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2017.11.10(fri) [12-01] 履中天皇1 ▼ |
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1目次 【即位前-1】 去來穗別天皇、大鷦鷯天皇太子也。……〔続き〕 2目次 【即位前-2】 太子、到河內國埴生坂而醒之……〔続き〕 3目次 【即位前-3】 於是、瑞齒別皇子、知太子不在……〔続き〕 4目次 【即位前-4】 仲皇子、思「太子巳逃亡而無備」……〔続き〕 5目次 【即位前-5】 仲皇子、思「太子巳逃亡而無備」……〔続き〕 6目次 【元年】 元年春二月壬午朔、皇太子卽位於磐余稚櫻宮……〔続き〕 7目次 【二年~三年】 二年春正月丙午朔己酉、立瑞齒別皇子爲儲君……〔続き〕 8目次 【四年~五年】 《四年;於諸国置国史》
この年各国に史人を配置して、それぞれの口伝を文書化することを求めた。 応神天皇以来さみだれ式に到来した史人が一定の人数に達して、地方にも配置できるようになったのかも知れない。 そして「通二四方志一」とは、諸国に地誌の編纂を命じたと読める。後世の風土記に通ずるか。 現在、「四方志」は影も形もないが、その内容の一部は風土記に受け継がれている可能性がある。 風土記の極めて古い伝承を読むときは、この観点が必要かも知れない。 この段の記述は、この頃から文字による記録が存在したことを伺わせる。 このことが重要なのは、記紀の執筆にあたって何らかの文字記録が参照されたことになるからである。 よって、記紀の記述には部分的には、一定の歴史的事実が含まれていると見てよい。 《石上溝》
この報告にいう「溝1」が、履中紀四年条の「石上溝」として有力視されている。 「溝」については、仁徳天皇紀の「感玖大溝」を見た (仁徳天皇十三年【感玖大溝】)。 そこで見たように書紀に記された「溝」は、広い耕作地を確保するための大規模な用水の掘削を意味した。 それらは、おそらく書紀が書かれた時代に現存した大用水路について、その起源を説明したものである。 「石上溝」には「大」がつかないから感玖"大"溝には及ばないものの、それでも大規模な人工水路で、 「溝1」がこれに該当する可能性は高いと思われる。 記にいう履中天皇の崩年は壬申〔432〕で、「最下層5世紀後半」というのは、時期が合わない。 この時代はまだ、事績がしばしば他の天皇に移されたようだが、それにしても時代が近いところは注目される。 石上神宮に近い場所に灌漑用の溝が掘られたのは史実で、それが履中紀に反映したと思われる。 《従駕執轡》 「従駕執轡」は、天皇の乗った駕(馬車)の馬の轡を取ったと読める。 古墳時代から飛鳥時代に、馬車は用いられなかったというのが通説だから、 中国風の表現を用いたのであろう。 しかし、天武天皇紀には、「事急不レ待レ駕而行之。儵遇二縣犬養連大伴鞍馬一、因以二御駕一。乃皇后載レ輿從之。」 即ち、〔事は急なので駕を待てず、たまたま県犬養大伴が乗っていた馬に飛び乗って駆けた。側近は慌てて馬車を用意して追いかける。皇后は輿に乗って後を追った。〕という文がある。 「駕」が人が担いだ「みこし」だとすると、この場面は余りに間が抜けている。駕・輿は馬車であったと見るのが自然であろう (第12回)。 もし飛鳥時代に馬車が使われていたとすれば、この「従駕執轡」は漢籍からの借用ではなく、飛鳥時代の有様に準えて描かれたことになる。 《羽田之汝妹》 〈釈日本紀〉「羽田之汝妹者:兼方案レ之。皇妃者。葦田宿祢之女黒媛也。羽田者。謂二葦田一之義歟。」 〔兼方(釈日本紀編者)こを按ず。皇妃は葦田宿祢の女黒媛なり。羽田は葦田と謂ふ義か。〕 「羽田」が「葦田」と同じとするのは無理がある。 しかし「武内宿祢―葛城襲津彦―葦田宿祢―黒媛」の系図があり (履中・即位前1)、 高市郡波多郡は建内宿祢系氏族の本貫の範囲内と思われるので、 黒媛が羽田の姫と呼ばれた可能性はある。 もし、この黒媛が羽田矢代宿祢の女「黒媛」(即位前紀1)と同一※だとすれば、羽田との繋がりはより深まる。 ※…出自の不一致は、別伝が混合したものと考える。 ここでは「汝妹」の字そのままに、天の声が天皇に「お前のいも(妻)は」と呼びかけている。 《羽狭丹》 "羽狭"が地名なら「於羽狭」と書くはずだが、「に」が万葉仮名「丹」のままにされている。 これは、書紀自身が地名「はさ」を特定できなかったか、 あるいは古い副詞「はさに」(意味不明)である可能性を見たのかも知れない。「空の声」の言葉は意味不明な言葉を含む、伝承の原型をそのまま収めたのだろう。 はさま(狭い谷)・はさむ(挟む)に近い語なので、そのような地形に由来する土地かも知れないが、書紀もお手上げだったものの場所を特定するのは困難である。 副詞だとすると、「板挟みとなり、どうしようもなく」の意か。 《葬立往》 「立往」の伝統訓は「たちぬ」である。「-ぬ」は完了の助動詞で、〈仮名日本紀〉は「-ぬ」の語源「いぬ」を用いている。 万葉集では「-ぬ」「いぬ」には「去」を用い、「往」は一例もないから、 「往」がヌ・イヌだとすれば限定的である。ただし、〈類聚名義抄観智院本〉には「イヌ」がある。 書紀の執筆時には、「ゆく」に接頭語「たち-」をつけるという意識をもって書かれたものであろう。 《狭名来田蔣津之命》 〈釈日本紀〉に一つの説が示されている。曰く。 「此語未レ詳。但謂二太子瑞歯別尊一歟。 天書※【第八】曰。五年秋九月乙酉朔壬寅。上レ西巡狩幸二淡路一。 癸卯。有レ聲。曰。太子皇妃等薨。帝不レ求。」 〔この語未だ詳(つまびらか)ならず。ただし、太子、瑞歯別尊か。 天書にいふ。五年九月十八日、西に上りて巡狩、淡路にいでます。 十九日、声有りいはく、太子・皇妃ら薨ず。帝求めず。〕 つまり、「『天書』においては空からの声の内容は『皇妃と太子が薨去する』だから、 羽田之汝妹が皇妃、狭名来田蔣津之命が瑞歯別尊を指す」と言う。 しかし、書紀では瑞歯別尊はまだ死なない。 努力して読めば、車持君を発見して処分できたから、被害はぎりぎり瑞歯別尊まで及ばずに済んだと解釈できないことはない。 しかし、こんなややこしい読み方をする必要があるのだろうか。 素朴に、 「皇妃は薨じた」ことを、別名を用いて繰り返したと読めばよいように思われる。 さて、「狭名」と言えば、天降りのとき手力男神が佐那々県(さななあがた)に坐した (第83回)。 佐那県は、伊勢国多気郡の佐那神社に名前を残すと言われる (第109回)。 しかし、これだけではこの名前の意味はまだ分からない。 ※…天書(あまつふみ)は、<wikipedia>奈良時代末期に藤原浜成の撰とされる編年体の歴史書。</wikipedia>。 《検校》 「検校」のもともとの意味は、主に文書の正確を期すために、点検と校訂を行うことである。 書紀での用法を見ると、 ・垂仁天皇紀に「検二-校其国之神宝一」は、出雲国の宝を調べるというが、事実上の接収である。 ・神功皇后紀「検校二国之貢物」は、宝を詳細に調べてリストを作成する。 ・推古天皇紀「遣…於任那、並検校事状」は、国情調査。 ・天武天皇紀「検校軍事」、「検校親王諸臣及百寮人之兵及馬」は一堂に会しての謁見か。 がある。これらは、「点検」という言葉で括ることができる。 本条の「検校」は、天皇から単に職務を預かったに過ぎない者が、その部民を私物化し事細かに取り仕切ったことは越権行為であると非難していると読める。 〈仮名日本紀〉では「かんがへ」〔上代は「かむがへ、かうがへ」〕とし、これは「検校」の直訳である。 この「かむがふ」でさえ、〈時代別上代〉は「古訓の例ばかりで、上代にこの語の存在した確証はない」という。 よって確かな上代語の範囲内で訓読しようとすれば、場面ごとに意訳せざるを得ないが、最小限「みる」で済ますこともできる。 《車持部》 車持部(くるまもちべ)は、〈姓氏家系大辞典〉 「皇室、並びに神祇の乗輿を作り、又一切これを管掌することを職とし、 中古に到りては殿部〔とのもり;令制の宮内省所属の官司〕の一種とす。」とされる。 同辞典は、大和、摂津、伊賀、伊勢、上総、下総、常陸の他、各地の「倉持」「車持首」などに、派生した氏族を見出している。 