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2018.12.16(sun) [15-01] 清寧天皇1 ▼▲ |
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1目次 【即位前(一)】 白髮武廣國押稚日本根子天皇。……〔続き〕 2目次 【即位前(二)】 《吉備稚媛陰謂二幼子星川皇子一》
使は使役動詞で、小根が漢彦にある行動をとらせようとする。 祈は、大伴室屋大連への要望。 生は、小根の命を永らえること。 つまり、小根は漢彦に、自分を殺さないでという室屋への伝言を託したことが三文字で表される。 漢字一個に沢山の意味を盛り込んでいることに、純正漢文の特徴が感じられる。 《乞降洪恩救賜他命》 小根は、命乞いの言葉を伝達してくれるように、漢彦に託した。 「乞」の目的語は「降洪恩救賜他命」全体であろう。 「乞」は再読文字とすべきか。即ち「ねがはくば」〔上代はネガハクハ〕を先頭につけて、文末を「~とねがひまつる。」で締めくくる。 次の「救-賜」の語順は、要注意である。この語順では「救二小根一而、賜二他命一」 〔小根を救ひて、他の命を賜る〕、つまり二つの行為:「救ふ」(殺すことを中止する)、「賜る」(命を与えられる)で構成されている。この「賜」は、和文における補助動詞の位置づけ(救ひ賜る)とは異なる。 ただし、「救ひ賜ふ」と訓んでも現実的には大差ない。 あくまでも原文に忠実に訓もうとすれば、「救ひたまひて他の命を賜る」としなければならない。 なお、「他命」は「新たに賜る命」、 もしくは「星川皇子以外の人の命」の意味かと思われる。 どちらとも決め難いが、前者の方が謙虚な物言いだとは言える。
「来目邑」と言えば、神武天皇紀二年で、 大来目を「畝傍山以西、川辺之地」に住まわせたのが、「来目村」の由来であると述べる。 「難波来目邑」は久米氏族の分流が難波にいて、その居住地に由来する地名ということになる。 〈姓氏家系大辞典〉には 「摂津の久米部:清寧紀に「難波来目邑大井戸田云々」と見ゆるは、住吉郡遠里小野の旧名かと云ふ。又後に阿閇久米庄あり。 此の地は古く久米部の居住せし地ならん。」とある。 「遠里小野」(おりおの)は、住吉区、住吉大社の南約2kmにある。 遠里小野説の根拠をさらに探すと、〈五畿内志〉「摂津志之二」〔1733〕の「住吉郡:【村里】」の項に、 「遠里小野【旧名難波来目大井戸】」があった。 また、『摂津名所図会』〔1796~8〕も「遠里小野: 安立町の東にあり 袁里小野村ともいふ」と述べるが、来目邑大井戸田への言及はない。 なお、同書には遠里小野に「玉手箱」の地名があることも紹介される (浦嶋子[4]【墨江】参照)。 この地名の存在は万葉集の時代から確認され、「(万)1156 住吉之 遠里小野之 すみのえの とほさとをのの」など二首に詠まれる。 《三野県の範囲》 大伴室谷大連に贈られた土地が遠里小野だったとすると、三野県はこんなに広かったのかと思わせる。 しかし、「難波」という以上、この辺りまで考えなければならない。 ただし、飛地かも知れない。 《吉備上道臣等率二船師四十艘一來二-浮於海一》
