上代語で読む日本書紀〔継体天皇(2)〕 サイト内検索
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2019.09.25(wed) [17-05] 継体天皇5 


13目次 【即位前(一)】
十二年春三月丙辰朔甲子。遷都弟國……〔続き〕


14目次 【即位前(二)】
廿一年夏六月壬辰朔甲午。近江毛野臣率衆六萬欲往任那……〔続き〕


15目次 【二十三年】
《百濟王謂下哆唎國守穗積押山臣曰》
廿三年春三月。
百濟王謂下哆唎國守穗積押山臣曰
「夫朝貢使者、恆避嶋曲
【謂海中嶋曲崎岸也。俗云美佐祁】
毎苦風波。
因茲、濕所齎、全壞无色。
請、以加羅多沙津、爲臣朝貢津路。」
是以、押山臣爲請聞奏。
下哆唎国守…〈前田本〉「アルシは朱書のヲコト点による〕
…「湿」の旧字体。
…[動] 〈前田本〉「サルコトニ」。(古訓) のかる。まぬかる。にく。
嶋曲…〈釈紀〉嶋曲ミサキヲイフソ海中嶋曲崎ワタノナカシマノクマノサキ也。俗云ヒトイフ美佐祁ミサキト。】
きし…[名] 山中のがけ。海に面したがけ。
无色…〈釈紀〉無色ミニクシ
加羅多沙津…〈前田本〉「ノ国」。 〈釈紀〉加羅多沙津カラノクニノタサノツヲ。 「多沙」は九年条の「帯沙」と同じと見られ、慶尚南道河東郡にあたる(継体八年三月)。
…[動] (古訓) こふ。ねかふ。
朝貢津路…〈釈紀〉朝貢津路ミツキノミチヲ
聞奏…天子に申し上げる。奏聞とも。
二十三年(はたとしあまりみとし)春三月(やよひ)。
百済王(くたらわう)下哆唎(しもつたり、あるしたり)の国守(くにのかみ)穂積押山臣(ほづみのおしやまおみ)に謂(まを)して曰(まを)さく
「夫(それ)朝貢(みかどををろがみてみつきたてまつる)使(つかひ)者(は)、恒に嶋曲(しまのみさき)を避(まぬか)る
【海中(わたなか)の嶋の曲がりてある崎の岸(きし)を謂ふ[也]。俗(くにのひと)美佐祁(みさき)と云ふ。】
毎(ごと)に風波(かぜなみ)に苦しみてあり。
茲(こ)に因(よ)りて、所齎(もちきたるもの)を湿(うるほ)して、全(すべ)て壊(こほ)りて色(いろ)无(な)し。
請(ねがはくは)、加羅(から)の多沙津(たさつ)を以ちて、臣(やつかれ)の朝貢(みかどををろがみてみつきたてまつる)津(つ)の路(みち)と為(し)たまへ。」とまをす。
是以(こをもちて)、押山臣、請(ねがひ)の為(ため)に聞奏(まをしてききまつ)りき。
『尊経閣善本影印集成26』(八木書店)p.144
《下哆唎国守》
 〈前田本〉は「」にアルシなる訓を振っている。渡来した百済人の言葉に倣ったと思われる。
 穂積臣押山の初出は、継体六年十二月、「哆唎国守穂積臣押山」である。 下哆唎は六年に百済に割譲した四県のうち一県だから、「哆唎国守」は四県を統括した国守と読めるが、 ここでは「下哆唎」のみの国守となっている。
 既に百済国の統治下にあったはずだが、押山には相変わらず倭の職名「国守」を付している。 役職名「国守」を失った後も、「国守」を姓(かばね)とした氏族として、一定の地位を与えられていたと読むのが穏当であろう。
《美佐祁》
 入り組んだ崖の海岸線は、まさにミサキである。 しかし、「島曲」をミサキと訓むと「海中嶋」の部分の意味が消えてしまうから、 「俗云美佐祁」は「曲嶋岸」の部分のみを説明したものと読むべきであろう。
《因茲湿所齎全壊无色》
 〈前田本〉は「因茲(ニ)(テ)湿 ウルヲシ所齎 モタルトコロノモノヲ ステ ソコナヒ(テ)无色  ノミニクシ」(右図)。 ()内の助詞は、朱書きのヲコト点による。
 「ウルヲシ」は「うるほし」。ホ→ヲの転は〈釈日本紀〉でも一般的に見られる。「ステ」は「スヘテ」から「」が脱落か。「ノミ」は、なぞって太くしてある。 「」は誤写と見られる。よって、もともとは「コニヨリテ ウルホシ モタルトコロノモノヲ スベテソコナヒテ ミニクシ」か。 字の脱落や余分な字から見て、〈前田本〉の訓点は、他の写本から機械的に書き写したらしい。
 「」を「ノトコロノ」と訓むのは、ある時代以後の漢文訓読における機械的な訓み。〈時代別上代〉を見ると、上代語のトコロの意味は、「場所」のみであるから、「ノトコロノ」は上代の言い回しではないと思われる。 八木書房版「尊敬閣文庫所蔵『日本書紀』」の解説によれば、前田本「継体天皇紀」は、加点年代を「平安院政期(11世紀後半または末から12世紀末)」としている。
《押山臣為請聞奏》
 「請聞」は、「請(ねがひ)の為(ため)に、奏(まをしごと)して聞きまつる」であろう。 押山臣が百済王から要請を受けて、本国の朝廷に伝達して判断を仰いだという意味。
《大意》
 二十三年三月、 百済王は、下哆唎(しもつたり、あるしたり)の国守、穂積押山臣(ほづみのおしやまおみ)に申し上げました。
――「朝貢使は、つねに島の岬を避ける ごとに、風波に苦しんでおります。 これに因って、運ぶものは濡れ、すべて壊れて色を失います。 願わくば、加羅(から)の多沙津(たさつ)を、臣の朝貢の津の道としてください。」
 そして、押山臣は要請を受けて聞奏〔ぶんそう;朝廷に伝達して判断を求める〕しました。


【二十三年(2)】
《以津賜百濟王》
是月。
遣物部伊勢連父根吉士老等、以津賜百濟王。
於是、加羅王謂勅使云
「此津、從置官家以來、爲臣朝貢津渉。
安得輙改賜隣國、違元所封限地。」
勅使父根等、因斯、難以面賜、却還大嶋。
別遣錄史、果賜扶余。
由是、加羅、結儻新羅、生怨日本。
父根吉士老…〈前田本〉カソ根吉士老等オキラ。 〈釈紀〉父根カソネ吉士老等キシノヲキナラヲ
勅使…天子の命令を伝える使者。〈前田本〉勅使ミカト ツカヒ。〈仮名日本紀〉勅使【みことのりつかひ】
…[副] すなはち。たやすく。ほしいまま。
…[代名] (古訓) ここに。かく。これ。
難以面賜…〈釈紀〉ハゝカリテ/カタミテ面賜マノアタリタマフヲ
大嶋…〈釈紀〉大嶋ヲホセマニ
扶余…〈前田本〉「扶余百済也クタラ」。 〈釈紀〉「兼方案之。扶余者。百済国之異名也。仍訓之久多羅久。〔兼方、之を案ず。扶余は百済国の異名なり。すなはちこを"くたらく"と訓む〕
…[副] もし。たまたま。のびのびとした人柄。「(古訓) たとひ。たまさか。とも。ともから。」 ここでは人偏を除いた「党」(旧字体:)に通用し、「友誼」の意か。
…[名] (古訓) とも。ともから。
是(この)月。
物部(もののべ)の伊勢の連(むらじ)父根(かそね)、吉士老(きしをきな)等(ら)を遣はして、以ちて津を百済王(くたらわう)に賜(たま)はる。
於是(ここに)、加羅王(からわう)勅使(みことのりのつかひ、ちよくし)に謂(まを)して云(まを)ししく、
「此の津、官家(みやけ)を置きし従(よ)り以来(このかた)、臣(やつかれ)の朝貢(みかどにおろがみてみつきたてまつる)津の渉(わたり)に為(な)したまひき。
安(いづくにそ)輙(ほしきまにまに)隣国(となりのくに)に改め賜はりて、元(はじめ)に所封(たまはりし)限(かぎり)の地(ところ)を違(たが)へるを得(う)るか。」とまをしき。
勅使父根(かそね)等(ら)、斯(こ)に因(よ)りて、以ちて面(あひて、かほをみて)賜はること難(かた)くありて、大嶋(おほしま、おほせま)に却還(かへ)りき。
別(ことに)録史(ふみと)を遣はして、果たして扶余(ふよ、くたら)に賜はりき。
是(こ)の由(ゆゑ)に、加羅、新羅(しらき)と儻(ともがら)を結びて、日本(やまと)に怨(うらみ)を生みき。
加羅王、娶新羅王女、遂有兒息。
新羅、初送女時、幷遣百人爲女從、
受而散置諸縣令着新羅衣冠。
阿利斯等、嗔其變服、遣使徵還。
新羅大羞、翻欲還女曰
「前承汝聘、吾便許婚。
今既若斯、請還王女。」
加羅己富利知伽【未詳】報云
「配合夫婦、安得更離。
亦有息兒、棄之何往。」
遂於所經、
拔刀伽古跛布那牟羅三城、
亦拔北境五城。
…〈前田本〉初送ムスメ
散置…〈汉典〉分散放置
…「こほり(郡、県)」は、〈時代別上代〉「コホリは朝鮮語に由来するらしい」ということなので、 加羅の「県」は「こほり」と訓まれるべきだということになる。
きる…[他]カ上一 衣服などを身に着ける。笠などをかぶる。
…徴の旧字体。
…[動] (古訓) めす。もとむ。
己富利知伽…〈釈紀〉己富利知伽コフリチカ
かる…[自]ラ下二 離れる。
…[動] 首をくくる。
…[動] 立ちはだかるものを取り除く。
刀伽古跛布那牟羅三城…〈釈紀〉刀伽トカ古跛コヘ布那牟羅フナムラ。【三城ミツノサシ。】
加羅王(からわう)、新羅王(しらきわう)の女(むすめ)を娶(めあは)せて、遂(つひ)に児息(をのこご)有り。
新羅、初めに女(むすめ)を送りし時、并(あは)せて百人(ももたり)を遣はして女従(つかひめ)と為(せ)しめて、
受而(うけて)諸(もろもろの)県(こほり)に散(あ)かち置きて、新羅(しらき)の衣(ころも)冠(かがふり)を着(き)令(し)む。
阿利斯等(ありしと)、其の服(ころも)を変(か)へしことを嗔(いか)りて、使(つかひ)を遣はして還(かへすこと)を徴(もと)めき。
新羅(しらき)、大(おほ)きに羞(はづかしめ)らえて、翻(ひるがへ)りて[欲]女(むすめ)を還(かへ)さむとおもひて曰(いはく)
「前(さき)に汝(なが)聘(まねき)を承(うけたま)はりて、吾(われ)便(たやすく)婚(よばひ)を許(ゆる)しまつりき。
今既に斯(かく)の若(ごと)くあれば、請(ねがはくは)王女(ひめみこ)を還(かへ)したまへ。」といへど、
加羅の己富利知伽(こふりちか)【未(いま)だ詳(つまびら)かならず】報(こた)へ云(まを)ししく
「夫婦(をひとめ)配合(あは)せて、安(いづくにそ)更に離(か)るるを得(う)るか。
亦(また)息児(をのこご)有りて、之(こ)を棄(う)ちて何(いかに)か往(ゆ)かむ。」とまをしき。
遂(つひ)に所経(くびれる)に於(よ)りて、
刀伽(とか)、古跛(こへ)、布那牟羅(ふなむら)三(みつの)城(き、さし)を抜きて、
亦北の境(さかひ)の五(いつの)城を抜きき。
《勅使》
 「勅使」はここでは父根と吉士老を指す。 中国語の「勅使(ちょくし)」をそのまま用いたもので、「みかどつかひ」(〈前田本〉)、「みことのりつかひ」(〈仮名日本紀〉)の和訓が見られるが、いずれも平安時代以後に付されたもの。 〈時代別上代〉の見出し語にはないから、上代語にはなかったと思われる。
《扶余》
 〈釈紀〉は『隋書』巻八十一列伝第四十六〔東夷〕から、「百済:百済之先、出自高麗国。…初以百家済海、因号百済。」の部分を引用する。 〈釈紀〉がこれを引用したのは、『隋書』が百済を高麗の先の「夫余」と同族であることを示すためと見られる。 『隋書』(同上)には、「高麗:高麗之先、出夫餘〔高麗の先、扶余より出づ〕とある。 『三国史記』-百済本記「聖王十六年」〔戊午;538〕に「都於泗沘【一名所夫里〔ソフリ〕】。国号南扶餘」 とあるように、一時は「南扶余」を国号にした。現在は忠清南道の南部に、「扶余郡」の地名がある。
《加羅王娶新羅王女》
 『三国史記』法興王九年〔壬寅;522。継体十六年〕の「春三月。加耶国王遣使請婚。王以伊飡比助夫之妹〔伽耶国遣使して婚を請ふ。王、伊飡比助夫の妹を以て之を送る〕 に対応すると見られる。
《令着新羅衣冠》
 妃は大量の侍女を連れてきて、後宮を新羅一色に染め(あるいは、侍従を全国に派遣して)、 加羅国民に衣冠を配り、新羅の風習を広めた。
 阿利斯等はこれに怒り、配布された衣服を回収して送り返した。 恥をかかされた新羅は、妃に帰国を命じた。
《阿利斯等》
 阿利斯等(ありしと)と似た名前の人物が垂仁天皇紀に出てきて、 「都怒我阿羅斯等(つぬがあらひと)」にといい、「大加羅国王の子」とされる。 すると、「斯等」は、加羅国において王子につく称号なのかも知れない。 阿利斯等には、配布された新羅風衣服を回収するだけの力があったわけだから、この人物も王子だったのかも知れない。
《経》
 が「首をくくる」意味で使われた例が垂仁天皇紀にあり、 そこでは狭穂姫が「自経而死耳〔みづからくびりてしするのみ〕と書かれる。
 継体二十三年の「」が普通の「経る」意味だとすると、目的語を欠くのでそれまでの経過を漠然と指すことになるが、 ならばなぜわざわざ「」がつくのだろうか。「」は、重大な事柄を引き出す語である。
 しかし、垂仁天皇紀のように「〔みづから〕がつき、「」の字があれば「首をくくる」意味ははっきりするのだが、「所経」だけでは何とも言えない。
 ただ、加羅王妃は板挟みで悩み、その次に戦闘が勃発するからその間に妃の自死があったとしても流れから見て不自然ではない。 「所」を受け身の助動詞と見れば、「於所経」に「加羅国は(または「新羅国は」次項参照)、王妃に首をくくられてしまったので」のニュアンスを読み取ることは可能である。 一方、『三国史記』で、加羅王妃は三王子を連れて新羅の人質になっていることには合致しない。
 この部分は加羅の王妃・王子の名前もないほど簡略化された文章なので、 原資料ではもっと詳しかったが、それを書紀原文作者が要約して「所経」で済ませたのかも知れない。
《抜刀伽・古跛・布那牟羅三城
 加羅-新羅関係は悪化し、遂に戦闘に至った。
 さて、刀伽・古跛・布那牟羅三城と北境五城を「抜いた」のは、加羅か新羅のどちらがしたことだろうか。 刀伽・古跛・布那牟羅がどちらの領土にあったかが分かれば結論が出るが、これも不明である。
 一般には、躊躇なく新羅が攻撃したと読まれている。 しかし、自死した王妃への同情心が加羅の国内に一気に盛り上がり、一気に攻撃に打って出たという考え方も成り立つのではないだろうか。 また「北境」は加羅側から見た方向だから(新羅から見ると南境になる)、主語は加羅ではないかとも思えるのである。
《大意》
 同じ月、 物部伊勢(もののべのいせ)の連(むらじ)父根(かそね)、吉士老(きしおきな)等を遣わし、多沙津を百済王に賜りました。
 すると、加羅王は勅使に、 「この津は、〔神功皇后のとき〕官家(みやけ)を置いて以来、臣が朝貢する津の港とされてきました。 どうして、恣(ほしいまま)に隣国のものに改め、元から封じられた境界を違えることができましょうか。」と申し上げました。
 勅使の父根(かそね)等はこれにより、面と向かって賜ることが難しくなり、大嶋(おおしま、おおせま)に戻り、 別に録史(ふみと)を遣わして、予定通り扶余〔ふよ、=百済〕に賜わりました。
 この故に、加羅は新羅と誼を通じて、日本(やまと)への怨みが生まれました。
 加羅王は、新羅王の娘を娶り、遂に子息が生まれました。 新羅が初めに娘を送った時、合わせて百人を女従として遣わし、 受けて諸県(しょごおり)に分散して置き、新羅の衣冠を着用させました。
 阿利斯等(ありしと)はその衣服を変えたことを怒り、使者を遣わして返還、徴集させました。 新羅は大いに辱しめを受け、翻って娘の帰還を求めて、 「以前、あなたからの聘(まね)きを承り、私は気軽に結婚を許しました。 今は既にかくの如くあれば、王女をお返しください。」と申し入れましたが、 加羅の己富利知伽(こふりちか)【この人物について詳しいことは不明】は答えて、 「夫婦が娶せたものを、どうして引き離すことができましょうか。 また、子息があり、これを棄ててどうして往くことができましょう。」と言いました。
 遂に妃は首をくくる所となり、 こうして刀伽(とか)、古跛(こへ)、布那牟羅(ふなむら)の三城を討ち抜き、 また北境の五城を討ち抜きました。


