや」、 「大家は猶屯倉というごとし、此〔の〕郷は」胆殖・胆年部の「一所とす」と述べる。 「高山寺本」とは、高山寺所蔵の倭名類聚抄のことで〔八木書店『新天理図書館善本叢書』第7巻として影印本が刊行(2017)〕、 そこには{備後国・安那郡・大家}とある。大家はオホヤケと訓む。 そして「備後国安那郡の大宅郷がどこにあったかは詳らかではないが御領村などが考えられ、それが胆殖・胆年部のどちらかであろう」という。 もう一か所、深津郡にも「大宅」がある(〈倭名類聚抄〉{備後国・深津郡・大宅})。 〈地名辞書〉は「大宅郷:今の市村及ひ吉津村、千田村等、福山の東北を云ふ如し、 蓋古の郡家」にして、 「胆殖、胆年部のニ屯倉の其一、亦此とす」、 「御料の正倉の在るによりて、大宅と称し、 沿革して其後は郡家にも為れるにや。」 〔深津郡大宅郷は市村及び吉津村・千田村等、福山の東北にあったと言われ、古の郡家で、この郷が胆殖・胆年部のどちらである。 天皇の食糧の正倉である大宅〔=屯倉〕が、時を経て郡家になったのであろう〕 と述べる。 このように〈地名辞書〉は、安那郡の天家(大家)郷と深津郡の大宅郷が胆殖・胆年部の候補地に上げる。 一方、『老牛余喘』の「胆殖は大江村」説を採用すれば、古代の穴国は大江村の一部まで含んでいたことになる。 17 《婀娜国胆年部屯倉》 胆年部について〈姓氏家系大辞典〉は 「伊登志部 イトシベ:古代の御子代部なり。即ち古事記垂仁段に 「伊登志和気王は子なきによりて、子代として伊部を定む」と見えたり。」、 また「胆年部 イトシベ:蓋し伊登志和気王の為に設けし伊登志部領を以つて屯倉とせられしならむ。」、 「婀娜国とは吉備の穴国と同一」とする。 伊登志和気王の件は、『老牛餘喘』にも引用された。
立地条件から考えると、中国山地から南下する川による沖積平野だろうという程度の見当はつく。 そこで問題になるのは、かつて婀娜国には「穴ノ海」があったことで、 その海岸線が山地のすぐ傍まで迫っていれば生産型の屯倉はあり得ないので、ここで「穴ノ海」の真相を調べる。 《穴ノ海》 越後国の新潟平野のうち一定の範囲は、平安時代までは海であったことがほぼ実証されているから(資料[05])、穴ノ海も同じではないだろうか。 「穴の海」は、倭建命が西国征伐から帰朝するとき、穴戸神を制圧した伝説の段で取り上げた(第126回)。 もし「穴ノ海」が6世紀まで存在していたとすれば、その範囲に屯倉はない。その場合、屯倉は山間地の官署型となる。 右図は、Aの沖積平野が過去には海であったとして、 海岸線を推定するために標高12mの等高線以下を水色に色付けしたものである。 ここで〈地名辞書〉を見ると、「深津村」のところに 「深津の近辺は、謂ゆる穴の海の中にて、元和寛永の頃前、尚渺々〔びょうびょう、広々と果てしないさま〕たる海なり」とあり、 江戸時代の始めまで深津村(現在の福山市西深津町・東深津町)は海であった。 その干拓については、 福山市広報「ふくやま」2019年5月号の特集に、 「福山藩2代藩主水野勝俊の時代に東部地域の市村沼田や深津沼田、引野沼田でも干拓が始ま」った〔正保四年=1647〕と載る。 したがって、江戸時代の「穴の海」は、実は図のBの領域である。 それに対して、神辺町あたりの「穴ノ海」(A)の多くの部分は中世までに陸化が完了していたと見られる。 備後国分寺の南東に、御領遺跡がある。 〔〈地名辞書が〉「天家郷」に比定ところである〕 備陽史探訪の会のページによると、 御領遺跡は高屋川などによる沖積平野にあり、縄文時代から近世に至る複合遺跡で、縄文時代の竪穴住居跡、弥生時代の環濠集落跡、 縄文土器、土師器、須恵器などが出土している。 住居跡があるのだから、少なくとも備後国分寺の南の辺りまでは縄文時代から確実に陸地であった。 さらに山陽道古道の経路が分かれば、穴ノ海がどの程度中国山地に迫っていたかが見えてくるだろう。 《山陽道古道》 播磨国の山陽道古道については、『播磨古道調査報告書』(2016年)pp8~9によれば、 山陽道を始めとする街道には各所に駅家(うまや)が設置され、駅使はその馬を乗り継いで朝廷と地方との通信を担った。 東海道、山陽道などの「七道は政治的・軍事的に人々が素早く大量に移動できるよう、 当初は12m、その後は9mまたは6mの幅で最短距離を直線的に敷設され」、 「道路に沿って人や馬を常備した駅(駅家)を設置した馬制が敷かれ」たという。 山陽道遺構が、備後国府跡の南方600mで初めて発掘された (広島県府中市教育委員会の発表:『中国新聞』2016年3月16日)。 〈延喜式〉には「兵部省 諸国駅伝馬」の項に、各国の駅馬・伝馬のリストがある。
