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2018.04.24(tue) [14-01] 雄略天皇[1] ▼▲ |
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1目次 【即位前(一)】 大泊瀬幼武天皇、雄朝嬬稚子宿禰天皇第五子也。……〔続き〕 2目次 【即位前(二)】 是日、大舍人驟言於天皇。……〔続き〕 3目次 【即位前(三)】 天皇使々乞之、大臣以使報……〔続き〕 4目次 【即位前(四)】 〔安康天皇三年〕冬十月癸未朔、天皇恨穴穗天皇曾欲……〔続き〕 5目次 【即天皇位】 十一月壬子朔甲子、天皇命有司設壇於泊瀬朝倉卽天皇位……〔続き〕 6目次 【元年三月】 元年春三月庚戌朔壬子、立草香幡梭姬皇女爲皇后。……〔続き〕 7目次 【元年童女君】 《本是采女天皇与一夜》
記の雄略天皇段の2つの場面で出てくる「童女」は、普通名詞〔=少女〕である。 「童女君」は記とは全く異なる場面で登場し、さらには固有名詞となっている。 ただ、采女の身でお手付きとなって妃に昇格したことを考えると、俗称「童女」が名前に転じた印象が強い。 その訓みについては、私記・釈日本紀ともに、雄略天皇紀の「童女君」には改めて訓をつけないので、 「童女」そのものに「君(きみ)」をつけていたと思われる。 そこで、まずは「童女」の訓みを探り、右にまとめた。
書記の古訓においては、万葉集の「わらは」を採用する発想はなく「少女(おとめ)」あるいは「女(をみな)」の延長線上で訓読したと思われる。 〈仮名日本書紀〉の「をなきみ」は、もっぱら「をむなきみ」と訓まれてきた伝統を感じさせる。 近代以後は、『訓読 日本書紀』(1932~41頃、武田祐吉)で「わらはめのきみ」と訓んでいる。 ネットで検索をかけると、「わらはきみ」8件、「をみなきみ」5件である。 さらに、現代仮名遣いに変えた「わらわきみ」82件、「おみなきみ」5件、連濁した「おみなぎみ」73件、「おむなぎみ」1件となっている。 格助詞を入れた例はごく少なく、「おみなのきみ」1件、「わらわめのきみ」1件である。 このように、全体的には「わらはきみ」と「をみなぎみ」が拮抗している。 「わらはきみ」とするのは、「めのわらはきみ」では名前らしくないので「わらは」は女子も含むからと考えた結果であろう。 《脤》 脤を、辞書で調べる。 〈学研新漢和〉ひもろぎ。祭に供える生の肉。脣(=唇)と別字だが、混用されることがある。 〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉①古代帝王祭二-祀社稷一之神所レ用的生肉。②「脣〔=唇〕」之異体。 〈諸橋大漢和〉も(要約)「①ひもろぎ(祭祀の肉)、②脣にあてた用法。」である。 〈漢字海〉は①のみを載せる。主要な辞書において「脤」を「娠」にあてた用法は皆無である。 《御大殿》 動詞としての「御」の意味は、「馬を御す」、兵などを「統率する」、敵や災害から「防御する」、謙譲動詞「侍(さぶら)う」、 尊敬動詞「統治する」である。「座る」意味はない。 ここでは尊敬語ではあるが、少女が歩くまでに育ったある日、宮殿に天皇が御座していたら……という文だから、「国の統治」ではない。 「御大殿」は「御坐」から「坐」が省略されたと考えるほかはない。 《なひとやはばに》 「なひとや」の部分は、〈時代別上代〉「『汝人や』の意であることは動かないだろう」と考えられている。 麗しい女子に対する声掛けの言葉などと想像されるが、 そもそも「はばに」が正確に言葉を聞き取ったものかどうかも分からない。 《以清身意》 〈釈日本紀-秘訓〉は「身」を訓まないが、「身」は処女性の表現として重要である。 天皇のための「御読」という性格上、省略した可能性がある。 「以二清身意一」は前置詞句であるが、雄略天皇紀では、このように「以」を前置詞として使う場合が急増している。 巻十四(雄略天皇紀)から巻二十一まで、「α群」(純正漢文体)と位置づけられている (第193回)。 《大意》 童女君(めのわらわのきみ)は、元は采女(うねめ)であり、天皇(すめらみこと)と一夜を共にして孕み、 遂に女子を生みました。しかし、天皇はこれを疑って養育しませんでした。 女子が歩くようになり、 天皇が宮殿にいらっしゃり、 物部目大連(もののべのめのおおむらじ)が侍っていたところに、 女子が庭を通り過ぎました。 目の大連は群臣を振り返って、 「麗しや、あの女子は。 昔ある人は、『なひとやはばに』と言ったものです 【この古語の意味は、詳らかではありません。】。 ゆるゆると歩み、庭に清らかな姿を見せているのは、誰の娘だと言うのでしょうか。」と言いました。 天皇は、 「何故にそのように問うか。」と仰り、 目の大連は 「臣が女子の歩みを見たところ、その姿かたちはよく天皇に似ておられます。」とお答えしました。 天皇は、 「この女子を見れば、皆がお前が話すのと同じようなことを言う。 だが、朕がたったの一夜を共にしただけで孕み娘を生むことは、 普通にはあり得ない。それ故に、疑いを持つものである。」と仰りました。 大連は、 「そのように仰りますが、その一夜に何回呼ばれたのですか。」とお聞きすると、 天皇は、 「七回呼んだのである。」と仰りました。 大連はこのように申し上げました。 「この娘子は、清き身と心をもって一夜を共に捧げたのに、 いずくんぞ、疑いを持ち他の人が潔白なことを疑いなさりますとは。 臣が聞くに、容易く産む腹の持ち主は、 下帯が体に触れるだけで、容易に懐妊すると聞きます。 況(いわんや)、明け方まで一夜を共にしたのに、妄(みだ)りに疑いを持たれますとは。」と。 天皇は大連に命じて、女子を皇女とし、母を妃となされました。 この年は、太歳丁酉(ひのととり)です。 【大歳丁酉】 記と書紀と太歳の対応は、允恭天皇崩(記:甲午)〔454〕・安康天皇の即位(書紀:甲午)の時期からかなり近づいてくる (第160回)。 これは、文字による記録の大幅な増加と無関係ではないと推察される。 5世紀初めに体系的に漢字が移入し、持ってきた渡来人が史人(ふみと)として取り立てられたのだろうと第198回で考えた通りである。 『宋書』の「世祖大明六年」〔462〕に、 ●倭国王に「安東将軍倭国王」号の詔を発する。 ●興死。弟武立。(倭の五王) と書かれ、457年とは相違する。しかし「興死。弟武立」の事実を知ったのは、 宋を訪れた倭国使による報告、または帰国した宋国使による復命によると思われるので、 実際には462年よりも以前のことだとしても不自然ではない。 よって、丁酉年には、一定の信頼性があると思われる。 まとめ この話には「娜毗騰耶皤麼珥」(なひとやはばに)なる語句があり、「不詳」という分注が加えられている。 どうやら原話を漢文に直したときに意味不明な語句が残り、そのまま律義に載せられたのであろう。 ということは、この伝説は古くから存在していた。 よく言われるように、書紀では歴史の書き換えがなされていると見られているが、 その一方で広く伝承を蒐集して素材に用いたことも確かである。 さて、雄略天皇段の方の「童女」としては、赤猪子が登場する。 書紀の「童女君」とは全くの別話であるが、身分の低い少女に手を付けてそのまま放置するという共通性がある。 雄略天皇は「一晩に七回なされた」というほどの絶倫だが〔但し、受け狙いか〕、その割に子供を残していないから、専ら庶民の子女を食い散らかしていたようである。 既に即位前紀に妃候補に逃げられた話があり、王女たちには嫌われていたらしい。 雄略天皇段・紀は、記紀に大きなウェイトを占めるが、それとは裏腹に酷い書かれようである。 |
