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2019.03.20(wed) [15-03] 顕宗天皇1 ▼▲ |
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1目次 【即位前(一)】 弘計天皇【更名來目稚子】、……〔続き〕 2目次 【即位前(二)】 穴穗天皇三年十月。天皇父市邊押磐皇子及帳內佐伯部仲子、……〔続き〕 3目次 【即位前(三)】 〔清寧二年十一月(一)〕 白髮天皇二年冬十一月。播磨國司山部連先祖伊豫來目部小楯、……〔続き〕 4目次 【即位前(四)】 〔清寧二年十一月(二)〕 億計王起儛既了。天皇次起。……〔続き〕 5目次 【即位前(五)】 〔清寧二年十一月(三)〕 小楯、大驚離席、悵然再拜。……〔続き〕 6目次 【即位前(六)】 〔清寧三年〕 白髮天皇三年春正月。天皇隨億計王、到攝津国、……〔続き〕 7目次 【即位前(七)】 〔清寧五年正月〕 五年春正月。白髮天皇崩。……〔続き〕 8目次 【即位前(八)】 〔清寧五年十二月(一)〕 十二月。百官大會、皇太子億計取天皇之璽、置之天皇之坐。 ……〔続き〕 9目次 【即位前(九)】 〔清寧五年十二月(二)〕 皇太子億計曰「白髮天皇、以吾兄之故舉天下之事而先屬我、我其羞之。 ……〔続き〕 10目次 【即位前(十)】 〔清寧五年十二月(三)〕 發言慷慨至于流涕。天皇於是、知終不處不逆兄意乃聽。 ……〔続き〕 11目次 【元年正月(一)】 元年春正月己巳朔。大臣大連等奏言。「皇太子億計聖德明茂、奉讓天下。 ……〔続き〕 12目次 【元年正月(二)】 乃召公卿百僚於近飛鳥八釣宮、卽天皇位。……〔続き〕 13目次 【元年二月五日】 二月戊戌朔壬寅、詔曰「先王遭離多難、殞命荒郊。……〔続き〕 14目次 【元年二月是月】 詔老嫗置目居于宮傍近處、優崇賜䘏使無乏少。是月詔。……〔続き〕 15目次 【元年三月~四月】 《詔曰凡人主之所以勸民者惟授官也》
〈天武天皇紀〉によれば、飛鳥淨御原宮に、 大安殿、内安殿、向小殿、白錦後菀、大極殿、西庁、南門、西門、法令殿、御窟殿が見える。 十四年十一月〔癸卯朔〕には、「戊申、幸二白錦後菀一。」とあり、何をしたかは書かれていないが、恐らくは宴を催したのであろう。 宮殿には一般的に、表の「苑」及び裏の「後苑」が整えられていたと思われる。
曲水宴とは、「曲水(風流の遊びのために、屈曲させてつくった小川)に杯を流し、 その杯が自分の前を流れ過ぎないうちに詩をつくり、その杯をとって酒を飲む遊びごと。 昔、文人たちの間で三月三日に催された。」(〈学研新漢和〉)。 『芸文類聚』〔唐、624〕巻四「歳時中-三月三日」に 「梁簡文帝三日。侍二宴林光殿曲水一詩」、 「梁沈約三日侍二鳳光殿曲水宴一詩」などが載る。 梁の簡文帝は二代皇帝〔在位549~551〕。 沈約〔441~513〕は南朝の文学者・政治家。梁で尚書令に任じられた。 《宴の訓読》 万葉に「(万)4266 豊宴 見為今日者 とよのあかり めすけふのひは。」があり、「豊宴」を「とよのあかり」と訓んでいる。 「とよのあかり」は、記の仁徳天皇段(第172回)の 「坐二大嘗一而為二豊明一之時」〔大嘗に坐して豊明したまひし時〕に見られる。 また〈延喜式-祝詞〉大嘗祭に「豊明尓明坐牟皇御孫命能」〔豊の明りにあけまさむ、皇孫命(すめみまのみこと)の〕、 神護景雲三年〔769〕十一月壬辰の宣命「新嘗乃猶良比乃豊乃明聞許之売須日仁在」 〔新嘗の猶良比(なほらひ)の豊の明(あかり)聞こしめす日に在(あり)〕。 一方、「うたげ」という語も上代から存在した。 顕宗天皇紀(即位前4)の「拍上賜」〔うちあげたまへ〕の「うちあげ」は、 宣長以来「うたげ」の由来を示すと言われる (第125回【待其楽日】)。 記紀編纂期に「うたげ」、「とよのあかり」のどちらも上代語として存在したのだから、「宴」の訓は両方あってよいと言える。 《曲水の訓読》 一方、「曲水宴」については事情は異なる。 顕宗天皇の時代〔5世紀後半〕に存在した倭語に「曲水宴」を宛てたとは考えられず、 顕宗天皇紀では、執筆者が「曲水宴」を漢語のまま用いたのは明らかである。 「曲水宴」の古訓の例は、『仮名日本紀』に「めぐり水のとよのあかりきこしめす」とある。 〈時代別上代〉は「とよのあかり」の項に「メグリノミヅノとよのあかりシタマフ」なる古訓を載せる。 書記に「曲水宴」が出てくるのは〈顕宗天皇紀〉の元年・二年・三年に限られ、次に出てくるのは〈続紀〉神亀五年〔728、聖武天皇〕三月己亥〔三日〕「召文人。令賦曲水之詩。」である。 ただし「曲水」の語はないが、上巳の宴としては大宝元年〔701〕三月丙子〔三日〕に「賜レ宴下王親及二群臣一於東安殿上」がある。 以後730・762・767・770・772・777・778・779・784・785・787年の各三月三日に「曲水」の文字がある。 それらのうち「曲水之宴」は767年のみ、他はすべて「賦曲水」、「曲水之詩」である。 これらにまで書紀古訓を適用して「めぐりみづをうたふ」「めぐりみづのうた」と訓むことには違和感を覚える。 「めぐりみづ」は雅で趣きのある言葉だが、平安時代に〈顕宗紀〉の「曲水宴」を訓読するだけのための訓で、 実際に上巳の行事を「めぐりみづの宴」と呼ぶことはあまりなかったのではないだろうか。 万葉集に「めぐりみづ」が全く出てこないのも、一般的な語にならなかったことを示すか。 少なくとも書紀が書かれた時代に戻れば、呉音で読むべきではないかと思われる。 《上巳》 前項、簡文帝の「曲水詩」は『芸文類聚』の「歳時中」三月三日の項に収められているから、 少なくとも6世紀の梁では、曲水宴は三月三日に行われていたことがわかる。 〈顕宗天皇紀〉の「上巳」では既に「巳の日」の意味は失われ、 曲水宴の定例日である「三月三日」を指す語になっていたと考えてよいだろう。 だから、「上巳」を「かみつみ」や「かみのみ」と訓読するのは適切ではないと思われる。 呉音の時代に上巳の行事の習慣は持ち込まれていたと思われるから、 「じやうし」と読むのが適当であろう。 なお、〈続紀〉には、「上巳」の語は使われていない。 《山部連》 小楯を播磨国に国司として派遣されたときにも、「山部連先祖伊予来目部」と紹介された (清寧紀二年十一月)。 山部連について〈姓氏家系大辞典〉は「「冨莫能儔」とあるを以って、其の勢力の大 なりしを知るべし。中臣氏本系帳に「山部歌子連(御食子の母)」あり。 其の裔とす、推古朝の人也。」、「氏人には有名なる山部赤人あり」と述べる。 天武天皇紀十三年十二月には「山部連…五十氏賜レ姓曰二宿祢一。」とある。 伊予来目部のものと見られる古墳群も伊予国に残るから、恐らく小楯は実在の人物で、任務を帯びて実際に播磨国に派遣された可能性も高い。 ただ二王子の発見から即位までの物語は、現実性を欠く。しかし、その種となる何らかの事実があったかも知れない可能性を、 第215回 および第216回(【王子の年頃】)で論じた。 《以吉備臣為副》 吉備上道臣は、かつて星川皇子による反乱を支援し、その罪を贖うために「其所領山部」〔支配下にあった山部〕を没収された (清寧天皇即位前(二))。 今回、小楯が「山部連」となり、その山部を率いることになった。 吉備臣は、小楯を補佐する立場ではあるが、ここで山部との関わりを取り戻したことになる。 