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2017.04.01(sat) [11-01] 仁徳天皇紀1 ▼▲ |
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01目次
【即位前-1】
《大鷦鷯天皇》
大鷦鷯天皇(おおさざきのすめらみこと)は、誉田(ほんた)天皇の第四子です。 母は仲姫命(なかつひめのみこと)で、五百城入彦皇子(いほきいりびこのみこ)の孫です。 天皇は、幼くして聡明叡智にて、容姿美麗(うるわ)しく、 壮年に及んで仁寛慈恵の心がありました。 02目次 【即位前-2】 卌一年春二月、譽田天皇崩。……〔続き〕 03目次 【即位前-3】 時太子菟道稚郎子、讓位于大鷦鷯尊、……〔続き〕 04目次 【即位前-4】 《其地非大山守皇子地》
この時、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)は、倭(やまと)の屯田(みた)と屯倉(みやけ)を掌(つかさど)ろうとして、 屯田司(みたのつかさ)出雲臣(いづものおみ)の祖、淤宇宿祢(おうのすくね)に言いました。 「この屯田は、もとより山守(やまもり)〔大山守命〕の地であったが、 これからは私が治めていく。お前は掌ることはできない。」と。 そこで、淤宇宿祢は太子(みこ)に答えようとしましたが、 太子はそれを遮り 「お前は私にではなく、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)に申しあげよ。」と言いました。 そこで、淤宇宿祢は大鷦鷯尊に、 「私に任された屯田なので、大中彦皇子の求めは拒否し、治めさせません。」と申しあげました。 大鷦鷯尊は倭直(やまとのあたい)の祖、麻呂(まろ)に 「倭の屯田は、もともと山守の地だと言うが、実際はどうなのか。」問われると、 「私は存じませんが、私の弟の吾子籠(あごこ)が存じております。」と答えました。 たまたまこの時は、吾子籠は、韓国(からくに)に遣わされて帰っていませんでした。 そこで大鷦鷯尊は、淤宇に、 「お前が自ら韓国に行って吾子籠を喚べ。夜昼を問わず急いで行け」と命じ、 淡路の海人(あま)を数多く選んで水手としました。 そして淤宇は韓国に行き、ただちに吾子籠を連れ帰りました。 そして倭屯田のことをを問うと、吾子籠は 「伝え聞くところでは、纏向玉城宮御宇(まきむくのたまきのみやにしろしめす)天皇〔垂仁天皇〕の御世、 皇太子の大足彦尊(おおたらしひこのみこと)〔景行天皇〕に命じて倭の屯田を定められました。 その時の勅旨(ちょくし)は、 『およそ倭屯田は、常にその御世の天皇の屯田であり、 たとえ皇太子であっても、その御世でなければ掌ることはできない。』ということでした。 つまり、山守の地ではないということです。」と申しあげました。 よって、大鷦鷯尊は吾子籠を額田大中彦皇子のところに遣わして、そのありさまを知らせました。 大中彦皇子は、それまでは何も知らず、突然それが悪いことだと知ったのですから赦され、罪を負うことはありませんでした。 まとめ 応神天皇が崩じた後、皇太子に指名された菟道稚郎子皇子は即位せず、大鷦鷯皇子に皇位を譲ろうとする。 しかし大鷦鷯皇子も固辞し、天皇不在のまま日が過ぎる。大山守皇子は恐らくその隙をついて、在位中の天皇のみが所有できる屯田(みた)を我が物にしていた。 その田を額田大中彦皇子が奪おうとしたことをきっかけに、大山守皇子による不正な所有が露見したのである。 ここで淤宇宿祢(おうのすくね)は、大山守命の下ではたらく屯田の管理人であったと見られる。 また、吾子籠は以後次第に出世し、履中天皇紀・允恭天皇紀に「倭直吾子籠」、雄略天皇紀に「大倭国造吾子籠宿祢」として現れる。 さらに、大鷦鷯皇子は、既にすべてを裁可する立場であった。 なお、大中彦皇子が屯田を奪おうとした罪は、大山守皇子の重大問題が発覚したことによりうやむやになった。 記は、大山守皇子がクーデターを起こしたことを書くのみであるが、書紀は、そのきっかけとしてこの事件を加える。 |
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2017.06.10(sat) [11-02] 仁徳天皇紀2 ▼▲ |
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05目次 【即位前-5】 然後、大山守皇子、毎恨先帝廢之……〔続き〕 06目次 【即位前-6】 時太子視其屍、歌之曰、……〔続き〕 07目次 【即位前-7】 既而、興宮室於菟道而居之、……〔続き〕 08目次 【元年】 元年春正月丁丑朔己卯、……〔続き〕 09目次 【初天皇生日】 《木菟宿祢》
初めに天皇の生まれた日、木菟(つく)が産殿(うぶどの)に入りました。 翌朝、誉田天皇は大臣(おほまえつきみ)武内宿祢(たけのうちのすくね)を招いてこのことを語り、「これは何なる徴(しるし)であろうか」とお聞きになり、 大臣は 「それは吉祥でございます。実は、また昨日臣(しん)の妻も出産し、その時鷦鷯(さざき)が産屋(うぶや)に入りました。これもまた不思議なことです。」とお答えしました。 すると、天皇は仰りました。 「今朕の子と大臣の子は同日に共に産まれ、揃って祥瑞があった。 これは天の験(しるし)である。思うに、その鳥の名を取って互いに交換して子に名付け、後の世の契りにしたいと思う。」と。 こうして鷦鷯(さざき)の名を取って皇太子を大鷦鷯皇子(おおさざきのみこ)と名付け、 木菟(つく)の名を取って大臣の子を木菟宿祢(つくのすくね)と名付けました。 これが平群臣(へぐりのおみ)の始祖です。 この年は、太歳癸酉でした。 10目次 【二年】 立磐之媛命爲皇后。……〔続き〕 まとめ 平群臣は、大和国平群郡発祥の大氏族である (第108回平群臣)。 その始祖の名を大雀天皇の逸話と関連付けることにより、始祖を崇高化し氏族を権威づけしたと見られる。 |
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2017.07.22(sun) [11-03] 仁徳天皇紀3 ▼▲ |
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10目次 【二年】 二年春三月辛未朔戊寅、立磐之媛命爲皇后……〔続き〕 11目次 【四年~七年四月】 四年春二月己未朔甲子、詔群臣曰 朕登高臺以遠望之……〔続き〕 12目次 【七年八月】 秋八月己巳朔丁丑、 爲大兄去來穗別皇子、定壬生部……〔続き〕 13目次 【七年九月~十年】 九月、諸國悉請之曰 課役並免既經三年……〔続き〕 14目次 【十一年】 十一年夏四月戊寅朔甲午、詔群臣曰 今朕視是國者、郊澤曠遠……〔続き〕 15目次 【十二年】 《高麗国貢鉄盾鉄的》
