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2018.10.19(fri) [14-16] 雄略天皇[16] 


29目次 【十四年正月】
十四年春正月丙寅朔戊寅、身狹村主靑等、共吳國使。……〔続き〕


30目次 【十四年四月】
夏四月甲午朔、天皇欲設吳人……〔続き〕


31目次 【十五年】
十五年、秦民分散臣連等、各隨欲駈使、勿委秦造。……〔続き〕


32目次 【十六年~十八年】
《詔宜桑国県殖桑又散遷秦民使献庸調》
十六年秋七月。

「宜桑國縣殖桑、
又散遷秦民、使獻庸調」。
冬十月。
詔聚漢部、
定其伴造者、賜姓曰直。
【一云。賜漢使主等、賜姓曰直。】
…(古訓) よろしく~すへし。
…(古訓) あかた。こほり。
…(古訓) うふ。たね。たつ。
うう…[他]ワ下二 植える。
あやべ(漢部)…[名] 漢人(あやひと)の部族。
さだむ…[他]ラ下二 定める。
十六年(とをとせあまりむとせ)秋七月(ふみづき)。
詔(みことのり)にいはく
「宜(よろしく)桑(くは)の国県(くにあがた)桑を殖(う)ゑて、
又秦(はた)の民(たみ)を散(あか)ち遷(うつ)して、庸調(みつき)を献(たてまつ)ら使(し)むべし。」といふ。
冬十月(かむなづき)。
詔して漢部(あやべ)を聚(あつ)めて、
其の伴造(とものみやつこ)の者(ひと)を定(さだ)めて、姓(かばね)を賜(たまは)りて直(あたひ)といふ。
【一(ある)に云ふ。漢使主(あやのおみ)等(ら)に賜(たまは)りて、姓を賜りて直と曰ふ。】
十七年春三月丁丑朔戊寅。
詔土師連等、
使進應盛朝夕御膳淸器者。
於是、土師連祖吾笥、仍進
攝津國來狹々村
山背國內村俯見村
伊勢國藤形村
及丹波但馬因幡私民部
名曰贄土師部。
すゑうつはもの…〈倭名類聚抄〉【瓦器一云陶器音桃。瓦器、須恵宇都波毛乃。】 〔瓦器あるに陶器と云ふ。音トウ。瓦器、すゑうつはもの〕
陶者…〈倭名類聚抄〉陶者:訓【須恵毛乃豆久流】〔すゑものつくる(り?)〕
丹波国…書記を書いた時点では、恐らくまだ丹後国は分割されていない。 〈続紀〉和銅三年〔713〕丹波国加佐。与佐。丹波。竹野。熊野五郡。始置丹後国
わたくし…[名] 個人的なこと。オホヤケの対。
かきべ(民部、部曲)…豪族、あるいは臣・国造などの私有民。大化の改新で廃止に向かう。
十七年(ととせあまりななとせ)春三月丁丑(ひのとうし)を朔(つきたち)として戊寅(つちのえとら)〔二日〕。
土師連(はにしのむらじ)等(ら)に詔(みことのり)して、
朝夕(あさゆふ)の御膳(みけ)を盛(も)る応(べ)き清器者(きよきすゑものつくり)を進(たてまつ)ら使(し)む。
於是(ここに)、土師連(はにしのむらじ)の租(おや)吾笥(あけ)、仍(すなはち)[進]
攝津国(つのくに)の来狭々村(くささむら)
山背国(やましろのくに)の内村(うちむら)俯見村(ふしみむら)
伊勢国(いせのくに)の藤形村(ふぢかたむら)
及(と)丹波(たには)但馬(たぢま)因幡(いなば)との私(わたくし)しまつる民部(かきべ)をたてまつりて、
名(なづけ)て贄土師部(にへのはにしべ)と曰ふ。
《土師連・贄土師部》
 垂仁天皇三十二年に「野見宿祢。是、土部連等之始租也。」とあり、土部連は埴輪造りの部の伴造〔とものみやつこ;統率者〕としてスタートしている (第110回《埴輪の由来(2)》)。 遡って神代紀には、天照大神・素戔嗚尊の誓約の結果生じた第二の男子神、天穂日命〔あめのほのひのみこと〕を「土師連」の祖とする。
 記の垂仁段で言及されるのは、職業部としての「土師部」のみである(第121回)。 また、誓約の段においては、天之菩卑能命の末裔については何も触れられない (第46回)。
 贄土師部は、書いてある通り朝廷の御食の器を献上する。〈新撰姓氏録〉に〖大和国/天孫/贄土師連/同神〔=天穂日命〕十六世孫意富曽婆連〔おほそばのむらじ〕之後也〗とある。 贄土師連は贄土師部の伴造である。
《使進応盛朝夕御膳清器者》
 使進応盛朝夕御膳清器者の骨子は、 「使〈応盛…器〉〔〈応盛…器〉を進(たてまつ)らせる〕である。 「朝夕御膳〔朝夕の御膳を盛るべき〕は、「清器」を連体修飾する。 問題は「」を接続詞として「(清器を)進(たてまつ)らしめ」、名詞として「(清器を)つくるひと」のどちらに解釈するかということである。
 この一節のみを読めばやはりが自然で、〈時代別上代〉はじめ、一般的な解釈はすべてこれである。 しかし、厳密に読むと「清器」(すゑうつはもの)という〈物〉を求めたのに対して、吾笥が「私民部」という〈人〉を献上するという捻じれが生じている。
 を裏付ける材料としては、ある役割を負った人を、漢訳して「~者」と表現する例のはなはだ多いことが挙げられる。
 例えば、十四年四月に「共食者」(あひたげひと)や「負嚢者」がある十四年四月)。 また、九年に視葬者(はぶりのつかさ)がある(【九年五月】)。 さらに〈神代記〉には、葬儀における役割を担う人が、持傾頭者(きさりもち)・持帚者(ははきもち)・ 尸者(ものまき)・舂者(つきめ)・哭者(なきめ)・造綿者(わたつくり)・宍人者(ししびと) と表現される (第75回)。
 よって、清器者は「すゑものつくり〔陶器を作る人〕の漢訳である可能性は高い。清器」は、「陶器」の漢語レベルの美称であろう。 あるいは、土師器と比較して洗練された器という意味かも知れない。
 即ち、「使朝夕御膳清器者〔朝夕の御膳を盛るべき清器をつくる者(ひと)を進(たてまつ)らしむ〕と訓んで文を完結させる。
《大意》