【二十三年(3)】
《遣近江毛野臣使于安羅》
是月。
遣近江毛野臣使于安羅、
勅勸新羅更建南加羅喙己呑。
百濟遣將軍君尹貴麻那甲背麻鹵等、
往赴安羅、式聽詔勅。
新羅、恐破蕃國官家、
不遣大人而遣夫智奈麻禮奚奈麻禮等、
往赴安羅、式聽詔勅。
於是、安羅新起高堂、
引昇勅使、國主隨後昇階。
國內大人、預昇堂者一二。
百濟使將軍君等在於堂下。
凡數月再三、謨謀乎堂上、
將軍君等、恨在庭焉。
南加羅…〈前田本〉「アリヒシノアリノ」。
将軍君尹貴麻那甲背麻鹵…〈釈紀〉将軍君尹貴クンヰンクヰ麻那マナ甲背カフハイ麻鹵マロ 〈前田本〉「将軍君---背麻鹵」。
大人…①目上の人を尊敬していう。②徳のある人。人格者。〈前田本〉「大人タカキヒト」。
夫智奈麻礼奚奈麻礼…〈釈紀〉夫智奈麻礼ふちなまれケイ奈麻礼ナマレ
たかどの…[名] 楼台。
昇堂者…〈前田本〉「国内(ノ)大人(ノ)クハハリ(テ)トノ(ニ)〔国内の大人の預(くはは)りて堂(とう)に昇る者(は)一人二人〕()内は朱書のヲコト点による。
式聴…漢籍に熟語としては、なかなか見いだせない。
…[名] 一定のやりかた、形式。[動] のっとる。もちいる。[助] もって。語調を整える。 (古訓) のり。まこと。もつ。しき。〈前田本〉「」。
詔勅…〈前田本〉「詔勅オヒミノリコトノコトヲ」。〔オホミノリコト(ノコト)ヲ〕(大御宣言を)か。
蕃国官家…〈前田本〉「トナリノ官家ミヤコケ」。ミヤケの誤りか。
大人…〈前田本〉「大人タカキヒト」。
しきる…[自]ラ四 度重なる。
…[前] 「乎+[名詞]」で前置詞句を構成し、時、場所、対象、受け身文の行為者、比較などを表す。
是の月。
近江(ちかつあふみ)の毛野(けの、けなの)臣(おみ)を遣はして[于]安羅(あら)に使(つかひ)せしめて、
勅(みことのり)して新羅に南加羅(みなみのから、ありひしのから)、喙己呑(とくことむ)を更(あらためて)建てることを勤(すす)む。
百済、将軍君尹貴(しやうぐむくむゐむくゐ)、麻那甲背麻鹵(まなかふはいまろ)等(ら)を遣はして、
安羅に往赴(おもぶ)きて、式(もちて)詔勅(みことのり)を聴きまつりき。
新羅、蕃国官家(えみしのくにしらきのみやけとなりしよしび〔蕃国新羅の官家と為りし誼〕)の破れむことを恐(おそ)りて、
大人(たふときひと)を不遣(つかはさずあり)て[而]夫智奈麻礼(ふちなまれ)、奚奈麻礼(けいなまれ)等(ら)を遣はして、
安羅に往赴(おもぶ)きて、式(もちて)詔勅を聴きまつりき。
於是(ここに)、安羅(あら)、新(あらたに)高堂(たかどの)を起(た)たして、
勅使〔=毛野臣〕を引き昇らしめて、国主(くにぬし、こにきし)後(うしろ)に隨(したが)へて階(はし)を昇りき。
国内(〔安羅の〕くぬち)の大人(たふときひと)、預(あらかじめ)堂(たかどの)に昇りたる者(ひと)一二(ひとりふたり、すくなし)のみ。
百済(くたら)の使(つかひ)将軍君(しやうぐむくむ)等(ら)[於]堂(たかどの)の下に在り。
凡(おほよそ)数月(しきりのつき)に再(ふたたび)三(みたび)、堂(たかどの)に上(のぼ)ることを[乎]謨謀(はか)れど、
将軍君等(ら)、〔つひに〕庭に在りしことを恨(うら)みき[焉]。
夏四月壬午朔戊子。
任那王己能末多干岐、來朝
【言己能末多者、蓋阿利斯等也】、
啓大伴大連金村曰
「夫海表諸蕃、自胎中天皇置內官家、
不棄本土、因封其地、良有以也。
今新羅、違元所賜封限、數越境以來侵。
請、奏天皇、救助臣國。」
大伴大連、依乞奏聞。
己能末多干岐…〈釈紀〉「任那コキシマツ干岐」。
海表諸蕃…〈前田本〉「ワタ諸-蕃隣国也」。
自胎中天皇置内官家…〈前田本〉「胎中品タノ天皇ミカトノタマフシ〔ウチ〕官家ミヤケ〔胎中天皇(ほむたのみかど)の内(うちつ)官家(みやけ)置〔きたまひ?し〕自(よ)り〕
…[名] ゆえ。理由や原因。『韓詩外伝』〔前漢〕必有以也〔かならずゆゑあり〕
救助…〈前田本〉「タマヘ〔たすけたまへ〕
…〈前田本〉「マゝコハシ申也」。
夏四月(うづき)壬午(みづのえうま)を朔(つきたち)として戊子(つちのえね)〔七日〕
任那(みまな)の王(きみ)己能末多干岐(このまたかむき)、朝(みかどにをろがみ)来たりて
【己能末多(このまた)と言ふ者(は)、蓋(けだし)阿利斯等(ありしと)也(なり)。】、
大伴大連(おほとものおほむらじ)金村(かなむら)に啓(まを)して曰(まを)さく
「夫(それ)海表(わたのおもて)諸(もろもろ)の蕃(えみし)、胎中(はらぬちにまします、ほむたの)天皇(すめらみこと)内官家(うちつみやけ)を置きし自(よ)り、
本土(もとのつち)を不棄(うてずあり)て、其の地(ところ)を封(たまは)りしに因(よ)りて、良(よ)く以(ゆゑ)有り[也]。
今新羅(しらき)、元の所賜(たまはりしところ)の封(たまは)りし限(かぎり)を違(たが)へて、境(さかひ)を数(しば)越えて以ちて来たりて侵(をか)してあり。
請(ねがはくは)、天皇(すめらみこと)に奏(まを)したまひて、臣(やつかれ)の国を。救助(すく)ひたまへ。」とまをす。
大伴大連(おほとものおほむらじ)、乞(こひねがひし)に依(よ)りて奏聞(まをしてききまつ)りき。
是月。
遣使送己能末多干岐、
幷詔在任那近江毛野臣
「推問所奏、和解相疑。」
於是、毛野臣、次于熊川
【一本云、次于任那久斯牟羅】
召集新羅百濟二國之王。
新羅王佐利遲、遣久遲布禮
【一本云、久禮爾師知于奈師磨里】、
百濟、遣恩率彌騰利、
赴集毛野臣所、
而二王不自來參。
推問…罪状を取り調べる。
和解…仲直りする。〈前田本〉「和解ネキラヘトクアマナハシム」。
あまなふ…[自]ハ四 仲良くする。
熊川…〈前田本〉「宿セ熊川クマナシ【一本云ヤトル于任那久斯牟羅】」。 〈釈紀〉「熊川。クマナシニ一本云アルフムニイハクヤトル于任那久斯牟羅ノクシムラニ。】
…[動] (古訓) つく。やとる。
佐利遅…〈釈紀〉「佐利遅サリチ久遅布礼クチフレ。【久礼爾師知于クレニシチウカム奈師磨里ナシマリ。】
恩率弥騰利…〈釈紀〉「恩率ヲムソツ弥騰利ミトリ」〈前田本〉「騰利爵名也」。
是の月。
使(つかひ)を遣(つか)はして、己能末多干岐(このまたかむき)を送らしめて、
并(あは)せて任那に在りし近江毛野臣に詔(のたま)はく
「所奏(まをしごと)を推問(かむがふる)に、和解(あまなふこと)相(あひ)疑(うたが)はし。」とのたまふ。
於是(ここに)、毛野臣、[于]熊川(くまなし)に次(やど)りて
【一本(あるふみ)に云ふ、[于]任那(みまな)の久斯牟羅(くしむら)に次りて】、
新羅百済二(ふたつの)国之(の)王(わう)を召集(めしあつ)めき。
新羅王(しらきわう)佐利遅(さりち)、久遅布礼(くちふれ)
【一本(あるふみ)に云ふ、久礼爾師知于奈師磨里(くれにしちかむなしまり)】を遣はして、
百済、恩率弥騰利(おむそつみとり)を遣はして、
毛野臣の所(ところ)に赴(おぼむき)集(つど)ひて、
而(しかれども)二(ふたりの)王(わう)、不自来参(みづからはまゐりこ)ず。
毛野臣大怒、責問二國使云
「以小事大、天之道也。
【一本云。
大木端者、以大木續之。
小木端者、以小木續之。】
何故二國之王、不躬來集受天皇勅、
輕遣使乎。
今縱汝王自來聞勅、
吾、不肯勅必追逐退。」
久遲布禮恩率彌縢利、
心懷怖畏、各歸召王。
小事大…〈前田本〉スコシキナルオホイナル
…[動] こととする。つかえる。
…[形] (古訓) かろかろし。あなつる。〈前田本〉ナメク
なめし…[形]ク 軽々しい。馴れ馴れしい。無礼。
…[形][動] ほしいままにする。[接] たとえ~でも。
『尊経閣善本影印集成26』(八木書店)p.148
今縦汝王自來聞勅…〈前田本〉モシ汝王自來聞トキ
…[動] (古訓) きく。むへなふ。
うべなふ…[自]ハ四 承服する。
…[動] のべる。天子が意向を知らせる。
肯宣…「肯定:うなずいてきめる。」「肯諾:うなずいて承知する。」から類推して「うなずいてのべる(のたまう)」か。
必追逐退…〈前田本〉必追オヒカヘサム退
恩率彌縢利…〈前田本〉は「」が前段の「」と不一致。(右図)
毛野臣大(おほ)きに怒(いか)りて、二つの国の使(つかひ)を責め問ひて云ひしく
「小(すこしき)を以ちて大(おほきなる)事(こととする)は、天之道(あめのみち)也(なり)。
【一本(あるふみ)に云ふ。
大(おほき)木(こ)の端(はし)者(は)、大木を以ちて之(これ)に続く。
小(すこしき)木(こ)の端者(は)、小木を以ちて之に続く。】
何(いかなる)故(ゆゑ)そ、二つの国之(の)王(わう)や、[不]躬(みづから)来(き)集(つど)ひて天皇勅(すめらおほみことのり)を受けまつらずありて、
使(つかひ)を軽(なめ)く遣(つか)はしてある[乎]。
今、汝(いまし)の王(きみ)の自(みづから)来て勅(みことのり)を聞きまつることを縦(ほしきまにま)にせば、
吾(われ)、不肯勅(おほみのりことをのぶことうべなはずあり)て、必ず追逐(おひはら)ひて退(まからしめ)む。」といひき。
久遅布礼(くちふれ)、恩率弥縢利(おむそつみとり)、
心壊(そこな)ひ怖畏(おそ)りて、各(おのもおのも)帰りて王(わう)を召しまつりき。
《任那王己能末多干岐》
 原注が「己能末多このまたと言ふは、けだ阿利斯等ありしとなり」としているのは驚天動地である。 加羅の王子とも目される阿利斯等が、なぜ任那王なのだろうか。
 考えられる理由としては、
 任那は加羅の域内国の一つで、親族が分担して域内国の王を勤めていた。
 任那国は幻だが、書紀には必ず形式的に書き添えるようにしていた。当時の校訂者は、それを承知していた。
 加羅の使者が倭国を訪れるときは、倭朝廷の面子を立てるために任那国を名乗る習慣になっていた。
 が考えられる。 
 については、欽明紀二十三年の原注により、卒麻国旱岐・散半奚国旱岐を加羅国の域内国の旱岐と見たが、 そこに「任那旱岐」が書かれていないから否定される(資料[32])。 同じ原注にある「総言任那」という言葉からは、であることが強く感じられる。
 は一見突拍子もない考えだが、427年頃には倭王珍が称号に「任那」を加えることを要求している(倭の五王)。 その時点で任那が〔伽耶地域の小国として〕存在していたかどうかは分からないが、本来の任那国が亡びた後も、朝廷がしばしば「任那」の幻影を追い求めていたのは明らかである。 例えば孝徳天皇紀大化元年〔645〕七月では、百済使に任那使を兼任しているかの如く装わせ、百済からの献上物を一旦返還し、その一部を任那の名目にして献上し直させる操作をしている(資料[32])。
 また、推古天皇紀三十一年〔623〕十一月の荘船(かざりふね)の例もある(資料[32])。 そこから類推すれば、のようなこともあり得るように思える。
 何れにしても、書紀原文作者には、加羅地域が出てくれば「任那」と呼ぼうとする気持ちが相当強かったことは間違いない。 そして当時の校訂者は、既に「任那」がフィクションであることを認識していたと見られる。
《新羅王佐利遅》
 継体二十三年〔己酉;529〕は、『三国史記』によれば新羅法興王十六年に当たる。法興は「」で、さらに「諱原宗」「姓募名秦」と書いてある。 『三国史記』にはまた、法興王のときに新羅から妃が送られた記事がある(前述)から、法興王と佐利遅王は同一であろうと思われるが、 確かなことは分からない。
《恐破蕃国官家》
 「蕃国官家」とは何のことであろうか。
 新羅が「大人」(地位の高い者)を送ることを避けた理由は、倭が要求する南加羅・喙己呑の独立は受け入れられないからである。 使者の地位が低ければ「本国に持ち帰ります」と言えば済むが、 地位の高い者が行くと、その場でノーと言わざるを得ないから倭-新羅間で紛争が発生するのである。
 従って、「破蕃国官家」は、倭-新羅間の関係が損なわれかねないことを心配する文脈中にあるはずである。
 「破る」には戦争に敗れる意味もある。しかしもしそれを言いたいのなら「恐所破為日本」などと書くだろうと思われる。
 ここでは「破」の意味は「win」ではなく「break」で、「蕃国官家」とは「西蕃(百済・新羅・高麗)」を「内官家屯倉」とした神功皇后のときの約束 (神功皇后紀5)を破るという意味であろう。 この表現は倭が宗主国であるが如く振る舞う尊大なもので、普通の言葉遣いなら「倭・新羅のよしみ」となるところである。
 「蕃国官家」はこの関係をキーワードのみによって表したものだから、漢字なら意味が伝わるが、和訓「となりのくにみやけ」では苦しい。 思い切って「誼(よしび)の破るることを恐り」などと訓読した方がはるかによく伝わるであろう。
《今縦汝王自来聞勅》
 〈前田本〉は「」を「モシ」と訓む。
 「今縦汝王自来聞勅、吾不肯勅必追逐退」の後半は、 「私は、勅を肯定せず〔=勅を宣しない〕、必ず追い払う」の意味である。
 「」を「もし」と訓む場合、この文はもし今さら王が来たとしても決して勅を伝えずに、追い払ってやる」という意味となる。
 また別解として、「」を「ほしきまにまに」と訓むことも可能である。 この場合「今縦汝王自来聞勅」は「王が自ら来ることをほしいままにする」、即ち 「王は自分が行くかどうかを恣意的に決める」意味になるから、 この文は王が勝手に代理の者をよこすなら、勅を伝えずに追い払っやる」という意味になる。
 その後の事実経過を見ると、新羅王は「伊叱夫禮智干岐」をよこし、勅使は「勅を宣ずる」ことを拒んだから、 が正しい。
《毛野臣大怒》  近江毛野臣は、
 二十一年六月、磐井の乱の前に、毛野臣は新羅から南加羅・喙己呑を取り戻し「任那」に併合する〔実際には伽耶連合のメンバーとして取り戻す〕ために六万の軍勢を送ったが、磐井に阻止されて叶わなかった。
 二十三年三月、勅をもって安羅にでかけ、新羅に南加羅・喙己呑を解放させようとしたが、 新羅は「大人」(地位の高い者)をよこさず、どうやら勅はまともには伝えられなかった。
 四月、「任那」〔実際には加羅〕が新羅の侵攻をやめるように訴え、安羅に滞在していた毛野臣が新羅国王を呼び出した。 今回も使者は「大人」ではなく、「毛野臣が王本人が来い」と厳しく言って改めて来た使者も王の代理であった。毛野臣は勅の伝達を拒否し、新羅軍は腹いせに加羅の村から略奪して帰った。
 結局事実として残ったのは、新羅は南加羅・喙己呑は新羅は解放されず、逆に更に加羅から略奪したことだけである。 この時期に新羅が加羅を属国にしたことが、三国史記にも書かれている。
 この後、毛野臣は久斯牟羅に邸宅を建て、その支配地で暴政を敷いて帰還命令を受け、帰路対馬で病死している(詳しくは二十四年条)。
 このように、毛野臣は実際には何一つ役目を果たしていない。だから、毛野臣の新羅への働きかけが、すべて書紀のフィクションであると思われても仕方がない。
 しかし、毛野臣が半島に渡って加羅-新羅の戦闘に加わったことは事実で、伝説となって子孫に語り継がれていたのではないかと思うのである。 ①②はもともとはひとつの伝説だったのが、2つの場面で使われた印象を受ける。
 そもそも、倭人の氏族が韓国南部に渡り、時には戦闘に参加した事実はあった。 その根拠として古くは好太王碑文があり、また倭系古墳の存在もある(倭の五王)。 さらには、書紀に出てくる百済・加羅の人物に倭系の名前が見えることである。 継体十年には「日本斯那奴阿比多〔倭信濃〕が登場し、今回も「麻那甲背麻鹵(まなかふはいまろ)」が見える。 これは、渡海した倭人が現地で百済人・加羅人と融合した事実を示すものと言えよう。 毛野臣も渡海した諸族のひとつだったのではないだろうか。
 なお、加羅地域の話が出てくれば、なるべく「任那」という語を入れようとするのは書紀のもつ方向性であるが、 それは何も書紀に始まったことではなく、既に推古~孝徳期頃に、朝廷による作為があったことが伺われる。
《大意》
 是の月、 近江の毛野(けの、けなの)臣を安羅(あら)に勅使として遣わし、 新羅に南加羅(みなみのから、ありひしのから)、喙己呑(とくことん)を再建することを勤めました。
 百済は将軍君尹貴(しょうぐんくんいんき)、麻那甲背麻鹵(まなこうはいまろ)等を遣わして、 安羅に赴き、詔勅を拝聴しました。
 新羅は〔神功皇后以来の〕蕃国官家の関係が破れることを恐れて 高位の者を遣わさず、夫智奈麻礼(ふちなまれ)、奚奈麻礼(けいなまれ)等を遣わして 安羅に赴き、詔勅を拝聴しました。
 このとき安羅(あら)は、高堂〔たかどの〕を新築し、 勅使〔毛野臣〕を引率して上り、国主の後に従えて階段を昇りました。 安羅国内の貴人で、その前に高堂に昇ったことがあるのは一人二人に過ぎませんでした。
 百済の使者、将軍君等は高堂の下に据え置かれたので、 その後およそ数か月間、再三、高堂に上ろうと画策しましたが、 将軍君等は遂に庭に置かれたままであったことを恨みました。
 四月七日、 任那王己能末多干岐(このまたかんき)は来朝し 【己能末多という人は、恐らく阿利斯等であろう。】、 大伴大連(おおとものおおむらじ)金村(かなむら)に申し上げました。
――「海表(うみおもて)の諸蕃(しょばん)〔南韓の諸国〕は、胎中天皇〔応神天皇〕が内官家(うちつみやけ)を置いて以来、 元の領土を破棄せず、その地が封じられたことにより、好ましい所以があります。
 今新羅は、元々封じられた限界を違(たが)え、境界をしばしば越えて来て侵攻しました。 願わくば、天皇(すめらみこと)に奏上され、臣の国を救助してください。」
 大伴大連は、その願いを受け入れ、奏聞しました〔天皇に伝達して意向を伺いました〕。
 この月、 使者を遣わして、己能末多干岐(このまたかんき)を送らせ、 合わせて任那に滞在していた近江毛野臣に詔して 「奏上を推問〔吟味検討〕するに、和解は互いに疑わしいだろう。」と伝えました。
 そこで、毛野臣は熊川(くまなし)に移り 【ある資料では、任那の久斯牟羅(くしむら)に移り】、 新羅百済二国の王を召集しました。
 新羅王佐利遅(さりち)は、久遅布礼(くちふれ) 【ある資料では、久礼爾師知于奈師磨里(くれにしちかんなしまり)】を遣わして、 百済は恩率弥騰利(おんそつみとり)を遣わして、 毛野臣の所に赴い集いました。
 しかし、二人の王自身は来参しませんでした。
 毛野臣は大変怒って二国の使を責めて問い、 「小を以って大なる事は、天の道である。 【ある資料では、 「大木の端は大木に続き、 小木の端は小木に続く」とする。】 何故、二つの国の王が、自ら来て集い天皇の詔勅を御受けせず、 小者の使者を遣わすようななめた行いをするのか。 今、お前たちの王が自分で詔勅を聞くか否かを自分で勝手に決めるのであれば、 私は、詔勅を宣べるをよしとせず、必ず追い払ってやる。」と言いました。 久遅布礼(くちふれ)と恩率弥縢利(おんそつみとり)は、 心を損ない畏怖し、それぞれ帰って王を召しに行きました。


