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2017.09.16(sat) [11-07] 仁徳天皇紀7 ▼▲ |
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26目次 【書記―五十年】 五十年春三月壬辰朔丙申、河內人奏言……〔続き〕 27目次 【五十三年~五十五年】 《五十三年;新羅不朝貢》
「上毛野君」は、崇神天皇の皇子豊城入彦命が東国に封され、「上毛野君・下毛野君の祖となった」ところまで遡る。 その後、渡来族出身の田辺史(たなべのふひと)が部曲〔かきべ、豪族の私有民〕として食い込み、後に上毛野君の主流になったようである (第110回)。 《白鹿》 万葉集に見る「しら-」の多くは、連語として固定しているので、連語以前の「形容詞+体言」の形を見つけるのは難しいが、 「白紐」(しらひも)((万)1421 春菜採 妹之白紐 はるなつむ いもがしらひも)は、まだ連語化していないように思われる。 白鹿、鹿のアルビノ(右図)は恐らく特別に神聖なものとされ、少なくとも記紀の中では連語と見るべきかも知れない。 しかし、連体詞シラ-による修飾は、シラサギ、シラタカなど種、または品種として安定的に生息するものに限られるようである。 突然変異については、未だシロキ-だと見られる。 なお、『仮名日本書紀』は「しろきしか」と訓んでいる。[この項、2026/06/27修正。] 《行俄且重遣》 「行俄且重遣」の区切り方は難しい。ただ、この文が「使者を差し替え、より軍事的に対応する」、 すなわち強硬策への方針転換を意味しているのは明かである。 「且」「重」にはともに「かさねる」意味があるから、二字をまとめて「かさぬ」と訓むことはあり得る。 「俄」は突然の政策変更を示す。従って「俄且重」がすべて「遣」を連用修飾すると見ることは可能だが、 修飾語三文字は重過ぎるし、逆に「行」〔=政策を実行する〕には目的語・副詞が一文字もなく、軽すぎる。 むしろ「行俄」と「重遣」を、接続詞「且」で繋いだことにする方がバランスが取れる。 漢文においては「俄」を動詞化することは可能で、訓読においては万能サ変動詞「す」をつける。 即ち、「行ひ俄かにして、且(また)重ねて~を遣(つかは)す」と訓む。 《百衝》 「百衝」は新羅人の名であるから、倭語で「ももつき(或いは、ももつく)」と訓むことは、理屈が合わない。 新羅は現地語に漢字音を宛てたから、その発音は概ね漢音または呉音に近いものであろうと思われる。 「白」については、万葉仮名に「佰(ヘキ)」がある〔なお、ハ行は当時は、p-と発音された〕。 よって「へきしよう」と読んでおけば、比較的近いと思われる。 ただし、「数多く攻撃を仕掛けてきた勇者」の意味の通称を倭訳したものと、解釈できないこともない。 《何死人之無知耶》 「何死人之無知耶」を直訳すると、「死人はどれ程無知だったのだろう。」である。 「死人」が大蛇に殺された人を指すと見れば、「殺された人は、こんな報いがあろうなどとは、知る由もなかったろう。」となる。 また、「死人」が田道を指すとすれば、「死んだ後、大蛇となって仇打ちするとは本人も知らなかっただろう。」となる。 どちらかと言えば「既に殺したと思っていた相手から、とんでもない反撃を食らった」皮肉を村人が言い立てたと読む方が理解しやすいから、前者であろう。 《大意》 五十三年、新羅は朝貢しませんでした。 五月、上毛野(かみつけの)の君の先祖、竹葉瀬(たかはせ)を派遣して、その貢(みつき)を欠いたことを詰問させました。 この行程の間に白鹿を獲て、帰還して天皇(すめらみこと)に献上しました。 更に日を改めて急にことを起こし、再び竹葉瀬の弟、田道(たじ)を派遣することにし、 「もし新羅が拒めば、戦闘を起こして撃て。」と命じて 精兵を授けました。 新羅は軍を起して防戦しました。 新羅人は日々戦を挑み、田道は陣地を固めて出撃しません。 