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2019.09.25(wed) [17-05] 継体天皇5 ▼▲ |
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13目次 【即位前(一)】 十二年春三月丙辰朔甲子。遷都弟國……〔続き〕 14目次 【即位前(二)】 廿一年夏六月壬辰朔甲午。近江毛野臣率衆六萬欲往任那……〔続き〕 15目次 【二十三年】 《百濟王謂下哆唎國守穗積押山臣曰》
〈前田本〉は「下」にアルシなる訓を振っている。渡来した百済人の言葉に倣ったと思われる。 穂積臣押山の初出は、継体六年十二月、「哆唎国守穂積臣押山」である。 下哆唎は六年に百済に割譲した四県のうち一県だから、「哆唎国守」は四県を統括した国守と読めるが、 ここでは「下哆唎」のみの国守となっている。 既に百済国の統治下にあったはずだが、押山には相変わらず倭の職名「国守」を付している。 役職名「国守」を失った後も、「国守」を姓(かばね)とした氏族として、一定の地位を与えられていたと読むのが穏当であろう。 《美佐祁》 入り組んだ崖の海岸線は、まさにミサキである。 しかし、「島曲」をミサキと訓むと「海中嶋」の部分の意味が消えてしまうから、 「俗云美佐祁」は「曲嶋岸」の部分のみを説明したものと読むべきであろう。 《因茲湿所齎全壊无色》 〈前田本〉は「因茲(ニ)(テ)湿所齎全壊(テ)无色」(右図)。 ()内の助詞は、朱書きのヲコト点による。 「ウルヲシ」は「うるほし」。ホ→ヲの転は〈釈日本紀〉でも一般的に見られる。「ステ」は「スヘテ」から「ヘ」が脱落か。「ノミ」は、なぞって太くしてある。 「ノ」は誤写と見られる。よって、もともとは「コニヨリテ ウルホシ モタルトコロノモノヲ スベテソコナヒテ ミニクシ」か。 字の脱落や余分な字から見て、〈前田本〉の訓点は、他の写本から機械的に書き写したらしい。 「所」を「ノトコロノ」と訓むのは、ある時代以後の漢文訓読における機械的な訓み。〈時代別上代〉を見ると、上代語のトコロの意味は、「場所」のみであるから、「ノトコロノ」は上代の言い回しではないと思われる。 八木書房版「尊敬閣文庫所蔵『日本書紀』」の解説によれば、前田本「継体天皇紀」は、加点年代を「平安院政期(11世紀後半または末から12世紀末)」としている。 《押山臣為請聞奏》 「為レ請聞レ奏」は、「請(ねがひ)の為(ため)に、奏(まをしごと)して聞きまつる」であろう。 押山臣が百済王から要請を受けて、本国の朝廷に伝達して判断を仰いだという意味。 《大意》 二十三年三月、 百済王は、下哆唎(しもつたり、あるしたり)の国守、穂積押山臣(ほづみのおしやまおみ)に申し上げました。 ――「朝貢使は、つねに島の岬を避ける ごとに、風波に苦しんでおります。 これに因って、運ぶものは濡れ、すべて壊れて色を失います。 願わくば、加羅(から)の多沙津(たさつ)を、臣の朝貢の津の道としてください。」 そして、押山臣は要請を受けて聞奏〔ぶんそう;朝廷に伝達して判断を求める〕しました。⇒ 【二十三年(2)】 《以津賜百濟王》
「勅使」はここでは父根と吉士老を指す。 中国語の「勅使(ちょくし)」をそのまま用いたもので、「みかどつかひ」(〈前田本〉)、「みことのりつかひ」(〈仮名日本紀〉)の和訓が見られるが、いずれも平安時代以後に付されたもの。 〈時代別上代〉の見出し語にはないから、上代語にはなかったと思われる。 《扶余》
《加羅王娶新羅王女》 『三国史記』法興王九年〔壬寅;522。継体十六年〕の「春三月。加耶国王遣レ使請レ婚。王以二伊飡比助夫之妹一送レ之」 〔伽耶国遣使して婚を請ふ。王、伊飡比助夫の妹を以て之を送る〕 に対応すると見られる。 《令着新羅衣冠》 妃は大量の侍女を連れてきて、後宮を新羅一色に染め(あるいは、侍従を全国に派遣して)、 加羅国民に衣冠を配り、新羅の風習を広めた。 阿利斯等はこれに怒り、配布された衣服を回収して送り返した。 恥をかかされた新羅は、妃に帰国を命じた。 《阿利斯等》 阿利斯等(ありしと)と似た名前の人物が垂仁天皇紀に出てきて、 「都怒我阿羅斯等(つぬがあらひと)」にといい、「大加羅国王の子」とされる。 すると、「斯等」は、加羅国において王子につく称号なのかも知れない。 阿利斯等には、配布された新羅風衣服を回収するだけの力があったわけだから、この人物も王子だったのかも知れない。 《経》 経が「首をくくる」意味で使われた例が垂仁天皇紀にあり、 そこでは狭穂姫が「自経而死耳」〔みづからくびりてしするのみ〕と書かれる。 継体二十三年の「経」が普通の「経る」意味だとすると、目的語を欠くのでそれまでの経過を漠然と指すことになるが、 ならばなぜわざわざ「遂」がつくのだろうか。「遂」は、重大な事柄を引き出す語である。 しかし、垂仁天皇紀のように「自」〔みづから〕がつき、「死」の字があれば「首をくくる」意味ははっきりするのだが、「所経」だけでは何とも言えない。 ただ、加羅王妃は板挟みで悩み、その次に戦闘が勃発するからその間に妃の自死があったとしても流れから見て不自然ではない。 「所」を受け身の助動詞と見れば、「於所経」に「加羅国は(または「新羅国は」次項参照)、王妃に首をくくられてしまったので」のニュアンスを読み取ることは可能である。 一方、『三国史記』で、加羅王妃は三王子を連れて新羅の人質になっていることには合致しない。 この部分は加羅の王妃・王子の名前もないほど簡略化された文章なので、 原資料ではもっと詳しかったが、それを書紀原文作者が要約して「所経」で済ませたのかも知れない。 《抜二刀伽・古跛・布那牟羅三城一》 加羅-新羅関係は悪化し、遂に戦闘に至った。 さて、刀伽・古跛・布那牟羅三城と北境五城を「抜いた」のは、加羅か新羅のどちらがしたことだろうか。 刀伽・古跛・布那牟羅がどちらの領土にあったかが分かれば結論が出るが、これも不明である。 一般には、躊躇なく新羅が攻撃したと読まれている。 しかし、自死した王妃への同情心が加羅の国内に一気に盛り上がり、一気に攻撃に打って出たという考え方も成り立つのではないだろうか。 また「北境」は加羅側から見た方向だから(新羅から見ると南境になる)、主語は加羅ではないかとも思えるのである。 《大意》 同じ月、 物部伊勢(もののべのいせ)の連(むらじ)父根(かそね)、吉士老(きしおきな)等を遣わし、多沙津を百済王に賜りました。 すると、加羅王は勅使に、 「この津は、〔神功皇后のとき〕官家(みやけ)を置いて以来、臣が朝貢する津の港とされてきました。 どうして、恣(ほしいまま)に隣国のものに改め、元から封じられた境界を違えることができましょうか。」と申し上げました。 勅使の父根(かそね)等はこれにより、面と向かって賜ることが難しくなり、大嶋(おおしま、おおせま)に戻り、 別に録史(ふみと)を遣わして、予定通り扶余〔ふよ、=百済〕に賜わりました。 この故に、加羅は新羅と誼を通じて、日本(やまと)への怨みが生まれました。 加羅王は、新羅王の娘を娶り、遂に子息が生まれました。 新羅が初めに娘を送った時、合わせて百人を女従として遣わし、 受けて諸県(しょごおり)に分散して置き、新羅の衣冠を着用させました。 阿利斯等(ありしと)はその衣服を変えたことを怒り、使者を遣わして返還、徴集させました。 新羅は大いに辱しめを受け、翻って娘の帰還を求めて、 「以前、あなたからの聘(まね)きを承り、私は気軽に結婚を許しました。 今は既にかくの如くあれば、王女をお返しください。」と申し入れましたが、 加羅の己富利知伽(こふりちか)【この人物について詳しいことは不明】は答えて、 「夫婦が娶せたものを、どうして引き離すことができましょうか。 また、子息があり、これを棄ててどうして往くことができましょう。」と言いました。 遂に妃は首をくくる所となり、 こうして刀伽(とか)、古跛(こへ)、布那牟羅(ふなむら)の三城を討ち抜き、 また北境の五城を討ち抜きました。⇒ 【二十三年(3)】 《遣近江毛野臣使于安羅》
