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2018.04.24(tue) [14-01] 雄略天皇[1] 


目次 【即位前(一)】
大泊瀬幼武天皇、雄朝嬬稚子宿禰天皇第五子也。……〔続き〕


目次 【即位前(二)】
是日、大舍人驟言於天皇。……〔続き〕


目次 【即位前(三)】
天皇使々乞之、大臣以使報……〔続き〕


目次 【即位前(四)】
〔安康天皇三年〕冬十月癸未朔、天皇恨穴穗天皇曾欲……〔続き〕


目次 【即天皇位】
十一月壬子朔甲子、天皇命有司設壇於泊瀬朝倉卽天皇位……〔続き〕


目次 【元年三月】
元年春三月庚戌朔壬子、立草香幡梭姬皇女爲皇后。……〔続き〕


目次 【元年童女君】
《本是采女天皇与一夜》
童女君者本是采女、天皇與一夜而脤、
遂生女子、天皇疑不養。
及女子行步、
天皇御大殿、物部目大連侍焉。
女子過庭、
目大連顧謂群臣曰
「麗哉、女子。
古人有云、娜毗騰耶皤麼珥。
【此古語未詳。】
徐步淸庭者、言誰女子。」
…(古訓) ともに。ともにす。あつかる。
…[名] 祭に供える生の肉。ここでは「娠」にあてる〔どちらかと言えば誤用〕(別項)。
女子…(古訓) 女:をむな。をむなこ。
…[動] 地を均(なら)す。国を治める。馬を調教する。仕える。(古訓) をさむ。さふらふ。すすむ。 [接頭] 尊敬の意を加える。
おほまします…[自]サ四 尊敬の接頭語「おほ-」+尊敬動詞「まします」。
なびと…[人称代] 相手を親しんでいう。 
さやけし…[形]ク 明るく清らかである。
…[形] ゆるやか。(古訓) やうやく。しつか。をそし。
童女君(めのわらはのきみ)者(は)本(もと)是(これ)采女(うねめ)にありて、天皇(すめらみこと)一夜(ひとよ)を与(ともに)したまひて[而]娠(はら)みて、
遂に女子(をみなご)を生みて、天皇疑ひて不養(やしなひたまはず)。
女子行歩(あゆむころ)に及びて、
天皇大殿(おほとの)に御(おほみましま)して、
物部目大連(もののべのめのおほむらじ)侍(はべ)りまつりき[焉]。
女子庭(には)を過ぎゆきて、
目大連(めのおほむらじ)群臣(まへつきみたち)を顧(かへりみ)て謂(まをさく)[曰]
「麗哉(うるはしや)、女子。
古(いにしへ)の人有るに云(い)ひしく、娜毗騰耶皤麼珥(なひとやはばに)といひき。
【此の古語(いにしへのことば)未詳(いまだつまひらかならず)。】
徐(やくやくに)歩(あゆみ)て庭(には)に清(さや)けくある者(は)、誰(た)が女子と言ふそ。」
天皇曰
「何故問耶。」
目大連對曰
「臣觀女子行步、容儀能似天皇。」
天皇曰
「見此者咸言如卿所噵。
然、朕與一宵而脤産女、
殊常、由是生疑。」
大連曰
「然則一宵喚幾𢌞乎。」
天皇曰
「七𢌞喚之。」
…[名] 長官。(古訓) きみ。ところ。なむち。
天皇曰(のたまはく)
「何故(なにゆゑ)に問ひまつる耶(や)。」とのたまひて、
目大連対(こた)へて曰(まを)さく
「臣(やつかれ)女子の行歩(あゆみ)を観(み)まつれば、容儀(すがたかたち)能(よ)く天皇に似たまふ。」とまをす。
天皇曰(のたまはく)
「此(こ)を見(み)者(ば)咸(みな)卿(なむち)の所噵(いはゆる)が如く言ひまつる。
然(しかれども)、朕(われ)一宵(ひとよ)を与(ともに)して[而]娠(はら)みて女(むすめ)を産むは、
常(つね)とは殊(こと)にして、是の由(ゆゑ)に疑ひを生(な)したまふ。」とのたまふ。
大連曰(まをさく)
「然(しかれども)則(すなはち)一宵(ひとよ)に幾廻(いくたび)喚(よ)びたまふ乎(や)。」とまをして、
天皇曰(のたまはく)
「七廻(ななたび)[之]喚びたまひき。」とのたまふ。
大連曰
「此娘子、以淸身意奉與一宵、
安輙生疑、嫌他有潔。
臣聞、易産腹者、
以褌觸體、卽便懷脤。
況與終宵而妄生疑也。」
天皇命大連、以女子爲皇女、以母爲妃。
是年也、大歲丁酉。
…[副] 「いずくんぞ」。反語に用いる。
いかにとそ…上代の不定称「いづく」は場所に限定されるので、ここでは「いづくにそ」と訓むことを避ける。 助詞「ぞ」は、奈良時代から徐々に濁音化したと言われる。
清身意…〈釈日本紀-秘訓二〉清身意【キヨキコゝロ】
…[副] すなはち。「その都度」などの意で使われるが、ここでは「ただちに」。
…(古訓) きらふ。うたかふ。
…(古訓) いさきよし。
…(古訓) みたり。みたりかはし。
終宵…夜通し。(=終夜、終夕)。
大連(おほむらじ)曰(まをししく)
「此の娘子(をみなご)、清(きよ)き身と意(こころ)とを以ちて一宵(ひとよ)を与(ともに)し奉(まつ)りて、
安(いかにとそ)輒(すなはち)疑(うたが)ひを生(な)して、他(ほかのひと)潔(いさぎよ)く有ることを嫌(うたが)ひたまふや。
臣(やつかれ)聞きまつらく、易(やす)き産腹(うみばら)者(は)、
褌(たふさき)体(み)に触(ふ)るを以ちて、即(すなはち)便(たやすく)懐脤(はらむ)とききまつる。
況(いはむや)終宵(よとほ)し与(とも)にして[而]、妄(みだりかは)しく疑ひを生(な)したまふや[也]。」とまをしき。
天皇大連に命(おほ)して、女子を以ちて皇女(ひめみこ)と為(し)て、母を以ちて妃(きさき)と為(し)たまふ。
是の年[也]、大歳(おほとし)丁酉(ひのととり)。
《童女君》
 記の雄略天皇段の2つの場面で出てくる「童女」は、普通名詞〔=少女〕である。 「童女君」は記とは全く異なる場面で登場し、さらには固有名詞となっている。 ただ、采女の身でお手付きとなって妃に昇格したことを考えると、俗称「童女」が名前に転じた印象が強い。
 その訓みについては、私記・釈日本紀ともに、雄略天皇紀の「童女君」には改めて訓をつけないので、 「童女」そのものに「君(きみ)」をつけていたと思われる。
 そこで、まずは「童女」の訓みを探り、にまとめた。
仮名日本書紀
 「童女」については、丙本の神代と崇神天皇紀に訓がある。また、甲本・丙本には類似する「少女」の訓がある。
●〈甲本〉神代:小女【オトメ】
●〈丙本〉崇神天皇紀:少女【乎止女】〔をとめ〕童女【於止女】〔おとめ〕。 「おとめ」は「弟姫」から来ているようである。
 さらに範囲を広げると、
●〈倭名類聚抄〉童【和良波】〔わらは〕童女【女乃和良部】〔めのわらべ〕
 小女:日本紀云小女【和名乎止米】〔をとめ〕童女【同上】
●〈類聚名義抄-図書寮本〉メノワラハ。
●〈時代別上代(霊異記上九話興福寺本)〉童女【め乃和らは】〔めのわらは〕
●〈万葉集〉 わらは童児和良波小童小子小児
 そのうち「おみなわらは」が一例あるのは興味を惹くが、 「(万)4094 老人毛 女童兒毛 おいびとも をみなわらはも」という文脈だから、 「女の児童」ではなく、老人・女・児童を並列したようである。
 ちなみに「をみな」については、をみな娘子。をみなへし〔植物名〕:娘子部四姫押姫部四。がある。
●〈源氏物語〉女君:「おむなぎみ」。
●〈仮名日本書紀〉童女君【をなきみ】()。
●〈古事記伝略-景行天皇段〉「雄略天皇巻に、童女君と〔いふ〕名あり、【今本に、ヲナキミと訓れど、いかゞあらむ】
 その結果、に対応する上代語は「わらは」が主流だと見てよい。 ただ「童女」を「童・女」と訓めば「わらはめ」だがなぜか上代には見えず、実例があるのは「めのわらは」である。 「わらは」は男女を区別せず、殊更に女を示したい場合に説明的に「めの」をつけたらしい。
 書記の古訓においては、万葉集の「わらは」を採用する発想はなく「少女(おとめ)」あるいは「女(をみな)」の延長線上で訓読したと思われる。 〈仮名日本書紀〉の「をなきみ」は、もっぱら「をむなきみ」と訓まれてきた伝統を感じさせる。
 近代以後は、『訓読 日本書紀』(1932~41頃、武田祐吉)で「わらはめのきみ」と訓んでいる。
 ネットで検索をかけると、「わらはきみ」8件、「をみなきみ」5件である。 さらに、現代仮名遣いに変えた「わらわきみ」82件、「おみなきみ」5件、連濁した「おみなぎみ」73件、「おむなぎみ」1件となっている。 格助詞を入れた例はごく少なく、「おみなのきみ」1件、「わらわめのきみ」1件である。 このように、全体的には「わらはきみ」と「をみなぎみ」が拮抗している。
 「わらはきみ」とするのは、「めのわらはきみ」では名前らしくないので「わらは」は女子も含むからと考えた結果であろう。
《脤》
 を、辞書で調べる。
 〈学研新漢和〉ひもろぎ。祭に供える生の肉。脣(=唇)と別字だが、混用されることがある。
 〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉①古代帝王祭-祀社稷之神所用的生肉。②「脣〔=唇〕」之異体。
 〈諸橋大漢和〉も(要約)「①ひもろぎ(祭祀の肉)、②脣にあてた用法。」である。 〈漢字海〉は①のみを載せる。主要な辞書において「脤」を「娠」にあてた用法は皆無である。
《御大殿》
 動詞としての「」の意味は、「馬を御す」、兵などを「統率する」、敵や災害から「防御する」、謙譲動詞「侍(さぶら)う」、 尊敬動詞「統治する」である。「座る」意味はない。
 ここでは尊敬語ではあるが、少女が歩くまでに育ったある日、宮殿に天皇が御座していたら……という文だから、「国の統治」ではない。 「御大殿」は「御坐」から「坐」が省略されたと考えるほかはない。
《なひとやはばに》
 「なひとや」の部分は、〈時代別上代〉「『汝人や』の意であることは動かないだろう」と考えられている。 麗しい女子に対する声掛けの言葉などと想像されるが、 そもそも「はばに」が正確に言葉を聞き取ったものかどうかも分からない。
《以清身意》
 〈釈日本紀-秘訓〉は「身」を訓まないが、「身」は処女性の表現として重要である。 天皇のための「御読」という性格上、省略した可能性がある。
 「清身意」は前置詞句であるが、雄略天皇紀では、このように「以」を前置詞として使う場合が急増している。 巻十四(雄略天皇紀)から巻二十一まで、「α群」(純正漢文体)と位置づけられている (第193回)。
《大意》
 童女君(めのわらわのきみ)は、元は采女(うねめ)であり、天皇(すめらみこと)と一夜を共にして孕み、 遂に女子を生みました。しかし、天皇はこれを疑って養育しませんでした。
 女子が歩くようになり、 天皇が宮殿にいらっしゃり、 物部目大連(もののべのめのおおむらじ)が侍っていたところに、 女子が庭を通り過ぎました。
 目の大連は群臣を振り返って、
 「麗しや、あの女子は。 昔ある人は、『なひとやはばに』と言ったものです 【この古語の意味は、詳らかではありません。】。 ゆるゆると歩み、庭に清らかな姿を見せているのは、誰の娘だと言うのでしょうか。」と言いました。
 天皇は、 「何故にそのように問うか。」と仰り、 目の大連は 「臣が女子の歩みを見たところ、その姿かたちはよく天皇に似ておられます。」とお答えしました。
 天皇は、 「この女子を見れば、皆がお前が話すのと同じようなことを言う。 だが、朕がたったの一夜を共にしただけで孕み娘を生むことは、 普通にはあり得ない。それ故に、疑いを持つものである。」と仰りました。 大連は、 「そのように仰りますが、その一夜に何回呼ばれたのですか。」とお聞きすると、 天皇は、 「七回呼んだのである。」と仰りました。
 大連はこのように申し上げました。
 「この娘子は、清き身と心をもって一夜を共に捧げたのに、 いずくんぞ、疑いを持ち他の人が潔白なことを疑いなさりますとは。
 臣が聞くに、容易く産む腹の持ち主は、 下帯が体に触れるだけで、容易に懐妊すると聞きます。 況(いわんや)、明け方まで一夜を共にしたのに、妄(みだ)りに疑いを持たれますとは。」と。
 天皇は大連に命じて、女子を皇女とし、母を妃となされました。 この年は、太歳丁酉(ひのととり)です。


【大歳丁酉】
 記と書紀と太歳の対応は、允恭天皇崩(記:甲午)〔454〕・安康天皇の即位(書紀:甲午)の時期からかなり近づいてくる (第160回)。 これは、文字による記録の大幅な増加と無関係ではないと推察される。 5世紀初めに体系的に漢字が移入し、持ってきた渡来人が史人(ふみと)として取り立てられたのだろうと第198回で考えた通りである。
 『宋書』の「世祖大明六年」〔462〕に、
●倭国王に「安東将軍倭国王」号の詔を発する。
興死。弟武立。(倭の五王)
 と書かれ、457年とは相違する。しかし「興死。弟武立」の事実を知ったのは、 宋を訪れた倭国使による報告、または帰国した宋国使による復命によると思われるので、 実際には462年よりも以前のことだとしても不自然ではない。
 よって、丁酉年には、一定の信頼性があると思われる。

