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2018.09.11(tue) [14-12] 雄略天皇[12] ▼▲ |
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22目次 【九年五月】 《紀大磐宿祢聞父既薨。乃向新羅》
小の訓には、チヒサとスクナがある。 「ちひさ」については、〈倭名類聚抄〉{越中国・婦負郡・小子【知比佐子】〔ちひさこ〕郷}が見られる。 しかし大・小を並べる場合は、オホ-スクナとなっている。 例えば大国主神の国造りの際、少名毘古那神〔スクナビコナ神〕が現れて大国主神を助けた 〈神代記-大国主命〉。 また、律令の「職員令」には神祇官や太政官の中に「大史」「少史」の役職がある。 〈倭名類聚抄〉の訓は、 ・大史【大史読二於保伊佐宇官一】〔おほいさう官(くわん)〕。 ・小史【小史読二須奈〔伊※〕佐官一】〔すな〔い〕さう官〕。 となっている(資料[24])。 ※…「少納言【須奈伊毛乃万宇之】〔すないものまうし〕」から類推。 〈倭名類聚抄〉の平安時代は、イ音便となったようだ。「すくな」の「く」も平安時代における脱落であろうか。 なお、ことによると上代から「すなし」かも知れないから念のために確かめる。 少名毘古那神は歌謡では、 「須久那美迦微」(記)、「周玖那弥伽未」(書紀)だから、基本的に「すくな」である )。 一方「少官」の官については、 律令で定められた四等官制について、〈倭名類聚抄〉は長官【加美】〔かみ〕、次官【須介】〔すけ〕、判官【萬豆利古止比止】〔まつりことひと〕、 佑官【佐官】と訓む。書紀は持統天皇十一年〔697〕で終わり、大宝律令〔701年制定〕はその後のことだから、書紀における「官」は常に「つかさ」と訓むべきだろう。 《鞍几後橋》 鞍橋という語は、漢籍にいくつかある。一例を挙げると『魏書』〔北朝〕巻七十「列伝第五十八」に、 「傅永:有二氣幹一。拳勇過レ人。能手執二鞍橋一。倒立馳騁。」 〔傅永(ふえい;434~516):気幹(幹をなす気力)有り。挙勇(勇ましく強い)人を過(こ)ゆ。能(よ)く手で鞍橋を執り、倒立して馳騁(はしゅう;駆け回る)す。〕がある。 つまり、「鞍橋」に手を置いて逆立ちして馬を曲乗りしたという。
「几」〔=机〕は四本脚の台のことだから、その形を見れば「鞍几」は鞍橋そのもので、 取り立てて「瓦」に置き換える必要もない。 また「橋」はアーチ状のもの一般を指すから「後橋」が後輪を意味することも、その形を見れば明らかである。 なお、現代では「後輪」を「しずわ」と訓む。「しず」は上代語の「下づ」で、 〈時代別上代〉は、書紀古訓に「しづくらほね」を挙げる。 ただ「まへ」と対になる語は「しり」で、また「ほつえ(上枝)-しづえ(下枝)」は鉛直方向の比較だから、 「しづ-」を用いた古訓には疑問が残る。 しかし、もし「しづ-」が「しりつ-」の訛りだということなら、あり得るかも知れない。 【九年五月(その二)】 《采女大海従二小弓宿祢喪一》
将軍は、伝統的に「いくさのきみ」と訓読されているが、 〈倭名類聚抄〉では、四等官制の長官クラスの役職として「鎮守府曰二将軍一」を挙げ、 長官の訓は「【已上皆加美】」〔一般にカミと訓む〕と述べるから、養老令で定義された「将軍」の訓はカミである。 キミには、古い私的集団の長のイメージを伴う。 軍隊内で将軍に親近感をもって「キミ」と呼ぶことはあるかも知れないが、 後の律令での定義に通じる公的な地位を示す語としては、カミを用いるべきであろう。 《同国近隣の人》 実は、書紀が大伴大連の本貫に触れるのは、これが初めてである。 大伴連の最初の登場は神代に遡り、「大伴連遠祖」天忍日命が天孫とともに、その御前に仕えて降りた(第84回)。 次に神武天皇が畿内を制圧したとき、「大伴連遠祖」道臣命が活躍した 第98回【大伴連・久米直】 さらに日本武尊に「大伴連之遠祖」大伴武日連が従った(第128回)。 ここまでは神話、もしくはほぼ神話であるが、天から降りてどこかに住んだという類の記述はない。 現実的な人物としての登場は室屋が最初である。 さて、紀氏の本拠地が、紀伊国名草郡であったことは明らかである (第108回《木臣》)。 もし、西陵古墳(次項)の埋葬主が紀小弓宿祢だとすれば、名草郡に隣接する和泉国日根郡の一部まで、紀氏の勢力が及んでいた。 大伴室屋が紀小弓宿祢と「同国近隣之人」だったとすれば、和泉国日根郡のあたりということになる。 万葉歌の「(万)0063 大伴乃 御津乃濱松 おほともの みつのはままつ。」 「(万)0066 大伴乃 高師能濱乃 おほともの たかしのはまの。」 に出てくる「おほともの」は枕詞で、〈時代別上代〉によれば「オホトモはいまの大阪の辺をひろくさす地名」とされる。 だから、大伴氏の勢力が日根郡辺りを中心として、大阪湾周辺に広がっていたという仮説は、一応成り立つものだと言える。 《田身輪邑》
この年代は、雄略天皇九年〔465〕に一応は近い。 また〈五畿内志〉-「和泉国日根郡」には、淡輪村及び西稜古墳について、 ○【村里】淡輪【旧作二田身輪一】 ○【陵墓】紀小弓宿祢墓【在二淡輪村東一墓畔有二小冢七一 雄略紀曰……】 と書かれるので、「田身輪邑の古墳=紀小弓宿祢墓」の言い伝えは、少なくとも江戸時代までは辿る。 淡輪地域の大型古墳は、その東側の淡輪ニサンザイ古墳を最後に途絶えるという。 前掲『岬町の歴史』によれば、「西陵・西小山・宇土墓〔=淡輪ニサンザイ古墳〕三古墳の円筒埴輪はほとんど須恵器のような硬い焼きで、〔中略〕 平行タタキや同心円タタキといった須恵器にみられる技法を使って〔中略〕 いちばん底の外側が輪を抜いたように凹んでいる」という「共通の特徴」を備えていて、この技法は 「紀伊の方へ山を越えた木之本古墳群にも見られ、紀ノ川北岸との文化の共通性を認識できる」と述べる。 さらには「11~12世紀にかけて造立された興善寺の釈迦如来・大日如来像の胎内銘に紀を称する血縁者が多数見受けられ」 「以前から紀氏が居住していたものと推測される」という。 従って、淡輪地域が紀氏の居住域に含まれていた可能性は高い。 以上から、西陵古墳が紀氏一族のものであるという伝説がこの地域に上代から残り、それが紀小弓宿祢と結びつけて書紀に書かれたことはあり得るかも知れない。 《韓奴》 倭人が来襲して村人を虜として連れ帰ったという記述は、〈三国史記-新羅本紀〉に見られる。