イクハは的(マト)の古語である。 「生葉郡」が景行天皇十八年【日向国】《生葉郡》にあり、 またユクハという訓を、第108回【的臣】で見た。 的に矢を射る歌は万葉集に一例だけあり「圓」(円)の字を用いて「まと」としている。「まと」は、図形の円に由来するとされる。 万葉歌には「いくは」「ゆくは」はない。 さて、的戸田(いくはのとだ)の宿祢は、応仁天皇十六年八月に加羅に派遣されている(応神天皇11)。 しかしこの段では、盾人宿祢が仁徳天皇十七年七月四日になって初めて的戸田宿祢の名を賜る。 従って、両者の時間は逆転している。校訂の見落としでなければ、改名後の名を遡って使用している。 築後国生葉郡が戸田氏の本貫であるかどうかは分からないが、恐らくは「イクハ」の「トダ氏」が古代から存在し、 イクハと訓読みする「的」の字が宛てられるようになったのが真相であろう。 伝統訓では「鉄的」をクロガネノマトとするので、平安時代には「マト」が標準であったことが分かる。 奈良時代以前は、万葉歌の例が少ないから何とも言えないが、少なくとも共存している。 書記が書かれたときに、射弓の的を「かつてはイクハと言った」記憶が人々の中に残っていなければ、十二年条の話自体が成り立たない。 文章の流れから見れば、鉄的はクロガネノイクハと読む方が自然である。 しかし、イクハは書記が書かれたときには死語とまではいわないが、希にしか使われなくなっていたとすれば、用いるのは妥当性を欠くかも知れない。 一方、もし当時の人々に「イクハでもマトでも同じ」という認識が徹底していれば、 「鉄製の的(マト)を射抜いたから的(イクハ)の名を賜った」と書いても抵抗はない。 本稿では「マト」が一例のみとは言え万葉歌に存在する事実を拠り所として、ひとまず「マト」を採用する。 《勝工》 一部の訓読に「勝工」を「勝工(すぐ)れたる」と訓み、「工」を無視する例を見る。 文脈を見ると、この日高麗人は絶対に矢を通さない鉄製品を持ち込んで、その優れた加工技術を誇った。 ところが、盾人宿祢は「工(たくみ)」〔=鉄製品製造技術〕に打ち勝って矢を射通し、面目を丸潰しにさせたのである。 よって「工」の字は文の要だから、その意味するところを漏らさずに訓読しなければならない。 《溝》 大溝の伝統訓は「オホウナテ」である。 一方、ミゾも天つ罪のひとつにミゾウメが示されるから、古い語であろう。 ウナテはもともと「畝のところ」の意味だから、田圃を囲む細い水路がイメージされる。 ミゾのミは水だと思われるから、ミゾは水路そのものであろう。 つまり、ウナテは風景で、ミゾは物理機能である。 従って、「オホ」をつける場合は、ミゾの方が合うのでないかと思われる。 《大意》 十二年七月三日、 高麗国(こまのくに)は鉄盾、鉄的を献上しました。 八月十日、 高麗の客人を朝廷に招き、饗応しました。 この日、群臣(まえつきみたち)と官僚たちを集め、 高麗(こま)が献上した鉄盾、鉄的を射させましたが、 誰も的を射通すことができない中で、 ただ的臣(いくはのおみ)の先祖、盾人(たてひと)の宿祢(すくね)のみが、鉄的を射通しました。 その時、高麗の客人たちはこれを見て、矢を射る技が工人の技術に勝ったことに恐れ入り、 ともに立ち上って、朝廷に拝礼しました。 翌日、盾人の宿祢を愛でて、的戸田(いくはのとだ)の宿祢の名を賜りました。 同日、小泊瀬造(おはつせのみやつこ)の祖(おや)、宿祢(すくね)の臣(おみ)は、賢遺臣(さかのこりのおみ)の名を賜りました。 十月、大溝を山城国の栗隈の県(あがた)に掘り、田を灌漑しました。 これにより、その地の農民は毎年豊かになりました。 16目次 【十三年~十四年】 十三年秋九月、始立茨田屯倉……〔続き〕 17目次 【十六年~十七年】 《朕欲愛是婦女》
枕詞「みかしほ」は、播磨が塩の産地だったからか。「みか」は美称の接頭語で、 甕速日神(みかはやひのかみ;第38回)、 天之甕主神(あめのみかぬしのかみ;第68回)、 天津甕星(あまつみかぼし;第68回【一書2】) の例がある。 また、別説として「甕潮」がある。 つまり、播磨灘の激しい海流から「いかしほ」という地名が生じた。 「いか」はもともと雷(いかづち)などのように、超自然的な脅威を意味する。 「みか」が「いか」に類すると見れば、「みかしほ」も播磨灘の海流に由来することになる。 《歌謡》
この歌は誰かこの女性を引き受けてくれないかと、歌というには直接的に語っている。
「岩下す」は「畏(かし)こまる」の原義「恐れる」による枕詞と見られる。 天皇による募集に対して、速待が文字通り名乗り出た。答えもまた、歌としては直接的である。 なお、この歌によって人名「速待」の訓は完全に確定する。 《玖賀媛の墓》 書記が書かれた頃には、難波から桑田郷までの経路のどこかにこの言い伝えの残る墓があったはずである。 おそらく、中小規模の古墳であろうと想像されるが、その伝承は絶えたようである。 検索をかけると、被葬者不明の千歳車塚古墳(京都府亀岡市千歳町千歳車塚;前方後円墳、6世紀前半、墳丘長82m)があり、 『新修亀岡市史』〔1995〕は、<wikipedia>玖賀媛の墓が本古墳に擬された可能性を指摘する</wikipedia>という。 他の説は、今のところ見つからない。 《匹》 漢書によれば「布帛廣二尺二寸為幅長四丈為匹」。 漢尺(23.0303cm)を用いると、1匹は、横幅50.6cm、長さ9.21m (魏志倭人伝をそのまま読む-第71回)。 日本では、『令義解〔令のぎげ;律令の解説書。833年〕巻三』の「賦伇令第十」に「疋」が見える。曰く、 「凡調二絹絁【謂細爲絹也。麁爲絁也】一。絲綿布並二郷土所一レ出。 正丁一人絹絁八尺五寸。六丁成レ疋【長五丈一尺廣二尺二寸】」 〔凡(おほよそ)凡調【謂はく、細きを絹とし、麁(あら)きを絁とす。】を調(みつ)ぐは、郷土(くに)の出づるに並(よ)る。 正丁一人に絹絁八尺五寸。六丁(むたり)疋(むら)を成す【長さ五丈一尺広さ二尺二寸】〕 などとある。 「賦伇〔賦役〕」とは、「調」〔織物、特産品などの人頭税〕を意味する。 「絹絁」(きぬかとり)とは、絹は細織、絁は荒織の生地。絲は糸、綿は絹、布は植物繊維(麻など)。 つまり、正丁〔課税の対象となる成人〕一人につき八尺五寸〔2.7m※〕、 六人で一疋〔むら〕=五丈一尺〔16.2m〕、幅二尺二寸〔66cm〕と規定される。 ※…正倉院御物の尺=約30.0cmによる。(第116回) ただし、「絲綿布並郷土所出」。つまり、納める生地等の種類は、その土地ごとに自由であるが種類ごとに納める分量が、細かく定められている。即ち、 ・美濃絁(みののきぬ)の場合、成人一人当たり「六尺五寸」、八人で「一」【五丈二尺、幅は絹絁と同じく二尺二寸。】とされる。 ・同じく一人当たり、絲なら八両、綿なら一斤、布なら二丈六尺で、 それぞれ二人分を一絇〔=十六両〕、一屯〔=二斤〕、一端〔=五丈二尺、幅二尺四寸〕という。 ・望阤布※(まうたのきぬ)なら、四人で一端〔五丈二尺、幅ニ尺八寸〕。 ※…〈倭名類聚抄〉{上総国・望施【末宇太〔まうた〕】郡}。 このように、生地の一巻の長さ「匹」に相当する単位は、反物の種類ごとに疋・・端が使い分けられている。 