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2016.11.01(mon) [08-01] 仲哀天皇紀1 ▼▲ |
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01目次
【足仲彦天皇】
足仲彥天皇、日本武尊第二子也……〔続き〕 02目次 【蘆髮蒲見別王】
陵が、白鳥陵であるとすると、書紀にある伊勢国の能褒野(のぼの)・倭国の琴弾原(ことひきはら)・河内国の旧市(ふるいち)の三陵の比定地のうち、周濠があるのは旧市の白鳥陵だけである (第134回)。 能褒野・琴弾原の陵が比定地以外ならば、分からない。例えば琴弾原陵が近くの宮山古墳には、周濠はあったように見える。 何れにしても、書紀が書かれた時には周濠を備えた古墳が、白鳥陵3陵のどれかとして決定されていたことになる。 天皇はこれを見て心を慰めたいと思っているので、少なくとも時々は見に行ける範囲にあったはずである。 しかし「其陵」とは書かず、ただの「陵」なので、「陵域の池のようなところに」という程度の緩い意味にもとれる。 《菟道河辺》 貢物の白鳥を連れて、「菟道の河辺」で宿したとされる。 該当しそうな場所を〈倭名類聚抄〉で探すと、山城国の宇治郡と大和国の宇智郡が見つかる。 菟道河については、宇治川は淀川の宇治地方の名称で、一方宇智郡ならば場合は吉野川となる。 越の国から使者は、北陸道を通って畿内に来たはずである。 そこから考えれば、山城国の宇治郡の方である。 とすれば、仲哀天皇の最初の宮は、奈良県北部の佐紀盾列古墳群の近くである可能性が高い。 また、成務天皇がいた高穴穂宮を引き継いでいたとすれば、宇治郡からはやや後戻りすることになる。 《蘆髪蒲見別王》 記では、「足鏡別王(あしかがみわけのみこ)は、鎌倉之別・小津石代之別・漁田之別の祖」とある(第135回 )。 なお、書紀では「たらし」に"足"を宛てるが、記は「たらし」を"垂"と表記する。 蒲見別王(かみみわけのみこ)と同一人物とされるのは、「かまみ」が「かがみ」の訛りと解釈されたからであろう。 髪は「かみ甲」だから、神(かみ乙)でなく守(かみ甲)であろう。
《大意》 〔元年〕十一月一日、側近の者に勅されました。 「朕は、戴冠の儀〔成人〕のときには、既に父君は崩じていた。 その神霊は白鳥(しらとり)となって天に上り、仰ぎみて望む心は一日たりとも絶えることはなかった。 そこで、乞ひ願わくば白鳥を獲って陵域の池に飼い、 その鳥を観て、顧る心を慰めたい。」と。 そこで、諸国に命じられ、白鳥を貢として献上させました。 閏十一月四日、越の国は白鳥四つがいを献上しました。 そして、鳥を送る使は、菟道河(宇治川)の川辺に宿をとりました。 その時、蘆髪蒲見別王(あしかみのかまみわけのみこ)は その白鳥を見て 「白鳥を持ってどこに行くのだ。」と問いました。 越の使者は、 「天皇は父君を乞い、飼い馴らそうと仰るので、献上するのでございます。」とお答えしました。 すると蒲見別王は、越の使者に 「白鳥とは言っても、焼けば黒鳥だ。」と言い放ち、 無理やり白鳥を奪って持ち去りました。 そこで越の使者は参上し、しかるべき処置をしていただくように願い出ました。 天皇はここに、蒲見別王の先王への無礼を憎まれ、兵卒を派遣して殺されました。 蒲見別王は、天皇の異母弟で、 当時の人は、このように言い立てました。 「父はこれ天(あま)にて、兄はまた君(きみ)なり。 奢り天の道を違えた王(みこ)が、どうして誅殺を免れ得るか。」と。 まとめ 蘆髪蒲見別王の行動は非礼の極みだが、このような話を載せること自体が、書紀の日本武尊に対する感情の屈折した表現のように感じられる。 この問題については、第135回のまとめで、 「古墳時代初期に一人の英雄が朝廷への反逆者として振る舞った記憶が支配層の人々の心に深く突き刺さり、飛鳥時代になってもそれが影を落としていたとしか考えられない」 と論じた通りである。また、建部(たけるべ)についても、「新しい天皇の系列を生みだす力があったのかも知れない」と論じだが、当然それに反発する勢力が存在し、 それを蘆髪蒲見別王に体現させたとも考えられる。 |
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2016.11.03(thu) [08-02] 仲哀天皇紀2 ▼▲ |
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03目次
【立気長足姫尊為皇后】
是年也、太歲壬申。二年春正月甲寅朔甲子、立氣長足姬尊爲皇后。……〔続き〕 04目次 【天皇巡狩南国】 三月癸丑朔丁卯、天皇巡狩南國……〔続き〕 05目次 【興宮室于穴門豊浦宮】 八年春正月己卯朔壬午、幸筑紫。……〔続き〕 06目次 【天皇疑神言】 秋九月乙亥朔己卯、詔群臣以議討熊襲。……〔続き〕 07目次 【匿天皇之喪】
●中臣烏賊津連 神功皇后記で神審者(さには)を務める。系図は、 「天児屋根命― - - ―伊香津臣命(烏賊津連)― - - ― 国摩大鹿嶋命― - - ―鎌足…」※1。 ●大三輪大友主君 系図は、 「大田田根子―大御気持―大友主(母は大伴武日の女)―志多留…」※2。 ●物部胆咋連 系図は、 「饒速日命― - - ―物部十千根―胆咋― - - ―石上麻呂…」※1。 物部氏は、石上神宮の由緒に深く関わっている。 また、石上神宮についての考察の中で、その遠い祖先は鳥見山古墳群の王朝ではないたかと考えた。 ●大伴武以連 系図は、 「高皇産霊尊― - - ―天押日命― - - ― 道臣命― - - ―武日―武持…」※1。 ※1…『日本の苗字7000傑』。※2…『姓氏家系大辞典』。 四大夫のうち、中臣連・物部連・大伴連は、垂仁天皇紀の五大夫にも含まれる。中臣連大鹿嶋・物部連十千根・大伴連武日がそれである。 大三輪君、物部連、中臣連は、天武天皇十三年に、朝臣の姓を賜る。また、大伴連は同じ年に宿祢の姓を賜る。 これまで見てきたように、書紀の時代に朝廷を支えた有力氏族は、書紀神話の中でも遠祖が活躍して存在感を示すのである。 《无火殯斂》 「殯斂」の中国古典における用例は比較的多く、例えば『後漢書』〔420~445〕〈郭符許列伝〉に、 「妻亡、貧無二殯斂一。」〔妻は亡くなり、貧しくて殯斂できない。〕がある。 その次の文は、「郷人欲レ為レ具二棺服一、融不レ肯レ受。」 〔村人は棺・服を用意してやろうとしたが、申し出を受け入れなかった〕 だから、ここでは〈汉典〉に示された「斂」本来の意味が使われているが、 一般には葬儀そのものの意味で使われることが多いと思われる。 