山部は、吉備上道臣が私有する部曲(かきべ)であったと見られる。 〈姓氏家系大辞典〉は、「氏族と云ふよりは寧ろ種族と云ふ方、穏当ならんか。 されど此の部は早く散乱して、諸豪族私有の民となりて、其の名の下に隠れしもの多く、 猶ほ品部として残りし山部も、早く統一を失ひ、加ふるに桓武天皇の御名を避けて奉りて、 其の称呼中絶しかば、これを研究する事甚だ難し。」 〔まとまった氏族の体をなしておらず、諸豪族に私有されたものは名前が隠れ、 一部残った品部「山部」も桓武天皇の諱により改称されてしまい、研究は難しい〕などと述べる。 諱による「山」への改称の件は、清寧天皇第1回で触れたばかりである。 「山部」は桓武天皇の皇太子時代の名でもあり、〈続紀〉には、宝亀四年〔773〕に「山部親王立而皇太子止定賜布」 〔山辺親王、立たして皇太子と定め賜ふ〕とある。 なお、〈釈紀-秘訓二〉は「山部」と訓を振っているが、 書紀の成立は桓武天皇の詔のはるか以前であるから、「ヤマ」と訓むのは完全に誤りである。 【大意】 二十三年八月、 大泊瀬天皇(おおはつせのすめらみこと)が崩じ、 吉備の稚媛(わかひめ)は、陰に幼子(おさなご)、星川皇子(ほしかわのみこ)に、 「天下の位に登ろうとお思いなら、まず大蔵の司をお取りなさい。」と語りました。 長子の磐城皇子(いわきのみこ)は、母妃が幼子に教えた言葉を聴き、弟に 「皇太子(ひつぎのみこ)を、あなたは私の弟ではあるが、どうして欺いてよいわけがあろうか。決してやってはならない。」と言い聞かせました。 星川皇子は兄の言うことを聴かず、 すなわち母妃の心のままに、遂に大蔵の司を取り、 外門を閉鎖し、式〔や諸行事〕への備えも困難となりました。 星川皇子は権勢のおもむくままに、官の物を浪費し私用しました。 ここに大伴室屋大連(おおとものむろやのおおむらじ)は、東漢(やまとのあやの)掬直(つかのあたい)に語りました。 「大泊瀬天皇の遺詔を、今まさに実行すべきである。 遺詔に従って、皇太子を奉りなさい。」と語り、 即座に軍士を立たせ、大蔵を包囲し、 外から塞ぎ閉じて、火を付けて焼き殺しました。 この時、 吉備の稚媛、磐城皇子の異父兄である兄君、城丘前(きのおかさき)の来目(くめ)【欠名】は、 星川皇子に隨って焼き殺されました。 その中で河内の三野県主(みののあがたぬし)小根(おね)は、戦慄し震え恐怖し、 火を避けて逃げ出し、 草香部の吉士(きし)、漢彦(あやひこ)の足に縋(すが)り付いて、 大伴室屋大連に私を生かすことを願ってほしいと頼み、 「私め、県主小根が星川皇子に仕えたのは真(まこと)です。 されど、私は皇太子に背いたことはありません。 願わくば、洪恩〔あふれる恩寵〕を垂れてお救いになり、私に新たな命〔または、星川皇子以外の者の命〕を賜わるようお願いいたします。」との言葉を託しました。 漢彦は頼みを受け入れ、具(つぶさ)に大伴の大連に啓上したところ、刑の類(たぐい)に入れずとなりました。 小根は、よって漢彦に大連に啓上する言葉を託しました。その言葉は、 「大伴大連、我が君。大いなる憐憫を垂れなされて、迫りくる短い命を、既に続けて延ばしてくださり、 日の光の色を観ることができました。」でした。 こうして難波の来目邑の大井戸田の十町歩を大連に贈り、 また、田地を漢彦に与え、その恩に報いました。 同じ月、吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)らは朝乱〔朝廷への反乱〕が起きたと聞き、 内心に生きていてほしいと願いつつ星川皇子を救援しようと思い、四十隻の水軍を率いて、海路をかけつけましたが、 既に焼き殺されたと聞き、海路を帰っていきました。 白髪皇子は、使者を派遣して、 上道臣らを叱責し、 その配下の山部(やまべ)を没収しました。 十月四日、 大伴室屋大連は臣連(おみむらじ)たちを率いて、 皇太子に璽(じ、やさかにのまがたま)を奉りました。 【三野県主】 《三野県主神社》