六名の奴婢の名前は本名ではなく、倭人が適当につけたものであろう。 その訓みは原注になく、私記・釈紀にもないので、特に注釈を要しない一般的な訓み方であったと思われる。 《六口》 助数詞「口」について、〈時代別上代〉は「刀子一口」のように「口」を「つ」と訓む。 ということは、奴婢は物扱いであろうか。 一方〈魏志倭人伝〉は「生口四人」として、奴婢を人として扱っている (第71回)。 「六口」を「むつ」と訓むか「むたり」と訓むかは、恐らく読み手に委ねられるものであろう。 《家人》 『令義解』巻二「戸令」には、 戸の構成員を「課口」〔課税の対象者〕、「不課口」に区別し、 「不課。謂二皇親。及八位以上。男年十六以下。 并蔭子。耆。廃疾。篤疾。妻妾女。家人。奴婢一。」と定義する。 そして〈時代別上代〉は戸令の一文に「凡陵戸、官戸、家人、公私奴婢、皆当色ニ為レ婚」 とルビを振るが、『国史大系』版(経済雑誌社)の該当箇所にはルビがない。 ヤケヒトは「家人」への古訓であろうが、家庭内の身分を意味する「家人」と、解放されて氏族になった「家人部」とでは、当然意味が異なる。 雄略九年条の「家人部」は後者であるから、ヤケヒトをそのまま用いるのは妥当ではないかも知れない。 《家人部》 〈姓氏家系大辞典〉に、「家部(やかべ)」の項がある。その説明を抜粋すと、 家部は「賤民の一種にして〔中略〕部曲〔かきべ〕と奴婢との間に位する一階級にして、後には主として家人とあり。賤民の一種なれど 〔中略〕世襲的に家人たる事、持主の意のまゝ駆使せらるゝ等、奴婢に似たる点も多けれど、 頭を尽して駆使するを得ざる点、売買するを得ざる点等は奴婢と異なれり。 〔中略〕家人は一戸を構へしを知るべし。されど氏を有せざる事等は奴婢に同じ、 そは放たれて良人となる場合に氏を賜ひ、又雄略紀九年条の見ゆる家人部が氏を有せざる等によりて、容易に窺ふを得べし。 〔中略〕家部たりし者の放たれて良となる場合には、奴婢と同じく、多くは旧主の氏に部字を附して氏〔うじ〕とするを常とせしが如くなれど、 時には家部なる称を其の尽〔まま〕となる。氏とせし者尠〔すく〕なからず。」 〔家部は、部曲〔かきべ、臣・国造などが私有する民〕と奴婢の中間の性格をもつ。家人は奴婢に類似するが、理解と納得を得て働かせなければならないことや売買できなこと、 一戸を構える点が奴婢と異なる。 家人の身分から解放されて良人〔自由民〕になるときには氏を賜り、多くは仕えていた主の氏に「部」の字をつけたが、 時には『家部』そのものが氏になる。〕 という。 同辞典は、韓奴の室以下六人の名に氏がないことから、家人は氏を持たなかったと推定している。 解放された家人が名乗った氏「家部」は、その同音異字による複数の表記からヤカベと訓むのは明らかだから、 「家人部」は「やかべ」と訓むべきである。 「大伴家持」(おほとものやかもち)を見ると、「やけ」は熟語になると「やか-」に変化するようである。 平安時代に訓読を研究した博士は、「やけ」(家・宅)と「ひと」を、音韻変化を考慮せずに繋いで「やけひと」を造語したように思われる。 《蚊嶋田》
〈大日本地名辞書〉は「蚊島田:今詳ならず。」と述べ、ギブアップしている。 その比定地を求める研究を捜したところ、『全国「鹿島」地名の表記(用字)について』が見つかった。それによると、 平賀元義という人物〔岡山の国学者、1800~1866〕が、現在の岡山市大多羅町の辺りを「蚊嶋田」に比定し、『備前国上道郡都紀郷金岡東荘金岡村考証』を著したという。 同サイト所引の『岡山縣上道郡古都村史』によれば、 「大字宿に蚊島田といふ小字がある。こゝに蚊島綱留神社という小祠があった。〔中略〕 七、八年前※にこの社は岡屋八幡宮の境内に移した。〔中略〕今は社域跡は開拓せられて果樹園と化し、昔の面影は知るよしもない。」という〔※…同書の刊行は1958年〕。 同サイトによれば、「岡山県は、近世に寄宮ということで、小社などを淫祀邪教として大幅に整理した歴史」があるが、蚊島綱留神社はそれ以後も存続した。 そして、「土地台帳では小字「鹿島田」表記であり、私〔=同サイト主〕が調べた限りでも岡山県には他に「蚊島田邑」に当てはまる地名は見当たりません。」という。 つまり、岡山県に「蚊島田」の候補はここ以外には見つからないという。 その位置は、岡山市東区大多羅町付近。芥子山(けしごやま)の西の山腹にあたる。 この地図上にある「大多羅寄宮跡」が、周辺の祠を合祀した「寄宮」であろう。 「芥子山ウォーキングMAP」を見ると、その一帯は鹿島公園として整備されている。 蚊島綱留神社は跡を留めず果樹園になったというから、果樹園の地図記号〔 ただ〈氏姓家系大辞典〉を見ても、「蚊島田」を直接本貫とする家部の後裔は見えないから、この一族は絶えたようだ。 書紀編纂期には居たのだろう。 《倭子宿祢》 原注「〔此〕連未レ詳二何姓人一」の「姓」はカバネではなく、中国語における「姓」で、氏(うぢ)に相当する (前回《姓》参照)。 《角臣》
孝元天皇段の「木角宿祢」は「紀(木)臣」と「都怒(角)宿祢」の共通の祖とすれば、ここまでは統一的に理解できる。 ところが、雄略紀は小鹿火宿祢が雄略九年に角国に住み着いて「角臣」の祖となったと述べる。角臣は、天武天皇紀十三年、新たに制定された八色の姓の「朝臣」姓を賜っている。 両者の記述を両立させるためには、田島足尼を始祖とする国造家と、後から来た角臣という別種の集団が、角国に共存していたことにしなければならない。 これについて〈氏姓家系大辞典〉は、「蓋し小鹿火は、此の都努国造家の人なるによるべし。」、 つまり小鹿火を含む「紀」一族は、国造以来連続していると考えている。 その結果、同書は「此〔雄略九年条〕の末節は誤りならん」と述べざるを得なくなっている。 〈倭名類聚抄〉に{周防国・都濃郡}があり、ここが角国だと考えられている。 百済から筑紫を経て、瀬戸内海航路を難波に向かったが、小鹿火は途中で周防国に上陸したとすれば、地理的配置は妥当である。 なお、〈釈日本紀〉は「角国:越前国角鹿津也。」として、 垂仁天皇紀の「額有レ角人云々」(垂仁天皇元年一云)の個所を引用している。 もし角国が角鹿〔つぬか、現在の敦賀〕だとすれば、日本海航路を取ったことになる。 ただし〈国造本紀〉では「紀臣(木臣)同祖」の人物を国造に配した「都怒国」を、周防国と穴門国〔=長門〕の間の位置に置くから、 角国は周防国都濃郡だと見るのが、国造本紀以来の研究史の主流である。 【大意】 五月、紀大磐宿祢(きのおおいわのすくね)は父が既に薨じたと聞き、 新羅に向かい、 小鹿火宿祢(おがのひのすくね)の掌っていた兵、馬、船の官から諸小官に及ぶ人々を支配下に置き、 欲しいままに厳命して私事に用いました。 そこで、小鹿火宿祢は深く大磐宿祢を怨み、 偽りを韓子宿祢に告げ、 「大磐宿祢は私に 『私はまた、韓子宿祢が掌る官を管理することも遠くないだろう。』と言った。 願わくば、固くこれを守りきってくれ。」と言いました。 このため、韓子宿祢と大磐宿祢とに隙間が生まれました。 そこで、百済王は、日本(やまと)の諸将が小事によって隙間が生まれたと聞き、 人を遣わして韓子宿祢等に、、 「わたくしの国境を御覧いただきたいと思います。願わくば、降臨を垂れてくださいませ。」と申し上げました。 これを以って、韓子宿祢等は轡(くつわ)を並べて行き、 そして川に至り、大磐宿祢は馬に川の水を飲ませました。 その時、韓子宿祢後は従っていました。 すると、大磐宿祢の鞍橋(くらぼね)の後輪(しずわ)〔=鞍の骨組みの後側のアーチ〕を射抜きました。 大磐宿祢、愕然として振り返って見て、 韓子宿祢を川の流れの中に射落として殺しました。 是の三臣は、前に述べた通り相争っていて、道を行くときに行いが乱れ、 百済王の宮に至ることなく帰りました。 このとき、采女(うねめ)の大海(おおみ)は、小弓宿祢(こゆみのすくね)の喪に従い、 日本(やまと)に至り、 遂に憂えて大伴室屋大連(おほとものむろやのおおむらじ)にどうしたらよいかを尋ね、 「私は葬るべき場所を存知上げません。願わくば、良い地を占ってくださいませ。」と申し上げました。 