上代語で読む日本書紀〔継体天皇(1)〕 サイト内検索
《トップ》 古事記をそのまま読む 《関連ページ》 古事記―継体天皇段

2019.08.02(fri) [17-01] 継体天皇1 


目次 【即位前(一)】
男大迹天皇【更名彥太尊】……〔続き〕


目次 【即位前(二)】
〔小泊瀬〕天皇年五十七歲。八年冬十二月己亥。小泊瀬天皇崩。……〔続き〕


目次 【元年一月】
元年春正月辛酉朔甲子。大伴金村大連、更籌議……〔続き〕


目次 【元年二月四日】
〔元年〕二月辛卯朔甲午。大伴金村大連、乃跪、……〔続き〕


目次 【元年二月十日~三月一日】
〔元年二月〕庚子。大伴大連奏請曰「臣聞。前王之宰世也、……〔続き〕


目次 【元年三月九日】
《朕聞土有當年而不耕者》
〔元年三月〕戊辰。
詔曰
「朕聞。
士有當年而不耕者則天下或受其飢矣、
女有當年而不績者天下或受其寒矣。
故、帝王躬耕而勸農業、后妃親蠶而勉桑序。
況厥百寮曁于萬族、廢棄農績而至殷富者乎。
有司、普告天下令識朕懷。」
当年…①当時。②壮年。
…[動] 布を織る。[名] いさお。
つむぐ…[他]ガ四 〈時代別上代〉は名詞形「つむぎ」のみを載せ、動詞は〈倭名類聚抄〉を紹介するにとどめる。 同辞典は、用例の実在の確認したもののみを掲載する編集方針であるためと見られる。
…[名] 順序。
桑序…〈中国哲学書電子化計画〉〈百度百科〉では実例が見いだせない。〈汉典〉にも見出し語なし。 〈時代別上代:くは〉「桑序くはノトキ」。 桑を畑に整然と植える、または作業時期を守って手順よく栽培する意味と見られる。
…[名] (古訓) なりはひ。 
農蚕…農業と養蚕。
…[動] およぶ。(古訓) およふ。
殷富…さかえてゆたかなこと。
〔元年三月〕戊辰〔九日〕
詔(みことのり)したまひて曰はく
「朕(われ)聞こす。
士(をのこ)当年(さかり)に有りて[而]不耕(たかへさざ)ら者(ば)則(すなはち)天下(あめのした)或(ある)は其の飢(うゑ)を受け[矣]て、
女(をみな)当年(さかり)に有りて[而]不績(つむがざ)ら者(ば)天下或は其の寒さを受く[矣]。
故(かれ)、帝王(みかど)躬(みづから)耕(たかへ)して[而]農業(なりはひ)に勤(いそ)しみて、
后妃(おほきさき)親(みづから)蚕(こか)ひて[而]桑序(くはのこと)に勉(いそ)しむ。
況(いはむや)厥(その)百寮(もものつかさ)[于]万族(よろづのうから)に曁(およ)びて、農績(なりはひ)を廃棄(う)ちて[而]殷富(さかゆる)に至ら者(ば)乎(や)。
有司(つかさ)は普(あまねく)天下(あめのした)に告げて、朕(わが)懐(こころ)を識(し)ら令(し)め。」とみことのりしたまふ。
《大意》
 〔元年三月〕九日、 詔を発しました。
 ――「朕が聞くに、 男子が壮年にあって耕さなければ、天下は或いは〔=ことによれば〕飢餓を蒙(こうむ)り、 女子が壮年にあって績がなければ、天下は或いは寒さを蒙る。
 よって、帝王は自ら耕して農業に勤(いそ)しみ、 后妃は親ら蚕を飼って桑の栽培に勉める。
 況(いわん)や、官から万族に及んで、農績を捨ておいて富の蓄えに至ることがあってよいものか。 諸官は遍(あまね)く天下に告げて、朕の心懐を知らせよ。」


まとめ
 ここでは、儒教的な道徳観が示される。儒教の本質は、天子による人民支配を安定的に保つための精神的なしくみである。 継体天皇を、不行状によって亡びた武烈天皇のアンチテーゼとして描くものと言えよう。
 ここで、「帝王躬耕而勤農業。后妃親蚕而勉桑序。」は漢語の修辞法としての対句になっている。 昭和天皇が皇居の水田で稲作を始めたのは、昭和二年〔1927〕のことだという(『神社新報』平成29年〔2017〕5月1日)。 以来上皇を経て今上天皇まで引き継がれている。 皇后による養蚕は、明治四年〔1871〕に始まったという(<wikipedia「黄葉山御養蚕所」>)。 最近では、上皇后から皇后に養蚕を引き継いだことがニュースになった(朝日新聞DIGITAL;2018年5月13日)。 つまり、これらは近現代になって、復古的な宮廷行事として開始されたものである。 ※…上皇、今上天皇、上皇后の呼称は、2019年8月2日現在。