まとめ
 この話には「娜毗騰耶皤麼珥」(なひとやはばに)なる語句があり、「不詳」という分注が加えられている。 どうやら原話を漢文に直したときに意味不明な語句が残り、そのまま律義に載せられたのであろう。 ということは、この伝説は古くから存在していた。 よく言われるように、書紀では歴史の書き換えがなされていると見られているが、 その一方で広く伝承を蒐集して素材に用いたことも確かである。
 さて、雄略天皇段の方の「童女」としては、赤猪子が登場する。 書紀の「童女君」とは全くの別話であるが、身分の低い少女に手を付けてそのまま放置するという共通性がある。
 雄略天皇は「一晩に七回なされた」というほどの絶倫だが〔但し、受け狙いか〕、その割に子供を残していないから、専ら庶民の子女を食い散らかしていたようである。 既に即位前紀に妃候補に逃げられた話があり、王女たちには嫌われていたらしい。 雄略天皇段・紀は、記紀に大きなウェイトを占めるが、それとは裏腹に酷い書かれようである。



2018.04.28(sat) [14-02] 雄略天皇[2] 

目次 【二年七月】
《百済池津媛婬於石河楯》
二年秋七月、
百濟池津媛違天皇將幸婬於石河楯。
【舊本云 石河股合首祖楯】
天皇大怒、
詔大伴室屋大連、使來目部、
張夫婦四支於木、置假庪上以火燒死。
たはく…[自]カ下二 不倫な性関係を結ぶ。
…(古訓) もも。うちもも。うつもも。
こむら…[名] 〔平安期末以後〕ふくらはぎ。現代の「こむら返り」に残る。
…[名] ① 木の枝。② 枝状の構造。手足。
おひと…[名] 夫。「おふと」とも。
おひとめ…〈現代語古語類語辞典-夫婦〉[上代]おひとめ。
…[名] 建物の軒の横木。桁。
仮庪…〈神代紀上;八岐大蛇〉「假庪【仮庪、此云佐受枳〔さずき〕】八間各置一口槽而盛酒以待之也。
さずき(仮床、仮庪)…[名] 仮に作った床。桟敷(さじき)の古形。
二年(ふたとせ)秋七月(ふみづき)、
百済(くたら)の池津媛(いけつひめ)天皇(すめらみこと)の将幸(めぐみせむ)としたまふを違(たが)へて[於]石河楯(いしかはのたて)に婬(たば)けり。
【旧本(ふるきふみ)に、石河股合(いしかはのももあひ)の首(おびと)の祖(おや)楯と云ふ。】
天皇大怒(おほいか)りたまひて、
大伴室屋大連(おほとものむろやのおほむらじ)に詔(おほ)せたまひて、[使]来目部(くめべ)をして、
夫婦(おひとめ)の四支(よつのえ)を[於]木に張りて、仮庪(さずき)の上(へ)に置きて火焼(ほやけ)を以ちて死(ころ)さしめしめき。
【百濟新撰云
己巳年、蓋鹵王立。
天皇、遣阿禮奴跪、來索女郎。
百濟、莊飾慕尼夫人女曰適稽女郎、
貢進於天皇。】
蓋鹵王…〈釈日本紀-秘訓(=釈紀)〉盖鹵王【カフロワウ】
阿礼奴跪…〈釈紀〉阿礼奴跪【アレトク】
…(古訓) もとむ。
女郎…少女。
女郎…〈釈紀〉女郎【エハシト】
荘飾…〈諸橋大漢和〉盛にかざる。
慕尼夫人…〈釈紀〉慕尼夫人【ムニハシカシ/イシカシ】
適稽女郎…〈釈紀〉適稽女郎【チヤク(大略反)ケイエハシト】
女郎…年頃の娘。
いらつめ(郎女、女郎)…[名] 女を敬愛して呼ぶ語。
【百済新撰(くたらしむせむ)に云ふ。
己巳(つちのとみ)の年、蓋鹵王(がふろわう)立つ。
天皇、阿礼奴跪(あれどくゐ)を遣(つか)はして、女郎(ぢよらう、えはしと)を来(き)索(もと)めしめき。
百済、慕尼(むに)夫人(ふじむ、はしかし)の女(むすめ)を荘飾(かざ)りて適稽(ちやくけい)女郎(ぢよらう、えはしと)と曰(い)ひて、
[於]天皇に貢進(たてまつる)。】
《石河楯》
 記に「孝元天皇-比古布都押之信命-建内宿祢-蘇賀石川宿祢」の系図があるが、その後は「石川」は影を潜め、 書紀には蘇我韓子稲目馬子蝦夷倉麻呂入鹿赤兄果安と「蘇我○○」が続く。ただ、孝徳天皇紀に蘇我倉山田石川麻呂がある。
 壬申の乱〔672年〕に至り、大友皇子側についた蘇我赤兄、曽我連子が断罪され、 蘇我石川に改名した上で安麻呂に継がせた。 その間、蘇我氏の別名、または「蘇我グループの中の小族」の名として潜在的に「石川氏」が継続していたことが考えられる。
 それがたまたま表に出たのが、石河楯かも知れないのである。
《久米部》
 久米部は、大伴連に仕える部であることがここでも示されている。 その従属関係の端緒は、瓊瓊杵尊の天降りに供したときまで遡る。 そこでは、天槵津大来目が大伴連の遠祖たる天忍日命の目下に位置づけられていた 第98回【大伴連・久米直】)。
 記では両者に従属関係はなく、対等であった。
 この問題について〈姓氏家系大辞典〉は、書紀と〈新撰姓氏録〉で従属関係であることを重く見て、 「天津久米命、及び大久米命とは、久米部なる団体を神格化して、一神の如く語り伝へしに過ぎず。」と述べる。
《詔・使》
 天皇が大伴室屋大連に詔し、室屋が来米部を使う。すなわち、二層の使役構造になっている。 助動詞「しむ」は、平安時代には尊敬・謙譲を強めるだけの形式語(「しめ-たまふ」「たてまつら-しむ」)に転じて次第に消滅し、 本来の使役の助動詞として漢文訓読体のみに残る。
 上代にはがっちりと使役を表す語だったから、使役が二層ならば「しめ-しむ」と重ねて用いるべきではないかと思われる。
《百済新撰》
 他にも五年四月条に「辛丑年〔461〕、蓋鹵王、遣弟昆支君大倭天王」と引用される。 辛丑年は「雄略天皇五年」と一致している。
 武烈天皇紀四年にも「末多王無道、暴-虐百姓、国人共除。武寧王立、…」という引用がある。 世界中で『百済新撰』は、これらの逸文ですべてである。
《己巳年》
 『三国史記』では、 「年表」の「乙未」〔455〕に「〔毗有王〕二十九。毗有王薨。盖鹵王慶司即位元年」、 「巻二十五」に「蓋鹵王。或云近蓋婁。諱慶司。毗有王之長子。毗有在位二十九年薨。嗣。」とある。
 「己巳年」は429年または489年である。後者はあり得ず、前者も蓋鹵王は二十一年(但し三国史記による)までなので、 あり得ないだろう。 前項の「辛丑年」は辻褄が合っているから、「乙未」を誤写したことが全くないとは言えない。
《荘飾》
 「荘飾」は学習用漢和辞典には見ないが、〈諸橋大漢和〉にはある。
 漢籍には、いくつかの例がある。
・『太平御覧』皇親部六:「霊太后頗事荘飾。数出游幸」。 [原書]⇒『魏書』巻十九中:「霊太后頗事妝飾。数出遊幸」。「」は「よそおう。化粧する」意。
・『群書治要』巻二十九「晋書上」:「其婦女莊飾織絍皆取成於婢仆」。 [原書]⇒『晋書』巻五:「其婦女莊櫛織紝皆取成於婢僕」。「」は「くしけずる」。
 類書の「莊飾」は原書にある「女性が身なりを飾る」意味の語を、同義語に置き換えた結果であろう。
《女郎》
 ここでは女性の身なりを「荘飾」したのだから、 「女郎」は高貴な女性の意味で使われている。 中国では単に「年頃の娘」であるのに対して、ここでは「いらつめ」に近い。 『百済新撰』が真実の書だとして、百済でも「高貴な女性」の意味で使われたことになる。
《大意》
 二年七月、 百済(くだら)の池津媛(いけつひめ)は、天皇(すめらみこと)が寵愛しようととされたことを違え、石河楯(いしかわのたて)と姦淫しました。 【旧書に、石河股合(いしかわのももあひ)の首(おびと)の祖、楯といいます。】
 天皇は大いにお怒りになり、 大伴室屋大連(おおとものむろやのおおむらじ)に詔して来目部(くめべ)に、 夫婦の四肢を木に張り、桟敷の上に置いて火刑をもって殺させさせました。 【百済新撰にいいます。 己巳(つちのとみ)の年、蓋鹵王(がいろおう)が立ちました。 天皇は、阿礼奴跪(あれどき)を遣わして、よき少女を求めて来させました。 百済は、慕尼(むに)夫人の娘を飾り立てて適稽(ちゃくけい)女郎(じょろう)と呼び、 天皇に進ぜました。】


【大伴室屋大連】
 室屋に至るまでの大伴連の祖先は、のように書かれている。
天忍日命 天降り4御前而仕奉。天忍日命、此者大伴連等之祖。
日臣(道臣) 神武天皇大伴氏之遠祖日臣。汝名為道臣
武日 垂仁天皇大伴連遠祖武日。
景行天皇則命吉備武彦与大伴武日連、令日本武尊
武以 仲哀天皇命四大夫。大伴武以連。
室屋 允恭天皇大伴室屋連。
雄略天皇大伴連室屋為大連
 記紀には、これらの親子関係については何も書かれていない。
 〈姓氏家系大辞典〉は、「伴氏系図」を引用して次のように述べる。
 「道臣より武日に至る系図は古典になけれど、 伴氏系図には 『道臣命(初め物部臣命と号し、後・名を道臣命と改む。 神武帝草創の時、軍功あるの人也、本朝将軍の始也、 姓氏録・天押日命に作る)―味日命(一本昧日)―稚日臣命 ―大日命―健日命(初号武日命、倭建征東の日、吉備武彦と共に副将軍たり矣)』と。 物部臣命など云ふ、何の意か詳かならず、古典に全く合せず。
 このように「伴氏系図」が書紀に合わないことを非難した上で、次のように述べる。
 「武以は其の〔武日の〕子ならんか…〔中略〕…系図には、 健日〔=武日〕の子『武持〔=武以〕・初めて大伴宿祢姓を賜〔たま〕ふ…』とあり」 「故に確実なる物より云へば『武日―武以―室屋―談…〔以下略〕」。
 大伴談(かたり)は、雄略天皇紀の九年条に出てくる名前である。
 神代の天忍日命以前については、『新撰姓氏録』「大伴宿祢」の項に「高皇産霊尊五世孫天押日命〔=天忍日命〕之後也」とある。

【石河股合首祖楯】
 「石河股合」は、一般に「いしかはのこむら」と訓まれている。 その出所を探しているが、現在のところ見つからない。
 まず、「」に、こむら〔=ふくらはぎ〕の意味があるのかというと、 「」は、「(古訓) もも。うちもも。うつもも。」で、「こむら」は「腓」である。 「こむら」は、〈倭名類聚抄〉に「腓【音肥〔ヒ、ビ〕。訓古無良〔こむら〕。見周易。】脚腓也。」とある。
 それでは、「こむら」は上代まで遡るのだろうか。
活版本
股合への振り仮名が首(おびと)の横まではみ出している。
筆記本
「~にたはきぬ」
・〈現代語古語類語辞典〉ふくらはぎ:[中古]こぶら。こむら。〔[上代]記載なし。〕
・「股」に「ふくらはぎ」の意味をつける漢和辞典を見ない。
・古語辞典の文例は今昔物語(平安末期)のものである。
・記の雄略天皇段の歌謡に「多古牟良〔たこむら〕、対応する書紀歌謡に「陀倶符羅〔たくぶら〕がある。
・〈時代別上代〉には、「たこむら」の項目に「手(た)+こむら」という解釈を示す。
・〈私記〉も〈釈日本紀〉も、「石川股合首祖」に取り立てて訓をつけない。
・〈仮名日本書紀〉筆記文のデジタル画像(国文学研究資料館)の「石河股合首祖楯」には訓がない。
・〈仮名日本書紀〉の活版本(大同館書店、1920)は、「石河いしかはもも合首こむらあひ祖楯」となっている。 同書が参照した筆記本には、「股合」への振り仮名として「ももあひ」と「こむら(あひ)」が併記されていたものと思われる。
・〈姓氏家系大辞典〉は「イシカハノマタアヒ」と訓み、「雄略紀に石河楯、旧本云石河股合首祖楯と見ゆるのみ」と述べる。 コムラ(小村、ヲムラとも)について同辞典は、信濃国、伊那郡などにいくつかの名前を見出しているが、 出典は吾妻鏡などで、鎌倉時代以後である。
・武田祐吉の『訓読 日本書紀』(1932~41頃)は、「石河股合首」に訓をつけていない。
・〈岩波文庫版〉は振り仮名「いしかはのこむら」をつけるが、特に説明はない。
 以上から要点をまとめると、
ふくらはぎを意味する「こむら」は平安期以後確認されるが、上代には「手(た)-こむら」の連語が見られる。
〈私記〉・〈釈日本紀〉は「石河股合」に訓をつけない。
江戸時代に、「またあひ」と「こむら(あひ)」の併記が見られる。
〈姓氏家系大辞典〉は、「イシカハノコムラ」なる一族を具体的には見出していない。
 釈日本紀は、 もし「コムラ」という特殊な訓みだったとしたら必ず取り上げただろう。 釈日本紀は建治元年〔1275、鎌倉時代〕頃とされるので、 その当時は普通の訓み「イシカハノモモアヒ」が用いられていたと思われる。
 以上から、「イシカハノコムラ」は、後世(江戸時代ぐらい?)になって現れた説だと思われるが、 その発端はまだ見つけられない。
 ふくらはぎを意味する「こむら」は上代にあったかも知れないが、「股合」をコムラと訓んだかどうかは不明である。