大連は、そこでこれを奏上したところ、 天皇(すめらみこと)は大連に勅命され、 「大将軍、紀小弓宿祢(きのこゆみのすくね)は、 龍驤虎視(りゅうじょうこし)〔竜の如く駆け虎の如き目をもち〕、 旁眺八維(ぼうちょうやい)〔あまねく八隅を眺め〕、 掩討逆節(えんとうぎゃくせつ)〔節に逆らうやからを覆い討ち〕、 折衝四海(せっしょうしかい)〔四海の敵に立ち向かい〕、 しかしながら、身を万里に労して、命を三韓に墜とされた。 宜く哀悼の意をもって葬の監督に充たるべし。 また、汝、大伴卿〔=室屋大連〕と紀卿〔=小弓宿祢〕らは、同国の近隣の人であるから、 由縁は尚あろう。」と命じられました。 そして大連は勅命を奉り、土師連(はにしのむらじ)小鳥(ことり)を使って、 小高い墓を田身輪邑(たむわむら)に作らせ、葬りました。 その故に、大海は心をなでおろして悦び、自ずから黙っていられなくなり、 韓(から)の奴婢、室(むろ)、兄麻呂(えまろ)、弟麻呂(おとまろ)、御倉(みくら)、小倉(をくら)、針(はり)の六人を、 大連にお贈りしました。 吉備の上道(かみつみち)の蚊嶋田邑(かしまだむら)の家人部(やかべ、やけひと)がこれです。 別に小鹿火宿祢(おがのひのすくね)は、紀小弓宿祢の喪に従って来て、 その時、独り角国(つののくに)に留まり、 倭子連(やまとこのむらじ)【この連は未だ何という姓(かばね)〔ここでは氏(うじ)の意〕の人か、詳らかではない】に命じて、 八咫鏡(やあたのかがみ)を大伴の大連に献上させ、 祈請文によって 「私めは、紀の卿(まえつきみ)と共に天朝に仕えへ奉(たてまつ)ることを、これ以上続けられません。 よって、願わくば角国に留まって住むことをお許しください。」と申し上げました。 それにより、大連は天皇に奏上し、角国に留めて住まわせました。 こうして、角臣(つのおみ)等は初めて角国に住むことになりました。 そして「角臣」という名は、これに由来します。
【登場人物の相関図】 新羅戦で敗北した倭軍は軍を収め、百済に滞在していたと思われる。 大伴談連・紀小弓宿祢を失い、疲れ切った小鹿火宿祢・蘇我韓子宿祢は、 本国から乗り込んできた紀大磐宿祢が官たちを頭越しに仕切る様子を見て、強い反感を抱いた。 この場面は、秀吉の朝鮮出兵の際の石田三成と福島正則・加藤清正らとの対立を彷彿させ、興味深い。 話を元に戻して、その不和を見かねた百済王は、彼らをとりなそうとして国境地帯の観覧を誘った。 ところが、招待に応えて出かける途中でトラブルを起こし、韓子宿祢は大磐宿祢に殺されてしまう。 結局、三人は百済王のところへ行くことはできなかった。 小鹿火宿祢は帰国した後も大磐宿祢への憎しみが止まず、朝廷で共に仕えることに堪えられないので、 角国への隠退を願い出て認められた。書紀はこれが角臣の起源だとするが、 実際には〈姓氏家系大辞典〉が言うように、すでに紀氏が支配していた地に身を寄せたと見る方が自然であろう。 采女の大海は、小弓宿祢を手厚く葬るように願い出て許され、冢墓が築かれた。 大伴室屋は天皇の最側近にいて、下からの要望はすべて大伴室屋大連が受け、天皇に奏上して裁可を得る形をとる。 こうして政の要の立場で諸事を取り仕切っていた。 【角国】 これまでに、〈倭名類聚抄〉の{周防国・都濃郡}が角国であろうと書いた。 ところが、それが危うくなる事実がある。 それは〈時代別上代〉などの定説では「濃」はヌのみだとされることである。 だとすれば「都努」はツノ甲ではなく、ツヌの方を採用しなければならない。 しかし、動物の「角」はツノ甲だから、「角国は都努国とは別の国である」ということになってしまう。 それでは余りに不都合なので、音仮名「濃」に本当にノ甲はないのか、もう少し掘り下げて考えてみたい。 《万葉集の信濃》 万葉歌には、「信濃」が多数出てくる。 その訓みは、やはり「しなぬ」が一般的である。 例えば、(万)0096「水薦苅 信濃乃真弓」の訓み方をネットで検索※すると、 「しなぬのまゆみ」76件、「しなののまゆみ」7件で、ヌが優勢である。 ところが〈倭名類聚抄〉は{信濃【之奈乃】}と訓む。「乃」はノ乙で甲乙の相違があるが、 〈倭名類聚抄〉は万葉仮名を疑似的に用いて訓みを表したもので、既に甲乙の区別は消失している。 同書が成立した900年代に現実に「しなの」と呼ばれていた。 万葉集の時代にシナヌだったとすれば、その後の約200年の間にシナノに変わったことになる。 ※…検索語を「水薦苅 信濃乃真弓 "しなぬのまゆみ"」、「水薦苅 信濃乃真弓 "しなののまゆみ"」とする。 《国造本紀》 ところが〈国造本紀〉の表記を見ると「美濃」は「三野」、「信濃」は「科野」である。 なお「三野国造」は記の景行天皇段(第122回)にあり、 「科野国造」が神武天皇段(第101回)、「科野国」が斉明天皇紀にある。 だから、『先代旧事本紀』(国造本紀を含む)は9世紀成立とされるが、「三野」「科野」の表記は上代に存在し、国造本紀による創作ではない。 「~野(の甲)」は他にも「毛野」「熊野」などがあり、これらも「濃」に置き換え得るものであろう。 それでは「濃」が使われるようになったのは、倭名類聚抄が編まれた平安時代のことであろうか。 もし平安時代なら、「上代の濃:ヌ、平安時代の濃:ノ」とすれば上代のノ甲を否定し得ることになる。 答えはノーである。万葉集には既に「信濃」があったから、 「濃」を「野」の同じように使うのは上代からで、 つまりは「濃」はノ甲にも使われたのである。 「濃」がノ甲であれば、「都努国=角国」とすることへの懸念は解消する。 思うに、江戸時代に国学者が唱えた「努・怒の類は100%ヌ」※の誤りは克服されたが、 「濃」については未だ克服されていないのではないだろうか。 ※…野(ぬ):「の」の甲類音を表す万葉仮名とされる「努」「怒」「弩」などを、主に江戸時代の国学者が「ぬ」と訓んで、「野(の)」の義に解した語。「野火(ぬび)」「野辺(ぬべ)」など。(デジタル大辞泉) まとめ 大まかに見ると紀氏の勢力は和泉国日根郡まで及んでいて、 紀氏の分流が周防国都濃郡にあったと読める。 岬町淡輪の大古墳には、その埋葬主として紀氏の英雄の伝説が長く残っていたのかも知れない。 また、大伴氏の本貫は和泉国だった可能性がある。 さて、小鹿火宿祢が「八咫鏡」を献上した件は注目される。 これは、大王に封じられた王が、その証として与えられた鏡ではないだろうか。 古くは三角縁神獣鏡が、全国の前期古墳から大量に出土する。 これは卑弥呼の時代から、各地の王が大王の支配下に入った際にその証として配布されたものと想像することができる。 それを起源として、各地の王が領地を封じられたとき、その証として鏡を下賜する習慣が続いたのではないだろうか。 小鹿火宿祢は一国の王としての地位をもって朝廷に出仕し、将軍に任命されたと思われる。 大王から王への下賜鏡は、三種の神器に倣って「八咫鏡」と呼ばれたのだろう。 そして、「八咫鏡」を返還する行為は、王からの隠退を形で表したものと想像される。 |
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2018.09.20(thu) [14-13] 雄略天皇[13] ▼▲ |
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23目次 【九年七月】 秋七月壬辰朔、河內國言。……〔続き〕 24目次 【十年】 《身狭村主青等将呉所献二鵝到於筑紫》