2019.08.10(sat) [17-02] 継体天皇2 


目次 【元年三月十四日】
癸酉。納八妃【納八妃、雖有先後而此曰癸酉納者……〔続き〕


目次 【二年十月】
二年冬十月辛亥朔癸丑。葬小泊瀬稚鷦鷯天皇……〔続き〕


目次 【二年十二月~五年】
十二月。南海中耽羅人、初通百濟國……〔続き〕


10目次 【六年】
《使於百濟仍賜筑紫國馬四十匹》
六年夏四月辛酉朔丙寅。
遣穗積臣押山使於百濟。
仍賜筑紫國馬卌匹。
六年(むとせ)夏四月(うづき)辛酉(かのととり)を朔(つきたち)として丙寅(ひのえとら)〔六日〕。
穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を遣(つか)はして[於]百済(くたら)に使(つかひ)せしめて、
仍(すなはち)筑紫国(つくしのくに)の馬(うま)四十匹(よそち)を賜(たまは)る。
貢調…[動+名] 訓読は「みつきたてまつる」か(神功皇后紀6《闕春秋之朝・廃梳鞭之貢》)。
…[動] (古訓) わく。ことに。
…[名] 君主などに申し出を述べる書。(古訓) あらはす。まうす。
哆唎国…〈釈紀〉兼方案。任那国之別種也。
…(呉音・漢音)シ。シャ。「(唐音)タ」を載せる辞書も。
上哆唎下哆唎娑陀牟婁…〈釈紀〉上哆唎オコシタリ下哆唎アルシタリ娑陀サタ牟婁ムロ
哆唎国守…〈釈紀〉哆唎国守タリノクニノミコトモチ
国守…〈倭名類聚抄〉「長官:…国曰守…【已上皆加美】〔国は守と曰ふ。…已上皆カミ〕(資料[24])。
旦暮…朝と夕。つねづね。
易通…熟語として、日本の辞書や〈汉典〉には見えない。『漢書』「司馬相如伝」に「駹者近蜀。道易通。〔駹〔古部族名〕は蜀に近く、道は易く通づ〕があるから、単純に「容易に通ずる」意であろう。
…[接] いわんや。[副] ますます。(古訓) いはむや。ますます。
…[名] (古訓) には。
宣旨…みことのり。
宣勅…〈汉典〉宣与敕。為国家任-命-或-調-遣官員的正式文書
…[動] 議論にはかる。(古訓) はかる。はかりこと。
…[動] まがる。ふさがる。[副] あたかも。(古訓) わく。あたかも。(日本語用法) わりあてる。中世以後「充」と混用(第208回)。
…「充」を「宛」に通用させる時代になって行われた筆写によると思われる。
冬十二月。
百濟遣使貢調、
別表請任那國上哆唎下哆唎娑陀牟婁四縣。
哆唎國守穗積臣押山奏曰
「此四縣近連百濟遠隔日本。
旦暮易通鶏犬難別。
今賜百濟合爲同國、固存之策無以過此。
然縱賜合國後世猶危、況爲異場幾年能守。」
大伴大連金村、具得是言同謨而奏。
廼以物部大連麁鹿火、宛宣勅使。
冬十二月(しはす)。
百済(くたら)使(つかひ)を遣はして貢調(みつきたてまつ)りて、
別(ことに)表(ふみにまをさく)、任那国(みまなのくに)の上哆唎(かみつしやり、おこしたり)、下哆唎(しもつしやり、あるしたり)、娑陀(さた)、牟婁(むろ)の四県(よつのこほり)を請(こひねが)ひまつるとまをす。
哆唎(しり、たり)の国守(くにのかみ)穂積臣押山奏(まを)して曰(まを)ししく
「此の四県(よつのこほり)、近く百済に連なり、遠(とほく)日本(やまと)に隔(へだた)りて、
旦(あさ)に暮(くれ)に易(やす)く通(かよ)ひて鶏犬(とりいぬ)別(あか)ち難(がた)し。
今百済に賜り合はさしめて同じき国と為(す)るは、固く存(あ)りし[之]策(はかりごと)にありて、以ちて此(これ)過(あやまち)無(な)し。
然(しかれども)縦(ほしきまにまに)国を合はすこと賜(たまは)らば、後の世に猶(なほ)危(あやふ)くありて、況(まして)異(ことにある)場(には)の為(ため)に、幾年(いくとせ)能(よ)く守(も)らむや。」とまをしき。
大伴大連(おほとものおほむらじ)金村(かなむら)、具(つぶさに)是の言(こと)を得て同じき謨(はかりごとをはか)りて[而]奏(まを)しき。
廼(すなはち)、物部大連(もののべのおほむらじ)麁鹿火(あらかひ)を以ちて、宣勅(みことのりのぶ)使(つかひ)に宛〔充〕(あ)てき。
…〈倭名類聚抄二十巻本-巻十〉「舘【和名多知】一云【無知〔呂?〕豆美】客舎之也。」 〈同十巻本-巻三〉:館、【太知〔たち〕。日本紀私記云无路都美〔むろつみ〕】。
むろつみ…[名] 〈時代別上代〉日本書紀古訓特有の語であることは、和名抄の記載からも想像される。
…[動] ここでは「要求」を意味する。(古訓) ねがふ。もとむ。
住吉…書紀では「すみのえ」(資料[16])。
住吉大神…表筒男・中筒男・底筒男の三神(第140回第43回)。
…岩波文庫版の校異によると、前田本・北野本・伊勢本は「」、天理図書館本などは「」。
海表…海外。〈釈紀〉海表【ワタノホカノ】。
とつくに…[名] 畿内の外の国。〈時代別上代〉「学外典トツフミ於博士覚哿」(推古天皇元年)の例からみて、海外の国をトツクニといったこともあるかもしれない。
はらぬち…[名] 胎内。
胎中…〈釈紀〉胎中【ハラノウチニマシマス】。胎中之帝【ホムタノスヘラミコト】。
蕃屏成務天皇紀参照。
…[形] 前の時代から続いてひさしい。(古訓) ひさし。むかし。
綿世…「綿代」の類語か。
綿代…綿々と続くこと。代々。
…[動] そしる。痛い所を刺す。(古訓) さす。そしる。
…[副] なんぞ。反問の意をあらわす。
切諫…心を込めて忠告する。
こころばへ…[名] 心情。
物部大連、方欲發向難波館、宣勅於百濟客。
其妻固要曰
「夫住吉大神、
初以海表金銀之國高麗百濟新羅任那等、
授訖胎中譽田天皇。
故、大后息長足姬尊與大臣武內宿禰、
毎國初置官家爲海表之蕃屏、其來尚矣。
抑有由焉、縱削賜他、違本區域。
綿世之刺、詎離於口。」
大連、報曰
「教示合理、恐背天勅。」
其妻切諫云
「稱疾、莫宣。」
大連依諫。
物部(もののべ)の大連(おほむらじ)、方(まさに)[欲]難波(なには)の館(たち、むろつみ)に発(た)ちて向かひて、[於]百済の客(まらひと)に宣勅(みことのり)せむとして、
其の妻固く要(ねが)ひて曰(まを)ししく
「夫(それ)住吉大神(すみのえのおほかみ)、
初(はじめ)に海表(わたのと)の金(くがね)銀(しろかね)之(の)国、高麗(こま)百済(くたら)新羅(しらき)任那(みまな)等(ども)を以ちて、胎中(はらぬち)の誉田天皇(ほむたのすめらみこと)に授(さづ)け訖(を)ふ。
故(かれ)、大后(おほきさき)息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)〔神功皇后〕与(と)大臣(おほまへつきみ)武内宿祢(たけのうちのすくね)、
国毎(くにごと)に初めて官家(みやけ)を置きて、海表之(の)蕃屏(はむへい、かきのまもり)と為(し)て、其(それより)来たりて尚(ひさ)し[矣]。
抑(そもそも)由(よし)有るを[焉]、縦(ほしきまにまに)削りて他(ほか)に賜はらば、本(もと)の区域(さかひ)を違(たが)はむ。
綿世(つらぬるよ)之(の)刺(そしり)、詎(なにそ)[於]口を離(か)るや。」とまをしき。
大連、報(こた)へて曰(まを)ししく
「教示(をしへ)理(ことわり)に合へど、天(あめの)勅(みことのり)に背(そむ)けることを恐れまつる。」とまをしき。
其の妻、切諫(こころばへにいさめ)て云(まを)ししく
「疾(やまひ)と称(まを)せ。莫(な)宣(の)べそ。」とまをしき。
大連、諫(いさめ)を依(たよ)りき。
由是、改使而宣勅付賜物、幷制、旨依表賜任那四縣。
大兄皇子、前有緣事、不關賜國晩知宣勅、
驚悔欲改、
令曰
「自胎中之帝置官家之國、輕隨蕃乞、輙爾賜乎。」
乃遣日鷹吉士、改宣百濟客。
使者答啓
「父天皇、圖計便宜、勅賜既畢。
子皇子、豈違帝勅、妄改而令、必是虛也。
縱是實者、持杖大頭打孰與持杖小頭打、痛乎。」
遂罷。
於是、或有流言曰
「大伴大連與哆唎國守穗積臣押山、受百濟之賂矣。」
たまもの…[名] たまわったもの。
…[動] みことのりを下す。
…[名] 朝鮮半島の国(神功皇后紀6【西蕃】)。
かるし…[形]ク 『続紀』宣命(宝亀二年〔771〕二月己酉)「宇之呂軽〔うしろかるく〕。 〈時代別上代〉語幹が地名や人名中に用いられている以外、用例はまれである。
…[名] (古訓) むなし。いつはり。
かぶつち・くぶつち…[名] 柄頭が槌状になっている刀剣。
かぶ…[名] あたま。
是の由(ゆゑ)に、使(つかひ)を改めて[而]宣勅(みことのり)に賜物(たまもの)を付けて、并(あは)せて制(みことのり)に、旨(むね)表(まをせしふみ)に依りて任那の四県を賜はりき。
大兄皇子(おほえのみこ)、前(さき)に縁(よし)の事有りて、国を賜ることに不関(あづか)らざりて、晩(おく)れて宣勅(みことのり)を知りたまひて、
驚き悔いて改めむと欲(おもほ)して、
令(おほせごと)して曰(のたま)はく
「胎中(はらぬち)之(の)帝(すめらみこと)自(よ)り官家(みやけ)を置きし[之]国、軽(かる)く蕃(えみし)の乞(こ)へる隨(まにま)に、輙(すなはち)爾(ここに)賜(たまは)りき乎(や)。」とのたまひて、
乃(すなはち)日鷹吉士を遣はして、改めて百済の客(まらひと)に宣(の)べしむ。
〔百済の〕使者(つかひ)答へて啓(まを)さく
「父(ちち)にある天皇(すめらみこと)、図(はかりごと)に便宜(よろしき)を計りて、勅(みことのり)賜(たま)はること既に畢(を)ふ。
子(こ)にある皇子(みこ)、豈(あに)帝(みかど)の勅(みことのり)や違(たが)へて、妄(みだりかはしく)改(あらた)めて[而]令(おほせごと)するか、必ず是(これ)虚(いつはり)也(なり)。
是(これ)実(まこと)なるを縦(ゆる)さ者(ば)、杖大頭(つゑのおほきかぶ)を持ちて打つこと、杖小頭(つゑのちひさきかぶ)を持ちて打つこと与(と)の孰(いづれ)かによりて、痛みをおひまつらむ[乎]。」とまをして、
遂(つひ)に罷(や)めたまひき。
於是(ここに)、或(ある)は流言(ひとごと)有りて曰(い)へらく
「大伴大連与(と)哆唎の国守(くにのかみ)穂積臣押山、百済之(の)賂(まひなひ)を受けり[矣]。」といへり。
《大筋》
 六年十二月条には、読み取りが困難な部分がある。そこでひとまず見通しをつけるために、大筋の把握を試みる。
 ことの始まりは、百済が任那国の上哆唎下哆唎娑陀牟婁四県の割譲を日本(やまと)に要求したことである。 最後のところで大伴金村と穂積押山が、百済から賄賂を受けたと噂されたと述べるから、 結局は百済の要求を受け入れた。これが大筋である。
 すると、穂積臣押山の言葉「此四県、近連百済遠隔日本」は、 割譲を勧める言葉であったはずだ。
 一方、伝達の任を負った物部麁鹿火は、いざ出発しようとしたとき妻に諫言され、結局仮病を装って任を果たさなかった。 よって「改使」は、使者の交代を意味する。ただ交代後の使者の名前は示されていない。
 百済への四県の割譲を大兄皇子は後になって知り、日鷹吉士に取り消しを伝えさせたが、 受け入れられなかった。 このように、物部麁鹿火夫妻と大兄皇子は四県の割譲に反対した。
 さて、特に難解なのは、押山が進言するところである。
 今賜百済合為同国、固存之策無以過此。
 然縱賜合国後世猶危、況為異場幾年能守。
 これらを、大筋における流れの中で解釈してみる。
 まずの「」は、の「後世」と対になっているから、 は「今のうちに百済に領土を与えることが確かな策で、誤りはない」であろう。
 するとは、「今割譲を拒んでも、百済はいずれ縦(ほしいまま)に領土を併合するだろう。これは一層の危機である。 ましてや異国の土地で何年間持ちこたえ得るだろうか」。 なお、の「」は単に「与える」意味で、形式的な尊敬語であろう。
 つまりは、今拒んでもどうせ百済が力づくで奪うに決まっている。 例えこの時点で割譲を拒んだとしても何れ百済が実力で奪うだろうというのが、押山の見通しである。 そうなると敵対関係が強まるが、戦闘になれば相手方の土地だからすぐ負けるだろう。 今ならまだ相手が下手に出ているから、好意で与えた形をとった方がまだましである。押山の言葉はこのようにしか理解できない。
 麁鹿火の妻と大兄皇子による反対意見を載せ、また金村・押山が賄賂を受けたという噂を載せるのは、金村による独断専行として描くためだろう。
《書紀の立場》
 書紀の記述の基調は、四県は本来なら与えずに済むのに、金村の曲がった判断によってみすみす取られてしまったというものである。
 その見方を強める材料は、次の七年条にある。 七年六月に百済は、伴跛国が略奪した土地を取り返そうとして、百済寄りの裁定を倭に依頼している。 自力で取り返せないから倭の力に頼るような非力な国なら、力づくで倭が所有する四県を奪うようなことはあり得ない。
 しかし、伴跛国の件への関与は、倭の力を誇大に見せるための潤色に過ぎないかも知れない。倭・百済の力関係については、むしろ押山の見通しの方が、真相を表して可能性がある。 この問題については、七年条のところで更に検討したい。
《穂積臣押山》
 「穂積臣押山」の名前は三つの場面で出てくる。
 六年四月:倭が百済に馬四十匹をプレゼントしたときの使者。
 六年十二月:哆唎国守として倭にやって来て情勢を大伴金村に説明する。
 七年:五経博士段楊爾を献上するために、百済から派遣された将軍の副官。
 これらを強引に繋げば、馬を献上しに行った使者は、突然国守に任命されて現地に留まり、 その後哆唎が併合されると、今度は百済に帰化して副将軍の地位を与えられたということになる。 だが、この筋書きはかなり不自然である。
 実際には出典の異なる複数の文書記録または伝承を、そのまま載せたように思える。 それらに、何故か同じ人物名が使われていたということか。
《筑紫国馬》
埼玉県深谷市大字上敷免出土;古墳時代(東京国立博物館/研究情報アーカイブズ)
 馬型埴輪は形象埴輪のひとつで、五世紀以後の東日本から出土するという。 それらの埴輪には鞍などの馬具を備え、尾が編み上げられた様子も見えて儀礼用に装飾された馬という印象である。 古墳時代、馬に貴人が乗る文化があったと見られ、 各地の牧で馬を飼育して供給していたと考えられる。
 当然筑紫国にも牧があったのだろう。
《任那国》
 書紀で上哆唎下哆唎娑陀牟婁が出てくるのはここだけで書紀の他の部分には出てこないから、その地を具体的に探ることは不可能である。 「任那国」については、資料[32]などで取り上げたように、 倭の出先国としての実態はなく、地域名と考えるのが妥当であろう。 ただし、「任那」はかつて南韓諸国の小国の一つとして存在し、加羅とともに新羅に接していたようである (第115回【書紀(4)】)。
 上哆唎などの四県は百済との境界にあったはずだが、任那の領域がそんなに広いとは考えにくいから、 文章上のみで「任那」地域を広げ、四県を包含する架空の国として任那「国」を描いたように思われる。 書紀に任那国は何度も出てくるが、国としての実体は少しも見えてこない。 「任那」を、百済・新羅に挟まれた地域のあちこちに倭人が入植してできた官家(みやけ)〔=コロニー〕をまとめて呼ぶ形式語として捉えると、かなりすっきりする。
 上哆唎下哆唎娑陀牟婁も、百済国に近いところに点在した官家(みやけ)ではないだろうか。
《旦暮易通鶏犬難別》
 この文は四県と百済との距離的な近さを述べたものと考えた方がよさそうである。 「旦暮易通」は人々が日常的に往来し、 「鶏犬難別」は、鶏や犬もまた国境に無関係に動き、どちらの国のものか区別がつかないということであろう。
《大意》
 六年四月六日、 穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済への使者として遣わし、 筑紫国(つくしのくに)の馬四十頭を賜りました。
 十二月、 百済は使者を遣わして貢調し、 別に上表文を提出し、任那国(みまなのくに)の上哆唎(かみつしゃり、おこしたり)、下哆唎(しもつしゃり、あるしたり)、娑陀(さた)、牟婁(むろ)の四県(こおり)の領有を要請しました。
 哆唎(しり、たり)の国守、穂積臣押山は、 「この四つの郡は、近く百済に連なり、遠く日本(やまと)から隔たり、〔百済とは〕朝に暮れに〔=一日中〕容易に通い、鶏(とり)と犬も〔どちらの国のものという〕区別がありません。 今すぐ百済に賜り、合わせて同じ国とすることは固い策であり、これに誤りはありません。 しかし、〔百済が自分で〕欲しいまま国を合わさせてしまえば、後世になお危く、ましてや異国の場所のために、何年守ることができましょうか。」と奏上しました。
 大伴大連(おおとものおおむらじ)金村(かなむら)は、つぶさにこの言葉を聞き、同じ案を奏上しました。
 こうして、物部の大連麁鹿火(あらかひ)をもって、宣勅使に宛てました。
 物部の大連が、まさに難波館(なにわかん)に向けて出発して百済の客人に宣勅しようとしたとき、 その妻は固く願い、 「住吉(すみのえ)の大神は、 初めに海の向こうの金銀の国、高麗(こま)・百済・新羅・任那(みまな)らをもって、胎中の誉田天皇(ほんだのすめらみこと)に授け終えました。 よって、大后(たいこう、おおきさき)息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)〔神功皇后〕と大臣(おおまえつきみ)武内宿祢(たけのうちのすくね)は、 国毎に初めて屯倉(みやけ)を置き、海の向こうの蕃屏(はんぺい)〔番人〕として、それ以来尚しく過ぎました。 このようにそもそも由(よし)があるのに、欲しいままに削って他に賜ることは、本来の区域を違えます。 綿代(めんだい)〔延々と続く世〕に謗(そし)りが人の口から放たれるでしょう。何たることでしょうか。」と言いました。
 大連は 「教示は理に適っているが、天勅(てんちょく)〔天皇の詔勅〕に背くのは恐ろしいことだ。」と答えました。
 妻は、切諫(せっかん)して〔真心を込めて諫め〕 「病を称しなさい。決して宣勅なされませんように。」と言いました。 大連は、諫められた通りにしました。
 このため、使者を交代させて宣勅に賜物を付け、併せて制〔=勅〕して、その旨は上表文の通りとして任那の四県を賜わりました。 大兄皇子(おおえのみこ)は、以前に事情があって、国を賜ることには与らず、遅れて宣勅を知り、 驚き悔やんで、改めようと欲して、 「胎中天皇より屯倉を置いた国に、軽々しく西蕃の乞うままに、賜ってしまったとは。」と仰り、 すぐに日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わして、改めて百済の客に宣勅しました。
 〔百済の〕使者は答えて、 「父であられる天皇(すめらみこと)は、策に便宜を計って、既に勅を賜わり終えました。 子であられる皇子(みこ)が、豈(あに)帝の勅を違え、みだりに改令するものか。必ずやこれは偽りです。 それがもし真実であるなら、杖の太い端を持って打ち、あるいは杖の細い端を持って打つことの何れでもお受けしますから、痛めつけてください。」と申し上げ、 〔大兄皇子は〕遂に止めました。
 これにより、 「大伴大連と哆唎の国守(くにのかみ)穂積臣押山は、百済から賂(まいない)を受けたのさ。」との流言がありました。


