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2019.06.04(tue) [16-01] 武烈天皇1 ▼▲ |
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01目次 【即位前(一)】 《小泊瀬稚鷦鷯天皇》
「日晏坐朝。幽枉必達。断獄得情」を繋ぐと、 「日が暮れても(日晏)朝廷で執務し(坐朝)、 追及して冤罪(幽枉)でも構わず貫き(必達)、裁判で刑罰を決め(断獄)、思い通りにする(得情)。」 「得レ情」は、裁く側が考えた通りの結果を得るという意味であろう。 即ち、日が暮れても朝廷にいて、被告に圧力をかけ、身に覚えのないことでも認めさせて有罪に追い込む。 《後漢書》 後漢書〔5世紀〕顕宗孝明帝紀に、下敷きにした文がある。 ――「明帝善二刑理一。法令分明。日晏坐レ朝。幽枉必達。内外無二倖曲之私一。在レ上無二矜大之色一。断レ獄得レ情。」 「倖曲」は上の人にへつらい、心がよこしまなこと。「矜大」はおごりたかぶること。 ここでは明帝は「刑理をよく理解し、法令に明るい」人で、〔法令を正しく適用するために〕日が暮れても執務した。 帝がそのような姿勢であったからこそ、内外の人は「倖曲」を私(わたくし)せず、「矜大の色」もない。 この文脈中では「幽枉必達」は「幽枉(冤罪)を防ぎ必ず真実を通す」、「断獄得情」は「厳しい裁判の場においてでも、(被告ら)の情を汲み取る」意味となる。 ところが書紀の原文作者は、この部分を正反対の意味に用いた。武烈帝にとっての「好刑理、法令分明」とは、 法を厳格に用いて人を厳しく処罰することで、「幽枉必達」は冤罪でも強引に貫き、「得情」とは罪を課す側が思い通りに処罰できたことに満足するのである。 「善刑理」を「好刑理」に変えた理由もそこにあり、決して「刑理」を「善く」適用するために理解するのではなく、ただ「好」んだのである。 《大意》 小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと)は、億計天皇(おけのすめらみこと)の太子で、 母は、春日大娘(かすかのおおいらつめ)の皇后(おほきさき)です。 億計天皇七年、皇太子に立てられました。 長じて刑理〔処罰〕を好み、法令を分明〔厳しく適用〕しました。 日が暮れてもいらっしゃり、幽枉〔冤罪〕を必ず貫き、断獄〔荒々しい裁判で断ずる〕し、思い通りの結果を得ました。 また、頻繁に諸々の悪行を作り出し、一つの善行も修めませんでした。 すべて、諸々の酷刑を、自身で観覧しないことはありませんでした。 国内に居住する人は、皆々震え怖れました。 まとめ 武烈天皇の人物の描き方には悪意さえ感じられ、頗る異様である。 雄略天皇もかなり乱暴ではあったが、その都度諫言を受け入れて反省するなどのしおらしさを見せる(二年十月など)。 また、一時は「太悪天皇」と誹謗されたが、最後は「有徳天皇」と称えられるという救いがある。 それに対して、武烈天皇は結局立ち直ることはなく、悪行を重ねた末に最後は酒に溺れて自滅する。 この後王朝が交代して、継体天皇が即位する。 武烈天皇がこのような有様では、これで王朝が途絶えるのもうべなるかなと思わせる。 かくなる印象を与えるために、意図的に酷く描かれたのだろうと言われる所以である。 |
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2019.06.09(sun) [16-02] 武烈天皇2 ▼▲ |
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02目次 【即位前(二)】 《大臣平群真鳥臣専擅国政》
顕宗紀・仁賢紀に平群真鳥大臣は登場しないが、 大臣として居続けて事実上政を取り仕切ったと考えるのが自然であろう。 だとすれば、顕宗天皇が仮に播磨に戻っていたとしても国政は進む。 平群氏自体は竹内宿祢を始祖とするから葛城系だが、仁賢天皇を石上に抱え込んでいた物部氏とは上手くやっていたのだろうか。 武烈天皇が泊瀬に都を置いたのは、雄略天皇と同じく物部氏と一線を画したためではないかと考えられる。 だとすれば、平群真鳥は物部氏とがっちり結びついていたから、武烈天皇は排除した。 しかし、武烈天皇は物部氏から反撃を食らって王朝の継続を許されず、代わって継体天皇が迎えらたという筋書きも考えられる。 《海柘榴市》
大和川(初瀬川)に山辺の道が達する場所に、「仏教伝来之地」と記された石碑がある (奈良県桜井市金屋(大字)〔北緯34度31分13.6秒、東経135度51分24.1秒付近〕)。 その碑の横には「日本文化の源流桜井を展く会」が設置した案内板があり、 「ここ泊瀬川畔一帯は、磯城瑞籬宮、磯城嶋金刺宮をはじめ最古の交易の市・海石榴市などの史跡を残し、 「しきしまの大和」と呼ばれる古代大和朝廷の中心地でありました。」と記される。 この磯城嶋金刺宮に関しては、桜井市大字慈恩寺 〔北緯34度31分03.4秒、東経135度51分42.6秒付近〕に 「欽明天皇磯城嶋金刺宮址」、「磯城邑伝称地」、「仏教公伝の地」の石碑が並んでいる。 7世紀頃の大和川は柏原市付近から現在の長瀬川に沿って北に向かい、難波津に向かっていた。 〔第163回、第198回参照。 