身狭村主青は檜隈民使博徳と共に、八年二月に呉国に遣わされた。 そして十年九月に、呉国〔当時は恐らく南朝宋〕から献上された鵞鳥二羽を伴って帰朝した。 《是鵝為水間君犬所囓死》 万葉集では「所V」は「V」に受け身・尊敬の助動詞(または動詞語尾)「ゆ」「す」がつくことを示す。 ――(万)0007 借五百磯所念 かりほしおもほゆ。 純正漢文では、「所~」は動詞を名詞化し、しばしば受け身の意を伴う。 「是」は動詞(is)として使われることがある。 動詞の機能を「是」がもつことにすると、「所~」は名詞節〔英語の関係節に類似;"that is killed by 水間君の犬"〕となる。 即ち、返り点は「是下鵝為二水間君犬一所二上囓死一」。 そして事実上の主語「鵝」を名詞節が説明する。 動詞が先頭にあるという考え方は、存在文〔有二X一〕の一種とするものである。 是を鵝への指示詞と位置づければ、「所」に動詞機能を含むことになる。 《安置》 記にも「呉人安二-置於呉原一」があった(第198回)。 これらの「安置」は、一族をある土地に住まわせる意味である。 安置は一般的には「きちっと置く」意味で、ここでは「すまはしむ」と訓読すれば十分であろう。 ただ、この移住は懲罰や捕虜の意味合いを含まないので、その中立的な性格を「安」に込めているとも考えられ、 その意を汲んで、敢えて「やすくおく」と訓むこともできる。 《大意》 十年九月四日、 身狭村主(むさのすぐり)青(あお)の一行は、呉から献上された二羽の鵞鳥(がちょう)を連れて、筑紫に至りました。 是の鵞鳥は、水間君の犬によって噛み殺されてしまいました。 【別本によれば、 この鵞鳥は、筑紫の嶺(みね)の県主(あがたぬし)泥麻呂(ねまろ)の犬によって噛み殺されたと言う。】 この故に、水間君は恐怖し憂えて、自ら黙っていることはできず、 鴻(かり)十羽と鳥飼を献上し、贖罪することを願い出ました。 天皇(すめらみこと)はお許しになりました。 十月七日、 水間君の献上した鳥飼たちを、軽(かる)村・磐余(いわれ)村の二か所に住まわせました。 25目次 【十一年】 《鳥官之禽為菟田人狗所囓死》
〈倭名類聚抄〉{近江国・栗本【久留毛止】郡【国府】}〔くるもとのこほり〕。「くり」には、熟語になるときの母音変化「くる-」がある〔栗栖(くるす)など〕。 〈延喜式〉{近江国/栗太郡八坐}。「近江国駅馬【伝馬。栗太郡十疋。】」。 〈大日本地名辞書〉「雄略紀に近江国栗太郡とあるは追書なるべし〔後世に書き換えたのだろう〕。」 「今も久利毛止と唱ふ、太字に不止の訓あれば、栗太の古音は不毛二音の混転なるべし。」 〔今もクリモトと呼ぶ。「太」の字にフトの訓があるので、栗太の古音は、フ・モの二音の混同であろう〕 「舒明紀に栗下女王の名あり、此地に因みある歟〔や〕。」 《谷上》 〈大日本地名辞書〉は、「田上(たなかみ・たのかみ)は、古書谷上又手上に作る」と述べる。 同書はまた、「今上田上村下田上村大石村の三と為す、 瀬多川〔=瀬田川〕左岸の山谷の総名なり」、そして 「天孫本紀『饒速日命八世孫、倭得玉彦命、此命淡海国〔=近江国〕谷上刀婢為妻、生一男一女云々』 また書紀忍熊王の歌に多那伽瀰須疑氐と見ゆ、(田上すきて)瀬多河即忍熊王戦死の地なり。」などと述べる (歌謡は神功皇后紀《令撃忍熊王》⑨)。 右図の「田上」で示した部分は、南から順に「大石村」「下田上村」「上田上村」を併せた部分である。 上田上村・下田上村は町村制〔1889〕で定められたもので、江戸時代の村名には「田上」はないが、伝統的にこの辺りが「田上」と呼ばれていたと思われる。 「谷上浜」とは、瀬田川左岸一帯であろうか。ただ、基本的には「谷」をタナとは訓まないから、谷上と田上が本当に同じところなのかどうかという疑問が残る。 《化来》 化来の用例は希だが、 『通典』辺防十二「蠕蠕」に、「蠕蠕代跨絶域。感化来帰」 〔蠕蠕(4~6世紀のモンゴル遊牧民の国、柔然とも)代々絶域にいて、(北朝北魏に)感化来帰した〕がある。 この例では、国と国との関係である。 貴信の場合は個人としての化来で、「帰化」と「来帰」とを混合した語として受け止めることができる。 《磐余呉琴彈壃手屋形麻呂》 地名「琴弾」については、白鳥陵(日本武尊)の「琴弾原」は、御所市富田(大字)付近と見られている (第134回)。 また、〈允恭天皇紀〉四十二年に出てくる「琴引坂」は水越峠と推定した (第187回)。 〈姓氏家系大辞典〉は 「磐余呉琴彈疆手:イハレノクレコトヒキサカテ 呉国よりの帰化族なり。」と述べる。 ところが同書でも「琴弾」の項では、雄略紀からの引用にあたって「磐余の呉の琴彈・壃手屋形麻呂」と読み下し、区切り方が微妙に異なる。 「磐余呉琴弾」の意味は、 ①「琴弾」(地名)に呉人の集落があり、後に一族が磐余に移った。 ②呉から渡来した一族が音楽をよくし、「呉琴弾部」として磐余に住んだ。 ①は2つの地名が含まれ複雑だから、②の方が自然だと感じられる。 ただ、呉琴弾の他にも「琴弾部」がいて、その居住地が白鳥陵の琴弾原になったのかも知れない。 また、「呉琴弾」は「呉の琴弾き」とも「呉琴の弾き手」とも読める。 「疆手」は「さかひ(疆)のてひと(手人)=辺境から来た職人」の短縮のようにも直感される。だとすれば「呉琴を弾く疆の手〔人〕」が氏族名となるが、 この直感を裏付ける材料は他にはない。 《黥面而為鳥養部》 直丁らの会話から、鳥養部に落とすことは懲罰を意味したことが分かる。 当時の社会には賤民の階層があって差別されており、また良民は黥面せず、黥面は賤民特有のものであったことを直接示し、興味深い。 履中紀で、河内の〔馬〕飼部が履中天皇に随行して淡路島に渡ったとき、伊奘諾神の「不レ堪二血臭一矣。」という託宣があった (履中天皇五年九月)。 こうして見ると、市辺王の子、等意祁と王袁祁王が馬甘牛甘に紛れて身を隠したのは余程のことであったと、改めて感じられる (第197回)。 ただ、履中天皇は伊奘諾神の託宣を受けて「自レ是以後頓絶。以レ不レ黥二飼部一而止レ之」 〔これ以後黥面しなくなった。馬飼部が黥面をやめたことによって、黥面の習慣そのものが止んだ〕とある。 履中朝で完全に廃止されたとはとても思えないが、一部の職業部については黥面を止めて良民化する動きがあったことも考えられる。 《直丁》 『令義解』によれば、神祇官・太政官に随う官の中に「直丁」がある。多数の官の末席に位置づけられているので、専ら雑用を担ったかと想像される。 伝統訓は「つかへのよほろ」(資料[24])。 ここでは信濃と武蔵の国司に仕える「直丁」が、都に出仕していたと見られる。 《信濃・武蔵》 金錯銘鉄剣が埼玉県に出土したことから見て、雄略朝の勢力圏は関東までと思われる (第198回)。 信濃・武蔵はその東の端の遠隔地だから、 直丁らが平気で軽口を叩いたのは雄略帝の恐ろしさをまだ知らなかったからだとも読める。 ただ、この時代に勢力圏が関東までだったとしたら、日本武尊の東征伝説は随分時代を遡らせたことになる。 とは言っても、成務天皇のとき「佐伯直」の氏を賜った一族は、日本武尊によって東国から連れ帰られた俘虜を祖とする (第122回)。 また、倭建命を祀る教団による全国の白鳥神社の展開は、雄略朝以後に始まったとは考えにくい (第134回)。 これはなかなか難しい問題であるが、ひとまずは倭建命〔実際には集合人格と思われる〕が成務朝以前に制圧した「東国」の範囲はせいぜい関東どまりで、 陸奥方面の話は後世の出来事を伝説化して組み込んだものと考えておく。