吉備上道臣が支配権を剥奪されたとは言え、山部の中に吉備臣への信頼感は根強く残り、 その統率の為に再び副官として取り立てられたものと解釈できる。 《山守部》 〈姓氏家系大辞典〉は「山部と山守部の差詳かならず。蓋し山部とは本来種族名にして、山守部は山を守らしむる為に設けた職業部ならんか」、 また顕宗紀元年四月条を「見ゆれば、此の部は特に山部連の部曲〔かきべ〕となし給ひしものと考へらる。」と述べ、 大和国広瀬郡の山守郷などに関連を見出している。 さらに備中国『大税負死亡人帳』〔739年〕に「山守部島売」「山守部身足」の人名を見出している。 《宿》 この「宿」とは一体何だろうと思わせるが、 帝に向かって「願います。」というような直接的な物言いを憚り、「私の心の中には、このような望みを宿しております」と、婉曲的な言い回しをしたものと考えられる。 【大意】 〔元年〕三月の上巳(じょうし)〔三日〕に、 後苑にお出ましになり、曲水(きょくすい、ごくすい)の宴を催されました。 四月十一日、 詔を下されました。いわく、 「およそ天子のために勤めた人民には、官位を授け、 国のために立った者には、功を賞すものである。 さきの播磨の国司、来目部(くめべ)の小楯(おたて)【名を磐楯(いわたて)に改めた】、 都に迎え要請し、朕を推挙したこと、その功は多大である。 志あり願うところを、遠慮なく申してみよ。」。 小楯は謝して、「山官(やまのつかさ)が、願うところに宿しております。」と申し上げました。 こうして山官(やまのつかさ)を拝し、改めて山部連氏(やまべのむらじおみ)の氏姓を賜り、 吉備の臣を副とし、 山守部を以ちて部曲(かきべ)としました。 善を褒め功を顕(あらわ)し、 恩に酬いて厚心に答え、 寵愛(ちょうあい)は特に絶大で、 富は〔顕宗天皇にとっての〕善き友のもとに定まりました。 まとめ 書紀は、倭国における曲水宴の伝説的な起原をここに置いたとも考えられるが、 それならなぜ顕宗天皇のところなのだろうか。よりネームバリューのある仁徳朝や雄略朝でもよさそうに思える。 この記事が前後関係抜きで唐突に出てくるところを見ると、 実は書紀のために集められた資料の中に、たまたま「乙丑年三月上巳宴」と記された文献があったのかも知れない。 それが〔書紀が規定した〕顕宗元年に結果的に該当したから、ここに書いたと想像することもできる。 さて、吉備臣は小楯の配下に置かれた。かつて飯豊女王は、星川皇子を推した吉備臣を抑えて白髪皇子を即位させ、 さらに顕宗・仁賢を即位させたと見た (第215回《飯豊女王》)。 飯豊女王の小楯への信頼は厚く、女王が率いる忍海族が相変わらず吉備臣よりも優位に立っていたことが、 「以二吉備臣一為レ副」に現れているのではないかと思わせるのである。 |
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2019.03.25(mon) [15-04] 顕宗天皇2 ▼▲ |
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16目次 【元年五月】 五月、狹々城山君韓帒宿禰、事連謀殺皇子押磐、……〔続き〕 17目次 【元年六月】 《幸避暑殿奏樂》
書記に「避暑殿」として出てくるのはここが唯一である。ただし、仁徳天皇紀に「居二高台一而避レ暑」があった。 固有名詞〔命名された宮殿〕としての「避暑殿」は、日本・中国ともに殆ど見られないので、 一般的な言葉〔すなわち、避暑のために使用された宮殿の意〕であろう。 太陽太陰暦の六月は、二十四節季の「大暑」を含む月と定義されている (〈魏志倭人伝をそのまま読む〉第51回)。 北半球の温帯の陸上では、通常平均気温が一番高いのがこの時季である。 よって、書紀原文の筆者が「六月」という時期から、頭の中で「避暑殿」で宴したことにしたのではないかと想像される。 仁徳天皇紀三十八年条では、「避暑」を動詞「すずむ」と訓んだ。 だが、上代に動詞「すずむ」は確実ではなく、さらにその連用形名詞「すずみ」があったことにするのは輪をかけて不確実である。 そこで「すずみの(涼みの)殿」はあきらめ、「避」と「暑」を分けて訓読してみる。すると、「あつし」の名詞形が必要となる。 万葉集を探してみると、「(万)1753 熱尓 汗可伎奈氣 あつけくに あせかきなげ」があった。 その「あつけく」は、形容詞「暑し」の上代の未然形「あつけ」のク語法(第66回)による名詞化である。 その助詞は「を」にしたいところだが、慎重を期して「熱尓」全体を借用することにする。 《奏楽》 〈倭名類聚抄〉の「雅楽寮【宇多末比乃豆加佐】〔うたまひのつかさ〕」では、 奏楽を伴う歌謡を「うた」と呼ぶ。ただ「うた」そのものは、メロディーのある歌または、詩の詠唱を指す。 (万)3886「笛吹跡 ふえふきと」「琴引跡 ことひきと」によれば、琴は「弾く」もの、笛は「吹く」ものである。 従って、楽器の演奏には本来「うたふ」は使わない。 奏楽には歌謡と舞踊を伴うことから、「雅楽寮」は「うたまひのつかさ」と訓まれるに至ったと思われる。 この訓は、大宝令〔701〕から〈倭名類聚抄〉〔931~938〕の間に生まれたことになるが、 万葉の様子を見ると、奈良時代の始めにはまだなかったのではないだろうか。 《大意》 〔元年〕六月(みなづき)、 避暑殿に行かれ、 奏楽して群臣を集め、酒食が用意されました。 この年は、太歳(たいさい)乙丑(きのとうし)です。 18目次 【二年三月】 《幸後苑曲水宴》
『礼記』〔らいき、戦国;前340~前250〕-「王制」に 「天子三公九卿二十七大夫八十一元士。 大国三卿皆命於天子下大夫五人上士二十七人。 次国三卿二卿命於天子一卿命於其君下大夫五人上士二十七人。 小国二卿皆命於其君下大夫五人上士二十七人。」 〔皇帝には、三公・九卿・二十七大夫・八十一元士。 諸侯国のうち大国は、天子が任命した三卿・下大夫五人・上士二十七人。 次国〔"中国"の表現を避けたと思われる〕は、三卿(二名は皇帝が命じ、一名は諸侯が命じる)・ 下大夫五人・上士二十七人。小国は諸侯が命じた二卿・大夫五人・上士二十七人。〕 とある。 これらは秦代〔前221~前206〕には現実化され、「丞相・太尉・御史大夫」の三公を要に据える体制が成立していたとされる。 公卿はもともと「三公九卿」の略、「公卿大夫」は「公卿と大夫」である。 例えば、『孟子』〔戦国〕-「告子上」に「仁義忠信楽善不倦、此天爵也。公卿大夫、此人爵也」がある。 ただし、書紀が書かれた頃には既に日本の制度下に、官職名「卿」「大夫」が使われていた。 制度を定めた大宝令は701年頃に成立し、書紀の成立は720年である。 その訓については、「卿」と「大夫」ともに「かみ」である。 そもそも省・寮・府などの長官は、すべて「かみ」と訓まれた。 ――〈倭名類聚抄〉「省曰レ卿。 弾正曰レ尹。勘解由使曰二長官一。鋳銭司同。 勘解由使職曰二大夫一。 寮曰レ頭。…〔中略〕… 【已上皆加美〔かみ〕】」。 しかし、各組織内の地位から離れて単独で出てくる場合は、その限りではない。 特に「大夫」は広範に使われ、魏志倭人伝では、中国に詣(ゆ)く使は「皆自二-称大夫一」である(〈魏志倭人伝をそのまま読む〉31回)。 万葉集は、「ますらを」に「大夫」を当てる。 このようにその訓みは定めがたいが、そもそも「公卿大夫」は上位の官職をまとめて中国風に表現したものであるから、 「公」「卿」「大夫」の訓を個別に突き止める必要はない。 もともと中国由来の言い回しであるから音読みを用いるか、意訳として大雑把に「まへつきみ」で括るかのどちらかとなる。 《大意》 二年、三月上巳(じょうし)に、 後苑にお出かけになり、曲水の宴を催されました。 この時、公卿大夫、臣、連、国造、伴造をよく集めて宴なされ、 群臣は何度も万歳を叫びました。 まとめ 後苑は飛鳥浄御原宮から類推し得るのに対して、避暑殿には具体性はないようである。 書紀に登場する様々な地名や建物名にそれぞれどの程度の現実性があるか、吟味することが必要である。 さて、ここでも中国由来の言い回しがいくつか使われている。 その出典とともに、平安時代に当てられた古訓の根拠を押さえておくことも、また重要であろう。 |