和訓はいずれも「むら」だと見られるが、音読みの疋(ヒツ)・(ゴツ?)・端(タム)も当然用いられたと思われる。 続けて生地以外の特産物を納める場合は、「若輸二雜物一者。鐵十斤。鍬三口。…」〔もし雑物を輸(うつ)さば、鉄十斤、鍬(すき)三口…〕とあり、 続けて塩・鰒・鰹・烏賊(イカ)・海鼠(ナマコ)・海松(ミル)・鮨・胡麻(ゴマ)油・紙・山薑(ワサビ)・鹿角など多様な品目が列挙され、それぞれについて分量が細かく定められている。 《種々雑物》 前項により、調のうち生地以外を「雑物」と表現するのは、律令の賦役に関する用語に従う。 従って、十七年条の「闕二貢之一」〔貢を欠く〕とは、 「倭国の施政下にある行政機関が、徴集したはずの調の納入という行政行為を怠った」という意味である。 史実においては新羅から外交儀礼としての朝貢が存在したのは事実であるが、国内の徴税と同程度の規模と同じしくみがあったとするのは虚構である。 書記は、ここでも虚勢を張っている。 伝統訓は、「種々雑物」に対して「くさはひのもの」という優雅で文学的な表現を用いるが、 原文は施政下の徴税業務における失態として書くから、律令の用語を用いるべきである。 古語において「雑物」の読みは「ざふもつ」〔ゾオモツ〕であるが、上代に遡れば音便による変化以前の形である「ざつもつ」が適切であろうと思われる。 《的臣》 〈姓氏家系大辞典〉は、十七年の戸田宿祢の「新羅征伐」を好太王碑文に書かれた倭国軍の渡海に当たるものとし、 「此の遠征は大成功にて、的氏の武勇の程も想像さる。従って的なる名を賜ひしと云ふも恐らく事実ならんかと考へらる。」 と述べる。筑後国生葉郡の生葉氏は、的氏に関係あるかも知れないとは述べるが、強い関連性は見出していない。 的臣は「本貫詳しからざれど、恐らく山城か河内の内なるべし。」、また 「もと職業より越りし〔ママ〕か、地名より起りしかによりて、的氏の起源に差異有り。」と述べつつ、 「高麗の献ぜし鉄盾を射通」したことを「事実とすれば的氏の起源は甚だ明確なり」として、 著者が十二年条を半ば事実と信じている点は、意外である。 《小泊瀬造》 神武天皇段に「神八井耳命は、小長谷造の祖なり」がある (第101回)。 また、天武天皇紀十二年丈に「小泊瀬造…賜二賜姓一曰レ連」とあり、連(むらじ)姓を賜る。 「小泊瀬稚雀神社」のある奈良県高市郡明日香村が本貫かとも考えたが、詳しいことは分からない。 《大意》 十六年七月一日、 天皇(すめらみこと)は、宮人(みやびと)桑田の玖賀媛を紹介して、近習、舍人(とねり)たちに仰りました。 「朕は、この女子を寵愛しようと望んだのであるが、皇后の妬みに苦しんで、 迎え入れることができぬまま、長年が経った。どうして徒(いたずら)に其の女盛りを妨げることができようか。」と。 そして、御歌にして問われました。 ――水底経(みなそこふ) 臣の乙女(をとめ)を 誰や養はむ すると、播磨国造(はりまのくにのみやつこ)の先祖速待(はやまち)が、一人進み出て歌詠み申し上げました。 ――みかしほ 播磨速待(はやまち) 岩下す 畏(かしこ)くとも 吾(あれ)養はむ その日ただちに、玖賀媛を速待に賜りました。 翌日の夕方、速待は玖賀媛の家に行きましたが、 玖賀媛は受け入れず、それでも強引に帷(とばり)の内に入って近づきました。 その時、玖賀媛はこのように話しました。 「妾(わらわ)は、寡婦のまま寿命を終えようと思います。どうしてあなたの妻になることができましょうか。」と。 そこで天皇は、速待の志を遂げてやろうと思い、 玖賀媛に、速待を付き添わせて、桑田に送らせるように取り計らいましたが、 玖賀媛は発病して、道の半ばで死にました。 よって、今も玖賀媛の墓があります。 十七年、新羅は朝貢しませんでした。 九月に、的臣(いくはのおみ)の先祖の砥田(とだ)の宿祢、小泊瀬造(おはつせのみやつこ)の先祖、賢遺臣(さかのこりのおみ)を派遣し、 貢を欠いたことを詰問させました。 すると、新羅の人はこれに恐れ入り貢献し、 貢の内容は絹(きぬ)一千四百六十匹(ひつ)と、種々の雑物と併せて全体で八十艘に及びます。 まとめ 朝鮮半島からは、さまざまなものと技術がもたらされた。 十二年条の伝説は、渡来人が持ち込んだ様々なものに、鉄製品製造技術も含むことを反映したと思われる。 「いくは」に繋がる地名で明瞭はものは、筑後国生葉郡のみである。 生葉郡を本貫とする一族が、たまたま弓術を得意とする集団に成長して畿内に進出した結果、逆にマトの俗称が「いくは」になったという想像も可能である。 弥生時代の鉄鏃の地域別出土数を比較したデータがあり(『鉄の古代史』奥野正雄)、 それによると鉄鏃の出土数は、九州606、中国・近畿が268、四国17、北陸20、その他0で、 九州が圧倒的である。的一族が持ち込んだ鉄鏃を使って高度な技をもってすれば、あるいは鉄的にも勝つかもしれない。 十六年条、玖賀媛は仁徳天皇に寵愛される機会はなかったが、それでも天皇の宮殿にいた方が幸せだったのだろう。 天皇はよかれと思って行ったことなのだが、玖賀媛はどうしても速待には心を開けなかった。 皇后の嫉妬を示すひとつのエピソードとして加えられたに過ぎず、添えられた歌謡も稚拙だが、印象深い話である。 |
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2017.07.29(sat) [11-04] 仁徳天皇紀4 ▼▲ |
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18目次
【二十二年】 《納八田皇女将為妃》
二十二年正月、天皇は皇后に語られました。 「八田皇女(やたのひめみこ)を宮中に納め、妃にしようと思う。」と。 その時皇后は許さず、そこで天皇御歌によって、皇后にお願いされました。曰く。 ――貴人(うまひと)の 絶つる事立て うさ弓弦(ゆづる) 絶ゆば繋がむと 並べてもがも 皇后は返し歌を詠まれました。曰く。 ――衣こそ 二重(ふたへ)も好(よ)き 小夜の子を 並べむ君は 畏(かしこ)きろかも 天皇は、また御歌を詠まれました。曰く。 ――おしてる 難波の先の 並び浜 並べむとこそ 其の子は有りけめ 皇后は返し歌を詠まれました。曰く。 ――夏虫の 蛾(ひむし)の衣 二重着て かくみやだりは 豈(あに)好くも非ず 天皇はまた御歌を詠まれました。曰く。 ――朝妻の 坂の小坂(をさか)を 片なきに 道行く者も 副(たぐ)ひてぞ吉(よ)き 皇后は、とうとう許さないと言って黙し、それ以上天皇の言葉にお答えになることはありませんでした。 【歌意】
神功皇后段に「自二頂髪中一採二-出設弦一【一名云宇佐由豆留】〔うさゆづる〕」 として、予め用意した弦「まうけのゆづる」のことを、「うさゆづる」ともいったことを示している (第144回)。 ここでは、皇后を「いつか切れてしまうであろう弓弦」に譬え、「予備の弓弦のように、妃を用意しておくのだ」と、 失礼極まりないことを言い放つ。 仁政の人仁徳天皇は、身内に対してはまこと無神経であったのである。
