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2019.11.17(sun) [18-01] 安閑天皇1 ▼▲ |
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1目次 【即位前~元年三月】 勾大兄廣國押武金日天皇。男大迹天皇長子也……〔続き〕 2目次 【元年四月~七月】 《大麻呂奉勅遣使求珠伊甚》
『令義解』に載る「職員令」によれば「宮内省」の内局のひとつに「内膳司(うちのかしはでのつかさ)」がある(資料[24])。 長官は、「奉膳二人」とされる。 〈倭名類聚抄〉「長官」の項には「内膳司。曰奉膳【今案。令有二奉膳二人一。後停二奉膳一人一為正】〔今案ずるに、『令』に奉膳二人あり、後に奉膳一人にとどめて正とす〕」とある。 「長官」は「已上皆加美〔以上皆カミ〕」とあるように様々な表記があるがすべてカミと訓むので、「奉膳」の訓はカミである。 『令義解』によると、「官位令」では中務省の卿(カミ)が「中務卿 」と「省」抜きだが、訓には「の司」が生きている。 「内膳卿」も同様で、「内膳官の卿」であろう。カミが「奉膳」ではなく「卿」なのは、令以前の表現なのだろう。 ならば「内膳卿」の訓は「うちのかしはでのつかさのかみ」である。
《求珠伊甚》 「求二珠伊甚一」は「珠-」を美称として、伊甚国全体を屯倉として献上することを求めたようにも読める。 しかし、それなら「求」ではなく「献」であろう。 ここでは、珠・伊甚を二重の目的語にとり、「求珠於伊甚」の意か。 ただ、夷隅郡の地域が宝石の産地という資料はなかなか見つからないので、タマだとすれば「しらたま」(真珠)の可能性が高い。 各種の漢和辞典では、「珠」の第一義を真珠としている。 真珠だとすれば、潜水漁によって採取した鰒などから偶然得られた天然真珠を、貴重品として蓄えておいて献上したと想像される。 魏志倭人伝には、「出二真珠一」(同第47回)とあり、 また壹与は魏に「白珠五千孔」を献上した(同第86回)。 夷隅郡近くの潜水漁業の地域を見ると、現代では「2009年海女サミット」に千葉県の白浜町からも参加があった (魏志倭人伝第16回)。 白浜町は房総半島南端の安房国にあり、現在は合併により南房総市の一部となっている。 《伊甚国造》 国造本紀には、上総国の国造として須恵国造・馬来田国造・伊甚国造・武社国造・菊麻国造が見える (第123回)。 伊甚国造については、 「伊甚國造。志賀高穴穗朝御世〔成務天皇〕。安房國造祖伊許保止命孫伊己侶止直。定賜國造。」とある。 東国における国造は、畿内の県に相当し、しばしば後の郡域に対応する(資料[26])。 〈倭名類聚抄〉には{上総【加三津不佐】国・夷灊【伊志美】郡}〔かみつふさのくに・いしみのこほり〕。 灊〔音セン;U+704A〕は珍しい字で、辞書によれば川の名(四川省、渠江の古名)、地名(安徽省の県名と山名)に使われている。 「夷隅郡」と表記するようになったのは江戸時代で、 「江戸時代には夷隅が多用され、『寛政重修諸家譜』では「いすみ」としている」(『日本歴史地名大系』)という。 《伊甚屯倉》
「廿日己丑。大雨。節婦上総国夷灊郡人春部直黒主売叙二二階一。免二戸内役一。以表二門閭一。」 〔節婦なる上総国夷灊郡人春部直の黒主売、二階に叙し戸内の役を免ず。以て門閭〔村里の門、或いは家の門〕に表す。〕 が載る。 〈姓氏家系大辞典〉は、この「夷灊郡の人、春部直」を「武社国造〔後の上総国武射郡に相当〕の族にて、春日部の局分的伴造たりしなるべし 〔春日部の細分化された一族の長であったのだろう〕」と推定する。 一方『日本歴史地名大系』は、「春日皇后にかかわる春日部〔ママ〕という名代が設置されていたらしいことから、屯倉の存在などを含むこの所伝も史実であったかもしれない。」と述べる。 すなわち、伊甚屯倉は春日皇后の御名代となり、中央からこの地に派遣された代官が春部直〔かすかべのあたひ、はるべのあたひ〕であろうと推定する。 恐らくは春日部直一族には、伊甚国造稚子が呼び出されて詰問され皇后の房に逃げ込んで云々という伝承があり、それが書紀が書かれた頃にも残っていたと思われる。 膳臣大麻呂・国造稚子という人物名や、伊甚屯倉献上の事実そのものについては、文書記録があったと想像される。 ただ、この話そのものは、面白おかしく伝説化されたものと考えた方がよいであろう。 《今分為郡属上総国》 「今分為レ郡属二上総国一」は、 伊甚屯倉の一部が夷灊郡として上総国の行政下に移され、残った部分は書紀が書かれた頃にはまだ「伊甚屯倉」として存続していて、なおかつ上総国の外にあったと読める。 しかし、孝徳天皇紀大化二年には大化の改新が施行され「罷二昔在…処々屯倉…一」〔昔在りし…ところどころの屯倉…をやめ〕とあるので、この読み方は歴史的事実に合わない。 他の読み方としては、伊甚屯倉はいくつかの郡に分割され、分割して成立したすべての郡が上総国に属したとも読める。 隣接する畔蒜郡・埴生郡・長柄郡・山辺郡は国造が空白だから、少なくともその一部が伊甚国造に含まれていた可能性はある。 『日本歴史地名大系』は、伊甚国造の領域は一説として「一宮川・南白亀川流域の埴生郡・長柄郡域をも一部含んでいた」、 その一宮川水系上流の長南町域には「能満寺古墳・油殿一号墳といった四世紀代の大型前方後円墳があり、〔古墳時代〕前期における首長勢力の存在がうかがわれ」、 「伊甚屯倉献上の記事は中・後期における当地域の首長勢力の衰退を反映している」可能性があると述べる。 長南町域は、埴生郡域と大体重なっている。油塚古墳群は前方後円墳2基、円墳2基からなり、一号墳は前方後円墳で全長92m、4世紀末から5世紀初頭。 能満寺古墳は前方後円墳、全長74m、4世紀後半。 すなわち、両古墳を中心とする埴生・長柄・伊甚の地域で栄えた首長勢力が、伊甚国造に定め賜ったのではないかという考え方である。 