とすれば、書紀の原注「ほなしあがり」の後半の「あがり」の部分が葬儀にあたることになる。 しかし〈時代別上代〉によれば、モガリを「アガリという例は他にない」という。 これまでのいくつかの例※により原注と言えども絶対化できないので、「ほなしあがり」は「ほなしあかりのもがり」の誤りだと思われる。 ただ、和文としては「もがり」の重複はない方が読みやすいので、「ほなしあかりにしまつる」という訓を求めたのかも知れない。この場合も「が」はかの誤りである。(蛾は「カ」には使わない) 以上から「殯于豊浦宮、為无火殯斂」は、「豊浦の宮にて殯(もがり)したが、それは大きな灯火を避け僅かな灯りによる殯斂(もがり)となった。」と読むべきだと思われる。 丙本の「ほのかあかり」〔仄か明り〕はこれに通ずるものである。 ※…第139回《眉墨とする解釈》など。 《大意》 そこで、皇后と大臣武内宿祢は 天皇の喪を匿し、国全体に知らせず、 皇后、大臣、そして 中臣烏賊津連(なかとみのいかつのむらじ)、大三輪大友主君(おおみわのおおともぬしのきみ)、 物部胆咋連(もののべのいくいのむらじ)、大伴武以連(おおとものたけもつのむらじ)に仰りました。 「今天下は、未だ天皇の崩御を知らない。 もし人民がこれを知れば、勤勉を怠る者もでてくるであろう。」と。 そして、四人の大夫(だいぶ)に勅され、官僚たちを率いて宮の内を守るよう命じました。 そして密かに天皇の遺体を収容して武内宿祢を伴わせ、 海路、穴門(あなと)に移し、 豊浦(とよら)の宮に殯(もがり)を、火を挙げず僅かな灯りで行いました。 〔九年二月〕二十二日、大臣武内宿祢は、 穴門より帰還し、皇后に復奏しました。 この年は、新羅(しらき)の役の故に、天皇を葬ることができませんでした。 まとめ 仲哀天皇九年二月に仲哀天皇は崩じ、密かに豊浦宮に遺体を運んで安置する。 同年十月に新羅に上陸し、新羅王を降伏させて帰国する。 翌年二月に喪を収め、海路帰京する。 その年を神功皇后摂生元年と定め、 翌二年十一月に、「葬二天皇於河内国長野陵一」 (記には「河内恵賀之長江)、即ち河内国に葬られた。 これから戦争を始めようというときの天皇の崩は、敵に知られれば作戦上不利であるし、 国内の動揺を防ぐためにも秘密にし警戒態勢をとる。 殯は灯りを落として悟られないようにし、陵に葬るのは役の終了後にするという 対応は、当然考えられることである。 記には、仲哀天皇の崩から埋葬までのことは、何も書かれていない。 書紀はその空白を、だれにでも思いつけそうな話で埋めたわけである。 |
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2017.01.21(sat) [09-01] 神功皇后紀1 ▼▲ |
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01目次
【気長足姫尊】
氣長足姬尊、稚日本根子彥大日々天皇之曾孫、……〔続き〕 02目次 【欲求財宝国】 九年春二月、足仲彥天皇崩於筑紫橿日宮。……〔続き〕 03目次 【令撃熊襲国】 然後、遣吉備臣祖鴨別、令擊熊襲國、……〔続き〕 04目次 【自欲西征】
《迹驚》 迹驚が「と-おどろき」なる母音融合によって「とどろき」と訓まれたのは明らかである。 地名「とどろき」は、〈倭名類聚抄〉に一か所{甲斐国・巨麻郡・等力【止々呂木】}〔と々ろき〕がある。 現代地名には、東京都世田谷区等々力の他、秋田・山形・埼玉・新潟などに見られる(〈レファレンス事例詳細〉)。 一般に、「車馬、流水などの音がとどろくさま」と解釈されている。 かつて裂田の溝にも、「とどろき」の地名があったわけである。それは裂田神社の辺りかもしれない。 動詞「とどろく」が、擬声語「ドドッ」のようなものに由来するのは明らかである。 万葉集には「とどろ」が、(万)0400 伊勢海之 礒毛動尓 因流浪 いせのうみの いそもとどろに よするなみ。など12例がある。 《髻》 ここの髻は、文脈から見て、ミヅラであろう。 天照大御神は須佐之男命の襲撃に備えて、男装して待ち構えるときに髪を解いて美豆羅(みづら)にした (第45回)。 神功皇后も自らを将軍に任ずるにあたって、それに倣ったものと見られる。 しかし、〈倭名類聚抄〉には「髻【和名毛止〃利】〔もとどり〕。鬟【和名美豆良一云訓上同】〔みづら、またはもとどり〕」 とある。 神代紀は天照大神の同じ場面を、「結レ髪為レ髻」、「以八坂瓊之五百箇御統纒其髻鬘」〔やさかにのいほつみすまろを其の髻鬘にまとひ〕と一定しない。 〈乙本〉は両方とも「美豆良」と訓んでいるが、これは記に合わせたのだと思われる。 この段では「髻」のみが使われているので、ひとまず倭名類聚抄に合わせて「もとどり」と訓んでおく。 《大意》 〔仲哀天皇9年4月3日〕 こうして皇后は、神の教えには霊験があることを知り、更に神祗を祭祀して、自ら西征したいと思いました。 ここで神田を定めて開墾しました。その時、儺河(なのかわ)〔那珂川〕の水を引き、神田を潤そうとして溝〔用水〕を掘ろうとしました。 迹驚(とどろき)の岡まで進んだところで、大岩が塞ぎ、溝を掘ることができなくなりました。 皇后は、武内宿祢(たけのうちのすくね)を召し、剣・鏡を捧げて神祗に祈祷して溝を通すことを求めさせました。 すると間もなく、激しく落雷してその岩を裂き、その岩を越えて水を通させました。 よって、当時の人はその溝を裂田溝(さくだのうなで)と名付けました。 皇后は帰還して橿日浦(かしいのうら)に行かれ、髪を解き海を臨み見て仰りました。 「私は神祗の教えを受けて、 皇祖の御霊のふゆを頼み、滄(あお)海原を渡り、自ら西征しようと思います。 よって、頭を海水で洗わせていただき、もし霊験が示されるのであれば、髪は自然に両側に分かれるでしょう。」と。 そして海に入り洗ったところ、髪は自然に分かれました。 皇后はそのまま分かれた髮を結って、鬟(みずら)にしました。 そして、群臣にこう命じられました。 「軍を興して衆を動かすことということは、国の大事である。ことが成るか成らぬかは、必ずここで決まる。 今、征伐に成功すれば、その成果は群臣に授けられたものである。 もし事が成らなければ、罪が群臣にあるとするのは、まことに痛わしい。 私は女子であり、それに増して未熟であるが、暫くは仮に男の姿となり、強いて雄略に立たん。 上は神祗の御霊のふゆを被り、下は群臣の助けを借りて、 兵甲(へいこう)を振(ふる)って荒海を渡り、船団を整えて宝の国を求めよう。 もし事が成就すれば、群臣の皆に功が有り、事が成就せねば、私一人に罪が有る。 既にこの心であることを知った上で、皆で議論せよ。」 群臣は皆、「皇后は、 天下の計略は宗廟社稷(そうびょうしゃしょく)〔国の屋台骨〕を安定させる故であり、また罪は臣下に及ぼさずとのお考えである。 