| |||||||||||||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||||||||||||||||
2019.04.02(tue) [15-07] 仁賢天皇1 ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||
1目次 【即位前(一)】 億計天皇、諱大脚【更名大爲。……〔続き〕 2目次 【即位前(二)】 及穴穗天皇崩、避難於丹波國余社郡。〔詳細〕 3目次 【即位前(三)】 〔清寧元年〕 白髮天皇元年冬十一月、播磨國司山部連小楯……〔続き〕 4目次 【即位前(四)】 〔清寧二年〕 二年夏四月、遂立億計天皇、爲皇太子。【事具弘計天皇紀也。】……〔詳細〕 5目次 〔白髪天皇五年〕 【即位前(五)】 〔清寧五年〕 五年、白髮天皇崩。天皇、以天下讓弘計天皇、爲皇太子、如故。【事具弘計天皇紀也。】〔詳細〕 6目次 【即位前(六)】 〔顕宗三年〕 三年夏四月、弘計天皇崩。〔詳細〕 7目次 【元年正月】 元年春正月辛巳朔乙酉。皇太子、於石上廣高宮、卽天皇位……〔続き〕 8目次 【元年二月】 二月辛亥朔壬子。立前妃春日大娘皇女、爲皇后……〔続き〕 9目次 【元年十月】 冬十月丁未朔己酉、葬弘計天皇于傍丘磐杯丘陵。 ……〔続き〕 10目次 【二年】 《難波小野皇后自死》
〈時代別上代〉仮名書きの例は見えない。 「秋深み恋する人の明しかね夜を長月を言ふにはあらん」 (拾遺集)は平安時代の語源解を示している。 〔「秋の深まりを愛でる人が、なかなか明けない夜を言ったのではないか」 〔拾遺和歌集(1006年頃);巻九-00523〕という言葉は、平安時代における「ながつき」の語源の理解を表している。 恐らく古くから「ながつき」と言ったのであろう。〕 《宿》 「宿二不敬一」の「宿」は「不敬」を目的語にとる他動詞である。 しかし、「やどる」の他動詞「やどす」は〈時代別上代〉には載らない。 平安に下ると、大修館書店『古語林』は四段活用の「やどす」を載せ、 文例に『更級日記』〔1020~1059〕の「心も知らぬ人をやどし奉りて」を挙げる。 <wikisource>の『群書類従』で原文を確認すると、「そのかへる年の十月廿五日」条に「心もしらぬ人をやどしたてまつりて」がある。 上代に遡ると、まず「宿」をヤドと訓んだかどうかという問題がある。 これについては、万葉集では「宿」を「ぬ」〔寝る〕に当てるものが多いが、 「やどる」も「(万)0046 阿騎乃野尓 宿旅人 あきののに やどるたびびと。」など多くある。 活用形を含む全28例のうち、「宿」は8例に用いられている。 また「やどす」らしきものが二例ある。 ――「(万)1573 雖賎 吾妹之屋戸志 所念香聞 いやしけど わぎもがやどし おもほゆるかも」。 これは「粗末ではあるが、お前の家のことが思われる」意で、「し」は詩文に挿入して使う強調の助詞である。 ――「(万)2912 夢尓吾 今夜将至 屋戸閇勿勤 いめにわれ こよひいたらむ やどさすなゆめ」。 「あなたの夢の中に訪れますから、家の戸を閉めないでね」、すなわち「宿を閉(さ)す」である。 このように、残念ながら何れも他動詞「やどす」ではない また仮に「やどす」が上代まで遡ったとしても、「心にやどす」という使い方がなされたかどうかという問題が残る。 よって、「恐宿不敬」を「うやまはざるこころをやどししことをおそりて」と訓み得るかどうかは、かなり不確かである。 《大意》 二年九月、 難波小野(なにわのおの)皇后は、不敬を心に宿していたことを恐れ、自死されました。 【弘計天皇(をけのすめらみこと)の治世、 皇太子億計は宴に伺候され、瓜を取り食べようとされたとき、小刀がありませんでした。 弘計天皇は自ら小刀を取り、 小野夫人に託してお持ちするように命じました。 夫人は億計の御前まで行き、立ったまま小刀を瓜の皿に置きました。 またこの日、 さらに酒を酌み交わすうちに、立ち上がって皇太子を大声で呼びました。 この不敬の故に、誅殺されることを恐れ、自死したのです。】 