今後、長南町・睦沢町・いすみ市から住居遺跡が発見され、首長勢力の居住域の広がりが見えてくれば、 首長勢力が伊甚国造に繋がるかどうか、もう少し具体的に分かると思われる。 《内寝》 〈北野本-欽明三十二年〉や『仮名日本紀』では内寝の訓は「おほとの」とあり、古訓によるものと思われるが、ここで「大殿」〔=宮殿〕は疑問である。 「内寝」の元来の意味は寝室であろうが、生活空間としての居室も意味する。 対応する上代語を探すと、「ねや」、「さねどこ」、「ねどころ」があるが、実際に寝る部屋の印象が強すぎて使いにくい。 その他には「むろ」は壁が厚く塗り固められた部屋、「とばり」は部屋の中を仕切った空間、「ま」は空間一般、「や」は家で、 部屋そのものを表す上代語はなかなか見つからない。 〈皇極天皇紀-二年〉の古訓「ねどの」も、本来は宮殿である。 宮殿の敷地内で独立した建物として「内寝殿」は考えられるから、 それなら「おほとの」で何とか筋が通る。建物内の一室だったとしたら、言葉の意味を拡張したことになる。 ここでは査問から逃げた国造稚子が後宮の複雑な廊下に迷い込み、たまたま飛び込んだ部屋が内寝であったと読むのが自然なので、 「内寝」は後宮の一部屋として訓読すべきであろう。 後世には「奥の間」という言い方があるから、上代でも「うちつみやのおく」という意訳が可能かも知れない。 《百済の位階》
五部は、都の行政区画と見られる。 名前に五部を冠したものには、〈継体天皇紀〉十年に「百済遣前部木刕不麻甲背」、 〈欽明天皇紀〉七年~十五年に「中部奈率己連」「中部奈率掠葉礼」「中部護徳菩提」「中部德率木刕今敦」が見られる。 周書の時代の百済の都は、泗沘である。 『三国史記』百済本記―聖王十六年〔538〕に「春。移都於泗沘一名所夫里。國號南扶餘」とある。 即ち、538年に泗沘に遷都し、それ以前の首都は熊津(現在の公州市)で、文周王元年〔475〕に慰礼城〔現在、ソウル市域内と言われる〕から遷都した。 泗沘は、現在は忠清南道扶餘郡にあたる(神功皇后四十九年)。 したがって、時期から見て「五部」とはその泗沘を統治する区画である。 なお、天武天皇紀に「高麗。遣大使後部主簿阿于。副使前部大兄徳富。朝貢。」があるがこれは全く意味が異なり、 高句麗における「五部」は「奴」と呼ばれる地域的部族集団を指す。高句麗は「奴」の連合体であったと言われる。 『新唐書』列伝第一百四十五「東夷」に「高麗…分五部…曰北部 即絶奴部也 或号後部…曰南部 即灌奴部也 亦號前部…」とある。 《雌雉田》 〈甲本〉「雌雉田」。 〈仮名日本紀〉には「雌雉田」。 キギシは、キジの上代語である。 古訓では「雌」を読まず、単に「きぎした」とする。 この「きぎし田」は難解であるが、万葉集にヒントがある。 ●(万)3375 武蔵野乃 乎具奇我吉藝志 多知和可礼 伊尓之与比欲利 世呂尓安波奈布与 むざしのの をぐきがきぎし たちわかれ いにしよひより せろにあはなふよ。 解釈は「武蔵野の をぐりが雉 立ち別れ 去にし宵より 兄ろに合はなふよ =別れて去った宵から、セ(親しい男性)と会っていないよ。」 〔「なふ」は東国語の否定の助動詞。「せろ」は「せ」+東国語の接尾語〕。 「をぐり」の解釈には種々あるが、少なくとも「きぎし」は「立ち別れ」への枕詞または序詞と見られる。 ●(万)3210 足桧木乃 片山鴙 立徃牟 君尓後而 打四鷄目八方 あしひきの かたやまきぎし たちゆかむ きみにおくれて うつしけめやも。 この「きぎし」も「立ち往かむ」への枕詞であろう。 このように枕詞「きぎし」は「立ち」にかかったが、さらに音「た」にもかかるようになったと考えることができる。 〈甲本〉にもその意識があったからこそ、「雌」がくっついていても「きぎし」と訓んだのだろう。 枕詞のキギシに、わざわざ性別を指定する意味はひとつもないからである。 《大意》 四月一日、 内膳卿(うちかしわでのつかさのかみ)膳臣(かしわでのおみ)大麻呂(おおまろ)は勅命を奉(たてまつ)り、使者を遣わして真珠を伊甚(いじみ)に求めさせました。 伊甚の国造(くにのみやつこ)らは都への参内が遅れ、長い時を越して進上しませんでした。 膳臣大麻呂は大いに怒り、国造らを収縛して理由を尋問しました。 国造の稚子(わくご)の直(あたい)らは恐れて、後宮の内寝〔皇后の私室〕に逃げ込んで隠れました。 春日の皇后(おおきさき)は知らずにそのまま内寝に入り、驚き倒れ、恥ずかしさが止みません。 稚子の直らは、乱入の罪が加わり、重ね重ねの科(とが)に相当することとなり、 謹んで、専ら皇后のために伊甚(いじみ)の屯倉(みやけ)を献(たてまつ)り、乱入の罪を贖(あがな)いたいと願いました。 このようにして、伊甚の屯倉が定まりました。今は分かちて〔いくつかの〕郡(こおり)となって、上総国(かみつふさのくに)に属します。 五月、 百済は下部(かほう)脩徳(しゅとく)嫡徳孫(ちやくとくそん)、上部(じょうほう)都徳(ととく)己州己婁(こすこる)らを遣わし、 朝廷に参り通常の貢調と、 別に上表文を提出しました。 七月一日、 詔して 「皇后は、天子と同体であるが、内外に御名を異にして隔たる〔=区別される〕。 そこでまた屯倉(みやけ)の地を当てて、椒庭(しょうてい)〔皇后の宮殿〕を建て、後代に迹(あと)を遺(のこ)すべし。」とおっしゃりました。 こうして勅使を差配し、良田を選定させました。 勅使は勅を奉り、大河内の直(あたい)味張(あぢはる)【またの名は黒梭(くろひ)】に宣旨を申し付けて 「今、お前は、膏腴(こうゆ)の〔=肥沃な〕田を奉進せよ。」と命じました。 味張は、突然のことに吝惜(りんせき)し、勅使を欺いて 「この田は、旱魃(かんばつ)に灌漑し難く、水害に浸され易いところです。 労を費やすこと極めて多くして、収獲はごく少のうございます」と申し上げました。 