【古代朝鮮由来と見られる語】
 朝鮮の古代語については、「百済語の二重言語性」(河野六郎、『中吉先生喜寿記念 朝鮮の古文化論讃』(1987;国書刊行会)収録)に論考がある。 それによると、「零細な記録の中にあって、日本書紀の韓土関係の記事に、韓土の地名や人名などの読み方として伝えられているものがある。」 「その仮名書きの韓土の語が新羅語なのか。百済語なのか、また加羅の言語なのか、それは俄かに決めることはできない。」 しかし「これらの古代の韓語の中に後世の朝鮮語に繋がるものがある」として「」(セマ)、「」(ニリム)、「」(ムレ)などの例を挙げる。 なお、論文の表題「百済語の二重言語性」とは、「支配階級と被支配者である人民とでは違った言葉」を使っていたことを意味する。
 その中で斉明天皇紀の「コキシ大夫人コキシハシカシ」については、 「この大夫人は百済の王妃である。このハシカシが百済の人民の称えた〔=人民が話す言葉における〕妃であろう。 ハシカシのカシは、中古朝鮮語の갓(女)と関係があると思われる。」と述べる。
 このように、釈日本紀の古朝鮮語式よみには一定の根拠がある。 しかし、同論文は一方で、崇峻紀の「狛夫人ノイロエヒト」と、天智紀の「母夫人ホリクシ」など、古朝鮮式が徹底されていないことも指摘している。 〈釈日本紀-秘訓〉を見ると、第九(神功)で「枕流王【トムルワウ】」、第十四(雄略)で「先王【サキノコキシ】」など、「」も「ワウ」と「コキシ」で揺れ動き、明確な使い分けの基準は見えない。
 古朝鮮式のよみの提示は、平安期・鎌倉期の研究によるものであろうが、 古墳時代以来の外来語をそのまま一定程度引き継いでいることが、ないとも言い切れない。 ところが、女郎(えはしと)は「兄愛人」だと思われ、倭語も混在しているらしい。しかし、そのことはむしろこれらの語の古さを感じさせる。
 ただ書紀の原文作成の段階では、『百済新撰』などの資料は字そのものが理解できればよく、百済の言葉としてのよみ方には関心はなかったかも知れない。

まとめ
 帝に内緒で姦通した妃を、相手の男ともども火刑にした。 しかも、さじき(木組みの台か)の上に高く立てた柱に張りつけて、見世物にしたようである。 こうして、雄略帝の並外れた残虐性を表す話のひとつが記される。
 『百済新撰』から引用することによって、この時期の百済との交流を示すと思われるが、 『百済本記』の蓋鹵王在中の記事は、倭との関係は全くなく、すべてが高句麗との関係である。 百済本記には、在位から十三年間の記事は何も書かれない。



2018.05.05(sat) [14-03] 雄略天皇[3] 

目次 【二年十月】
《幸于吉野宮》
冬十月辛未朔癸酉、幸于吉野宮。
丙子、幸御馬瀬、
命虞人縱獵、凌重巘赴長莽、
未及移影、獮什七八、
毎獵大獲、鳥獸將盡、
遂旋憩乎林泉、相羊乎藪澤、
息行夫展車馬。
御馬瀬…〈五畿内志〉は、吉野郡麻志村とする(現在の大淀町増口(大字))。
虞人(ぐじん)…官名。山林・沼沢のことを掌る。〈仮名日本書紀〉やまのつかさ
…[動] ①しのぐ。②こえる。無理をして高山を越える。
…[名] 峰。〈汉典〉大山上的小山。
…[名] おおいかぶさる雑草。(古訓) しけし。くさむら。
赴長莽…『芸文類聚』巻六十一「縦猟徒、赴長莽」。
…[動] ①細かい網でさらえてとる。②秋に行う狩り。(古訓) かる。
…[名] さまざまな「十個一組」を表す。「十二個一組」の1ダースに類似する。 さらに分数を表す用法があり、〈諸橋大漢和〉は、用例に 「什一〔=十分の一〕、什二、什一二、什二三、什六、什八、什八九」を見出す。
…[前] に。より。(場所や比較)。
相羊(しょうよう)…①さまよう(=相佯)。②たよりとすることがないさま。
行夫…〈周礼-秋官司寇〉行夫:掌邦国伝遽之小事、媺悪而無礼者。凡其使也,必以旌節。 〔邦国(大小の国)を掌り、急な小事、善悪、無礼を伝える。凡そその使いには、必ず旌節(徴の旗)を用いる。〕 〈仮名日本書紀〉「かりひと」。おそらく猟に同行した使用人と解釈した意訳。
車馬…馬車。乗り物。
…(古訓) のふ。ひらく。
冬十月(かむなづき)辛未(かのとみ)を朔(つきたち)として癸酉(みづのととり)〔三日〕、[于]吉野(よしの)の宮に幸(いでま)す。
丙子(ひのえね)〔六日〕、御馬瀬(みませ)に幸して、
虞人(やまのつかさ)に命(おほ)せたまひて、縦(ほしきまにま)に猟(かり)したまひて、重(かさな)りし巘(みね)を凌(しの)ぎて、長き莽(くさむら)に赴(おもぶ)く。
未だ影を移すに及ばざりて、什七八(とをのうちななつやつ)を獮(かり)したまふ。
猟(か)る毎(ごと)に大(おほ)きに獲(え)て、鳥(とり)獣(けだもの)将(まさ)に尽(つきむ)。
遂に[乎]林(はやし)泉(いづみ)に旋(めぐ)り憩(いこ)ひて、[乎]藪(やぶ)沢(さは)に相羊(さまよ)ひて、
行夫(つかひひと)を息(やす)めて車馬(しやば、みこしくるま)を展(ひら)きたまへり。
《吉野宮》
 吉野宮には、大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱の前に雌伏した (第11回)。 天武・持統朝の時代の吉野宮と目されるのが、宮瀧遺跡である (第151回)。 奈良時代には芳野監が置かれた。 芳野監〔大和国吉野郡を分立、和泉監(霊亀二〔716〕)と同時期か〕は、離宮である吉野宮の運営機能を兼ねた特別の国を意味すると考えられている (允恭天皇紀9年)。
《移影》
 「未及移影」は、習慣的に〈仮名日本書紀〉「いまだ日もかたぶ【移影】かざるに」と訓まれる。 漢籍には『全唐詩』巻三百五十八 :「日漸移〔日を傾け、やうやく影を移す〕、 同巻八百八十八:「夕陽移」という表現がある。 なお『全唐詩』は、清代の1703年に唐代の「唐詩」というスタイルの詩を網羅して編まれたもの。
《猟場之楽》
問群臣曰
「獵場之樂、使膳夫割鮮。
何與自割。」
群臣忽莫能對。
於是天皇大怒、
拔刀斬御者大津馬飼。
是日車駕至自吉野宮、
國內居民咸皆振怖。
…(古訓) には。
…(古訓) たのしひ。
…[名] 新しいなま肉。殺したての鳥獣。
なまし…[形]シク 生(なま)である。 
大津…住吉大社の辺りか (第143回)。
御者…①馬車の馬の使い手。②天子のそばに仕える人。侍従。
つかひひと…[名] 従者。
車駕…〈仮名日本書紀など〉すめらみこと
くぬち…[名] 国内。(万)4000 安麻射可流 比奈尓名可加須 古思能奈可 久奴知許登其等  あまざかる ひなになかかす こしのなか くぬちことごと〔天離る 鄙に名かかす 越の中 国内悉〕
…(古訓) ふるふ。
…(古訓) おそる。おつ。
群臣(まへつきみたち)に問ひたまはく[曰]
「猟(かり)の場(には)之(の)楽(たのしび)、[使]膳夫(かしはで)をして鮮(なましきしし)を割(さ)かしむ。
何(いかに)か自(みづから)割くことに与(あづか)るや。」ととひたまひて、
群臣忽(たちまち)にして対(こた)ふること莫(な)能(あた)ふ。
於是(ここに)天皇(すめらみこと)大(おほ)きに怒(いか)りたまひて、
刀(たち)を抜きて御者(ぎよしや、みまぞひ)大津(おほつ)の馬飼(うまかひ)を斬りき。
是の日車駕(しやか、みこしくるま)吉野の宮自(ゆ)至りて、
国内(くぬち)に居(すみまつりし)民(たみ、おほみたから)咸皆(みなみな)振(ふる)ひて怖(お)づ。
由是、皇太后與皇后、聞之大懼、
使倭采女日媛舉酒迎進。
天皇、見采女面貌端麗形容温雅、
乃和顏悅色曰
「朕、豈不欲覩汝姸咲。」
乃相携手、入於後宮。
語皇太后曰
「今日遊獵、大獲禽獸。
欲與群臣割鮮野饗、
歷問群臣、莫能有對。
故朕嗔焉。」
端麗…姿や態度が整って美しいこと。
温雅…おだやかで、上品である。
…[動] みる。
…[形] うつくしい。磨いたように美しい。
…(古訓) えらふ。ふ。あまねし。
…(古訓) いかる。
由是(このゆゑ)に、皇太后(くわうたいごう、おほきさき)与(と)皇后(おほきさき)と、之(こ)を聞こして大(おほ)きに懼(おそ)りたまひて、
倭(やまと)の采女(うねめ)日媛(ひのひめ)を使はして、酒(みき)を挙(あ)げて迎(むか)へ進(まつ)らしめき。
天皇、采女の面貌(かほ)端麗(うるはしか)りて形容(すがたかたち)温雅(あたたけか)るさまを見(め)して、
乃(すなはち)顔(かほ)悦(よろこび)の色に和(やはら)げたまひて、曰(のたま)はく
「朕(われ)、豈(あに)汝(いまし)の姸(うるはし)く咲(わら)ひまつるさまを覩(め)すことを不欲(ねがはざる)や。」とのたまひて、
乃(すなはち)相(あひ)携手(たづさは)りて、[於]後宮(うちつみや)に入りたまひき。
皇太后に語りて曰(のたまひしく)
「今日(けふ)猟(かり)遊ばして、大(おほ)きに禽(とり)獣(けだもの)を獲(う)。
群臣(まへつきみたち)と与(とも)に鮮(なましきしし)を割(さ)きて野饗(のあへ)せむと欲(のぞ)みて、
群臣に歴(あまねく)問へど、有対(こたへてあること)莫(な)能(あた)へり。
故(かれ)朕(われ)嗔(いか)りたまひぬ[焉]。」とのたまひき。
皇太后、知斯詔情、奉慰天皇曰
「群臣、
不悟陛下因遊獵場置宍人部降問群臣、
群臣嘿然理且難對。
今貢未晩、以我爲初。
膳臣長野能作宍膾。
願以此貢。」
天皇、跪禮而受曰
「善哉、鄙人所云、
貴相知心、此之謂也。」
皇太后、觀天皇悅、歡喜盈懷、
更欲貢人曰
「我之厨人菟田御戸部眞鋒田高天、
以此二人、請將加貢爲宍人部。」
なぐさむ問う…[他]マ下二 心を安める。
降問…「下問」と同じか。
下問…目下に問う。
ししひとべ(宍人部)…〈姓氏家系大辞典〉シシは獣肉にして、宍人部とは、 其の獣肉を調理するを職とせし品部なり。
…(古訓) さとる。しる。
黙然…ものを言わずに黙っているさま。「然」は状態を表す助詞。
…(古訓) おそし。
膳臣長野…長野は人名。
なます(膾)…[名] 肉や魚貝を薄く切って生食する料理。
…(古訓) うやまふ。をかむ。
とべ…[接尾] 男女を問わず人名につく。〈時代別上代〉伊斯許理度売(いしこりどめ)のように「度売」ともなるので、トベと濁って訓むのがよかろう。
菟田御戸部…〈甲本〉菟田【ウタノ】御戸部【ミトヘ】。真鋒田【マサキタ】高天【タカアメ】。 〈釈日本紀-秘訓二〉菟田御戸部【ウタノミトヘ】。真鋒【マサキ】。田高天【タタカメ】。
御戸部…〈姓氏家系大辞典〉によれば、六人部の別名。 「六人部」は「職業部の一」「但し如何なる職に従事せしか詳しから」ず。「大品部の一にて諸国に多し。」という。
真鋒田高天…菟田御戸部に属する真鋒田・高天の二名かも知れない。
たてまつる…[他]ラ四 (尊敬動詞として)「御飲食されます」。ここでは「御任命なさります」。
皇太后、斯(かく)詔(のたま)ひし情(こころ)を知りたまへりて、天皇(すめらみこと)を慰め奉(まつ)りたまひて曰(まをしたまひしく)、
「群臣(まへつきみたち)、
陛下(みかど)の猟(かり)遊(あそ)ばす場(には)に宍人部(ししひとべ)を置けるに因(よ)りて群臣に問ひ降(くだ)したまへるを不悟(しらざ)りて、
群臣の嘿然(もだせしさま)に理(ことわり)ありて且(また)対(こたふる)に難(かた)し。
今(いま)貢(たてまつ)らむこと未(いまだ)晩(おそ)からずて、
我(わ)を以ちて初(はじめ)に為(し)たまはむ。
膳臣(かしはで)長野(ながの)能(よ)く宍(しし)膾(なます)作りまつりて、
願(ねが)はくは此の貢(たてまつりしもの)を以(もちゐ)たまへ。」とまをしたまひき。
天皇、跪(ひざまづ)き礼(をろが)みて[而]受けたまひて曰(まをしたまししく)
「善(よろし)き哉(や)、鄙人(ひなのひと)所云(いはく)、
貴(たふときひと)心を相(あひ)知るといふは、此之(この)謂(いはれ)也(なり)。」とまをしたまひき。
皇太后、天皇の悦(よろこび)を観(め)して、歓喜(よろこび)懐(こころ)に盈(み)ちて、
更に人を[欲]貢(たてまつ)りたまはむとて曰(まを)したまひしく、
「我之(わが)厨人(かしわで)菟田御戸部真鋒田高天(うだのみとべ・まさきだのたかま、うだのみとべのまさきだ・たかま)、
此の二人を以ちて、請(ねがはくは)[将]加へ貢(たてま)つりて宍人部と為(し)たまへ。」とまをしたまひき。
自茲以後、大倭國造吾子籠宿禰、
貢狹穗子鳥別、爲宍人部。
臣連伴造國造、又隨續貢。
是月、置史戸河上舍人部。
天皇、以心爲師、誤殺人衆、
天下誹謗言「太惡天皇也。」
唯所愛寵、
史部身狹村主靑檜隈民使博德等。
吾子籠宿祢仁徳天皇即位前紀で倭直麻呂の弟。 履中天皇即位前期 では倭直(やまとのあたひ)として一時履中天皇に敵対するが、降伏して赦された。
…(古訓) あやまちて。
…(古訓) もろもろ。あまた。おほし。
…(古訓) ふとし。はなはたし。
太悪…〈仮名日本書紀・時代別上代・岩波文語版〉「はなはだあしくまします
史部身狭村主青…〈釈日本紀-秘訓二〉○史部身狭村主青【フミヒトヘムサノスクリアヲ】 ○檜隈民使博徳【ヒノクマノタミノツカヒハカトコ】。 軽(橿原市見瀬町)に式内「牟佐坐神社」がある (第108回【軽之堺原宮】)。
民使…〈新撰姓氏録〉に「民使首」、 〈続紀〉宝亀元年〔770〕に人名「民使毘登日理」がある。
自茲(ここより)以後(のち)、大倭(おほやまと)の国造(くにのみやつこ)吾子籠宿祢(あごこのすくね)、
狭穂子鳥別(さほのことりわけ)を貢(たてま)つりて、宍人部と為(し)たまふ。
臣(おみ)連(むらじ)伴造(とものみやつこ)国造(くにのみやつこ)、又(また)隨(まにまに)続(つつ)き貢(たてま)つる。
是の月、史戸(ふみひとべ)河上舎人部(かはかみのとねりべ)を置きたまふ。
天皇、心に師(いくさ)と為(おも)ひて、人衆(あまたのひと)を誤(あやま)ちて殺せしことを以ちて、
天下(あめのした)誹謗(そしりて)言(まをししく)「太(はなはだ)悪(あしき)天皇(すめらみこと)也(なり)。」とまをしき。
唯(ただ)所愛寵(めでたまひしひと)は、
史部(ふみひとべ)身狭(むさ)の村主(すぐり)青(あを)檜隈(ひのくま)の民使(たみのつかひ)博徳(はかとこ)等(ら)なり。
《鮮・膾》
 は、伝統訓では両方とも「なます」と訓読される。 「なます」が、「なま」(生の肉・魚)を語源とするのは確かであるが、 包丁を入れて料理となったものが「なます」であり、「割(さ)」く前は生肉である。 そのために、原文では食材の「」と料理名の「」が区別される。
 このニュアンスの違いを、できたら上代語による訓読でも表現したい。
 伝統訓の「割鮮(なますをつくる)」〔=膾を料理する〕では、 獲物のみずみずしい赤い肉に包丁を入れるという視覚が失われて味気ない。
《御者》
兵馬俑-馬車
 御者は「馭者」の別字である。「御者」には、 『韓詩外伝』〔前180-前120〕巻四「善御者不其馬。善射者不其弓〔よき御者は馬車を忘れじ、よき射者は弓を忘れじ。〕などの用例がある。 書紀原文の製作者は、中国風に天子が馬車に載るイメージで書いている。 馭者に直接対応する上代語が見つからないのは、 飛鳥時代・奈良時代には天皇が馬車を用いる習慣が、あまりなかったためであろう。 後の平安時代には、牛車が用いられた。
 このように「御者」は中国風の表現だから、原文執筆者は「ぎよしや」と音よみしていたのかも知れない。
 一方「御者」の古訓は、〈仮名日本書紀〉に「御者【おほんうまそい】〔大御馬添ひ〕があるが、平安に由来すると思われる。 源氏物語には「馬副」「馬添ひ」が出てくる。
――〈源氏物語-行幸〉「御馬鞍をととのへ、随身、馬副の容貌丈だち、装束を飾りたまうつつ」。
――〈同-澪標〉「大殿腹の若君、限りなくかしづき立てて、馬添ひ、童のほど、皆作りあはせて」。
行田市郷土博物館蔵
――『埴輪を知ると古代日本人が見えてくる』(塚田良路;洋泉社・2015)
 かつて「踊る埴輪」と言われていた埴輪は人が馬を引く姿であったことが実証されている(右図)ので、 古墳時代から飛鳥時代の風景中の「御者」は、そのスタイルかと思われる。
 しかし、上代の「そふ」は「そひつかひ(副使)」が第二位の役職を表すなど、主人に従属する立場を表すから、 馬を引く人を表す上代の言葉が「うまそひ」であったかどうかは不明である。 しかし、地名「ミマセ」の由来を「ミマソヒ」〔「御-うまそひ」の融合〕とする地名譚が存在し、 それが二年十月条の素材になったと想像できないこともない(後述)。
《語皇太后》
 事件について皇太后に語ったとき、その理由を 「大獲禽獣。欲群臣鮮野饗。歴問群臣。莫対。〔猟物がたくさん獲れたから、群臣と共に膾を作って野饗しようと誘ったが、誰も返事をしなかった〕 からだと説明した。
 しかし、この言い訳には誤魔化しがある。膾づくりを膳夫と群臣のどちらがやるかを問題にしたことに触れていない〔詳しくは後述。 ただただ「膾を作って饗宴しようと言ったのに、群臣は返事をしない」、つまり誘っているのに受けようとしない群臣が悪いと言う。 しかし、皇太后には既に真相が伝わっていて、天皇を諭した。その上で、収拾策を考えてくれた。 天皇は、感謝を「跪礼」によって表現した。 「天皇が跪礼した」形式のみを見ると違和感があるが、これは皇太后との話し合いの中の一場面を表しただけである。
《国内居民咸皆振怖》
 この事件の噂は瞬く間に国内に広がり、住民は恐怖のどん底に陥った。 類似する事件が度々あったから、 後の方で「天皇以心為師。誤殺人衆」 と書いたのであろう。
《心為師誤殺人衆》
 「心為」のを、伝統訓では「さかし(賢し)」とする。 これは「自らを師に」、即ち"独りよがり"の意味に解釈したことによる意訳である。 しかし、"賢い師"が「人民を大量に殺した」と表すところに違和感がある。
 人を導く「師(し)」には、崇高さの語感がある。 たとえ"師の心"が独善に過ぎなくとも、それがストレートに「人衆殺す」では、余りにも語感に合わないのである。
 ここでは「師」の複数の意味のうち「いくさ」を選んだ方が、「殺人衆」に対して親和的である。 すなわち、この文を「些末なことによって人民の行動を疑い、直ちに反乱を起こしかねないという"戦の心"で見る」と読みたい。 これは、内乱が終わって世の中が落ち着いても未だ戦争の時代の感覚から抜け出せず、大したことでもない人民の行動に対して、すぐ敵のレッテルを貼りたくなるということである。
《大意》
 〔二年〕十月三日、吉野宮にお出かけになりました。
 六日、御馬瀬(みませ)にお出かけになり、 虞人(山の司)に命じなされて、思うままにに狩猟され、重なる峰を越え、深い草叢に赴かれました。
 まだ太陽が西に傾く前でしたが、七八割がた狩を終えました。 狩るごとに大いに収獲があり、鳥獣は尽きてしまいそうでした。
 ついに林や泉を巡って休憩し、藪・沢を歩き回り、 使用人を休息させ、車馬を並べて止めました。
 群臣(まえつきみたち)に、 「猟の庭の楽しみ〔=饗宴〕には、膳夫(かしわで)に肉を割かせるものである。 お前たちは、どうして自ら割いているのか。」と問われ、 群臣は、突然のことに答えることができませんでした。
 すると、天皇(すめらみこと)は大い怒り、 刀を抜いて御者を務めていた大津の馬飼を斬り捨てました。 この日、車駕は吉野の宮から帰ると、 国中の住民は、皆々震えて脅えていました。
 その故に、皇太后と皇后(おおきさき)はそれを聞いて大いに恐れ、 倭国の采女、日媛(ひのひめ)を遣わして、御酒を挙げてお迎えさせました。
 天皇は、采女の容貌の端麗なること、容姿の温雅なることをご覧になり、 顔を和らげて悦びの色を浮かべ、 「美しく笑うお前を、私が見たくないことがあろうか。〔反語〕」と仰り、 手を相携えて、後宮に入られました。
 天皇は皇太后に、 「今日、狩猟に遊び、大いに禽獣を獲りました。 群臣(まえつきみたち)とともに、肉を割かせて野外の饗宴をしようと思い、 群臣の皆に聞いたところ、彼らは何も答えられませんでした。 そのために、私は怒ったのです。」と語られました。
 皇太后はこのように話す気持ちを理解し、天皇を慰めて、 「群臣は、 陛下がお遊びになった狩猟の庭には、宍人部(ししひとべ)を待機させていたから群臣が〔何故自分で調理しているのだと〕質問されたのだということが、分からなかったのです。 群臣が押し黙ったのはもっともなことで、また説明することも難かしかったでしょう。 今〔宍人部に膾を〕に献上させても、まだ遅くはありません。 私が最初に戻して〔=時計の針を事件の前に戻す〕、膳臣の長野(ながの)は上手に膾を作ることができるので、 願わくば、その献上された膾をお納めください。」と申しあげました。
 天皇は、跪礼(きれい)して申し出を受け入れられ、 「それはよいことです。鄙(ひな)の人がいう、 貴人は心を相知るという言葉は、このことを言うのですね。」と仰りました。
 皇太后は、天皇の悦ぶ様子を御覧になり、喜びが心を満たして、さらに人を献上して、 「私の膳手、菟田御戸部(うだのみとべ)と真鋒田高天(まさきだのたかま)、 この二人を、請わくば宍人部にお加えくださいませ。」と申し上げました。
 これ以後、大倭(おおやまと)の国造(くにのみやつこ)吾子籠宿祢(あごこのすくね)、 狭穂子鳥別(さほのことりわけ)を、宍人部に加えられました。
 臣(おみ)連(むらじ)伴造(とものみやつこ)国造(くにのみやつこ)もまた、従来のまま続けて任命されました。
 是の月、史戸(ふみひとべ)、河上舎人部(かはかみのとねりべ)を置きなされました。
 天皇は、戦の心をもって、多くの人民を誤って殺してしまったので、 天下に「太悪(たいあく)の天皇(すめらみこと)である。」と誹謗されました。
 ただ、愛寵(あいちょう)された者は、 史部(ふみひとべ)身狭(むさ)の村主(すぐり)青(あお)と、檜隈(ひのくま)の民使(たみつかい)博徳(はかとこ)などがありました。