【難波館】
《鴻臚館》
 外国使節の宿泊に供する館は鴻臚館(こうろかん)と呼ばれ、「難波館」以外に「筑紫館」、「太宰鴻臚館」などが知られる。
 このうち太宰鴻臚館は、旧平和台球場の位置に遺跡が発掘されている。 筑紫館は、持統天皇紀にある。 奈良時代後半には、気比の松原(福井県)に渤海国使を迎えるための「松原客館」があった(第145回)。
 難波館は、継体天皇紀・敏達天皇紀・斉明天皇紀・持統天皇紀に出てくる。 「」がしばしば「むろつみ」と訓まれるのは、書紀古訓を踏襲したものである。 書紀古訓は狭い学者のグループが考案したと見られ、中には上代語として一般的に使われていたとは思えない特殊な訓みもある。
《推古天皇紀「新館」》
 難波館については、隋から訪れた裴世清(はいせいせい)一行を迎えるために「新館」を建てた記事が、推古天皇紀にある。
――〈推古天皇紀〉十六年〔608〕四月:「大唐使人裴世清下客十二人、従妹子臣於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世清等。為唐客更造新館於難波高麗館之上〔大唐〔=隋〕の使人(つかひ)裴世清より下つ客(まらひと)十二人、妹子臣に従ひて筑紫に至る。難波吉士(きし)雄成を遣はして大唐の客(まらひと)裴世清等を召さしむ。客のために更に新館(にひたち)を難波高麗館の上(へ)に造る。〕
 即ち、これまであった難波館に加えて「新館」を、高麗館の近くに造らせた。 「高麗館之」は、高麗館から坂道を上がったところ、あるいは高麗館を覆い隠して目立つ場所、あるいは単に高麗館に近いところなどの意味が考えられる。
――〈同〉六月十五日:「客等泊于難波津。是日以飾船三十艘客等于江口、安-置新館〔客等(まらひとたち)難波津に泊(は)つ。この日飾船(かざりふね)三十艘(みそち)を以て客等を江口に迎へて、新館に安く置けり〕
 裴世清一行の船は難波津に停泊し、飾り船による歓迎を受け、新館に滞在した。「于江口」は一行が難波津から更に船で移動して江口で上陸したとも読めるが、そうではなく「飾船三十艘」が江口〔=堀江の入り口〕に集結したという文ではないだろうか。 というのは、『隋書』大業三年に、その翌年〔608〕裴清〔裴世清の"世"が避諱によって省かれた〕が倭国を訪れた記事があり、 そこには「竹斯国〔筑紫〕から「秦王国」及び十四国を経て「於海岸」し、 歓迎を受けた後「既至彼都〔既に彼の都に至りき〕とあるからである。 つまり、瀬戸内海を経て上陸したが、上陸は一回のみで都まで陸路をとり、その上陸地が難波津であったことは確実である。
《高麗橋説》
 『日本歴史地名大系』(大阪府)〔1986〕‐「鴻臚館」の項では、裴世清の一行の行程を推定して、 「当時の江口は、現大川分流の堂島(どうじま)川右岸の福島(ふくしま)区福島一丁目辺りに比定する説が有力。 外交使節瀬戸内海を東航してきた船は当時河口であった江口から難波の堀江(なにわのほりえ)すなわち現大川に入り、迎えの飾船に導かれて遡上して館の近くに上陸したのであろう。」と述べる。
 また、同書は鴻臚館は811年に摂津国府に転用され(『続日本後紀』)、 その摂津国府は「拾芥抄」「伊呂波字類抄」によれば西成郡にあることから、 「高麗橋は大川に近いので、前述の条件にも合致する。したがって、七世紀段階の外交施設群は東区の大川沿いの地域、すなわち上述の江口の上流南岸に存在したと考えられる。」 と述べる。
 この説では、「飾船三十艘客等于江口」の部分は「客等泊于難波津」 の前のことを書いたものしてと読んでいる。
《東成郡説》
 一方、『大阪市史 第一』〔大阪市参事会;1913〕は、次のように書く。
――「難波に大郡小郡の別あり、仁徳天皇皇居の地を大郡〔おほこほり〕とし、之に隣接せる辺地を小郡といへること、雄略天皇の都を泊瀬大国といひ、 郡の外を泊瀬小国といへるがごとくにて、和銅年間郡名の文字を定むるに及び、 大郡は東生郡となり、小郡〔をごほり〕は西成郡と称せしなるべし。〔仁徳天皇皇居(難波高津宮)を中心とする地を大郡といい、周辺を小郡という。 和銅年間の令〔六年:713の好字令〕によって、大郡は東生郡となり、小郡は西成郡となったのだろう。〕
――「二郡の境界は大抵今の谷町筋にて、其以東は東生郡、以西は西成郡に属せること、生国魂社の東生郡、 座摩社の西成郡に属するを以て知るべし〔東生郡・西成郡の境界は、大体谷町筋であろう。生国魂社が東生郡、座摩社が西成郡に属すからである〕
 よって、難波館新館は大郡に建てたものとして、「高麗橋付近を以て高麗館の遺址と推定せるは誤りなり」と述べる。
 この大郡については、裴世清一行の帰国前に〈推古天皇紀〉「九月辛未朔乙亥。饗客等於難波大郡。辛巳、唐客裴世清罷帰。〔九月五日:客等(裴世清一行)を難波大郡に饗(みあへ)す。十一日:唐の客裴世清罷(まか)り帰りき。〕とある。 同書はこのことから、難波館新館・高麗館は大郡にあったと考えている。
 〈延喜式-神名帳〉には{東生郡/難波坐生国咲国魂神社二座}、 {西成郡/坐摩神社}とある。前者の比定社である生国御魂神社の位置は、実際には谷町筋より西だから、 「大抵今の谷町筋」の「大抵」はかなり大雑把である。
 高麗橋は、大阪市公式ページによると「大阪城の外堀として開削された東横堀川に架かる橋」で、 その名は、 「古代・朝鮮半島からの使節を迎えるために作られた迎賓館〔高麗館〕の名前に由来するというものと、豊臣秀吉の時代、朝鮮との通商の中心地であったことに由来するというものが主なもの」という。
 つまり、東横堀川は大阪城築城のときに掘削されたものだから、高麗館があった時代にこの橋があったわけではない。 従って、「高麗橋」の名が高麗館に由来するとの推定は、それほど確かではないと思われる。
 なお「西成郡」・「東生郡」については、上町台地から西=大阪湾方面に陸化して生まれた土地が「西成郡」、 東=河内湖(草香江)方面に陸化してできた土地が「東生郡」と呼ばれたと考えられる (第96回【旧河内湾】)。 従って「難波大郡」は厳密に言えば、東生郡とイコールではなく、後世の東生郡からまだ湖だった部分を除いた範囲である。 同様に、「難波小郡」は西成郡からまだ大阪湾だった部分を除いた範囲となる。 難波小郡と呼ばれた頃は、恐らく湿地帯であったのだろう。
《難波堀江》
 「難波堀江」は一般に大川であると言われるが、本サイトは大川は自然河川で、 難波の堀江は法円坂遺跡の北の大川の岸から草香江を繋ぐ水路として掘削されたものという独自の見解を掲げている(第167回)。
 法円坂遺跡は、「5世紀の段階」の「大倉庫群」(大阪歴史博物館-「研究紀要第14号」)である。 「5世紀」に機械的に当てはまるのは、履中天皇から仁賢天皇までである。
 法円坂遺跡のすぐ南に難波宮跡が発見されており、天武天皇紀朱鳥元年〔686〕の火災の跡と推定される焼け壁がある (資料[17])。
 この倉庫群跡は、難波津に付随する施設であろうと思われる。
 大阪湾の海岸線は、もともとは上町台地の西側のラインで、上述したように陸化によって海岸線は西に移動していった。 継体朝において陸化がどの程度進んでいたかは分からないが、推古朝でも法円坂遺跡の北西は海が入り込んだ入り江に面し、そこが難波津だったのではないだろうか。 その難波津の位置は、古墳時代から奈良時代まで変わらなかったのではないかと思う。
 推古天皇紀では裴世清一行を載せた船が「難波津に泊」てて、「江口」に「飾り船三十艘を出して出迎えた」と述べている。 この「江口」は地名というよりも、「難波の堀""」の""(入り口)だと考えれば、ごく自然に読むことができる。
 「大郡」は中枢機能を果たす地域だから、難波宮跡と法円坂遺跡周辺を指すのは間違いないだろう。 その難波大郡で帰国前の一行を饗宴したというからには、継体天皇紀の「難波館」も難波館の「新館」も難波大郡内にあったと思われる。 いつの日か、遺跡が発掘されることを期待したい。
 『大阪市史』説は「大郡」に注目している点に、比較的妥当性があろう。 一方『日本歴史地名大系』の説には、難波津の位置に無頓着であるところと、高麗館・難波館が小郡にあるとする点が同意できない。

まとめ
 書紀は、倭や百済の古文献を資料として用いているので、 六年条も根も葉もないフィクションではなく、その種になる記録があったと見るべきであろう。
 ここに書かれた事実としては、点在する倭人の入植地のうち四県が、百済の施政下に移されたことがすべてである。 前述したように、七年に己汶の所属を、倭が裁定したとあるからまだ断定的なことは言えないが、四県の百済への譲渡について倭に為すすべはなかった印象を受ける。 欽明天皇紀四年条においても、倭国側は百済王に押されっぱなしである(資料[32])。 これが三韓地域における倭・百済の実際の力関係であったのだろう。
 さて、難波宮と法円坂の大規模倉庫群の遺跡は、この地に都が〔ある時期には副都として〕厳然として存在したことを物語る、物質的根拠である。 そこに居並ぶ建造物群こそが「大郡」の姿で、その一角に鴻臚館があり、中国や三韓からの外交使節を接待して宿泊させる方がありそうに思える。 「小郡」の竪穴式住居と湿地と田畑の中に、豪華な鴻臚館がポツンと建っている景色は不自然に思える。
 また、難波津は大郡の表玄関として、外交官や商人・物資を乗せた大小の船舶が往来して常に賑わっていたことだろう。その立地は、法円坂の北の大川南岸以外には考えられない。