勅使はこの言葉の通り、隠さずに服命しました。 まとめ 安閑天皇紀は、屯倉の三十か所以上もの設置が集約されていることが、特徴的である。 このすべてが安閑天皇元年~二年のこととは考えられないが、それでもこの時期の前後がピークだったのであろう。 安閑天皇紀には屯倉の設置に関わるいくつか伝説が取り上げられており、元年四月条では伊甚屯倉の発端が紹介される。 また、七月条には味張が屯倉の提供に応じなかった件もあるが、この話の続きは元年閏十二月条にある。 そこでは罪を逃れるための賄賂として、大伴大連に「狭井田六町」を贈る。 これは屯倉というよりは、大伴大連の私有領である。 継体天皇が筑紫君葛子から献上された糟屋屯倉(二十二年十二月)は、 半島との貿易の拠点を直轄領にして、その権益を公に召し上げたものである。それが磐井の乱の本質だと見た(第232回まとめ)。 これを見れば、屯倉には朝廷が地方に置いた直轄地という性格があり、 氏族連合の性格を帯びていた国家を中央集権に向けて一歩進めようとしたものと言える。 伊甚の国造稚子直による屯倉の供出が、罪の贖いと性格づけられている点は特徴的で、 ここには屯倉のために地方氏族の領地を接収することが正であり、それに逆らうことは邪であるという価値観が示されている。 よって味張が屯倉の提供に応じなかったことも、罰せられるべきことなのである。 なお、百済使の来朝の記事は、文脈とは無関係に挿入されている。 これは、たまたま甲寅年の記録にあったからここに書いたということであろう。 だから、書紀が実在した様々な文書記録を参照しながら書かれたことに疑いはない。 その上で、様々に潤色したわけである。 |
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2019.12.11(wed) [18-02] 安閑天皇2 ▼▲ |
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3目次 【元年十月】 冬十月庚戌朔甲子。天皇勅大伴大連金村……〔続き〕 4目次 【元年閏十二月】 《行幸於三嶋大伴大連金村從焉》
『日本歴史地名大系』は、 「片桐貞隆預の「安威庄・桑原」五二六石余が記される。十日市・桑原両村は 天保郷帳にも「安威村ノ内」の注があるように安威村枝郷」、 すなわち桑原は安威村の一部分だと述べる。 〈倭名類聚抄〉に{摂津国・島下郡・安威【阿井】郷}。 『五畿内志』島下郡には「【村里】安威【属邑一】。」とあるが、十日市・桑原の名はないから、 そのどちらかが、安威村の「属邑」か。 町村制〔1889〕定められた「安威村」は、江戸時代の安威村・十日市村の領域とされる。 なお、この地は継体天皇「藍野陵」として有力視される今城塚古墳、宮内庁治定の三嶋藍野陵(太田茶臼山古墳)に近い (第233回)。 《肆拾町》 面積の一歩(坪とも)は6尺平方なので、正倉院尺(ほぼ30.0cm)によれば(0.3×6)2m2=3.24m2。 面積の1町=3600坪=3.24m2×600≒11,700m2(第163回)。 よって、肆拾(四十)町≒11,700m2×40≒468,000m2。 右図には、町村制による安威村の範囲に、その40町に相当する一辺684mの正方形を記入してある。 『五畿内志』島上郡【村里】には71村があるのに対して『倭名類聚抄』は4郷だから、単純に考えれば「安威郷」は「安威村」より広い。 そもそも〈倭名類聚抄〉の「郷」が郡全域を網羅しなかったのだとすれば、安威郷は縮まって安威村の面積に近づく。 何れにしても、屯倉の「四十町」は、安威郷の一部分であろう。 《上御野・下御野》 『新編日本古典文学全集』3(小学館;1996)の頭注には、上御野・下御野について 「西成郡三野郷の地にあてる説があるが疑問。島下郡耳原村(茨木市耳原)とすべきか。」とある。 先ずその「西成郡」の地について調べると、〈倭名類聚抄〉に{摂津国・西成郡・三野郷}、 『五畿内志』西成郡には、【郷】「三野【已廃。勝間今宮中在家山村有二三野之号一。】」 〔すでに廃す。勝間、今宮、中在家山村に三野の号あり〕と述べる。 サイト「IKtec/大阪古地図」によって、明治時代の今宮村、勝間村の位置が確認できる。 一方「島下郡」説については、『五畿内志』島下郡【村里】に、「耳原」が見える。 現在の耳原町の位置は、三島村北部で安威村に接する位置にある。 飯粒は、大伴金村を伴って三島(島上郡・島下郡・豊島郡)を行幸した天皇に良田を献上したのだから、 遥か遠くにある西成郡の土地を付けたとすることは考えにくい。 一方、耳原(ミノハラ)が御野だと確実に言えるかどうかも分からないが、桑原が安威郷の南端にあって耳原と接していた可能性はある。 しかし、上下桑原とあわせて、700m四方程度の狭い地域であるから、年月がたてば忘れられることもあるだろう。 なお、前項「安威庄・桑原」526石については、1石の稲を生産する耕作地は1反にあたるという。 太閤検地以後は300坪を1反とするので、1町(3000坪)は10反となる。 すると「四十町」=400石だから、「桑原526石」が後世の開発により農地が拡大した結果と見れば妥当な値と言えよう。 御野はもともと桑原に隣接していたが、江戸時代にはその全体が「桑原」に包含されたと考えることも可能かと思われる。 《并竹村之地元合肆拾町》 岩波文庫版は『書紀集解』(河村秀根、1785)に倣って「元合」を「凡合」としている。 その「…并竹村之地、凡合肆拾町」をそのまま読むと、上桑原・下桑原・上御野・下御野・竹村を横並びにして、五邑を併せて四十町ということになる。 ところが、下文(閏十二月(3))では「竹村屯倉」という呼び名が用いられている。 何の断りもなく五邑の一個だけが全体の名称になるのはどうも腑に落ちない。 しかし「并竹村之地」を上桑原・下桑原・上御野・下御野を総称して竹村と呼んだと理解すれば、すっきりするのである。 そういうことなら「凡」を、「元」に戻せばよい。 「元合肆拾町」とは「元々あった四邑を合わせて四十町」の意味と思われる。 《大意》 閏十二月四日、 天皇(すめらみこと)は三嶋に行幸され、大伴大連(おおとものおおむらじ)金村(かなむら)が従いました。 天皇は大伴大連に命じて、県主(あがたぬし)飯粒(いいぼ、いいつび)に良田を問わせ、 県主飯粒は慶悦限りなく、謹み敬って誠を尽くしました。 そして、 上御野(かみつみの)、 下御野(しもつみの)、 上桑原(かみつくわはら)、 下桑原(しもつくわはら)、 併せて竹村の地といい、 もともとの計四十町を献上しました。 【元年閏十二月(2)】