これらの氏族はもともとの車持部の末裔で、当然朝廷との関係は切れている。 《充神者》 「充神者」を〈仮名日本紀〉では「かんへらのたみ」と訓む。「かんへ」は「神部(かむべ)」のことで、 つまり「かむべらのたみ(神部等之民)」が「充神者」の伝統訓だが、この訓は〈甲本〉〈釈日本紀〉には載っていない。 「充」は、延喜式には「充てる」意味で大量に使われている〔一例として、「月次祭」に「充二忌部九人一」〕。 「充」の古訓としては『類聚名義抄・観智院本』に「アツ」がある。 「充レ神〔神に充つ〕」とは、神領で仕える住民が神社に貢ぐことだから、これを「かむべ(神部)」と訓むことに何の問題もない。 ただ、書紀も他の個所ではちゃんと「神部」と表記している。 さらに「者」を意訳して「たみ」と訓む「かむべらのたみ」は、平安時代の流派的な解釈であろう。 《悪解除善解除》 車持部のために「善し祓」を授けたとすれば、理解に苦しむ。 恐らく「悪」「善」に人物や事柄の価値との関連性はなく、「悪解除善解除」とは単に「祓」に過ぎず、語調を整えるための慣用表現であろう。 とは言え、祓を受けて海水中で禊することによって罪は浄化され、その地位を剥奪されるのみの処分で済んでいる。 宗像三神としては、神領が返って来さえすればよいのであろう。 《大意》 四年八月八日、 初めて諸国に国史(ふみひと)を置き、口承されていたことを記録し、四方志(よものふみ)の編纂を通達しました。 十月、石上(いそのかみ)の用水を堀りました。 五年三月一日、 筑紫に坐す三神は、宮中を覗き、 「どうして、わが民を奪うか、私は今お前の存在が恥ずかしい。」と仰りました。 そこで、祈りましたが、祀りませんでした。 九月十八日、天皇は淡路島で狩をなされました。 この日、河内の馬飼部(うまかいべ)は輿に従い、轡(くつわ)を取りました。 その前に、馬飼部の入れ墨の傷が、皆未だに癒えていませんでした。 そこで、島に坐す伊奘諾神(いざなぎのかみ)は、神職に託宣して 「血の臭さが堪らない。」と仰りました。 このようなわけで、占いをすると、その兆は 「馬飼部どもの入れ墨の気(け)を嫌う。」でした。 よって、これより以後、永久に馬飼部に入れ墨することはなくなり、事を終えました。 十九日、風のような声が大空から呼び、 「皇太子の御子よ。」と言いました。 また呼び声があり、 「羽田のお前の妻は、はさに葬られて逝っててしまうぞ。」と言いました。 また呼び声があり、 「狭名来田蔣津之命(さなくたこもつのみこと)は、はさに葬られて逝ってしまうぞ。」と言いました。 にわかに使者がやって来て、 「皇妃が薨去なされました。」と申しあげました。 天皇は大いに驚き、直ちに輿を用意させて帰られました。 二十二日、淡路から帰着されました。 十月十一日、皇妃を葬られました。 天皇は、遂に神の祟りを収めることができずに皇妃を亡くしたことを悔いて、 更にその咎(とが)を負うべき者を探していたところ、ある人が 「車持(くるまもち)の君が筑紫国に行き、車持部を皆支配下に置き、予め神部を奪いました。 必ずやこの罪でございましょう。」と申しあげました。 天皇は、そこで車持君を召喚して推問したところ、それが既に真実であったことを悟られました。 これをもって、罪状を数え上げました。 「ここに、車持の君と言えども欲しいままに天子の人民を支配下に置いたこと、これが第一の罪である。 既に筑紫三神に分け与えたところを、車持部が合わせて奪い取ったこと、これが第二の罪である。」と宣告し、 悪祓(あしはら)え善祓(よしはら)えを負わせ、長渚崎に出させて禊させました。 それらを終えた後、 「今より以後、筑紫の車持部を掌ってはならない。」と詔(みことのり)され、 占有していた田をすべてを召し上げ、改めてこれを分割して三神に奉(たてまつ)られました。 【黥之気】 〈仮名日本紀〉などを見ると、「気」の伝統訓は「か」。 これは「香」の意味だと思われるが、〈類聚名義抄観智院本〉に載る古訓は「イキ・ケハヒ・タナヒク」だから、カは特殊な訓みである。 