 十六年七月、 詔を発して 「桑を栽培するに適する国県は桑を植えよ。 また、秦(はた)の民を分散して移し、庸調を献上させよ。」と命じました。
 十月、 詔を発して漢部(あやべ)を集め、 その伴造(とものみやつこ)〔部の統率者〕を決めさせ、姓(かばね)を賜り直(あたい)としました。 【ある記録では、漢使主(あやのおみ)らに賜ったもので、姓を賜って直としたという。】
 十七年三月二日、 土師連(はにしのむらじ)らに詔を発して、 朝夕の御膳を盛るべき清き陶器〔すえもの〕造る人を奉らせました〔須恵器職人を募集しました〕。
 そして、土師連(はにしのむらじ)の租の吾笥(あけ)が、 攝津国の来狭々村、 山背〔後の山城〕国の内村・俯見村〔後の伏見村〕、 伊勢国の藤形村(ふじかたむら)、 及び丹波(たには)・但馬(たじま)・因幡(いなば)に私有する民部(かきべ)を献上し、 贄土師部(にえのはにしべ)と名付けられました。

《伐伊勢朝日郎》
十八年秋八月己亥朔戊申。
遣物部菟代宿禰物部目連、
以伐伊勢朝日郎。
々々々聞官軍至。
卽逆戰於伊賀靑墓、自矜能射、
謂官軍曰
「朝日郎手、誰人可中也。」
其所發箭、穿二重甲、官軍皆懼。
…[動] (古訓) たたかふ。ふるふ。おそる。
…(古訓) みつから。ほしいまむま。
…[動] ほこる。「矜持」など。(古訓) ほこる。ほしまま。
…[動] (古訓) やはなつ。はなつ。  
よろひ(甲)…[名] よろい。よろふ(身に着けてかざる)の名詞形。 〈時代別上代〉カブトに「甲」をあてることは現在まで行われているが、「甲」は本来ヨロヒを意味する字であって誤用とすべきである。
十八年(ととせあまりやとせ)秋八月(はつき)己亥(つちのとゐ)を朔(つきたち)として戊申(つちのえさる)〔十日〕。
物部菟代宿祢(もののべのうしろのすくね)物部目連(もののべのめのむらじ)を遣(つかは)して、
以ちて伊勢の朝日郎(あさひのいらつこ)を伐(う)たしむ。
朝日郎、官軍(すめらみくさ)至れりと聞きて。
即ち[於]伊賀の青墓(あをはか)に逆(さかしま)に戦(たたか)ひまつり、自(ほしきまにま)に能(よ)く射るを矜(ほこ)りて、
官軍に謂(まを)さく[曰]
「朝日郎の手(て)、誰人(たれ)に中(あた)る可き也(や)。」とまをして、
其の所発(はなち)し箭(や)、二重(ふたへ)の甲(よろひ)を穿(うが)ちて、官軍皆(みな)懼(おそ)りき。
菟代宿禰、不敢進擊、相持二日一夜。
於是、物部目連、自執大刀、
使筑紫聞物部大斧手、執楯叱於軍中、倶進。
朝日郎、乃遙見而射穿大斧手楯二重甲、
幷入身肉一寸。
大斧手、以楯翳物部目連、々々卽獲朝日郎斬之。
二日一夜…「昼-夜-昼」を意味すると思われる。
…(古訓) もつ。たもつ。
筑紫…[地名] つくし。(万)0866 都久紫能君仁波 つくしのくには
…[動] (古訓) いさむ。さけふ。
…(古訓) [名]ともから。[副]ともに。みな。
…[動] ここでは、前進する。
大斧手…人名。大斧を振う技の持ち主へのあだ名か。
…[名] ①身分の高い人の姿を隠すためにかざす、羽の扇。②かげ。[動] かざす。かげる。
…[動] (古訓) う。とる。
菟代宿祢、[不]敢へて進め撃たずありて、二日一夜(ふつかひとよ)相(あひ)持(も)ちき。
於是(ここに)、物部目連、自(みづから)大刀(たち)を執(と)りて、
[使]筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)の大斧手(おほおのて)をして、楯を執りて[於]軍(いくさ)の中(うち)を叱(ころ)はしめて、倶(とも)に進みき。
朝日郎、乃(すなはち)遙(はるか)見て[而]大斧手の楯と二重甲(ふたへのよろひ)を射(い)穿(うが)ちて、
并(あは)せて身の肉(しし)に一寸(ひとき)入れり。
大斧手、楯を以ちて物部目連を翳(かげ)して、目連即ち朝日郎を獲(とら)へて之を斬りき。
由是、菟代宿禰、羞愧不克七日不服命。
天皇問侍臣曰「菟代宿禰、何不服命。」
爰有讚岐田蟲別、進而奏曰
「菟代宿禰怯也、
二日一夜之間、不能擒執朝日郎。
而物部目連、
率筑紫聞物部大斧手、獲斬朝日郎矣。」
天皇聞之怒、
輙奪菟代宿禰所有猪名部、賜物部目連。
服命…おそらく復命と同じ。「復命」は「かへりごとまをす」と訓まれる。
猪名部…[名] 木匠などの技能集団 (応神天皇三十一年)。
讃岐田虫別…〈姓氏家系大辞典〉「田虫別:讃岐の古族にて、雄略紀十八年条に『爰に讃岐田虫別あり云々』と見ゆ。
…[動] (古訓) とらふ。とりこす〔=虜囚す〕
是(こ)に由(よ)りて、菟代宿祢、羞愧(は)ぢて不克(かてずあ)りて七日(なぬか)不服命(かへりごとまをさず)。
天皇(すめらみこと)侍臣(まへつきみたち)に問ひて曰(のたまはく)「菟代宿祢、何(いかにして)不服命(かへりごとまをさざ)るか。」とのたまひて、
爰(ここに)讃岐(さぬき)の田虫別(たむしのわけ)有りて、進(すすみい)でて[而]奏曰(まをししく)
「菟代宿祢怯(おび)えて[也]、
二日一夜之(の)間(ま)、朝日郎擒執(とらふること)不能(あたはず)。
而(しかるがゆゑに)物部目連、
筑紫聞物部大斧手を率(ひきゐ)て、朝日郎を獲へて斬りぬ[矣]。」とまをしき。
天皇之(こ)を聞こして怒(いか)りて、
輙(すなはち)菟代宿祢の所有(もてる)猪名部(ゐなべ)を奪ひたまひて、物部目連に賜る。
《物部菟代宿禰》
 「物部菟代宿祢」は、<wikipedia> では石持の子に位置づけられているが、 天孫本紀、新撰姓氏録には菟代宿祢という名前は出てこない。姓氏家系大辞典その他の資料にもなく、今のところ出典を確かめることができない。