『芸文類聚』巻五十二「治政部上:善政」〈碑〉に、この部分の潤色のために用いられた原文が見える。 『芸文類聚』〔624〕は、唐代の類書で百巻からなり高祖(李淵)が欧陽詢に勅して編んだ。 成立時期は書紀以前ではあるが、『芸文類聚』から直接引用したことには懐疑的な説がある。 「『日本書紀』と六朝の類書」(池田昌廣; 日本中国学会報第59集(2007)pp277~291)は、 「書紀の潤色に利用された類書には、『華林遍略』を擬するのが、現時点で最も穏当な比定と考える。」と述べる。 同書はこれらの「類書間の継承関係」として、次の図式を示す。
『梁書』(巻50)列伝44[文学下]に ――「天監十五年。敕下太子詹事徐勉挙二学士一入二華林一撰二上遍略一。勉挙二思澄等五人一以応レ選。」 〔天監十五年〔516〕。〔梁の武帝は〕詹事〔官名〕徐勉に敕し、学士を挙し華林に入れ『遍略』を撰ぜしめき。勉〔=徐勉〕思澄等五人を挙し以って選に応ず。〕 とある。 また『南史』(巻71)列伝62[文学]にはより詳しく、 ――「天監十五年。敕太子詹事徐勉挙二学士一入二華林一撰二遍略一。勉挙二思澄、顧協、劉杳、王子雲、鍾嶼等五人一以応レ選。八年乃書成。合七百巻。」 とあり、すなわち、516年から8年間かけて全700巻を完成した。 しかし『華林遍略』の実物は残らず、その内容は『芸文類聚』などを通して推定するしかないという。 「湘東王善政碑」の湘東王(蕭繹)は514年に湘東郡王に封じられ、その後朝廷に上って宣威将軍・丹陽尹となり、 526年には「西中郎将・荊州刺史」に任じられた。 548年に侯景の乱が起こり、蕭繹が552年にこれを制圧して、自ら即位して元帝となった。 「湘東王善政碑」に記されたのは「宣恵将軍丹陽尹」までで、それ以後の任官と即位については書かれていない。 『華林遍略』の完成は524年頃だから、碑文が同書に収められたものなら526年以後の業績がないのは当然となる。 ところが、これでは冒頭の「皇上」が理解不能になる。皇上は当然湘東王=元帝だからである。 とすれば碑文は552年以後に書かれたことになり、『華林遍略』には入り得ない。 しかし、「皇上」が元帝ではなく武帝だったとすれば、この疑問は氷解する。 碑文が『華林遍略』の編以前ならその時点での皇帝は武帝(蕭衍)だから、先ずは武帝への賛美を冒頭に置かねばならない。 そして蕭繹の湘東王就任は、武帝の「往歳」〔=往年〕の業績として位置づけられる。 このように考えれば、年代に不都合はない。 湘東王の就任について、碑文は「有司奏…」と書く。そして蕭繹は武帝の七男である。 平たく言えば、臣たちがゴマをすって「皇帝の皇子、湘東王は宣恵将軍・丹陽尹に相応しゅうございます。」と奏上したのである。 ここまで前置きした上で、やっと湘東王への称讃文に入る。 武帝が依然として君臨している時点において、このような構成にならざるを得ないことはよく理解できる。 『華林遍略』は武帝の勅によって編まれたものだから、その子の湘東王の善政碑を入れたのは武帝を慮ってのことであろう。 《潤色の目的》 以上から、安閑紀は碑文のうち武帝を称える部分を抜き出して、「先天皇」を讃える韻文とした。 しかしせっかくの格調高い韻文の後に味張への口汚い非難を続けるのは、木に竹を接ぐようなものである。 それでもこのようにしたのは、かくも偉大な天皇の治世に、舐めて宣旨の使者に背いた(「軽背使乎宣旨」)味張の、 悪質さを際立たせるためであろう。 《率土之下・普天之上》 天下〔あめのした〕は大量に使われるのに対して、「つちのした」「あめのうへ」という表現はほとんど見ない。 それでは、中国古典では土之下、地之下はどのように使われているのであろうか。 「土之下」については、 ――『世説新語』〔南北朝420~581〕には「玄在二土下水上一而拠レ木。此必死矣。」 〔(鄭玄は逃走し、橋の下にいて川の水の上で木靴に寄りかかった。馬融は鄭玄を追跡し、その行方を占った結果は)「鄭玄は土の下、水の上にあり、木に拠る。これ必ず死にき」〕。 ――『太平広記』〔978年の類書〕「神仙二十 楊通幽」には 「抑知三厚地之下或別有二天地一也。」 〔抑(そもそも)厚き地の下に、或は別に天地有りと知る〕。 このように、実際の使い方では単純な場所としての「地面の下」が多い。 すると、「率土之下莫匪王封」は、あたかも黄泉の国まで王の支配が及ぶというが如しである。 「天之上」はどうであろうか。 『管子』〔戦国〕の一節に「宙合之意。上通二於天之上一。下泉二於地之下一。外出二於四海之外一。合二-絡天地一」 〔「宙合」の意、上は天の上に通じ、下は地の下に泉し、外は四海の外に出で、天地に合絡〔=連絡〕す〕とある。 これはどうやら宇宙構造論で、世界全体は巨大な袋「宙合」に入っていて、その袋の中で水が大循環して海陸空を通過しているという意味らしい。 ここでは、「天之上」は、空のさらに上という物理的な位置を表している。 「之」が入ることにより、「天上」という特定の概念ではなく、即物的な説明になるのであろう。 以上から、「普天之上莫レ匪二王域一」は、天上の神の坐すところまで王の支配下に置く意味になる。 