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2019.04.17(wed) [15-05] 顕宗天皇3 ▼▲ |
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19目次 【二年八月(一)】 秋八月己未朔、天皇、謂皇太子億計曰「吾父先王、……〔続き〕 20目次 【二年八月(二)】 皇太子億計、歔欷不能答、乃諫曰「不可。……〔続き〕 21目次 【二年九月】 九月、置目老困、乞還曰「氣力衰邁、……〔続き〕 22目次 【二年十月】 《宴群臣》
〈釈紀〉は、「稲斛銀銭一文【イネヒトサカヲシロカネノセ二ヒトツニカフ】」〔稲一斛(さか)を銀の銭(ぜに)一文(ひとつ)に易ふ〕 と訓む。 斛を「さか」と訓むのは、長さの単位「尺(さか)」を転用したと思われる。 新莽嘉量で一斛を測る円柱容器の深さは一尺であった。「斛(さか)」「一文(つ)」という訓はともに、 上代から平安時代の古訓を経て、鎌倉時代の〈釈紀〉まで引き継がれたと考えてよいと思われる。 銭の訓「ぜに」は、呉音の「ゼン」が転じたと考えられている。 《銀銭》 「京都国立博物館」の中に、 「無文銀銭」の紹介ページがある。 ――「滋賀県の崇福寺(すうふくじ)跡から〔中略〕「無文銀銭」と呼ばれる11枚のコインが出土し」、 「8gから10gというばらつきがあり」、 「天智天皇の近江京時代(667~672)につかわれた銀貨」と解説されている。 天智天皇紀〔元年壬戌〕六年〔667〕三月に「遷都于近江」、同十年〔671〕十一月に「天皇崩于近江宮」、 さらに天武天皇十二年〔683〕四月には「詔曰。自今以後必用銅銭。莫用銀銭。」〔今より以後銅銭を用ゐて、銀銭を用ゐるなかれ〕 とあり、この頃まで少なくとも一部では流通していたことが伺われる。 それでは、銀銭の流通は顕宗紀にまで遡るのだろうか。 干支を見ると、顕宗天皇二年〔486〕は丙寅で、666年も丙寅なので、天智天皇の丙寅年の事績を顕宗天皇二年のところに書いたとも考えられるが、 5世紀末の時点で銀銭の鋳造があったかどうかの判断は、なかなか難しい。 《大意》 十月六日、 群臣をあつめ宴をなされました。 この時期、天下安平、 庶民に徭役〔ようえき、労役〕を課さず、年の頃合いに作物が実り、人民は殷富〔栄えて豊かなさま〕しました。 稲一斛(いっこく)ごとに銀銭一文が得られ、 馬は野を覆い尽くしました。 23目次 【三年二月】 《阿閉臣事代銜命出使于任那》
山城国葛野郡に葛野坐月読神社があるので、「歌荒樔田」はその神戸であったのだろうと思われる。 ウタについては江戸時代に宇多野村があり、町村制〔1889〕のとき葛野郡花園村となった。「宇多」は現在も地名に残る。 この「宇多」を「歌荒樔」に結びつける説はあまり一般的ではないが、葛野坐月読神社からは比較的近い。 『大日本地名辞書』は嵐山の項で、「荒樔は松尾の古名と思はるれば、嵐山は旧荒樔山と呼べる也」と述べる。 また月読神社の項では、「名跡志云、歌荒樔田は大井川※の西南岸、即松尾社東南の地たり」と述べる。 出典を探すと、『山州〔=山城国〕名跡志』〔1711年。全22巻〕巻九(葛野郡)に、「歌荒巣田在二大堰河之西南一、即今松尾之東南地是也」があった。 ※…大堰川(おおいがわ)は、大井川、葛野川とも。嵐山から下流は桂川。 葛野坐月読神社は文武天皇の時、大堰川氾濫の危険を避けて移転する(別項で詳述)。 《大意》 三年二月一日、 阿閉臣(あへのおみ)の事代(ことしろ)は、命を含んで任那への使者に出ました。 そのとき、月神〔月読神〕が人に憑依して語りました。 「我が祖、高皇産霊(たかみむすひ)は、予め天地を鎔造〔=創造〕された功があり、 民の土地をもって我、月神に奉りなさい。 もし私の求めに依って我を献れば、福慶があるでしょう。」 事代はこのことにより、都に帰りつぶさに奏上し、 歌荒樔田の土地を奉り 【歌荒樔田は、山背〔山城〕国の葛野郡(かどののこおり)にあります】、 壹伎〔壱岐〕の県主(あがたぬし)の先祖、押見宿祢(おしみのすくね)が仕え祠りました。 24目次 【三年三月~四月十三日】 《日神著人謂阿閉臣事代》
〈姓氏家系大辞典〉は「三枝部 サイグサベ:又福草部に作る。顕宗帝の御名代の民」、 「忍歯別王の御名は、此の三枝なる押歯より来れる事は記伝〔=古事記伝略〕にも説あり。 此によりて考ふれば、此の部は市辺押磐皇子の御名代と見る方・適切なるべし。」と述べる。 また、〈新撰姓氏録〉には〖三枝部連/額田部湯坐連同祖/顕宗天皇御世。喚集諸氏人等。賜饗。于時三茎之草生於宮庭。採以奉献。仍負姓三枝部造〗 〔顕宗天皇の御世。諸氏(もろもろのうじ)の人等を喚び集めて饗(あへ)を賜る。時に三茎之草(さいぐさ)宮の庭に生(お)ひき。採り以て奉献(たてまつり)て、仍(すなはち)姓(かばね)三枝部(さいぐさべ)の造(みやつこ)を負ひき。〕とある。 三枝部連の同祖とされる「額田部湯坐連」は、皇子養育にあたる部を起源とすると考えられている (第47回・第120回)。 「市辺押磐皇子の御名代」を見ると、もともと市辺皇子の湯坐として養育にあたったという想像も可能である。 「福」の字が当てられているから、この氏族は最初から「さき」という発音をもって呼ばれ、そこに植物名「三枝」〔さきくさ〕の字が当てられたのは、後(のち)のことと思われる。 サイグサは上代語サキクサのイ音便。 顕宗段市辺王の「御歯者如三枝押歯坐」(第219回) は、一応「歯は、サイグサの如き押歯」と読めるが、「歯が不揃いな様は、サイグサという植物の姿に似る」の意味は、なかなか理解が難しい。 そもそも肝心のサイグサが、どの植物を指すかは不明である。