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2018.04.28(sat) [14-02] 雄略天皇[2] ▼▲ |
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8目次
【二年七月】
《百済池津媛婬於石河楯》
記に「孝元天皇-比古布都押之信命-建内宿祢-蘇賀石川宿祢」の系図があるが、その後は「石川」は影を潜め、 書紀には蘇我韓子・稲目・馬子・蝦夷・倉麻呂・入鹿・赤兄・果安と「蘇我○○」が続く。ただ、孝徳天皇紀に蘇我倉山田石川麻呂がある。 壬申の乱〔672年〕に至り、大友皇子側についた蘇我赤兄、曽我連子が断罪され、 蘇我を石川に改名した上で安麻呂に継がせた。 その間、蘇我氏の別名、または「蘇我グループの中の小族」の名として潜在的に「石川氏」が継続していたことが考えられる。 それがたまたま表に出たのが、石河楯かも知れないのである。 《久米部》 久米部は、大伴連に仕える部であることがここでも示されている。 その従属関係の端緒は、瓊瓊杵尊の天降りに供したときまで遡る。 そこでは、天槵津大来目が大伴連の遠祖たる天忍日命の目下に位置づけられていた 第98回【大伴連・久米直】)。 記では両者に従属関係はなく、対等であった。 この問題について〈姓氏家系大辞典〉は、書紀と〈新撰姓氏録〉で従属関係であることを重く見て、 「天津久米命、及び大久米命とは、久米部なる団体を神格化して、一神の如く語り伝へしに過ぎず。」と述べる。 《詔・使》 天皇が大伴室屋大連に詔し、室屋が来米部を使う。すなわち、二層の使役構造になっている。 助動詞「しむ」は、平安時代には尊敬・謙譲を強めるだけの形式語(「しめ-たまふ」「たてまつら-しむ」)に転じて次第に消滅し、 本来の使役の助動詞として漢文訓読体のみに残る。 上代にはがっちりと使役を表す語だったから、使役が二層ならば「しめ-しむ」と重ねて用いるべきではないかと思われる。 《百済新撰》 他にも五年四月条に「辛丑年〔461〕、蓋鹵王、遣二弟昆支君一向二大倭一侍二天王一」と引用される。 辛丑年は「雄略天皇五年」と一致している。 武烈天皇紀四年にも「末多王無レ道、暴二-虐百姓一、国人共除。武寧王立、…」という引用がある。 世界中で『百済新撰』は、これらの逸文ですべてである。 《己巳年》 『三国史記』では、 「年表」の「乙未」〔455〕に「〔毗有王〕二十九。毗有王薨。盖鹵王慶司即位元年」、 「巻二十五」に「蓋鹵王。或云近蓋婁。諱慶司。毗有王之長子。毗有在位二十九年薨。嗣。」とある。 「己巳年」は429年または489年である。後者はあり得ず、前者も蓋鹵王は二十一年(但し三国史記による)までなので、 あり得ないだろう。 前項の「辛丑年」は辻褄が合っているから、「乙未」を誤写したことが全くないとは言えない。 《荘飾》 「荘飾」は学習用漢和辞典には見ないが、〈諸橋大漢和〉にはある。 漢籍には、いくつかの例がある。 ・『太平御覧』皇親部六:「霊太后頗事荘飾。数出游幸」。 [原書]⇒『魏書』巻十九中:「霊太后頗事妝飾。数出遊幸」。「妝」は「よそおう。化粧する」意。 ・『群書治要』巻二十九「晋書上」:「其婦女莊飾織絍皆取成於婢仆」。 [原書]⇒『晋書』巻五:「其婦女莊櫛織紝皆取成於婢僕」。「櫛」は「くしけずる」。 類書の「莊飾」は原書にある「女性が身なりを飾る」意味の語を、同義語に置き換えた結果であろう。 《女郎》 ここでは女性の身なりを「荘飾」したのだから、 「女郎」は高貴な女性の意味で使われている。 中国では単に「年頃の娘」であるのに対して、ここでは「いらつめ」に近い。 『百済新撰』が真実の書だとして、百済でも「高貴な女性」の意味で使われたことになる。 《大意》 二年七月、 百済(くだら)の池津媛(いけつひめ)は、天皇(すめらみこと)が寵愛しようととされたことを違え、石河楯(いしかわのたて)と姦淫しました。 【旧書に、石河股合(いしかわのももあひ)の首(おびと)の祖、楯といいます。】 天皇は大いにお怒りになり、 大伴室屋大連(おおとものむろやのおおむらじ)に詔して来目部(くめべ)に、 夫婦の四肢を木に張り、桟敷の上に置いて火刑をもって殺させさせました。 【百済新撰にいいます。 己巳(つちのとみ)の年、蓋鹵王(がいろおう)が立ちました。 天皇は、阿礼奴跪(あれどき)を遣わして、よき少女を求めて来させました。 百済は、慕尼(むに)夫人の娘を飾り立てて適稽(ちゃくけい)女郎(じょろう)と呼び、 天皇に進ぜました。】 【大伴室屋大連】 室屋に至るまでの大伴連の祖先は、右のように書かれている。
〈姓氏家系大辞典〉は、「伴氏系図」を引用して次のように述べる。 「道臣より武日に至る系図は古典になけれど、 伴氏系図には 『道臣命(初め物部臣命と号し、後・名を道臣命と改む。 神武帝草創の時、軍功あるの人也、本朝将軍の始也、 姓氏録・天押日命に作る)―味日命(一本昧日)―稚日臣命 ―大日命―健日命(初号武日命、倭建征東の日、吉備武彦と共に副将軍たり矣)』と。 物部臣命など云ふ、何の意か詳かならず、古典に全く合せず。」 このように「伴氏系図」が書紀に合わないことを非難した上で、次のように述べる。 「武以は其の〔武日の〕子ならんか…〔中略〕…系図には、 健日〔=武日〕の子『武持〔=武以〕・初めて大伴宿祢姓を賜〔たま〕ふ…』とあり」 「故に確実なる物より云へば『武日―武以―室屋―談…〔以下略〕』」。 大伴談(かたり)は、雄略天皇紀の九年条に出てくる名前である。 神代の天忍日命以前については、『新撰姓氏録』「大伴宿祢」の項に「高皇産霊尊五世孫天押日命〔=天忍日命〕之後也」とある。 【石河股合首祖楯】 「石河股合」は、一般に「いしかはのこむら」と訓まれている。 その出所を探しているが、現在のところ見つからない。 まず、「股」に、こむら〔=ふくらはぎ〕の意味があるのかというと、 「股」は、「(古訓) もも。うちもも。うつもも。」で、「こむら」は「腓」である。 「こむら」は、〈倭名類聚抄〉に「腓【音肥〔ヒ、ビ〕。訓古無良〔こむら〕。見二周易一。】脚腓也。」とある。 それでは、「こむら」は上代まで遡るのだろうか。