 なお、天孫本紀の系図には石持連公の名前は二か所に出てくる(右図)。
《朝日郎》
 朝日郎の訓には、アサケノイラツコアサヒノイラツコが見られる。
 まず、それぞれの意味を見ると、
あさひ…[名] 朝日。
あさけ(朝明)…[名] 明け方。〈倭名類聚抄〉{伊勢国・朝明【阿佐介】郡〔あさけ〕
 である。
 〈仮名日本紀〉は「朝日朗【あさひのいらつこ】」と訓む。 一方、岩波文庫版は「未詳」としつつも、地名「朝明」があることから「今アサケノイラツコと訓む。」とする。
 ネットで検索すると、「あさひのいらつこ」は6件、「あさけのいらつこ」は186件だから、 一般的には「あさけ」である。 検索語に、「"朝日郎" "あさひのいらつこ"」、「"朝日郎" "あさけのいらつこ"」を用いた結果。
 しかし、万葉集を見ると「朝日」は5例あるが、 「(万)0178 朝日弖流 あさひてる」「 (万)3042 朝日指 あさひさす」など、 「朝日」はすべて「あさひ」と読むべきものである。
 それに対して「あさけ」の漢字表現は、すべて「朝明」(4例)だから、 一般に「朝日」を「あさけ」と訓むことはなかったと思われる。
 日本書紀に限って「朝日」を「あさけ」と訓むのは上代の一般的な事実を捻じ曲げるもので、現代における特殊な流儀と言うべきであろう。
《筑紫聞物部》
 筑紫聞物部は全国の物部氏の支族のひとつで、筑紫地域のキクにあったと見られる。 〈姓氏家系大辞典〉によれば、「企救:豊前国に企救郡あり、和名抄に岐久と註す。又規矩郡に作る」。 手元の『倭名類聚抄』には{企救【岐多】}となっているが、この版〔風間書房;1962年。元和三年の木刻版の写真製版〕の誤りと見られる。 近代に存在した「企救町」も「きくまち」である。 〈同辞典〉はまた、「聞物部 キクノモノノベ:古代(筑紫)聞物部あり。備前国企救郡に住みし物部を云ふ。」と述べる。 旧企救郡の郡域は、現在の北九州市の門司区・小倉北区・小倉南区などにあたる。
《肉》
 しし()は、食肉に限らず、身体の筋肉も意味する。
 仲哀天皇段で、その皇子品陀和気命〔応神天皇〕は、生まれながら「鞆宍生御腕〔鞆のように、御腕の「しし」が盛り上がっていた〕と形容する (第138回)。
《大意》
 十八年八月十日、 物部菟代宿祢(もののべのうしろのすくね)・物部目連(もののべのめのむらじ)を遣わして、 伊勢の朝日郎(あさひのいらつこ)を征伐させました。
 朝日郎は官軍至ると聞き、 直ちに伊賀の青墓(あおはか)で迎え撃ち、欲しいままに矢を射る能力を誇り、 官軍に 「朝日郎の手が射た矢は、さあ誰に当たるかな。」に叫び、 その放たれた矢は、二重の鎧を突き通して、官軍は皆恐れました。
 菟代宿祢、敢て進撃せず、一夜を挟んで二日間、敵に向かって待機していました。
 すると、物部目連は自ら太刀を執り、 筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)大斧手(おおおのて)に、楯を執って軍中を叱咤させ、共に進みました。 朝日郎はそれを遙かに見て、大斧手の楯と二重の鎧に矢を貫通させ、 併せて体の肉に一寸〔漢代は2.3cm、隋唐では3.0cm程度〕入りました。 大斧手は物部目連を楯の後ろに護り、目連は朝日郎を捕らえて斬りました。
 それによって、菟代宿祢は、恥ずかしさに克てず、七日間復命しませんでした。 天皇は侍臣に「菟代宿祢は、どうして復命しないのか。」と尋ねたところ、 讃岐(さぬき)の田虫別(たむしのわけ)という者がいて、進み出て 「菟代宿祢は怯えて、 一夜を挟んで二日間、朝日郎を捕えることができませんでした。 そこで物部目連が 筑紫聞物部の大斧手を率いて、朝日郎を捕らえて斬ったのでございます。」と奏上しました。 天皇はこれをお聞きになり怒り、 菟代宿祢の所有する猪名部(いなべ)を奪い、物部目連に賜りました。


高茶屋大垣内遺跡/土師器焼成坑
( 高茶屋大垣内遺跡(第3・4次)発掘調査報告)
【来狭々村など】
《攝津国来狭々村》
 大阪府能勢町に「久佐々神社」があり(大阪府豊能郡能勢町宿野274-1)、 〈延喜式〉神名帳{摂津国/能勢郡三座【並小】/久佐々神社}の比定社となっている。 〈五畿内志〉巻六十一、摂津国「能勢郡」には「久佐佐神社【在宿野村」がある。
 能勢町教育委員会による掲示板から抜粋すると、 「和銅六年〔712〕に創建されたと伝えられる『延喜式』内の神社」で 「他に『久佐々大明神』〔中略〕など多くの呼び名があるが、 これは往古より、広い地域まで知られた『大宮』であることに起因するのであろう。 しかし当初の社名について、日本書紀雄略天皇〔中略〕摂津国来狭狭村〔中略〕、 社名もこれに拠ると考えられる。」 「当社の文書断簡に『祭神天穂日命、御合殿祭神賀茂別雷神、右大同年間(806~9)奉斎ス』 とあり、『天穂日命』は、前述の贄土師部の遠祖であることから、当初は『天穂日命』 が奉斎されていたように思われる。」と述べる。
《山背国内村》
 山背国内村について、〈釈紀〉は「内村【ウチノムラ/宇治也】」と解釈する。 〈倭名類聚抄〉に{山城国・宇治【宇知】郡・宇治郷}があり、 〈五畿内志〉巻第七、「宇治郡」に「【郷名】宇治。【村里】宇治【町名二】」がある。
《山背国俯見村》
 〈五畿内志-上〉山城国之六「紀伊郡」に、 「【村里】伏見【日本紀作俯見 旧九村。曰石井。曰曰森。曰船戸。曰久米。曰山。曰北尾。曰北内。曰即成院。曰法安寺是也。 当今多為町名。…】」 とある通り、「俯見」は伏見村であるとする。
 現在の京都府伏見区の主要部分にあたる。
《伊勢国藤形村》