一般に、三野県主の氏神であったと考えられている。 若江郡と河内郡の境界は現在の大阪府道15号八尾茨木線で、現在の御野縣主神社は河内郡にある。 府道15号線は、玉櫛川に沿っている。 玉櫛川は大和川の付け替え工事〔宝永元年(1704)〕で自然河川としての流れを失い、農業用水に変わった。 神名帳は若江郡、現在地は河内郡という不一致が生じた事情としては、 平安時代には社域が広く両郡にまたがっていた、または若江郡から移転したことが考えられる。 この問題について『日本歴史地名体系28-大阪府』は 「〔御県県は〕河内・若江両郡の境をなす玉串川の両岸にわたって存し、 御野県主神社はかつては玉串川左岸の若江郡にあり、のち玉串川右岸の現在地(河内郡)に移ったのではあるまいか。」と述べる。 《三野郷》 御野縣主神社は、旧三野郷村の西南端にあたる。 三野郷村は明治22年〔1889〕の町村制によって成立した。この地域は、古くから三野郷と呼ばれたという。 現在は南北に二分し、北部が東大阪市、南部が八尾市に属する。 <wikipedia>によれば「中世には宇治平等院が支配する荘園となり、玉櫛庄とよばれた」という。 三野郷の地は、三野県主の本拠地であっただろうと言われている。 また「美努連」が〈新撰姓氏録〉に、〖河内国/神別/美努連/同神〔=角凝魂命〕四世孫天湯川田奈命之後也〗とある。 角凝魂命(つぬこりむすひのみこと)、天ノ湯川田奈命ともに、御野縣主神社の御祭神になっている。 《英多郷》 倭名類聚抄に「三野郷」はない。 〈大日本地名辞書〉によれば、三野郷は〈倭名類聚抄〉{河内国・河内郡・英多郷}にあったという。 すなわち「英多郷」の項で、 「三野郷は和名抄に其郷名なし、 河内郡に英多郷(今英田村)ありて若江郡三野県主神社は英多郷の南に存ずれば今英田村三野郷村は三野県の本拠なるや明なり。」と述べる。 つまり、「英田」と呼ばれた地域から御野縣主神社までを、英多郷の範囲と見ている。 現在の「英田」(あかた)は東大阪市内の地域名で、三野郷の北に接する。 「英多」の訓みについては、{伊勢国・鈴鹿郡・英多【安加多】郷}の訓注「安加多」が見られる。 《三野県》 県(あがた、旧字体縣)は古い行政区画で、 大和国においては概ね律令郡に対応するが、郡になるときに分割された例(磯城県⇒城上郡・城下郡)もある。 そこから類推すれば、三野県は河内郡そのものか、河内郡を包含する行政区画だったことになる。 先に述べたように遠里小野まで含んでいたとすれば、その範囲は相当広い。 ならば、三野県内からほんの十町程度を贈与するのは、ごく簡単なことである。 恐らく小根からの賄賂があることを前提として死罪を免じたのだから、相当の経済的基盤があったということになる。 まとめ まず大蔵の司を得て財政を握るのは、戦略として合理的である。 公正に実務を積み重ねて成果を上げれば信頼を得て、政権内の支配力を強めたであろう。 しかし、星川皇子が行ったのは財産を私的に浪費したことだったから批判にさらされ、結局焼き殺されてしまった。 ここで注目されるのは、吉備上道臣から山部を没収しただけで事を収めたところである。 朝廷軍が吉備まで攻め入れば、恐らく国土を二分する内戦に発展したであろう。 思うに、代替わりの際各氏族が皇子をいわば神輿に掲げて覇権を争うのは、 一種のゲームであったのではないだろうか。 神輿は倒れても氏族の本体は温存され、新しい大王の許で再び役割を分担して政を支える。 皇子が倒されたところでゲームセットとするのは、 長年のうちに諸族の間で共通理解として確立されていたように思われる。 吉備上道臣が星川皇子が焼き殺されたと知るや、何もせずに引き返したことはそれを裏付けている。 その習慣が当然視されたからこそ、記紀共に皇子同士の流血の抗争を隠さないのである。 神輿となって殺された皇子と、送り込まれた妃こそ哀れであるが…。 結局、代々の大王の位を継承には、次のような仕組みがあったのだろう。 すなわち、前提として倭国は、大局的には既存の諸族の連合体として維持される。 連合体は神の血を引く現人神である大王を共に戴き、 その宗教的権威を𥶡(たが)として、諸族を束ねる。 ただし、代替わりの時にはここぞとばかりに、その皇子たちを各氏族が押し立てて競り合う。 そして勝負がつけば、何事もなかったかのように新しい大王の下に協力を誓うのである。 これは、古代の大王持ち回り制 (第162回) 以来の伝統であろう。 その起源は、邪馬台国の時代に、群雄割拠していた王たちが卑弥呼を「共立」して和平したところまで遡るのかも知れない。 |
