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2017.03.04(sat) [10-01] 応神天皇紀1 ▼▲ |
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01目次
【応神天皇元年】
《誉田天皇》
宇美八幡宮所在地の古地名と見られる。『伝子孫書』によれば「敏達天皇三年甲午筑紫の蚊田の邑に始めて宮柱太敷建給う。」とある (宇美八幡宮、 第142回【宇美】) また、宇美八幡宮には「蚊田の森」と名付けられた楠の林があり、福岡県天然記念物に指定されている (福岡県天然記念物)。 《大神与太子名相易》 第145回参照。 《宍生腕上其形如鞆》 仲哀天皇段にも同じ内容が書かれている(第138回)。 ただ、書紀の原注に「ホムタはトモの古名である」と書いていることについて、〈時代別上代〉は 「誉田天皇の別名、大鞆別尊の名の由来をいうべきところを誉田の名の方に誤ったために生じた間違いの原注であって、 ホムタを鞆の古語とすることはできない」と述べる。 この文章は分かりにくいが、その意味は「記が『オホトモの名は、腕についた肉の形に由来する。』と述べたことを、 原注は『ホムタはトモの古名である』と誤解した」ということであるようだ。 確かにある一人の人物が「トモの尊」「ホムタの尊」という二つの名前を持つからと言って、ホムタとトモが同じものだとは言えない。 これは例えば、タツノオトシゴは別名「海馬」であるが、だからといって、「竜=馬」ではないのと同じことである。 《ホムタの由来》 記の表記「品陀和気」のホムは「品」の呉音の音読み「ホン」の、文字「ン」がない時代の表記である。 だから、中国から「品」を名乗る一族が到来したようにも思えるが、ざっと調べた限りではそのような氏族が存在した気配はなく、真相は不明である。 しかしながら、ホムタを名乗る一族の実在自体は確かであるように思える (第148回《品陀真若王》)。 それでは、誉田天皇自身が一族出身のローカルな王かというと、そうではないだろう。 その理由は、①その頃から、子や兄弟が王を継承する中央王朝が存在したことが、『宋書夷蛮倭国伝』によって明確であること(倭の五王)、 ②応神天皇陵の規模はローカルな王のようなささやかなものではなく、大王クラスであること、 ③「品陀和気」の「別」は、しばしば皇子が御名代を与えられたことを意味することである。 だから、どちらかと言えば「大鞆皇子」が本来の名前であって、「ホムダの別」は御名代に因む呼び名だと思われる。 書紀が名前から「別」を除いたのは、天皇になったら「御名代を賜った皇子」の名前のままではいけないと考えたものと思われる。 ホムダワケの皇子は、異例にも自らこの地に腰を据えて現地の有力氏族から后を迎え、何らかの乱によって中央権力を奪取して大王となり、 誉田の地に都を開いて国家の統治者になったという筋書きが浮かび上がる。 それではホムダワケが御名代を賜った時に王朝は、どこにあったのか。流れから見ると、それは佐紀盾列古墳群の近くということになる。 その最後の二代は実在し、成務天皇と仲哀天皇に投影されているのかも知れない。 それは成務天皇が乙卯年(355年)、仲哀天皇が壬戌年(362年)と崩年が明記されているからである (第43回)。 ただ、記紀に書かれた両天皇の事績自体は、史実とは隔たっている。 《大意》 誉田天皇(ほむたのすめらみこと)は、足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)の第四の皇子で、母は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)といいます。 天皇、皇后が討新羅を討たれました年、歳次庚辰(こうしん)の十二月、 筑紫の国の蚊田にてお生まれになりました。 幼(をさなく)して聡達(そうたつ)〔敏く〕、 玄監(げんかん)深遠〔心の鏡は深遠で〕、 動容(どうよう)進止〔姿と振る舞い〕の 聖人ぶりは、群を抜いていました。 皇太后の摂政三年、皇太子に立たれました。三歳の時です。 天皇は初めから、胎中にあって天神地祇に三韓を授けられました。 既に産まれながらにして、肉が御腕の上に盛り上がり、その形は鞆(とも)のようであり、 皇太后が男装して着けた鞆にそっくりなので、 その御名を誉田天皇といわれました。 【上古の時、俗に鞆の別名を褒武多(ほむた)といいました。 ある伝説に、初めに天皇は太子を越の国に行かせ、角鹿(つぬか)の笥飯(けひ)の大神を拝礼させました。 その時、大神と太子は名を交換し、大神は去来紗別神(いざさわけのかみ)と名付られ、太子は誉田別尊(ほむたわけのみこと)と名付けられました。 それならば、大神の元の名は誉田別神(ほむたわけのかみ)、太子の元の名は去来紗別尊(いざさわけのみこと)ということになります。 しかし、そのような呼び名は見当たらず、未だ詳らかではありません。 】 摂政六十九年四月、皇太后は崩じました。【享年百歳でした】 元年正月一日に、皇太子は即位しました。 この年は、太歳庚寅(こういん)でした。 02目次 【二年】 二年春三月庚戌朔壬子、立仲姬爲皇后、……〔続き〕 03目次 【三年】 《東蝦夷悉朝貢》
応神天皇紀十五年条に「百済王遣二阿直伎一貢二良馬二匹一」 「号二其養馬之所一曰二厩坂也一」 すなわち、厩坂(うまやさか)という地名は、百済王が献上した良馬を飼ったことに由来するとされる。 一般に、軽の辺りであろうと考えられている。 軽は、下ツ道と山田道の交差する交通の要衝で、軽の巷(ちまた)と呼ばれ、また軽の市が立った (第104回【軽】)。 両街道は、現在の丈六交差点の辺りで交差する。厩坂道は下ツ道から南に続く部分かとも思えるが、詳しいことは分からない。 《紀角宿祢等》 紀角宿祢・羽田矢代宿祢・石川宿祢・木菟宿祢は記の孝元天皇段で、 曽都毘古とともに建内宿祢の子とされ、葛城氏に属していたのでは思われる。 葛城襲津彦(曽都毘古)に代表される葛城氏は、葛上郡南部の南郷遺跡群の地に展開し、渡来人も居住していた (神功皇后紀3《葛城襲津彦》以下)。 ここでも、葛城氏が活発に百済・新羅との交流を積極的に行っていたことを伺わせる。 これら4名の出自を示す系図は書紀にはないが、名前は記との孝元天皇段に出てくるものとよく一致するので、 失われた書紀の系図巻に収められていたのではないかと思われる。 《辰斯王》 書紀で辰斯王が薨じ阿花が即位したと書かれる応神天皇三年は、壬辰年にあたる。 一方、〈三国史記〉の百済本紀では辰斯王の薨と阿莘王の即位は壬辰年とされ、両者の干支の一致は神功皇后紀から継続している。 辰斯王の即位は神功皇后紀六十五年条に書かれているので、応神天皇三年の「立つ」を即位ととることはできず、「王として存在していた」の意味であろう。