一方、「け」と訓む例は「(万)1797 塩氣立 荒礒丹者雖在 しほけたつ ありそにはあれど」などがある。 〈時代別上代〉は、「気配」を意味するケは「上代では接辞ふう〔接尾語のようなもの〕の例ばかりで、数も少ない」という。 同辞典は、「『刀禰らが焚く火(ほ)の介(け)』(神楽湯立歌)」の例も挙げるが、 同辞典の解説によれば、神楽歌は古いものでも平安時代初期の書写だという。 注目されるのは、「(万)2742 火氣焼立而 燎塩乃 けぶりやきたてて やくしほの」である。 ネットで検索をかけると、けぶり=19件、ほのけ=2件だったので、「けぶり」が伝統訓ではあるが、文脈から導いたものであろう。 そもそも「ほのけ」という語が存在したからこそ「火気」という表記が生まれ、そこに「烟」を宛てたものだと思われる。 万葉1797の「塩気」は、明らかに磯の潮の香りを意味する。 仮にこれを「しほのけ」と言ったとしても普通の上代語の範囲内であろう。 これらの例から、「黥之気」の訓み「めさきのけ」には一定の根拠があり、 「めさきのか」は、主観的な解釈であろう。 【長渚崎】
《五畿内志以後》 『五畿内志』の〈摂津國之八;河邊郡〉には「【村里】東長洲 中長洲 西長洲【屬邑一】」が載る。 明治十六年〔1883〕に東長洲村・中長洲村が合併して長洲村となる。 明治二十二年〔1889〕長洲村・西長洲村を含む一帯が小田村となる。 現在は、尼崎市の西長洲町と、長洲西通・長洲本通・長洲東道に長洲の地名が残る。
この地には大門厳島神社(だいもんいつくしまじんじゃ、兵庫県尼崎市長洲中通2-4-48)があり、 市杵嶋姫命と伊弉諾尊を祀る。市杵嶋姫命は宗像三女神に含まれ、こられの祭神は同社が履中天皇紀五年条との関連を強く意識した社であることを示している。 同社の御由緒も 「祭神の二柱の神は共に履中天皇の祝に出現され、 そのため天皇は車持君に悪解除・善解除を負わせて長渚崎で禊祓いを命じられ」などと述べる。 《大日本地名辞書》 〈大日本地名辞書〉には、「尾崎の北六町許、海を隔つ一里、然れども古〔いにしへ〕は難波潟の汀線此辺に画せられし也。 日本書紀履仲巻に「…長渚崎…」とあるは此なるへ〔゙〕し」 〔今は海から1里離れているが、昔は難波潟の海岸線がこのあたりであった〕と述べ、 和歌「いのちた〔゙〕に長洲に有れは〔゙〕津の国の難波の事もうれしかるへ〔゙〕き」[相模家集]を載せる。 相模は平安時代後期の歌人〔998頃~1061以降〕であるから、 平安時代後期には難波近くの海岸に「長洲」が存在したのである。 《猪名荘》 さらに遡ると「摂津職河邊郡猪名所地※」と題された東大寺領の猪名荘園の図が残っており、「天平勝宝八歳〔756年〕六月十二日」の日付がある。 図の最下部に、「大物濱」「長渚濱」が見える(図中)。 現代地名では、長洲本通の南西に接して大物町がある。 この図自体は写本なので、「長渚濱」などが756年の時点で書かれたかどうかは不明であるが、 仮に後世の書き加えであったとしても、猪名荘の南辺に書紀の「長渚崎」があると意識されていたと思われる。 以上から、長渚崎が現在の長洲の辺りにあたるのは確実である。 ※…この時期は摂津国は副都とされ、並の「国」と区別して「摂津職」と呼ばれていた (資料19)。 まとめ 四年条に石上溝が載るのは、この地に置かれたのは履中天皇の行宮に留まらず、 一定期間はここに都が置かれていたことを示唆するように思われる。 というのは、仁徳天皇紀において、難波の地で数々の土木工事が書かれたことに類似するからである。 だとすれば、仲皇子に占領された難波から逃れて一時物部氏に身を寄せ、その庇護下で都を立てたのかも知れない。 これでは、仁徳天皇で脱したはずの大王持ち回り体制への復帰である。 ただそれは短期間で、難波の情勢が安定したことにより、独立して若櫻に都を置いたという筋書きが考えられる。 五年条では、神の祟りにより皇妃を亡くす悲劇を生んだわりには、車持君への罰が軽い。 車持君は死刑を免れて祓え禊ぎで済まされ、筑紫地域のみ車持部の支配権を外しただけである。 車持君の件を皇后の薨に結びつけたのは物語の上だけで、実際には車持部と宗像大社の領地争いを調停しただけのことかも知れない。 別の見方としては、当時の大王は氏族の連合体に支えられた存在で、権力は絶対的ではないという現実を見せているともとれる。 だから、有力な氏族には厳しい処断ができないのである。 これに関しては、 二年条で平群木菟宿祢ら四名が「命執国事」ではなく、単に「執国事」と書かれたところに、天皇の絶対性の減衰を見た。 |