額(ぬか)づきて詔(みことのり)を奉(たてまつ)る。」と申しあげました。 まとめ 裂田溝の取水口の堰は人工物であるから、この堀は人の手によるものであろう。 その工事は、当然書紀が書かれるはるか以前ということになる。 このエピソードを挿入したのは、この地に滞在して国を治めた神功皇后を偉大化する一環であろう。 また、この地で神功皇后に結びつけられそうな伝説があれば、洗いざらい収めた一つであるようにも感じられる。 さて、「勝てば選手の力、負ければ監督の責任」という言葉は、現在でもチームスポーツの監督がよく口にする台詞である。 チームプレイにおいて集団を動かす原理は、昔も今と変わらなかったことがわかり、とても興味深い。 また最後に他国の領土に攻め入る行為が、あくまでも我が国の安定的な存在のために必要だと理解した上で、 臣下が同意するところも面白い。いつの時代にも、戦争を始めようと思えばまず自国民に、その正当性を信じさせなければならないのである。 |
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2017.01.25(wed) [09-02] 神功皇后紀2 ▼▲ |
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05目次
【招荒魂為軍先鋒】
秋九月庚午朔己卯、令諸國、集船舶練兵甲、……〔続き〕 06目次 【到新羅】 冬十月己亥朔辛丑、從和珥津發之。……〔続き〕 07目次 【生誉田天皇】 十二月戊戌朔辛亥、生譽田天皇於筑紫。……〔続き〕 08目次 【一云】 《一云(1)》
「無レ実国」は、仲哀天皇が攻めようとしていた熊襲を指す。 仲哀天皇紀に出てきた「膂宍之空国」(そししのむなくに)を、ここでは「譬えれば鹿の角の如き、実のない国である」と表現する。 痩せた土地を「鹿の角」と比喩するのは、他に例を見ない。 漢籍における「鹿角=兵営の門前を埋めた尖った枝」としての用例は、「備レ夜燒二囲鹿角一」(『魏志』夏侯淵伝)などに見られる。 「譬如鹿角以無実国也」とは、葉が落ち、尖った枝ばかりが目立つ風景を形容したものであろうか。 《聞惡事之言坐婦人乎何言速狹騰也》 神は、皇后の口を通して神託を述べている。だから発した言葉は皇后自身のものではないのだが、天皇は神が名乗った名前を聞いて、思わず 「この女子は何ということを言うのだ」と口走った。この一文はそのように理解するしかない。 他の可能性としては、「『向匱…神』は女神のはずなのに、男神の名前を名乗ったことを異様に思った。」もある。 しかし、「天皇謂二皇后一曰」〔皇后に向かって言った〕とあるから、やはり「婦人」=皇后であろう。 その何らかの言葉にキレて、神が乗り移っていることを一瞬忘れたのである。 いずれにしても「悪(にく)きこと」を言ったのは「婦人」であるから、「言坐」は「所言坐」、すなわち婦人への連体修飾句であり、 従って「坐」は尊敬の補助動詞「ます」である。 そして、「之」は、V-Oを逆転するときに挟む。 これで「聞」がなければ、実質的に「所坐言悪事婦人」となって解決するが、「聞」の扱いが難しい。 「聞二悪言之言一」が自然であるが、これでは次に繋がらない。 岩波文庫版は「聞悪し=ききにくし」と訓んでいる。 「ききにくし」は現代語では「聞くことを遠慮すべし」の意味だが、古語では「聞き苦しい」意味である。 古語辞典の文例には、〈源氏物語〔1008年以前〕-末摘花〉「聞きにくくもおぼされず」がある。 しかし、上代に「○○にくし」と熟した語は、万葉集、〈時代別上代〉とも「みにくし」〔醜し〕のみである。 「聞」は「聞きて」「聞けば」「聞くに」などとするのが安全であろう。 《速狭騰》 仲哀天皇は、神託のどこにキレたのか。大きく見れば「海の向こうの宝の国を攻めよ」と言われたことである。 しかし、この段をそのまま読むと「速狭騰」と言った瞬間に反応している。「はやさ」とは、形容詞の語幹+接尾語サで、名詞化の機能がある。 だから名前の最後に含まれる「速さ上り」を「何をぐずぐずしている。さっさと攻め上れ」と受け取ったのであろう。 《向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊》 向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊なる長い名前は様々に解釈されているが、ここでも一応の解釈を試みたい。 まず、蓋のある箱を意味する匱は「ひ甲つ」。四段連用形のイ段も甲音であるから、 「向匱」〔むかひ甲つ〕は、伊勢国渡会県五十鈴宮に坐す神の名に含まれる「向津」と同じ意味である (神功皇后紀6)。 ところが、「向匱男」(むかひつを)は男神である。 筑紫には、古く「向津比古・向津比売」の夫婦神がいたのかも知れない。 「聞襲」は「もそ」という訓も見られるが、ここでは〈丙本〉の「ききそ」を採用した。 「大歴」は「大きく征韓する」ともとれる。しかし、「聞襲大歴」はさまざまな解釈が可能であろう。 「五御霊」が「稜威御霊」なのは明白で、〈丙本〉は訓を省く。ただし、転写で脱落したかもしれない。 「速狭騰」は、前項の物語を描くために付け加えたのかも知れない。 ここで最も注目すべきことは、ミコトが「命」ではなく「尊」であることである。 一云(1)の伝承における天照大神は、もともと男神であったのかも知れない。 《宇流助富利智干》 この新羅王の名に含まれる助富利と同じ名の「曽富理神」は、大年神の系図に位置づけられている (第70回)。 曽富理神と同じグループには漢神(からのかみ)、白日神(しらひのかみ)がいて、「白」を新羅と考える説もある。 宇流と同音の、現代の韓国・朝鮮語「울」(ウル)は、「私たち」の意味である。 《一云(1)の性格》 一云(1)は概ね本伝の要約であるが、それだけなら敢えて載せる必要はない。 それだけ、一云(1)と本伝の間の僅かな相違点が、重要になる。 その相違点とは、①いくつかの人物名。②御船を幣帛とせよとの神託への反論。③船を守護する神の名前。である。 ①については最後に述べる。②は想像が可能な範囲内である。 そして③では、男神の名前である。これこそが、この別伝を載せる主な目的であった。