しかし特定の植物とは無関係に、単純に歯の向きのバラバラな様を「ミツノエ(三本の枝)」と表したのかも知れない。 但しこの読み方では、記伝の「三枝歯がサキクサベの由来である」とする説は成り立たなくなる。 《大意》 〔三年〕三月上巳(じょうし)、 後苑に出かけられ、曲水宴を催されました。 四月五日、 日神〔天照大神〕は、人に憑依して阿閉臣事代に、 「磐余の田をもって我が先祖、高皇産霊(たかみむすひ)に献(たてまつ)れ。」と語りました。 事代はただちに奏上し、 神の求めにより田十四町を献上し、 対馬の下県(しもつあがた)の直(あたい)が、仕えて祠りました。 十三日、福草部を置きました。 【月神】 《月読命》 神代紀では、原注で「月神【一書云月弓尊。月夜見尊。月読尊。】」とし、 各「一書」の中でそれぞれの呼び名を用いている。 つくよみは、「(万)3622 月余美乃 比可里乎伎欲美 つくよみの ひかりをきよみ」を見ると、 語源としては月の満ち欠けによって日付をよむことに由来すると思われるが、 上代には既に神名として定着している。 なお、〈時代別上代〉によれば、「ツクヨミと訓みならわしているが、「月」の部分の仮名書き例なく」 〔厳密に言えば、訓みがツクヨミ・ツキヨミのどちらであるかは確定していない〕という。 記のみならず万葉集や神名帳を見れば、上代語が「つくよみ(つきよみ)」であったことは明らかだから、 書紀の「月神」は、中国語の範疇にある語と思われる。 これまでも雄略天皇三年で倭国ではありふれた「うかひ(鵜飼をする人)」「うかはたつ(鵜飼する)」を「使鸕鷀没水捕魚」と説明的に表現した例があり、 「書紀の原文製作者は、日本の文化にまだあまり馴染んでいない」からだろうと考えた。 元々中国語として「月神」としたのだから、本来は音読みすべきものであろう。 もし「月神」を直訳して「つきのかみ」などと訓んだ場合、言葉としては上代人に理解されるだろうが、おそらく「つくよみ」とは別の神だと受け取るであろう。 《月読神社》
《山城国》 ――{山城国一百廿二座/葛野郡廿座/葛野坐月読神社【名神大。月次。相嘗。新嘗】}。 葛野坐月読神社は、現在は松尾大社の摂社(京都市西京区松室山添町15。松尾大社の南南東370m)となっている。 松尾大社公式ページの「摂社:月読神社」の由緒に、 「押見宿祢の子孫が(卜部姓)代々神職として世襲しましたが、文徳天皇の斉衡三年(856)に水害の危険を避けて、松尾山南麓の現在地に移り(文徳実録)ました。」とある。 出典を探すと『日本文徳〔もんとく〕天皇実録』 巻八-斉衡三年〔856〕三月に、「戊午〔十五日〕。移二山城國葛野郡月讀社一。置二松尾之南山一。社近二河濱一。爲レ水所囓。故移レ之。」 〔山城国葛野郡月読社を移して松尾の南山に置く。社(やしろ)河浜に近かりて、水の為(ため)に所囓(かまる)〔水害で破損する〕。故(かれ)之(これ)を移しき〕とあった。 また『山州名跡志』に、 「文徳帝仁寿三年春夏之間、痘疹流行病之時、神現レ形曰、 我是大堰河浜所レ居神、名月読神、我居レ近レ河頗有二泛濫之患一、今欲レ移二居於松尾南山一。 若能敬二-祭我一者災害当二自消一矣。」 〔文徳帝仁寿三年春夏の間、痘疹流行病之時、神、形に現してのりたまはく 『我是れ大堰河の浜に居(いま)す神、名は月読神なり、我河に近く居(ま)して頗(すこぶ)る泛濫の患〔わづらひ、=悩み〕有り、今居を松尾南山に移らむと欲(ほ)り。 若し能(よ)く我を敬ひ祭らば災害自(おのづか)ら消ゆ当(べ)し』」〕 とある。すなわち文徳天皇三年、痘疹が流行したとき月読神が姿を現し、自分は大堰河の浜の神社に坐すが川の氾濫が心配でならない。松尾山の南に移してくれて敬祭してくれれば流行病は自然に消えるであろうとお告げしたという。 月読社の移転に付会された伝説と見られるが、出典は明確に示されていない。 ――{山城国/綴喜郡/月読神社【大。月次。新嘗】}は、〈続紀〉大宝元年四月にも出て来る(後述)。 比定社「月読神社」(京田辺市大住池平31)の社頭表示には、「明治十年に定められた」とある。 樺井月神社に近い(第197回) 《伊勢国》 ――{伊勢国/度会郡/月読宮二坐}・{伊勢国/度会郡/月夜見宮}。 「月読宮」の比定社は内宮の別宮、「月夜見宮」の比定社は外宮の別宮である。
――{壱岐島廿四座/壱岐郡十二座/月読神社} 現在の月読神社(長崎県壱岐市芦辺町国分東触464)は、 月読命と、別名の月夜見命・月弓命を三柱の別神として祀る。 『式内社調査報告』〔皇学館大学出版部、1978〕によると、現在の月読神社は延宝四年〔1676〕に平戸藩が査定したに過ぎず、 真の式内「壱岐郡月読神社」は別にあり、それは「八幡神社」(壱岐郡芦辺町箱崎村根抵山)であると断じている。 そもそも藩査定の「月読神社」には、延宝四年の査定以前は社殿もなかったという。 同書所引の『社記』によれば、「八幡神社」は旧号を「海裏宮」「海裏八幡」といい、もともと桓武天皇の延暦六年〔787〕に「男岳山(磯山又は五百鳩山と云)に鎮座」し、その後三度の移転を重ね、当地に鎮座したという。 祭神は豊玉毘古命・玉依姫命・応神天皇・中津姫命・仲哀天皇・神功皇后・天月神命・高皇産霊尊。 海神系は山幸彦神話、神功皇后系は征韓神話により、祭神に加わったものと考えられる。 「海裏」の名には海神が感じられ、「八幡」は応神天皇である。 『社記』によれば桓武天皇の詔による鎮座だが、顕宗天皇のとき壱伎県主が奉斎したと書くからには、 それ以前から既に月読神が祀られていたと考えてよいであろう。 【高皇産霊神】 顕宗紀三年条では、壱岐県主・対馬下県直が大倭国にやってきて神領を得、それぞれ月読神・高皇産霊神を分霊して祀った。 そして〈延喜式-神名帳〉を見ると月読神社が壱岐・大倭に、高御魂神社が対馬・大倭にあり、顕宗紀に対応するものと言える。 《大和国》
――{大和国/添上郡/宇奈太理坐高御魂神社【大。月次相甞新甞】}。 持統天皇紀六年〔692〕十二月に「遣大夫等。奉新羅調於五社。伊勢。住吉。紀伊。大倭。菟名足。」 〔大夫らを遣して、新羅の調〔献上品〕を五社、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足に奉る〕 とあり、菟名足(うなたり)神社は伊勢神宮、住吉大社というそうそうたる大社と肩を並べる。 「大倭」は{大和国/山辺郡/大和坐大国魂神社三座【並名神大。月次。相甞。新甞】}、 比定社「大和(おおやまと)神社」(奈良県天理市新泉町星山306)。 「紀伊」は名草郡の日前神宮・国懸神宮か。 平城宮跡の南東にある「宇奈太理坐高御魂神社」(奈良市法華寺町600)が比定社とされるが、 「横井町あたりに鎮座の社が当社だとの説もある」(『奈良県史5』)という。横井町は法華寺町から5kmほど南東にある。 ――{大和国/十市郡/目原坐高御魂神社二座【並大。月次新甞】}。 顕宗紀の神領「磐余田」は十市郡にあるから、対馬下県直が侍祠した社は式内「十市郡目原坐高御魂神社」に合致する。 比定社は「目原坐高御魂神社」、別名「天満神社」(奈良県橿原市太田市(大字)225)。 『五畿内志』中巻(大和志)-十市郡に「目原坐高御魂神社【○在所未レ詳或曰太田市村天神社即此】」 〔在所詳らかならず。或に曰ふ、太田市村天神社即ち此れ〕とある。 遡って『大倭国正税帳』※天平二年〔730〕に 「目原神戸稲貮伯陸拾伍束 租陸束 合貮伯漆拾壹束 用肆束祭神残貮伯陸拾漆束」 〔目原神戸:稲二百六十五束・租六束、合せて二百七十一束。用ゐ二四束を祭神に一、残る二二百六十七束一〕。 これは目原の「神戸」による納税記録だから、奈良時代の始めにこの地に高御魂神社に相当する社が存在したことの証となる。 ※…『大倭国正税帳』(天平二年)は正倉院文書。 『復元天平諸国正税帳』〔現代思潮社;1985〕による。以下〈大倭正税帳〉と表記。 ――〈式外〉「高皇産霊神社」(高市郡高取町観覚寺754)。 『奈良県史5』は、 「川合家所蔵の「由緒書」に同家の先祖堤見氏がした社であったが、後集落の鎮守になったとあり、 また同家の別の記録に、貞元のころ(九七六-七八)に字タビチ山に創祀されたが、 永観元年(九八三)現在地に遺座したとある。」と述べる。 恐らくは、延喜式の成立後に創祀された社であろう。 《対馬》