【二十三年(4)】
《新羅改遣其上臣》
由是、新羅、改遣其上臣伊叱夫禮智干岐
【新羅、以大臣爲上臣。
一本云、伊叱夫禮知奈未】
率衆三千、來請聽勅。
毛野臣、遙見兵仗圍繞衆數千人、
自熊川入任那己叱己利城。
伊叱夫禮智干岐、
次于多々羅原、不敬歸、
待三月、頻請聞勅、
終不肯宣。
上臣…〈前田本〉「上臣オホキマツキミ」。
 〈釈紀〉上臣オホキマチキミ/オホマチキミ。 ○伊叱夫礼智イシフレチ干岐カンキ。 ○モテ大臣オホマチキミヲ上臣シヤウシムト
前田本 『尊経閣善本影印集成26』(八木書店)p.148
伊叱夫礼知奈未
 〈岩波文庫版〉伊叱夫礼知奈末いしぶれちなま
 〈釈紀〉「伊叱夫礼知奈未イシフレチナミ
 〈前田本〉「伊叱夫礼知奈未」(右図)。
 〈仮名日本紀〉

兵仗…兵器。
衆数千人…〈前田本〉「衆数千人イクサアマタアルヲ」。
己叱己利城…〈釈紀〉己叱己利城コシコリサシニ
多々羅原…〈釈紀〉多々羅原タゝラノハラニ
不敬帰…〈前田本〉「不敬帰」。岩波文庫版によればいくつかの本は「不敢帰」。〈釈紀〉不敢帰トリツカスヨリコス
是の由(ゆゑ)に、新羅(しらき)、改めて其の上臣(しやうしむ、おほまへつきみ)伊叱夫礼智干岐(いしふれちかむき)
【新羅、大臣を以ちて上臣(しやうしむ)と為(す)。
一本(あるふみ)に、伊叱夫礼知奈未(いしふれちなみ)と云ふ。】遣はして、
衆(いくさひと)三千(みちたり)を率(ゐ)て、来たりて勅(みことのり)を聴(きくこと)を請(ねが)ひまつりき。
毛野臣、遙(はるかに)兵仗(つはもの)、囲繞(かこめる)衆(いくさひと)数千人(あまた)を見て、
熊川(くまなし)自(ゆ)任那(みまな)の己叱己利城(こしこりのき、こしこりさし)に入(い)りき。
伊叱夫礼智干岐(いしふれちかんき)、
[于]多々羅原(たたらのはら)に次(やど)りて、不敬帰(ゐやまひかへらず)、
待つは三月(みつき)、頻(しばしば)勅(みことのり)を聞くことを請(ねが)ひまつれど、
終(つひに)不肯宣(のぶをうべなはず)。
伊叱夫禮智所將士卒等、於聚落乞食、
相過毛野臣傔人河內馬飼首御々狩々、
入隱他門、待乞者過、捲手遙擊。
乞者見云
「謹待三月、佇聞勅旨、尚不肯宣。
惱聽勅使、乃知欺誑誅戮上臣矣。」
乃以所見、具述上臣。
上臣抄掠四村
【金官背伐安多委陀、是爲四村。
一本云、多多羅須那羅和多費智、爲四村也】、
盡將人物、入其本國。
或曰
「多々羅等四村之所掠者、毛野臣之過也。」
士卒等…〈前田本〉士卒等イクサヒトトモ
聚落…人家が集まっているところ。集落。〈前田本〉「聚落ムラヒトニモノ〔村人に物乞ふ〕。 〈釈紀〉「シテ聚落ムラヒトニ。」
相過毛臣…〈前田本〉「ヨキリケナ野臣」。
よきる…[他]ラ四 よこぎる。
傔人…従者。ともびと。(古訓) したがふ。〈前田本〉「傔人トモナルヒト」。
他門…〈前田本〉「ヒトノ」。
かくる…[自]ラ四 隠れる。〈時代別上代〉すでに下二段の形も多く、次の時代につながる。
…[動] まきつける。
遙撃…熟語「遙撃」は、ほとんど見ない。 〈前田本〉「モノコフスクルニキルツカミ手遙ウツマネシ〔物乞ふ者の過ぐるを待ちて握る手を/手を掴み/撃つ真似し〕
…[動] たたずむ。
…[動] 耳をすましてきく。[名] 聞き耳を立ててようすをさぐる者。
悩聴勅使…〈前田本〉「ワツラハスミコトノリ使〔勅(みことのり)を聴く使(つかひ)を悩(わずらは)す〕
欺誑…〈汉典〉欺騙迷惑。
金官背伐安多委陀…〈釈紀〉金官コンクワン背伐ハイホツ安多アタ委陀ヰタ。【四村ヨツノスキ。】
多多羅須那羅和多費智…〈釈紀〉多多羅タゝラ須那羅スナラ和多ワタ費智ヒチ。【四村。】
伊叱夫礼智(いしふれち)の所将(ひきゐし)士卒(いくさひと)等(ども)、[於]聚落(むらひと)に食(くらひもの)を乞(こ)ひて、
毛野臣(けなのおみ、けのおみ)の傔人(ともひと)河内(かふち)の馬飼(まかひ)の首(おびと)御狩(みかり)を相(あひ)過(よ)ぎりて、
御狩(みかり)他(ひとのいへ)の門(かど)に入り隠(かく)りて、乞(ものこふ)者(ひと)の過(す)ぐるを待ちて、手を捲(つか)みて遙(はるか)に撃ちき。
乞者(ものこふひと)見て云ひしく
「謹(つつし)みて待てるは三月(みつき)、佇(たたず)みて勅旨(みことのり)を聞けど、尚(なほ)不肯宣(のぶをうべなはず)。
悩(わづら)ひて勅使を聴(しのびき)けば、乃(すなは)ち欺誑(あざむきて)上臣(しやうしむ、おほまへつきみ)を誅戮(ころ)さむと知りまつりき[矣]。」とまをしき。
乃(すはなち)所見(みゆる)を以ちて、具(つぶさに)上臣に述(のべまを)しき。
上臣、四村(よつのむら)
【金官(こむくわむ)、背伐(はいほつ)、安多(あた)、委陀(ゐた)、是(こ)を四村と為(す)。
一本(あるふみ)に云はく、多多羅(たたら)、須那羅(なすら)、和多(わた)、費智(ひち)を、四村と為(す)といふ[也]。】を抄掠(かす)めて、
人(ひと)物(もの)を将(も)ち尽くして、其の本の国に入りき。
或(あるひと)の曰(いはく)
「多々羅(たたら)等(ら)四村之(の)所掠(かすみとらゆる)者(は)、毛野臣之(の)過(あやまち)也(なり)。」という。
秋九月。
巨勢男人大臣薨。
巨勢男人大臣…初出は継体元年。 磐井の乱の前に、大伴金村、物部麁鹿火とともに、「許勢大臣男人」(継体二十一年)。
秋九月(ながつき)。
巨勢男人大臣(こせのをひとのおほまへつきみ)薨(こうず、みまかる)。
《上臣》
 原注は、新羅の職名では「大臣」を「上臣」と称すると述べる。 〈釈紀〉は、「上臣」の訓として、オホキマチキミオホマチキミを示す。 〈倭名類聚抄〉には「左右大臣【於保伊万宇智岐美】〔おほいまうちきみ〕とあり、 これらはすべて「おほ[き]まへつきみ」(大前つ君)の音便と見られる。
 書紀原文製作の時代、大臣の訓みをオホキマヘツキミとすることが常識であったならば、 この原注は「上臣」も同じようにオホキマヘツキミと訓めと指示したものとも捉えることができる。
 ただ〈前田本〉では、本文中では「上臣オホキマツキミ」と和訓を添える一方で、原注では「上 臣」と漢字単位で声点をつけているから、音読みである。 〈釈紀〉が原注については「上臣シヤウシム」とするのは、それを反映したものであろう。
 それはそれとして、ひとつの考えとして新羅の言葉ではオホキマヘツキミとは言わないから、中国語のまま音読みすべきだという考えもあり得る。 それに対して、現代日本では英国のministerの訳語として「大臣」を用いるのだから、書紀の和訓にもオホキマヘツキミを用いてもよいのではないかという論も成り立ちそうである。
《捲手遙撃》
 百度百科「"以剣遙撃"是古代撃剣技術領域中一種擲〔=投〕剣攻敵的方法,猶如後世的飛刀飛剣之類。大致盛行於春秋到両漢之間、三国時猶存、三国以後少見。〔古代の撃剣技術のカテゴリーに属する剣の投げ技。なお後世の飛刀飛剣の類。春秋時代から前漢後漢まで大流行。三国時代にもなおあったが、それ以後見ることは少ない〕
 書紀の「遙撃」がこの意味だとすれば、「捲手遙撃」とは、腕を掴んで捕まえるがすぐに放してやり、逃げる相手に離れたところから戯れに剣を投げつけたと読める。 〈前田本〉の訓「うつまねす」は本気で殺すつもりはなく、脅しただけである。
《不肯宣》
 〈前田本〉では「_肯_ノリコタス」、「カヘスノリ」となっている。 このままでは意味が通らないから「コタヘス」(答へず)の「ヘ」、「カヘサス」(返さず)の「サ」が脱落したようにも思えるが、確かなことは分からない。
 後世の漢文訓読体なら「」は、「宣(のぶ)を肯(がえ)んじない」と訓むのだろう。
 文脈から見て「不肯宣」とは、「〔勅の伝達〕を拒んでいる毛野臣に対して、伊叱夫礼智が「頻請」する〔何度も勅を聞かせてくださいと要請した〕が、「不肯〔イエスと言わない〕という意味だと思われる。
《遙見兵仗囲繞衆数千人
 毛野臣は使者では駄目だ。王自身が出かけて来いと言った。 新羅は改めて「上臣伊叱夫礼智を遣わし、伊叱夫礼智はそれならばと軍勢三千人を率いてやって来た。 これは、軍勢で圧力をかけて「王以外の者」に「肯勅」することを無理強いしたと読める。
 それに対して毛野臣は身の危険を感じたのであろう、「熊川任那己叱己利城」、即ち熊川から逃げて任那己叱己利城に籠城した。 磐井の乱の前には六万の軍勢を連れて行ったのだから、それだけの動員力があれば、この場面でこそそれを使って勝負すべきであった。
 伊叱夫礼智は、「于多々羅原、不敬帰」、 すなわち多々羅原に陣を構えて動かない。「敬帰」は、 「敬い帰る」ことをしない、即ち天皇の勅を拝聴するのに、軍勢を置いたままでは失礼なのに帰さないという意味であろう。
 膠着状態に陥ったので、伊叱夫礼智は村人からの食糧を徴発を名目にして毛野臣の様子を探って来いと、「乞者」に命じた。
 「任那己叱己利城」の「任那」は、ここでも倭の支配地域に名目的につけた語であろう。
《悩聴勅使》
 〈前田本〉の訓点の数字によれば「勅使〔勅を聴かむとす使ひを悩(わづら)ふ〕となるが、「勅使」を切り離してはいけないだろう。 これは「悩、聴勅使〔悩みて、勅使〔=毛野臣〕を聴けば〕であると見られる。 「」は毛野臣の気持ちが分からず、イライラしていた様子を表すと見られる。 「」には「間諜」の意味もあるから、密かに勅使=毛野臣の言葉を探ったという意味であろう。 しかし、その報告の中身は「毛野臣は欺いて伊叱夫礼智を殺そうとしている」というもので、これは讒言である。 この報告者(乞者)は従者の御狩に捕まり、殺す振りをしてからかわれたことを根に持っていたためであろう。
《四村之所掠》
百済・加羅地域の倭系古墳 「遺跡を学ぶ」94(新泉社)p.75より作成