【御馬瀬】
大淀町比曽  大淀町西増  吉野町六田  吉野町吉野山  大淀町増口  吉野町千股  大淀町中増  吉野町上市  吉野町飯貝  吉野町丹治  大淀町北六田
大字界はマピオンによる。
 〈五畿内志〉巻二十・吉野郡の【古蹟】の項に、
 「行宮【五所一〔ひとつ〕池田荘麻志口村 雄略天皇二年冬十月幸吉野御馬瀬即此。一〔ひとつ〕大滝村。一在宮瀧村。一在下市村〔以下略〕
 このように、五畿内志は「麻志口村」が「御馬瀬」であると推定している。
 【村里】の項では「池田荘」には十一村が属すと述べ、その一つが麻志口である。 「比曽【比一作檜属邑一】橋屋 六田(ムタ) 吉野山 麻志口(クチ)【属邑二】 西千股(チマタ) 中増(ナカマシ) 上市 飯貝(イゝカイ) 丹治(タンヂ) 北六田【以上十一村呼曰池田荘」。
 これらの江戸時代の村名の多くは、現在の吉野町大淀町にある大字に一致している。 いくらか不一致は、西千股千股麻志口増口。唯一大字名にないのが「橋屋」だが、位置から見て「西増(大字)」の別名とすれば、おさまりがよい。
 中増(なかます)・西増(にします)を含めて考えると、この地域は「マス」で、「増口」はその「入り口」を指すと見られる。 吉野郡には他に「マシ~」の地名は見られず、宮瀧遺跡にも近いから一定の可能性はある。
 ただ、だとすれば書紀がせっかく「」をつけて美称にしたのに、現地では「マシ」のままなのが気にかかる。 江戸時代のマシとは全く無関係に、失われた地名「ミマセ」があり、その地名由来譚として「御者」(ミマソヒ;御馬副)の伝説が生まれたのではないかとも思えるのである。

【猟場之楽使膳夫割鮮何与自割】
 「猟場之楽使膳夫割鮮何与自割」は、 「猟場之楽使膳夫鮮。何与自割?〔猟場の饗宴は、膳夫に肉を割かせる。なぜ群臣自らが割くことに関わるのか?〕と訓むべきであるのは明らかである。
 ところが、伝統訓ではこれを逆転して「膳夫に肉を割かせていいのか。群臣が自分で割いたらどうか」という意味にとる。
 例えば〈釈日本紀〉は 「たのしびは、膳夫をしてなますつくらしむ、いかん。おのれとゝもにつくらん〔饗宴のために、膳夫に膾を作らせるとはどうしたことか。お前たちが私〔天皇〕と一緒に作れ〕と訳す。 これは、皇后への言い訳の中の「欲与群臣割鮮」を「私と群臣で共に膾を作ろう」と読んだことによる。
 また岩波文庫版は、「猟場にはたのしびは、膳夫をしてなますつくらしむ。 みづかつくらむに如与いか」と訓み、 注解で「料理人に作らせるのと自分で作るのとどっちが楽しいだろう。」とする。 ここでは「自」を「群臣自ら」と読む。
 このとき天皇が群臣にした質問の意味は、皇太后の言葉によって正確に示されている。 曰く「陛下因遊猟場置宍人部二上-問群臣。群臣嘿然理且難対。〔陛下が遊猟場に宍人部を置いたことに因り群臣に降問〔=下問〕したことを悟らなかった〔=理解できなかった〕のだから、群臣が黙っていることには理があり、また答え難い〕。 この文の意味は、「せっかく調理役として遊猟場に宍人部を置いたのに、どうして彼らを使わずに自分で調理するのか」と天皇は下問したが、 それが言葉足らずだったから「群臣たちには質問の意味が分からず、ぽかんとして返事もできなかった」ということである。
 つまり皇太后は「『わざわざ宍人部を呼んだのだから、その仕事を奪ってはならない』と、丁寧に分かるように言わなかったあなたが悪い」と諭し、 雄略天皇はそれに納得して、「俗に『貴相知心』〔立派な人とは、相手の心の内を推し量ることができる人である〕 と言われる通りですね。」と答えた。
 もし伝統訓のように「宍人部ばかりに肉を割かせず、自分で割いたらどうか」と言いたいのなら、 「何不与自割〔なぜ調理に自分が関わらないのか〕と否定形になるだろう。 英語にも"Why not~"という勧誘の構文がある。
 そもそも二年十月条全体の主題は宍人部の拡大であるから、 「今宍人部がやっている仕事を、群臣自身がやれ」では真逆で、 「宍人部の仕事を奪うな」、即ち宍人部の存在感を押し出す文だと受け止めることが、十月条の趣旨に合うのである。

