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2018.10.19(fri) [14-16] 雄略天皇[16] ▼▲ |
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29目次 【十四年正月】 十四年春正月丙寅朔戊寅、身狹村主靑等、共吳國使。……〔続き〕 30目次 【十四年四月】 夏四月甲午朔、天皇欲設吳人……〔続き〕 31目次 【十五年】 十五年、秦民分散臣連等、各隨欲駈使、勿委秦造。……〔続き〕 32目次 【十六年~十八年】 《詔宜桑国県殖桑又散遷秦民使献庸調》
垂仁天皇三十二年に「野見宿祢。是、土部連等之始租也。」とあり、土部連は埴輪造りの部の伴造〔とものみやつこ;統率者〕としてスタートしている (第110回《埴輪の由来(2)》)。 遡って神代紀には、天照大神・素戔嗚尊の誓約の結果生じた第二の男子神、天穂日命〔あめのほのひのみこと〕を「土師連」の祖とする。 記の垂仁段で言及されるのは、職業部としての「土師部」のみである(第121回)。 また、誓約の段においては、天之菩卑能命の末裔については何も触れられない (第46回)。 贄土師部は、書いてある通り朝廷の御食の器を献上する。〈新撰姓氏録〉に〖大和国/天孫/贄土師連/同神〔=天穂日命〕十六世孫意富曽婆連〔おほそばのむらじ〕之後也〗とある。 贄土師連は贄土師部の伴造である。 《使進応盛朝夕御膳清器者》 使進応盛朝夕御膳清器者の骨子は、 「使レ進二〈応盛…器〉一」〔〈応盛…器〉を進(たてまつ)らせる〕である。 「応レ盛二朝夕御膳一」〔朝夕の御膳を盛るべき〕は、「清器」を連体修飾する。 問題は「者」を①接続詞として「(清器を)進(たてまつ)らしめば」、②名詞として「(清器を)つくるひと」のどちらに解釈するかということである。 この一節のみを読めばやはり①が自然で、〈時代別上代〉はじめ、一般的な解釈はすべてこれである。 しかし、厳密に読むと「清器」(すゑうつはもの)という〈物〉を求めたのに対して、吾笥が「私民部」という〈人〉を献上するという捻じれが生じている。 ②を裏付ける材料としては、ある役割を負った人を、漢訳して「~者」と表現する例のはなはだ多いことが挙げられる。 例えば、十四年四月に「共食者」(あひたげひと)や「負嚢者」がある十四年四月)。 また、九年に視葬者(はぶりのつかさ)がある(【九年五月】)。 さらに〈神代記〉には、葬儀における役割を担う人が、持傾頭者(きさりもち)・持帚者(ははきもち)・ 尸者(ものまき)・舂者(つきめ)・哭者(なきめ)・造綿者(わたつくり)・宍人者(ししびと) と表現される (第75回)。 よって、清器者は「すゑものつくり」〔陶器を作る人〕の漢訳である可能性は高い。「清器」は、「陶器」の漢語レベルの美称であろう。 あるいは、土師器と比較して洗練された器という意味かも知れない。 即ち、「使レ進下応レ盛二朝夕御膳一清器者上」 〔朝夕の御膳を盛るべき清器をつくる者(ひと)を進(たてまつ)らしむ〕と訓んで文を完結させる。 《大意》 十六年七月、 詔を発して 「桑を栽培するに適する国県は桑を植えよ。 また、秦(はた)の民を分散して移し、庸調を献上させよ。」と命じました。 十月、 詔を発して漢部(あやべ)を集め、 その伴造(とものみやつこ)〔部の統率者〕を決めさせ、姓(かばね)を賜り直(あたい)としました。 【ある記録では、漢使主(あやのおみ)らに賜ったもので、姓を賜って直としたという。】 十七年三月二日、 土師連(はにしのむらじ)らに詔を発して、 朝夕の御膳を盛るべき清き陶器〔すえもの〕造る人を奉らせました〔須恵器職人を募集しました〕。 そして、土師連(はにしのむらじ)の租の吾笥(あけ)が、 攝津国の来狭々村、 山背〔後の山城〕国の内村・俯見村〔後の伏見村〕、 伊勢国の藤形村(ふじかたむら)、 及び丹波(たには)・但馬(たじま)・因幡(いなば)に私有する民部(かきべ)を献上し、 贄土師部(にえのはにしべ)と名付けられました。 《伐伊勢朝日郎》
「物部菟代宿祢」は、<wikipedia> では石持の子に位置づけられているが、 天孫本紀、新撰姓氏録には菟代宿祢という名前は出てこない。姓氏家系大辞典その他の資料にもなく、今のところ出典を確かめることができない。 なお、天孫本紀の系図には石持連公の名前は二か所に出てくる(右図)。 《朝日郎》 朝日郎の訓には、アサケノイラツコ・アサヒノイラツコが見られる。 まず、それぞれの意味を見ると、 ・あさひ…[名] 朝日。 ・あさけ(朝明)…[名] 明け方。〈倭名類聚抄〉{伊勢国・朝明【阿佐介】郡}〔あさけ〕。 である。 〈仮名日本紀〉は「朝日朗【あさひのいらつこ】」と訓む。 一方、岩波文庫版は「未詳」としつつも、地名「朝明」があることから「今アサケノイラツコと訓む。」とする。 ネットで検索すると、「あさひのいらつこ」は6件、「あさけのいらつこ」は186件だから、 一般的には「あさけ」である。 検索語に、「"朝日郎" "あさひのいらつこ"」、「"朝日郎" "あさけのいらつこ"」を用いた結果。 しかし、万葉集を見ると「朝日」は5例あるが、 「(万)0178 朝日弖流 あさひてる」「 (万)3042 朝日指 あさひさす」など、 「朝日」はすべて「あさひ」と読むべきものである。 それに対して「あさけ」の漢字表現は、すべて「朝明」(4例)だから、 一般に「朝日」を「あさけ」と訓むことはなかったと思われる。 日本書紀に限って「朝日」を「あさけ」と訓むのは上代の一般的な事実を捻じ曲げるもので、現代における特殊な流儀と言うべきであろう。 《筑紫聞物部》
《肉》 しし(宍)は、食肉に限らず、身体の筋肉も意味する。 仲哀天皇段で、その皇子品陀和気命〔応神天皇〕は、生まれながら「如レ鞆宍生二御腕一」 〔鞆のように、御腕の「しし」が盛り上がっていた〕と形容する (第138回)。 《大意》 十八年八月十日、 物部菟代宿祢(もののべのうしろのすくね)・物部目連(もののべのめのむらじ)を遣わして、 伊勢の朝日郎(あさひのいらつこ)を征伐させました。 朝日郎は官軍至ると聞き、 直ちに伊賀の青墓(あおはか)で迎え撃ち、欲しいままに矢を射る能力を誇り、 官軍に 「朝日郎の手が射た矢は、さあ誰に当たるかな。」に叫び、 その放たれた矢は、二重の鎧を突き通して、官軍は皆恐れました。 菟代宿祢、敢て進撃せず、一夜を挟んで二日間、敵に向かって待機していました。 すると、物部目連は自ら太刀を執り、 筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)大斧手(おおおのて)に、楯を執って軍中を叱咤させ、共に進みました。 朝日郎はそれを遙かに見て、大斧手の楯と二重の鎧に矢を貫通させ、 併せて体の肉に一寸〔漢代は2.3cm、隋唐では3.0cm程度〕入りました。 大斧手は物部目連を楯の後ろに護り、目連は朝日郎を捕らえて斬りました。 それによって、菟代宿祢は、恥ずかしさに克てず、七日間復命しませんでした。 天皇は侍臣に「菟代宿祢は、どうして復命しないのか。」と尋ねたところ、 讃岐(さぬき)の田虫別(たむしのわけ)という者がいて、進み出て 「菟代宿祢は怯えて、 一夜を挟んで二日間、朝日郎を捕えることができませんでした。 そこで物部目連が 筑紫聞物部の大斧手を率いて、朝日郎を捕らえて斬ったのでございます。」と奏上しました。 天皇はこれをお聞きになり怒り、 菟代宿祢の所有する猪名部(いなべ)を奪い、物部目連に賜りました。