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2017.11.21(tue) [12-02] 履中天皇2 ▼▲ |
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9目次 【六年正月~二月】 《立草香幡梭皇女為皇后》
応神天皇段では、日向之泉長比売との間に、幡日之若郎女。書紀では省かれている 第148回)。 仁徳天皇段では、日向の諸県君牛諸の女髪長比売の間に、波多毘能大郎子(亦名大日下王)・波多毘能若郎女。 仁徳天皇紀では、日向髮長媛との間に、大草香皇子・幡梭皇女を生む。 幡梭皇女にも、暗黙裡に兄大草香皇子の「草香」が掛っていると思われる (第161回)。 ここでは、黒媛を亡くして空席になった皇后に、草香幡梭皇女が昇格したと読める。 《鯽魚磯別王・鷲住王》 「王」は、古事記では基本的に天皇の子、またあまり代を重ねない子孫を意味し「みこ」と訓む。 しかし万葉集を見ると、一般的な「君」(仕える主君)の意味で「王」をキミ、オホキミと訓む場合もある。 その一例として、「(万)0023 麻續王 をみのおほきみ。」がある。 書紀においては〈天武天皇紀〉に「鏡王」があり、皇子あるいは近い裔であるとは書いてないので、万葉集に倣えば「かがみのきみ(おほきみ)」かも知れない。 岩波文庫版は「かがみのおほきみ」と訓む。なお、『仮名日本紀』は「かがみのみこ」である。 したがって、鯽魚磯別王は「ふなしわけのきみ」「ふなしわけのおほきみ」かも知れない。 一般的には、記の「王(みこ)」は、天皇の子の代では書紀で「皇子(みこ)」に置き換えられる場合が多い。例えば、景行天皇の子。
日本武尊の子の名につく「王」の場合は、天皇の子ではないから書紀でも「王」のままである。 しかし日本武尊は天皇に準ずる存在であるので、「皇子」ではなくても「みこ(御子)」と呼んでもよいと思われる。 これに限らず皇子から孫の代になったとたん、種族の統率者を一般的に意味する「きみ(君)・おほきみ」になるのも不自然であるから、 孫以後も「みこ」と呼ばれたかも知れない。 麻続王・鏡王の場合、その出自は不明だが、仮に何れかの天皇から数代以内の孫であれば、「みこ」と訓まれてもよいかも知れない。 さて、鯽魚磯別王・鷲住王の訓は、岩波文庫版は「おほきみ」、『仮名日本紀』は「みこ」とする。 〈姓氏家系大辞典〉が提案する系図(後述)ならば、十分「みこ」の資格があると思われる。 また、その二人の妹は鷲住王を呼ぶ「兄王」は、「あにきみ」より「あにみこ」と訓む方が自然である。 以上から、この二王を「みこ」と訓んだとしても、さほど問題はないと思われる。 《大意》 六年正月六日、 草香幡梭皇女(くさかのはたひのひめみこ)を、皇后(おおきさき)となされました。 二十九日、蔵職(くらつかさ)を創建し、それに伴って蔵部(くらべ)を定めました。 二月一日、 鯽魚磯別王(ふなそわけのみこ)の娘、太姫郎姫(ふとひめのいらつめ)と高鶴郎姫(たかつるのいらつめ)を招いて 後宮に入れられ、二人とも女御となされました。 そのとき、二人はいつも 「悲しいこと。私たちの兄は、どこへ行ったのでしょう。」と嘆いていました。 天皇(すめらみこと)は、その嘆きをお聞きになり、「お前らは何を嘆いているのだ」とお聞きになりました。 その問いに、 「私たちの兄、鷲住王(わしすみのみこ)は、その人となりは力が強く敏捷で、 そのために、私たちを置きざりにして、一人で大きな屋根の上を走って越えて、遊びに行ってしまいました。 既に長い日々を経て、顔も見ず言葉も聞かず、その故に嘆いているのでございます。」