それでは、三国史記にはこれをどのように書いているのだろうか。 阿莘王が薨ずる直前のできごとを、見てみよう。
この殺害は高句麗の圧力下で起こったことだが、書紀はその原因を倭の圧力に置き換えている。 その上で、倭には百済の新しい王を定める権限があるかのように描く。 《大意》 三年十月三日、東国の蝦夷(えみし)が挙って朝貢しました。 そこで蝦夷に役を課して厩坂(うまやさか)の道を作らせました。 十一月、所々の海人(あま)族が不穏な動きを見せ、命令に従いませんでした。 そこで、阿曇連(あずみのむらじ)の先祖、大浜の宿祢(おおはまのすくね)を派遣して、その動きを鎮め、故に海人の宰(みこともち)〔勅を地方に伝えて従わせる官吏〕とされました。 俗に「さば海人(あま)」という諺は、この縁(ゆかり)によります。 この年、百済王であった辰斯(しんし)は、倭国の天皇に礼を失しました〔=朝貢しませんでした〕。 よって、紀角宿祢(きのつののすくね)、羽田矢代(はたやしろ)宿祢、石川(いしかわ)宿祢、木菟(つく)宿祢を派遣して、 その無礼の様を叱責しました。 このため、百済の国は辰斯王を殺すことによって謝罪し、 それにより紀角宿祢らは、阿花(あか)を王に立て帰還しました。 まとめ 応神天皇は、即位したときには既に七十歳になっていた。神功皇后が摂政に就いたのは皇子が幼少であったためだから、待たせ過ぎである。 両者の年齢に関しては合理性はなく、神話的記述から抜け出していない。一方、史実については百済の歴史書との一定の擦り合わせが行われ、 相変わらず神話と歴史書との混合状態が続いている。 さて〈三国史記〉の辰斯王の崩については、初めは「田」が「留」の誤りで、高句麗への反撃に向かった王が狗原で包囲されて身動きできなくなって戦死したと読んだ。 しかし、その前に 「王聞二談徳能用一レ兵不レ得二出拒一」と書いて辰斯王の不甲斐なさを批判しているので「田」も誤りではなく、 「この大事なときに狩りという娯楽のために何日も宮廷から離れるとは」と非難しているようだ。 ならば「重臣によって殺された」としても納得でき、それ自体は書紀と一致するので、この読み方が妥当だと思われる。 ただ、書紀が辰斯王の殺害の理由として倭からの圧力を謳っているところは、いつもの我田引水であると言える。 |
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2017.03.31(fri) [10-02] 応神天皇紀2 ▼▲ |
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04目次
【五年】
五年秋八月庚寅朔壬寅、令諸國、定海人及山守部。……〔続き〕 05目次 【六年】 六年春二月、天皇幸近江國、……〔続き〕 06目次 【七年】 七年秋九月、高麗人・百濟人・任那人・新羅人、並來朝。……〔続き〕 07目次 【八年~九年】 《遣王子直支》
峴南・支侵・谷那のうち、谷那については「谷那鉄山」が、神功皇后紀五十二年条、七支刀献上の場面にでてきた。 鉄山については『魏志』韓伝で、弁辰十二国のところに「国出レ鉄 韓濊倭皆従レ取レ之 諸市買皆用レ鉄如二中国用一レ銭 又以供二-給二郡一」 〔国は鉄を出し、韓・濊・倭皆この採取に従事し、また諸市で買い皆鉄を用いる。中国で銭に用いる如し。また二郡(楽浪・帯方)に供給する。〕 とある。 峴南・支侵については手掛かりはほとんどない。 《磯城川》 書紀に「磯城川」が出てくるのは、ここが唯一である。 磯城郡(後に城上郡・城下郡に分割)には、初瀬川(大和川の上流部の名前)が流れている。 郡内の東部、三輪山の山麓には、大神神社、箸墓古墳などがあり、神域である。 雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)跡の候補地とされる脇本遺跡は、初瀬川沿いにある。 磯城郡全体が初瀬川の流域に沿っているので、この川が磯城川と呼ばれるのに相応しいのは確かである。 ただ、応神天皇の宮とされる難波大隅宮、軽島明宮、陵のある誉田とは離れている。 《大意》 八年三月、百済の人が来朝しました。 【百済記に云わく。 阿花王が立った。貴国に礼を失したことにより、 我が枕彌多礼(とんたれ)、そして峴南(けんなん)、支侵(ししん)、谷那(こくな)、東韓の地を奪った。 そこで、王子直支(とき)を天朝に遣わして、先王の誼を修復した。】 九年四月、武内宿祢を筑紫に遣わして、人民を監察させました。 その時、武内宿祢の弟、甘美内宿祢(うましうちのすくね)、兄を追放したいと思い、 天皇に讒言(ざんげん)しました。 「武内宿祢は、常に天下を望む心があります。 今聞くところによると、筑紫にいて密かに謀し、 『自分だけで筑紫を裂いて、三韓を拝朝させ、遂には天下を治めてやる。』と、このように申しております」と。 そこで、天皇は直ちに使を遣わし、武内宿祢を殺すよう命じました。 武内宿祢はこれを嘆き、 「私は元より二心などなく、忠をもって君に仕えている。今どのような咎(とが)があって、罪なく死ぬことになるのか。」と言いました。 ここに、壱伎直(いきのあたい)の先祖、真根子(まねこ)がおり、その人となりはよく武内宿祢の姿かたちに似て、 独りして武内宿祢が罪もなく虚しく死ぬことを惜しみ、 武内宿祢にお話ししました。 「今大臣(おおまえつぎみ)は忠をもって君に仕えられ、既に汚れた心はなく、天下を共に治めておられます。 願わくば密かにこれを避けて、朝廷に参上して自ら罪のないことを弁明し、その後に死んでも遅くはありません。 また、人はいつも、私めの姿かたちが大臣に似ていると言います。そこで、今私が大臣の代わりに死に、 大臣の清らかな心を明らかにいたしましょう。」と言って、 そのまま剣を突き立て、その上に伏して自死しました。 この時、武内宿祢は独りで大いに悲み、 密かに筑紫を去り船で南の海を廻り、紀の水門(みなと)に停泊し、 何とか朝廷に着くことができ、罪のないことを弁明しました。 天皇は、武内宿祢と甘美内宿祢を推問されましたが、 二人のそれぞれが、固執して争い、是非は決め難く、 天皇は勅され、神祇に探湯(くかたち)を願うよう命じられました。 