①ふくらはぎを意味する「こむら」は平安期以後確認されるが、上代には「手(た)-こむら」の連語が見られる。 ②〈私記〉・〈釈日本紀〉は「石河股合」に訓をつけない。 ③江戸時代に、「またあひ」と「こむら(あひ)」の併記が見られる。 ④〈姓氏家系大辞典〉は、「イシカハノコムラ」なる一族を具体的には見出していない。 釈日本紀は、 もし「コムラ」という特殊な訓みだったとしたら必ず取り上げただろう。 釈日本紀は建治元年〔1275、鎌倉時代〕頃とされるので、 その当時は普通の訓み「イシカハノモモアヒ」が用いられていたと思われる。 以上から、「イシカハノコムラ」は、後世(江戸時代ぐらい?)になって現れた説だと思われるが、 その発端はまだ見つけられない。 ふくらはぎを意味する「こむら」は上代にあったかも知れないが、「股合」をコムラと訓んだかどうかは不明である。 【古代朝鮮由来と見られる語】 朝鮮の古代語については、「百済語の二重言語性」(河野六郎、『中吉先生喜寿記念 朝鮮の古文化論讃』(1987;国書刊行会)収録)に論考がある。 それによると、「零細な記録の中にあって、日本書紀の韓土関係の記事に、韓土の地名や人名などの読み方として伝えられているものがある。」 「その仮名書きの韓土の語が新羅語なのか。百済語なのか、また加羅の言語なのか、それは俄かに決めることはできない。」 しかし「これらの古代の韓語の中に後世の朝鮮語に繋がるものがある」として「嶋」(セマ)、「主」(ニリム)、「山」(ムレ)などの例を挙げる。 なお、論文の表題「百済語の二重言語性」とは、「支配階級と被支配者である人民とでは違った言葉」を使っていたことを意味する。 その中で斉明天皇紀の「君大夫人」については、 「この大夫人は百済の王妃である。このハシカシが百済の人民の称えた〔=人民が話す言葉における〕妃であろう。 ハシカシのカシは、中古朝鮮語の갓(女)と関係があると思われる。」と述べる。 このように、釈日本紀の古朝鮮語式よみには一定の根拠がある。 しかし、同論文は一方で、崇峻紀の「狛夫人」と、天智紀の「母夫人」など、古朝鮮式が徹底されていないことも指摘している。 〈釈日本紀-秘訓〉を見ると、第九(神功)で「枕流王【トムルワウ】」、第十四(雄略)で「先王【サキノコキシ】」など、「王」も「ワウ」と「コキシ」で揺れ動き、明確な使い分けの基準は見えない。 古朝鮮式のよみの提示は、平安期・鎌倉期の研究によるものであろうが、 古墳時代以来の外来語をそのまま一定程度引き継いでいることが、ないとも言い切れない。 ところが、女郎(えはしと)は「兄愛人」だと思われ、倭語も混在しているらしい。しかし、そのことはむしろこれらの語の古さを感じさせる。 ただ書紀の原文作成の段階では、『百済新撰』などの資料は字そのものが理解できればよく、百済の言葉としてのよみ方には関心はなかったかも知れない。 まとめ 帝に内緒で姦通した妃を、相手の男ともども火刑にした。 しかも、さじき(木組みの台か)の上に高く立てた柱に張りつけて、見世物にしたようである。 こうして、雄略帝の並外れた残虐性を表す話のひとつが記される。 『百済新撰』から引用することによって、この時期の百済との交流を示すと思われるが、 『百済本記』の蓋鹵王在中の記事は、倭との関係は全くなく、すべてが高句麗との関係である。 百済本記には、在位から十三年間の記事は何も書かれない。 |
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2018.05.05(sat) [14-03] 雄略天皇[3] ▼▲ |
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9目次
【二年十月】
《幸于吉野宮》
吉野宮には、大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱の前に雌伏した (第11回)。 天武・持統朝の時代の吉野宮と目されるのが、宮瀧遺跡である (第151回)。 奈良時代には芳野監が置かれた。 芳野監〔大和国吉野郡を分立、和泉監(霊亀二〔716〕)と同時期か〕は、離宮である吉野宮の運営機能を兼ねた特別の国を意味すると考えられている (允恭天皇紀9年)。 《移影》 「未及移影」は、習慣的に〈仮名日本書紀〉「いまだ日もかたぶ【移影】かざるに」と訓まれる。 漢籍には『全唐詩』巻三百五十八 :「斜レ日漸移レ影」〔日を傾け、やうやく影を移す〕、 同巻八百八十八:「夕陽移レ影」という表現がある。 なお『全唐詩』は、清代の1703年に唐代の「唐詩」というスタイルの詩を網羅して編まれたもの。 《猟場之楽》
膾・鮮は、伝統訓では両方とも「なます」と訓読される。 「なます」が、「なま」(生の肉・魚)を語源とするのは確かであるが、 包丁を入れて料理となったものが「なます」であり、「割(さ)」く前は生肉である。 そのために、原文では食材の「鮮」と料理名の「膾」が区別される。 このニュアンスの違いを、できたら上代語による訓読でも表現したい。 伝統訓の「割レ鮮(なますをつくる)」〔=膾を料理する〕では、 獲物のみずみずしい赤い肉に包丁を入れるという視覚が失われて味気ない。 《御者》
このように「御者」は中国風の表現だから、原文執筆者は「ぎよしや」と音よみしていたのかも知れない。 一方「御者」の古訓は、〈仮名日本書紀〉に「御者【おほんうまそい】」〔大御馬添ひ〕があるが、平安に由来すると思われる。 源氏物語には「馬副」「馬添ひ」が出てくる。 ――〈源氏物語-行幸〉「御馬鞍をととのへ、随身、馬副の容貌丈だち、装束を飾りたまうつつ」。 ――〈同-澪標〉「大殿腹の若君、限りなくかしづき立てて、馬添ひ、童のほど、皆作りあはせて」。
しかし、上代の「そふ」は「そひつかひ(副使)」が第二位の役職を表すなど、主人に従属する立場を表すから、 馬を引く人を表す上代の言葉が「うまそひ」であったかどうかは不明である。 しかし、地名「ミマセ」の由来を「ミマソヒ」〔「御-うまそひ」の融合〕とする地名譚が存在し、 それが二年十月条の素材になったと想像できないこともない(後述)。 《語皇太后》 事件について皇太后に語ったとき、その理由を 「大獲二禽獣一。欲下与二群臣一割レ鮮野饗上。歴問二群臣一。莫レ能レ有レ対。」 〔猟物がたくさん獲れたから、群臣と共に膾を作って野饗しようと誘ったが、誰も返事をしなかった〕 からだと説明した。 しかし、この言い訳には誤魔化しがある。膾づくりを膳夫と群臣のどちらがやるかを問題にしたことに触れていない〔詳しくは後述〕。 ただただ「膾を作って饗宴しようと言ったのに、群臣は返事をしない」、つまり誘っているのに受けようとしない群臣が悪いと言う。 しかし、皇太后には既に真相が伝わっていて、天皇を諭した。その上で、収拾策を考えてくれた。 天皇は、感謝を「跪礼」によって表現した。 「天皇が跪礼した」形式のみを見ると違和感があるが、これは皇太后との話し合いの中の一場面を表しただけである。 《国内居民咸皆振怖》 この事件の噂は瞬く間に国内に広がり、住民は恐怖のどん底に陥った。 類似する事件が度々あったから、 後の方で「天皇以レ心為レ師。誤殺二人衆一」 と書いたのであろう。 《心為師誤殺人衆》 「心為レ師」の師を、伝統訓では「さかし(賢し)」とする。 これは「自らを師に」、即ち"独りよがり"の意味に解釈したことによる意訳である。 しかし、"賢い師"が「人民を大量に殺した」と表すところに違和感がある。 人を導く「師(し)」には、崇高さの語感がある。 たとえ"師の心"が独善に過ぎなくとも、それがストレートに「人衆殺す」では、余りにも語感に合わないのである。 ここでは「師」の複数の意味のうち「いくさ」を選んだ方が、「殺人衆」に対して親和的である。 すなわち、この文を「些末なことによって人民の行動を疑い、直ちに反乱を起こしかねないという"戦の心"で見る」と読みたい。 