とお答えしました。 天皇は、その力が強いという言葉を聞きいて喜ばれ、召されましたが、来ませんでした。 また、もう一度使者を送って召しましたが、なお来ず、住吉(すみのえ)邑にいて動きませんでした。 それからは気持ちも薄れ、もはや喚ぶことはなくなりました。 この鷲住王が、讃岐(さぬき)の国造(くにのみやつこ)、阿波(あわ)の国の脚咋別(あしくいわけ)、併せて二族の始祖です。 【大蔵省・内蔵寮】 大宝律令そのものは散逸したが、「令」の部分は『令義解』〔833;令の解説書〕 によって概ね復元されている。令の中の「職員令」に、大蔵省・内蔵寮に関する記述がある (資料[24])。 蔵職(くらつかさ)の類を大宝令に求めると、大蔵省〔おほくらのつかさ〕と、 中務省〔なかのまつりごとのつかさ〕に付属する内蔵寮〔うちのくらのつかさ〕が見出だされる。 その内容は、次の通りである。 《大蔵省》
そして大蔵省の下に、次の五司が置かれた。 ●典鑄司…「造二-鋳金銀銅鉄一、塗餝、瑠璃、玉作、及工戸戸口名籍事。」 その官名のうち専門職と見られるのが、「雑工部十人。雑工戸」である。 例えば「たまつくり」の地名は現在も各地に残る。雑工戸は律令以前から技能を継承してきた部民で、10人の雑工部はその管理をしたと思われる。 ●掃部司…「薦席牀簀苫、及鋪設、酒掃、蒲藺葦篠等事」。 酒掃(さいそう)は「掃除」。牀は床。酒は水を注ぐ意味。「駈使丁廿人」〔はせつかへのよほろ?〕を抱える。 掃部司は、会議や儀式のために敷物全般の用意と、清掃などの会場整備を担う司と読める。実働と見られる職名「駈使丁」を見ると自前の工房を持たず、専ら産地に足を運んで購入していたように思われる。 ●漆部司…「雑塗漆事」。 技能職「漆部廿人」を抱える。。 ●縫部司…「裁二-縫衣服一」。 専門職「縫部四人。縫女部。」は、縫女部〔ぬひめべ〕の部民を縫部が管理する関係だったと思われる。 織部司と共に、官服の製作に当たったのではないかと思われる。 ●織部司…「織二錦綾袖羅一及雑染事」。 「挑文師四人。挑文生八人。」は、文様を作る技能職4名と、その実習生8名と思われる。「染戸」は、染物に従事する家々を指すと見られる。
《中務省》 内蔵寮は中務省の下部に位置づけられているから、その役割を理解するためにはまず中務省を見なければならない。 中務省の職掌は、 「侍従、献替、賛二-相礼儀一、審署詔勅文案、 受レ事覆奏、宣旨、労問、受二-納上表、監二-修国史一、 及女王内外命婦宮人等名帳、考叙位記、 諸国戸籍、租税帳、僧尼名籍事。」とある。 すなわち、天皇に従い時にその代理として儀式を執行し、詔勅の文案を作成し、 宣旨し、郊労慰問し、奏上を伝え、上表を受納し、国史を監修し、 女王〔ひめみこ〕・内外の命婦・宮人の名簿を管理し、叙位を考査し記録し、 諸国の戸籍・租税帳・僧尼の名籍を扱う。 《内蔵寮》
令義解の解説は、 「其金銀以下雑物、皆自二大蔵省一割別而所レ送者也」 〔金銀~諸蕃貢献奇瑋は、皆大蔵省から一部を割き分けて送られたものである〕と述べる。 すなわち、財政の責任と権限はあくまで大蔵省にあり、その財宝の一部を中務省に割り当て、内蔵寮は内局として省内の会計を管理する。 「内蔵」なる名称は、その性格をよく表している。 【律令以前の蔵職】 "くらのつかさ"は、長年に渡って台帳を整備し、スキルを蓄積する必要がある部署で、 大蔵省の原形は律令以前から存在したものと考えられる。 もともとは、ノウハウを持つ帰化人を集めて部としたもので独立性が強かったが、徐々に朝廷が直轄するようになったと考えられる。 職員令の「大蔵省」はその到達点であろう。 仁徳天皇の溝、池、陵の大規模工事を遂行するためには、強力な財政を直轄下で確立するのは至上命題だったと考えられる。 その確立が、履中天皇六年条に書かれたということであろう。 この観点に立てば、六年条の「蔵職」は内蔵寮ではなく、大蔵省の原型である※。 ここでは「建二蔵職一、因定二蔵部一」という二重構造となっている。 