係助詞「こそ」は、「よし」の已然形「よけれ」で結ぶはずだが、 〈古典基礎語辞典〉(大野晋)によれば「上代では形容詞の已然形が未発達だったので」「連体形であった」とされる。 《さよのこ》 一般には「さよどこ」(小夜床)と読まれている。それは「並べる」の対象は「床(とこ)」であろうと解釈した結果と思われる。 万葉集には、「よどこ」があるから、おそらく「さよどこ」という言い方もあったと思われるのは確かである。 (万)0194 烏玉乃 夜床母荒良無 ぬばたまの よどこもあるらむ。 「小夜床」は、「第二夫人のための床」として意味は通る。 ただ、これには違和感を憶える。 前歌では「並べる」対象は姫二人だから、この歌でもその流れから姫二人を「並べる」と受け取るのが自然ではないだろうか。 そこで「廼」を「ど乙」でなく、「の乙」と読んでみる。格助詞「の」は乙類だから、この訓みは可能である。 すると、「二着の衣の重ね着でもあるまいに、小夜の子(ともに夜を過ごす子)を二人並べようとするあなたは、恐ろしい人ですわ」というストレートな表現になる。 これだと逆に分かり易過ぎる気もするが、次の歌の「その子は有りけめ」が「小夜の子」を受けることもできるから、妥当だと思われる。 《かしこきろかも》 万葉歌にも「ろかも」の例がある。 (万)0053 藤原之 大宮都加倍 安礼衝哉 處女之友者 乏吉呂賀聞 ふぢはらの おほみやつかへ あれつくや をとめがともは ともしきろかも。 この歌は、〔生まれながらに大宮仕えをする乙女たちが羨ましい〕と、自分の気持ちを歌う。 このように「ろ」は、助詞として形容詞の連体形につき、機能は自己の感情を強く訴えることと思われる。 これについては、「~き+いろ(色)」の母音融合に由来するという説も見る。 ただ、その場合は「色」の作用の仕方が、よく分からない。 ここの「畏こし」は目上の人に対して「畏れ多い」ではなく、原意の「恐ろしい」そのままと思われる。 そして「ろかも」によって、相手を強く非難していると言えよう。
「那羅弭破莽」は「ならび甲はま」である。 一般的に四段活用の連用形はイ段甲類だから、「ならび甲」が「並ぶ」に由来するのは間違いない。 「並び浜」は地名かも知れないが、〈倭名類聚抄〉にも現代地名にも見つからない。 地名でなければ、いくつかの浜が隣り合って並ぶ様か。 ただ続けて「ならべむ」とあるから、単に語呂合わせでとして「並びの浜」と書いたのかも知れない。 この歌は、「その子は宮殿には入れず、難波の先の方の浜に〔別宮を建てて〕置く予定だったのだから。」と譲歩を見せる。
皇后は再び二重の衣を引き合いに出すから、天皇が上の歌で譲歩を尽くしても皇后の気持ちは、前の返歌から一歩も動いていない。 夏虫・ひむしは、何れも蚕のことである。「夏虫の」は一見枕詞のように見えるがそうではなく、 「夏虫の糸の」と「ひむしの糸の」が二重の衣それぞれに係っている。 ことによると、「なつむし」「ひむし」は蚕の品種で、品種によって布地の質感が異なるのかも知れない。 そして二人の妃を置くことを、異種の衣を重ね着することの悪趣味に譬えていると読める。 《かくみやだりは》 一般に「囲み屋たりは」と解釈される。 一般釈のように「だり」が仮に助動詞「たり」だとすれば、連体形を用いて「たるは」になる。 万葉集では、(万)1479 櫻花者 開有者 さくらのはなは さきたるは。など、すべて「たるは」である。 したがって、「たりは」(終止形+係助詞)は、極めて考えにくい。。 さらに「儾」が清音タと読み得ないことは、以前に論じた( 応仁天皇紀3《万葉仮名の"儾"》)。 「たり」は「~てあり」に由来し、連用形を受ける。体言「屋」を受け、ましてや連濁して「やだり」になることはあり得ない。 だから、「囲み屋たりは」という解釈は問題にならない。 ところで、「かくみやだり」と仮名書きしてみたところ、誤って「かくやみだり」に見えた。 このように「かくや」と「みだり」とするなら、どちらも万葉集に複数ある。 ――(万)4090 可久夜思努波牟 かくやしのはむ。――(万)1592 苅乱 かりみだり。 この場合、「や」は詠嘆の間投助詞で、 「みだり」は「みだる」[自]上ニ。または[他]ラ四。の連用形〔体言に転化する〕である。 「かくやみだりは」だとすれば、歌意は「絹の衣を二着も重ね、その着方は乱れて見苦しい。全くよくない。」 となる。これなら二人目の妃を持つことへの皮肉として意味が通り、なおかつ分かり易い。 しかし、字の順序を入れ変えるのやはり躊躇される。 字順を変えずに唯一可能な解釈は、「屋足り」である。「足り」は「は」の前でもよい。 また、「屋+足る」が堅く結合した動詞句だとすれば、連濁もあり得る。 「囲み屋足り」は、「第二夫人を囲む家を確保する」意味になり、上代語としてあり得る。 ただし、「屋足る」は他には例がないらしく、〈時代別上代〉はじめ各種古語辞典の見出し語にはない。 よって、もし許されるなら「如此や乱り」と読みたいところである。
万葉集に、朝妻の歌が二首ある。 (万)1817 今朝去而 明日者来牟等 云子鹿丹 旦妻山丹 霞霏霺 けさゆきて あすはきなむと あさづまやまに かすみたなびく。 (万)1818 子等名丹 關之宜 朝妻之 片山木之尓 霞多奈引 こらがなに かけのよろしき あさづまの かたやまきしに かすみたなびく。 「朝妻」は、幕府領に「朝妻村本郷」。明治22年〔1889〕町村制により、朝妻村本郷を含む葛上郡南西部が「葛城村」になる。 町村制以前の村名は「大字」として残され、現在なお葛城市内に「大字朝妻」が存続している。 天武天皇紀九年九月条には、「幸二于朝嬬一」〔朝嬬(あさづま)に幸(いでま)しき〕という記事がある。 続けて「因以看二大山位以下之馬於長柄杜一、乃俾馬二的射之一。」 〔しかるを以ちて、大山位以下の馬を長柄杜に看して、馬をして的射せしむ。〕とある。 長柄社は式内社{葛上郡/長柄神社【鍬靫】}で、比定社「長柄神社」は、奈良県御所市名柄271。 天武天皇は長柄神社で、冠位大山位以下の者による馬揃えを謁見し、流鏑馬をさせたようである。 「幸朝嬬因以看…於長柄杜」という書き方からは、 「長柄杜は朝妻の範囲内であった」と受け取るのが自然である。 また〈新撰姓氏録〉に、秦忌寸が朝妻に居住地を賜った記事がある。 〖秦忌寸/太秦公宿祢同祖/功智王弓月王。誉田天皇十四年来朝。上表更帰レ国。率二百廿七県伯姓一帰化。并献二金銀玉帛種々宝物等一。天皇嘉之。賜二大和朝津間腋上地一居之焉。〗 ここで「帰国」は帰化のこと。即ち〔功智王と弓月王は百二十七県の人民を連れて帰化し、応神天皇から朝津間(あさづま)・腋上の土地を賜って居留した〕。 弓月王が一族を率いて帰化し、秦忌寸などとして居住したことは、応神天皇段で述べた (第152回【秦氏】)。 掖上は葛上郡北東部である。 また、神功皇后紀五年に葛城襲津彦が新羅の一族を連れ帰った記事があり、その居住地とされる桑原・佐糜・高宮・忍海の四邑は葛上郡の縁辺部であると想定した (神功皇后紀3)。 佐糜・高宮は朝妻村の南の西佐味・東佐味の辺り、桑原は池ノ内付近、忍海は忍海郡と推定される。 