この考えを前提とすれば、佐伯直の先祖は関東で俘虜とされたことになる。 《大意》 十一年五月一日、 近江国(ちかつおうみのくに)栗太郡(くりもとのこおり)は、「白い鵜が、谷上の浜に居ります。」と言上しました。 よって詔を発し、川瀬舎人(とねり)を置きました。 七月、 百済の国より逃げて帰化した人がいて、 名は貴信(きしん)を自称し、また貴信は呉(くれ)の国の人と称しました。 磐余(いわれ)の呉琴弾疆手(くれことひきさかて)の屋形麻呂(やかたまろ)らは、その後裔です。 十月、 鳥の官(つかさ)の禽舎を菟田の人の犬が襲い、鳥が噛み殺されました。 天皇は怒って、黥面〔顔に入れ墨〕させて鳥養部(とりかいべ)に落としました。 その時、信濃(しなの)の国の直丁(ちょくてい)〔仕え人〕と、武蔵の国の直丁が殿居(とのい)〔宿直〕していて、 相語らって 「おい、我が国〔信濃・武蔵〕の鳥を積み上げれば、高さは小高い塚と同じぐらいになる。 朝夕に食しても、なお余る。 今の天皇が、たった一羽の鳥によって人に鯨面させるのは、 甚だ道理のないことだ。悪しき行いの主だな。」と話しました。 天皇はこれを聞き、それなら鳥を集めて積んでみよと命じましたが、直丁らはすぐに備えることもできず、 よって詔を発して、両直丁を〔黥面させて〕鳥養部に落としました。 まとめ 宮廷で大切に飼われていた鳥が、ある人の飼い犬によってかみ殺された二つの例が対照される。 一例目は隠し立てを一切せずにひたすら詫び、進んで贖いを供出して罪を免れた。 二例目は、ささいなことに重い罪を課したことを批判した直丁の言葉が天皇の耳に入り、重罪を課された。 権力者は、反対勢力の芽を摘むことを重視して、僅かでも反抗する者には躊躇なく過酷な罪を課す。 逆に心底から畏れ、ひれ伏す者に対しては罪を赦す寛容さを示す。 これは独裁者を独裁者たらしめる、典型的な特徴である。現代に至ってもいくつかの国家や様々なレベルの組織において、枚挙のいとまがない 〔「暴力的な支配者が時に見せる優しさ」が心理的従属構造を決定的にする現象が、運動部の専制的な監督やDVによって知られる〕。 この段の執筆者が対照的な二例を並べたのは、心の奥で批判、または皮肉を込めようとしたと感じられる。 あるいは、後世の天皇・官僚に対して、これは権力を握った者にありがちな陥穽で、自壊に繋がるものだから心せよと警告したとも取れる。 なお書きっぷりとしては、直丁の「為鳥養部」の前の「黥面而」の脱落は画竜点睛を欠くもので、惜しまれる。 「化来」も書き誤りかも知れず、急いで下書きしたものがそのまま正式原稿になった印象を受ける。 |
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2018.09.27(thu) [14-14] 雄略天皇[14] ▼▲ |
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26目次 【十二年】 《御田登楼疾走四面有若飛行》
しかし、青たちが呉国に派遣された目的については、書紀には何も触れられていない。 《楼閣》
下って飛鳥時代になると、舒明天皇十一年〔639〕の「百済寺」跡が吉備池廃寺であると言われ、 塔の礎石が残っている (第152回)。 弥生時代と飛鳥時代に挟まれた古墳時代〔雄略帝の時代〕における楼台は、どのようなものだったかは、未知数である。 将来、仮に脇本遺跡から楼台跡が発掘されるようなことがあれば、話題になるだろう。 原注は「猪名部御田」を誤りだとする。この「誤り」の背景に、応神朝で渡来した木匠即ち技能集団が猪名部として存在したことがありそうだ (応神天皇三十一年)。 飛鳥時代、いくつかの塔や楼台の建築に猪名部が関わっていたのではないかと想像される。 《付物部》 「付二物部一」とは物部に身柄を引き渡して、処置させることにした意味と見られる。物部は軍事を司っていたと考えられるが、 警察・裁判も担当していたことが伺われる。三年条では、 「物部氏は雄略天皇を支える有力な勢力だった」と考察した。 《横琴弾》 まず、「横琴を弾く」という区切りもあるようにも思えるが、「よこごと」という琴は、なかったようである。 また「琴を弾く」の語順は基本的に「弾琴」で「琴弾」は逆である。しかし「中国哲学書電子化計画」で検索してみると、「琴弾」もあることはある。 ただ、「取レ琴弾レ之」(『太平広記』神二十一-蕭曠)など、二文が連続した結果生じたものが多い。 純粋な主語+動詞の「琴弾」は、詩文に見られる。例えば「琴弾碧玉調」〔「琴は碧玉の調べを弾く」か〕(『全唐詩』巻861-酔歌、他)。 琴は人が弾くものであるが、詩文の場合は琴を擬人化したのかも知れない。 そしてこの「横琴弾」の場合は、「横」を動詞として「横レ琴而弾之」の意味であろう。 〈時代別上代〉には、古訓「よこたふ」となっているから、 平安時代も「横」が動詞で「琴」が目的語だと解釈したようである。 なお、「よこ」は〈時代別上代〉「用例に見る限り複合語をなしていて、ヨコサ・ヨコサマ・ヨコシマの形において横の意の独立例を見る また、〔中略〕ヨコナマルなど動詞と複合した場合のヨコ」は「接頭語的」であるとする。 つまり、ヨコ単独では名詞にならず、必ず名詞・動詞の一部になっているという。 《使悟》 〈時代別上代〉の見出し語は「さとり」のみで、「さとる」はないので、 上代には動詞としての用例が見つからなかったらしい。 「しる」の尊敬体については、上代は使役形「しらしむ」「しろしむ」よりも、 四段活用の動詞語尾「す」をつけた「しらす」の方が一般的だったという。 「しらす」に使役の助動詞と謙譲の補助動詞をつけると、「しらさ-しめ-まつる」となる。 《大意》 十二年四月四日、 身狭村主(むさのすぐり)青(あお)と檜隈民使(ひぐまのたみつかい)博徳(はかとこ)とは、呉(くれ)に使者として遣わされました。 十月十日、 天皇(すめらみこと)は木匠(こだくみ)、闘鶏(つげ)の御田(みた)に命じられ、 【ある書に「猪名部(いなべ)の御田」というのは、恐らく誤り。】 始めて楼閣(ろうかく)を建造させました。 このとき、御田は楼閣に登り、四面を走り回る様子は、まるで空を飛ぶようでした。 その時、伊勢の采女(うねめ)がいて、楼閣の上方を仰ぎ見て、 その走り回る様子を不思議に思い、庭に転倒して、捧げ持った饌(そなえもの)を覆してしまいました。 【「饌」とは、御膳の物のことです。】 天皇は、御田がその采女と姦淫していることを疑い、自ら罰しようと思われ、物部(もののべ)に言付けました その時、秦(はた)の酒公(さけのきみ)がお仕えしていて、 琴の音とともに天皇にお悟りいただこうと思い、琴を横に置いて弾き歌いました。 ――神(かむ)風の 伊勢の 伊勢の野の 栄枝(さかえ)を 五百(いほ)経(ふ)るかきて 之(し)が作る迄に 大王に 堅く 仕へまつらむと 我(わ)が命も 永くもがと 言ひし匠(たくみ)はや 惜(あた)ら匠はや そして天皇は、琴弾き歌う声によって悟られ、その罪を赦されました。 【歌意】