 乞者の報告を聞いた伊叱夫礼智は、腹いせに四村を掠(かす)めて帰った。 それが毛野臣の失敗だと言われたということは、四村は倭人の居住地域であったか如きに読める。 これだけを読めば四村は「任那国」だという理屈になるが、次の項で見るように金官地域は実際には加羅国である。
 また、事実経過を詳細に書いた部分(欽明天皇紀など)からは「任那国」の実在性は見えてこない (資料[32])。
 とはいえ、加羅諸国の範囲に倭人の居住地があったのも確かである。 それを裏付けるのは、朝鮮半島南部の倭系古墳の存在である。 倭系古墳については、百済地域の前方後円墳を見た(倭の五王)。 『筑紫君磐井と「磐井の乱」-岩戸山古墳』(新泉社「遺跡を学ぶ」94)によると、慶南地方にも九州系横穴式円墳があり、そこには5世紀後半~6世紀前半のグループと、6世紀中葉前後のグループがあるという。
 その分布を見れば、慶南(慶尚南道)に倭人の居住区域があり、四村のうちいくつかは該当するかも知れない。 結局は、「任那」とは倭人居住地域を漠然と呼ぶ語と見られる。
《金官》
 「金官国」の名が、『三国史記』巻三十四(地理-新羅)に見える。
――「金海小京、古金官国【一云伽落国。一云伽耶】自始祖首露王十世仇亥王。以、梁中大通四年新羅法興王十九年、率百姓来降以其地為金官郡。文武王二十年永隆元年、為小京。景徳王改名金海京、今金州。
 〔金海小京:古く金官国【あるに云はく伽落〔伽洛〕国、あるに云はく伽耶】始祖首露王より十世仇亥王に至る。以って梁の中大通四年〔532〕新羅の法興王十九年〔532〕、百姓を率ゐて来降し、その地を金官郡とす。以って文武王二十年〔645〕永隆元年、小京とす。景徳王名を金海京に改め、今金州〕
 このように、かつては金官国、別名伽洛・伽耶が独立国として存在したが、532年に新羅から移民し、金官郡とした。 この532年は、継体帝二十六年にあたる。
 さらに、『三国史記』新羅本紀-法興王十九年を見る。
――「金官国主金仇亥、与妃及三子長曰奴宗、仲曰武徳、季曰武力、以国帑宝物来降。王礼待之、授位上等。以本国為食邑。子武力仕至角干
 〔金官国主の金仇亥、妃とともに三子;長曰く奴宗、仲〔次子〕曰く武徳、季〔三子〕曰く武力、帑〔=妻子〕宝物を以って来降す。〔新羅〕王、礼をもって之を待し、上等を授位す。以って国を食邑とし、子〔三男〕武力仕へ、角干に至る〕
 「食邑」は租税を収める邑の意で、即ち金官国は税を新羅に収める郡となる。そして妻子は人質になり、三男の武力は出世して新羅の角干〔骨品制の最高位〕を得る。
 新羅は、法興王九年〔522〕に「加耶国王」に伊飡比助夫の妹を送って「」した(【二十三年(2)】)。 加耶国は金官国の別名とされ、十年間に三子を設けるのは自然だから、法興王十九年に新羅に来降した「妃」と同一人物かも知れない。 三男が新羅国で出世したのも、妃が新羅出身だった故かも知れない。 【二十三年(2)】の「遂有児息」「翻欲還女」もこの経過と矛盾しない。
 四村の一つ「金官」については、金官国そのものかも知れないし、金官国を構成する同名の邑があったのかも知れない。
 継体紀では二十三年とされる新羅-加羅戦争は、実際に二十三年に占領され、戦後処理としての王族の処遇が二十六年に行われた。継体「二十三年」は誤差を含む。の二通りの解釈が考えられる。
 何れにしても継体二十三年条は、新羅による金官国の占領という史実を反映していると言える。 任那(実際には加羅)からの要請に応えて毛野臣を派遣して調停したと書くのは、倭の存在を際立たせるための潤色か。しかし、潤色と断定してしまっては実も蓋もないので、 実際に何らかの調停行動があったと思いたいところである。 しかし、仮に何らかの働きかけをしていたとしても、結局は何の役にも立たなかった。
《多多羅》
 神功皇后紀には「蹈鞴津(たたらつ)」があり、現在の釜山広域市にあったと考えられている()。
 地名「多多羅」は、たたら製鉄を連想させる。実際、加羅地域は古くから鉄の産地であった。 『三国志』魏書巻三十「弁辰伝」は、 「国出鉄、韓濊倭皆従取之。諸市買皆用鉄如中国用銭。又以供給二郡。〔国に鉄出(い)で、韓・濊(わい)・倭皆従(よ)りて之を取る。諸市に買ふに皆鉄を用(もちゐ)るは、中国にて銭を用るが如し。又以ちて二郡〔馬韓・辰韓〕に供給す。〕と述べる。
 弁辰(弁韓とも)は後の伽耶諸国の範囲に重なり、この地域で産出した鉄が、倭にも流入していたのである。
 神功皇后紀四十六年には、百済王が鉄艇(てってい)四十枚を献上した記事があり、 宇和奈辺古墳陪塚からは大量の鉄艇が出土している。
 神武天皇段には「富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめのみこと)」、神武天皇紀「媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)」があり(第100回)、 この名前に、たたら製鉄との関わりが伺われる。
 一般にはタタラの語源は「まだはっきりしない」(日立金属HP内)と言われるが、 鉄の輸出地の地名「多多羅」が、製鉄技術を表す言葉となって伝わったことは十分あり得る。
《四村》
 原注は「四村」を二組載せるが、金官・多々良以外については具体的な位置を求めることは不可能であろう。 全体として慶尚南道の和系古墳が分布する範囲に大体重なっているだろうと想像するのが精いっぱいである。
《大意》
 この故、新羅は改めてその上臣(じょうしん)、伊叱夫礼智干岐(いしふれちかんき) 【新羅では、大臣のことを上臣という。 ある資料には、伊叱夫礼知奈未(いしふれちなみ)という。】を遣わして、 軍勢三千を率いてやって来て、詔勅を聞かしてもらうように要請しました。
 毛野臣は、遥かに兵仗〔武器〕をもって包囲しようとする軍勢数千人を見て、 熊川(くまなし)から任那の己叱己利城(こしこりじょう)に入りました。
 伊叱夫礼智干岐は、 多々羅(たたら)の原に移動して失礼にも軍勢を引かず、 待つこと三か月、何度も詔勅を聞くことを願いましたが、 毛野臣はとうとう宣べることに同意しませんでした。
 伊叱夫礼智が率いた士卒等は集落で食物を乞い、 毛野臣にお供していた河内の馬飼(まかい)の首(おびと)御狩(みかり)の目の前を横切り、 御狩は他人の家の門に入って隠れ、乞う人が通り過ぎるのを待ち、手を掴み、そして遙か離れたところで撃ちました。 乞う人は観察した様子を報告しました。
――「用心して三か月待ち、あちこちで勅旨を宣べないかどうかを聞きましたが、なお宣べる様子はありませんでした。 心配になって勅使の言動を忍び聞いたところ、つまりは欺いて上臣を誅殺しようとしていることが判りました。」
 こうして、見えたことをつぶさに上臣に報告しました。
 上臣は、四村 【金官(こんかん)、背伐(はいぼつ)、安多(あた)、委陀(いた)、これらを四村とする。 ある資料では、多多羅(たたら)、須那羅(なすら)、和多(わた)、費智(ひち)の四村をいう。】を掠奪し、 人、物をすべて持ち出し、本国に入りました。
 ある人は、 「多々羅など四村が掠奪されたのは、毛野臣の過失である。」といいました。
 九月、 巨勢男人大臣(こせのおひとのおおまえつきみ)が薨じました。


まとめ
 二十三年条は、基本的には百済、新羅が東西から加羅の領地を削り取っていった史実が土台になっていると見られる。
 書紀は、その間を縫って毛野臣が活躍したと描く。
 その中で、新羅の伊叱夫礼智が、天皇の詔を伝えようとしない毛野臣を大軍で包囲してプレッシャーをかけ、 無理やり詔を言わそうとしたというストーリーなどは荒唐無稽というほかはない。 新羅が加羅を攻撃するために、倭王の事前の許可を得る事など全く不要だからである。
 しかし、倭人が行かなかったわけではない。 百済・伽耶地域に倭系古墳が残ることを見れば、倭人が渡海していたこと自体は事実である。ただし、それは詔勅という国家意思によるものではなく、いくつかの氏族が自発的、分散的に行ったと見る方が自然であろう。 ただし、各氏族単独の勝手な武力侵攻は、継体天皇の頃には禁止されていたと見られる(二十一~二十二年)。 それでも加羅地域に居住した倭の一族が、加羅の構成員として新羅と戦ったことはあり得る。
 結局のところ、二十三年条は新羅・百済・伽耶国家群の動きに、近江毛野臣などに残る個別の記録や伝承を絡めて作られたストーリーだと思われる。 そこに、虚像としての倭の権威を我田引水的に散りばめたのである。
 そもそも書紀の文章自体が、それを厳密に読みさえすれば、倭の勅使が百済王・新羅王に下そうとした命令はことごとく無視され、政治的な影響力はほぼ皆無であったことが分かる。
 エピソードとして安羅の高殿への登殿が倭の勅使だけに許され、百済使が登殿できなかったことを悔しがる場面があるが、この程度のプチ自慢が精いっぱいなのである。 ただし、安羅は倭に友好的で、実際に高殿に招かれた記録があったのかも知れない。 安羅には、比較的有力な倭人の居住地があったことも考えられる。欽明天皇紀に「安羅日本府」が出てくるからである(資料[32])。
 さまざまな潤色はともかくとして、それでも書紀の二十三年条には重要な事柄を物語っている。それは、百済・新羅・加羅の国際政治に関する記述が再び充実してきていることである。 「任那」は継体紀に16箇所で出てきて、欽明天皇(133箇所)以前では最大である。
 継体天皇が山城国に都を置いたのは、難波津を手中に収めて交易を独占して得た富によって、国内の支配力を強めようとしたものと見た(第231回)。 交流は活発がなるに伴いさまざまな動きが伝わり、記紀に書かれた三韓の記事を増やし、内容も現実の歴史と比較的噛み合っている。 この記述の質・量の充実自体が、継体朝における半島との交流の活発化を示し、そこに最大の意義がある。