【今貢未晩以我為初】
 「今貢未晩」のは、宍人部が膾を献上するという意味である。 「今貢未晩以我為」を直訳すると「今献っても遅くはない。私を以って初めとしよう」 であるが、これだけでは意味が分からない。そこで、この言葉の背景となった状況を考えてみよう。
 まず、御者の殺害は群臣はもちろん、宍人部にもショックを与え、国中に不安感が広がった。
 皇太后はそれを憂えて、改めて宍人部に膾を献上させることにした。 天皇がその美味を誉めれば、 宍人部は遅ればせながら膾の献上を果たして安堵し、群臣も宍人部に任せよという言いつけに従うことができる。 そうすれば皆の気持ちを事件が起る前に戻すことができるから、 「以我為初〔=私の考えによって初めに戻しましょう〕」と言ったのである。

【太悪天皇】
 「誤殺人衆」とは、この御者の殺害のようなことを重ねて数多くの人民を殺害したということであろう。 しかも、それは誤りであると言い切っている。 ライバルたちを殺しまくった即位前紀を含めて、遠慮のない描き方と言える。 その理由は、記録に残る時代になったからであろうと考えてきた。 それもあるが、更に雄略天皇紀からα群〔和習を含まない、正格漢文によるスタイル〕に入ったことも見逃せない。 原文製作者が、歴史書にはリアリズムを貫くべしという哲学の持ち主であることが伺われるのである。

まとめ
 原文そのものから全体の文意の流れを把握し、その流れに沿って個々の部分の訓読を突き詰めていくと、 いくつかの個所において伝統訓への疑問が生ずる。今回の解読範囲については、その傾向が特に強い印象を受ける。 平安期の訓読研究は、中国の古代文献や中国文化との関係を探ることが不十分で、局所だけを見て和訓を定めることに偏っているように思われる。 また、文脈に沿わない訓読も見られるので、原文の文学的水準に訓読者の理解が追いついていないように感じられる。
 二年十月条では平気で天皇に跪礼させたり大悪天皇と呼ぶように、かなり客観的に記述されていることが注目される。 四年条で「有徳天皇」と言うように、誉めるべきところでは誉めているから悪口ばかりでもなく、 書くべきことを遠慮せずに書いたのであろう。歴史を執筆する者としての矜持かも知れない。
 このような書きっぷりにおいては、「斬る」「殺す」など否定的な意味合いをもつ語に形式的に「たまふ」をつけることは、やめた方がよいかも知れない。



2018.05.07(mon) [14-04] 雄略天皇[4] 

10目次 【三年】
《諧曰廬城部連武彦姦栲幡皇女而使任身》
三年夏四月、阿閉臣國見
【更名磯特牛】、
譖𣑥幡皇女與湯人廬城部連武彥曰
「武彥、姧皇女而使任身。」
【湯人、此云臾衞。】
武彥之父枳莒喩、聞此流言、
恐禍及身、誘率武彥於廬城河、
偽使鸕鷀沒水捕魚、
因其不意而打殺之。
阿閉臣…孝元天皇紀によれば(第108回)、阿閉臣は大彦の末。
更名磯特牛…〈仮名日本書紀〉またのなは磯特牛【そことひ】。(右図)
磯特牛…〈仮名日本書紀-活版本〉しなとひ
特牛…①特に選んだ生贄の牛。②種牛。牡牛。(古訓) ことひ。 〈倭名類聚抄〉特牛【俗語云。古度比〔ことひ〕】頭大〔あたまおほき〕牛也。
廬城(いほき)… 〈姓氏家系大辞典〉「其名称より考へて景行皇子五百木入日子命第122回の御名代と思考す。」 「景行帝三人の太子中、若帯日子尊は帝位」「倭建命は其の…」 「之に対して五百木入日子命の為に、御名代五百木部を設置したりとたすは頗〔すこぶ〕る穏当ならずや。
…[動] ①そしる。②いつわる。(古訓)いつはり。うたふ。
およづれ…[名] たわごと。人を惑わす言葉。 (万)3957 於餘豆礼能 多波許登等可毛 およづれの たはこととかも。 (万)1408 狂語香 逆言哉 たはことか およづれことか
栲幡皇女元年条に 「是皇女侍伊勢大神祠」。
…(古訓) つみ。とか。わさはひ。
…(古訓) み。みつから。
かづく(潜く)…[自]カ四 [他]カ下二 水に潜らせる。
使鸕鷀水捕…鵜飼は広範に行われていたと見られる (第80回)【鵜飼漁】。
…[動] (古訓) おもふ。
三年(みとせ)夏四月(うづき)、阿閉臣(あへのおみ)国見(くにみ)
【更(さらに)磯特牛(しことひ)と名づけり】、
栲幡皇女(たくはたのみこ)与(と)湯人(ゆゑ)廬城部連(いほきべのむらじ)武彦(たけひこ)とを譖(いつは)りて曰(い)ひしく、
「武彦、皇女(ひめみこ)を姦(たは)けて[而][使]任身(はらま)しめき。」といひき。
【湯人、此(これ)臾衛(ゆゑ)と云ふ。】
武彦之(の)父枳莒喩(きゆ)、此の流言(およづれ)聞こえて、
禍(つみ)身(みづから)に及ばむことを恐りて、武彦を[於]廬城河(いほきかは)に誘率(いざな)ひて、
[使]鸕鷀(う)を没水(かづ)けて魚(いを)を捕(とら)へしむと偽(いつは)りて、
其の不意(おもはざりしこと)に因(よ)りて[而]之(こ)を打ち殺しき。
天皇聞、遣使者案問皇女、
皇女對言「妾不識也。」
俄而皇女、齎持神鏡、詣於五十鈴河上、
伺人不行、埋鏡經死。
天皇、疑皇女不在、恆使闇夜東西求覓、
乃於河上虹見如蛇四五丈者、
掘虹起處而獲神鏡。
かむがふ…[他]ハ下二 糾明する (允恭天皇四十二年)。
やみよやみのよ(闇夜)…[名] 月のない夜。
やみよなす…[枕] 「おもひまよふ」にかかる((万)1804)。
やみのよの…[枕] 「ゆくさきしらず」にかかる((万)4436)。
神鏡…〈釈日本紀-述義八〉「先師説曰。神鏡者。内侍所也。〔神鏡は、内に侍る所〔=神宮内に祭る八咫鏡〕か〕
…[助数詞] 一杖=約3m(漢代は2.3m)。
天皇(すめらみこと)聞こして、使者(つかひ)を遣はして皇女に案(かむが)へ問はしめば、
皇女対(こた)へ言(まを)しく「妾(われ)不識(しりまつらず)[也]。」とまをして、
俄(にはか)にして[而]皇女、神(くし、かむ)鏡(かがみ)を齎持(もちきた)りて、[於]五十鈴河上(いすずのかはかみ)に詣(ゆ)きて、
人(ひと)不行(ゆかざる)を伺(うかが)ひて、鏡を埋めて経(わな)きて死にせり。
天皇、皇女の不在(あらざる)ことを疑ひたまひて、恒(つねに)[使]闇夜(やみのよの)東西(をちこち)求覓(まが)しめて、
乃(すなはち)[於]河上(かはかみ)に虹(にじ)蛇(をろち)四五丈(よつゑいつつゑ)の如きに見ゆれ者(ば)、
虹起(た)ちし処(ところ)を掘りて[而]神鏡を獲(う)。
移行未遠得皇女屍、
割而觀之、
腹中有物如水、
水中有石。
枳莒喩、由斯、得雪子罪、
還悔殺子、
報殺國見、
逃匿石上神宮。
水中…「みな-」は、みなも(水面)など特定の語に限定される。 そのような特別な訓み方は「水中」には見られないので、 「(万)2433 水上 みづのうへに」と同じように、「水中=みづのなか」だと思われる。
…イハ、イシと訓む。イハは「大石」を意味する。
…[動] すすぐ。清める。(古訓) あらふ。きよむ。
くゆ(悔ゆ)…[自]ヤ上二。
移り行くこと未だ遠(とほ)からずして皇女の屍(かばね)を得て、
割(さ)きて[而]之(こ)を観(み)て、
腹中(はらぬち)に物有りて水に如(に)たりて、
水の中に石(いし)有り。
枳莒喩(きこゆ)、由斯(このゆゑ)に、子の罪を得(え)雪(きよ)めて、
還(かへ)りて子を殺せしことを悔いて、
国見を報(むく)い殺して、
石上神宮(いそのかみのかむみや)に逃げ匿(かく)れき。
《栲幡皇女》
 確実な史実として皇女を伊勢神宮に奉仕させたのは天武朝が最初だが、崇神朝・垂仁朝にも伝説的に遡らせる (第116回【斎宮】)。
《廬城河》
 仁徳天皇紀四十年条で、 隼別皇子と雌鳥皇女の逃走経路となった雲出川の北家城付近(右図)が「廬杵河」ではないかと言われている。 その地は伊勢国一志郡で、伊勢神宮とはやや距離があるが、神宮に奉仕していた栲幡皇女が絡んだ伝説はあり得るかも知れない。 廬城部が、この辺りを本拠にしていたとも考え得る。 「ゆゑ」は、赤ん坊の沐浴に象徴される養育役と考えられているが、 栲幡皇女が伊勢神宮に移ったのに合わせて、その「ゆゑ」廬城部が伊勢国に移ったのかも知れない。
《使鸕鷀没水捕魚》
 万葉集では鵜飼漁を、「(万)4191 鸕河立 取左牟安由 うかはたち とらさむあゆ」 「(万)3330 上瀬尓 鵜矣八頭漬 かみつせに うをやつかづけ」などと表現する。 それらに比べ、ここの「使鸕鷀没水捕魚〔鵜を水に沈め魚を捕えさせる〕は、いかにも説明的で堅い。 日本人同士なら「使鵜漬」程度で充分通じるだろう。 さすがに古訓では、〈仮名日本紀〉「うかはしめん〔鵜飼はしめむ鵜飼ふの未然形+使役のしむの未然形+意志のむ〕とこなして訓んでいる。 書紀の原文製作者は、日本の文化にまだあまり馴染んでいないのだろうと感じさせる所以である。
《神鏡》
 「神鏡」は、岩波文庫版の注釈には「通釈などは…皇女自身の鏡と解する」とある。 実際、伝統訓で「あやしきかゝみ」(〈仮名日本書紀〉など)と訓むところに、 天照大神の形代を持ち出すような恐ろしいことはあり得ないとする訓読者の意志が感じられるが、煮え切らない。
 やはり八咫鏡を持ち出したことにした方が話として面白いし、 例え鏡が行方不明になったとしてもその神威によって虹を発生させ、確実に発見されて神宮に戻ることが保証されているから大丈夫である。 従って、その鏡は八咫鏡(ご神体)そのものだとして、正面から「かむかがみ」と訓めばよいと思う。
《闇夜》
 「恒に」探索を続けたと言いながら、 闇夜に限定するのでは意味が通らない。 また、虹が昼間のものであることは当時でも常識であっただろう。 闇夜は、万葉では「思ひ迷ふ」「行くさき知らず」への枕詞に使われるので、 ここでも「をちこちまぐ」への枕詞であろうと思われる。
《大意》
 三年四月、阿閉臣(あへのおみ)国見(くにみ) 【またの名は磯特牛(しことい)】は、 栲幡皇女(たくはたのみこ)と湯人(ゆえ)、廬城部連(いほきべのむらじ)武彦が、偽って 「武彦は、皇女と姦淫して孕ませた。」と言いふらしました。
 武彦の父、枳莒喩(きこゆ)は、この流言が耳に入り、 禍が自身に及ぶことを恐れ、武彦を廬城(いほき)川に誘い出して、 鵜を潜らせて魚を捕ると偽って、 不意をついて打ち殺しました。
 天皇(すめらみこと)はこれをお聞きになり、使者を遣わして皇女を詰問させました。 皇女は「私は存じません。」と答え、 突然、神鏡を持ち出して、五十川の川上に行き、 人が来ないことを伺い確かめて、鏡を埋めて首をくくって死にました。
 天皇は、皇女がいないことを疑い、常にあちこちを捜索させたところ、 川上に虹が見え、四五丈の大蛇のようであったので、 虹が起った処を掘ってみると、神鏡が見つかりました。
 場所を移すと、未だ遠からぬところで、皇女の屍を見つけました。 それを割いて見ると、 腹の中に水のようなものがあり、 水の中に石がありました。
 枳莒喩(きこゆ)は、その故に子の罪を清めることができ、 振り返って子を殺したことを悔やみ、 国見に報いて殺し、 石上神宮に逃げ匿れました。


まとめ
 人名「枳莒喩」は「」に上代特殊仮名遣いまで一致するから、 この話が口承されるうちに、物語の内容がいつしか人名に転じたのであろう。 素朴な伝承であるためか、二年十月条の理屈っぽさに比べてずっと分かり易い。
 その中で、栲幡皇女の死体を割いて点検したとき、羊水らしき中にあったのは胎児ではなくただの石で、これによって疑いは晴れたという部分は興味を惹く。
 さて、石上神宮に逃げ隠れた枳莒喩がその後どうなったかは書かれていないが、どうやら殺されずに済んだようである。 石上神宮は物部氏の本拠である。そこで匿われて助かったということは、物部氏は雄略天皇を支える有力な勢力だったのだろう。 物部氏はもとは安康天皇を推していたが、その亡き後は雄略天皇を後継者と認めて改めて推したという史実が、この話に反映しているように思われる。