その時、新羅の兵卒が一人軍営から離れていたので、 捕えて捕虜として、内部の様子を問いただしました。 それに対して、こう答えました。 「強力な者がおります。百衝(へきしょう)と申しまして、身が軽く敏捷で性質は勇猛です。 いつも軍の右の前鋒にいるので、その様子を伺って左側を撃てば、破ることができるでしょう。」と。 その時新羅は、左に隙があり右に備えを堅くしていたので、田道は、精鋭の騎兵を連ねて左側を攻撃したところ、 新羅の軍は潰滅し、縦横無尽に戦い、乗じて数百人を殺し、 そのまま四村の人民を捕虜として連れ帰りました。 五十五年、蝦夷(えみし)が叛乱を起こし 田道を派遣して攻撃させましたが、蝦夷によって敗北させられ、 伊峙(いじ)の水門(みなと)で戦死しました。 その時従っていた人が、田道の手纏(たすき)を取って持ち帰り、田道の妻に渡しました。 すると、その手纏を抱いて首をつって死に、当時の人々はそれを聞いて涙を流しました。 この後、蝦夷は再び襲撃し、人民を略取しました。その行動の中で田道の墓を暴いたところ、 大蛇がおり、目をかっと見開き墓から出て噛み、 蝦夷は悉く蛇の毒によって死に、唯一人二人が助かったに過ぎません。 よって、当時の人々は、 「田道は既に亡くなったとは言え、遂に仇を報いた。殺された人は、まさかそんなこととは知らなかっただろう。」と言いました。 【虜二四邑之人民一以帰】
これらは、神功皇后記において、葛城襲津彦が連れ帰った「俘人」に対応するものと考えた (神功皇后紀3)。 仁徳天皇紀では、同内容のことをより具体的に「虜二四邑之人民一以帰」と書く。 書記の「仁徳天皇五十三年」は西暦365年に当たるが、仁徳天皇紀はまだ書記による年代の繰り上げ操作の範囲内にある。 記にはこの事件は書かれないが、崩御年(丁卯)として推定される427年頃に、この事件があったと仮定すれば、 訥祇麻立干六年〔422〕が、一応該当する (第160回)。 【伊峙水門】 「伊峙」という地名は〈倭名類聚抄〉にはないが、 検索をかけたところ次のことが分かった。 《猿賀神社》 上毛野君田道命を祭神として祀る神社が、「猿賀神社」(青森県平川市猿賀石林175)である。 社頭掲出の〈御由緒〉には、 「御祭神上毛野君田道命は仁徳天皇五十五年伊寺の水門に於て暴夷〔あばれえみし〕 と戦って戦死せられた 延暦十二年〔793〕八月二十三日 征夷大将軍坂上田村麻呂霊感を受けて現在地西方猿賀野に仮遷座し更に 勅命により大同二年〔807〕八月十五日現在地に正遷座奉った 爾来深砂宮(神蛇宮)と崇められ〔以下略〕」とある。 《伊峙水門の候補》 「蛇田村」という村が1955年まで存在し、現在は石巻市蛇田となっている。 <wikipedia-蛇田駅>には地名由来説のひとつとして、田道伝説が取り上げられている。 同じページに、 「"伊峙の水門"の場所については、上総国夷隅郡(夷隅港:現 勝浦港)、陸奥国牡鹿郡石巻(現 石巻港)、常陸国茨城郡夷針郷(東茨城郡茨城町大戸)の三説がある。」 とある〔現在はリンク切れで、引用元の参照は不可能〕。 さらに検索を重ねると、 原 秀四郎〔1872-1913〕が遺した論文『王朝時代東北地方拓殖ニ関スル史蹟ノ研究』に、 「地名南来の事証・陸奥国の鹿島社・日高見国(竹水門・伊寺水門)」の項があった。 ここには、伊寺水門の比定地が書かれていると思われるが、 この論文の中身を直接参照するのは今のところ困難である。 《伊甚国造》 夷隅郡は、〈倭名類聚抄〉の{上總国・夷隅【伊志美】郡}〔いしみ〕である。 甚(じむ)の「む」は、閉音節を閉じる [n]で、これがまた伊志美の「美(ミ)」で表された可能性もある。 建比良鳥命に、【…伊自牟国造…之祖也】がある (第47回)。 また、安閑天皇紀元年に「伊甚國造等、詣京遲晩、踰時不進。」があるから、 「甚」はジム(ン)である。この限りでは、「伊峙」(イジ、イシ)は「伊甚」とは異なる。 一方、房総半島は畿内政権の初期に既に海路で到達し、飛び地としての植民地となった。