これは、内乱が終わって世の中が落ち着いても未だ戦争の時代の感覚から抜け出せず、大したことでもない人民の行動に対して、すぐ敵のレッテルを貼りたくなるということである。 《大意》 〔二年〕十月三日、吉野宮にお出かけになりました。 六日、御馬瀬(みませ)にお出かけになり、 虞人(山の司)に命じなされて、思うままにに狩猟され、重なる峰を越え、深い草叢に赴かれました。 まだ太陽が西に傾く前でしたが、七八割がた狩を終えました。 狩るごとに大いに収獲があり、鳥獣は尽きてしまいそうでした。 ついに林や泉を巡って休憩し、藪・沢を歩き回り、 使用人を休息させ、車馬を並べて止めました。 群臣(まえつきみたち)に、 「猟の庭の楽しみ〔=饗宴〕には、膳夫(かしわで)に肉を割かせるものである。 お前たちは、どうして自ら割いているのか。」と問われ、 群臣は、突然のことに答えることができませんでした。 すると、天皇(すめらみこと)は大い怒り、 刀を抜いて御者を務めていた大津の馬飼を斬り捨てました。 この日、車駕は吉野の宮から帰ると、 国中の住民は、皆々震えて脅えていました。 その故に、皇太后と皇后(おおきさき)はそれを聞いて大いに恐れ、 倭国の采女、日媛(ひのひめ)を遣わして、御酒を挙げてお迎えさせました。 天皇は、采女の容貌の端麗なること、容姿の温雅なることをご覧になり、 顔を和らげて悦びの色を浮かべ、 「美しく笑うお前を、私が見たくないことがあろうか。〔反語〕」と仰り、 手を相携えて、後宮に入られました。 天皇は皇太后に、 「今日、狩猟に遊び、大いに禽獣を獲りました。 群臣(まえつきみたち)とともに、肉を割かせて野外の饗宴をしようと思い、 群臣の皆に聞いたところ、彼らは何も答えられませんでした。 そのために、私は怒ったのです。」と語られました。 皇太后はこのように話す気持ちを理解し、天皇を慰めて、 「群臣は、 陛下がお遊びになった狩猟の庭には、宍人部(ししひとべ)を待機させていたから群臣が〔何故自分で調理しているのだと〕質問されたのだということが、分からなかったのです。 群臣が押し黙ったのはもっともなことで、また説明することも難かしかったでしょう。 今〔宍人部に膾を〕に献上させても、まだ遅くはありません。 私が最初に戻して〔=時計の針を事件の前に戻す〕、膳臣の長野(ながの)は上手に膾を作ることができるので、 願わくば、その献上された膾をお納めください。」と申しあげました。 天皇は、跪礼(きれい)して申し出を受け入れられ、 「それはよいことです。鄙(ひな)の人がいう、 貴人は心を相知るという言葉は、このことを言うのですね。」と仰りました。 皇太后は、天皇の悦ぶ様子を御覧になり、喜びが心を満たして、さらに人を献上して、 「私の膳手、菟田御戸部(うだのみとべ)と真鋒田高天(まさきだのたかま)、 この二人を、請わくば宍人部にお加えくださいませ。」と申し上げました。 これ以後、大倭(おおやまと)の国造(くにのみやつこ)吾子籠宿祢(あごこのすくね)、 狭穂子鳥別(さほのことりわけ)を、宍人部に加えられました。 臣(おみ)連(むらじ)伴造(とものみやつこ)国造(くにのみやつこ)もまた、従来のまま続けて任命されました。 是の月、史戸(ふみひとべ)、河上舎人部(かはかみのとねりべ)を置きなされました。 天皇は、戦の心をもって、多くの人民を誤って殺してしまったので、 天下に「太悪(たいあく)の天皇(すめらみこと)である。」と誹謗されました。 ただ、愛寵(あいちょう)された者は、 史部(ふみひとべ)身狭(むさ)の村主(すぐり)青(あお)と、檜隈(ひのくま)の民使(たみつかい)博徳(はかとこ)などがありました。 【御馬瀬】
「行宮【五所一〔ひとつ〕池田荘麻志口村 雄略天皇二年冬十月幸二吉野御馬瀬一即此。一〔ひとつ〕在二大滝村一。一在二宮瀧村一。一在二下市村一〔以下略〕】」 このように、五畿内志は「麻志口村」が「御馬瀬」であると推定している。 【村里】の項では「池田荘」には十一村が属すと述べ、その一つが麻志口である。 「比曽【比一作レ檜属邑一】橋屋 六田(ムタ) 吉野山 麻志口(クチ)【属邑二】 西千股(チマタ) 中増(ナカマシ) 上市 飯貝(イゝカイ) 丹治(タンヂ) 北六田【以上十一村呼曰二池田荘一】」。 これらの江戸時代の村名の多くは、現在の吉野町・大淀町にある大字に一致している。 いくらか不一致は、西千股⇒千股。麻志口⇒増口。唯一大字名にないのが「橋屋」だが、位置から見て「西増(大字)」の別名とすれば、おさまりがよい。 中増(なかます)・西増(にします)を含めて考えると、この地域は「マス」で、「増口」はその「入り口」を指すと見られる。 吉野郡には他に「マシ~」の地名は見られず、宮瀧遺跡にも近いから一定の可能性はある。 ただ、だとすれば書紀がせっかく「み」をつけて美称にしたのに、現地では「マシ」のままなのが気にかかる。 江戸時代のマシとは全く無関係に、失われた地名「ミマセ」があり、その地名由来譚として「御者」(ミマソヒ;御馬副)の伝説が生まれたのではないかとも思えるのである。 【猟場之楽使膳夫割鮮何与自割】 「猟場之楽使膳夫割鮮何与自割」は、 「猟場之楽使二膳夫一割レ鮮。何与レ自割?」 〔猟場の饗宴は、膳夫に肉を割かせる。なぜ群臣自らが割くことに関わるのか?〕と訓むべきであるのは明らかである。 ところが、伝統訓ではこれを逆転して「膳夫に肉を割かせていいのか。群臣が自分で割いたらどうか」という意味にとる。 例えば〈釈日本紀〉は 「たのしびは、膳夫をしてなますつくらしむ、いかん。自とゝもにつくらん」 〔饗宴のために、膳夫に膾を作らせるとはどうしたことか。お前たちが私〔天皇〕と一緒に作れ〕と訳す。 これは、皇后への言い訳の中の「欲与群臣割鮮」を「私と群臣で共に膾を作ろう」と読んだことによる。 また岩波文庫版は、「猟場の楽は、膳夫をして鮮を割らしむ。 自ら割らむに如与に」と訓み、 注解で「料理人に作らせるのと自分で作るのとどっちが楽しいだろう。」とする。 ここでは「自」を「群臣自ら」と読む。 このとき天皇が群臣にした質問の意味は、皇太后の言葉によって正確に示されている。 曰く「不レ悟下陛下因三遊猟場置二宍人部一降二上-問群臣一。群臣嘿然理且難レ対。」 〔陛下が遊猟場に宍人部を置いたことに因り群臣に降問〔=下問〕したことを悟らなかった〔=理解できなかった〕のだから、群臣が黙っていることには理があり、また答え難い〕。 この文の意味は、「せっかく調理役として遊猟場に宍人部を置いたのに、どうして彼らを使わずに自分で調理するのか」と天皇は下問したが、 それが言葉足らずだったから「群臣たちには質問の意味が分からず、ぽかんとして返事もできなかった」ということである。 つまり皇太后は「『わざわざ宍人部を呼んだのだから、その仕事を奪ってはならない』と、丁寧に分かるように言わなかったあなたが悪い」と諭し、 雄略天皇はそれに納得して、「俗に『貴相知心』〔立派な人とは、相手の心の内を推し量ることができる人である〕 と言われる通りですね。」と答えた。 もし伝統訓のように「宍人部ばかりに肉を割かせず、自分で割いたらどうか」と言いたいのなら、 「何不与自割」〔なぜ調理に自分が関わらないのか〕と否定形になるだろう。 