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2017.12.17(sun) [13-01] 允恭天皇1 


目次 【允恭天皇】
雄朝津間稚子宿禰天皇、瑞齒別天皇同母弟也。……〔続き〕


目次 【即位前】
五年春正月、瑞齒別天皇崩。……〔続き〕


目次 【元年】
元年冬十有二月、妃忍坂大中姬命、苦群臣之憂吟……〔続き〕


目次 【二年】
二年春二月丙申朔己酉、立忍坂大中姬爲皇后。……〔続き〕


目次 【皇后登祚之年】
《初皇后隨母在家》
初皇后隨母在家、獨遊苑中。
時鬪鶏國造、從傍徑行之、乘馬而莅籬、
謂皇后嘲之曰
「能作園乎、汝者也。」【汝、此云那鼻苔也。】
且曰「壓乞、戸母、其蘭一莖焉。」
【壓乞、此云異提。戸母、此云覩自。】
闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)…大和国山辺郡のあたりか (仁徳天皇六十二年【闘鶏】)。
…(古訓) したがふ。
…[動] のぞむ。〈汉典〉到。(古訓) のそむ。むかふ。
…[名] いけがき。(古訓) たけかき。まかき。(万)0777 屋戸乃籬乎 見尓徃者 やどのまがきを みにゆかば
…(古訓) あさける。 なびと(汝者)…[名] 相手を親しみ呼ぶ。時に軽蔑の感情を伴う。
ノビル
…(古訓) ふちはかま。あららき。
ふじばかま…[名] キク科の多年草。
あららき…[名] ノビル。〈倭名類聚抄〉蘭蒚【和名阿良々木】〈本草和名〉蘭蒚草
いで…[間投] さて。相手に何らかの行動を乞うなどの呼びかけ。
とじ…[名] 主婦。 
初(はじめ)皇后(おほきさき)母(はは)に隨(したが)ひて家(いへ)に在(いま)して、独(ひとり)苑(その)の中(うち)に遊びたまひき。
時に闘鶏(つげ)の国造(くにのみやつこ)、傍(かたはら)の経(みち)従(よ)り[之]行(ゆ)きて、馬に乗りて[而]籬(まがき)に莅(むか)ひて、
皇后に謂(まを)して[之]嘲(あざけ)りて曰(いはく)
「能(よく)園(その)を作るや[乎]、汝(なびと)者(は)[也]。」【汝、此(これ)那鼻苔(なびと)と云ふ[也]。】といひて、
且(また)曰へらく「壓乞(いで)、戸母(とじ)、其の蘭(あららぎ)一茎(ひともと)や[焉]。」といへり。
【壓乞、此異提(いで)と云ふ。戸母、此覩自(とじ)と云ふ。】
皇后則採一根蘭、與於乘馬者。
因以、問曰
「何用求蘭耶。」
乘馬者對曰
「行山撥蠛也。」【蠛、此云摩愚那岐。】
時皇后、結之意裏乘馬者辭旡禮、
卽謂之曰
「首也、余不忘矣。」
うまのり(馬乗)…[名] 馬に乗ること。またその人。
ヌカカ
(ja.wikipedia.org)
まぐなき…[名] ぬかか(糠蚊)。ハエ目ヌカカ科の小さな昆虫。体長1~数mm。 〈時代別上代〉「目(マ)=クナギと思われる。」 「この返事が無礼と考えられたのはマグナギに婚(クナ)ギという連想があったためであろう。
くながひ…[名] 交合すること。「"くなぐ"の未然形+動詞語尾」の名詞形。
…(古訓) むすふ。むすほほる。
むすぼる…[自]ラ下二 心がふさいで気が晴れない。
皇后則(すなはち)一根(ひともと)の蘭(あららき)を採りて、[於]乗馬者(うまのり)に与へたまひき。
因以(しかるをもちて)、問ひたまひて曰はく
「何用(いかにもちゐむとして)蘭(あららき)を求む耶(や)。」といひて、
乗馬者対(こた)へて曰ひしく
「山に行きて蠛(まぐなき)を𫝼(はら)ふため也(なり)。」といひき【蠛、此摩愚那岐(まぐなき)と云ふ。】。
時に皇后、之(この)意(こころ)の裏に乗馬者(うまのり)の辞(ことば)旡礼(いやなき)を結(むすぼ)りて、
即(すなは)ち謂(のたま)ひしく[之][曰]
「首(おびと)也(や)、余(われ)不忘(わすれじ)[矣]。」とのたまひき。
是後、皇后登祚之年、
覓乘馬乞蘭者而數昔日之罪以欲殺。
爰乞蘭者、顙搶地叩頭曰
「臣之罪實當萬死。然當其日、不知貴者。」
於是皇后、赦死刑、貶其姓謂稻置。
…[名] ①君主の位。②天が授ける恵み。
登祚…天子の位につく。
…[名] ひたい。(古訓) ひたひ。〈倭名類聚抄〉額【和名比太比】。〈時代別上代〉万葉・記紀その他、ヒタヒの確実な例はない。
…[動] つきあてる。〈古訓〉おふ。
…(古訓) かうへ。かしら。
かしら…(万)4346 知〃波〃我 可之良加伎奈弖 ちちははが かしらかきなで
…[動] ひれ伏して、頭で地面をたたくようにおじぎをする。(古訓)うつ。たたく。
ぬかつく…[自]カ四 頭を地につけて礼拝する。
…(古訓) おとす。そしる。
是(こ)の後(のち)、皇后(おほきさき)登祚之(のぼりし)年、
馬乗りして蘭(あららぎ)を乞ひし者(ひと)を覓(ま)ぎて[而]昔日(むかし)之(の)罪を数(かぞ)へて以ちて殺さむと欲(ねが)ふ。
爰(ここに)蘭を乞ひし者(ひと)、顙(ぬか)地(つち)を搶(つ)きて頭(かしら)叩(たた)きて曰(まをししく)
「臣(やつかれ)之(の)罪(つみ)実(まこと)万(よろづ)死(しに)に当(あた)れり。然(しかれども)其の日に当たりて、貴(たふとき)者(ひと)なるを不知(しらず)。」とまをしき。
於是(ここに)皇后、死刑(しにのつみ)を赦(ゆる)したまひて、其の姓(かばね)を貶(おと)して稲置(いなき)と謂(い)はしめたまふ。
《謂之曰》
 この出来事の時点ではまだ皇后ではないから、本来「」の訓みは敬意を伴わない「いふ」でよい。 しかし、文中では後の日の立場「皇后」を遡って用いているから、 尊敬表現も連動して「""皇后」は「まをす」であろう。
 同様に、大中姫の言葉「余不忘」の「」(君主専用の一人称の代名詞)も皇后の立場を遡って適用したものだから、 「皇后…謂」の""は「のたまふ」と訓むべきであろう。
《結之意裏乗馬者辞無礼》
 このときの恨みが大中姫の心にずっと残り、皇后になった後、呼び出して罰することになる。 従って「」は「むすぼる」で、「意裏」は"大中姫の心の裏に"という意味となろう。
 そして「結之意裏」は第二目的語として「乗馬者(うまのり)の辞(ことば)無礼なること」をとる。 この文は「結於意裏乗馬者之辞所無礼」に直して読むのが合理的である。
《なぜ無礼か》
 アララギを求めたのはうるさいマグナギを払うためだ答えたことが、なぜ無礼なのか。 まずは、人に頼みごとをするなら、馬上から垣根越しではなく、まず下馬して入り口から入り、丁寧に頼めという気持ちがあったのは確かである。 もうすぐ高貴な身になるのに、下賤な女扱いではないかと腹立たしく思っている。
 その上に、その使い道を聞かれたときに性交と似た言葉で下品な物言いをされて、「馬鹿にしやがって」と思ったのが〈時代別上代〉による解釈である。
 別の解釈としては、「大切に育てた薬効のある植物をその程度のことのために使うのか」も考えられる。 何れにしても、やや納得しきれない感覚が残る。
《皇后登祚》
 は本来は君主の即位を意味するから、皇后が地位につくことを「登祚」と言ってよいかどうかを改めて確かめてみる必要がある。
 試しに漢籍を探ると、 『通典』〔801年;杜佑著〕「礼四十二」に例がある。 ――亦云『非礼、婦人無諡』。泰始以來、藩国王妃無有諡者。中興、敬后登祚乃追諡耳。 〔また「例非ず、婦人に諡(おくりな)がないとは」という。泰始年間〔西晋、265-274〕以来、 諸侯の王妃に諡のある者はいなかった。国が中興してから后を敬い、登祚、すなわち諡を追号するようになった〕
 この例では、「登祚」を皇后あるいは王妃の座につく意味で用いている。 従って、「皇后登祚」は書紀による誤用とは言えない。
《顙搶地叩頭》
 「叩頭」は地面に頭を付けるほどの深々としたお辞儀を意味する (第29回【頓首】)。 ここでは、この五文字で「ぬかづく」と訓読することもできる。 しかし「額を地面を突き」「頭を叩く」と重ねて大げさに詫びる文意を生かして、 このまま訓む方がよいだろう。
《大意》
 以前、皇后が母の許で家におられたとき、ひとりで苑の中で遊んでおられました。 その時、闘鶏(つげ)〔都祁、柘植〕の国造(くにのみやつこ)が傍らの道から、馬に乗って垣に向かい、 皇后に言葉をかけました。それは嘲りで、 「うまいこと園を作ったな、お前さんは。」と言い、 また「ほら、おばさん、その蘭(あららぎ)を一本くれや。」と言いました。
 皇后はそこで一本の蘭を採りって、馬にまたがった者に与えられました。 そこで、質問されました。 「何に使おうとして、蘭を求めたのですか。」と。 馬にまたがった者は 「山に行って蠛(まぐなき、ヌカガ)を払うためだ。」と答えました。 その時皇后は、馬にまたがった者の無礼な言葉が心中にずっと残り、 「首(おびと)や、私は忘れぬぞ。」と仰りました。
 この後に、皇后が登祚(とうそ)した年、 馬に乗って蘭を求めた人を見つけ出し、昔日の罪を数え上げて殺そうと思われました。 そして連れてこられた蘭を求めた人は、額を地面に打ちつけ、頭を叩きつけ申しあげました。
 「私めの罪は、まことに万死に値するものです。とは言ってもその日はまだ、このように貴い方とは存じ上げませんでした。」と。
 そして皇后は死刑を赦され、その姓(かばね)を貶めて稲置(いなき)としました。


【表現の特徴】
《乗馬者》
 ここでは人名の代わりに乗馬者、乞蘭者などを繰り返して用いる。 名前が不明であるためかも知れないが、それでも「其人」を用いることもできるのだから、この繰り返しは口承伝承的である。 このことから、この段は口承されてきたものをそのまま収めた気配を感じる。
《登祚》
 皇后の地位に就く定型表現は、「立○○媛為皇后」である。皇后を中心人物とする文章中ではあるが、「登祚」を用いるのは崇高化と言える。 また、一人称の代名詞「」は本来天皇が用いるもので、これも崇高化である。 なお、この出来事の時点では一人称は「我・吾」であるが、「余」は執筆者が遡らせたものである。
 このことは、〈延喜式〉に藤原氏が送り込んだ皇后の陵が、天皇と同じような規模で記載されていることを想起させる。 允恭天皇においても、皇后に天皇と同等の権力があったのではないかと思わせるものがある。