「後月駅家」については、 論文『吉備地方における古代山陽道・覚え書き』(足利健亮;1974『歴史地理学紀要』16;歴史地理学会編)によれば、 「通説によれば現在の井原市七日市ということであるが」 「筆者の調査によれば」、「高屋地区に「後月谷」というコアザがある。従ってその谷口付近は後月駅家推定地の一つたり得る」とする。 (但し、原始山陽道は備後国分寺から南寄りの経路を迂回するという別説も併記する)。図の後月谷の位置は、同論文による。 駅家制は令の厩牧令によって規定されているが、 原形は大宝令〔701年〕以前に遡り、 天武天皇元年〔672〕に「駅家」「駅鈴」が出てくる。また大化改新の詔にも「駅馬伝馬」がある(後述)。 山陽道古道は小田川、九沓川に沿って品治郡の駅家を通っていたと見られる。 播磨国内の調査により、最明寺跡と備後国分寺の間も直線で結ばれていたと見られるので、 少なくとも8世紀には陸地であった。 このように見ていくと、山陽道古道の位置は6世紀に既に陸地であったのだろう。中国山地から南下する川による谷が最明寺跡・備後国分寺間に数か所見られ、 その流出口の沖積平野は、生産型屯倉になり得る。 つまりは、生産型屯倉が小田郡から安那郡にかけて、中国山地から流下する川による沖積平野に並んでいたのであろう。 《偽書-旧備後地方之図》 なお、倭建命伝説の穴ノ海をAとしたのは、今となっては俗説に飛びついたサイト主の不明であった。 いくつかのサイトで「旧備後地方之図」なるものが引用されているが、その図は瀬戸内海との海岸線が概ね現代地図と同じで、穴ノ海のラインも現代地図の等高線と一致している。 またその表題部も「舊」「圖」ではなく新字体の「旧」「図」を用いているから、戦後になってから古書を装って作られたと見られる。 本サイトも、一時はこの図が古文献だと思い込むという失敗をした。 ただし、古墳時代の始めにはAの南端部分が残っていた可能性があり、 だとすれば入り口は東西の岬に挟まれた地形は上代語「戸」の意味に当てはまる。 潮汐による流れも速かったことも考えられるから、言わば「穴戸神」が悪さをしたわけである。 よって倭建命穴戸伝説は、「穴ノ海」Aの一部が残存していた古墳時代から残る伝承かも知れない。 【Ⅶ阿波国】▼▲ 18 《阿波国春日部屯倉》
阿波国那賀郡の宮倉村は江戸時代に存在し、町村制〔1889〕で、 大部分が羽ノ浦村に、一部が坂野村になった。 現在は徳島県阿南市羽ノ浦町宮倉となって阿南市北部にあり、羽ノ浦町春日野を取り囲む。 坂野村は、現在は小松島市に属し、小松島市高橋に接する。 宮倉村と春日野を合わせると、大まかには東西1.4km×南北1.8kmの210町ほどで、標準サイズ40町より広い。 江戸時代の「宮倉村」が屯倉の範囲に一致すると簡単には言えないが、屯倉の規模を推定する上の参考するにはなるだろう。 この規模だとすれば、屯倉は首長領全体の召し上げではなく、その一区画を献上したものであろう。 もし屯倉の頃の条理の跡を見出すことができれば、実態に近づくことができよう。 なお、火国春日部屯倉と阿波国春日部屯倉については、匝布屯倉 (継体天皇八年)、 上総国の伊甚屯倉設置 (元年四月) とともに、春日皇后の御名代が各地に設置されたもの見られる。 これらは閨閥の春日氏が管轄したから、春日氏の事実上の領地であると見るべきであろう。 【Ⅷ紀伊国】▼▲ 『和歌山県史 原始・古代』(和歌山県史編纂委員会;1994)(以下〈和歌山県史〉)は、 「経湍屯倉・河辺屯倉の所在地は、それぞれ和歌山市の布施屋、川辺とみてよいであろう」 と述べる。ホシは、布施(ふせ)の訛りであろう。 〈和歌山県史〉はまた、欽明天皇紀十七年の「紀伊国に海部屯倉をおいた」、 海部屯倉は「名草郡大宅家郷に比定され」、「大宅郷は現在の和歌山市手平付近とされる」。 そして屯倉・河辺屯倉と海部屯倉を置いた狙いとして、「「紀氏集団」の勢力圏を東西からおさえる位置」に設定され 「「紀氏集団」の海上活動能力を支えている海民集団の分断をはかった」と述べる。 「紀氏集団」とは〈和歌山県史〉の筆者が、名草郡紀の川南岸地区に「部民制施行の痕跡が希薄である」ところから、 この地に強力な在地勢力がいたと考えて、「紀氏集団」と呼んだものである。
ところが紀氏は簡単に木角宿祢の裔と言いきることはできない。そこには出雲系の移民、先住の豪族名草戸畔(なぐさのとべ)、 日前神社の神主家の紀国造が混在しているからである(第108回)。 合理的に理解しようとすれば、それぞれ別々の始祖伝承をもつ複数族の混合体であったことになる。 とすれば、朝廷が組織的に統制下に置こうとしても、相手が一本化されていないからなかなか話はまとまらないであろう。 すると、屯倉・河辺屯倉は到着船に税を課したり、不正行為を取り締まったりする単純な監視機関であったように思える。 19 《紀国経湍屯倉》 「湍」は、早瀬〔水の流れの早い瀬〕の意味だから、セと訓読したものである。 経湍屯倉と河辺屯倉は、紀の川を両岸から挟むように配置している。 紀の川沿岸のの布施屋側の平地は狭く、条里も見えない。 経湍屯倉は、官署型の屯倉として専ら現地での管理業務や政治的統制に当たったという印象である。 20 《紀国河辺屯倉》 河辺屯倉を、少し離れた永穂(なんご)に比定する説も見る。永穂は〈倭名類聚抄〉{名草郡・断金郷}〔「だごのさと」か〕を継ぐという。 「河辺」は〈倭名類聚抄〉では{山城国・葛野郡・川辺【加波乃倍】郷}を始めとしてカハノベと訓まれている。 〈姓氏家系大辞典〉は「古くは多くカハノベと云ひ、後世はカハベと云ふを恒とす」という。 こと紀伊国の川辺については、現代地名は「和歌山市川辺(かわなべ)」である。 ナは古い格助詞(属格)で、意味はノと同じだが、 〈時代別上代〉によると「上代において既に固定して語構成要素化していた」 〔=上代で既に独立性を失いいくつかの名詞の一部になっていた。〔ミナモ(水面)など〕〕。ワタナベ(渡辺など)も、もともと「海(ワタ)の辺(へ)」の意味か。 カハナへは〈時代別上代〉にもないから既にその時代に死語で、従って極めて古い時代からの地名だとも考えられる。