一云(1)の原伝説では、男神であったと見られる。この「向津男神」を女神に変更したのは、天照大神と同一とするためと見られる。 ただ、名前を完全に抹消することは避け、「向津」と「いつ御魂」を残している。 そして、「男神」伝説から神功皇后記を形成する過程を可視化している。 これは、原伝説を代々伝承してきた現地の氏族への配慮かも知れない。彼らは、一定の満足感が得られたであろう。 神功皇后は女性であるから、もともとの男神の方が相性が合ったかも知れない。 にも拘わらず天照大神にしたのは、「三韓征討」が皇祖神である天照大神に守護された偉業であったことを示すためであろう。 また、長い複雑な名前にしたのは、男神→女神の変更を見えにくくする狙いのように見える。 ①で出てくる名前もかなり難解に書かれており〔「内避高国避高」など〕、読解の障壁になる。 一般の読者は遠ざけつつ、原伝説の提供者には、ちゃんと書いたとアリバイを示そうとしたのであろうか。 《大意》 〔仲哀天皇九年十二月十四日〕 【一説には、足仲彦(たらしなかつひこ)天皇〔仲哀天皇〕は、筑紫の橿日宮(かしいのみや)に滞在していました。 ここに神が現れ、沙麼(さま)の県主(あがたぬし)の先祖である内避高国避高松屋種(うつひこくにひこまつやたね)に憑いて、 天皇に「御孫尊(みまのみこと)よ、もし国を得ようと思うのなら、現実にを授けてやろう。」と教えました。 そしてまた、「琴を持って来て、皇后に進ぜよ。」と教えました。 則(すなはち)神言(かむごと)の隨(まにまに)して[而]皇后(おほきさき)琴(みこと)を撫(ひ)きたまふ。 すると、神は皇后に憑いて、このように教えました。 「今、皇孫の望む国は、譬えて言えば鹿の角のような、実の無い国である。 今、皇孫が所有している船と、穴戸直(あなとのあたい)の践立(ほむたち)が貢を産する水田、 その名は大田(おおだ)とを幣帛として奉り、私を祭ることができれば、 美女の眼(まなこ)のような、金銀が多く眼に炎の国を皇孫に授けよう。」と。 すると、天皇は神に答えて申しあげました。「神でありながら、何を侮ることを言うのですか。どこに国があると言うのですか。 また、朕が乗る船は既に神に献上し、朕の手元に置くことを許された船に乗っているのです。 ところで、あなた様は、まだ何と仰る神か知りませんので、願わくばその名を知りたいと存じます。」と。 すると、神の名として「表筒雄(うわつつお)、中筒雄(なかつつお)、底筒雄(そこつつお)」の 三神の名を名乗り、さらにこう仰りました。 「私の名は、向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊(むかいつおききそおういつみたまはやさのぼりのみこと)である。」と。 すると、天皇は皇后に「言わせておけば、いやなことを言いなさる女子だ。どうして速狭騰(はやさのぼり)などと言うのか。」と仰りました。 すると、神は天皇にこう仰りました。 「あなたがこんな風にして信じないのなら、絶対にその国は得られない。 ただ、今皇后が懐妊している御子が、代わりに得ることになろう。」と。 この夜、天皇は突然発病し、崩じました。 このことがあった後に、皇后は神を教えのままに祭り、男装して新羅を征圧しました。 その時、神は船に留まって導きなされ、 その故に船を運ぶ波のままに進み、遠く新羅の国半ばまで達しました。 すると、新羅王、宇流助富利智干(うるそほりちか)がお迎えし、跪(ひざまづ)いて王船を取り導き、額づいて申しあげました。 「臣は、今から以後、日本(やまと)の国にいらっしゃる神の御子に服従し、内官家(うちつみやけ)として 朝貢を絶やすことはありません。」と。】 《一云(2)》
新羅王は日本の朝廷の官吏に捕えられ、服従を拒んだために殺害されたと見られる。 宰(みこともち)は、新羅国を監督する役職を示す。 《抜臏筋》 〈中国哲学書電子化計画〉による検索では、臏筋・臏肋ともに使用例はない。 「筋」は、岩波文庫版の校異によれば異本に「助」があり、〈時代別上代〉では「臏肋」〔肋はあばら骨〕とする。 字のまま「膝蓋骨・筋肉(またはあばら骨)を抜く」と読んでも、意味ははっきりしない。 ここでは、この刑により王を匍匐させたとあるから、もともと「抜臏=膝蓋骨を抜く」だけであって、 筋または肋の追加は誤りと思われる。 《一云(2)の性格》 本伝では、新羅王は日本の軍船が姿を見せただけで、恐怖に慄き直ちに降伏するのであるが、 実際の戦争がそのようなものではないことは、誰でも分かっている。 一云(2)は、捕えた敵に対する残虐行為や、支配国への抵抗の様が描かれていることが興味深い。 この話はもちろん伝説であろうが、好太王碑文には現実に4世紀末に日本軍が渡海して攻め込んだことが書かれているから、 この頃の戦闘の記憶から生まれた伝説かも知れない (倭の五王【好太王碑】)。 《大意》 【一説には、新羅王を虜として、海辺に連れて行き、王の膝蓋骨を抜いて 石の上を這わせ、突然斬って砂の中に埋めました。 そして一人を現地に残し、新羅の宰(みこともち)に任命して帰還しました。 その後、新羅王の妻は夫の屍を埋めた場所を知らず、宰の心を惑わして騙そうと、 一人でこのように持ち掛けました。 「あなたは、王の屍を埋めた場所を教えなさい。そうすれば、必ず厚く報いましょう。そして私は、あなたの妻になりますわ」と。 そして、宰は欺きの言葉を信じて、密かに屍を埋めた場所を告げました。 すると王の妻と国人は、共謀して宰を殺し、更に王の屍を掘り出して、他所に葬りました。 その際、宰の屍を王の墓のために掘った土の底に埋め、王の棺をその上に置いて 埋葬し、「尊卑の順序は、絶対にこうでなくてはならない。」と言いました。 そして、天皇はこれを聞かれ、重ねて怒りに震え、大軍の部隊を起こして、新羅をひたすら滅ぼそうと思われました。 これにより、軍船が海を満たして進み、その時新羅の国人は皆恐れて どうしたらよいか分からなくなり、互いに集まって皆で議論した結果、王の妻を殺して謝罪しました。】 《祭三大神荒魂》
居の訓については、後に天照大神の荒魂や・住之江三大神の和魂を祀るときに、神が自らを「居(お)らしむ」と訓むことが適当という結論に達した (神功皇后紀9《祀天神地祇》)。 さて、践立と田裳見宿祢の進言によって、住之江三大神の荒魂は穴門の山田邑に祭られることになった。 そして、践立が神主になったというが、それでは田裳見宿祢はどうなったのであろうか。
田裳見宿祢については、『住吉大明神大社神代記』という書が住吉大社に伝来する。 その成立時期は、巻末に「天平三年〔731〕七月五日 神主從八位下津守宿禰嶋麻呂」等とあるが、 この日付は<wikipedia>従来から疑問視されている</wikipedia>という。 その初代の神主について、右のように述べる。 ここには、手槎足尼〔田裳見宿祢〕が示されている。 書紀では、三神の和魂の神主は示されていなかった (神功皇后紀9)。 《長門国住吉神社》