これは「房総半島橋頭堡説」として、 「東の淡水門」にのところで述べたものである (景行天皇2)。 伊甚国も房総半島に置かれた橋頭保としての立地条件を見たし、記紀にしばしば登場することと併せると、重要な地名であると言える。 したがって「伊峙水門」が、「伊甚国造」を直接受けている可能性は、「ンの有無」の問題が未解決ではあるが、かなり高いように思える。 ただ不都合な点は、猿賀神社が非常に遠いところである。 しかし、蝦夷の制圧に向かった坂上田村麻呂が、その先端の地に伝説の東国征討の将軍、田道を守護神として祀ったのはごく自然なことである。 だがそのことと、田道が陸奥まで来たかどうかは、関係ない。 とは言え、房総半島よりもっと北の地にも「伊寺」があったかも知れない。 というのは、「日高見国」が、常陸国〔茨城郡〕、そして陸奥国〔石巻市〕と、複数あるからである (景行天皇紀3・ 資料[8])。 「日高見国」のように最果ての地の伝説の国は、新たに領土を獲得したときに現実地名に固定される。しかし、相変わらずその先の空想上の国名としても残る。 いわば逃げ水のように、行けども行けどもその先にあり続ける。 このように伝説の地名が飛び飛びに新しい領土の先に移動するとすれば、茨城郡や牡鹿郡にもまた「伊寺」が、ないとは言い切れない。 前述した原秀四郎の論文の「地名南来」とは、これをテーマにした研究ではないかと想像される。 まとめ 伊峙水門が上総国だとした場合、時代は日本武尊の東国遠征の頃に遡る。 しばしば取り上げている「稲荷山古墳出土鉄剣」によって、 雄略朝のころには関東地方までは畿内政権の安定的な支配下にあると思われるので、 伊峙水門が房総半島の先端ならば、相当古い時代の伝説が紛れ込んだと考えるべきであろう。 本サイトは、「日本武尊は畿内政権による東国への軍事行動を、集合人格として表したもの」とする立場に立っているので、 田道の派遣も東国進出の一つの歯車として位置づけられる。 別の考え方としては、実際の事件は仁徳朝の東北北部遠征において起こり、地名だけを他の伝説から借りたとする解釈も可能である。 「地名南来」によってジャンプして名付けられた別の「伊峙」の可能性も残る。 しかし、新羅から村民を連れ帰る部分は神功皇后記の襲津彦の行動と重複するので、 伊峙水門の件も日本武尊東征の一部の重複として位置づけるのが、やはり妥当なのかも知れない。 |
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2017.09.23(sat) [11-08] 仁徳天皇紀8 ▼▲ |
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28目次 【五十八年~六十二年】 《当荒陵松林之南道》
〈推古天皇紀元年〉「始造二四天王寺於難波荒陵一。」。 伝統訓に、〈仮名日本書紀〉「荒陵」がある。 書紀が書かれた当時、既に埋葬者不明で放置された陵は多数あり、 そのうちの一つが地名になったものと思われる。 訓については、〈延喜式諸陵寮〉では、陵は天皇(と大后の一部)、墓は皇子を葬るものとして厳格に区別されるので、 陵を安易に「はか」と訓むべきではないだろう。 《松林》 松林は、〈天武天皇紀七年十月条〉「隨レ風以飄二于松林及葦原一」〔風のままに松林と葦原に漂う〕。 また〈時代別上代〉に「松林」とある。 まつばら(松原)は(万)3890 和我勢兒乎 安我松原欲 見度婆 わがせこを あがまつばらよ みわたせば。など、万葉集に12例あるが、 万葉歌に「まつばやし」は出てこない。 また、〈時代別上代〉にも「まつばやし」の見出し語はなく、実例はなかったと思われる。 一方、「松原」は地名を含めて万葉集に数多くあるので「松林」と書いて「まつばら」と訓まれた可能性はある。 《呉国朝貢》 「呉」は、倭と交流のあった中国王朝に対する倭側の呼び名である。 仁徳天皇の次代、履中天皇の即位年〔庚子;400年〕は、 記における仁徳天皇の崩年〔丁卯;427年〕を繰り上げたものと考えられる (第160回《記紀の太歳表記》)。 