まとめ
 この段に見える皇后の崇高化には、皇后の強い権力が感じられる。七~十一年条で妹が後宮に入ることを遠慮させられたり、 九人の皇子がすべて皇后の子とされるのも、これと無関係ではないと思われる。
 また、本稿は百舌鳥に一度築いた寿陵を空陵として、別の場所に築陵し直したとの仮説をもっているが (第183回)、 そこにも皇后の意向が絡むものかも知れない。
 ただ、元年条とこの段には大宅氏の独自伝承の気配が感じられ、 その伝承においては、皇后に上った祖の女(むすめ)が随分持ち上げて表現されていたとも考えられる。



2017.12.24(sun) [13-02] 允恭天皇2 


目次 【三年】
三年春正月辛酉朔、遺使、求良醫於新羅。……〔続き〕


目次 【四年】
四年秋九月辛巳朔己丑、詔曰「上古之治、人民得所姓名勿錯。……〔続き〕


目次 【五年】
《地震》
五年秋七月丙子朔己丑、地震。
先是、命葛城襲津彥之孫玉田宿禰、
主瑞齒別天皇之殯。
則當地震夕、遣尾張連吾襲、察殯宮之消息。
時諸人悉聚無闕、唯玉田宿禰無之也。
なゐ…[名] 地震。〈時代別上代-所引『名義抄』〉地震なゐ
なゐふる…[自]ラ四? 地震が起こる。
玉田宿祢…「武内宿祢―葛城襲津彦―○―玉田宿祢」。 〈雄略天皇紀〉別本云「名毛媛者、葛城襲津彦子玉田宿祢之女也」。すなわち、別の資料では葛城襲津彦子の孫ではなく、子である。
五年(いつとせ)秋七月(ふみづき)丙子(ひのえね)朔(つきたち)として己丑(つちのとうし)〔十四日〕、地震(なゐふる)。
先是(このさき)、葛城襲津彦(かつらきのそつひこ)之(の)孫(ひこ)玉田(たまた)の宿祢(すくね)に命(おほ)したまひて、
瑞歯別天皇(みづはわけのすめらみこと)之(の)殯(もがり)を主(つかさど)らしめましき。
則(すなはち)地震(なゐ)の夕(ゆふへ)に当たりて、尾張連(をはりのむらじ)の吾襲(あそ)を遣(つかは)して、殯宮(もがりのみや)之(の)消息(ありさま)を察(み)せしめませり。
時に諸(もろもろの)人悉(みな)聚(あつま)りて闕(かけること)無くして、唯(ただ)玉田宿祢之(ここに)無(あらず)[也]。
吾襲奏言
「殯宮大夫玉田宿禰、非見殯所。」
則亦遣吾襲於葛城、令視玉田宿禰、
是日、玉田宿禰、方集男女而酒宴焉。
吾襲、舉狀、具告玉田宿禰。
大夫…職員令の中宮職・大膳職・左右京職・摂津職、東宮職員令の春宮坊の長官は「大夫」と書いて、「かみ」と訓む。 (資料[11]垂仁天皇紀【詔五大夫】)。 ここでは、「殯宮」の主を後の養老令における官署の長官に類するものと想定して「かみ」と訓む。
吾襲奏(まを)して言(まを)ししく
「殯宮(もがりのみや)の大夫(かみ)玉田宿祢、殯所(もがりところ)に見(み)え非(ざ)りき。」とまをしき。
則(すなはち)亦(また)吾襲を[於]葛城に遣(つかは)して、玉田宿祢を視(み)さ令(し)めば、
是の日、玉田宿祢、方(まさに)男女(をのこをみな)を集めて[而]酒宴(うたげ)せり[焉]。
吾襲、状(ありさま)を挙(あ)げて、具(つぶさに)玉田宿祢に告げき。
宿禰則畏有事、以馬一匹授吾襲爲禮幣、
乃密遮吾襲而殺于道路、
卽逃隱武內宿禰之墓域。
…(古訓) さいきる。かくす。さはる。さまたく。
さふ…[他]ハ下二 さえぎる。妨げる。せきとめる。
かくる(隠る)…[自]ラ下二・ラ四 隠れる。〈時代別上代〉すでに下二段の例も多く、次の時代につながる。
にげかくる…〈時代別上代〉ラ下二。
おきつきところ…[名] 墓所。(万)1801 語嗣 偲継来 處女等賀 奥城所 かたりつぎ しのひつぎける をとめらが おくつきところ
宿祢、則(すなはち)事有ることを畏(おそ)りて、馬一匹(ひとつ)を以ちて吾襲に授(さづ)けて礼(ゐや)の幣(まひなひ)と為(し)て、
乃(すなはち)密(ひそかに)吾襲を遮(さへ)て[而][于]道路(みち)に殺して、
即ち武内宿祢之(の)墓域(おくつきところ)に逃げ隠れき。
天皇聞之、喚玉田宿禰。
玉田宿禰疑之、甲服襖中而參赴、
甲端自衣中出之。
天皇分明欲知其狀、
乃令小墾田采女賜酒于玉田宿禰。
爰采女分明瞻衣中有鎧而具奏于天皇。
(おう)…[名] 裏地のついた上着。袍(ほう)より短く「襦(じゅ)」より長い。(日本語)ふすま。あを(奈良、平安初期に武官の朝服)。 (古訓) こころも。あを。
分明…他のものと区別して、はっきりわかること。
天皇之(こ)を聞きて、玉田宿祢を喚(め)したまふ。
玉田宿祢之を疑ひて、甲(よろひ)を襖(こころも)の中に服(き)て[而]参赴(まゐおもぶ)きて、
甲(よろひ)の端(はし)、衣(ころも)の中(うち)自(よ)り之(こ)を出づ。
天皇分明(みわ)けて其の状(ありさま)を知らむと欲(のぞ)みたまひて、
乃(すなはち)小墾田(をはりた)の采女(うねめ)をして[于]玉田宿祢に酒(みき)を賜(たまは)ら令(し)めます。
爰(ここに)采女分明(あきらけく)衣の中に鎧(よろひ)有ることを瞻(み)て、[而]具(つぶさに)[于]天皇に奏(まを)しまつりき。
天皇設兵將殺玉田宿禰、
乃密逃出而匿家。
天皇更發卒、圍玉田家而捕之乃誅。
天皇兵(いくさ)を設(まう)けて玉田宿祢を[将]殺さむとして、
乃(すなはち)密(ひそかに)逃げ出でて[而]家(いへ)に匿(かく)る。
天皇更に卒(いくさびと)を発(た)てて、玉田の家を囲みて[而]之(こ)を捕へて乃(すなは)ち誅(ころ)したまひぬ。
冬十有一月甲戌朔甲申、
葬瑞齒別天皇于耳原陵。
耳原陵…記は「毛受野」。 延喜式は「百舌鳥耳原北陵」 (第183回)。
冬十有一月(しもつき)甲戌(きのえいぬ)を朔として甲申(きのえさる)〔十一日〕
瑞歯別天皇を[于]耳原陵(みみはらのみささき)に葬(はぶ)りまつる。
《地震》
 地震の訓「なゐ」については、〈武烈天皇紀〉(歌謡)に、「耶賦能之魔柯枳 始陀騰余瀰 那爲我與釐據魔 やふのまかき したとよみ なゐがよりこば。」がある。
 〈古典基礎語辞典〉は「ナは地、大地の意で、高句麗語の土(na)と同源。ヰは居で、地盤の意。 古くは動詞「振る」や「揺る」「揺る」を伴って用いられたが、のちにナヰのみで地震の意を表すようになった。」と述べる。
 同辞典の「よる」=「揺(よ)る」という解釈に対して、〈時代別上代〉は「ユと通じるにはヨは甲類でなければならず、疑いが持たれる。あるいはむしろ寄(ヨ)ルなどと関係あるか。」といい、対立的である。
 〈古典基礎語辞典〉の「土(na)」説については、倭語に「ツチ」があるのに、なぜ地震のときだけ「ナ」を用いるのかが疑問である。 仮に「ナ」=大地だとすれば飛鳥時代には既に死滅した語だから、古墳時代以前の語が地震のためだけに残ったことになる。 強い印象を与える現象には、敢えて古い言葉が残るということであろうか。
《小墾田》
葛上郡・高市郡
雷丘
 推古朝の宮殿は、小墾田宮と呼ばれる(小治田とも)。 小墾田宮は、明日香村の雷(いかつち)内畑遺跡、雷東方遺跡を含む一帯だと考えられている。 地名「小墾田」の範囲がどこ辺りまでを指したかは、不明である。
《武内宿祢墓域》
 武内宿祢の最後の登場は、仁徳天皇五十年である (仁徳天皇五十年)。 その後、継体天皇紀にも武内宿祢の名前が出てくるが、これは思い出話の中である。
 ここで武内宿祢の伝説上の墓所とされているのは、 恐らく室宮山古墳であろう (第162回)。 室宮山古墳は葛上郡にあり、玉田宿祢の父は葛城襲津彦、酒宴を開いた土地も葛城と書かれる。
《甲服襖中》
 「甲服襖中」すなわち「衣の下の鎧」は、平清盛が衣を羽織って鎧姿を隠した話(平家物語巻二)が有名である。
 平家物語から該当箇所を拾うと、 「あの姿に腹巻を着て向はむことおもばゆう恥づかしうや思はれけむ。 障子を少し引き立てて素絹の衣を腹巻の上にあわてて着に着たまひたりけるが 胸板の金物の少し外れて見えけるを隠さうと頼りに衣の胸を引き違へ引き違えぞしたまひける。」とある。
 その後にも「聖徳太子十七ケ条の御憲法に」云々の引用があるから、 平家物語の作者は、教養として日本書紀を読んでいたと思われる。
《大意》
 五年七月十四日、地震がありました。 地震が起こる前に、葛城襲津彦(かつらきのそつひこ)の孫、玉田宿祢(たまたのすくね)を、 瑞歯別天皇(みずはわけのすめらみこと)の殯(もがり)主に命じていました。
 地震の日の夕方、尾張連(おわりのむらじ)の吾襲(あそ)を派遣して、殯宮(ひんきゅう、もがりのみや)の様子を見に行かせました。 すると、人はみな集まり誰も欠けていませんでしたが、唯一、玉田宿祢だけがここにいませんでした。
 吾襲は、 「殯宮の大夫(かみ)玉田宿祢の姿は、殯所(もがりところ)に見えませんでした。」と奏上しました。 すぐにまた吾襲を葛城に派遣して、玉田宿祢を見に行かせると、 まさにこのような日に、男女を集めて酒宴を開いていました。
 吾襲は、事情をつぶさに玉田宿祢に告げました。 宿祢はそこで事が有ることを恐れて、馬一匹を吾襲に賄賂として与え、 密かに吾襲の通り道を遮って殺し、 武内宿祢の墓所に逃げて隠れました。
 天皇それを聞いて、玉田宿祢を召喚しました。 玉田宿祢はこれを疑い、鎧を衣の内側に着けて参上しましたが、 鎧の端が衣の内から出ていました。
 天皇はそれを見つけて、実際はどうなのかを知りたいと思われ、 小墾田(おはりた)の采女(うねめ)に、玉田宿祢に賜わる酒を持って行かせました。
 すると采女は衣の中に鎧を着けていることをはっきり見て、つぶさに天皇に奏上しました。 天皇は兵を用意して玉田宿祢を殺そうとしたので、 密かに逃げ出して家に隠れました。 天皇は更に兵卒を送り、玉田の家を取り囲み、捕えて殺しました。
 十一月十一日、 瑞歯別天皇を耳原陵(みみのはらのみささぎ)に葬りました。