だが、いくら何でも天皇が黄泉から天界まで威を及ぼすとするのは言い過ぎであろう。 ここでは「土之下」は人民、「天之上」は朝廷を比喩的に表したと解釈しておくのが、穏当と思われる。 この「率土之下…」は漢籍に頼らず自力で作文した部分であるが、これを見ると実はイメージのみで語句を連ね、数多くの漢籍の書物を読みこなした経験が乏しい印象を受ける。 これが、韻文を専門に担当したスタッフのレベルなのであろう。 なお、『仮名日本紀』に見られる伝統訓「地之下:くにのうち」「天之上:あめのした」もかなりの意訳で、古訓を試みた学者の苦労が偲ばれる。 この「くにのうち」と「あめのした」は、実質的に同じ意味である。 また、「王封」の古訓「王のよさし」は「世指し」で、諸侯に封土を賜る意味と見られる。 ただ、ここの王封は「王に封ずる」行為というよりは、領土そのものを意味し、次の「王域」と同義である。しばしば使われる対句表現においては、同じ意味を表すために異なる語を用いる。 《大意》 大伴大連は、勅宣を奉って告げました。 ――「率(ことごと)く地の下〔人民〕で、王の封土でないところはない。 普(あまね)く天の上〔朝廷〕で、王の領域でないところはない。 かつて、先の天皇(すめらみこと)は、顕号を建て鴻名〔偉大な名〕を垂れ、 広大に乾坤(けんこん)〔=天地〕を配し、 光華は日月を象(かたど)る。 長く車駕にのり、遠くを撫し、 都の外に横逸〔=欲しいままに〕し、 鄙に瑩鏡(えいきょう)〔=玉光を当て〕し、 限りなく充塞〔=充足〕し、 上は九垓〔=国土〕に冠して、 傍らに八表〔=八方〕を済(すく)う。 礼を制(さだ)めて成功を告げ、 楽を賜って治定を彰(あらわ)し、 福は応え誠は至り、 祥瑞は往年に符合した。 今、お前、味張(あじはる)は、土俗の幽微な〔取るに足らない〕民を率いて、 おろかにもこのように王の地を惜しみ、舐めて使者に託した宣旨に背いた。 味張、今から以後、郡司(こおりのかみ)を預かってはならぬ。」 【元年閏十二月(3)】 《縣主飯粒喜懼交懷》
ここでは大河内直・毎郡、郡司の意味を整理して理解しておく必要がある。 まず、「大河内」(凡河内)については、〈姓氏家系大辞典〉が 「此の国号は、国内に河内郡のあるを見れば、その郡名が拡張して一国の名称となりしや想像するに難からず」 と述べる通りであろう。すなわち、凡河内は後の律令国としての河内国である。 〈国造本紀〉でこの地域の国造は、凡河内国造・和泉国造・摂津国造のみだから、 これ以上細分化された「国造」を名乗る氏族は見つからなかったのであろう。よって、平安時代に書かれた『国造本紀』はこの三国をそのまま遡らせて「国造」とした可能性が高い。 よって飛鳥時代以前に実際に「凡河内国造」という呼び名であったかどうかは疑問であるが、 その地域首長家の姓が「直」であったようには見える。 ただし、味張が剥奪されたのは「郡司」という地位であったことに留意する必要がある。これについては、後で検討する。 さて、「河内県」が存在していたことが考えられる。 隣接する大和国においては郡の前身が「六御県」(第195回) であるのを見れば、恐らく後の河内郡、或いはその周囲を含んでいたかも知れない。 「毎郡」と書かれたことについては、「評」が「郡」と表記されるようになったのは701年であり (第116回《大化の改新の詔》)だが、安閑天皇の時代は「評」よりさらに遡って「毎県」かも知れない。 いわゆる「凡河内国造」であった「大河内直」が、域内の県から钁丁を毎年春・秋に500人ずつ派遣することを約束したとすれば話は成り立つ。 ところが、上で述べたように懲罰の勅では、味張はそれまで「郡司」に任じられていた。「郡司」も701年以後の語だが、 どちらにしろ、河内郡の「郡司」程度では、「"毎郡"(郡ごとに)钁丁を派遣した」話には合わない。 また、「狭井田」が式上郡だとすれば(次項)、遠く離れた地にも領地をもっていたことになるから、大河内国造ぐらいの大氏族であった方がよい。 この「郡司」も書紀による語だが、 「大河内」「毎郡」などに合わせるなら「国守」とすべきところである。 書紀執筆グループが勅製作を専門スタッフに任せていたのだとすれば、連携不足が考えられる。 あるいはこの勅全体が、最初の執筆スタッフ以外の人が後で加筆したものだとすれば、上述した韻文における問題を含め理解しやすい。 《狭井田》
味張が大伴金村に賂した「狭井田」は、河内国内にあったと見るのが順当であろう。しかし、河内国にあるであろう狭井田を探求した研究はなかなか見いだせない。 諸文献での「狭井田」への言及は、大和国式上郡の狭井田ばかりである。ひとまずこれを見る。 「狭井」については、神武天皇の求婚の件に「狭井河」がある(第101回)。 その狭井川については、〈五畿内志〉城上郡【山川】に 「狭井渓【源自二三輪山一遶二狭井寺跡一 至二箸中一入二纏向渓一】」 〔源、三輪山より狭井寺跡を遶(めぐ)りて箸中に至り、纏向渓に入る〕が載る。 『日本歴史地名大系』は「茅原村」の項で、 「西大寺田園目録に「城上郡廿条五里卅六坪内一段字佐江田」とある佐江田は狭井田であろうか。 条里遺称から推定すると当村〔茅原村〕に該当」すると述べる。 茅原村は、現在の「桜井市茅原(大字)」にあたる。茅原村内の一つの字が佐江田であったらしい。 ただ、大和国式上郡茅原は飯粒の河内国からは大きく離れている。 もし、式上郡の狭井田だとすれば、大河内直は遠隔地にも私領をもつような強大な氏族であったことになる。 式上郡は大伴氏の勢力圏だから、大河内直がそこに持っていた私領を大伴金村にプレゼントしたという考え方も成り立つ。 《五百丁》 「五百丁」の量詞「丁」には、倭語ではどのような助数詞をあてるべきであろうか。 「丁」はヨホロと訓むが、〈時代別上代〉は、助数詞としての「よほろ」は認めていない。