ひとまず記の年代を基準にすれば、当時倭と交流があったのは南宋〔420~479〕で、 『宋書』によれば、永初二年〔421〕と太祖元嘉二年〔425〕に、倭王賛が使者を派遣している。 賛の死後珍が立ち、改めて使者を派遣して「都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍・倭国王」なる称号を要求したが、 与えられた称号は、「安東将軍倭国王」である〔但し、以後少しずつ進号していく〕 (倭の五王)。 五十八年条の「呉国〔中略〕朝貢」は、仁徳朝晩年の南宋との交流を反映したものと思われるが、 仁徳天皇の存命中に返使が訪れたかどうかは不明である。 何れにせよ、返使の派遣を「朝貢」と表すのは、いつもの誇大表現である。 《生両歴木挟路而末合》 この事件が記されたのは、連理木が瑞祥とされていたからだと見られる。 8世紀初めに、発見された連理木をわざわざ遠方から運んで献上した記録がいくつかある (第119回《連理木か》)。 放置されて荒れ果てた陵であっても、奇しき力を秘めていると述べることによって、六十年条への伏線としたと思われる。 《陵守》 〈延喜式諸陵寮〉においては、各陵に陵戸・守戸が定められている。 律令に遡ると、 陵戸は、<wikipedia>天皇・皇族の陵墓を守る者で、養老律令施行によって賤民となった。</wikipedia> また守戸は、<Weblio辞書>陵戸の足りないとき,近隣の良民から指定された</Weblio>ものである。 それでは古墳時代から律令までの間はどうなっていたのだろうか。 それは想像するしかないが、もし陵守が途中で途絶えてしまえば、荒陵になったであろう。 逆に書紀に被葬者名が挙げられ、地域がある程度指定できるものは、何らかの形で陵の管理が継続していたのかも知れない。 その中には当然、陵守が廃止されそうになったものもあるだろう。 しかし六十年条の伝説は、それは危ういことだと警告するわけである。 《是陵自レ本空》 景行天皇紀には、 日本武尊のために伊勢国能褒野・倭国琴弾原・河内国旧市邑に三陵が築かれ、 「時人号二是三陵一曰二白鳥陵一。 然遂高翔上レ天、徒葬二衣冠一。」 〔時の人この三陵を号け、白鳥陵と曰ふ。しかるに遂に高く翔び天に上れば、ただ衣冠を葬(はぶ)りまつりき〕 と述べる (景行天皇紀-白鳥陵)。 すなわち、白鳥陵は三陵とも空陵である。 「この陵本より空なり」とは、これを踏まえて述べたものである。 なお、仁徳天皇がいた難波に最も近いところにあるのは、旧市邑の白鳥陵である。 《土師連》 垂仁天皇紀によれば、 野見宿祢は古墳に初めて埴輪を置いた功績により、土部臣の姓を賜った。 野見宿祢はまた、土師連の始祖であり、土師連は天皇葬送を掌る部となった (第110回《土師臣・土師部》) 〈姓氏家系大辞典〉には、 「ハニシ ハジ 太古以来の大族也。又土部に作る」とあり、 そのうち出雲の土師臣を「土師部の総領的伴造〔とものみやつこ〕也。」と位置付けている。 同辞典はまた、河内国の土師連について、「神護景雲三年〔769〕十二月紀に 「河内国志紀郡人外従五位下土師連智毛智に姓を宿祢と賜ふ」と載せ」と書き、名前の実例を見出している。 「且授二土師連等一」の文から、律令前は基本的に土師連が陵守を務めていたことが分かる。 大井川は、古来遠江国と駿河国の境界となっている。 <wikipedia>中流部は大蛇行地帯であり、『鵜山の七曲り』と呼ばれる蛇行地帯も形成されている</wikipedia> とのことで、「停二于河曲一」は、それに符合する。 《氷室》 現代地名に、氷室町が愛知県名古屋市南区、 愛知県稲沢市、大阪府高槻市、兵庫県神戸市兵庫区、栃木県宇都宮市に、 氷室台が大阪府枚方市にある。江戸時代までは新たに氷室が設置されることもあり得るので、 これらの地名が上代に遡るとは限らない。 《春分》 この条の「春分」の伝統訓は、「きさらぎ」である。 太陽太陰暦においては、「春分」を含む月を、ニ月と定義する。