参考資料:柏原市公式ページ内の ~和気清麻呂の大和川付け替え1~〕 大雑把に言えば、朝鮮半島~筑紫~瀬戸内海~大阪湾~大和川という経路によって、物・人・文化が磯城の都(雄略・武烈・欽明)に流入した。 碑の場所がが仏教伝来の地と言われるのは、〈欽明天皇紀〉十三年〔552〕十月に初めて百済からの仏像・経典の献上が載るからである。 ――いわく「百済聖明王。遣二西部姫氏達率怒唎斯致契等一。献二釈迦仏金銅像一軀。幡蓋若干。経論若干巻一。」 〔百済聖明王、西部姫氏達率怒唎斯致契〔せいほうきしたつそつぬりしちけい〕らを遣はして、釈迦仏金銅像一軀〔仏像を数える助数詞〕、幡〔はた〕・蓋〔きぬがさ〕若干、経論若干巻を献(たてまつ)らしむ。〕 陸路においては丹比道~横大路~初瀬街道が、和泉国と伊勢国を結ぶ。この地から山辺の道が北に向かい、 またここから北西に道が伸び上ツ道に合流したことも想定される。まさに巷〔=道又〕であり景色もよいところだから、 各地から男女が集い、歌垣が催されたのであろう。 《果之所期》 「果之所期」の之は、ここでは「~の」とは訓めず、目的語だとしても既にある「所期」の邪魔になる。 そこで、試しに之を抜いて「果所期」としてみよう。 この字面だけを見ると、「果」:副詞、「所」:受け身の助動詞「らる」で、「果てに期(ちぎ)られる〔最後は婚約を受け入れた〕」という読み方も発生し得る。 もちろん、これは誤読である。 太子は不快感を顔を表さずに嫌がらせに耐え、 とにもかくにも馬を用意させることができたから、まさに「所期〔期したこと〕を果たした」と読むのが正しい。 しかし、少しでも誤解をなくするためには、「果」が中核的な動詞であることを確実に示した方がよい。 そのために「之」を添えたと考えることができる。 このような「之」は、一般的には形式的な目的語と位置づけられる。 〔『学研新漢和』:「客語の位置に合って、上の語が動詞であることを示すことば」〕 しかし、「果之所期」の例を見ると、仮に真の目的語〔ここでは所期〕が既にある場合でも必要があれば用いたのではないだろうか。 《報曰》 報の主語は媒人で、「妾~」は影媛の言葉である。従って「報曰」は、「影媛はこう申しておりました」と報告したという意味である。 そこで、ひとまず「曰」の主語を影媛として、報・曰を分けて訓読しておく。 《立歌場衆》
「歌場」だけではウタガキ(資料[34])の意味を汲みとるのは難しい。 ところが「歌場衆」であれば何となく雰囲気が伝わるから、最初は中国語としてこの三文字の語としたのであろう。 しかし、その後の検討の結果、「衆」を切り離して「集った人たち」を表すこととなり、その結果「歌場」にウタガキの訓注をつけたと想像される。 ウタガキは行事を指す語であって、ヒトを指す語ではないという意見があったのかも知れない。 訓注が「歌場」の直後ではなく「衆」の後ろに挿入されているのも、そのような経過を伺わせる。 「立ちて二歌場衆に一執りて二影媛の袖を一躑躅従容す。」と訓んでも、 何の不自然もない。 【大意】 〔仁賢天皇〕十一年八月、 億計天皇(おけのすめらみこと)は崩じました。 大臣(おおまへつきみ)平群真鳥臣(へぐりのまとりのおみ)、は専ら国政を欲しいままにして、日本(やまと)を支配する王になりたいと思いました。 太子(ひつぎのみこ)の為に営宮するのだと偽り、出来上がると自ら居住しました。 事に触れて驕慢で、全く臣としての節度はありませんでした。 あるとき、太子は物部麁鹿火(もののべのあらかび)の大連(おおむらじ)の娘、影媛を招いて婚約しようと望み、 媒酌人を遺して影媛の家に向かわせ、妻にしようとと期しました。 影媛は、真鳥(まとり)の大臣(おおまへつきみ)の男子、鮪(しび)と姦淫しており、 太子の期待に違えることを恐れ、 「私は、海柘榴市(つばきいち)の巷(ちまた)でお待ちいたしとう存じますと申しております」と復命しました。 その故に、太子は、予定の所に往こうと思われ、 近侍の舎人(とねり)を遣わして、平群〔真鳥〕大臣の家に向かわせ、 太子の命を奉って官馬を求めさせました。 大臣は、戯れ言で偽り 「官馬を、誰の為に飼い養ってきたというのですか〔太子のために決まっています〕。命(めい)に従ってやり遂げます。」と言いながら、 しばらく用意しませんでした。 太子は恨めしく思われましたが、我慢して顔に出さずに、期したことを果たし、 歌垣の衆の中に立ち、影媛の袖を取り、たたずんで誘(いざな)いました。 俄かに鮪臣が来て、太子と影媛との間を押し広げて立ちました。 その故に、太子は影媛の袖を離し、 移動してぐるりと回り、面と向かって姿勢を正して鮪に対応し、 御歌を詠まれました。 ――潮瀬(しほせ)の 波折(なをり)を見れば 遊び来る 鮪(しび)が端手(はたで)に 妻立てり見ゆ 【ある元では、「潮瀬」を「水門(みなと)」に変える。】 鮪は返歌いたしました。 ――臣の子の 八重や唐籬(からかき) 赦(ゆる)せとや皇子 太子の御歌。 ――大刀(おほだち)を 垂れ佩(は)き立ちて 抜かずとも 末(すゑ)果たしても 闘(あ)はむとぞ思ふ 鮪臣の返歌。 ――大王の 八重の組垣(くみかき) 懸かめども 汝を天(あま)縮(しじ)み 懸かぬ組垣 太子の御歌。 ――臣の子の 八結(やふ)の柴垣 下動(とよ)み 地震(なゐ)が寄り来(こ)ば 破(や)れむ柴垣 【ある元では、「八結の柴垣」を「八重唐籬」に変える。】 太子は、影媛に贈る御歌を詠まれました。 ――琴頭(ことがみ)に 来居る影媛 玉ならば 吾(あ)が欲る玉の 鰒白玉 鮪臣は、影媛の代わりに返歌しました。 ――王(おほきみ)の 御帯の 倭文機(しつはた) 結び垂れ 誰やし人も 相思は無くに 【歌意】 《第一歌〈太子〉》