これは弓月王の帰化とは別のこととして書かれるが、渡来民を全体的に見れば、実態としては波状的に帰化し、葛上郡のあちこちに居住していたと見られる。 記紀の「朝妻」はその居住地のいくつかを含むと見られ、江戸時代の「朝妻村本郷」より広い地域であろう。 《朝妻のさかのをさか》 「さかのをさか」という同語反復は、歌謡にリズムを生み出す。 大字朝妻付近の傾斜は東西方向(西に高い)だが、そこを通る街道は南北方向で、道の高低差はない。 一方、長柄神社まで行くと水越峠越しに大阪府富田林市に向かう街道(現国道309号線)があり、 西向きの上り坂である。前項で述べたように当時の朝妻が大字朝妻より広かったとすれば、 長柄神社も朝妻の中にあり、水越峠に向かう坂を指した可能性がある。 《片なき》 万葉歌の「片~」には、片恋、片念〔かたもひ;=片思い〕、片去〔かたさる;=隣で枕を使う人が不在〕、片待〔かたまち〕 など、相手が不在の寂しさを詠む例が多い。よって、「片なき」の一般の解釈「片泣き」には頷けるものがある。 ところで、皇后が嫉妬した対象の矢田皇女は、 和珥臣日触使主の孫とされるので、和珥氏出身である。 兄の菟道〔宇治〕稚郎子皇子の妹であるから、山城国の和珥氏ではないかと思われる。詳しくは第167回で検討する。 乙女が「片泣き」する朝妻の地は、前項で見たように南郷遺跡の葛城王都を含む地域だから、 この歌が詠む乙女は皇后磐之媛命である。 すると第五歌はこれまでと一転して、怒って泣く皇后をなだめようとする歌であるということになる。 しかし、すっかり臍を曲げた皇后は押し黙り、もう何も喋らなくなってしまった。 まとめ これらの歌については一般に様々な解釈がなされているが、仁徳天皇と磐之媛命の言い争いという流れの中で読み取るべきであろう。 第一歌から第四歌まで、共通するキーワードは「並べる」「二重の衣」「子」である。 ここで「子」は第二夫人、「並べる」「二重の衣」が第二夫人の娶りを意味する語として一貫しているのは、明らかである。 第五歌になると一転して「並べる」が消えて「副(つが)う」となり、さらにその舞台は磐之媛命の出身地だから、 私の本当の気持ちは磐之媛命を向いていると言い繕っている。 しかし、これだけあからさまに第二夫人に執着した後では、もはや手遅れであろう。 さて、もう一つ注目されるのは、第三歌で第二夫人は難波の先の浜に置くと歌うところである。 ということは、ここで第二夫人にしようとした姫は矢田皇女ではなく、もともとは黒日売を廻る確執であろう。 二十二年条は、記の黒日売段に付属するするものと言える。 ところが書紀は黒日売の存在を抹消したから、ここでは矢田皇女に置き換えた。 もともと抹消した理由を振り返ると、黒日売の話を応神天皇紀の兄媛に移したからである。 このように考えてみるとぴったり説明がつくのは、まことに不思議である。 |
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2017.08.21(mon) [11-05] 仁徳天皇紀5 ▼▲ |
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19目次 【三十年九月】 卅年秋九月乙卯朔乙丑、皇后遊行紀國……〔続き〕 20目次 【三十年十月】 冬十月甲申朔、遣的臣祖口持臣喚皇后……〔続き〕 21目次 【三十年十一月】 十一月甲寅朔庚申、天皇浮江幸山背……〔続き〕 22目次 【三十一年~三十八年】 《立八田皇女爲皇后》
磐之媛命墓は、〈延喜式諸陵寮〉に「平城坂上墓。磐之媛命。在大和国添上郡。兆域東西一町南北一町。無守戸。令楯列池上陵〔神功皇后〕戸兼守。」とある。 宮内庁は、ヒシアゲ古墳を「平城坂上陵」に治定している。ヒシアゲ古墳は佐紀盾列古墳群に属する前方後円墳で、墳丘長219m。 <wikipedia>築造時期は5世紀中葉~後半と思われる。</wikipedia> 諸陵寮によると神功皇后陵と守戸を共有することから考えると、少し離れすぎのようにと思われる。 磐之媛命が葬られたのは、葛上郡の室宮山古墳もあり得ると考えた (第162回【石之日売】・まとめ)。 次に考えられるのは、晩年に宮を置いた山城国綴喜郡だが、大型前方後円墳を欠く。さらに、 仁徳朝の百舌鳥古墳群も可能性がある。 それらと比較すると、佐紀盾列古墳群は最も理由が乏しい。 磐之媛命墓は、同古墳群からそれらしい規模の一基を選んだように思える。 《避暑》 「避暑」の訓みは、〈時代別上代〉「『…避暑』(仁徳紀三八年)の訓によれば、動詞スズムも存したか。」と言われる。 大修館書店版古語辞典には「すずしむ」があり、文例として御伽草子「暑き折には枕や座をあふいですずしめて」がある。御伽草子の年代は室町時代が中心である。 「すずしむ」には「状態にする」意味がつけ加わっているので、「すずし」の単純な動詞化とは言えない。 特有の意味が加わった「すずしむ」が言葉として広まるには一定の時間を要すると思われるので、奈良時代以前に遡るかも知れない。 「すずむ」は「すずしむ」の変と思われるが、それ以上のことは全く分からない。 《菟餓野》 香坂王・忍熊王が神功皇后を迎え撃つ前に「斗賀野」で誓(うけひ)狩りをしたところ、香坂王が猪に食い殺された話があった (第143回【斗賀野】)。 菟餓野は現在の梅田のあたりと考えられていて、復古地名となっている (右図。資料[17])。 《鹿》 〈倭名類聚抄〉には「鹿【和名加】〔か〕」、「牝鹿曰麀【音家和名米加】〔音ヤ、和名めか〕」、 「牡鹿曰麚【日本紀私記云牡鹿佐乎之加】〔日本紀私記に云ふ。牡鹿さをしか〕」 とあり、性別を問わないのが「か」とし、雄を表す「しか」は「さをしか」の略であると考えていたようだ。 それでは、万葉集ではどのように使われていたか。用例は大変多いが、代表的なものを拾い出してみる(右表)。
次の例では、「しか」は性別を問われない。 「(万)1678 昔弓雄之 響矢用 鹿取靡 むかしさつをの なりやもち しかとりなべし。〔さつを=猟人〕」 しかしこの歌には「鹿(か)取り靡(なび)けし」とする訓もあるので、決定的ではない。 もし万葉集の「しか」が性別を問わず、それが既に一般的だったとすれば「牡鹿・牝鹿」は、「をしか・めしか」と訓むのが妥当ということになる。 「か」はどうやら古風な呼び名と見られ、これを用いるなら「しか・めか」となる。 『倭名類聚抄』は平安時代の書ではあるが、ことによるとその時代に一般的な言葉ばかりではなく、 廃れ行く上代語、当時から見た古語が中心かも知れない。 そう考えると納得できる点がいくつかある。 《懐抱》 『仮名日本書紀』では、「ものおもひ」と読める。 上代語の「ものもひ」の意味は「物思いにふけること」である。 類聚名義抄(観智院本)の古訓「いきどほり」は、鬱積した気持ちを表していてここには重すぎるように感じられ、「物思ひ」が適当ではないかと思われる。 《佐伯部》 日本武尊が東国から連れ帰った俘虜は、はじめは伊勢神宮に献上された。 景行天皇紀五十一年条に「所レ献二神宮一蝦夷等、昼夜喧譁、出入無レ礼。」