従って春分は必ず如月の中にあるが、月の満ち欠けの周期である「月」と、 太陽と地球との位置関係で決まる「春分」とは概念が異なる。 〈現代語古語類語辞典〉は「冬至」に対して、上代語として「とうじ」の存在を認めている。 7世紀後半に設置された「陰陽寮」内部では、春分を含む十二節季の意味は当然理解され、かつ音読みしていたと思われる。 よって、飛鳥時代には「春分」を「きさらき」と訓むことはあり得ず、 平安時代になってから書記の訓読研究家によって、月の呼び名に置き換えたものと思われる (資料[21])。 《始散氷》 「始散氷」〔初めて氷を散(あか)つ〕が「使用を始める」意味だとすれば、春分ではまだ早すぎる。 夏の氷は貴重だから、炎暑の時期まで我慢するのが人情ではないかと思うのだが、宮廷ではたった一か月半我慢するだけである。 よほど大量の氷を蓄え、計画的に使っていたのであろうか。もし春分が「夏至」の誤りだとすれば自然だが、書紀の著者がそんなレベルの間違いをするとは思いたくない。 《大意》 五十八年五月、ちょうど荒陵(あらみささぎ)の松林(まつばら)の南の道の両側に、 忽然と二本の歴木(くぬぎ)が生え、道を挟んで梢が合体しました。 十月、呉(くれ)の国と高麗(こま)の国が、揃って朝貢しました。 六十年十月、白鳥(しろとり)陵の陵守(みささぎもり)を差し替え、民を徴用して任を当てようとしました。 その時、天皇(すめらみこと)自ら、陵番所に出かけられたところ、 陵守の目杵は、たちまち白鹿(しろしか)に姿を変えて、走り去りました。 そこで天皇は仰りました。 「この陵は元から空なので、 その陵守を置くことをやめ、これからは徴用した民に管理させることにした。 ところが、今この奇怪なできごとを見たので、恐ろしいと思った。陵守を置くことを止めてはならない。」と。 そして再び、土師連(はにしのむらじ)に陵守の役割を授けました。 六十二年五月、遠江(とおとうみ、とおつあわうみ)の国司は、上表しました。 「大樹が、大井川を流れて河の曲がるところで止まりました。 その大きさは、周囲十尋〔約18m〕、その形は根元は一本で、先は二本に分かれています。」と。 そこで、倭(やまと)の直(あたい)吾子籠(あごこ)を派遣して船を造らせ、南の海〔太平洋〕経由で運び、 難波津に運んで来て、御船に加えました。 この年、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)は、闘鶏(つげ)で猟をされ、 たまたま山上からこの地を眺め、 野を見ていると、その中にあるものを見つけ、その形は仮作りの小屋のようなものでした。 そこで使者に見に行かせると、帰ってきて「岩屋です」と報告しました。 そこで闘鶏の稲置(いなき)の大山主(おおやまぬし)を呼び出して、 「その野中にあるものは、どのような室(むろ)か。」と質問すると、 「氷室(ひむろ)でございます。」と答えました。 皇子(みこ)が、 「その蔵はどのようなもので、また何のために使うのか。」とお聞きになると、 「土を一丈〔3m〕余り掘り、草でその上を覆い、厚く茅(ちがや)や荻(おぎ)を敷き、 取ってきた氷を、その上に置きます。 すると、夏の月々を経た後も溶けません。 それをこのように使います。すなわち、暑い時期になれば、水や酒を漬けて使います。」と答えました。 そこで、皇子は氷を持ってきて御所に献上し、天皇はこれを喜びました。 これ以後、毎年十二月になると必ず氷を貯蔵し、 春分になって、はじめて氷を使い始めます。 【無動陵守者】 「無動~者」は、「なうごかしそ」と訓読するとぴったり合うところが注目される。 "者"の用法には、""と同じく断定の語気詞があり、文末の強調断定の助詞「そ」に「者」を当てる場合があることを示す。 これにより、『古事記伝』が文末の「者」の訓読としてしばしば用いる「ぞ」に、歩み寄らざるを得ない。 【闘鶏】