2018.07.28(sat) [14-05] 雄略天皇5 


11目次 【四年二月】
四年春二月、天皇射獵於葛城山。……〔続き〕


12目次 【四年八月十八日】
秋八月辛卯朔戊申、行幸吉野宮。……〔続き〕


13目次 【四年八月二十日】
〔四年八月〕庚戌、幸于河上小野。……〔続き〕


14目次 【五年二月】
五年春二月、天皇、狡獵于葛城山、靈鳥忽來。……〔続き〕


15目次 【五年四月】
《百済蓋鹵王》
夏四月、百濟加須利君【蓋鹵王也】、
飛聞池津媛之所燔殺【適稽女郎也】而
籌議曰
「昔貢女人爲采女而既無禮、失我國名。
自今以後、不合貢女。」
乃告其弟軍君【崑支君也】曰
「汝宜往日本、以事天皇。」
…(古訓) やく。
…(古訓) みつきもの。たてまつる。
(ちゅうぎ)…集まって、はかりごとを相談する。
…[助動] まさに~べし。
〔五年〕夏四月(うづき)、百済(くたら)加須利君(かすりのきみ、かすりきし)【蓋鹵王(がふらわう)也(なり)】、
池津媛(いけつひめ)之(の)所燔殺(やきころさえし)ことを飛び聞きて【適稽(ちやくけい)女郎(ぢよらう、えはしと)也(なり)】[而]、
籌議(はか)りて曰(のたま)はく、
「昔、女人(をむなめ)を貢(たてまつ)りて采女(うねめ)に為(し)て[而]既に無礼(あやな)かりて、我が国の名を失(う)せき。
今自(よ)り以後(のち)、[不合]女(をむなめ)を貢(たてまつ)るべくもあらず。」とのたまひて、
乃(すなはち)其の弟(おと)軍君(くむきみ、くむきし)に告(のたま)ひしく【昆支君(こむきのきみ、こむききし)也】[曰]
「汝(いまし)宜(よろし)く日本(やまと)に往(ゆ)きて、以ちて天皇(すめらみこと)に事(つか)へるべし。」とのたまひき。
軍君對曰
「上君之命、不可奉違。
願賜君婦而後奉遺。」
加須利君、則以孕婦嫁與軍君

「我之孕婦、既當産月。
若於路産、冀載一船、隨至何處、速令送國。」
遂與辭訣、奉遣於朝。
…(古訓) うけたまはる。
うみがつき…[名] 産み月。
…(古訓) すみやかに。とし。
…(古訓) ともにす。ともに。
…[動] わかれる。(古訓) わかる。
辞訣(じけつ)…いとまごいをする。別れの言葉を告げる。
軍君対(こた)へて曰(まを)ししく
「上君之命、不可奉違。
願(ねがはくは)君の婦(をむなめ)を賜(たまは)りて[而]後に遺(つかはされむこと)を奉(うけたまは)らむ。」とまをしき。
加須利君、則(すなは)ち孕婦(はらめ)を以ちて軍君与(と)嫁(めあは)せたまひて、
曰(のたま)ひしく、
「我之(わが)孕婦(はらめ)、既に当(まさに)産月(うみがつき)になるべし。
若しや[於]路(みち)に産まば、冀(こひねがはくは)一(ひとふな)の船に載せて、何処(いづく)に至りたるも隨(まにま)に、速(すみやかに)国に送ら令(し)め。」とのたまひき。
遂に辞訣(まかりまをす)と与(とも)に、[於]朝(みかど)に遣(つかはされむこと)を奉(うけたまは)りき。
六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、
於筑紫各羅嶋産兒、
仍名此兒曰嶋君。
於是軍君、卽以一船送嶋君於國、
是爲武寧王。
百濟人、呼此嶋曰主嶋也。
はたして…[副] 遂に。予期通り。
各羅島…佐賀県唐津市鎮西町。加唐島。
…(古訓) いる。おいて。おく。を。
…漢音:ブ、呉音:ム。
六月丙戌(ひのえいぬ)の朔(つきたち)、孕婦(はらめ)の果たして加須利君の言ひし如くありて、
筑紫(つくし)各羅嶋(かからしま)に於(お)きて児を産みて、
仍(すなはち)此の児を名づけて嶋君(しまのきみ、せまきし)と曰ふ。
於是(ここに)軍君、即ち一(ひとふなの)船を以ちて嶋君を[於]国に送りまつりて、
是武寧王(ぶねいわう)と為(な)りき。
百済の人、此の嶋を呼びて主嶋(ぬししま、にりむせむ)と曰ひき[也]。
秋七月、軍君入京、
既而有五子。
【百濟新撰云
「辛丑年、蓋鹵王、
遣弟昆支君向大倭侍天王、
以脩兄王之好也。」】
秋七月、軍君京(みやこ)に入りて、
既にして[而]五(いつたり)の子有り。
【百済(くたら)新撰(しむせむ)に云ふ。
「辛丑(かのとうし)の年、蓋鹵王、
弟(おと)昆支君を遣はして大倭(おほやまと)に向かはしめて天王(あまつきみ)に侍らしめて、
以ちて兄王(あにきみ)之(の)好(よしみ)を脩(をさ)めき[也]。」】
《各羅島》
 〈大日本地名辞書〉は、 「加唐島:今名古屋〔名護屋〕村に属す、小川島の西に並び、南北一里、東西十町、 戸数若干、島の西南岸に松島と呼ぶ属嶼あり。 有馬系譜に「有馬貴純、文明〔1469~1436〕の頃、大宮家と取合ありて、 松浦郡加加良島に蟄居し、七年の後彼杵郡島田に合戦し、 今富好武の両城を取戻し和睦す」と録す、古史には加羅を各羅カワラに作る。 雄略紀云、〔中略〕主島ニリム也。 太宰管内志〔天保十二年、1841〕云、各羅は加加良とよむべし、 谷川氏之を加良とよみて、筑前志摩郡韓良郷にあてしは誤れり。」と述べる。
 「加唐島」は壱岐島と唐津の間にある(右図)。朝鮮半島-対馬-壱岐-唐津の航路については、魏志倭人伝もこのコースで倭に渡っている。 秀吉の文禄・慶長の役でも唐津に名護屋城を築き、兵站基地として壱岐に勝本城、対馬に清水山城を置いた(<wikipedia>)。
 従って、「各羅島」を加唐島に当てることは、ごく妥当と言える。
 一方、「各羅」について〈釈日本紀〉巻十七(秘訓-武烈)は「各羅海中【カワラノウナノナカニ】」と訓む。 仮名日本紀も「各羅【かはら】」とし、カワラが伝統訓である。
 しかし前述のように有田系譜の「加加良島」は1400年代で、〈釈日本紀〉〔1274頃〕より後である。 そして「加唐島」に至るから、この島は終始一貫して「カカラ」と呼ばれて続けてきたと思われる。 これを見ると「カワラ」という呼称は不思議である。〈釈日本紀〉は誤写された文献に拠ったのではないだろうか。
《主嶋》
 〈釈日本紀〉は、古い百済語によると思われるよみ方を記している。
・巻十四(秘訓-雄略) 加須利君【カスリキシ】郡君【キムキシ/コニ】嶋君【セマキシ】武寧王【ムネイワウ】主嶋【ニリンセム】。「琨【コム】支【キ】君【シ】」。
・巻十六(秘訓-武烈) 嶋君【セマキシ】武寧王【ムネイワウ】斯麻王【セマキシ】主嶋【ニリンセム】。「麻那【マナ】君【キシ/クム】」。「斯我君【シカキシ】」。「法師君【ハツシ/ホウシ/キシ】」。
 このように、「」はニリン、「」はセマまたはセムである。
 ところが、武烈天皇紀の原注(別項)では、「斯麻王。自嶋還送不於京。産於嶋故因名焉。〔「斯麻王」は嶋で生まれたことに因む名である〕と述べる。 「嶋王」を敢えて音仮名を使って「斯麻王」と書くのは、説明を分かり易くするためである。 だから、「嶋王」には日本式の発音を用いていた。
 よって「主島」についても、仮に古代百済語に「ニリム-セム」があったのが事実だととしても、 日本式に「ヌシシマ」と訓んでいた可能性が高い。
 そもそも原注に百済の発音を示した例はないから、書紀編纂直後の時点では日本式の訓み、もしくは音読みであろう。 その後を見ると、〈甲本〉にも百済の発音を示した例はない。 よって、古代百済風の発音を宛てようと試みた時期は、「私記」以後、〈釈日本紀〉以前となる。
《君》
 前項のように、〈釈日本紀〉では君はキシとする。しかし、書紀原注の立場では「~ノキミ」になる。
《軍君》
 〈釈日本紀〉巻十七(秘訓-雄略)には、「軍君【こむ/こに/きし】」。 仮名日本紀は「軍君【こにきし】」。
 「」の呉音・漢音はクンなので、コム・コニは音を用いたものと思われる。
《大意》
 〔五年〕四月、百済(くだら)の加須利君(かすりのきみ)【蓋鹵王(がいろおう)です】、 池津媛(いけつひめ)が焼き殺されたことを伝え聞いて【適稽(ちゃくけい)女郎(じょろう)です】、 諮り、 「昔、女人を献上して采女にして、既に無礼なことをされ、我が国の名を貶めるものであった。 今から以後、女人を献上することはできない。」と言い、 その弟、軍君(くむきみ、くむきし)に【昆支君(こむききみ、こむききし)です】 「あなたは日本(やまと)に行き、天皇(すめらみこと)に仕えなさい。」と告げました。
 軍君は、 「目上の君の命令を、違えることはできません。 願わくば、君の婦人を賜った後に遺わしていただきたいのですが。」とお答えしました。 加須利君は、そこで身籠った女性を軍君と娶(めあわ)せて、 仰りました。 「私の身籠った婦人は、既に産月に当たっている。 もし道中で産んだら、願わくばそれがどこであってもそのまま一隻の船に載せ、速やかに国に送らせていただきたい。」と。
 遂に別れの挨拶とともに、〔倭国〕朝廷への派遣を承りました。
 六月一日、妊婦は果たして加須利君の言った通りとなり、 筑紫(つくし)の各羅嶋(かからしま)で子を産み、 よってこの子を嶋君(しまきみ、せまきし)と名付けました。
 そこで軍君は、一隻の船によって嶋君を国に送り、 この子は武寧王(ぶねいおう)となりました。 百済の人は、この島を主嶋(ぬししま、にりむせむ)と呼びます。
 七月、軍君は〔日本の〕京に入り、 既に五子が有りました。
【百済新撰に言ふ。 「辛丑(かのとうし)の年〔461〕、蓋鹵王、 弟昆支君を遣わして大倭〔日本〕に向かわせ天王に侍らせて、 以て兄王の好(よしみ)を脩(おさ)めた。」】


【漢字表記された百済語のよみ】
 二年条の百済新撰の引用にある「阿礼奴跪〔アレヌキ〕」は、音を写したものである。 一方、王名(蓋鹵王など)は漢字二文字に統一されているから、中国風の王名であろう(天皇の漢風諡号のようなもの)。 おそらくは、百済の文献では、固有名詞を音で写し取ることはあるが、 一般の語の漢字表記に対して、日本の訓のように百済の固有語に置き換えて読むことはなかっただろうと思われる。 例えば、「王子」を意味する「セシム」という語はあったが、漢字で書かれた文中の「王子」はそのまま「わうし」と読んだのだろう。
 釈日本紀が古い百済語を探った努力は尊敬に値するが、 それを漢字のルビのようにして直接用いるのは、百済の習慣に添わないと思われる。

【武寧王】
 五年条では、蓋鹵王の後は、末多王-武寧王が見えだけである。 ところが三国史記を見ると、蓋鹵王-文周王-三斤王-東城王-武寧王(諱:斯摩)とある。
 両者の関係は、どうなっているのだろうか。まず、〈武烈天皇紀〉所引の『百済新撰』を見る。
《武烈天皇紀所引『百済新撰』》
百濟新撰云。
末多王無道。暴-虐百姓。 國人共除。武寧王立。諱斯麻王是琨支王子之子。則末多王異母兄也。 琨支向倭時至筑紫嶋。生斯麻王。 自嶋還送不於京。産於嶋故因名焉。 今各羅海中有主嶋。王所産嶋故百濟人號爲主嶋
今案。
嶋王是蓋鹵王之子也。末多王是琨支王之子也。 此曰異母兄。未詳也。
〔百済(くたら)新撰(しむせむ)に云ふ。
――「末多王(またわう)道(ことわり)無くて、百姓(はくせい)を暴虐(みだりにしへた)げき。 国の人共に除(さ)けて、武寧王(むねいわう)立ちき。諱(いみな)斯麻王(しまわう)にして、是(これ)琨支(こむき)王子(わをし、せしむ)の子にて、則(すなはち)末多王(またわう)の異母兄(ままあに)なり。 琨支倭(やまと)に向へる時、筑紫(つくし)嶋に至りて、斯麻王(しまわう)を生みき。 嶋より還(かへ)し送りて京(みやこ)に至らず。嶋に産みし故(ゆゑ)に因る名なり。 今各羅(かから)の海中(わたなか)に主嶋(ぬしのしま、にりむせむ)有りて、王の産まれし嶋故(ゆゑ)に百済の人号(なづ)けて主嶋となせり。」
今案(かむが)ふに、
嶋王是蓋鹵王の子にて、末多王是琨支王の子なり。 此(これ)異母兄と曰ふは、詳(つまひらか)にあらず。〕
 つまり、百済新撰によれば「末多王は暴政を敷いて国人に除かれ、武寧王(斯麻王)が即位した。 武寧王は琨支王子の子で、末多王の異母兄である。
 ところが、編者は「武寧王は蓋鹵王の子で末多王は琨支王の子であるはずなので、 百済新撰がなぜこのように述べるのか理解できない」と述べる。
《三国史記》
即位年
(三国史記巻三十:年表-中)
乙未〔455〕蓋鹵王
乙卯〔475〕文周王
丁巳〔477〕三斤王
己未〔479〕東城王
辛巳〔501〕武寧王 斯摩
 『三国史記』から、この時期の王の即位を抜き出す。
文周王或作汶洲〔文周と同音と思われる〕。蓋鹵王之子也。
三斤王或云壬乞。文周王之長子。
東城王諱牟大。或作摩牟。文周王弟昆支之子。
 [二十三年]王不許。是以怨王。至是使人刺王。至十二月乃薨。諡曰東城王
武寧王諱斯摩。或云隆。牟大王之第二子也。
《系図の比較》
 まず、蓋鹵王は雄略元年〔丁酉;457〕、同五年〔辛丑;461〕に登場する。 また、武寧王も、武烈帝〔元年=己卯;499〕と同時代なので、 蓋鹵王・武寧王の時期は噛み合っていると言える。
〈三国史記〉
蓋鹵王 ┬─文周王