英語にも"Why not~"という勧誘の構文がある。 そもそも二年十月条全体の主題は宍人部の拡大であるから、 「今宍人部がやっている仕事を、群臣自身がやれ」では真逆で、 「宍人部の仕事を奪うな」、即ち宍人部の存在感を押し出す文だと受け止めることが、十月条の趣旨に合うのである。 【今貢未晩以我為初】 「今貢未晩」の貢は、宍人部が膾を献上するという意味である。 「今貢未レ晩以レ我為レ初」を直訳すると「今献っても遅くはない。私を以って初めとしよう」 であるが、これだけでは意味が分からない。そこで、この言葉の背景となった状況を考えてみよう。 まず、御者の殺害は群臣はもちろん、宍人部にもショックを与え、国中に不安感が広がった。 皇太后はそれを憂えて、改めて宍人部に膾を献上させることにした。 天皇がその美味を誉めれば、 宍人部は遅ればせながら膾の献上を果たして安堵し、群臣も宍人部に任せよという言いつけに従うことができる。 そうすれば皆の気持ちを事件が起る前に戻すことができるから、 「以我為初〔=私の考えによって初めに戻しましょう〕」と言ったのである。 【太悪天皇】 「誤殺二人衆一」とは、この御者の殺害のようなことを重ねて数多くの人民を殺害したということであろう。 しかも、それは誤りであると言い切っている。 ライバルたちを殺しまくった即位前紀を含めて、遠慮のない描き方と言える。 その理由は、記録に残る時代になったからであろうと考えてきた。 それもあるが、更に雄略天皇紀からα群〔和習を含まない、正格漢文によるスタイル〕に入ったことも見逃せない。 原文製作者が、歴史書にはリアリズムを貫くべしという哲学の持ち主であることが伺われるのである。 まとめ 原文そのものから全体の文意の流れを把握し、その流れに沿って個々の部分の訓読を突き詰めていくと、 いくつかの個所において伝統訓への疑問が生ずる。今回の解読範囲については、その傾向が特に強い印象を受ける。 平安期の訓読研究は、中国の古代文献や中国文化との関係を探ることが不十分で、局所だけを見て和訓を定めることに偏っているように思われる。 また、文脈に沿わない訓読も見られるので、原文の文学的水準に訓読者の理解が追いついていないように感じられる。 二年十月条では平気で天皇に跪礼させたり大悪天皇と呼ぶように、かなり客観的に記述されていることが注目される。 四年条で「有徳天皇」と言うように、誉めるべきところでは誉めているから悪口ばかりでもなく、 書くべきことを遠慮せずに書いたのであろう。歴史を執筆する者としての矜持かも知れない。 このような書きっぷりにおいては、「斬る」「殺す」など否定的な意味合いをもつ語に形式的に「たまふ」をつけることは、やめた方がよいかも知れない。 |
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2018.05.07(mon) [14-04] 雄略天皇[4] ▼▲ |
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10目次
【三年】
《諧曰廬城部連武彦姦栲幡皇女而使任身》
確実な史実として皇女を伊勢神宮に奉仕させたのは天武朝が最初だが、崇神朝・垂仁朝にも伝説的に遡らせる (第116回【斎宮】)。
仁徳天皇紀四十年条で、 隼別皇子と雌鳥皇女の逃走経路となった雲出川の北家城付近(右図)が「廬杵河」ではないかと言われている。 その地は伊勢国一志郡で、伊勢神宮とはやや距離があるが、神宮に奉仕していた栲幡皇女が絡んだ伝説はあり得るかも知れない。 廬城部が、この辺りを本拠にしていたとも考え得る。 「ゆゑ」は、赤ん坊の沐浴に象徴される養育役と考えられているが、 栲幡皇女が伊勢神宮に移ったのに合わせて、その「ゆゑ」廬城部が伊勢国に移ったのかも知れない。 《使鸕鷀没水捕魚》 万葉集では鵜飼漁を、「(万)4191 鸕河立 取左牟安由 うかはたち とらさむあゆ」 「(万)3330 上瀬尓 鵜矣八頭漬 かみつせに うをやつかづけ」などと表現する。 それらに比べ、ここの「使鸕鷀没水捕魚」〔鵜を水に沈め魚を捕えさせる〕は、いかにも説明的で堅い。 日本人同士なら「使鵜漬」程度で充分通じるだろう。 さすがに古訓では、〈仮名日本紀〉「うかはしめん」〔鵜飼はしめむ=鵜飼ふの未然形+使役のしむの未然形+意志のむ〕とこなして訓んでいる。 書紀の原文製作者は、日本の文化にまだあまり馴染んでいないのだろうと感じさせる所以である。 《神鏡》 「神鏡」は、岩波文庫版の注釈には「通釈などは…皇女自身の鏡と解する」とある。 実際、伝統訓で「あやしきかゝみ」(〈仮名日本書紀〉など)と訓むところに、 天照大神の形代を持ち出すような恐ろしいことはあり得ないとする訓読者の意志が感じられるが、煮え切らない。 やはり八咫鏡を持ち出したことにした方が話として面白いし、 例え鏡が行方不明になったとしてもその神威によって虹を発生させ、確実に発見されて神宮に戻ることが保証されているから大丈夫である。 従って、その鏡は八咫鏡(ご神体)そのものだとして、正面から「かむかがみ」と訓めばよいと思う。 《闇夜》 「恒に」探索を続けたと言いながら、 闇夜に限定するのでは意味が通らない。 また、虹が昼間のものであることは当時でも常識であっただろう。 闇夜は、万葉では「思ひ迷ふ」「行くさき知らず」への枕詞に使われるので、 ここでも「をちこちまぐ」への枕詞であろうと思われる。 《大意》 三年四月、阿閉臣(あへのおみ)国見(くにみ) 【またの名は磯特牛(しことい)】は、 栲幡皇女(たくはたのみこ)と湯人(ゆえ)、廬城部連(いほきべのむらじ)武彦が、偽って 「武彦は、皇女と姦淫して孕ませた。」と言いふらしました。 武彦の父、枳莒喩(きこゆ)は、この流言が耳に入り、 禍が自身に及ぶことを恐れ、武彦を廬城(いほき)川に誘い出して、 鵜を潜らせて魚を捕ると偽って、 不意をついて打ち殺しました。 天皇(すめらみこと)はこれをお聞きになり、使者を遣わして皇女を詰問させました。 皇女は「私は存じません。」と答え、 突然、神鏡を持ち出して、五十川の川上に行き、 人が来ないことを伺い確かめて、鏡を埋めて首をくくって死にました。 天皇は、皇女がいないことを疑い、常にあちこちを捜索させたところ、 川上に虹が見え、四五丈の大蛇のようであったので、 虹が起った処を掘ってみると、神鏡が見つかりました。 場所を移すと、未だ遠からぬところで、皇女の屍を見つけました。 それを割いて見ると、 腹の中に水のようなものがあり、 水の中に石がありました。 枳莒喩(きこゆ)は、その故に子の罪を清めることができ、 振り返って子を殺したことを悔やみ、 国見に報いて殺し、 石上神宮に逃げ匿れました。 まとめ 人名「枳莒喩」は「聞甲こ乙ゆ」に上代特殊仮名遣いまで一致するから、 この話が口承されるうちに、物語の内容がいつしか人名に転じたのであろう。 素朴な伝承であるためか、二年十月条の理屈っぽさに比べてずっと分かり易い。 その中で、栲幡皇女の死体を割いて点検したとき、羊水らしき中にあったのは胎児ではなくただの石で、これによって疑いは晴れたという部分は興味を惹く。 さて、石上神宮に逃げ隠れた枳莒喩がその後どうなったかは書かれていないが、どうやら殺されずに済んだようである。 石上神宮は物部氏の本拠である。そこで匿われて助かったということは、物部氏は雄略天皇を支える有力な勢力だったのだろう。 物部氏はもとは安康天皇を推していたが、その亡き後は雄略天皇を後継者と認めて改めて推したという史実が、この話に反映しているように思われる。 |