2019.08.20(tue) [17-03] 継体天皇3 


11目次 【七年】
《貢五経博士段楊爾》
七年夏六月。
百濟遣姐彌文貴將軍洲利卽爾將軍、副穗積臣押山
【百濟本記云、委意斯移麻岐彌】
貢五經博士段楊爾。
別奏「伴跛國、略奪臣國己汶之地。
伏願、天恩判還本屬。」。
姐弥文貴将軍…〈釈紀〉姐弥文貴将軍サミモムモムクヰシヤウグム洲利即爾将軍スリソニシヤウグム委意斯移麻岐弥ヰオシヤマキミ五経ゴキヤウノ博士ハカセ段楊爾タムヤウニ伴跛國ハヘノクニ己汶之地イモムノトコロヲ
はかせ…[名] 『令義解』-職員録「陰陽寮」に「陰陽博士一人。暦博士一人。天文博士一人。漏尅博士一人。」 「大学寮」に「博士一人。音博士二人。書博士二人。筭博士二人。
…[動] (古訓) ことはる。わかつ。さたむ。
七年(ななとせ)夏六月(みなづき)。
百済(くたら)姐弥文貴将軍(さみもむきしやうぐむ)と洲利即爾将軍(すりそにしやうぐむ)とを遣はして、穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を副(すけ)として
【百済本記(くたらほむき)に、委意斯移麻岐彌(ゐおしいまきみ)と云ふ。】、
五経博士(ごきやうはかせ)段楊爾(だむやうに)を貢(みつきたてまつる)。
別(こと)に奏(まを)さく「伴跛国(はへのくに)、臣(わが)国の己汶(いもむ)之(の)地(ところ)を略奪(かす)めき。
伏して願(ねが)ひまつらく、天(あまつ)恩(めぐみ)をたれて本属(もとのくに)に還(かへ)すを判(さだ)めたまふことをねがひまつる。」とまをす。
秋八月癸未朔戊申。
百濟太子淳陀、薨。
太子淳陀…〈釈紀〉太子【コニセシム/コムセシム】淳陀【シユムタ】〔じゅんた〕 継体天皇七年癸巳〔513〕は、武寧王十三年。『三国史記』に淳陀も、似た名前もない。
秋八月(はつき)癸未(みづのとひつじ)を朔(つきたち)として戊申(つちのえさる)〔二十六日〕。
百済(くたら)の太子(たいし、せしむ)淳陀(じゅんだ)、薨(こうず、みまかる)。
九月。
勾大兄皇子、親聘春日皇女。
於是、月夜淸談、不覺天曉。
斐然之藻、忽形於言、乃口唱曰、
まねく…[他] 〈時代別上代〉上代にはマネクの確例に乏しい。
をく…[他] 呼び寄せる。
さやか…[形動] 清らかなありさま。
さやに…[副] ①ざわざわと。②くっきりと。視覚についても用いる。
つくよ…[名] 月夜。
…[他] (古訓) おもふ。さとる。しる。
斐然…〈汉典〉文采〔文章或いは衣服のいろどり;=文彩〕的様子。
…[名] ①藻類。②あやがあってきらびやかなさま。ことばのあや。(古訓) うるはし。またらかに。
…[動] 人のさきにたって歌い始める。(古訓) うたふ。となふ。
九月(ながつき)。
勾大兄皇子(まがりのおほえのみこ)、親(みづから)春日皇女(かすかのみこ)を聘(を)きたまふ。
於是(ここに)、月夜(つくよ)に清(さやか)に談(かたら)ひて、天(あめ)の曉(あかとき)を不覚(しらず)。
斐然(いろどり)之(の)藻(あや)、忽(たちまちに)[於]形(かたち)言(こと)となりて、乃(すなはち)口に唱(うた)ひて曰(うた)ひしく、
まく…[他] 娶る。妻として抱く。
くはし…[形]シク こまやかに麗しい。
くはしめ…[名] 容姿の美しい女。大国主段の歌謡(第64回)参照。
よろしめ…[名] 〈釈紀〉「与盧志謎鳴ヨロシメヲ。【宜女也。】」
まきさく…[枕] 「檜」にかかる。
…[名] 檜(ひのき)。
あと…[名] 足。足元。
あととり…[名]〈時代別上代〉「阿都図利アトトリ。【跡取也。】」
つま…[名] 建物の側面。〈時代別上代〉すべて物の端・側面をいう語か。
つま…[名] 妻。夫。
つまどり…[名] 〈時代別上代〉「未詳。布の端を引くこととする説、妻取り〔中略〕とする説などがある。」 〈時代別上代〉「ツマ取りして」〈釈紀〉「都摩怒唎絁底ツマトリシテ。【妻取也。】
まさきづら…[名] 「まさきのかづら」の異名か。
まさきのかづら…[名] 常緑のつる性植物。テイカカズラ(キョウチクトウ科テイカカズラ属)であろうと言われる。
たたく…[自]カ四 軽くたたく。
あざはる…[自]ラ四 からみあう。
うまい…[名] 安眠に入ること。
…[名] ところ。
ねど…[名] 寝るところ。
はし…[形]シク いとおしい。
はしけく…[形+接尾] 「はし」の上代の未然形「はしけ」のク語法。 形容詞「はしけし」は辞書にない。 〈釈紀〉「婆絁稽矩謨ハシケクモ。【私記曰。師説。安波礼〔あはれ〕ト云語也。】
野絁磨倶儞 都磨々祁哿泥底 播屢比能
哿須我能倶儞々 倶婆絁謎鳴 阿利等枳々底
與慮志謎鳴 阿利等枳々底 莽紀佐倶
避能伊陀圖鳴 飫斯毗羅枳 倭例以梨魔志
阿都圖唎 都麼怒唎絁底 魔倶囉圖唎
都麼怒唎絁底 伊慕我堤鳴 倭例儞魔柯斯毎
倭我堤嗚麼 伊慕儞魔柯絁毎 麼左棄逗囉
多々企阿藏播梨 矢洎矩矢慮 于魔伊禰矢度儞
々播都等唎 柯稽播儺倶儺梨 奴都等利
枳蟻矢播等余武 婆絁稽矩謨 伊麻娜以幡孺底
阿開儞啓梨倭蟻慕
野絁磨倶儞(やしまくに) 都磨々祁哿泥底(つままきかねて) 播屢比能(はるひの)
哿須我能倶儞々(かすがのくにに) 倶婆絁謎鳴(くはしめを) 阿利等枳々底(ありとききて)
与慮志謎鳴(よろしめを) 阿利等枳々底(ありとききて) 莽紀佐倶(まきさく)
避能伊陀図鳴(ひのいたとを) 飫斯毗羅枳(おしひらき) 倭例以梨魔志(われいりまし)
阿都図唎(あつとり) 都麼怒唎絁底(つまどりして) 魔倶囉図唎(まくらとり)
都麼怒唎絁底(つまどりして) 伊慕我堤鳴(いもがてを) 倭例儞魔柯斯毎(われにまかしめ)
倭我堤嗚麼(わがてをば) 伊慕儞魔柯絁毎(いもにまかしめ) 麼左棄逗囉(まさきづら)
多々企阿蔵播梨(たたきあざはり) 矢洎矩矢慮(ししくしろ) 于魔伊禰矢度儞(うまいねしとに)
々播都等唎(にはつとり) 柯稽播儺倶儺梨(かけはなくなり) 奴都等利(のつとり)
枳蟻矢播等余武(きぎしはとよむ) 婆絁稽矩謨(はしけくも) 伊麻娜以幡孺底(いまだいはずて)
阿開儞啓梨倭蟻慕(あけにけりわぎも)
妃和唱曰、 妃(きさき)和(あは)せて唱(うた)ひて曰(うた)ひしく、
こもりくの…[枕] 泊瀬にかかる。「隠国の」。
いくみだけよだけ…〈釈紀〉以矩イク。【幾也。欲三竹四竹之発語也。】 〔「幾」なり。三竹四竹を読まんと欲せし発語なり。〕
もとへ…[名] 本のほう。
すゑへ…[名] 末のほう。
みもろ…[名] 三諸山〔=三輪山〕
みす…[他]サ下二 見せる。みるの使役形。
なげく…[自]カ四 〈時代別上代〉もともとナゲクは〔中略〕大息をつくことで、その原因は不満にあっても 感嘆にあってもよいわけで、讃嘆する意とした方が解釈しやすい例もある。
みなしたふ…[枕] 魚にかかる。「な下」の意。
やすみしし…[枕] 我が大君にかかる。
おばす…「帯ぶ」の未然形+軽い尊敬「す」(四段)。
たれやし…[不定人称代名詞+係助詞+副助詞] 係助詞「や」は、連体形(「なげく」)で結ぶ。「し」は、詩文に用いる強調の副助詞。
莒母唎矩能 簸覩細能哿波庾 那峨例倶屢
駄開能 以矩美娜開余嚢開 謨等陛嗚麼
莒等儞都倶唎 須衞陛嗚麼 府曳儞都倶唎
府企儺須 美母慮我紆陪儞 能朋梨陀致
倭我彌細麼 都奴娑播符 以簸例能伊開能
美那矢駄府 紆嗚謨 紆陪儞堤々那皚矩
野須美矢々 倭我於朋枳美能 於魔細屢
娑佐羅能美於寐能 武須彌陀例
駄例夜矢比等母 紆陪儞泥堤那皚矩
莒母唎矩能(こもりくの) 簸覩細能哿波庾(はつせのかはゆ) 那峨例倶屢(ながれくる)
駄開能(たけの) 以矩美娜開余嚢開(いくみだけよだけ) 謨等陛嗚麼(もとへをば)
莒等儞都倶唎(ことにつくり) 須衛陛嗚麼(すゑへをば) 府曳儞都倶唎(ふえにつくり)
府企儺須(ふきなす) 美母慮我紆陪儞(みもろがうへに) 能朋梨陀致(のぼりたち)
倭我弥細麼(わがみせば) 都奴娑播符(つのさはふ) 以簸例能伊開能(いはれのいけの)
美那矢駄府(みなしたふ) 紆嗚謨(うをも) 紆陪儞堤々那皚矩(うへにでてなげく)
野須美矢々(やすみしし) 倭我於朋枳美能(わがおほきみの) 於魔細屢(おばせる)
娑佐羅能美於寐能(ささらのみおびの) 武須弥陀例(むすびたれ)
駄例夜矢比等母(たれやしひとも) 紆陪儞泥堤那皚矩(うへにでてなげく)
冬十一月辛亥朔乙卯。
於朝庭、引列
百濟姐彌文貴將軍、
斯羅汶得至、
安羅辛已奚及賁巴委佐、
伴跛既殿奚及竹汶至等、
奉宣恩勅、以己汶帶沙賜百濟國。
是月。
伴跛國、遣戢支獻珍寶、乞己汶之地、
而終不賜。
汶得至…〈釈紀〉斯羅汶得至シラキノモントクチ安羅辛已奚アラノシムイケイ賁巴ホンハ委佐ヰサ。【二人名也。】 伴跛既殿奚ハヘノキテンケイ竹汶至チクモンチ
帯沙…〈釈紀〉滞沙タサ戢支シフキ
奉宣…〈百度百科〉宣布帝王的命令。
恩勅…恩詔と同じか。
恩詔…ありがたい天子のみことのり。
冬十一月(しもつき)辛亥(かのとゐ)を朔(つきたち)として乙卯(きのとう)〔五日〕。
[於]朝庭(みかど)に[引列]
百済の姐彌文貴将軍(さみもむきしやうぐむ)、
斯羅(しらき)の汶得至(もむとくし)、
安羅(あら)の辛已奚(しむいけい)及(と)賁巴(ほむは)委佐(ゐさ)、
伴跛(はへ)の既殿奚(きでむけい)及(と)竹汶至(ちくもむち)等(たち)をひきなべたまひて、
恩(めぐみ)の勅(みことのり)を奉宣(たてまつ)りて、己汶(いもむ)帯沙(たさ)を以ちて百済の国に賜る。
是の月。
伴跛(はへ)の国、戢支(しふき)を遣はして珍宝を献(たてま)つりて、己汶之(の)地(ところ)を乞へど、
而(しかれども)終(つひに)不賜(たまはらざ)りき。
十二月辛巳朔戊子。
詔曰
「朕承天緖、
獲保宗廟、
兢々業々。
間者、
天下安靜、
海內淸平。
屢致豐年、
頻使饒國。
懿哉摩呂古、
示朕心於八方。
盛哉勾大兄、
光吾風於萬國。
日本邕々、
名擅天下、
秋津赫々、
譽重王畿。
所寶惟賢、
爲善最樂、
聖化憑茲遠扇、
玄功藉此長懸、
寔汝之力。
宜處春宮、
助朕施仁、
翼吾補闕。」
…[形] びくびくする。[動] 緊張してつつしむ。(古訓) おそる。かしこまる。をひゆ。あやうし。 
兢業…緊張してひやひやするさま。
間者…①近頃。②スパイ。
…[動] かさなる。(古訓) かさぬ。たかし。
使…[動] (古訓) つかふ。つかさとる。
…[動] (古訓) ゆたかなり。にきはふ。
…[形] (古訓) よし。うれし。
…[動][形] (古訓) さかゆ。さかんなり。
…[動] (古訓) てらす。ひかる。
まろこ…[名] 男子への呼称「まろ」に「こ」をつけて親愛を示すか。
やも…[名] 八方。
…[名] 堀。[動] やわらぐ。
王畿…天子が都を置いた地方。
…[代名] (近称) これ。[動] おもう。
聖化…聖人・天子による感化。
…[動] よる。たのむ。
…[動] あおる。
…[副] ますます。[指] この。ここに。[接] すなわち。(古訓) ここに。みまし。 「茲遠」と「此長」が対になっているから、「茲」は「この・これ」の意と思われる。
…[形] くらい。奥深い(学問)。[名] 天の色。天。
…[動] ①[名] 文書。②[動] かりる。よる。前文との対応から、「憑」と同義と見られる。
…[動] かかる。かけはなれる。(古訓) はるかなり。
春宮…皇太子の住居。春宮坊は、唐代の春宮付属の官僚組織に由来し、令に定められる。
春宮坊…〈倭名類聚抄〉職員令云春宮坊【美古乃美夜乃豆加佐】〔みこのみやのつかさ〕
補闕…①ものごとの欠点を正す。②唐代の官名。天子の過ちを諫める官。
…[動] (古訓) かく。あやまつ。 
十二月(しはす)辛巳(かのとみ)を朔(つきたち)として戊子(つちのえね)〔八日〕。
詔(おほせごと)曰(の)りたまはく
「朕(われ)天緖(あまつひつぎ、あまつを)を承(う)けて、
宗廟(くに)を獲(え)て保(たも)つこと、
兢々業々(きようきようげふげふ、いとおそりたまふ)。
間者(このころ)、
天下(あめのした)安く静(しづ)けくて、
海内(わたのうち)清(さやけ)く平(たひら)げり。
豊(ゆたか)なる年を屢(かさね)致(いた)して、
饒(にぎはひ)の国を頻(ひた)使(つかさど)れり。
懿哉(うれしや)摩呂古(まろこ)、
朕心(わがみこころ)[於]八方(やも)に示せり。
盛哉(さかりなりや)勾大兄(まがりのおほえ)、
吾風(わがかぜ)[於]万国(よろづくに)に光(かかや)けり。
日本(やまと)邕々(やはらか)にありて、
名(みな)天下(あめのした)を擅(ほしきまにまに)して、
秋津(あきづ)赫々(あきらかにあ)りて、
王畿(うちつくに)を重ぬることを誉む。
所宝(たからとなれる)は惟(これ)賢(さと)し、
善(よき)を為(する)は最(もとも)楽し、
聖化(ひじりののり)茲(これ)を憑(たよ)りて遠(とほく)扇(あふ)く、
玄功(くろきいさみ)此(これ)を籍(たよ)りて長く懸(かか)る、
寔(まこと)汝(いまし)之(が)力(ちから)なり。
宜(よろしく)春宮(みこのみや)に処(ところ)して、
朕(われ)を助(たす)けて仁(めぐみ)を施(ほどこ)して、
吾(われ)を翼(たす)けて闕(あやまち)を補(なほ)すべし。」とのりたまふ。
《五経博士》
 五経博士については、『漢書』表八に、「武帝建元五年〔前135〕初置五経博士。宣帝黄龍元年稍増員十二人」とある。
 「五経」とは、儒教の基礎をなす文献だという。 出典を探すと、白虎通〔後漢章帝(在位75~88年)。班固著〕巻八「五経」があった。
――「五經何謂。易尚書詩禮春秋也。禮解曰:溫柔寬厚詩教也。疏通知遠書教也。廣博易良樂教也。潔靜精微易教也。恭儉莊敬禮教也。屬詞比事春秋教也〔五経いかに謂ふか。易・尚書・詩礼・春秋なり。礼解曰く:温柔寬厚は詩の教(をしへ)也(なり)。疏通知遠は書の教也。広博易良は楽の教也。潔静精微は易の教也。恭倹荘敬は礼の教也。属詞比事は春秋の教也〕
 ※…「礼解」は、書名としか考えられないが、検索してもこの書名は見つからない。強いていえば『周礼解詰』(鄭興)が近い (鄭玄に至る「周礼」解釈の変遷について)。
 この文章から、五経とは「易・尚書・詩・礼・春秋」の五書で、本来は六経で「詩・書・楽・易・礼・春秋」であったことが分かる。 これについては、「六経から、はやく失われた『楽』を除いたものが「五経」である」(<wikipedia>)と説明される。
 よって「五経博士」はもともと前漢で制定され、儒教の基礎文献である「五経」につての専門家であったと思われる。それから以後、代々の王朝に引き継がれたのであろう。
金橋神社
奈良県橿原市曲川町二丁目8番24号
《段楊爾》
 「段楊爾」は明らかに中国人名だから、百済が南梁〔507~557〕から招いていた五経博士の一人を倭に貸し出したか、あるいは南梁から倭に派遣する仲介の労をとったかのどちらかであろう。 何れにしても、この時期の朝廷が儒教を取り入れて国の精神的基盤にしようとしていたことが分かる。
《勾大兄皇子》
 「勾大兄皇子」は、「勾金橋宮」の地名によるものと思われる。皇子時代からここに住み、安閑天皇になったときにそのまま都にしたと読める。
 所在地は、〈大和志〉高市郡に「村落曲川マカリカハ【旧名曲金。属邑一】」、また、 「古跡:金橋宮【橋或作箸。在曲川村 安閑天皇元年遷都於勾金橋」とある。 現在JR桜井線に「金橋駅」があるが、これは町村制〔1889〕のとき復古地名として「金橋村」〔曲川村を含む六村が合併〕が定められたことによる。
 曲川村の金橋神社の案内掲示には、「権現社」が「明治維新に金橋神社と改称された」とある。
 〈大和志〉によれば「金箸宮」なる別表記があったというから、現地の伝承は江戸時代よりも古い時代に遡るのであろう。
《春日皇女》
和珥氏系図抜粋(〈姓氏家系大辞典〉所引「駿河浅間神社所蔵『和邇氏系図』」より)
 春日皇女には、春日山田皇女山田皇女山田大郎皇女赤見皇女という表記がある。 仁賢天皇紀によれば父は仁賢天皇、母は和珥臣日爪の娘の糠君娘、あるいは和珥臣日触の娘の大糠である。
 仁賢天皇段では名前は春日小田郎女(写本によっては春日山田郎女)、母は和邇日爪臣の娘の糠若子郎女とする(第226回)。
 歌謡で「はるひ春日にくはし女ありと聞きて」と歌われるので、 一般に春日和珥氏の系譜の女性と考えられていたと見ていいだろう。 〈姓氏家系大辞典〉の和邇氏系図(右図)では、米餅搗大臣命の方から繋がり、「和珥臣日触の娘」説は無視している。
 第230回の【樟葉宮】の項で見たように、継体帝の元に和珥氏系の諸族を集結させていたと見られ、 勾大兄皇子の妃として春日皇女を迎えたのも、その動きの一部ではないかと思われる。
《己汶》
神功皇后紀四十九年に載る小国群(位置は推定)。 〈〉内は域内国と見られる(資料[32])。 赤枠の国は、「朝廷に引列」。
 「伴跛国」が出てくるのは、継体天皇紀7~9年だけである。「既殿奚」という名前については、欽明天皇紀二年・四年に「任那旱岐」の一人として、加羅「上首位古殿奚」という類似する名前がある (資料[32])。
 卒麻国・散半奚国は加羅国の域内国と見られるから、加羅の実体は小国連合かも知れない。 「伴跛国」もその一国で、「既殿奚」は継体朝では伴跛国の将軍であったが、 欽明朝では連合体「加羅国」の「上首位古殿奚」になっていたのかも知れない。
 さて、書紀はしばしば百済など三韓地域の諸国を倭の従属国の如くに表現するが、それは実体に反する。 例えば、欽明天皇紀において、百済王は倭が目指す任那再建に協力するような素振りを見せつつ、 実際には自国の利のために利用できることは利用しようとして、したたかに振る舞っている (資料[32])。
 ただ、近隣国として交流そのものは活発であった。 その手続きのひとつとして形式的な冊封関係を結ぶことはあったようで、〈続紀〉宝亀五年〔774〕には、新羅がその形式的な冊封関係さえも破棄した記事が載る (資料[12])。
 このように倭は領土の帰属を裁定する立場にはないが、中立国として協議の会場を提供したということなら、十分考えられる。 後に伴跛国による裁定を覆そうとする要請を拒否したのも、新羅・百済・安羅による協議の結論を覆すことはできなかったからであろう。
 その会場は「朝廷」と書かれる。 十年条に出てくる「朝廷」は百済国の朝廷らしいのだが、 ここの「朝廷」は、百済・新羅・安羅・伴跛の使者を「引列」させて「恩勅」を「奉宣」するから、 倭国の朝廷であろう。協議のためにわざわざ遠隔地の難波にやって来るものかとも思えるが、 領土問題について協議する場合、協議会場を当事国に置くことは難しい。 だから、中立国である倭に会場の提供を要請したことはあり得るかも知れない。 そこに「任那」と書いていないことは注目に値する。 もし「任那国」が倭の出先として確固として存在すればそこを用いるはずだから、やはり「任那国」の実在感は薄い。
 さて、実際には協議会場を提供しただけのことを、 倭が宗主国であるかの如く「-願天恩判上レ本属」、「-宣恩勅己汶帯沙百済国」と書くのは、 潤色のようにも見える。 しかし、当時の外交文書においても、この程度の儀礼的表現は当たり前であろう。 資料[32]において、 「書紀による粉飾という見方もできるのだが、 外交文書においては、相手国の王を形式上最大限に持ち上げる書き方がなされたのは事実だと思われる」と述べた通りである。
《春宮》
 春宮については、『令義解』-「東宮職員令」に、「傅一人。学士二人。春宮坊…」とある。「」は、東宮職員のトップとして、傅育〔そばについて身分の高い人の子を守り育てる〕にあたったと見られる。 「春宮坊」は官僚組織であり、その構成員は「大夫一人。大進一人。少進二人。大属一人。少属二人。使部三十人。直丁三人。」である。 春宮坊はまた、三監(舎人監、主膳監、主蔵監)六署(主殿署、主書署、主醤署、主工署、主兵署、主馬署)を管轄する。
 これらは令〔大宝令・養老令〕で定式化されたものだが、継体天皇の時代にはその組織の原型が存在したか、または物語上でこの時代まで遡らせたものであろう。 あるいは、書紀執筆者が「立為太子」を「処春宮」と表現しただけかも知れない。 春宮坊は中国由来の皇太子付属の組織〔または単に皇太子の住居〕であるから、勾大兄皇子を「春宮」は、 通常なら「立勾大兄皇子為太子」と書かれるところである。
《朕承天緖獲保宗廟…》
 継体天皇のは要するに、「今や国は益々栄えつつある。天子の徳を国中に広げることができたのはお前のお陰である。 お前の人柄は大変優れているから、皇太子となって天子を補翼せよ。」ということである。
 なかなか表現が難解なので、漢籍を下敷きにしたと見て捜したが、今のところ発見できない。 漢籍の利用といえば顕宗天皇紀で甚だしく、そのためか中には辻褄の合わない箇所もあった。しかしこの詔の場合は文章の流れそのものはスムースから、 書紀によるオリジナルかも知れない。
 ただ、書紀原文作成者にこれだけの韻文作成能力ががあれば、他の顕宗天皇などの韻文も自力で作れたはずである。 だから、ひょっとしたら立太子のとき〔勾大兄皇子とは限らず、後世の?〕に実際に用いられた詔が残っていて、それをここに置いたのかも知れない。
《朕》
 については、『独断』〔三国時代;蔡邕撰〕に次のような説明がある。
――「漢天子正號曰皇帝。自稱曰朕。臣民稱之曰陛下。其言曰制詔。史官記事曰上。車馬衣服器械百物曰乘輿〔漢の天子は、正号曰く「皇帝」、自称曰く「朕」、臣民之を称して曰く「陛下、その言曰く「制詔」、史官の記事に曰く「上」、車馬・衣服・器械ら百物曰く「乗輿」〕
――「朕我也。古者尊卑共之貴賤不嫌則可同號之義也。堯曰朕在位七十載皋陶與帝舜言曰朕言惠可底行。屈原曰朕皇考。此其義也。至秦。天子獨以稱。漢因而不改也。〔朕、我なり。古(いにしへ)は尊卑共にこれ嫌はず則ち同号の義なるべし。堯曰く「朕在位七十年」、皋陶と帝舜の言に曰く「朕言ふ、恵み底行すべし」、屈原曰く「朕、皇考に」此れその義なり。秦に至り、天使独り称のために以(もちゐ)る。漢、因って改めず。〕
 このように、古くは誰でも自分のことを偉ぶって言いたいときは「」と称したが、秦の始皇帝に至り天子専用の一人称代名詞となり、漢代でもこれを継承している。
 漢籍からが天子の言葉の中に共存する例を探したところ『史記』高祖本紀に見つかったが、これは極めて希な例で、ほぼ「」に統一されている。
《朕と吾》
 よって公的な制詔の中に「」と「」が混用されることは基本的にはない。 だからこの作者は原則を踏み外したように思われるが、一方で対句における「朕心」「吾風」の対応などの巧みさは、修辞法に習熟した人物と感じさせる。 よって韻文の作者は恐らく日本人で、 彼は言語としての中国語には習熟しているが、中国文化そのものについての知識が不十分だというアンバランスがあったと考えざるを得ない。
 「吾」を中国人執筆者が「朕」に訂正しなかったのは理解に苦しむが、 大王の古い詔の実物が残っていたのかも知れない。 その引用においては、例え不適切な点があったとしても天子の詔である以上、一字一句いじらずに残すという、 学問上の伝統があったことが考えられる。
《歌意-第一歌》
八洲国 妻ぎ兼ねて 春日はるひ春日かすがの国に 妙女くはしめを 有りと聞きて 宜女よろしめを 有りと聞きて 真木割く 檜の板戸を 押開き 吾入り坐し 足処あと取り 妻取りして 枕取り 妻取りして 妹が手を 吾に巻かしめ 吾が手をば 妹に巻かしめ 真樹蔓まさきづら 叩きあざはり 宍串ろ うま睡寝いねに 庭つ鳥 かけは鳴くなり 野つ鳥 きぎしとよしけくも 未だ云はずて 明けにけり吾妹わぎも
〔 全国に妻を求めて求めきれず、春日に細やかに麗しいよい女がいると聞き、檜の板戸を押し開いて私は入る。 足元から、枕元から妻として抱き、妹の手を私に絡めさせ、私の手を妹に絡めさせて交わる。 鶏が鳴き雉が騒ぎ、愛しいとも未だ言えずにやがて夜は明ける。愛しいお前よ。 〕
 第一歌は、大国主段で大国主命が沼河比売(ぬかはひめ)に求婚する歌 (第64回)と、 よく似ている。妻問の歌謡のひとつの類型かと思われるが、 大国主段の歌を変形させてここに用いた可能性もある。 書紀は大国主段全体を廃しているが、その歌謡の一部を利用したのかも知れない。
 「つまとり」は〈時代別上代〉の項目「あと」の例文で「ツマ取りして」と解釈して見せるように、現在では「端の方」と解釈するのが主流である。 「足元」と「枕元」を寝床の両端と見たのであろう。 それに対して、〈釈紀〉は「都麼怒唎絁底ツマトリシテ。【妻取也。】」とする。 現代解釈は、「妻」の繰り返しはあまりにくどいと考えた結果かも知れない。しかし、この歌を声に出して読んでみればどのツマも「妻」に聞こえる。 「」を何度も繰り返すことにより、むしろ音韻的効果を狙ったと見るべきだろう。
 「阿都図唎」は、意味から考えてアト(足取)であることは確定的である。 アツに足の関連語と見られる例はないのに対して、アトは「足」と見られ、また「跡」にも通ずるからである。 しかし、同じ歌の中で「」を〔上代は[tu]と発音〕に使っているから、純粋に発音として見れば阿都図唎はどう見てもアツトで、もしアトトリなら「阿図々唎」と書くであろう。
 考えられるのは、話者が[atotori]と発音したつもりが、前後の関係から一つ目のトがやや[tu]に近づき、 それが中国人の歌謡書き取り担当者の耳に、[atutori]と聞こえたのではないかということである。 だとすれば、この歌謡を書き取った人は倭語をよく知らない人物ということになるが、 これ以外に合理的説明は思い浮かばない。
《歌意-第二歌》
隠国こもりくの 泊瀬の川 流れ来る 竹の 幾三竹四竹 本辺をば 琴に作り 末辺をば 笛に作り 吹きす 三諸が上に 登り立ち 我が令見みせ角障経つのさはふ 磐余の池の 水下経みなしたふ 魚も 上に出て感嘆なげ八隅知やすみしし 我が大君の おばせる 細紋ささらの御帯の 結び垂れ 誰やし人も 上に出て感嘆く
〔 初瀬川を流れ来る竹が三本、四本。本の方を琴に作り、末の方を笛に作って吹きならして三諸山の上に登り立ち、 私が見せてあげましょう、魚が水の上に出て感嘆する様を。大君は身が着けているささら〔細かな文様〕の帯が結び垂れ、 人は誰彼となく上に出て感嘆します。 〕
 「見す」は使役形である。使役が尊敬に転ずることはあり得るから、自敬かも知れない。 しかし、歌の流れは、笛の音につられてた魚が水面から跳ね上がって踊ると読むことも可能である。 ならば、私が笛を吹きならして、磐余池の水面で魚が躍る様を見せてあげましょうという、積極的な使役形ではないだろうか。
 第二歌では、舞台は泊瀬や磐余に移る。 深読みすれば、私が磐余の民を躍らせて大君を大歓迎させて見せるから、いよいよ伝統の地に都を開きなさいませということか。
《大意》
 七年六月、 百済の姐弥文貴将軍(さみもんきしょうぐん)と洲利即爾(すりそに)将軍とを遣わして、穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を副として 【百済本記に、委意斯移麻岐彌(いおしいまきみ)という。】、 五経博士(ごきょうはかせ)段楊爾(だんように)を貢上しました。
 別に上表し「伴跛国(はへのくに)、臣の国の己汶(いもん)の地を略奪しました。 伏して願います。天恩をたれて本属に還すよう審判されますように。」と願いました。
 秋八月二十六日、 百済の太子淳陀が薨じました。
 九月。 勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)は、自ら春日皇女(かすがのひめみこ)を招かれました。
 このとき、月夜に清かに語らい、空の曉となるも覚えず、 斐然の藻〔=美辞麗句の形容〕、忽然と言葉が形づくられ、口誦しました。
――八洲国 妻覓(ま)ぎ不勝(かね)て はるひの 春日の国に 妙(くは)し女(め)を 有りと聞きて 宜(よろ)し女を 有りと聞きて まきさく 檜(ひ)の板戸を 押し開き 吾入り坐し 足処(あと)取り 妻取りして 枕取り 妻取りして 妹が手を 吾に巻かしめ 吾が手をば 妹に巻かしめ まさきづら 叩き交(あざ)はり ししくしろ 甘睡寝(うまいね)し処(と)に 庭つ鳥 鶏(かけ)は鳴くなり 野つ鳥 雉(きぎし)は動(とよ)む 愛(は)しけくも 未だ言はずて 明けにけり吾妹(わぎも)
 妃は、和して口誦しました。
――こもりくの 泊瀬の川ゆ 流れ来る 竹の 幾三竹四竹 本方(へ)をば 琴に作り 末方(すゑへ)をば 笛に作り 吹き鳴(な)す 三諸が上に 上り立ち 我が見せば つのさはふ 磐余(いはれ)の池の みなしたふ 魚も 上に出て嘆く やすみしし 我が大君の 帯(おば)せる 細紋(ささら)の御帯の 結び垂れ 誰やし人も 上に出て嘆く
 十一月五日、 朝庭に[引列] 百済の姐彌文貴将軍(さみもんきしょうぐん)、 斯羅の汶得至(もんとくし)、 安羅(あら)の辛已奚(しんいけい)及び賁巴(ほんぱ)委佐(いさ)、 伴跛(はへ)の既殿奚(きでんけい)及び竹汶至(ちくもんち)等が引列し、 恩勅を奉宣して、己汶(いもん)帯沙(たさ)を百済国に賜りました。
 同じ月、 伴跛(はへ)の国は、戢支(しゅうき)を遣わして珍宝を献上し、己汶の地を乞いましたが、 遂に賜ることはできませんでした。
 十二月八日、 詔しました。
――「朕は天緖〔神からの血筋〕を承(う)け、 宗廟〔=国家〕を獲、維持するは、 兢々業々(きょうきょうぎょうぎょう)〔=畏れ多い〕である。
 この頃は 天下安静、 国内清平、 豊年を益々致(いた)して、 饒国をひたすら司(つかさど)る。
 懿(うれし)や麿子(まろこ)よ、わが御心を八方に示す。 盛(さかん)なるや勾大兄(まがりのおおえ)よ、わが御風を万の国に輝かせる。 日本(やまと)は邕々(ようよう)に〔=穏やかにまとまり〕、 御名は天下を擅(ほしいまま)にして、 秋津島〔=日本国〕は赫々(かくかく)で〔=明るく輝き〕、 王畿を重ねる〔=都での統治を継ぐ〕ことは誉(ほまれ)である。 〔あなたが〕宝とされるところは、賢いところ、 〔あなたが〕善であるところは最も楽しいところ。 聖化〔=天子の徳による統治を広めること〕は、これを頼りにして遠く広がり、 玄功(げんこう)〔=深遠な功〕は、これを頼りにして長くはるかに及ぶ、 実(まこと)にあなたの力である。
 宜しく春宮〔=東宮、皇太子の宮処みやどころ〕に身を置き、 朕を助けて仁を施し、 朕を翼(たす)けて至らざるを補うべし。」