川辺・永穂のどちらだとしても、経湍側とは異なり背後に条里を備えた広い農地がある。 一方、川辺には遺跡が検出されいる。『河辺遺跡』調査報告書〔都市計画道路西脇山口線道路建設事業に伴う発掘調査報告書;和歌山県文化財センター2015〕によると、 河辺遺跡は、 「縄文時代以降の集落や墓などが発見され、中世にいたるまで交通の要衝として長期間にわたる人々の生活痕跡が発見されている」という 〔図示の範囲は1987~2015年の調査個所〕。 その近くにある力侍神社について、『シンポジウム 南海道の原風景』〔和歌山県文化財センター2020〕は、 「(律令制の)名草郡衙の中心となるのは力侍神社が鎮座する一体であろう」(冨加見泰彦)と述べ、ここの河辺屯倉が奈良時代の郡衙に発展したのが「自然の成り行きであろう」(同)との見解を示す。 〈和歌山県史〉は、「布施屋のすぐ東の吐前は、紀ノ川を上下する船の乗下船地点で、 陸路と紀ノ川水運との転換点であった」、また「大阪平野から和泉山脈を雄ノ山峠越えで紀伊に入り、 そのまま南下して紀ノ川に行きあたったところが河辺」だと述べる。 川岸に近い部分の条理が不明瞭なのは、河川の氾濫によってしばしば洪水が覆う範囲だったから、 初めから条里が作られなかったか、あるいは一度作られた条里が消滅したことが考えられる。 ただ、永穂の北部は特別の条里と見れないことはないから、河辺屯倉はその範囲だったかのかも知れない。 布施屋側は、全く条里が見えない。 河辺屯倉は大字河辺の背後の条里まで含み、生産型の屯倉であったとも考えられるが、正確に捉えるにはこの地域の農地開発の歴史全体を調べる必要がある。 河辺屯倉が生産型ならば、経湍屯倉は必要ないようにも思われるが、考えるべきは河には両岸があるということである。 運んできた物資を水揚げするときに税を課すとすれば、関所は両岸に必要である。 屯倉が両岸に設置されたことにより、在地氏族を厳しく監視する意図が明確になる。
21 《丹波国蘇斯岐屯倉》 屯倉は、しばしば三宅神社が残存すると見られる。丹波国の屯倉については、〈延喜式〉{丹波国/桑田郡/三宅神社}、{丹後国/加佐郡/三宅神社}がある。 『篠村史』(篠村史編纂委員会;1961)は、こられのうち「蘇斯岐屯倉は、篠町西辺にあたる猪坂屯倉がより妥当であろう」と述べ、 桑田郡の三宅神社を蘇斯岐屯倉に推す。 篠村は1959年に亀岡市に編入され、三宅神社の現在の住居表示は京都府亀岡市三宅町121である。 『篠村史』は、三宅神社の一帯を蘇斯岐屯倉とするのが「妥当」である理由として、主に次の三点を挙げる。 第一に、「式内社」となっているのは 「屯倉の紙にふさわしい倉稲魂命をこの地方の首長が長く奉斎しており、 朝廷とのつながりも密接であったからである。」 第二に、「旧山陰道の要地にあり、この地様における有力首長の勢力圏の中心地であった。」 第三に、雄略紀によると「丹羽の土師部」が存在し、 「三宅神社周辺」から「土師器が多数出土」することにより「この地にも土師部の集団があったと思われることである。」
一般には「長地型(60歩×6歩)」〔108m×10.8m〕の条理が、半折型に先立つものであり」 「屯倉の所在地域に多く見られる」という。同書を正確に読めば亀岡町屯倉が長条型だと断定してわけではないが、 その条里の方向が周囲と異なることから 「〔各地の〕国府所在地や三宅神社の条理が他の条里と方向が喰い違っている例」は多く、 亀岡町三宅の条里も例外ではないとする。 同書p.49の「復元図」から、特別の向き条里をもつ区画(航空写真のBに当たる)の面積を求めると、 90万平方メートル=75町となる。 〈延喜式-諸国駅伝馬〉には{丹波国:大枝。…五疋}がある。 〈古代の道〉は「山城国乙訓郡に大江郷があるが、丹波国には〔倭名類聚抄に〕対応郷名も〔現在の〕遺称地も ない」、「奈良時代の大枝(江)駅は山城国にあり、平安時代に入ってから丹波国に遷されたものではなかろうか」と述べる。 従って、同書は大枝駅を山城国乙訓郡との境界近くに推定し、必然的に亀岡町屯倉に重なる。
【Ⅹ近江国の屯倉】▼▲ 22 《近江国葦浦屯倉》 『滋賀県史』第二巻(昭和3年〔1928〕)に 「安閑天皇の二年五月、諸国に二十六の屯倉即ち貯穀倉が作られ、その一に葦浦を充てられてゐる。 葦浦は、恐らく栗太郡常盤村芦浦をその遺阯〔=遺跡〕とすべきである。」とある。