そこで、武内宿祢と甘美内宿祢は、共に磯城川の辺(ほとり)に出て、探湯(くがたち)を行いました。 武内宿祢が勝ち、どうだとばかりに太刀を取り、甘美内宿祢を打ち倒して、遂には殺そうとしましたが、 天皇は釈放を詔され、紀伊直(きいのあたい)らの始祖の地位を賜りました。 【遣王子直支于天朝】 《阿花王の無礼》 先代の辰斯王は倭に対して無礼であったから、国人が殺して立てたのが阿花王であった。 ――三年条「嘖譲其无礼状。 由是 百済国殺二辰斯王一以謝之。紀角宿祢等 便立二阿花為王一」 (【三年】)。 その阿花王が立って5年、このとき再び無礼となる。 先代の罪を詫びて立てたのが阿花王であったから、この王がまたまた無礼となるのはかなり不自然である。 すると、ここの「旡礼於貴国故」は、辰斯王の時代を振り返って書いたのだろうか。 そして「脩二先王之好一」の「先王」とは無礼をはたらいた辰斯王よりさらに前の、枕流王を指すのだろうか。 しかし、三年条では「嘖譲」〔叱責した〕と書くだけで、 「枕彌多礼、及峴南、支侵、谷那、東韓之地を倭が奪った」ことは書いていない。 また書紀の8年条は自身の言葉ではなく、百済記の引用に留める。 こうして見ると、書紀が辰斯王を廃した原因として「倭に対する無礼を叱責されたから、国人に殺された」と書いたことの方が、潤色なのであろう。 やはり百済記は「辰斯王は友好的で、阿花王が無礼をはたらいた」と書いたと読むべきである。 書紀がその無礼を辰斯王のところに移したから、百済記との辻褄が合わなくなってしまったのである。 《遣王子》
三国史記・百済記が一致する一方、書紀による潤色と矛盾するところを見ると、 「百済記」は架空の書ではなく、実在した歴史書であるように思える。 ならば、倭国を「貴国」、朝廷を「天朝」と美化することの裏に、如何なる事情があったのだろうか。 この謎はなかなか解けない。 【武内宿祢・甘美内宿祢】 「うちの宿祢」の名は、地名の宇智に結びついていると見られる。 この点については、第108回の【建内宿祢】の項において、 一族の発祥は紀伊国で、そこから宇智郡⇒葛上郡⇒高市郡の経路を想定した。 「うちの宿祢」の一人である甘美内宿祢が紀伊の直(あたひ)の姓を賜ったことも、それに合致する。 この兄弟の確執の神話が取り上げられた背景としては、宇智郡内に兄弟の争いの伝説が残っていたのかも知れない。 それにしても、甘美内宿祢は天皇に取り入って讒言を信じさせ、ばれても罪を免れるほどうまく振る舞った。 まさに「ウマシ」の名は体を表す。 それに対して、兄の「タケ」は、主君に忠誠を尽くして敵とは果敢に戦う、真っすぐではあるが不器用な性格を表しているといえる。 《讒言の内容》 筑紫を割いて周辺国に朝貢させるとは、倭から領土を奪い取って独立国を作るという意味である。 この地に独立王朝を樹立するというストーリーは、磐井の乱〔527年、継体朝〕 が反映したものと見られる。筑紫は、半島との交易により富が蓄積し、畿内と離れているので独立志向を常に秘めた地域であると言える。 これは、魏志の時代の卑弥呼と一大率の関係を考える上でも考慮すべきことである。 【盟神探湯】 盟神探湯(くかたち、くがたち)については、允恭天皇紀四年条に記事がある。 訓注において 「【盟神探湯、此云二區訶陀智一。或泥納レ釜煮沸、攘レ手探二湯泥一。或燒二斧火色一、置二于掌一。】」 〔盟神探湯、こを「くかたち」と云ふ。或るは泥を釜に納めて煮沸(に)て、手を攘(はら)へ泥(ひぢ)を探湯(くかたち)す。或るは斧を火(ほ)の色に焼き、掌(たなうら)に置く。〕とある。 そして、本文において 「各著二木綿手繦一而赴二釜探湯一 則得レ實者自全 不レ得レ實者皆傷」 〔おのもおのも木綿(ゆふ)手繦(たすき)を著けて釜の探湯に赴き、実(まこと)を得ば自ら全(また)し、実を得ざらば皆傷(そこな)ふ〕という。
まとめ 直支王を、百済に返した話は十六年条で明記されているが、その前に質にとった時の方は漠然としている。 八年条に正式に書かれたのは「百済人来朝」のみで、百済記の引用はあくまでも参考である。 これは辰斯王が廃されたときに遡り、倭の関与があった如く潤色したことからボタンの掛け違いが始まり、 その結果としてあいまいな書き方にならざるを得なかったと思われる。 次の九年条では武内宿祢は、もともと幾代もの天皇に仕えた優秀な宰相であったが、危うく殺されそうな目にあった。 一心に天皇に仕えてきた武内宿祢にとって、謀反の疑いがかけられるのは寝耳に水で、どうして私が? という気持ちであっただろう。 そのとき宿祢に瓜二つの人物が現れ、私が代わりに死んでやるから最後まで諦めずに弁明せよと励ます。 恐らくダミーの死を宿祢の死と見せかけることによって追討使の目をくらまし、時を稼ごうとしたのであろう。 ここで、宇智一族の内紛伝説を取り上げる意味はあまり見えてこないが、 紀伊直の一族が記紀編纂の頃に一定の勢力を維持していて、政治的にその発祥伝説を認めてやる必要があったのかも知れない。 |
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2017.04.26(wed) [10-03] 応神天皇紀3 ▼▲ |
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08目次
【十一年十月】
十一年冬十月、作劒池、……〔続き〕 09目次 【十一年~十三年】 是歲、有人奏之曰 「日向國有孃子、……〔続き〕 10目次 【十四年~十六年二月】 十四年春二月、百濟王貢縫衣工女、……〔続き〕 11目次 【十六年八月】 是歲、百濟阿花王薨。 ……〔続き〕 12目次 【十九年】 十九年冬十月戊戌朔、幸吉野宮。……〔続き〕 13目次 【二十年】 廿年秋九月、倭漢直祖阿知使主其子都加使主、……〔続き〕 14目次 【二十二年~二十八年】 《幸難波居於大隅宮》