とあり、 蝦夷が騒ぎを起こしたので、倭姫は「不レ可レ近二於神宮一。」と訴えて御諸山の傍らに移されたが、更に住民に迷惑をかけ、 とうとう播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波に移されて佐伯部の祖となった (景行天皇紀5)。 〈新撰姓氏録〉「播磨の佐伯直」には、日本武尊が東国から連れ帰った俘虜は、 播磨・安芸・阿波・讃岐・伊予に分布し、播磨の一族を佐伯直が統率したとある (第122回)。 仁徳天皇三十八年条で佐伯部が畿内から遠ざけられたところには、これと共通のモチーフが見える。 佐伯部のことを「奴らは鹿の鳴き声の風流さは知らず、ただ猟の対象として見るだけの連中だ」とする偏見が感じられる。 以下、佐伯部について〈姓氏家系大辞典〉の記事から抜粋する。 佐伯部は「佐伯人を以って組織せし品部にして其の数多く、又軍事に従事して屡々〔しばしば〕戦功を樹つ。」と述べる。そして、 行方郡〔なめかた郡;茨木県〕などに「佐伯」を見出し、日本武尊が連れ帰った俘虜は、「常陸陸奥地方の佐伯の事」だと述べる。 ただし、全国各地の佐伯部は「土蜘蛛、国栖等と同様〔中略〕太古の住民の遺留せしものと考えられる」 としつつ、こと「武尊征伐の捕虜」に関しては「永く固有性を持続せし純粋の蝦夷族かと思はる」とする。 佐伯は「最初は種族名として異人種と見做され、その勇猛粗野の性格は一般人の恐るゝ処なりき。」 「その勇敢なる性質を利用し、多く軍事に使役し、その名次第に高まり、その頭梁となりし皇別、神別の諸氏は、有力なる地位を占むるに至れり。」 そのうち「播磨の佐伯直」は「播磨佐伯部の伴造〔とものみやつこ;統率者〕也。」とする。 また、「猪名県佐伯部」は「摂津の佐伯部也」、 「渟田佐伯部」については、佐伯氏の族である奴田連は「安芸国沼田(ヌタ)郡奴庄(沼田庄)の豪族」の「裔か」と述べる。 《猪名県佐伯部》 猪名郷にいたとされるのは、渡来した技術者集団の猪名部である (応仁天皇紀4)。 〈姓氏家系大辞典〉は、「太古の住民の遺留せしもの」も広く佐伯と呼ばれたとするので、 渡来民のうち荒っぽい集団を「佐伯」に含めたことも、考えられなくもない。 ただ、本来の意味の佐伯も播磨郡にはいたので、その一部が隣接地域に移っていたとするのがやはり順当かも知れない。 《推佐伯部獲鹿之日夜及山野即当鳴鹿》
※…ここでは、実質的に「~だから」の意味。 こうして、「佐伯部獲鹿(S3)・之・日夜及(V3)山野(O3)」により、「すなはち鳴鹿なる当(べ)し」と判断したのである。 従属節内の「佐伯部(S4)獲(V4)鹿(O4)」もまた、主述構造を名詞化して主語にしたもの(「佐伯部が鹿を獲ること」)である。 この部分は「佐伯部の獲りし鹿」とも訓めるが、それではうまくいかない。 「当」は、「当たる」〔遭遇する〕でもよいが、 これを「推」(おしはか)っているのだから、「当(べ)し」が適当であろう。 「推」の訓読は、上代の会話文の形に準じて「推(おしはか)らく『…』と推る」と前後から挟む形も考えられる。 《白霜》 「白霜」としては、〈汉典〉の見出し語にはなく、〈中国哲学書電子化計画〉の諸文献でも僅か3例である。 このように、倭語の「しらしも」・漢籍の「白霜」という言い方は基本的には存在しないと考えられるので、二文字にまたがって「しも」の訓をあてるべきかも知れない。 しかし、後の文に「以白塩塗其身如霜素之応也」〔白い塩を体に塗ることを、霜の白さが表している〕 とあるから、塩の霜に共通する「白色」を強調するために、わざわざ「白」をつけて「しろきしも」、「白塩」も「しろきしほ」とした可能性が高い。 《以白塩塗其身如霜素之応也》 摂津国風土記(次項)の類似箇所が「雪は、肉にまぶす塩を暗示する」を意味することは、容易に読み取れる。 書記もそれと同じ内容だろうと思われ、「以白塩塗其身如霜素之応也」は「肉に塩をまぶされることになる運命を、背中の白い霜が暗示している。」という意味であろう。 しかし、後半の「如霜素之応也」は文法に沿って理解することが難しい。 この部分についてはまず、 ①「如」を動詞と位置づけ、「霜のしろさの応(こたへ)に如(し)く。」〔霜の白さへの夢解きのようなものである〕 とすることが考えられる。 しかし、一旦出した結論をわざわざ「~にしく」とぼかす意味がよく分からない。次に、 ②「之」には様々な用法があるが、その一つに「V-O」を倒置したときに之を挟んで「O-之-V」とする場合がある。 この文がそれだとすれば、「如霜素」は「応」の目的語で、 「霜の如き素(しろ)さに応(こた)ふ」〔(白塩を体に塗られることこそが)霜の白さへの答えである〕 と訓む。文意はこの方が明快である。 なお、「如~之」は連体形「~の如き」を表すことができる。その場合、名詞の「応(こたへ)」にかかり「霜のしろの如き応(こたへ)」となることも理屈の上では可能であるが、 万葉集を見ると「~如き」は具体物につくもので※、「こたへ」のような抽象名詞にはなじまない。 だから、ここでは「如レ霜素」〔霜の如き素(しろ)〕が自然である。 ※…例えば、「(万)3791 為軽如来 腰細丹 すがる〔腰がくびれた蜂〕のごとき こしぼそに」など。 《大意》 三十一年正月十五日、 大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)を皇太子に立てられました。 三十五年六月、 皇后の磐之媛命(いわのひめのみこと)は、筒城宮(つつきのみや)にて薨じました。 三十七年十一月十二日、 皇后を乃羅山に葬りました。 三十八年正月六日、八田皇女(やたのひめみこ)を皇后に立られてました。 七月、天皇と皇后は高殿にいらっしゃり、避暑なされました。 その時、毎夜毎夜、菟餓野(とがの)より、鹿の鳴き声が聞こえてきました。 その声は清(さや)かで悲しく、聞く者に憐みを共感させるものがありました。 晦日になると、鹿の声が聞こえなくなり、天皇は皇后に語られました。 「今夜は、鹿が鳴かない、そのわけは何だろうか。」と。 あくる日、猪名県(いなあがた)の佐伯部(さえきべ)が、捧げものの食物を献上しました。 天皇は膳夫(かしわで)に命じて、「その捧げものは、どういうものか。」と質問させました。 答えて「牡鹿(おしか)でございます。」と申しました。 さらに「それはどこの鹿か。」と質問されたところ、 「菟餓野(とがの)でございます。」とお答えしました。 その時天皇は、この捧げものは絶対にあの鳴いていた鹿であろうとお思いになりました。 そこで、皇后に語られました。 「私は、最近物思いすることがあり、鹿の声を聞きいて慰めていた。 今推るに、佐伯部が鹿の狩猟は、日夜を問わず山野に及んでいたから、鳴いていた鹿に違いない。 その人は、私が愛でていたことを知らず、偶然狩猟で出逢ったにしても、 なお我慢できずに恨みがある。 よって、佐伯部が皇居に近づくことを望まない。」と。 こうして官僚に命じて、郷を安芸(あき)の渟田(ぬた)に移させました。 これが、今の渟田佐伯部(ぬたのさへきべ)の先祖です。 