まとめ
 これが書記で最初の「地震」の記事であるが、 この日付に信憑性はないと思われる。
 さて、前代の反正天皇の在位期間「5~6年間」には古事記や宋書による一定の根拠があり、 「允恭天皇五年」になってやっと葬ったとされるから、反正天皇陵は築陵に十年の歳月を要した巨大陵ではなかったか。以前に考察した通りである (第183回)。


2017.12.28(thu) [13-03] 允恭天皇3 


目次 【七年】
《天皇親之撫琴皇后起儛》
七年冬十二月壬戌朔、讌于新室。
天皇親之撫琴、皇后起儛、
々既終而不言禮事。
當時風俗、
於宴會者儛者儛終則自對座長曰
「奉娘子也。」
にひむろ…(万)3506尓比牟路能 許騰伎尓伊多礼婆 にひむろの こどきにいたれば〔「こどき」は意味不明とされる。〕
…[名] さかもり。(古訓) うたけうつ。
…[自] (古訓)みずからする。
…(古訓) なつ。ひく。かく。
ひく(弾く)…[自] 弦楽器を奏する。〈時代別上代〉絃を爪で引きかけて音を出すのでヒクという。
…[自] 舞をまう。(古訓) かなつ。まひ。まふ。
まひびと(舞人)…『古語林』(大修館書店)所引〈方丈記〉〔鎌倉時代〕舞人を宿せる仮屋」。
当時…(古訓) そのかみ。
…(古訓) すへし。まさに。つね。そこ。
風俗…その土地や時代のならわし。
てぶり…[名] 風俗。風習。
…(古訓) をさ。 (万)0880 阿麻社迦留 比奈尓伊都等世 周麻比都〃 美夜故能提夫利 和周良延尓家利 あまざかる ひなにいつとせ すまひつつ みやこのてぶり わすらえにけり
七年(ななとせ)冬十二月(しはす)壬戌(みづのえさる)の朔(つきたち)、[于]新室(にひむろ)に讌(うたげう)ちたまふ。
天皇(すめらみこと)[之]親(みづからして)琴を撫(ひ)きたまひて、皇后(おほきさき)起(た)ちて儛(ま)ひしたまひて、
儛(まひ)既に終(を)へて[而]礼事(ゐやのこと)を不言(まをしたまはず)。
当時(そのよ)の風俗(てぶり)、
[於]宴会(うたげ)者(は)、儛者(まひひと)儛終(まひをへて)則(すなはち)自(みづから)座長(をさ、うたげのをさ)に対(むか)ひて曰(まをししく)
「娘子(をむなめ)を奉(たてまつ)る[也]。」とまをしき。
時天皇謂皇后曰
「何失常禮也。」
皇后惶之、復起儛々竟言
「奉娘子。」
天皇卽問皇后曰
「所奉娘子者誰也、欲知姓字。」
皇后不獲已而奏言
「妾弟、名弟姬焉。」
つね…(万)3273 常帶乎 三重可結 つねのおびを みへむすぶべく
時に天皇、皇后に謂(のたまはく)[曰]
「何(いかに)か常(つね)の礼(ゐや)を失(うしな)ひきや[也]。」とのたまひて、
皇后之(こ)を惶(おそ)りて、復(また)起ちて儛(まひ)したまひて、儛(まひ)竟(を)へて言(まを)さく
「娘子(をむなめ)を奉る。」とまをして、
天皇即(すなはち)皇后に問ひたまはく[曰]
「所奉(たてまつらえし)娘子者(は)誰(た)ぞ[也]、[欲]姓字(な)を知らむとほりたまふ。」ととひたまひて、
皇后已(や)むことを不獲(え)ざりて[而]奏(まを)して言(まを)ししく
「妾(わが)弟(おと)、名は弟姫(おとひめ)なり[焉]。」とまをしき。
弟姬、容姿絶妙無比、
其艶色徹衣而晃之、
是以、時人號曰衣通郎姬也。
天皇之志存于衣通郎姬、
故强皇后而令進、
皇后知之、不輙言禮事。
爰天皇歡喜、則明日遣使者喚弟姬。
…(古訓) いろふかし。うるはし。なまめいたり。なよよかなり。
いろぐはし(色妙)…[形] 色美しい。
…(古訓) すなはち。たやすく。ほしいまま。
たり…[助動]ラ変 〈時代別上代〉「この助動詞は記紀にはまだ用例がない。
弟姫、容姿(すがたかたち)の絶妙(たへなること)無比(くらぶべくもなく)て、
其の艶色(いろぐはしき)こと、衣(ころも)を徹(とほ)りて[而][之]晃(かがや)きて、
是を以ちて、時の人号(なづけ)て衣通郎姫(そとほりのいらつめ)と曰(い)ふ[也]。
天皇之(の)志(こころざし)[于]衣通郎姫に存(あ)りて、
故(かれ)、皇后に強(し)ひて[而]進(まを)さ令(し)めたまひて、
皇后之(こ)を知りてありて、[不]輙(たやすく、〔天皇の〕ほしきまにまに)礼事(ゐやのこと)を言(まを)したまはざりき。
爰(ここに)天皇歓喜(よろこ)びて、則(すなはち)明日(あくるひ)に使者(つかひ)を遣(つかは)して弟姫を喚(め)さしめたまふ。
《座長》
 〈汉典〉には、熟語「座長」はなく、 〈中国哲学書電子化計画〉には、一例のみ。
 『漢紀』〔荀悦著、198~200〕孝武皇帝紀二、二年十月条。 ※…『漢書』を、荀悦が編年体を用いて要約した書。
 「單于朝拜日。夕拜月。其座長左而北面。〔単于〔匈奴の王の名〕は朝に太陽を拝み、夕に月を拝み、祭場の北側に並び、南を向いて座り、その左端に座長として単于が坐した〕
 これは、匈奴の単于王の治世について詳しく述べた中の一節である。 「其の座〔会場〕左に長く」とも読めそうに思えるが、何を基準として左かを書いていないから意味をなさず、やはり「座長」であろう。
 ただし、この一例しか見つからないから、頻繁に使われる語ではなかったようだ。
《舞者舞終則曰奉娘子也》
 宴会において、座長(大抵は高貴な人)の前で舞した人は、その後で自らまたは縁者を捧げる習慣があったと読める。 これは、物語におけるフィクションであるように思える。ただ、一部にはそれを目的とする宴もあったかも知れない。
《雖弟姫参向
時弟姬、隨母以在於近江坂田、
弟姬畏皇后之情而不參向。
又重七喚、猶固辭以不至、
於是天皇不悅而
復勅一舍人中臣烏賊津使主曰
「皇后所進之娘子弟姬、喚而不來。
汝自往之、召將弟姬以來、必敦賞矣。」
近江坂田…〈倭名類聚抄〉{近江国・坂田郡}。
たび…[助数] 回、度。
時に弟姫、母に隨(したが)ひて以ちて[於]近江(ちかつあはうみ)の坂田(さかた)に在(あ)りて、
弟姫皇后之(の)情(こころ)を畏(おそ)りて[而]不参向(まゐむかはず)。
又、七(ななたび)喚(め)すことを重ねて、猶(なほ)固(かた)く辞(いな)びて以(も)ちて不至(いたりまつらず)、
於是(ここに)天皇不悦(よろこばず)て[而]
復(また)一(ひとりの)舍人(とねり)中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)に勅(おほせごと)して曰(のたまはく)
「皇后の所進之(たてまつりし)娘子弟姫、喚(め)して[而]不来(きまつらず)。
汝(いまし)自(みづから)[之]往(ゆ)きて、弟姫を召し将(ひきゐ)て以ちて来(こ)ば、必ず敦(あつ)く賞(ほめ)たまはむ[矣]。」
爰烏賊津使主、承命退之、糒褁裀中、
到坂田、伏于弟姬庭中言
「天皇命以召之。」
弟姬對曰「豈非懼天皇之命。
唯不欲傷皇后之志耳。妾雖身亡、不參赴。」
…[名] みごろ。衣服の袖、襟を除いた主要部分。
…[動] つつむ。(古訓) つつむ。まとふ。
…[名] ほしいい。(古訓) ほしいひ。
ほしひ(糒)…[名] 干してたくわえた飯。
かれひかれいひ(餉)…[名] 干し飯。
爰(ここに)烏賊津使主、命(おほせごと)を承(うけたまは)りて[之]退(そ)きて、糒(ほしひ)裀中(ころものうちに)裹(つつ)みて、
坂田に到りて、[于]弟姫の庭の中(うち)に伏(ふ)して言はく、
「天皇の命(おほせごと)なりて、以ちて[之]召(め)しまつる。」といひて、
弟姫対(こた)へて曰(まを)ししく「豈(あに)天皇之命(おほせごと)を懼(かしこ)むこと非(あら)ずや。
唯(ただ)皇后之(の)志(こころざし)を傷(そこな)ふことを不欲(ねがはざる)耳(のみ)。妾(われ)[雖]身(み)亡(ほろ)べど、不参赴(まゐおもぶかず)。」とまをしき。
時烏賊津使主對言
「臣既被天皇命、必召率來矣。
若不將來、必罪之。
故、返被極刑、寧伏庭而死耳。」
仍經七日伏於庭中、與飲食而不湌、
密食懷中之糒。
ふつくろ(懐)…[名] ふところ。
時に烏賊津使主対(こた)へて言(まを)さく
「臣(やつかれ)既に被(お)ひまつりし天皇の命(おほせごと)、必ず召(め)して率(ひきゐ)来(こ)よとおほせたまひき[矣]。
若(もし)不将来(ひきゐこざ)らば、必ずや[之]罪(つみ)をおひまつらむ。
故(かれ)、返(かへ)りて極刑(きはまれるつみ)を被(お)はめば、寧(むしろ)庭に伏して[而]死なむ耳(のみ)。」とまをす。
仍(すなはち)七日(なぬか)を経て[於]庭(には)の中(うち)に伏し、飲食(くらひもの)を与へて[而]不湌(くらわざ)れど、
密かに懐中(ふつくろ)之(の)糒(ほしひ)を食(くら)ひき。
於是弟姬以爲、
妾因皇后之嫉、既拒天皇命。
且亡君之忠臣、是亦妾罪。
則從烏賊津使主而來之。
到倭春日、食于檪井上、
弟姬親賜酒于使主、慰其意。
なぐさむ…[他]マ下二 (万)3280後毛相得 名草武類 心乎持而 のちもあはむと なぐさむる こころをもちて
於是(ここに)弟姫以為(おもへらく)、
妾(われ)皇后之(の)嫉(ねたみ)に因りて、既に天皇の命(おほせごと)を拒(こば)めり。
且(また)君(おほきみ)之(の)忠臣を亡(う)すこと、是(これ)亦(また)妾(わが)罪(つみ)なりとおもへり。
則(すなはち)烏賊津使主に従ひて[而][之]来(く)。
倭(やまと)の春日(かすか)に到りて、[于]檪井上(いちひゐのへ)に食(くら)ひて、
弟姫親(みづから)酒(みき)を[于]使主(おみ)に賜(たまは)りて、其の意(こころ)を慰(なぐさ)めり。
《近江坂田》
「櫟井」の推定範囲
 坂田は、応神天皇から継体天皇の間を繋ぐ幻の王朝の縁の地である (第159回)。 その姉の皇后は「忍坂」(比定地は桜井市の忍阪)の名を負い、 【皇后登祚之年】の話から、その故郷は山辺郡の都介郷(柘植、都祁とも)から近い場所である。 このように、坂田郡にいたと見ることはできない。 だから、姉妹として描かれるのは七~十一年条だけのことであろう。
《中臣烏賊津使主》
 中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)は、仲哀天皇八年に天皇の喪をかくして遺体を穴門に運んだ〔そこでは連(むらじ)〕 (仲哀天皇八年九月)。 また、仲哀天皇紀で審神者(さにわ)を務めた (仲哀天皇九年二月)。