《攝津国来狭々村》 大阪府能勢町に「久佐々神社」があり(大阪府豊能郡能勢町宿野274-1)、 〈延喜式〉神名帳{摂津国/能勢郡三座【並小】/久佐々神社}の比定社となっている。 〈五畿内志〉巻六十一、摂津国「能勢郡」には「久佐佐神社【在二宿野村一】」がある。 能勢町教育委員会による掲示板から抜粋すると、 「和銅六年〔712〕に創建されたと伝えられる『延喜式』内の神社」で 「他に『久佐々大明神』〔中略〕など多くの呼び名があるが、 これは往古より、広い地域まで知られた『大宮』であることに起因するのであろう。 しかし当初の社名について、日本書紀雄略天皇〔中略〕摂津国来狭狭村〔中略〕、 社名もこれに拠ると考えられる。」 「当社の文書断簡に『祭神天穂日命、御合殿祭神賀茂別雷神、右大同年間(806~9)奉斎ス』 とあり、『天穂日命』は、前述の贄土師部の遠祖であることから、当初は『天穂日命』 が奉斎されていたように思われる。」と述べる。 《山背国内村》
《山背国俯見村》 〈五畿内志-上〉山城国之六「紀伊郡」に、 「【村里】伏見【日本紀作二俯見一 旧九村。曰石井。曰曰森。曰船戸。曰久米。曰山。曰北尾。曰北内。曰即成院。曰法安寺是也。 当今多為二町名一。…】」 とある通り、「俯見」は伏見村であるとする。 現在の京都府伏見区の主要部分にあたる。 《伊勢国藤形村》 高茶屋大垣内遺跡が久居市から津市南部までの一帯にあり、津市藤方はこの遺跡から約1km北にあたる。 奈良文化財研究所-高茶屋大垣内遺跡(第3・4次)発掘調査報告 によると、土師器焼成坑が検出され、飛鳥・奈良時代のものの他に、「古墳時代後期の遺物を多く出土する焼成坑もある」という。
大阪府、陶邑窯跡群(堺市・狭山市など)は須恵器の窯跡で、5世紀前半に生産を開始したとされる。 崇神天皇紀では、その陶邑(すゑむら)において大田田根子が発見された (第111回【書紀】《大田田根子の探索》)。 また、同じ崇神紀で、「天日槍之従人」が近江国坂田郡鏡村の陶人となったと述べ、鏡山には実際に須恵器の窯跡が多数ある (【天日槍】)。 5世紀末以後の西日本の窯跡には、牛頸窯跡群(福岡県)、東播地域窯跡群(兵庫県)がある。 こうしてみると、須恵器の窯跡の分布は、十七年条に列挙された「来狭々村」などとは全く合致しない。 これは、同じ書紀でも崇神天皇紀における陶邑・鏡村陶人は遺跡との対応があり現実感があることと比べると奇妙で、困惑させられる。 とは言え、何とか辻褄の合うようなストーリーを組み立てることはできないだろうか。 《各地の土師器職人》 まず、藤形村で確認された土師器焼成坑は他の村にもあったが、比較的簡便で遺跡が残りにくいものと仮定する。 すると、吾笥の支配下にあった各地の土師部から、一定数を陶邑(あるいは鏡村?)に集め、組織的に須恵器の生産を開始したと解釈することができる。 このストーリーを念頭に置いて十七年条を読むと、「詔」は清器という〈物〉ではなく、やはり〈造る人〉を求めたと考える方が合い、 「清器」という表現からは、素朴な「土師器」ではなく、精緻な「須恵器」を造れという詔の意図が際立つ。 須恵器は、穴窯〔あながま;地下トンネル構造。数m~数十m〕を使って高温(1200℃)で焼くが、 土師器は小規模な焼成坑を地面の上から掘って焼くもので、比較的低温(800℃)である。 穴窯は大型でしっかりした構造だから遺跡に残るが、焼成坑は残りにくいだろう。 須恵器は5世紀に半島から工人が渡来して伝えたものとされ、その一族の始祖伝説が崇神紀の天日槍に取り入れられたと考えられる。 雄略十六年頃に、須恵器の生産を組織化するために各地から土師器の工人を集め、少数の須恵器技能者に指導させたと考えることは自然である。 よって、ひとまずこのストーリーを仮説としておく。
【伊賀国青墓】 アヲ(青)は、〈倭名類聚抄〉{伊賀国・伊賀郡・阿保郷}のアホの訛りか。 江戸時代には阿保村が存在したが、その近くに美旗古墳群と近代古墳(三重県伊賀市上神戸近代2761)があった。 《近代古墳》 近代古墳の調査報告が、 「天道山古墳群発掘調査報告」 ( 三重県埋蔵文化財センター/所蔵品・図書データベース)の中にある。 右下の古墳配置図は、同報告中の原図を書き改め、伊賀市阿保の範囲を加えたものである。 同報告から一部を抜粋して引用すると、 ● 近代古墳から、武具(冑・短甲・頸甲・肩甲)、 武器(鉄刀・鉄槍・鉄鋒)、土器(須恵器、土師器)、埴輪(円筒埴輪の一部)が出土している。 ● 「伊賀では中期後葉段階〔5世紀後半〕に、圧倒的な規模を誇る美旗古墳群との古墳と 比べると、規模は小さいが、帆立貝型の古墳が築造される。」
木津川は、伊賀市から畿内に向かって流れている。木津市から北に折れ曲がるが、 その南の平城山丘陵を経て、上ツ道・中ツ道・下ツ道が藤原京への交通路であった (第113回【幣羅(へら)の坂】)。 また、初瀬街道が初瀬と伊勢を繋ぎ、やはり近代古墳付近の近くを通る。 《阿保》 〈続紀〉延暦三年〔784〕十一月戊午〔戊戌朔;二十一日〕に、建部朝臣人上等が阿保朝臣姓を賜るように請願した中に、 始祖は「就二伊賀国阿保村一居焉」という一節がある (資料[33])。 時代が下った江戸時代には「阿保村」があり、町村制〔1889年〕で周辺の五村を併せて阿保(あお)村になり、1920年に阿保町となる。 さらに周辺と合併〔1955年〕して青山町、そして伊賀市に編入される〔2004年〕。 江戸時代に阿保村だった区画は、青山町大字阿保→伊賀市阿保〔この時「大字」がつかなくなった〕となる。 〈倭名類聚抄〉の阿保(恐らくアホ)郷は、このようにして現在の伊賀市阿保(アオ)に至る。 《阿保朝臣》 近代古墳の副葬品に武具があることにより、5世紀後半にこの地に独立部族があったとすることには物質的根拠がある。 そして、その末裔が〈続紀〉の「阿保朝臣」となった可能性がある。 またこの地域は木津川・初瀬街道が通る要所であったから、 朝廷が支配下に置こうとする戦いがあり、それが十八年条に書かれたと考えることができる。 近代古墳・美旗古墳群は阿保村からやや離れているが、古墳が集落から離れた郊外に築かれるのは自然であろうと思われる。 地名「青墓」は、古墳を意味する可能性がある。 《青と阿保》 「保」の中国における中古音(隋・唐)は〔pau〕で、それによって飛鳥時代に〔po〕に「保」が当てられ、 後に日本の発音が〔ɸo〕に転じた後も、 中国式の発音とは無関係に「保」が用いられ続けたと考えられる。 〔発音記号ɸは、現在の「フ」の子音〕 〈倭名類聚抄〉は、{阿保}に割注を付していない。これは、特別な訓みではなかったことを意味する。 {信濃国・水内郡}の{大田}には【於保多】と割注が付されていることから見て、〈倭名類聚抄〉の平安中期には「保=〔ɸo〕」で、 割注のない「阿保」が〔aɸo〕であったことは確実である。 よって、続紀の時代の発音は青=〔aɰo〕、阿保=〔aɸo〕で両者は異なり、5世紀後半(雄略朝)から7世紀(続紀)の短い期間に、なおかつ〔ɰ〕→〔ɸ〕という、口唇の緊張を強める方向に発音が変化したとは考えにくい。 