2019.10.08(tue) [17-06] 継体天皇6 


16目次 【二十四年】
《詔曰自磐余彥之帝水間城之王》
廿四年春二月丁未朔、
詔曰
「自磐余彥之帝水間城之王、
皆頼、博物之臣明哲之佐。
故、道臣陳謨而神日本以盛。
大彥申略而膽瓊殖用隆。
及乎繼體之君、欲立中興之功者、
曷嘗不頼賢哲之謨謀乎。
爰降小泊瀬天皇之王天下、
幸承前聖、
隆平日久、
俗漸蔽而不寤、
政浸衰而不改。
磐余彦之帝…いはれひこのすめらみこと〔神武天皇〕
水間城之王…みまきのすめらみこと〔崇神天皇〕。あえて「王」を用いたのは、修辞法的に磐余彦之「帝」と対応させるため。
博物…〈前田本〉「モノシレル大夫也明哲サカシキタスケ」。
道臣…神武天皇を助けて偉大なはたらきをした。 「勅誉日臣命曰:汝忠而且勇、加能有導之功。是以、改汝名道臣」 (第97回)。
神日本…「かむやまと」。記「神倭伊波礼毘古命」、書紀「神日本磐余彦天皇」(かむやまといはれひこ)〔神武天皇〕
大彦命…記は「大毘古命」。崇神朝で四道将軍の一人として北陸を制圧した(第113回)。
胆瓊殖…「いにゑ」。記に「御真木入日子印恵命」(みまきいりひこいにゑのみこと)〔崇神天皇〕。 稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣に「意富比垝」(資料[27])。
継体…〈前田本〉「継体オホト」。 〈釈紀〉「継体之君ヨヨノ代々也キミニアヒウクルキミニ私記説
中興…〈前田本〉「中興ナカコロオコル」。
…[副] なんぞ。疑問詞。
…[副] かつて。「曽」と同じ。
賢哲…〈前田本〉「賢招〔まねく〕
さかしきひと…(万)1725 古之 賢人之 遊兼 いにしへの さかしきひとの あそびけむ
小泊瀬天皇…武烈天皇。
…[副] さいわいにして。
…[動]〈前田本〉「クラ〔暗し〕。 (古訓) おほふ。かくす。
…[動] さめる。さとる。
…[副] ようやく。
二十四年(はたとしあまりよとし)春二月(きさらぎ)丁未(ひのとひつじ)の朔(つきたち)。
詔(みことのり)曰(のたま)はく
「磐余彦(いはれひこ)之(の)帝(すめらみこと、みかど)、水間城(みまき)之(の)王(すめらみこと、おほきみ)自(よ)り、
皆、博物之(ものしりし)臣(おみ)、明哲之(さかしき)佐(すけ)を頼(よ)りてあり。
故(かれ)、道臣(みちのおみ)謨(はかりごと)を陳(まを)して[而]神日本(かむやまと)以(もちゐ)て盛(さか)えり。
大彦(おほひこ)略(はかりごと)を申(まを)して[而]胆瓊殖(いにゑ)用(もちゐて)隆(さか)えり。
継体之(よよつぎし)君(きみ)乎(に)及びて、中興之(なかばにおこれる)功(いさみ)の者(ひと)を立てむと欲(おもほゆ)れば、
曷(なにそ)嘗(かつて)賢哲(さかしきひと)之(の)謨謀(はかりごと)に不頼(よらざる)か[乎]。
爰(ここに)小泊瀬天皇(をはつせのすめらみこと)之(の)王(きこしを)す天下(あめのした)に降(くだ)りて、
幸(さきはひにして)前(さき)の聖(ひじり)を承(うけたまは)りて、
隆(たか)く平(たひらか)なる日久しくありて、
俗(おほみたから)漸(やくやく)蔽(かく)りて[而]不寤(さめず)。
政(まつりごと)浸(やくやく)衰(おとろ)へて[而]不改(あらためず)。
但須其人各以類進。
有大略者不問其所短。
有高才者不非其所失。
故、獲奉宗廟不危社稷。
由是觀之、豈非明佐。
朕承帝業、於今廿四年。
天下淸泰。
內外無虞。
土地膏腴。
穀稼有實。
竊恐、元々由斯生俗藉此成驕。
故、令人舉廉節、
宣揚大道、流通鴻化。
能官之事、自古爲難。
爰曁朕身、豈不愼歟。」
所短…〈前田本〉「所短タラヌ」。
獲奉…〈前田本〉「獲奉タモチウケ」。
宗廟…〈前田本〉「家也」。
不危…〈前田本〉「〔あやぶめず〕
あやぶむ…[自]マ四 不安に思う。[他]マ下二 あやうくさせる。
社稷…〈前田本〉「社稷国也」。
…[動] おもんばかる。〈前田本〉「ウヘ〔ウ[レ]ヘ?〕
土地…〈前田本〉「土地ツチクレ」。
つちくれ…[名] 土のかたまり。
膏腴…〈汉典〉肥沃。
…[名] (古訓) もみ。こめのきぬ。〈前田本〉「穀稼タナツモノミ/ミノル」。
たなつもの…[名] 種籾。五穀。
…[動] 穀物をうえる。(古訓) うへ。たね。
元元…① 根本。② はじめをはじめとする。(古訓) はじめをはじめとし。
いく…[接頭] 名詞の前に置き、生き生きした意をこめてほめる。
…[動] かりる。〈前田本〉「りて〕
…[動] おごる。
大道流通鴻化能官之事…〈前田本〉「大道流通シキハキ鴻化オホクナルノリ官之ツカサメシスル〔大道、大き?なるのりを敷き掃き、よく司召しる事〕
しきはく…[他]カ四 「しく」〔いきわたらせる〕+「はく」〔領有する=うしはく)〕と見られる。古訓だが上代から使われたか。
…[名] けじめ。
廉節…〈汉典〉清廉的節操。〈前田本〉「廉節キヨクカタキヒトユツルコト」。
鴻化…〈汉典〉宏大的教化。旧時歌頌帝王的套語〔古くは賛歌において帝王のための決まり文句〕
難為…〈前田本〉「」〔かたきす〕。
…[動] およぶ。
但(ただ)須(かならず)其の人各(おのもおのも)類(にてある)を以ちて進めまつらしむべし。
大(おほき)略(はかりごと)の有る者(ひと)は、其の所短(みぢかき、たらざる)を不問(とはず)。
高(たかき)才(かど)の有る者(ひと)は、其の所失(あやまち)に不非(あらず)。
故(かれ)、宗廟(そうべう、いへ)を奉(たてま)つりて社稷(しやしよく、くに)を不危(あやぶめざる)ことを獲(う)。
由是(このゆゑに)之(こ)を観(み)ば、豈(あに)佐(すけ)を明(あき)らむこと非(あらざる)か。
朕(われ)帝業(あめのひつぎ、みかどのみわざ)を承(うけたま)はりて、[於]今に二十四年(はたとせあまりよとせ)。
天下(あめのした)清泰(すみてやすし)。
内外(うちそと)虞(うれへ)無し。
土地(つち)膏腴(ゆたか)なりて、
穀(たなつもの)稼(う)ゑて実(みのり)有り。
窃(ひそ)かに恐りたまふは、元元(もとより)、斯(これ)に由(よ)りて、俗(おほみたから)に生まむことは、此(これ)に藉(よ)りて、驕(おご)りを成すことなり。
故(かれ)、人をして挙(こぞ)りて廉節(つつし)ま令(し)めて、
大道(おほきみち)を宣(の)べ揚(あ)げて、鴻化(おほきをしへ)を流通(しきは)きせむ。
能(よ)く官(つかさ)する[之]事、古(いにしへ)自(よ)り難(かたき)と為(す)。
爰(ここに)朕身(わがみ)に曁(およ)びて、豈(あに)不慎歟(つつしまざるや)。」とのたまふ。
《継体》
 継体天皇の漢風諡号「継体」は平安時代に定められたとされる。 〈釈紀〉巻九-述義五に「神武天皇:私記曰。師説。神武等諡名者。淡海御船奉勅選也。」とある。 淡海三船〔722~785〕は、奈良時代後半の人。書紀の完成は720年だから、淡海が生まれるよりも前。 したがって〈前田本〉による「継体」の訓点「ヲホド」(男大迹天皇)は、時間を超越している。
 〈前田本〉は、巻頭の見出しを「男大迹天皇継軆天皇」としているが、写本の段階で加えたものであろう。
《欲立中興之功者曷嘗不頼賢哲之謨謀乎》
 「欲立中興之功者」は、「中興の功者を立てることが望まれるのにもかかわらず」であろう。 「〔=何そ〕は疑問詞、「」は「まったく~ない」、「」は疑問を込めた語気詞。 つまり、「賢哲之謨謀〔賢哲のはかりごとを頼る〕ことをなぜしなかったのかと問う。
 神武天皇には道臣、崇神天皇には大彦がはかりごとしたのに、それ以来「賢哲」はいなかった。 そして武烈朝に至り、ついに先祖代々の遺産を食いつぶし、民は姿を潜めて目を覚まさず、政は衰退にまかせて改めなかったと述べる。
 こう言われてしまっては、武烈天皇に仕えてきた大伴金村大連の面目は丸つぶれである。 暗に皮肉を込めているのだろう。
《王天下》
 「小泊瀬天皇之王天下」の意味は、「武烈天皇の統治した時代にくだ」だから、「王天下」は「治世」(をさめたまひしよ)の意味である。 訓読は、中世以後なら「王」の動詞化「王(きみ)す」(連体形はキミスル)でよいが、万葉集にはキミスという使い方は見えない。 一方「天下」については、は「○○天皇の御世」の意味で使うときもアメノシタと訓読して差し支えないと思われる。「倒置する」意味の語が天下を連体修飾する例は、 「(万)0036 吾大王之 所聞食 天下尓 わごおほきみの きこしをす あめのしたに」があるので、 これに倣って「きこしをす」を用いれば安全である。
《有大略者不問其所短有高才者不非其所失》
 「大略者不其所レ一短。有高才者不其所レ一」。
 ただ、道臣や大彦のような補佐はもう出ないだろうから、 これからの世は「大局的な構想力のある者は短所を不問とし、高度な才能ある者には失敗には目をつぶって」、集団のパワーを結集していくことを宣言するのである。
 これは、漢文訓読教材の見本のような文章なので、ひょっとしたらと思って漢籍に類例を検索したところ、『芸文類聚』〔唐-624〕巻五十二「論政」に、 「有大略者不問其所短。有徳厚者不非其小疵。〔大略ある者はその短き所を問はず、徳厚き者はその小さな疵(きず)は非ず〕があった。 継体天皇が人材に求めたのが、徳よりも才能であったところが興味深い。
《窃恐元々由斯生俗藉此成驕》
 最初の「」は副詞「ひそかに」。自分個人の意見を控えめに陳述するときにも使う。 ここでは天皇の詔だから誰に遜る必要もないのだが、それでも人民のよくないことに言及するときは遠慮するのだろう。
 「」は一文字だけでも成り立ち(「もとより」)、モトを重ねたモトモトは倭語だから本当に漢語だろうかと思ったが、調べてみると「元元」はれっきとした漢熟語として存在した。 意味は「元」の強調、または「元に遡る」である。
 さて、「由斯」以下は分かりにくい。。
 文脈で見ると「」は前文「作物が豊かに稔る」を受け、後文は「人挙廉節〔人をこぞって廉節(謙虚)にせしめよ〕だから、 文意は確実に「おごるようになる〕ことを警戒する」である。
 生俗が目立つので、「生民」〔=人民〕と同じ意味の熟語かと思ったが、漢籍でそのような用例はなかなか見つからない。
 しかし「由斯生俗」と「藉此成驕」とを対句として見ると、うまく読める。 「」は余り見ない語だが、「」と同じく「これによって」である。 すると「」は「成驕」に対応するから、「俗を生む」であった。 「」そのものは必ずしも悪い意味の語ではないが、 ここでは「」に対応するから「卑俗」「俗悪」の類であろう。
 ただ、たったそれだけの意味なら「因之生驕」だけで充分言い尽くせることだから、 やはり「民」の意が「俗」の字に込められているのではないかという疑問は拭えない。 ひょっとしたら「生俗成驕〔俗(世俗の人)に驕りを成すことを生む〕を二つに分割して、それぞれに「因之」をつけて形式を整えたとは考えられないだろうか。
 〈前田本〉の「窃恐元御財由斯」の「御財」(オホムタカラ)は、 本来どの字につくべきものかは不明なのだが、「俗」に「人民」の意味を感じ取ったようにも思える。 ただし、これについては他の写本で「恐元」が「黎元」と読み取られた結果という可能性もある〔黎元元=「おほみたから、もとより」と訓む〕
《大意》
 二十四年二月一日、 詔を発せられました。
――磐余彦(いわれひこ)帝〔神武天皇〕、水間城(みまき)王〔崇神天皇〕以来、 皆、博物の臣(おみ)、明哲の佐(すけ)を頼った。
 ちなみに、道臣(みちのおみ)は謨〔=策〕を陳(もう)して、故に神日本(かむやまと)〔神武天皇〕は隆盛であった。 大彦(おおひこ)は略〔=策〕を申して、故に胆瓊殖(いにえ)〔崇神天皇〕は隆盛であった。 世を継ぐ君に及んでも、中興の功者を立てようと欲したのであり、 かつて賢哲の謨謀〔=策〕に頼らなかったことがあろうか。〔だが中興の功者は遂に現れなかった。〕
 そして、小泊瀬天皇(おはつせのすめらみこと)〔武烈天皇〕が天下を知ろしめる時代に降り、 幸いにして前代までは聖を継承し、 隆平な日が久しく続いていたが、 俗は漸(ようやく)〔=徐々に〕翳ったことに、目を覚まさず、 政は浸(ようやく)〔=次第に〕衰えたことを、改めなかった。
 しかし、必ず人はそれぞれが同類であり、〔その力を結集して〕ことを進めるべきである。
 大略〔=構想力〕のある者は、その短所を問わない。
 高才〔=才能〕のある者は、その失敗を咎めない。
 こうしてこそ、宗廟(そうびょう)を奉斎し、社稷(しゃしょく)を危ぶませずにことをなすことができる。
 よって、これを見れば、〔新しい時代の〕補佐のやり方が明らかでないことがあろうか。
 朕が帝業を承って二十四年、 天下清泰(せいたい)〔=清らかで安泰〕、 内外に虞(おそれ)〔=憂い〕無く、 土地は膏腴〔=豊穣〕、 穀稼〔=穀物の栽培〕に実りあることとなった。
 密かに恐れるのは、元来このような場合は、俗人は驕りを成しやすいことである。 よって、人を挙(こぞ)って廉節〔=謙虚〕に導き、 大道を宣揚し〔=高く掲げて〕、鴻化〔=偉大な教え〕を広めたい。
 能力をもって司るのは、古(いにしえ)より難いことである。 ここに朕自身に及び、豈(あに)慎まざることがあろうか。