原注が「己能末多と言ふは、蓋し阿利斯等なり」としているのは驚天動地である。 加羅の王子とも目される阿利斯等が、なぜ任那王なのだろうか。 考えられる理由としては、 ①任那は加羅の域内国の一つで、親族が分担して域内国の王を勤めていた。 ②任那国は幻だが、書紀には必ず形式的に書き添えるようにしていた。当時の校訂者は、それを承知していた。 ③加羅の使者が倭国を訪れるときは、倭朝廷の面子を立てるために任那国を名乗る習慣になっていた。 が考えられる。 ①については、欽明紀二十三年の原注により、卒麻国旱岐・散半奚国旱岐を加羅国の域内国の旱岐と見たが、 そこに「任那旱岐」が書かれていないから否定される(資料[32])。 同じ原注にある「総言任那」という言葉からは、②であることが強く感じられる。 ③は一見突拍子もない考えだが、427年頃には倭王珍が称号に「任那」を加えることを要求している(倭の五王)。 その時点で任那が〔伽耶地域の小国として〕存在していたかどうかは分からないが、本来の任那国が亡びた後も、朝廷がしばしば「任那」の幻影を追い求めていたのは明らかである。 例えば孝徳天皇紀大化元年〔645〕七月では、百済使に任那使を兼任しているかの如く装わせ、百済からの献上物を一旦返還し、その一部を任那の名目にして献上し直させる操作をしている(資料[32])。 また、推古天皇紀三十一年〔623〕十一月の荘船(かざりふね)の例もある(資料[32])。 そこから類推すれば、②のようなこともあり得るように思える。 何れにしても、書紀原文作者には、加羅地域が出てくれば「任那」と呼ぼうとする気持ちが相当強かったことは間違いない。 そして当時の校訂者は、既に「任那」がフィクションであることを認識していたと見られる。 《新羅王佐利遅》 継体二十三年〔己酉;529〕は、『三国史記』によれば新羅法興王十六年に当たる。法興は「諡」で、さらに「諱原宗」「姓募名秦」と書いてある。 『三国史記』にはまた、法興王のときに新羅から妃が送られた記事がある(前述)から、法興王と佐利遅王は同一であろうと思われるが、 確かなことは分からない。 《恐破蕃国官家》 「蕃国官家」とは何のことであろうか。 新羅が「大人」(地位の高い者)を送ることを避けた理由は、倭が要求する南加羅・喙己呑の独立は受け入れられないからである。 使者の地位が低ければ「本国に持ち帰ります」と言えば済むが、 地位の高い者が行くと、その場でノーと言わざるを得ないから倭-新羅間で紛争が発生するのである。 従って、「破蕃国官家」は、倭-新羅間の関係が損なわれかねないことを心配する文脈中にあるはずである。 「破る」には戦争に敗れる意味もある。しかしもしそれを言いたいのなら「恐所破為日本」などと書くだろうと思われる。 ここでは「破」の意味は「win」ではなく「break」で、「破二蕃国官家一」とは「西蕃(百済・新羅・高麗)」を「内官家屯倉」とした神功皇后のときの約束 (神功皇后紀5)を破るという意味であろう。 この表現は倭が宗主国であるが如く振る舞う尊大なもので、普通の言葉遣いなら「倭・新羅の誼」となるところである。 「蕃国官家」はこの関係をキーワードのみによって表したものだから、漢字なら意味が伝わるが、和訓「となりのくにみやけ」では苦しい。 思い切って「誼(よしび)の破るることを恐り」などと訓読した方がはるかによく伝わるであろう。 《今縦汝王自来聞勅》 〈前田本〉は「縦」を「モシ」と訓む。 「今縦汝王自来聞勅、吾不肯勅必追逐退」の後半は、 「私は、勅を肯定せず〔=勅を宣しない〕、必ず追い払う」の意味である。 「縦」を「もし」と訓む場合、この文は①「もし今さら王が来たとしても決して勅を伝えずに、追い払ってやる」という意味となる。 また別解として、「縦」を「ほしきまにまに」と訓むことも可能である。 この場合「今縦汝王自来聞勅」は「王が自ら来ることをほしいままにする」、即ち 「王は自分が行くかどうかを恣意的に決める」意味になるから、 この文は②「王が勝手に代理の者をよこすなら、勅を伝えずに追い払っやる」という意味になる。 その後の事実経過を見ると、新羅王は「伊叱夫禮智干岐」をよこし、勅使は「勅を宣ずる」ことを拒んだから、 ②が正しい。 《毛野臣大怒》 近江毛野臣は、 ①二十一年六月、磐井の乱の前に、毛野臣は新羅から南加羅・喙己呑を取り戻し「任那」に併合する〔実際には伽耶連合のメンバーとして取り戻す〕ために六万の軍勢を送ったが、磐井に阻止されて叶わなかった。 ②二十三年三月、勅をもって安羅にでかけ、新羅に南加羅・喙己呑を解放させようとしたが、 新羅は「大人」(地位の高い者)をよこさず、どうやら勅はまともには伝えられなかった。 ③四月、「任那」〔実際には加羅〕が新羅の侵攻をやめるように訴え、安羅に滞在していた毛野臣が新羅国王を呼び出した。 今回も使者は「大人」ではなく、「毛野臣が王本人が来い」と厳しく言って改めて来た使者も王の代理であった。毛野臣は勅の伝達を拒否し、新羅軍は腹いせに加羅の村から略奪して帰った。 結局事実として残ったのは、新羅は南加羅・喙己呑は新羅は解放されず、逆に更に加羅から略奪したことだけである。 この時期に新羅が加羅を属国にしたことが、三国史記にも書かれている。 この後、毛野臣は久斯牟羅に邸宅を建て、その支配地で暴政を敷いて帰還命令を受け、帰路対馬で病死している(詳しくは二十四年条)。 このように、毛野臣は実際には何一つ役目を果たしていない。だから、毛野臣の新羅への働きかけが、すべて書紀のフィクションであると思われても仕方がない。 しかし、毛野臣が半島に渡って加羅-新羅の戦闘に加わったことは事実で、伝説となって子孫に語り継がれていたのではないかと思うのである。 ①②はもともとはひとつの伝説だったのが、2つの場面で使われた印象を受ける。 そもそも、倭人の氏族が韓国南部に渡り、時には戦闘に参加した事実はあった。 その根拠として古くは好太王碑文があり、また倭系古墳の存在もある(倭の五王)。 さらには、書紀に出てくる百済・加羅の人物に倭系の名前が見えることである。 継体十年には「日本斯那奴阿比多」〔倭信濃〕が登場し、今回も「麻那甲背麻鹵(まなかふはいまろ)」が見える。 これは、渡海した倭人が現地で百済人・加羅人と融合した事実を示すものと言えよう。 毛野臣も渡海した諸族のひとつだったのではないだろうか。 なお、加羅地域の話が出てくれば、なるべく「任那」という語を入れようとするのは書紀のもつ方向性であるが、 それは何も書紀に始まったことではなく、既に推古~孝徳期頃に、朝廷による作為があったことが伺われる。 《大意》 是の月、 近江の毛野(けの、けなの)臣を安羅(あら)に勅使として遣わし、 新羅に南加羅(みなみのから、ありひしのから)、喙己呑(とくことん)を再建することを勤めました。 百済は将軍君尹貴(しょうぐんくんいんき)、麻那甲背麻鹵(まなこうはいまろ)等を遣わして、 安羅に赴き、詔勅を拝聴しました。 新羅は〔神功皇后以来の〕蕃国官家の関係が破れることを恐れて 高位の者を遣わさず、夫智奈麻礼(ふちなまれ)、奚奈麻礼(けいなまれ)等を遣わして 安羅に赴き、詔勅を拝聴しました。 このとき安羅(あら)は、高堂〔たかどの〕を新築し、 勅使〔毛野臣〕を引率して上り、国主の後に従えて階段を昇りました。 安羅国内の貴人で、その前に高堂に昇ったことがあるのは一人二人に過ぎませんでした。 百済の使者、将軍君等は高堂の下に据え置かれたので、 その後およそ数か月間、再三、高堂に上ろうと画策しましたが、 将軍君等は遂に庭に置かれたままであったことを恨みました。 四月七日、 任那王己能末多干岐(このまたかんき)は来朝し 【己能末多という人は、恐らく阿利斯等であろう。】、 大伴大連(おおとものおおむらじ)金村(かなむら)に申し上げました。 ――「海表(うみおもて)の諸蕃(しょばん)〔南韓の諸国〕は、胎中天皇〔応神天皇〕が内官家(うちつみやけ)を置いて以来、 元の領土を破棄せず、その地が封じられたことにより、好ましい所以があります。 今新羅は、元々封じられた限界を違(たが)え、境界をしばしば越えて来て侵攻しました。 願わくば、天皇(すめらみこと)に奏上され、臣の国を救助してください。」 大伴大連は、その願いを受け入れ、奏聞しました〔天皇に伝達して意向を伺いました〕。 この月、 使者を遣わして、己能末多干岐(このまたかんき)を送らせ、 合わせて任那に滞在していた近江毛野臣に詔して 「奏上を推問〔吟味検討〕するに、和解は互いに疑わしいだろう。」と伝えました。 そこで、毛野臣は熊川(くまなし)に移り 【ある資料では、任那の久斯牟羅(くしむら)に移り】、 新羅百済二国の王を召集しました。 新羅王佐利遅(さりち)は、久遅布礼(くちふれ) 【ある資料では、久礼爾師知于奈師磨里(くれにしちかんなしまり)】を遣わして、 百済は恩率弥騰利(おんそつみとり)を遣わして、 毛野臣の所に赴い集いました。 しかし、二人の王自身は来参しませんでした。 毛野臣は大変怒って二国の使を責めて問い、 「小を以って大なる事は、天の道である。 【ある資料では、 「大木の端は大木に続き、 小木の端は小木に続く」とする。】 何故、二つの国の王が、自ら来て集い天皇の詔勅を御受けせず、 小者の使者を遣わすようななめた行いをするのか。 今、お前たちの王が自分で詔勅を聞くか否かを自分で勝手に決めるのであれば、 私は、詔勅を宣べるをよしとせず、必ず追い払ってやる。」と言いました。 久遅布礼(くちふれ)と恩率弥縢利(おんそつみとり)は、 心を損ない畏怖し、それぞれ帰って王を召しに行きました。⇒ 【二十三年(4)】 《新羅改遣其上臣》