〈大日本地名辞書〉には「闘鶏国:後世山辺郡に隷属し山辺楊生都介星川笠間の数郷と為る、 和名抄に至り山辺楊生を添上郡に分隷せしめ、笠間を宇陀郡に割与したり、風間の地復山辺郡に入る。」とある。 ここで、地名辞書がいう五郷について調べる。 《倭名類聚抄・五畿内志》 〈倭名類聚抄〉に、{添上郡・山辺郷}{添上郡・楊生【也木布】郷}〔やきふ〕{山辺郡・都介郷}{山辺郡・星川郷}{宇陀郡・笠間【加佐末】郷}〔かさま〕がある。 また〈五畿内志〉には、添上郡に「山邊【已廢存二佐保法華寺二村一】楊生【方廢大柳生小柳生二村在存】」。 山辺郡に「都介【已廢存二山口鞆田二村一】星川【已廢存二吐山村一】」。 宇陀郡に「笠間【方廢笠間村今屬二城上郡一】 城上郡に「笠間【屬村三】」と書かれる。 《五郷の比定地》 ① 山辺郷:〈五畿内志〉にいう佐保村・法華村は、法華町から法蓮佐保山辺り。 ② 楊生郷:〈五畿内志〉にいう大柳生村・小柳生村は、現在は奈良市北東部の柳生町。 ③ 都介郷:旧都祁村は、2005年に奈良市に編入された。 〈五畿内志〉にいう「山口村」については「都祁山口神社」があり、「鞆田村」については「都祁水分神社」(つげみくまりじんじゃ)が奈良市都祁友田町にある。 ④ 星川郷:この地に豪族星川氏がいて、奈良市都祁吐山町の下部神社(おりべじんじゃ)は、星川氏の氏神であったという。 ⑤ 笠間郷:江戸時代には「式上郡笠間村」であった。 笠間郡は、明治22年〔1889〕町村制で朝倉村の一部に。明治30年〔1897〕から桜井町に編入、昭和29年〔1954〕に桜井市から宇陀郡榛原町に編入した。 榛原町が合併により宇陀市になり〔2006年〕、現在は「宇陀市榛原笠間」となっている。 つまり、笠間地域の所属は、宇陀郡⇒式上郡⇒式上郡朝倉村⇒桜井町⇒桜井市⇒宇陀市と変遷した。 《闘鶏稲置》 稲置(いなき)は、〈時代別上代〉によれば、「①大化以前の地方官の一。②姓の名。」 「はじめは小地域の地方土豪(邑の首長)に与えられた官職名であったが、世襲につれて姓となった。 本来は、田租としての稲米の収納にあたる官としての名であったが、大化以後、すでに行政官としての実を伴わなくなっていた。」とされる。 つまり、税徴集官→邑の首長→姓。 よって、「稲置」には邑程度の地域の長のイメージがあるから、六十二年条の「闘鶏」は恐らく郷以下の広さで、 〈大日本地名辞書〉がいう広大な「闘鶏国」はここには当てはまらないと考えられる。 まとめ 五十八年条と六十年条を対比すると、陵のうちには墓守が失われて荒陵になったものと、 墓守による管理が継続できているものがあった。そして、墓守が途絶えることもままあったと読める。 すると、記紀に書かれた陵の被葬者名は、執筆時点で各陵に伝説の天皇名を適当に割り振ったものとは限らないこととなる。 すなわち、墓守から陵戸への継承がうまくいっている陵については、実際の被葬者名が継承された可能性があると言える。 その意味で、五十八年条・六十年条は記紀における被葬者の記録の信憑性の評価に関わる、重要な部分である。 |
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2017.09.26(wed) [11-09] 仁徳天皇紀9 ▼▲ |
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29目次 【六十五年~六十七年】 《六十五年;飛騨國有一人》
宿儺は、二人の体が背中合わせに、後頭部から踵まで密着している。 ただ膝裏から踵まで密着していればどう見ても歩行は不可能で、ましてや「軽捷」な動きなどあり得ない。 せめて腿から下は分離させておくべきである。いくら架空の話でも、不自然に過ぎる。 農民を掠奪し、歯向かってくる賊は、奇怪な姿をしている。 神功皇后紀九年条で出てきた羽白熊鷲(はしろくまわし)は、「身有翼能飛以高翔」〔翼をもち飛ぶことができ、高く翔ぶ〕 怪人であった (神功皇后紀3)。 敵対勢力の首魁が奇怪な姿をしているのは、彼らを侮蔑するためと言われている。 《難波根子武振熊命》 難波に上陸して忍熊王と戦ったとき、 神功皇后方の将軍として任命したのが、丸邇臣の祖の難波根子建振熊命であった 第143回。 この名前は、駿河浅間大社大宮寺家に残る和邇氏の系図にある (第105回《和邇氏系図》) 《百舌鳥耳原》 百舌鳥が鹿の耳の穴から食い破って出てきたのが地名の由来とされるが、 先に地名があって、そのための地名譚が創作されたと思われる。 この地は別名「石津原」とされているが、現在「石津ケ丘古墳」は伝履中天皇陵となっている (仁徳天皇紀6)。 《吉備中国》