地形図を見ると、草津市の北半分から栗東市・守山市・野洲市の平地の全域(図左のア)という広い地域が一定方向の条理で埋め尽くされている。 ところが、芦浦村の北部だけ例外的に条里の向きが異なっている。 アは近代以後の干拓によるかも知れないので、古い湖岸線を調べてみる。 すると伊能図ではこの辺りの湖岸線は現在と殆ど変わらず、草津市の農地は干拓地ではなく江戸時代以前から存在した。 『12歳から学ぶ滋賀県の歴史』(滋賀県中学校教育研究会社会科部会編。サンライズ出版;2011)掲載の草津市域の所領配置図を見ると、1630年から湖岸線は殆ど変わっていない。 だから、この条里アは古い。 その村の一つに「観音寺領」が存在し、これが現在の芦浦村の村域とほぼ一致する。 したがってこの観音寺領は、周辺の条里への埋没を拒む特別な地域として存在し続けたわけである。
その不可侵性はさらに葦浦屯倉にまで遡り、その伝統の場所に改めて観音寺が創建されたと考えてもそれほど無理はないであろう。 芦浦観音寺領独自の条里はおよそ113,000平方メートル=9.5町と標準の「四十町」より小振りである。 右図は条里と山陽道駅路(推定)の図に、芦浦村町を書き加えたものである。 この図では芦浦は駅路からやや離れているが、屯倉が置かれた当時は篠原駅の位置から古道が伸びていたことは十分に考えられる。 【ⅩⅠ尾張国】▼▲ 23 《尾張国間敷屯倉》 間敷屯倉については、 尾張国春部郡安食郷説及び、 尾張国中島郡三宅郷(現在は愛知県稲沢市平和町三宅)の二説が見られる。 《安食郷説》 春部郡安食郷説については、次のような論考がある。 『郷土誌かすがい27号』 に「春日井市史〔1963~1964〕の古代を論述された重松明久氏の説を紹介しておきたい。氏は「安食」は「間敷(ましき)」の転訛したものと指摘される」(大下武;市文化財保護審議会委員)とある。 〈倭名類聚抄〉には、{尾張国・春部【加須我倍〔かすかべ〕】郡・安食郷}とある。 大下氏は、①屯倉として「春日部屯倉」が想定され、そこに間敷屯倉が吸収されたかまたは改名された。②春日部屯倉とは別地域である。の二つの可能性を挙げている。
一方、平和町三宅説については〈地名辞書〉の「尾張国中島郡」に 「三宅郷: ○今三宅村存す、…安閑紀二年、尾張国間敷屯倉などあるは此歟、海部郡にも三宅郷」。 海部郡には「三宅郷: ○今詳〔らか〕ならず、津島の旧名歟、津島牛頭天王の本宮と云ふが、 中島郡三宅郷三宅村に存在するとも云ひ、〔尾張志、名所図会〕ニ地相干係〔=関係〕する所あるに似たり。」 ここに出てきた「牛頭天王」ついては、旧平和村に長福寺(稲沢市平和町下大字三宅字郷内309)がある。その公式ページ/紹介によると、 「牛頭天王をお祀りしている屯倉社の別当職として寺院形成」、「伝承には天長7年(830年)創建」、 「屯倉社は津島神社(津島市)の元宮であった」と伝えられている。 《三宅郷説》
阿波国のミヤクラの例や全国各地の「三宅郷」などを見ても、「マシキ」よりも「ミヤケ」の部分の方が地名に残り易いようである。 屯倉は特別に区切られた空間であったから、「ミヤケ」の方が一般的な呼称となるのはもっともであろう。 海部郡説の方は「アジキはマジキの転」と見るが、地名「ミヤケ」は見いだせない。 『平和町誌』(平和町誌編纂委員会;1982)は「六世紀段階に入って県を割いて屯倉を設定する動きがあった」とした上で、「千引の北訳二キロの地に平和町上三宅・下三宅がある。 此の地は『和名抄』の屯倉郷の地」であると述べる。 同書はまた、「三宅廃寺の軒丸瓦」は「長福寺境内から南の伊久波神社本殿周辺にかけて出土するらしいが、 神社本殿北側付近が最も濃密に散布している。伊久波神社の社殿は周辺の土地より約1メートルほど高い小丘上に鎮座し、この小丘の裾の部分に古瓦が多く検出される」 から、「神社は廃寺のなんらかの高まり上に建築されたのではなかろうか」 〔=三宅廃寺跡に土盛りして伊久波神社を造営したのではないか〕と述べる。 なお、伊久波神社のある平和町下三宅郷内は明治初めの時点では中島郡に属しているが、〈延喜式〉では{尾張国/海部郡/伊久波神社}となっている。 郡界まで数百mなので、平安時代には境界が少し北にあったか、或いは少し南の海部郡から遷座してきたのかも知れない。 海部郡の海岸線は現在よりも内陸にあったと見られるので、 この辺りに伊勢国からの船が入港していた可能性もある。 24 《尾張国入鹿屯倉》 前掲『郷土誌かすがい27号』は、「入鹿屯倉は、今の入鹿池辺に比定出来」ると述べる。 愛知県犬山市の入鹿池は、江戸時代に農業用の人工のため池として作られた。 「入鹿村」は、蘇我入鹿の領地であったからという記述も見るが (『史と詩の町から54号』犬山名所協会;2015)、その出典はなかなか見つからず確かな文献資料はないようである。 もし蘇我入鹿に因んだとすると、この人物の登場は皇極天皇元年〔642〕だから、 「入鹿屯倉」は最初からの名称ではなく、書紀が書かれた頃の名称を用いたことになる。 すなわち、屯倉だったところを蘇我入鹿の私領にしてしまったという説である。