【二十四年(2)】
《任那使奏云毛野臣遂於久斯牟羅起造舍宅》
秋九月、
任那使奏云
「毛野臣、遂於久斯牟羅起造舍宅、
淹留二歲
【一本云三歲者、連去來歲數也】、
懶聽政焉。
爰以日本人與任那人頻以兒息、
諍訟難決、元無能判。
毛野臣、樂置誓湯曰、
『實者不爛、虛者必爛。』
是以、投湯爛死者衆。
又、殺吉備韓子那多利斯布利
【大日本人娶蕃女所生、爲韓子也】、
恆惱人民、終無和解。」
久斯牟羅…毛野臣が二十三年四月にやって来たときに「一本曰」として久斯牟羅に滞在した。(二十三年四月)。
…[動] おこたる。いとう。(古訓) おこたる。
諍訟…〈前田本〉「諍訟アラカフコト」。
…[動] 愛好する。〈前田本〉「コノミ」。
無能判…〈前田本〉「コトワル」。
ことわる…[他]ラ四 〈時代別上代〉(ことわり[名]の項に)動詞コトワルは古訓に例が見られる。
…[動] (古訓) たた〔ダ〕る。ゆるふ。〈前田本〉「タゝレ/クタレ」。 〈時代別上代〉はタダル・タダレは見出し語に立てず、派生語タダレメ(爛れ目)のみを挙げる。
…[動] 投ずる。手渡す。手放す。とどまる。〈前田本〉「入也」。 「投」の意味から見て「入る」は不適切。「なげいる」ならあり得るだろう。
…[形] 数がおおい。(古訓) あまた。もろもろ。
爛死者衆…〈釈紀〉「爛死者タゝレルモノ衆。【御読不死字。】〔御読〔みよみ;天皇御前の講読〕に"死"の字を読むべからず〕
からこ…[名] 〈時代別上代〉には見出し語も言及もない。この語はこの箇所に見えるのみ。
韓子…中国では韓非子(人名)のこと。
那多利斯布利…〈釈紀〉那多利ナタリ斯布利シフリ。【吉備韓子キヒノカラコ名。】
秋九月(ながつき)、
任那使(みまなのつかひ)奏(まをして)云(まを)さく
「毛野臣(けなのおみ、けのおみ)、遂(つひ)に[於]久斯牟羅舎宅(いへ)を造り起(おこ)して、
淹留(とどまること)二歳(ふたとせ)
【一本(あるふみ)に三歳(みとせ)と云ふ者(は)、去(さ)り来(きた)る歳を連(つら)ねし数(かず)也(なり)】、
政(まつりごと)を聞くを懶(おこた)る[焉]。
爰(ここに)日本人(やまとのひと)与(と)任那人(みまなのひと)を以(も)ちて頻(しばしば)児息(こ)を以ちて、
諍訟(あらがふこと)決め難(かた)くありて、元(もとより)無能判(ことわくことあたはず)。
毛野臣、楽(このみて)誓湯(くかたち)を置きて曰(い)はく、
『実(まこと)なる者(は)不爛(ただれずあ)らむ、虚(いつはり)なる者(は)必ず爛(ただ)れむ。』といひて、
是(こ)を以ちて、湯に投げて爛(ただ)れて死ぬる者(もの)衆(あまた)あり。
又、吉備韓子(きびのからこ)、那多利(なたり)、斯布利(しふり)
【大日本(おほやまとの)人の蕃(から)の女(むすめ)を娶(めあは)せて所生(うまえしこ)を、韓子(からこ)と為(す)[也]。】を殺して、
恒(つね)に人民(たみ)を悩(わづらは)して、終(つひに)和解(あまなふこと)無し。」とまをす。
於是、天皇聞其行狀、
遣人徵入。
而不肯來。
顧以河內母樹馬飼首御狩奉詣於京而奏曰
「臣、未成勅旨。
還入亰鄕、勞往虛歸慙恧安措。
伏願、陛下、待成國命入朝謝罪。」
奉使之後、更自謨曰
「其調吉士、亦是皇華之使。
若先吾取歸、
依實奏聞、吾之罪過必應重矣。」
乃遣調吉士、率衆守伊斯枳牟羅城。
行状…〈前田本〉「行状アルカタチヲ」。
…〈前田本〉「シノヒ」。
…[動] (古訓) うけたまはる。
母樹…〈前田本〉「母樹オモノキ」。
労往虚帰…〈釈紀〉労往虚帰ネキラヘツレテムナシクカヘルナリ
…[動] (古訓) ねきらふ。たしなふ。いたはし。
いとほし…[形]シク 他の人に対しては「気の毒」、自分に対しては「つらい」。
…[動] はじる。(古訓) うれふ。
慙恧…はじて、気が滅入る。〈釈紀〉慙悪安措ハツカシクオモナイコトナラン
…[副] (疑問詞) いづく(何処)に。(反語) いづくんぞ。
…[動] おく。
調…[動] (古訓) しらへ。ととのふ。
京郷…漢籍にこの熟語なし。〈前田本〉京郷ミヤコ
…本来は京の対立概念(鄙に類する)。「京郷」は都の郊外、または国外いるが故の郷愁を込めたか。
国命…〈前田本〉「国命オホムミコト」。
伊斯枳牟羅城…〈釈紀〉伊斯枳イシキ牟羅城ムラノサシヲ
於是(ここに)、天皇(すめらみこと)其の行状(ふるまひ)を聞こして、
人を遣はして徴(め)し入れしめたまひき。
而(しかれども)来(きたること)不肯(うべなはざりき)。
顧(かへ)りて、河内(かふち)の母樹(おものき)の馬飼首(まかひのおびと)御狩(みかり)を以ちて、[於]京(みやこ)に奉詣(まゐでまつ)らしめて[而]奏(まを)さしめて曰(まをさく)
「臣(やつかれ)、未(いまだ)勅旨(みことのり、みことのりのむね)成らず。
京(みやこ)の郷(さと)に還(かへ)り入るは、労(ねぎらはえ)て往(ゆ)きて虚(むなしく)帰(かへ)ることとなりて、慙恧(はぢうれ)へて安(いづく)にそ措(お)かむ。
伏し願はくは、陛下(おほきみ)、国の命(おほみこと)成りて朝(みかど)に入りて罪を謝(むくゆる)を待ちたまへ。」とまをしき。
使(つかひ)を奉(うけたまは)りし[之]後(のち)に、更に自(みづから)謨(はか)りて曰(まを)ししく
「其(それ)調吉士(つきのきし)、亦(また)是(これ)皇華(すめらみやこ)之(の)使(つかひ)なり。
若(もし)吾(われ)より先(さき)に取り帰(かへ)りて、
実(まこと)の依(まにまに)奏聞(きこしめしまつ)りしかば、吾之(わが)罪過(とが)必(かならず)や重かる応(べ)からまし[矣]。」とまをしき。
乃(すなはち)調吉士を遣はして、衆(いくさびと)を率(ゐ)しめて伊斯枳牟羅(いしきむら)の城(き、さし)を守(も)らしめたまひき。
《懶聞政》
 加羅・百済の地域で、渡海した倭人と現地人との間に子が生まれることは、確かにあったと見られる。 継体二年十二月に、「-出在任那日本県邑百済百姓、浮逃絶貫三四世者、 並遷百済貫也。〔任那の県邑(倭人居住地)で、倭人の三世四世の子孫を自称する百済人は、一括して百済の戸籍に移せ〕と命じている(継体二年十二月)。
 これを見ると、屯倉の倭人の純潔化のための取り締まりが、時折あったのだろうと推察される。
 ここではその史実を材料として、その対応を極端化して毛野臣の暴政を際立たせたのであろう。 この逸話の作り方は、武烈天皇が暴虐の限りを尽くしたかの如く描いたことを想起させる。
 毛野臣が「聞政」したとされるのは「任那」の「久斯牟羅」においてであるが、裁判権を行使し軍勢を動員したと描かれているから、ミニ国家クラスの規模はあったことになる。 そこは、倭人と現地人の混在が目立つ地域でもあったようだ。
 地名「久斯牟羅」は二十三年四月にもでてきた。伽耶国家群内の一地域だと思われるが、具体的には不明である。
《聞政》
 「聞政」なる表現は飯豊女王以来である(第212回)。 聞政の意味は〈学研新漢和〉には「政治のことにたずさわる」とあるが、 〈中国哲学書電子化計画〉の検索では多くは「聞政事」で、政治の事について相談に乗る意味である。一方「」一文字で政治を表した例はほとんど見ない。 書紀における「聞政」では、相談役というよりは自ら統治している。これは「天皇」あるいは「王」が行うべき正規の統治から、区別したい気持ちの表れなのかも知れない。
《顧以河内母樹馬飼首御狩奉詣於京》
 「顧以河内母樹馬飼首御狩奉詣於京」は、「」の位置に「」があるのがよく見る形で、それなら使役文である。 ここには「」も「使」もないが、使役文として読むべきだと思われる。
 文頭の「」を、「かへりみて」と訓むと意味が通らない。 しかし、「」には「〔かへって〕という意味もあり、これを用いた使役文と見れば 「帰還せよとの命令を拒否し、却って御狩に奏言を伝えさせた」となり、意味は通る。 それなら「臣未成勅旨…」は、毛野臣自身からの上表ということになる。
 その毛野臣の上表は「国命」を果たさないままで虚しく帰ることはできないというものであるが、これは偽りである。 実際には毛野臣はとっくに勅命伝達の任務を放棄して、ミニ国家の王として暴政をほしいままにしている。
《労往虚帰慙恧安措》
 「虚帰〔むなしくかへる〕とは、毛野臣が未だ任務〔新羅に加羅への侵攻をやめさせること〕を果たせていないのに、帰ったことを指す。 そして「慙恧安措〔この恥ずかしさは、どこに身を置いたらよいだろうか〕と言って詫びる。
 その前の「労往」が問題で、これを「ねぎらひゆく」と訓んでしまうと、自分でいうべき言葉ではないから不適切である。
 しかし、出発のときには朝廷から「ご苦労様です。宜しくお願いします。」と労われて送り出されただろうから、何ら成果なしに帰るのでは恥ずかしいと言うのは理にかなっている。 したがって、ここは他動詞「ねぎらふ」(四段)の受身として読むべきであろう。
《奉使之後更自謨曰》
 次の「更自謨さらにみづからはかりて曰…」を、毛野臣の言葉の続きとして読むとおかしなことになる。 その語の経過を見れば、調吉士は毛野臣が「為人傲佷」だと復命しているからである。 毛野臣の罪を調べるための使者を派遣せよと、毛野臣が自分で提案するわけがない。
 一人称代名詞が「」から「」に切り替わっていることにも留意すべきである。
 つまりは、調吉士を派遣すべしという提案は、御狩の独自判断である。
 よって「奉使之後」とは、「毛野臣より使者を承(たてまつ)りし〔=役割を果たした〕後」すなわち「毛野臣の上表を朗読した後に」を意味し、 「更自謨曰」は「改めて自分の考えで次のことを提案した」という意味となる。
 「更自謨曰」はまだよいとして、「奉使之後」は言葉を圧縮しすぎてあまりにも無体である。 本来は「其御狩伝毛野臣之上表之後」などと書かれるべきものであろう。
《河内母樹》
水走家墓塔 『水走文書』より 枚岡神社
 神宮寺感応院(大阪府八尾市恩智中町5丁目14)の辺りの古い地名が、母木の里だという。 同書に八尾市教育委員会が設置した碑文には、感応院は 「天川山感応院と称し真言宗神谷さん普門院末古くは恩地神社の神宮寺として神社の境内にあった。 本尊の十一面観音像は国の重要文化財」とある。
 その十一面観音像は「八尾市観光データベース」によれば、 「木造十一面観音像:神宮寺感応院のある恩智地域が古くは母木(おものぎ)の里といわれていたことから、 本像は俗に母木観音と呼ばれてい」るという。
 現在「母木」の地名は、母木橋(おものきばし、大阪府八尾市恩智中町1丁目62付近)に見える。
 これとは別に、「母木寺」が枚岡神社の近くにあったとされる。
 『枚岡市史』〔枚岡市史編纂委員会;1967〕の第2巻の「記録・文書資料」に『水走文書』が収められている。
 水走(みずはや)氏は、「河内国河内郡・若江郡・茨田郡に諸領・諸職を領有した土豪で、とくに枚岡神社に奉仕した」(同書p.388)という。 そこに収められたいくつかの文書資料に「母木寺」が見える。そのうち「藤原康高譲状写」(建長四年〔1252〕六月三日)(同書p.402)から、 主な項目名だけを拾うと、「屋敷一所。大江御厨山本河俣両執当職。以南惣長者職。松武庄下司職。 旁公券証文。母木寺本免下司職。国衙図師。枚岡社務。豊浦郷公文職。林四所。水走所領壱所。諸寺俗別当職。」とある。
 付された「解題」には、「山本は八尾市に、河俣は布施市に現在それぞれ地名を残している」 「松武庄はその所在・領家は不詳であるが、母木寺は豊浦にあった」とある。
 枚岡神社は東大阪市出雲井町7番16号、水走家墓塔は、東大阪市五条町6-17付近。  現在の豊浦町は枚岡神社の北にあたり、古くは〈倭名類聚抄〉{河内国・河内郡・豊浦}とある。
古墳時代の河内湖と母樹村候補地
『遺跡を学ぶ95-難波宮』(新泉社)p.19の図から作成。
 このように、母木邑に位置については二説が見える。両者の折り合いをつけるためには、豊浦郷にあった母木寺の寺領が感応院地域にあったとすれば、 一応統一的に理解することができる。「山本」「河俣」から水走氏の所領は、広い地域に分散して存在していたことが読み取れるからである。
 ここで、神武天皇即位前紀を思い出してみよう。そこには、「母樹」の地名由来譚があった(第96回書紀<14>)。
――「初、孔舍衞之戦、有人隠於大樹而得免難、仍指其樹曰恩如母。時人因、号其地曰母木邑、今云飫悶廼奇訛也。〔初め孔舎衛(くさかゑ)の戦ひに、人有りて大樹に隠りて難(かた)きをえ免(まぬ)がる。すなはち其の樹を指して曰へらく「恩(めぐみ)母(おも)の如し」といへり。 時の人、因りてその地を号(なづ)けて母木邑(おもきむら)と曰ひて、今に飫悶廼奇(おものき)と云ふは訛(よこなまり)なり〕
 この話が孔舎衛(日下、草香江付近)のところに出てくることを思えれば、「母の木」は豊浦にあったと考えた方が自然である。
《調吉士》
 〈前田本〉の「調」に訓がないのは、その訓が当時常識的であったか、訓が全く不明であったかのどちらかである。 ヲコト点によってノが入る(「調ノ吉士」)ことから、「調」は訓読みだったことが伺われる。
 〈姓氏家系大辞典〉には、 「調 ツキ ミツキ シラ ベデウ: 古代、租税の徴収に当りし、その職名を使命とせし也。」 「調吉士: 百済より帰化せし人の跡なれど、 更に根源に遡れば、周人族〔周は中国古代王朝〕と伝ふ。古代・収税の事に当りし氏にて、応神朝帰化せし努理使主の後也。」とある。
 「つき(調)」は、〈時代別上代〉「田などの収穫物を納める租、及び織物などの工作物を納める調を一括した名称」とされる。 「調」の訓ツキについては、〈倭名類聚抄〉「調布【調布読豆岐乃沼能】〔つきのぬの〕。」がある。 ツキの神話的な起源として、崇神天皇紀に「初令男弓端之調、女手末之調〔はじめて男の(弓端)の調(つき、みつき)、女の手末(たなすゑ)の調を貢がしむ〕とある(第115回)。 ※…ミは美称の接頭語。
 〈新撰姓氏録〉(第三帙-諸蕃・未定雑姓)には、 〖百済/調連/誉田天皇〔応神〕御世。帰化。孫阿久太男弥和。次賀夜。次麻利弥和。弘計天皇〔顕宗〕御世。蚕織献絁絹之様。仍賜調首姓とある。 この始祖伝説は、応神朝に秦氏の祖先が帰化し、雄略朝のとき太秦公宿祢が天皇に養蚕織絹を献上した伝説(第152回)の類型と言える。
 古墳時代のある時期に、朝鮮半島から養蚕技術をもって、いくつかの氏族が渡来した(その時期は、伝説的には応神朝と規定されている)。 その大量の良質な絹製品を調(つき)として献上したことが、氏族名「調連」の由来として伝わっているわけである。 あるいは、同様に渡来した諸族から調を集める役割を担っていたことによって、特に「調」の名で呼ばれたことも考えられる。
 なお、「吉士(きし)」は新羅の官位に由来し、渡来人の姓(かばね)に転じた(第143回)。 調連は応神朝に帰化したという始祖伝説をもつから、調連(調首)が同時に姓(かばね)「吉士」を維持してきたことも考え得る。
《若先吾取帰依実奏聞吾之罪過必応重矣》
 〈前田本〉を見ると、この箇所の訓点は比較的判り易く、次のようになっている。
――「先吾取帰ワレヨリサイタチテカヘリママニ アル奏-聞、吾之罪-過必応重矣オモカラムモノソ〔若〔もし〕吾(ワレ)ヨリ先(サイ)取帰(タチカヘ)リ、実〔まこと〕アル依(ママ)に奉聞〔たてまつりてきこしめ〕〔さば?〕吾之罪過〔わがとが〕応重(オモカラムモノゾ)〕。 句読点は、朱書の訓点による。 「応」は、推量の助動詞「まさに~すべし」。「応重」に、これをそのまま用いて「[オモシの未然形]おもから+[推量の助動詞]む」と訓んでいる。
 実際、文法に従って読めば「若先吾取帰依実奏聞、吾之罪過必応重矣〔もし吾より先に取り帰りて実(まこと)に依りて奏聞せば、吾が罪過必ず重くあるべし (もし調吉士が私より先に真実を得て帰り、それを報告すれば、私の失敗は重いものとなろう)〕となり、概ね〈前田本〉の訓点通りである。
 それでは「吾之罪過」とは何だろうか。 御狩は、毛野臣の奏上を伝えはしたが、それが全くの偽りであることは承知していただろう。 よって毛野臣の蛮行を止められなかったこと、若しくはもっと早く報告しなかったことのどちらかが「わが罪過」となるが、 恐らくその両方であろう。
 そして調吉士が真実を報告して毛野臣の罪が確定すれば、自分も罪を負うことになる。 「更自謨」とは、「調吉士を使者に立てたらよい」とする御狩のアイディアである。 その進言の言葉は「其調吉士亦是皇華之使」である。 この文自体は文法的に見ると「The 調吉士(Tsuki-kishi) is another 皇華之使(messenger of the Emperor).」で命令形ではなく単に事実の陳述である。 つまり、「調吉士は立派な使者である」という客観的事実と、 「もし調吉士が使者として派遣されれば」と仮定形に留める。 一介の臣下が天皇に、調吉士を遣わせと勧めるのは越権行為だからである。
《若先吾取帰》
 「」については、論理的には「私を先ず詰問使として派遣してください。次に調吉士を派遣してください」となるが、 実際に御狩を詰問使としてして再派遣することはあり得ないから、不自然である。単なる言葉の彩か。
 ただし、反実仮想〔確定した事実がなかったこととする仮定〕という見方もできる。つまり、「御狩がまだ現地に滞在している間に調吉士が派遣され、御狩より先に帰って真相を報告していたとしたら」と読む。 この場合「若先吾取帰」は「もし吾より先に取り帰りませば」、「応重」は「おもかるべからまし」となる。
《大意》
 九月、 任那使が奏上して 「毛野臣(けなのおみ、けのおみ)は、遂に久斯牟羅(くしむら)に邸宅を作り、 居住して二年になりますが 【ある出典で三年というのは、行き来した年の通算である】、 政(まつりごと)に与るのを怠っています。 今、倭人と任那人との間でしばしば子を作り、 争いごとがあっても決定し難く、もともと判断は不可能です。 毛野臣は、好んで盟神探湯(くがたち)を置き、 『真実をいう者は火傷せず、虚偽をいう者は必ず火傷する。』と言って、 これにより、湯に投入して火傷で死ぬ者が多数おります。 また、吉備の韓子(からこ)、那多利(なたり)と斯布利(しふり) 【大倭(おおやまと)の人が韓(から)の女を娶って生まれた子を韓子という。】を殺して、 恒に人民を悩ませ、遂に心を和らげることはありません。」と申し上げました。
 そこで、天皇(すめらみこと)はその行状をお聞きになり、 人を遣わして帰国を命じました。 けれども、帰朝を受け入れず、 かえって河内(かわち)の母樹(おものき)の馬飼首(まかいのおびと)御狩(みかり)を都に参らせ奏上させ、 「臣は未だ勅旨を成し得ずにいます。 このまま京の郷に還ってしまえば、苦労して行き虚しく帰ることになり、恥じ憂えて身の置きどころもありません。 伏し願わくば陛下、国の命を成し遂げ、朝廷に入り罪を負うまでお待ちください。」と奏上しました。
 御狩は〔こう奏上して〕使者の役割を終えたところで、更に自ら提案し、 「さて調吉士(つきのきし)もまた、皇華〔朝廷のある花の都〕の使者に相応しい者です。 もし、私〔が帰る〕より先に〔遣わされて〕帰り、 真実に依って奏聞〔=報告〕していたら、私の罪過は必ずや重くあるべきものだったでしょう。」と申し上げました。
 こうして調吉士を遣わして、軍衆を率いさせて伊斯枳牟羅(いしきむら)の城を守らせました。