このうち、建御名方命だけは異質である。 本殿は1370年の造営なので、この時点で既に建御名方命が祀られていたと想像される。 建御名方神は古事記上巻で大国主神の子として登場し、国譲りの交渉の場で投げ飛ばされ、信濃国まで逃亡した (第78回)。 そして諏訪大社に祭られ、その系列社は全国に分布しているが、 下関では住吉神社に組み込まれていることになる。 記では、住吉大神の荒魂は朝鮮半島に鎮座したことになっている (第141回【墨江大神之荒御魂】)。 《大意》 ここで、軍を従えた神である表筒男、中筒男、底筒男の三神は皇后に、 「我が荒魂(あらみたま)を、穴門(あなと)の山田邑(やまだむら)に祭らせよ。」と教えられました。 その時、穴門直(あなとのあたい)の先祖、践立(ほむたち)、そして津守連(つもりのむらじ)の先祖、田裳見宿祢(たもみのすくね)は、皇后に申し上げました。 「神がここみ祀れと願った場所に、必ずお定めください。」と。 このようにして、践立を荒魂(あらみたま)を祭る神主して、祠を穴門の山田邑に立てました。 まとめ 一云(1)からは、征韓の守護神が、天照大神に置き換えられていく様子が見える。 書紀では、皇祖としては天照大神よりも高皇産霊尊を重んじる傾向が見えたが、こと征韓においては、 天照大神が最高神として輝く。神功皇后紀は魏志を意識して書かれており、 帯方郡に繰り返し使者を送り、また送られた卑弥呼の姿が、神功皇后と共に天照大神にも投影していると感じられる。 一云(2)には、半島進出に伴う血なまぐさい事件が書かれる。 葦原中国内の戦争は、同族内の争いであるから流血を平気で書くが、周辺国に対しては神威によって道徳的に服従させたように描いた。 しかし実際には流血がないはずはなく、やはりそれも書くべきだとして「一云」に収めたようだ。 さて、下関の住吉神社は一の宮と呼ばれているので、12世紀始めには長門国随一の神社になったようだ。 筑前国にも「住吉神社」があり、こちらもまた「一の宮」である。こちらの名は〈続紀〉天平九年〔737〕に出てくる。 そこには、「新羅無礼之状」を伊勢神宮・大神〔みわ〕社・八幡二社〔宇佐と宇美〕・香椎宮という錚々たる社と並んで、「筑紫住吉」にも告げたとある。 よって、住吉大社を含め、書紀編纂以前から筒男三神を祀る有力な社が、摂津から筑前までの地域に既にいくつか存在していたようである。 書紀は、その現実に合わせて、そのうち特に重要な長門国と摂津国の社に、荒魂・和魂を公式に割り振ったと想像される。 難波津から出発して朝鮮半島に向かう船は、出航直後は和魂によって祝福され、関門海峡を通るときは、荒魂によって守護されるのである。 |
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2017.01.29(sun) [09-03] 神功皇后紀3 ▼▲ |
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09目次
【移于穴門豊浦宮】
爰伐新羅之明年春二月、皇后、領群卿及百寮、……〔続き〕 10目次 【令撃忍熊王】 三月丙申朔庚子、命武內宿禰・和珥臣祖武振熊、……〔続き〕 11目次 【葬天皇於河内国長野陵】 冬十月癸亥朔甲子、群臣尊皇后曰皇太后。……〔続き〕 12目次 【新羅王朝貢】 《若櫻宮》
さて、履中天皇の宮も、磐余稚桜宮である。 その伝説の地にある若櫻神社は、大規模ダム・磐余池の近傍にある (第99回《磐余邑》)。 その伝説の市磯池については、 「まず市師池が作られ、後に大規模ダム・磐余池の中に吸収され、元々の池の辺りが磐余市磯池と呼ばれたのかも知れない。」と考えた (第115回)。 それでは、なぜ神功皇后の宮を履中天皇と同じ稚桜宮としたのだろうか。 それは履中天皇の期間、朝鮮半島南部の勢力圏分割について宋と交渉していたことに関係するかも知れない。 履中天皇の没年は、記によれば432年と考えられ、宋書における「倭五王」の一人に対応すると思われる (倭の五王)。 履中天皇は稚桜宮に腰を据えて三韓外交に勤しんだはずだから、それを神功皇后に投影させたとも考えられる。 なお、履中天皇紀の方には、三韓や宋との関わりは何も書かれていない。 《微叱許智伐旱の帰国》 『三国史記』-新羅本紀によれば、402年に新羅から倭国へ、人質として王子未斯欣(みしきん)が送られた (神功皇后紀6【微叱己知波珍干岐】)。 そして、新羅本紀巻三:訥祇麻立干(とつぎまりつかん)二年〔418〕に 「(二年)秋 王弟未斯欣 自倭國逃還」〔倭国より逃げ還る〕とある。 書紀では質としたときの微叱己知波珍干岐から、微叱許智伐旱・許智伐旱・微叱旱岐・微叱許智と表記が一回ごとに少しずつ異なる。 「ミシキチ+(冠名)伐旱・旱岐・干岐」であろうが、書紀の献上を急ぐ事情があり、校訂が不十分であったことの現れかも知れない。 《葛城襲津彦》 葛城襲津彦は、記では葛城長江曽都毘古(かつらきのながえのそつひこ)の名で建内宿祢の子として登場し、玉手臣・的臣・生江臣・安芸那臣の祖とされる (第108回)。 曽都毘古を祖とする臣は、地名の残る玉手臣を始めとして、この地を本貫とすると思われる。 葛上郡の南郷遺跡群は、祭祀場を含む多様な遺跡が発見され、葛城氏の本拠地と考えられている。 書紀の「襲津彦」の字はその行動「襲レ〔新羅の〕津」によく合うが、もともと「おそふつのひこ」だったのが約されたものか、 書紀がこの字を宛てたのかは判断しがたい。 《蹈鞴津》
多大浦は、秀吉の文禄・慶長の役の初戦「多大鎮(ただいちん)の戦い」の地である。 <wikipedia-中国語版>には「多大浦之戦1592年4月13日—4月14日朝鮮半島南部多大浦(今属釜山広域市)」とある。 「蹈鞴津」という表記は、鉄の倭国への移入の拠点港であることを示すようにも思えるが、何とも言えない。 《草羅城》 草羅(さわら)は、一般には『三国史記』巻三十四(新羅地理一)に載る良州または歃良州(삽량주=sab-raeng-ju)〔現在の蔚山(うるさん)広域市〕と言われている。 「城」は、現代語では「성」(song、ソン)である。朝鮮古語で「サシ」と言ったかどうかは、確認できない。 和語の助詞「ノ」を入れるくらいだから、〈丙本〉のように和語の「キ」で充分であろうと思われるのだが。 「歃良城」については、『三国史記』巻三-慈悲麻立干六年〔463〕二月に、「倭人侵二歃良城一」とある。 また、その前年五月に「倭人襲破二活開城一 虜人一千而去」とある。他にも訥祇麻立干二十四年〔440〕に遡って 「倭人侵二南邊一 掠二-取生口一而去」とあり、 しばしば半島南部の住民を連れ帰っていたようである。 これは、「還之 是時俘人等」と書かれたことと一致する。 《忍海邑》
《桑原邑》