淡路島は、瀬戸内海から難波津への航路を遮る形で海を隔てている。 だから、「横海」は「海を横しましている(海路を塞いで横たわっている)」意味だと見られる。 ここでは山が険しい島と描かれ、実際に畿内からごく近いのに都が置かれたこともない。 延喜式諸陵寮には「淡路陵廃帝」がある。「廃帝」は淳仁天皇のことで、天平宝字八年〔764〕に廃され、淡路島に流された。 その後、脱出を試みて殺されたと言われている。それでも、陵には「守戸一烟〔=戸〕」が宛てられている。 しかし、淡路島は伊邪那岐・伊邪那美神話の故郷である。2015年には、銅鐸が7個発見されたことが話題になり、 弥生時代には豊かな文化が到来する島であったと考えられている (第102回まとめ)。 《大隅宮》 大隅宮に因む、大隅神社がある(大阪府大阪市東淀川区大桐五丁目14番81号)。 <東淀川区公式ページ―大隅神社要約> 氏地は、元の大隅島で後の西成郡中島・大道の両村の範囲。この大隅島に離宮を営んでいた応神天皇が崩御の後、 里人が帝の御徳を慕い宮址に神祠を建立したのが起源。 ある年に淀川が氾濫し賀茂(かもの)明神の御神体が漂着して霊光を放ち、合祀して社名を賀茂神祠と改め、社殿も壮麗だったが、明治初年に周囲を民有地に払い下げられた。そして応神天皇を主祭神とし、名も大隅神社と改められた </要約> という。「大隅島」については、安閑天皇紀二年条の「宜放牛於難破大隅嶋与媛嶋松原」 〔よろしく難破大隅嶋と媛嶋松原に牛を放つべし〕の文にこの地名がでてくる。 大隅島は位置から見て、淀川が河内湖に注ぐ河口の三角州と思われる。 しかし、兄媛の乗る船を見送って歌を詠んだからとあるから、大隅宮は後の難波宮の辺りと考える方が自然である (資料[17])。 仁徳天皇紀三十八年にも、「天皇与皇后、居二高台一而避二レ暑」した高殿は、兎我野の鹿の声が聞こえる距離にあった。
《葉田葦守宮》 岡山市教育委員会による現地の「足守八幡宮」案内掲示によれば、 平安時代末の「足守庄絵図」〔1169年〕には、前身らしい八幡社が描かれ、現在の本殿は明治三年〔1867〕の再建という。 足守荘は在地豪族の賀陽氏によって運営されていたものが、平安時代末に院、さらにに神護寺に寄進され、南北朝時代まで続いたという。 同社「御由緒」〈岡山県神社庁のページ〉によれば「 天皇崩御の後、御友別命の子中津彦命(仲彦)は、天皇の仁徳を追慕し、天皇の神霊をその行宮跡に斎き祀り、葉田葦守宮と称したのが現葦守八幡宮である」 とされる。 恐らく、平安時代に盛り上がった八幡信仰により、応神天皇縁の葦守宮の地に八幡宮が建てられたものと想像される。 《久爾辛王》 〈三国史記〉「庚申〔420〕。腆支王十六年春三月薨。久尒辛王卽位。」 応神天皇25年は庚申にあたり、引き続き三国史記と年は一致している。 《承制天朝》 「承制天朝」は、正しくは「承制於天朝」とすべきであるが、一節四文字の形を保つために端折ったと見られる。 承制という語は中国古典に多くあり、『後漢書』―王劉張李彭盧列伝に、「承制拝歩輔漢大将軍」〔承制に歩輔漢大将軍を拝命する〕、 「承制得専拝二千石已下」〔承制に専ら二千石を已下(いか)に拝するを得〕など、 「承制」は多くの場合、詔の中身を目的語として伴っている。 したがって、続く「執我国政」が目的語だろうと思われる。 すなわち、「わが国〔百済〕の政(まつりごと)を取りしきれ」という詔を、倭国の天皇から承ったのである。 詔はそこまでで、次の「権重当世」は、木満致が我が世の春とばかりに、権勢を誇った様を描いたと見られる。 《教日本国》 「日本」の国号が用いられたのは678年前後である (第104回【大倭日子鉏友天皇】)。 仮に二十八年条のような話が実際にあったとすれば 「教倭国」だったはずである。天皇の名前の中など、もともと「倭」の字で書かれていた「やまと」に、 書紀はすべて「日本」の字を宛てている。ここでも、その操作を機械的に適用した結果であろう。 《大意》 二十二年三月五日、天皇は難波に来られ、大隅宮(おおすみのみや)に滞在しました。 十四日、高殿に登って遠くを望み、その時、妃の兄媛(えひめ)がそばに控え、西の方を望み見てため息をつきました。 【兄媛は、吉備臣(きびのおみ)の祖、御友別(みともわけ)の妹です。】 そこで、天皇は兄媛に「お前はどうしてため息をついているか。」と質問されたところ、 「最近、わらわは父母が恋しい気持ちになりました。 だから、西を望むと自然にため息が出てきてしまうのです。できることなら暫く帰省して親の顔を見たいと思います。」とお答えしました。 そこで天皇は、兄媛の温凊(おんせい)〔父母を思う気持ち〕の心の篤いことを褒めて、仰りました。 「二親を見なくなって、既に多年を経ました。帰って定省(ていせい)〔親に誠を尽くそうとすること〕しようとするのは、理(ことわり)にかなうのは明らかである。」と。 そして、それを認めて、淡路の御原(みはら)の海人(あま)八十人を招集して水手として、吉備に送らせました。 四月、兄媛は大津から船を発たせて行きました。 天皇は高殿に立たれ、兄媛の船を望み見て以ちて歌を詠まれました。 ――淡路島 いや双並び 小豆(あづき)島 いや双並び 宜しき島し 未(ま)だ片離(さ)れ 散(あ)らちし 吉備なる妹(いも)を 相見つるもの 九月六日、天皇は淡路嶋に狩に出かけられました。 この島は海に横たわり難波の西にあり、 峯巌(山々)が紛錯(ふんさく)して〔山々が入り乱れ〕、陵谷が連続し、 芳草薈蔚(わいうつ)して〔香りのよい草がこんもり茂り〕、長瀾(ちょうらん)は潺湲(せんかん)します〔大きな波がゆったり流れます〕。 また麋鹿(おおしか)、鳧(のがも)、鴈(かり)が、その嶋には多くいます。そして輿(こし)に乗って何度も遊ばれました。 天皇はそれから淡路から移って吉備にお越しになり、小豆嶋で遊ばれました。 十日、葉田(はだ)の葦守宮(あしもりのみや)に移って滞在されました。 その時、御友別(みとものわけ)が参上して、その兄弟、子孫総出で膳夫(かしわで)となって饗応して差し上げました。 天皇は、御友別が畏まって奉仕する様を御覧になり、お喜びになり、 吉備の国を分割してその子らに封じました。 すなわち、川嶋県(かわしまのあがた)を分けて長子の稲速別(いなはやわけ)に封じ、この者は下道臣(しもつみちのおみ)の始祖です。 次に、上道県(かみつみちのあがた)を次子の仲彦(なかつひこ)に封じ、この者は上道臣(かみつみちのおみ)、香屋臣(かやのおみ)の始祖です。 次に、三野県(みののあがた)を弟彦(おとひこ)に封じ、この者は三野臣(みののおみ)の始祖です。 また、波区芸県(はくぎのあがた)を御友別の弟、鴨別(かもわけ)に封じ、この者は笠臣(かさのおみ)の始祖です。 そして、苑県(そののあがた)を兄の浦凝別(うらこりわけ)に封る、是(これ)苑臣(そののおみ)の始祖です。 そして、織部(はとりべ)を兄媛に与えられ、このようにしてその子孫は今も吉備の国にいて、これがその由縁です。 二十五年、 百済の直支王(ときおう)が薨(こう)じて、子の久爾辛(くにしん)が王となりました。 