各郡・郷の名称は、基本的に①で欠落した郡名以外は、〈倭名類聚抄〉と一致することが確認できる。 ②の「多比大贄」は、鯛の「おほにへ」(朝廷に納める土地の産物)である。 「二万」は「にま」を表すと見られ、漢数字の音読みは既に一般的であったことを伺わせる。 吉備中国または吉備道中国が「備中国」になったのは、好字令によって2文字化されたためである(和銅6年〔713〕;資料13)。 好字令以前の表記と、〈倭名類聚抄〉から「きびのみちのなかのくに」と訓まれていたことがわかる。 これらの木簡に出てくる郡(評)名は、たまたま高梁川(六十七年条の「川嶋河」を比定)の両岸にあたる。 《笠臣》 応仁天皇朝に鴨別が笠臣になった由来が、〈新撰姓氏録に載る〉 (応仁天皇紀3《鴨別》)。 笠臣は御笠の氏族であろうと思われる。 なお類似の話は、神功皇后紀にもある (神功皇后紀《令撃熊襲国》)。 こちらは姓氏の起源ではなく「筑前国御笠郡御笠郷」の地名由来譚である。 《虬》 蛟(みずち)または、蛟龍(こうりゅう)は、中国の伝説では水中に住み、龍になって天に上る直前の形とされる。 (魏志倭人伝をそのまま読む〔32回〕)。 <wikipedia>にも「姿が変態する竜種の幼生」と書かれるが、その出典はなかなか見つからない。 古い文献には、「蛟竜」に龍の幼生の生育段階としての位置づけは見つからず、蛟竜自体についての説明に限られる。 〈倭名類聚抄〉には、「虬龍」および「蛟」の項目がある。
《瓠》 瓠(ひさこ)によって誓(うけひ)し、もし沈めることができれば虬の勝ちである。 類似の話は、十一年条の衫子による茨田(まむた)堤の水防工事のときにあった。 そのときは、神が匏(ひさこ)を沈めることができれば、真の神として認められるはずであった (仁徳天皇紀14)。 《夙興夜寐》 「夙興夜寐」という言い回しは、中国古典に広く見られる。 一例として、『孔子家語』〔漢、前206~220〕〈困誓〉には、 「子路問二於孔子一曰:有人於此、夙興夜寐、耕芸樹藝、手足胼胝、以養二其親一。然而名不レ稱レ孝、何也。」 〔芸…手を加えて栽培する。胼胝(へんち、たこ)…皮膚が固くなった「たこ」〕 がある。 農耕に力を尽くすことを話題にしたこの文において、"夙興夜寐"が「早朝に起き深夜に寝る」を意味することは明らかである。 そして、一般に「つとにおきよはにいぬ」と訓読されている。 「つと」は"早朝"を意味し、古語辞典の中には、「(万)2137 朝尓徃 鴈之鳴音者」を「つとにゆく かりのなくねは」と訓むものがある。 しかし、〈時代別上代〉には見出し語に「つとに」を挙げない。 同書の編集方針では、上代に確例がないものは載せない。 (万)2137をネットで検索すると「あさにゆく」とするものが4件に対して、「つとにゆく」とするものは1件である。 『ベネッセ古語辞典』には、「つとに」は「中古・中世の代表的な作品中には見られない語であるが、 漢文訓読語を経て…」とある。 もともと「つと」は、「勤む」の語幹として「努力」を意味したことは明らかである。 「夙興夜寐」は「つとめて朝早く起き、夜遅く寝る」という意味なので、それを短縮して「つとに起きおそく寝(い)ぬ」と漢文訓読したことが、 「つとに」が「早朝に」を意味するようになった由来であろうと思われる。 《大意》 六十五年、飛騨の国に一人の人がいて、宿儺(すくな)といいます。 そのひととなりは、一つの体に二つの顔があり、顔はそれぞれ反対側を向いていて、 頭頂部が合わさり項(うなじ)は無く、それぞれに手足があり、膝はありますが膝裏と踵(かかと)はありません。 