名前によって相手をからかうのは、子供の悪口のレベルである。 第一歌は和歌(五七七五七)。他に第四・五・六歌が和歌。 第三・七歌は五七七五八で、結句が字余りの和歌。 第二歌は五七七で、本来は片歌だったと想像される。 《第二歌〈鮪臣〉》
会話の内容自体はすれ違いだが、 「私のことを名前で馬鹿にするが、かつて私が立派な垣で囲んだ邸宅を建てたとき、それでよいと言ってくれた。 私のことを大切にしてくれていたのではなかったのか」と言い返したと読み取れる。 《第三歌〈太子〉》
《第四歌〈鮪臣〉》
①〈釈紀〉は「尚あましみに」と訓んで「遇はざる」の意味だと説明する。 ひょっとして「あまじみに」は「あはじ身に」で、「身」は竹材で、「あはず」はそれが曲がっていたりしてうまく組めないということか。 だが、「アハ」〔あふの未然形〕が「アマ」になる例はなく、そもそも「ナヲ」は「ナホ」ではなく※、「耳」(ジ・ニ)は「ミ」にはならず、「弥」(ミ)は「ニ」にはならないから、ほぼ問題にならない。 ※…〈学研新漢和〉による『類聚名義抄』〔11世紀末〕観智院本による「尚」の古訓には「ナヲ」がある。 平安時代に上代の「~ホ」が「~ヲ」に転じる現象があり、〈釈紀〉の鎌倉時代には「尚」は上代からナヲだったと誤って考えられたらしい。 ②『仮名日本紀』は「なほあましみゝ」。音仮名「鳴」を絶対に「ホ」とは発音しない。 しかし上代の「尚」が「ナホ」であるという認識は正しいから、〈釈紀〉の「ナヲ」の誤りを、「鳴をホと発音した」という別の誤りによって解決したと思われる。 「みゝ」は「耳」において誤りで「弥」において正しいから、〈釈紀〉からの伝統を修正しつつ引き継いでいるようである。 ③『岩波文庫』版は、「汝を編ましじみ」とする。 「編む」は否定しないと文脈に合わないから、「じ」は否定推量の助動詞であろう。 「み」は、本来は形容詞の語幹につける接尾語〔原因・理由など〕を助動詞につけたものか。 「汝を」は対格だから「編ま-し」の「-し」は使役の動詞語尾〔四段〕であろう。 しかしこの動詞語尾を「じ」につけるなら「あま-さ-じ」でなければならない。 だから、この読み方は活用形の違反と、形容詞に使うべき接尾語の流用という二重の無理をしている。 ④〈時代別上代〉は「汝」以外を仮名書きにしているから、特定の解釈を避けたらしい。 このように、解釈はバラバラである。 そこで、先ずこの歌そのものの言葉の流れに立ち戻り、確実に言える事から順に確定していこう。 初めの「かかめども」は、「懸く(四段)」の未然形+「む(推量)」の已然形+「ども(逆接の助詞)」であるから、 「いずれ垣を懸けようとする時が来ても」の意味。また後ろの「懸かぬ」は未然形+「ぬ」(ずの連体形)だから、「垣が懸かることはない」。 つまり、「あなたは垣を作ろうとしても○○だから作れない」の「○○だから」の部分の中身が、 「なをあましじみ」である。 「な」は「汝」の可能性が高いが、 相手をオホキミと呼ぶ歌の中で二人称代名詞に「汝」は考えにくい。 ただ、「大王の」を二人称代名詞ではなく「大王に相応しい」の意だとすればこの困難を回避することができる。 「汝」が目的語だとすれば、その動詞はかなり「汝」を貶めるものになるはずである。 しじみの三文字を一語と見ると、「しじむ」という動詞がある。この語は、清寧段の「志自牟」と清寧紀の「縮見甲」によって「縮む」意の四段動詞だと考えらている。 残った部分のアマは「天」しか考えられないので、「天の意志によって縮める」と読むことができる。 アマから連結する動詞は「天翔ける」「天降る」「天離(あまざか)る」などがあるが、 残念ながら「天縮む」は見られない。 しかし武烈天皇は結果的に皇太子を残せず王朝が途絶えるから、それをもって「天によって短縮された」すなわち「天縮む」と詠ったと見ることは可能である。 これなら、悪口として十分である。 「天縮み」にすれば、少なくとも存在が確認された単語の範囲内に留まり、動詞・助動詞に変な活用をさせずに済むのは確かである。 《第五歌〈太子〉》
「一本」は、鮪臣の家の垣を第二歌の「八重の唐籬」に合わせたもので、この方が筋が通る。 ただ、その場合は結句も「破れむ唐籬」に直さなければならないが、そこには触れていない。 《第六歌〈太子〉》 ――鮪臣を相手にするのを止め、影媛に思いを伝えようとする。
《第七歌〈鮪臣〉》 ――しかし鮪臣が、影媛に代わって返歌する。
太子と影媛が結ばれ得ないことを、帯に譬えたとも読める。 鮪臣が影媛に代わって返歌するのを見て、この二人が既にできていることは太子にも完全に分かったであろう。 まとめ 記の清寧天皇段における歌垣の場面(第216回)で袁祁命と争ったのは「平群臣の祖、志毘臣」で、武烈天皇紀の「平群真鳥臣男、鮪〔しび〕」と共通する。 「物部麁鹿火大連の女、影媛」に相当する女性は、清寧天皇段では「菟田首等之女、大魚」となっているが、何れもこの話以外には登場しない。 歌の形を見ると、記の方が二首ずつ対になる関係が濃厚だから、歌垣で実際に歌われていた歌に近いのかも知れない。ただ記紀ともに物語に組み込むにあたって、修正や再構成がなされたわけである。 書紀においては、皇太子時代の武烈天皇が真鳥臣親子を攻め滅ぼす動機を強化する出来事として、歌垣の場面が組み込まれている。 |