まとめ 難波小野皇后は、意計は兄とは言え天皇に伺候すべき立場だとして、意計に対してひどく尊大な態度を取っていた。 ところが、未だ皇子を授からないまま弘計天皇は夭折してしまい、意計が即位したことから趣意返しを恐れ、皇后はパニックに陥った。 これが杞憂ではなかったことは、「皇后」の表記のままであるところに表現されている。意計天皇は、決して「皇太后」の称号を与えていないのである。 この意計を僕(しもべ)と見る意識は実は弘計自身のものであり、それが皇后に共有されたという見方は当然起こり得る。 むしろ書紀自身が、かくなる受け止め方を意図的に狙った気配がある。 つまりは、二王子の発見から道徳的な譲り合いの末に弘計王子が即位した経緯が壮大な粉飾であることを、少しだけネタばらししたのである。 こうして見ると漢籍の文献を大量に利用したことも、粉飾のために役立つ表現を幅広く求めたのだとすれば腑に落ちる。 顕宗天皇の即位は美徳で覆い尽くすのが書紀の公式見解ではあったが、 恐らくその尊大さを物語る古記録があり、その片鱗を難波小野皇后に託して残したのではないだろうか。 それに一定の根拠があることを示すために、古記録から難波小野皇后の事績を抜き出し、割注の形で添えたと想像される。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||
2019.05.23(thu) [15-08] 仁賢天皇2 ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||
11目次 【三年~五年】 《置石上部舍人》
〈姓氏家系大辞典〉は「石上神族」〔石上(いそのかみ)神宮に奉斎する族〕について、「連〔むらじ〕姓の物部氏と、 首〔おびと〕系の物部氏とありて当社に奉仕す、前者は後世石上氏と称し、 後者は布留氏と云へり。此の二流の物部氏は血族を異にすれで、相提携して各地の経営に従事す、その勢力頗〔すこぶ〕る盛なりき。」、 そして石上朝臣について「大和国山辺郡石上なる地名を負ふ。物部氏の本宗にて、天武朝に至り此の氏に改む」と述べる。 〈姓氏録〉では、石上朝臣〖神饒速日命之後〗は一氏のみだが、「石上同祖」として、 穂積朝臣・阿刀宿祢〖左京〗・若湯坐(わかゆゑ)宿祢〖左京〗・舂米(つきしね)宿祢・小治田(をはりだ)宿祢・弓削宿祢・氷(ひ)宿祢〖左京〗・ 曽祢連・越智直・衣縫造(きぬぬひのみやつこ)・軽部造・物部・采女朝臣〖神饒速日命…之後〗・阿刀宿祢〖山城国/神饒速日命…之後〗・佐為連(さゐのむらじ)〖神饒速日命…之後〗・長谷山直〖神饒速日命…之後〗・ 若湯坐宿祢〖摂津国/神饒速日命…之後〗・氷連〖河内国/神饒速日命…之後〗の十八氏がある。 その他に、〖神饒速日命之後〗を標榜する氏が15氏ある。 また〈姓氏録〉には、神別に「布留宿祢」があり、〖天足彦国押人命七世孫米餅搗大使主命之後〗とし、 これは和爾氏系図(駿河浅間大社の大宮寺家所蔵)の系統である(第105回)。 物部氏族は天武朝のときに二系統に分離され、「物部首」は「布留宿祢」となり、「物部連」は「物部朝臣」を経て「石上朝臣」に改められた。
一方石上部舎人については「此の天皇〔仁賢〕の御名代として其地名を負はせし舎人部を設け給へるなり。」とするから、 石上神族とは別に、天皇が一定の人民を集めて組織化したもののようである。 ただ、石上部舎人の形成にも物部氏が関与しているだろうことは、容易に想像できる。 〈姓氏家系大辞典〉はさらに、「唯舎人部をのみ定〔さだめ〕置給ひしにより石上部舎人とは云ふなるべし。」 〔「舎人部」のみについて「部」を定めたから、「石上部舎人」と呼ばれた〕と述べる。 同辞典は、常陸・美濃・上野・備前・下野の各地に進出した石上部を記し、 「石上部造」を「石上部の総領的伴造〔とものみやつこ〕家なり。天武朝連〔むらじ〕を賜ふ。」と位置付ける。 〈天武天皇紀〉十二年九月に、「石上部造〔中略〕凡卅八氏賜レ姓曰レ連」とあり、 仁賢天皇紀において、その石上部造の由来を述べたものと言えよう。 