従って、「青墓」の青が「阿保」に転じたと単純に決めることはできない。 もしあるとすれば、先に広い地域名〔apo〕があり、そのうち特定の狭い範囲で〔aɰo〕に転じたということである。 別の考えとして、二つの地域〔aɰo〕と〔aɸo〕が隣接していて、その住民の相互交流によって、 〔aɸo〕→〔aho〕→〔ao〕の変化が早まったことも考えられる。 なお、現在の「青山町駅」は、1955年~2004年に存在した「青山町」が駅名のみに残ったものである。 1970年に「阿保駅」から改称。 「青山風土記」/目次昭和60年/「昭和60年8月号」によると、 「青山町」の名称は、町民から公募した中から町村合併委員が決めたという。 同書は「阿保山が青山になり、その青山から青山町ができたわけである。」と述べる。 即ち「青」の歴史的仮名遣い「アヲ」が忘れ去られた時代には、「阿保」を「青」に置き換えることに抵抗はないのである。 従って、書記の「青墓」と現代の「青山」とは、全く別ものであることが解る。 まとめ なぜ陶器を「清器」と書いたのか。「者」は接続詞という解釈でよいのか。 土師連の村々と陶窯跡の分布が一致しないのは何故か。などの疑問を、所詮は似非歴史書だからと放置せずに突き詰めてみたところ、 須恵器の生産を大規模化するために各地から土師器の工人を集めた歴史的事実が浮かび上がってきた。 正格漢文としての文法・漢字の原意に立ち戻って厳密に読み、また考古学の所見と噛み合わせることによって、書紀の個々の記述は新しい価値を生むかも知れない。 さて、菟代宿祢は猪名部を没収されたが、命を奪われることはなかった。軽い罪で済んだのは、やはり天皇を支えた物部氏への遠慮であろうと思われる。 しかし、菟代宿祢の名が天孫本紀の系図の中にないのは、物部氏全体にとって恥ずべき人物だったのだろう。 |
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2018.11.03(sat) [14-17] 雄略天皇[17] ▼▲ |
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33目次 【十九年~二十一年】 《高麗王大発軍兵伐尽百済》
雄略天皇は、「安康天皇には妃を娶せたときに大いに世話になり、また立派な陵を完成させているから頭が上がらなかった」と見た (第196回【宇多弖物云王子】)。 このような感謝の念から穴穂天皇を称え、その名を後世に残すために御名代「穴穂部」を置いたのである。 〈姓氏家系大辞典〉は「安康天皇の御名代の民なり。」 「こは安康天皇の御諱穴穂を後世に伝えんとしての部民なり。天平五年の右京計帳に穴太部某見ゆ。」と述べ、 河内、大和、下総、常陸、伊賀の各国に穴穂部(あるいは孔王部(あなほべ))を見出している。 垂仁天皇段において、皇子伊許婆夜和気王の子孫が、佐保の穴穂部の統率者となり、 「沙本穴太部之別(さほのあなほべのわけ)」を名乗ったのではないかと考えた (第116回)。 《高麗の攻撃》 高麗が百済に攻勢をかけ、漢城が陥落したことが、『三国史記』に記述される (《久麻那利》の項参照)。 その年は、蓋鹵王二十一年〔乙卯;475〕とされ、 書記が引用した『百済記』と一致するが、雄略天皇二十年〔丙辰;476〕とは一年の差がある。 『宋書』(巻九十七)によれば、升明二年〔 戊午;478〕に倭が遣使した (倭の五王)。 その上表文の内容を搔い摘んで示すと、 「句驪無レ道。図レ欲二見吞一。掠二-抄辺隸一。虔劉不レ已。」 〔高句麗は無道で、見呑しようと図り、辺りの隸を掠抄し〔掠め取り〕虔劉〔殺害〕をやめない〕。 そして、百済は「居二-在諒暗一。不レ動二兵甲一。是以偃息未レ捷。」 〔諒暗〔喪所〕にあり、兵甲を動かさず、偃息し〔息をひそめ〕未だ捷〔勝〕てない〕状態であるから、 「義士虎賁。文武効功」が求められる。倭国がその役割を果たそう。ついては 「窃自化開府儀。同三司其余咸各仮授」 〔窃〔ひそかに;遜って言うことば〕、開府儀を化す自(よ)り同じく〔新羅や任那に開府が認められているのと同様に〕 三司を其の余咸(みな)各(おのおのに)仮授する〔まだ認められていない百済にも開府を認めてほしい〕〕と要請する。 このように、高麗の攻勢によって百済が窮地に陥っている事態を挙げ、百済を救うために倭国の管理下に置きたいと要請する。 倭国は以前から「使持節都督〈倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓〉七国諸軍事安東大将軍倭国王」の称号を求め、 この百済が高句麗の攻勢にさらされた機会に、再びこの上表文によって百済への支配権を要求した。 しかし、回答は倭王武を「使持節都督〈倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓〉六国諸軍事安東大将軍倭王」に任ずるというもので、倭国の要請は叶わなかった。 上表文の内容は、書紀所引の『百済記』に書かれた高麗の攻勢と噛み合っている。倭王武が雄略天皇を指すのは確実であろう。 《不可矣》 「不可矣」は「ゆるさず」であるが、「ゆるしたまはず」と自敬表現にした方が自然である。 もともと自敬表現は、飛鳥時代以来の宣命の類に由来すると想像される。 宣命は、天皇の詔を官僚が法的な文書として作文した結果生じたものと考えられる。 宣命には、天皇が人民に命ずるものとする形式と、官僚が天皇に敬意を払いながら人民に示すという二重性がある。 その言い回しが習慣化して、文学に波及したと想像される。 倭の歴史書の立場において、百済王に対して尊敬表現を用いる謂れはない。 しかし、王と臣との会話文を表現する場合には、それを倭語によって表す限り、両者の関係性から尊敬表現が混ざるのは自然である。 ここでは漢語による原文の段階において、既に謙譲表現「請」(ねがはくは)が入っている。 《倉下》 〈釈日本紀〉は「倉下」の読みを示さないので、地名とは考えなかったようである。 しかし古訓「ヘスオト」は一般的で、次の各書にも引用されている。 ●薗田香融『日本古代財政史の研究』塙書房1981;「書記の傍訓は本来のものではないが、かなり古い訓を伝えているようだから、「ヘスオト」という韓語は、この旧伝とともに古くからあったものと解したい。」 ●畑井弘『天皇と鍛冶王の伝承―「大和朝廷」の虚構』現代思潮社1982; 「この「倉下」を古訓は「ヘスオト」とする。何故そう訓まれてきているのか。管見〔自分の見解を遜っていう語〕にしてその所以を解いた先学の説を見ない。」 「「倉下」は明らかに地名だ。これを古訓して「ヘスオト」とするのは、…この地のもっていたある種の個性を示す意訓に違いない」、氏はその「ある種の個性」とは、「扶余系の渡来集団」の聖地のことだという。 彼らは飛鳥に居住し、鳥見(とみ)山をヘスオトとしたという論を展開する。 さて、〈釈紀〉は古訓「ヘスオト」を採用しない。しかし、この朝鮮の言葉を傍訓として加えた学派が存在したわけである。 そのヘスオトが、「倉の下」を意味する普通名詞なのか、或いは地名なのかは判断のしようがない。 しかし、この箇所を素直に読めば「食糧を求めて倉に集まってきたが、既に倉は空で、その下で途方に暮れた」と読める。 一方、後文の「時人皆云」にある「倉下」は、地名のように見える。 