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2018.08.07(tue) [14-07] 雄略天皇[7] ▼▲ |
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17目次 【七年七~八月】 《蜾蠃登三諸岳。捉取大蛇奉示天皇》
膂力の意味はほぼ腕力であるが、膂=背骨であるから、体幹を中心とした全身の筋力というイメージとなる。 なお「膂」(膐)の成り立ちは、「旅(つら)なる」+肉月で、椎骨が連なる様に由来するという(右図)。 《雷》 漢語の「雷」は自然現象としての雷で、上代語では「いかづち」という。「いかづち」はもともと「厳ツ霊」の意で、自然現象のカミナリはその拡張である。 記上巻及び神代記で黄泉の伊邪那美の遺体各部から出現した「雷」〔イカヅチ〕は、逆に字の本来の意味とは異なる「雷」の使い方で、本質的には釈訓である。 よって七年条では、三諸岳の大蛇そのものを指してイカヅチというのか、上空で自然現象として発生したイカヅチなのかという問題が生じる。 雄略帝の十四巻はα群〔β群よりも純正漢文に近い;第193回〕とされ、 漢字はほぼ中国語における意味が用いられていると考えられる。 加えて、「虺虺」は雷鳴のことだから、自然現象の方であろう。 よって大蛇(をろち)は自然現象の雷を呼び、目をカッと見開き人を睨みつけた。天皇は大蛇を怒らせたのは「不斎戒」の故だという引け目もあったのだろう、 早々に自分の目を手で塞いで視線を避け、宮殿に逃げ込んだ。 三諸山のご神体をこの目で見たいから捕まえて持って来いと平気で命じる傍若無人な天皇であるが、 いざ目の前にいる御神体の怒りには、からっきし弱い。 《弓削部》 〈姓氏家系大辞典〉は、「職業部野の一にして、 弓を作るを職業とせし品部也。 綏靖紀には弓部に作り、又垂仁紀に『神弓削部』と云ふを載せたり。 中世に及ぶも、その一部は官戸として残り、雑工部に編入せられ、令集解に『雑工部。古記、及び釈に云ふ、 別記に云ふ、弓削三十三戸』と載せたり」と述べる。 ――綏靖紀には、「使二弓部稚彦一造レ弓」〔弓部稚彦をして、弓を造らしむ〕。 (綏靖天皇即位前紀)。 ――垂仁紀には、「神弓削部…并十箇品部。賜二五十瓊敷皇子一。」 (垂仁天皇紀三十九年条)。 ――『令集解』〔868年頃〕は、養老令の私撰の解説書。令義解とは別書。 日本で出土する最古の鏃は、縄文時代のものという。だから弓矢づくりに従事する技能集団の起源も、相当古い時代に遡ることになる。 《小女・大女》 普通の訓み方なら、小女は「をとめ」、大女は「をむなめ」だと思われるが、 それらの語には女性としての魅力・美という語感を伴う。 ここでは年齢あるいは体格の差を即物的に示すものだから、それに応じた訓みが望ましい。 価値の評価を伴わずに女性一般を表す語としては、「をみな」がある。 なお、「小女」は次に「幼女」に言い換えられるので、大小は、年齢と体格の両方について言ったと思われる。 《身毛君≫
〈倭名類聚抄〉には{美濃国・武藝【牟介】郡}。 その祖については、景行天皇段に「大碓命…娶二弟比売一。生子-押黒弟日子王【此者牟宜都君等之祖】」 (第122回)。 景行天皇の皇子で、倭建命の兄である大碓命が、美濃国で弟比売を娶って生まれた子が牟宜都君の祖であるとする。 また、上宮記に「凡牟都和希王」があるが、 こちらは応神天皇と同一人物とされるので、記とは別系統の神話らしい。 《前津屋の戯れ》 少女を天皇、体格のよい大人の女を自分に見立て(おそらく)相撲を取らせ、 少女が敗れるのを見て悦に入るはずであった。 単なる戯れ事だったのに、 意外にも少女が勝ったのを見て怒りが沸騰し、本気で斬ってしまう。 それではということで、今度は大小の鶏を闘鶏させた。小さい鶏を天皇に準え、胴体の羽毛を抜き翼の羽を切り取り見苦しい姿にした。 そして大きい鶏は自分に準えて、脚を鈴で飾った。 しかし、今度も羽毛を抜いた方が勝ったから、またまた太刀を抜いて斬った。 雄略天皇はこの話を聞き、前津屋の叛意を見て取り兵を送って征伐した。 戯れ事に過ぎないのに殺すのは天皇も大人げないように見えるが、前津屋はその前に虚空を帰国させて上京を禁じたのだから、 既に反乱は始まっていたのである。 《大意》 七年七月三日、 天皇(すめらみこと)は、少子部連(ちいさきこべのむらじ)蜾蠃(すが)に詔を発し、 「朕は、三諸岳〔御諸山(みもろやま)〕の神の姿を見たいと思う。 【或る言い伝えでは、この山の神は、大物主神とする。】 【或いは、菟田墨坂の神であるという。】 お前は、人を越える筋力の持ち主である。自ら行って捕えて来なさい。」と仰りました。 蜾蠃は 「行ってその捕獲を試みます。」とお答え申しあげました。 そして三諸岳に登り、大蛇(おろち)を絡め獲り、天皇にお示しました。 天皇は斎戒せず、雷鳴が鳴り響き、目は鋭く赤々と輝いていました。 天皇は恐ろしくなり、御目を覆って見ないようにして、大殿の中に戻られ、 三諸岳に放させ、改めて雷(いかづち)の御名を賜りました。 八月、官員の吉備弓削部(きびのゆげべ)の虚空(おおぞら)は、取り急いで家に帰りました。 吉備の下道臣(しもつみちのおみ)前津屋(さきつや) 【或る文献によれば、国造(くにのみやつこ)吉備臣(きびのおみ)の山(やま)】 は、虚空を留めて何か月も過ごさせ、 都に上ることを敢えて許しませんでした。 天皇は、身毛君(むけのきみ)の大夫(ますらお)〔人名〕を遣わして召喚させ、 虚空(おほぞら)は召喚されて来てこのように申しあげました。 「前津屋は、 少女を用いて天皇(すめらみこと)に見立て、大人の女を用いて自分に見立てて競わせ、互いに闘わせました。 そして幼女が勝ったのを見て、直ちに太刀をを抜いて殺しました。 また、小さな雄鶏(おんどり)を天皇の鶏と呼ぶことにして、羽毛を抜いて翼を剪断し、 大きな雄鶏を自分の鶏と呼ぶことにして、金の鈴を蹴爪のところに結んで 競わせ、闘わせました。 そして羽毛を抜いた鶏が勝ったのを見て、また刀を抜いて殺しました。」と。 天皇はこの言葉を聞かれ、 物部(もののべ)の兵士三十人を遣わして、前津屋と一族の併せて七十人を誅殺させました。 まとめ
八月条の吉備の国には、古代に強力な独立氏族が存在したことを伺わせる材料がある(右表)。 中央政権に服属した後も独立志向があり、時に反乱を起こす素地となったか。 若しくは、書紀編者の意識に、吉備の地域性についてのこのような認識があったことが素地となって、この話が組み立てられたのかも知れない。 |
