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2017.02.07(tue) [09-05] 神功皇后紀5 ▼▲ |
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16目次
【百済新羅朝貢】
《新羅と百済の貢物》
今はなき仲哀天皇が一目この光景を見ることができたらと、 群臣たちは皆涙した。仲哀天皇が、あたかも新羅・百済が倭国に従うことを熱望していた如きである。 しかし、実際には海の向こうに国があるから攻め取れという神の言葉に従わず、その罰を受けて早逝したのであるから、 この部分は全く筋が通らない。悪口になるが、草稿の執筆は分業制で、筆者は全体の筋を理解しないままに、この部分だけを見て脚色を加えたことになる。 他の部分でも述べたが、書紀は充分な確認作業を経ぬまま清書に入ったと見られる。ここの不具合は、その一つの結果であろう。 《沙比新羅》
「太宗武烈王八年〔661〕春二月 百済残賊来攻二泗城一」。 百済は660年の敗北により絶滅しており、661年には残党との戦いがあった。 そして、「十二日 大軍来二-屯古沙比城外一 進二-攻豆良尹城一」 〔十二日、(高句麗の)大軍が「古沙比城」の外に集まった。〕 その古沙比城(고사비성)は、現在の群山市(군산시)にあたることが分かった。しかしそこは新羅とは反対の黄海側だから、あまり話の筋に合わない。 勘ぐれば、元の沙比にいた一族が他の土地に移り、そこを新たに「沙比」と名付け、元の場所が「古沙比」になったと、考えられなくもない。 ただ、これで沙比が、地名としてあり得ることは確からしくなった。 なお、岩波文庫版は、補注で「歃良」の「歃(sab)」と発音が同じだから「沙比」と同じであるとする。 しかし、開音節二個(사비〔sa-pi〕)が閉音節の〔sap〕一個に転化したかも知れないが、そう言い切るのも難しい。 《額田部》 額田部を冠せた「額田部湯坐連」は、奈良県大和郡山市額田が本拠地といわれる (第47回【天津日子根命の子孫】)。 〈倭名類聚抄〉には、{参河国・額田【奴加太】郡・額田郷} {伊勢国・桑名郡・額田【沼加多】郷}{伊勢国・朝明郡・額田【沼加多】郷}など。 そのうち{美濃国・池田郡・額田郷}はまた、国造本紀に「額田国造」 (第123回【東山道】)がある。 額田部は、額田部皇女(推古天皇)の御名代であったとも言われる。 ただ、逆に額田部という土地の宮に住んだから、「額田部皇女」と呼ばれたのかも知れない。何れにしても、 額田部そのものは部から氏族となり、東に向かって展開していったようである。 《槻本》 槻本は、〈倭名類聚抄〉に{摂津国・西成郡・槻本【都木乃毛止】郷}〔つきのもと〕。 〈新撰姓氏録〉に槻本を探すと、坂田宿祢の旧称であった。その始祖は「応神皇子 稚渟毛二派王〔わかぬもふたまたのみこ〕」。そして、 「天渟中原瀛真人〔天武〕天皇御世 出家入道 法名信正 娶近江国人槻本公転戸女 生男石村 附母氏姓冒槻本公」 〔天武天皇のとき、出家した法名信正は、その子石村が母方の氏姓、槻本公を受け継いだ〕とある。 その後延暦二十二年〔803〕に坂田宿祢に改め、さらに弘仁四年〔813〕朝臣を賜った。 祖とされる応神天皇の皇子については、応神天皇紀に「稚野毛二派皇子」応神天皇段に「若沼毛二俣王」がある。何れも、その子孫については書いていない。 以上から、槻本氏は首〔おびと〕としてある地域の額田部を仕切った。本拠地は摂津国。 以後、額田部と共に東国に進出し、千熊長彦は武蔵国で生まれたということであろうか。 《千熊長彦》 チクマは、〈倭名類聚抄〉{伊勢国・飯野郡・乳熊【千久末】郷}があるが、関連は不明。 一般にちくまながひこと訓まれているが、同一視される「シキマナナナカヒク」のナが一個多いから、 「千熊の敷彦」のではないかと思われる。 おそらくは、百済記に「シキマナナナカヒク」なる倭人の名前を見出し、発音に合わせて人物名を創作し、さらに似た名前の人物を探したのではないかと思われる。 その結果、それらしい人物を武蔵国に見出したのかも知れない。 《大意》 四十七年四月、 百済王は、久氐(クテイ)・彌州流(ミスル)・莫古(マウコ)を使者として、朝貢させました。 その時、新羅国の朝貢使が、久氐と共にやって来ました。 そこで、皇太后・太子誉田別尊(ほむたわけのみこと)は、大いに歓んでこう仰りました。 「先王が望んだ国の人が、今来朝した。 痛わしいことよ、天皇は間に合わなった。」と。 群臣は皆哀しみ、涙を流さない者はいませんでした。 