【二十四年(3)】
《阿利斯等頻勸歸朝尚不聽還》
於是、阿利斯等、知其細碎、
爲事不務所期、頻勸歸朝、
尚不聽還。
由是、悉知行迹、心生飜背。
乃遣久禮斯己母使于新羅請兵、
奴須久利使于百濟請兵。
細砕…①こまかくくだく。②こまごましていて煩わしい。(古訓) くたくたし。 〈前田本〉「知其細砕為事クハシクゝタクタシキ ワサト」 〔其の細(くは)しく砕(くだくだしき)を知り、為(わざ)と事〕。
くはし…[形]シク こまやかにうるわしい。上代は美しい意を伴う。
…[動] 予定する。(古訓) 心さす。〈前田本〉「チキシ〔ちりし?〕
勧帰朝…〈前田本〉「 トモ帰朝カヘリマテネト」。 〔かへりまてね〔マヰデ?〕とすすむれども〕
行迹…〈前田本〉「行迹アルカタチ」。
…(古訓) うむ。おこす。
久礼斯己母…〈釈紀〉久礼斯己母クレシコモ
奴須久利…〈釈紀〉須久利スクリ
於是(ここに)、阿利斯等(ありしと)、其の細砕(つばひらけき)を知りて、
為(せ)し事所期(ちぎりしこと)を不務(つとめざ)りて、頻(しばしば)帰朝(かへりまゐで)と勧(すす)むれど、
尚(なほ)不聴還(かへることをきかず)。
是(こ)に由(よ)りて、悉(ことごとに)行迹(ふるまひ)を知りて、心に飜(ひるがへ)りて背(そむ)かむとせしを生(おこ)して、
乃(すなはち)久礼斯己母(くれしこも)を遣はして[于]新羅(しらき)に兵(つはもの)を請(こ)は使(し)め、
奴須久利(ぬすくり)をして[于]百済(くたら)に兵を請は使めき。

毛野臣、聞百濟兵來、
迎討背評
【背評地名、亦名能備己富里也】、
傷死者半。
百濟、則捉奴須久利、
扨械枷鏁而共新羅圍城、
責罵阿利斯等曰可出毛々野々臣々、
嬰城自固、勢不可擒。
於是、二國圖度便地、淹留弦晦、
筑城而還、號曰久禮牟羅城。
還時觸路、
拔騰利枳牟羅布那牟羅牟雌枳牟羅
阿夫羅久知波多枳、五城。
背評…〈釈紀〉背評ヘコホリ。【能備己富里也ノヒコホリ。】
扨械枷鏁…「〈前田本〉アシカシ-テカシ クヒカシ-カナツカリ」。 〈釈紀〉アシカシ テカシ クヒカシ カナツカリシテ
…〈岩波文庫版〉「杻」。
かし…[名] 木に穴をあけて首や手足を入れ、その自由を束縛する懲罰の道具。
嬰城…城壁をめぐらして、その中にたてこもる。
…(古訓) めくらす。
…[動] いけどりにする。
いけどり…[名] 生け捕り。
便…[形] (古訓) たやすく。
久礼牟羅城…〈釈紀〉久礼牟羅城クラムラノサシ
触路…〈前田本〉「触路ミチナラシ」。 〈釈紀〉触路ミチ■ラシニ〔ミチナラシニ〕
騰利枳牟羅…〈釈紀〉騰利枳牟羅トリキムラ布那牟羅フナムラ牟雌枳牟羅ムシキムラ阿夫羅アフラ久知波多枳クチハタキ。【五城。】
五城…伽耶から百済、あるいは伽耶から新羅の道沿いの城であるはずだが、その位置を特定するのは不可能と思われる。
毛野臣、百済の兵(つはもの)来たりと聞きて、
背評(のびこほり、へこほり)に迎へ討ちて
【背評は地名(ところのな)、亦の名は能備己富里(のびこほり)也(なり)】、
傷(きず)をおへるもの死(しぬる)者(もの)半(なかば)。
百済、則(すなはち)奴須久利(ぬすくり)を捉へて、
杻(てかし)械(あしかし)枷(くびかし)鎖(くさり)して[而]新羅と共に城(き)を囲(かく)みて、
阿利斯等を責め罵(の)りて曰はく「毛野臣を出(い)づ可(べ)し」といひき。
毛野臣、城(き)を嬰(めぐ)らして自(みづから)固めて、勢(いきほひ)に不可擒(いけどりすべからじ)。
於是(ここに)、二(ふたつの)国便(たやす)き地(ところ)を度(わた)らむと図りて、淹留(とどまる)は弦晦(よつにあかちしつき)〔四半月〕
城(き)を筑(つ)きて[而]還(かへ)りて、号(なづけて)久礼牟羅(くれむら)の城(き、さし)と曰ふ。
還(かへ)りし時路(みち)に触(ふ)れて、
騰利枳牟羅(とりきむら)布那牟羅(ふなむら)牟雌枳牟羅(むしきむら)
阿夫羅(あぶら)久知波多枳(くちはたき)の、五城(いつのき)を抜けり。
《不務所期》
 もともと毛野臣は、加羅の要請によって派遣されたのであった(二十三年四月)。その要請とは、阿利斯等が来朝して加羅の領土への新羅の侵略を止めさせてほしいと言ったことである。 ところが、肝心の勅を新羅に伝えることを怠り、小領主となってもう二年間も久斯牟羅を支配している。
 これをもって、「所期」というのである。
《悉知行迹心生飜背》
 文章の流れから見れば、「心に叛意を生じた」のは阿利斯等である。 しかし、もともと阿利斯等は加羅の王族、もしくは任那王で毛野臣の家来ではないので、この言葉には違和感を感じる。 そこで、阿利斯等の毛野臣に対する叛意〈〉ではなく、 毛野臣の朝廷に対する叛意〈〉の可能性はないだろうか。
 仮に「行迹心生飜背」が「」の目的語だとすれば、となるが、「悉知行迹」「心生飜背」は共に「連用修飾語・動詞・目的語(二文字)」の形で対になっているから、この読み方には無理がある。 すると、「悉知行迹」も、新羅・百済に援軍を要請したのも阿利斯等だから、挟まれた「心生飜背」の主語も阿利斯等で、 であることが確定する。
 それでは、阿利斯等が毛野臣の家来でもないのに「心生飜背」と書かれた理由は何であろうか。 恐らくは、書紀作者の頭の中は「任那は倭の属国だから、任那の臣である阿利斯等は、倭から遣わされた毛野臣に対しても無条件で従属する立場である」 という観念に支配されていたからであろう。
《背評》
 かつて「郡評論争」(「評」の表記が「郡」に代わった時期が議論された)があったが、木簡の解読によりコホリは701年以前は「」であったことが確定した (景行天皇紀2)。 コホリについては、〈時代別上代〉「コホリは朝鮮語に由来するらしい」という。
 〈釈紀〉がと訓むのは音仮名によったと思われる。 〈釈紀〉は、朝鮮の地名として知られていた金官、肖伐、南(アリシノ)、川(ナレ)、嶋(セマ)などを除けば、全般に倭の音仮名を用いて訓んだと思われる。
 したがって、原注の「能備己富里」とは、もともと「背評」のよみを説明したものである可能性がある。
《責罵阿利斯等》
 阿利斯等は毛野臣と戦うために百済に援軍を要請し、百済軍はそれに応えてやってきたはずだが、使者は罪人の如く「」へられ、 阿利斯等を「のの」しって、さっさと毛野臣を差し出せと要求する。この冷淡さは何だろうか。
 百済側は阿利斯等は毛野臣に仕える人物であると決めつけていて、 阿利斯等の使者が来ても相手にせず、 ただ毛野臣と阿利斯等との内紛に付け込んで、攻め取ってやろうという感覚だったと解釈するほかはない。
《弦晦》
:新月 :満月
 〈百度百科〉の説明は、「農暦毎月的初七・八、廿二・三(弦日)和月終(晦日)。借指歳月。〔太陰暦で月初めの7~8日、22~23日から晦日まで。「歳月」の意味で使う場合もある〕
 は上弦・下弦の月、晦日みそかだから、基本的には下弦から晦日までの期間である。 その裏返しの朔日から上弦までの期間にも拡張される。天文学的には、四分の一か月(平均7.38日)となる。 理屈の上では「朔弦」という語も考えられるが、そのような言葉は存在しない。
 の原義は弓に張った糸で、その形から月の欠けた部分との境界が直線となる月を「弦月」と表現する。 「弦晦」を何度も繰り返すことによって、「数か月」という意味も派生したのだろう。したがって、時間経過の量としては7~8日、または数か月以上となろう。
 〈前田本〉は「弦晦一月二十又 ミマノツキ」。 そして〈釈紀〉は「弦晦ヒトツキニナリヌ」。 〈釈紀〉は〈前田本〉の「二十又」を「ニナリヌ」の誤写と見たか。ミマは謎である。 〈前田本〉〈釈紀〉ともに、「弦晦」の本来の意味を理解していないか、または大幅に意訳していると見られる。 かと言って、上代語に「四半月」をうまく表す言葉を探すのも至難の業である。
《杻械枷鏁》
 漢籍を探すと、『太平広記』〔北宋(977~984)の類書〕-「報応八法華経/李山龍」に 「庭前有數千囚人。枷鏁杻械。」がある。
 意味は、 「枷鎖:首枷(くびかせ)と鎖。囚人の自由を奪う道具。 杻械:てかせとあしかせ。 :かせ。」 である。
《毛々野々臣々》
 同音記号が「毛々野々臣々」のように使われているのを見るれば、記-伊邪那岐伊邪那美段の「許々袁々呂々」の訓はやはり「こをろこをろ」である(第33回)。
《大意》
 このとき、阿利斯等(ありしと)はその詳細を知り、 事は期したことを努めないため、繰り返し帰朝を勧めましたが、 なお受け入れませんでした。
 これらのことにから、悉く行状を知り、翻意して背反する心が生じ、 久礼斯己母(くれしこも)を遣わして新羅に兵を請い、 奴須久利(ぬすくり)を遣わして百済に兵を請いました。
 毛野臣は百済の兵が来たと聞き、 背評(のびこおり、へこおり)で迎え撃ち 【背評は地名で、別名は「能備己富里(のびこおり)」】、 死傷者が半ばを占めました。
 そして百済は奴須久利(ぬすくり)を捕え、 手枷(てかせ)足枷(あしかせ)首枷(くびかせ)して鎖でしばり、新羅と共に城を包囲し、 阿利斯等に「毛野臣を出せ」と責め罵しりました。
 毛野臣は、城壁を廻らせて自軍を固め、勢は盛んで生け捕りは不可能でした。 そこで、二国は渡るための適地を求め、弦晦(げんかい)の間〔四半月〕滞在し、 城を築いた後に帰りました。その城を名付けて久礼牟羅(くれむら)の城といいます。
 還る時、通り道の妨げとなった、 騰利枳牟羅(とりきむら)、布那牟羅(ふなむら)、牟雌枳牟羅(むしきむら)、 阿夫羅(あぶら)、久知波多枳(くちはたき)の五城を討伐しました。