まとめ
 継体天皇七年〔癸巳;513〕は、『三国史記』年表巻によると、新羅の智證祖摩王〔智證麻立干〕十四年に相当する。 また、百済は斯摩王〔武寧王〕十三年。伴跛国が出てくる継体天皇九年までの期間に、 新羅本紀にはそれらしい事件は載らない。外交に関しては、前年の十三年に鬱陵島(ウルルン島)の于山国の帰服〔=服属〕が載るぐらいである。
 また百済本記では武寧王十三~十五年は空白で、その前後には高句麗による侵攻に悩まされる記事が並ぶのみである。
 したがって、百済と伴跛国による領土紛争の真相を客観的に知る事は難しい。 仮に、百済・新羅の記録に残るほどの大事件ではなかったのだとすれば、南部の辺境におけるごく局地的な出来事ということになろうか。
 さて、「阿都図唎」の件から知れるのは、書紀歌謡は音声を聞こえたまま物理的に写し取っていることである。 従って、その表記には話者の癖や隣接する音節間の干渉によって、本来の単語の文字列から一定程度のぶれが生じていることになる。 書紀においてはこの、いわば生データというべきものに対して、倭語としての意味を解析して標準化する作業が十分になされていない可能性がでてきた。 これは、書紀歌謡を読み取る上で重要な観点であると考える。