そして二国の貢献の品を点検したところ、 新羅の貢物は、宝物がいっぱいあり、 百済の貢物は、数少なく賤しく、よくありませんでした。 そこで久氐らに 「百済の貢物が新羅に及ばないのは、どうしてかと。」と問い正しました。 それに答えて 「我らは、道が分からなくなり新羅に入ってしまい、 新羅人は我らを捕えて牢に閉じ込め、そのまま三か月を経て殺そうとしました。 その時久氐らは、天に向って呪いの言葉を言い、 新羅人はその呪いの言葉を怖れ、殺すのをやめました。 そして、我が国の貢ぎ物を奪い、自分の国の貢ぎ物にしようと考え、 新羅の下賤な物を持ってきて取り換え、我が国の貢ぎ物とし、 我らに 『もしお前たちが言葉を間違えれば〔下手なことを言ってばれるようなことがあれば〕、帰った後でお前たちを殺すからな。』と言って、 久氐らは恐怖で従わざる得ませんでした。 こうして、やっとのことで天朝にたどり着くことができました。」と申しあげました。 その後、皇太后と誉田別尊は、新羅の使者を責めました。 このようなわけで、天神に祈ってこう申しあげました。 「誰を百済に遣わして、事の虚実の調査に当たらせるべきでしょうか。 誰を新羅に遣わして、その罪を推問に当たらせるべきでしょうか。」と。 すると天神はこう教えられました。 「武内宿祢(たけのうちのすくね)にことを計画させ、 その上で千熊長彦(ちくまのながひこ)を使者としれば、願いはかなうであろう。」と。 【千熊長彦は、はっきりとは氏姓が分からない人です。 一説には、 武蔵国の人で、現在の額田部槻本の首(おびと)らの、始祖です。 百済記(くだらのふみ)に云う 「職麻那々加比跪(しきまななかひく)」は、けだしこれでありましょう。】 このようにして、千熊長彦を新羅に遣わして、百済の貢献の品を濫(みだ)りに扱ったことを以って責めました。 17目次 【百済王】 《百済王》
〈新撰姓氏録〉には、「豊城入彦命四世孫大荒田別命之後也」として、 大野朝臣・田辺史・広来津公・止美連の四氏がある。 豊城入彦(とよきいりひこ)命〔記では豊木入日子命〕は、崇神天皇の皇子である (第110回)。 豊城入彦は上毛野君・下毛野君の祖とされる。 豊城入彦の男、八綱田命は狹穂彦を討って美名倭日向建日向八綱田命を賜った (垂仁天皇紀6)。 御諸別王は彦狭島命を継いで東国を経営する (景行天皇紀20)。 ただし、御諸別王は集合人格かも知れなかった。 荒田別は豊城入彦命四世孫とあるので、御諸別王の男という理屈になる。 次の応神天皇紀で再び「遣二上毛野君祖荒田別巫別於百済一」とあり、 巫別と共に上毛野君の祖とされる。この巫別(かむなきわけ)が、鹿我別と同一人物と言われている。 《古奚津》
奚とするもの…岩波文庫、吉川弘文館『釈日本紀』。音は、漢音ケイ、呉音ゲ。 爰とするもの…「維基文庫,自由的圖書館」。音は、漢音エン、呉音オン。 通常「コケイツ」(釈日本紀では「コケヅ」)と訓まれるから、伝統に合うのは「奚」ということになる。 だから「爰」は誤りかというと、これが全くの誤りとは言い切れないのは、 魏志韓伝の馬韓54国の中に「古爰國」があるからである。しかし、「奚」を含む国も3国あり、そのうち「古」に発音が近いのは狗奚國である。 《忱弥多礼》 忱弥多礼は、通説では耽羅(現在の済州島)とされている。だとすれば、 移レ兵西廻 至二古奚津一 屠二南蛮忱弥多礼一」 〔兵を移して西廻りして古奚津に至り、南の蛮、忱弥多礼を屠る〕 によって、古奚津は朝鮮半島の南西端になる(図)。 旧馬韓地域の古爰国または狗奚国は、この辺りにあったのかも知れない。 その耽羅は継体天皇紀から持統天皇紀までに23箇所出てきて、その期間は508~677年である。 <wikipedia>耽羅からは678年までの間に公式記録に残るだけで計9次の使節が日本を訪れ、679年と684年には日本から耽羅への使者が派遣されている</wikipedia>という。 継体天皇紀二年十二月条の「南海中耽羅人 初通百濟國」について、〈釈日本紀巻十七〉「南海中耽羅人【ミナムノミチトムラノヒト】」とあるので、 訓は「トンラ」であった。 だが、もし書紀の編者に「忱弥多礼=耽羅」という明確な認識があれば、「忱弥多礼此今云耽羅」などと原注を加えたように思われる。 それでも、神功皇后紀の「賜二百済一」は、継体天皇紀の「初通二百済国一」を、遡らせて伝説化したとも考えられるので、 「忱弥多礼」は、はやり耽羅かも知れない。 《古沙山・辟支山》