原注は、新羅の職名では「大臣」を「上臣」と称すると述べる。 〈釈紀〉は、「上臣」の訓として、オホキマチキミ・オホマチキミを示す。 〈倭名類聚抄〉には「左右大臣【於保伊万宇智岐美】」〔おほいまうちきみ〕とあり、 これらはすべて「おほ[き]まへつきみ」(大前つ君)の音便と見られる。 書紀原文製作の時代、大臣の訓みをオホキマヘツキミとすることが常識であったならば、 この原注は「上臣」も同じようにオホキマヘツキミと訓めと指示したものとも捉えることができる。 ただ〈前田本〉では、本文中では「上臣」と和訓を添える一方で、原注では「○上 臣○」と漢字単位で声点をつけているから、音読みである。 〈釈紀〉が原注については「上臣」とするのは、それを反映したものであろう。 それはそれとして、ひとつの考えとして新羅の言葉ではオホキマヘツキミとは言わないから、中国語のまま音読みすべきだという考えもあり得る。 それに対して、現代日本では英国のministerの訳語として「大臣」を用いるのだから、書紀の和訓にもオホキマヘツキミを用いてもよいのではないかという論も成り立ちそうである。 《捲手遙撃》 百度百科「"以剣遙撃"是古代撃剣技術領域中一種擲〔=投〕剣攻敵的方法,猶如後世的飛刀飛剣之類。大致盛行於春秋到両漢之間、三国時猶存、三国以後少見。」 〔古代の撃剣技術のカテゴリーに属する剣の投げ技。なお後世の飛刀飛剣の類。春秋時代から前漢後漢まで大流行。三国時代にもなおあったが、それ以後見ることは少ない〕 書紀の「遙撃」がこの意味だとすれば、「捲手遙撃」とは、腕を掴んで捕まえるがすぐに放してやり、逃げる相手に離れたところから戯れに剣を投げつけたと読める。 〈前田本〉の訓「うつまねす」は本気で殺すつもりはなく、脅しただけである。 《不肯宣》 〈前田本〉では「不_肯_宣」、「不肯宣」となっている。 このままでは意味が通らないから「コタヘス」(答へず)の「ヘ」、「カヘサス」(返さず)の「サ」が脱落したようにも思えるが、確かなことは分からない。 後世の漢文訓読体なら「不レ肯レ宣」は、「宣(のぶ)を肯(がえ)んじない」と訓むのだろう。 文脈から見て「不肯宣」とは、「宣」〔勅の伝達〕を拒んでいる毛野臣に対して、伊叱夫礼智が「頻請レ聞レ勅」する〔何度も勅を聞かせてくださいと要請した〕が、「不肯」〔イエスと言わない〕という意味だと思われる。 《遙見二兵仗囲繞衆数千人一》 毛野臣は使者では駄目だ。王自身が出かけて来いと言った。 新羅は改めて「上臣」伊叱夫礼智を遣わし、伊叱夫礼智はそれならばと軍勢三千人を率いてやって来た。 これは、軍勢で圧力をかけて「王以外の者」に「肯勅」することを無理強いしたと読める。 それに対して毛野臣は身の危険を感じたのであろう、「自二熊川一入二任那己叱己利城一」、即ち熊川から逃げて任那己叱己利城に籠城した。 磐井の乱の前には六万の軍勢を連れて行ったのだから、それだけの動員力があれば、この場面でこそそれを使って勝負すべきであった。 伊叱夫礼智は、「次二于多々羅原一、不二敬帰一」、 すなわち多々羅原に陣を構えて動かない。「不二敬帰一」は、 「敬い帰る」ことをしない、即ち天皇の勅を拝聴するのに、軍勢を置いたままでは失礼なのに帰さないという意味であろう。 膠着状態に陥ったので、伊叱夫礼智は村人からの食糧を徴発を名目にして毛野臣の様子を探って来いと、「乞者」に命じた。 「任那己叱己利城」の「任那」は、ここでも倭の支配地域に名目的につけた語であろう。 《悩聴勅使》 〈前田本〉の訓点の数字によれば「悩二聴レ勅使一」〔勅を聴かむとす使ひを悩(わづら)ふ〕となるが、「勅使」を切り離してはいけないだろう。 これは「悩、聴二勅使一」〔悩みて、勅使〔=毛野臣〕を聴けば〕であると見られる。 「悩」は毛野臣の気持ちが分からず、イライラしていた様子を表すと見られる。 「聴」には「間諜」の意味もあるから、密かに勅使=毛野臣の言葉を探ったという意味であろう。 しかし、その報告の中身は「毛野臣は欺いて伊叱夫礼智を殺そうとしている」というもので、これは讒言である。 この報告者(乞者)は従者の御狩に捕まり、殺す振りをしてからかわれたことを根に持っていたためであろう。 《四村之所掠》
また、事実経過を詳細に書いた部分(欽明天皇紀など)からは「任那国」の実在性は見えてこない (資料[32])。 とはいえ、加羅諸国の範囲に倭人の居住地があったのも確かである。 それを裏付けるのは、朝鮮半島南部の倭系古墳の存在である。 倭系古墳については、百済地域の前方後円墳を見た(倭の五王)。 『筑紫君磐井と「磐井の乱」-岩戸山古墳』(新泉社「遺跡を学ぶ」94)によると、慶南地方にも九州系横穴式円墳があり、そこには5世紀後半~6世紀前半のグループと、6世紀中葉前後のグループがあるという。 その分布を見れば、慶南(慶尚南道)に倭人の居住区域があり、四村のうちいくつかは該当するかも知れない。 結局は、「任那」とは倭人居住地域を漠然と呼ぶ語と見られる。 《金官》 「金官国」の名が、『三国史記』巻三十四(地理-新羅)に見える。 ――「金海小京、古金官国【一云伽落国。一云伽耶】自二始祖首露王一至二十世仇亥王一。以、梁中大通四年新羅法興王十九年、率二百姓一来降以其地為二金官郡一。文武王二十年永隆元年、為二小京一。景徳王改二名金海京一、今金州。」
このように、かつては金官国、別名伽洛・伽耶が独立国として存在したが、532年に新羅から移民し、金官郡とした。 この532年は、継体帝二十六年にあたる。 さらに、『三国史記』新羅本紀-法興王十九年を見る。 ――「金官国主金仇亥、与妃及三子長曰奴宗、仲曰武徳、季曰武力、以国帑宝物来降。王礼待之、授位上等。以本国為食邑。子武力仕至角干」 〔金官国主の金仇亥、妃とともに三子;長曰く奴宗、仲〔次子〕曰く武徳、季〔三子〕曰く武力、帑〔=妻子〕宝物を以って来降す。〔新羅〕王、礼をもって之を待し、上等を授位す。以って国を食邑とし、子〔三男〕武力仕へ、角干に至る〕。 「食邑」は租税を収める邑の意で、即ち金官国は税を新羅に収める郡となる。そして妻子は人質になり、三男の武力は出世して新羅の角干〔骨品制の最高位〕を得る。 新羅は、法興王九年〔522〕に「加耶国王」に伊飡比助夫の妹を送って「婚」した(【二十三年(2)】)。 加耶国は金官国の別名とされ、十年間に三子を設けるのは自然だから、法興王十九年に新羅に来降した「妃」と同一人物かも知れない。 三男が新羅国で出世したのも、妃が新羅出身だった故かも知れない。 【二十三年(2)】の「遂有児息」「翻欲還女」もこの経過と矛盾しない。 四村の一つ「金官」については、金官国そのものかも知れないし、金官国を構成する同名の邑があったのかも知れない。 継体紀では二十三年とされる新羅-加羅戦争は、①実際に二十三年に占領され、戦後処理としての王族の処遇が二十六年に行われた。②継体「二十三年」は誤差を含む。の二通りの解釈が考えられる。 何れにしても継体二十三年条は、新羅による金官国の占領という史実を反映していると言える。 任那(実際には加羅)からの要請に応えて毛野臣を派遣して調停したと書くのは、倭の存在を際立たせるための潤色か。しかし、潤色と断定してしまっては実も蓋もないので、 実際に何らかの調停行動があったと思いたいところである。 しかし、仮に何らかの働きかけをしていたとしても、結局は何の役にも立たなかった。 《多多羅》 神功皇后紀には「蹈鞴津(たたらつ)」があり、現在の釜山広域市にあったと考えられている。 地名「多多羅」は、たたら製鉄を連想させる。