これを職員令と照合すると、「蔵職」は財政の本体を担ってやがて大蔵省となり、 「蔵部」は財宝の発掘・鋳造・製作を担い、後の大蔵省下の五つの「司」に繋がったのではないかと想像される。 ※…履中朝の蔵職を内蔵寮とする通説については、資料[25]で考察した。 【讃岐国造】 大和国内に讃岐の縁の地があり、〈倭名類聚抄〉に{大和国・広瀬郡・散吉}が見える。 また、〈延喜式〉に{大和国/広瀬郡/讃岐神社}があり、 比定社は、讃岐神社(奈良県北葛城郡広陵町三吉328)とされる。 その所在地の三吉(みつよし)は、<wikipedia>「かつては「散吉」と書いて「さぬき」と読んでいた。 一帯は讃岐国の斎部氏が移り住んだ地で、讃岐の故郷の神を勧請し創建したものとみられる。」とされる。 この説明では、〈姓氏家系大辞典〉が唱える「大和の散吉が讃岐国造の本貫」説(後述)とは、順番が逆である。 さて〈国造本紀〉には、「輕島豐明朝〔応神天皇〕御世。景行帝兒神櫛王三世孫須賣保禮命。定二-賜國造一。」 とあり、国造の祖、須売保礼命と、書紀が始祖とする鷲住王が対立する。 須売保礼命の祖を遡ると、景行天皇段に「神櫛王者、木国之酒部阿比古・宇陀酒部之祖」 (第122回)、 〈新撰姓氏録〉には〖讃岐公/大足彦忍代別天皇〔景行天皇〕皇子五十香彦命【亦名神櫛別命】之後也〗と書かれる。 これは国造本紀を重んじて「景行天皇―神櫛王―○―○―須売保礼命…讃岐公」の系図を意味するものと見られ、 また讃岐公は讃岐国造の裔であるということになる。 〈国造本紀〉の「―○―○―」(神櫛王の子・孫)に鯽魚磯別王・鷲住王を入れ、 「鷲住王は讃岐国造の始祖」を、「鷲住王は、後に国造を賜る一族を創始した」と読めば、筋が通るように見える。 しかし、〈国造本紀〉で須売保礼命が讃岐国造を賜ったのは応仁朝のことだから、時代が合わない。 《姓氏家系大辞典》 〈姓氏家系大辞典〉は「散吉」の項で、散吉郷は、「開化天皇の御孫讃岐王のありし地ならん。」 〔讃岐王のいた所だろう〕と述べる。 また「讃岐国造」の項には、 「恐らく鯽魚磯別王は神櫛皇子の子又は孫なるべし。神櫛王は此の国造の始祖なれど、 此の頃までは、多く在京せられて、大和の讃岐、難波京時代には、住吉に住み給ひしならん。 他の国造も多く然り」とする。 ただし、各地の氏族は朝廷に服属したとき、始祖と朝廷の間の擬制的な親族関係を結び、系図の出発点にするので、 多くの国造が大和出身となるのは必然である。 同辞典は「景行帝―神櫛皇子―須売保礼命―鯽魚磯別王―鷲住王」という系図を提案し、 国造本紀が須売保礼を三世孫とするのは「錯乱せしものか」と述べる。 さらに讃岐国造・讃岐氏の系図は「尠〔すく〕なからずある」として、その例をいくつか挙げている。 それらの系図の間には不一致が多く、後世それぞれの家ごとに作られたものと思われ、ここで引用する意味はあまりないので省く。 なお同辞典は、さらに「鷲住王」の項で、 『全讃史』〔中山城山、1890〕巻四「雄武伝」、『南海治乱記』の伝説を引用している(後述)。 【脚咋別】
〈姓氏家系大辞典〉「脚食」の項に、「阿波海部郡肉咋は古〔いにしへ〕の脚咋の地なりと。古代脚咋別はその地の別なりしならむ」とある。 ただし、後述のように同辞典は「鷲住王」の項で、自らこの説を否定する。 「肉咋」とは「宍喰」の別表記である。 「海部郡」を調べると、〈倭名類聚抄〉の時点では{阿波国・那賀郡・海部【加伊布】郷}、即ち「郷」であるが、 <wikipedia>「阿南市福井町椿地にある寿永四年(元暦二年、1185年)正月二八日の線刻弥勒菩薩坐像銘に『阿波国海部郡福井里大谷』とあり、海部郡は同年以前」には存在したと見られる。 〈大日本地名辞書〉には宍喰浦は「海部浦の南一里」と書かれる。それ以後、 宍喰浦→〔1889〕宍喰村→〔1924〕宍喰町→〔2006〕海陽町という経過を辿る。 アシクヒが今のシシクヒであると述べるのは『南海治乱記』で、〈大日本地名辞書〉もこれを引用している。 【讃岐国造の系図】 《南海治乱記》 〈姓氏家系大辞典〉と〈大日本地名辞書〉が共に引用した『南海治乱記』には、