――{対馬嶋/下県郡/高御魂神社【名神。大】} 比定社は「高御魂神社」。 現在は多久頭魂神社(式内{対馬嶋/下県郡/多久頭神社}。長崎県対馬市厳原町豆酘2424-ロ)の境内社。 地名豆酘(つつ)については、〈倭名類聚抄〉に{対馬島・上県郡・豆酘郷}がある。 『式内社調査報告』によれば、「現在の豆酘では「タカオムスブ」と呼んでゐ」て、 「高御魂の神が、中世以降に「高雄むすぶ」となった」もの。 同書にはさらに、「当社はもと、神田川の下流に…鎮ってゐたが、昭和三十一年〔1956〕頃豆酘中学校の拡張」により現在地に遷されたという。 同社の探訪した複数のサイトによると、境内掲示の由緒には 「橿原の朝高皇産霊尊の五世の孫津島県直建弥己々命に詔して天神地祇を祭らせ給ふ処にして、 神功皇后三韓に向い給ふ時行宮を定められ御親ら戦捷祈願し給いし社なり。 高皇産霊を祀る社は全国にも稀にして…」とある。 この「由緒」の始めの部分は、国造本紀の「津島県直。橿原朝〔神武〕。高魂尊五世孫。建彌己己命。改為直」によると思われる。 また神功皇后云々のくだりは、倭と朝鮮半島南部を結ぶ重要航路であったから当然であろう。 この航路は、古くは魏志倭人伝に遡る。 『式内社調査報告』は、「豆酘には有数の古墳があり、また重要な祭祀が多く、おそらく対馬下県直の本貫と見られる所だが、 この下県直が高皇産霊神を祖神として祭つたものと思はれる」と述べる。 また同書によれば、上県の佐護と下県の豆酘にはともに、「ムスビ」(母神)と「タグツタマ」(御子神)とが対になって祀られているという。 〔佐護:神御魂神社(高皇産靈)-天神多久頭多麻命神社(多久頭魂)。豆酘:高御魂神社(高皇産靈)-多久頭神社(多久頭魂)。〕 同書はさらに、『対州神社誌』〔対馬藩、貞享三年(1686)〕から次の伝説を紹介する。 「高雄むすびの神。神体石。昔醴豆崎に浮候うつお船有。 猟船差寄見候得は、内に石有て奇怪に光を以、取帰て祭云俗説有。」そして、 「この「うつろ船」に載って漂着したといふ話は、それが海の彼方から来たことを語つてゐるもので」 「原流は海神系の神話に由来したものと思はれる」と述べる。 【天照御霊神社】
《対馬》 ――{対馬嶋/下県郡/阿麻氐留神社}。 比定社は「阿麻氐留(あまてる)神社」(長崎県対馬市美津島町小船越352)。 『特撰神名牒』〔教務省、1925〕は「旧事紀に天日神命対馬県主等祖とみえ」、 荒木田延佳の頭注の「阿麻底留此天日神命也」〔あまてる、これあめのひみたまのみことなり〕という説を示す。 さらに「阿麻底留」により天照大神祭神と言われることも示すが、同書はその二説をともに否定した上で、 「山城葛野郡木島坐天照御魂神社」「丹波天田郡天照玉命神社」の祭神が「天照国照彦火明命」だから、 「此神社も同神なるべし」と述べる。 その一方で、天照国照彦火明命説を採らないのが『式内社調査報告』である。 曰く「阿連の里に、オヒデリ様がある」、阿麻氐留神社の「船越の地方にも芦ケ浦にオヒデリ様がある。 このオヒデリも、照日も、同じ日の神信仰による俗神であったものが、天照は国家神話に付会されて官社と」なった 〔=阿麻氐留神は、この土地にあった日の神のひとつで、これだけがたまたま中央の天照大神と結びついて式内社となった〕と述べる。 また同書は高御魂神社の項で、「『神社大帳』は、この〔阿麻氐留神神社の〕祭神を日神命、又名天照魂命として、高御魂の尊裔也と記してゐる。 …高御魂を日神の母とする信仰があったことを示唆していると思ふ。」という。 また、「佐護の神御魂神社の御神体は、日輪を抱いた女神像である。」とする。 これらは、顕宗紀で日神が「我祖高皇産霊」と呼んでいることに通ずるところが注目される。 さて、ここで木島坐天照御魂神社に戻ろう。その祭神「天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほのあかりのみこと)」は、 「天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)」〔山幸彦。神武天皇の祖父。第86回〕を兄弟に持つ。 しかし、この火明神が「天照」を冠るのは何故だろうか。
その海神と近いところにいた火明命が冠る「天照」は、時に日神「阿麻底留」との混同があったことを示すものではないだろうか。 すると、阿麻氐留神社の祭神として対立する二説「火明命」・「天照」は、完全な二律背反とは言えない。 《大和国》 ――{大和国/城上郡/鏡作坐天照御魂神社【大。月次。新甞】}。比定社は奈良県磯城郡田原本町八尾816。 『奈良県史5』によれば、 「付近一帯は上代人が崇敬した鏡を製作することを業とした鏡作部の作ったところで」、 「『穴師神主斎部氏家牃』に、崇神天皇の御代この地に内侍所の神鏡を改鋳させられた時、 象鏡(試鋳の鏡)を天照御魂としてここに祀ったのが始めで」、 「石凝姥命はかつて天照大神の霊にのつとって八咫鏡を造ったことから、天照御魂とも火明の別号をもった。 その子孫が鏡作の業を襲ってこの地に永住、鏡作氏といった。天平二年(七三〇)の 〈大倭正税帳〉に「鏡作神戸稲貮佰貮拾玖束〔二百二重九束〕…」」〔以下略〕とある。 鏡作部のルーツは、卑弥呼が各地の氏族に鏡を大量に配布した頃まで遡るであろう。 そして鏡をご神体とする信仰と、太陽神信仰が習合して天照御神の性格が定まっていったと想像される。 ――{大和国/城上郡/他田坐天照御魂神社【大。月次相甞。新甞】}。比定社は奈良県桜井市太田205。 〈大倭正税帳〉に「他田神戸穀壹斛壹斗捌升〔1石1斗8升〕…祭神残捌拾陸束貮把〔86束2把〕」とある。 ――{山城国/葛野郡/木嶋坐天照御魂神社【名神大。月/次相甞新甞】}。 比定社は、「木嶋坐天照御魂神社」(このしまにますあまてるみたまじんじゃ。京都府京都市右京区太秦森ケ東町50)。 天照御魂については、「天照大神とは別の神格の太陽神」 との見解もある(<wikipedia>所引『日本神話の謎がよく分かる本』大和書房;2007)。 確かに、記紀の神学における定式化では、火明命は穂穂手見命の兄弟と位置付けられている。 しかし、前項でも述べたように、記紀以前にはアマテルヒルメとアマテルミタマは未分化であったことは十分に考えられる。 なおアマテラスは、アマテルに尊敬の助動詞「す」を加えて差別化したのかも知れない。 「天照」という表記が物語る混同は、記紀以後も残る。 さらには「御魂」はミムスビとも訓まれるところは、高皇産霊神と天照大神はもともとごく近い関係にあったことを伺わせる。 〈続紀〉大宝元年〔701〕四月丙午〔三日〕に「勅。山背国葛野郡月読神。樺井神。木嶋神。波都賀志神等神稲。自今以後。給中臣氏。」 〔月読神社・樺井月神社・木島坐天照御魂神社・波都賀志神社の神部の産する稲を中臣氏に給わる〕とある。 《山城国》 ――{山城国/乙訓郡/羽束師坐高御産日神社【大。月次。新嘗】}。比定社は、京都市伏見区羽束師志水町219-1。 山城国葛野郡・乙訓郡・綴喜郡の神社の分布を見ると、天照御魂神社も高御魂神社・月読神社と同じグループに属していたことが伺われる。 【日神】 《神代紀の日神》 「日神」の語が出てくるのは神代紀以来である。 そして神代紀と顕宗紀以外には全くない。神代紀にいう。 ――「於是、共生日神、号大日孁貴。【大日孁貴此云於保比屢咩能武智。孁音力丁反。一書云天照大神。一書云天照大日孁尊。】」 〔ここに、共に日神を生み、大日孁貴と号(なづ)く。 