《大意》 三年二月一日、 石上部(いそのかみべ)の舎人(とねり)を置きました。 四年五月、 的臣(いくはのおみ)の蚊嶋(かしま)、穂瓮(ほへ)の君に罪が有り、 二人とも下獄して死にました。 五年二月五日、 普(あまね)く国郡に散り亡びた佐伯部を求めて、 佐伯部(さえきべ)の仲子(なかつこ)の後継に用いて、佐伯造(さえきのみやつこ)となされました 【佐伯部仲子の事は、弘計(をけ)天皇紀を見よ。】。 【佐伯】 〈姓氏家系大辞典〉は、「佐伯はもと種族名にして、蝦夷族の一種たりしが如し」、 また「その勇猛粗野の性格〔中略〕その後その民団を以って伴部となす、 佐伯部これ也」とする。 ただ、「〔〈姓氏録〉佐伯直の項にある〕武尊蝦夷征伐の捕虜と云ふは、其の実・伝説に過ぎざるか、或は一部の佐伯に属する事実なりしを、全国の佐伯部に及ぼせしものとする時は、 土蜘蛛、国栖等と同様、最初より全国に広く存在せしものにして、太古住民の遺留せしものと考へらるべし。」として、本来は全国にいたと見ている。 また「京師〔けいし、=都〕の佐伯部」について、「此の佐伯部は久米部と同様、大伴連の管理せし品部にて、宮門の警衛、及び軍事に使役せり。」と述べる。 〈新撰姓氏録〉の佐伯は次の各氏がすべてで、「佐伯部」は出てこない。 《佐伯直》
〈姓氏録〉に、男御諸別命(伊許自別命)が成務天皇から播磨国から半分切り取って賜ったとき、 そこに居た人が「己等是日本武尊平二東夷一時ノ所俘蝦夷之後也」〔日本武尊が東夷を平定し、連れ帰った俘虜の子孫である〕と名乗ったことを天皇に報告すると、 伊許自別命は「針間別佐伯直」の氏を賜り、後に「針間別」が脱落して「佐伯直」となったという話が載る(第122回《播磨別(佐伯直)》)。 即ち「佐伯」はもともと東夷を祖先として移ってきた一族の名称と読める。 《佐伯宿祢など》 天忍日命は大伴連の祖神で(第84回)、③佐伯宿祢・⑥佐伯日奉造・⑦佐伯首はその系統である。 ③佐伯宿祢については、大伴宿祢の項に興味深い説明が載る。 ――〖雄略天皇御世。以二入レ部靱負一賜二大連公一。奏曰。衛門開闔之務。於職已重。若有一身難堪。望与愚児語相伴奉衛左右。勅依奏。是大伴佐伯二氏掌二左右開闔一之縁也〗 ――〔雄略天皇の御世、部(とものを)に入りし靱負(ゆきおひ)を以て、大連公(おほむらじのきみ)を賜る。 奏(まを)して曰(まを)ししく「衛門開闔(あけとぢ)の務(つとめ)、職(つかさ)に已(すで)に重し。 若し一身(ひとりのみ)に有らば堪(た)ふに難し。 愚児(おろかご)の語りに与(あづ)かりて〔=愚かな子供の戯言をお聞きいただき;謙遜〕、相伴ひ左右(もとこ)を衛(まも)り奉(まつること)を望みまつる。」とまをしき。奏(まをしごと)に依りて勅(みことのり)したまふ。是(これ)大伴・佐伯二氏が掌(つかさどる)は、左右(ひだりみぎ)開闔(あけとぢ)の縁(ゆゑ)也(なり)。〕 すなわち佐伯宿祢は、雄略帝のときに大伴宿祢の要請によって、「衛門開闔〔=開閉〕之務」の担い手に加えれらた。 門の左右の扉に、それぞれ衛士が必要であるという譬え話によって、 「大伴一氏だけで衛門するのは荷が重いから、佐伯宿祢を加えて欲しい」と申し出たのである。 《佐伯造》 ⑤佐伯造については、 敏達天皇紀十四年三月に、佐伯造御室の名がある。 ――「遣二佐伯造御室【更名於閭礙】一、喚二馬子宿禰所レ供善信等尼一。」 〔佐伯造御室(みむろ)【名を於閭礙(おろげ)に更(あらた)む】を遣はして、馬子宿祢の供(ともな)はゆる善信らの尼を喚(め)さしめき〕 物部室屋が仏教を弾圧する場面で、馬子宿祢に善信尼を連れて来いと命じたが、その命令を伝達したのが佐伯造御室である。 この「佐伯造」の〖天雷神〗について〈姓氏家系大辞典〉は、 「天雷神とは如何なる神か、蓋し佐伯部裔にて祖先明らかならざれど、その家・富貴となるまゝに斯〔か〕かる神を偽作せしか。」 〔祖先の言い伝えは残っていなかったが、豊かに栄える家に成長したから それなりの見栄えのする系図が必要となり、このような神を偽作した〕と見ている。 