これは、鷲住王は始め脚咋邑に居して脚咋別の始祖となり、 太姫郎姫・高鶴郎姫の願いにより、履中天皇から讃岐国造の地位を賜って讃岐に移ったと読める。 書紀の読み方としては、確かにこの方が自然である。 ところが〈姓氏家系大辞典〉は、「一国内に同名の国造あるべき筈なし」であるから、 「讃岐国造後裔の一派なる高木氏が、那珂郡に住するより起りし説とみるべき也」 〔同じ地域に「讃岐国造」が二つあるはずもないから、これは讃岐国造の子孫の一派である那珂郡の高木氏が、独自に主張したものである〕 と述べ、「神櫛皇子―須売保礼命―鯽魚磯別王―鷲住王」の系図を譲らない。
このように、同辞典は『南海治乱記』の鷲住王の全体に対して否定的である。 《もともと別系統の神話か》 「鯽魚磯」という地名は存在したかどうかもわからないが、「ワケのみこ」という名称は、しばしば皇子がある土地に封じられたことを意味した (第122回)。 そして鯽魚磯別王の男子、鷲住王が放浪の末讃岐に辿り着いて讃岐国造の始祖となったと読める。 これを『国造本紀』に全く矛盾なしに組み込もうとするとなかなか難しく、もともと須売保礼命と鷲住王とは別系統の神話であったと見た方がすっきりする。 このように互いに排他的な起源譚が共存する理由は、讃岐公はもともと複数の氏族の集合体であり、それぞれが独自の始祖神話を保持していたということではないか。 そのうちある一派の系図が国造本紀に、他の一派の系図が書紀に、それぞれ取り入れられたのである。 以前に考えたように、書紀の時代からある者を任官するにあたり、出自を定める必要があって、その結果諸族の系図の研究が進んだと考えた (応仁天皇紀3【御友別一族】、 第152回まとめなど)。 讃岐公についても書紀から姓氏録の間に研究が進み、二派の系図を何とか統合して定式化されたのではないかと想像される。 10目次 【六年三月】 三月壬午朔丙申、天皇玉體不悆……〔続き〕 まとめ 仁徳天皇朝の大規模土木事業は、それによる農業生産力の向上と相まって経済の規模を増大させ、「蔵職の創設」はその関連で読むべきであろう。 従って、履中天皇の都は磐余に置かれたが、蔵職だけは難波に置かれたようにも思われる。 天武天皇紀に書かれた「難波大蔵省」は、その伝統を引き継いだものかも知れない。 さて、讃岐国造に限らず、始祖にまつわる伝説は複数が自然発生するものだろう。 中には事実の断片が含まれるかも知れないが、基本的には物語である。 それらの物語の整合を図り、正統な系図にまとめ上げる努力の累積は、それ自体が歴史の一部と言える。 『姓氏家系大辞典』は、その整合化に自ら参入している面があるところが興味深い。 今回の讃岐国造の祖の問題では、この「姓氏家系学」とも言うべき学問分野の深みが感じられた。 |
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2021.01.26(tue) [12-03] 反正天皇 ▼▲ |
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1目次 【即位前】 瑞齒別天皇、去來穗別天皇同母弟也。……〔続き〕 2目次 【元年】 元年春正月丁丑朔戊寅、儲君卽天皇位。……〔続き〕 3目次 【五年】 五年春正月甲申朔丙午、天皇崩于正寢。……〔詳細〕 まとめ 仁徳天皇から雄略天皇までは六代だが、『宋書』『梁書』では「倭の五王」である。年代を比較すると欠けたとすれば反正だが、 反正の代のみ遣使がなかったから、その存在が宋に伝わらなかったのではないかと論じた。 そして、別ルートで伝わっていたミヅハワケの「弥」が「珍」の別名として出て来た可能性も見た (第182回【倭の五王との対応】)。 反正天皇は歯が美しく〔前歯が突き出していたか〕長身だったと書かれるが、実質的な事績を欠く。 にも拘らず天皇に列挙されるのは、オホキミと記された文書、丹比郡柴籬宮や巨大陵の伝説が存在したからであろう。 事績は、仁徳天皇に集約されたと考えられる。 |
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⇒ [13-01] 允恭天皇1 |