力は強く敏捷で、左右に剣を帯びて、四手ともに弓矢を使いました。 このようにして皇命に従わず、人民を掠奪して楽しみとしました。 そこで、和珥臣の先祖、難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)を派遣して殺しました。 六十七年十月五日、 河内(かわち)の石津原(いしづはら)に行幸し、陵の地を定められました。 十八日、築陵を始めました。 この日、鹿が忽然と現れて野中に立ち、 走って徴用された民の間に入ったところで、倒れて死にました。 その時、突然死んだことを奇異に思いその傷を調べると、 すぐに百舌鳥(もず)が、耳から出て飛び去りました。 よって耳の中を見ると、完全に食い破られていました。 その場所を百舌鳥耳原(みみはら)と名付けたのは、この由縁です。 この年、吉備中国(きびのみちのなかつくに、びっちゅうこく)の川島の河の流れが二つに分かれているところに、蛟竜(みつち)がいて、人を苦しめていました。 たまたま路行く人がそこに触れると必ずその毒を受け、死亡する者多数でした。 そこで、笠臣(かさのおみ)の先祖、県守(あがたもり)、ひととなりは勇捍で力強く、 流れの分岐の淵に臨み、三つの立派な瓠(ひさこ)を水に投げて言いました。 「お前は、しばしば毒を吐いて路行く人を苦しめてきた。私は、お前、蛟竜を殺す。 お前がこの瓠を沈めたらば私は引き下がろう。しかし、沈めることができなければ、お前の体を斬る。」と。 すると、蛟竜は鹿の姿になって瓠を引き入れましたが、 瓠は沈まず、そこで剣を挙げて水に入りて蛟竜を斬りました。 さらに蛟竜の仲間を捜すと、もろもろの蛟竜の同類が、淵の底の岩穴に満ちていました。 すべてこれを斬ると河の水は血に変わりました。よってその淵を県守淵(あがたもりのふち)と名付けました。 この頃、妖気がいくらか動き、叛乱する人が一人二人起ちました。 すると天皇は、早く起き遅く寝て励み、、 税を軽減し寛容をもって臨んだところ、民は青草が育つように栄え、納税が増しました。 徳を広め、恵を施して、困窮を振り払いました。 使者を弔い、病人を見舞い、孤児(みなしご)、寡婦(やもめ)を養いました。 このようにして、政令は末端まで行き渡り、天下太平となって二十年余りが無事に過ぎました。 30目次 【書記―八十七年】 八十七年春正月戊子朔癸卯、天皇崩……〔続き〕 まとめ 六十七年条では瓠が沈むか浮くかによって、虬(みつち)の勝ち負けを誓(うけひ)する。 これは、十一年条の茨田堤の伝説と共通性がある。こちらは、水防工事の場面であった。 このことから、みつちや大蛇を退治した伝説は強暴な河川の氾濫を克服するための土木工事を表現したものであると、当時から解釈されていたことが伺える。 水防工事が伝説化したと見られる大蛇退治については、これまでに 居醒の清水に伝わる日本武尊の伝説(第132回)、 大矢田神社に伝わる建速須佐之男命の悪竜伝説 第75回) を見た。 さて、六十七年条で税を軽減して人民を富ませ、結果的に税収を増やした。去る四年に高台から人民の家々を眺め、竈から煙が立たないことから人民の貧しさを知り、税を軽減した十年までの取り組みに呼応し、 晩年もまた仁政で締めくくって形を整えている。ここでは特に、それが結局は反体制勢力による反乱の真の防止策であると述べている。 ところで、六十七年に寿陵を築き始めたという記述は極めて注目される。 巨大陵のいくつかは生前に築陵されたという確実な記録〔もしくは言い伝え〕が、書記の時代に残っていたのではないかと思われる。 大仙陵古墳〔伝仁徳天皇陵〕や、それに次ぐ巨大陵である誉田御廟山古墳〔伝応神天皇陵〕は、恐らくは寿陵であろう。 自分が死後に住むために築陵に努めたと思しき姿は、古代天皇のイメージをぐっと具体化するものである。 |
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⇒ [12-01] 履中天皇 |