【大日孁貴、此を「おほひるめのむち」と云ふ。孁の音レイ。一書に天照大神と云ふ。一書に天照大日孁尊と云ふ。】〕 文脈を見ると、「日神」は、「日孁貴」とは太陽神のことであると読み手に教えるための、説明的な語句と見られる。 上代語に「ひのかみ」は見えず、記紀以外では「ひるめ」が万葉歌に見られる。 《中国語の日神》 なお、中国語における「日神」の例は、『太平御覧』の「孝経援神契曰」に、「日神五色。明照四方。」がある。 なお『孝経援神契』なる書は、〈百度百科〉によれば「是漢代无名氏創作的経書」〔漢代の経書。創作者の氏名なし〕という。 「日神」は中国の儒家や史書などの主要な文献には見えないので、特定の教義によって定義された神ではなく、文脈中で汎神論的な神として使用されたものと思われる。 《万葉集》 「(万)0167 天地之 初時之… あめつちの はじめのときの…」は、題詞に 「日並皇子尊殯宮之〔もがりのみやにおきまつりし〕時柿本朝臣人麻呂作歌一首」とあるように、 柿本人麻呂が、日並皇子尊の死を悼む歌だが、その中に神代から天孫降臨までのことを搔い摘んで述べている。 日並皇子尊は草壁皇子尊の別名で、持統天皇(称制)三年〔689〕四月に「乙未、皇太子草壁皇子尊薨。」とある (第20回に系図)。
《天孫伝説の起源》 書紀では皇孫の天降りは高皇産霊神の主導となり、天照大神の地位は相対的に低下している (第81回・第83回)。 しかし、689年当時は天照大神の主導で、古事記はそれを引き継いでいることが分かる。 その不一致はともかくとして、後に記紀に書かれる始祖神話はこの歌が詠まれた持統朝には既に一般化していたことが分かる。 始祖神話の原型の成立時期は不明だが、恐らくは相当遡るのではないかと想像される。 この歌から、その頃の日神の一般名称は「ひるめ」で、またそれが枕詞「あまてらす」を伴うものであったと見られる。 「おほひるめのむち」の「おほ」及び「むち」は美称で、大国主命も「おほあなむち」という。 【高皇産霊神と日神・月神】 顕宗紀では、月読神と天照大神のいずれもが、高皇産霊神を祖とすると告げたと言う。 しかし月読神は自身を祀らせたが、天照大神は自身ではなく高皇産霊神を祀らせるのは非対称である。 上で見た万葉歌0167によれば、飛鳥時代の689年の時点で、天照大神の呼び名として「あまてらすひるめ」が存在し、書紀でも「一曰」としてヒルメの名を挙げている。 ところが927 年の延喜式には、ヒルメの名前がついた神社はない。 想像するに、もともとはミムスビ社とヒルメ社があったが、ヒルメ社の方は「アマテルミタマ」に改称したり、ときには皇祖「アマテルミムスビ」に取り換えられたように思える。 これは、書紀において皇祖神がオホヒルメからタカミムスビに変更された結果ではないだろうか。 〈続紀〉701年(前述)では、「月読神」の神名は示されるが、木嶋神・波都賀志神には「高御産日」「天照御魂」が付かない。 〈延喜式-神名帳〉で「高御魂」と表記されるのは、「ミタマ」〔天照大神〕と「ミムスビ」〔高皇産霊神〕をもともとは余り区別せず、どちらにも読まれ得たことを示すように思われる。 天武天皇〔673~686〕は天照大神を崇敬し、弥生式建築を用いて復古的に伊勢神宮を改築した。 記はそれを踏襲して天照大神を事実上の最高神に置き、高御産巣日神は天地初発のときに現れすぐに身を隠す形式上の神で、 天照大神からは遥か遠くに離す(第30回)。但し、地上を平定する場面では天照と横並びであれこれ指示する (第72回~第83回) が、全体的な基調としては天照が主である。 翻って書紀〔720〕では逆風が吹き、高皇産霊神は天孫の天降りを掌る最高神で天照大神は従属的になる。 その背景として、タカミムスビを祖神とする氏族の巻き返しが想定されるのだが、そのような氏族は余り見いだせない。 一つの可能性として、中臣氏が天児屋命を思兼神を同一神と位置づけていたとすれば、比較的展開は分かり易くなる (第49回)。 書紀では天孫の天降りを主導したのは高皇産霊神で、それを助ける天児屋根命の活躍は目覚ましい。 『式内社調査報告』は、 「対馬県直は、国造本紀には高皇産霊神の五世の孫建弥己己命とあり、新撰姓氏録には天児屋根命十四世の孫中臣氏とある」と述べる。 出典を確認すると、〈国造本紀〉に「津島縣直。橿原朝〔神武天皇〕。高魂尊五世孫建彌己己命。改為レ直」とある。 国造本紀には「大隅・薩摩・伊吉・津島」の順で並ぶから、伊吉=壱岐、津島=對馬であるのは間違いないだろう。 一方〈新撰姓氏録〉には、〖未定雑姓/對嶋直/天児屋根命十四世孫雷大臣之後也〗とある。 これも、高皇産霊神の子と天児屋根命の混同があったことを示す例かも知れない。 天児命(書紀は天児屋命)が誰かの子であるとは、記紀にも先代旧辞本紀にも全く書かれていないが、 天児屋命は高皇産霊神の子であるという共通理解が漠然と漂っていたように思われる。 《母神・ムスビ神》 しかし、以上をもってしても天児屋命・思兼神を同一とする確信は十分には持てない。 そこで考えざるを得ないのは、対馬にタカムスビをアマテルの母神とする伝承があったらしいことである(前述)。 母神としてのタカムスビは、思金神(書紀は思兼神)を産んだ (第49回)。 高皇産霊神は対馬では天照神の祖である。 これを見ると、皇祖神は伊邪那岐命が左目を洗って生まれた天照大神(第43回)よりは、 高皇産霊神の方が、神話体系として確かに格調が高い。 書紀はその執筆にあたって、対馬を含む各地の神話を詳しく調査した結果、高皇産霊神に祖神としての広範な伝承、及び適格性を見出したのではないだろうか。 つまりは、記から書紀の間に神学の発展があったのである。 中臣氏の存在感を高めようとする意識も当然あったのだろうが、 少なくともこの件に関してはそれは従で、主は神学をよりエレガントにする所にあると言える。 書紀はさらに正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊に、娘の𣑥幡千千姫を嫁がせて、天津彦彦火瓊瓊杵尊を直系の孫とした。 これも、高皇産霊神からの直接的な血筋を強化するためであろう。 これなら、天降りする神が、当初の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊から天津彦彦火瓊瓊杵尊に変更した理由も説明がつくのである(第81回)。 その結果、タカミムスビはオホヒルメに付随する目立たない神であったものから、一転して皇祖神として権威を高め、 式内大社としての複数の高御産日神社が確立されていくことになる。 《顕宗紀の日神・月神》 さて、顕宗紀の原形になったであろう伝承を想像してみよう。 もともとは対馬のヒルメ神社(阿麻氐留神社)と壱岐のツキヨミ神社の斎主が、神を大倭の地に移して神領を得るという、 対称形であったと考えるのが自然である。そこにはタカムスビの存在はあまり意識されていなかったのではないだろうか。 しかし、書記はタカミムスビの優位性を規定しており、ここでもそれを持ち込んで原伝説を変形させた結果、非対称になったと思われる。 月読神については独立性が保たれているところを見ると、 もともと天照大神と高皇産霊神の間には強い結合が保たれていたと見られる。 まとめ 天照大御神・月読神のルーツが対馬・壱岐にあると述べているところは、きわめて興味深い。 