犬山市公式サイト内の「古代『邇波』地域と古墳群について」によると、 入鹿池築造工事については、 「入鹿村は周囲を山に囲まれた盆地状の低地で」 寛永五年〔1628〕に3本の川の合流点(銚子口)を閉め切る工事を始めて、同十年〔1633〕に完成した。 また、十三塚古墳群については、 「入鹿池古墳群の中でも入鹿池東部に位置する西山地区には十三塚古墳群」、博物館明治村には明治村古墳があり、 「このほか近年の調査によって新たな古墳も見つかっている」という。 『犬山市史』に戻ると、「当時の入鹿の地周辺は、経済的にも、政治的にも尾北地方における畿内政権の一つの拠点であったことを物語っている」と述べる。 入鹿池のおよその面積は119万平方m=100町で、標準の四十町に見合うものである。 また、入鹿村は尾張国から東山道に入る要の位置といえる。なお、細かく見れば分岐した下街道にあたる道から入ったかも知れない。 ただ、 ここは山に囲まれた閉鎖的な土地なので、この地の首長勢力や東山道の通行に睨みを利かせるには不適切である。 古墳が集中しているのは、在地の首長勢力が古くから存在したことを伺わせる。 だから、屯倉の位置は実は入鹿盆地の外で、盆地内の首長勢力を牽制するとともに東山道入り口を管理したのが、「入鹿屯倉」とも考えられる。 あるいは、首長を懐柔して屯倉の長に任命したことも考えられる。 《尾張国の東海道》
東海道については、馬津駅は愛知県愛西市町方町松川と比定されている。 『蓬州舊勝録』(1799)に「○馬津湊 今は松川と里諺と言えり。昔の居守(居森とも書く)是なり」とある。 次の「新溝」駅について〈古代の道〉は、 「遺称地名〔古地名から繋がると思われる現代地名〕はない」が、明治時代の地形図などの分析※から「露橋(名古屋市中川区露橋町)に新溝駅を想定」している。 ※…〈古代の道〉曰:承和二年(835)太政官府「船瀬井布施屋事」に見える草津渡〔愛知県あま市上萱津・下萱津と見られる〕から 東南方に直線に通る駅路路線を旧版地形図と地籍図類によって想定し、その屈折点〔中略〕露橋に新溝駅を想定した。〕
尾張国側の湊は馬津駅であるが、伊勢国側の湊は「榎撫(えなつ)駅」と考えられている。 論文「 東海道朝明・榎撫駅小考(山中 章、2012)」には、 「柚井遺跡に「津」としての機能の可能性が出てくる」、 「榎撫駅について」は「次の駅が尾張国馬津駅であり、同駅にも船が同数置かれていた」として、 馬津駅と榎撫駅の間は水路であったという。 〈古代の道〉も、『日本後記』弘仁三年五月乙丑の 「今自二桑名郡榎撫駅一、達二尾張国一、既是水路」を引用して、 「尾張国馬津国との間は水路であったことが判る」と述べる。 間敷屯倉の候補地のひとつである平和町三宅は、馬津駅比定地と大変近いことが注目される。 間敷屯倉は、馬津駅にかなり近いことが注目される。6世紀には松坂から直接海路で馬津に来たことも考え得る。 後に伊勢湾沿いの陸路が次第に北に伸び、それにつれて徐々に伊勢側の湊が北に移り、〈延喜式〉の榎撫駅に至ったとする考え方は魅力的である。 《美濃国の東山道》 一方、東山道について〈古代の道〉は、「大野・方県・各務・可児の諸駅については、いずれも郡名を冠する駅であるから、郡内のどこにあったか判りにくい」とする。 土岐には「瑞浪市小田町に馬屋の地名がある」が、尾張経由支路(後の下街道)の駅路かも知れないという。 入鹿屯倉は、東海道の尾張経由支路に近い。〈古代の道〉は、尾張国府―馬屋里―土岐駅の経路を想定している。 そのうち馬屋里は安食荘の一区画で、間敷屯倉=安食荘説に立つ場合は東山道に繋がり、これでも屯倉=「駅の前身」説に合ってしまう点が悩ましい。 なお、安食荘推定図には、須磨千穎説と水野時ニ説の二説が見つかった。 各里のラインそのものはほぼ共通しているが、名称の割り当て方が異なっている。こと馬屋里の比定については、水野説の方が下街道と合う。 【ⅩⅡ上毛国】▼▲ 25 《上毛野国緑野屯倉》
緑埜の中央部は鮎川の河岸段丘となり、いくつかの前方後円墳がある。 群馬県の古墳によれば、 図のカは「平井地区77号墳:前方後円墳、墳長31.4m」、 エは「平井地区76号墳:円墳」とされる。 段丘面の大体の面積を地図から読み取るとおよそ49万平方メートル=41町で、 屯倉の標準的サイズである。 訓が「美止乃」であることは、既に平安時代にミドリの「リ」が脱落していたことを示し、 村名のミドノにも引き継がれている。 局所的な地名が広域に拡張されたと見られる例には、河内郡⇒(凡)河内国、 倭(大和神社周辺)⇒大和国、金錯銘鉄剣のワカタケル大王(雄略天皇)の斯鬼宮⇒磯城県などがある。 よって緑野村がこの地方の中心で、「緑野郡」の名称の元になったことは十分考えられる。 さて、緑野屯倉の設置理由について『群馬県史』-通史編2(群馬県史編さん委員会、1992)は、 「〔安閑〕元年閏十二月条の、武蔵国造の地位をめぐる紛争の伝承〔安閑天皇紀4〕と密接にかかわるとの指摘もある。 すなわち、この紛争の制圧を契機に武蔵国に四か所の屯倉を置いた大和政権は北進して、 紛争に介入した上毛野勢力に対する懲罰と、この勢力を監視する戦略拠点として緑野屯倉を設置した」と述べる。 元年閏十二月条では、上毛野君小熊が武蔵国造を指名するのは越権行為であったことを匂わせている。 