助数詞として「をとこ(男・丁)」が載るが、 「やをとこ」の例のみで、集団に使い得るかどうかは定かではない。 幅広く使われる助数詞に「ち」がある(〈時代別上代〉「一〇の倍数にあたるとき「つ」が「ち」になる」)。 〈継体紀二十三年:前田本〉に「衆三千」〔御軍三千人〕とあり、上代から人の集団にも使われたと思われる。 したがって、五百丁を「いほち」と訓むことには〈前田本〉という根拠がある。 《於是乎起》 「乎」は文末の助詞として使うのが一般的で、疑問・反語・詠嘆の語気を添える。 文中用法としては、前置詞「於」「于」、受け身文の行為者"by"、そして呼格(~よ)をつくる助詞がある。 〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉は、さらに 「序詞:形容詞後綴。②用於句中、表示停頓。」「連詞:相当於「而」。」がある。 即ち文の途中で言葉を止めたり、接続詞「而」にも用いる。 「於是乎起」においては、これらのうち「而」が該当すると見られる。 《蓋三嶋竹村屯倉者》 「蓋三嶋竹村屯倉者。以二河内県部曲一為二田部一之元。於是乎起。」では、飯粒が献上した「竹村屯倉」に、味張による钁丁の貸し出しが関連付けられている。 すなわち、竹村屯倉のために河内県から部曲〔氏族による私的な所有民〕が竹村に季節労働力として提供され、これ田部の興りであると読める。 ということは、初めは労働力の貸し出しであったがそのうちに定住する者が現れ、田部となったということであろう。 〈姓氏家系大辞典〉は、まさにこの文を根拠として、「田部」の項目で 「钁丁とは他の部に属する者を田部として使役する場合に、称するを知るべし。」と述べるのである。 《大意》 こうして、県主飯粒は、喜びと恐れを心に交じえ、 その子鳥樹(とりき)を大連に献上し、僮豎(どうじゅう)〔召使の少年〕としました。 そして、大河内(おおしかうち)の直(あたい)味張(あじはる)は、畏れて永い間悔い、 地に伏して汗を流しながら、 大連に申し上げました。 ――「私、愚蒙なる民の、罪は万死に値します。 伏し願わくば、郡(こおり)ごとに、 钁丁(くわのよほろ)を、 春の時に五百人、秋の時に五百人を天皇に奉り、 子孫の代まで絶やしません。 これによって生かされることを祈り、永く鑑戒〔教訓〕といたしますことを。」 別に、狭井田(さいた)の六町を大伴大連に賂(まいない)しました。 けだし、三嶋の竹村の屯倉(みやけ)が、 河内の県(あがた)の部曲(かきべ)を田部とする元(はじめ)は、ここにあったかと思われます。 【元年閏十二月(4)】 《枳莒喩女幡媛偸取》
「廬城部(いほきべ)」について〈姓氏家系大辞典〉は、「雄略紀に見ゆ。」と述べるのみ。 〈倭名類聚抄〉{安芸国・佐伯郡・伊福郷}について、『大日本地名辞書』は「伊福郷」と訓を振り、 「五百木、伊福、廬城相同しければ、屯倉は即此郷なるべし」と述べる。 ところが『大日本地名辞書』は、過部は安芸郡にあったと強調し、過部と廬城との関係については保留している。 同書は、安芸郡安芸郷府中村にある多家神社が、「過部」にあったと推定し、次のように述べる。 ――「過部旧訓コシベとありて其地を知らず、(同名越部は播州に在り、廬城部は本州佐伯郡に在り) 又備後の胆年部胆殖の屯倉を、和名抄安那深津の二郡に各大家郷と挙けたる例を以て之を推すに、 過戸屯倉は必定この多家神社の邑とす、大家、多家、 其名義相通して戻らず、こは実にこそと想はる」 〔「過部」は旧訓にコシベとありその位置は不明だが、 (同名の越部は播州にあり、廬城部は安芸国佐伯郡にある) 備後の胆年部胆殖の屯倉について、〈倭名類聚抄〉安那・深津の二郡にそれぞれ大家(おほやけ)郷が挙げられている例から類推すれば、 過戸屯倉がこの多家神社の村であるのは必定である。 大家(おほやけ)と多家(おほのみ)は意味が通じるからこの判断が覆ることはなく、これこそ真実だと思われる〕。 つまり、「屯倉=大家(おほやけ)=多家」だから、過部(屯倉)は多家神社の地だとする。 屯倉(ミヤケ)がオホヤケとも呼ばれたことは認めてもよいだろう。だが、過部以外にも書紀に記されない屯倉が存在したことは十分考えられるから、 過部が多家とは決定しきれない。 また、オホノミ神社は、もともと「多の御神社」で、 この地の多氏支族の氏神だったのではないだろうか。 〈姓氏家系大辞典〉は、「過戸は旧訓「コシベ」なるにより、 前項〔出雲の越部:古志国人等、到来して堤を為る etc.〕と同様に越人を使役して、つくりたる屯倉なるを知るべし。」と述べる。 なお、同辞典はアマリベ(余部・余戸)、アマルメ(餘目)に「過部」の表記を採用していない。 また『仮名日本紀』を見れば、江戸時代の伝統訓はコシベである。 現在「あまるべ」という訓を一部に見るが、その出典は今のところ不明である。 《十市部》 〈姓氏家系大辞典〉は、「十市県主の部曲なれど、 後に磯城、十市の両県主家は共に物部氏の配下となるに及び、物部氏の部曲となり、十市県主家の管理する処となりしが如し。 然るに安閑紀に〔中略〕物部氏より皇室に献ぜしを以って、それより皇室直隷の品部」となったと述べる。 《贄土師部》
ところが、伊勢国の「来狭々」(久佐々)についての考察は、今のところ見つからない。 ただ、何らかの関連を伺わせる材料が、 雄略天皇紀十七年にある。 そこでは「贄土師部」を「応レ盛二朝夕御膳一清器者」 〔朝夕の御膳を盛るべき清器づくり〕と定義する。清器者として派遣されたのが、攝津国来狭々村・山背国内村〔宇治〕・山城国俯見村〔伏見〕・伊勢国藤形村 、さらに因幡・但馬・丹波〔書紀では丹後が分離する前〕の私部の土師である。 藤形については、現在「藤方」という地名が高茶屋大垣内遺跡の近くに残り、同遺跡から土師器焼成坑が検出されている。 その位置は、安濃郡と一志郡の境界付近にあたる。伊勢国には来狭々・登伊は見いだせないのだが、藤形村には贄土師部がいた。 ということは、摂津国の来狭々が、贄土師部がいた伊勢国の藤形と混同されたのだろうか。 それとも摂津国の贄土師部の一部が藤形に移り、ここでも来狭々神を祀ったのであろうか。 《胆狭山部》