《檪井》
 壹比韋臣(いちひゐのおみ、櫟井臣)の名が、孝昭天皇段の皇子、天押帯日子命(あめおしたらしひこのみこと)を祖とする十六臣のひとつに挙げられている (第105回)。 これらの氏族は、書紀以後は和珥(和邇)臣の裔として括られる。
 大和国添上郡に和爾町に隣接して櫟本村があった(現在は天理市櫟本町)。 櫟井臣の名は、地名「櫟井」と結びついたものであろう。 現在の地名「櫟本」は、「檪井」から由来したものと言われる。
 櫟本の位置は、近江国坂田郡から飛鳥宮への経由地として妥当性がある。
 ただ、「倭〔の国〕春日に到りて櫟井の上で…」と書かれるので、 〈倭名類聚抄〉でいう{春日郷}の比定地とは随分離れていることが疑問を生む。 古い時代の「春日」は、より広い地域を指したのかも知れない。
《春日県》
 これに関しては、古く「春日県主(あがたぬし)」が存在したとされる。 律令以前の地方の区画名として「(あがた)」があり、 記には16か所に「縣」「県主」「縣直」「縣君」がある。書紀には「縣」が一般名詞を含めて約100か所にある。 <wikipedia>によれば、倭の国には十の県主が拾い出されている (第98回《猛田》)。 〈倭名類聚抄〉で大和国に十五郡があることから見て、県の規模は概ねのちの程度であったと見られる。 書紀では「春日県主」は、神武天皇紀の「春日縣主大日諸女絲織媛」が見える (第102回【書紀】)。 「県」の一般的な規模から見て、添上郡・添下郡の地域を曽富県主と春日県主で分け合っていた可能性は十分考えられる。
 なお、十市県が古くは春日県と称したという説も見る。これについて〈姓氏家系大辞典〉は、
――五郡神社記に十市県主系図を載せ、「稀有系図也」とあれど、同作者の偽作なるや著し。されど参考の為に挙ぐれば、 春日県とは十市県の古名にて、「事代主命…〔略〕…五十坂彦(孝昭天皇御世、春日称改名、云十市、 詔五十坂彦、為県主)…〔略〕」と。笑ふべし。
 と述べる。 五郡神社記…『和州五郡神社神名帳大略注解』〔1446;室町時代〕
 春日県が添上郡の辺りにあったのは明らかで、 十市郡にあったというのは確かに荒唐無稽である。
《都の場所》
 都の場所は書紀では相変わらず不明である。 しかし、玉田宿祢の家が「葛城」にあり、「小墾田」(甘樫丘付近)の采女が登場する。
 また、皇后が別宮を構えた藤原、弟姫と中臣烏賊津使主が近江から都に向かう途中で通ったという「櫟井」の位置を考えると、 書紀でも記と同じく「遠飛鳥」を都と考えるのは自然であろう。
《皇后之色不平而別構殿屋於藤原
使主、卽日至京、留弟姬於倭直吾子籠之家、
復命天皇。
天皇大歡之、美烏賊津使主而敦寵焉。
然皇后之色不平、是以、勿近宮中、
則別構殿屋於藤原而居也。
吾子籠履中天皇即位前紀などで登場。
…(古訓) あはれふ。うつくしふ。
かまふ(構)…[他]ハ下二 構える。
…(古訓) いろ。〔これ一つのみ〕
いろ…[名] いろ。顔色。
不平…〈汉典〉不公平。因不平的事而激動、憤怒或不満。 (古訓) ことことし。となつましけなり。
たひらか…[形動] 世の中や心の状態が平静なこと。
使主(おみ)、即日(そのひ)に京(みやこ)に至りて、弟姫を[於]倭(やまと)の直(あたひ)吾子籠(あごこ)之(の)家に留(とど)めて、
天皇に復命(かへりごとまを)しき。
天皇大(おほきに)之(こ)を歓(よろこ)びて、烏賊津使主を美(ほ)めて[而]敦(あつ)く寵(あはれ)びたまふ[焉]。
然(しかれども)皇后之(の)色(いろ)不平(たひらかならざ)りて、是(こ)を以ちて、[勿]宮の中(うち)に近づかずて、
則(すなはち)[於]藤原(ふぢはら)に殿屋(とのや)を別(わ)け構(かま)へて[而]居(ましま)せり[也]。
適産大泊瀬天皇之夕、天皇始幸藤原宮。
皇后聞之恨曰
「妾初自結髮、陪於後宮、既經多年。
甚哉天皇也。今妾産之死生相半。
何故、當今夕必幸藤原。」
かみ…[名] 頭髪。
…(古訓) はむへり。そふ。つかふ。
いきしに…[名] 生死。
適(たまさかに)大泊瀬天皇(おほはつせのすめらみこと)を産みし[之]夕(ゆふへ)に、天皇始めて藤原宮(ふぢはらのみや)に幸(いでま)しき。
皇后之(こ)を聞きたまひて、恨(うら)みて曰(まをしたまひしく)
「妾(われ)初めに髪を結(ゆ)ひし自(よ)り、[於]後宮(うちつみや)に陪(はべ)りて、既(すでに)多年(おほきとし)を経(ふ)。
甚(はなはだし)哉(や)天皇(すめらみこと)は[也]。今妾(われ)[之]産みて死生(いきしに)相(あひ)半(なかば)す。
何(いかなる)故(ゆゑ)に、今夕(こよひ)に当たりて必(かなら)ずや藤原に幸(いでまし)きか。」とまをしたまひき。
乃自出之燒産殿而將死、
天皇聞之大驚曰「朕過也。」
因慰喩皇后之意焉。
慰喩…この熟語は〈汉典〉にも〈中国哲学書電子化計画〉にも出てこない。
…(古訓) いこふ。やすむ。
なぐさむ…[他]マ下二 心を休ませる。
…(古訓) さとす。
さとす…[他]サ四 さとらせる。
乃(すなはち)自(みづから)[之]出でて産殿(うぶどの)を焼きて[而]将(まさに)死なむとして、
天皇之(こ)を聞きたまひて大(おほ)きに驚ひて曰(のたまひしく)「朕(われ)過(あやま)てりけり[也]。」とのたまひき。
因(しかるがゆゑに)皇后之意(こころ)を慰(なぐさ)め喩(さと)したまひき[焉]。
《結髪》
 「結髪」は後宮に上る意味の語句かも知れないと思い、 漢籍における「結髪」の用例を調べてみた。
○『後漢書』〔420~455〕
 ・班彪列伝:「今皇太子諸王、雖結髪学問脩-習礼楽、而伝相未賢才、官属多闕二上旧典〔今皇太子・諸王は結髪学問し、礼儀・音楽を修めるといえども、互いに賢才に値せず、 官属は多く旧典を欠くと伝わる〕
 ・燕丹子〔田高は太子との再会を喜び〕田光曰:結髪立身、以至於今、徒慕太子之高行…
 これらの「結髪」は、修学・立身に向かって心構えを正し、身なりを整えることを表すようである。 結婚については、次に見られる。
○『芸文類聚』〔唐、624〕
 ・巻四十:「晋摯虞新婚箴曰…結髪之麗〔摯虞(しぐ)は西晋の学者。箴は「いさめ」〕
 ・巻四十二:「魏陳王曹植…種葛篇曰…与君初定婚、結髪恩義深
 これらの用例を見ると、身なりとして頭髪を整える以上の特別な意味はないようである。
《大意》
 七年十二月一日、新宮で宴を開かれました。
 天皇は自ら琴を弾かれて、皇后は起って舞をまわれ、 舞が既に終わったところで、礼事(れいごと)を申し上げませんでした。 当時の風俗は、 宴会では、舞者が舞い終えると、自分から座長に対して 「女子を奉ります。」と申し上げる習わしでした。
 すると天皇は皇后に 「どうして常の礼をしないのか。」と仰り、 皇后はこれを憚って、再び起って舞い、舞い終えて 「女子を奉ります。」と申しました。
 天皇はそこで、皇后に 「奉つられる女子とは誰か、姓名を知りたいものである。」と問われ、 皇后は止むを得ず奏上し、 「私の妹、名は弟姫(おとひめ)と申します。」と申しあげました。
 弟姫は、容姿が絶妙無比で、 その艶色は衣を通して光り、 よって、時の人は衣通郎姫(そとおりのいらつめ)と名付けました。
 天皇は衣通郎姫に心が向かい、 皇后に強いてこの姫を進めさせるように仕向け、 皇后はそれを知っておられたので、天皇の欲しいままに礼事を申し上げることをしなかったのです。
 こうして天皇は歓喜され、翌日に使者を遣わして弟姫を召し上げさせました。
 その時弟姫は、母に従って近江の坂田にいて、 弟姫は皇后の心を恐れて参上しませんでした。 また、七度召すことを重ねましたが、なお固辞して来ず、
 そこで天皇は不悦となり、 また一人の舍人(とねり)、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)に命じました。 「皇后の奉った女子弟姫は、召しても来ない。 お前が自ら行って、弟姫を召して連れてくれば、必ず敦く賞を給わることとしよう。」と。
 そこで烏賊津使主は、命を承って退出し、糒(ほしいい)を衣の内側に包み、 坂田に到着し、弟姫の庭の中で伏して申しあげました。 「天皇の命をもってお召し申しあげます。」と。 弟姫は、「どうして天皇の命を恐れることなどありましょう。 ただ、皇后の志を損なうことを願わないだけである。私の身が亡んでも、参上いたしません。」と申しました。
 すると、烏賊津使主は、 「臣が既に負った天皇の命(めい)は、必ず召し連れて来いというものです。 もし、連れて帰らねば、必ず罪を負います。 このまま帰って極刑を被るよりは、寧ろ庭に伏して死ぬのみです。」と答えました。
 そのまま七日を経て庭の中に伏し、食物を与えても食べず、 密かに懐中の糒(ほしいい)を食べました。
 ここで弟姫は、 私は皇后の嫉妬によって、既に天皇の命を拒んだ、 その上に大君の忠臣を亡くすことは、これまた私の罪であると考えました。
 そして、烏賊津使主に従って行きました。 倭の春日(かすが)に到着したところで、檪井の上で食事をとり、 弟姫は自ら御酒を使主(おみ)に給わり、その心を慰労しました。
 使主はその日のうちに都に到り、弟姫を倭の直(あたい)吾子籠(あごこ)の家に留め置き、 天皇に復命しました。 天皇は大いに喜んで、烏賊津使主を褒め厚く寵愛されました。
 けれども皇后は顔に不平の色を浮かべ、このときから宮中には近づかず、 藤原に宮殿を別に構えて住みました。
 たまたま大泊瀬天皇(おおはつせのすめらみこと)〔雄略天皇〕を産んだ夕べに、天皇は初めて藤原の宮に幸(いでま)しました。 皇后はそれを聞かれて、恨み申しあげました。 「私は初めに髪を結うなどして身なりを整えて後宮に侍り、それから既に多年を経ました。 あんまりではありませんか、天皇は。今私が出産して生死の境にいます。 なぜ今夕に限って、藤原に必ずいらっしゃりたいと思ったのですか。」と。
 そして自ら外に出て産殿(うぶどの)を焼いて死のうとなされました。
 天皇はそれを聞き大いに驚きなされて「私が間違っていた。」と仰りました。 こうして皇后の心を慰め諭されました。