ここで、高祖は前漢初代皇帝の劉邦(在位=前202~前195)。狛(こま)・高麗(こま)は、高句麗の別表記である。 万徳使主(おみ)の名は、今のところ『新撰姓氏録』以上のことは分からない。 この段で言う「桑原邑」は葛上郡の桑原郷であろう。渡来した一族が、その祖は高句麗の万徳使主であったと自称し、 やがて各地に広がったと思われる。 桑原郷の位置ははっきりしないが、「大和地名大辞典」によれば、御所市池之内・朝町には桑原の小字が残るという。 《高宮邑》 高宮邑は、葛上郡高宮郷であろうと思われる。 葛上郡には「高宮廃寺跡」があり(御所市西佐味)、金堂跡・塔跡の礎石があるという。 一方、南郷遺跡群の極楽寺ヒビキ遺跡(5世紀前半の豪族居館)という説もある。 伊勢・安芸にある高宮は、後にここから移民した地かも知れないが、 一方で「高宮」は、どこにでも独立して生まれ得る地名だと思われる。 《佐糜邑》 佐糜は現在の葛城市西佐味(大字)、東佐味(大字)〔にしさび・ひがしさび〕の地域ではないかと言われている。 江戸時代の西佐味村・東佐味村は、周辺の村と合併して明治22年〔1889〕に葛城村(現御所市の南西部)になった。 《四邑の配置》 南郷遺跡群は豪族葛城氏の王都であった。その部曲四邑のうち、忍海の名を残す 「忍海郡」は南郷遺跡群とは離れていて、また南郷遺跡群に韓式系土器があるので、「忍海」は最初は南郷遺跡群の中にあり、しばらく時を経てから人と地名が移動したのではないかと、一度は考えた。 しかし、佐糜邑の場所が佐味村とすれば、南郷遺跡群から離れているから、渡来民の集落は葛城王都の周辺に衛星状に配置されたとも考え得る。 すると、忍海邑も最初から忍海郡の位置だったと考えた方がよさそうである。 土器の分布という問題については、それぞれの集落で作られていた土器がこの地域全体に流通したのは当然であろう。 さらに高宮については、それが極楽寺ヒビキ遺跡だとした場合、王都のど真ん中になってしまうから、やはり高宮廃寺跡辺りかということになる。 しかし、「高宮寺」の呼称が後の時代のものとすれば、この考えは成り立たない。 この点について『いにしえの御所を尋ねて』(御所市教育委員会編、改定2版1994)によれば、「高宮寺」は『行基菩薩伝』に言及があるというから、奈良時代にはこの名で呼ばれる寺が存在していたと思われる。 その廃寺跡は西佐味の西部にあるから、高宮邑は佐糜邑の西隣だったことになる。 《大意》 三年正月三日、誉田別(ほむたわけ)皇子を皇太子に立て、 磐余を都とされました。【これを、若桜宮(わかさくらのみや)と言います。】 五年三月七日、 新羅王は汙礼斯伐(ウレシホ)、毛麻利叱智(モマリシチ)、富羅母智(ホラモチ)らを派遣して朝貢させ、 そのとき、先に質とした微叱許智伐旱(みしこちほかん)を返そうとする考えがあり、 微叱許智伐旱を誘い、微叱許智伐旱は欺いて言上しました。 「使者のモマリシチらは、臣に 『我が王は、臣が久しく帰還しないので、妻子を悉く収容して囚われの身にしようとお考えだ。』と言いました。 乞い願わくば暫く本国に還り、虚実を知りたいと思い、このようにお願いいたします。」と。 皇太后は、この申し出をお許しになり、葛城襲津彦(かつらきのそつひこ)を付き添いとして派遣しまし、 共に対馬に到り、鋤海(さいのうみ)の港に停泊しました。 その時、新羅の使者のモマリシチらは、密かに別の船と水主を用意して、 微叱許智伐旱を乗せ、新羅に逃がしました。 そして藁人形を造って、微叱許智伐旱の床に寝かせ、病人を装い、襲津彦に 「微叱許智伐旱は急病を患い、間もなく亡くなろうとしています。」と告げました。 襲津彦は、人を使わして病の様子を観察させたところ、既に欺かれていることを知り、 新羅の使者三人を捕えて、牢に入れ火をつけて殺しました。 そして新羅に行き、蹈鞴津(たたらつ)に駐屯し、そこから草羅(さわら)城を攻め落として帰還しました。 この時の俘虜は、今に桑原(くわはら)、佐糜(さび)、高宮(たかみや)、忍海(おしのみ)、 合わせて四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖です。 まとめ 神功皇后の親征における「国中に達した」という漠然とした書き方とは異なり、葛城襲津彦の渡海においては地名を明記する。 倭国が王子を質にとったが逃げ帰った話については、『三国史記』にもあるから、これは史実を一定程度反映していていると思われる。 さらに襲津彦の草羅城攻撃についても、三国史記の463年の記事により史実が存在したのではないかと思われる。 倭国による度重なる攻撃は、好太王碑文に倭が新羅・百済に攻撃を繰り返したと書かれたことと共通する。 神功皇后紀では、それに対応する出来事を、襲津彦による攻撃として205年まで繰り上げて組み込んだことになる。 葛上郡に居住した渡来人は、襲津彦が軍事的手段により「俘人」として連れ帰ったと書かれる。 これについては『三国史記』の「虜人」「取生口」という表現が注目される。 つまり、彼らの自発的な渡来ではなく、強制的に連れ去ったことは、新羅国側の認識と一致する。 この部分に限っては、書紀が倭国の軍事力の優位を見せかけるために誇張したとは言えず、リアルである。 このようにして、葛城氏に連れて来られた人々は基本的に奴婢であり、文化も異なるから、華美な王都には入れず、郊外に集落を作って住まわせたのは当然のことだと言える。 その後代を重ねるうちに、奴婢であったことは忘れ去られ、漢人と呼ばれる一群となる。特に桑原氏は文化水準が高く、一部は史(ふみと)として登用され、 また村主や直の地位を得る者もあったようである。 |
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2017.02.02(thu) [09-04] 神功皇后紀4 ▼▲ |
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13目次
【拝角鹿笥飯大神】
十三年春二月丁巳朔甲子、命武內宿禰、從太子、……〔続き〕 14目次 【皇太后宴太子於大殿】 癸酉、太子至自角鹿、是日皇太后、宴太子於大殿。……〔続き〕 15目次 【魏志云】 《魏志云》