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2018.07.28(sat) [14-05] 雄略天皇5 ▼▲ |
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11目次 【四年二月】 四年春二月、天皇射獵於葛城山。……〔続き〕 12目次 【四年八月十八日】 秋八月辛卯朔戊申、行幸吉野宮。……〔続き〕 13目次 【四年八月二十日】 〔四年八月〕庚戌、幸于河上小野。……〔続き〕 14目次 【五年二月】 五年春二月、天皇、狡獵于葛城山、靈鳥忽來。……〔続き〕 15目次 【五年四月】 《百済蓋鹵王》
「加唐島」は壱岐島と唐津の間にある(右図)。朝鮮半島-対馬-壱岐-唐津の航路については、魏志倭人伝もこのコースで倭に渡っている。 秀吉の文禄・慶長の役でも唐津に名護屋城を築き、兵站基地として壱岐に勝本城、対馬に清水山城を置いた(<wikipedia>)。 従って、「各羅島」を加唐島に当てることは、ごく妥当と言える。 一方、「各羅」について〈釈日本紀〉巻十七(秘訓-武烈)は「各羅海中【カワラノウナノナカニ】」と訓む。 仮名日本紀も「各羅【かはら】」とし、カワラが伝統訓である。 しかし前述のように有田系譜の「加加良島」は1400年代で、〈釈日本紀〉〔1274頃〕より後である。 そして「加唐島」に至るから、この島は終始一貫して「カカラ」と呼ばれて続けてきたと思われる。 これを見ると「カワラ」という呼称は不思議である。〈釈日本紀〉は誤写された文献に拠ったのではないだろうか。 《主嶋》 〈釈日本紀〉は、古い百済語によると思われるよみ方を記している。 ・巻十四(秘訓-雄略) 加須利君【カスリキシ】。郡君【キムキシ/コニ】。嶋君【セマキシ】。武寧王【ムネイワウ】。主嶋【ニリンセム】。「琨【コム】支【キ】君【シ】」。 ・巻十六(秘訓-武烈) 嶋君【セマキシ】。武寧王【ムネイワウ】。斯麻王【セマキシ】。主嶋【ニリンセム】。「麻那【マナ】君【キシ/クム】」。「斯我君【シカキシ】」。「法師君【ハツシ/ホウシ/キシ】」。 このように、「主」はニリン、「嶋」はセマまたはセムである。 ところが、武烈天皇紀の原注(別項)では、「生二斯麻王一。自レ嶋還送不レ至二於京一。産二於嶋一故因名焉。」 〔「斯麻王」は嶋で生まれたことに因む名である〕と述べる。 「嶋王」を敢えて音仮名を使って「斯麻王」と書くのは、説明を分かり易くするためである。 だから、「嶋王」には日本式の発音を用いていた。 よって「主島」についても、仮に古代百済語に「ニリム-セム」があったのが事実だととしても、 日本式に「ヌシシマ」と訓んでいた可能性が高い。 そもそも原注に百済の発音を示した例はないから、書紀編纂直後の時点では日本式の訓み、もしくは音読みであろう。 その後を見ると、〈甲本〉にも百済の発音を示した例はない。 よって、古代百済風の発音を宛てようと試みた時期は、「私記」以後、〈釈日本紀〉以前となる。 《君》 前項のように、〈釈日本紀〉では君はキシとする。しかし、書紀原注の立場では「~ノキミ」になる。 《軍君》 〈釈日本紀〉巻十七(秘訓-雄略)には、「軍君【こむ/こに/きし】」。 仮名日本紀は「軍君【こにきし】」。 「軍」の呉音・漢音はクンなので、コム・コニは音を用いたものと思われる。 《大意》 〔五年〕四月、百済(くだら)の加須利君(かすりのきみ)【蓋鹵王(がいろおう)です】、 池津媛(いけつひめ)が焼き殺されたことを伝え聞いて【適稽(ちゃくけい)女郎(じょろう)です】、 諮り、 「昔、女人を献上して采女にして、既に無礼なことをされ、我が国の名を貶めるものであった。 今から以後、女人を献上することはできない。」と言い、 その弟、軍君(くむきみ、くむきし)に【昆支君(こむききみ、こむききし)です】 「あなたは日本(やまと)に行き、天皇(すめらみこと)に仕えなさい。」と告げました。 軍君は、 「目上の君の命令を、違えることはできません。 願わくば、君の婦人を賜った後に遺わしていただきたいのですが。」とお答えしました。 加須利君は、そこで身籠った女性を軍君と娶(めあわ)せて、 仰りました。 「私の身籠った婦人は、既に産月に当たっている。 もし道中で産んだら、願わくばそれがどこであってもそのまま一隻の船に載せ、速やかに国に送らせていただきたい。」と。 遂に別れの挨拶とともに、〔倭国〕朝廷への派遣を承りました。 六月一日、妊婦は果たして加須利君の言った通りとなり、 筑紫(つくし)の各羅嶋(かからしま)で子を産み、 よってこの子を嶋君(しまきみ、せまきし)と名付けました。 そこで軍君は、一隻の船によって嶋君を国に送り、 この子は武寧王(ぶねいおう)となりました。 百済の人は、この島を主嶋(ぬししま、にりむせむ)と呼びます。 七月、軍君は〔日本の〕京に入り、 既に五子が有りました。 【百済新撰に言ふ。 「辛丑(かのとうし)の年〔461〕、蓋鹵王、 弟昆支君を遣わして大倭〔日本〕に向かわせ天王に侍らせて、 以て兄王の好(よしみ)を脩(おさ)めた。」】 【漢字表記された百済語のよみ】 二年条の百済新撰の引用にある「遣二阿礼奴跪〔アレヌキ〕一」は、音を写したものである。 一方、王名(蓋鹵王など)は漢字二文字に統一されているから、中国風の王名であろう(天皇の漢風諡号のようなもの)。 おそらくは、百済の文献では、固有名詞を音で写し取ることはあるが、 一般の語の漢字表記に対して、日本の訓のように百済の固有語に置き換えて読むことはなかっただろうと思われる。 例えば、「王子」を意味する「セシム」という語はあったが、漢字で書かれた文中の「王子」はそのまま「わうし」と読んだのだろう。 釈日本紀が古い百済語を探った努力は尊敬に値するが、 それを漢字のルビのようにして直接用いるのは、百済の習慣に添わないと思われる。 【武寧王】 五年条では、蓋鹵王の後は、末多王-武寧王が見えだけである。 ところが三国史記を見ると、蓋鹵王-文周王-三斤王-東城王-武寧王(諱:斯摩)とある。 両者の関係は、どうなっているのだろうか。まず、〈武烈天皇紀〉所引の『百済新撰』を見る。 《武烈天皇紀所引『百済新撰』》
ところが、編者は「武寧王は蓋鹵王の子で末多王は琨支王の子であるはずなので、 百済新撰がなぜこのように述べるのか理解できない」と述べる。 《三国史記》
文周王:或作二汶洲一〔文周と同音と思われる〕。蓋鹵王之子也。 三斤王:或云二壬乞一。文周王之長子。 東城王:諱牟大。或作二摩牟一。文周王弟昆支之子。 [二十三年]王不レ許。是以怨レ王。至レ是使人刺レ王。至二十二月一乃薨。諡曰二東城王一。 武寧王:諱斯摩。或云レ隆。牟大王之第二子也。 《系図の比較》 まず、蓋鹵王は雄略元年〔丁酉;457〕、同五年〔辛丑;461〕に登場する。 また、武寧王も、武烈帝〔元年=己卯;499〕と同時代なので、 蓋鹵王・武寧王の時期は噛み合っていると言える。