王は幼かったので、木満致(もくまんち)が国の政(まつりこと)を執行し、王母と姦淫し、多くの行いが無礼でした。 天皇はそれをお聞きになり、召喚されました。 【百済記に云います。 「木満致は、木羅斤資(もくらこんし)が新羅を討た時に、その国の婦人を娶って生まれた子である。 其の父の功によって任那(みまな)を専横し、さらに我が国に入ってきた。 貴国〔倭国〕に往復して、天朝から我が国の政を執れとの制(みことのり)を承り、その世に権力による行いを重ねた。 しかし天朝〔倭国朝廷〕はその暴虐を聞いて召喚した」】 二十八年九月、 高麗(こま)王は使者を派遣して朝貢し、上表(じょうひょう)を持たせました。 その表書きに「高麗王、教日本国〔日本国に教える〕。」と書いてあったので、 皇太子の菟道稚郎子(うじのわかいらつこ)はその表書きを読んで、怒って高麗の死者を責め、 表書きが無礼であることにより、その表書きを破られました。 【御友別一族】 御友別は兄弟で天皇に仕えてそれぞれが領地を封じられ、妹が妃に納められた。 これは、藤原不比等の子、男子の四兄弟が参内し、女子の宮子・光明子を皇后として送り込み、政権の実権を握った形態に類似する。 史実としては、吉備氏が朝廷に食い込んだのは応神天皇のときとは特定できないが、朝廷が地方氏族との連合するときの形態のひとつではないかと思わせる。 〈国造本紀〉を見ると、吉備の地域で軽嶋明宮朝〔応神天皇〕のとき定められたのは、 上道国造(仲彦命)、三野国造(弟彦命)、下道国造(兄彦命、亦名稲建別)、 加夜国造(仲彦命)、笠臣国造(鴨別命八世孫の笠三枚臣)の五国造とされる。 国造本紀は基本的に書紀を引き継ぎ、それぞれの地域は、大体倭名類聚抄の郡に対応するようである。 《孝霊天皇段と応神天皇紀の整合性》 下道臣と笠臣は天武朝に朝臣を賜り、新撰姓氏録に載り有力な氏族と言えるのに対して、 上道臣は何れにも当てはまらない。書紀の頃には、既に衰退していたのかも知れない。 とは言え、応神天皇紀のときに上道・下道を兄弟に分割して封じたとされる。 ところが古事記の孝霊天皇段では、その皇子の大吉備津日子命が吉備上道臣の祖、若日子建吉備津日子命が吉備下神臣・笠臣の祖とされる。 (第107回)。 大・若は対なので、大吉備津彦を上道臣の祖、若建吉備津彦を下道臣の祖とするのは、形が整っている。 しかし、書紀ではなぜか大吉備津彦から「大」が消えて大・若関係が消滅し、さらに一本化した「吉備臣」を祖は稚武彦命とする。 そして上道・下道の分割は、応神朝まで降る。 この件に関して〈姓氏家系大辞典〉は、大吉備津彦命の子孫は始めは上道の地を占めたが後に途絶え、 雅武彦命の系統に移ったと推定する。 しかし書紀に限ると、初めから大吉備津彦命による上道の領有は存在せず、一貫性がある。 従って、記から書紀に移るときに、見解が変わったのである。 想像だが、上道臣に伝わる発祥神話では、上道と下道の分割は、天皇からの擬制的血縁関係の時までと遡ると謳っていて、 記はそのまま収めた。 しかし書紀が改めて諸族の起源を調査した結果、吉備国の分割は稲建別の時代まで下ることが判明した。 その調査結果に基づいて、孝霊朝まで遡って書き直したということではないだろうか。 波区芸県(はくぎのあがた)の位置は、一般に不明とされている。 一説には、浅口郡(〈倭名類聚抄〉{備中国・浅口郡【安佐久千】}〔あさくち〕)は「はくき」が変化したと言われるが、 苦しい。ただし、「笠岡」には隣接している。 波区藝の「藝」の発音を清音のキとする例を見るが、藝は漢音・呉音ともにギで、万葉仮名でもギに用いられている。 キと発音するのは、「安藝(あき)の国」の例に倣ったと思われる。古事記では「阿岐」なので、キの可能性がある。 しかし、書紀は「安藝」なので、恐らくアキとアギの両方があり、発音は"アキ"、表記は"安藝"に統一されていったのだろう。 ことによるとある時代の国司か領主が、「古来のアキに統一せよ」と命じたのかも知れない。 話を「波区芸」に戻すと、これを清音のハクキとする積極的な根拠は今のところ見つけられない。ネットで検索をかけると、ハクキが36例、ハクギが58例である。 ハクギだとすると、浅口郡とはさらに遠ざかる。 さて鴨別の名は、神功皇后紀の仲哀天皇九年、筑紫滞在中に初めて「吉備臣の祖」として現れ、熊襲への出撃を命じられた (神功皇后紀3)。 その記事に続いて、筑前国御笠郡の地名譚「突然の風で笠が飛んだから」が出てくる。 一方、〈新撰姓氏録〉には応神天皇が吉備の加佐米山に登ったときに風で笠が飛ばされた記事が載る (第107回【吉備氏の子孫】)。 その話は、笠を飛ばされたのが悪い兆しではないかと心配した天皇に対して、鴨別はこれは、天が賜りものを献上しようとしているのですと言う。 そして笠を捜して山中に分け入ったところ、賜りもの〔有用な植物あるいは貴重な資源か〕が見つかった。 そこで天皇は鴨別に笠の名を賜り、取り立てたという話である。 神功皇后紀からは、熊襲から戻った鴨別がそのまま随行し、筑前で御笠の土地を賜ったようにも読めるが、 応神天皇記では吉備を分割した記事中にある。だから、波区芸の場所はあくまでも吉備地域なのである。 現在地名の笠岡は笠臣の本拠だと考えられているので、波区芸もその辺りにあったと考えるのが順当であろう。 《織部》 兄媛は、職業部である織(はとり)を率いることになったが、同時にその居住地を領有することになる。 倭名類聚抄では、服部郷は備前国と備中国にある。織は全国各地にあるから、吉備地域にも複数あったと見られる。 応仁天皇段・同紀では、呉服(くれはとり)、綾(漢)織女(あやおりめ)などとして、織の起源は渡来人として捉えられている。 ここには、吉備氏は渡来人に由来するという見方が一部にあったことを、反映しているのかも知れない。 【あはぢしま いやふたならび】 この歌は{だかたされあらちし}以外は、 ――淡路島 いや二並び 小豆島 いや二並び 宜しき嶋々 {だかたされあらちし} 吉備なる妹を 相見つる物 と平易に読め、それだけ{だかたされあらちし}の分かり難さが際立っている。 これは、一般的には「誰か た去れ 散らちし」と解釈されている。 すなわち、儾をタと発音して、タカ=不定称の代名詞"誰"+助詞カ、 タサレ=接頭語タ+"去れ"とする。 しかし、儾を清音のタとすることには疑念がある。 因みにこの歌の解釈を検索すると、22サイトが清音タ、5サイトが濁音ダとなっており、 清音が優勢であるが、決定的とは言えない。 《万葉仮名の"儾"》 そこで儾の発音そのものに立ち返ってみよう。 