魏志では、倭の女王卑弥呼が使者難升米等を送り、帯方郡に到着すると太守はそのまま洛陽に送った。 この引用は、神功皇后の治世に朝鮮半島さらには中国との関わりが活発になり、それを中国の資料でもこのように書いていると紹介する意味がある。 魏志の「卑弥呼」は、現代に限らずいつの時代でも日本人の興味を惹いてきた。 既に当時の倭国においても、当然かなりのインパクトを与えていたと思われる。 従って、日本で初めての正史に、倭の女王に対応する人物が出てくることは、当然期待されていたであろう。 だから、魏志で卑弥呼が統治したのと同時期に、倭国側の歴史書でも女帝が統治したとしたのは必然であった。 書紀はさらにダメ押しとして魏志の一部を明示し、 中国の歴史書と倭国の正史の記述が噛み合っていると言って、胸を張るのである。 ただ内容には相違があり、卑弥呼は夫を持たず子も残さないが、 神功皇后は仲哀天皇という夫を持ち、皇子も生んでいる。 一方シャーマンとしての姿は、そのまま取り入れている。 《三国史記との関係》 前回見たように、微叱己知波珍を質にした年(図のA)、逃げ帰った年(B)、 そして草羅城を攻撃した年(C)について、書紀と三国史記の記述は図のような関係になっている。 好太王碑の頃の朝鮮半島への攻勢が、神功皇后摂政の時期に移されていることが分かる。 《肖古王》 『三国史記』百済本紀には、肖古王は第五代と第十三代の二人が存在する。第五代は在位166~214年で、しばしば新羅との戦闘がある。 第十三代は在位346~375年で、区別のために近肖古王ともよばれる。 ここでは、後の六十四・六十五年条に書かれた代々の王:肖古王⇒貴須王(近仇首王)⇒枕流王⇒辰斯王が百済本記と一致するので、近肖古王の方である。
《卓淳国》 卓淳国は、書紀以外にはほとんど出てこないが、 書紀においてはこの他2か所で言及される。 ① 欽明天皇紀二年四月条に「任那境接二新羅一、卓淳国・㖨己呑国・加羅国有二敗亡之禍一*」 とある。 *…原文に、原注の意を汲んで書き換えてある。 そして、「卓淳上下携レ二、主二欲自附一内二-応新羅一」 〔卓淳は主従とも二心があり、主自ら内応している〕とある。 よって、卓淳・㖨己呑国・加羅国は新羅と接していたのだろう。 ② 神功皇后四十九年三月条には、精兵を「倶集二于卓淳一 撃二新羅一而破之」 〔精兵を準備して卓淳に集結させ、新羅を撃ち破る〕、 そして「平定二比自㶱・南加羅・㖨国・安羅・多羅・卓淳・加羅七国一」 とある。 㖨国は欽明天皇紀の㖨己呑國か。加羅国も新羅と国境を接していて、南加羅国は加羅の南だろう。 また、卓淳国は百済から、倭国へはどうやって行くのかという相談を受けたことから、倭への港があるから南岸かもしれない。 多羅国については梁職貢図(別項【三韓地域の国々】)で百済の附庸国とされるから、百済との境界だろうか。 残りの比自㶱国・安羅国については全く分からないが、「羅」がつく国は集まっているかも知れない。 以上から想像すると、②の七国は、例えば図のような配置が考えられる。但し、これは全くの想像である。 また、書紀では任那は加羅を包含しているが、 実在した任那は、南宋書のいうように加羅とは別国で2国が並んでいたのだろう。 卓淳国の位置を求めるにあたって、各歴史書では三韓地域の国々がどのように書かれているかを比較した。それを、別項【三韓地域の国々】に収める。 《大意》 三十九年、この年は太歳己未(つちのとひつじ)です。 【魏志に 「明帝景初三年〔239〕六月、倭の女王は大夫(たいふ)難斗米(なとめ)らを派遣し、郡に行き、 天子のもとに行き朝献を求めさせる。太守鄧夏(とうか)は、官吏を派遣し、連れて都〔洛陽〕に行かせる。」とあります。】 四十年、 【魏志に 「正始元年〔240〕、建忠校尉(けんちゅうこうい)梯携(ていけい)らを派遣し、詔書と印綬と奉じて倭国に行かせる。」とあります。】 四十三年、 【魏志に 「正始四年〔243〕、倭王は再び大夫伊聲者掖耶約ら八人を遣使し上献する。」とあります。】 四十六年三月一日、斯摩宿祢(しまのすくね)を卓淳国(たくじゅんこく)に派遣しました。 斯麻宿祢は、何という姓(かばね)の人か知られていません。 その時、卓淳王の末錦旱岐(まきんかんき)は、斯摩宿祢にこう言われました。 「甲子(きのえね)の年〔神功皇后四十四年、244〕七月の半ば、百済人の久氐(くてい)、弥州流(みする)、莫古(もうこ)三人は、 我が国に来て、こう言いました。 『百済王は、東方に日本(やまと)という貴き国があると聞かれ、私どもを遣わし、その貴き国を訪れ拝礼するよう命じました。 そして、その道を求めてこの国に至りました。 もし私どもに道を教えてくださり、往来できるようになれば、我が王(きみ)は必ずや深く君王(きみおう)を敬愛することでしょう。』と。 それで、久氐らにこう言ってやりました。 『元より、東に貴い国が有るとは聞きいているが、未だに全く通ったことがなく、その道を知らない。 ただ、海遠く波激しいので、大船に乗れば僅かに通えるかもしれない。〔そのような船がない以上〕 もし海路が見つかったとしても、通うことはできるだろうか。』と。 すると、久氐らが言うには、 『なるほど、今すぐに通うことはできない。 むしろ一度戻り、改めて船舶を備えた後に通った方がよいということでございますね。』と言い、 またこう言いました。 『もしや貴い国の使人が来ることがあれば、必ずわが国に知らせてくださいませ。』と。 このように言って、使者は帰っていきました。」と仰りました。 それで、斯摩宿祢は、直ちに従者の爾波移(にはや)と卓淳人(たくじゅんじん)過古(かこ)と二人(ふたり)を 百済国に遣わし、その王を慰労しました。 すると、百済の肖古王(しょうこおう)は深く歓喜して厚遇し、 五色の染絹(しみきぬ)各一匹(いっぴき)、角(つの)の弓矢、そして鉄鋌(てってい)四十枚を、爾波移に贈り、 さらに宝蔵を開けて、諸々の珍異なものを見せ、 「吾が国には多くの宝物が有り、貴い国に献上したいのですが、道を知らず志は有っても従えません。 今なお気持ちは変わりませんので、使者に託して貢献が許されるかどうかを尋ねていただきたいのです。」 と仰りました。 そこで爾波移はこの事を承り、志摩宿祢に復命しました。 このようにして、卓淳国より帰還しました。 【深之歓喜】 「深之」は、副詞として「歓喜」を連用修飾して 「深く歓喜(よろこ)ぶ」と訓める。 ただ、その場合は之は入いらない。 もし深が動詞だとすれば、「深」の古訓に「むつまし」があるので、「睦ましくしてよろこぶ」も可能であるが、 万葉集では「深」の訓は「ふかみ」「ふける」などに限られるので、やはり「むつまし」は、特別な文章に限定された訓みであろう。 また目的語を倒置するときに「之」をはさむ用法があるが、この「深」は目的語には成り得ない。 だからこの「之」は、ほとんど誤用であろう。 【三韓地域の国々】