〈周書〔636年〕巻四十九 列伝第四十一異域上 百済伝〉に、 「始国於帯方 故其地界東極新羅 北接高句麗 西南俱限大海 東西四百五十里 南北九百餘里 治固麻城 其外更有五方 中方曰古沙城 東方曰得安城 南方曰久知下城 西方曰刀先城 北方曰熊津城」 〔国は帯方に始まり、東は新羅が境、北は高句麗に接し、南西は大海に接する。 首都は固麻城、その外に五方あり、中方は古沙城、東方は得安城、南方は久知下城、西方は刀先城、北方は熊津城という〕 古沙城は、「現在の全北・井邑高阜面高阜里にあたる。」(「百済木簡」李鎔賢2008)という。 また、埼玉苗字辞典の「山」の項には「全羅北道古阜の古名を古沙山、古沙城と云う。」とあり、 この「古阜面」は、井邑市の域内である。同書によれば、山(むれ)・城(さし)は、どちらも非農民の鉱山鍛冶師等の集落を意味するという。 また、同書は辟支山については「全羅北道金堤の古名を辟支山、辟支城と云う」とする。 《都下》 周書に治と書かれた固麻城(泗沘城)は、 現在の忠清南道扶余郡にあたる。 《多沙城》 多沙は、帯沙と同一とされる。帯沙は継体天皇紀に「己汶帯沙賜二百済国一」などと書かれる。 帯沙は、現在の河東郡にあったと、一般的に考えられている。河東郡の西には、蟾津江(ソムジンガン)が流れる。 地理的に見て、この地が百済-倭の通行経路に当たっているのは確かである。 また、ここは継体天皇紀で任那と「総言」される地域(前回)で、 5~6世紀においては、域内の小国を百済・倭のどちらが獲得するかで駆け引きが絶えなかったであろう。 その歴史が、「増二-賜多沙城一」のような書きぶりに反映していると思われる。 《大意》 四十九年三月、荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)を将軍とし、 久氐(クテイ)らと共に勒兵して渡海し、 卓淳国に到着し、新羅を襲う準備をしました。 その時にある人が、 「兵員が少ないので、新羅を破ることはできなかろう。 さらに、沙白(さばく)、蓋盧(かふろ)に進上させ、軍士を増すようお願いいたします。」と言いました。 そこで、木羅斤資(モクラコンシ)と沙々奴跪(ササドク)、 【この二人の姓は不明ですが、ただ木羅斤資は百済の将軍です。】に命じて、 精兵を掌握させて沙白、蓋盧と共に送り、 卓淳国に集結して、新羅に攻撃して破りました。 これにより、比自㶱(ヒシホ)、南加羅(アリシチノカラ)、㖨国(トクのくに)、安羅(アラ)、多羅(タラ)、卓淳(タクジュン)、加羅(カラ)の七国を平定しました。 時を置かずに兵を移して西に回って古奚(コケ)の津に至り、南蛮の忱弥多礼(トムタレ)を屠(ほふ)り、百済に与えました。 そして、王の肖古と王子の貴須(キシュ)が軍を率いてやってくると、 比利(ヒリ)、辟中(ヘチュウ)、布弥支(ホンキ)、半古(ハンコ)の四邑(スキ)は、自ら降服しました。 このようにして、百済王の父子、荒田別、木羅斤資らは、 共に意流村(オルスキ)【今は州流須祇(つるすき)と言います。】に集まり、お互いを見て喜び、厚礼をもって帰還を見送りました。 ただ、千熊長彦と百済王の二人だけで、百済国に行き辟支山(ヘキムレ)に登り、契りを結びました。 また、古沙山(コサムレ)に登って共に石の上に座り、百済王は同盟を誓ってこう言いました。 「もし草を敷いて座れば、火災の恐れあり、木を伐採して座れば水害の恐れあり。 よって、盤石に座って同盟を誓うことは、長遠の不朽を示すものでございます。 これをもって、今から以後、千秋万歳、絶えること窮まることなく、 常に西蕃と称して、春秋に朝貢いたします。」と。 その後、千熊長彦を伴って都下に行き、厚く礼遇を加え、また久氐らに付き添わせて帰国させ、見送りました。 五十年二月、荒田別(あらたのわけ)らは帰還しました。 五月、千熊長彦と久氐らが、百済から到着しました。 そのとき、皇太后は歓びつつも久氐にこう質問されました。 「海の西の韓の諸国は、既にあなたに差し上げました。今、何事があって、すぐにまた来たのですか。」と。 久氐らは、 「天朝の鴻沢(こうたく)は、遠く弊邑(へいそん)に及びます。我が王は歓びに踊躍し、 何もしないのは気が済まず、そのようなわけで帰国した使者を、また貴国に戻し、至誠を示そうと致したのでございます。 これから万世を経ようとも、いつか拝朝しなくなることなど、ありましょうや。」と。 皇太后は、こう勅されました。 「素晴らしいです、あなたの言葉は。これは朕の心に適うものです。」と。 そして、さらに多沙城(タササシ)を与えられ、往来する道の宿駅としました。 【山・村・城・王・王子の訓み】 山… 辟支山(へきむれ)などの古訓から、ムレは山を意味する朝鮮古語だと言われている。 