 高茶屋大垣内遺跡が久居市から津市南部までの一帯にあり、津市藤形はこの遺跡から約1km北にあたる。 奈良文化財研究所-高茶屋大垣内遺跡(第3・4次)発掘調査報告 によると、土師器焼成坑が検出され、飛鳥・奈良時代のものの他に、「古墳時代後期の遺物を多く出土する焼成坑もある」という。
須恵器「灰釉長頸瓶」三重県鳥羽市答志町 蟹穴古墳出土 飛鳥時代(7世紀中葉) 土師器「高坏形土師器」奈良県柳本町出土 奈良時代(8世紀初頭);木製高坏を模したもの。
東京国立博物館研究情報アーカイブズ
陶邑窯跡群-TG61号窯(移築復元)
ja.wikipedia.org
《須恵器の生産地》
 大阪府、陶邑窯跡群(堺市・狭山市など)は須恵器の窯跡で、5世紀前半に生産を開始したとされる。 崇神天皇紀では、その陶邑(すゑむら)において大田田根子が発見された (第111回【書紀】《大田田根子の探索》)。
 また、同じ崇神紀で、「天日槍之従人」が近江国坂田郡鏡村の陶人となったと述べ、鏡山には実際に須恵器の窯跡が多数ある (【天日槍】)。
 5世紀末以後の西日本の窯跡には、牛頸窯跡群(福岡県)、東播地域窯跡群(兵庫県)がある。
 こうしてみると、須恵器の窯跡の分布は、十八年条に列挙された「来狭々村」などとは全く合致しない。 これは、同じ書紀でも崇神天皇紀における陶邑・鏡村陶人は遺跡との対応があり現実感があることと比べると奇妙で、困惑させられる。
 とは言え、何とか辻褄の合うようなストーリーを組み立てることはできないだろうか。
《各地の土師器職人》
 まず、藤形村で確認された土師器焼成坑は他の村にもあったが、比較的簡便で遺跡が残りにくいものと仮定する。 すると、吾笥の支配下にあった各地の土師部から、一定数を陶邑(あるいは鏡村?)に集め、組織的に須恵器の生産を開始したと解釈することができる。
 このストーリーを念頭に置いて十八年条を読むと、「」は清器という〈物〉ではなく、やはり〈造る人〉を求めたと考える方が合い、 「清器」という表現からは、素朴な「土師器」ではなく、精緻な「須恵器」を造れという詔の意図が際立つ。
 須恵器は、穴窯〔あながま;地下トンネル構造。数m~数十m〕を使って高温(1200℃)で焼くが、 土師器は小規模な焼成坑を地面の上から掘って焼くもので、比較的低温(800℃)である。 穴窯は大型でしっかりした構造だから遺跡に残るが、焼成坑は残りにくいだろう。
 須恵器は5世紀に半島から工人が渡来して伝えたものとされ、その一族の始祖伝説が崇神紀の天日槍に取り入れられたと考えられる。 雄略十六年頃に、須恵器の生産を組織化するために各地から土師器の工人を集め、少数の須恵器技能者に指導させたと考えることは自然である。
 よって、ひとまずこのストーリーを仮説としておく。
近代古墳実測図
全長30m
天童山古墳群発掘調査報告
なお、同報告p.141の「第56図 古墳周辺地形図」「第57図 古墳周辺地形図(2)」は、 西を上にする図となっている。

【伊賀国青墓】
 アヲ()は、〈倭名類聚抄〉{伊賀国・伊賀郡・阿保}のアホの訛りか。
 江戸時代には阿保村が存在したが、その近くに美旗古墳群近代古墳(三重県伊賀市上神戸近代2761)があった。
《近代古墳》
 近代古墳の調査報告が、 「天道山古墳群発掘調査報告( 三重県埋蔵文化財センター/所蔵品・図書データベース)の中にある。
 右下の古墳配置図は、同報告中の原図を書き改め、伊賀市阿保の範囲を加えたものである。
 同報告から一部を抜粋して引用すると、
● 近代古墳から、武具(冑・短甲・頸甲・肩甲)、 武器(鉄刀・鉄槍・鉄鋒)、土器(須恵器、土師器)、埴輪(円筒埴輪の一部)が出土している。
● 「伊賀では中期後葉段階〔5世紀後半〕に、圧倒的な規模を誇る美旗古墳群との古墳と 比べると、規模は小さいが、帆立貝型の古墳が築造される。
● 「古代には飛鳥から東国に至る主要道は、美旗古墳群の脇を通り、 近代古墳周辺を通って木津川沿いに北上するルートが想定されており、 この古墳を考えるうえで極めて重要な事項である。」(引用終わり)
 木津川は、伊賀市から畿内に向かって流れている。木津市から北に折れ曲がるが、 その南の平城山丘陵を経て、上ツ道・中ツ道・下ツ道が藤原京への交通路であった (第113回【幣羅(へら)の坂】)。 また、初瀬街道が初瀬と伊勢を繋ぎ、やはり近代古墳付近の近くを通る。
《阿保》
 〈続紀〉延暦三年〔784〕十一月戊午〔戊戌朔;二十一日〕に、建部朝臣人上等が阿保朝臣姓を賜るように請願した中に、 始祖は「伊賀国阿保村居焉」という一節がある (資料[33])。
 時代が下った江戸時代には「阿保村」があり、町村制〔1889年〕で周辺の五村を併せて阿保(あお)村になり、1920年に阿保町となる。 さらに周辺と合併〔1955年〕して青山町、そして伊賀市に編入される〔2004年〕。 江戸時代に阿保村だった区画は、青山町大字阿保伊賀市阿保〔この時「大字」がつかなくなった〕となる。
 〈倭名類聚抄〉の阿保(恐らくアホ)郷は、このようにして現在の伊賀市阿保(アオ)に至る。
《阿保朝臣》
 近代古墳の副葬品に武具があることにより、5世紀後半にこの地に独立部族があったとすることには物質的根拠がある。 そして、その末裔が〈続紀〉の「阿保朝臣」となった可能性がある。 またこの地域は木津川・初瀬街道が通る要所であったから、 朝廷が支配下に置こうとする戦いがあり、それが十八年条に書かれたと考えることができる。
 近代古墳美旗古墳群は阿保村からやや離れているが、古墳が集落から離れた郊外に築かれるのは自然であろうと思われる。 地名「」は、古墳を意味する可能性がある。
《青と阿保》