最初は本当の「倉の下」であったが、遺された僅かの人数が決起して国を再建した記念すべき土地だから、そのまま地名に転じたことも考えられる。 単に「倉の下」の意味だとすれば、取り立てて古い朝鮮の言葉を用いる意味はない。また地名の場合も、 書紀原文の段階では「久麻那利」のように、現地読みを表すときには音仮名を用いている。 よって、「倉下」については「現地読みは示されていない」と受け取るのが妥当で、倭語で訓むべきであろう。 なお、倉下が地名だとすれば、現地名「クラジ」を「倉下」の借訓によって表した可能性もある。 《尉礼》 公州市の公式サイト日本語版の「主要な沿革」のページに、 「慰礼城」への言及がある(《久麻那利》の項(後述)参照)。 『三国史記』を見ると「責稽王」〔286~298〕に、「葺二慰礼城一」〔葺=屋根を葺く〕とある。 蓋鹵王二十一年にある「漢城」は「慰礼城」の別名ということになる。 『世界大百科事典』(Web版)には「王都慰礼城の位置は、近年の発掘調査の結果、ソウル市城東区風納里とする説が有力となった。」とある。 書紀の「尉礼」は「慰礼」のことだと思われる。 〈釈紀〉は「ねぎらふ(労ふ)国」と読むところを見ると、慰礼城の存在を知らなかった。 さらに「尉礼(慰礼)」を熟語として「労う」と読むことさえも妥当ではない。なぜなら、〈中国哲学書電子化計画〉には「尉礼」が数箇所、「慰礼」が一か所あるが、 「都慰〔官職名〕、礼二文伯一時」など、たまたま続いた例ばかりで、熟語としては存在しないからである。 《大意》 十九年三月十三日、。 詔して穴穂部(あなほべ)を置きました。 二十年冬、 高麗(こま)王は、大挙して軍兵を発し、百済を征伐し尽くしました。 そこに少しばかり残された兵衆がいて、倉の下に集まっていましたが、 兵糧は既に尽き、深く憂え泣きました。 そして、高麗の諸将は王に、 「百済の心構えは常になく〔意気軒昂で〕、臣はしばしばこれを見て 不覚にも呆然自失となり、更にはびこることを恐れます。 願わくば、これを追い払ってくださいませ。」と申し上げました。 王は、 「不可である。 寡人(かじん)〔=私;王が遜っていう語〕の聞くところでは、 百済国は日本国(やまとのくに)の内官家(うちつみやけ)となり、その由来は遠く久しい。 またその王が天皇に取り入り仕えていることは、近隣に共に知られている。」と言って、 とうとう止めさせました。 【百済記(くたらのふみ)に云ふ。 蓋鹵王乙卯年〔雄略天皇十九年;475年〕冬、 狛(こま)〔高麗〕の大軍が来襲し、大城を攻めること七日七夜、王城は陥落し、 遂に尉礼の地を失い、 国王及び、皇后、王子らは、皆敵の手で没した。】 《百済為高麗所破》
『百済新撰』の引用には、この名前は出てこなかった (五年四月)。 書記では王子も殺され、蓋鹵王の同腹の弟を立てて汶洲王としたとするが、『三国史記』では蓋鹵王の子である。 百済の書としては、王子まで殺されて王を継承できなかったと書くのは不名誉に過ぎるから、この点に関しては書紀の方が真実に近いかも知れない。 《久麻那利》
「熊津」について、Wikipedia韓国版は 「금강은 호수처럼 잔잔하다고 호수 같은 강 즉 호강이라고 불리기도 하였고, 금산군에서는 적벽강, 부여군에서는 백마강, 공주시에서는 웅진강(熊津江)이라고 부르기도 한다. 」 〔錦江は湖のように穏やかな川と呼ばれ、錦山郡ではジョクビョクガン〔Red River〕、扶余郡では白馬江、公州市では、熊津川(熊津江)と呼ぶこともある。〕 と述べる。 「熊津」は、現在の「公州市」である。 公州市の公式サイト日本語版の同市の沿革から関係部分を抜粋すると、
熊津への遷都については、『三国史記』巻26の「文周王」に、 「蓋鹵在位二十一年。高句麗來侵圍二漢城一。蓋鹵嬰城自固。使二文周一求二救於新羅一。得二兵一萬一廻。麗兵雖レ退城破王死。 遂卽位。性柔不斷。而亦愛民。百姓愛之。 冬十月。移二都於熊津一。」 〔蓋鹵〔王〕在位二十一年〔475〕。高句麗来侵し漢城を囲む。蓋鹵、城に嬰(こも)りて自ら固む。文周を使はし新羅に救ひを求めて兵一万を得て廻(めぐ)らす。〔高句〕麗兵退けど城破れ王死す。〔中略〕 冬十月。都を熊津に移す。〕――嬰城:城壁をめぐらして、その中に立て籠もる。 と書かれる。これにより、高麗との国境が図のように変わったと想像される。 それでは、「熊津」がなぜ「久麻那利」なのか。 「梁書」巻54の「東夷」には、 「五年。隆死。詔復以二其子明一爲二持節督百濟諸軍事綏東將軍百濟王一。號二所レ治城一曰二固麻一。」 〔〔普通(年号)〕五年〔524〕。隆〔=武寧王〕死。詔して復(また)其の子明〔=聖王〕を以て「持節督百済諸軍事綏東将軍百済王」とす。治むる城を号して固麻と曰ふ。〕 とある通り、「熊」は「固麻(こま)」であった。 熊〔動物名〕は現代朝鮮語では「곰(コム)」である。 当時は「固麻」という発音が「熊」を意味したことによると見られる。 「コムナリ」の「ナり」の部分については、現代朝鮮語の「나루터(ナルト):船乗り場、渡し場」が、「ナリ」に「津」が当てられたことに関係するのかも知れない。 三国史記を見ると、同書が成立した1145年には正式表記が「熊津」になっている。 ただ、書紀の音仮名「久麻那利」が「クマナリ」であることを疑う余地はない。 にも拘わらず〈釈紀〉が「コムナリ」との訓を付すのは、釈紀が書かれた鎌倉時代に知られていた熊津の発音が「コムナリ」であったことによると思われる。 《日本旧記》 原注は、「久麻那利に遷都したのは文周王の時であるが、日本旧記では末多王(東城王)の時とする」を誤りとする。 誤りの訂正に関する部分はここまでである。 次の「久麻那利者…」は別文で、 「任那国の下哆唎県内の一部地域を占める邑である」と読める。ただし、次項で述べるようにこの場所は、現在久麻那利に比定される公州からは遠く離れている。 《下哆呼唎県》 継体天皇紀四年に「任那国。上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁四県 … 此四県近二-連百済一、遠二-隔日本一。… 今賜二百済一合二為同国一。」 〔任那国の上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁四県、この四県は百済に近く連ね、日本に遠く隔つ。今百済に賜りて同じき国とす。〕 とあり、任那から百済に割譲した四県に、下哆唎県が含まれている。 《大意》 二十一年三月、 天皇(すめらみこと)は、百済が高麗によってに敗北させられたと聞き、 久麻那利(くまなり)を汶洲(もんす)王に賜り、その国を救い復興させました。 時の人は皆、 「百済の国、一族は既に亡びたが倉下に聚まり憂えて、 実に天皇の御霊(みたま)のふゆを頼り、更にその国を作った。」と言いました。 【汶洲王、蓋鹵(がいろ)王の同母の弟である。 日本旧記に、 久麻那利を末多王に賜ると云う、 蓋しこれは誤りである。 久麻那利は、任那国の下哆呼唎県(しもたこりこおり)を分けた邑(むら)である。】 まとめ 百済の再生に倭国が関わったと書くのは、我田引水である。 二十~二十一年条に書かれていることは、 ① 高麗王が百済の残党狩りを中止させたのは、百済は古くから倭に仕え、これ以上追いつめると日本が救援に乗り出してくるのを恐れたからである。 ② 熊津を都として賜った〔=日本が建都を援助した〕。 ③ 当時の人々は、百済の復興は天皇の御霊のふゆに因るものだと言って称えた。 の三点である。他の個所では派遣した将軍名を書くが、ここにはそれがないので派兵はなかったと見られる。 実際には何もしていないが、その裏に天皇の神通力があったかの如く描くのである。 慰礼城の陥落は、『百済記』と『三国史記』共に蓋鹵王二十一年〔乙卯;475〕で、一致する。 乙卯年は雄略天皇十九年にあたり、書記でこの事件が起ったとする同二十年に近いから、倭国の記録にも残るほどの大事件であったのだろう。 それほどの大事件だから、すかさずそこに倭国の関与を潜り込ませたように思われる。 ただし、『三国史記』が逆に書紀を参考にして年を決定した可能性もあるから、油断はできない。 |