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2019.06.11(tue) [16-03] 武烈天皇3 ▼▲ |
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03目次 【即位前(三)】 《太子甫知鮪曽得影媛》
「逐二-行戮処一見二是戮已一」は、殺された後にその道を辿り、その殺された場所を訪れたと読めなくないが、 「逐行」とは鮪臣を追いかけ、「見是戮已」は殺されて息絶えるところまで見届けたという意味であろう。 《収埋》 「葬(はぶ)る」とは書かず、敢えて個別の動作を書くことによって、そこにいる影媛の姿が浮かび上がる。 《灑涕愴矣纏心》 「灑」は水を注ぐという原義から、「涙を流す」と「流した涙を洗い流してさっぱりする」という相反する読み方が生ずる。 ここに至るまでに「悲涙盈レ目」「儺岐曽裒遅喩倶」と、涙を流し続けてきたのを見れば、 今、埋葬を終えたところで「灑涕」するとは、ひとまず顔を洗ってさっぱりするという意味であろう。 また悲しみが癒えることは決してないが、ひとまず心の奥にしまっておくことにして、それを「纏心」〔心にまとふ〕と表現したと読み取れる。 そして第二歌に思いを刻む残すことによって、ひとまず気持ちを切り替えたのである。 《大意》 太子(ひつぎのみこ)は、初めて鮪が重ねて〔=太子以外に〕影媛を獲得していたことを知りました。 ことごとくに父子の礼儀を欠く様子を悟り、赫然として〔=真っ赤になって〕甚だしく怒りました。 この夜、速かに大伴の金村連(かなむらのむらじ)の邸宅に向われ、兵を集めて策を練りました。 大伴連は数千の兵を率いて道を行進して威勢を誇り、鮪臣を平城山で殺しました 【ある出典によれば、鮪は影媛の家に泊り、その夜に殺されました】。 この時、影媛は殺される場所まで追って行き、 殺されるまでを見届け、驚き慄(おのの)き身の置き所もなく、悲み涙を目に溜めました。 遂に〔時の人は〕この歌を詠みました。 ――石上(いすのかみ) 布留を過ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋過ぎて 物多(ものさは)に 大宅(おほやけ)過ぎ 春日(はるひ) 春日(かすが)を過ぎ 妻隠(つまごもる) 小佐保(をさほ)を過ぎ 玉笥には 飯(いひ)さへ盛り 玉椀(もひ)に 水さへ盛り 泣き層富路(そほち)往くも 影媛あはれ そして、影媛は、遺体を収めて埋めることを遂に〔=やっと〕終えて、家に帰ろうとするに臨み、 悲しみに咽び「苦しいことです。今日、私の愛しい夫を失いました。」と語りました。 そして、涙を拭って悼み、心に纏(まと)い〔=気持ちを心の奥に収め〕歌に詠みました。 ――青丹吉(あをによし) 平城の狭間に 宍じ物 水漬(みづ)く辺隠(ごも)り 水灌(みなそそぐ) 鮪(しび)の若子(わくご)を 漁出(あさりづ)な猪の子 【歌意】 《第一歌》
出発点の布留は物部氏の本拠地で、真鳥宿祢が物部氏に密着していたことからその邸宅もここにあったのだろうと考えられる。 高橋邑は、崇神天皇紀(第111回)八年四月に、 「以二高橋邑人活日一、為二大神之掌酒一」とあり、「高橋邑の活日(いくひ)」という人名が出てくる。 また高橋邑は、高橋氏文(資料[07])で知られる高橋氏の本貫と考えられている。高橋神社はその氏神に由来すると思われる。 倭名類聚抄に「高橋郷」は載らず、現代地名にも残っていないが、 歌の経路を見れば、その位置は現在の高橋神社の数キロメートル南東であったと考えるのが合理的である。 大宅郷については、『大和志』は白毫寺村の辺りであろうと述べる。 前文に「乃楽山」〔平城山〕で殺されたとあるから、「小佐保」は「佐保」〔佐保川上流付近〕である。 接頭語「を-」を付けたのは、愛称としたか。 あるいは、「佐保」の入り口辺りのことかも知れない。 影媛の経路は大体上ツ道に沿い、崇神天皇紀で大毘古が北陸に向かう経路でもある。もう少し北に行くと幣羅坂がある (第113回)。 さて、布留からはるばる平城山まで、殺されるだろうと分かりながら鮪臣のための食糧と水を携えて追いかける影媛の姿は、 涙を誘う。鮪臣と影媛は、純愛で結ばれていた。 《なきそほちゆくも》 さて「泣きそほち」は一般的に「泣きそほつ」の連用形で、泣き濡れる意味であろうと考えられている。ただ「そほつ」は、 〈時代別上代〉に「一例しかないので、四段か上二段か※、活用の種類も、活用語尾の清濁も不明である。」とあり、この歌以外には見つかっていないらしい。 ※…連用形は四段:イ甲、上二段:イ乙であるが、タ行イ段には甲乙の区別がない。 但し、『源氏物語』〔1008年〕-葵に、「身もそぼつまで深き恋路を」とあり、この「そぼつ」は文脈から「(全身が)水に浸る」意味である。 一方、層富県(そふ/そほのあがた)が、神武天皇即位前紀などにある(己未年二月)。 また〈延喜式-祝詞〉は、「倭国六県」のひとつに「曽布」を挙げる (第195回《五村苑人》)。 「富」の発音にはフとホがあるので、地名「層富」は「ソホ」とも呼ばれた可能性もある。 