倭に政権を確立した一族が、九州から移動してきたのは神武天皇のときであるが、 その神は対馬・壱岐から連れてきたのである。 しかし、大和地域の政権の成立は3世紀であったから、だとすれば時代のずれが大き過ぎる。 神武天皇のときに書くべきことを時代を変えて書いたと考えられなくもないが、かなり苦しい。 おそらくは、日神・月神は人々と共に畿内にやってきて既に祀られていたが、顕宗天皇頃の時期に何らかの理由でその祀りを強化する必要に迫られ、 改めて祭主を招聘したと考えるのが妥当であろう。 ただ、祭主を対馬・壱岐から招いたこと自体が、一族の宗教的な根源〔言わば心の故郷〕が対馬・壱岐にあると、認識されていたことを示すと考えられる。 さて、高御産巣日神は古事記の冒頭においては天照大神から大きく引き離され、天地初発で一瞬現れるがすぐに消えてしまう。 しかし、対馬から祭主を招いた頃には、まだ天照大神の直接の母または近い先祖であった。 顕宗紀三年条で月神・日神が「我祖高皇産霊」と告げたのは、その頃伝わった神話の原形を比較的正直に記したのではないだろうか。 その後7世紀末までの間にタカミムスビ神は埋もれ、遂には古事記冒頭のような扱いになった。万葉歌の「アマテラスヒルメノミコト」も、まだその時代である。 だがその直後から書紀のために各地の神話の研究が急速に深められ、その中でタカミムスビが再発見された。 その結果タカミムスビはまず記の天降り段においてアマテラスと横並びとなり、 書紀に至って完全に皇祖神の地位を確立した。 書紀成立の後は、山城国・大和国でアマテラスを主にタカミムスビを添えて祀っていた諸社の中から、専ら高御魂神を祀る社を定めて、 平安初期の式内社の規定に及んだのではないだろうか。 もともとは「伊邪那岐神→天照大神」は淡路地域、「高御産巣日神→天照大神」は対馬地域に存在した神話であったと考えられる。 |
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2019.04.22(mon) [15-06] 顕宗天皇4 ▼▲ |
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25目次 【三年四月二十五日】 庚辰。天皇崩于八釣宮。……〔詳細〕 26目次 【三年是歳】 《紀生磐宿禰殺百濟適莫爾解》
「跨拠」は占領して拠点とする意味である。 任那から佐魯・那奇他甲背を連れていったと書く。このことも、単なる経由地ではなく実力で支配したことを示している。 任那の占拠自体が大事件であるから、 もしこれを本気で書くのなら、任那王の要請なり反発なり懇願なりを書き加えるべきであろう。 それがないから、「跨拠任那」は、原文作者が頭の中における創作だと思えるのである。 《自称神聖》 神聖が中国の歴史書で使われた例としては、『漢書』及び『前漢紀』に「臣聞二五帝神聖一」がある。 「中国哲学書電子化計画」の「史書」のカテゴリーの中に「神聖」の文字が出てくるのは全部で九例に限られ、 専ら帝や王を称える言葉として使われている。 一般的に「神聖」は形容語句であって、天子や王の称号そのものに用いた例は見えない。 そうしてみると、顕宗紀是歳条では本来「自称西王」と書きたいところだが、それを裏付ける事実がないから、 「西王」に「将」〔意志の助動詞〕をつけ、「我者神聖也」と言ったことにするのが精一杯なのであろう。 だから助動詞「将」は「整脩宮府」まで掛り、これも妄想なのであろう。 「称」も「なのる」ではなく、原意「質量を測定する」に戻って「評価する」と解釈すべきではないかと思われる。 《爾林》
「高麗奴」は、百済が爾林の奪還作戦を敢行して「魯那・奇他甲背等三百余人」を討ち取ったときの捕虜であろう。 ただ、欽明十一年はそれから63年の後だから、本当は他の時期のことを移して書いたか、あるいは捕虜の子孫が代々奴婢と定められていたことになる。 「高麗奴」と表記するから、顕宗天皇三年には爾林は高句麗の支配下だった。顕宗紀の原注「爾林高麗地也。」はそのときのこととなる。 三国史記によれば、488年に新羅・百済連合と高句麗・北魏連合(後述)の間で、国境地帯の紛争があった。 爾林の争奪戦は、その一部をなす局地戦であったと仮定して、 爾林があった範囲を推定してみる。 その13年前、文周王の475年に百済の北部領土が高句麗に奪われ、都を漢城から熊津に移した(雄略天皇二十一年)。 従って、488年当時の国境は熊津よりは北である。一方応神天皇紀には爾林が「東韓」にあると書かれ、 また北魏・高句麗連合軍の攻撃において、高句麗が担ったのは新羅側だから、爾林の位置は新羅に近いはずである。 すると、爾林の位置は、忠清北道・京畿道・江原道が接する辺りが考えられる。 《左魯那奇他甲背》 欽明天皇紀五年二月にも「那奇陀甲背」の名があるので、二人の人名の区切りは「左魯・那奇他甲背」となる。 ――「汝先祖等【百濟本記云。汝先那干陀甲背。加猟直岐甲背。亦云那奇陀甲背。鷹奇岐彌。語訛未詳。】」 〈釈紀〉による訓は、「那干陀甲背【ナカンタコフハイ】。加獦直岐甲背【カラフヂキキカフハイ】。那奇陀甲背【ナカタカフハイ】。鷹奇岐袮【ヨウカキミ】。」 「左魯」については、欽明天皇紀五年三月に「阿賢移那斯佐魯麻都【二人名也…】」とあり、 区切りは「阿賢移那斯・佐魯麻都」だと思われるが、「佐魯麻都」が顕宗紀の「佐魯」と同一人物かどうかは分からない。 《帯山城》
「山」について〈釈紀〉は、他の個所では「久礼山【クレヤマノ】。」(秘訓-欽明紀)などの訓をあてているから、「シトロモノ」は「シトロムレ」の誤写であろう。 百済などから来た人によって「山」を「ムレ」と発することが知られ、それが平安時代に古訓に取り入れられたことは十分に考えられる。 しかし、これまでに度々見てきたように、α群(第193回参照)の執筆者は全くの中国語で書いており「帯山城」も文献資料から得たものと考えた方がよい。 雄略天皇紀で「妹」への注釈や「鵜飼」の中国語表現「使鸕鷀沒水捕魚」(雄略三年)を見ると、和語の基本的な語彙さえ遠ざけており、況(いわん)や百済語をやである。 少なくとも執筆時点においては、音読みが妥当であろう。 さて「シトロ」の部分について岩波文庫版『日本書紀』は、 「鮎貝房之進※は帯山を三国史記の地理志、全州の大山郡(古名、大尸山郡、今の全羅北道井邑郡泰仁)にあて、 帯山をシトロムレとよむのは帯の文字からくる訓みではなく、其地の特産物の一つである礪石に基づくかとした。 礪石は朝鮮古語でpsus-tor、…」と述べる。 ※…鮎貝房之進〔1864-1946〕は、 大日本帝国による併合下の朝鮮において、1916年から朝鮮総督府博物館の協議員となり、朝鮮古代の地名などを研究して『雑攷』にまとめた。 「大尸山郡」は、『三国史記』巻三十七「地理四-高句麗百済」の中で、「百済:州郡県共一百四十七」を列挙した中にある。 ただ、事柄の流れ抜きに地名の一点だけ取り出して探っても、決定的なことは言えないだろう。 確実なのは「帯山」が百済の「シトロムレ」を表すことを、古訓に勤しんでいだ平安時代の学者、または〈釈紀〉の編者が知っていたことだけである。 《断運糧津》