現代語では「山」の音読み「산」(サン)で、ムレは残っていない。 村… 意流村の原注に、別名州流須祇が示されている。恐らく、書紀の原文作成の頃から、村をスキと訓んでいたと思われる。 城… 草羅城は〈丙本〉は「左和良乃岐〔キ〕」、釈日本紀「サワラノサシ」で一定しない。 王…『釈日本紀』に載っているのは、垂仁天皇紀では「任那王【ミマナノコキシ】」、 神功皇后紀では「背古王【ハイコワウ】」「枕流王【トムルワウ】」で、これも一定しない。 王子… 釈日本紀では、王子についても、垂仁天皇紀は「新羅王子【〔シラキノ〕コキシノコ】」 神功皇后紀は「王子貴須【セシム キシユ】」である。 このように、城・王・王子については揺らぎがある。 《王》 コキシについては、 第141回【国王・国主】及び【新羅王】の項で、 奈良時代末に創始された「百済王」氏の呼び方「くだらのこんきし」に引きずられた結果ではないかと推定した。 コキシが肖子王・枕流王に及んでいない中途半端さも、その裏付けではないかと思われる。 《天智天皇紀》 天智天皇二年〔663〕年、百済の救援に派遣した倭軍は白村江の戦いで大敗した。 それから書紀編纂期まではまだ日が浅いので、地名や人名は正確だと思われる。 天智天皇紀の白村については、釈日本紀巻二十に「白村【私記曰 白字音読 村読二須支一】」 〔白の字は音読み。村はスキと読む。〕とある。 白村江の戦いでは現地に軍を派遣していたわけだから、当時の現地での呼び名ハクスキエがそのまま書紀を挟み、 私記の時代まで語り継がれていたと思われる。従って、書紀が書かれたときから三韓の邑・村は「スキ」と訓まれていたであろう。 城についても、弖礼城【テレサシ】、枕服岐城【シムフキサシ】などの固有名詞は、初めから現地読みだったと思われる。 一方「王城」は微妙で、【コムサシ 私記説/ コキシノサシ】と両説を併記している。 なお「コムサシ」は疑問である。 興味深いのは、「百済王善光王」である。 結局「王」には、コキシ・ワウ〔おう〕・オホキミが混在している。 王子は「突厥王子【トツクヱツノセシム】」〔トッケツのセシム〕がある。 垂仁天皇紀の中に例外はあるが、それを除けば「セシム」は比較的安定している。 《訓読における自由度》 原文の訓注から村=スキは、最初からだと思われる。山=ムレも〈時代別上代〉九州地方では、現在も山をあらわす語として残って〈/時代別上代〉いるとされ、 これも書紀編纂期から一般的だったかも知れない。 これらを除くと、古訓において朝鮮・倭のどちらの語を用いるかについては、それほど明確な基準はなかったようである。 ただ、固有名詞のうち天智天皇紀のように新しい時代のものは、続日本紀の時代まで実際の呼び名が残っていた可能性がある。 しかし伝説の時代〔神功皇后紀の頃〕に遡ると、城・王・王子の訓みには、平安時代の博士の主観が含まれていると考えられる。 ただ、いずれの場合でも、例えば「こきし」を「おほきみ」や「わう」と読むことに、全く問題はないと思われる。 さらに、枕服岐城(シムフキサシ)⇒「しむふきのき」、白村江(ハクスキエ)⇒「はくむらのえ」なども、同様である。 何故なら、そのもともとの意味を正しく当時の上代語によって表したものだからである。 これは現代において、例えば"New York City"を「ニューヨークシティ」「ニューヨーク市」と呼んだとき、どちらも正しいのと同じである。 まとめ 百済国、あるいは加羅地域の地名が多数出てくる。それらの位置を正確に突き止めるのは難しいが、 実在した地名だったことは確実である。 書紀は、おそらく百済側の資料にある地名を用いたと思われる。 書紀には百済記の引用として「百済記云 職麻那々加比跪」や、六十二年条の他、応神天皇紀・雄略天皇紀にもある。 百済記を含む「百済三書」は、<wikipedia>『日本書紀』内に唯一逸文が伝わるのみ</wikipedia>という。 百濟の地名については、百済記を忠実に用いる反面、文章は必ずしも百済記の内容にとらわれず作成されたと想像される。 この部分の編年表記は月までで、日付がないのが特徴的である。内容が百済記とは大きく異なることになったので、日付をぼかしたとも考えられる。 それでも、神功皇后記には実在資料を幅広く集めて示す必要があったのである。 |
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2017.02.13(mon) [09-06] 神功皇后紀6 ▼▲ |