 「」の中国における中古音(隋・唐)は〔pau〕で、それによって飛鳥時代に〔po〕に「」が当てられ、 後に日本の発音が〔ɸo〕に転じた後も、 中国式の発音とは無関係に「」が用いられ続けたと考えられる。 〔発音記号ɸは、現在の「フ」の子音〕
 〈倭名類聚抄〉は、{阿保}に割注を付していない。これは、特別な訓みではなかったことを意味する。 {信濃国・水内郡}の{大田}には【於保多】と割注が付されていることから見て、〈倭名類聚抄〉の平安中期には「〔ɸo〕」で、 割注のない「阿保」が〔aɸo〕であったことは確実である。
 よって、続紀の時代の発音は〔aɰo〕阿保〔aɸo〕で両者は異なり、5世紀後半(雄略朝)から7世紀(続紀)の短い期間に、なおかつ〔ɰ〕〔ɸ〕という、口唇の緊張を強める方向に発音が変化したとは考えにくい。 従って、「青墓」のが「阿保」に転じたと単純に決めることはできない。 もしあるとすれば、先に広い地域名〔apo〕があり、そのうち特定の狭い範囲で〔aɰo〕に転じたということである。 別の考えとして、二つの地域〔aɰo〕〔aɸo〕が隣接していて、その住民の相互交流によって、 〔aɸo〕〔aho〕〔ao〕の変化が早まったことも考えられる。
 なお、現在の「青山町駅」は、1955年~2004年に存在した「青山町」が駅名のみに残ったものである。 1970年に「阿保駅」から改称。
 「青山風土記」/目次昭和60年/「昭和60年8月号」によると、 「青山町」の名称は、町民から公募した中から町村合併委員が決めたという。 同書は「阿保山が青山になり、その青山から青山町ができたわけである。」と述べる。 即ち「青」の歴史的仮名遣い「アヲ」が忘れ去られた時代には、「阿保」を「青」に置き換えることに抵抗はないのである。 従って、書記の「青墓」と現代の「青山」とは、全く別ものであることが解る。

まとめ
 なぜ陶器を「清器」と書いたのか。「者」は接続詞という解釈でよいのか。 土師連の村々と陶窯跡の分布が一致しないのは何故か。などの疑問を、所詮は似非歴史書だからと放置せずに突き詰めてみたところ、 須恵器の生産を大規模化するために各地から土師器の工人を集めた歴史的事実が浮かび上がってきた。 正格漢文としての文法・漢字の原意に立ち戻って厳密に読み、また考古学の所見と噛み合わせることによって、書紀の個々の記述は新しい価値を生むかも知れない。
 さて、菟代宿祢は猪名部を没収されたが、命を奪われることはなかった。軽い罪で済んだのは、やはり天皇を支えた物部氏への遠慮であろうと思われる。 しかし、菟代宿祢の名が天孫本紀の系図の中にないのは、物部氏全体にとって恥ずべき人物だったのだろう。



2018.11.03(sat) [14-17] 雄略天皇[17] 


33目次 【十九年~二十一年】
《高麗王大発軍兵伐尽百済》
十九年春三月丙寅朔戊寅。
詔置穴穗部。
十九年(ととせあまりここのとせ)春三月(やよひ)丙寅(ひのえとら)を朔(つきたち)として戊寅(つちのえとら)〔十三日〕。
詔(みことのり)して穴穂部(あなほべ)を置く。
廿年冬。
高麗王、大發軍兵、伐盡百濟。
爰有小許遺衆、聚居倉下、
兵糧既盡、憂泣茲深。
於是、高麗諸將、言於王曰
「百濟、心許非常、臣毎見之、
不覺自失、恐更蔓生。
請遂除之。」
…記神代に「いさちる」という表現があるが、万葉集に35例がある「泣」は、「なく」=35例、「ね」(鳥の鳴き声)=5、なみた(涙)=1である。
くらじ(倉下)…[名] 倉の下。〈時代別上代〉「人名クラジに「倉下」の字をあてるのは、倉下クラジという語があったからであろう。 もっとも、これら〔の用例〕の「倉下」をクラジと訓む明証はなく、この語の存在は推定の域を出ない。」 〈仮名日本紀〉倉下【へすおと】。〈岩波文庫版〉「ヘスオトは百済語であろう」。
…倭国の将軍は、官職制から「いくさのかみ」と訓むべきだが、ここでは一般的な軍の統率者だから「いくさのきみ」となる。
こころばへ(心許)…[名] 心情。
…(古訓) ことに〔ごとに〕。しはしは。つねに。
自失…意外なできごとに遇い、驚いてぼんやりする。
おぼほし…[形]シク 心がぼんやりして晴れない。
…(古訓) はひこる。はふ。
蔓生…つるがのびて生長する。
うまはる…子が生まれる。〈時代別上代〉「「恐更蔓生ムマハリナムカ」など、 ムマハルと付訓された例もある。
二十年(はたとせ)冬。
高麗王(こまわう)、大発軍兵、百済(くたら)を伐(う)ち尽くす。
爰(ここに)小(すこ)し許(ばかり)遺(のこりし)衆(つはもの)有りて、倉下(くらじ)に聚(あつ)まり居(を)りて、
兵(いくさ)の糧(かて)既に尽きて、憂(うれ)へ泣(な)くこと茲(ここに)深し。
於是(ここに)、高麗(こま)の諸(もろもろの)将(いくさのきみ)、[於]王(きみ)に言(まを)ししく[曰]
「百済(くたら)、心許(こころばへ)常(つね)に非ずて、臣(やつかれ)毎(しばしば)之(こ)を見て、
不覚(おもはず)に自失(おぼほし)くありて、更に蔓生(はふ)を恐りつ。
請(ねがは)くは之(こ)を遂(お)ひ除(のぞ)きたまへ。」とまをしき。
王曰
「不可矣。
寡人聞、
百濟國者爲日本國之官家、所由來遠久矣。
又其王入仕天皇、四隣之所共識也。」
遂止之。
【百濟記云。
蓋鹵王乙卯年冬。
狛大軍來、攻大城七日七夜、王城降陷、
遂失尉禮、
國王及大后、王子等、皆沒敵手。】
百済…〈倭名類聚抄〉{摂津国・百済【久太良】〔くたら〕}。
遠久…辞書類には熟語としては取り上げられず、中国古典にも熟語として特別の意味をもつ用法は見られない。
大城…〈釈日本紀巻十七(以下釈紀)〉大城【コニサシ】。
…(古訓) おちいりにたり。おちる。