《「佐伯+姓(かばね)」の形》 〈姓氏録〉の文からは、大伴宿祢はその軍事部門を充実するために、佐伯を率いる「佐伯宿祢」を融合させたことが読み取れる。 やがてその一体感により、佐伯宿祢も始祖天忍日命を共有するに至った〔=そのような系図を作った〕と考えることができる。 佐伯直については、もともとの「針間別佐伯直」から「針間別」が脱落したものと書かれているのは示唆的である。 佐伯連・佐伯首・佐伯造においても、もともと氏族名を冠していたものが脱落し、「佐伯を統率する」という属性だけが名称として残ったのかも知れない。 佐伯宿祢も含め、簡単に名前が失われる程度のマイナーな氏が佐伯の管理を担っていたということだろうか。 ただ〈姓氏家系大辞典〉によると、後には「その名次第に高まり、その頭梁となりし皇別、神別の諸氏は、有力なる地位を占むるに至」る。 こうなると、最早「佐伯」という呼び名にこそ価値が出てくる。 とは言え、もともとマイナーであったが故に正式な発祥譚が確立しておらず、後になって大伴氏の系図に依存したり、「天雷神」などという正体不明の神が出てきたことが考えられる。 《佐伯部》 〈姓氏録〉に「佐伯部」は出てこないが、前述したように「佐伯直」の項を見ると「日本武尊が東国から連れ帰った俘虜の後裔」が佐伯と呼ばれたと見られる。 ならば「佐伯」は、「佐伯直」によって統率された「部」であるのは明らかである。 「佐伯部」と呼ばない理由は想像するしかないが、余りにも各地に分散していて族としてのまとまりがなかったためだろうか。 それでも書紀に「佐伯部仲子」「佐伯造御室」の名が挙がるから、ある時代のある地域の佐伯は「佐伯部」と呼ばれた。 仁賢天皇は、その父市辺押磐皇子に忠実に仕えて殺された佐伯部仲子を顕彰するために、 一定数の佐伯を集めて組織し、仲子の名前を後世に残そうとしたのである。 その統率者たる「佐伯造」には、仲子に近縁の人物が任じられたと想像される。 ただ、佐伯部仲子の件が〈姓氏録〉に載らないのは、不審である。 〈姓氏家系大辞典〉がこのエピソードを無視しているのも、書紀以外に裏付けとなる資料がないからであろう。 前項で見たように、佐伯の名を負う氏族の発祥譚は不安定だから、一時的に現れて消滅した伝説の一つかも知れない。 「佐伯造」の個人名が書かれていないのも、そのためであろう。 まとめ 物部連・物部首は、始祖の違いによって石上朝臣と布留宿祢とに分離されたと見られる。逆に佐伯宿祢などには、大伴氏との融合による始祖伝説の共有化が見える。 始祖伝説や系図が形成される過程には、諸氏の融合や分離が反映していると考えられ、これは興味深い研究テーマである。 仁賢天皇四年の蚊嶋・穂瓮投獄の件には、他の部分との関連を全く持たない。 ここには、記録のあるものは取りあえず書いておこうとする方針が見える。これは書紀のうち一定部分は、事実の記録として受け止め得ることを示すと思われる。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||
2019.05.24(fri) [15-09] 仁賢天皇3 ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||
12目次 【六年】 《遣日鷹吉士使高麗召巧手者》
〈時代別上代〉は、「秋のねぎは、ときにひと茎の中に二本の茎が包まれていることもあるので、フタコモリの比喩に用いられたというが、未詳。 「秋葱之転双納双、重也納可二思惟一〔おもふべし〕矣」(仁賢紀六年)」と述べる。 『古語林』(大成館)は「あきぎの」を、「ふたこもり」への枕詞だと断定するが、 『ベネッセ古語辞典』は「『ふたごもり』にかかる枕詞ともされるが、未詳」とする。 「転」の訓とされる「いや」は、物ごとの程度が盛んなさまを表し、「しばしば」の意と思われる。 本来は「かへりて」〔通常とは異なって〕であろう。 〈釈紀-述義〉は、 「私記曰。師説。秋時之葱不太古毛利爾生。故取レ喩耳。」 〔秋時の葱〔ネギ〕太からずこもりに生(お)ふ。故に喩(たとへ)に取るのみ〕と述べる。 