小熊の介入が史実であったかどうかは別として、書紀は緑野屯倉設置の目的を国造の統制としたのは明らかである。 興味深いのは、東山道の入り口の入鹿とともに、出口の緑野にも三宅を設置したことである。 《東山道-上野国》 〈延喜式〉には「上野国駅馬:坂本十五疋。野後。群馬。佐位。新田各十疋。」とある。 坂本駅、野後駅については、〈倭名類聚抄〉に{上野国・碓氷郡・坂本【佐加毛土】郷、野後郷、駅家郷}がある。 江戸時代の坂本村は、明治以後に坂本駅に改称し、安中駅に編入などを経て現在は安中市。 江戸時代の上野尻村・下野尻村は安中駅に編入され、現在は安中市。 坂本駅は、〈古代の道〉によると安中市松井田町原の「原遺跡に大型掘立柱建物が検出され、 駅家関係の遺跡と見られている」。(原遺跡:山武考古学研究所の報告(『横川大林遺跡 横川萩の反遺跡 原遺跡 西野牧小山平遺跡』;1997)によれば、 群馬県碓氷郡松井田町大字原字西浦410-8) 「学習の森だより」 によれば、原遺跡の場所は国道18号線(中山道)と関越自動車道が交差する辺りである。 群馬駅・佐位駅・新田駅については、〈倭名類聚抄〉に {群馬郡・駅家郷}、{佐伊〔位の誤り〕郡・佐井郷、駅家郷}、{新田郡・新田郷、駅家郷}がある。 東山道にはすでに初期の駅制を形成しつつあり、朝廷からの連絡に用いられたことが考えられる。 緑野へは東山道の碓氷郡から南東へ、群馬郡の南辺に沿う道が使われたのではないだろうか。 【ⅩⅢ駿河国】▼▲ 26 《駿河国稚贄屯倉》
〈地名辞書〉には「生贄川: ○安閑紀に「二年、置駿河国稚贄屯倉」とあるは何地にや、 生贄は此〔の〕稚贄をいひなまれるにあらずや、猶考ふべし〔=生贄は稚贄が訛ったのではないか、なお考えるべきであろう〕」とある。 『静岡県史』通史編1(1994;静岡県)は、 沼川と和田川との合流点より下流域は、もともと 「海や沼・川の水産物を「生贄」として献上する屯倉」で、この屯倉が「壬生部(皇子領)に編入された時、 稚贄屯倉と呼ばれるようになった」とする。 すなわち、いわゆる生贄とは人身御供(ひとみごくう)のことだが、ここでいう「生贄」は鰹節が完全に乾燥しきる前の「半製品状態のもの」と推定し、 6世紀にはこの屯倉からその生贄が献上されていたと見る。 そして、稚贄のワカは皇子を指し、 「その後七世紀の始めには皇子の贄〔食物〕を貢納する稚贄屯倉として聖徳太子と深く関わりを持った」と推定する。 同書はまた、『駿河国史』(1783年成立)は「牲川、吉原依田橋川の下流にて海渚に近し」 と記し、「吉原川の川下」は「牲渕とも呼ばれており、それにまつわる人身御供の伝説をいろいろと書き留めている」が、 「人身御供の伝説は生贄の事実が先にあって後に付会・転化したものであろう」 〔=生贄はもともと食品を意味したが、その意味が転じて人身御供の伝説が生まれたのであろう〕と推定する。 ワカが皇子・皇女を指すことは事実で、同書の挙げる木簡の「若舎人部」のほか、 孝霊天皇段の「大吉備津彦-若建吉備津彦」、「大倭根子日子(孝元天皇)-若倭根子日子(開化天皇)」、 「大日孁貴(おほひるめのむち)尊-稚日女尊(わかひるめのみこと)(神代記一書)」(第48回)などに「オホ―ワカ」の対があり、 何れもオホは貴人の親で、ワカはその子である。 さて、生贄は沼川・和田川・潤井川の合流点から南を指すようだが、現在は田子の浦港に包含されている。 『駿河国史』所引の『明治22年静岡県管内全図』復刻版の「富士市吉原~沼津市原」(右図)では、合流部分の名称は「潤井川」である。 その周囲の地域が、「生贄」であったのは確かだろう。 しかしイケニヘが人身御供の意味で使われる前から「いけ-」には、生剥(生きしたまま獣の皮を剥ぐこと。天つ罪のひとつ)のように不吉な意味で使われるので、 美称である「ワカ-」に置き換えたのかも知れない。完全な鰹節になる前の半乾燥状態を表すとすれば、「わかにへ」もまた適語である。 「好字令」(和銅六年〔713〕)による改称かも知れないが、書紀(720年)に反映するのが間に合わなかったとすれば好字令以前かも知れない。 好字令以前に字を改めた例は、明日香→飛鳥などに見られた。 もし不吉なニュアンスを避けるための改名なら、わざわざ「皇子の贄」説を持ち出す必要はない。 さて、この稚贄屯倉は伊勢国からのウミツミチ(東海道)の寄港地だったかも知れない。 その先は陸路で武蔵国の横渟・橘花・多氷・倉樔の屯倉(閏十二月条)に達する。 よって、緑野屯倉が東国に相対する東山道(やまのみち)側の拠点であるのに対して、稚贄屯倉は東海道(うみつみち)側の拠点ではないかと思われる。 【二十六屯倉設置の意味】▲