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2018.08.12(sun) [14-08] 雄略天皇[8] ▼▲ |
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18目次 【七年是歳(一)】 《吉備上道臣田狹》
鉛は金属の鉛のほか、顔料「鉛白」をも意味する。 鉛白は白色の顔料で、化学式は2PbCO3・Pb(OH)2。 〈持統天皇紀〉に「賜二沙門観成絁十五匹綿卅屯布五十端一。美二其所レ造鉛粉一。」 〔沙門観成に絁十五匹、綿三十屯、布五十端を賜る。其の造らえし鉛粉を美(ほ)めき〕とあり、 沙門〔伝統訓:ほうし(法師)〕の観成が鉛粉を製造したと述べる。 <wikipedia>鉛白の発色は人間の美白肌の色彩として大変に美しく見えるため、洋の東西を問わず人間が肌に塗るおしろいの発色成分として用いられていた。</wikipedia> 従って、「鉛花弗〔=不〕御」は、鉛粉による化粧も、花で飾ることも必要としないほど美しいという意味だと解釈できる。 《拝》 拝には「拝命」の意味があり、 これは任命される立場から遜っていう語である。天皇を主語として、下の者に任命するときには使わない。 それでも一度は「任命」の意味で他動詞に転用したものと考えたが、 〈中国哲学書電子化計画〉をざっと見る限りでは、その使い方は「拝む」あるいは「拝んで~する」ばかりである。 そのうち「拝」「為」を組み合わせた例は、『新序』〔前漢〕「雑事一」に「復召翟黄。拝為上卿。」 〔また翟黄を召し、拝して上卿〔上級の卿〕とす〕があり、渋る相手を拝み倒す意味と見られる。 やはり、ここでも「拝む」を適用すべきかも知れない。だとすれば、天皇の方が絶対的に上の立場ではあるが、 無理を承知でお願いだからと頼み込む様子を表したものと考えるしかない。 田狭は絶対に稚媛を離したくないはずだから、天皇が「近いうちに必ず稚媛をお前の任地に送るから」などと巧言を尽くして説得する光景が目に浮かぶ。 そして田狭を任那に送るや否や、「俄かに」前言を翻して自分の物にしてしまうのである。 こうしてみると、「俄」という副詞も絶妙に嵌る。 《任那国司》 「国司」とは、律令国の上位四官=守(かみ)・介(すけ)・掾(まつりごとひと)・目(さかん)を指す。 ここでは、任那を国内の領土と同等に表現したもの。 《吉備海部直》 〈姓氏家系大辞典;以下「大辞典」〉によれば、 「吉備海部直: 吉備海部の伴造たりし氏にて、古事記、仁徳段に 「天皇・吉備海部直の女、名は黒日売、〔中略〕 此の吉備海部直が山陽吉備の人なるは、天皇・此の黒日売を恋ひ慕ひ給ひて、「吉備国に行幸云々」と見ゆるによりて知る事を得。 〔中略〕 吉備国造の紀伊国吉備なる考証に併せて、此の氏をも紀伊に当つる人多し。されど、仁徳段の黒日売と云ひ、 又雄略紀の赤尾が吉備上道氏と事を共にするより見れば、中国吉備にも、吉備海部直のありしや明々白々なり」。 吉備と紀伊の関係については、「吉備海部直は早くより紀伊の海部を受領し、 其の地に吉備国造を建設せしが、猶ほ一族は中国の吉備にもありたるなるべし」と推定している。 また「海部直」と「国造」の関係については、同辞典は海部直が国造を称するのは珍しくないと述べる。 《紀伊国の吉備国造?》 〈国造本紀〉にある「吉備国造」は、並び順から見て明らかに山陽である。 現在一般には「紀伊国の吉備国造」説は殆ど取り上げられていない。 それでは、この説はどこから生まれたのか。 〈大辞典〉の「吉備」の項に、『倭姫命世記』から 「木乃国奈久佐〔紀伊国名草郡〕浜宮に遷り、 三年を積むの間・斎き奉る。時に紀伊国造・舎人紀麿、良地口御田を進む。 五十四年、吉備国中方浜宮に遷り、四年斎き奉る。 時に吉備国造・采女吉備津比売、又地口御田を進む」が引用され、どうやらこれを根拠としたようである。 この「吉備国中方浜宮」を名草郡から近距離にある、〈倭名類聚抄〉{紀伊国・在田〔有田〕郡・吉備郷}と解釈したようだ。 ただ、この引用部分から合理的に読み取れるのは、紀伊国造と吉備国造に同族関係があったらしいということだけである。 【七年是歳(二)】 《西漢才伎歡因知利在側》
葦原中国において大国主神を筆頭とする、いわゆる「くにつかみ(祇)」とは概念が異なり、 百済国の土着の神のことだと考えられる。 《領項有何窂錮》 「領項」は領(あたま)と項(うなじ)。ここでは生きる姿勢、もしくは「重要なこと」の意味であろう。 「窂錮」は「牢固」に通ずると見られる。 つまりは、天皇の命令を守って新羅を攻めようとした息子に対して、「この石頭め」と言って責めたのであろう。 《通於日本》 「通於日本」には違和感がある。通常は「順於朝廷」のように書くのではないだろうか。 百済の古文献の類に「通於倭」などとあったのを、そのまま用いたような印象を受ける。 《国家情深…》 「国家情深/君臣義切/忠踰白日/節冠青松」は詩文体で、上代語への置き換えは難しい。 特に「忠」「義」の本来の意味での和語への訳出は、ほぼ不可能である。 この部分の後半で「忠節」を二文の頭に分けて置く。忠節は「踰二白日一」〔時をこえ〕、 また「冠二青松一」〔青松(永遠の緑)に冠す(こえる)〕。 簡単にいえば、「忠節は永遠なり。」である。 松は常緑樹で落葉しないから、永遠に変わらぬ心を表すものと考えられる。 一文目の「君臣義切」は、文脈から見て君(天皇)と臣(臣民)の立場を重んじて、謀反する夫への義を絶つ意だと思われる。 《大嶋》 弟君は新羅に入国していないから、大嶋は少なくとも新羅の領地ではない。 地理的に見れば済州島かも知れないが、済州島には既に「枕彌多礼(とむたれ)」の名があり、おそらく独立国である(応神天皇紀八年)。 「大嶋」の特定は困難である。 【七年是歳(三)】 《遣日鷹吉士堅磐固安錢使共復命》