〈姓氏家系大辞典〉は「和名抄備後国沼隅郡、及び豊前国下毛郡、並に京都郡に諌山郷を納む。 何れも胆狭山部の住みし地にして、此の氏と至大の関係あらんと考へらる。殊に豊前の諌山は特に然り。」と述べる。 以下は、〈大日本地名辞書〉による。 京都郡諌山郷は「今諌山村、稗田村、久保村、黒田村等是なり」、 その黒田村には「橘塚」、女体宮の古墳など700基近くの古墳があるという。 また下毛郡諌山郷について、「今山口村、大字諌山存す、深秣村、真坂村も本郷に属すべし」と述べる。 橘塚古墳は福岡県京都郡みやこ町勝山黒田825にあり、 現地案内板〔みやこ町教育委員会〕によれば「花崗岩の巨石を用いて築いた複室構造の石室」をもち、 従来円墳とされていたが、「平成七・八年〔1995・1996〕の現況確認調査の結果」 「南北37m、東西39m」の「方墳であることが判明」し、 「須恵器には6世紀末頃のものが含まれており、この古墳の築造年代を示すものと考えられ」 るという。 橘塚古墳の西方480mには、綾塚古墳がある。 みやこ町公式ページによると、 綾塚古墳(みやこ町勝山黒田2229)は直径40mの円墳で、「6世紀後半から7世紀初頭の構築と推定」、 石室は「複室構造の横穴式石室としては国内でも最大規模」で「京築地方で唯一の家型石棺が安置されて」いるという。 橘塚古墳・綾塚古墳は、胆狭山部の首長墓なのかも知れない。 京都郡は、かつて景行天皇が熊襲に親征したときに、夏磯媛が一族を統率していた地である (景行天皇十二年)。胆狭山部の祖先は夏磯媛かも知れない。 夏磯媛は伝説上の人物ではあるが、それくらい古い氏族であることを伺わせる。両古墳が前方後円墳でないのは、その独立性を表現しているのかも知れない。 景行天皇が行宮を置いたから京都になったというのはもちろん伝説であるが、 難波から三韓に向かう船の寄港地としての役割が、地名に反映していると思われる。 港を直轄管理するために、京都郡に屯倉を置いたのかも知れない。 《大意》 同じ月、 廬城部(いおきべ)の連(むらじ)枳莒喩(きこゆ)の娘、幡媛は、 物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)の瓔珞(ようらく)〔首珠〕を盗み取り、春日皇后に献上しました。 ことが発覚するに至り、枳莒喩は娘の幡媛を采女丁(うねめのよほろ)として献上しました 【これが、春日部采女(かすかべのうねめ)です】。 併せて安芸の国の過戸(こしべ)の廬城部の屯倉を献上し、娘の罪を贖(あがな)いました。 物部大連尾輿は、ことが自身に因ったことを恐れ、自らの安らぎが得られず、 よって十市部、伊勢の国の来狭々(くささ)登伊(とい) 【来狭々、登伊は、二つの邑の名です】の 贄土師部(にえはにしべ)、 筑紫国の胆狭山部(いさやまべ)を献上しました。 【元年閏十二月(5)】 《武蔵国造笠原直使主》
〈国造本紀〉の「無邪志国造」「胸刺国造」は、何れも「むさし」と見られる。 これらは、同一の国の表記違いを異なる国造として記した可能性がある。 また「知知夫国造」もあり、これは〈倭名類聚抄〉{武蔵国・秩父郡}に繋がると見られる。 安閑紀の「武蔵国造」は、律令国になった後の表記を遡らせたものである。 《笠原直》 〈倭名類聚抄〉に{武蔵国・埼玉郡・笠原【加佐波良】郷}〔かさはら〕。 〈姓氏家系大辞典〉は「武蔵国造家の一にして」、 「足立なる武蔵国造の宗家に継嗣者なきより、一族なる此の氏より国造家を嗣ぎしならん。」と述べる。 笠原郷の名を引き継いだと見られる笠原村は、埼玉郡に属していたが、1879年に埼玉郡を分割して北埼玉郡が成立、笠原村は北埼玉郡に属する。 1954年に笠原村は、北足立郡鴻巣町・田間宮村・箕田村・馬室村と合併して鴻巣町となり、北埼玉郡を抜け北足立郡に属す。 北足立郡は、足立郡が埼玉県と東京府に分かれたときに、埼玉県内の部分が北足立郡となったもの。 現在は、埼玉県鴻巣市大字笠原となっている。 《就求授於上毛野君》 動詞の就・求授は、ともに「於上毛野君」を目的語にとると見られる。 就・授は何れも上毛野君を目上とする表現である。 すなわち、小杵は上毛野君に取り入って配下となり、その命令によって武蔵国を授かる形を画策したと読める。 上毛野君については、崇神天皇段(第110回)に皇子豊木入日子が毛国に下り、「上毛野君下毛野君等之祖」になったとある。 また、景行天皇紀五十五年に彦狭嶋王が「拝二東山道十五国都督一。是豊城命之孫也。」、 すなわち豊城命の孫の彦狭嶋王が東山道十五か国の都督に任じられた。 しかし、その赴任の途上で薨じ、「東国百姓」が屍を運び「葬二於上野国一」されたとある。 そして彦狭嶋王の子、御諸別王が父を継いで「専領二東国一」すべしと命ぜられた。 記紀の記述の相違については、上毛野君の子孫から提出された「氏文」などを書紀が精査したした結果と見られる。 これらから、上毛野国には東山道諸国のブロックを管轄する大宰府が置かれていたと読み取れる。 よって上毛野君は周辺国の上に立っており、小杵はその権威を後ろ盾にして武蔵国造になろうとしたわけである。