実際、加羅地域は古くから鉄の産地であった。 『三国志』魏書巻三十「弁辰伝」は、 「国出レ鉄、韓濊倭皆従取レ之。諸市買皆用レ鉄如二中国用銭一。又以供給二郡。」 〔国に鉄出(い)で、韓・濊(わい)・倭皆従(よ)りて之を取る。諸市に買ふに皆鉄を用(もちゐ)るは、中国にて銭を用るが如し。又以ちて二郡〔馬韓・辰韓〕に供給す。〕と述べる。 弁辰(弁韓とも)は後の伽耶諸国の範囲に重なり、この地域で産出した鉄が、倭にも流入していたのである。 神功皇后紀四十六年には、百済王が鉄艇(てってい)四十枚を献上した記事があり、 宇和奈辺古墳陪塚からは大量の鉄艇が出土している。 神武天皇段には「富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめのみこと)」、神武天皇紀「媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)」があり(第100回)、 この名前に、たたら製鉄との関わりが伺われる。 一般にはタタラの語源は「まだはっきりしない」(日立金属HP内)と言われるが、 鉄の輸出地の地名「多多羅」が、製鉄技術を表す言葉となって伝わったことは十分あり得る。 《四村》 原注は「四村」を二組載せるが、金官・多々良以外については具体的な位置を求めることは不可能であろう。 全体として慶尚南道の和系古墳が分布する範囲に大体重なっているだろうと想像するのが精いっぱいである。 《大意》 この故、新羅は改めてその上臣(じょうしん)、伊叱夫礼智干岐(いしふれちかんき) 【新羅では、大臣のことを上臣という。 ある資料には、伊叱夫礼知奈未(いしふれちなみ)という。】を遣わして、 軍勢三千を率いてやって来て、詔勅を聞かしてもらうように要請しました。 毛野臣は、遥かに兵仗〔武器〕をもって包囲しようとする軍勢数千人を見て、 熊川(くまなし)から任那の己叱己利城(こしこりじょう)に入りました。 伊叱夫礼智干岐は、 多々羅(たたら)の原に移動して失礼にも軍勢を引かず、 待つこと三か月、何度も詔勅を聞くことを願いましたが、 毛野臣はとうとう宣べることに同意しませんでした。 伊叱夫礼智が率いた士卒等は集落で食物を乞い、 毛野臣にお供していた河内の馬飼(まかい)の首(おびと)御狩(みかり)の目の前を横切り、 御狩は他人の家の門に入って隠れ、乞う人が通り過ぎるのを待ち、手を掴み、そして遙か離れたところで撃ちました。 乞う人は観察した様子を報告しました。 ――「用心して三か月待ち、あちこちで勅旨を宣べないかどうかを聞きましたが、なお宣べる様子はありませんでした。 心配になって勅使の言動を忍び聞いたところ、つまりは欺いて上臣を誅殺しようとしていることが判りました。」 こうして、見えたことをつぶさに上臣に報告しました。 上臣は、四村 【金官(こんかん)、背伐(はいぼつ)、安多(あた)、委陀(いた)、これらを四村とする。 ある資料では、多多羅(たたら)、須那羅(なすら)、和多(わた)、費智(ひち)の四村をいう。】を掠奪し、 人、物をすべて持ち出し、本国に入りました。 ある人は、 「多々羅など四村が掠奪されたのは、毛野臣の過失である。」といいました。 九月、 巨勢男人大臣(こせのおひとのおおまえつきみ)が薨じました。⇒ まとめ 二十三年条は、基本的には百済、新羅が東西から加羅の領地を削り取っていった史実が土台になっていると見られる。 書紀は、その間を縫って毛野臣が活躍したと描く。 その中で、新羅の伊叱夫礼智が、天皇の詔を伝えようとしない毛野臣を大軍で包囲してプレッシャーをかけ、 無理やり詔を言わそうとしたというストーリーなどは荒唐無稽というほかはない。 新羅が加羅を攻撃するために、倭王の事前の許可を得る事など全く不要だからである。 しかし、倭人が行かなかったわけではない。 百済・伽耶地域に倭系古墳が残ることを見れば、倭人が渡海していたこと自体は事実である。ただし、それは詔勅という国家意思によるものではなく、いくつかの氏族が自発的、分散的に行ったと見る方が自然であろう。 ただし、各氏族単独の勝手な武力侵攻は、継体天皇の頃には禁止されていたと見られる(二十一~二十二年)。 それでも加羅地域に居住した倭の一族が、加羅の構成員として新羅と戦ったことはあり得る。 結局のところ、二十三年条は新羅・百済・伽耶国家群の動きに、近江毛野臣などに残る個別の記録や伝承を絡めて作られたストーリーだと思われる。 そこに、虚像としての倭の権威を我田引水的に散りばめたのである。 そもそも書紀の文章自体が、それを厳密に読みさえすれば、倭の勅使が百済王・新羅王に下そうとした命令はことごとく無視され、政治的な影響力はほぼ皆無であったことが分かる。 エピソードとして安羅の高殿への登殿が倭の勅使だけに許され、百済使が登殿できなかったことを悔しがる場面があるが、この程度のプチ自慢が精いっぱいなのである。 ただし、安羅は倭に友好的で、実際に高殿に招かれた記録があったのかも知れない。 安羅には、比較的有力な倭人の居住地があったことも考えられる。欽明天皇紀に「安羅日本府」が出てくるからである(資料[32])。 さまざまな潤色はともかくとして、それでも書紀の二十三年条には重要な事柄を物語っている。それは、百済・新羅・加羅の国際政治に関する記述が再び充実してきていることである。 「任那」は継体紀に16箇所で出てきて、欽明天皇(133箇所)以前では最大である。 継体天皇が山城国に都を置いたのは、難波津を手中に収めて交易を独占して得た富によって、国内の支配力を強めようとしたものと見た(第231回)。 交流は活発がなるに伴いさまざまな動きが伝わり、記紀に書かれた三韓の記事を増やし、内容も現実の歴史と比較的噛み合っている。 この記述の質・量の充実自体が、継体朝における半島との交流の活発化を示し、そこに最大の意義がある。 |
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2019.10.08(tue) [17-06] 継体天皇6 ▼▲ |
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16目次 【二十四年】 《詔曰自磐余彥之帝水間城之王》
継体天皇の漢風諡号「継体」は平安時代に定められたとされる。 〈釈紀〉巻九-述義五に「神武天皇:私記曰。師説。神武等諡名者。淡海御船奉勅選也。」とある。 淡海三船〔722~785〕は、奈良時代後半の人。書紀の完成は720年だから、淡海が生まれるよりも前。 したがって〈前田本〉による「継体」の訓点「ヲホド」(男大迹天皇)は、時間を超越している。 〈前田本〉は、巻頭の見出しを「男大迹天皇継軆天皇」としているが、写本の段階で加えたものであろう。 《欲立中興之功者曷嘗不頼賢哲之謨謀乎》 「欲立中興之功者」は、「中興の功者を立てることが望まれるのにもかかわらず」であろう。 「曷」〔=何そ〕は疑問詞、「嘗不」は「まったく~ない」、「乎」は疑問を込めた語気詞。 つまり、「頼二賢哲之謨謀一」〔賢哲のはかりごとを頼る〕ことをなぜしなかったのかと問う。 神武天皇には道臣、崇神天皇には大彦が策したのに、それ以来「賢哲」はいなかった。 そして武烈朝に至り、ついに先祖代々の遺産を食いつぶし、民は姿を潜めて目を覚まさず、政は衰退にまかせて改めなかったと述べる。 こう言われてしまっては、武烈天皇に仕えてきた大伴金村大連の面目は丸つぶれである。 暗に皮肉を込めているのだろう。 《王天下》 「降二小泊瀬天皇之王天下一」の意味は、「武烈天皇の統治した時代に降り」だから、「王天下」は「治世」(をさめたまひしよ)の意味である。 訓読は、中世以後なら「王」の動詞化「王(きみ)す」(連体形はキミスル)でよいが、万葉集にはキミスという使い方は見えない。 一方「天下」については、は「○○天皇の御世」の意味で使うときもアメノシタと訓読して差し支えないと思われる。「倒置する」意味の語が天下を連体修飾する例は、 「(万)0036 吾大王之 所聞食 天下尓 わごおほきみの きこしをす あめのしたに」があるので、 これに倣って「きこしをす」を用いれば安全である。 《有大略者不問其所短有高才者不非其所失》 「有二大略一者不レ問二其所レ一短。有二高才一者不レ非二其所レ一失」。 