2019.08.31(sat) [17-04] 継体天皇4 


12目次 【八年~十年】
《春日皇女晨朝晏出有異於常》
八年春正月。
太子妃春日皇女、晨朝晏出、有異於常。
太子意疑、入殿而見、
妃臥床涕泣、惋痛不能自勝。
太子怪問曰
「今旦涕泣、有何恨乎。」
妃曰、
「非餘事也。
唯妾所悲者。
飛天之鳥、爲愛養兒樹巓作樔其愛深矣。
伏地之蟲、爲護衞子土中作窟其護厚焉。
乃至於人、豈得无慮。
無嗣之恨、方鍾太子、妾名隨絶。」
於是、太子感痛而奏天皇。
詔曰
「朕子麻呂古、汝妃之詞深稱於理。
安得空爾無答慰乎。
宜賜匝布屯倉表妃名於萬代。」
…[名] あさ。とき。(古訓) あけぬ。あした。とき。
晨朝…類義語の並列による熟語と見られる。
…[形] 時刻が遅い。
晏出…晏起(朝寝坊する)の類義語と見られる。
こと(異、殊、別)…[名] 異なっていること。〈時代別上代〉コトナリという形容動詞の例も見当たらない。
…[動] うらむ。
()…[名] (古訓) のこり。ほか。
…[動] あつまる。あつめる。
…[動] (古訓) いたむ。かなふ。
…[動] つりあわせてはかる。(古訓) かなう。
八年(やとせ)春正月(むつき)。
太子(ひつぎのみこ)の妃(きさき)春日皇女(かすかのみこ)、晨朝(あさ)晏(おそ)く出(い)づる、[於]常(つね)に異(こと)に有り。
太子意(こころ)疑ひて、殿(との)に入りて[而]見(め)せば、
妃、床(とこ)に臥(ふ)して涕泣(な)きて、惋(うらみ)痛(いた)かりて、自(みづから)勝(か)つこと不能(あたはず)。
太子怪(あやし)びて問ひて曰(のたまひしく)
「今旦(けさ)に涕泣(な)く、何(いかに)恨みて有るか[乎]。」とのたまひき。
妃(きさき)曰(まを)したまひしく、
「余(ほか)の事(こと)には非(あらず)[也]。
唯(ただ)妾(わが)所悲(かなしびとおもはゆる)者(は)、
天(あめ)に飛ぶ[之]鳥、愛養(やしなへる)児(こ)の為(ため)に樹の巓(うへ、いただき)に樔(す)を作りて、其の愛(うつくしび)深し[矣]。
地(つち)に伏す[之]虫(むし)、護衛(まもれる)子(こ)の為に土の中(した、うち)に窟(す、むろ)を作りて其の護(まもり)厚し[焉]。
乃(すなは)ち[於]人に至れば、豈(あに)得(え)慮(おもひはかること)无(な)きや。
嗣(ひつぎ)無き[之]恨(うらみ)、方(まさに)太子に鍾(あつ)まらむとして、妾(やつかれ)の名(な)隨(ゆくまにまに)絶えむ。」とまをしたまひき。
於是(ここに)、太子感痛(こころいたくあ)りて[而]天皇(すめらみこと)に奏(まを)したまへば、
詔(みことのりたまひしく)[曰]
「朕子(わがみこ)麻呂古(まろこ)、汝妃(ながきさき)之(の)詞(ことば)深く[於]理(ことわり)に称(かな)へり。
安(いづくにそ)爾(それ)空(むな)しく答(こたへ)無きに、慰(なぐさ)むるを得むや[乎]。
[宜]匝布(そふ)の屯倉(みやけ)を賜(たまは)りて、妃(きさき)の名(みな)[於]万代(よろづよ)に表(あらは)すべし。」とのりたまひき。

《安得空爾無答慰乎》
 「安得空爾無答慰乎」を文法から考えてみよう。
 「」(いづくんぞ)は、疑問または反語の副詞で、しばしば語尾に「哉」「乎」「也」を伴う。 「安得」は、可能を表す助動詞「」とともにもちいたもので、 「どうして~できようか」という反語によって実際には「できない」ことを表すが、転じて実現への願望「なんとか~したい」を表すことがある。
 「」は、ここでは代名詞「このようなことを」として次の「無答」を導く。 「無答」への指示詞〔その、答え無きこと〕と見ることもできるが、「爾無」と区切った方が自然である。 「空爾」・「無答」はいづれも存在文〔語順では目的語であるものが、実質的な主語となる形〕と見られる。 そして、それぞれの動詞句が名詞化し、「於空爾無答」となって「」を連体修飾し、「」が省略されたと見ることができる。
 すなわち、「安得爾無」。
 「」を「いづくんぞ…」と訓むのは、平安以後に漢文訓読体から生まれたもので、「いづく」は本来「何処〔=where〕である。 だが、「いづくにそ」は、上代語としても通用する言い回しだと思われる。
 ここでは、慰め得る手立てを何とか見つけたいという前向きの言葉だから、 否定というよりは願望の方であろう。 文末の「」について〈漢辞海〉は、願望:「哉」がつかない、反語:時に「哉」がつくと述べるが、一概には言えないと思われる。 上代語に直してもなお反語と願望の区別はつかず、文脈または話者の語調や表情によって判断すべきものだろう。
《匝布》
 匝布は、一般的に「佐保」(さほ)の別表記と考えられている。
 「」については、雄略天皇九年 では「匝羅〔新羅の地名〕サワラと訓む。サワラには「草羅」の表記もあるから、「」は「サフ」にあたる。 ただ、「匝」の漢音は「サウ」だが、呉音は「ソウ」だから、「匝布」の「匝」はソの可能性もある。 〈時代別上代〉の音仮名一覧では、「匝」は万葉集と書紀に使われるのみである。 具体的に見ると万葉集では一例のみ、「(万)0443 牛留鳥 名津匝来与 にほどりの なづさひこむと」で「さひ」にあたる〔なづさふ:水に浮かび水に足を取られる〕。 書紀には四例出てくるが、そのうち二例は「羅列匝拝〔ならびめぐりてをろがむ〕は訓読みで、音仮名は「匝羅」と「匝布」である。 結局音仮名の「」は3例しかないから、「」も排除しきれない。
 一方、音仮名「」については〈時代別上代〉では「」のみ、 〈学研新漢和〉では「」である。 特に万葉集では548例すべてが「」である。だから、一般に「布にはない」と言い切ってもよいであろう。
 サホの別表記は 「狭穂」(垂仁紀)、 「沙本」(垂仁段:第117回)、 「佐裒」(武烈即位前歌謡)、 「蔵宝」(元明紀養老五年 で、これらはすべて迷う余地のない「」である。 以上を総合的に見ると、ホに「布」を用いるのは相当に疑問である。
 そこで「布」はであると割り切って考察を進めよう。 一つの考えとして、添上郡・添下郡のソフ(〈倭名類聚抄〉{【曽不】})は、もともと律令以前の行政区画「層富県ソフアガタ、ソフノコホリ」が分割されたもので、「ソフ」は 万葉歌の「佐保」から転じたのかも知れない。 とすれば、サホ⇒サフ⇒ソフと変化し、その途中に「匝布」があったようにも思える。
 しかし、ソフになったのはあがた名のみで、局所地名としての佐保川と佐保山は相変わらずサホである。 その時期も、「層富県」は律令郡成立前にあったから、遅くとも7世紀半ばの時点ではソフであった。 だから、かなり古い時代から、ソフはソフである。 逆にサホ(佐保)の古名がサフで、古い時代の表記「布」が残ったという理屈も成り立つが、真偽はますます不明である。
 さて、文脈では春日皇女の御名代になったことが、地名「春日」の由来と読める。 〈倭名類聚抄〉{添上郡・春日郷}が春日大社の辺りだとすれば、御名代が「層富県」に属していることは間違いない。
 問題は、春日郷が「佐保」と呼ばれた範囲に入っていたかかどうかである。 「佐保山」は、南は佐保川、南東隅を佐保山南陵(聖武天皇)・同東陵として、北は奈良・京都の県境、西は関西本線の範囲であろう(資料[03])。 春日郷の広さは不明だが、隣接する「宅春日神社」は大宅郷だと考えられているので、春日郷はそんなに広くないと思われる。 そこは佐保山(平城山丘陵東部)・佐保川からは離れている。だから、サホ・カスガに重なりはなく、もともと別の場所の地名ではないか。
 以上から、「匝布の屯倉」はサホではなく、「ソフ県の屯倉」の意味ではないかと思えるのである。 或いは、春日大社・率川神社の辺りが元々のソフだったのが、層富県全体の呼称に転じたのかも知れない。
 とは言え、「匝布=サホ」説はかなり強固である。これがいつ生まれたものか、諸資料から時代を遡って調べる。
図書寮本
尊経閣文庫本
・『古事類苑』※1〔1896~1914〕には「サホ」とルビを振る。
・『仮名日本紀』〔江戸時代〕には「さほ」。
・『古事記伝』では、仁徳天皇段にこの部分が引用されているが、「匝布」に訓はついていない。
・〈釈紀〉〔1274~1275〕は、「匝布」への言及はない。
・図書寮本※2〔12世紀〕は「ナホ」。「サホ」の誤写か(右図)。
・前田本※3〔11世紀、仮名は12世紀と見られる※4は、「サホ※5(右図)。
・〈私記〉には、「匝布」はない。
 ※1…官製の類書(古文献からの抜粋集)。 ※2…『秘籍大観巻第15-17』。 ※3…尊経閣文庫。八木書店『尊経閣善本影印集成26』に写真製版。 ※4…※2巻末の月本雅幸論文による。 ※5…図の文字は、平安時代の字体による「サ」。
 よって、平安時代にサホと記したものが存在したのは事実である。恐らくは当時の人が、万葉歌や当時の実在地名から推定したものであろう。
 しかし、兼方は〈釈紀〉に「匝布」の項を建てず、「秘訓」にも載らない。また宣長の記伝は、これにルビを振っていない点が注目される。 それらの理由は、既にサホが定着していて議論の余地はなかった。特に根拠を示すまでには至らなかったが、サホ説は認めていなかった。 のどちらかである。
 大量に使われた「」うち、ホに用いた例が他にないことを考えると、ではないかと思えるのだが。
《春日部》
 春日皇女は、その御名代として匝布屯倉を賜ったという。 〈姓氏家系大辞典〉以下〈大辞典〉は、御名代部を 「ある天皇、並に皇室方々の御名を後世に伝ふる目的から、御生前親近し奉つた 近臣、従者、及び私有地(湯沐邑、封戸の類)に住する人民を以って組織されたもので、 御名又は御所の地名を負うのが恒である」と説明する。
 するとその御名代部の名は、春日皇女の名に因んで「春日部」ではないかと思われるのだが、 実際には春日部の発祥は継体朝より遥かに古い。 まず書紀における「春日」の初出は、綏靖天皇紀「春日縣主大日諸」である。
 ここで、春日部についてもう少し踏み込んで見てみよう。
 〈大辞典〉によると、春日部を所有した氏は三氏あり、孝昭天皇の皇子「天帯彦国押命の後なる春日臣和珥氏系図参照〕垂仁天皇の皇子「五十日帯日子王の後裔と云ふ春日山君(春日部君)」、 津速魂命の三世孫太田諸命の裔と自称する春日部村主(添県主)
 ※…記紀にはなく、先代旧事本紀に出てくる神。伊邪那岐・伊邪那美や高皇産霊と同世代の神。〈大辞典〉は、「村主」は帰化人の姓であるから、どこかの代で乗り換えがあったのではないかという。
 この三氏と春日部の関係について〈大辞典〉は、「春日の地を開化天皇より、父彦坐王を経て、 賜はつたと思はれる狭穂彦誅戮の遺領処分」、即ち、狭穂彦〔垂仁段;第116回が殺された後に遺された春日部を、三氏で分け取りしたと解釈する。
 開化天皇は、春日率川宮に遷都した第109回。 それが現在の率川神社の辺りではないかと言われるわけだが、 〈大辞典〉は、「御崩御後、それが神社として天皇を祀り奉るに何の不思議があらう。 ここに於いて私が春日率川宮が春日神社〔現春日大社。昭和21年〔1946〕に改称の最初の鎮座地ではないかと考へるのである。」と述べる。 つまり、春日率川宮がそのまま開化天皇を祭神とする率川神社となり、それが春日大社の起原であるという。
 さらに〈大辞典〉は、「美濃国春部里大宝二年戸籍に見ゆる春部里」は、「即ち和名抄の春日郷で」 「春日神社は実にその郷内に存在」し、「〔の〕社を国帳に糟河大神とあるのは音を借りたもので、 一層古社なるを思わせる」。「斯様〔そのやう〕に春日氏が古く移住した地に春日神社の存することは、 この春日氏と式帳〔=延喜式神名帳〕所載春日神社との関係の浅からざるを思はせる。」、 「此の状態から云へば春日氏の氏神的傾向を以つて居ると云はねばならぬ。」と述べる。
 ※…「国帳」は一国全体の戸数・口数・調庸物数を書き上げた統計的文書。太政官に提出する。
 そして糟河、武蔵の柏壁などは、「カスガなる語に、其の枕語なる「春日〔はるひ〕の」 の文字を一般的に宛てる、その以前のものと考へるのである」、 「思ふに、地名、氏名の如きは、美しい文字を用ふる命令好字令と、好みとから、 早く文字を改めたが、社名丈には好古〔=古きを好む〕の意味から相変らず糠河と書いたらしい」、 「奈良の春日も、もともと糟垣」だったと述べる。
 つまり、層富県の春日大社は768年に改めて藤原氏の氏神として創建される以前は、春日氏の実質的な氏神で古くは糟垣社と表記し、旧地は現在の率川神社であったという。 率川神社は、春日大社の西2km。もう一つの比定地は、北西500m(第109回)。
 そして「春日氏」は綏靖天皇に遡る。綏靖天皇は伝説上の存在であるが、ともかくは実在するどの天皇よりも古い。
 以上から、春日皇女が御名代を賜った時点では、とうの昔から春日部が存在していたことはもはや明らかである。 もし春日皇女が「御名代」ったことが史実だとすれば、春日皇女に仕えていた臣をみやつこに任命して春日部の一部を割いて下につけ、 御名代の性格を帯びさせたと解釈するのが精いっぱいである。
《大意》
 八年正月、 太子(ひつぎのみこ)の妃春日皇女(かすかのひめみこ)は、朝遅くなっても起き出されず、これは常とは異(い)なることでした。 太子の心に疑いが湧き、寝殿に入ってご覧になると、 妃は、床に伏して泣き、うらめしさに自ら勝てない様子でした。
 太子は怪訝に思い、 「今朝に限って泣いておられますが、何か恨めしいことがおありですか。」とお尋ねになりました。 妃は、このようにお答えしました。
 「他でもありません。 ただ、妾(わらわ)が悲しく思われるのは、 空に飛ぶ鳥は、愛し養う子のために樹の頂に巣を作って、深く慈しみます。 地に伏す虫は、大切に護る子のために土の中に巣を作って、厚く護ります。 そして人に至れば、考えるまでもないでしょう。 嗣子がない恨みは太子に集まることはあっても、妾の名はこのまま忘れられるでしょう。」
 そこで、太子は痛切に感じ、天皇(すめらみこと)に奏上したところ、 詔(みことのり)を発せられました。
――「朕の子、まろこよ、あなたの妃の言葉は深く理(ことわり)に適っている。 これは虚しく答の無いことであるが、何とかして慰めてやれないものか。 そこで、匝布(そふ)の屯倉(みやけ)を賜り、妃の御名を万世に表すこととする。」