まとめ
 県主の分布は畿内・伊勢・尾張・吉備・筑紫・肥国に多く、逆に東国ではほぼ皆無である。 逆に東国には国造が上総国に6氏、常陸国に7氏、陸奥国に10氏などと多く、畿内では各国1~2国造に過ぎない。 国造本紀には、後の時代の律令国も混ざっている。
 これらから考えて、各地方は大和政権下に入ると郡レベルの統治機構が整っていき、 そのトップは初期は県主だが、ある時期を境として「国造」が任命されるようになったと考えられる。 これは、大変興味深いことである(資料[26])。
 この流れで見れば、春日県にも郡レベルの広がりがあったのだろう。 その縮小を、和珥氏の衰退と結びつける論も見る(『角川日本地名大辞典』(旧地名編)など)。
 和珥氏は、崇神天皇段で朝廷と争って敗れ、子孫が全国に散って多くの氏族になったと見た (第114回【和邇氏後継諸氏の展開との相似】)。 この視点からも、春日県の歴史は重要である。


2018.01.04(thu) [13-04] 允恭天皇4 


10目次 【八年~十一年】
《于藤原密察衣通郎姫之消息》
八年春二月幸于藤原、密察衣通郎姬之消息。
是夕、衣通郎姬、戀天皇而獨居、
其不知天皇之臨而歌曰、
和餓勢故餓 勾倍枳豫臂奈利 佐瑳餓泥能
區茂能於虛奈比 虛豫比辭流辭毛
…(古訓) あきらむ。つはひらかに。みる。しる。
のぞむ…[他]マ四 うかがい見る。
せこ(兄子、背子)…[名] 女性が男性を親しんで呼ぶ。妻から夫がほとんど。
よひ…[名] 宵。
ささがね…[名] 笹。
しるし…[形]ク 明瞭である。
八年(やとせ)春二月(きさらぎ)[于]藤原に幸(いでま)して、密(ひそかに)衣通郎姫(そとほりのいらつめ)之(の)消息(ありさま)を察(み)たまふ。
是(この)夕(ゆうへ)、衣通郎姫、天皇(すめらみこと)を恋(こ)ひて[而]独(ひとり)居(を)りて、
其の天皇之(の)臨(のぞ)みたまひしことを不知(しらざ)りて[而]歌曰(うたよみまつらく)、
和餓勢故餓(わがせこが) 勾倍枳予臂奈利(くべきよひなり) 佐瑳餓泥能(ささがねの)
区茂能於虚奈比(くものおこなひ) 虚予比辞流辞毛(こよひしるしも)
天皇聆是歌、則有感情而歌之曰、
佐瑳羅餓多 邇之枳能臂毛弘 等枳舍氣帝
阿麻哆絆泥受邇 多儾比等用能未
…[動] 強く心にこたえる。(古訓) かなふ。いたむ。たのし。ほむ。
ささら…[形動] 細かく小さいようすを表す。
ささらがた…[名] 細かな文様。
さける…[他]ラ下二 放す。放つ。
天皇是の歌を聆(き)きたまひて、則(すなはち)情(こころ)に感(かなひて)有りて[而]歌之曰(みうたよみたまはく)、
佐瑳羅餓多(ささらがた) 迩之枳能臂毛弘(にしきのひもを) 等枳舍気帝(ときさけて)
阿麻哆絆泥受迩(あまたはねずに) 多儾比等用能未(ただひとよのみ)
明旦、天皇見井傍櫻華而歌之曰、
波那具波辭 佐區羅能梅涅 許等梅涅麼
波椰區波梅涅孺 和我梅豆留古羅
あくるあした…[名] 翌朝。
さくらばな(桜花)…[名] 桜の花。
…他と異なっているさま。
…[名] ①子。②人を親しんで呼ぶ。
めづ…[他]ダ下二 感心する。心ひかれる。
明旦(あくるあした)、天皇井(ゐ)の傍(ほとり)の桜華(さくらばな)を見(め)して[而]歌之曰(みうたよみたまはく)、
波那具波辞(はなくはし) 佐区羅能梅涅(さくらのめで) 許等梅涅麼(こめでば)
波椰区波梅涅孺(はやくはめでず) 和我梅豆留古羅(わがめづるこら)
皇后聞之、且大恨也。
於是、衣通郎姬奏言
「妾、常近王宮而晝夜相續、欲視陛下之威儀。
然、皇后則妾之姉也、
因妾以恆恨陛下、亦爲妾苦。
是以、冀離王居而欲遠居。
若皇后嫉意少息歟。」
天皇則更興造宮室於河內茅渟而衣通郎姬令居。
因此、以屢遊獵于日根野。
すこし…[副] ちょっと。
…(古訓) ととまる。やすむ。やむ。をふ。
くるしむ…[他]マ下二 苦しめる。
茅渟…神武天皇段に「地沼海」、神武天皇即位前紀に「茅淳山城水門」 (第96回)。
興作…宮殿などをはじめてつくること。〈汉典〉①興起実行。②創造、建立。
…(古訓) しはしは。
しばしば…[副]
皇后(おほきさき)之(こ)を聞きたまひて、且(また)大(おほ)きに恨(うら)みたまへり[也]。
是(ここに)、衣通郎姫(そとほりのいらつめ)奏(まをして)言(まをさく)
「妾(われ)、常に王宮(おほきみのみや)に近くをりて[而]昼夜(よるひる)相(あひ)続(つ)ぎて、陛下(おほきみ)之(の)威儀(みよそほひ)を欲視(みまくほり)まつる。
然(しかれども)、皇后則(すなはち)妾之(わが)姉(あね)にして[也]、
妾(われ)に因(よ)りて、以ちて恒(つね)に陛下(おほきみ)を恨みたまひて、亦(また)妾(わ)が為(ため)に苦しみたまふ。
是(こ)を以ちて、冀(こひねがはくは)王(おほきみ)の居(ましますところ)を離(さ)けて[而]遠(とほ)くに居(すむこと)を欲(ねが)ひまつる。
若(もしや)皇后の嫉(ねた)む意(こころ)少(すこし)息(やすま)るかも[歟]。」とまをしき。
天皇則(すなはち)更に宮室(みやむろ)を[於]河内(かふち)の茅渟(ちぬ)に興造(おこしつく)りて[而]、衣通郎姫をして居(すま)は令(し)めませり。
此(こ)に因(よ)りて、以ちて屢(しばしば)[于]日根野(ひねの)に猟(か)り遊ばす。
《皇后…因妾以恒恨陛下亦為妾苦》
 「」を使ってAがBの原因であることを表す語順は、「A、よって」(接続詞)、「によってAB」(前置詞)の二通りがある。 この文が前者だとするれば、「困って妾(われ)以って恒(つね)に陛下を恨む」となり、 皇后は悪者となり、「妾」を主語とするきわめて自己中心的な文になる。
 まともに考えれば、この文は妹が姉を慮(おもんばか)っているから、「恨」「苦」の主語は皇后である。 そして「」「」は対となり、それぞれに「皇后は、私が原因で~」と述べるのである。
九年春二月幸茅渟宮。
秋八月幸茅渟。
冬十月幸茅渟。
九年(ここのとし)春二月(きさらぎ)茅渟宮(ちぬのみや)に幸(いでま)す。
秋八月(はつき)茅渟に幸す。
冬十月(かむなづき)茅渟に幸す。
十年春正月幸茅渟。
於是皇后奏言
「妾、如毫毛、非嫉弟姬。
然、恐陛下屢幸於茅渟、是百姓之苦歟。
仰願宜除車駕之數也。」
是後、希有之幸焉。
…(古訓) ことし。はかり。
毫毛(ごうもう)…〈汉典〉「①人類或鳥獣身上所生的細毛。②比-喻極小或很少的部分〔很:甚。非常。〕」 伝統訓は「けのすゑ(毛の末)」。
おそらくは…後世の「推定」ではなく「畏れ多くも」。
まれ…[形動] 稀であること。
十年(とをとせ)春正月(むつき)茅渟に幸す。
於是(ここに)皇后(おほきさき)奏(まをし)て言(まをしたまひしく)
「妾(われ)、如毫毛(かつて、けのすゑばかりも)、弟姫(おとひめ)を嫉(ねたむこと)非(あら)ず。
然(しかれども)、恐(おそらくは)陛下屢(しばしば)[於]茅渟に幸(いでま)して、是(これ)百姓(おほみたから)之(の)苦しみなり[歟]。
仰(あふぎ)願(ねがはくは)宜(よろしく)車駕(いでまし)之(の)数(しば)なることを除(そ)きたまへ[也]。」とまをしたまひき。
是の後(のち)、希(まれ)に之(こ)の幸(いでまし)有(なれ)り[焉]。
十一年春三月癸卯朔丙午、幸於茅渟宮、
衣通郎姬歌之曰、
等虛辭陪邇 枳彌母阿閉椰毛 異舍儺等利
宇彌能波摩毛能 余留等枳等枳弘
とこしへに…[副] いつも。
いさな…[名] 鯨。
いさなとり…[枕] 「鯨取り」から、海に関する語にかかる。
あへやも…「や」が反語を表す場合は、已然形や終止形につく。〈時代別上代〉「~ヤモの形をとることも多い。
十一年(ととせあまりひととせ)春三月(やよひ)癸卯(みづのとう)を朔(つきたち)として丙午(ひのえうま)〔四日〕、[於]茅渟の宮に幸(いでま)して、
衣通郎姫歌之曰(みうたよみまつらく)、
等虚辞陪邇(とこしへに) 枳弥母阿閉椰毛(きみもあへやも) 異舍儺等利(いさなとり)
宇弥能波摩毛能(うみのはまもの) 余留等枳等枳弘(よるときときを)
時天皇謂衣通郎姬曰
「是歌不可聆他人、皇后聞必大恨。」
故時人、號濱藻謂奈能利曾毛也。
なのりそも…[名] ホンダワラ。 褐藻類ホンダワラ科ホンダワラ属。 流れ藻の大部分を占める。 古くから食用、飾り物に用いる。
時に天皇、衣通郎姫に謂(のたま)ひて曰(のたまひしく) 「是の歌他(ほか)の人に聆(き)こゆる不可(べくもあらず)、皇后聞きたまはば必ずや大(おほ)きに恨みたまはむ。」とのたまひき 故(かれ)、時の人、浜の藻(も)を号(なづ)けて奈能利曽毛(なのりそも)と謂(い)ふ[也]。
先是、衣通郎姬居于藤原宮、
時天皇詔大伴室屋連曰
「朕頃得美麗孃子、是皇后母弟也、
朕心異愛之。冀其名欲傳于後葉、奈何。」
室屋連、依勅而奏可、則科諸國造等、
爲衣通郎姬定藤原部。
…(古訓) しかるを。よし。きく。
先是(このさき)、衣通郎姫[于]藤原の宮に居(ゐ)て、
時に天皇(すめらみこと)大伴室屋連(おほとものむろやのむらじ)に詔(のたまひしく)[曰]
「朕(われ)頃(このころ)美麗(くはし)孃子(をとめ)を得(う)、是(これ)皇后(おほきさき)の母弟(いろど)にて[也]、
朕(わ)が心異(こと)にして之(こ)を愛(め)でたまふ。
冀(こひねがはくは)其の名を[于]後葉(のちのよ)に伝へむと欲(ねが)ひたまふは、奈何(いかに)。」とのたまひき。
室屋連、勅(おほせごと)に依(よ)りて[而]可(き)きまつると奏(まを)して、則(すなは)ち諸(もろもろ)の国造(くにのみやつこ)等(たち)に科(おほ)して、
衣通郎姫の為(ため)に藤原部(ふぢはらべ)を定む。
《なのりそも》
 「な-告(の)りそ-藻」。副詞「な」は下に動詞の連用形、そして多くは「そ」を伴い禁止の意を表す。
《藤原部》
 〈続紀〉天平宝字元年〔757〕三月己酉朔乙亥〔二十七日〕勅。自今以後。改藤原部姓。為久須波良部〔葛原部〕。君子部為吉美侯部
 〈姓氏家系大辞典〉和泉の葛原部:衣通郎姫は当国茅渟宮に住居せられしなれば、当国には多かりしならん。〔衣通郎姫は当国茅渟宮に居住したから、当国には多かったであろう〕
《大意》
 八年二月、藤原においでになり、密かに衣通郎姫(そとおりのいらつめ)の様子を覗き見られました。 この夕(ゆうべ)、衣通郎姫は、天皇(すめらみこと)を恋しく思いながら独りでいて、 天皇が臨まれていることを知らず、歌を詠みました。
――吾が兄子(せこ)が 来べき宵なり 笹が根の 蜘蛛の行ひ 今宵徴(しるし)も
 天皇はこの歌をお聞きになり、心に感ずるものがあり、御歌を詠まれました。
――細(ささ)ら形(がた) 錦の紐を 解き離(さ)けて 数多(あまた)は寝ずに 唯一夜のみ
 翌朝、天皇は井のほとりの桜花を御覧になり、御歌を詠まれました。
――花妙(くは)し 桜の愛(め)で 殊(こと)愛でば 早くは愛でず 朕(わ)が愛づる子ら
 皇后(おおきさき)はこれを聞かれて、再び大恨みされました。 そこで、衣通郎姫(そとおりのいらつめ)は申し上げました。
 「私は、常に王宮の近くに居て、昼も夜も続けて、陛下のおみ姿を拝見したいと思います。 けれども、皇后は私の姉です。 私がいることによって、いつも陛下を恨まれ、また私がいるために苦しまれます。 よって、乞い願わくば大君のいらっしゃる所を避けて、遠くに住みたいとを望みます。 もしかしたら、皇后の嫉む心は少しは安まるかもしれません。」と。
 天皇はそこで、更に宮室を河内の茅渟(ちぬ)に興造され、衣通郎姫を住まわせられました。 このことにより、しばしば日根野に遊猟されました。
 九年二月、茅渟宮にお出かけになりました。
 八月、茅渟にお出かけになりました。
 十月、茅渟にお出かけになりました。
 十年正月、茅渟にお出かけになりました。 ここに至り、皇后は奏上されました。
 「私は、毫毛(ごうもう)の如くも〔ほんの少しも〕、弟姫を嫉んではおりません。 けれども、恐れながら陛下はしばしば茅渟にお出かけになり、これは人民の苦しみとなっております。 願わくば、出でましが頻繁になることだけはお避けくださいませ。」と。
 この後、お出かけは希になりました。
 十一年三月四日、茅渟の宮にお出かけになり、衣通郎姫は歌をお詠みしました。
――永久(とこしへ)に 大君(きみ)も会へやも 鯨(いさな)取り 海の浜藻の 寄る時々を
 その時天皇は、衣通郎姫に仰りました。
 「この歌が他の人に聞こえてはならない。皇后が聞けば必ずや大恨みされよう。」と。 このことにより、時の人は、浜の藻を「なのりそ〔「言ってはならぬ」意〕藻」と名付けました。
 以前、衣通郎姫が藤原の宮に住んでいたころ、 天皇は大伴室屋連(おおとものむろやのむらじ)に仰りました。
 「朕は最近、美麗な乙女を得た。この姫は皇后の同母の妹で、朕は特別な心で愛でている。 お願いだから、その名を後世に伝えてほしいと思う。どうであろうか。」と。 室屋連は勅に従って、「承りました」と申しあげ、諸国の国造(くにのみやつこ)等に科して、 衣通郎姫のために藤原部(ふじわらべ)を定めました。