└─昆支
──三斤王

──東城王


┬─○

└武寧王(斯摩)
〈書紀-百済新撰
┬─蓋鹵王

└─琨支王子


┬─武寧王(斯麻王)

└─
末多王
〈書紀-「案ずるに」
┬─蓋鹵王

└─琨支王子
──武寧王(嶋王)

──末多王
 それぞれに書かれた系図を比較すると(右表)、 文周王三斤王は、五年条には出てこない 〔ただし、文周王は二十一年条に登場し、 三斤王については「文斤王」の名が二十三年条にある。〕。 ただ、在位は二代合わせて数年に過ぎない。
 東城王と書紀の末多王は、何れも殺されて武寧王が即位するところが共通する。 二十三年条において、末多王は一度来日した後、帰国して東城王となったとある。
 武寧王は『三国史記』では末多王(東城王)の子であるが、〈百済新撰〉は昆支の子で末多王の異母兄である。
 昆支は三国史記では蓋鹵王の子であるが、書紀では弟である。 書紀は説に合わせるように、 昆支の妻は結婚する前に蓋鹵王の子を身籠っていたとする。 ただ、いくら物語の上とは言え、 既に自分の子を身籠っている後宮を、弟に下賜することがあり得るのだろうか。
 「武寧王=蓋鹵王の子」説は別系統の言い伝えで、 さらに「嶋王」という名前への連想によって、俗に生まれた伝説かも知れない。
《百済との交流》
 書紀は、手元の『三国史記』に基づいて五年条を創作したのかも知れないが、 宋書によれば、462年以前に倭王武が即位し、478年に倭使を送って上表文を提出している。 この時期、百済に対する倭国の支配権を認めさせようとして、粘り強く交渉している (倭の五王)。
 『三国史記』には書かれなくても、この時期だけ倭・百済の交流が途絶えたとは考えにくい。 倭国に昆支の来倭の記録、または伝承があったことは考えられる。 そこには、武寧王は蓋鹵王の子であるとされていたのかも知れない。
《百済側の記録》
 『三国史記』では蓋鹵王以後、倭に関する記事はしばらく途絶え、次に出てくるのは武王九年〔608〕である。 それでは、蓋鹵王のところには何が書かれているのだろうか。 その十八年条を見る。
十八年。遣使朝魏。上表曰。 十八年〔472〕。使者を遣わし、魏〔北魏、397~534〕皇帝に朝見する。上表文曰く。
「臣立國東極 豺狼隔路 雖世承靈化… 〔上表冒頭の儀礼文〕
又云。臣與高句麗 源出扶餘 先世之時 篤崇舊款… 〔以下、『北史』巻九十四:百済伝とほぼ同一〕※(次項)
王以麗人屢犯邊鄙。上表乞師於魏。不從。王怨之。遂絶朝貢。 蓋鹵王は高句麗が屡々〔しばしば〕辺鄙〔へんぴ、=国境地帯〕を侵犯したので北魏に上表したが、 北魏は従わなかった。王はこれを怨み、遂に朝貢は途絶えた。
《北史百済伝》
 ※十八年条と、『北史』百済伝との共通部分を簡単に示す。
 『北史』百済伝の関係部分の詳細を、資料[31]に付した。
魏延興二年。其王余慶始遣其冠軍將軍駙馬都尉弗斯侯・ 長史余禮・龍驤將軍帶方太守司馬張茂等上表自通。 魏の延興(えんこう)二年〔472〕。 百済王余慶は初めて、冠軍将軍駙馬都尉の弗斯侯・ 長史の余礼・龍驤将軍帯方太守司馬張茂らを遣わし上表し、自ら通じた〔朝貢国になると申し出た〕
云。臣與高麗源出夫餘。 先世之時篤崇舊款。其祖釗。輕廢鄰好。陵踐臣境… 〔ここから三国史記に引用される〕云わく。我が国と高麗はともに、夫余を源とする。 先の世の時には篤く旧款を崇敬したが、高麗の祖、釗は隣好を軽んじ廃し、国境を踏みにじり…
続く部分の要約:上表文によって、「速遣一将-救臣国〔速やかに将軍を遣はして、臣の国に来て救いたまへ〕と要請した。 それに対して、北魏は、「卿與高麗不睦至被陵犯。苟能順義守之以仁。亦何憂於寇讎也。〔貴国と高麗が睦まず、陵犯〔みだりに犯す〕されるに至ったが、苟(しばし)能(よ)く義に順(したが)い、これを守るに仁を以ってせよ。どうして寇讎〔=敵対〕を憂うことがあろうか〕 などと詔した。そして、使者邵安とともに百済の使者を帰国させた。  そのとき、璉(高麗王)に詔を発して安の一行を護送を命じたが、璉はこれを拒んだために、一行は北魏に帰ってきた。北魏は詔を発してこれを責めた。
五年。使安等東萊浮海。賜余慶璽書其誠節。 安等至海濱。遇風飄蕩。竟不達而還。 〔延興〕五年〔三国史記は「後」〕。安の一行を東萊〔山東半島東部〕から渡海させ、余慶に璽書を賜りその誠節を褒めた。 だが、風に遇い飄蕩〔船が漂流し〕、遂に達することができずに還った。
 472年と言えば、倭王武が宋に上表文を送った478年に極めて近いことが注目される。 そこにも、百済が高麗に攻め込まれて窮地に陥っていることが書かれていた。
 百済は、倭ではなく北魏に支援を要請しているわけだが、 ただ、たまたま北史の472年に詳細な記録があったから、蓋鹵王のところに書き込んだのかも知れない。
 三国史記編纂の時点では、『百済新撰』が失われたなどの事情が考えられる。

まとめ
 昆支王が三国史記に出てくるのは、蓋鹵王の第二子(文周王の弟)で東城王の父であること、 そして文周王三年〔477〕に「〔=重臣の死〕したことだけである。 昆支王が倭王に出仕したこと、武寧王が各羅嶋で生まれたことは、三国史記にはない。
 ただ、三国史記に武寧王の諱として「斯摩」があることが注目される。 これについては、倭国の島で生まれて倭語で「シマノキミ」と呼ばれ、その名とともに百済に還ったと考えることは可能である。
 さて、蓋鹵王のときは高句麗の攻勢を受けて劣勢であったから、倭との同盟関係を強めたかったであろう。 そのために、文献上は確定できないが、王子を質として倭に送ったことがなかったとは言い切れない。



2018.08.05(sun) [14-06] 雄略天皇6 


16目次 【六年】
《天皇遊乎泊瀬小野》
六年春二月壬子朔乙卯、
天皇遊乎泊瀬小野、觀山野之體勢。
慨然興感歌曰。
…[動] なげく。胸がいっぱいになって嘆声を漏らす。 (古訓) いきとほる。くるしふ。なけく。はけむ。
慨然…〈汉典〉①感嘆的様子。②情緒激動、高昂。③爽快不吝惜的様子〔吝惜=ものおしむ〕
…(古訓) うこく。かなふ。
興感…①(こうかん) 感動し、ふるいたつ。②(きょうかん) おもしろく感じる。
こころつごく…[自]カ四 心がはげしく動く。
六年(むとせ)春二月(きさらき)壬子(みづのえね)を朔(つきたちとして)乙卯(きのとう)〔四日〕、
天皇(すめらみこと)[乎]泊瀬小野に遊ばして、山野(やまの)之(の)体勢(かたち)を観(め)して、
慨然(はなはだ)興感(みこころつごきて)歌(みうたよみたまはく)[曰]。
舉暮利矩能 播都制能野麼播 伊底拕智能
與慮斯企野麼 和斯里底能 與盧斯企夜磨能
據暮利矩能 播都制能夜麼播 阿野儞于羅虞波斯
阿野儞于羅虞波斯
こもりくの…[枕] 泊瀬にかかる。
わしる…[自]ラ下二 走る。
わしりで…[名] 水平に勢いよく走りだすさま。そのような地形。
いでたつ…[自]タ四 ① 出て立つ。②地形が突き立つ。  
あやに…[副] 無性に。
うらぐはし…[形] 心に「くはし(美麗)」。
挙暮利矩能(こもりくの) 播都制能野麼播(はつせのやまは) 伊底拕智能(いでたちの)
与慮斯企野麼(よろしきやま) 和斯里底能(わしりでの) 与盧斯企夜磨能(よろしきやまの)
拠暮利矩能(こもりくの) 播都制能夜麼播(はつせのやまは) 阿野儞于羅虞波斯(あやにうらぐはし)
阿野儞于羅虞波斯(あやにうらぐはし)
於是、名小野曰道小野。 於是(ここに)、小野を名づけて道小野(みちのをの)と曰ふ。
三月辛巳朔丁亥、天皇、欲使后妃親桑以勸蠶事、
爰命蜾蠃【蜾蠃、人名也。此云須我】屢聚國內蠶。
於是蜾蠃、誤聚嬰兒奉獻天皇、天皇大咲。
賜嬰兒於蜾蠃曰
「汝宜自養。」
蜾蠃卽養嬰兒於宮墻下、仍賜姓爲少子部連。
おほす(生す)…[他]サ四 生やす。育てる。
…(古訓) しはしは。すみやかに。
…[名] 蚕。
…[名] 子。愛称。人を親しんで呼ぶ。
あつむ…[他]マ下二 集める。
みどりこ…[名] 乳幼児。〈時代別上代〉
 大宝の戸籍帳では三歳までの男児をいう。
少子部連…〈甲本〉少子部【チイサコヘ】。
三月(やよひ)辛巳(かのとみ)を朔(つきたち)として丁亥(ひのとゐ)〔七日〕、天皇、[欲使]后妃(おほきさき)をして、親(みづから)桑をおほせしめて以ちて蚕(こ)の事を勤(いそしみ)せしめむとおもほしき。
爰(ここに)蜾蠃(すが)に命(おほ)して【蜾蠃、人の名也(なり)。此(こ)を須我(すが)と云ふ。】、屡(すみやかに)国内(くぬち)の蚕(こ)を聚(あつ)めしめましき。
於是(ここに)蜾蠃、誤りて嬰児(みどりこ)を聚(あつ)めて天皇に奉献(たてまつ)りて、天皇大咲(おほわらひ)したまふ。
嬰児を[於]蜾蠃に賜りて曰(のたま)ひしく。
「汝(いまし)宜(よろし)く自(みづか)ら養ひまつるべし。」とのたまひき。
蜾蠃、即ち嬰児(みどりこ)を[於]宮の墻(かき)の下に養ひまつりて、仍(すなは)ち姓(かばね)を賜りて少子部連(ちひさきこべのむらじ)と為(な)りき。
夏四月、吳國遣使貢獻也。
呉国…雄略天皇六年〔壬寅、462〕当時、外交関係があったのは南朝宋(420~479)。
貢献…訓読は、〈神功皇后紀6〉《闕春秋之朝・廃梳鞭之貢》の項参照。
夏四月(うづき)、呉国(くれのくに)使(つかひ)を遣(つかは)して貢献(みつきたてまつる)[也]。
《泊瀬小野》
長谷山口坐神社
 泊瀬(はつせ)は、初め朝倉宮に船が着く「泊瀬」であったが、次第に「終つ瀬」の意味を持つようになって奥地に移ったと考えた (第198回)。 すると、雄略帝が調査に入った「泊瀬」は朝倉宮から東へ行った所ということになる。 実際、「長谷山口」の名を負う神社が初瀬郷にある。
 〈大日本地名辞書〉は、「泊瀬山ハツセヤマ: 初瀬郷の山を指せりと雖〔いへども〕、特に初瀬村大字初瀬を本拠とす、長谷坐山口神社〔ママ〕同所に在り」、 また「長谷山口坐神社は天平二年〔730〕東大寺大税帳に、神戸穀三拾参束、新抄格敇〔勅〕符、大同元年長谷山口神々封二戸などあり」と述べる。 『新抄格勅符』(平安時代)は、奈良時代以後の神社・寺院の封戸などを規定した書。
 神名帳には{大和国/式上郡/長谷山口神社【大。月次。新甞】}、 比定社は「長谷山口坐神社」(はせやまぐちにいます神社、奈良県桜井市初瀬(大字)4593)。
 ただし歌謡の「泊瀬山」については、これを単独歌として見た場合三輪山、あるいは忍坂山を指す可能性もある(別項)。
《小野》
 「小野」については、長谷山口坐神社周辺は既に山が林立するから、山の間の小さな野を意味する「」かも知れない。
 地名とされる「道小野」については、万葉歌に「豊泊瀬道」がある(別項)。この道は初瀬川に洗われる石を伝って歩く形状になっていたと思われるので、 初瀬街道の西端と思われる。 「」とは、この泊瀬路のことであろうか。
 〈釈日本紀〉における訓みは、巻二十六-和歌四に「小野」があるから「ミチノヲノ」である。 地名としては「チヲノ」の方がありそうに思えるが、今のところこの地名は見いだせない。
《少子部連》
 神武天皇段において、神武天皇の皇子神八井耳命が、小子部連ら19氏の祖とされる(第101回)。
 〈天武天皇紀〉元年八月条に「尾張国司守少子部連鉏鉤。匿山自死之。」、 十三年十二月条に、八色の姓制度下の「宿祢」姓を賜った五十氏の一つに「少子部連」が見える。
 〈姓氏家系大辞典〉は、「小子部連:多臣の族にして、小子部の伴造家なり。 雄略紀六年三月条に『〔中略〕蜾蠃・誤りて嬰児を聚め〔中略〕天皇・大い咲ひ給ひ〔中略〕 姓を賜ひて、小子部連と為る』と見ゆれど信じ難し。」、 また「小子部:職業部の一にて、子部の一種、宮中の雑役に服せし品部なるべし。〔中略〕 我が国にも古くより侏儒〔=身長が低い人〕を使役せし事は、天武紀に 『〔中略〕諸国司に命じ、侏儒、及び伎人〔くれひと〕を貢上せしめし』記事等あるにより知るべきなり」。 と述べ、小子部という名称は「丈低き人、即ち侏儒を以って組織したるが故と」 する。
 宮中の雑用人には侏儒もいたのかも知れないが、小子部は基本的に少年・少女を所有して宮中に派遣する部だと考えた方が、嬰児伝説との距離は縮まる。
《大意》
 六年二月四日、 天皇(すめらみこと)は泊瀬小野に遊ばして、山野の地勢を御覧になり、 慨然興感して〔すこぶる心が高ぶって〕御歌を詠まれました。
――隠来(こもりく)の 泊瀬の山は 出で立ちの 好ろしき山 走(わし)り出の 好ろしき山の 隠来の 泊瀬の山は 奇(あや)に裏妙(うらぐは)し 奇に裏妙し
 そして、小野を名づけて道小野(みちのおの)と言います。
 三月七日、天皇は、皇紀にその手で桑を栽培させ、蚕の事をさせようと思われました。
 そこで、蜾蠃(すが)に命じて速やかに国内の蚕を集めさせました。 そして蜾蠃は、誤って嬰児(みどりこ)を集めて天皇に献上して、天皇は大笑いされ、 嬰児を蜾蠃に賜って 「お前の手で、よろしく養育せよ。」と仰りました。 蜾蠃は嬰児を宮垣の一角で養育し、そのうちに姓(かばね)を賜って少子部連(ちいさきこべのむらじ)となりました。
 四月、呉の国は我が国に使者を遣わして、貢献しました。