《築城於子呑帯沙》
三月。
伴跛、築城於子呑帶沙而、
連滿奚置烽候邸閣、
以備日本。
復、築城於爾列比麻須比而、
絙麻且奚推封、
聚士卒兵器、以逼新羅。
駈略子女、
剥掠村邑、
凶勢所加、
罕有遺類、
夫暴虐奢侈、
惱害侵凌。
誅殺尤多、不可詳載。
子呑帯沙而連満奚…〈釈紀〉〔巻十七;秘訓二。以下同じ〕子呑シトン帯沙タサ満奚マンケイ
烽候…敵の様子を探り、烽火を上げる番兵。
うかみ…[名] 斥候。スパイ。
邸閣…①立派な屋敷。②食料を貯蔵する倉庫。〈前田本〉邸閣舎也〔いへなり〕
爾列比…〈釈紀〉爾列比ニレツヒ
麻須比…〈岩波文庫版〉卜部兼右本は「麻次比」。〈前田本〉。〈釈紀〉麻次比マスヒ
麻且奚推封…〈釈紀〉麻且奚マショケイ推封スイフ
…①[形] ゆるい。②[名] 太い張り綱。=
()…[名] 太い張り綱。[動] ぴんと張る。
駆略…追い払って財産を奪う。
村邑…〈釈紀〉スキ。【ムラヲ】。
…[形] まれ。
奢侈(しゃし)…おごり。ぜいたく。
侵凌…その人の領域を犯し、そのひとを凌ぐ。
もとも…[副] 最も。まさに。
三月(やよひ)。
伴跛(ひは)、[於]子呑(しとむ)帯沙(たさ)に城(き、さし)を築(つ)きて[而]、
満奚(まむけい)に連(つら)ねて、烽(とぶひ)の候(うかみ)の邸閣(いへ)を置きて、
以ちて日本(やまと)に備(そな)ふ。
復(また)、[於]爾列比(にれつひ)麻須比(ますひ)に城を築きて[而]、
麻且奚(ましよけい)推封(すいふ)に絙(つなわた)して、
士卒(いくさひと)兵器(つはもの)を聚(あつ)めて、以ちて新羅(しらき)に逼(せ)まりき。
子女(こども)を駆略(おひうば)ひて、
村邑(むらむら)を剥(は)ぎ掠(かす)めて、
凶(あ)しき勢(いきほひ)所加(くははえ)て、
遺(のこさえし)類(うから)の有ることも罕(まれ)なり。
夫(それ)暴虐(あらくしへた)けて奢侈(おご)りて、
悩(なやま)せ害(そこな)ひて侵(をか)し凌(しの)げり。
誅殺(ころすこと)尤(もとも)多(さは)にありて、詳(つまひらか)に載(の)す不可(べくもあらず)。
九年春二月甲戌朔丁丑。
百濟使者文貴將軍等、請罷。
仍勅、副物部連【闕名】遣罷歸之。
【百濟本記云、物部至々連。】
是月。
到于沙都嶋、
傳聞、伴跛人懷恨銜毒恃强縱虐。
故、物部連、率舟師五百、
直詣帶沙江。
文貴將軍、自新羅去。
姐彌文貴将軍…七年条に、「姐彌文貴(さみもんき)将軍」。
物部至至連…〈釈紀〉物部至至連モノゝヘノチゝノムラシ
沙都嶋…〈釈紀〉沙都嶋サトノセマニ/サトセマニ
…[名] くつわ。(古訓) うまのくちわ。[動] ふくむ。くわえる。(古訓) ふふむ。
…[名] どく。[名] 害を与える。〈前田本〉アシキ[コトヲ]※
…[動] (古訓) おもふく。いたる。
帯沙江…〈釈紀〉帯沙エニ
…[名] 中国では長江を指すが、朝鮮半島の現代地名では、一般的に川の名を「~〔ガン〕」という。 倭語では「江」は「え」(入り江)の意味に使われる。したがって、ここでは「かは」と訓読すべきである。
※…[]内はオコト点の読み下し。
九年(ここのとし)春二月(きさらぎ)甲戌(きのえいぬ)を朔(つきたち)として丁丑(ひのとうし)〔十一日〕。
百済(くたら)の使者(つかひ)文貴将軍(もむきしやうぐむ)等(ら)、罷(まかりづ)ることを請(こ)ふ。
仍(すなはち)勅(おほせごと)したまひて、物部連(もののべのむらじ)【名を闕(か)く。】を副(そ)へて遣(つかは)して罷帰[之](まかりかへさ)しむ。
【百済本記(くたらほむき)に、物部至至連(もののべのししのむらじ)と云ふ。】
是の月。
[于]沙都嶋(さつしま、さとせま)に到りて、
伝へ聞くに、伴跛(はへ)の人、恨(うらみ)を懐(おも)ひて、毒(どく、よこしまなるこころ)を銜(ふふ)みて、強(つよき)を恃(たの)みて縦(ほしきまにまに)虐(しへた)げり。
故(かれ)、物部連、舟師(ふないくさ)五百(いほふね)を率(ゐ)て、
帯沙(たさ)の江(かは)に直(ひた)詣(いた)りき。
文貴将軍、新羅(しらき)自(ゆ)去(ゆ)きき。
夏四月。
物部連、於帶沙江停住六日。
伴跛、興師往伐。
逼脱衣裳、劫掠所齎、盡燒帷幕。
物部連等、怖畏逃遁、
僅存身命、泊汶慕羅。
【汶慕羅、嶋名也。】
汶慕羅…〈釈紀〉モンゝ文慕羅モンラニセマノ名】。 〈前田本〉汶慕文門
…[副] ことごとく。
…[動] せまる。近くまで迫る。無理強いする。(古訓) しふ。
…[動] もたらす。(古訓) もつ。
劫掠…おどしてうばいとる。
おびやかす…[他]サ四 「おびゆ」の他動詞形。 
…[名] とばり。周囲を取り巻いてたらす幕。
とばり…[名] 室内に仕切りのために垂らす幕。屋外にも使ったかも知れない。
…[動] ある。たもつ。(古訓) あり。ととむ。のこる。
身命…からだといのち。
夏四月(うづき)。
物部連、[於]帯沙(たさ)の江(かは)に停(は)て住(とど)むは六日(むか)。
伴跛、師(いくさ)を興(おこ)して往(ゆ)き伐(う)ちき。
逼(し)ひて衣裳(ころも)を脱(ぬかし)めて、所齎(もてきたるもの)を劫掠(おびやかしかす)めて、尽(ことごとく)帷幕(とばり)を焼きき。
物部連等(ら)、怖畏(お)ぢ逃遁(に)げて、
僅(わづ)かに身命(みといのちと)を存(とど)めて、汶慕羅(もむもむら)に泊(は)つ。
【汶慕羅は、嶋の名也(なり)。】
十年夏五月、
百濟遣前部木刕不麻甲背、
迎勞物部連等於己汶而
引導入國。
群臣各出衣裳斧鐵帛布助、
加國物積置朝庭。
慰問慇懃、賞祿優節。
前部木刕不麻甲背〈釈紀〉前部木刕不麻甲背センホウモクケフフマカフハヒ
…[名] ① わけたひとつ。② 小高い丸い丘。(漢音) ホウ。(呉音) ブ。
群臣…倭国においては「まへつきみたち」と訓読するが、他国なので単純に「もろもろの臣」の意となる。
をの…[名] 〈時代別上代〉きこりや大工のほか、兵士もこれを携帯した。
…[名] ① 白い絹布。また絹織物一般。② ぬさ(幣帛)。
…[接] くわうるに。(古訓) くはふ。また。
積置…〈汉典〉累積擱置〔擱置=放置、停止〕
賞禄…ほうびとして授ける禄。
…[名] 行動を自制すること。みさお。
優節…「優節」は〈中国哲学書電子化計画〉の文献にはなく、熟語として使われていない。
十年(ととせ)夏五月(さつき)。
百済(くたら)、前部木刕不麻甲背(ぜむほうもくけふふまかふはひ)を遣はして、
物部連等(ら)を[於]己汶(いもむ)に迎へ労(ねぎら)はしめて[而]、
国に引導(みちび)き入れしめき。
群臣(もろもろのおみ)各(おのもおのも)衣裳(きぬころも)斧鉄(をのねりかね)帛布(きぬぬの)を出(い)でて助(す)けて、
加(また)国つ物、朝庭(わうきゆうのには)に積み置きき。
慰問(なぐさめ)も慇懃(ねもころ)に、優(すぐれたる)節(ふるまひ)に賞禄(たまもの)をたまはりき。
秋九月。
百濟遺州利卽次將軍、副物部連來、
謝賜己汶之地。
別貢五經博士漢高安茂、請代博士段楊爾。
依請代之。
州利即次将軍…〈釈紀〉即次ソシ将軍シヤウグム
…[名] お礼の気持ち、品。(古訓) こたふ。むくゆ。
漢高安茂…〈釈紀〉漢高安茂アヤノカウアンモ
秋九月(ながつき)。
百済(くたら)、州利即次将軍(すりそじしやうぐむ)を遺(つかは)して、物部連を副(そ)へ来(き)たらしめて、
己汶の地を賜はりしことに謝(むく)ゆ。
別(こと)に五経博士(ごけふはかせ)漢(あや)の高安茂(かうあむも)を貢きたてまつりて、博士段楊爾(だんやうに)を代(か)ふことを請(ねが)ひまつりて、
請(ねがひ)に依(よ)りて之(こ)を代(か)へたまひき。
戊寅。
百濟遺灼莫古將軍日本斯那奴阿比多、
副高麗使安定等、來朝結好。
戊寅…直前に朔日が明記されているのは「九年春二月」の「甲戌朔」。これは、本稿の元嘉暦モデル(参考[C])と一致する。 このモデルによれば、「十年九月」は「乙丑朔」。すると「戊寅」は十五日となる。
灼莫古将軍…〈釈紀〉灼莫古ヤクマクコ将軍
安定…〈釈紀〉安定アンテイ
戊寅(つちのえとら)〔十五日〕
百済(くたら)、灼莫古将軍(やくまくこしやうぐむ)日本斯那奴阿比多(やまとしなぬあひた)を遺はして、
高麗(こま)の使(つかひ)安定(あむてい)等(ら)を副(そ)はしめて、来朝(みかどををろが)み好(よしび)を結ぶ。
《伴跛築城於子呑帯沙》
関係地名配置図(概念図)
朝鮮半島南岸の島々
 右の図は、伴跛の周辺地名の位置関係を推定したものである。 実際の位置を決めることはまず不可能だから、配置は概念的である。 実際にはもっと狭い範囲だろうが、見やすくするために広げて示している。 なお、参考の為に朝鮮半島南岸の主な島と河川を示した。
 倭による攻撃は伴跛の南側からと仮定してして、子呑城帯沙城をその前線に置いた。 満奚の烽(のろし)小屋の列は、子呑城・帯沙城と伴跛の都を結ぶ通信手段であろう。 「奚」というからには、満渓は渓谷か。
 爾列比城麻須比城は、文脈から見て新羅に対するものと見て東部戦線とした。 麻且奚推封に「〔綱を張った〕」とは、 新羅の物資や人の移動を妨げるために、封鎖・ 検問したという意味であろうか。
 沙都嶋は、対馬に向かう航路にあると考えられるので東部に想定した。 物部連は汶慕羅に逃げて百済に救援されたから、汶慕羅は百済寄りとした。
 己汶は百済領だが、百済・新羅に挟まれた小国群に接する東部にあったと考えられる。
 伴跛国は、せっかく得た己汶を返還させられたので、 腹いせに南部の倭の屯倉みやけの地域を攻め、また東部でも新羅に迫る。
 その屯倉の危機を知り、物部連は本国に水軍の派遣を要請し、救援のために帯沙江を上る。 ところが、己汶の件で倭を逆恨みしていた伴跛国はその憎悪を物部連に向け、 おそらく全軍を集中して攻撃したと思われる。
 物部連軍は丸裸にされ、命からがら汶慕羅に逃れた。 百済は己汶の領有が保証されたのだが、物部連はそのとばっちりをくらって酷い目に遭った。 百済人としては誠に申し訳ないという思いで、朝廷〔おそらく熊津;雄略天皇二十一年 に招き失った衣類・物資を提供し、各国の特産品を積み上げて厚くもてなしたのである。
 文貴将軍が物部連を置き去りにして、自分だけ逃げ還った引け目もあったのだろう。
《帯沙》
 「帯沙」は二十三年条の「多沙」と同じと思われる。 『三国史記』巻三十四(地理―新羅)に「河東郡。本韓多沙郡。景徳王改名」とある。
 河東郡は<wikipedia>「大韓民国慶尚南道の西部にある郡である。蟾津江を挟んで西側を全羅南道と接している」という。 つまり、河東郡は蟾津江の東岸だから、これにより帯沙江が蟾津江であることが確定する。
《物部【闕名】連》
 さて、物部【闕名〔=欠名〕】連とは誰であろうか。 百済本記の「至至」を示しながら欠名としたのは、それに類似する発音をする名前が、物部家の系図または口伝に見つからなかったためと思われる。 恐らく物部家所蔵の文書にはこの出来事の記録がなかったのであろう。 参考のために『旧事本紀』を見ると、「至至」と発音できそうな人名はなく、また継体天皇も出てこない。
 ここから後の部分は後で示すように完全に百済王を中心とした書き方なので、ほぼ『百済本記』に依って書かれたものと考えれば納得がいく。
《三国史記との比較》
 百済のこの時期は『三国史記』巻二十六「百済本紀四」の中の、武寧王十三年〔癸巳〔513〕継体七〕~十五年に相当するが、この期間には何の記事もない。 直前の十二年には「高句麗襲取加弗城…」などとあり、北部国境は高句麗による攻撃の防御に大わらわである。
 だから、南部国境で伴跛が大暴れしていたことが史実であるかどうかも分からない。 しかし、『百済本記』には載っていたのだろう。
 さて、十年九月には高麗使が訪れて誼を通じたとされる。
 この時期の高句麗は『三国史記』年表巻によれば「壬申〔492〕 〔高句麗〕文咨明王 羅雲即位 元年」、 そして「丙申〔516〕 〔文咨明王〕二十五〔年〕」である。 文咨明王は「巻十九:高麗本紀七」にあり、そのうちこの年の記事は「二十五年 夏四月 遣使入梁朝貢」のみである。
 その前後、二十二年正月から二十七年二月までの期間は、「遣使入梁朝貢」の記事のみが並び(計8回)、梁との関係には並々ならぬものがある。
 百済・高句麗が国境紛争の真っただ中にあり、また高句麗は梁との関係が最大の関心事である。 そんな時期に、高句麗が百済に仲介を頼んで倭と誼を結ぼうとしたとは、なかなか考えにくい。
 ただ、結果的には推古天皇十六年には「難波高麗館」が存在しているから、7世紀初めの時点では高句麗との外交関係が確立してたのは確かである(前回【難波館】)。 十年九月条が史実だとするならば、百済-高句麗関係は国境地帯で時々武力衝突を起こしつつ、 同時に朝廷間の外交関係も継続していたことになる。陸上で国境を接する国家間においては、案外普通のことかも知れない。
《群臣各出衣裳…》
 「群臣各出衣裳斧鉄帛布助加国物積置朝庭」には、読解が困難な箇所がある。
 「斧鉄」は辞書に載らず、『中国哲学書電子化計画』での検索では見つからない。何らかの誤字ではないかとさえ感じられる。 ただ「」については、「をの」は兵士も携帯したということだから、すべてを失った物部連軍に武器「斧」を提供したことはあり得るだろう。
 「助加」も「斧鉄」と同様に見つからず、熟語とは言えない。 一般的には「加国物」(岩波文庫版)のように、「国物(くにつもの)を足して助け」と解釈されているが、 ここではを切断してみよう。
 は、接続詞として「」のように使うことがある。そこで、 「」を名詞として「衣裳斧鉄帛布之助〔衣裳…のたすけを出(いだ)して〕、 あるいは動詞として「衣裳斧鉄帛布之〔衣裳…を出(いだ)して助け〕と解釈したらどうだろうか。 このように「之」を入れて考えると構文が確定する。 残りの部分は「加、国物積-置朝庭〔加ふるに、国つ物、朝庭に積み置けり〕と訓むことになる。 なお、この読み方をすれば「国物」は受事主語に相当し、主述を備えた完全な文とすることができる。
 ※…「受事主語」とは〈漢辞海〉によると「述語の動作・行為から働きかける対象。例:「車成」(車が完成した)」。
 このように、を接続詞として位置づけると、文の構成はかなりすっきりする。
《朝庭》
 「-置朝庭」という表現は、秦酒公の太秦伝説を想起させる( 貢物の絹を「如山積-蓄朝庭第152回)。 ここでいう「朝庭」は百済の王宮だが、書紀においては、倭国以外の王宮を「朝庭」と表現するのは珍しい。 朝庭の訓は通常なら「みかど」であるが、ミカドは天皇の宮廷または天皇自身を指すから、ここでは使えない。
 「賞禄優節」までの部分は、百済王を中心に置いた書き方である。 「群臣」も百済王に仕える臣のことである。 これらから、この部分は『百済本記』から引用したのだろう。
《日本斯那奴阿比多》
 日本斯那奴阿比多の「斯那奴」は信濃であろう。
 書紀は、人名の中の「〔やまと〕を、機械的に「日本」と表記するが、 ここではこの人物が「日本人」であることを示していると見られる。
 というのは、欽明天皇紀十一年条に 「百済本記云:三月十二日辛酉。日本使人阿比多率三舟-至都下〔日本(やまと)の使人(つかひ)阿比多、三舟(みふね)を率(ゐ)て都下に来至りき〕とあるからである。 どうやら阿比多は外交使節として、度々倭と百済の間を往復していたらしい。
 またシナヌを「信濃」「科野」と表記しないところを見ると、安定来朝の件も『百済本記』に依って書かれたのだろう。 日付「戊寅」にいつもの「○○朔」が示されないことも含め、『百済本記』をそのまま用いたとすれば辻褄が合うことばかりである。
 なお、「日本」の表記を用いているところを見ると、『百済本記』が書かれたのは天武天皇以後である。 『百済記』については、百済の学問僧に著させて献上させたものではないかと推定した (応神天皇紀3)。 『百済本記』も、同じように日本が書かせたものかどうかは分からないが、何らかの指示を与えているかも知れない。
 『百済本記云』は継体天皇紀・欽明天皇紀、『百済記云』は神功皇后紀・応神天皇紀・雄略天皇紀に限られ、
《大意》
 三月、 伴跛(ひは)国は、子呑(しとん)、帯沙(たさ)に城を築き、 満奚(まんけい)に連(つら)ねて、烽台、斥候、食糧貯蔵庫を置き、 これらによって日本(やまと)に備えました。 また、爾列比(にれつひ)、麻須比(ますひ)に城を築き、 麻且奚(ましょけい)、推封(すいふ)を綱で封鎖し〔検問所を設けたか〕、 士卒・兵器を集めて、新羅に逼迫しました。
 子女を駆略(くりゃく)〔=強奪〕し、 村々をを剥掠(はくりょう)〔=剥ぎ取り掠め取る〕し、 凶勢を加えられて、 遺された親族も数少なくなりました。
 また暴虐、奢侈(しゃし)〔=奢り高ぶるさま〕を極め、 悩害させ、侵凌しました。 誅殺は実に多く、詳しく載せることは不可能です。
 九年二月十一日、 百済の使者、文貴将軍(もんきしょうぐん)らは、帰国を願い出ました。 そこで勅を発して、物部連(もののべのむらじ)【名を欠く。】を付き添わせて帰国させました 【百済本記には、物部至至連(もののべのししのむらじ)とあります。】。
 その月、 沙都嶋(さつしま)に着いたときに 伝え聞いたのは、伴跛(はへ)の人が恨みを懐に毒を含んで〔悪意に満ちて〕、強きを頼み欲しいままに虐げていることでした。 そこで、物部連は水軍五百を率いて、帯沙江(たさがん)に直行しました。 文貴将軍は新羅経由で帰りました。
 四月、 物部連は帯沙江に停泊して留まること六日、 伴跛は、軍を興して遠征してきました。
 逼迫して衣服を脱がせ、運んできた物資を劫掠〔=脅して掠め取る〕し、軍営の帷幕(いばく)を焼き尽くしました。 物部連らは怖畏して遁走し、 僅かに身命を留めて、汶慕羅(もんもんら)に辿り着きました。 【汶慕羅は、島の名です。】
 十年五月、 百済国は、前部木刕不麻甲背(ぜんほうもくきょうふまこうはい)を遣わし、 物部連等らを己汶(いもん)に迎えて労い、 国に導き入れました。
 群臣一人ひとりが、衣裳、斧鉄、帛布(はくふ)〔絹布〕を供出して助け、 加えて各国の特産物を朝庭に積み置きました。 〔百済王は〕慇懃に慰問し、優れた貞節を賞して禄を賜りました。
 九月、 百済は、州利即次将軍(すりそじしょうぐん)を遺わして物部連を連れさせ、 己汶の地を賜ったことを謝しました。
 別に五経博士、漢(あや)の高安茂(こうあんも)を献上し、博士段楊爾(だんように)と交代させることを要請し、 倭国は要請を受け入れて交代させました。
 十五日、 百済国は、灼莫古将軍(やくまくこしょうぐん)と日本斯那奴阿比多(やまとしなぬあひた)を遺わし、 高麗(こま)の使者、安定(あんてい)を伴い、来朝して誼(よしみ)を結びました。