俗に、こう言われます。 ――昔、一人の人がいて、菟餓に行って野の中で寝ました。 その時、二頭の鹿が傍らに伏せて、夜が明けるまでいようとしていました。 牡鹿は牝鹿に語りました。 「私は、今夜夢を見た。白い霜がいっぱい降りて私の体を覆った。 これは、何の徴(しるし)だろうか。」と。 牝鹿は、こう答えました。 「あなたが出て行けば、必人に射たれて死ぬえしょう。 というのは、白い塩を体に塗られることこそが、霜の白さの答だからです。」と。 その時寝ていた人は、心の中で不思議な話だと思いました。 未だ暁に及ぶ前、猟人が表れ、牡鹿を射て殺しました。 これによって、当時の人は諺に、 「鳴く牡鹿や、夢あわせのままに。」と言いました。 【菟餓野鹿】 『釈日本紀』巻十二述義八「菟餓野鹿」の項に、『摂津国風土記』からの引用がある。 ここにその原文を読み下す。 なお上付きの小文字は、宣命体における助詞などの表記。摂津国風土記も本来は諸国の風土記と同様に和風漢文であったと思われるので、 宣命体の文字は後に書き加えられたものと想像される。 原文は吉川弘文館の『新訂増補国史大系8』によるが、返り点の付け方は本稿において改めたものである。
雄伴郡は、<wikipedia>には 「淳和天皇〔在位823~833〕の時代、天皇の諱である「大伴」(おおとも)に発音が近いことから、八部郡(やたべぐん)と改名された。」とある〔原資料は未確認〕。 〈倭名類聚抄〉に、{摂津国・矢部【夜多倍】郡・八部【也多倍】郷}〔やたべ〕。 改名は、記に「為二八田若郎女之御名代一定一八田部二」(第170回)と書かれたところの、八田部がこの地にあたるからという。 《夢野》 夢野は、現代地名の「兵庫県神戸市兵庫区夢野町」がある。 同町は矢部郡の中央にあたり、伝説の内容に「淡路島まで泳いで渡る」とあることから見て、摂津国風土記逸文の「夢野」であろうと思われる。 《夢相》 正妻は、夫の見た夢をわざと警告と解釈して見せることにより、夫の行動を押さえようとしたが、 結果は「嘘から出たまこと」になった。 「又、ススキと曰ひつ。」の部分は注釈で、ススキに置き換えられるべき対象は「雪」とも「村」〔=草むら〕とも読めるが、 「『村』を『ススキ』とする言い伝えもある」と読むのが合理的であろう。しかし、筆写を繰り返すうちに変形した可能性もあり、本当は他のことが書いてあったのかも知れない。 《嫡と妻》 「こなみ・うはなり」については、第61回、第165回参照。 《刀我野》 この話は、明らかに書紀の「俗曰…」と同根である。 となると書紀の「菟餓野」と、風土記の「刀我野」が遠く隔たっているところが謎である。 その真相を知ることは難しいが、一つの可能性として次の筋書きが成り立ち得る。 ①もともと、類話が摂津国沿岸に広く伝わっていた。 ②書記は鳴く鹿の話に、雄伴郡の夢相伝説を付した。 その伝説の中に「刀我野」はなかったが、書紀編者はこの話も元は難波から伝わったものだろうと考えて「菟餓」を書き加えた。 ③摂津国風土記を編纂するときに書紀の影響を受け、「菟餓野」を夢野の古地名として話に入れた。 しかし、風土記編者は菟餓野が難波の地にあることを知らず、てっきり夢野のことだと思い込んでいた。 この筋書きによれば、「夢野」が別名「刀我野」となったのは書紀の後ということになる。 ただこの筋書きの是非にかかわらず、八部郡と西成郡の双方に「とがの」が存在したのは確実だろう。 まとめ 磐之媛命墓は、佐紀盾列古墳群の一基に定められたが、 記では石之日売命が葬られた記述はない。その方が正直なのかも知れない。 延喜式は書紀の記述に合いそうなものを選び、宮内庁は延喜式に合いそうなものを選んだわけで、 それは幾重にも不確かである。 書記で多用される「之」の役割は、しばしば理解が困難である。 中国の古代文献中の「之」の方が、よほどよく分かる。この用法の解明は、引き続き課題として残る。 鳴く鹿伝説の舞台は難波だが、伝説発祥の地は八部郡かもしれない。 八田姫の御名代が八部郡に置かれたとされることにも、何らかの関係がありそうである。 さて、野生の鹿の鳴き声は鋭く甲高い。山に響く声には独特の哀感があり、万葉歌にも数多く歌われている。 また、伝説では牡鹿が淡路島まで泳いで渡ったとあるが、鹿が離島まで泳いでいく姿は現在もしばしば目撃され、 「海峡を渡る鹿」などで検索すると動画を多数見ることができる。 |
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2017.09.09(sat) [11-06] 仁徳天皇紀6 ▼▲ |
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23目次 【四十年二月(1)】 卌年春二月、納雌鳥皇女欲爲妃……〔続き〕 24目次 【四十年二月(2)】 時雄鯽等、探皇女之玉、……〔続き〕 25目次 【四十一年~四十三年】 《遣紀角宿禰於百濟》
酒君(さかのきみ)は、〈新撰姓氏録〉に、該当する氏族なし。 〈姓氏家系大辞典〉は、わずかに正倉院文書に「酒氏」、古市郷計帳に近江の「酒部(さかべ)君」を挙げるが、関連は不明。 鷹甘邑は、〈倭名類聚抄〉{近江国・蒲生郡}にあり、町村制〔1889〕で鷹飼村を含む9村域が「金田村」になった。 現在は近江八幡市内。 《韋緡》 熟語としての「韋緡」は、〈汉典〉にも〈諸橋漢和〉にも載っていない。『釈日本紀』にも、この語の説明はない。 〈中国哲学書電子化計画〉にはそのものはないが、近いものとしては「圍緡」がある。しかし、これは人名である。 よって、「韋緡」でひとつのものを表すというよりは、「韋と緡」である可能性が高い。 「韋」は、〈倭名類聚抄〉に「韋【音圍和名乎之加波〔をしかは〕】柔皮也。」がある。〈時代別上代〉は、その「をしかは」とは「なめし皮であろう。」とする。 『仮名日本書紀』は「韋緡」と訓み、 これは「ひも状のなめし皮」、「"緡"を全く無視した」のどちらかである。 現代の鷹狩を調べると、鷹には両足に一本ずつの「足革(あしかわ、脚革とも)」をつける。 これは諸解説によれば、「経時変化によって鳥の体の締め付けや破損が起るので、細心の注意を払って作成・装着しなければならない」 という。また革を用いる理由は、紐では絡まって危ないからだという。 鷹を架(ほこ)に繋ぐための紐を「大緒」(おおお〔おほを〕)といい、 足革を一本に束ねて繋ぐ。犬に譬えれば「大緒はリード、足革は首輪に当たる」という。 「緡」は銭の穴に通してまとめたりする長めの紐を表すので、大緒を指すと見るべきであろう。 以上から、「韋」は足革、「緡」は大緒を指すので、別々の語として訓読すべきだと思われる。 《小鈴》 現代の鷹狩の映像を見ても、体には鈴が付けられて音を鳴らしながら翔ぶ。 《大意》 四十一年三月、紀角宿祢(きのつののすくね)を百済(くだら)に派遣し、 初めて国郡の境界を定め、郷土の産物を詳細に記録しました。 この時、百済王の親族、酒君(さけのきみ)は礼を欠き〔紀角宿祢による調査に反発し〕ました。 