万葉集には地名ソフ/ソホはなく、当然ソフヂもないが、「佐保道」が二例(「万1432佐保道」など)がある。 「層富路」が一般的な名称であったかどうかは分からないが、この歌で影媛が添上郡の道を歩いたことは間違いない。 上代には「そほつ」はこの一例だけだというから、「層富を通る道」と読んだ方が確実である。 『源氏物語』の「そぼつ」に関しては、平安時代に書紀のまさにこの部分が「濡れる」の意味で読み取られ、それが定着したようにも思える。 しかし、『蜻蛉日記』〔975年〕に「朽ちめのねにぞそぼつる」、 『徒然草』42〔1330年〕に「稲葉の露にそぼちつゝ」 とあり、広がっている。平安時代になってから突然広く使われるようになったというのも不自然だから、 やはり上代に遡るかも知れず判断は難しい。 《第二歌》
形式は長歌として最短で、但し結句が字余りである。 まとめ ここでは、影媛に対して同情的な描き方が際立つ。これは、武烈天皇の酷さを際立たせる基調に沿うものかも知れない。 しかし別の観点で見ると、古事記にはしばしば天皇によって滅ぼされた一族の側に、思いを寄せる場面が見られた。 その意味では、影媛の描き方は古事記風である。記では仁賢天皇段以後、実質的な物語が消滅したことを併せて考えると、 記の物語部門のスタッフが、そのまま書紀執筆団に異動したように感じられる。 彼らは書紀に移って、武烈天皇紀においては清寧天皇段の記述を再利用して歌垣の場面を描きなおし、 更に影媛の話を付け加えたのではないだろうか。 前回の「排二太子与影媛間一立。 由レ是太子放二影媛袖一。 移廻向レ前立直当レ鮪」 では動きが細かく描写されている。 そして今回の「是時影媛逐行~」以下は、 影媛の心のひだに分け入る優れた文学表現であると言える。 それらに、もともと記にあった書きっぷりが見えるのである。 人の異動に関しては想像することしかできないが、顕宗段以後は物語部分を記から、書紀に移したこと自体はありそうだと思える。 |
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2019.06.12(wed) [16-04] 武烈天皇4 ▼▲ |
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04目次 【即位前(四)】 《真鳥賊可撃》
大伴氏の本貫については、〈神武天皇紀〉二年二月に、 「天皇定レ功行レ賞。 賜二道臣命宅地一、居二于築坂邑一」とある。 〈延喜式-神名帳〉に{高市郡/鳥坂神社二座【鍬靫】}(比定社:鳥坂(とりさか)神社。奈良県橿原市鳥屋町17-1)があり、この辺りが築坂邑だと言われている。 「ツキサカ」は「花鳥坂」とも書かれる。〈延喜式-諸陵寮〉に{身狭桃花鳥坂上陵/檜隈廬入野宮御宇宣化天皇}があり、宮内庁が治定した 「身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)」は、鳥屋ミサンザイ古墳(奈良県橿原市鳥屋町32)である。 この一帯が大伴氏の本貫であろうと、一応考えることができる。 《所撝雲靡》 「所撝」は「さしまねかれたこと」、「雲靡」は〈汉典〉によれば「雲が散る」であるから、「結果は雲散霧消というものであった」意である。 つまり、次の「事不済」と同じことで、これを詩文的に表現して枕にしたのであろう。 《為天皇所食》 「所食」・「所忌」が受身形の"be eaten"・"be hated"で、「為天皇」が行為者を表す"by Emperor"であることは明らかである。〔emperorを用いたのは単に便宜上〕 受身文における行為者への前置詞「為」が、上代からタメと訓まれたかどうかという問題については、允恭天皇4【「ため」試論】で論じた。 《大意》 〔仁賢天皇十一年〕十一月十一日。 大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)は、太子(ひつぎのみこ)に申し上げるに、 「真鳥(まとり)の賊を撃つべきです。願わくば、私がお討ちいたしましょう。」と申し上げ、 太子は 「天下に、まさに乱が起ころうとしている。世にも希な勇者でなければ、平定することはできない。 安定させる能力の持ち主、それが大伴金村連である。」と詔され、 ただちに、共に計略を定められました。 こうして、大伴金村大連は兵を率いて自ら将軍となり、真鳥大臣の邸宅を取り囲み、 火を放ってを焼き尽くしました。 差し招かれたのはただ雲散で、真鳥大臣は、事が済(ととの)わないことを恨み、自ら免れ難いことを知り、 計略は窮(きわま)り望みは絶たれ、広く塩に指さして呪詛しました。 遂に殺され、殺されたのはその子弟に及びました。 呪詛した時、唯一角鹿(つぬか)の海の塩を忘れて、呪詛から漏れました。 その故に、角鹿の塩が天皇によって召し上がられ、 その他の海の塩は天皇によって忌み嫌われました。 まとめ 武烈天皇が崩じた後、大伴金村大連は継体天皇を迎え入れる。 結局真鳥大臣を殺してからしばらくは、金村が政を主導する体制であった。 その期間の都は、武烈天皇が「泊瀬列城宮」、 安閑天皇が「勾金橋宮」(橿原市曲川町と言われる)、宣化天皇が「檜隈廬入野宮」(明日香村)、 欽明天皇が「磯城嶋金刺宮」(桜井市金屋と言われる)である。 布留からは離れたから、支配氏族は物部氏から大伴氏に移ったのであろう。 なお、大伴氏の高市郡の本貫は築坂邑の辺りだと想定したが、武烈天皇の頃は明日香村から仏教伝来地碑や朝倉遺跡に及ぶ一帯が勢力圏に含まれていたと考えるのが自然である。 前回の歌謡の内容から見て、真鳥大臣親子の邸宅は布留(石上)にあったと思われるので、大伴金村が布留を攻めて焼き討ちにする戦乱があったことが想定される。 |