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2018.11.24(sat) [14-18] 雄略天皇[18] ▼▲ |
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34目次 【二十二年~二十三年四月】 《以白髪皇子為皇太子》
〈釈日本紀〉「述義-雄略天皇」に、『丹後国風土記』逸文(以後〈風土記〉)などが引用されている。 また万葉集に浦嶋伝説を詠んだ歌(9巻-1740)がある。それらについて〈浦嶋子〉のページを特設した (浦島子[1]~[4])。 《逐》 「逐」は文意に合わず、「相逐」という言い方もそぐわない。 〈風土記〉では「従往」・「携レ手徐行」、『本朝神仙伝』では「引級」〔級は恐らく袂などの誤り〕、 万葉歌では「携」となっている。 ここでは、本来は「相遂」であったが、初期の段階で誤りが生じたと見るべきであろう。 前文の「以為婦」を、ごく一般的に「以為」を「おもふ」、「婦」を「つま」と訓めば「欲妻」と同じことで、 その思いを「二人で遂げる」と読み取るのが、最も自然なのである。 《別巻》 「別巻」という語が出てくるのは、日本書紀の中でここが唯一である。 ここで中国に目を転ずると、漢書、宋書などの歴史書は、基本的に本紀・列伝・志で構成される。 列伝は主に著名な人物の伝記であるが、末尾の数巻に周辺国の地誌が当てられていることが多い。 唐による圧迫を感じていた天武天皇は、対抗するために自国にも国の形を確立することが必要だと考え、その一環として歴史書の製作を命じたと思われる。 中国に匹敵するものを作ろうとしたのなら、その歴史書には本紀以外に付属巻が予定されていたとしても不思議はない。 しかし実際の別巻としては、失われた「系図一巻」があったとされる以外、とりかかった形跡は見えない。 とは言え、「別書」「別伝」ではなく「別巻」と書かれる以上、必ず日本紀の一部として想定されていたと考えるべきであろう。 巻十四はα群の最初だから、これが書き始めだったかも知れない (第193回《α群》)。 ごく初期には、後の風土記に通ずるような「別巻」が予定され、後に中止されたことも考えられる。 『丹後国風土記』には、浦嶼子(うらしまのこ)伝説の原型を伊与部馬養が書いたと記されるが (浦嶋子[1])、 それは本来「日本紀別巻」のためのもので、後に丹後国風土記に利用されたとする想像も可能である。 《蓬萊山》 浦嶋子の行き先は、書記では「海神(わたつみ)の宮」や「海龍宮」ではなく「蓬莱山」である。 海底の国に言ったのは山幸彦であって、浦嶋子は海に浮かぶ蓬萊山に行ったのである。 〈浦嶋子〉のページで論じたように、民衆の口承説話では海龍宮(わたのたつのみや)であるが、知識層が文字で書くときには道教思想に遵って蓬莱山に行き先を変える。 しかし、「入海」という語には、鉛直に水中に沈む意味と、水平に遠洋に向かうという二重の意味がある。 前者なら海神の宮を連想させるから、民衆説話の要素が紛れ込んでいると言える。 《大意》 二十二年正月一日、 白髪皇子(しらかのみこ)を皇太子(ひつぎのみこ)に立てました。 七月、 丹波(たんば)の国、余社郡(よさのこおり)の管川(つつかわ)の人、瑞江(みづえの)浦嶋子(うらしまのこ)は、 舟に乗って釣をして、遂に大きな亀を得ると、 すぐに乙女に変わりました。 そこで浦嶋の子は心に適って妻にしたいと思い、互いにその思いを遂げて海に入り、 蓬萊山に到り、仙人たちを巡り見ました。 物語は別巻にあります。 《百済文斤王薨》
文斤王という名前は、ここで初めて出てくる。 遡って、雄略天皇紀にこれまでに登場した百済王について、要点をまとめよう。 五年条において、 蓋鹵王・琨支王子(昆支)・末多王(東城王)・武寧王(斯麻王)の血縁関係が示される。 そこでは、武寧王は蓋鹵王の子とされる。 武寧王を身籠った女は琨支王子の妻に下賜され、倭国に渡る途中の島で武寧王を産み、 後に倭国で末多王(東城王)を産むという話になっている。 二十年条・二十一年条では、尉礼城が陥落して蓋鹵王が殺され、汶洲王が立ち久麻那利に遷都したことを述べる。 尉礼城陥落の件は、『百済記』からの引用として書かれる。 書紀所引『百済記』の「乙卯年」は〈三国史記〉と一致している。 「汶洲王」は、〈三国史記〉でも文周王の別名として出てくるから、書紀も文周王を記述したことになる。 〔もっとも、逆に三国史記の方が書記を見て「或作汶洲」を書き加えた可能性もある。〕 文斤王に戻ると、 東城王(末多王)が即位した「雄略二十三年」は、三国史記による即位年「己未年」と一致している。 その直前の王は、三国史記では「三斤王」、書紀は「文斤王」とする。その他の王については両者が一致するから、 文斤王は、三斤王に相当することになる。 《天王》 なぜ、ここだけが「天皇」ではなく「天王」なのか。 これには写本による相違があり、岩波文庫版「校異」によれば、 前田本・宮内庁本が「天皇」、熱田本・伊勢本・卜部兼右本が「天王」である。 いくつかの本に残るところを見ると、「天王」は根強い。 書記、百済本記とも天皇や王が即位するとき、その特性を書き添える例は多い。 しかし、他国の王を「幼年聡明」と誉めるのは例外的である。 また、「琨支王」は、ここでは〈三国史記〉と同じ「昆支王」である。 よって、この箇所は百済の書をそのまま書いた印象を受ける。 幾つかの写本も同様に受け止めて、「天王」のままにしたのではないかと感じられる。 《筑紫安致臣/馬飼臣》 〈姓氏家系大辞典〉によると、筑紫安致臣は、 「安致 アチ:九州の地名なるべし。雄略紀二十三年条に「 筑紫安致臣、馬飼臣等、船帥を率ゐて高麗を撃つ」 と見えたれば有勢なる氏なりし事著しけど、他に所見なし。」という。 〈倭名類聚抄〉にも、現代地名にも九州にそれらしい地名はない。 また馬飼臣については、〈姓氏家系大辞典〉は 「馬飼 ウマカヒ 又馬養とも、馬甘ともあり、馬養部の伴造、 並に部民の後裔に他ならず。」として、馬養造、馬甘(造)、馬飼首、馬飼部などを各地に見出している。 そのうち馬飼臣については、「馬飼臣:雄略紀十三年条〔ママ〕に「〔略〕」と見ゆるのみ。」だという。 今のところ、これ以上のことは見いだせない。 《誡勅》 末多王の優秀さを称える文中に、「戒める」は一見そぐわないが、 もともとは漢代に一般官僚、あるいは地方行政長官に宛てた詔勅を「誡勅」という。 ●『太平御覧』〔北宋(10世紀)の類書〕-「漢制度」
●『太平御覧』-『漢書』