【歌意】
 第一歌の「しるし」は、「著し」(今宵は特に蜘蛛が一生懸命巣を作る)より、兄子の到来を予言する「兆」の方が意味がはっきりする。
 第二歌の意味は、極めて明瞭である。
 第三歌は、確定条件「めでば」の逆接的な性格を重んじ、「子ら」の「ら」を複数または突き放すニュアンスで受け止めた。
 第四歌は、「会へやも」の反語表現を厳格に受け止めた。
 第二歌以外は他の解釈も考え得るが、基本的に物語の筋に沿った解釈に努めた。
吾が兄子せこが 来べき宵なり 笹が根の 蜘蛛の行ひ 今宵しるし
 蜘蛛が笹にせっせと巣を張っている。愛しい人が今宵来る兆候か。
ささがた 錦の紐を 解きけて 数多あまたは寝ずに 唯一夜のみ
 細かい文様の錦の紐を解き放ってやる。数多くは寝ず、ただ一夜だけ。
くはし 桜のこと愛でば 早くは愛でず が愛づる子ら
 妙なる花。桜も愛らしく、特別に愛らしいから、わが子を先に可愛がることはしない。 ――衣通姫のあまりの美しさに、思わず皇后が生んだ子を可愛がる前に可愛がってやろうという本音を漏らしてしまう。 当然、皇后はこの歌を聞いて大いに怒った。
永久とこしへに 君も会へやも いさな取り 海の浜藻の 寄る時々を
 貴方に会えるかしら、いや永遠に会えないかも。でも浜に寄せる藻のように時々は来ていただければ。 ――この歌を詠んだことが知られたら、また皇后を怒らせるから絶対に他人に知られないように天皇は固く口止めした。

【河内茅渟】
 茅渟宮跡として地域の人に大切に守られている場所は、和泉国にある(現大阪府泉佐野市上之郷)。 ところが、書紀には和泉ではなく「河内茅渟」と書かれている。ということは、
茅渟宮は日根野とは離れた、河内国内にあった。
茅渟宮は日根野にあり、書紀が書かれた頃の河内国はこの地域を含んでいた。 の、どちらかということになる。文献よにれば、結論はである。
 まず、欽明天皇紀十四年条に、
――河内国言「泉郡茅渟海中有梵音、震響若雷声、光彩晃曜如日色。」
 とある。河内国の人が事件を報告したのであるから、泉郡は河内国に属していたことになる。
 〈大日本地名辞書〉は、これと允恭天皇紀の「河内茅渟」は、国郡制置〔律令国制定〕の時点では茅渟県は河内国に属していて、 書紀はそれを「追書した〔允恭朝・欽明朝に遡らせて書いた〕ものだと述べる。 曰く。
 「和泉は古へ〔いにしへ〕茅渟チヌと称せる地なり、 茅渟県也、国郡制置の際之〔これ〕を河内国に隷す〔れいす=属す〕。 日本紀允恭巻に河内茅渟カフチノチヌとあるは追書〔時代を遡らせて書くこと〕なり。 霊亀二年〔716〕珍努宮チヌノミヤの営造ありければ和泉日根を以て和泉ゲンを置く。 天平十二年〔740〕和泉監廃し、之を河内に併せしが、天平宝字元年〔757〕和泉国を復し、三郡を管す。 天長二年〔825〕摂津国江南四郡(東生・西成・百済・住吉)を割き隷せしむ、 而〔しかう〕して民情復せず、幾〔いくば〕くもなく之を止む、事績日本紀、国造本紀、続日本後記等に詳〔つまびらか〕なり。
 どのように「詳らか」なのか、所引の資料を見る。 〈国造本紀〉
和泉国造。元河内国。霊亀元年割-置茅野監。則改為国。元珍努官官、或本作〔元々河内国に属したが、霊亀元年〔715〕分割して茅野〔=茅渟〕監を置いた。そして国に改め和泉国となった。〕
〈続紀〉
・霊亀二年〔716〕三月丁丑朔癸卯〔二十七日〕。割河内国和泉・日根両郡。令珍努宮
・霊亀二年〔716〕四月丙午朔甲子〔十九日〕。割大鳥・和泉・日根三郡。始置和泉監焉。
・天平五年〔733〕閏三月戊辰朔己巳〔二日〕。勅。和泉監。紀伊。淡路。阿波等国。遭旱殊甚。五穀不登。宜今年之間、借貸大税。令続百姓産業。〔不作により税を免除〕
・天平十二年〔740〕八月乙卯朔甲戌〔二十日〕。和泉監并河内国焉。
 以上から、書紀〔720〕の「河内国茅渟」は、霊亀二年〔716〕直前の現実に基づいて書かれていることが分かる。 当時は、和泉国全域が河内国に含まれていた。。
 『世界大百科事典』によると、珍努宮の位置は「和泉監衙(現,大阪府和泉市府中町御館森(みたちもり)付近と推定される」という。
 同じ年に定められた和泉監は国に類するものであったことが、〈続紀〉天平五年から分かる。 「」はほかに芳野監〔大和国吉野郡を分立、和泉監と同時期か〕があり、離宮である珍努宮・吉野宮の運営機能を兼ねた特別の国を意味すると考えられている。 また、〈国造本紀〉では「茅野監」と書かれ、〈続紀〉では「和泉監」と書かれるので、「茅渟監」は和泉国と同一地域であったと思われる。
 さて、律令国は、大化元年〔645〕に始まり、大宝元年〔701〕に確定したとされる。 それ以前は、「茅渟縣」が崇神天皇紀・雄略天皇紀・崇峻天皇即位前期に出てくるのを見ると、 茅渟県は自立的な存在であったように読み取れる。
 これらのことから見て、茅渟宮が律令和泉国の領内とすることを躊躇する必要は全くない。