その後、上桃原、下桃原、真神原の三か所に分散させたところから、 最初は狭い地域に多数の人を置いたために、伝染病が発生したと読むことができる。 《詔大伴大連室屋命東漢直掬…》 「掬に~させよ」と室屋に命じるので、この文は二重の使役構造である。 返り点を入れると、 「詔下大伴大連室屋命中東漢直掬以二新漢陶部…等一遷二上-居于…三所一」 となる。 これは圧縮された書法で、通常の形に直せば「詔大伴大連室屋曰『汝宜命東漢直掬以新漢陶部…等遷居于…三所』」となろう。 訓読は、この直した形を使って「大伴大連室屋詔に詔(おほせごと)してのたまひしく、『いまし東漢直掬におほして…すべし』とのたまひき。」とした方が分かり易そうである。 《新漢陶部高貴》 「新漢陶部…」以下、新たに渡来して編成された職業部と、その代表者名が列記されている。 〈釈紀〉に、その読みが示されている。 「新漢陶部高貴【イマキノアヤノスヱツクリカウくヰ】。 ○鞍部堅貴【クラツクリケムクヰ】。 ○画部因斯羅我【エカキイムシラカ】。 ○錦部定安那錦【ニシコリチヤウアムナゴム】。 譯語夘安那等【ヲサレウ/バウ/アムナ】。 ○漢手人部【アヤノテヒト】。衣縫【キヌヌヒ】。 完人部【シゝヒト】。【已上不レ可レ読二部字一。】 〔以上、「部」の字を読むべからず〕」。 夘…「卯」の異体字。 完…〈時代別上代〉「「完」は「宍」の誤りであるが、ほとんど通用とみられるほど例が多い。」 部(べ)については、〈姓氏家系大辞典〉においては、例えば「キヌヌヒ」と「キヌヌヒベ」の両方の見出し語を立て、 殆ど同じものとして扱われているので、恐らく両方が通用したと思われる。 〈釈紀〉は「部」を読まない方を推奨している。部を抜いて「鞍堅貴」「画因斯羅我」にすると、部名と人名の境界が見えなくなるので、 読む・読まないに関わらず「部」を入れたのは当然だと思われる。逆に「訳語」は「部」なしで判読できるからつけなかったと見られるから、〈釈紀〉は「+べ」を付けない形が標準だったと考えたのかも知れない。 人名は、〈釈紀〉の時代に通用していた音読みであろう。そこには「ン」を「ム」と表記している。 文字「ン」が使われた最古の例は1058年という(第116回)。 〈釈紀〉の成立は1274年頃で、その「巻二-注音」を見るとほとんど「ム」だが、少数の「ン」が混ざっているので、 過渡期であろうと思われる。 ただ、活版本の『国史大系八巻』(吉川弘文館)は、毛筆による原書の「ム」または「ニ」を「ン」と読み取ったのかも知れない。 国史大系本の初版の刊行は昭和七年〔1932〕で、編者が「ン」の歴史についてどの程度の知識を持っていたかは明らかではない。 《新漢》 七年是歳条では、歓因知利が「韓国から召されるべし」と提言した結果渡来した手人が、「新漢」と呼ばれる。 このように、渡来した手人については漢は事実上「韓」と同義である。 しかし「漢」の字も用いられる根拠はあり、それは秦氏が秦の始皇帝の後裔を自称していたことによると思われる (第152回秦氏)。 応神天皇の時に大量の人民を連れて来帰した弓月王は、秦氏の系図では始皇帝の五世孫に位置づけられている。 「漢」は、「先祖は中国本土出身と自称する勢力を含む」というイメージを反映したものかも知れない。 さて応神朝の渡来民の来帰は伝説化していて、史実は霧の向こうであるが、 新漢については部のリーダーたちの人名や居留地を記し、具体的である。 これらの人名・地名をすべて書紀の執筆時に創作したとは考えにくいので、何らかの古記録に基づくもので、比較的史実に近いのではないかと想像される。 《吾砺広津》
「阿刀: 今河東村大字坂手の辺の旧名也。書紀通証云、城下郡阿刀村、在坂手村東南今廃。 日本書紀、敏達天皇十二年、召葦北国造阿利斯登子于百済、営館於阿斗桑市、使住日羅、供給随欲。 按ずるに河内渋川郡又阿都の地あり、日羅阿斗桑市館は渋川に非ずや、 雄略紀、七年倭国吾砺広津邑は正く此なり。 鹿の音に草のいほりも露けし〔ママ〕てなみた流るゝ阿刀の村里、[相模家集] 姓氏録に縁れば摂津国にも阿刀の地ありし者の如し、 又其氏号に尋来津氏あり。」 〔阿刀:今の河東村大字坂手の辺りの旧名。 『書紀通証』によれば、城下郡阿刀村が坂手村東南にあるが、今はない。 河内国渋川郡にもまた「阿都」があり、 〈敏達天皇紀〉十二年条に出てくる「阿斗桑市の館」は渋川の阿都ではないだろうか。 しかし、雄略紀七年の「倭国吾栃広津邑」は正に、大和国の阿刀である。 また〈新鮮姓氏録〉によれば摂津国にも阿刀の地があり、同書には「尋来津氏」の氏号も出てくる。〕 文中で、用いられた資料の出典を確認する。 ・『書紀通証』は日本書紀の注釈書、全35巻。宝暦十二年〔1762〕。 ・〈倭名類聚抄〉{河内国・渋川郡・跡部【阿止部】〔あとべ〕郷}。 ・〈五畿内志〉巻二十三-大和国城下郡「村郷」の項に、「坂手【属邑一】」。この「属邑」が「阿刀村」か。 ・同上、「文苑」の項には、 「阿刀村里【相模家集曰・泊瀬爾詣耳・鹿乃音爾・草乃庵毛・露気久弖。涙流流・阿刀村之里」】」 〔相模家集曰。泊瀬に詣づのみ。しかのねに くさのいほりも つゆけくて なみたながるる 阿刀村のさと〕。 ・相模は、平安時代後期の歌人〔998頃~1061以降〕。 ・〈姓氏録-未定雑姓〉〖摂津国/阿刀部/山都多祁流比女命四世孫。毛能志乃和気命之後也〗。…「ヤマトタケルヒメ命」の名は興味深いが、いかなる人かは不明である。 ・〈姓氏録-皇別〉〖皇別/広来津公/下養公同祖/豊城入彦命四世孫。大荒田別命之後也〗。 ・〈姓氏録-未定雑姓〉〖右京/尋来津首/神饒速日命六世孫。伊香我色雄命之後也〗。 相模歌集によって平安時代には「阿刀村」の存在が確認され、『書紀通証』・〈五畿内志〉によって江戸時代までは存続していたことが分かる。 坂手村の名は現在の「田原本町阪手(大字)」に引き継がれ、阿刀村はその南東にあったことになる。 広津(ひろきつ)が「津」だとすれば、近くを流れる大和川沿いであろうと思われる。 大和川は、大阪湾と朝倉宮を結ぶ大動脈であったと考えられるので、ここが広津だとする考え方は妥当であろう。 【大意】 この年、吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)田狭(たさ)は宮殿でお側(そば)に侍り、 盛んに稚媛(わかひめ)を朋友に自慢してこう言いました。 「天下の麗人に、私の女に比べ得る人はいない。 ――茂美(もび)〔栄えて盛んなさま〕にして綽然(かんぜん)〔ゆるやかなさま〕、 諸(もろもろ)の好ましいことを備え、 美しさに輝き、また温和で、 種々のことにどれも満足できる。 鉛粉〔白粉〕や花で飾らなくても、 蘭の恩恵を加えなくても、 世に滅多にない、類(たぐい)希(まれ)な人だ。 と歌われるような人で、今の時代に、一人だけ抜きんでている。」と言いました。 天皇(すめらみこと)は、遠くから耳をそばだててこれを聴き心から悦び、 自ら稚媛を求めて女御にしようと思われ、田狭に頼み込んで任那(みまな)の国司とし、 俄かに稚媛を寵愛されました。 