ネギの葉は筒状で、若い葉が古い葉を破って生長するが、若い葉がたまたま二本重なって出てくれば 〔このとき、根元では茎の枝分かれが起こっている〕、 出てくる前に「ふたごもり」していたことになる。この現象は特に「秋」に限らず普通のことだから、 「葱(き)」の代わりに「秋葱(あきき)」を用いたのは、単に季節感によって雅さを醸すためであろう。 諸々の解説が「秋の葱」だけの特徴だと言うのは、葱の生態を見ず頭の中で考えただけではないだろうか。 さて、この秋葱之転双納は、夫の立場のもつ「於母亦兄(母の継兄妹)」「於吾亦兄(私の継兄妹)」という二重性を「一つの鞘の中の二本の葉」に譬えたと見るのが順当であろう。 「ふた-こもり」はごく普通の上代語だと考えられ、それを「双納」という字を用いて表したものと思われる。 《徘徊顧恋失緖傷心》 〈釈紀-秘訓〉に「ウナタレシラヒコゝロマヨヒシテ」がある。 これは「ウナタレワツラヒコゝロマヨヒシテ」〔項垂れ患ひ心迷ひして〕から、筆写を重ねる際に一部脱落したものと思われる。 それにしても、かなりの意訳である。平安時代の文学的表現に置き換えたものであろうと思われる。 訓読を上代語の範囲内に留め、「徘徊」は普通に「もとほる」、「失緖」も「心を繋ぐ紐を失う」意としてそのまま「ををうす」と訓み、 「顧」=カヘリミル、「恋」=コフ、「傷心」=ココロヲイタムも、そのまま用いることが十分可能である。 《血縁関係》 安康天皇段・紀を見ると、両親を共有する兄弟の近親婚はタブーであったが、 父が共通でも母が異なれば許されたようである(第188回【近親間の姦淫の禁忌】)。 ここで飽田女・麁寸それぞれのDNAの由来を求めると、飽田女は鯽魚女から25%、山杵から50%を受け、 麁寸は鯽魚女から50%、山杵から50%を受ける。 二人の近親度は両親を共にする兄弟〔二人とも父・母から50%ずつ〕よりは低いが、片親のみを同じくする場合〔50%が共通の親由来〕よりも高く、 かなり濃厚であると言える。 書紀の著者が二人の血縁関係を詳しく扱ったのは、 血縁の濃い相手と結婚するのを倭国の習慣と捉え、奇異の目で見たためとも考えられる。 《大意》 六年九月四日、 日鷹吉士(ひだかのきし)を派遣し、高麗に職人の献上を求めさせました。 その秋、 日鷹吉士が使者として派遣された後に、 一人の女人、難波(なには)の御津(みつ)におり、泣いて 「母(おも)にも兄(せ)、吾(あれ)にも兄(せ)、弱草(よわくさ)吾(あ)が夫(つま)ばや。」と言いました。 【 弱草と言うのは、古くは弱草を以って夫婦に譬えると言い、 よって、弱草を夫に作る。】 その泣き声は甚だ哀しく、聞く人を断腸の思いにさせました。 菱城邑(ひしきむら)の人鹿父(かそ) 【鹿父は人名である。俗に、 父を「かそ」に作る】 はこれを聞き、女人の前に立って面と向かって、 「こんなにひどく泣き悲しむとは、一体何があったのだ。」と尋ねたところ、 女人は、 「秋の葱が転じて二重(ふたえ) 納めになったと、お思いください。」と答えました。 鹿父は、 「わかった。」と言い、 女人の言葉を理解しました。 そこに鹿父に同伴している人がいて、その意味が理解できず、 「どうしてそれが分かったのですか。」と質問しました。 答えて言うに、 「難波の玉作部(たまつくりべ)の鯽魚女(ふなめ)は、 韓白水郎𤳉(からまのはたけ) 【「𤳉」(はたけ)は、麦を栽培する田である。】に嫁ぎ、 哭女(なくめ)を生みました。 哭女は 住道(すみじ)の人、山杵(やまき)に嫁ぎ、飽田女(あくため)を生みました。 韓白水郎𤳉と、その娘の哭女(なくめ)は、とうの昔に共に死にました。 住道人の山杵は、それ以前に玉作部の鯽魚女と姦淫し、麁寸(あらき)を生みました。 麁寸は飽田女を娶せましたが、 この度、麁寸は日鷹吉士に随行して、高麗(こま)に向かって発ちました。 それ故に、その妻の飽田女は、さまよい思い返して恋忍び、頼りとする絆を失い、心を傷めているのです。」と答えました。 〔それを聞いていた飽田女の〕泣き声は最高に切なくなり、人を断腸の思いにさせました。 【 玉作部の鯽魚女と 韓白水郎𤳉は、 夫婦となって哭女を生んだ。 