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2019.06.17(mon) [16-05] 武烈天皇5 ▼▲ |
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05目次 【即位~元年】 〔仁賢天皇十一年〕十二月。大伴金村連平定賊訖…〔続き〕 06目次 【二年~三年】 《作城像於水派邑》
「かた」とは、形を似せた作り物のことで、神功皇后紀三年に蒭霊(くさひとかた)の例がある。 上代のき(城)については、〈時代別上代〉「四角な材を掘立にしてびっしり並べた柵、その四面に設けられた八脚門・鼓楼の跡などが認められる」という。 そのきに似せたものとは具体的にどのようなもので、またそれを広瀬郡に作った理由、遠く離れた信濃国の役丁を用いた理由は何か、想像もつかない。 一つの可能性としては、軍事訓練用に城を模して建てた施設であろうか。それなら一定の人数の動員が必要だから、それを「信濃国の男丁」と書くこともあるだろう。 すると百済から呼んだ工人意多郎が、その建造を指揮したのであろうか。 《意多郎》 意多郎の死を「卒」と表すから、比較的上位の官であるが、それ以外のことは全く不明である。 ただ城像の建築に関わっていたとすれば、水派に比較的近い高田に葬られたのも、さもありなんと思われる。 ただ、男丁を徴発したその月に卒したのでは、指揮した期間が短すぎる。 《高田丘上》 〈大和志〉葛下郡に、「村里:市場【属邑二】。池田【属邑一】。岡崎。高田。」、また 「陵墓:百済意多良墓【在二岡崎村一武烈天皇三年十月葬二于高田丘山一】」 がある。 〈大和志〉が「百済意多良墓」が高田村ではなく「岡崎村」という以上は、その村内のどこかに比定したのであろうが、 現在の岡崎(大字)内には、それらしい言い伝えのある場所は見いだせない。 比較的近いのは領家山古墳群である。領家山の標高は約72mであるが、周囲との標高差は約12mで小山をなしている。 現地案内板には「もともと立派な古墳であったが、崩壊が著しく原形を知りがたい。昭和三十年〔1955〕十一月」 「この古墳から大きな鶏頭埴輪や他の埴輪の破片と共に発見した」、「大和高田市教育委員会」とある。 領家山古墳群は、馬見古墳群の南群の南端にあたるが、考古学的な調査は行われていないという。 〈大和志〉には「領家山」の名はなく、位置は現在の岡崎(大字)の外で、江戸時代に古墳と考えられていたかどうかも分からないから、 ここが、〈大和志〉がいう百済意多良墓の場所と言い得るかどうかは分からない。 《大意》 二年九月、 妊婦の腹を裂いて胎児を見ました。 三年十月、 人の爪を抜いて芋を掘らせました。 十一月、 大伴室屋大連に勅して 「信濃国の役丁を徴発して、城の形を水派邑(みまたむら)に作らせよ。」と命じ、 よって、ここを城上(きのえ)と言います。 同じ月、 百済の意多郎(いたら)が卒して〔死んで〕、高田丘上(たかたのをかのえ)に葬りました。 【城上】 《水派》 水派については、〈用明天皇紀〉二年四月にも「帰二-附彦人皇子於水派宮一【水派、此云二美麻多一】。」とあり、 注訓でミマタとされている。 《城上》 城上について〈大日本地名辞書〉は、 ――「和名抄、広瀬郡城戸郷。今馬見村に合す、 日本書紀に「〔中略〕水派邑、仍曰城上」とある地にあたる歟、」 「万葉集に高市皇子の殯宮を此地に起したる事見ゆ、木缻城上木上木於城於など種々ある皆同じ。 於神社は延喜式に列す、 書紀通証云、於神社在大塚村、称城宮、 今馬見大字大塚にあるべし。」 〔城戸郷は今の馬見村の一部で、万葉歌の城上は城戸郷にあり、式内於神社=城宮は馬見村大字大塚にある〕 などと述べる。 ・〈倭名類聚抄〉に{大和国・広瀬郡・城戸郷}。 ・(万)0199 題詞に「高市皇子尊二城上殯宮一之時。柿本朝臣人麻呂作歌一首」。 ・(万)3326 城上宮尓 大殿乎 都可倍奉而 殿隠 〃座者 きのへのみやに おほとのを つかへまつりて とのごもり こもりいませば。 皇子へ挽歌。城上殯宮で悼む。 ・〈延喜式-神名帳〉に「広瀬郡/於神社【鍬】」。 『五畿内志』〔1736〕-広瀬郡は、「神廟:於神社【〔中略〕○在二大塚村一称二城宮一社已廃】。」 〔既に廃れた城宮社は、式内於神社である〕と述べ、 『書紀通証』〔1762〕の見解もこれに沿っている。 以上から、「於神社が広瀬郡内にあった」、「城宮社が大塚村にあった」、「どこかに城上という地名が存在した」ことは確認できる。 そして、"城宮社=式内於神社"、"城宮社の所在地=城上"は、江戸時代の推定で、 「城上=城戸郷内」は〈大日本地名辞書〉による判断と見られる。 《河合村》 〈大和志〉-広瀬郡はこのように「城宮社=式内於神社」としながら、一方で「郷名:城戸【已廃存二河合村一】」、 「村里:河合【属邑三其一曰二城古一】」と述べ、現在の河合町川合(大字)を城戸郷とする。 