つまり爾林はもともと百済領内にあり、その一族がその地の首長を暗殺して高句麗と通じ、国境の宿営地への補給路を断った。 原注の「爾林高麗地也。」は、その語高句麗に占領された時点のこととなる。 この事態に百済は怒り、爾林の奪還作戦を展開した。その時に捕えた捕虜が、欽明天皇紀にある「攻爾林所禽奴」〔爾林を攻めたとき虜にした奴婢〕の「高麗奴」であろうと思われる。 この部分の文章の手本は漢籍からは見つからず、『百済本記』に書いてあったものと思われる。 ここで前項帯山城に話を戻すと、 「帯山」は、「東の道」を見下ろす位置だから、 帯山は爾林の東側にあったと考えるのが合理的である。 《東道》 「東道」の伝統訓に「やまとぢ」が見られる。「東」をヤマトと訓む例としては、倭に渡来した漢(あや)のうち河内に定住した一族を「西漢」(かふちのあや)、大和に定住した一族を「東漢」(やまとのあや)と表記する例がある (資料[25]《斎蔵・内蔵・大蔵》)。 しかしこのヤマトは畿内で東に位置する大和国のことで、百済と外交関係をもつ国家「倭」とは全く意味が異なる。 これを混同して「東道」を「やまとぢ」と訓むとしたら、荒唐無稽というほかはない。 これ以外の理由があったとしても、「東道」を高句麗方面から任那への道、すなわち三韓北部と日本府の任那を結ぶ大道であるなどという解釈が、この文脈からどうしたら出てくるのであろうか。 同じ古訓でも「帯山=シロトムレ」などには、百済の古語に根拠を求めようとする神剣さが感じられるが、 このヤマトヂのような「古訓」は、無批判に引き継ぐべきではない。 《領軍》 「領軍」〔軍を領(をさ)む〕は、ここでは名詞化して事実上「将軍」を意味する。 「領軍」を名詞化した例としては、 『後漢書』巻114:百官一に「其領軍皆有部曲。大将軍営五部、部校尉一人比二千石…」がある。 「領軍皆有二部曲一」〔領軍に、みな部曲〔軍隊の各部門〕あり。〕の「領軍」は「軍の組織の形」を意味する名詞である。 中国の三国時代の官位には「中領軍」「領軍将軍」があり、後者の方がベテランである。 《大意》 この年、 紀の生磐宿祢(おいわのすくね)は任那(みまな)に跨拠(こきょ)〔拠点〕として高麗(こま)と通じ、 三韓の西の王となって宮府を整脩することを目指し、自ら神聖であると称し、 任那の左魯(さる)・那奇他甲背(なきたこうはい)たちの計略を用いて、 百済の適莫爾解(ちゃくまくにげ)を[於]爾林(にりん)で殺しました 【爾林は高麗(こ)の地です】。 帯山城(たいさんじょう、しとろむれさし)を築き、東の道を距守〔妨害〕して、 食糧を運びこむ津から通行を断ち、軍を飢え苦しませました。 百済王は大いに怒り、 領軍〔=将軍〕として古爾解(こにげ)内頭莫古解(ないとうまくこげ)たちを派遣し、 軍衆を率いて帯山(たいさん、しとろむれ)に赴き攻めさせました。 すると生磐宿祢は、軍勢を進めて逆に攻撃し、 胆気ますます盛んに向かう所皆破り、一人当百でした。 しかし俄かに武器が尽き力も尽きて、事が成し遂げられないことを悟り、任那から帰りました。 これによって百済国は、佐魯・那奇他甲背を始めとして三百余人を殺しました。 【三国史記】 『三国史記』巻三十(年表)によれば、 丁卯年〔487〕に対応するのは 「百済:東城王九年」、「新羅:炤知麻立干五年」、「高句麗:長寿王七十五年」である。 その前後の記事を見る。 《百済本紀》 東城王:
百済は484年に南斉に朝貢しようとするが、この時は高句麗に妨害され果たせず、486年に叶う。 『新羅本紀』によれば、488年に新羅・百済連合軍が高句麗と戦ったはずだが、百済本紀には書かれていない。ただ、この年に北魏の攻撃を受けたことが書いてある。 北魏は高句麗と連合していて、東部戦線(新羅側)を高句麗が、西部戦線(百済側)を北魏が担っていたのかも知れない。 《新羅本紀》 炤知麻立干:
《高句麗本紀》 長寿王:
【顕宗紀による加工】 雄略天皇八年にも、高句麗・新羅の紛争に、任那王と倭軍の関与があったかのように加工された部分があった (雄略天皇八年)。 この時期、新羅と百済は誼を通じて高句麗に対抗していたようだ。 当時の中国の南朝斉は、高句麗・百済の双方を冊封国にして〔実際には外交関係の表現〕互いに競わせて影響力を高める。 北魏は、高句麗を支援していたと見られる。北魏と斉は当然緊張関係をもって対峙していたから、 朝鮮半島にもそれぞれの影響力を強めようとして支援する。その結果、高句麗と新羅百済連合の間にも必然的に緊張は高まる。 倭に関しては486年の新羅への侵攻が書かれるが、基本的に蚊帳の外であったと見られる。 「那奇陀甲背」の名は欽明天皇紀では「百済本記曰」の中に出てくるから、古爾解・内頭莫古解の名も恐らくは『百済本記』にあったものだと思われる。 しかし、顕宗紀では『百済本記』からの引用は皆無だから、恐らくは『百済本記』の爾林攻防戦に、倭人の関与は書いてなかったのだろう。 もし書いてあれば鬼の首を取ったようにして、原注に「百済本記云…」として書き込んだはずである。 試しに、書紀の記述から生磐宿祢の関与を取り除いてみよう。 ――「左魯・那奇他甲背は高句麗に内通し、適莫爾解を殺して爾林を奪い、爾林までが高句麗領となった。 百済はその奪還を期して古爾解・内頭莫古解を派遣し、遂に佐魯・那奇他甲背を含む300人を殺した。」 これはそれほど不自然ではないから、これに近い内容が『百済本記』に書かれていたのだろうと想像される。 書紀がそこに紀生磐宿祢を作為的に付け加えたものとすると、幾つかの部分がが納得できる。 まず「跨拠」は、踏みつけにされた任那の様子に触れないのが不自然。そして「将西王…自称神聖」は主観的な願望に過ぎない。 また「戦死者300人」の規模は、新王朝を興そうとする軍勢としては小さすぎる。 更に肝心の本人は形勢不利を悟った時点で、さっさと倭に逃げ帰った。これでは、新王朝の樹立を目指す将としての何の覚悟もない。 こうして見ると書紀が紀生磐宿祢を盛り立てる言葉遣いは、何か大きなことを行ったかの如く錯覚させるが、 実際にはそれほど大したことは書いていない。もともと半島内の争いについては、倭は基本的に部外者であった。 だからと言って書紀は完全なるフィクションかと言うと、そこまでは言い切れない。ただ一点、『新羅本紀』486年に「倭人侵」があるからである。 倭国側にも生磐宿祢が新羅あるいは百済に入ったとする最小限の記録はあり、書紀はそれを種として話を膨らませたと思われる。 そして、爾林での戦闘に関わった部分は書紀の原文作者による創作か、さもなければ生磐宿祢の子孫に残る誇大化された伝説であろう。 まとめ 書紀から紀生磐宿祢さえ取り除けば、三国史記とよく噛み合い、 爾林の争奪は高句麗と新羅百済の国境紛争に伴う局地戦に位置づけることができる。 雄略天皇二十一年の新首都「久麻那利」が熊津であることは間違いなく、 そして顕宗天皇紀・欽明天皇紀によれば、「爾林」は高句麗の地である。 岩波文庫版『日本書紀』は「忠清南道大興」「全羅北道金堤群利城」の二説を紹介しているが、どちらも熊津よりかなり南だから、とても「高麗のところ」とは言えない。 帯山の「全羅北道井邑郡泰仁」(前述)も同じく熊津より南である。 どうも、平安時代以来の書紀の解釈は、根拠がありそうな具体的な記述は見逃し、 跨拠任那・整脩宮府・神聖のような虚言に惑わされ、そこで浮かんだ幻想を根拠として更なる幻想を重ねているようである。 「東道」の伝統訓「やまとぢ」などは、その最たるものであろう。 この傾向は、また「日本府」において顕著である(資料[25])。 |
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⇒ [15-07] 仁賢天皇 |