《三国志-魏志》 『魏志』韓伝によれば、朝鮮半島は3つの地域に分かれ、「一曰二馬韓一 二曰二辰韓一 三曰二弁韓一」とする。 馬韓は西岸地域で、54の小国からなる。一般には、そのうち「伯濟國」が百済国の前身と言われている。 『魏志』辰韓伝・弁辰伝には合わせて25国の小国(重複が一組)が書かれ、そのうち辰韓の斯盧が新羅につながると言われている。 また弁辰狗邪国は、後の加羅国につながると見られている。 その他の小国名は、宋書以後の国名との関連を見出すのは困難である。唯一「弁辰安邪国」は書紀の「安羅国」に似ている。 《好太王碑文》 好太王碑文は、甲寅年〔414〕九月廿九日に「於是立二碑銘一記二勳績一」と書かれている (倭の五王)。 碑文の中には、新羅が8箇所、百殘が5箇所にある。任那・加羅は、 「倭賊退□□□□□□□□来背息追至任那加羅」の一回のみである。 《宋書》 宋書〔488成立〕には、朝鮮半島南部において、倭国王が「安東大将軍」として軍事支配権を及ぼす範囲に、百済国を加えるかどうかについて 厳しい交渉が行われたことが書かれている(倭の五王【宋書など】)。 倭国王の珍は、「自称二使持節都督 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓 六國諸軍事安東大将軍倭國王一。」と要求したが、 文帝の回答は、「詔除二武使持節都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓 六國諸軍事安東大将軍倭王一。」であった。 加羅は、数合わせに使われる程度の小国だったことがわかる。 また、秦韓は、辰韓を引き継ぐとされる。 《南斉書》 南斉書〔479~520の期間〕に、 新羅の古老の話として、「加羅任那昔為二新羅所一レ滅 其故今並在二國南七八百里一」 〔加羅・任那は昔新羅よって滅ぼさた。位置はここから南七八百里にあたる。〕がある (倭の五王)。 また新羅については「辰韓弁辰廿四国及任那加羅慕韓之地」とある。任那・加羅は、地理的には辰韓・弁辰の範囲内と思われるが、南斉の時代の国名としては存在しなかった。 《梁職貢図》 梁職貢図〔542〕には、百済の附庸国に「叛波・卓・多羅・前羅・斯羅・止迷麻連・上巳文・下枕羅」が示される。 斯羅国は新羅か。多羅国は書紀にも出てくる。卓国は卓淳国であろうか。 《崇神天皇紀》 崇神天皇紀六十二年七月条に「任那者 去筑紫國二千餘里 北阻海以在鶏林之西南」とある。 このとき来日した蘇那曷叱智は、垂仁天皇ニ年に帰国した (【蘇那曷叱智の帰国】)。 《神功皇后紀49年3月条》 「平定二比自㶱・南加羅・㖨國・安羅・多羅・卓淳・加羅七國一。」とある。 加羅とは別に、南加羅があることが注目される。多羅は梁職貢図にもある。 《欽明天皇紀23年正月条》 「廿三年春正月、新羅打滅任那官家。 【一本云、廿一年、任那滅焉。總言任那、 別言 加羅國・安羅國・斯二岐國・多羅國・卒麻國 ・古嗟國・子他國・散半下國・乞飡國・稔禮國、 合十國。】」 〔欽明天皇23年1月、任那の内宮家は滅ぼされる。 ある資料によれば「任那国は別の資料では21年に滅び。任那国は総称であり、分けて言えば、……の十か国。」〕 とある。 『釈日本紀』はここから「総言」以下を引用した上で、「兼方案卓淳國者任那國之別種也」〔兼方案ずるに卓淳国は任那国の別種なり〕と述べる。 「別種」とは、この十か国と共に任那国を構成する国という意味であろう。。 《資料の比較》
大雑把に見て、もともと馬韓の一国であった百済は次第に勢力を広げ、残りの部分(慕韓)を6世紀半ばまでに吸収したようである。 また、新羅も始めは辰韓の一国から勢力を広げ、残りの部分(秦韓)を5世紀までに吸収したようである。 神功皇后49年、欽明天皇23年だけに出てくる見慣れない国名は、恐らく資料があったのだろうが、 一時的に存在した小さな国だと思われる。その位置は加羅の周辺であろうが、特定するのは難しい。 【書紀における任那】 南斉書逸文では520年の時点で、任那の存在は昔話になっている。 書紀においては、 ●継体天皇紀…四県を百済に割譲した。 ●欽明天皇紀…百済に従属している。朝廷は再興を試みるが、23年に新羅によって滅ぼされる。 ●崇峻天皇紀…任那を再建。 ●推古天皇紀(聖徳太子)…新羅との間で、任那の争奪戦。任那は結局新羅の支配下となる。 ●孝徳天皇紀…名目的な「任那からの朝貢」が続いていたが、大化2年〔646〕9月にそれも廃止 (書記における「任那」への言及は、これが最後)。 欽明天皇紀では「任那」の語は133回使われるが、登場する人物は任那国執事、任那旱岐、任那日本府臣などであり、国王・国主の姿は見えない。 また、その内容はむしろ衰退した任那の復興を期すものである。 さらに、原注の執筆者が任那が十か国の総称だと書き添えたのは、 任那は国としての実体は薄く、十か国の地域を指すに過ぎないと言っているように読める。 一方、神功皇后紀には「任那」は皆無である。 ところが、任那が倭国の直轄地になった時期があったとすれば、皮肉なことに神功皇后摂政として描かれた時期〔5世紀〕で、 欽明天皇のとき(6世紀中葉?)は実質的に百済の支配下にあり、これは梁職貢図の時代に百済がこの地を支配していたことと符合する。 推古天皇以後の「任那国」については、新羅の一部になっている事実を認めた上で、 新羅の外交儀礼に任那を同席させる形式をとることを、倭国側が要求したようである(次項)。 これまでに検討してきたように、神功皇后の存在自体は虚像であったが、 それを真実らしく見せるためには、逆に実在資料を広く用いる必要がある。 その結果、任那国の記述がなくなってしまったのだから、三韓のリアルな資料では存在感が薄いと言えよう。 《形式としての任那使の同席》 推古天皇紀三十一年十一月条に注目すべき件がある。曰く、
まとめ 魏志に書かれる・書かれないを別として、太古の昔、シャーマンの女王がいて世を支配していたという伝説は、倭国自らの内に残っていたと考えられる。 その女王は神となり、弥生時代以来の太陽神と習合していた。その神話が、書紀の天照大御神・倭迹迹日百襲姫命・神功皇后に投影しているのであろう。 神功皇后紀には、また5世紀の朝鮮半島への軍事進出も反映している。 200年ほど離れた2つの時代の出来事が、統合されているのである。 書紀には、民族の記憶に残る女王神話の存在と、魏志と辻褄を合わせることが迫られた状況と、倭の五王の時代の半島進出を誇り国威発揚に繋げようとする動機が混在している。 古事記の成立が712年、書紀の成立が720年であるから、 書紀が5世紀の海外の朝鮮半島進出を取り入れようとしていることは、古事記も当然承知していたはずである。 だが、記がそれには同調しなかったことは興味深い。 さて、欽明天皇紀の頃には、任那国は既に過去の伝説になっていたように感じられる。 それでは、任那国が存在した当時はどのような存在であったのだろうか。 その後も新羅・百済に比べて任那が重要視されたのはなぜか。 その究明もまた、一つの研究課題である。 |
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⇒ [09-05] 神功皇后紀(5) |