田狭臣が稚媛を娶せていたときに、兄君(えきみ)弟君(おときみ)が生まれていました。 【別の書にいう。 田狭臣の婦人は名を毛媛(けひめ)といい、 葛城襲津彦(かつらきのそつひこ)の子、玉田宿祢(たまだのすくね)の)娘である。 天皇は、容貌の雅にして麗しいと聞き、夫を殺して自ら寵愛した。】 田狭は、既に任務地にいて、天皇が妻を寵愛されたと聞き、 〔復讐のために〕救援を求めて新羅に入ろうと思いました。 当時、新羅は日本(やまと)に従っていませんでした。 天皇は、田狭臣の子の弟君と吉備の海部直(あまのあたい)の赤尾(あかお)に詔して、 「お前たちは、新羅に行って罰すべし。」と命じました。 そのとき、西漢(河内のあや)の手人〔=工人〕、歓因知利(かんいんちり)が天皇の側に仕えていて、 こう進言しました。 「私以上に巧みな工人が、多く韓国(からくに)にいます。招集して使われるのが宜しいでしょう。」と申し上げました。 天皇は群臣(まえつきみたち)に詔して、 「それであれば、すぐに歓因知利を弟君等を加えて、百済に道を取り、 併せて勅書を給わり、巧みな工人を献(たてまつ)らせよ。」と仰りました。 そこで弟君は、命令を負って兵を引き連れて百済に到り、次に新羅に向かいました。 すると国の神が老女に化身して、忽然として道に現れ、 老女に逢った弟君は、国の遠近を尋ねました。 老女はお答えして 「このままもう一日行けば、その後に到着されるでしょう。」と申し上げました。 弟君は、道は遠いと自分で判断し、征伐せずに戻りました。 百済から貢がれた今来(いまき)の手人を〔百済国内の〕大嶋に集め、 風を待つと称するにかこつけて淹留(おんりゅう)し、数か月が過ぎました。 任那の国司、田狭臣は、弟君が征伐せずに戻ったことを喜び、 密かに百済に使者を送り、弟君を戒めて、 「お前の頭の、いかに牢固にして新羅を征伐しようとすることか。 伝え聞くところでは、天皇は我が妻を寵愛し、遂に皇子を生ませたという。 【皇子のことは、既に上文〔元年三月条〕に見る。】 今、恐れるのは、災禍が私の身に及ぶことで、背伸びをして遠くの様子を探らなくてはならない。 我が子よ、お前は百済に依拠して、百済を日本(やまと)に通じさせることがないようにせよ。 私は任那を拠点とし、また日本に通じることはない。」と言いました。 弟君の妻、樟媛(くすひめ)は、 ――国家への情深く、 君臣に〔夫との〕義を切り 忠は白日〔とき〕を踰(こ)えて 節は青松〔永遠の緑〕を冠(こ)ゆ と歌われるような人だったので、このような謀叛(むほん)を憎み、 夫の弟君を密かに殺し、 室内に埋めて隠しました。 こうして海部の直(あたい)赤尾と共に百済から献られた手末(たなすえ)の手人を率いて、大嶋に滞在しました。 天皇は、弟君の不在を聞き、 日鷹吉士(ひたかきし)堅磐固安銭(かたしわのこあんせん)を遣わして、 樟媛・赤尾と共に復命させ、 遂に倭(やまと)の国の吾砺(あと)の広津(ひろきつ)邑に住まわせました。 すると、〔流行り〕病で死者が多数出ました。 その故に、天皇は大伴大連(おおとものおおむらじ)の室屋(むろや)に詔され、「東漢(やまとのあや)の直(あたい)掬(つか)に命じて、 新漢(いまきのあや)の陶部(すえつくりべ)の高貴(こうき)、 鞍部(くらつくりべ)の堅貴(けんき)、 画部(えかきべ)の因斯羅我(いんしらが)、 錦部(にしきべ、にしきおりべ)の定安那錦(じょうあんなこん)、 訳語(おさ)の卯安那(ぼうあんな)等を、 上桃原(かみつももはら)・下桃原(しもつももはら)・真神原(まかみはら)の三か所に遷居させよ」と、室屋に命じました。 【ある記録に言う。 吉備臣弟君は、百済から帰還し、 漢(あや)の手人部(てひとべ)・衣縫部(きぬぬいべ)・宍人部(ししひとべ)を献上した。】 まとめ 七年是歳条は、稚姫を天皇に奪われた田狭の話、新羅を攻撃しようとした話、それに新漢の渡来という三つの話が混在している。 それでも話の流れにはそれほど無理はなく、さまざまな話が同時進行するのはむしろ現実的である。 よって、何らかの実記録が残っていて、それらを材料にして書いたような印象を受ける。 さて、書きっぷりは全体に簡潔で、しばしば漢字一字が意味することに大いなる想像力を働かせる必要がある。 具体的には、「鉛」「拝」「詔」などで考察したとおりである。 雄略紀を含む「α群」の著者は中国人とする説があり、このような書きっぷりが中国語を母国語とする人の感覚なのかも知れない。 さらに、日本(やまと)を「中国」と表現しているのが注目される。 もともと「中国」とは、中華思想によって文明の先進地域を自称したもので、 それを日本に適用したものであるが、α群の著者にはその「中国」を一般名詞とする感覚があったように思われる。 |
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2018.08.26(sun) [14-09] 雄略天皇[9] ▼▲ |
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19目次 【八年】 《遣身狭村主青等使於呉國》
一般に「動詞(V)+名詞(N)」は、動詞句「VレN」、修飾語+被修飾語「所VN」の両方に使われる。 《太所不計》 漢籍をざっと見ると、「所V」を「不」で否定するときは、常に「所不V」の語順となっている。 ――例えば、『論語』衛霊公:「己所不欲勿施於人〔おのれの欲せざること人に施すなかれ〕」など。 従って「太所不計」の場合は「不レ計」〔はからざり〕を名詞化する。 したがって、「太所不計」は「有所不計」の「有」を形容詞「太」に置き換えた存在文で、 事実上の主語は「所不計」である。すなわち、「計らざることはなはだし」。 《漢籍との対応》 漢籍に、次の類似表現が見出される。 『芸文類聚』巻三十四:「命之脩短始則有終。」 『魏書一』武帝紀:「當此之時若綴旒然」。 『魏書四』高貴郷公紀:「吾之危殆過於累卵」。 《雄略天皇八年》 雄略天皇八年〔甲辰;464〕は、『三国史記』によれば新羅王慈悲麻立干七年に当たる。 『三国史記』新羅本紀から、その前後の対倭国、対高句麗の記述を抜き出す。