『日本歴史地名大系』は、ここが「富雄川・大和川の合流点南方にあた」り、 「水派は川の合流点」だと述べる。これは、〈大日本地名辞書〉の大塚村説とは異なっている。 《成相墓》 上記《水派》の項で述べた「彦人皇子」(押坂彦人大兄皇子)は敏達天皇の第一子で、 〈延喜式-諸陵寮〉によれば、「成相墓。押坂彦人大兄皇子。在大和国広瀬郡。【兆域東西十五町。南北廿町。守戸五烟。】」とあるように、その墓を成相墓という。 他の陵墓に比べて兆域が飛び抜けて広いことが目を惹く。 現在、成相墓ではないかと言われているのが、牧野古墳(ばくや古墳、奈良県北葛城郡広陵町馬見北8丁目4)である。 「広陵町公式/観光 古墳」によると、 牧野古墳は「丘陵の奥部にある直径約60メートルの大型円墳で、墳丘は三段築成で造られ、二段目に横穴式石室が開口している」。 副葬品に装身具類(金環など)、馬具(木心鉄地金銅張の壺鐙など)、武器(銀装の大刀と400本近い鉄鏃)があり、 「古墳時代後期末葉の古墳で、舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子の成相墓の可能性が高い。」 という。 古墳時代後期末葉とは6世紀末の、前方後円墳が姿を消した時期である。 彦人皇子の薨年は明らかではないが、最後の記事は〈用明天皇紀〉二年〔587〕にある。 馬見古墳群の古墳はほとんど前期~中期で、牧野古墳は築造時期において孤立的である。 《城上の位置》 しかし、この牧野古墳は大塚村、河合村のどちらからも遠い。 だが、「城上」の表記が様々なのはそれだけ地名として広がっていたことを示し、水派・城上ともに国名・郡名が付かないからよく知られた畿内の地名であろう。 また「城像」の逸話は「城上」の由来を語るものだから、基本的な表記は「城上」で、それがまた「城戸郷」に繋がったことも考え得る。 もし「城像」が大規模な建築物で、人々に強く印象付けられるものだったとすればなおさらである。 城戸郷に城上(水派)があったとしても、「於神社=城宮社」説の当否については今のところ十分な資料が見いだせないので判断できない。 よって城上は城戸郡内ではあるが、もっと牧野古墳に近い場所かも知れない。 07目次 【四年~五年】 《百済末多王無道》
三本の刃先からなる槍は、しばしば見られる(右図)。 ただ古代の矛については、画像検索してもこのような形状のものは、なかなか見つからない。 枝分かれした刀については、七支刀の例がある(神功皇后紀6)。 なお矛と槍の違いは、矛の刃は刃先に近い所から横に広がっているが、槍は尖っていることである。 《大意》 この年、 百済の末多王(またおう)は無道で、人民をを暴虐しました。 国の人は遂に末多王を除き、嶋王(しまおう)を立てました。これが武寧王です。 【百済新撰にいう。 ――「末多王は無道で、人民を暴虐した。 国の人は共に除き、武寧王(むねいおう)が立ちった。諱(いみな)は斯麻王(しまおう)で、 琨支(こんき)王子の子、即ち末多王の異母兄である。 琨支は倭(やまと)に向った時、筑紫島〔九州〕に至り、斯麻王(しまおう)を生んだ。 島から帰そうとして送ったが〔百済の〕都に至らずなかった。島で産んだことに因る名である。 今、各羅(かから)の海中に主島(にりんとう)が有り、 王の産まれた島故に、百済の人は主島と名付けた。」 今案ずるに、 嶋王は、蓋鹵王の子で、末多王は琨支王の子である。 これをなぜ異母兄というのか、未だ詳らかではない。】 五年六月、 人を池の樋(ひ)〔導水管〕に伏せ入れさせて、外に流れ出たときに、 三刃(みつば)の矛を持って刺し殺し、快く思いました。 まとめ 二年~五年の部分は断片を集めたもので、それぞれの事項の詳しい中身は分からない。 しかし、城上、高田はそれぞれ広陵町、大和高田市にあったと見られ、武烈天皇の都は実はこの辺りだったと考えられなくもない。 築山古墳が武烈天皇陵だと考えられていた時期があったのも、そのためかも知れない。 この場合、「武烈天皇泊瀬之並城宮」は雄略天皇、欽明天皇の都が伝説化して武烈天皇伝説に影響を及ぼしたことになる。 広瀬郡に都があったのなら、金村の時代の大伴氏の勢力範囲の再検討も必要になってくる。 さて、武烈天皇紀二~八年条に書かれた猟奇的な行動については、訓読に尊敬表現を用いる気持ちにはなれない。 それが単なる形式であっても、排除したい。 |
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2019.06.21(fri) [16-06] 武烈天皇6 ▼▲ |
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08目次 【六年九月】 六年秋九月乙巳朔。詔曰「傳國之機、…〔続き〕 09目次 【六年十月~八年三月】 《百済国遣麻那君進調》