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18目次
【献七枝刀】
《百済王亦遣久氐朝貢》
「如朕存時」は、遺言を思わせる言い回しである。太子と武内宿祢に私的に語った場面だから、その通り遺言なのであろう。 そのためには直前の「毎用喜焉」は完了形、すなわち「私はいつも喜びとしてきた」と読まなければならない。 《加二恩恵一・垂二大恩一》 具体的には回賜を指す。中華思想において朝貢は周辺国が中国に礼を示す行為で、中国はその貢献をはるかに上回る回賜を行う。 つまり、周辺国は中国への臣従を演ずることによって多大な実利を得たのである。 従って、百済が倭に貢献すれば、倭は百済に回賜としてそれ以上の品々を与えなければならなかった。 《五十五年百済肖古王薨》 神功皇后紀の本文には、肖古王・貴須王・枕流王・辰斯王、四代の薨と即位の年が書かれている。 三国史記の巻二十四(百済本紀第二)、巻二十五(百済本紀第三)、及び、巻三十(年表中)の内容を参照すると、 次のように王の名前と太歳が、ほぼ一致している。
『三国史記』の年表巻は干支と各国王の編年を対応させ、〈Wikisource〉版は参考のために西暦を添えているが、その対応には全く問題はない。 また、神功皇后紀と西暦との対応も問題ない。だから両者は干支二回りずれているわけだが、その意味は別項で改めて考察する。 《七枝刀》
「倭の五王」では、太和が「泰和」の可能性がある根拠として『晋中興書』を挙げたが、 さらに、<wikipedia中国語版>には、「太和(366年-371年十一月)、一作泰和」とあり、その注に、 「《高崧墓誌》:“晋故侍中、騎都尉、建昌伯广陵高崧、泰和元年八月廿二日薨、十一月十二日窆。”」 〔晋に仕え、騎都尉(=官職名)建昌伯 広陵高崧 泰和元年8月22日に薨じ、11月12日に埋葬した〕とある。 51年に百済王の朝貢、52年に七枝刀条、55年に肖子王薨の順で並んでいるから、52年壬申は372年に相当し、 太和四年〔369〕説にぴったり合う。従って、書紀はこれを太和四年と判断したのは確実である。 ただ、372年前後の『三国史記』-百済本紀には「倭」の字は見えない。「倭」が出てくるのが397年から428年の間である。 七支刀はもともと百済自身のために369年に作ってもっていたものを、倭国との友好のためにプレゼントしたのかも知れない(別項)。 書紀の「52年献上」は、むしろ時期が合い過ぎる感がある。「52年」は、「太和四年」の三年後ぐらいが丁度よいと考えたのかも知れない。 「和」の字は現在は判読できないが、書紀の時代はまだ腐食が少なく判読可能だったのかも知れない。 従って、書紀は太和四年説を一定程度補強していると見ることができる。 《大意》 五十一年三月、百済王は再び久氐(くてい)を派遣して朝貢しました。 そのとき、皇太后・太子と武内宿祢と語らい、仰りました。 「私の親交する百済の国は、天から頂いたもので、人の力によるものではありません。 異国の珍しい宝を愛好することは、以前にはありませんでした。 毎年欠かさず到来し貢を献(たえまつ)ること、私はこの誠意を心に刻み、いつも喜びとしました。 将来にわたって、私がいた時と変わらず、厚く恩恵を与え続けなさいませ。」と。 同じ年、千熊長彦(ちくまのながひこ)を、久氐の帰国に同行させて百済の国に派遣して、 大恩を垂れて詔を伝えました。 「朕は神の示験により、始めて道を開き海西を平定し、百済を賜りました。 今また厚く誼を結び、永く寵愛し誉むものであります。」と。 この時、百済王父子は、二人並んで深く額づき、申し上げました。 「貴い国の偉大な恩恵が天地を幾度も潤すこと、いつ如何なる時も忘れることなどありましょうや。 聖王は上(かみ)にあり、太陽と月のように照らし、今や臣は下(しも)にあります。 この固きことは山岳の如くして、永く西蕃(せいばん)となり、永久に二心はありません。」と。 五十二年九月十日、 久氐らは千熊長彦に従って来朝し、 七枝刀(しちしとう)一口と七子鏡(しちしきょう)一面、そして種々の重宝とを献上し、 申しあげました。 「臣(しん)の国の西に河があり、その源は谷那鉄山(こつなてつむれ)から出て、 その山は遥かに遠く、七日間歩いても到着せずその河の水を飲まねばなりません。 このようにしてこの山の鉄を取ったものを、長栄を願い聖朝に奉ります。」と。 そして帰国した後、王の孫、枕流王(とんるのみこ)に告げました。 「今、我らが通う海の東の貴い国、これは天が啓(ひら)きました。 そして天の恩恵を垂れ、その一部を海の西に分けて我らに賜り、これによって、永遠の国の基礎ができたのです。 あなたが善く誼を治め、国の各地の産物を集め貢ぎ奉ることを絶やさなければ、たとえ私が死んだとしても、恨むことなどありましょうや。」と。 これより後、毎年の朝貢を代々続けました。 五十五年、百済肖古王(しょうこおう)が薨じました。 五十六年、百済の王子、貴須が王位に即きました。 19目次 【遣襲津彦撃新羅】 《撃新羅》