ただ、道臣や大彦のような補佐はもう出ないだろうから、 これからの世は「大局的な構想力のある者は短所を不問とし、高度な才能ある者には失敗には目をつぶって」、集団のパワーを結集していくことを宣言するのである。 これは、漢文訓読教材の見本のような文章なので、ひょっとしたらと思って漢籍に類例を検索したところ、『芸文類聚』〔唐-624〕巻五十二「論政」に、 「有大略者不問其所短。有徳厚者不非其小疵。」〔大略ある者はその短き所を問はず、徳厚き者はその小さな疵(きず)は非ず〕があった。 継体天皇が人材に求めたのが、徳よりも才能であったところが興味深い。 《窃恐元々由斯生俗藉此成驕》 最初の「窃」は副詞「ひそかに」。自分個人の意見を控えめに陳述するときにも使う。 ここでは天皇の詔だから誰に遜る必要もないのだが、それでも人民のよくないことに言及するときは遠慮するのだろう。 「元」は一文字だけでも成り立ち(「もとより」)、モトを重ねたモトモトは倭語だから本当に漢語だろうかと思ったが、調べてみると「元元」はれっきとした漢熟語として存在した。 意味は「元」の強調、または「元に遡る」である。 さて、「由斯」以下は分かりにくい。。 文脈で見ると「此」は前文「作物が豊かに稔る」を受け、後文は「令二人挙廉節一」〔人を挙って廉節(謙虚)にせしめよ〕だから、 文意は確実に「成レ驕〔驕るようになる〕ことを警戒する」である。 生俗が目立つので、「生民」〔=人民〕と同じ意味の熟語かと思ったが、漢籍でそのような用例はなかなか見つからない。 しかし「由斯生俗」と「藉此成驕」とを対句として見ると、うまく読める。 「藉レ此」は余り見ない語だが、「由レ斯」と同じく「これによって」である。 すると「生レ俗」は「成レ驕」に対応するから、「俗を生む」であった。 「俗」そのものは必ずしも悪い意味の語ではないが、 ここでは「驕」に対応するから「卑俗」「俗悪」の類であろう。 ただ、たったそれだけの意味なら「因之生驕」だけで充分言い尽くせることだから、 やはり「民」の意が「俗」の字に込められているのではないかという疑問は拭えない。 ひょっとしたら「生俗成驕」〔俗(世俗の人)に驕りを成すことを生む〕を二つに分割して、それぞれに「因之」をつけて形式を整えたとは考えられないだろうか。 〈前田本〉の「窃恐元々由斯」の「御財」(オホムタカラ)は、 本来どの字につくべきものかは不明なのだが、「俗」に「人民」の意味を感じ取ったようにも思える。 ただし、これについては他の写本で「恐元」が「黎元」と読み取られた結果という可能性もある〔黎元元=「おほみたから、もとより」と訓む〕。 《大意》 二十四年二月一日、 詔を発せられました。 ――磐余彦(いわれひこ)帝〔神武天皇〕、水間城(みまき)王〔崇神天皇〕以来、 皆、博物の臣(おみ)、明哲の佐(すけ)を頼った。 ちなみに、道臣(みちのおみ)は謨〔=策〕を陳(もう)して、故に神日本(かむやまと)〔神武天皇〕は隆盛であった。 大彦(おおひこ)は略〔=策〕を申して、故に胆瓊殖(いにえ)〔崇神天皇〕は隆盛であった。 世を継ぐ君に及んでも、中興の功者を立てようと欲したのであり、 かつて賢哲の謨謀〔=策〕に頼らなかったことがあろうか。〔だが中興の功者は遂に現れなかった。〕 そして、小泊瀬天皇(おはつせのすめらみこと)〔武烈天皇〕が天下を知ろしめる時代に降り、 幸いにして前代までは聖を継承し、 隆平な日が久しく続いていたが、 俗は漸(ようやく)〔=徐々に〕翳ったことに、目を覚まさず、 政は浸(ようやく)〔=次第に〕衰えたことを、改めなかった。 しかし、必ず人はそれぞれが同類であり、〔その力を結集して〕ことを進めるべきである。 大略〔=構想力〕のある者は、その短所を問わない。 高才〔=才能〕のある者は、その失敗を咎めない。 こうしてこそ、宗廟(そうびょう)を奉斎し、社稷(しゃしょく)を危ぶませずにことをなすことができる。 よって、これを見れば、〔新しい時代の〕補佐のやり方が明らかでないことがあろうか。 朕が帝業を承って二十四年、 天下清泰(せいたい)〔=清らかで安泰〕、 内外に虞(おそれ)〔=憂い〕無く、 土地は膏腴〔=豊穣〕、 穀稼〔=穀物の栽培〕に実りあることとなった。 密かに恐れるのは、元来このような場合は、人は俗に落ち、驕りを成しやすいことである。 よって、人を挙(こぞ)って廉節〔=謙虚〕に導き、 大道を宣揚し〔=高く掲げて〕、鴻化〔=偉大な教え〕を広めたい。 能力をもって司るのは、古(いにしえ)より難いことである。 ここに朕自身に及び、豈(あに)慎まざることがあろうか。⇒ 【二十四年(2)】 《任那使奏云毛野臣遂於久斯牟羅起造舍宅》
加羅・百済の地域で、渡海した倭人と現地人との間に子が生まれることは、確かにあったと見られる。 継体二年十二月に、「括二-出在任那日本県邑百済百姓一、浮逃絶レ貫三四世者、 並遷二百済一附レ貫也。」 〔任那の県邑(倭人居住地)で、倭人の三世四世の子孫を自称する百済人は、一括して百済の戸籍に移せ〕と命じている(継体二年十二月)。 これを見ると、屯倉の倭人の純潔化のための取り締まりが、時折あったのだろうと推察される。 ここではその史実を材料として、その対応を極端化して毛野臣の暴政を際立たせたのであろう。 この逸話の作り方は、武烈天皇が暴虐の限りを尽くしたかの如く描いたことを想起させる。 毛野臣が「聞政」したとされるのは「任那」の「久斯牟羅」においてであるが、裁判権を行使し軍勢を動員したと描かれているから、ミニ国家クラスの規模はあったことになる。 そこは、倭人と現地人の混在が目立つ地域でもあったようだ。 地名「久斯牟羅」は二十三年四月にもでてきた。伽耶国家群内の一地域だと思われるが、具体的には不明である。 《聞政》 「聞政」なる表現は飯豊女王以来である(第212回)。 聞政の意味は〈学研新漢和〉には「政治のことにたずさわる」とあるが、 〈中国哲学書電子化計画〉の検索では多くは「聞政事」で、政治の事について相談に乗る意味である。一方「政」一文字で政治を表した例はほとんど見ない。 書紀における「聞政」では、相談役というよりは自ら統治している。これは「天皇」あるいは「王」が行うべき正規の統治から、区別したい気持ちの表れなのかも知れない。 《顧以河内母樹馬飼首御狩奉詣於京》 「顧以河内母樹馬飼首御狩奉詣於京」は、「以」の位置に「遣」があるのがよく見る形で、それなら使役文である。 ここには「遣」も「使」もないが、使役文として読むべきだと思われる。 文頭の「顧」を、「かへりみて」と訓むと意味が通らない。 しかし、「顧」には「却」〔かへって〕という意味もあり、これを用いた使役文と見れば 「帰還せよとの命令を拒否し、却って御狩に奏言を伝えさせた」となり、意味は通る。 それなら「臣未成勅旨…」は、毛野臣自身からの上表ということになる。 その毛野臣の上表は「国命」を果たさないままで虚しく帰ることはできないというものであるが、これは偽りである。 実際には毛野臣はとっくに勅命伝達の任務を放棄して、ミニ国家の王として暴政を擅にしている。 《労往虚帰慙恧安措》 「虚帰」〔むなしくかへる〕とは、毛野臣が未だ任務〔新羅に加羅への侵攻をやめさせること〕を果たせていないのに、帰ったことを指す。 そして「慙恧安措」〔この恥ずかしさは、どこに身を置いたらよいだろうか〕と言って詫びる。 その前の「労往」が問題で、これを「ねぎらひゆく」と訓んでしまうと、自分でいうべき言葉ではないから不適切である。 しかし、出発のときには朝廷から「ご苦労様です。宜しくお願いします。」と労われて送り出されただろうから、何ら成果なしに帰るのでは恥ずかしいと言うのは理にかなっている。 したがって、ここは他動詞「ねぎらふ」(四段)の受身として読むべきであろう。 《奉使之後更自謨曰》 次の「更自謨曰…」を、毛野臣の言葉の続きとして読むとおかしなことになる。 その語の経過を見れば、調吉士は毛野臣が「為人傲佷」だと復命しているからである。 毛野臣の罪を調べるための使者を派遣せよと、毛野臣が自分で提案するわけがない。 一人称代名詞が「臣」から「吾」に切り替わっていることにも留意すべきである。 つまりは、調吉士を派遣すべしという提案は、御狩の独自判断である。 よって「奉使之後」とは、「毛野臣より使者を承(たてまつ)りし〔=役割を果たした〕後」すなわち「毛野臣の上表を朗読した後に」を意味し、 「更自謨曰」は「改めて自分の考えで次のことを提案した」という意味となる。 「更自謨曰」はまだよいとして、「奉使之後」は言葉を圧縮しすぎてあまりにも無体である。 本来は「其御狩伝毛野臣之上表之後」などと書かれるべきものであろう。 《河内母樹》