発音は人偏を取った「嚢」と同じで、音読みは「ノウ」、現代の漢語では [náng] である。 古い音は、呉音ナウ、漢音ダウ〔何れも歴史的仮名遣い〕となっている。[n]と[d]は調音点が同じで有声音なので、相互転化があると見られるが、 どうやら無声音[t]にはならなかったようである。 「ダ」に使う万葉仮名を見ると、そのうち陀・太・大はタにも使われ、ナには使われない。 それに対して、娜はダとナに使われるが、タには使われない。娜と同音の那も、漢音ダ・呉音ナで、タはない。 よって、ダの万葉仮名は、ta+daのグループ={陀・太・大}、とna+daのグループ={娜・嚢・儾}に分かれ、 前者はnaを排除し、後者はtaを排除する。したがって儾に清音タがないことは、決定的である。 《ダは語頭にこない》 それでは、上代にも現代と同じく、「誰」をダと発音することがあったのだろうか。 調べてみると、〈時代別上代〉では、ダから始まる語はほぼ皆無で、僅かな例外の「だに」(助詞)、「だみ」(接尾語的)、「-だ」(接尾語)も、連濁の結果である。 唯一の名詞として「だにをち(檀越)」があるが、梵語Danapatiの音訳という。 従って、上代には「誰」を「ダ」と発音することはなかったと見てよいだろう。これらを常識的に見れば、「誰」説は完全否定されるべきである。 《シマの表記》 さて、「しま」の表記は興味深い。淡路シマ・小豆シマ・宜しきシマは、"辭摩"に統一されている。 ところが「しましま」のみ、「辭摩・之魔」と字が変わっている。 これは、"島々"と読むことを禁止しているように思われる。 それに従ってこれを別語とすることを認め、試しに"之"と"魔"を分離してみる。 シは、①形容詞の語尾、②完了のキの連体形、③副助詞、④サ変動詞スの連用形があり得る。 ①②でないのは明らかである。 ③は、(万)3570 左牟伎由布敝思 奈乎波思努波牟 さむきゆふべし なをばしのはむ。 〔寒き夕べし名をば偲はむ〕など「体言+シ+感情表現の文」の類型と見ることは可能である。 ④だとすると、「よろしき島す」は、一応「よい姿をした島としてそこにある」と取ることが可能である。 《まだ》 次の「まだ」は、〈時代別上代〉「日本書紀の古訓には〔イマダから〕イの脱落したマダの形も見える」とあるので、「未だ」はあり得る。 ここでは「し」の後ろだから、「シ・イマダ」⇒「シ・マダ」も考えられる。 「いまだ」は、否定語ばかりでなく肯定語にも使われ、そのときは「依然として」という意味になる。 《かたされ》 「ダ」が「未だ」の一部だとすれば、次は「かたさる」である。この語は一般的で、上代における意味は「人の寝るべき場所を避けて端に寝る」である。 詠まれた状況(兄媛が床にない)には合っている。 「かたされ」は已然形または命令形である。已然形だと助詞が要るように思えるが、〈時代別上代〉「上代ではド・ドモやバを伴わない已然形の句自体が確定条件を表すこともできた」 ことから、暗黙の「ば」がついた已然形であろう。 一般釈の「た-去る」は、「た弱し・た走る・たすく」などの接頭語「た-」の類例として理解したものであるが、 万葉集には一例もない。また「去って散らす」は、解釈に苦しむ。 《あらちし》 「あ」は直前の「れ」と融合していないから、区切りがはっきりしている。 あらつは、〈時代別上代〉「"あらく"(下二)と同根か」と考えられている。「散」の古訓に、 「あかつ。あらく。」〔類聚名義抄観智院本〕がある。 この二語を混ぜると「あらつ」となる。 「あらちし」は、連用形+完了の「き」の連体形で「吉備国」にかかる。 この歌の後ろに、「割二吉備国一封二其子等一」と吉備国分割のことが書かれるから、それに対応して「わけられた」と枕詞のようにして使った可能性が高い。 声に出して読んでみると、 [akatisi]・[arakisi]※は共に発音に抵抗感があり、[aratisi]の方が発音しやすい。 ※…当時の発音は、ti=ティ。si=スィ。 その理由は、r、s、tの調音点は何れも舌の先端で揃っているが、kの調音点だけが舌の奥だからである。 したがって、「あらちし」が「あらきし」の訛りであると考えることには、根拠がある。 《再び「しま・し・まだ」》 「し+未(ま)だ」は、儾をタと発音したり、珍しい動詞「たさる」を想定する無理を回避できる。 また、「かたさる」の方が、兄媛が去った気持ちに合う。 しかし、依然として「しましま」の印象が強いことは否めない。 ところが、敢えて「島々」を排除する必要はないのである。歌には、掛詞というものがあるからである。 掛詞は平安期というイメージがあるが、書紀の地名起源譚を見れば、あるひとつの言葉に二重の意味を盛って戯れるのは、 古くからの日本語の特徴と言える。よって、記紀歌謡にも掛詞の存在を認めない理由はない。 「辞摩辞摩」をわざわざ「辞摩之魔」と書いたのは、これは掛詞だぞと注意を惹くためかも知れないのである。 《歌意》 以上から、この歌は、 ――淡路島 弥双並び 小豆島 弥双並び 宜しき嶋し 未だ片去れ 散らちし 吉備なる妹を 相見つる物 と解釈することができる。 歌意は、 「淡路島・小豆島、弥栄(いやさか)に二並びする美しい島々よ。妹が去って私は相変わらず一人寝している。今は吉備にいる妹をこの二つの島がともに、見守っていて欲しい。」 であろうか。この歌を詠んだ後、居ても立ってもたまらず吉備に向かう。 「今は2つの島が姫を見守ってくれているが、すぐに私が行って見守ってやるぞ」という気持ちなのであろう。 まとめ 御友別の妹とされる兄媛の名前を見ると、それでは「弟姫」はいなかったのかという疑問が湧く。 そこから連想されるのは、夜麻登登母母曽毘売(書紀では倭迹々日百襲姫)の妹として、 記だけに出てくる倭飛羽矢若屋比売である。すると、孝霊天皇段の伝説は応神天皇と同根で、 兄媛は倭迹々日百襲姫に対応しているのかも知れない。 これは、吉備国の上道・下道の分割が孝霊天皇段に繰り上げられたことにも符合する。 二十二年条で分割して封じられたとされる地名は基本的に実在の郡名・郷名に一致するので、一定の具体性がある。 応神朝とは決められないが、元になる史実があった可能性が濃く感じられる。同じ話が極めて漠然とした形で孝霊天皇段に反映したとも考えられる。 また兄媛は妃の一人だが、応神紀冒頭の妃・皇子のリストからは漏れている。皇子は生まれなかったようだから、加えないままにされたのだろうか。 或いは、どの天皇の御代か明らかではない御友別や兄媛の話を、織部の話との繋がりから、呉服・漢織女を書いた応神天皇紀に入れたのかも知れない。 さて、二十五年条にも百済記からの引用がある。この部分には四文字形式という独自性が見られるので、 実在の書かも知れない。 ところで、百済記は百済から帰化した学識僧に報告書の形で書かせたものだとすれば、 「貴国」「天朝」の表現は理解できることに、最近気づいた。 |