『三国史記』新羅本紀によると、倭羅の友好関係の期間もあるが、それ以外は繰り返し倭人が新羅に侵攻し、 敵対関係が基調である(別項)。 「不朝」に当てはまる出来事としては、 344年に倭国が女を嫁がせることを要求するが新羅はそれを拒み、345年に絶交して346年には倭が攻撃を再開する。 但し、実際の新羅の建国の前であるからこの話は伝説であり、年代は不確かである。 また、402年に誼を通じて未斯欣を質にとるが、405年にはもう攻撃を再開している。 また「百済記曰」では沙至比跪の妹が倭国の天皇の妃になっており、 男子天皇になっている。これらから、この部分のもとになった話は、4世紀以後のものではないかと思われる。 《百済記曰》 『百済記』は、<wikipedia>逸書であるが、一部(逸文)が『日本書紀』にのみ引用されて残されている。</wikipedia> という。 壬午年は、神功皇后62年と一致する。 《五十五年百済肖古王薨》の項の考察により、壬午が西暦382年を指すと見た場合、前項の関係断絶年の345年、405年には合わない。 「壬午年新羅不奉貴国」の年を改竄することはさすがに躊躇すると思われるので、例えば「新羅已不奉貴国」の「已」(すでに)を削除するなどしたのかも知れない。 また、百済の歴史書の中で倭国を「貴国」と書くことはあり得ないが、 百済国から倭国宛の外交文書の中で儀礼的に用いられていた可能性はある。 さすがに『百済記』の引用部分は全くの架空ではなく、実在したものに若干の修正を加えたと見るのが穏当であろう。 《大倭》 魏志倭人伝で倭国社会を描写した一節に「国国有市交易有無使大倭監之」 〔諸国に市があり、交易の様子を"大倭"を遣わして監視させる〕 とある (〈魏志倭人伝をそのまま読む〉第56回)。 このように、朝廷から諸国の監視のために派遣された役人が「大倭」と呼ばれた。この語が周辺諸国の文献に一定程度使用されていたと考えることができる。 「大倭」がそれだとすれば、「殿」は皇居ではなく「内官家(うちつみやけ)」を意味することになる。 内官家は、朝鮮半島南岸の、倭国行政下にある地域の政庁だと考えた (【定内官家屯倉】) 《武帝泰初二年》 『晋書』巻三武皇帝諱炎、泰始二年に「十一月己卯 倭人來獻方物」がある (〈魏志倭人伝をそのまま読む〉第86回)。 晋の武帝司馬炎の泰始二年は、266年丙戌で、神功皇后六十六年にあたる。 引用では「泰初」となっているとは言え、この部分は晋書とほぼ一致している。 それでは「起居注」とは、いかなる書か。<世界大百科事典Web>中国歴代の王朝で皇帝の起居・言動を記した日記体の官撰記録。皇帝近侍の官がこれをつかさどり、その官もまた起居注といった</世界大百科>といい、 『晋起居注』は劉道薈の著とされる。 <wikisource:『晋起居注』>は、『太平御覧』(10世紀末)などから逸文を集めたものである。 その太始二年に「倭女王遣重譯貢獻」はない。 なお、「重訳」はその遠隔であることを「二重通訳を要するほど」と表現したものである。 『晋起居注』の原文に本当に「倭女王」があったとすれば、時期から見て壹与ということになり、興味深い。 《大意》 六十二年、新羅は拝朝しませんでした。 その年、襲津彦(そつひこ)を派遣して新羅を撃たせました。 【百済記にいいます。 壬午(じんご)年〔神功皇后六十二年〕、新羅は倭国に奉りませんでした。 倭国は沙至比跪(サシヒク)を派遣して討たせました。 新羅の人は飾り立てた美女二人を、港に迎えて誘わせました。 沙至比跪はその美女を受け入れ、背いて加羅国を伐ちました。 加羅国王の己本旱岐(コホカンキ)とその子、百久至(ハククチ)、阿首至(アシュチ)、 国沙利(コクサリ)、伊羅麻酒(イラマス)、爾汶至(ニモンチ)は、 人民を率いて、百済に亡命しました。百済は厚遇しました。 加羅国王の妹は既に内官家(うちつみやけ)に到着し、大倭〔=大使〕に向かってこう申し上げました。 「天皇は沙至比跪を派遣して、新羅を討たせました。 けれでも、新羅の美女を妻に納め、任務を放棄して新羅を討たず、背いて我が国を滅しました。 同胞人民は皆、流浪して没落し、境遇に耐えられず憂いております。 