この「誡勅」を、岩波文庫版は「いましむるみこと」、〈仮名日本紀〉は「みことのり」と訓んでいる。 直訳して「いましむ」を用いた場合、形式の称ではなくなり、実際に戒めるという余計な意味が加わることになる。 《衛送》 『三国史記』の百済本記には、末多王が倭国から百済に衛送されて東城王になったとは、一言も書いていない。 ところが腆支王即位に遡ると、そっくりな記述がある (神功皇后紀6【三国史記-百済本紀】)。 曰く、阿莘王は十四年〔405〕に薨し、王の弟は去る六年〔397〕に倭国に人質として送っていた腆支を王に立てるために、帰還させることを倭国に要望した。 そのとき、「腆支在レ倭聞レ訃。哭泣請レ帰。倭王以二兵士百人一衛送。」 〔腆支、倭に在りて訃を聞く。哭泣して帰を請ふ。倭王兵士百人を以て衛送す〕。 書紀編纂期に『三国史記』はまだ存在しないが、その前身となった書に同じような記述があったのだろう。 書記はその腆支王についての逸話を、末多王に移したように思われる。 《撃高麗》 『宋書』升明二年〔478、雄略二十二年〕に、倭国使の上表文があり、その中に 「句麗無道。図レ欲二見吞一。掠抄辺隸。虔劉不レ已。毎致二稽滞一。以失二良風一。 雖レ曰二進路。或通或不。…一」 〔句麗無道にして、見吞(けんのん)せんと図り、辺隸〔あたりのしもべ〕を掠抄し〔かすめとり〕、虔劉(けんりう)〔殺害〕不レ已(やまず)、毎(つねに)稽滞(けいたい)〔延滞、稽留〕に致り、以って良風を失ふ。 進路、或いは通じ或いは不(ならず)…といへども〕 とある(倭の五王)。 即ち高句麗が百済を侵略していて、倭国による宋への献貢が滞るのも、しばしば船の進路を妨害されるからだと述べる。 これは外交文書だから儀礼的に宋を重んずる書き方がなされているが、 百済や宋と交易する船がしばしば高句麗に攻撃されたことは事実であろうと思われる。 そのような背景の元に、対馬海峡で海戦があったと思われる。この時期は、上表文の年と噛み合っている。 《調賦益於常例》 百済が朝貢の品を増やしたのは末多王の帰還への感謝の印で、 また水軍の派遣によって倭国がさらに百済を援護したことを述べる。 この事実を淡々と述べるだけの書きっぷりは珍しく抑制的だが、それが却って真実味が増すことは興味深い。 但し、三国史記にはこの時期の倭国の関与は全く書いていない。 《大意》 二十三年四月、 百済(くだら)の文斤王(もんきんおう)は、薨じました。 天王(てんのう)は、 昆支(こんき)王の五子の中、第二子の末多(また)王は幼年にして聡明で、 勅(ちょく)して内裏に召喚し、自ら頭と顔を撫で、 誡勅(かいちょく)を発して、慇懃(いんぎん)にその国を治める王としました。 そして兵器を賜わり、 併せて筑紫の国の軍士五百人を派遣して百済まで衛送(えいそう)させ、 こうして東城(とうじょう)王となりました。 この年、百済の献貢は通常の例を上回り、 筑紫の安致臣(あちのおみ)馬飼臣(うまかいのおみ)らは、水軍を率いて高句麗を攻撃しました。 まとめ 『三国史記』-百済本紀に、倭との関係を示す記述は、毗有王二年〔428年〕を最後にしばらく途切れ、 雄略天皇の在位期間には皆無である。 その理由としては、百済は475年に慰礼城が陥落して蓋鹵王が殺され、 文周王・三斤王の頃はほぼ壊滅状態だったと思われ、記録そのものが残されなかった可能性が挙げられる。 それでも、百済本紀に倭国関係の記述が全くないのは、逆に不自然である。 昆支王が来倭した記述は書紀だけにしかないが、国が混乱した状態で一定期間、倭に亡命する程度のことはあったかも知れない。 高句麗に攻め込まれた百済に対して、倭国が少なくとも援軍を送ろうとしたことは、雄略紀が何かにつけて倭国が関与したかの如く描くことや、宋書に記録された倭使の上表文を見れば明らかである。 しかしここで注目されるのは、梁が天監元年〔502〕に、高句麗王に「車騎大将軍」、 百済王に「征東大将軍」、倭王に「征東大将軍」を横並びにして進号していることである (倭の五王) 〔東夷諸国との外交関係は、南朝宋→斉→遼と引き継がれた〕。 百済としては、高句麗によって酷い目にはあったが、 依然として高句麗とは、南朝宋への朝貢国としての兄弟関係にある。 そこで、高句麗との敵対関係に対して、百済には「宋による調停を期待する」か、「倭国に朝貢する国となって高句麗と立ち向かう」かという選択肢があったが、 結局前者を選択したのではないだろうか。 南朝宋はそれを了としたから、「六国諸軍事安東大将軍」なる称号の「六国」に百済を加えよという倭国の要求に、頑として応じなかったのである。 よってこの時期、倭との間に一定の外交関係が維持されていたのは確かであろうが、 記録としては極力隠したかったのではないかと考えるのである。 |
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2018.12.05(wed) [14-19] 雄略天皇[19] ▼▲ |
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35目次 【二十三年七月】 秋七月辛丑朔、天皇寢疾不預。……〔続き〕 36目次 【遺詔】 《區宇一家》
『隋書』〔636年〕巻二・高祖〔初代文皇帝〕下に、雄略天皇の遺詔の下敷きに用いられたと見られる部分がある。 その該当個所を抜き出す。そのうち省かれたり置き換えがされた箇所は、薄字で示す。
「王公卿士」は都にいて、毎日朝廷に参朝することから「臣連」に置き換えられる。 「刺史」は各州に滞在して職務に当たっているから「国司郡司」に置き換えられる。 必要なときに上京することになる。 「三時」は、農業においては春・夏・秋の重要な作業の時を指す。ここでは一年の中で節目となる宮中行事であろう。 《何不罄竭心府誡勅慇懃》 〈中国哲学書電子化計画〉によると、隋書以外に心と府が続く形を見いだせなかった。「心府」いう熟語は基本的にないと思われる。 「心府」を「国の中心である都」と解釈することは可能であるが、「心-」が前にくる熟語はほぼ全てが「こころ」「心臓」の意味で使われているので、躊躇される。 従って、「…心。府…」と分けた方がよいかも知れない。ただ、二文字の動詞「罄竭」に対して目的語「心」一文字はバランスが悪い。 一方、『太平広記』(北宋、977年頃の類書)に「罄竭心力」があるから、「罄竭心」も同じと見ることができる。 それでは「府誡勅…」とは何か。 『太平御覧』-漢書によれば、「誡勅(かいちょく)」とは「刺史〔州の監督官〕太守〔郡の長官〕及び三辺〔匈奴・南越・朝鮮〕営官〔地方の軍事治安官吏〕」への命令書であった (二十三年四月)。 従って「府〔の〕誡勅」とは「府(都)から地方官吏に向けて発せられた誡勅」の意味にとることができる。 もしこの区切りならば、「何不罄竭心力而府之誡勅是慇懃歟」の意味である。 《既為天下事須割情》
《隋書-1》から続く。