《人殺家内所養鶏之雄者》 「人殺二家内所レ養鶏之雄一者」の文末の「者」は、ここでは「也」(なり)と同じである。 なお「者」の訓を利用して、「~ものなり」という訓読も可能だと思われる。 一部に見られる「鶏のうち雄であるもの」とする解釈には同意できない。 「人」を主語とする文は命令形とは考えられず、単に「人とは~ものである」という一般命題を述べるものである。 この意味は、「雌鶏は卵を産む間は生かされるが、雄鶏はすぐに食肉にされるものだ」だと見られる。 つまり、高麗人を「雄鶏=生かしておく意味のない存在」に譬えて、殺害すべしと暗示する。そして「国人知レ意」とあるから真意は伝わったのである。 こうして直接表現によって相手国を刺激し過ぎることを避けたのかも知れないが、 実質的には大差ないだろう。 【任那王】 《勧二膳臣斑鳩等一救二新羅一》
遡って倭建命伝説の定型は、皇軍という名前だけで相手は縮み上がり、戦わずして降伏するものであった。 ここでもそれに倣い、高麗軍は戦わずして「皆怖」づのである。 しかしその後の話の展開を見ると、膳臣らは自力を振り絞って全軍を労い、叱咤激励してどうにか戦闘体制を整え、さらに地下に潜んでゲリラ戦を展開する奇策を用いることによって何とか劣勢を挽回したのである。 だから、「皆怖」の主語としては膳臣軍を持ってきた方が、筋書きが納得できることになる。 そうすれば「膳臣等未レ至レ営止」も、 兵営に到着する前に、恐怖で足が止まってしまった様子を表すこととなり、これまた自然である。 だが、もう一度改めて「高麗諸将未下与二膳臣等一相戦上皆怖。」を検討してみても、「高麗諸将」が主語であることは動かない。 もし膳臣軍が怖気づいていなければ、全軍を奮い立たせるためにそれほどの努力は要せず、 したがって「自力で全軍を労」ったと書く部分は無意味になってしまう。 思うに、草稿段階では「膳臣等諸将未与高麗相戦皆怖。」になっていたのだが、 文脈を理解しきれない人の微視的な意見が勝って、倭建命伝説風に直されたのではないだろうか。 《将成人地殆於此役》 漢字の「人」にも、日本語の「ひと」と同じく他人の意味がある。 よって「将成人地殆於此役」が「この役(戦争)に於いては、殆ど他人の地になるところであった」を意味することは分かるが、 文法的な理解は二通り考えられる。 ① 「於」はもともとは動詞「おいてす」〔=在り〕で、これを適用すると文は成立する。 即ち、動詞句「将成二人地一」が名詞化して主語、「殆」は副詞「ほとんど」。 ――将レ成二人地一、殆於二此役一。 〔将に人の地と成らんこと、殆ど此の役に於いてす。〕 ② 「殆」を形容詞「あやうし」として、述語とすることもできる。 ――将レ成二人地一、殆二於此役一。 〔将に人の地と成らんこと、此の役に殆(あやふ)かりき。〕 漢文読解の要は動詞を定めることであるが、①②のように、殆・於のどちらを動詞だと考えても成り立つ。 《乃夜鑿險為地道》 穴を掘り地下通路を廻らして奇兵が隠れ、その上を敵軍が通過するタイミングを見計らって、 飛び出して攻め、大敗させた。これはベトナム戦争〔1955~1975〕で、南ベトナム解放民族戦線によって用いられたゲリラ戦法でもある。 この興味深い部分を、単なるフィクションとして片づけるのは惜しい。 ところが、この一節は魏書・武帝紀をそのまま使用したものである。曰く。 『魏書一』武帝紀-三年春三月: 「公軍前後受敵。公乃夜鑿險為地道。悉過輜重設奇兵。 會明賊謂公為遁也。悉軍來追。乃縱奇兵步騎夾攻。大破之。」 この「賊」を「高麗」に、「公」を「膳臣等」に置き換えたものである。 なお、この前段の「膳臣等未至営止…」も、「武帝紀」興平元年を下敷きにしている。 曰く。 「未至營止。諸將未與太祖相見皆怖。太祖乃自力勞軍。令軍中促為攻具。進復攻之。與布相守百餘日。」 これは、その前の戦いで負傷した太祖(武帝)の到着が遅れ、「太祖になかなか会えない諸将は皆怖気づいた。 やがて到着した太祖は自ら軍を励まして…」という文脈の中にある。この文中では「布」が敵の名である。 書紀はこれをそのまま用いたために一部辻褄が合わなくなったと見られるが、 前述したように「高麗諸将未与膳臣等相戦皆怖。」の「高麗」と「膳臣等」を入れ替えると、きれいに意味の通じる筋書きとなる。 《二国之怨》 「二国之怨」について「この二国は新羅と百済である」という原注が必要になったのは、 基になった資料に膳臣等による救援の件を挿入した結果、 文意が不明瞭になったためと思われる。 古文献に高句麗・新羅の紛争を描いたものがあった。また、膳臣等が新羅に侵攻した記録もあった 〔両方とも三国史記に残っている〕。 恐らくその両者を組み合わせて、任那王と膳臣等が介入して新羅を救ったかの如き話を創作したのが八年条であろう。 そして膳臣等の目覚ましい活躍にリアルさを付与するために、『魏書』武帝紀の一節を利用したのである。 【大意】 八年二月、 身狭(むさ)の村主(すぐり)青(あお)、桧隈(ひのくま)の民使(みたみつかひ)博徳(はかとこ)を使者として、 呉(くれ)の国に遣わしました。 天皇の即位以来この年まで、新羅国は背(そむ)き欺いて、 貢調せず、八年となりました。 それでも、葦原中国(あしはらのなかつくに)〔倭国〕の心を大いに恐れ、高麗(こま)と修好しました。 それ故に、高麗王は精兵百人を遣わして新羅を守らせました。 ある頃、高麗の兵士が一人、暇を取って国に帰りました。 その時、新羅の人を馬丁として雇い、 振り返って言うには、 「お前の国が我が国によって破られることも、そう遠くはなかろう。」 【ある記録には、 「お前の国が我が国の領土になってしまうのも、遠いことではないだろう。」】と言いました。 その場馬丁はそれを聞き、腹を壊したと嘘をついて仕事を降り、その後、 遂に国に逃げ入り、聞いた話の内容を説明しました。 そこで新羅王は、つまりは高麗が守ったのは偽りであったと知り、 使者を遣わして駆け巡らせ、 国の人に 「人は、家の内に飼う鶏のうち、雄は殺すものである。」と告知させました。 国の人は、その意図を理解し、国内にいた高麗の人を尽く殺しました。 このとき遣わされた高麗人の一人は、隙を見つけて脱出することができ、 自分の国に逃げこんで、事柄を皆つぶさに説くこととなりました。 高麗王は、直ちに軍兵を発して、 筑足流(つくそくる)城【ある文献には、都久斯岐(つくしき)城と言う。】に集合して、 遂には歌い舞い、宴を張りました。 そして、新羅王は夜に高麗軍が四方を囲んで歌い舞うのを聞いて、 敵が尽く新羅の地に入ったことを知りました。 そこで任那王に使者を送り、 申し上げるに、 「高麗王は我が国を征伐しようとして、まさにこの時、綴旒(ていりゅう)然としている〔風にただよっている〕。 