【茅渟宮跡】
《和泉名所図会》
『和泉名所図会』―衣通姫旧蹟
 『和泉名所図会』(いづみめいしよづゑ/いずみめいしょずえ)は、寛政八年〔1796〕刊。 その第四巻に「衣通姫旧蹟」が載る。その説明に、
 上ノ郷中村にあり 土人衣通姫の手習所といふ 五十年前小社あり 社の後に池あり 封境はてへ一町はかり 毎年正月七月とうみやうかゝ近来こんらいこぼつ糞田ふんでんとし小社も亦 みん滅して所のそうとす歎息たんそくするにたへたり 今わつかに小池をのこす池のかたはらかきちううへたり
とある。「手習所」という読み取りは〈大日本地名辞書〉によるもので、原文はかなり不明瞭である(右図)。 この「手」は変体仮名の「て」「ね」の形にも一致する。 「習」は、該当する変体仮名はないので「習」であろうが、崩しが激しい。 確かに「手習」以外の読み方を求めるのは困難であるが、 なぜ「手習所」と言い伝えられたかは不明である。また「墓」の振り仮名「ろ」は、 おそらく「ぼ」の間違いであろう。「惣墓」(そうはか)とは、合葬墓のことである。
 この項に添えられた允恭天皇の行幸の想像図には、壮大な行列が描かれている。 これは「仰願宜除車駕之数」を念頭に置いたものと見られる。 「百姓之苦」を、一回の行幸ごとに強いられる人民の負担と読んだのであろう。
《五畿内志》
 『五畿内志』下巻には、
茅渟宮:在上郷中村 允恭天皇紀八年二月更興-造宮室河内茅渟 〔中略〕天平十六年 帝幸珍努離宮 大鳥和泉日根三郡百姓八十以上賜穀有差即此。
 とあり、珍努宮もこの場所であったとする。
《茅渟宮跡》
 『泉州志〔1700〕に、『和泉名所図会』の説明の元になったと思われる記述がある。
茅渟宮跡所在地 (泉佐野市上之郷)
『泉州志』〔石橋直之著、1700〕六巻
俗為ルハ衣通姫出-生非也 村-老云五十年前有小社傍有池 境-内方一町ハカリ毎-歳正月七月挑燈明 近-来壊糞-田 小社亦泯矣暴-汚之所為堪タリ歎-息スルニ也 今纔小-池柿木カキノキ一株
〔俗に衣通姫の出生の地とするは非ず。 村老の云ふ。五十年前小社有り社の傍に池有り。 境内方一町〔108m〕ばかり。 毎年正月七月燈明を挑(かか)ぐ。 近来壊(こぼ)ちて糞田となす。 小社また泯(ほろぼ)す。 暴汚のなす所歎息するに堪(たへ)たり。 今わづかに小池を余す。池の傍らに柿の木一株を栽(う)ゆ〔う?〕。〕
 「歎息するに堪へたり」とは、嘆かわしいことであるが何とか自分の心を抑えたということか。 「出生の地に非ず」というのは書紀を読めば当然であるが、生誕の地であるという伝説が自然発生することもあるだろう。 『和泉名所図会』で「手習所」と伝えるのも同じことか。
茅渟宮跡・歌碑
 この歌碑の所在地については、泉佐野市公式ページの「広報いずみさの」平成25年〔2013〕7月号の13ページによれば、 「上之郷中村にある石碑は、裏に刻まれた文章から江戸時代に岸和田藩士の宮内清定によって建てられとことがわかり」、 「どうやら古老からの聞き取りによって伝承されていた 『茅渟宮跡』の具体的な場所が特定できたようで、 おそらく現在も上之郷中村にある『茅渟宮跡』がこの場所にあたると考えられます」という。
 歌碑は、衣通郎姫が詠んだ「等虛辭陪邇 枳彌母阿閉椰毛…」を刻んだもので、 児童公園の一部として整備され、花を絶やさず、隣に「衣通姫会館」(大阪府泉佐野市上之郷2750)がある。 観光地紹介サイトによると、現在も有志による保存会が結成され、管理にあたっているという。

【「ため」試論】
 上述「為妾苦」の「」を「ため」と訓む際に問題になるのは、 「ため」が原因を表す語になり得るかどうかということである。
 〈時代別上代〉は、タメとユヱを対比して、「AゆえにB」=「Aが原因となってBが起る」、 「AのためにBする」=「BすることによってAが恩恵を得る(あるいはAという目的を果たす)」という使い分けは上代において厳格で、 「理由を表すタメの用い方は上代にみられない」と言い切っている。 さらに「受身に用いられるタメ〔英語では"by"にあたる語〕を生み出すのは、…漢籍における「為」の字の用い方による」と駄目を押す。
 しかし、「」は明らかに理由・原因を意味し、しかも「ために」としか訓みようがないものである。 〈学研新漢和〉所引の『類聚名義抄』によれば、「為」の古訓は「ために」「たすく」だけで、 「ゆゑに」「より」はない。1100年頃の書とは言え、上代に「ゆゑに」などの訓みがあれば必ず残っていたのではないだろうか。 ※…"do"の意味のものは除外し、"for"に限定する。
 だから倭語の範囲内でも、「ため」は本来「理由・動機・原因」を意味する語であったのだろう。 それが専ら「あなたの利益・幸せのため」「~という結果を得るため」の省略形として使われたから、 「目的・便益などを表す形式名詞」(〈時代別上代〉)として解釈されてしまったのである。
 漢文訓読体における、受身形の行為者の前置詞「為」を「ために」と訓むことは、 「ため」の本来の意味が当時の人の意識に残っていたからこそ抵抗なく受け入れられたのであろう。
 何よりも、事実として「為妾」が「因妾」と同じ意味で使われ、「為」の古訓にタメはあるがユヱやヨリがない事実が、 ここの「タメ」を「理由・原因」として訓むべきことを決定的にしている。

まとめ
 衣通姫伝説が現代まで残っているのは、記紀が存在したからこそであろう。 特に書紀では、歌謡を交えた美しい話になっている。
 しかし、記と書紀とで全く違う話になっているのは、記紀以前から「衣通郎女」 の伝説がこの地に存在し、それぞれ異なる形で記紀に取り入れられたからであろう。
 「肌の美しさが衣を突き抜けて光を放つ美女」という表現が強い印象を与えていたことは、 記紀が両方とも名前の由来を載せていることからも分かる。 その「衣通姫」のインパクトは現代でも変わらず、だから地元で花を絶やさずに大切に守られ続けているのである。
 記紀以前の古い時代、茅渟県に絶世の美女、 あるいは地方権力を握る強力な女王が実在したかも知れず、 それが伝説化して現代まで脈々と続いていると考えるとき、云い知れぬ感慨を覚える。