「かく(懸く)」には、四段活用と下二段活用がある。 一般には下二段活用が他動詞、四段活用が自動詞であるが、〈時代別上代〉によれば、「のちには四段は使われなくなくな」り、 自動詞は「懸(かか)る」のみとなる。「懸きて」は、四段活用の連用形である。 ふ(経)は下二段活用だから、「ふる」は連体形である。連体形が動詞にかかることはないが、万葉集には 「(万)1571 春日野尓 鍾礼零所見 かすがのに しぐれふるみゆ」がある。 これは、連体形「零(ふ)る」が名詞となって「を」を省略して「見ゆ」の目的語となっている。つまり「零るのを見ゆ」を意味する。 これを「いほふるかきて」に応用すると、「五百経るを懸きて」となる。 《かく》 かくの用例としては、貧民困窮歌に 「(万)0892 可麻度柔播 火氣布伎多弖受 許之伎尓波 久毛能須可伎弖 飯炊 事毛和須礼提 かまどには ほけふきたてず こしきには くものすかきて いひかしく こともわすれて」 〔竈には 火気吹き起てず 甑※には 蜘蛛の巣かきて 飯かしく 事も忘れて〕という一節がある。 ※…甑(こしき)は、蒸すために使う底に穴が開いた土器で、今のせいろうにあたる。 蜘蛛の巣は、周囲に端を固定した状態で空間のある領域を占める。 さらに現代の「時間をかける」「手間暇をかける」に類する使い方が、上代にあったかどうかは分からないが、 「時間〔経=時の経過〕」あるいは「手間〔建造に関わる種々の作業〕」を「かく」の対象にしてみると、自然に読めるのは確かである。 《ふ》 ふ(経)は、基本的に時間が過ぎる意味に使うが、平家物語には「役職を経験する」意味※にも使われるから意味の広がりがあり、上代から「手順を踏む」「手数をかける」意味もあったかもしれない。 ※…『平家物語』巻第一/鱸「左右〔左大臣・右大臣〕を経ずして内大臣より太政大臣一位に上がる」。 「ふる」が「手順を踏む」意味で、かつ「かく」が前項の意味なら 「栄枝を五百経る懸きて」は、「栄枝を用いて数多くの手数を費やして」という意味になる。 《伊勢の野の栄枝》 「伊勢の栄枝」は、伊勢からやって来た采女を暗示しているのかも知れない。 だとすれば、采女のことを肯定的に捉えている。 即ち、采女と御田が情を通じていてもいいではないですか。それが心の支えとなって、御田は天皇のためによい匠の仕事をしているのですからと、取り成しているのである。 まとめ 記の雄略天皇段にも、「伊勢国之三重婇〔=采女〕」が登場する(第208回)。 これと十二年条とは内容は全く異なるが、処刑されそうになったとき歌によって窮地を逃れるという類型は共通している。 さて、雄略天皇による言いがかりとも言える無体を、贖いの品、あるいは周囲の取り成しによって逃れた話はこれまでにいくつかあった。 〔記:志幾大県主。書紀:二年十月の御馬瀬の猟、五年二月の葛城山の猟、十年九月の水間君。〕 ここに、また同類型が加わった。これだけ重ねられると、ワカタケル大王の苛政は史実であり、それほど強烈な記憶を民衆に残したと考えざるを得ない。 なお、記では三重の采女は自分の才覚によって天皇の行動を変えたが、 書記では身分の低いものにはなし得ない行動で、天皇に諫言し得るのは皇后や高級官僚以上のレベルである。 だから、三重の采女の歌謡はとても優れたものであるが、書紀はそれを棄てざるを得なかったように思われる。 書記には、上位階級としての絶対性が貫かれている。 |
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2018.10.12(fri) [14-15] 雄略天皇[15] ▼▲ |
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27目次 【十三年三月】 《歯田根命窃姦采女山辺小嶋子》
〈天孫本紀〉では目大連は伊莒弗連の子で、第十一世の世代に位置づけられ、 「弟物部目大連公【此連公。磐余甕栗宮御宇天皇御世〔清寧〕為二大連一 。奉二-斎神宮一。】」 と書き添えられている。 第99回の《物部氏》の項、 及び【記との相違点】《鐃速日命の天降り》の項で神話的な起原について述べた。 また、第116回【石上神宮】で、 西から波状的に移動してきた諸族の一つであろうと論じた。 さらに、 第170回「八田若郎女」において、 物部氏自身のことを詳しく述べた『天孫本紀』について考察した。 《大意》 十三年春三月、 狭穂彦(さほひこ)の玄孫、歯田根命(やたねのみこと)は、密かに采女(うねめ)の山辺小嶋子(やまのめのこしまこ)と姦淫しました。 天皇(すめらみこと)はそれを聞き、歯田根命を物部目大連(もののべめのおおむらじ)に身柄を渡して叱責させました。 歯田根命は、馬八匹、太刀八口によって罪の祓いとして、 納めたところで歌を詠みました。 ――山辺の 小嶋子(こしまこ)由縁(ゆゑ)に 人衒(てら)ふ 馬の八匹(やつぎ)は 惜しけくもなし 目大連は、この歌を聞き、それを奏上しました。 天皇は歯田根命の資財を餌香市(えがいち)の傍らの橋の本の、野外の土の上に放置し、 遂に餌香長野邑を、物部目大連に賜りました。 八月、 播磨の国、御井隈(みいくま)の人、文石小麻呂(あやしおまろ)は、 強暴な心の持ち主で、肆行(しこう)〔=ほしいままに〕暴虐し、 道中に抄劫(しょうきょう)〔=掠め取る〕して通行させず、 また、商人の舟の海路を断ち、 悉く奪い取り、かねて国法を違(たが)えて租賦を納めませんでした。 そこで天皇は、春日小野の臣、大樹(おおき)を遣わして、 敢死(かんし)の士〔=死を恐れず激烈に戦う兵士〕百人の領袖とさせ、並んで松明を持ち、邸宅を囲んで焼きました。 その時、火炎の中から白い犬が暴出し、大樹臣を追い、その大きさは馬に匹敵しました。 大樹の臣、神色不変に〔顔色も変えず〕、太刀を抜いてこれを斬ると、 文石小麻呂と化しました。 《歌意》
〈釈紀〉(巻二十六和歌四)は、「耶都擬播【八毛也。言二八匹一也】」として、「耶都擬」を「八つ毛」と解釈する。 毛は「け乙」である。擬を石偏にした礙はゲ乙だが、「擬」が「ゲ乙」に使われたかどうかは明らかではない。 また、毛は「毛麁毛柔」〔けのあらものけのにこもの;=獣〕の略であろうが、「毛」のみで獣を表す用法は〈時代別上代〉にはない。 別の可能性を探ると、馬を調(つき乙)として罪の贖いものにしたから、 「八調」〔「八」には「数多い」意味もある〕かも知れないが、「擬」は濁音である。 接頭語がついた「み-つき」は、後世に「みつぎ」と濁ったことを考えると、連語「や-つき」における濁音化が起こっていたのかも知れない。但し、上代では早すぎる。 あるいは、「ya-tuki」と連語になると子音「k」が弱まり、中国人に誤って「gi」と聞き取られたとも考え得る。 だが何れも可能性に過ぎず、「八調」説を胸を張って唱えることは、とてもハードルが高い。 【餌香市辺】