国の危殆(きたい)〔=危機〕は、累卵を過ぎている。 命の長短は、とても計ることはできない。 伏して願わくば、日本府の軍勢と元帥たちに救援を乞う。」と申し上げました。 そのため、任那王は膳臣(かしわでのおみ)斑鳩(いかるが)、 吉備臣(きびのおみ)小梨(おなし)、 難波吉士(なにわのきし)赤目子(あかめこ)に勧め、 新羅に行って救援するよう促しました。 膳臣の軍は、兵営にまだ至らずに足を止めてしまい、 高麗の諸将がまだ膳臣らと会戦する前に、皆怖気ずいていました。 膳臣らは、自ら力を振り絞って軍を励まし、 軍中に攻具を用意し、速やかに進軍するように促しました。 高麗(こま)と互いに守備し、十余日に及びました。 そこで、夜間に固い土に穴を掘り地下道を作り、敵の輜重(しちょう)をすべてやり過ごして、ゲリラを配置しました。 夜が明け、高麗は膳臣らが遁走したと思い、全軍で追撃しました。 即ち、ゲリラ作戦は欲しいままに実り、歩騎〔歩兵と騎兵〕が来た時、これを攻撃して大破しました。 二つの国の怨みは、この時から生まれました。 【二つの国とは、高麗と新羅を言います。】 膳臣らは新羅に対して、 「お前たちは至って弱いので、強くなるべきである。 〔日本の〕官軍が救援しなければ必然的に乗ぜられ、そのために今回の戦によって殆ど人の土地になるところであった。 今から以後、豈(あに)朝廷に背くことがあってよいものか。」と言いました。 【任那日本府】 任那国の初出は、崇神天皇紀である。 以後任那国がどのように現れるかを、神功皇后三十九年条【三韓地域の国々】【書紀における任那】で見た。 日本府は、欽明天皇紀に繰り返し現れる。 欽明紀以外に「日本府」が出てくるは雄略天皇紀の一か所のみである。 任那国については〈倭の五王〉において、宋書に「任那国」の記載があることなどから、その存在は6世紀前半までだろうと考えた。 欽明天皇二年〔541〕の時点で「任那国の任那旱岐」は出てこないから、任那国はもう存在していない。恐らくは、加羅に吸収されたのであろう。 欽明紀における「任那日本府」とは、当時倭が任那の再建を試み、そのために現地で活動した吉備臣らのグループのことである (資料[32])。 遡ると国としての「任那国」は、雄略天皇八年〔464〕には小国として存在し、王がいたとしても一応辻褄は合っている。 仁徳朝から安康朝までの期間の倭の朝鮮半島への進出は、神功皇后紀に移されている(神功皇后三年《若櫻宮》など)。 神功皇后紀は、神功皇后の実在性を描き出そうとして、却って一次資料の発掘に努めた形跡がある (神功皇后紀3【記にはない三話】、神功皇后三年まとめ)。 ところが、その結果として「任那」・「日本府」への言及は、ともに皆無である。 「任那国」が百済・新羅に挟まれた地域の小国家群の一つとして存在したとしても、倭との特別な関係は見いだせない。 また、仮に雄略帝の治世に「任那日本府」の類が存在したとすれば、南韓地域の各国に置いた内宮家のひとつであろう(第141回【定内官家屯倉】)。 任那は新羅とは比ぶべくもない小国だから、 新羅が任那王を通して倭の援助を乞うた件は、倭の権威を高めるべく創作された可能性が高い。 『三国史記』-「慈悲麻立干」においては、倭がしばしば新羅を侵犯したことを述べるのを見れば、 「自二天皇即位一至二于是歳一。新羅国背誕。苞苴不レ入二於今八年一。」 の部分の方が史実を反映したものであろう。 八年条は、倭の宰府(みこともちのつかさ)としての「日本府」が、任那国に存在したことを示唆する唯一の部分である。 しかし、この部分は当時の日羅関係から見て、創作の可能性が高い。 国家機関としての日本府を、唯一このような形でしか登場させることができなかったことは、 むしろ「任那日本府」の虚構性を物語るものと言えよう。 まとめ 新羅が任那王に救援を乞う件や、膳臣斑鳩らによるゲリラ戦の展開はなかなか表現が巧みで読み応えがある。 ところが、調べてみるとその肝心な部分が、『三国志』などから借用したものであった。 また、仮に任那王が発した詔そのものが書いてあれば、古記録によるかも知れず真実性が高まるのだが、 詔の文章は書かれず、内容を概念的に示すだけである。 これらのことから見て、「乃使人於任那」以下は、書紀執筆の時点において創作された可能性が高い。 この事実は、任那日本府が虚構であることの傍証になり得ると思われる。 書紀は、新羅-高句麗戦において、日本府を通して倭が介入して新羅を勝利に導いたことにした。いわば我田引水に描き上げたのである。 但し、膳臣斑鳩などの個人名が出てくるところを見ると、新羅で戦闘に参加したことだけについては古記録があったのかも知れない。 |
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2018.08.28(tue) [14-10] 雄略天皇[10] ▼▲ |
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20目次 【九年二月】 《遣凡河内直香賜与采女祠胸方神》
〈姓氏家系大辞典〉は「此の国号〔=凡河内〕は、国内に河内郡のあるを見れば、 その郡名を拡張して一国の名称となりしや〔と〕想像するに難からず。 而して凡は一国を押〔おし〕統〔す〕べしによるべし〔=郡名を一国に押し広げたことによるだろう〕」と述べる。 〈倭名類聚抄〉では{河内【加不知】国}なので、後には「凡」はつけなくなったが、 氏姓には古い形が残る。 神代紀[047]に、「天津日子根命者。凡川内国造…等之祖也。」、 国造本紀の「凡河内国造:今河内国。橿原朝御世〔神武天皇〕。以二彦己曽保理命一為二凡河内国造一。」 から、同辞典は、「彦己曽保理命は天祖の御子天津日子根命の後裔にして凡河内氏族の祖なり」、 そして「凡河内直」は「凡河内国造家の氏姓なり。」と述べる。 《可不慎》 漢籍に「不可」を逆転する形「可不」があるかどうかを調べたところ、確かにある。 「可不慎」もしばしば現れる。 例えば、『説苑』-雑言:「恭敬所以越レ難也。終身為レ之。一言敗レ之。可レ不レ慎乎。」 〔恭敬を続けるのは難しい。一生をかけた行いが一言で敗れる。慎まずにいてよいことがあろうか。〕がある。 「可」は推量の助動詞で、「不レ慎」への疑問を一旦投げかけて、婉曲に真意を示す〔反語〕。 「可-也」は習慣的に「べけむや」と訓読される。「べけ」は「べし」の古い未然形ということになるが、もっぱら後世の漢文訓読体における言い回しである。 実際は、上代には〈時代別上代〉「補助活用ベカリ(ベク=アリ)の未然形〔ベカラ〕が認められる」とされる。