まとめ
 百済の「朝庭」という表現に感じた違和感は、その他の気になる箇所を併せて考えると、八年三月以後はどうやらほぼ『百済本記』に沿って書いたとする結論に達した。
 伴跛国による住民への暴虐は、新羅民に限らず、倭国の植民にも及んだことだろう。 被害が新羅の住民のみならば、そのために物部連が戦闘に立ち上がったとは、とても考えられないからである。 伴跛国は、倭国民を攻めれば倭の本国から軍勢がやって来るだろうことを予想したからこそ、予め「日本」したのである。
 その倭の屯倉の地域を、「任那」と呼んでいないことは注目に値する。記述を『百済本記』に依ったためでもあろうが、やはり倭の属国としての「任那国」は幻であろう 〔倭国とは直接の関係ない小国としての「任那」なら一時期存在したらしい;神功皇后紀4《南斉書》
 さて、八年以後のことの成り行きを見ると、その「伴跛国」は植民した倭人の一部が打ち立てた国であるように思える。
 前回は、百済・新羅・阿羅・伴跛の会議場を中立国としての倭国が提供したと、ひとまず考えた。 しかし、実際には伴跛が倭人の国であるからこそ、百済は己汶が占領された件を何とかしろと倭に言ってきたのではないだろうか。 そして、倭は百済を支持した。それによって伴跛は裏切られたと感じ、近親憎悪的に物部連に猛攻撃を加えたとすれば、ストーリーはもっともらしく成り立つのである。
 その伴跛国の広さは、どのくらいだったのだろうか。「備日本」というと、国土が海岸まで達しているような印象を受けるが、 前回は、加羅の域内国の一つだと考えた。百済・新羅に挟まれた数カ国のひとつである加羅の、さらに一部である。 伴跛の周辺地名概念図のところで、「実際にはもっと狭い範囲だろう」と書いた所以である。 軍勢は、舟軍ふないくさ五百でひねりつぶせる程度だったはずだが、敵方は倭への憎さ故に予想外に意気軒昂で、してやられてしまったわけである。



[17-05]