【観山野之体勢慨然興感】
 「山野之体勢慨然興」の伝統訓の妥当性を考える。
《伝統訓》
釈日本紀
仮名日本紀
●〈釈日本紀〉巻二十六-和歌四: 「山野之カタチ/ナリヲミソナハシハケムテミヲモヒヲオコシ」。
 「ハケム-テ」は繋がらないが、「国史大系8」の凡例に「本書の体裁は改竄加筆の跡に至るまで原本の旧に仍〔よ〕れり」とあるので、 「ハケム」と「テ」はそれぞれ時代を異とする書き込みだと思われる。
●〈仮名日本紀〉: 「山野【の】の体勢【なり】をみそなはして、【慨然】なげいて【感】みおもひをおこして
 「なげ」の次の変体仮名は「い」(以)だと思われるが、「き」(記)かも知れない。「い」なら音便である。
《みそなはす》
 このように、「」の伝統訓は「みそなはす」である。
 〈時代別上代〉はこの「みそはなす」の用例として所引『高橋氏文』〔792年〕の 「尓之天相見曽奈波佐牟止保須由介利〔平にして相見そなはさむと思ほす間に別ゆけり〕を挙げている。この部分は宣命体だから、8世紀後半に書かれたと思われる。
 他の〈時代別上代〉の例文も訓点資料のみだから、平安期以後であろう。万葉集には「みそなはす」はなく、「見る」の尊敬体は「めす」である。 よって、書紀〔720年〕の時点では、基本的にこの語はまだなかったと推定される。
 「みそなはす」は「見る」の尊敬化だが、「めす」とは別の方法による。「あそば-す」(未然形+軽い尊敬ス) が「遊ぶ」意味を失って尊敬の補助動詞になったのと同じように、「具ふ」が補助動詞「そなは-す」になったものではないだろうか。 ただしこれは「見る」以外には使われないことが、問題として残る。
《慨然》
 「慨然」を普通は「なげきて」と訓読するが、それでは歌意とは感情の方向が逆である。 ただ、〈時代別上代〉は「もともとナゲクは〔中略〕大息をつくことで、その原因は不満にあっても感嘆にあってもよいわけで、 讃歎する意とした方が解釈しやすい例もある」と述べ、これを是とすれば、「なげきて」と訓読するのはぎりぎり可能である。
 一方『古典基礎語辞典』は語源を「なが(長)-いき(息)」とする点は同じだが、感情はつらさ、悲しみの方向に限っている。 やはり、賞讃の場面で使うのは例外的であろう。
 なお、「~然」は「~然として」だから、「慨然」は「興感」するときの様子である。
《興感》
 「」の字は、記には数例出てきて「かなふ」と訓むと思われるが、万葉歌には一例もない。 「興感」における「」は感情の意味だから「こころ」はあり得る。しかし、「こころをおこす」では機械的な直訳で、どうも雰囲気がない。 むしろ音よみを用いて「慨然として興感す」と読む方が、言おうとすることが迫ってくる。
 上代語で訓読する場合は、「慨然興感」全体に対して、雅になるようなうまい意訳が望まれる。

【歌意】
隠来こもりくの 泊瀬の山は 出で立ちの 好ろしき山 わしり出の 好ろしき山の 隠来の 泊瀬の山は あや裏妙うらぐはし 奇に裏妙し
〔泊瀬の山は、いで立ちがよく、走り出がよい。泊瀬の山は不思議に心に際立つことよ。〕
 「いでたち」が鉛直方向の勢い、「わしりで」が水平方向の勢いを意味し、 山の姿を褒めているのは明らかである。
――ここで万葉集の類歌を併せて読むことにより、泊瀬の山が具体的にどの辺りを指すのかを探る。
《類歌(1)》
(万)3331 隠来之 長谷之山 青幡之 忍坂山者 走出之 宜山之 出立之 妙山叙 惜 山之 荒巻惜毛
こもりくの はつせのやま あをはたの おさかのやまは はしりでの よろしきやまの いでたちの くはしきやまぞ あたらしき やまの あれまくをしも
隠口の 泊瀬の山 青幡の 忍坂の山は 走出の 宜しき山の 出立の くはしき山ぞ あたらしき 荒れまく惜しも
あらまく…「荒(あ)る」(下二段)の未然形+推量の「」の未然形+(名詞化)。即ち「荒れてしまいそうなこと」。
外鎌山大和朝倉駅南、朝倉台2号公園にて撮影。
 〈倭名類聚抄〉に{大和国・城上郡・恩坂【於佐加】郷〔おさかのさと〕}があり、現在の忍坂(大字)に対応する。 その東に外鎌山(とかまやま)があり、標高292mに過ぎないが、形が整っているので朝倉富士の別名があり、 誰もがこの山を、万葉の「忍坂の山」だと考えている。枕詞「あをはたの」は、緑の木々を譬えたものと考えられている。 「朝倉富士」と呼ばれるほど整った姿だから、イデタチハシリデも宜しいのである。
 この歌の心は、その美しかった山が、今はあたら荒れるに任せるのが惜しいと嘆くものである。
 ところで、論文『日本古代の王権と道路』(千田稔)における、忍坂山への言及は注目される。 それは、泊瀬朝倉宮について述べた個所で、 「遺構の南ほぼに初瀬川をはさんで忍坂山が位置するという地理的な配置が見いだされ、 これは〔中略〕吉野宮(吉野町宮滝遺跡)の南に聖山金峯山を配するのと同じ関係である」とあることは、傾聴に値する。 ※…『日本研究:国際日本文化センター紀要』14号、P.125~145。1996.7.31。副題「大和・河内東西道に関して」。
泊瀬の山長谷寺駅プラットホームから北~北西方向を撮影。
 この歌はそのような意識の下に、「忍坂の山」を朝倉宮の「隠口の泊瀬」と関連付けて詠まれたと考えることができる。 「荒れまく」という言葉には、廃された朝倉宮そのものへの感慨も込められているのだろうか。
 ここで「隠口の長谷(泊瀬)の山」及び「青幡の忍坂山」の並置は、音韻効果を狙ったものである。 この部分は一つの「泊瀬から見える忍坂山」とも、二つの別々の山とも読める。
 後者だとすれば、「長谷の山」はやはり形が整った三輪山であろうと思われる。 しかし、三輪山が円錐形に見えるのは纏向の方向から見た場合である。 初瀬川(南側)から見た姿はまた趣が異なり、巻向山などと連なって山脈を為す。 仮に「長谷(泊瀬)の山」が三輪山だったとしても、これは初瀬川の方から見たとき呼び名だと考えられるから、円錐状というわけではない。 ただそれでもなお、美しい山並みであるのは確かだからイデタチ・ハシリデと表現しても何ら差支えないだろう。
 結局、一つの山か二つの山のどちらと取るかは、この歌を鑑賞する人の気持ち次第である。
《泊瀬の山》
 この段の記紀歌謡がこの万葉歌に通じるとすれば、雄略帝が出かけた山の候補として忍坂山も上がる。しかし、忍坂山は朝倉宮にいれば既に見慣れている。 泊瀬小野で「」び、「山野之体勢」と書くからには、 朝倉宮から一定の距離の場所に出かけて、初めて見た山の体勢に感嘆したのであろう。
 よって、物語歌としては、やはり現在の長谷寺駅の辺りから三輪山・巻向山の山並みを見た歌と読むのが適切だと思われる。
《類歌(2)》
初瀬街道:長谷から第三交差点までは、概ね国道165号線と重なる。 全区間、近畿日本鉄道大阪線が並行している。
(万)2511 隠口乃 豊泊瀬道者 常滑乃 恐道曽 尓心由眼
こもりくの とよはつせぢは とこなめの かしこきみちぞ ながこころゆめ
隠口の 豊泊瀬路は 常滑の 恐き道ぞ 汝が心ゆめ
〔泊瀬の路は濡れて滑りやすい恐い石だから、ゆめゆめ油断しないように〕
…下の後を美称化する。 常滑…川岸・川底などの石が絶えず水にぬれ、水苔ですべりやすくなっているところ。
 先に述べたように、「道小野」の「」は泊瀬道の略かも知れない。
 「豊泊瀬道」は初瀬川沿いの道で、 この区間は平らな石が水面から出ているところを伝って歩くものであったと想像される。
 この泊瀬路から東に向かう道は畿内と伊勢を結ぶ道で、 現在は初瀬(はせ)街道と呼ばれる。 <wikipedia>によれば、「比較的平地が多い街道としてよく利用されていた」という。

【呉国遣使貢献】
 宋書によれば、「呉国遣使」と書かれた同じ年に、倭王興に対して詔を発行した。 その記事(世祖(孝武帝)大明六年〔462〕)の内容を確認する (倭の五王)。
済死。
世子興遣使貢献。
世祖大明六年。詔曰。
「倭王世子興。奕世載忠。作籓外海。稟化寧境。
恭修貢職。新嗣邊業
宜授爵號。可安東將軍倭國王。」
興死。
弟武立。
自称使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大将軍倭國王
斉死にす。
世子興、使(つかひ)を遣はし貢献す。
世祖大明六年〔462〕。詔に曰く。
「倭王〔済の〕世子興、奕世〔=代々〕忠を載(いただ)き、
籓〔=藩〕を外海に作り、稟化(くにををさめ)境を寧(やす)んじて恭(うやうやしく)貢職〔=貢物〕を修む。〔興は〕新たに辺業〔=国境の仕事〕を嗣ぐ。
宜(よろしく)爵号を授く。安東将軍倭国王をなのる可し。」
興死にす。
弟武立つ。
自ら「使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大将軍倭國王」と称す。
 允恭天皇安康天皇雄略天皇とそれぞれ考えられている(第182回)。
 倭は宋から与えられた爵号には不満で、七国を含む称号を要求した。このことが「弟武立・自称」と続けて書いてあるところに、武=雄略天皇の強気が読み取れる。 その後の交渉で宋は百済以外は認める譲歩案を示したが、倭側は百済を含めることに固執した。
 時期的な問題としては、462年は雄略天皇が即位して既に6年が過ぎているのに、興の世となっていることである。 書紀、宋書のどちらかの誤りとすれば話は簡単に片付くが、 大明六年の時点では宋はまだ興の死を知らず、 使者が来朝して初めて代替わりを知ったとすれば辻褄を合わせることができる。
 使者が到着したら、大王は武に変わっていて、面会したらいきなり 「安東将軍倭国王ではだめだ。倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓を冠せよ。」と要求された場面が想像される。
 この説は単なる空想のように見えるが、中国側の使者が来朝して初めて倭王の代替わりを知るのが普通だったと仮定したところ、 「倭の六王」となって系図の不一致が軽減され、双方の年代の噛み合わせもうまくいったのである (第182回)。
《大明六年》
 さて、書紀の「呉国遣使貢献」は、『宋書』が云うところの大明六年の遣使を指すとすれば、 倭の興による宋への貢献への返礼と思われ、使者は当然返貢をもって訪れた。 ただ、返使としては年数が経ち過ぎているから、返礼とは別にこのためだけの勅使を立てたのかも知れない。この場合でも手ぶらで訪れることはあり得ないだろう。
 そのどちらかは分からないが、これを書紀は呉国からの貢献があったと書く。書紀が倭を高めて書くのは、いつものことである。
 「獲加多支鹵大王御世。壬寅年宋国使朝」のような記録が倭国側に絶対になかったとは言い切れないが、 どちらかというと、書紀編者が手元の宋書から「大明六年」の記事に基づいて書き加えたと考えた方が自然である。

まとめ
 仁徳帝から反正天皇までの外交関係は神功皇后紀にごっそり移したが、雄略天皇紀で本来の位置に戻っている。 書紀は巻を進めるにつれ、かつての神話から歴史書としての性格がだんだんと強まっている。その一つの表れであろう。
 神功皇后紀で魏志を引用したことを考えると、ここに「宋書云」があってもよいように思えるが、 持ってきた詔は倭国の意に沿わず、返貢にも触れてないから書けないだろう。 「呉国」という表現を用いたのは、冊封の関係を逆に描くために敢えて伝説仕立てにしたのかも知れない。 書紀の内容が中国に知られる可能性も考えて、用心したのだろうか。
 さて、今回の「泊瀬の山」については万葉の類歌を併せて読むと、書紀の文に加えて朝倉宮の立地の理由などの奥行きが見えてきて、 なかなか興味深いものがある。



[14-07]  仁徳天皇7