また、東山道については、入鹿屯倉と緑野屯倉が美濃国上野国区間の両端に位置することに注目した。 このことから、山陽道及び東山道の上野国までの区間にはこの頃から朝廷の使者が往来した可能性も想定し得るる。 ことによると、駅使(はゆまつかひ)のための駅(うまや)の設置も始まっていたかも知れない。 《令義解・延喜式》 文字資料に現れる駅制は、大宝令〔大宝元年(701)〕、養老令〔718〕まで下り、 これらの成文は、『令義解』-「厩牧令」で知られる。 ――「凡諸道須置駅者、毎二卅里一一駅。若地勢阻険、即無二水草一処、随便安置。不レ限レ里。」 〔凡(おほよ)そ諸(もろもろ)の道に須(かならず)置ける駅は、三十里(みそさと)毎に一つ。もし地勢阻険(けは)しかりて、即ち水草無き処(ところ)は、便(たやす)き随(まにま)に安置(お)き、里に限らず。〕 ――「凡諸道駅馬大路【謂二山陽道一。其大宰以去即為二小路一也】廿疋。 中路【謂二東海〔道〕東山道一。其自外皆為小路也】十匹。小路五〔匹〕。使稀之処国司量置。」 〔凡そ諸の道の駅馬(はゆま)、大路(おほち)【山陽道を謂ふ。其の大宰(おほみこともち)以って去(ゆ)けるは、即ち小路をつくる】二十疋(はたち)。 中路【東海道(うみつみち)・東山道(やまのみち)を謂ふ。その外(ほか)より皆小路(をぢ)をつくる】十匹(とほち)。小路五匹(いつつ)。使(つかひ)稀なる処は国司(くにのかみ)量り置くべし。〕 ――「凡水駅不レ配レ馬処、量二閑繁一駅別置レ船四隻以下二隻以上。随レ船配レ丁。」 〔凡そ水の駅の馬を配(あ)てざる処、閑繁を量りて駅に別(こと)に置けるは船四隻(よつ)以下二隻(ふたつ)以上。船の随(まにま)に丁(よほろ)を配(あ)つ。〕 「駅」は〈倭名類聚抄〉に「唐令云。諸道須置駅者毎二三十里一一駅。【音繹。和名無末夜。】」 〔諸(もろもろ)の道に須(かなら)ず置ける駅は、三十里(みそさと)ごとにひとつ。音エキ。和名ムマヤ〕。大宝令・養老令は「唐に倣った令」という意識があったようである。
《大宝令以前の街道》 七道は官道大宝令で規定されるが、何もない原野に突然街道を引いたわけではない。 壬申の乱に遡ると、 天武天皇元年〔671〕六月条に「乞二駅鈴一」したが拒否される記事があり 〔駅鈴は、駅使が携帯する鈴〕、 また伊賀国の「隠駅家(なばりのうまや)」、「伊賀駅家」が出てくるから、少なくとも672年までにこの方面の駅馬制は成立していた。 よって、飛鳥京、藤原京当時の東海道は初瀬街道経由であったと見られる。 大化二年〔646〕の「改新之詔」には、 「初修二京師一。置二畿内。国司郡司関塞斥候防人駅馬伝馬一。及造二鈴契一。」 国司・郡司は最終的に全国に置くことを目指したのは明らかだから、「畿内」に限定されていることには首を傾げる。 斥候・防人に至っては、もはや畿内には不要である。「畿内及諸国」から「及諸国」が脱落したと見られる。 天武天皇紀十年に「詔畿内及諸国」の表現があるからである。 よって、関塞・駅馬・伝馬も全国規模の整備を目指したと読むべきであろう。 正式に七道と駅制が定義されたのは大宝令によってである。その頃から駅家をなるべく直線で結ぶ広い官道が整備されたと見られる。 概ね、すでに存在した街道(ここでは「令前道」と表記する)を上書きする形で整備されたのだろう。今までの国道に加えて高速道路を作るようなものである。 駅についても、それまでの駅制の追認または改良であったと思われる。 少なくとも備後国から上野国までの範囲の屯倉の設置は、令前道の整備と同時ではないだろうか。 二十六屯倉に北陸道と陸奥が含まれないことは特徴的で、この時点での令前道の整備は山陽道と東山道(上野国までの区間)である。 東海道については間敷屯倉と稚贄屯倉があるが、これらを初瀬街道の延長と見れば、未だに海上交通の区間が多かったと考えられる。 山陽道は令では唯一の「大道」とされるが、令前道の頃から最重要であったことだろう。 閏十二月の「竹村屯倉」は、山陽道の始点だったかも知れない。 大陸との窓口である北九州と朝廷のある畿内との間にはもともと緊密な情報伝達や人や物の運搬が必須だから、 山陽道区間が最初に整備されたのであろう。 この区間の交通路の重要性は魏志倭人伝まで遡り、 当時のルートは、筑紫から因幡までは日本海沿岸を「水行十日」し、因幡から陸路で邪馬台国まで「陸行一月」であった〔と本サイトは読む〕。 《二十六屯倉》 二十六の屯倉には宰が常駐して国造を管理して動向を掌握し、駅使によって朝廷から勅が伝達されたのであろう。 当時、磐井の乱を経て地方氏族の管理が課題になっていた。 屯倉の官吏を養う食糧を中央から運んでいては非効率であるから、一定の耕地を付随させて部民を抱えていたと思われる。 その規模は、前出の「竹村屯倉四十町」、また条里によって判別された蘇斯岐屯倉の75町や芦浦屯倉の9.5町などを見ると、 数十町程度が標準と見られる。 『平和町誌』の「県を割いて屯倉を設定する動きがあった」という表現からは、国造の所領を朝廷の直轄地に置き換えていったような印象を受けるが、 この程度のサイズでは、国造に取って代わるほどではない。 だから、屯倉は朝廷が地方に置いた官署であり、その域内の農業生産は滞在する宰や官吏を養い、官署の機能を自律的に維持する程度であった。 その機能は、中国十三州に派遣されて諸侯を監視した刺史を想起させる〔但し、刺史は後には自ら地方行政権を握るようになっていく〕。 また、江戸時代の天領(幕府直轄領)との類似も感じさせる。 書紀は二十六屯倉を安閑二年五月九日に一斉に設置したと書くが、実際は順次設置していったものであろう。 