その十一面観音像は「八尾市観光データベース」によれば、 「木造十一面観音像:神宮寺感応院のある恩智地域が古くは母木(おものぎ)の里といわれていたことから、 本像は俗に母木観音と呼ばれてい」るという。 現在「母木」の地名は、母木橋(おものきばし、大阪府八尾市恩智中町1丁目62付近)に見える。 これとは別に、「母木寺」が枚岡神社の近くにあったとされる。 『枚岡市史』〔枚岡市史編纂委員会;1967〕の第2巻の「記録・文書資料」に『水走文書』が収められている。 水走(みずはや)氏は、「河内国河内郡・若江郡・茨田郡に諸領・諸職を領有した土豪で、とくに枚岡神社に奉仕した」(同書p.388)という。 そこに収められたいくつかの文書資料に「母木寺」が見える。そのうち「藤原康高譲状写」(建長四年〔1252〕六月三日)(同書p.402)から、 主な項目名だけを拾うと、「屋敷一所。大江御厨山本河俣両執当職。以南惣長者職。松武庄下司職。 旁公券証文。母木寺本免下司職。国衙図師。枚岡社務。豊浦郷公文職。林四所。水走所領壱所。諸寺俗別当職。」とある。 付された「解題」には、「山本は八尾市に、河俣は布施市に現在それぞれ地名を残している」 「松武庄はその所在・領家は不詳であるが、母木寺は豊浦にあった」とある。 枚岡神社は東大阪市出雲井町7番16号、水走家墓塔は、東大阪市五条町6-17付近。 現在の豊浦町は枚岡神社の北にあたり、古くは〈倭名類聚抄〉{河内国・河内郡・豊浦}とある。
ここで、神武天皇即位前紀を思い出してみよう。そこには、「母樹」の地名由来譚があった(第96回書紀<14>)。 ――「初、孔舍衞之戦、有人隠於大樹而得免難、仍指其樹曰恩如母。時人因、号其地曰母木邑、今云飫悶廼奇訛也。」 〔初め孔舎衛(くさかゑ)の戦ひに、人有りて大樹に隠りて難(かた)きをえ免(まぬ)がる。すなはち其の樹を指して曰へらく「恩(めぐみ)母(おも)の如し」といへり。 時の人、因りてその地を号(なづ)けて母木邑(おもきむら)と曰ひて、今に飫悶廼奇(おものき)と云ふは訛(よこなまり)なり〕。 この話が孔舎衛(日下、草香江付近)のところに出てくることを思えれば、「母の木」は豊浦にあったと考えた方が自然である。 《調吉士》 〈前田本〉の「調」に訓がないのは、その訓が当時常識的であったか、訓が全く不明であったかのどちらかである。 ヲコト点によってノが入る(「調ノ吉士」)ことから、「調」は訓読みだったことが伺われる。 〈姓氏家系大辞典〉には、 「調 ツキ ミツキ シラ ベデウ: 古代、租税の徴収に当りし、その職名を使命とせし也。」 「調吉士: 百済より帰化せし人の跡なれど、 更に根源に遡れば、周人族〔周は中国古代王朝〕と伝ふ。古代・収税の事に当りし氏にて、応神朝帰化せし努理使主の後也。」とある。 「つき(調)」は、〈時代別上代〉「田などの収穫物を納める租、及び織物などの工作物を納める調を一括した名称」とされる。 「調」の訓ツキについては、〈倭名類聚抄〉「調布【調布読二豆岐乃沼能一】〔つきのぬの〕。」がある。 ツキの神話的な起源として、崇神天皇紀に「初令レ貢二男弓端之調、女手末之調一。」 〔はじめて男の(弓端)の調(つき、みつき※)、女の手末(たなすゑ)の調を貢がしむ〕とある(第115回)。 ※…ミは美称の接頭語。 〈新撰姓氏録〉(第三帙-諸蕃・未定雑姓)には、 〖百済/調連/誉田天皇〔応神〕御世。帰化。孫阿久太男弥和。次賀夜。次麻利弥和。弘計天皇〔顕宗〕御世。蚕織献二絁絹之様一。仍賜二調首姓一〗とある。 この始祖伝説は、応神朝に秦氏の祖先が帰化し、雄略朝のとき太秦公宿祢が天皇に養蚕織絹を献上した伝説(第152回)の類型と言える。 古墳時代のある時期に、朝鮮半島から養蚕技術をもって、いくつかの氏族が渡来した(その時期は、伝説的には応神朝と規定されている)。 その大量の良質な絹製品を調(つき)として献上したことが、氏族名「調連」の由来として伝わっているわけである。 あるいは、同様に渡来した諸族から調を集める役割を担っていたことによって、特に「調」の名で呼ばれたことも考えられる。 なお、「吉士(きし)」は新羅の官位に由来し、渡来人の姓(かばね)に転じた(第143回)。 調連は応神朝に帰化したという始祖伝説をもつから、調連(調首)が同時に姓(かばね)「吉士」を維持してきたことも考え得る。 《若先吾取帰依実奏聞吾之罪過必応重矣》 〈前田本〉を見ると、この箇所の訓点は比較的判り易く、次のようになっている。 ――「若先吾取帰。依二実一奏-聞、吾之罪-過必応重矣」 〔若〔もし〕吾(ワレ)ヨリ先(サイ)取帰(タチカヘ)リ、実〔まこと〕アル依(ママ)に奉聞〔たてまつりてきこしめ〕〔さば?〕吾之罪過〔わがとが〕応重(オモカラムモノゾ)〕。 句読点は、朱書の訓点による。 「応」は、推量の助動詞「まさに~すべし」。「応重」に、これをそのまま用いて「[オモシの未然形]おもから+[推量の助動詞]む」と訓んでいる。 実際、文法に従って読めば「若先レ吾取帰依レ実奏聞、吾之罪過必応レ重矣」 〔もし吾より先に取り帰りて実(まこと)に依りて奏聞せば、吾が罪過必ず重くあるべし (もし調吉士が私より先に真実を得て帰り、それを報告すれば、私の失敗は重いものとなろう)〕となり、概ね〈前田本〉の訓点通りである。 それでは「吾之罪過」とは何だろうか。 御狩は、毛野臣の奏上を伝えはしたが、それが全くの偽りであることは承知していただろう。 よって毛野臣の蛮行を止められなかったこと、若しくはもっと早く報告しなかったことのどちらかが「わが罪過」となるが、 恐らくその両方であろう。 そして調吉士が真実を報告して毛野臣の罪が確定すれば、自分も罪を負うことになる。 「更自謨」とは、「調吉士を使者に立てたらよい」とする御狩のアイディアである。 その進言の言葉は「其調吉士亦是皇華之使」である。 この文自体は文法的に見ると「The 調吉士(Tsuki-kishi) is another 皇華之使(messenger of the Emperor).」で命令形ではなく単に事実の陳述である。 つまり、「調吉士は立派な使者である」という客観的事実と、 「もし調吉士が使者として派遣されれば」と仮定形に留める。 一介の臣下が天皇に、調吉士を遣わせと勧めるのは越権行為だからである。 《若先吾取帰》 「先レ私」については、論理的には「私を先ず詰問使として派遣してください。次に調吉士を派遣してください」となるが、 実際に御狩を詰問使としてして再派遣することはあり得ないから、不自然である。単なる言葉の彩か。 ただし、反実仮想〔確定した事実がなかったこととする仮定〕という見方もできる。つまり、「御狩がまだ現地に滞在している間に調吉士が派遣され、御狩より先に帰って真相を報告していたとしたら」と読む。 この場合「若先吾取帰」は「もし吾より先に取り帰りませば」、「応重」は「おもかるべからまし」となる。 《大意》 九月、 任那使が奏上して 「毛野臣(けなのおみ、けのおみ)は、遂に久斯牟羅(くしむら)に邸宅を作り、 居住して二年になりますが 【ある出典で三年というのは、行き来した年の通算である】、 政(まつりごと)に与るのを怠っています。 今、倭人と任那人との間でしばしば子を作り、 争いごとがあっても決定し難く、もともと判断は不可能です。 毛野臣は、好んで盟神探湯(くがたち)を置き、 『真実をいう者は火傷せず、虚偽をいう者は必ず火傷する。』と言って、 これにより、湯に投入して火傷で死ぬ者が多数おります。 また、吉備の韓子(からこ)、那多利(なたり)と斯布利(しふり) 【大倭(おおやまと)の人が韓(から)の女を娶って生まれた子を韓子という。】を殺して、 恒に人民を悩ませ、遂に心を和らげることはありません。」と申し上げました。 そこで、天皇(すめらみこと)はその行状をお聞きになり、 人を遣わして帰国を命じました。 けれども、帰朝を受け入れず、 かえって河内(かわち)の母樹(おものき)の馬飼首(まかいのおびと)御狩(みかり)を都に参らせ奏上させ、 「臣は未だ勅旨を成し得ずにいます。 このまま京の郷に還ってしまえば、苦労して行き虚しく帰ることになり、恥じ憂えて身の置きどころもありません。 伏し願わくば陛下、国の命を成し遂げ、朝廷に入り罪を負うまでお待ちください。」と奏上しました。 御狩は〔こう奏上して〕使者の役割を終えたところで、更に自ら提案し、 「さて調吉士(つきのきし)もまた、皇華〔朝廷のある花の都〕の使者に相応しい者です。 もし、私〔が帰る〕より先に〔遣わされて〕帰り、 真実に依って奏聞〔=報告〕していたら、私の罪過は必ずや重くあるべきものだったでしょう。」と申し上げました。 こうして調吉士を遣わして、軍衆を率いさせて伊斯枳牟羅(いしきむら)の城を守らせました。⇒ 【二十四年(3)】 《阿利斯等頻勸歸朝尚不聽還》