よって、参上して申しあげた次第です。」と。 天皇は大いに怒り、木羅斤資(モクラコンシ)を派遣し、 兵を統率して来させ、加羅に集めて、その社稷(しゃしょく)〔国家〕を再興しました。】 【あるいはいいます。 沙至比跪(サシヒク)は、天皇の怒ったことを知り、 敢て表から還らず、自らの姿を隠しました。 その妹は皇宮で寵愛されていたので、 サシヒクは密かに使いを送り天皇の怒りが解けてないかを問うように伝えました。 妹はそこで、夢にかこつけて「昨晩、サシヒクの夢を見ましたわ」と申しあげると、 天皇は大いに怒り、「サシヒクが敢えて来るとは、何たることか。」と仰りました。 妹は天皇の言葉を報告しました。 サシヒクは、もう逃げられないと悟り、岩穴に入って命を絶ちました。】 六十四年、百済国の貴須(きしゅ)王が薨じました。王子枕流(とんる)王が王に即位しました。 六十五年、百済の枕流王が薨じました。 王子阿花(アカ)は年少だったので、叔父の辰斯(しんし)が、王位を奪って即位しました。 六十六年 【この年、晋武帝の泰初〔泰始〕二年。晋の起居注(ききょちゅう)に云います。 「武帝泰初〔泰始〕二年十月、倭の女王使いを遣わして、重訳〔遠隔地より〕貢献する。」】 20目次 【皇太后崩】 六十九年夏四月辛酉朔丁丑、皇太后崩於稚櫻宮。……〔続き〕 【七支刀銘文】
《表》 「泰■四年■月十六日丙午正陽造二百練一作二七支刀一生レ辟百兵宜供供■■■■■作」 〔正(まさ)しく陽(あきらかに)造り百練(=精錬)して七支刀を作る。辟(=王)生まれ、百兵宜しく供し…〕 ということで、誕生した王のために百兵と共にこの刀を以って守護しようという意味であろう。 この王は当然百済王であり、表には倭国への献上を示唆するとは見られない。 《裏》 「先世以来未レ有二此刀一百濟王世■ 奇生二聖音一故爲二倭王■■■■■■」 〔先の世以来、此の刀未だ有らず、百済王の世、奇しくも聖音(=言葉?)生まれ、故に倭王の為に…〕。 「音」は「晋」と読む説もあるが、称えるなら「聖晋王」と表すと思われる。 声には「知らせ」などの意味もある。しかし「声を生む」という表現があり得るかどうかは不明である。 爲については、「灬」や上部の「ノ」から見て「爲」であろう。 倭は読みにくいが、旁の下の「女」の部分が特徴的なので「倭」と読むことができる。 旨は、例えば魏志倭人伝紹熙本では「詣」の「ヒ」の部分が「丄」になっているから、それから類推すれば「旨」はあり得る。 「此の刀」という表現には、「すでに存在している刀」というニュアンスが感じられる。 銘文には「百濟王」「倭国王」の両方の語があるので、 百済王の手元にあって奇しき力を発揮してきた七支刀を、この度倭国王に献上するという文ではないかと思われる。 よって、最初は裏には銘文はなく、後に倭国に献上するに当たって刻まれたものではないかと思うのである。 《銘文を刻んだ時期》
『三国史記』百済本記によれば、倭国の使者を、403年に「特厚」に労い、 また409年にも「優礼」している。そのどちらかの帰国にあたって、使者を副え七支刀などを持たせて倭王に献上したのかも知れない。 百済国は、七支刀を守り神として祀ってきた。それを倭国王に献上するのは、 倭国に百済の味方になって共通の敵と戦ってほしいと要請する意味をもつ。 【三国史記-百済本紀】 『三国史記』-百済本記に倭が出てくる部分を抜粋した。この期間の前には「倭」はなく、 またこの後は、608年まで出てこない。
また、書紀に「百済記」を引用したとする部分があり、 この前後の部分は、『三国史記』の原資料(『三韓古記』や『百済記』などか)を参照して書かれたのではないかと思われる。 ただ、その時期は30年ぐらい繰り上げられている。それは、七枝刀銘文の「泰和四年」を基準にしたためかも知れない。 《使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王》 使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王なる称号の授与を述べた416年の記事は、称号の表記と授与年が『宋書』「義熙十二年〔416〕」と完全に一致する (倭の五王)。 もっとも『三国史記』が、宋書を参考にした可能性はある。 宋は、百済との友好関係を重視していたことが分かる。逆に宋が倭の称号に新羅を含めることを承知したのは、 新羅との友好関係はそれほどなく、倭が支配下に置きたいのなら自由にせよということであろうか。 【三国史記-新羅本紀】 『三国史記』-新羅本紀によれば、倭人が繰り返し新羅を攻め、その間に時々は講和した期間がある。 