東城王と書紀の末多王は、何れも殺されて武寧王が即位するところが共通する。 二十三年条において、末多王は一度来日した後、帰国して東城王となったとある。 武寧王は『三国史記』では末多王(東城王)の子であるが、〈百済新撰〉は昆支の子で末多王の異母兄である。 昆支は三国史記では蓋鹵王の子であるが、書紀では弟である。 書紀は説に合わせるように、 昆支の妻は結婚する前に蓋鹵王の子を身籠っていたとする。 ただ、いくら物語の上とは言え、 既に自分の子を身籠っている後宮を、弟に下賜することがあり得るのだろうか。 「武寧王=蓋鹵王の子」説は別系統の言い伝えで、 さらに「嶋王」という名前への連想によって、俗に生まれた伝説かも知れない。 《百済との交流》 書紀は、手元の『三国史記』に基づいて五年条を創作したのかも知れないが、 宋書によれば、462年以前に倭王武が即位し、478年に倭使を送って上表文を提出している。 この時期、百済に対する倭国の支配権を認めさせようとして、粘り強く交渉している (倭の五王)。 『三国史記』には書かれなくても、この時期だけ倭・百済の交流が途絶えたとは考えにくい。 倭国に昆支の来倭の記録、または伝承があったことは考えられる。 そこには、武寧王は蓋鹵王の子であるとされていたのかも知れない。 《百済側の記録》 『三国史記』では蓋鹵王以後、倭に関する記事はしばらく途絶え、次に出てくるのは武王九年〔608〕である。 それでは、蓋鹵王のところには何が書かれているのだろうか。 その十八年条を見る。
※十八年条と、『北史』百済伝との共通部分を簡単に示す。 『北史』百済伝の関係部分の詳細を、資料[31]に付した。
百済は、倭ではなく北魏に支援を要請しているわけだが、 ただ、たまたま北史の472年に詳細な記録があったから、蓋鹵王のところに書き込んだのかも知れない。 三国史記編纂の時点では、『百済新撰』が失われたなどの事情が考えられる。 まとめ 昆支王が三国史記に出てくるのは、蓋鹵王の第二子(文周王の弟)で東城王の父であること、 そして文周王三年〔477〕に「卒」〔=重臣の死〕したことだけである。 昆支王が倭王に出仕したこと、武寧王が各羅嶋で生まれたことは、三国史記にはない。 ただ、三国史記に武寧王の諱として「斯摩」があることが注目される。 これについては、倭国の島で生まれて倭語で「シマノキミ」と呼ばれ、その名とともに百済に還ったと考えることは可能である。 さて、蓋鹵王のときは高句麗の攻勢を受けて劣勢であったから、倭との同盟関係を強めたかったであろう。 そのために、文献上は確定できないが、王子を質として倭に送ったことがなかったとは言い切れない。 |
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2018.08.05(sun) [14-06] 雄略天皇6 ▼▲ |
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16目次 【六年】 《天皇遊乎泊瀬小野》
〈大日本地名辞書〉は、「泊瀬山: 初瀬郷の山を指せりと雖〔いへども〕、特に初瀬村大字初瀬を本拠とす、長谷坐山口神社〔ママ〕同所に在り」、 また「長谷山口坐神社は天平二年〔730〕東大寺大税帳に、神戸穀三拾参束、新抄格敇〔勅〕符、大同元年長谷山口神々封二戸などあり」と述べる。 『新抄格勅符』(平安時代)は、奈良時代以後の神社・寺院の封戸などを規定した書。 神名帳には{大和国/式上郡/長谷山口神社【大。月次。新甞】}、 比定社は「長谷山口坐神社」(はせやまぐちにいます神社、奈良県桜井市初瀬(大字)4593)。 ただし歌謡の「泊瀬山」については、これを単独歌として見た場合三輪山、あるいは忍坂山を指す可能性もある(別項)。 《小野》 「小野」については、長谷山口坐神社周辺は既に山が林立するから、山の間の小さな野を意味する「小野」かも知れない。 地名とされる「道小野」については、万葉歌に「豊泊瀬道」がある(別項)。この道は初瀬川に洗われる石を伝って歩く形状になっていたと思われるので、 初瀬街道の西端と思われる。 「道」とは、この泊瀬路のことであろうか。 〈釈日本紀〉における訓みは、巻二十六-和歌四に「曰二道ノ小野ト一。」があるから「ミチノ乙ヲノ甲」である。 地名としては「チヲノ」の方がありそうに思えるが、今のところこの地名は見いだせない。 《少子部連》 神武天皇段において、神武天皇の皇子神八井耳命が、小子部連ら19氏の祖とされる(第101回)。 〈天武天皇紀〉元年八月条に「尾張国司守少子部連鉏鉤。匿レ山自死之。」、 十三年十二月条に、八色の姓制度下の「宿祢」姓を賜った五十氏の一つに「少子部連」が見える。 〈姓氏家系大辞典〉は、「小子部連:多臣の族にして、小子部の伴造家なり。 雄略紀六年三月条に『〔中略〕蜾蠃・誤りて嬰児を聚め〔中略〕天皇・大い咲ひ給ひ〔中略〕 姓を賜ひて、小子部連と為る』と見ゆれど信じ難し。」、 また「小子部:職業部の一にて、子部の一種、宮中の雑役に服せし品部なるべし。〔中略〕 我が国にも古くより侏儒〔=身長が低い人〕を使役せし事は、天武紀に 『〔中略〕諸国司に命じ、侏儒、及び伎人〔くれひと〕を貢上せしめし』記事等あるにより知るべきなり」。 と述べ、小子部という名称は「丈低き人、即ち侏儒を以って組織したるが故と」 する。 宮中の雑用人には侏儒もいたのかも知れないが、小子部は基本的に少年・少女を所有して宮中に派遣する部だと考えた方が、嬰児伝説との距離は縮まる。 《大意》 六年二月四日、 天皇(すめらみこと)は泊瀬小野に遊ばして、山野の地勢を御覧になり、 慨然興感して〔すこぶる心が高ぶって〕御歌を詠まれました。 ――隠来(こもりく)の 泊瀬の山は 出で立ちの 好ろしき山 走(わし)り出の 好ろしき山の 隠来の 泊瀬の山は 奇(あや)に裏妙(うらぐは)し 奇に裏妙し そして、小野を名づけて道小野(みちのおの)と言います。 三月七日、天皇は、皇紀にその手で桑を栽培させ、蚕の事をさせようと思われました。 そこで、蜾蠃(すが)に命じて速やかに国内の蚕を集めさせました。 そして蜾蠃は、誤って嬰児(みどりこ)を集めて天皇に献上して、天皇は大笑いされ、 嬰児を蜾蠃に賜って 「お前の手で、よろしく養育せよ。」と仰りました。 蜾蠃は嬰児を宮垣の一角で養育し、そのうちに姓(かばね)を賜って少子部連(ちいさきこべのむらじ)となりました。 四月、呉の国は我が国に使者を遣わして、貢献しました。 【観山野之体勢慨然興感】 「観二山野之体勢一慨然興レ感」の伝統訓の妥当性を考える。 《伝統訓》