尉礼…尉礼城は漢城の別名。なお、〈釈紀〉に「ツイニウシナフ尉礼国ネキラフクニヲ
大后…〈釈紀〉大后【コムヲルク/コニヲルク/コヲルク】
王子…〈釈紀〉王子【セシム】
…(古訓) しつむ。しぬ。ほろふ。
王曰はく
「不可矣(ゆるしたまはず)。
寡人(われ)聞こししく、
百済国(くたらのくに)者(は)日本国(やまとのくに)之(の)官家(うちつみやけ)と為(な)りて、所由来(よりきたる)は遠(とほ)く久しき[矣]。
又(また)其の王(わう、こきし)天皇に入り仕へまつること、四隣(よも)之(の)所共識(ともにしれる)にあり[也]ときこしき。」といひて、
遂に之(こ)を止(や)む。
【百済記(くたらのふみ)に云ふ。
蓋鹵王乙卯(きのとう)の年〔雄略天皇十九年〕冬。
狛(こま)の大軍(おほいくさ)来たりて、大城(おほきき、こにさし)を攻むること七日(なぬか)七夜(ななよ)、王城(わうじやう)降(くだ)り陥(お)ちて、
遂に尉礼を失(うしな)ひて、
国王(こくわう、こきし)[及]と大后(たいこう、こにおるく)、王子(わうし、せしむ)等(ら)、皆敵(あた)の手に没(ほろび)ぬ。】
《穴穂部》
 雄略天皇は、「安康天皇には妃を娶せたときに大いに世話になり、また立派な陵を完成させているから頭が上がらなかった」と見た (第196回【宇多弖物云王子】)。 このような感謝の念から穴穂天皇を称え、その名を後世に残すために御名代「穴穂部」を置いたのである。
 〈姓氏家系大辞典〉は「安康天皇の御名代の民なり。」 「こは安康天皇の御諱穴穂を後世に伝えんとしての部民なり。天平五年の右京計帳に穴太部某見ゆ。」と述べ、 河内、大和、下総、常陸、伊賀の各国に穴穂部(あるいは孔王部(あなほべ))を見出している。
 垂仁天皇段において、皇子伊許婆夜和気王の子孫が、佐保の穴穂部の統率者となり、 「沙本穴太部之別(さほのあなほべのわけ)」を名乗ったのではないかと考えた (第116回)。
《高麗の攻撃》
 高麗が百済に攻勢をかけ、漢城が陥落したことが、『三国史記』に記述される (《久麻那利》の項参照)。
 その年は、蓋鹵王二十一年〔乙卯;475〕とされ、 書記が引用した『百済記』と一致するが、雄略天皇二十年〔丙辰;476〕とは一年の差がある。 『宋書』(巻九十七)によれば、升明二年〔 戊午;478〕に倭が遣使した (倭の五王)。
 その上表文の内容を搔い摘んで示すと、 「句驪無道。図見吞。掠-抄辺隸。虔劉不已。〔高句麗は無道で、見呑しようと図り、辺りの隸を掠抄し〔掠め取り〕虔劉〔殺害〕をやめない〕。 そして、百済は「-在諒暗。不兵甲。是以偃息未捷。〔諒暗〔喪所〕にあり、兵甲を動かさず、偃息し〔息をひそめ〕未だ捷〔勝〕てない〕状態であるから、 「義士虎賁。文武効功」が求められる。倭国がその役割を果たそう。ついては 「窃自化開府儀。同三司其余咸各仮授〔窃〔ひそかに;遜って言うことば〕、開府儀を化す自(よ)り同じく〔新羅や任那に開府が認められているのと同様に〕 三司を其の余咸(みな)各(おのおのに)仮授する〔まだ認められていない百済にも開府を認めてほしい〕〕と要請する。
 このように、高麗の攻勢によって百済が窮地に陥っている事態を挙げ、百済を救うために倭国の管理下に置きたいと要請する。 倭国は以前から「使持節都督〈倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓〉七国諸軍事安東大将軍倭国王」の称号を求め、 この百済が高句麗の攻勢にさらされた機会に、再びこの上表文によって百済への支配権を要求した。
 しかし、回答は倭王武を「使持節都督〈倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓〉六国諸軍事安東大将軍倭王」に任ずるというもので、倭国の要請は叶わなかった。
 上表文の内容は、書紀所引の『百済記』に書かれた高麗の攻勢と噛み合っている。倭王武が雄略天皇を指すのは確実であろう。
《不可矣》
 「不可矣」は「ゆるさず」であるが、「ゆるしたまはず」と自敬表現にした方が自然である。 もともと自敬表現は、飛鳥時代以来の宣命の類に由来すると想像される。 宣命は、天皇の詔を官僚が法的な文書として作文した結果生じたものと考えられる。 宣命には、天皇が人民に命ずるものとする形式と、官僚が天皇に敬意を払いながら人民に示すという二重性がある。 その言い回しが習慣化して、文学に波及したと想像される。
 倭の歴史書の立場において、百済王に対して尊敬表現を用いる謂れはない。 しかし、王と臣との会話文を表現する場合には、それを倭語によって表す限り、両者の関係性から尊敬表現が混ざるのは自然である。 ここでは漢語による原文の段階において、既に謙譲表現「」(ねがはくは)が入っている。
《倉下》
 〈釈日本紀〉は「倉下」の読みを示さないので、地名とは考えなかったようである。 しかし古訓「ヘスオト」は一般的で、次の各書にも引用されている。
●薗田香融『日本古代財政史の研究』塙書房1981;「書記の傍訓は本来のものではないが、かなり古い訓を伝えているようだから、「ヘスオト」という韓語は、この旧伝とともに古くからあったものと解したい。
●畑井弘『天皇と鍛冶王の伝承―「大和朝廷」の虚構』現代思潮社1982; 「この「倉下」を古訓は「ヘスオト」とする。何故そう訓まれてきているのか。管見〔自分の見解を遜っていう語〕にしてその所以を解いた先学の説を見ない。」 「「倉下」は明らかに地名だ。これを古訓して「ヘスオト」とするのは、…この地のもっていたある種の個性を示す意訓に違いない」、氏はその「ある種の個性」とは、「扶余系の渡来集団」の聖地のことだという。 彼らは飛鳥に居住し、鳥見(とみ)山をヘスオトとしたという論を展開する。