〈和歌山県史〉は「おそらくこのころに行われた屯倉の設定を一つにまとめて記したものと見られる」と述べる。 屯倉のリストを、安閑天皇紀を借りて示した可能性もある。 継体天皇の八妃の入内のところでは、実際の時期はばらばらであったものを形式上まとめて書いたと、原注によって自ら白状している。 ことによると、実際にはもう少し後の時代に行われたのかも知れない。 というのは伝説的天皇の時代においては国の営みをテーマ別に、幾人かの初期天皇に割り振っているからである。 例えば調・庸の起源や灌漑池の建造を崇神天皇に、 行政区域の線引きと首長の任命を成務天皇に、 百済人の帰化を応神天皇に、 治山治水を仁徳天皇にという具合である。 安閑二年〔535〕と「駅馬」が出てくる大化二年〔646〕とは離れすぎているから、 もし二十六屯倉設置が後世に下れば繋がりが深まって解りやすい。 ただ、それでは磐井の乱は直接のきっかけではなくなってしまうが、 それでも反乱の芽を未然に摘むことの必要性自体はずっと意識し続けられと考えれば何とかなる。 特に、筑後・豊前の七屯倉はまだ磐井の乱の記憶も新たな時期と見た方がよいだろう。 それでも屯倉は朝廷の方針を末端まで行き渡らせ、現地首長勢力を監督するための機構だから、中央との間に常に緊密な連絡を要する。 使者が、馬を使えば好都合なのは間違いない。 馬形の形象埴輪が出現は、5世紀後半とされる(第193回)。 継体六年〔512〕には、「賜二筑紫国馬四十匹一」という記事がある。 筑紫国に馬牧があり、計画的に馬を育てていたことがわかる。 長距離の駅使を制度化するためには、乗り換え用の馬を用意する駅(うまや)を設置しなければならないが、6世紀の時点で少なくともその条件が備わっていたのは確かである。 幅広で直線状の官道の整備こそ大宝令を待つが、令前道と駅は6世紀まで遡り、屯倉と深く結びついていた可能性が高い。 《生産型屯倉》 以上から二十六屯倉の性格は基本的に官署型だが、「備後国」(実際は備中国)の屯倉のいくつかや火国春日部屯倉は広大で、生産型屯倉の条件を備えている。 このうち火国春日部屯倉は令前道の範囲から離れている。 広大な屯倉としては、元年四月の「伊甚屯倉」も後に複数の郡に分けるくらいだから相当の広さである。 この西の端の東の端の屯倉は、それぞれ熊襲と蝦夷への前線にあたることが注目される。 恐らくそれぞれの屯倉に多数の部民を置いて対立勢力を圧迫し、支配下に治める目的をもって設けられたものであろう。 また、共に春日部が置かれた点が注目される。〔火国はもろに春日部。伊甚は春日皇后の御名代。〕 名目こそ屯倉であるが、事実上春日氏に伴造を賜って掌らせたものと見られる。 阿波国春日部屯倉も、この範疇に属するものであろう。 火国、阿波国、伊甚はまだ令前道の範囲外で、情勢は未だに不安定であったから、朝廷に与する強力な氏族を置く必要があった。 その実働部隊は春日部で、普段は農耕に勤しみいざというときは強力な武闘集団になったのであろう。 まとめ 駅使の役割は詔の地方への伝達である。これは大宝令で定式化されるが、その萌芽は屯倉の設置にあるのではないかと見た。 そもそも駅制を成り立たせる条件は、道と馬と紙である。 道に関しては、二十六屯倉の多くは令前道沿いにある。馬は形象埴輪と百済への筑紫馬の提供の件によって、使者による利用が推定される。 紙(竹冊も考え得る)については、この二年五月条の内容自体が安閑天皇の頃の古い文書記録に依った可能性を見た。 つまりは担当官庁が作成した全国の屯倉のリストが残っていたのなら、同じ時代に命令を文書化して発布したことはあり得たわけである。 「紙がつくられるようになったのは仏教をはじめ大陸の文化や技術の交流が盛んになった5~6世紀頃だと考えられています。」 (株式会社タケオ)などと言われる。 すなわち、直接証拠はないが、初歩的な駅制を成立させるための三つの客観条件は揃っている。 屯倉の性格は、基本的に国造を統制するための朝廷の出張機関である。 それは、国造の領土を屯倉に置き換えるものではなく、むしろ国造を地方政治の担い手として認めることを前提として、朝廷への服従を徹底させるものと言えよう。 なお、さまざまな地方自治体が作成した地方史で屯倉の件を見ると、共通して在地の首長勢力の独立性を強調し、 それに朝廷が進出して地方権力を奪うという構図で描かれているところが興味深い。そこに郷土愛が垣間見える。 さて令前道のネットワークを見れば、安定的な支配域は、西は薩摩・大隅を除いた九州と山陽、東は上野・下野と房総半島ぐらいまでと言える。 これは、西は銀象嵌銘鉄剣の肥後国まで、東は金錯銘鉄剣の武蔵国までという範囲を、大きく越えるものではない。 従って、日本武尊の東征伝説は6世紀以後の事業を遡らせて神話としたものとなる。 上野・武蔵・上総の屯倉には、春日氏系の伴造と多数の部民を置いて進出する拠点としたと見られる。 屯倉が存在した物質的な根拠としては、条里の不整合が注目される。 荘園の条理によって上書きされずに残ったのは、かつての屯倉が不可侵性を維持していたからではないだろうか。 ⇒ [18-04] 安閑天皇紀5 |