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2018.12.24(mon) [15-02] 清寧天皇2 ▼▲ |
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3目次 【元年】 元年春正月戊戌朔壬子。命有司設壇場於磐余甕栗。……〔続き〕 4目次 【二年二月】 二年春二月。天皇恨無子。……〔続き〕 5目次 【二年十一月】 冬十一月。依大嘗供奉之料、遣於播磨國司。……〔続き〕 6目次 【三年正月】 三年春正月丙辰朔。小楯等奉億計弘計、到攝津國。……〔続き〕 7目次 【三年七月】 秋七月。飯豐皇女於角刺宮與夫初交。……〔続き〕 8目次 【三年九月】 《遣臣連巡省風俗》
漢熟語の「海表」には「諸蕃」と同じ意味があるが、「諸蕃」を形容する言葉として 「うみ(わた)のほかの」と訓読みしても差し支えないと思われる。 《諸蕃》 「蕃」は、中国で古く中華思想により、周辺の民族を貶めて呼称したことに由来する。 倭国では畿内を中華として、東国を夷狄、三韓を諸蕃と呼ぶことになる。 平安時代の古訓が「となり」となったのは、既に差別意識が消失して 単なる地理的な名称になっていたことを示す (第141回【西蕃】)。 書紀の文脈においては、もともと三韓は倭国の属国であったという意識が色濃い。 ここでは友好国からの使者を接待する文脈中であるから、 「蕃」は中立的な地理用語として受け止めるべきであろう。 蔑称の色の濃い「えみし」は相応しくなく、かといって古訓の「となり」では漠然とし過ぎている。 ここでは、上下意識を伴わない呼称として「からくに」を用いる。 《大意》 〔三年〕九月二日。 臣・連(おみむらじ)を派遣して、習俗を巡視させました。 冬十月四日、 詔(みことのり)し、犬、馬、玩具の献上を禁じました。 十一月十八日、 臣連を招き、大庭で饗宴を開き、 綿絹を賜り 皆思うままに取らせ、参加者は力を尽くして頂戴して退出しました。 同月、 海外から韓の諸国が揃って使者を派遣し、進貢しました。 9目次 【四年】 《宴海表諸蕃使者於朝堂》
〈学研新漢和〉には「各有差=各【おのおの】差有り」。 〈仮名日本紀〉には「おのおのしなあり」。 〈続紀〉には、「文武元年〔697〕:○十二月庚辰。賜二越後蝦狄物一。各有差。」〔蝦狄:えびす〕など大量に使用され、決まり文句になっている。 《閏》 〈学研新漢和〉によれば「うるふ」という訓が『類聚名義抄』に載るが、同書は11世紀末から12世紀の始めの書で、〈釈紀〉〔1275年〕より古い。 釈紀の「のちの五月」も、何らかの伝統によると思われるが、上代に「うるふ」〔湿らせる〕という語は存在していたので、 閏月を「うるふ」と訓むことは、上代からあったと思われる。 《大餔(酺)》 〈汉典〉〈百度百科〉〈中国哲学書電子化計画〉に「大餔」は見えないが、「大酺」はある。 〈学研新漢和〉によれば、「大酺」は「皇帝が民に牛・酒を賜うこと」。『漢書』景帝紀には、「夏、大酺五日。民得二酤酒一。」〔酤…即成の酒〕がある。 〈百度百科〉の説明は、「大酺:聚飲。封建帝王為レ表二-示歓慶一。帝賜二大酺一、特許四民間挙三-行大二-聚-飲三天一。 后用レ以レ表二-示大規模慶賀一。」 〔集まって飲むこと。