住道人の山杵は 哭女を娶せ、 飽田女を生んだ。 山杵の妻の父、韓白水郎𤳉与と その妻の哭女は、 昔、既に共に死んだ。 住道人の山杵は、 以前に妻の母、玉作部の鯽魚女と姦淫し、 麁寸を生んだ。 麁寸は、飽田女を娶せた。 ある書に言う: 玉作部の鯽魚女(ふなめ)は、前の夫の韓白水郎𤳉と共に哭女を生み、 更に後の夫の住道の人、山杵と共に麁寸を生んだ。 すなわち、哭女と麁寸は異父兄弟であったが故に、 哭女の娘、飽田女は、麁寸を「母(おも)にも兄(せ)」と呼んだ。 哭女は山杵に嫁いで、飽田女を生んだ。 山杵はまた、鯽魚女と姦淫し、麁寸を生んだ。 すなわち、飽田女と麁寸は異母兄弟であったが故に、 飽田女は、夫の麁寸を呼びて「吾(あれ)にも兄(せ)」と呼んだ。 古くは、兄弟は長幼を意味せず、女は男を「兄」(せ)と呼び、男は女を「妹」(いも)と呼んだ。 よって「母(おも)にも兄(せ)、吾(あれ)にも兄(せ)」と言ったということである。 】 まとめ 六年条の実質的な内容は、「遣日鷹吉士使高麗召巧手者」〔日高吉師を高句麗に派遣し、手人を求めさせた〕のみだが、 そこに伝説を付して「オモニモセアレニモセ」の謎解きに、むしろ多くの字数を費やす。 おそらく書紀原文の著者が、興味をもって調べたことを記したと思われる。 その調査の結果、「オモニモセアレニモセ」の意味が判明し、それを漢文に翻訳して「於母亦兄於吾亦兄」と書いたと思われる。 そして、これが異母兄弟・異父兄弟が入り混じった複雑な血縁関係に拠る言葉であることを、詳しく報告している。 なお、漢語の「兄・妹」とは異なり、倭語の「兄(せ)・妹(いも)」が年齢順に囚われないことを、著者は大変気にしている。 だが万葉歌に馴染んでいれば、セ・イモの意味は自明である。 〔万葉集は未成立であろうが、その歌の多くは既に知られていただろう。〕 著者は中国語を母語とする人物で、倭語については研究の途上であったのだろうと推察される。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||
2019.05.31(fri) [15-10] 仁賢天皇4 ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||
13目次 【六年是歳~八年】 《日鷹吉士還自高麗》
ここでは、大倭国〔大和国〕山辺郡〔701年以前は山辺評〕の額田邑にいる熟皮高麗という職能集団が、須流枳・奴流枳の子孫であると述べる。 「カハヲシ」は、「皮をヲス」作業・技術・従事する人を意味し、「ヲシカハ」は「"ヲシ"を施した皮」という意味となる。 〈時代別上代〉によれば、「ヲシは動詞ヲス(なめらかにするの意)の連用形であろうが、そのヲスの例は見えない」 〔=動詞「ヲス」の用例は、諸々の文献には見つからない〕。 「皮を鞣(なめ)す」とは、動物の皮を腐敗を防ぎ柔らかさを保つ加工のことで、タンニンやクロムが使われる。 古代から「草や木の汁を使う方法で現在『タンニン鞣し』として行われている方法」があり、「今日残されている最古の革製品である古代エジプト時代のものから裏付けされて」いるという (日本タンナーズ協会)。 即ち六年是の年条は、高句麗から渡来したなめし革職人の須流枳・奴流枳が「熟皮高麗」の起源であると述べたものと見られる。 《五穀登衍》 五穀登衍の「登」は「稔る」、「衍」は植物の生息域が広がる、あるいは個体が成長する意味である。 五穀がよく実ったという記述は、崇神天皇(第111回)「五穀既成百姓饒之」、 仁徳天皇紀四年三月「五穀豊穣」、 反正天皇紀元年十月「五穀成熟人民富饒」、 顕宗天皇紀二年十月「歳比登稔百姓殷富」などに見られる。 このうち、崇神天皇の場合は疫病の大流行を、大物主神や八十万群神を祀ることによって克服した結果である。 また、仁徳天皇の場合は「五穀不登百姓窮乏」なる実情を知り、仁政によって得たものである。 それらに対して、反正天皇、顕宗天皇、そして仁賢天皇の場合は天皇の主体的な行動によってもたらされたわけではなく、受動的に自然条件に恵まれた結果である。 