そのために、紀角宿祢は百済王を叱責しました。 すると百済王はこれに畏まり、鉄鎖を用いて酒君を縛り、 襲津彦(そつひこ)に連れていかせて、朝廷に差し出しました。 このようにして酒君は倭国に来るとすぐに逃げて、石川の錦織(にしごり)の首(おびと)許呂斯(ころし)の家に匿れ、 このように偽りを言いました。 「天皇(すめらみこと)は既に私の罪を赦されました。そこで、あなたのところに身を寄せ、生活させてください。」と。 しばらく経ってから、天皇は遂に其の罪を赦されました。 四十三年秋九月一日、依網(よさみ)の屯倉(みやけ)の阿弭古(あびこ)は、見たことのない鳥を捕えて、 天皇に献上して申しあげました。 「私めは、いつも網を張って鳥を捕えてきたのですが、未だかつてこのような鳥を捕えたことがありません。 それで不思議に思い、献上いたします」と。 天皇は酒君をお召しになり、鳥を示して、 「これは何という鳥か。」と質問されました。 酒君はこのようにお答えしました。 「この鳥の類は、多く百済にいます。 馴すことができ、よく人に従い、また素早く飛んでもろもろの鳥を掠め取ります。 百済の土地の人はこの鳥を倶知(くち)という名で呼んでいます。」と。 これが、現在いうところの鷹です。 こうして酒君に授けて養い馴させ、 未だそれほどの時間を経ることなく、馴らすことができました。 酒君は、足革(あしかわ)を足に着けて大緒(おおお)に繋ぎ、 小鈴をその尾につけて、腕の上に載せて、天皇に献上しました。 この日、百舌鳥(もず)の野に行幸され、猟をなされました。 時に雌の雉(きじ)が数多く飛び立ち、鷹を放ちて捕えさせると、たちまち数十の雉を得ました。 この月、初めて鷹甘部(たかかいべ)を定めました。 よって当時の人は、その鷹を養った場所を鷹甘邑(たかかいむら)名付けました。 【百舌鳥野】
地名としては、 〈仁徳天皇段〉「御陵在毛受之耳原也。」 〈仁徳天皇紀六十七年〉「百舌鳥耳原。」 〈同八十七年〉「葬二于百舌鳥野陵一。」 記と書紀の対応から、地名「百舌鳥原」は「もずのはら」と訓むことがわかる。 いうまでもなく、大山陵古墳(伝仁徳天皇陵)を含む百舌鳥古墳群の地である。 現代地名には、百舌鳥本町・百舌鳥夕雲町・百舌鳥赤畑町・百舌鳥梅北町・中百舌鳥町・ 百舌鳥梅町・百舌鳥西之町・百舌鳥綾南町がある。 明治22年〔1889年〕の町村制で、和泉国大鳥郡内に定められた村には、 西百舌鳥村、中百舌鳥村、東百舌鳥村が含まれる。 上記八町のうち、中百舌鳥村は、中百舌鳥町・百舌鳥梅町の範囲。西百舌鳥村は残りの6町の範囲にあたる。 東百舌鳥町は、町村制以前は土師村と土師新田であった。現在の旧東百舌鳥村の範囲においては「百舌鳥」の名は消滅し、土師(はぜ)町などとなっている。 《五畿内志》 江戸時代まで遡って、『五畿内志』(巻四十五「和泉国大島郡」)を見ると、 【郷名】…「 土師【今曰二毛須荘一 毛須一作二毛受又萬代一】」 〔土師郷;今に毛須荘といふ。毛須、あるは毛受また万代に作る〕。 【村里】…「高田【属邑一】赤畑 夕雲開 金ノ口 土師【属邑二】梅【属邑ニ】百済 東 西【高田已下九村旧土師郷今呼二毛受荘一】」 〔高田以下九村、旧く土師郷(はにしのさと)、今に毛受荘と呼ぶ。〕。 【神廟】…「 [式外]毛受神祠【毛受荘赤畑村今称二八幡一 境内有二圓通寺一新葉集二品親王拝二毛受別宮一 和歌曰・民安久・国治例止・祷流加奈。人乃人与利・我君乃多米。」 〔毛受神祠(しんし、ほこら)【毛受荘赤畑村。今八幡と称し、 境内に円通寺あり。『新葉和歌集』〔1381年〕に二品法親王聖尊毛受別宮を拝して和歌に曰く、 民安く国治むれと祷るかな 人の人より我が君のため。〕 【陵墓】…「百舌鳥耳原中陵【仁徳天皇】」「百舌鳥耳原南陵【履中天皇】」「百舌鳥耳原北陵【反正天皇】」。 以上の項目にモヅが出てくる。 五畿内志は〈倭名類聚抄〉の{和泉国・大鳥郡・土師【波爾之】郷}〔はにしのさと〕が、毛須荘であるとする。 また、百舌鳥八幡宮(大阪府堺市北区百舌鳥赤畑町5丁706)は、<百舌鳥八幡宮公式ホームページ「由緒」>によれば 「八幡大神の宣託をうけて欽明天皇〔在位539~571〕の時代に、この地を万代(もず)と称し、ここに神社を創建してお祀りされたと伝えられている」。 また、中陵・南陵・北陵の天皇名は〈延喜式・諸陵寮〉と一致するが、延喜式に書かれた大きさは、中陵「兆域東西八町・南北八町」、南陵「同五町・五町」、北陵「同三町・二町」となっており、位置の南北と矛盾する。 この問題については、「御陵在二毛受之耳原一」の段(第175回の予定)で改めて論ずる。 《毛受(百舌鳥)耳原》 八幡宮の華美化(実質的な創始)は8世紀の前半のことである(第142回)から、百舌鳥八幡宮の実質的創始も同時期であろう。 その時点で既にこの地はモズであり、欽明朝とされる創始神話の「万代(もず)」は、後付けだと思われる。 その後、この地の荘園〔743年墾田永年私財法が発端〕が「毛受荘」と呼ばれ、 町村制で定められた村名「西百舌鳥・中百舌鳥・東百舌鳥」に繋がる。 記紀に書かれたモズがこの地域を指し、さらにこの地の巨大陵を含む三陵を仁徳陵・履中陵・反正陵としたことも疑いないであろう。 【鷹】 鷹については、〈倭名類聚抄〉に細かく書かれるので、訓読してみる。なお、返り点・句読点は原文にはない。
恐らく上代の鷹の和名「たか」が、鷹狩の普及に伴って細かく呼び分けられるようになったのであろう。 なお、「青鷹」「白鷹」は別の文に分けないと意味が通じない。 また、「カタカヘリ」が鷹の名であるはずはないので、宣命体「云閉利」と見られるが、「閉利」が小文字でないのは機械的に筆写されたからであろう。 倭名類聚抄に宣命体は珍しいから「加閉利太加」の誤りかも知れないが、「撫」を「かへり」と訓むことも難しい。 まとめ 応神天皇の御代、朝鮮半島から人々が渡来し、さまざまな技術・文化をもたらした。 鷹狩の移入もそのひとつであるが、応仁天皇紀ではなく仁徳天皇紀に収められたのは、 それなりの記録があったからであろうか。 しかし、登場するのは葛城襲津彦という便宜的に用いたとも思える人物で、「酒君」も諸氏族との関わりはあまり見えず、 事実関係は漠然としている。 よって物語自体は伝説的であるが、鷹狩が朝廷における重要なイベントであり、 それを支えるために鷹飼部が設置されて鷹飼村という村名が残ったことだけは事実である。 ただ「名字由来net」で調べると、猪飼さんが現在約5300人いるのに対して、 「鷹飼さん」という名字の人はいないので鷹飼部はかなり少人数であったように思われる。 さて、「百舌鳥の野」はもともとその地に飛び交っていた鳥の名に由来するものと想像される。 難波の中枢部からは相当離れたところを、兆域として定めたことが興味深い。 「難波の大道」は都から祭祀のために陵に向かう経路に当たり、 そのための天皇や皇族の行列は、さぞかし大デモンストレーションであったことだろう。 |
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⇒ [11-07] 仁徳天皇7 |