屯倉となった横渟・橘花・多氷・倉樔のうち「橘花」については、〈倭名類聚抄〉に{武蔵国・橘樹【太知波奈】郡・橘樹【太知波奈】郷}〔たちはな〕がある。 その他については、〈日本歴史地名大系〉は、「多氷は多末の誤り」とし、 横渟は「横見」郡、倉樔は「久良岐」郡に比定する。 〈倭名類聚抄〉には、{武蔵国}に{久良【久良岐】}、{多摩【太婆〔たば〕国府】}、{横見【与古美〔よこみ〕今称吉見】}の各郡がある。 これらについて『大日本地名辞書』は 「多氷は多米(もしくは多末)の誤にて、米、摩は一声の転なり、米字を氷に謬りしならん。」、 倉樔については書紀通証を引用して、「蓋倉樹にて、樹を樔に合わせて謬る者歟」とする。 横渟については「今按に 渟は古訓多くヌとよみ、…之をヨコミと訓み難し。武蔵志料には、歌名所の横野を之に引きあて、多摩郡の横山のほとりにはあらんと述ぶ 〔中略〕今如何とも判知り難し。或は渟は海の誤描にて、横海かとも疑はる」などど述べる。 「横」「多」「倉」に続く字が3つとも誤記とするのは、確率から見て考えにくい。 四か所のうちで確実な地名は「橘樹」のみであるが、〈倭名類聚抄〉には郡名と郷名がある。 飯粒が献上した三島の屯倉の面積「四十町」が標準的な規模であったとすれば、四か所の屯倉の規模は郡ほど広くはない。 すると、他の三か所は橘樹の近くで、郷名の下部の失われた地名と考えるのが現実的である。 ただ、久良郡と多摩郡はともに橘樹郡と接しているから、 多氷・倉樔についてはあるいは誤記かも知れない。 その場合は、三郡の境界付近にあった、郷の一部分程度の広さの屯倉となる。 《大意》 武蔵(むさし)の国造(くにのみやつこ)笠原の直(あたい)使主(おみ)と同族の小杵(おき)は、 国造の座を争い【使主、小杵はともに名です】、 年を経ても決め難くありました。 小杵は性格が勇猛で逆心があり、心は尊大で従わず、 密かに上毛野(かみつけの)の君小熊(おぐま)に付き従って国造を授けられることを求め、使主を殺そうと謀りました。 使主はこれに気付き、走り出て都に参上してその有様を報告しました。 朝庭は断に臨み使主を国造とし、小杵は誅殺しました。 国造の使主は、畏れと喜びが心に交わり、このまま黙ったままで終えることができず、 謹んで国家のために横渟(よこぬ)、橘花(たちばな)、多氷(たひ)、倉樔(くらす)の四か所を屯倉として献上しました。 是の年は、太歳甲寅(こういん、きのえとら)でした。 まとめ 安閑天皇紀は屯倉の献上がテーマで、閏十二月でも摂津国の三嶋県主の飯粒、安芸国の廬城部連の枳莒喩、武蔵国造の笠原直の使主から献上される。 ただ、ここで特記されるべきは、大伴氏・物部氏の私領に言及されることである。 即ち、大伴金村は新たに狭井田を得た。また島下郡の屯倉の謙譲は金村の主導で行われているので、 名目は屯倉でも実質的には私領かも知れない。 一方、物部尾輿は、大和国、伊勢国(あるいは摂津国か)、筑紫国(豊前国)からは、部曲とともにその土地を恐らく屯倉として献上した。 このように、物部氏、そして恐らく大伴氏も全国各地に私領を所有する独立的な存在であった。 ここでは、流れとしては物部氏の衰退が見える。復権した大伴氏は安閑天皇を手中にして半ば自分のものとして屯倉の接収を進める。 そして、手白香媛も大伴金村とがっちり手を握っていたのであろう。 さて、今回も「率土之下莫匪王封…」なる韻文があるが、天皇の勅や臣下の奏上文の読み取りには、しばしば悩まされる。 そこで一つの仮説であるが、書紀の大筋は、α群は中国人が、β群は日本人がひとまず書き上げたとする。 ところが勅や奏上文が素っ気ないことにクレームが付き、潤色することになった。 しかしそれを担当した加筆スタッフは漢文の能力が不十分で、 漢籍から大幅に流用して書き上げたが、前後の文脈に合わせるための修正が実にぎこちないものであった……ように思えるのである。 さらに後の時代の古訓もまた、必ずしも原文の趣旨を汲み取り切れていない。 こうして、私たちは勅や奏上文の韻文の読み取りにおいて、二重のぎこちなさに直面するのである。 2020.01.11(sat) [18-03] 安閑天皇3 ▼▲
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5目次 【二年正月~四月】 《詔曰間者連年登穀接境無虞》
『漢書』元帝紀二年六月に 「間者連年不レ収。四方咸困。元元之民労二於耕耘一。又亡二成功一困二於饑饉一。」とあり、 岩波文庫は「間者連年登穀接境無虞…」がこの一節を裏返したものだという。 そうかも知れないが、この程度なら一般的な語句の利用に過ぎない。 韻文全体は漢籍に頼らず、れっきとした創作と言ってよい。 これにケチがつくようなら、原文執筆者は気の毒である。 《勾舎人部勾靫部》 「勾(まがり)」は「勾宮之」の意で、勾舎人部・勾靫部は安閑天皇の仕え人に由来する部である。 四月条は前後の文脈とは無関係に挿入されているので、何らかの日付のある文書記録の存在が想像される。 《大意》 二年正月五日、 詔を発せられました。 ――「この頃は連年〔=毎年〕、登穀端境を接して〔=実りは端境期に途絶えず〕憂えなし。 元々(げんげん)〔=もとより〕蒼生〔=人民〕は稼穡(かしょく)〔=栽培と収穫〕を楽しみ、 業々(ぎょうぎょう)〔=立派に努め〕黔首(けんしゅ)〔=人民〕は[於]飢饉を免れる。 仁風は世界に行き渡り、美声は天地に満ち、 内外の清通、国家の殷富に、 朕は大いなる喜ぶ。 大酺(たいほ)〔=酒食を賜る〕五日をさだめて天下の歓びとするがよい。」 四月一日、 勾舎人部(まがりのとねりべ)勾靫部(まがりのゆけひべ)を置きました。 まとめ 次の五月条の分析を進めつつあるが、その中で屯倉の性格について、各地に朝廷直轄地を置いて首長勢力への統制を強めたという史実が浮かび上がってきた。 ただ、その一方で 安閑紀元年十月の「毎レ国田部給」「毎レ郡钁丁」、 閏十ニ月条の「以二钁丁一春時五百丁秋時五百丁奉二-献天皇一」には、周辺地から人民を動員して農地開発に従事させる様が見えてくる。 つまり、書紀は屯倉のもつ首長統制の官署としての性格とともに、新たな農地の開拓という側面をも取り上げている。 その結果、増加した生産力が人民の暮らしを豊かにすれば喜ばしいことで、 正月条はその文脈中に置かれているのである。書紀の執筆者自身が思い描く治世の有りようを語ったものであろう。 ⇒ [18-04] 安閑天皇4 |