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2017.05.02(tue) [10-04] 応神天皇紀4 ▼▲ |
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15目次
【三十一年】
《官船名枯野者伊豆国所貢之船也》
たとえば淡路島の、津名郡北淡町野島平林の貴船神社遺跡は、弥生時代から奈良時代にかけての製塩遺跡である。 現地の淡路市教育委員会による掲示板には、 「出土遺物は多量の製塩土器の他に須恵器・土師器・ 弥生土器…があります。」「製塩土器は、弥生時代末から出土しています。 鉄製釣針・たこ壺・船形土製品があります。その他注目される遺物として新羅陶器…」などとある。 (あわじウェブドットコム) 野島海人(のじまのあま)は、万葉集に歌われる。(万)0933 淡路乃 野嶋之海子乃 あはぢの のしまのあまの。など。 「勉強ノート 製塩土器」の図に示された製塩土器の発掘年代を見ると、 製塩は大阪南部では古墳時代前期、淡路は奈良時代初頭で終わり、奈良時代以後は和歌山、さらに知多・渥美・若狭・能登・山口などの遠隔地に移るようである。 《武庫》 ここでは、新羅船の停泊地は武庫の泊(とまり)、即ち武庫川河口の辺りの埠頭となっている。 もちろん、難波津にも来ていたのだろうが、 天日鉾が武庫から上陸し、子孫は但馬国の一族となった話もあるので、武庫は主な上陸地のひとつであったと見られる。 《大意》 三十一年八月、群臣に仰りました。 「官船、名前は枯野(からの)といって、伊豆国から献上された船であるが、 これが朽ち果てて使用に耐えなくなった。 だが、久しく官のため用いたから、その功を忘れてはいけない。 どうすればこの船の名を絶やすことなく、後世に伝えることができるだろうか。」と。 群臣たちは詔を受けたことにより、部下にこの船材を取らせ、薪にして塩焼きさせました。 そして多数の籠に塩を得て、施しとして広く諸国に賜り、それによって船を造らせました。 すると、諸国は一時に多くの船を貢上し、これらはすべて武庫(むこ)の港に集まりました。 まさにこの時、新羅の調使も武庫に停泊していて、 新羅の埠頭で突然失火し、 その引火が集まった船に及び、多くの船が燃えてしまいました。 このことにより新羅の人は責めを負い、新羅王はそれを聞いて、恐ろしいことかなと大いに驚き、 能力の優れた匠たちを奉納しました。 これが、猪名部(いなべ)の始祖です。 初めに枯野の船を、薪として塩焼した日、燃え残りがあり、 それが焼けないことを奇妙に思い、これを献上しました。 天皇はこれは不思議なことだと思い琴を作らせてみたところ、その音色は澄んで美しく、はるか遠くまで聞こえました。 この時、天皇は御歌を読まれました。 ――枯野(からの)を 塩に焼き しが余り 琴に作り 掻き弾くは ゆらの門(と)の 門中(となか)の海石(いくり)に 触れ起(た)つ 水浸(なづ)の木の さやさや 【猪名部】 〈姓氏家系大辞典〉によると、「職業部なりし事も察するに難からざれど、名称の起源は未だ詳ならず。 或は摂津の為奈より起こりしにて地名を追ひしかと後に云ふべし」、また 雄略紀十三年条にも「木工猪名部真根」とあることなどから、「今の大工に相当すと考へられるべし」と述べる。 さらに、派生した伊勢の猪名部について、「員弁郡は此の部民が多く住居せしより起りし名称ならむ。」、 その地にある猪名部神社は「此の部の氏神なるべし」と推定する。 〈倭名類聚抄〉に{伊勢国・員弁【為奈倍】郡}〔いなべ〕、〈神名帳〉に{伊勢国・員弁郡十座【並小】〔すべて小社〕・猪名部神社}とある。 また、〈新撰姓氏録〉の神別に、〖猪名部造/伊香我色男命之後也〗が見られる。 〈倭名類聚抄〉には{摂津国・河辺郡・為奈郷}。 〈神名帳〉に{摂津国・嶋下郡・為那都比古神社二座}が載る。 比定社は為那都比古神社(大阪府箕面市石丸2丁目10-1)、祭神は為那都比古大神・為那都比売大神。 「御由来」を刻んだ石碑(昭和五十七年〔1982〕)に、
しかし、為那都比古神社の位置は、河辺郡の外である。 これに関して『大日本地名辞書』(吉田東伍、1907)には、為奈は「或いは猪名県と称す。今の川辺豊能二郡の旧名なり。」 とあるように広い地域を指す。 しかし、こと為奈"郷"に関しては、川辺郡内のある場所にピンポイントで存在したはずである。 《猪名寺廃寺跡》 一方、河辺郡内に「猪名寺」という現代地名がある。 これは、「猪名寺廃寺跡」(兵庫県猪名寺1丁目31法園寺内)に因むものと思われる。
『尼崎市史 第十一巻』〔1980〕にその詳しい報告があり、一部を抜粋すると、「 今回〔1958年〕の調査によって、猪寺廃寺は法隆寺式伽藍配置であることが明らかになった。 東西81.21m、南北48.48mの回廊がめぐるなかに、塔・金堂などの主要伽藍を配置していた。 多種多様の遺瓦は創建期の主要瓦であって、川原寺式軒瓦である。この形式は百済では発見されておらず、 直接的に中国本土に起源を求めるのが妥当であろう」などとある。 また、 「<Web版 図説尼崎の歴史> この猪名寺周辺の猪名川流域は、古くから猪名野または稲野と呼ばれた地域 </同図説>」という。 法隆寺式伽藍配置は白鳳時代のものとされるが、飛鳥時代の吉備池廃寺でも見られた (第152回【百済池】)。 しかし、多くの国分寺でも採用された配置であるから、猪名寺が作られた時代には、 古来の猪名氏族は既に律令制下で同質化していたと思われる。 【からのを しほにやき しがあまり ことにつくり】 三十一年条の歌、 ――からのを しほにやき しがあまり ことにつくり かきひくや ゆらのと甲の と甲なかのいくりに ふれたつ なづのきの さやさや の前半部分、 ――枯野を 塩に焼き 其(し)が余り 琴に作り 搔き弾くや ゆらの までは内容が物語と噛み合い、分かり易い。 後半は、「いくり」は用例が少なく、また「なづのき」はさらに珍しい語なので、この二語の解釈が重要となる。 《ゆらのと》 「と」は琴の音かとも思われたが、音はオト乙、外・門はト甲であるから、「門」のような地形であろう。 