【二十四年(4)】
《調吉士奏言毛野臣爲人傲佷》
冬十月。
調吉士至自任那、奏言
「毛野臣、爲人傲佷。
不閑治體、
竟無和解。
擾亂加羅、
倜儻任意而思不防患。」
故、遣目頰子、徵召
【目頰子、未詳也。】。
傲恨…〈前田本〉「傲恨モトリ イスカシ」。
…[動] おごる。(古訓) ほこる。をこる。
…[動] もとる。(古訓) もとる。そむく。
もとる…[自]ラ四 理にそむく。
いすかし…[形]シク 性質や、やり方が曲がっている。
不閑治体…〈前田本〉「ナラハ改也体竟無和解ネキラフコト擾乱 サハカシツ加羅」。
…[動] ならう。わくにはまる。
…[動] (古訓) をふ。つひに。
治体…政治のおおもと。
…[動] (古訓) みたる。わつらう。
擾乱…乱れ騒ぐ。みだす。
さわく…[自]カ四 騒ぐ。
みだる…[他]ラ四 乱す。〈時代別上代〉「自動詞のミダル(下二段)に対する他動詞はのちにはミダスであるが、その最古の例は」「(貞観一二年)〔870〕であるという。
倜儻…①独立していて、他から拘束されない。②才能が非常に優れている。 〈前田本〉「タカホニ/カタホニ任意マゝニ」。
目頰子…〈前田本〉「」と声点があるから、音読み(ムクコシ)か。 一般的には、歌謡中の「梅豆羅古」によりメヅラコと訓む。
冬十月(かむなつき)。
調吉士(つきのきし)任那(みまな)自(よ)り至りて、奏(かへりごとまをし)て言(まをさく)
「毛野臣(けなのおみ、けのおみ)、為人(ひととなり)傲佷(おごりもとる、もとりいすかし)。
治体(まつりごと)を不閑(ならはざ)りて、
竟(つひに)和解(あまなふこと)無し。
加羅を擾乱(みだ)りて、
倜儻(たか)びたる任意(まにまに)して[而]思(おもひ)患(わづらひ)を不防(ふせかず)。」とまをす。
故(かれ)、目頰子(めづらこ)を遣はして、徴召(め)さしめき
【目頰子、未(いまだ)詳(つまひらかにあらず)[也]。】。
是歲。
毛野臣、被召到于對馬、
逢疾而死。
送葬、尋河而入近江。
其妻歌曰、
送葬尋河…〈前田本〉「トキニ  ママニ〔葬に送れるトキニ河を尋ぬるママニ〕
…〈前田本〉「ツマ」。
是の歳。
毛野臣、被召(めさえて)[于]対馬(つしま)に到りて、
疾(やまひ)に逢(あ)ひて[而]死にき。
葬(はぶり)に送りて、河(かは)を尋(たづ)ねて[而]近江(ちかつあふみ)に入りき。
其の妻(つま)歌(うたよ)みて曰はく。
比攞哿駄喩 輔曳輔枳能朋樓 阿苻美能野
愷那能倭倶吾伊 輔曳符枳能朋樓
愷那能…〈釈紀〉巻二十七-和歌五(以下同):「愷那能ケノゝ。【毛野也。那与能五音通。】〔「毛の野」なり。那(ナ)、能(ノ)と五音通ず〔母音変化〕〕。能は、野はなので、この解釈は誤り。〈釈紀〉の時代は上代特殊仮名遣いは未発見であった。
…〈釈紀〉「伊輔曳符枳能朋樓イフヘフキノホル【笛吹上也。伊者助語也】〔伊は助語〔助詞〕なり〕
…[助] 〈時代別上代〉多く主格に立っている体言、あるいは体言相当の語について、指示強調の意をあらわす。
比攞哿駄喩(ひらかたゆ) 輔曳輔枳能朋樓(ふえふきのぼる) 阿符美能野(あふみの)
愷那能倭倶吾伊(けなのわくごい) 輔曳符枳能朋樓(ふえふきのぼる)
目頰子、初到任那時、在彼郷家等、
贈歌曰。
…[副] ここでは、時間を遡って「以前~」の意味である。
在彼郷家等…〈前田本〉ソコ家等イヘヒトゝモ〔そこに在りし郷家(いへひと)等(ども)〕
目頰子(めづらこ)、初めに任那に到れる時、彼(かの)郷(さと)に在りし家(いへ)ひと等(たち)、
歌を贈りて曰はく。
柯羅屨儞嗚 以柯儞輔居等所 梅豆羅古枳駄樓
武哿左屨樓 以祇能和駄唎嗚 梅豆羅古枳駄樓
以柯儞輔居等所…〈釈紀〉「以柯儞輔居等所イカニフコトソ 【如何言事也。略伊也。一説歴事也。】〔「いかに言ふ事」なり。伊を略す。一説に歴〔ふ、=巡る〕事也〕
武哿左屨樓…〈釈紀〉「武哿左屨樓ムカシクル。【昔来也。左与志五音通。】〔左(さ)、志(し)と五音通ず〔母音変化〕〕
むかさくる…〈時代別上代〉「唯一例。ムカ=サクル(離・放)であろう。
柯羅屨儞嗚(からくにを) 以柯儞輔居等所(いかにふことそ) 梅豆羅古枳駄樓(めづらこきたる)
武哿左屨樓(むかさくる) 以祇能和駄唎嗚(いきのわたりを) 梅豆羅古枳駄樓(めづらこきたる)
《被召到于対馬》
 毛野臣は、ついに帰還命令に応じざるを得なくなった。これは「調吉士衆守伊斯枳牟羅城」とあるように、 調吉士軍を毛野臣の目前に布陣して、プレッシャーをかけたためであろう。 毛野臣がここで調吉士と戦えば完全な謀反となるが、そこまでは踏み切らなかったわけである。
 なお、これは新羅・百済両軍が包囲を解いて引き上げた後のこととしないと、事柄が成り立たない。
《死》
 「」は、臣のクラスなら「」、下級官僚クラスなら「」を用いる(第95回)。 毛野臣に「」を使ったのは、①戸臣の地位を剥奪された。何らかの古文書が「」を使っていたのをそのまま用いた。ことが考えられる。
《尋河》
 「尋河」について、〈釈紀〉巻十三述義九。
――「私記曰。毛野臣者。近江人也。今死他郷。故傔人トモナルヒト等殯歌。自海路還。尋菟道河故郷之地。行葬送之事也。 尋川:私記曰。師説。菟道河。
 〔私記曰く。毛野臣は近江の人なり。今他郷に死にす。故、傔人ら殯歌(もがりうた)す。海路ゆ還り菟道河を尋ね、葬送の事行ふに故郷の地に入むと欲り。 尋川:私記曰ふ、〔また〕師説に菟道河。〕
 つまり「尋川」とは、故郷の近江で葬るために尋ねた宇治川のことと、説明する。 「たづぬ」は基本的に探し求めることだが、ここでは「訪ねる」意味が強い。
『広報やす』2019年7月号より 林ノ腰古墳跡
《葬送》
 一説には、林ノ腰古墳(滋賀県野洲市小篠原;小篠原交差点西300m)が毛野臣の墓ではないかと言われる。
 野洲市公式サイト内の『広報やす』2019年7月号に「林ノ腰古墳」の記事がある。 「平成8年〔1996〕に小篠原東部の住宅地で5世紀末~6世紀初頭の大型前方後円墳が発見されました。 この「林ノ腰古墳」は、墳丘と濠を含めた全長が約150mあり、築造当時は近江で最大規模の古墳です。この古墳には墳丘や石室が全く残っておらず、 水田用地を発掘して初めてその存在が明らかになりました。」 「林ノ腰古墳の名称はこの地域の古い地名である「林ノ腰」から名付けましたが、 この古墳が「林」という氏族の「古址こし(古い史跡)」として後世に伝えられていったこともわかりました。」という。
 『新修彦根市史』(彦根市史編集委員会編;2001~2015)第一巻、P.129~137に、継体天皇と近江地域との関わりがまとめられている。
 同書は、「継体大王の擁立」は「近江と越前を中心とした地方勢力が」「琵琶湖および淀川水系の水運システムを掌握するとともに、 山背〔山城〕、河内、摂津の畿内中枢部、さらには尾張を中心とする有力者たちの力を得ることで実現させた」と述べる。
 そして6世紀前葉、宇治川や琵琶湖周辺地域に、それまで見られなかった前方後円墳が築かれるようになったという(下表)。
『新修彦根市史』p.131~137より。〔 〕内は本サイトによる付加
断夫山だんぷやま古墳〔愛知県名古屋市熱田区旗屋一丁目熱田公園内〕
〔6世紀前半〕
全長151m。尾張南部。尾張連草香の娘目子媛を娶る。
宇治二子塚うじふたごづか古墳〔京都府宇治市五ケ庄大林43〕
〔6世紀初頭〕
墳丘長112m。宇治川流路。今城塚古墳と相似形。
稲荷山いなりやま古墳〔滋賀県高島市鴨2254〕
6世紀初頭。
〔墳丘長50m。三尾君の首長墓か〕高島平野南部。
つかこし古墳〔滋賀県米原市新庄237〕
6世紀〔5世紀末とも〕
〔全長40m〕天野川流域。息長古墳群(息長氏本拠)。
山津照神社やまつてるじんじゃ古墳〔滋賀県米原市能登瀬〕
〔6世紀中葉〕
〔墳丘長46m〕天野川流域。息長古墳群(息長氏本拠)。
国分大塚こくぶおおつか古墳〔滋賀県大津市国分一丁目3〕
〔6世紀中葉〕
〔墳丘長45m〕瀬田川交通管理の有力者。
天王山てんのうざん古墳〔滋賀県野洲市小篠原96。桜生史跡公園〕
〔6世紀初頭〕
〔墳丘長50m〕野洲川右岸の大勢力。
腰前塚こしまえづか古墳〔滋賀県野洲市小篠原823〕
〔5世紀末~6世紀前葉〕
〔墳丘長49m〕野洲川右岸の大勢力。
林ノ腰はやしのこし古墳〔滋賀県野洲市小篠原2474〕
〔5世紀末~6世紀初頭〕
墳丘長90m。二重の周濠。今城塚古墳と相似形。
10ゲボウ山古墳〔滋賀県彦根市普光寺町〕
6世紀。
全長50mと推定。神崎郡普光寺村。
 ただ、同書が継体天皇は「新勢力である大和の大伴氏と物部氏の協力を取り付け」たと述べる部分については、 本サイトは、継体天皇の即位は大伴氏の独裁体制から主導権を奪ったものと考えている(第230回)。
 一方、同書に「琵琶湖および淀川水系の水運システムを掌握」とあることは、 本サイトの「難波津を握ることによって権力の経済的基盤を確保した」の別表現と言える。
 同書は、宇治二子山古墳については、 「馬蹄形の二重の濠を持つその墳形が、継体天皇の墓とされる今城塚いましろづか古墳と相似形である」と述べ、 林ノ腰古墳についても「今城塚古墳と相似形を呈して」いるとして、 「継体天皇との密接な関わり」あるいは「重臣級」との見通しを見出している。
 さらに近江地域の前方後円墳(右表)についても、この時期に新たに諸氏が前方後円墳を築いたものという見方をしている。
 継体天皇の即位については、第231回まとめで、 「琵琶湖西岸の旧和珥氏系諸族及び、琵琶湖東岸の息長・坂田・酒人・布勢(阿倍)・三国の諸族の強固な連合」 に支えられて成ったと考えたが、新たな前方後円墳の築造は、これらの氏族の間に大王家を支える自覚が生まれたことの現れと考えることができる。
 さて、『新修彦根市史』は林ノ腰古墳についてさらに、 「近江で埋葬されたとすれば、この時の近江最大級の古墳が該当するはずであり、規模や墳形から、 林ノ腰古墳が近江毛野臣の墓である可能性が高い」と述べる。
 林ノ腰古墳に、近江で継体王朝を支えていた有力な臣を埋葬したと考えることは妥当で、また毛野臣の実在を裏付ける伝承があったと考えてよいと思うが、 だからと言って林ノ腰古墳の埋葬者が毛野臣だと決めつけるのは早計であろう。 書紀に書かれない有力な臣が毛野臣以外にもいたことが、当然考えられるからである。
《比攞哿駄》
 〈倭名類聚抄〉に「枚方郷」はないが、『播磨国風土記』-「揖保郡」に「枚方里」が出てくる。
――「枚方里土中上 所以名枚方者河内国茨田郡枚方里漢人来至始居此村故曰枚方里〔枚方と名づけられし所以(ゆゑ)は、河内国茨田郡枚方里の漢人(あやひと)来至(きた)りて始めて此の村に居(す)みき。故(かれ)枚方里と曰ふ〕
 すなわち、河内国茨田郡枚方里の漢人が移住して、播磨国揖保郡にも枚方里ができたという。
 『五畿内志』巻三十六河内国之十「茨田郡」に「【村里】ヒラ」が載る。
 右図は、枚方村(現在の枚方上之町枚方市公式ページによる)と、 町村制〔1889〕によって枚方村を含む四村の地域に定められた「枚方町」の位置である。 この位置が、大体は播磨風土記の「枚方里」の辺りだと考えて差し支えないと思われる。
《歌意》
枚方ゆ 笛吹き上る 淡海あふみの野 毛野けな若子わくごい 笛吹き上る
〔 枚方を経て笛吹き上る、近江の野へ。若者の毛野は。 〕
 「若子い」の「」を、〈釈紀〉は動詞の接頭語と見ているが、「ふゑふきのぼる」を丸ごと動詞と見るのは無理がある。 主格の語の下につけて強調を表す助詞だと考えれば、 五七五七七の和歌となるので、この考え方は妥当である。
 さて、この歌から、難波津⇒草香江⇒古川または寝屋川⇒枚方⇒宇治川⇒瀬田川⇒琵琶湖が近江国に入るコースであったことが伺われる。 仁徳天皇が皇后が滞在する筒木宮に向かったときも、途中までこのコースを通り、木津川を上った (第167回)。
 さらに遡ると、神武天皇即位前紀の白肩(しらかた)も、枚方であろうと思われる(第96回)。
 青年毛野臣が意気揚々と笛を吹きながら上った瀬田川であるが、その同じ瀬田川を上る船に今は遺体となって乗っている。若いときの姿を思い出しながらそれを見る妻の悲しみは、いかほどであろうか。
 この名前「愷那(けな)」に基づいて、毛野臣の古訓を「けなのおみ」としたのだろう。 二十二年条で見たように、 書紀編纂期に近江の「毛野(けの)の臣」と記された記録があったのだろうと思われるが、 これと歌謡の「けな」を同一人物としたのは書紀の判断かも知れない。
韓国からくにを 如何にことそ 目頰子来る 向かくる 壱岐のわたりを 目頰子来る
〔韓国(からくに)でいかに過ごしていたのかな、めづら子が来たよ。 船を出す壱岐の渡場に、めづら子が来たよ。 〕
 物語歌としては、目頰子が任那への赴任が決まり出発するとき、 郷の家人が見送ったときの贈歌である。
 独立歌としては、もともと壱岐の住人が唄ったものと見られる。
 形式は五七七五七七の旋頭歌(せどうか)、即ち五七七の片歌を並べた問答歌である。
 さて〈時代別上代〉によると、「むかさくる」はこれが唯一例で、幾つかの解釈がある。 いずれも動詞サクルについてで、かい摘まんでいうと下二段活用動詞サクの連体形、 サカルの母音変化、③「四段サク+四段の動詞語尾」の三通りを挙げる。
 歌の舞台は、韓国(からくに)と筑紫の間を行き来する船が立ち寄る壱岐のわたり(ここでは「渡し場」の意味であろう)だから、 出航する船が韓国または九州に「向かって離れゆく」意味であろう。 なお、「さくる」は下二段活用動詞と見る。その場合他動詞「離れ往かせる」だから、船を操作する人の行為の方に足場を置いた言い方になる。 この「むかさくる」は、既に「わたり」の枕詞になっていた可能性がある。
 独立歌としては、壱岐を経由して韓国に渡り、また帰ってくる朝廷の使者を歌った旋頭歌と見られる。 使者としての格式のある服装が島民には物珍しく、まさに「珍子」であったのだろう。
 実際にはこの歌が先にあり、 書紀はそれに合わせて登場人物の名前を「目頰子」に設定した可能性もある。
《大意》
 十月、 調吉士(つきのきし)が任那から到着して、復命しました。
――「毛野臣(けなのおみ、けのおみ)は、為人(ひととなり)傲佷〔=傲慢〕で、 政は定めに倣わず、 ついに人々と融和できませんでした。
 加羅を擾乱し、 高慢そのままで、庶民の苦労を防ぐことには想いも及びません。」
 その結果、目頰子(めずらこ)を遣わして、徴召しました 【目頰子は未詳である】。
 この年、毛野臣は都に召されて対馬に到着したところで、 病に遇って死にました。
 葬送して〔瀬田〕川を訪ねゆき、近江に入りました。
 毛野臣の妻は歌を詠みました。
――枚方ゆ 笛吹き上(のぼ)る 淡海(あふみ)の野 毛野(けな)の若子(わくご)い 笛吹き上る
 目頰子が初めに任那に赴任したとき、その郷の家人たちは、 歌を贈りました。
――韓国(からくに)を 如何(いか)に経(ふ)ことそ 目頰子(めづらこ)来(きた)る 向か離(さ)くる 壱岐の済(わたり)を 目頰子来る


17
目次 【二十五年】
廿五年春二月。天皇病甚。……〔続き〕


まとめ
 加羅地域の地名がかなり大量に出てくるから、おそらく実記録が存在していたのであろう。 その「記録」とは『百済本記』かも知れないが、地名・人名は和式の音仮名として訓める表記がほとんどなので、 倭国で作成された文書である可能性がある。そこには、毛野臣について"薨"も"卒"も使わず、単に「死」と書いてあったのだろう。 それが、近江毛野臣の子孫に伝えられたのではないだろうか。 その性格は、伽耶地域での先祖=毛野臣の活躍を描いた戦記であろうと想像される。
 ただ、毛野臣が朝廷の勅を伝達する活動の部分は、書紀が盛ったものであろう。 いつものように倭国を、新羅・百済・加羅の宗主国としての権威をもって描くためである。
 だが、書紀に書かれた通りに読んでも、結局勅を伝達する場を設定する段階で失敗しており、実際には何もできていない。
 そこで書紀のこの部分から勅に関する事項を取り除くと、 残るのは伽耶地域が新羅と百済によって東西から蚕食され、遂には加羅が新羅の支配下に置かれたことである。 そこに毛野臣軍が居合わせたとすれば、加羅に加勢して戦ったということであろう。
 慶尚南道には倭系古墳が存在するから、その地域に倭人のコロニーとして「官家みやけ(屯倉)」が点在していたのは事実である。 入植した倭人の社会が民族の純潔性を保とうとしていたのは、三年条及び二十四年条で現地人との混血が問題にされていることからわかる。
 ただ、慶尚南道の倭人集団には強力なリーダーは存在せず、新羅と戦うときは基本的に加羅軍の指揮下にあったと思われる。この地域では栄山江地域(百済)とは異なり、倭系墳に前方後円墳がないからである (前回の参照)。
 毛野臣の派遣については、朝廷から何らかの指示があったこと自体は考え得る。 慶尚南道に点在する屯倉の人々が、新羅の進出に直面して朝廷に応援を求め、彼らを守るために派遣された程度のことは考えられる。 しかし仮にそれがあったとしても、二十一年条に書かれたような「六万」の軍勢は恐らくなかったであろう。 それがあればもう少し情勢は変わり、『三国史記』新羅本紀にも「倭人来襲」が載ったかも知れない。 この時期、新羅を侵攻するための倭の軍事力の行使が基本的になくなっていたのは、新羅本紀のいう通りだろうと思われる。
 なお、毛野臣「聞政」下の盟神探湯くがたちくだりについては、吉備韓子の那多利・斯布利を殺した部分に限れば史実かも知れない。 書紀はそれを「盟神探湯」があったが如くに拡張して、毛野臣の暴政として描いたのであろう。 そもそも僅か二年の間に、これだけの独裁体制の構築し得たとするのは不自然である。
 毛野臣の「罪過」の真相は、むしろ新羅の侵攻に脅える屯倉の人々のために何も役立たなかったことではないだろうか。それが、現地に本国朝廷への不信感を生んだことが問題視されたのかも知れない。