現在、大阪府河内長野市長野町8-19に「長野神社」があるが 「慶応4年(1868年)に長野神社と改称」 (河内長野市観光ポータルサイト) とされ、この名は近世になってからである。 また、古い志紀郡の外だから「式内長野神社」ではないだろう。 だから、当時の志紀郡は後世の丹比郡、古市郡の一部を含んでいる。 右図の破線Aは、その古い境界線を推定したものである。 恵我の荘、江戸時代の恵我村、長野村、そして恵我の三陵を含む範囲〔=「恵我」の推定域〕を、右図のBで示した。 境界は北を流れる大和川のようにも見えるが、この部分は江戸時代の付け替え工事で掘削したものなので、飛鳥時代の境界線にはなり得ない。 恵我の広がりは郡に匹敵するが、律令郡制定時には独立した郡ではなく、志紀郡の一部になった。 長野・藻伏は、恵我の部分地名として位置づけると理解し易い。 《餌香市》 「市辺」は、「市辺押磐皇子」〔顕宗天皇・仁賢天皇の父〕(第196回)との関連も考えられる。 しかし、十三年条において、直接的には餌香市は恵我の「市」のことである。 顕宗天皇即位前期に「旨酒餌香市不レ以ニ直買一」〔餌香市に直(ひた)買ふを以(もちゐ)ず;旨酒(うまさけ)は枕詞〕とある。 また〈続紀〉宝亀元年〔770〕三月癸酉〔10日〕「民使毘登日理。権二-任会賀市司一」が見え、 これらの記述から、恵我の地に「餌香市」があったと考えられている。 その比定地について〈大日本地名辞書〉には、「餌香市:今道明寺村国府の旧名なり」 「此橋は万葉集に河内大橋とありて片足羽川に架す、対岸は片塩の地なれば也、又餌我川と曰ふ」とある。 ここで言及されている万葉歌は、 (万)1742の、題詞「見二河内大橋独去娘子一歌一首」を伴う 「級照 片足羽河之 左丹塗 大橋之上従 しなでる かたしはがはの さにぬりの おほはしのうへゆ」のことである。 地名「片足羽」(片塩)は、安寧天皇の「片塩是謂浮穴宮」(第103回)にある。 〈辞書〉が「対岸は片塩の地」と書くのは、片塩を柏原市とする同書の考え方による。しかし、通説では欠史八代の宮殿はすべて奈良盆地にある。 「片足羽川=餌我川」とする見解は〈辞書〉と宣長による独特のものだが、それを前提とすれば図のXに架かっていたのが河内大橋ということになる。 『世界大百科事典』第2版(Web)には、餌香市は 「大津道と丹比(たじひ)道の石川渡河点付近、すなわち現在の藤井寺市国府付近と羽曳野市古市付近の2カ所が考えられる」とある。 つまり、これは「市」の立地は、石川の水運と古街道の陸運の交点であろうと推測したもので、 特に遺跡が発見されているわけではない。 藤井寺市国府は、「先土器時代より旧石器文化の栄えた所で、大化の改新(645年)以後は、『河内国府』が設置され、名実とも河内の中心地でした。」 (藤井寺市公式ページ-藤井寺市の歴史)という。 「大津通-石川交点説」(図X)はかつて栄えた国衙(こくが)に近いこと、 「丹比通-石川交点説」(図Y)説は、地名「古市郡」が「旧い市」によることを、それぞれの根拠にしたと思われる。 《橘本》 「橘」は、岩波文庫版「校異」によれば卜部兼右本は「橘」、前田本・宮内庁本・熱田本は「橋」である。 〈大日本地名辞書〉の「片塩=片足羽」説の真偽は不明だが、河内国の国府は政治・商業の中心だから、 そのX地点に万葉歌の「河内大橋」が架かっていたとしても、決して不自然ではない。 だから「橋」を採用して「露置於餌香市辺橋本之土」とすることには妥当性があり、「恵我の市の辺りの河内大橋の橋本(渡り口もしくは川原)の土の上に、覆いをせず露わに置く」 と自然に読むことができる。「土」は「ところ(場所)」ではなく「つち」のままでよいだろう。 《橋のつくり》 舒明天皇十一年〔639〕に百済大寺の九重塔を建立 (第152回)するほどの建築技術があったのだから、 餌香市の大橋は浮橋のように簡便なものではなく、橋脚を備えた立派な橋であったと推察される。 雄略帝の5世紀後半には、まだそれほど立派ではなかったかも知れないが、 書紀編纂時代の橋の風景のままに時代を遡らせて、古い物語の舞台とすることは普通に考え得る。 《片塩浮孔宮》 「片塩浮孔宮=片足羽」説の根拠は、「片塩」と「片足羽」の発音の類似と、〈新撰姓氏録〉の〖河内国/神別/浮穴直〗というささやかなものであるが、通説の大和高田市がほぼ無根拠であることに比べれば、まだましである。 安寧天皇の名は「師木津日子〔しき乙つひこ〕玉手見命」であるが、本来は大和国「磯城」ではなく河内国の「志紀(しき乙)郡」だったとすれば、一応筋は通る。 もともと「欠史八代」は、天皇の下で諸族が統合するために、各氏の起源神話を直列に繋いだものだと考えた(第102回)。 志紀を本貫とする一族の、師木津日子を始祖とする起源神話を組み込んだとすれば、特に大和平野に拘る必要はなくなる。 物部氏やアマ族は、もともと九州から東へ移動してきたと考えたから、氏族のひとつが志紀郡で途中下車したという筋書きも考え得るが、想像の域を出ない。 【文石小麻呂】 《播磨国御井隈》
また、「青山:…〔略〕…名所拾録には青山の夢崎なる社を稲岡神と曰へり、 神社記に稲岳太神とあるもの是也、且神社記に射目崎明神を飾東とせば…」と述べる。 稲岡神社は、兵庫県姫路市青山2丁目9-6にある。 『峰相記』の全文は『続史籍集覧』(昭和五年〔1930〕;近藤出版)で読むことができる。 そのうち、〈辞書〉が『峰相記』から引用した部分を抜き出すと、 「 扶桑記〔1094年以後成立;私撰歴史書〕二巻云雄略天皇十三【酉己】年播磨国人文石小麿有力強心…〔中略〕… 即化シテ為二文石小麿一【已上文】 私云射目前明神如レ此子細アリ若此山ノ変石ナリケル也」となっている。 「私云」は何層かの引用の間にあって〈辞書〉を読むだけでは誰の見解なのか分かりにくいのだが、どうやら峰相記の著者のレベルらしい。 大きな犬の形をした石が、射目前明神(稲岡神社)の近くの山にあったという意味であろうか。 確実に文石小麿の伝説がこの地に残っていれば、ここが御井隈であることになる。 《春日小野臣大樹》 〈姓氏家系大辞典〉は、春日小野臣について 「(春日)小野臣:春日臣より分れしが故に、春日小野臣と云ふ也。」と述べる。 そして、「小野臣:春日臣族中、後世最も栄えたる氏也。 米餅搗大使主命より出づ。敏達朝に小野臣妹子あり、 『滋賀郡小野村に家居す、因りて以て氏となす、』と姓氏録にあれど、 其れ以前、既に春日小野臣大樹の見ゆるあれば、此の記事は信拠しがたし。 然りと雖〔いへど〕も、山城、近江は此の氏族第二の根拠地にして、殊に此の氏に関係ある神社、 地名多ければ、たとへ本貫滋賀郡ならずとするも、此の二国の内を出でざるべし。のみならず此の地〔滋賀郡〕には、式内小野神社あり。」 〔小野臣妹子は、滋賀県小野村出身だから小野氏となったというが、その以前に春日小野臣大樹がいたから信じて依拠することはできない。 しかし、山城・近江も小野氏の本拠で地名も多いから、本貫が滋賀郡以外だとしても、この二国の範囲内であろう。 さらには滋賀郡には式内小野神社がある。〕 と書き、小野臣大樹と小野妹子とが同族であると見ている。 「小野神社」は、〈神名帳〉に{近江国/滋賀郡/小野神社二座【名神。大。】}とあり、 比定社は、小野神社(滋賀県大津市小野1961)である。 参考のために付け加えると、同辞典は小野臣大樹の伝説について 「峰相記に、『天徳中揖保郡に勇健の武士侍りき。多くの勇士を語ひ、賊徒を召し従へ、西国の年貢官物を押止め、 旅人も通さず、商売も道絶ぬ。越部の二子の嶮難の峰に城を構へ、陰謀を企る間、内山大夫、栗栖武者所、太市大領大夫、 白国武者所、矢田部、石見等、郡司等を案内者にて、藤将軍文脩を差下し、終に誅罰し竟ぬ。其より彼の山を城の山と名づく。 仍〔より〕て文修将軍、当国の押領使を給ふ』とあるは、此の〔春日小野臣〕大樹の事を誤り伝へしならん。」 と述べる。 ここで引用された『峰相記』の原文は「又天徳年中二揖保郡勇健武士一人侍キ弓矢ヲ先トシテ土籠二乗テ〔以下略〕」 などとなっていて、引用は原文そのものではなく、要約されたものである。 小野大樹と、遣隋使として有名な小野妹子とを繋ぐ系図に、定説はないようである。 〈姓氏家系大辞典〉で駿河浅間大社大宮寺家に伝わるとされる「和邇系図」には、 「米餅搗大使主命―人華臣(春日臣)―岡上臣―野依臣(小野朝臣の祖)」 として、野依臣と小野朝臣の間は空白である。 (第105回【和邇(和珥)氏】)。 <wikipedia>はその空白を埋め、 「野依―淵名―春日小野大樹―仲若子―小野妹子」を示すが、その出典が知りたいところである。 一方、小野神社の掲示板では、「敏達天皇―春日皇子―妹子王」となっている。 書記には妹子王が春日皇子の子であるとは書いていない。 28目次 【十三年九月】 《木工韋那部真根》