〈倭名類聚抄〉には、郡名としての三島(三嶋)は{越後国・三島郡}のみである。 {三島郷}は各地にある。 しかし、摂津国にも古く「三島郡」があったとされる。 〈倭名類聚抄〉の{摂津国・島上【志末乃加美】。島下【准上】。} 〔しまのかみ郡。上に准(なら)ふ〔=しまのしも〕〕は、律令国郡制定時〔701〕に分割された結果という〔以下、出典は別項に示す〕。 「み-」は美称と受け止められて省かれたようである。 『伊予国風土記』逸文の「津国御嶋」は、摂津国三嶋郡のことである。 そして島上郡・島下郡は明治時代に統合され、復古地名「三島郡」が用いられた。 「藍(あゐ)原」については、〈倭名類聚抄〉{摂津国・島下郡・安威【阿井】〔あゐ〕}があり、 〈五畿内志〉の安威邑に繋がる。 〈神名帳〉に{摂津国/嶋下郡十七座/阿為神社【鍬靫】} (比定社は「阿為神社」大阪府茨木市安威3丁目17-17)がある。 現在の茨木市には、安威(大字)、安威一丁目~四丁目、東安威一丁目~二丁目、 南安威一丁目~三丁目がある(右図:「安威」の範囲)。 欽明天皇紀二十三年に「摂津国三嶋郡」があること、〈倭名類聚抄〉の「あゐ」郷、 河内直香の本貫と見られる河内国に近いこと、筑紫国と難波津を結ぶ瀬戸内海航路は交通の大動脈だったことを併せて考えると、 「三嶋郡」を摂津国三嶋郡と推定することには、妥当性がある。 〈大日本地名辞書〉は、安威の南の「三島村大田の辺りまで」を「藍原」とする。 現在の茨木市の地名に「東太田(大字)」「西太田町」「太田東芝町」がある(右図:「太田」の範囲)。 《大意》 九年二月一日、 凡河内(おおしかうち)の直(あたい)香賜(かたぶ)と采女(うねめ)を遣わして、胸方の神を祀らせました。 香賜は、既に礼拝の所に来て、 行事に及ぼうとするところで、その采女と性的関係を持ちました。 天皇(すめらみこと)はこれをお聞きになり、 「神を祀り幸を祈るのに、慎みなきことがあってよいのか。」と仰り、 直ちに難波の日鷹吉士を遣わして殺させようとしました。 その時香賜は退去し、逃亡して不在でした。 天皇はまた、弓削連豊穂(ゆげのむらじのとよほ)を遣わして、国郡を遍(あまね)く探索させ、 遂に三嶋郡(みしまのこおり)の藍原(あゐはら)で逮捕して斬りました。 【資料-三嶋郡】 《三嶋郡藍原》の項の引用元は次の通り。 《伊予国風土記》 〈釈日本紀〉〔吉川弘文館版〕巻六「大山祇神」所引『伊予国風土記』逸文。 ――伊豫國風土記曰。宇知〔ママ〕郡御嶋坐神。御名大山積神。一名二和多志大神一也。 是神者。所レ顯二難波高津宮御宇天皇御代一。 此神自二百濟国一度來坐。而津國御嶋坐云々。 謂二御嶋一者。津國御嶋也。 〔伊予国風土記に曰ふ。宇和郡(うわのこほり)御嶋坐神(みしまにますかみ)、御名大山積(おほやまつみ)の神。 一(ある)に和多志(わたし)の大神と名づけり。 此の神は、難波高津宮御宇天皇(なにはのたかつのみやにしろしめすすめらみこと)〔=仁徳天皇〕の御代(みよ)に所顕(あらはえ)し。 百済の国自(ゆ)度(わた)り来(き)坐(ま)しき。而(しかくして)津国(つのくに)御嶋(みしま)に坐(ま)す。云々(しかしか)。 御嶋と謂ふは津国〔=摂津国〕の御嶋也(なり)。〕 《五畿内志》 〈五畿内志〉巻第五十四(摂津国之六)-島下郡。 「【村里】安威【属邑一】」 「【山村】安威山【安威村】。安威川」 《大日本地名辞書》 「三島郡:古〔いにしへ〕三島縣あり国郡制置の始め 分割して島上島下二郡を為す、明治廿九年復旧して三島郡の名を立つ。」 「且三島は御島の意にて即〔すなはち〕 島村(今宮島本村大字)を本因と為す。古事記白橿原宮(神武)段云、 三島湟咋之女、勢夜多良比売と、湟咋は今溝咋 村の名存し、島村と相接す。○日本書紀雄略天皇の条に三島郡藍原 とあるは安威郷なる…」 「藍原:安威郷の南より三島村大田の辺までの古名なり。」 まとめ 天皇が遣使して奉幣した記録は、続紀天平九年〔737〕四月乙巳条に 「遣二使於伊勢神宮。大神社。筑紫住吉。八幡二社及香椎宮一。奉幣。」がある(第138回)。 「八幡二社」は宇佐八幡宮及び宇美八幡宮だと見られる。天平年間にはこれらの社が隆盛を誇っていたのに対し、宗像大社はやや衰退していたと見られる。 ただ、この時の奉幣は新羅の悪行を何とかして欲しいと神に告げるのが目的だったから、神功皇后・応神天皇縁の社が中心になるのは尤もかも知れない。 また、出雲大社は垂仁天皇のときに修造したが(第120回)、これも天平九年の奉幣から漏れている。 雄略天皇の頃には宗像社が筑紫の代表的な社として、奉幣されていたことが伺われる。 遡って履中天皇五年には、宗像社の神領を巡ってのトラブルがあった(履中天皇五年)。 |
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2018.09.01(sat) [14-11] 雄略天皇[11] ▼▲ |
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21目次 【九年三月】 《天皇欲親伐新羅。神戒天皇曰無往也》
《莫能視養臣者》 莫は、代名詞として主語の位置に置き、「誰も~しない」という構文を作る。これは、英語のnoone、nobodyに相当する。 「能」は"can"に相当する助動詞、「視養」が動詞。文末の「者」は、断定の語気詞。 また、「莫」を形容詞「なし」として、存在文と見ることもできる。 「能二-視-養臣一」は「所能視養臣」と同じで、者〔ひと〕を連体修飾したものが事実上の主語となる。 【九年三月(その二)】 《遂推轂以遣焉》
「遣」の主語「新羅王」を略した上で、 兵を官軍、衆を新羅軍に使い分けている。 官軍が優勢な場面では、「聞二官軍四面鼓声一…」のように文字数を費やすが、 逆に劣勢となると、「遣衆不レ下」と字数を極端に絞り込み、主語さえも省くので読み取りにくい。 この差は、大本営発表を連想させる。 兵・衆ともに、上代語は「つはもの」「いくさ」なので、漢字の兵・衆のようには字面によって端的に区別することができない。 仮に皇軍を「いくさ」、新羅軍を「つはもの」と使い分けたとしても、聞く者には伝わりにくいだろう。 よって訓読においては、「衆」に「あた〔=敵〕」をつけたり、「遣」に「しらきわうにつかわさえし」などとして補う必要がある。