2018.01.09(tue) [13-05] 允恭天皇5 


11目次 【十四年】
《天皇猟于淡路嶋》
十四年秋九月癸丑朔甲子、天皇獵于淡路嶋。
時、麋鹿、猨、猪、莫々紛々盈于山谷、
焱起蠅散、然終日以不獲一獸。
於是、獵止以更卜矣、嶋神祟之曰
「不得獸者、是我之心也。
赤石海底有眞珠、其珠祠於我則悉當得獸。」
莫々…こんもり茂っておおいかくすさま。
紛々…①乱れ散るさま。②わずらわしいさま(古訓) とおほうす。
莫々紛々…〈仮名日本紀〉ありのまかひ。〈時代別上代〉〔莫々紛々の〕アリノマガヒはチリノマガヒの誤写か。」 ○『漢書』-揚雄伝:「莫莫紛紛、山谷為之風猋、林叢為之生塵。〔莫莫紛紛、山谷このために風猋(つむじ風)となり、林叢(森林)このために塵を生ずる〕
まがふ…[自]ハ四 入り乱れる。
ちりのまがひ…[名] 散り乱れること。(万)3700 毛美知葉能 知里能麻河比波 もみちばの ちりのまがひは
…[名] (古訓) ほのほ。とふひ。[動] (古訓) もゆ。〈仮名日本紀〉ほのほのことに。 伝統訓は比喩と解釈している。
ひねもす(終日)…[名] 終日。「ひめもす」とも。〈時代別上代〉通常ニを伴って用いられる。
うらふ…[他]ハ下ニ うらなう。
またま(真玉、真珠)…[名] 玉をほめていう。(万)1341 真珠付 越能菅原 またまつく をちのすがはら
しらたま(白玉、真珠)… (万)1203 為汝等 吾潜来之 奥津白玉 ながためと わがかづきこし おきつしらたま。 (万)4169 奈呉乃海部之 潜取云 真珠乃 なごのあまの かづきとるとふ しらたまの
明石…〈倭名類聚抄〉{播磨国・明石郡・明石郷}。
…[動] まつる。願をかけて神をまつる。
十四年(とをとせあまりよとせ)秋九月(ながつき)癸丑(みづのとうし)を朔(つきたちとして)甲子(きのえね)〔十二日〕、天皇(すめらみこと)[于]淡路嶋(あはぢのしま)に猟(か)りあそばす。
時に、麋鹿(おほじか)、猿(さる)、猪(ゐ)、莫々紛々(ちりのまがひ)[于]山谷に盈(み)ちて、
焱(ほのほ)起(た)ち蝿(はへ)散(ち)るごとくして、然(しかるに)終日(ひねもす)に以ちて一(ひとつの)獣(けだもの)を不獲(えず)。
於是(ここに)、猟(かり)止(や)めて以ちて更に卜(うら)へて[矣]、嶋神(しまのかみ)之(こ)に祟(たた)りて曰(のたまひしく)
「獣(けだもの)を不得(えぬこと)者(は)、是(これ)我之(わが)心(みこころ)なり[也]。
赤石の海底(わたのそこ)に真珠(しらたま)有りて、其の珠(たま)[於]我に祠(まつ)らば、則(すなはち)悉(ことごとく)獣を得(う)当(べ)し。」とのたまひき。
爰更集處々之白水郎以令探赤石海底、
海深不能至底、
唯有一海人曰男狹磯、
是阿波國長邑之海人也、勝於諸白水郎也、
是腰繋繩入海底、差須臾之出曰
「於海底有大蝮、其處光也。」
白水郎…〈甲本〉白_水_郎アマ
長邑…〈国造本紀〉長国造。(国史大系〔経済雑誌社〕版、頭注)「和名抄云、阿波国那賀郡、允恭紀云、阿波国長邑」。 那珂郡は、平安時代中期までは海部郡域を含む。〈倭名類聚抄〉{阿波国・那珂郡・海部【加伊布】郷} (履中天皇六年【脚咋別】)。
男狭磯…〈甲本〉男狭磯ヲサシ
…(古訓) かつ。かなふ。すくる。まさる。
さす…[他]サ四 突き刺す。竿さす。網・わなをかける。標をさす(占有する)。 火を灯す。注ぐ。縫う。さし遣わす。めざす。指さす。 ここでは、真珠のあるところを「目指す」か。
須臾(しゅゆ)…①仏教用語。きわめて短時間。〈古訓〉しはらく。
須臾之…「之」は形式目的語としてとして「須臾(短時間)」の動詞化〔=須臾を経(ふ)〕か。
…(古訓) のつち。はみ。たつ。〈甲本〉アハヒ。〈仮名日本紀〉「あはび」。「鰒」に通用か。
…〈倭名類聚抄〉鰒一名鮑【和名阿波比】
爰(ここに)更に処々(ところどころ)之(の)白水郎(あま)を集めて、以ちて赤石の海底(わたのそこ)を探(さぐ)ら令(し)むれど、
海(うみ)深くて底に至ること不能(あたはざ)りて、
唯(ただ)一(ひとりの)海人(あま)有りて、男狭磯(をさし)と曰ひて、
是(これ)阿波国(あはのくに)の長邑(ながむら)之(の)海人(あま)也(なり)て、[於]諸(もろもろの)白水郎(あま)に勝(まさ)りて[也]、
是(これ)腰に縄(なは)を繋(つ)けて海底に入りて、差(さ)して[之]須臾(しまらく)へて出(いで)て曰(まをししく)
「[於]海底に大(おほ)蝮(あはび)有りて、其処(そこ)光(ひか)れり[也]。」とまをしき。
諸人皆曰
「嶋神所請之珠、殆有是蝮腹乎。」
亦入而探之。
爰男狹磯、抱大蝮而泛出之、
乃息絶、以死浪上。
ひろ(尋)…[助数詞] 両手を広げて、左右の指先の間の長さ。
…(古訓) ちかし。ほとほと。やくやく。
ほとほと…[副] ①すんでのところで。②おそらく。 ②は、現代語の「ほとんど」とは異なり、十分確信がもてない意で用いる。
諸(もろもろの)人皆曰(まをしく)
「嶋の神に所請之(こひまさえし)珠(たま)、殆(ほとほと)に是(この)蝮の腹に有りや[乎]。」とまをし、
亦入りて[而]之(こ)を探りき。
爰(ここに)男狭磯、大(おほ)蝮を抱(むだ)きて[而][之]泛出(うきいで)て、
乃(すなはち)息絶えて、以ちて浪(なみ)の上(うへ)に死にせり。
既而、下繩測海深、六十尋。
則割蝮、實眞珠有腹中、其大如桃子。
乃祠嶋神而獵之、多獲獸也。
唯、悲男狹磯入海死之、
則作墓厚葬。其墓猶今存之。
…〈時代別上代〉は「ふかさ」を見出していないが、「ながさ」は名詞として確認されている。
…(古訓) まこと。まさ。
桃子…桃の果実。
…(古訓) み。
真珠有腹中…「有」の構文誤り。正しくは「有真珠于腹中」「腹中有真珠」「真珠在于腹中」など。
はらぬち…「はらのうち」の母音融合。
既にして[而]、縄を下(お)ろして海の深さを測(はか)れるは、六十尋(むそひろ)。
則(すはなち)割蝮、実(まさに)真珠(しらたま)腹中(はらぬち)に在(あ)り、其の大(おほきなること)桃子(もものみ)の如し。
乃(すなはち)嶋の神に祠(まつ)りて[而][之]猟(かり)すれば、多(さはに)獣(けだもの)を獲(え)てあり[也]。
唯(ただし)、男狭磯の海に入りて[之]死(しに)ししことを悲しびて、
則(すなはち)墓(はか)を作りて厚く葬(はぶ)りき。其の墓猶(なほ)今之(これ)に存(あ)り。
《長国造》
 〈国造本紀〉に「長国造。志賀高穴穂朝〔成務天皇〕御世。観松彦色止命九世孫。韓背足尼〔からせのすくね〕。定-賜国造
 〈姓氏家系大辞典〉は、「長国とは後の阿波国那珂郡付近の地を云ふ」とし、 「同書、息岐〔隠岐〕国造条に観松彦色止命と載せ、 神名式〔延喜式神名帳〕に「〔阿波国〕名方郡御間都比古神社」とある外・物に見えず。 よりて其の出自は容易に窺ひ難し〔国造本紀・神名帳に「観松彦」が計3か所あるが、それ以外の文献に見いだせないので、 その出自は容易には分からない〕 と述べる。その上で、長国造の氏族名は「長我孫(ながのあびこ、後に長直、長公)」であるので、土佐国「長阿比古(ながのあびこ)」と同族で三島溝抗命の子孫であり、 南海道(四国)に展開したと推定する。三島溝抗は、大国主命と密接な関連がある (第100回《三嶋湟咋》)。
《長邑》
 長邑は海人男狭磯の出身地であるから、那珂郡の海岸の村であろうとは想像されるが、 今のところその位置を特定する資料が見つからない。
明石海峡で水深が深い箇所
《六十尋》
 明治五年〔1872〕の太政官布告では、1尋=6尺(≒1.818m)。
 漢代には、1尋=8尺とされた。 『釈名』〔後漢、190~210〕-「釈兵」に、「八尺曰尋。倍尋曰常。」 漢代の一尺は23~24cm程度とされるので、1尋=188cm前後。
 仮に1尋=1.8mとすれば、六十尋は108mとなる。 因みに、素潜りの世界記録は、<wikipedia>によれば「2007年6月現在…-214m」。 明石海峡付近の海底地形を調べたいくつかの測定図を見ると、最深部は約140mである。 よって水深108mほどの個所が実際に存在するわけだから、書紀が書かれた頃に、既にこの程度の国土調査は実施されていたのかも知れない。
《大意》
 十四年九月、十二日、天皇(すめらみこと)は淡路島で狩をされました。
 その時、麋鹿(おおじか)、猿、猪が、砂ぼこりを上げて山谷に満ち溢れ、 炎立ち蝿が散るようにして駆け巡りましたが、終日一匹の獣も獲ることができません。
 そこで、狩を止めて占いしたところ、島の神が祟り、そのお告げはこうでした。 「獣を得られぬのは、我が御心である。 赤石の海底に真珠が有り、その珠を我に祠れば、ことごとく獣を得るであろう。」
 そこで、あちこちから白水郎(あま)を集め、赤石の海底を探らせましたが、 海が深く海底に達することができませんでした。 ただ一人の海人がいて、男狭磯(おさし)といい、 阿波国の長邑(ながむら)の海人ですが、もろもろの白水郎よりも優れ、 この者は腰に縄を繋いで海底に入り、目指して間もなく出てきて申しました。 「海底に大鰒(あわび)が有り、その一帯が光っておりました。」と。 諸人は皆、 「島の神に請われた珠は、恐らくはこの鰒の腹に有るのだろう。」と申し、 再び入ってこれを探りました。
 そして男狭磯は、大蝮を抱いて浮かび上がり、 間もなく息絶え、波の上で死にました。
 既に調べたところでは、縄を降ろして海深を測ると、六十尋(ひろ)ありました。 すぐに鰒を割くと、まさに真珠が腹の中にあり、その大きさは桃の実ぐらいでした。
 そして、島の神にこれを祠って狩をしたところ、大量に獣を獲ることができました。 ただ、男狭磯が海に入って死んだことを悲しみ、 墓を作って厚く葬りました。その墓は、今もなお存在します。


『阿波の民話 第7集』
(徳島新聞社)-抜粋
【男狭磯の墓伝説】
 『阿波の民話 第7集 子どもから大人まで 音読シリーズ』(湯浅良幸編、徳島新聞社、2011年) に、男狭磯伝説が収められているが、ストーリーはほぼ書紀に沿っている。
鳴門市商工観光課による立て看板
 「あま塚」には、いろいろな説がある。
 「日本書紀」に出てくる海人の男狭磯をまつった「海人塚」説、 承久の変で土佐に流された後、阿波で崩御された土御門上皇の火葬塚すなわち「天塚」であるという説もある。
 しかし、世俗では平安時代の女流作家 清少納言の供養塚としての「あま塚」説が有名である。 伝説によれば都落ちした清少納言は地元の漁師にはずかしめを受け、それを苦にして、海へ身を投じたといわれている。 〔以下略〕
 ただ、男狭磯の墓の所在地が付け加えられ、 「天皇は早速家来に命じて墓を造らせた。ほれ〔「それ」の訛り〕が里浦にあるアマヅカじゃ。」 と書かれている。
《あま塚》
 この「里浦にあるアマヅカ」を調べると、観音寺天塚堂の「あま塚」がそれであった。
 観音寺(徳島県鳴門市里浦町里浦字坂田127)は、一般には清少納言の祈願寺として知られている。 天塚堂は、観音寺の北東500mにある(徳島県鳴門市里浦町里浦坂田(字)479)。 その前に、花が上向きに咲く「のぼり藤」の藤棚がある。 同所の掲示板に、のような説明が書かれている。
 「あま塚」の位置は男狭磯の出身地の那珂郡・海部郡からはかなり遠く、 明石からも離れているので、男狭磯の墓とするには無理があるように思われる。 ただ、「あま塚」の名の由来が、海で命を落とした海人(海女)たちを葬る「塚」だったとすれば、 いつしかここに男狭磯が葬られたと言われるようになった可能性はある。

【那珂郡の潜女】
細螺(しただみ)…小型の巻貝の総称か。
棘甲蠃…恐らくウニ。〈倭名類聚抄〉芒角:本草云霊蠃子。其甲紫色。芒角【和名宇仁乃介〔うにのけ〕
石花()…カメノテの類をさすと言われる。食用とする。
すし…魚介類に塩を加えて漬け込み、日を置いて酸味の生じたもの。〈倭名類聚抄〉鮨【和名須之】
 延喜式に、那珂郡の潜女〔かづきめ、=海女〕のことが書かれている。
 『延喜式』-神祇七、「践祚大嘗祭」の項に、 〔天皇が即位して最初の新嘗祭は盛大に行い、「践祚大嘗祭」という。 そのために必要な物品や特産物を、畿内周辺の国(河内・和泉・尾張・参河・備前・紀伊・淡路・阿波)が献上するとある。そのうち阿波国の分担を述べた部分。〕阿波国所献麁布一端。木綿六斤。〔中略〕【已上〔=以上〕忌部所作。】 鰒四十五編。鰒鮨十五坩〔つぼ〕。細螺。棘甲蠃。石花等并二十坩。【已上那賀潜女十人所作。】〔以下略〕。」とある。
 すなわち、阿波国の那珂郡の潜女十人が獲った魚介類を、大嘗祭のために献上する。 「鮨」は興味深い。「編」とは、藁を編んで作った紐で繋いだ状態のものを数える助数詞〔あみ?〕か。干物かも知れない。 は最初に挙げられているので、那珂郡の名物として珍重されていたのであろう。

まとめ
 男狭磯の話自体は伝説であるが、 そこには、鰒は阿波国那珂郡の特産物として有名であった。 那珂郡には潜水能力に優れた海人がいた。 鰒は時に美しい真珠を内包していた。 明石海峡は水深が大変に深い。 優秀な海人が葬られたと伝えられる墓が現存した。 淡路島には、しばしば天皇が行幸して猟を楽しんだ。 という事実が反映したと見られ、興味深い。
 さて、この伝説を允恭朝に置く必然性は特にない。 これまで淡路島を舞台とした伝説は、さまざまな天皇に割り振られた。 例えば、応神天皇の「日向諸県君牛」、履中天皇の「飼部之黥」、 反正天皇の「多遅花有于井中」などが見られる。 允恭天皇紀にもそれらと並べてひとつの話を置いた印象を受ける。 ただ、淡路島はそれだけ伝説の宝庫といえるわけである。



2018.01.29(mon) [13-06] 允恭天皇6 


12目次 【二十三年】
廿三年春三月甲午朔庚子、立木梨輕皇子爲太子。……〔続き〕


13目次 【二十四年】
廿四年夏六月、御膳羹汁、凝以作氷。……〔続き〕


14目次 【四十二年】
卌二年春正月乙亥朔戊子、天皇崩。時年若干。……〔続き〕


まとめ
 木梨軽太子が同腹の妹と通じた不道徳な行為は、書紀では允恭天皇の生前に繰り上げられている。
 ただし軽太子が追放されたのは記と同じく允恭天皇の崩後になってからであるが、 直接的には妹との不道徳とは分離されている。