新羅には「骨品」という身分制があった。 朝鮮半島においては骨は血統を象徴する語として使われたとことから、百済においても族(うから)を「骨族」と表現したと思われる。 《非百済国主之骨族》 百済国から麻那君が朝貢に訪れたが、天皇は「随分長い間来なかったではないか」と文句をつけて拘留した。 百済国は、外交的な解決を図るために改めて斯我君を派遣し、恐らく前回を上回る量の貢物を納めさせたと想像される。 そして、麻那君は国主が預かり知らぬうちに、手違いで派遣されたと言いつくろった。 話はこれで終わるから、倭国側もこれを受け入れたのであろう。しかし、斯我君も倭国で子供を作ったほど長く滞在した。 「奉事」は、国が事(つか)えるのではなく、斯我君という人物が事えた意味だとすれば、意味はよく通る。 《百済王》 武烈天皇六年〔甲申、504〕は、『三国史記』-「年表」では武寧王四年に相当する。 武寧王の期間〔二十三年薨〕に「倭」の字は一つもない。 しかし倭が絡む出来事としては、『三国史記』百済本紀-武寧王二十三年〔521〕に、「高祖詔冊王曰」〔高祖〔=南朝遼の武帝〕、詔して武寧王を冊封して曰く〕として「持節都督百済諸軍事寧東大将軍」の称号を賜った記事がある。 『梁書』によるとその前の502年に梁が建国されたが、北宋の外交政策を継承して、「百済王余大」・「倭王武」の双方に「征東大将軍」を進号している。 倭国は、自らの称号「安東大将軍」の対象範囲六か国に、百済を加えよとの要求を繰り返してきたが、北宋は478年にそれを最終的に拒絶した(倭の五王)。 梁もそれを引き継いで、百済を倭の勢力圏の外に置いたままにしている。 百済自身にも倭の冊封国であるという意識はなかっただろうから、「百済歴年不レ脩二貢職一」だったのは当然のこととして理解できる。 一方倭の立場としては、北宋に認めさせることこそできなかったが、百済は倭に朝貢する国である。 よって、麻那君が「朝貢」ではなく横並びの友好国として土産を持ってきたことは認められない。だから、百済使を僭称した人物として拘留したのであろう。 武寧王はこの事態を打開するために斯我君を使者として再派し、「奉レ事二於朝一」と書いた別表を持たせた。 上表に「奉事」〔=仕へたてまつる〕と書いてあったのが事実なら、倭を宥めるための外交上の配慮であろう。 基本的には斯我君を倭国朝廷に事(つか)へさせる意味で、実際に斯我は倭に帰化したわけだが、政治的に「百済が倭に事へる」と読み取ることが可能な形にしたのである。 《衣温》 「衣温而忘百姓之寒」は文章としては前文から切断されているが、 「不避大風甚雨」とは連想〔…風雨の中でも衣を重ねて暖かい。衣が温かいと言えば~〕で繋がっている。 「以盛禽獣而好田猟」についても、「穿レ池起レ苑」の次に「整二猟場一」〔そして猟場を整え〕が隠れていると思われ、 「及是時~」以下の部分は、比較的自由な気分で書き連ねていったようである。 《以錦繡為席衣以綾紈者衆》 『太平御覧』〔980頃〕「太公六韜〔戦国以前〕曰:夏桀殷紂※之時。婦人錦繡文綺之坐席。衣以綾紈常三百人」。 ※夏桀殷紂…<wikipedia>によると、「寵姫に溺れた悪王として桀は知られ、殷の帝辛(紂王)とともに「夏桀殷紂」(かけついんちゅう)と並び称される」。 「衆」は『太平御覧』の「常三百人」に対応するので、宴席への多くの参加者を指すと見られる。 《大意》 〔六年〕十月(かむなづき)、百済国は麻那君(まなくん)を遣わして献調しました。 天皇(すめらみこと)は、百済が歴年貢職を納めなかったため、留め置いて解放しませんでした。 七年二月、人を樹木に昇らせておいて、弓で射落として笑いました。 四月、 百済王は斯我君(しがくん)を遣わして献調させ、 別に上表文を添え、 「先に献調した使者麻那は、百済国主の骨族ではありません。 よって、謹んで斯我を遣わし、倭国朝廷にお事(つか)え申し上げます〔または、仕えさせます〕。」と申し上げました。 〔斯我君が長く滞在する間、〕遂に子が生まれ、名を法師君(ほうしのきみ)といい、倭君(やまとのきみ)の祖先です。 八年三月、 女を裸にして平な板の上に坐らせ、馬を牽いてきて目の前で牝馬と交尾させ、 女の秘所を観察し、 濡れていれば殺し、濡れていなければ没して官婢〔=官に仕える婢〕として、 これを楽しみとしました。 この時に及び、池を掘り庭園を開きました。 〔そして野を整えた故に〕鳥・獣が盛んに増えて狩を好み、犬を走らせ馬を競わせました。 猟場への出入りは時を選ばず、大風大雨も避けませんでした。 衣は暖かく人民の寒さを忘れ、 美食して天下の飢餓を忘れました。 侏儒(しゅじゅ)の演技を大いに勧めて爛漫(らんまん)の楽しみとし、 奇偉の〔=並外れて立派な〕戯れの場を設けて、靡々の声〔嬌声〕を恣(ほしいまま)にしました。 日夜、常に宮人とともに酒に溺れ、 錦繡(きんしゅう)〔刺繍した錦〕をもって座の敷物として、衣服は綾紈(りょうがん)〔綾織・練絹織り〕のものを集った人々に着させました。 10目次 【八年十二月】 冬十二月壬辰朔己亥、天皇崩于列城宮。…〔詳細〕 まとめ 百済による遣使は、①百済王を「武寧王」に書き換えていないこと、 ②この記事が前後の文脈と無関係に挿入されること、 ③朝鮮語による表現「骨族」が「上表」にあったと見られること、 ④内容の時代背景が宋書・梁書に合致する四点から見て、何らかの古記録をそのまま該当する年の所に書いたのではないかと思われる。 だとすれば、正面から歴史資料としての扱うことが可能になる。 一方武烈天皇の悪行については、人民の生活を顧みない悪政、狩猟・宴会の贅沢三昧、個人的な性癖としての加虐趣味という質の異なる要素が脈略なく混在しており、 悪口自体を目的とした印象が強い。 |
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⇒ [17-01] 継体天皇1 |