従って、反正天皇以後の例については何らかの豊作年の記録が残っており、それが書紀に反映された可能性があるのではないだろうか。 《戸口》 「戸口」は、戸籍に記録された人口を意味するものであろう。〈釈紀〉の「おほむたから」〔大御宝;称える意を込めて人民を指す語〕は、意訳である。 《大意》 この年、 日鷹吉士(ひたかのきし)は高麗(こま)から還り、 工人、須流枳(するき)・奴流枳(ぬるき)らを献上しました。 今、大倭国(おおやまとのくに)山辺郡(やまのへのこおり)の額田邑(ぬかたむら)の熟皮高麗(かはおしのこま)は、この後裔です。 七年正月三日、 小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)を、皇太子に立てました。 八年十月、 人民の間で 「現在、国中は無事である。 史人(ふみと)〔記録官〕はその官人を称え、 国中が仁に帰し、 人民はその生業に安んじる。」と語られました。 この年、 五穀は登衍(とうえん)〔実り繁茂する〕し、 蚕麦(さんばく)〔養蚕と麦畑〕の収獲は多く、 遠近〔都と鄙〕とも清く平安で、 人口は滋(ますま)す増えました。 【額田邑】
《額田部》 『奈良県史』14巻〔名著出版;1985〕は、 額田郷は「大和郡山市額田部寺方北方付近」、「佐保川の大和川合流地付近に推定される」と述べる。 現代地名としては、奈良県大和郡山市に「額田部北町」「額田部南町」「額田部寺町」があり、 それぞれ町村制〔1889〕以前の「額田部村北方」「額田部村南方」「額田部村寺方」に対応すると見られる。 『大和志』(五畿内志)-平群郡【村里】には「額田部【旧名熊凝。属邑二】」と載る。「属邑二」とは、北方・南方・寺方のどれかひとつが主村で、残りが属邑ということであろうか。 その旧名「能凝」については、〈姓氏家系大辞典〉に「熊凝 クマコリ クマノコリ:大和国平群郡に熊凝あり。 神功皇后が以前の際、忍熊王の先鋒に、熊之凝と云ふ人見ゆ〔神功皇后紀10〕、此の地名を負ひしかと云ふ」と述べる。 また〈姓氏録〉に〖中臣熊凝朝臣〗がある。「中臣」が付いてはいるが「神饒速日命孫。味瓊杵田命〔天孫本紀では味饒田命〕之後也」とあるので物部系である。 『大和志』によれば旧名が熊凝であることから、額田部は復古地名である疑惑が出てくる。しかし、もし復古地名なら書紀や〈倭名類聚抄〉に合わせて「額田」にするだろうから、やはり額田部は古くから伝わる地名なのであろう。 《額田部と額田》 「額田部」と「額田」の関係について、〈姓氏家系大辞典〉は 「額田:古代額田部なる大部族ありて、その部民の住居せしより起りし地名・全国に多し。 この〔額田〕氏は其の伴造、及び其の部民、または此の地名を負ひし也」、 即ち職業部「額田部」から地名、そして氏族名として「額田」が派生したと見ている。 地名にしたとき「部」を省いたのは、好字化〔国郡郷名を、好字二文字にする〕による可能性がある。好字令は713年で書紀が成立した720年に近すぎることを考えると、 「飛鳥」と同じく(第180回)、好字令以前から存在した好字化の流れによるのかも知れない。 以上から、額田邑は額田部北町・額田部南町・額田部寺町の辺りだと考えてよいだろう。 それでもなお、書紀の「山辺郡額田邑」と〈倭名類聚抄〉の{平群郡・額田郷}との間には、郡が一致しないという問題がある。 《額田部は平群郡》 それでは、書紀の頃から〈倭名類聚抄〉の931年頃までの間に山辺郡の郡域が変更されたのであろうか。 それを探るために〈大日本地名辞書〉を見ると、 「今平端村本多村なり、大字額田部あり」、 「書紀通証〔1748〕云、今山辺郡嘉幡村(今二階堂)西十町〔約1090m〕許有皮工邑、隣平群郡額田部村」 とある。 『大和志』-山辺郡は、【古蹟】の項で 「額田邑【嘉幡村西十町許有二皮工邑一隣二平群郡額田部村一 〔仁賢天皇紀云々〕今額田邑熟皮高麗是其後也即此。】」と述べる。『書紀通証』は、これを引き継いだものか。 何れにしてもこの説明に従えば、皮工邑の位置は、式下郡下永村(現代地名:奈良県磯城郡川西町下永(大字))の辺りが該当する。 