封建帝王が歓慶を表示する。帝が大酺を賜るとは、特に民間が三天に大聚飲を挙行することを許す。後に大規模な祝賀を表す語となった。〕 〔三天…民に福を与える三神。摩利支天・大黒天・弁財天。〕となっている。 漢書に「大酺五日。民得酤酒。」とあるから、国家的な祝宴である「大餔」は、しばしば人民にも酒や食物を振る舞ったと思われる。 四年条・五年条は全体として、諸蕃との友好を深め、隼人・蝦夷は服従し、百寮・臣連に接待する内容だから、 その文脈においては、民衆にも酒食を賜ったと理解すべきであろう。 「大餔五日」への〈仮名日本紀〉・〈岩波文庫版〉の訓「おほきにさけのみすること五日」 には、人民を巻き込んだ視点が欠落している。 《御射殿》
「射殿」を、どう読んだか。宮廷の施設である「~殿」の訓みを探るために、「大極殿」の伝統訓を見る。 ・〈釈紀〉秘訓四-皇極:大極殿【オホアムトノ私記説】。 秘訓六-天武下:内安殿【ウチノアントノ】。外安殿【トノアントノ】。 ・〈仮名日本紀〉皇極四年六月:大極殿【おほあむとの】。天武十年二月:大極殿【おほかんどの】。 ・〈甲本〉皇極:御大極殿【タカミクラニマシマス】。 私記甲本は、大極殿の中央に高御座があったことによると思われる。 これらを見ると、「大極殿」への訓みは、これといって決まってないようである。 訓が一定しないのは、逆にもともと音読みが標準であったことを示す。平安になってから、何とか訓読みしようと様々に試みられたのであろう。 大極殿は「ダイゴクデン」と読むが、ゴクは呉音であるから、飛鳥時代から音読みだったのだろう。 「射殿」に話を戻すと、〈仮名日本紀〉では「射殿【ゆみいとの】」である。 「射殿戸」は、大極殿に倣って音読みすれば「じゃでん」〔ジャは射の呉音〕となるが、 「射」の古訓に「ゆみいる」があり、〈時代別上代〉も合成動詞「ゆみいる」を認定して見出し語にしていることから、 「射殿」を「ゆみいとの」と訓読するのは自然だと思われる。 《弓場殿》 平安時代には、内裏に弓場殿(ゆばでん)が設置された(右図)。 弓場殿について、『大辞林』に次の説明がある。 「天皇が射芸を見るための施設。古くは豊楽殿や武徳殿をいったが、紫宸殿(ししんでん)の前庭西側に弓場が設けられてからは、 校書殿東庇北端東向き方一間の板敷の建物をさした。」 〔校書殿の北の端かから東からひさしを伸ばし、板敷きした1.8m四方の場所で、 そこから紫宸殿の西の庭で弓射場を見た。〕 甕栗宮〔飯豊女王の角刺宮かも〕の射殿は、 事実の記録があるのか、書紀が伝統を遡らせて書いたものかは分からないが、 いずれにしても書紀執筆の時代〔8世紀初頭〕には、 宮廷に設置されていたわけである。 《大意》 四年正月七日、 海外の諸国からの使者に、朝堂で宴を催し、 賜わり物を、おのおのに応じて賜りました。 閏五月、 五日間にわたって、人民に酒を賜りました。 八月七日、 天皇(すめらみこと)はご自身で囚人を取り調べて記録されました。 同じ日、 蝦夷(えみし)、隼人(はやと)がそろって服従しました。 九月一日、 天皇は射殿にお招きされ、 司たちと海外の使者に詔され、弓を射させました。 賜わり物を、おのおのに応じて賜りました。 10目次 【五年】 五年春正月甲戌朔己丑。天皇崩于宮。……〔続き〕 まとめ 清寧天皇三~四年条では、内外の諸勢力に対して融和的である。代替わりして仁政に舵を切った印象がある。 記の事象の順序に従えば、この時期は飯豊女王が統治した。 仮にそうだとすれば、市辺押磐皇子系に王朝が交替したのに伴い、人心の掌握に努めたと見られないことはない。 |
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⇒ [15-03] 顕宗天皇1 |