《事須割情》 前段に「誰が子孫に思いを致さないことがあろうか。それでも天下万民のために」が付くことから、 「事須割情」は「星川王への肉親の情を捨て、敢て真相を語る」という文意であることが分かる。 この表現は、「ことわり(理)」の語の成り立ちが、こだわりや迷信などを打ち砕くことによることを感じさせる。 星川王への懸念を表明するまでに、次の4段階の前置きをする。 ① 前段で国造りは順調と言ったが、最善を尽くしたとまでは言えない。 ② 実は私の心には「恨」〔懸念〕がある。 ③ 病状が重くなったのは、自身のことが原因ではない。 ④ 我が子が可愛いのは人情だが、敢て天下のためにありのままを話そう。 こうして、いきなり本題に突入することを避ける。 これは、人の親としての逡巡を表現したものであるが、 加えて天皇が不道徳であるとする印象を薄めようとする意図があるのかも知れない。 《星川王心懐悖悪》
《隋書-2》から続く。
《星川王》 吉備上道臣の女(むすめ)稚媛が生んだ第二子が、「星川稚宮皇子」 (元年三月)。 記には出てこない王である。 書紀での表記は通例「皇子」だが、ここでは「王」である。 清寧天皇紀では再び「星川皇子」に戻るから、遺詔の段は一旦書紀が完成してから書き加えられた可能性が高い。 《悖悪》 「悖」は、音がハイなので熟語では「背-」に通用し、 悖反=背反、悖理=背理などの例がある。 悖悪については、 ・『百度百科』悖恶…違逆凶恶;乖戻不馴。 ・『国際電脳漢字及異体字知識庫』恶…噁・惡〔悪〕の異体字。 ・『太平御覧』-御制上:「商辛。嗟二其悖惡之甚。猶政令不レ行一」 〔商辛〔帝辛;殷30代王〕その悖悪の甚だしく、猶政令行はざるを嗟(なげ)く〕。 これらから、悖悪は「悪」に「悖(道理に背く)」意を加えたもの。実質的には「悪」と大差ない。 《知臣莫若君》 「知臣莫若君」は、多くの漢籍に出てくる。
《皇太子地居儲君上嗣》 〈岩波文庫版〉「校異」によれば、前田本・宮内庁本では「儲君」は本文にはなく、傍書されているという。 下敷きとなった隋書にもなく、 元々の「皇太子地居上嗣」〔皇太子、地に居りて上り嗣ぐ〕の形はごく自然である。 「儲君」を入れる形は、「天皇を嗣ぐ立場として待機していた」意味と解釈できないことはないので、一応これを採用した。 しかし、この位置に「儲君」を挿入するのは文法的にはかなり無理がある。どうしても入れるとすれば「皇太子是儲君地居上嗣」とすべきであろう。 しかしそれ以上によくないのは「地」である。現人神である天皇の皇太子が地にいるという表現は、書紀ではあり得ない。 隋書を下書きにすることは構わないが「儲君」は不要で、「地居」は削除すべきであった。 なお、「上嗣」は「天皇の位を嗣ぐ」意味とし、 従って隋書とは読み方を変えて、「上嗣〔者〕仁孝著」〔上り嗣げば仁孝著しいだろう〕をまとめて「聞こゆ」の主語とした。 《一本》
麁の正字は麤。 この字は「粗」と同義だが、粗の原義が「玄米」がばらついている様子によるのに対して、麤の原義は「鹿」が互いに間隔をあけて集まった様子による。 《一本》 実はこの「一本」が、残されていた本来の文書記録なのかも知れない。 この段を読むと、儀礼的な美文から星川王を悪し様に貶す部分が続き、まるで木に竹を接いだ印象である。 これは、『隋書』高祖三年の建国を誇る詔と、同四年の遺詔という異なる部分から抜き出した結果と言えよう。 【大意】 遺詔を 大伴(おおとも)の室屋(むろや)の大連(おおむらじ)と東漢(やまとのあや)の掬(つか)の直(あたい)に語りました。 ――まさに今、区宇〔国〕は一つの家となり、 煙火は万里にのぼり、 百姓(はくせい)は刈り入れ安らかで、 四夷(しい)〔四方の異民族〕は賓服(ひんぷく)〔拝謁服従〕した。 これはまた天意であり、区夏〔国〕は安寧となった。 その理由は、謙虚な心で自己を励まし、一日一日を慎み、 蓋し百姓の為とした故である。 臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)は毎日朝参〔朝廷に出勤〕し、 国司・郡司は随時朝集〔都の朝廷に参上〕してくれる。 どうして〔朕が〕心を尽くさずして、府の誡勅〔遠方の官への詔勅〕が慇懃なものとして受け入れられようか。 義とは、即ち君臣の情が父子と同じになることである。 庶籍の臣・連の智力のさまは、 内外とも心に歓ばしいことである。 広く天下に永く安楽を保たせたいと思う。 言わざることに、病に遇い、進行は少しずつに留まっていたが、甚だしく進行するに至った。 これは即ち人生の常の理であり、どうして言い及ぶに足ることであろうか。 ただ、朝野〔官と民〕の衣冠の、鮮やかさ麗わしさは未だ得られていない。 教化・政・刑など、猶未だに最善を尽くしていない。 言葉を興してこれを思うに、ただ以って恨み〔心残り〕を留める。 今年、若干の年齢を重ね〔または、若干の日が過ぎ〕、回復せず夭折するかも知れぬと考えるようになった。 筋力も精神も、一時に疲れ果てた。 このような事は、元々自身が原因ではない。 百姓を安寧に養うことを考えられなくなった理由も、ここにある。 人生において、誰が子孫のことに心を及ぼさないことがあろうか。 しかし、既に天下の為に、敢て情を割って〔=肉親の情を棄てて〕事を述べよう。 今、星川王(ほしかわのみこ)は、心に悖悪(はいあく)を抱き、行いは友于(ゆうう)〔兄弟のよしみ〕を欠いている。 古(いにしえ)の人の言葉が有り、 「臣を知れば君を知るに及ばず、子を知れば父を知るに及ばない。」〔=臣下(子)を見れば、君主(父)のことは見なくても分かる〕と言う。 欲しいままに星川に志を遂げさせ、〔お前たちが星川と〕共に国家を治めれば、 必ず、遍(あまね)く臣連(おみむらじ)を辱め、 酷(ひど)い害毒を庶民に流すこととなろう。 悪しき子孫はすぐに百姓によって憚られて、 好き子孫は大業を荷として背負うことに十分堪(た)えられる。 これは朕の家の事であるが、理を隠しておくことは不可能で、 大連(おほむらじ)たちの民部(かきべ)は広大に、国に満ちるであろう。 皇太子〔白髪皇子〕は、在野の儲君(もうけのきみ)として待機しているが、 皇位に上って大業を嗣げば仁孝著るしいだろうと聞こえる。 よって、その行う業(わざ)は、朕の志を成すに堪えるであろう。 これによって、〔お前たちが皇太子と〕共に天下を治めれば、朕が瞑目すると雖(いえど)も、どうして恨みが復する〔=不安が的中する〕ことがあろうか。 【ある出典にいいます。 ――星川王は、腹黒く心が荒々しいことは、天下に著しく聞こえる。 不幸にして朕が崩じた後に、皇太子に害を与えるに違いない。 お前たちの民部(かきべ)は甚だ多いから、心して互いに助けて差し上げよ。 決して侮るではないぞ。】 まとめ 清寧天皇即位前紀には「大泊瀬天皇之遺詔今将至矣。」とある。 それが書かれた後になって、これがその「遺詔」だと言って、誰かが雄略紀にこの段を付け加えたのであろう。 これを書いたのは、前後の「星川皇子」とあるのに、無頓着に「星川王」の表記を用い、 かつ隋書を大幅に借りて書くような人であった。 ただ「一本」として収めれた古記録があったこと自体は、 事実であったようにも思える。 |
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2018.12.09(sun) [14-20] 雄略天皇[20] ▼▲ |
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37目次 【崩時】 《吉備臣尾代行至吉備国過家》