『大和志』-式下郡には「下永村【永旧作レ長〔旧くは"下長"に作る〕属邑一】」とあるから、この「属邑」とは「皮工邑」であろうか。 「皮工」という地名は、「熟皮高麗」に由来するように見える。しかし、下永村が属するのは式下郡(〈倭名類聚抄〉では{城下郡})である。 書紀によれば、下永地域もまた山辺郡の範囲内であったことになる。 この郡が一致しない問題は、「額田部氏の系譜と職掌」(仁藤敦史)という論文に取り上げられている(国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ⇒国立歴史民俗博物館研究報告⇒第88集)。 同論文は六年是歳条を引用し、さらに〈続紀〉天平十六年〔740〕「冬十月辛卯。律師道慈法師卒〔=死、同論文によれば七十余歳〕。【天平元年為律師】法師俗姓額田氏。添下郡人也」を引用する。この2つを論拠として 「おそらく下つ道によって郡域を区分し、西側を平群郡域にするようになるのは、 大宝令の施行〔701年〕以後であり、それ以前には人間集団の把握に対応して〔=人が住んでいた集落の範囲に合わせて〕、 後の額田郷域の北部は所布〔そふ〕(または添上〔添下の誤り?〕)評、東南部(大和川と佐保川および下つ道に挟まれた地域)は山辺評として把握されたと考えられる。」と述べる。 ここで取り上げられた下ツ道については、天武天皇即位前紀に「則分レ軍。各当二上中下道一而屯レ之」〔軍を分け、それぞれ上中下道に割り振って駐屯させる〕、「中道」、「上道」が見えるので、天武朝以前から存在していたと見られる。 しかし、書紀は古い時代の「評」を系統的に「郡」に変えて書いていることからも分かるように※、全体的に表記を大宝令に合わせているから、 大宝令が発せられた時点では「山辺郡額田郷」であった可能性が高い。 ※…第116回《大化の改新の詔》 ただ、この郡域の変更が実際にいつ行われたのかを、直接的に示す資料は今のところ見いだせない。 《皮工邑の位置》 以上から端的に言って、 ①額田部地域は平群郡だが山辺郡との境界に近く、大宝令の頃は山辺郡に属していたと考えることは可能である。 ②地名としての額田部は、一般的に額田になり得る。 ③大和郡山市額田部の南東に接して皮工邑があった。 これらのことから、「大和国山辺郡額田邑熟皮高麗」は、③の辺りと推定することができる。 そうは言っても、この「皮工邑」の位置はまだ漠然としており、より詳しく知りたいところだが、これに触れた文献はなかなか見つからない。 例えば、川西町の公式ページには大字下永の文化財として八幡神社の白米寺跡などが載るが、 「皮工邑」「熟皮高麗」は出てこない。『奈良県史』4巻「遺跡」を見ても、熟皮工房の跡らしいものはない。 もし、今後熟皮工房の遺跡が発見されるようなことがあれば、そこが「熟皮高麗、即ち後の皮工邑」で、かつ額田邑が山辺郡に属したことが確定するであろう。 14目次 【十一年】 十一年秋八月庚戌朔丁巳。〔続き〕 まとめ 仁賢天皇は、実際には顕宗天皇から天位を実力で奪い返したことが二年条で暗示される。 しかし、それ以後は熟皮高麗の祖の来帰を書くぐらいで、天皇の主体的な行為はほぼ皆無である。 仁賢天皇はもともと忍海氏の人であったが、物部氏によって絡めとられて石上広高宮に事実上幽閉され、 物部氏が実質的に権力を掌握したと読むのが妥当であろう。 それでも、物部氏が送り込んだ大臣の政が、仁賢天皇の事績として書かれてもよいであろう。 物部氏はこの時期の記録を抱え込み、せっかくの記録であるがそのまま失なわれたのであろうか。 記では清寧天皇から武烈天皇まで崩年月日の記載が欠けていることも (第43回)、これと関係があるのかも知れない。 なお物部氏が仁賢天皇を抱え込んだと考えた場合は、 播磨国風土記が仁賢天皇の宮が美嚢郡にあると述べることを、どう解釈するかという問題が残る。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||
⇒ [16-01] 武烈天皇 |