「岡前(をかさき、をかのさき)」は、一般に峰が突き出た地形による地名と考えられる。 紀伊国には、名草郡に「岡崎」がある。 『和歌山市教育情報ネットワーク』内の学習用資料 「 岡崎を歩く」(和歌山市立博物館/太田宏一)によると、 永承三年〔1048〕の『紀伊国名草郡郡許院(ごんくいん)収納米帳』に「岡前」があるという。 その近くには「岡崎御坊」〔1678創立〕(和歌山県和歌山市森小手穂555)がある。 〈姓氏家系大辞典〉には「丘前来目 ヲカサキノクメ:紀伊国名草郡岡崎より起る。〔中略〕 「続風土記岡崎荘森村古士紀崗前来目連条に 「〔中略〕紀は国の名、崗前は此地の名、来目の連は大伴氏の帥〔ひき〕うる久米武将なれば、此時大伴の 談の連に従ひて新羅の郡に〔中略〕。然れども此外に見はるゝ所なければ、 其の伝及後裔詳〔つまびらか〕ならず」と見ゆ。」とある。 紀伊国に、大伴氏配下の久米連の分流が存在したことが分かる。 古記録に地名があるのを見ると、この人物の存在には現実味がある。 《姓》 和語における「かばね」は古代の役職に起源をもつ一種の称号(①)だが、漢籍の「姓(せい)」は、名前のうち家系を表す部分(②)で、両者の意味は異なっている。 書紀は基本的に中国語として②にとるべきであり、ここの「大伴」も②である。 従って、ここの「姓」を「かばね」と訓読することには問題がある。 ただ、〈学研新漢和〉や〈漢字海〉など一般の漢和辞典では、②にも「かばね」の訓を宛てている。 上代も既に②に和語の「かばね」を通用させていたかも知れないから、実際には何とも言えない。 なお、かばね(尸)〔=しかばね〕の原義は「ほね」(骨)で、先祖との血縁を意味する「かばね〔=ほね〕」と同根ではないかという考えがある。 それは、新羅の「骨品制」の「骨」が一族の根源を表すのと同じ発想だとする考え方に基づく。 それなら、「かばね」の原義はむしろ②で、①はそれを転用したものとなり、問題は解消する。 【大意】 三月、天皇(すめらみこと)は新羅(しらぎ)を親伐しようと思われましたが、 神は天皇を戒めて「行ってはならぬ。」と告げました。 天皇はこのために、親伐を果たせませんでした。 そこで、 紀の小弓(おゆみ)の宿祢(すくね)、 蘇我の韓子(からこ)の宿祢、 大伴(おおとも)の談(かたり)の連(むらじ)、 小鹿火(おがのひ)の宿祢等に詔されました。 「新羅は自ら西の土地に居て、塁葉〔=代々〕臣と称して、 朝見を誤ることはなく、職貢〔=朝貢〕は誠実に手渡された。 ところが、朕が天下の王となるに至り、自身を対馬の外側に投じ、 形跡を匝羅〔=草羅〕の外には見えないように竄〔=隠〕して、高麗が日本(やまと)に貢ぐことを妨げ、百済の城を併呑〔へいどん〕した。 況(いわん)や、また朝見は既に欠け、職貢を納めることはない。 狼子野心のように飼い主に馴れず、飽食しては飛び、飢えては食らいつく。 お前たち四卿に拝して、大将を任ずる。 王師〔=官軍〕を率いて薄伐し、謹んで天罰のことを行うべし。」 すると、紀小弓宿祢は、 大伴室屋大連(おおとものむろやのおおむらじ)を通して、天皇に憂いごとを陳述することを依頼して、 「私めは、拙(つた)なく弱くはありますが、勅を敬ひ奉ります。 ただ、今私めの妻の命は尽きる間際にあり、〔病弱の〕私めを看護できる人がいなくなります。 公(きみ)に冀(こいねが)いますに、この事を具(つぶさ)に天皇に陳述していただくよう、お願いいたします。」と申し上げました。 そこで、大伴室屋大連に具(つぶさ)に陳述を行い、 天皇はその悲しみを聞かれて、驚き嘆かれ、 吉備(きび)の上道(かみつみち)の采女(うねめ)の大海(おおみ)を取り立て、 紀小弓宿祢に賜り、その身に随伴させて看護させました。 遂に推轂(すいこく)〔=任を四卿に委ねる〕して、遣わされました。 紀小弓宿祢等は、このようにして新羅に入り、郡(こおり)の傍(はた)を軒並み攻撃しました。 新羅王は、 夜に〔日本(やまと)の〕官軍による四面(よも)からの鼓の音を聞き、喙(とく)の地を悉(ことごと)く得たことを知り、 数百騎と共に隊列を乱して走り去りました。 このようにして、敵を大敗させました。 小弓宿祢は、敵将を陣中まで追って斬り込みました。 喙の地を悉く占領しましたが、〔新羅王は〕軍衆を遣わして降伏しませんでした。 紀小弓宿祢は、また兵を収めて大伴談連の兵と合流し、 兵は再び大いに奮闘し、遣わされた軍衆と戦いました。 時は夕べとなり、大伴談連、及び紀岡前来目連(きのおかさきのくめのむらじ)は、皆力闘して戦死しました。 談連(かたりのむらじ)の従者、同じ姓(かばね)の津麻呂(つまろ)は、後に軍の中に入り、その主人を尋ね求めました。 従軍に見出だせないので、「私の主、大伴公は何処にいるのか。」と尋ねると、 ある人が「あなたの主たちは、果たして敵の手にかかって殺されました。」と告げて、 屍のある所を指さして示しました。 津麻呂はこれを聞き、 地団太を踏んで叱り、「主が既に陥ったというのに、どうして自分ひとりだけ無事でいることを選ぶのか。」と言い、 因って再び敵軍に赴いて、同じ時に命を殞〔=落〕としました。 ある頃になり、遣わされた軍衆は自ら退却し、官軍もまたそれに従って退却しました。 大将軍の紀小弓宿祢は、病にあって薨じました。 まとめ 雄略天皇八年条には、元年から八年まで朝貢が途絶えていたと述べる。 九年三月条に再び朝貢が途切れていると書き、それどころか高麗からの倭への朝貢を妨害し、百済を攻撃しているとする。 従って、この間ずっと新羅とは敵対関係であったと考えられる。 その最中に新羅は高麗による攻撃に音を上げ、任那国王の仲立ちで日本府が新羅を援助して高麗を撃退したと述べた八年条は、著しく不自然である。 やはり架空の任那日本府が存在するかの如くに描いたという疑惑は、一層深まる。 九年三月条で倭軍の敗北を隠さず描くリアリズムは、八年条とは対照的である。 緒戦は大勝利を収めたが、戦線を伸ばしきったところで相手の反撃体制が整い、手痛い敗北を喫する。 どこかで見たような筋書きだと思ったら、秀吉の文禄・慶長の役、 さらには太平洋戦争にも共通するところがある。 書紀執筆のスタッフには、歴史家としての客観的な視点をもったメンバーと、 天皇の宗教的権威を裏付けるための物語を仕立て上げたいメンバーとが、混在していたようである。 |
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⇒ [14-12] 雄略天皇12 |