後述するように、雄略朝から顕宗朝の間、倭国軍がしばしば新羅を侵攻した。 「将軍」号と言えば、「征夷大将軍」の初見は、 『日本紀略』所引『日本後記』逸文の「延暦十三年〔794〕」、 「賜二征夷大将軍大伴弟麻呂節刀一。」である。 遡ると〈続紀〉の和銅二年〔709〕に「陸奥鎮東将軍」「征越後蝦夷将軍」「征蝦夷将軍」「征狄将軍」、 さらに養老四年〔720〕に「征隼人持節将軍」が見える。〔「隼人の反乱」鎮圧のため〕 このように、書紀が完成する頃には「征○○将軍」は既に珍しくなかった。 ここの「征新羅将軍」は、書紀が昔の事柄に遡って用いたものと見られる。 《蝦夷》
ここの「五百蝦夷」もその習わしのうちにあって、徴兵して新羅に連れて行った東国人を指すものと考えられる。 また「蝦夷」という表現には、未だ朝廷への服従の心が十分ではない面を表す意図が見える。 《佐婆水門》 〈大日本地名辞書〉は、佐婆水門は周防国佐波郡ではなく、〈倭名類聚抄〉{備後国・沼隈【奴乃久万】〔ぬのくま〕郡}の 山波(サンバ)であるとして、「今山波村と云ふ、松永の西、尾道瀬戸の東口にあたる、 〔中略〕松永にも尾代と字する地あり、又神村に尾代明神神祠存ず。」と述べる。 そして「雄略紀云、征新羅将軍吉備臣尾代…」を、山波村のことだとして書く。 「佐波村」も江戸時代に存在したのだが〈大日本地名辞書〉はこの地名を載せていない。 山波村・佐波村は、現在の広島県尾道市にある。松永村・神村・今津は、現在の広島県福山市にある。 『福山史料』(菅茶山;文化六年〔1809〕)の「沼隅郡」に「山波村」・「佐波村」の両方が載る。 そのうち「佐波村」(巻之二十三)の方に「福山ヨリ二十五町西ニアタル此〔この〕アタリモト海ナリ 今ナホ舟着ナト云地名アリ」、 そして「娑婆水門:今按〔あんずる〕ニ吉備の尾代ト云モノ五百人ノ蝦夷トコゝニテ戦ヒシコト 日本記〔ママ〕ニミユ言総叙ニ詳ナリ」と述べる。 しかし、山波にしても佐波にしても小さな村のいわばマイナーな地名であり、どの程度知られていたかは疑問である。 もう一つの水門「浦掛水門」の場合は、メジャーな地名ではなかったから「丹波国」がつくのである。 しかし「佐婆水門」は国名抜きで通用するのだから、郡レベルの地名としてよく知られた「周防国のサバ」の方が明らかに有利である。 さらに言えば、蝦夷たちは「傍らの郡を侵寇した」と書かれるように、既に広い範囲で大暴れしていたのであるから、 合戦の場所を尾代の出身地のすぐ近くに限る必要もない。 《丹波国浦掛水門》
浦掛水門の比定地を求める研究を探すと、まず『日本歴史地名大系28』は、 掛津〔丹後国竹野郡;現京都府京丹後市網野町掛津〕の項で 「「丹波国浦掛水門」とみえる地を当地に比定する説がある」と述べる。 また<wikipedia>には「浦明(うらけ)」〔丹後国熊野郡;現京都府京丹後市久美浜町浦明〕を挙げる。 両説とも出典が明示されないので、いつ誰が言い出したことかについては現在調査中である。 一方で、原注に「丹波」が付かないことが注目される。 これは、校訂者自身が「浦掛水門が丹後国にあるとは確認できない」と言う意味かも知れない。 とすれば、後世の人が浦掛水門を丹波・丹後に探すのは一層困難である。 とは言え、丹後半島には独立性の強い氏族がいた気配があり、その助けを求めてこの地に逃げこむ話が成り立つ余地はある。 仁徳朝の頃、この地に別の王朝が並立した可能性を考えた( 第162回《神明山古墳・網野銚子山古墳》)。 また、越前・若狭地方に継体天皇に繋がる系譜を見たが、勢力は丹後半島まで及んでいたかも知れない( 資料[20]上宮記逸文)。 また蝦夷が東国出身者だったとすれば、丹後半島辺りから日本海経由で東国に向かう航路があったことが物語に反映している可能性もある。 《歌意》
【大意】 この時、 征新羅将軍、吉備の臣尾代(おしろ)は、 出発して吉備の国に至り、自分の家を通過したところで、 後に引き連れた多くの蝦夷(えみし)たちは、天皇(すめらみこと)の崩を聞き、 口々にこう語らいました。 「我が国を領して制す天皇は、既に崩じた。 時を失うべきではない。」と語らい、 互いに集結し、傍らのいくつかの郡を侵冦〔=侵攻〕しました。 そこで尾代は家から来て、 蝦夷と娑婆の水門(みなと)で出会い、合戦に及びました。 そして蝦夷たちを射ると、或いは飛び跳ね、或いは身を伏せて、よく箭を避け免れて、 遂に射ることができませんでした。 そこで、尾代は弓弦(ゆみつる)を空弾ちして〔しきりに音をたてて、どれが本当に矢を放った音か分からないようにして〕、 海の浜の上に、飛び跳ね伏せて逃げていた者たち二隊を、射(い)殺しました。 二つの弓袋の矢が尽きてしまったので、 ちょうどそこにいた船人を喚して〔海底に沈んだ〕矢を探させようとしましたが、船人は恐れて勝手に逃げました。 尾代は、そこで弓を立てて端を持ち、歌を詠みました。 ――道に逢ふや 尾代の子 吾母(あも)にこそ 聞こえずあらめ 郷里(くに)には 聞こえてな こう歌い終えると、自ら多くの人を斬って、 更に丹波の国の浦掛(うらかけ)の水門(みなと)まで追い至り、悉く追いつめて殺しました。 【ある原書に言います。 ――浦掛に追い至り、人を派遣して悉く殺させました。】 【対新羅関係】
対照的にこの時期の〈百済本紀〉には、倭国関係の記事は皆無である。 南朝宋が、倭王に新羅を含む「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍倭国王」の称号を与えた (倭の五王)。 実際には新羅は倭の支配下にないが、いわば「切り取り次第」として許容したのであろう。 その他の小国群は取るに足らないが数として加え、百済は駄目だがこれでどうだと言って宥めた印象を受ける。 それでも倭は納得せず、称号に百済を加えるよう要求し続けたが、結局叶わなかった。 宋の苛立たせた倭の諦めの悪さは長く記憶に残り、その結果宋書に交渉の経過が細かく記されたと思われる。 結果的に倭は百済に手を出していないから、この交渉には実質的な意味があったことになる。 まとめ 「蝦夷」が吉備臣の家臣団の一部であったならば、蝦夷と書かずにその首謀者の名を書いたであろう。 実際に七年条では、反逆者「前津屋」の名を記している。 一方金錯銘鉄剣・銀象嵌銘鉄剣の出土により、雄略朝の版図は肥後から武蔵まで及んでいたと考えられている (第198回)。 従って、雄略政権は全国レベルの統治者であり、だからこそ「倭国」を代表して使者を南朝宋に送った。 吉備臣が並立朝廷であったのは昔の話であり、この記事はもう大王を戴く諸侯王である。 恐らく瀬戸内海で海戦の経験を積んだ水軍を持っていたことから、新羅への攻撃部隊の主力を担った。 征新羅将軍に預けられた戦力は東国から徴集された人々で、防人の萌芽形態であったように思われる。 彼らは勇猛で自立性があり、大王ワカタケルの崩によって重しがとれて、周防から筑紫を奪取すべく動いたのである。 蝦夷なる呼称は、東国のかつての蝦夷と今や反逆勢力に転落したという二重の意味で使われたと思われる。 この「蝦夷」の脳裏には、かつて畿内政権が地方を制圧するために派遣した軍勢を「ヤマトタケル=倭から来た侵略者」 ( 第139回【倭建命なる名】) として憎んだ民族的記憶が色濃く残っていたのだろう。 |
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⇒ [15-01] 清寧天皇 |
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