 さて、〈釈紀〉は古訓「ヘスオト」を採用しない。しかし、この朝鮮の言葉を傍訓として加えた学派が存在したわけである。
 そのヘスオトが、「倉の下」を意味する普通名詞なのか、或いは地名なのかは判断のしようがない。 しかし、この箇所を素直に読めば「食糧を求めて倉に集まってきたが、既に倉は空で、その下で途方に暮れた」と読める。 一方、後文の「時人皆云」にある「倉下」は、地名のように見える。 最初は本当の「倉の下」であったが、遺された僅かの人数が決起して国を再建した記念すべき土地だから、そのまま地名に転じたことも考えられる。
 単に「倉の下」の意味だとすれば、取り立てて古い朝鮮の言葉を用いる意味はない。また地名の場合も、 書紀原文の段階では「久麻那利」のように、現地読みを表すときには音仮名を用いている。 よって、「倉下」については「現地読みは示されていない」と受け取るのが妥当で、倭語で訓むべきであろう。
 なお、倉下が地名だとすれば、現地名「クラジ」を「倉下」の借訓によって表した可能性もある。
《尉礼》
 公州市の公式サイト日本語版の「主要な沿革」のページに、 「慰礼城」への言及がある(《久麻那利》の項(後述)参照)。
 『三国史記』を見ると「責稽王」〔286~298〕に、「慰礼城〔葺=屋根を葺く〕とある。 蓋鹵王二十一年にある「漢城」は「慰礼城」の別名ということになる。
 『世界大百科事典』(Web版)には「王都慰礼城の位置は、近年の発掘調査の結果、ソウル市城東区風納里とする説が有力となった。」とある。
 書紀の「尉礼」は「慰礼」のことだと思われる。
 〈釈紀〉は「ねぎらふ(労ふ)国」と読むところを見ると、慰礼城の存在を知らなかった。 さらに「尉礼(慰礼)」を熟語として「労う」と読むことさえも妥当ではない。なぜなら、〈中国哲学書電子化計画〉には「尉礼」が数箇所、「慰礼」が一か所あるが、 「都慰〔官職名〕、礼文伯」など、たまたま続いた例ばかりで、熟語としては存在しないからである。
《大意》
 十九年三月十三日、。 詔して穴穂部(あなほべ)を置きました。
 二十年冬、 高麗(こま)王は、大挙して軍兵を発し、百済を征伐し尽くしました。
 そこに少しばかり残された兵衆がいて、倉の下に集まっていましたが、 兵糧は既に尽き、深く憂え泣きました。
 そして、高麗の諸将は王に、 「百済の心構えは常になく〔意気軒昂で〕、臣はしばしばこれを見て 不覚にも呆然自失となり、更にはびこることを恐れます。 願わくば、これを追い払ってくださいませ。」と申し上げました。
 王は、 「不可である。 寡人(かじん)〔=私;王が遜っていう語〕の聞くところでは、 百済国は日本国(やまとのくに)の内官家(うちつみやけ)となり、その由来は遠く久しい。 またその王が天皇に取り入り仕えていることは、近隣に共に知られている。」と言って、 とうとう止めさせました。 【百済記(くたらのふみ)に云ふ。 蓋鹵王乙卯年〔雄略天皇十九年;475年〕冬、 狛(こま)〔高麗〕の大軍が来襲し、大城を攻めること七日七夜、王城は陥落し、 遂に尉礼の地を失い、 国王及び、皇后、王子らは、皆敵の手で没した。】

《百済為高麗所破》
廿一年春三月。
天皇、聞百濟爲高麗所破。
以久麻那利賜汶洲王、救興其國。
時人皆云
「百濟國、雖屬既亡、聚憂倉下、
實頼於天皇、更造其國。」
やから…〈時代別上代〉「類義語ウガラには日本書紀訓注など古い例がある。〔中略〕日本書紀古訓はヤカラと付けられているものが多い。
…(古訓) まこと。まさ。
…(古訓) たのむ。たより。
久麻那利…〈釈紀〉久麻那利コムナリ邑名。
汶洲王…〈釈紀〉モンス/シユ ワウ
二十一年(はたとせあまりひととせ)春三月(やよひ)。
天皇(すめらみこと)、百済(くたら)高麗(こま)の為(ため)に所破(やぶらゆ)と聞こして、
久麻那利(くまなり)を以ちて汶洲王(もむすわう)に賜りて、其の国を救ひ興(お)こせり。
時の人皆云へらく
「百済の国、[雖]属(うがら)既に亡けれども、倉下に聚まり憂へて、
実(まさに)[於]頼天皇(すめらみことのみたまのふゆをたのみて、すめらみことにたよりて)、更に其の国を造りき。」といへり。
【汶洲王、蓋鹵王母弟也。
日本舊記云、
以久麻那利賜末多王、
蓋是誤也。
久麻那利者、任那國下哆呼唎縣之別邑也。】
汶洲王…三国史記巻26「文周王:或作汶洲。蓋鹵王之子也。
蓋鹵王…「がふろわう」二年七月
末多王…〈釈紀〉「末多王【マツタワウ】」。東城王の別名 (五年四月)。
母弟…同母の弟。
日本旧記云…〈釈紀〉日本旧記云【アルフミニイハク】
下哆呼唎県之別邑…〈釈紀〉 下哆呼唎アルシタコリノコホリワカ■ノ邑也ムラナリ
【汶洲王、蓋鹵王(がふろわう)の母弟(はらがらのおと、おなじきははのおと)也(なり)。
日本旧記(やまとのふるふみ)に云はく、
久麻那利を以ちて、末多王に賜るといふ、
蓋(けだし)是(これ)誤(あやまり)也(なり)。
久麻那利者(は)、任那国の下(しもつ、あるし)哆呼唎(たこり)県(こほり)之(の)別(わか)るる邑(むら)也(なり)。】
《汶洲王》
 『百済新撰』の引用には、この名前は出てこなかった (五年四月)。
 書記では王子も殺され、蓋鹵王の同腹の弟を立てて汶洲王としたとするが、『三国史記』では蓋鹵王の子である。 百済の書としては、王子まで殺されて王を継承できなかったと書くのは不名誉に過ぎるから、この点に関しては書紀の方が真実に近いかも知れない。
《久麻那利》