もともと毛野臣は、加羅の要請によって派遣されたのであった(二十三年四月)。その要請とは、阿利斯等が来朝して加羅の領土への新羅の侵略を止めさせてほしいと言ったことである。 ところが、肝心の勅を新羅に伝えることを怠り、小領主となってもう二年間も久斯牟羅を支配している。 これをもって、「不レ務二所期一」というのである。 《悉知行迹心生飜背》 文章の流れから見れば、「心に叛意を生じた」のは阿利斯等である。 しかし、もともと阿利斯等は加羅の王族、もしくは任那王で毛野臣の家来ではないので、この言葉には違和感を感じる。 そこで、阿利斯等の毛野臣に対する叛意〈①〉ではなく、 毛野臣の朝廷に対する叛意〈②〉の可能性はないだろうか。 仮に「行迹心生飜背」が「知」の目的語だとすれば、②となるが、「悉知行迹」「心生飜背」は共に「連用修飾語・動詞・目的語(二文字)」の形で対になっているから、この読み方には無理がある。 すると、「悉知二行迹一」も、新羅・百済に援軍を要請したのも阿利斯等だから、挟まれた「心生飜背」の主語も阿利斯等で、 ①であることが確定する。 それでは、阿利斯等が毛野臣の家来でもないのに「心生二飜背一」と書かれた理由は何であろうか。 恐らくは、書紀作者の頭の中は「任那は倭の属国だから、任那の臣である阿利斯等は、倭から遣わされた毛野臣に対しても無条件で従属する立場である」 という観念に支配されていたからであろう。 《背評》 かつて「郡評論争」(「評」の表記が「郡」に代わった時期が議論された)があったが、木簡の解読によりコホリは701年以前は「評」であったことが確定した (景行天皇紀2)。 コホリについては、〈時代別上代〉「コホリは朝鮮語に由来するらしい」という。 〈釈紀〉が背をヘと訓むのは音仮名ヘ乙によったと思われる。 〈釈紀〉は、朝鮮の地名として知られていた金官、肖伐、南(アリシノ)、川(ナレ)、嶋(セマ)などを除けば、全般に倭の音仮名を用いて訓んだと思われる。 したがって、原注の「能備己富里」とは、もともと「背評」のよみを説明したものである可能性がある。 《責罵阿利斯等》 阿利斯等は毛野臣と戦うために百済に援軍を要請し、百済軍はそれに応えてやってきたはずだが、使者は罪人の如く「捉」へられ、 阿利斯等を「責め罵」しって、さっさと毛野臣を差し出せと要求する。この冷淡さは何だろうか。 百済側は阿利斯等は毛野臣に仕える人物であると決めつけていて、 阿利斯等の使者が来ても相手にせず、 ただ毛野臣と阿利斯等との内紛に付け込んで、攻め取ってやろうという感覚だったと解釈するほかはない。 《弦晦》
弦は上弦・下弦の月、晦は晦日だから、基本的には下弦から晦日までの期間である。 その裏返しの朔日から上弦までの期間にも拡張される。天文学的には、四分の一か月(平均7.38日)となる。 理屈の上では「朔弦」という語も考えられるが、そのような言葉は存在しない。 弦の原義は弓に張った糸で、その形から月の欠けた部分との境界が直線となる月を「弦月」と表現する。 「弦晦」を何度も繰り返すことによって、「数か月」という意味も派生したのだろう。したがって、時間経過の量としては7~8日、または数か月以上となろう。 〈前田本〉は「弦晦」。 そして〈釈紀〉は「弦晦。」。 〈釈紀〉は〈前田本〉の「二十又」を「ニナリヌ」の誤写と見たか。ミマは謎である。 〈前田本〉〈釈紀〉ともに、「弦晦」の本来の意味を理解していないか、または大幅に意訳していると見られる。 かと言って、上代語に「四半月」をうまく表す言葉を探すのも至難の業である。 《杻械枷鏁》 漢籍を探すと、『太平広記』〔北宋(977~984)の類書〕-「報応八法華経/李山龍」に 「庭前有數千囚人。枷鏁杻械。」がある。 意味は、 「枷鎖:首枷(くびかせ)と鎖。囚人の自由を奪う道具。 杻械:てかせとあしかせ。 械:かせ。」 である。 《毛々野々臣々》 同音記号が「毛々野々臣々」のように使われているのを見るれば、記-伊邪那岐伊邪那美段の「許々袁々呂々」の訓はやはり「こをろこをろ」である(第33回)。 《大意》 このとき、阿利斯等(ありしと)はその詳細を知り、 事は期したことを努めないため、繰り返し帰朝を勧めましたが、 なお受け入れませんでした。 これらのことにから、悉く行状を知り、翻意して背反する心が生じ、 久礼斯己母(くれしこも)を遣わして新羅に兵を請い、 奴須久利(ぬすくり)を遣わして百済に兵を請いました。 毛野臣は百済の兵が来たと聞き、 背評(のびこおり、へこおり)で迎え撃ち 【背評は地名で、別名は「能備己富里(のびこおり)」】、 死傷者が半ばを占めました。 そして百済は奴須久利(ぬすくり)を捕え、 手枷(てかせ)足枷(あしかせ)首枷(くびかせ)して鎖でしばり、新羅と共に城を包囲し、 阿利斯等に「毛野臣を出せ」と責め罵しりました。 毛野臣は、城壁を廻らせて自軍を固め、勢は盛んで生け捕りは不可能でした。 そこで、二国は渡るための適地を求め、弦晦(げんかい)の間〔四半月〕滞在し、 城を築いた後に帰りました。その城を名付けて久礼牟羅(くれむら)の城といいます。 還る時、通り道の妨げとなった、 騰利枳牟羅(とりきむら)、布那牟羅(ふなむら)、牟雌枳牟羅(むしきむら)、 阿夫羅(あぶら)、久知波多枳(くちはたき)の五城を討伐しました。⇒ 【二十四年(4)】 《調吉士奏言毛野臣爲人傲佷》
毛野臣は、ついに帰還命令に応じざるを得なくなった。これは「遣二調吉士一率レ衆守二伊斯枳牟羅城一」とあるように、 調吉士軍を毛野臣の目前に布陣して、プレッシャーをかけたためであろう。 毛野臣がここで調吉士と戦えば完全な謀反となるが、そこまでは踏み切らなかったわけである。 なお、これは新羅・百済両軍が包囲を解いて引き上げた後のこととしないと、事柄が成り立たない。 《死》 「死」は、臣のクラスなら「薨」、下級官僚クラスなら「卒」を用いる(第95回)。 毛野臣に「死」を使ったのは、①戸臣の地位を剥奪された。②何らかの古文書が「死」を使っていたのをそのまま用いた。ことが考えられる。 《尋河》 「尋河」について、〈釈紀〉巻十三述義九。 ――「私記曰。毛野臣者。近江人也。今死二他郷一。故傔人等殯歌。自二海路一還。尋二菟道河一欲下入二故郷之地一。行中葬送之事上也。 尋川:私記曰。師説。菟道河。」 〔私記曰く。毛野臣は近江の人なり。今他郷に死にす。故、傔人ら殯歌(もがりうた)す。海路ゆ還り菟道河を尋ね、葬送の事行ふに故郷の地に入むと欲り。 尋川:私記曰ふ、〔また〕師説に菟道河。〕 つまり「尋川」とは、故郷の近江で葬るために尋ねた宇治川のことと、説明する。 「たづぬ」は基本的に探し求めることだが、ここでは「訪ねる」意味が強い。
一説には、林ノ腰古墳(滋賀県野洲市小篠原;小篠原交差点西300m)が毛野臣の墓ではないかと言われる。 野洲市公式サイト内の『広報やす』2019年7月号に「林ノ腰古墳」の記事がある。 「平成8年〔1996〕に小篠原東部の住宅地で5世紀末~6世紀初頭の大型前方後円墳が発見されました。 この「林ノ腰古墳」は、墳丘と濠を含めた全長が約150mあり、築造当時は近江で最大規模の古墳です。この古墳には墳丘や石室が全く残っておらず、 水田用地を発掘して初めてその存在が明らかになりました。」 「林ノ腰古墳の名称はこの地域の古い地名である「林ノ腰」から名付けましたが、 この古墳が「林」という氏族の「古址(古い史跡)」として後世に伝えられていったこともわかりました。」という。 『新修彦根市史』(彦根市史編集委員会編;2001~2015)第一巻、P.129~137に、継体天皇と近江地域との関わりがまとめられている。 同書は、「継体大王の擁立」は「近江と越前を中心とした地方勢力が」「琵琶湖および淀川水系の水運システムを掌握するとともに、 山背〔山城〕、河内、摂津の畿内中枢部、さらには尾張を中心とする有力者たちの力を得ることで実現させた」と述べる。 そして6世紀前葉、宇治川や琵琶湖周辺地域に、それまで見られなかった前方後円墳が築かれるようになったという(下表)。