《いくり》 いくりは、万葉歌四首に見られる。 (万)0135 角障経 石見之海乃 言佐敝久 辛乃埼有 伊久里尓曽 深海松生流 つのさはふ いはみのうみの ことさへく からのさきなる いくりにぞ ふかみるおふ。 (万)0933 海底 奥津伊久利二 鰒珠 わたのそこ おきついくりに あはびたま。 (万)1062 海石之 塩干乃共 いくりの しほひのむた。〔むた=~とともに〕 0135は、深いところに海松(みる)が生えているから、「海石」を意味するのは明らかである。 1062は、「海石」の字を用いている。 さらにもう一首、「(万)3952伊久里能母里乃 藤花 いくりのもりの ふぢのはな。」があるが、 伊久里は地名〔候補地は富山県砺波市井栗谷など〕と見られている。 以上から、「いくり=海石」は確定したといってよいだろう。 《なづのき》 〈時代別上代〉は、「なづき」を「水に浸かること」と解釈する根拠を、①景行段の歌、②新字鏡、③出雲国風土記の地名から見出している。これらを確認すると、 ①は、倭建命の崩を嘆く歌。「水漬(なづ)きの田の稲柄(いながら)に」(第134回)。 ②は、「漚…(古訓) うるほす。なつく。みつにつく。ひたす。」から、なづくは、潤す・浸すと似た意味と思われる。 ③は、出雲郡宇賀郷…「北海浜有磯名脳磯高一丈」〔北海浜に磯あり、名は脳磯〔なづきのいそ〕、高さ一丈〕、 出雲郡北大嶋…「脳嶋」〔なづきのしま〕。これらは脳(なづき)を借訓したものである。 この「なづく」から、〈時代別上代〉は「なづのき」を「なづ(なづき)の木」即ち海藻と解釈している。 「木」が海藻を含むのかという疑問は確かに残るが、前項から「いくり」が海底にあることは疑いないので、 倭語のキは植物全般に拡張され得る語だと考える方が自然である。 《門》 建物の門を、自然地形に拡張した語。ここでは、海が左右から突き出す陸地によって狭まったところと解釈される。 《さやさや》 万葉集には「さやさや」はないが、派生語「さやぐ」がある。 (万)0133 小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 ささのはは みやまもさやに さやげども。――風によって笹の葉がざわめく音である。 万葉集には水が発する音を表した例は見いだせないが、三十一年条では「海石」の語によって水の音である可能性が高まる。 《解釈》 以上から、歌の後半は、 ――ゆらの門(と)の門(と)中の海石(いくり)に 触れ立つ 水浸(なづ)の木の さやさや 〔琴の音はまた、海中の石に海藻が触れて出す美しい音のようでもある〕 と解釈することができる。 まとめ 職業部である猪名部は、渡来集団に由来すると考えられる。 彼らが持っていた技術は、物語の流れから見れば造船術かも知れない。 なぜなら、新羅王は自らの国の船が火元となって大量の船を焼失させてしまったことをいたく詫びて、新たな船の建造を手伝うために、造船技術者を派遣したと読めるからである。 もしそうだとすれば、猪名川の辺りに造船所があり、集落があったことになる。 その場所が武庫川と難波津の中間に当たるところを見ると、そんなこともありそうな気がしてくる。 もしここで造船遺跡が発掘されれば、想像通りということになるのだが…。 さて、兄媛を吉備に送るとき、淡路島から海人を徴用して水主とした。 塩焼きもまた、淡路島の海人に関連した話題と見ることができる。二十二年九月条で淡路島の自然環境を特別に紹介したことも、このことと繋がっているかも知れない。 また、北淡町野島から新羅陶器が出土したように、淡路島にも新羅との交流があり、 応神天皇紀全体に、朝鮮半島からの渡来、交流が重層的に描かれていると言える。 |
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2017.05.04(thu) [10-05] 応神天皇紀5 ▼▲ |
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16目次 【三十七年】 卅七年春二月戊午朔、遣阿知使主・都加使主於吳、……〔続き〕 17目次 【四十年正月八日】 卌年春正月辛丑朔戊申、天皇召大山守命・大鷦鷯尊、……〔続き〕 18目次 【四十年正月二十四日】 〔四十年正月辛丑朔〕甲子、立菟道稚郎子爲嗣、……〔続き〕 19目次 【四十一年】 卌一年春二月甲午朔戊申、天皇崩……〔続き〕 20目次 【崩後】 是月、阿知使主等自吳至筑紫、……〔続き〕 まとめ 応神天皇の時代は、大量に渡来した人々がさまざまな技術・学問を倭国にもたらした時代として描かれている。 これらは記が大雑把に書いたものを、書紀は細かく展開する。 三十七年条、四十一年条について言えば、 記にでてきた呉服(くれはとり)を、呉王が使者の要請を受け入れて、縫女(ぬいめ)を派遣した話に拡張している。 しかし、この時代は呉は滅亡した後だから呉王は存在せず、神話が紛れ込んだ形になっている。 神功皇后記には魏志の引用があるから、同じく陳寿の『三国志』に書かれた呉の滅亡も知ることができたはずなのに、これはどうしたことだろうか。 それはともかくとして、書紀だけにある話で主なものは、吉備国の分割、武内宿祢・甘美内宿祢による兄弟の争い、 官船「枯野」である。それらの中には、筑紫、壱岐、吉備、淡路、紀伊、伊豆などの国名がでてくる。 ここから新羅・百済から瀬戸内海を経て畿内に至る海上交通網が浮かび上がる。 一方で、崇神天皇の時代に遡ると、加羅国の王子が角鹿(敦賀)に上陸した話がある (垂仁天皇紀-蘇那曷叱智の帰国)。 関連して天日矛は摂津国から上陸したことになってはいるが、その子孫は但馬国に展開するので、 原型伝承では日本海側から上陸したことが伺われる。 さらには、魏志に描かれた女王国への経路は、出雲の北を水行した後、山陰側から上陸したと推定した (魏志倭人伝をそのまま読む(24))。 かつては山陰から北陸が倭国の表玄関であり、海上交通は日本海側で活発であったことが、崇神天皇紀、あるいは神功皇后紀の一部に反映していると考えられる。 古墳時代前半までの倭国の古い姿は、神話の霧の向こうにおぼろげながら見えるのである。 海上交通路の日本海沿岸から瀬戸内海への移行は、古代史を追求する上で重要な観点であろう。 |
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⇒ [11-01] 仁徳天皇(1) |