 久麻那利を検索すると、久麻那利を「熊津」とする解説が見つかった。 <wikipedia>には、 「熊津(ゆうしん・웅진・ウンジン)は、古代朝鮮の百済の古都であり、万葉仮名では久麻那利(くまなり・こむなり)、百済語では固麻那羅(コマナル・고마나루)と表記・呼称される。」と書いてある。
 「熊津」について、Wikipedia韓国版は 「금강은 호수처럼 잔잔하다고 호수 같은 강 즉 호강이라고 불리기도 하였고, 금산군에서는 적벽강, 부여군에서는 백마강, 공주시에서는 웅진강(熊津江)이라고 부르기도 한다. 〔錦江は湖のように穏やかな川と呼ばれ、錦山郡ではジョクビョクガン〔Red River〕、扶余郡では白馬江、公州市では、熊津川(熊津江)と呼ぶこともある。〕 と述べる。
 「熊津」は、現在の「公州市」である。 公州市の公式サイト日本語版の同市の沿革から関係部分を抜粋すると、
475年:第22代目文周王元年に、慰礼城から熊津へ遷都。
686年:神文王6年に、熊津邑を熊川州と改称し、都督府(中国が征伐した国に設置した統治機関)を設置。
757年:景徳王16年に、熊州と改称。
940年:太祖〔高麗王〕23年に公州と改称し、都督府を設置。
 とある。
 熊津への遷都については、『三国史記』巻26の「文周王」に、 「蓋鹵在位二十一年。高句麗來侵圍漢城。蓋鹵嬰城自固。使文周救於新羅。得兵一萬廻。麗兵雖退城破王死。 遂卽位。性柔不斷。而亦愛民。百姓愛之。 冬十月。移都於熊津〔蓋鹵〔王〕在位二十一年〔475〕。高句麗来侵し漢城を囲む。蓋鹵、城に嬰(こも)りて自ら固む。文周を使はし新羅に救ひを求めて兵一万を得て廻(めぐ)らす。〔高句〕麗兵退けど城破れ王死す。〔中略〕 冬十月。都を熊津に移す。〕――嬰城:城壁をめぐらして、その中に立て籠もる。 と書かれる。これにより、高麗との国境が図のように変わったと想像される。
 それでは、「熊津」がなぜ「久麻那利」なのか。 「梁書」巻54の「東夷」には、 
 「五年。隆死。詔復以其子明持節督百濟諸軍事綏東將軍百濟王。號治城固麻〔〔普通(年号)〕五年〔524〕。隆〔=武寧王〕死。詔して復(また)其の子明〔=聖王〕を以て「持節督百済諸軍事綏東将軍百済王」とす。治むる城を号して固麻と曰ふ。〕
 とある通り、「」は「固麻(こま)」であった。
 〔動物名〕は現代朝鮮語では「(コム)」である。 当時は「固麻」という発音が「」を意味したことによると見られる。
 「コムナリ」の「ナり」の部分については、現代朝鮮語の「나루터(ナルト):船乗り場、渡し場」が、「ナリ」に「津」が当てられたことに関係するのかも知れない。
 三国史記を見ると、同書が成立した1145年には正式表記が「熊津」になっている。
 ただ、書紀の音仮名「久麻那利」が「クマナリ」であることを疑う余地はない。 にも拘わらず〈釈紀〉が「コムナリ」との訓を付すのは、釈紀が書かれた鎌倉時代に知られていた熊津の発音が「コムナリ」であったことによると思われる。
《日本旧記》
 原注は、「久麻那利に遷都したのは文周王の時であるが、日本旧記では末多王(東城王)の時とする」を誤りとする。 誤りの訂正に関する部分はここまでである。 次の「久麻那利者…」は別文で、 「任那国の下哆唎県内の一部地域を占める邑である」と読める。ただし、次項で述べるようにこの場所は、現在久麻那利に比定される公州からは遠く離れている。
《下哆呼唎県》
 継体天皇紀四年に「任那国。上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁四県 … 此四県近-連百済、遠-隔日本… 今賜百済為同国〔任那国の上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁四県、この四県は百済に近く連ね、日本に遠く隔つ。今百済に賜りて同じき国とす。〕 とあり、百済から百済に割譲した四県に、下哆唎県が含まれている。
《大意》
 二十一年三月、 天皇(すめらみこと)は、百済が高麗によってに敗北させられたと聞き、 久麻那利(くまなり)を汶洲(もんす)王に賜り、その国を救い復興させました。
 時の人は皆、 「百済の国、一族は既に亡びたが倉下に聚まり憂えて、 実に天皇の御霊(みたま)のふゆを頼り、更にその国を作った。」と言いました。 【汶洲王、蓋鹵(がいろ)王の同母の弟である。 日本旧記に、 久麻那利を末多王に賜ると云う、 蓋しこれは誤りである。 久麻那利は、任那国の下哆呼唎県(しもたこりこおり)を分けた邑(むら)である。】


まとめ
 百済の再生に倭国が関わったと書くのは、我田引水である。
 二十~二十一年条に書かれていることは、
 高麗王が百済の残党狩りを中止させたのは、百済は古くから倭に仕え、これ以上追いつめると日本が救援に乗り出してくるのを恐れたからである。
 熊津を都として賜った〔=日本が建都を援助した〕
 当時の人々は、百済の復興は天皇の御霊のふゆに因るものだと言って称えた。
 の三点である。他の個所では派遣した将軍名を書くが、ここにはそれがないので派兵はなかったと見られる。 実際には何もしていないが、その裏に天皇の神通力があったかの如く描くのである。
 慰礼城の陥落は、『百済記』と『三国史記』共に蓋鹵王二十一年〔乙卯;475〕で、一致する。
 乙卯年は雄略天皇十九年にあたり、書記でこの事件が起ったとする同二十年に近いから、倭国の記録にも残るほどの大事件であったのだろう。 それほどの大事件だから、すかさずそこに倭国の関与を潜り込ませたように思われる。
 ただし、『三国史記』が逆に書紀を参考にして年を決定した可能性もあるから、油断はできない。