「以石為質」と「誤中石」〔石に命中させることをしくじる〕の二か所を取り出せば、真根は石工である。 しかし、真根は「木工」とされ、「斧」〔通常は木を断つ〕、「材」の原義は木材で、また歌謡の「墨縄懸く」を見れば、やはり木匠(こ-たくみ)であろう。 これらの辻褄を合わせるには、真根が石斧を用いていたことにする。 即ち、「以石為質」〔石を材料とした〕は斧のことで、「誤中石」は「石斧を誤って手に当てる」である。 《不誤傷刃》 傷刃は、直感的に刃によって手などに傷を負うと読める。 しかし「刃」は「傷」の目的語なので、その通りに読むと「刃を欠く」になってしまう。 しかし、漢和辞典を見ると「傷弓之鳥」という故事成語がある。これは、一度のトラブルに懲りて臆病になることを、 矢を受けて負傷した鳥に譬えたものであるが、このまま訓読すると「弓に傷(やぶ)れし鳥」となる。 この場合、動詞「傷」の目的語は、傷を負わせた原因である。 これを適用すれば、「傷刃」は「刃によりて傷(やぶ)る」という妥当な訓み方ができる。 「不誤傷刃」は、「刃によりてあやまちやぶらず」となる。 なお、〈釈紀〉(巻二十六「和歌四」)は、「傷刃〔やぶら刃〕」という熟語にしている。 《相撲》 〈釈紀〉(同上)は、「使下…相撲上」とルビを振る。 ルビは後世のものかも知れないが、もし原文からなら鎌倉時代に「相撲」に動詞「とる」を用いたことになる。 ただ、それが上代まで遡るかどうかは不明である。 《喟然頽歎曰》 喟然、歎はいずれも「なげく」と訓読し、重複する。そこで「喟然頽歎」をまとめて「なげく」と訓むのが、 〈釈紀〉である。曰く「喟然頽歎テ曰。」。 しかし、この場合「頽」が無視される。これを無視しない訓読の仕方はないだろうか。 まず「頽-歎」という熟語を探してみたところでは、『中国哲学書電子化計画』による検索では一例もない。 従って、「…頽。歎…」と区切るべきであろう。 「歎曰」については、〈時代別上代〉は連語「なげきのたまふ(歎宣)」の存在を示す。 そこで頽=くづるを余りの後悔によって体が崩れ落ちた様を表すものと解釈し、「体が崩れる」と「言葉を宣う」を並べ、 双方に「なげき-」を付けて語調を整えたと見ることは可能である。即ち「喟然頽/歎曰」⇒「歎崩而歎宣」〔なげきくづれてなげきのたまふ〕。 対句を構成するとき、同じ倭語に異なる漢字を当てる装飾的な書法は、古事記の序文に「歳次-月踵」など多数ある(第十四回)。 《徽纒》 徽纒は滅多に見ない語だが、文脈から見れば罪を赦して解くものは「縄」である。 実際、〈釈紀〉(同上)は「用テ解二徽纒ヲ一。」と訓み、 頭注に「纒、或当作縄」〔纒、あるは縄に作るべし〕とある。 しかし、「徽纒」から縄という意味を汲みとるのは、なかなか難しい。 「徽」は校章・社員章・議員バッヂの類、あるいは琴の弦を分割する目印。「纒」は自動詞の「まつはる」、他動詞の「まつふ」であるから、 「結(ゆは)ひ綱」は、かなりの意訳である。 「徽纒」の意味を生かしつつ何とか敷衍すれば、罪人の目印がデザインされた衣を着せて縄などできつく巻き付けるという意味であろうか。 《大意》 九月、 木匠(こたくみ)、韋那部真根(いなべのまね)は、石で作った 斧を振るって木材を削り、終日削っていても誤って刃で負傷することはありませんでした。 天皇(すめらみこと)が散策してそこに通りかかり、不思議に思い、 「常に、石斧を誤って当ててしまうことはないのか。」とお尋ねになりました。 真根は 「最後まで誤ることはありませぬ。」とお答えしました。 そこで采女(うねめ)を召し集め、衣・裳(も)を脱がせて下帯を着けさせ、 屋外で相撲を取らせました。 すると真根は、暫く手を止め、 仰ぎ見ながら削る作業を始めると、不覚にも手元を誤り刃で負傷しました。 因って天皇は、 「どこの野郎だ。 朕を恐れず、不貞〔=不忠〕の心をもち、みだらに欲しいままに軽答するとは。」と叱責して、 物部に身柄を渡して、野外で刑に処しました。 そこに同じく真根に伴った匠がいて、真根を嘆き惜しみ歌を詠みました。 ――可惜(あたら)しき 韋那部の匠 懸けし墨縄(すみなは) 其(し)が亡けば 誰(たれ)か懸けむよ 可惜(あたら)墨縄 天皇はこの歌をお聞きになり、 一転して悔い惜しむ気持ちが生まれ、嘆き崩れて、 「危うく人を失ってしまうところであった。」と嘆かれ、 直ちに赦使(ゆるしのつかい)を遣わし、 甲斐の黒駒(くろこま)に乗せ、刑場に馳けつけさせて中止させ、赦免なされました。 よって、縄を解き、罪人の印のついた衣を脱がせて、また御歌を詠まれました。 ――ぬばたまの 甲斐の黒駒 鞍着せば 命死なまし 甲斐の黒駒 【ある書には、「命死なまし」に替えて、 「い及(し)かずあらまし」とする。】 《歌意》
反実仮想の助動詞「まし」は、通常は事実Fが既に確定した後に、未練がましく反Fだったらよかったのにと夢想するのだが、 この歌の場合は逆に、反Fの危険があったがFでよかったと胸を撫でおろすのである。 なお、元歌は「い及かずあらまし」で、これを物語歌にするときに「命死なまし」に替えたのかも知れない。 その元歌を、「一本」として律儀に残したとも考えられる。 ただ「い及かず」だけでは漠然としていて何が及ばなかったかがよく分からないから、原歌はもっと長かったのだろう。 まとめ 三月条、歯田根命は、莫大な献上物をしたから赦免されたと誇っている。 目大連がそれを受け入れてしまったことを、天皇は決して快く思っていない。 だから、その献上物を野ざらしにしたことが、「露置」「土」という言葉から読み取れる。 そして目大連が「そろそろお納めくださいませ」と進言したとき、遂に怒りが爆発して 「それなら長野村をお前にくれてやる〔だから、そこに置いてあるものをどうしようがお前の自由だ〕。」と言い放ったのである。 それでも目大連を罷免できないところに、天皇と物部氏との力関係が現れている。 物部氏が後ろ盾だと見られることについては三年条で、枳莒喩が石上神宮に逃げ込んだことから 「物部氏は雄略天皇を支える有力な勢力だったのだろう。 物部氏はもとは安康天皇を推していたが、 その亡き後は雄略天皇を後継者と認めて改めて推したという史実が、この話に反映しているように思われる」と考察した (三年まとめ)。 九月条では、人民を欲しいままに処刑しようとして、 周囲の諫言や歌によって思いとどまる類型の話がまた一つ加わる。 伝説では直前で救われる形に仕立て上げられるが、実際には多くが処刑されたのだろう。 暴政によって民衆が受けた心の傷が、このような伝説となって残ったと思われる。 |
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⇒ [14-16] 雄略天皇16 |