「ハケム-テ」は繋がらないが、「国史大系8」の凡例に「本書の体裁は改竄加筆の跡に至るまで原本の旧に仍〔よ〕れり」とあるので、 「ハケム」と「テ」はそれぞれ時代を異とする書き込みだと思われる。 ●〈仮名日本紀〉: 「山野【の】の体勢【なり】をみそなはして、【慨然】なげいて【感】みおもひをおこして」 「なげ」の次の変体仮名は「い」(以)だと思われるが、「き」(記)かも知れない。「い」なら音便である。 《みそなはす》 このように、「観」の伝統訓は「みそなはす」である。 〈時代別上代〉はこの「みそはなす」の用例として所引『高橋氏文』〔792年〕の 「平尓之天相見曽奈波佐牟止思保須間尓別由介利」 〔平にして相見そなはさむと思ほす間に別ゆけり〕を挙げている。この部分は宣命体だから、8世紀後半に書かれたと思われる。 他の〈時代別上代〉の例文も訓点資料のみだから、平安期以後であろう。万葉集には「みそなはす」はなく、「見る」の尊敬体は「めす」である。 よって、書紀〔720年〕の時点では、基本的にこの語はまだなかったと推定される。 「みそなはす」は「見る」の尊敬化だが、「めす」とは別の方法による。「あそば-す」(未然形+軽い尊敬ス) が「遊ぶ」意味を失って尊敬の補助動詞になったのと同じように、「具ふ」が補助動詞「そなは-す」になったものではないだろうか。 ただしこれは「見る」以外には使われないことが、問題として残る。 《慨然》 「慨然」を普通は「なげきて」と訓読するが、それでは歌意とは感情の方向が逆である。 ただ、〈時代別上代〉は「もともとナゲクは〔中略〕大息をつくことで、その原因は不満にあっても感嘆にあってもよいわけで、 讃歎する意とした方が解釈しやすい例もある」と述べ、これを是とすれば、「なげきて」と訓読するのはぎりぎり可能である。 一方『古典基礎語辞典』は語源を「なが(長)-いき(息)」とする点は同じだが、感情はつらさ、悲しみの方向に限っている。 やはり、賞讃の場面で使うのは例外的であろう。 なお、「~然」は「~然として」だから、「慨然」は「興感」するときの様子である。 《興感》 「感」の字は、記には数例出てきて「かなふ」と訓むと思われるが、万葉歌には一例もない。 「興感」における「感」は感情の意味だから「こころ」はあり得る。しかし、「こころをおこす」では機械的な直訳で、どうも雰囲気がない。 むしろ音よみを用いて「慨然として興感す」と読む方が、言おうとすることが迫ってくる。 上代語で訓読する場合は、「慨然興感」全体に対して、雅になるようなうまい意訳が望まれる。 【歌意】
――ここで万葉集の類歌を併せて読むことにより、泊瀬の山が具体的にどの辺りを指すのかを探る。 《類歌(1)》
この歌の心は、その美しかった山が、今はあたら荒れるに任せるのが惜しいと嘆くものである。 ところで、論文『日本古代の王権と道路』※(千田稔)における、忍坂山への言及は注目される。 それは、泊瀬朝倉宮について述べた個所で、 「遺構の南ほぼに初瀬川をはさんで忍坂山が位置するという地理的な配置が見いだされ、 これは〔中略〕吉野宮(吉野町宮滝遺跡)の南に聖山金峯山を配するのと同じ関係である」とあることは、傾聴に値する。 ※…『日本研究:国際日本文化センター紀要』14号、P.125~145。1996.7.31。副題「大和・河内東西道に関して」。
ここで「隠口の長谷(泊瀬)の山」及び「青幡の忍坂山」の並置は、音韻効果を狙ったものである。 この部分は一つの「泊瀬から見える忍坂山」とも、二つの別々の山とも読める。 後者だとすれば、「長谷の山」はやはり形が整った三輪山であろうと思われる。 しかし、三輪山が円錐形に見えるのは纏向の方向から見た場合である。 初瀬川(南側)から見た姿はまた趣が異なり、巻向山などと連なって山脈を為す。 仮に「長谷(泊瀬)の山」が三輪山だったとしても、これは初瀬川の方から見たとき呼び名だと考えられるから、円錐状というわけではない。 ただそれでもなお、美しい山並みであるのは確かだからイデタチ・ハシリデと表現しても何ら差支えないだろう。 結局、一つの山か二つの山のどちらと取るかは、この歌を鑑賞する人の気持ち次第である。 《泊瀬の山》 この段の記紀歌謡がこの万葉歌に通じるとすれば、雄略帝が出かけた山の候補として忍坂山も上がる。しかし、忍坂山は朝倉宮にいれば既に見慣れている。 泊瀬小野で「遊」び、「観二山野之体勢一」と書くからには、 朝倉宮から一定の距離の場所に出かけて、初めて見た山の体勢に感嘆したのであろう。 よって、物語歌としては、やはり現在の長谷寺駅の辺りから三輪山・巻向山の山並みを見た歌と読むのが適切だと思われる。 《類歌(2)》
「豊泊瀬道」は初瀬川沿いの道で、 この区間は平らな石が水面から出ているところを伝って歩くものであったと想像される。 この泊瀬路から東に向かう道は畿内と伊勢を結ぶ道で、 現在は初瀬(はせ)街道と呼ばれる。 <wikipedia>によれば、「比較的平地が多い街道としてよく利用されていた」という。 【呉国遣レ使貢献】 宋書によれば、「呉国遣レ使」と書かれた同じ年に、倭王興に対して詔を発行した。 その記事(世祖(孝武帝)大明六年〔462〕)の内容を確認する (倭の五王)。
倭は宋から与えられた爵号には不満で、七国を含む称号を要求した。このことが「弟武立・自称」と続けて書いてあるところに、武=雄略天皇の強気が読み取れる。 その後の交渉で宋は百済以外は認める譲歩案を示したが、倭側は百済を含めることに固執した。 時期的な問題としては、462年は雄略天皇が即位して既に6年が過ぎているのに、興の世となっていることである。 書紀、宋書のどちらかの誤りとすれば話は簡単に片付くが、 大明六年の時点では宋はまだ興の死を知らず、 使者が来朝して初めて代替わりを知ったとすれば辻褄を合わせることができる。 使者が到着したら、大王は武に変わっていて、面会したらいきなり 「安東将軍倭国王ではだめだ。倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓を冠せよ。」と要求された場面が想像される。 この説は単なる空想のように見えるが、中国側の使者が来朝して初めて倭王の代替わりを知るのが普通だったと仮定したところ、 「倭の六王」となって系図の不一致が軽減され、双方の年代の噛み合わせもうまくいったのである (第182回)。 《大明六年》 さて、書紀の「呉国遣使貢献」は、『宋書』が云うところの大明六年の遣使を指すとすれば、 倭の興による宋への貢献への返礼と思われ、使者は当然返貢をもって訪れた。 ただ、返使としては年数が経ち過ぎているから、返礼とは別にこのためだけの勅使を立てたのかも知れない。この場合でも手ぶらで訪れることはあり得ないだろう。 そのどちらかは分からないが、これを書紀は呉国からの貢献があったと書く。書紀が倭を高めて書くのは、いつものことである。 「獲加多支鹵大王御世。壬寅年宋国使朝」のような記録が倭国側に絶対になかったとは言い切れないが、 どちらかというと、書紀編者が手元の宋書から「大明六年」の記事に基づいて書き加えたと考えた方が自然である。 まとめ 仁徳帝から反正天皇までの外交関係は神功皇后紀にごっそり移したが、雄略天皇紀で本来の位置に戻っている。 書紀は巻を進めるにつれ、かつての神話から歴史書としての性格がだんだんと強まっている。その一つの表れであろう。 神功皇后紀で魏志を引用したことを考えると、ここに「宋書云」があってもよいように思えるが、 持ってきた詔は倭国の意に沿わず、返貢にも触れてないから書けないだろう。 「呉国」という表現を用いたのは、冊封の関係を逆に描くために敢えて伝説仕立てにしたのかも知れない。 書紀の内容が中国に知られる可能性も考えて、用心したのだろうか。 さて、今回の「泊瀬の山」については万葉の類歌を併せて読むと、書紀の文に加えて朝倉宮の立地の理由などの奥行きが見えてきて、 なかなか興味深いものがある。 ⇒ [14-07] 雄略天皇7 |