一方、同書に「琵琶湖および淀川水系の水運システムを掌握」とあることは、 本サイトの「難波津を握ることによって権力の経済的基盤を確保した」の別表現と言える。 同書は、宇治二子山古墳については、 「馬蹄形の二重の濠を持つその墳形が、継体天皇の墓とされる今城塚古墳と相似形である」と述べ、 林ノ腰古墳についても「今城塚古墳と相似形を呈して」いるとして、 「継体天皇との密接な関わり」あるいは「重臣級」との見通しを見出している。 さらに近江地域の前方後円墳(右表)についても、この時期に新たに諸氏が前方後円墳を築いたものという見方をしている。 継体天皇の即位については、第231回まとめで、 「琵琶湖西岸の旧和珥氏系諸族及び、琵琶湖東岸の息長・坂田・酒人・布勢(阿倍)・三国の諸族の強固な連合」 に支えられて成ったと考えたが、新たな前方後円墳の築造は、これらの氏族の間に大王家を支える自覚が生まれたことの現れと考えることができる。 さて、『新修彦根市史』は林ノ腰古墳についてさらに、 「近江で埋葬されたとすれば、この時の近江最大級の古墳が該当するはずであり、規模や墳形から、 林ノ腰古墳が近江毛野臣の墓である可能性が高い」と述べる。 林ノ腰古墳に、近江で継体王朝を支えていた有力な臣を埋葬したと考えることは妥当で、また毛野臣の実在を裏付ける伝承があったと考えてよいと思うが、 だからと言って林ノ腰古墳の埋葬者が毛野臣だと決めつけるのは早計であろう。 書紀に書かれない有力な臣が毛野臣以外にもいたことが、当然考えられるからである。 《比攞哿駄》
――「枚方里土中上 所以名二枚方一者河内国茨田郡枚方里漢人来至始居二此村一故曰二枚方里一」 〔枚方と名づけられし所以(ゆゑ)は、河内国茨田郡枚方里の漢人(あやひと)来至(きた)りて始めて此の村に居(す)みき。故(かれ)枚方里と曰ふ〕。 すなわち、河内国茨田郡の枚方里の漢人が移住して、播磨国揖保郡にも枚方里ができたという。 『五畿内志』巻三十六河内国之十「茨田郡」に「【村里】枚方」が載る。 右図は、枚方村(現在の枚方上之町枚方市公式ページによる)と、 町村制〔1889〕によって枚方村を含む四村の地域に定められた「枚方町」の位置である。 この位置が、大体は播磨風土記の「枚方里」の辺りだと考えて差し支えないと思われる。 《歌意》
さて、この歌から、難波津⇒草香江⇒古川または寝屋川⇒枚方⇒宇治川⇒瀬田川⇒琵琶湖が近江国に入るコースであったことが伺われる。 仁徳天皇が皇后が滞在する筒木宮に向かったときも、途中までこのコースを通り、木津川を上った (第167回)。
青年毛野臣が意気揚々と笛を吹きながら上った瀬田川であるが、その同じ瀬田川を上る船に今は遺体となって乗っている。若いときの姿を思い出しながらそれを見る妻の悲しみは、いかほどであろうか。 この名前「愷那(けな)」に基づいて、毛野臣の古訓を「けなのおみ」としたのだろう。 二十二年条で見たように、 書紀編纂期に近江の「毛野(けの)の臣」と記された記録があったのだろうと思われるが、 これと歌謡の「けな」を同一人物としたのは書紀の判断かも知れない。
独立歌としては、もともと壱岐の住人が唄ったものと見られる。 形式は五七七五七七の旋頭歌(せどうか)、即ち五七七の片歌を並べた問答歌である。 さて〈時代別上代〉によると、「むかさくる」はこれが唯一例で、幾つかの解釈がある。 いずれも動詞サクルについてで、かい摘まんでいうと①下二段活用動詞サクの連体形、 ②サカルの母音変化、③「四段サク+四段の動詞語尾ル」の三通りを挙げる。 歌の舞台は、韓国(からくに)と筑紫の間を行き来する船が立ち寄る壱岐の済(ここでは「渡し場」の意味であろう)だから、 出航する船が韓国または九州に「向かって離れゆく」意味であろう。 なお、「さくる」は下二段活用動詞と見る。その場合他動詞「離れ往かせる」だから、船を操作する人の行為の方に足場を置いた言い方になる。 この「むかさくる」は、既に「わたり」の枕詞になっていた可能性がある。 独立歌としては、壱岐を経由して韓国に渡り、また帰ってくる朝廷の使者を歌った旋頭歌と見られる。 使者としての格式のある服装が島民には物珍しく、まさに「珍子」であったのだろう。 実際にはこの歌が先にあり、 書紀はそれに合わせて登場人物の名前を「目頰子」に設定した可能性もある。 《大意》 十月、 調吉士(つきのきし)が任那から到着して、復命しました。 ――「毛野臣(けなのおみ、けのおみ)は、為人(ひととなり)傲佷〔=傲慢〕で、 政は定めに倣わず、 ついに人々と融和できませんでした。 加羅を擾乱し、 高慢そのままで、庶民の苦労を防ぐことには想いも及びません。」 その結果、目頰子(めずらこ)を遣わして、徴召しました 【目頰子は未詳である】。 この年、毛野臣は都に召されて対馬に到着したところで、 病に遇って死にました。 葬送して〔瀬田〕川を訪ねゆき、近江に入りました。 毛野臣の妻は歌を詠みました。 ――枚方ゆ 笛吹き上(のぼ)る 淡海(あふみ)の野 毛野(けな)の若子(わくご)い 笛吹き上る 目頰子が初めに任那に赴任したとき、その郷の家人たちは、 歌を贈りました。 ――韓国(からくに)を 如何(いか)に経(ふ)ことそ 目頰子(めづらこ)来(きた)る 向か離(さ)くる 壱岐の済(わたり)を 目頰子来る 17目次 【二十五年】 廿五年春二月。天皇病甚。……〔続き〕 まとめ 加羅地域の地名がかなり大量に出てくるから、おそらく実記録が存在していたのであろう。 その「記録」とは『百済本記』かも知れないが、地名・人名は和式の音仮名として訓める表記がほとんどなので、 倭国で作成された文書である可能性がある。そこには、毛野臣について"薨"も"卒"も使わず、単に「死」と書いてあったのだろう。 それが、近江毛野臣の子孫に伝えられたのではないだろうか。 その性格は、伽耶地域での先祖=毛野臣の活躍を描いた戦記であろうと想像される。 ただ、毛野臣が朝廷の勅を伝達する活動の部分は、書紀が盛ったものであろう。 いつものように倭国を、新羅・百済・加羅の宗主国としての権威をもって描くためである。 だが、書紀に書かれた通りに読んでも、結局勅を伝達する場を設定する段階で失敗しており、実際には何もできていない。 そこで書紀のこの部分から勅に関する事項を取り除くと、 残るのは伽耶地域が新羅と百済によって東西から蚕食され、遂には加羅が新羅の支配下に置かれたことである。 そこに毛野臣軍が居合わせたとすれば、加羅に加勢して戦ったということであろう。 慶尚南道には倭系古墳が存在するから、その地域に倭人のコロニーとして「官家(屯倉)」が点在していたのは事実である。 入植した倭人の社会が民族の純潔性を保とうとしていたのは、三年条及び二十四年条で現地人との混血が問題にされていることからわかる。 ただ、慶尚南道の倭人集団には強力なリーダーは存在せず、新羅と戦うときは基本的に加羅軍の指揮下にあったと思われる。この地域では栄山江地域(百済)とは異なり、倭系墳に前方後円墳がないからである (前回の図参照)。 毛野臣の派遣については、朝廷から何らかの指示があったこと自体は考え得る。 慶尚南道に点在する屯倉の人々が、新羅の進出に直面して朝廷に応援を求め、彼らを守るために派遣された程度のことは考えられる。 しかし仮にそれがあったとしても、二十一年条に書かれたような「六万」の軍勢は恐らくなかったであろう。 それがあればもう少し情勢は変わり、『三国史記』新羅本紀にも「倭人来襲」が載ったかも知れない。 この時期、新羅を侵攻するための倭の軍事力の行使が基本的になくなっていたのは、新羅本紀のいう通りだろうと思われる。 なお、毛野臣「聞政」下の盟神探湯の件については、吉備韓子の那多利・斯布利を殺した部分に限れば史実かも知れない。 書紀はそれを「盟神探湯」があったが如くに拡張して、毛野臣の暴政として描いたのであろう。 そもそも僅か二年の間に、これだけの独裁体制の構築し得たとするのは不自然である。 毛野臣の「罪過」の真相は、むしろ新羅の侵攻に脅える屯倉の人々のために何も役立たなかったことではないだろうか。それが、現地に本国朝廷への不信感を生んだことが問題視されたのかも知れない。 |
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⇒ [18-01] 安閑天皇紀1 |