《346年以前》 新羅の建国は一般的には356年といわれるが、それ以前において講和していたとされる期間は次の通りである。 ●脱解尼師今二年〔58〕「与二倭国一結好交聘」〔=贈り物を交わす〕」~十七年〔73〕「倭人侵二木出島一」。 ●祇摩尼師今立十二年〔123〕「与二倭国一講和」~奈解尼師今十二年〔196〕「倭人犯境」。 この期間内、173年の「倭女王卑彌乎遣使来聘」が注目されるが、魏書などの中国文献に影響された伝説と見られる。 ●基臨尼師今三年〔庚申300〕「春正月 与二倭国一交レ聘」〔倭国と交聘〕。 ●訖解尼師今三年〔壬申312〕「春三月 倭国王遣使 為レ子求婚 以阿飡急利女送之」〔倭国の求めによる政略婚:阿飡急利の女を送る〕。 ●同三十五年〔甲辰344〕「春二月 倭国遣使請レ婚 辞三以二女既出一レ嫁」〔婚を請う。女を既に嫁がせたことを以って辞す〕。 ●同三十六年〔乙巳345〕「二月 倭王移書絶交」〔移書=文書を送る〕。 ●同三十七年〔丙午346〕「倭兵猝至二風島一抄二-掠辺戸一 又進囲二金城一急攻 王欲一出兵相戦一」 〔倭兵俄かに風島に至り辺戸を抄掠(=収奪)し、進んで金城を囲み、王は自ら出兵し相戦うを欲す〕。 このように再度の政略婚を拒否されたのをきっかけに、絶交して攻撃に転ずる。 《402年以後》 ●実聖尼師今即位元年〔壬寅402〕「三月 与二倭国一通レ好 以二奈勿王子未斯欣一為レ質」〔倭国と誼を通じた。奈勿尼師今は王子の未斯欣を質として送った〕。 ところが、わずか3年で講和は破れる。 ●同四年〔乙巳405〕「夏四月 倭兵来攻二明活城一 不レ克而帰」〔倭兵、明活城に来攻。勝てずに帰る〕。 ●訥柢麻立干二年〔戊午418〕「秋 王弟未斯欣 自二倭国一逃還」〔未斯欣は逃げ帰った〕。 ●同十五年〔辛未431〕「夏四月 倭兵来二-侵東辺一 囲二明活城一 無レ功而退」。 この後440、444、458、459、461、462、476、477、479、482、486、493,497年に倭の攻撃が書かれる。 ●炤知麻立干二十二年〔庚辰500〕「春三月 倭人攻二-陥長峰鎮一」。 ここから倭はしばらく見えなくなり、次に見えるのは文武王五年〔665〕である。 《倭百関係と倭羅関係》 両国から取った質の返し方は対照的で、百済へは丁寧に護衛を付けて返すが、新羅の質は自ら逃げ帰っている。 大雑把に言えば、400年前後の時期において倭-百は友好的で、倭-羅は敵対的である。 神功皇后紀に書かれた個々の内容の史実性はあまりないが、倭-百、倭-羅の関係の描き方には、全体としてこの時期の現実が投影されていると言える。 【時系列の複合】
第一の系列(Ⅰ)は、魏志・晋書によるもので、『三国志』魏志から引用された魏への遣使、 及び晋書の「倭人来献方物」である。後者は神功皇后紀では『晋起居注』からの引用となっている。 これが書記で最終的に用いられた編年である。 第二の系列(Ⅱ)は、七支刀の銘文及び、『三国史記』-百済本紀の近肖古王から辰斯王までの即位年・薨年によるものである。 後者は『三国史記』が参照した古代文献を、書紀も参照したことによると思われ、双方の干支は一致している。 そして、Ⅰとは干支2回りのずれがある。 第三の系列(Ⅲ)は、『三国史記』の5世紀初めの内容に対応し、 Ⅱの編年からさらに20~30年のずれがある。 Ⅱと異なる年を書いた資料があった可能性は薄いと思われ、 むしろⅡの資料の内容だけを取り出して消化し、それを素材にして自由に物語を描いた印象を受ける。 まとめ 神功皇后の人生の後生は、事実上370年頃から420年頃までの時期に置かれ、 百済、新羅との現実外交を差配する。 だが、人生の前半は神の教えに従い、倭と半島南部の上下関係の原点を定義した神であった。 さらに、神功皇后は、卑弥呼・壱与(239年~266年)を倭国史において体現する存在でもある。 書紀の原型は神功皇后の崩御年は389年己丑であって、それを魏志に合わせるために120年遡らせて269年己丑にしたとする論もある。 しかし、百済・新羅の歴史書と噛み合い389年己丑に合致するようになった時期は、摂生となった後である。 書紀に先行した古事記にその部分がないのだから、摂政になった後が原型であるとするのは理屈に合わない。 ここでは事実関係の確認に留め、古事記に戻って神功皇后の生涯全般を総括する中で改めて検討したい。 |
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⇒ [10-01] 応神天皇 |